1940年代から50年代にかけて全米で吹き荒れた、いわゆる“赤狩り”に抵抗し、社会から抹殺された名脚本家・ダルトン・トランボが、長きに渡る闘争の末に、“奪われた名”を取り戻すまでの物語。
華やかな黄金時代を代表するハリウッドの寵児が、その思想ゆえに仕事を奪われ投獄され、それでも彼は彼ならではのやり方で、表現することを決してあきらめない。
ブルース・クックの原作を、「アクエリアス 刑事サム・ホディアック」などで知られるテレビ畑のジョン・マクナラマが脚色。
「オースチン・パワーズ」や「ミート・ザ・ペアレンツ」など、コメディ系の作品で知られるジェイ・ローチ監督が、一転して重厚な人間ドラマとして仕上げている。
トランボのことを知っていた方が理解しやすいが、普遍的な話を丁寧に紡いでいるので、全く知らなくても楽しめるだろう。
✳︎核心部分に触れています。
1940年代末。
ハリウッドの売れっ子脚本家、ダルトン・トランボ(ブライアン・クランストン)に議会の非米活動委員会からの召喚状が届く。
冷戦の開始によって、アメリカ国内では共産主義排斥の動きが強まり、共産主義者と疑われたハリウッドの有力者にも次々と召喚状が届くようになっていた。
共産党員であることを公言していたトランボら10人の映画人、いわゆるハリウッド10は、思想の自由を脅かすとして議会での証言を拒否。
議会侮辱罪で投獄されただけでなく、映画業界から事実上追放されてしまう。
しかし、トランボは名前を出さずに仕事を再開、友人のイアン・マクラレン・ハンター(アラン・デュディック)に名義を借りた「ローマの休日」でアカデミー賞を受賞。
更には同じようにブラックリストに載ったハリウッド10の仲間たちとチームを組み、偽名で脚本を量産し始める。
例え名前を出せなくても、自分たちの実力を証明し続ければ、いずれ向こうから首を垂れてくる。
そして、ロバート・リッチ名義で書いた「黒い牡牛」で再びアカデミー賞に輝いたトランボの元に、大スターのカーク・ダグラス(ディーン・オゴーマン)がある作品の脚本を依頼してくるのだが・・・
私がダルトン・トランボという人物に興味を持ったのは、30年ほど前の高校生の頃に、週刊ヤングジャンプで連載されていた「栄光なき天才たち」という一話完結もの評伝マンガで、彼のエピソードを読んだ時だった。
この漫画の中で、ハリウッドを追われたトランボは、昼は肉体労働して日銭を稼ぎながら、夜の間に密かに脚本を書き続けていて、「黒い牡牛」でのオスカー受賞がクライマックスになっていた。
本作を観るかぎり、肉体労働する暇など無さそうだったが、どっちが真実に近いのだろう?
ともかく、当時の私は「ローマの休日」や「スパルタカス」そして、私的トラウマ映画No.1の「ジョニーは戦場へ行った」の作者自身に、映画よりも映画的な人生のドラマがあったことを知り、マッカーシズムやアメリカ共産党の歴史などを調べたものだった。
この映画はたぶん、先日公開されたコーエン兄弟によるメタ的ハリウッド狂想曲、「ヘイル、シーザー!」とセットで鑑賞するとより面白い。
というのも、この2本はほぼ同じ時代を舞台にしたハリウッドの内幕ものという点では共通するのだが、その視点は真逆なのである。
「ヘイル、シーザー!」では、ジョージ・クルーニー演じる大スターが、共産主義者の脚本家グループに誘拐され、ジョッシュ・ブローリン演じるスタジオの偉い人が探し回る。
共産主義者の脚本家たち、即ちハリウッド10であり、名前は出ないもののトランボそっくりなキャラクターも出てくる。
コーエン兄弟の描くハリウッド10は、どちらかというと無邪気に共産主義の理想を信じ込んだ人々として、皮肉たっぷりにパロディ化されていたが、対するこちらはとことん真面目に彼ら信念の人に寄り添う。
同じ事象に対するアプローチの違いは面白いが、本作では逆に主人公が凄い人すぎて、歴史批評的に見れば両方の視点がある方がベターだっただろう。
その意味で、2本とも鑑賞するとより多角的な視点でトランボとその時代を捉えることが出来るのである。
まあ、そこまで凝った見方をしなくても、とことんブレない策士トランボの闘争は見応え十分。
彼のスタンスは一貫していて、「脚本家は書くことで勝負する」というもの。
赤狩りの時代、ハリウッドはジョン・ウェインやロナルド・レーガン、本作でヘレン・ミレンが怪演するゴシップ・コラムニストのヘッダ・ホッパーら、保守派の映画人で組織された「アメリカの理想を守るための映画同盟(MPA)」が大きな力を持ち、議会の非米活動委員会に積極的に協力していた。
彼らはブックリストに載った「共産主義者と疑われる人々」をハリウッドから追放するためにスタジオに圧力をかけ、結果トランボたちは出所してからも公の仕事に就くことが出来なくなってしまうのである。
余談だが、今でこそ「ズートピア」や「ファインディング・ドリー」で、寛容と多様性の世界の伝導者のようになっているディズニー・スタジオの創始者、ウォルト・ディズニーがMPAの設立メンバーであることはなんとも皮肉だ。
本作のトランボは、プロデューサー的な能力に長けた人として描かれており、彼はこの逆境を乗り切るため、次々とアイディアを出し実行に移す。
名前を出せないなら偽名を使えばいい。
自分と同じようにブラックリストに載って仕事を失った脚本家を集め、それぞれの得意分野を生かしたチームを結成。
そしてMPAの息のかかったハリウッドメジャーとは一線を画す、小規模なスタジオに売り込みをかける。
重要なのは、どんな逆境でも書き続けること。
天下のハリウッドといえど、優れた人材は限られている。
仕事を続けていれば、必ず業界の人間の耳に入るし、良い映画を作り、ヒットさせる能力に長けた自分たちを雇いたいという欲求に、ハリウッドの映画人たちが抗い続けるのは難しい。
友人の名を借りた「ローマの休日」、そして「黒い牡牛」での相次ぐオスカーは、天才トランボの健在を改めて印象付け、ついには政治的圧力を跳ね除け実名での復帰を果たすのである。
