リリカルな情景描写が印象的だった「言の葉の庭」から3年、新海誠監督の最新作はお互いの心と身体が入れ替わってしまった少年少女を主人公とした、異色の青春ファンタジー映画。
これは誠に、驚くべき作品である。
まさか「シン・ゴジラ」の衝撃からたった一カ月で、またしてもこんな途方も無い作品と出会えるとは全く予想していなかった。
新海作品の特徴である圧倒的に美しい世界観、神作画で描かれる魅惑的なキャラクター、映像と見事にシンクロした音楽が、先の読めないストーリーと組み合わさることで、誰の心にもストレートに突き刺さるであろう、パワフルなエモーションとなってスクリーンから迸る。
これは映画作家・新海誠の現時点での集大成であり、彼以外の作家には決して作り得ない独創の傑作だ。
2016年の夏は、「シン・ゴジラ」と「君の名は。」の誕生によって、映画史に永遠に刻まれることだろう。
✳︎核心部分に触れています。
1000年に一度の、大彗星の最接近まで一ヶ月と迫った日本。
山奥の町・糸守で、伝統ある神社の娘として暮らす宮水三葉(上白石萌音)は、田舎の密接すぎる人間関係や、神社の巫女としての役割に疲れていた。
「来世は東京のイケメン男子にしてくださーい‼」と願う彼女は、最近不思議な夢を見る。
夢の中で三葉は、なぜか東京で暮らす男子高校生になっていて、戸惑いつつも憧れの大都会で青春を謳歌している。
一方、東京で父と二人暮らししている立花瀧(神木隆之介)は、見覚えのない田舎の町で、女子高校生になっている夢を見る。
二人の奇妙な夢は繰り返され、ある時気付く。
これは夢ではなく、三葉と瀧は本当に心と身体が入れ替わっているのだと。
携帯の日記を使うことでコンタクトした二人は、お互いの生活を守るために様々な取り決めをする。
しかし、彗星が最接近する日を境に、二人の入れ替わりは突然止まってしまう。
いつの間にか、三葉に惹かれていた瀧は、現実世界で彼女と会うことを決意するのだが、列車を降りた先で意外な事実を突きつけられる・・・・
アニメ版「転校生」的な、予告編のノリとは全く違う。
いや、確かにそういう要素もあるのだが、日常的なジュブナイルから始まる映画は、ある時点から物語力にブーストがかかり、まるでジェットコースターに乗っているかの様に時空を疾走、想像を超える壮大な愛の物語に昇華される。
この映画には過去の全ての新海作品だけでなく、彼の映画的記憶までもが濃密に凝縮されていて、3.11を経た日本に希望の物語を届けようとする作者の、強烈な創造の熱に満ちているのである。
本作の後に、「ほしのこえ」を14年ぶりに観直した。
新海誠という作家の基本形はこの作品、いやその前の「彼女と彼女の猫」からずっと変わっていない。
彼の映画の登場人物は「ほしのこえ」では遠く宇宙と地球に、「海の向こう、約束の場所」なら現実と夢の世界に、「秒速5センチメートル」なら東京と地方に、少し毛色の違う「星を追う子ども」では生と死の世界に、「言の葉の庭」では大人と子どもという風に、常に二つの世界に別たれている。
様々な状況によって引き裂かれた運命の二人が、お互いの関係に葛藤し、お互いを求めて必死に行動する物語。
多くの作品では二人は別たれたまま終わるものの、届きそうで届かない切なさが、描かれない物語の向こうに"奇跡"を切望させる。
本作を含めどの作品にも、登場人物が空を見上げる印象的な画があるのだが、彼らの世界に広がる空はどこまでも高く、深く、遠く、想う相手と繋がっているのだ。
新海作品とイコールと言っていい、無数の光に満ちた美しい世界観は、登場人物の心象と密接に絡み合い、「セカイを創っているのは人の想い」ということを一貫して表しているのである。
もう一つ、過去の彼の作風の特徴としては、無邪気なまでに他の作家の影響を自分の作品に反映していたことがあげられるかも知れない。
たとえば“ひとりガイナックス”と呼ばれていた頃の「ほしのこえ」は、コンセプトからテリングにいたるまで、庵野秀明と「エヴァ」の存在なしにはあり得なかっただろうし、新機軸にトライした「星を追う子ども」は、思わず苦笑してしまうくらいに宮崎駿オマージュの塊だ。