もちろん、ベトナム反戦運動や公民権運動とリンクした、リベラリズムの台頭という時代の移り変わりが大きかったことは確かだが、同時に彼らが書き続けていなければ、名前を取り戻すことも叶わなかったはず。
稀代の脚本家の闘争を”書くこと”に集約させたのは、極めて象徴的で物語のテーマとも直結して面白い。
トランボの名誉は事実上回復したものの、いわば米国社会における究極のリベラルである彼の人生が、最後まで時の権力・政治のあり方に大きく影響されたのは変らない。
唯一の監督作品である「ジョニーは戦場へ行った」はトランボ自身が執筆し1939年に出版された反戦小説を原作にしているが、第二次世界大戦中に発禁処分を受け、映画化もベトナム戦争真っ只中の1971年だったため、ヨーロッパではカンヌ国際映画祭グランプリの栄誉を受けたものの、本国アメリカではほとんど黙殺され、長らく忘れられた映画となっていた。
この作品がアメリカで再び注目を浴びることになるのは、トランボの没後の1988年、映画にインスパイアされたメタリカが、「ワン」のPVにフッテージを利用してから。
トランボの作品がいかに時代に求められ、時代に翻弄されたのかがよく分かる。
ちなみに、「ワン」のPVはこの時代の傑作の一つなので、観たことのない方にはオススメだ。
本作は今の日本にも色々と示唆するところの多い映画で、不屈の男の評伝としても見応えある力作。
ただ、あの闘い方は天才トランボだから出来たことでもあり、姿勢は尊敬出来ても、なかなか真似するのは難しい。
トランプ旋風とか、日本の改憲問題とか、社会が危うい岐路に立っている現在、表現者の端くれとしては、やはりこんな時代の再来を阻止するのを第一と考えたい。
今回は、夜中に脚本を書くときのお供に、「カフェ・コレット」をチョイス。
カップにホットコーヒー100ml、ウイスキー10mlを注ぎ、ホイップクリームをのせて完成。
飲みすぎない限りで、コーヒーのカフェインと適量のアルコール、そして糖分のコンビネーションが頭を活性化させてくれる。
暑い夏の夜には、アイスにしても美味しい。

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ジャウム・コレット=セラのジャンル映画にハズレなしを証明する、海洋サスペンス映画の快作である。
初期の「蝋人形の館」「ゴール2」はパッとしなかったものの、第3作「エスター」で高い評価を得ると、その後はリーアム・ニーソンと組んで、いい意味でB級感覚を刺激する娯楽アクション映画を連発。
前作の「ラン・オールナイト」は、2人のコンビ作の集大成とも言うべき傑作となった。
今回はニーソンとは真逆のキャラクター、「アデライン、100年目の恋」で、永遠の29歳を生きるタイトルロールを演じた正統派美人女優、ブレイク・ライヴリーと初タッグ。
ライヴリー演じる医学生のナンシーは、休暇で訪れた秘境のビーチでサーフィン中に巨大なサメに襲われ、岸まで僅か200メートルの岩礁の小岩の上で、身動き取れなくなってしまう。
僅か86分の上映時間、ひたすらサバイバルだ!
今は海面に突き出している岩は、満潮になれば沈んでしまう。
そうなればサメから身を隠す術はない。
タイムリミットが迫り来る間に、幾つものチャンスが潰え、幾つもの危機が襲う。
最初の襲撃で傷ついた足から流れ落ちる鮮血は、捕食者に獲物の存在を教え続ける。
助けを呼ぶ彼女の声に気付いた男たちは、ことごとくサメの餌食になり、通りかかった船には気付いてもらえない。
助かるかも、という希望をの瞬間が幾つもあるからこそ、絶望もまた大きくなる。
そんな中でも、ナンシーは決して自暴自棄になったりしない。
冷静に敵を観察し、僅かなリソースを使い、マイナスをプラスに変えてゆく。
医学生という設定を生かし、アクセサリーのピアスと着用していたウェットスーツを使って応急処置し、血を止める。
漂流していたGoProでサメを観察、遺書代わりのメッセージ録画に使う。
更にマリンスポーツ用の時計でサメの動きを計測し、相手を出し抜く作戦を練る。
実は、ナンシーは最愛の母を癌で亡くしたばかり。
どんなに勇敢に闘っても、勝てないことがあることを思い知らされ、医者になる夢を諦めようとしているのである。
そこで母の思い出のビーチを訪ねてきた訳だが、期せずして自分自身が絶体絶命の危機に陥ってしまった。
家族の喪失によって、深い傷を抱えた主人公が、命の危機を迎えて改めて生きるための力を取り戻すという展開は、アルフォンソ・キュアロンの傑作「ゼロ・グラビティ」を思わせる。
しかし宇宙飛行士になろうと思っても、そうそうなれるものでもないし、宇宙でデブリに殺されるシチュエーションは、一般人にとっては限りなくファンタジーだ。
対して、本作のような大自然の中での予期せぬ危機は、日本国内だってクマに襲われたり、サメに食われたりした事例はいくらでもあるので、大いにリアリティを感じさせる。
サメの脅威以外にも、サンゴやクラゲといった毒のある生物、急速に体温を奪う気象条件など、幾つもの危機が主人公に襲いかかり、いよいよ満潮を迎える時刻から始まるクライマックスは、それまでの伏線を回収しながら、手に汗握るスリリングな直接対決となる。
サブプロットが存在しない一歩道の脚本ながら、物語は極めて映像的で緻密に構成され、全く無駄がない。
ワンアイディアを巧みに生かし切った、お手本のような一本と言える。
まあ、でっかいクジラが浮いてるのに、なんでサメはあっちを食べずに執拗にナンシーを狙うのかとか、ツッコミを入れようと思えばいくらでも入れられるが、映画的なウソのつき方が上手いのである。
ライヴリーの美しさに、サメも惑わされたということで(笑
ほぼ一人芝居ゆえ、物語を和ませるカモメが良かった。
ナンシーの生きようとする意思のエクステンドという意味で、ちょっと「キャスト・アウェイ」のウィルソンを思い出した。
ところでUberってあんな秘境にも呼べるんかいな?
サメさえいなけりゃ天国の様な青い海、と言うことで「ブルー・シャンパン」をチョイス。
ブルーキュラソー2tsp、シャンパン120mlをグラスに注ぐ。
カットしたオレンジを添えて完成。
基本的には僅かな甘みと香りを加えたシャンパンなので、スッキリとした味わい。
澄んだブルーは目にも涼しい。

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ディズニー・ピクサーの追求する多様性の世界、再び。
13年前に大ヒットした「ファインディング・ニモ」の1年後を描く続編で、世界観・キャラクターはほぼ共通。
今回は、カクレクマノミのマーリン、ニモ親子の親友である、ナンヨウハギのドリーが主人公となり、彼女の記憶の中の両親を探してオーストラリアから遥かカリフォルニアへと、三匹が大冒険の旅に出る。
監督・脚本は、前作から続投のアンドリュー・スタントン。
残念ながら大コケしてしまった実写進出作「ジョン・カーター」を挟んで、スタントンのアニメーション作品としては「WALL・E / ウォーリー」以来8年ぶりとなる。
様々な生き物たちが行き交うワクワクする海の世界を背景に、極上の娯楽性と深い社会性を併せ持つ秀作であり、子供を持つ親にとっては、夏休みに子供たちを連れて観に行くのにこれほどふさわしい作品もなかろう。
※核心部分に触れています。
行方不明になったニモを探す冒険から1年。
忘れんぼのドリー(エレン・デジェネレス)は、ある夜子供の頃の夢を見る。
翌日、ちょっとした事件によって記憶を一部取り戻したドリーは、生き別れの両親を探すために遥か1万キロ彼方のカリフォルニアに行くと言いだす。
なりゆき上、マーリン(アルバート・ブルックス)とニモ(ヘイデン・・ローレンス)も旅に付き合うことになり、三匹は回遊するウミガメの背中にのって太平洋を北上。
ところが目指すカリフォルニアのモロベイにやって来た時、ドリーは水族館の海洋生物研究所の職員に捕獲されてしまう。
自分が生まれたのは、どうやらこの水族館だということを思い出したドリーは、海に戻るのを拒否してクリーブランドに行きたがるミズダコのハンク(エド・オニール)や、ドリーの幼馴染だというジンベイザメのデスティニー(ケイトリン・オルソン)に助けられ、両親がいるはずの水槽を目指す。
一方、ドリーとはぐれたマーリンとニモは、鳥のベッキーに運んでもらい、水族館に侵入しようと悪戦苦闘を繰り返すのだが・・・・
うだるような暑さの中、陰鬱な政治の季節から現実逃避するつもりで観たら、ある意味すごく現実的な話だった。
ドリーが物忘れしやすいという設定なのは覚えていたものの、てっきり彼女の“種”の特徴だと思い込んでいたが、然にあらず。
彼女は生まれながらの記憶障がい者なのだ。
ドリーだけでなく、本作の登場キャラクターは、ことごとく何らかのハンディキャップを持っている。
ジンベイザメのデスティニーは、弱視で水槽に頭をぶつけてばかり。
そのまた友達の白イルカのベイリーは、頭を怪我したことでイルカの音波探知機能、エコロケーションを使えなくなったと思い込んでいる。
ドリーを助けるミズダコのハンクは、人間の子供たちに脚を一本引きちぎられて、七本しかない。
魚たち以外にも、マーリンとニモを水族館へ運ぶ鳥のベッキーや、マーリンに入れ知恵するアシカたちの中でジェラルドと呼ばれている一頭は、何らかの知的障がいがあるように見える。
この傾向は本作で始まったことではなく、そもそも前作のタイトルロールであるニモも、片方の胸ヒレが小さく泳ぎが上手くないというハンディキャップがある。
近年のディズニーとピクサー、同一グループの二つのアニメーションスタジオは、良い意味でお互いに刺激し合っている様に見える。
春に公開されたディズニーの「ズートピア」は、知性を持った動物たちの世界を舞台に、本当の意味で「誰でも何にでもなれる世界」とは何かを問い、反差別というテーマを打ち出した極めて政治的な野心作だった。
対して、ピクサーが制作した本作が描くのは、ハンディキャップとの共生とお互いを想う親子の心の尊さだ。
この世界では、ほとんどの主要キャラクターに何らかの障がいがある一方で、それぞれが人とは違う何かを持っている。
例えば、ドリーは記憶障がいがあるが知能は非常に高く、人間の言葉も読めるしクジラ語も話せる。
ミズダコのハンクは、脚の数は足りなくても魚と違って水から出ても活動することができる。
それぞれに欠けた部分と秀でた部分のある彼らは、お互いに助け合うことで困難を克服してゆくのである。
ここで、本作の主要キャラクター中で、数少ない健常者であるマーリンの存在が重要になってくる。
彼は元来が生真面目なのに加えて、唯一の家族であるニモを失いかけた経験から慎重な性格になっていて、息子に対しては過保護に世話を焼き過ぎ、他人のやることはあまり信用しない。
その硬直した独善性ゆえ、良かれと思って行動した結果、かえって事態を悪化させてしまったりするのだ。
彼の思考は、ハンディキャップを持つ者に対する、マジョリティの善意の無理解を象徴する。
マーリンの対となるのが、生き別れになったドリーの両親だ。
記憶障がいを持ったドリーのために、二人は彼女が迷子になっても帰ってこられるように、貝殻を目印に家に帰る方法を教える。