それは単体の作品としては必ずしも成功していないケースも多いのだが、自らの一貫したスタイルに、多くの映画的記憶を練り込むことで、この作家の世界は次第に重層化し、そのポテンシャルを深めていったのだろう。
また、彼の作品は一つの世界観の中に日常性と非日常性が同居しているが、特に初期の作品では後者の設定がぶっ飛びすぎていて、極めて入りにくかったことも事実。
何しろ「ほしのこえ」では、なぜか学生服の女子高生が、宇宙の彼方でパワードスーツを操って異星人と戦っているのである。
その後も一作毎に日常性と非日常性の比重はシーソーの様に変化しながら、バランスを模索してゆくのだが、蓄積されたノウハウを日常性に拘ってグッと洗練させたのが前作の「言の葉の庭」であり、現時点での集大成として持てるすべてを大爆発させたのが本作と言えるのではないか。
もっとも、今回も既視感は残る。
自分自身の過去作と共通する要素は置いといても、男女の心と身体の入れ替わりは、前記したように大林宣彦の「転校生」だし、二人の時間がズレていて、愛する人を死する運命から救うという展開は、日本でもヒットしたイ・ヒョンスンの「イルマーレ」だろう。
さらにその記憶の向こうには、ジャンルの源流たるジャック・フィニイやリチャード・マシスンといった作家たちの姿も透けて見える。
しかし使い古された要素だらけでも、「セカイを創っているのは人の想い」を体現する新海誠の世界観に組み込まれると、驚くほどの未見性に満ちた新鮮な物語に再生されるのだから面白い。
本作の発想の原点は、作者自身も認めている様に、「シン・ゴジラ」同様3.11の大災厄。
この二本は、共に3.11の現実に抗った先にある希望を描いているが、アプローチは全く異なる。
庵野秀明は、ゴジラ襲来という“想定外”の事態を通じて、ある種の日本人論を導き出す。
エモーショナルなドラマははじめから排除し、対怪獣シミュレーションに徹する事で、個の内面は封じられ、巨大なチームとしてこの国のカタチが見えてくるというワケだ。
対して新海誠は、彗星の衝突というこれまた“想定外”の天変地異を前にして、徹底的に個人のエモーションに寄り添い、誰かを想う人の心が、宇宙の法則をも変えてしまう世界を描く。
物語の背景にあり、これが日本の、私たちの物語であることを強調するのが、民俗学的な精神世界だ。
あの世の領域にある神社の御神体、複雑に絡み合う“時”と“縁”を象徴する伝統の組紐、ムスビの神とつながる口噛み酒といった要素は、我々の心に深く刻み込まれた古からの民族的な記憶を刺激する。
また繰り返し描写される二つの世界を隔てる“扉”などの暗喩も、物語の意図するところを効果的に観客の心に刷り込んでゆく。
ちなみに三葉の学校で、物語のキーとなる「黄昏時(カタワレ時)」の意味を教えてくれるのは、「言の葉の庭」のユキノ先生。
まあ時系列からすると、こちらはパラレルワールドの彼女なのかもしれないが。
冷静に考えれば、男女の愛が時空を超えて人々を動かし、街一つ消滅する大災害をなかったことにしてしまうというのは、ぶっちゃけリチャード・ドナー版「スーパーマン」で、「地球を逆転させたら、なぜか時間も遡った」というのと同じくらい無茶な話なのだけど、エモーションが迸る物語の推進力と緻密な世界観の説得力によって、有無を言わせず納得させられてしまうのである。
今まで、どちらかといえばテリングの人であった新海誠の作品で、色々強引ではあるものの、これほど見事な物語の構成を見せつけられるとは、予想外であり、良い意味で驚きだ。
映画表現の両輪であるテリングとストーリー、ついに最高のレベルで二つを手に入れた新海誠は何処を目指すのか。
次回作が今から楽しみでたまらない。
それにしても、「シン・ゴジラ」と「君の名は。」の二本が、ともに2016年に生まれたのには不思議な運命を感じる。
というのも1954年には「ゴジラ」第1作が、1953年から54年にかけては本作のタイトルの元ネタであろう「君の名は」三部作が公開されているのである。