ドリーがいなくなった後も、彼女の帰りを待ち続けた両親のスタンスは、過保護に成り過ぎずあくまで娘のことを信じるというもの。
もちろん、大切な人(魚)を心から想う気持ちは共通。
石頭のマーリンも、ドリー一家の再開を目の当たりにし、息子ニモの天真爛漫で素直な心に救われ、相手を信じることの大切さを改めて知るのである。
仲間や家族の絆と信頼というテーマは前作を踏襲したものと言えるが、陸海空を駆け巡る大活劇を通し、以前は隠し味的だったハンディキャップの要素を前面に出して、無理なく深化させているのはさすが。
そしてこれも、主人公が男性から女性に変わった。
前作ファンの期待する世界観やキャラクターのポイントをきちんと抑えながらも、前作との間にある13年の時代の変化はしっかりと反映されており、大人も子供も、それぞれの視点で楽しめる実に夏休みらしい娯楽映画だ。
ピクサー作品は、いつも現実をベースに巧みにアレンジを利かせた世界観が見どころのひとつだが、今回の舞台はサンタバーバラの北に位置する風光明媚なモロベイ。
だが実際にはここに水族館は無く、モデルになっているのはモロベイから200キロほど北にあるモントレー・ベイ・アクアリウムだ。
ヒューレット・パッカードの創業者の一人、デービッド・パッカードが海洋生物学者の愛娘を代表に、私財を投じ缶詰工場を大改装して設立した水族館。
映画のものほど大規模ではなくジンベイザメなどはいないが、ロケーションや海側から見た建物は良く似ているし、太平洋の海を模した巨大水槽や、ハンクのトラウマである子供たちが直に海洋生物に触れられるタッチプールなどは実在する。
本作のスタッフはここに足繁く通って、水族館の構造からカリフォルニア沿岸の海中の様子まで、多大なインスピレーションを受けたという。
1984年の開館以来、地元の自然を再現したユニークな展示方法は、世界中の水族館に影響を与えており、訪ねて損は無いおススメの観光地だ。
同時上映の「ひな鳥の冒険」は、秀作揃いのピクサー短編の中でも圧倒的に素晴らしい。
ひょんなことから、海に対してトラウマを抱えてしまったイソシギのひな鳥の、ささやかな成長物語。
未知の体験に世界が一気に広がる喜びが、スクリーンから説得力たっぷりに伝わってくる。
デジタル技術の発達が可能にしたリアリズムとファンタジーの絶妙のバランスは、過去には不可能だった現在ならではの表現。
これを観るためだけでも劇場に行く元はとれる、傑作短編アニメーションである。
ちなみにこの鳥もモントレー・ベイ・アクアリウムの、水辺の自然を再現したコーナーで見ることができる。
今回は、タイトルロールのドリーから「ブルー・レディ」をチョイス。
ブルー・キュラソー30ml、ドライ・ジン15ml、レモン・ジュース15mlに卵白1個分を加え、しっかりシェイクしてグラスに注ぐ。
目に鮮やかなブルーが南国の澄んだ海を思わせ、ブルー・キュラソーの甘味、ジンの清涼感、レモン・ジュースの酸味を、卵白が優しくまろやかにまとめ上げる。
見た目も美しく味わいも爽やかな、夏を演出する一杯だ。
ところで、これ吹替え版で観ると一番の衝撃は「八代亜紀」だと思う(笑
原語版だと「シガ二―・ウィーバー」なのだけど、彼女の日本版が八代亜紀というのはキャラのポジション的に何となく納得出来るような、出来かねるような・・・
いきなり「八代亜紀です」とかアナウンスされると、カリフォルニアの海が玄界灘に見えてくるのは狙いなのか何なのか(笑
シガ二―・ウィーバーがネタ化しはじめたのは、「宇宙人ポール」あたりからかと思ったが、良く考えたら「ウォーリー」で宇宙船のコンピューターの声をやったのが最初だったか。
その意味で、これはスタントンのセルフパロディなのだな。

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実在の心霊研究家、ウォーレン夫妻の恐怖事件簿を描くシリーズ第二弾。
素晴らしい出来栄えである。
現役屈指のホラーマイスター、ジェームズ・ワンが脚本を読んで、ホラー映画卒業宣言を撤回してまで監督しただけのことはある。
個人的には一作目より怖かったし、10年代オカルト・ホラー映画のベスト、と言って良と思う。
今回俎上に載せられるのは、1977年にイギリス、エンフィールドのハーパー家で起こった、史上最長の期間に起こったポルターガイスト現象として知られる、世にも奇怪な事件。
母親と四人の子供たちが住むごく平凡な公営住宅に、ここは自分の家だと主張する老人の霊が現れ、11歳の次女・ジャネットに憑りつくと、暴力的なポルターガイスト現象を繰り返し起こし、家族を恐怖に陥れるのである。
物語の構成は前作を踏襲し、冒頭に映画の「悪魔の棲む家」シリーズで知られるアミティビル事件がさらっと描かれて、その後エンフィールドの事件へと移る。
前半1時間はウォーレン夫妻は事件に絡まず、エンフィールドの霊現象推移を見せるだけで展開し、後半夫妻が助けを求められてイギリス入りすると、バラバラだった要素が一気に収束してくるのである。
本作で特徴的なのが、前作のアナベル人形と異なり、アミティビルで起こった事がただの前振りではなく、しっかり本番にリンクしていること。
それは前作から引き継だテーマである、“ギフト”を与えられた者の宿命的葛藤、ノブレス・オブリージュと家族のあり方に関わってくる。
ウォーレン夫妻、特に霊視能力を持つ妻のロレインは、アミティビル事件で懐疑派の論客からインチキ呼ばわりされただけでなく、現場に巣食っていた“何か”に付き纏われてしまうのである。
その邪悪な存在に気付いた彼女は、自分の能力がいつか家族を危険に陥れるのではないかと疑い、心霊事件に深くかかわることに及び腰になっているのだ。
ところが、エンフィールドの事件を教会が救済の対象にするか否かの調査の為、3日間という約束でイギリスを訪れると、彼女はジャネットにもう一人の自分を見てしまう。
警官を含む幾人もの証人がいるにもかかわらず、事件は貧困に苦しむハーパー家が世間の同情を買うためのでっち上げという噂が絶えず、ジャネットは人間と悪霊両方から苦しめられている。
霊視能力という“ギフト”と悪霊に憑りつかれるという境遇の差はあれ、霊現象に関わった者として他人には見えない存在に人生を狂わされるという葛藤は共通。
その苦しみから救ってくれるのは、自分を信じ愛してくれて、さらに”頼りになる”生きている人間なのである。
ロレインにとって、それは夫のエドであり娘のジュディ。
今絶望の底にいるジャネットは、家族から十分に愛されているが、それだけでは悪霊からは救われない。
彼女にとって”頼りになれる”のは、能力を持った自分だとロレインは考える。
他人に理解してもらえない絶望を抱えた人間が求めるのは、結局信頼と愛に支えらえれた行動というのは王道。
単に怖いだけじゃなく、人間ドラマとしても見応えがある。
家に巣食う悪霊の正体にも、アミティビルと絡ませた一捻りがあり、134分という長尺を全く飽きさせずに見せ切るのはさすが。
ジェームズ・ワンは「ワイルド・スピード SKY MISSION」で、決してホラーだけじゃない才能を見せつけたが、やはり次なる恐怖も期待したくなる。
とりあえず「アクアマン」は降板しないみたいなので、「ロボテック」の後でいいから「死霊館3」をお願いします。
今回は「デビルズ」をチョイス。
ポートワイン30ml、ドライ・ベルモット30ml、レモン・ジュース2dashをステアして、グラスに注ぐ。
名前は怖いが、実はまろやかで優しい味わいのカクテル。
ポートワインの甘さと、レモンの爽やかさが絶妙なバランスをもたらしている。

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なんと瑞々しい作品だろう!
大不況にあえぐ1985年のダブリンを舞台に、一目ぼれした年上の彼女にアピールするべく、仲間たちとバンドを結成する少年の恋と成長を描く、パワフルな青春音楽映画だ。
ダブリン出身で「ONCE ダブリンの街角で」「はじまりのうた」と、音楽をモチーフにした快作を連発するジョン・カーニー監督にとって、これは半自伝的な作品。
幾つもの葛藤と音楽活動を通して、無垢なる少年は少しずつ大人になってゆく。
そして小さな閉塞した世界を超えて、無限の可能性が待つ未来へと歩み出すのだ。
伝説的な80’sのヒット曲の数々と、主人公らの劇中バンドの楽曲が満載。
若者たちには青春の普遍的な葛藤、中年以上の観客には時代性たっぷりの懐かしいディテールと、あらゆる世代が楽しめる傑作である。
※ラストに触れています。
1985年、ダブリン。
長引く不況により父が失業し、14歳の少年コナー(フェルディア・ウォルシュ=ピーロ)は、学費のかからないカソリック系の学校に転校させられてしまう。
そこは、暴力が吹き荒れ、厳格な校長が絶対権力を振るう荒れた学校。
家に帰れば両親が毎日のように喧嘩を繰り返し、家庭は崩壊寸前。
コナーの唯一の楽しみは、大学を中退した音楽マニアの兄と、TVで隣国イギリスの人気バンドのミュージックビデオを見ること。
ある日、年上でモデル志望のラフィーナ(ルーシー・ボーイントン)に一目ぼれしたコナーは、自分たちのバンドのビデオを撮るから、出演してくれと頼む。
ラフィーナが快諾したことで、あわててバンドを結成したコナーは、カッコいいビデオにするべく特訓を始めるのだが・・・・・
モテたい→バンド活動は世界共通。
1972年生まれのジョン・カーニーにも、そんなバックグラウンドがあったようだ。
この人は映画監督になる前は、今もダブリンを中心に活動しているロックバンド“The Frames”のベーシストで、自分たちのミュージックビデオを撮っているうちに、映画作りを始めてしまったという異色の経歴の持ち主。
そりゃ元本職なのだから、音楽関係の描写はお手のものというわけだ。
本作でコナーたちが在籍しているSynge Street CBSもダブリンに実在する学校で、カーニーもここに通っていた。
彼はこの映画で、自分が実際に十代だった頃に“できなかったこと”を描いたという。
なるほど、リアルな学校生活をベースとしながらも、厳格な校長先生やいじめっ子に屈せず、やりたいことを貫き、バンドでヒーローになり、年上の彼女をゲットする。
ある意味、音楽オタクのティーンの願望を、大人になってそのまま具現化したということか(笑
いい感じにやぐされたマニアな兄貴の導きで、コナーは当時の最新音楽トレンドに出会ってゆく。
「デュラン・デュラン」「ザ・キュアー」「ホール&オーツ」「a-ha」・・・etc.