「君の名は」は物語的には本作と無関係だが、戦火の中で出会った名も知らない男女が、お互いを探し求めるが、なかなか会えないという基本設定は符合する。
「ゴジラ」と「君の名は」は、太平洋戦争という現実から9年後に、映画という虚構が向き合った作品だが、3.11の大災厄から5年後に作られた「シン・ゴジラ」と「君の名は。」も、同じ歴史的な意味がある作品なのかもしれない。
今回は、「女子高生の口噛み酒」にしたいのだが、酒税法違反らしい(笑)
ならば舞台となる飛騨地方の代表的な地酒、渡辺酒造店の「蓬莱 純米吟醸 家伝手造り」をチョイス。
地元の飛騨ほまれを、飛騨山脈の伏流水で醸造。
軽やかな吟醸香とお米の甘みが印象的で、キレはそれほどでもないが、まろやかで優しい味わい。
合わせる料理を選ばない、バランスの良い酒だ。

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アイルランドの奥深い歴史と文化を背景とした、珠玉のファンタジーアニメーション。
描かれるのは、灯台守りの子として孤島で暮らす幼い兄妹の大冒険とそれぞれの成長だ。
世界観を形作るアイルランドの妖精たちの世界が、実に自然に子供達の流離譚に組み込まれている。
物語も良く出来ているが、アニメーションのデザイン性が極めて高く、美しいグラフィックスを眺めているだけでも癒される。
監督は、本作と同じくアイルランドの民族文化をモチーフとした、2009年の「ブレンダンとケルズの秘密」で世界的に注目された俊英トム・ムーア。
日本とアイルランドには、それぞれの文化にアニミズムが深く浸透しているという共通項があるからか、本作の世界観は日本人にとって非常に親和性が高いと思う。
✳︎核心部分に触れています。
片田舎の孤島で暮らすベン(デヴィッド・ロウル)とシアーシャ(ルーシー・オコンネル)の兄妹は、灯台守りのコナー(ブレンダン・グリーンソン)とブロナー(リサ・ハニガン)の子。
母のブロナーはアザラシの妖精・セルキーで、シアーシャを生んで海に戻って行った。
そのせいか、ベンは島で暮らしているのにもかかわらず、水がトラウマとなり海に入ることができない。
一方のシアーシャは5歳になっても言葉を話せず、ベンは母がいなくなったのは妹のせいだと思っていて、なにかと彼女に辛く当たってしまう。
ある夜、母の残した真っ白なアザラシのコートを身につけたシアーシャは、アザラシに変身して海に入る。
娘まで失いたくないコナーは、コートを海に捨てると兄妹を都会に住む祖母に託すことにするが、シアーシャはフクロウの魔女マカ(フィオヌラ・フラナガン)によって誘拐されてしまう。
実はシアーシャには、彼女自身も知らない不思議な力が秘められていたのだ・・・・
物語のベースとなっているのは、アイルランドやスコットランドに伝わるセルキー伝説だ。
セルキーはアザラシの妖精で、しばしば美男美女の姿で現れ、人間と婚姻する話で知られる。
元々はヨーロッパ各地に伝わる人魚伝説がアザラシに変化したものと考えられており、伝説には様々なバリエーションがあるが、ポピュラーなパターンが、アザラシの皮を脱いで人間の姿になっている時に人間に皮を隠されてしまい、仕方なく結婚して子をもうけるものの、最終的には皮を取り戻して海に帰って行くと言うもの。
日本やアジアにおける羽衣伝説とも多くの類似点を持つ、異種婚姻譚の話型の一つだ。
この伝説を基にした映画に、ジョン・セイルズ監督の名作「フィオナの海」がある。
一人の少女の目を通して、失われつつある海の文化を再発見してゆく物語。
主人公フィオナの家族は、祖先はセルキーの血を引いていたという言い伝えを持つ、伝統的に海で生きてきた一族だ。
映画は、先祖代々が守ってきた島を捨てようとする家族の前に、赤ん坊の頃に海に攫われて行方不明となった弟が、アザラシたちと共に戻ってきて、家族が海の暮らしに回帰するというファンタジックな展開を見せる。
伝統的な海での暮らしか、都会での現代的な暮らしかで葛藤があるあたりは、本作とも通じる部分があると思う。