キラ星の如く全編に散りばめられた80’sの名曲は、今聴いてもやっぱりイイ。
コナーが彼らの影響を受けまくって、新しい曲を聴くたびにファッションセンスが変わってゆくのもティーンエイジあるある。
彼らが結成する劇中バンド“シング・ストリート”の音楽力が「けいおん!」ばりに高く、「こいつらならすぐプロデビューじゃね?」思ってしまうのはリアリティ的にはともかく、下手くそな歌を延々聴かせられるより、観客としてはありがたい。
彼らの楽曲が今風でなく、しっかり80’sスタイルしているのもマルだ。
私は映画が終わってそのままサントラを買いに行ったが、その位音楽映画としての力は強かった。
では主人公のコナーにとって、音楽とは何なのだろう。
欧州の西の端にある島国、アイルランドはエクソダスの地という印象が強い。
今でこそ工業が発達し、それなりに豊かな国になっているが、歴史的には強大な隣国であるイギリスの陰に隠れた貧しい農業国であって、飢饉や不況のたびに多くの市民が外国への移民を選択してきた。
先日公開された「ブルックリン」は、1950年代を舞台に、アイルランドからニューヨークへ移民する少女エイリシュの物語だったが、こちらも時代は違えど社会は不況が続き、多くの若者が仕事を求めて国外に出てゆく状況は変わらず。
コナーとラフィーナが、海峡の向こうのイギリスを見つめる描写が何度かあるが、アイルランドの若者にとって、海とは現在の自分と可能性の未来を隔てるものなのかもしれない。
さらにコナーは、両親の不和から家庭崩壊を目の当たりにしており、抱え込んだ幾重の葛藤を言葉にして吐き出せる音楽は、閉塞する現実への精一杯の抵抗であり、自分自身の内面との対話なのだろう。
コナーの成長のキーとなるのが、ラフィーナに「いいミュージシャンになるには、ハッピー・サッドを知って」と言われるシーンだ。
ハッピーとサッド、人生には悲しみがたくさんあるけれど、その中でも人はどこかに喜びを見つけて生きてゆく。
思春期真っ只中のコナーの場合、それは恋と音楽だ。
学校がクソでも、両親が離婚しても、将来なんて分からなくても、愛する人と音楽があれば、それが人生。
ちなみに、30歳で夭折した天才シンガー、ジェフ・バックリィの父であり、自らも28歳でこの世を去ったティム・バックリィの初期の名盤に、「ハッピー・サッド」というそのままのタイトルのアルバムがある。
発表された時代が古く、映画とは全く関係ないのだけど、このアルバムからは「悲しみの中の喜び」という言葉の音楽的ニュアンスがよくわかると思うのでオススメ。
クライマックス、バンドの最初で最後のギグの最中、コナーの妄想が炸裂してから、映画は急速に寓話的になり、物語を通じて一回り成長した少年は、やがて愛するラフィーナと共に旅立ちの時を迎える。
目指すのは、海の向こうにあるロックの聖都、ロンドンだ。
最初はロンドンに憧れる彼女にアプローチするために始めたバンドで、その先のことなど想像すらできなかったコナー。
しかし、今やロンドンは二人の共通の夢、約束の地なのだ。
アイルランドと大ブリテン島を隔てているたった50キロの海峡は波高く、空は荒れている。
でも、二人はもうひるまない。
恋と音楽を巡る本当の冒険は、これから始まるのである。
今回は1974年に誕生した、アイリッシュウィスキーとクリームのリキュール「ベイリーズ」をチョイス。
もともとアイルランドには、酒とミルクを混ぜて飲む文化があり、ウィスキーとミルクの他、スタウトにミルクという組み合わせを好む人もいるという。
そんな歴史から生まれたベイリーズは、甘くフレッシュなクリームとコクのあるウィスキーの味わい、バニラやカカオの香りが心地よい。
ロックで飲むのが基本だが、アイス&ホットのコーヒーと適量ミックスしても美味しい。
アイスはベイリーズの比率を高め、ホットは低めるのがコツ。

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1950年代初頭、アイルランドから遥か大西洋の彼方、ニューヨーク、ブルックリン区に移民する少女エイリシュの成長物語。
彼女は二つの祖国、二つの愛の間で揺れ動きながら、蕾から美しく開花してゆく。
物語はごくシンプルで、内容的には予告で見せていることが全てだ。
妹の未来を案じる姉の計らいで、アメリカに渡ったエイリシュは、幾つもの試練を乗り越え、愛の幸せと喪失の哀しみを知り、遂に人生最大の選択をする。
次に何が起こるかは予測できるし、奇をてらった所は全く無い。
だがエイリシュの内面のドラマはじっくりと描き込まれ、彼女の葛藤はあざとさを含め観客の深い共感を誘う。
殆ど出ずっぱりでドラマを牽引するシアーシャ・ローナンは、本当に素晴らしい役者になった。
彼女はニューヨークでアイルランド人の両親の元に生まれ、三歳でアイルランドに逆移民したというから、エイリシュはまさに彼女のために用意された様な役なのだ。
※核心部分に触れています。
私は若い頃アメリカで移民として十数年を過ごしたので、エイリシュの揺れる気持ちはとてもよく分かる。
心をえぐるホームシック、新たな出会いと移民先の社会への順応、そしていつか迫られる、何者として生きてゆくのかの決断。
まだ飛行機は一般的でなく、インターネットなんて影も形も無い時代。
行き来することはもちろん、連絡すら簡単にとれないからこそ、エイリシュの葛藤も大きくなる。
一人ぼっちになった母を残してゆくことへの罪悪感、故郷に留まって欲しいという周りからのプレッシャー、そして女心を惑わすもう一つの愛。
自分がいるべき場所はアイルランドではないのか、ブルックリンでの生活が白日夢だったのではないのか。
エイリシュの二度の決断、最初の移民の時、そして姉の死によって一時帰国した後に、ニューヨークに戻ることを決める時、二人の女性が後押しする。
一人目はもちろん薄幸の姉ローズであり、彼女の妹への溢れんばかりの愛は、エイリシュの故郷への想いと一体化する。
もう一人は、エイリシュの元雇い主のケリー夫人だ。
偏屈で噂好きのこの老女は、閉塞した故郷のネガティブな象徴であり、結果的に彼女の悪意ある言葉によって、エイリシュは人生の“ホーム”がどこなのか最後の選択をするのである。
今年の賞レースを競った「キャロル」とは、舞台が50年代のニューヨークであること、主人公の勤め先がデパートであるという以上に通じる部分が多い。
モチーフは異なるものの、共に田舎娘が大都会の生活を通して洗練され、大人の女性として自らの意思で人生を選び取る物語である。
そしてどちらも時代性のある映像、美術、衣装、音楽と作品世界の全てが豊か。
アメリカ入国時のコート、恋人とのデートで着る水着など、物語の要所でエイリシュの衣装のキーカラーになっているのがグリーン。
グリーンはアイルランドのナショナルカラーでもあり、アイルランドの守護聖人である聖パトリックの命日にあたるセントパトリックス・デーには、アメリカでも多くの街がグリーンに染まる。
物語のラストで彼女がグリーンのカーディガンを纏っているのは、たとえアメリカ人になっても、アイデンティティは忘れないということだろう。
拘りをもった細やかな演出は画面の隅々まで行きわたり、観終わってからも“映画”がじわりと心に沁みてゆく。
記憶の中にいつまでも留めておきたくなる、愛すべき小品である。
今回はアイリッシュ・スタウト。
日本に輸入されている数少ない銘柄の一つ、「マーフィーズ アイリッシュ・スタウト」をチョイス。
島の南部に位置するアイルランド第二の都市、コークに拠点を置いている事もあって、アイルランド南部ではライバルのギネスよりポピュラーなのだそう。
味わいはギネスに比べて苦みがかなり弱いこともあって、マイルドで飲みやすい印象。
香りはしっかりしていて、スタウトの独特な味が苦手な人でもわりと挑戦しやすいかも。
缶ビールには例によってウィジェットが入っているので、家庭で飲んでもあのクリーミーな泡がちゃんと立つ。

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2002年に明るみに出た、いわゆる「稲葉事件」の顛末。
四半世紀の長きに渡って北海道の裏社会と癒着しながら、道警のエースと呼ばれた悪徳刑事の半生を描く、実話ベースの異色のピカレスク大河ドラマだ。
強い正義感を持っているものの、刑事としての実力が伴わず、うだつの上がらない毎日を送っていた主人公は、裏社会と結託し銃器事件を捏造して成績を上げるという、禁断の果実に手を出してしまう。
事件を起こした稲葉圭昭本人の告白本を、「任侠ヘルパー」の池上純哉が脚色。
監督は、こちらも実際の事件を基にした「凶悪」の白石和彌が務める。
先日公開された「64 ロクヨン」では、生真面目な警察広報マン役だった綾野剛が、今度は道を踏み外した悪徳刑事の転落人生を演じ、彼のエキセントリックな怪演も見ものだ。
1976年。
大学四年の諸星要一(綾野剛)は、有望な柔道選手として教官の勧めるままに北海道警入り。
柔道部の全国優勝に貢献したものの、刑事としては捜査もダメ、事務仕事もダメの落ちこぼれ。
ある時、敏腕刑事の村井(ピエール瀧)から、刑事として認められるには点数を稼ぐことだと教えられ、そのノウハウを叩き込まれる。
村井のやり方とは、裏社会に飛び込んで”S”と呼ばれるスパイを作り、彼らの情報を使って検挙率を上げること。
裏社会に名前を売った諸星は、暴力団幹部の黒岩(中村獅童)、薬の運び屋の太郎(YOUNG DIAS)、パキスタン人の盗難車ディーラーのラシード(植野行雄)の3人をSに仕立て上げると、彼らと癒着しながら着実に点数を稼いで行く。
諸星は銃器対策室に配属されると、Sに金を渡し銃を調達させて、自分で摘発するように装うことで瞬く間に押収数を増やしてゆく。
やがてエースと呼ばれるようになった諸星の元に、数百丁もの銃を一気に押収するチャンスが訪れるのだが・・・・
いゃ〜面白かった!
個人的には「凶悪」より数段好きだな、これ。
チャカ押収に血道を上げる北海道警の悪徳刑事の話だが、これ組織で働く人が陥りがちなダメなところ、日本型組織そのもののダメなところのショーケースの様。
同じように裏社会と刑事の癒着を描いた作品といえば、最近ではジョニー・デップの演技が話題となった「ブラック・スキャンダル」があるが、軽快なテンポとユーモアで悪漢の成り上がりを一気呵成に見せてゆくノリは、どちらかと言えばスコセッシの「ウルフ・オブ・ウォールストリート」に近い。
あの映画のパワフルなテリングに、70年代東映プログラムピクチュアの和風猥雑なテイストを盛り込んだという感じだろうか。
主人公の諸星要一は、道警の柔道部から優勝請負人として請われて警官になるも、ぶっちゃけ純粋培養された典型的なスポーツエリートだ。
柔道は強いかも知れないが、その他のことはまるで出来ず、全国優勝という目的を達した後には、現場の刑事として苦難の日々。
同僚には無能扱いされ、捜査に同行させてもらえず、調書一つまともに書けない。
幸か不幸かそんな諸星に、人生を変えるメンターが現れてしまう。
落ちこぼれの諸星に目をかけた敏腕刑事の村井は、刑事の評価は「点数が全て」だと言う。
犯人の検挙だけでなく、例えば拳銃の押収一つとっても、単に所持者不明のまま銃だけ押収するのと、犯人付きでは稼げる点数が全く違う。
警察の業務評価に点数制があることは知っていたが、ここまで細かく分類されているとは驚き。
何点稼いだかで組織内での自分の評価が変わってくるのだから、皆それぞれに点数稼ぎに必死になるわけだ。
そして村井の教えるノウハウは、S(スパイ)を作ることで裏社会と癒着して、情報を引き出すということなのだ。
元々真面目な体育会系だけあって、諸星はデキる先輩の言うことをピュアに信じてしまい、かなり強引なやり方で3人のS作りに成功する。
そして彼らを通じて銃を密売させ、それを自分が解決するという勝利の方程式を編み出すのである。
時はソ連崩壊によって、北海道にロシア経由の銃器流入が警戒されていた時代。
さらにその後の自民党の金丸副総裁銃撃事件、警察庁の国松長官銃撃事件、オウム真理教事件などを受けて、国レベルで銃器対策に大きな力が入れられていたことも、諸星にとっては追い風になったのかも知れない。
驚くべきことに、彼は自分のやっていることをひた隠しにしているかと思いきや、職場でかなりオープンにしていて、道警の上層部も黙認している。
それどころか道警自体が、諸星の作り上げた裏のルートを積極的に活用しているのである。
刑事一人ひとりが点数に縛られているのと同時に、道警という組織も全国の警察の中で自分たちの点数稼ぎに汲々としているのだ。
ロシアと国境を接する北海道には、ロシア経由の銃器が流れやすい、だから彼らにとっても銃器を押収することが一番手っ取り早い点数稼ぎの手段となる。
本来ブレーキになるはずの組織が公認してしまえば、もはや諸星の暴走は止まらない。
エースと呼ばれる様になり、組織内での発言力もどんどん高まってゆくのだが、自分で銃を買ってそれを押収しているのだから、いつか金が尽きるのは自明の理。
この壁を打破するために、諸星はついに薬物の密売という、絶対に触れてはいけない領域に手を出してしまう。
ミイラ取りがミイラになるとはまさにこのことで、とりあえず銃を買って自分で押収というプロセスでは、金と銃が身内でループするだけだが、薬の密売となると意味が全く違ってくる。
「公共の安全を守る」ために銃を摘発していたはずの諸星は、自らが危険を公共にバラまくただの犯罪者になってしまうのである。
ここで面白いのは、諸星のメンタルは常に警察組織に寄り添っていること。
薬を売ってでも銃を押収することは、自分のためだけでなく、道警という組織の正義のためであると本気で信じているのだ。
もちろんこれは、潜在的な罪悪感を隠すためのエクスキューズでもあるのだろうが、本人はそう意識していないところが、いかにも日本人だなあと思わせられる。
同時に、道警の方でも一度諸星のやり方が上手くいかなくなると、トカゲの尻尾切りの様に全てを押し付け、彼を増長させた上層部がなんの責任も取らないところとか、とても日本の官僚組織らしい。
この物語は警察という特殊な組織の中の、特殊な個人による特殊な事例かもしれない。
しかし、ちょっと見方を変えれば日本社会のあるあるネタが、カリカチュアされてたっぷりと詰まっている。
なんらかの形で組織に属している人は、この映画の登場人物が、身近な誰かに見えてくるのではないか。
どの組織にも諸星の様な人物はいるし、日和見主義の上司たちの様な人物もいる。
実際にその後の北海道警を含め、全国の警察の不祥事は続いているのだから、これは日本型組織の根深い問題なのだろう。
話を元に戻すと、内実を伴わない点数稼ぎのためだけの無理なシステムは、いつか必ず破綻するもの。
諸星の場合、終わりの始まりはやはり薬物密売だ。
やりたい放題、怒涛の勢いで成り上がる主人公にある種の痛快さを感じている観客も、ここで一線を超えたことを認識する。
そして元々ブレーキが無いのだから、一度坂道を転がり始めるともはやノンストップで破滅に向かって突き進むしか道はないのである。
最終的には、ピカレスク・ヒーローの豪快な転落人生に我々小市民は溜飲を下げる訳で、エンターテイメントのまとめ方として見事な仕上がり。
綾野剛はやっぱり単純な二枚目役より、本作や「リップヴァンウィンクルの花嫁」のトリックスターの様な、ちょっと怪しげな人物像の方がスクリーンで映える。
諸星のSになる三人や、無責任な道警上層部もカリカチュアの効いた美味しいキャラクターだった。
ただ、全体的に女性キャラクターがやや類型的な扱いなのは気になった。
そんなところまで70年代してなくていいので、もうちょっと現代的にしっかり描いて欲しかったところだ。
今回は諸星無双ということで、彼の勤務地の一つでもある旭川の地酒、高砂酒造の「国士無双 純米大吟醸」をチョイス。
明治時代に福島から移り住んだ小檜山鉄三郎が創業した蔵。
国士無双は的な淡麗辛口、雑味無くスッキリとした北国の酒で、キリリと冷やして飲むと今の季節にピッタリ。
爽やか吟醸香に、米の深い旨みが引き立つ。

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