本作では、セルキーである母ブロナーは、シアーシャを産んで海に消えるが、その時にベンに巻貝の笛、シアーシャには真っ白なアザラシのコートを残してゆく。
巻貝の笛は魔法の道しるべとなり、コートはセルキーの証。
だが、妻だけでなく娘まで失いたくないコナーによって、コートは海に捨てられてしまう。
実はシアーシャは、コートがないと地上で生きられないのだが、そのことを父は知らないのだ。
アイルランドを代表する若手女優・シアーシャ・ローナンと同じ、このファーストネームの意味は、ゲール語で「自由」を意味する。
その名の通り、彼女はフクロウの魔女マカによって感情を吸い取られ、石にされた古の妖精たちを自由に解き放つことの出来る、不思議な力を持っているのである。
だから、自らの魔法が解かれることを恐れるマカは、シアーシャを誘拐し、彼女の力を封じようとするのだ。
このマカにも悲しい秘密があり、単純悪に造形されていないのが重要だ。
彼女が人から感情を吸い上げ石にしてしまうのは、耐え難い苦しみから救うため。
しかし、愛する者たちを石にすることは、マカ自身に大きな痛みをもたらす。
そして、いつの間にかミイラ取りがミイラになってしまい、マカは自らの感情をも吸い取ることで自分を失ってしまっている。
このキャラクターは、いわば近代化によって忘れられつつある古の精神文化の象徴であり、シアーシャを救うことは間接的にマカを救うこと、即ち古代から脈々と受け継がれて来たアイルランドの物語文化の復興を意味するのである。
映画は基本的に兄のベンの視点で語られ、第一義的には彼の成長物語となっている。
幼い頃に母に海に去られたことによって、彼は水の恐怖症になってしまい、同時に妹シアーシャに対しても複雑な感情を隠せない。
彼はどうしても最愛の母を妹に奪われたと感じてしまっていて、何かにつけてシアーシャに悪戯を繰り返し、お世辞にも良い兄とは言えない。
しかし、シアーシャがその力を恐れるマカによって攫われ、彼女の命のタイムリミットを知ることで、ベンは少しづつ変わってゆく。
人間の世界の裏側で、細々と生きながらえてきた妖精たちの世界の冒険を通して、ベンは妹が抱えている運命を理解し、彼女への愛と思いやりの心を育み、自らのトラウマを克服しつつ、ワガママなイジワル兄さんから、勇敢で頼りがいのある優しい兄さんへと大きく成長するのである。
このあたり、思春期に足を踏み入れつつある年齢の、男の子の心理劇としても丁寧で説得力たっぷり。
誰かのお兄ちゃんだった記憶を持つ者には、ちょっぴり気恥ずかしくも懐かしさを感じさせる。
そして、この種の異世界ファンタジーでは魅惑的な世界観を創り上げることができるかが評価の分かれ目となるが、本作には大満足だ。
この映画、とにかくかわいい。
丸を基調にデザインされた、人間も動物も妖精もかわいい。
アザラシが魔法を見て驚いて目がまん丸になっている所とか、かわい過ぎて思わず捕まえて持って帰りたくなる(笑
キャラクターだけでなく、美術もケルトの文様を思わせる丸と環がベースにあり、それが物語の背景となる円環する神話の世界観を表してる。
少年少女の冒険物語として、プロットもロジカルに構成されて素晴らしいが、やはり普遍性がありながら独創的なアニメーション映像が本作の白眉だ。
ムーア監督は日本のアニメのファンだそうで、物語・世界観共にどことなくジブリっぽいテイストがあるのも、偶然ではないのだろう。
劇中に、ものすごく長い髪の毛と髭を持つ、シャナキーという妖精のストーリーテラーが登場する。
彼の一本一本の毛にはアイルランドの全ての物語が記録されているのだという。
ベンとシアーシャ兄妹の冒険を通して古の妖精たちは解き放たれ、同時に新たな物語が紡がれた。
シャナキーの毛は、新世代のアニメーション作家たちの手によって、これからも増え続けてゆくことだろう。
今回は、アイルランドのシンボルでもあるシロツメクサの葉、三つ葉のクローバーの名を持つカクテル、「シャムロック」をチョイス。
シャムロックがアイルランドを象徴する植物になったのは、聖パトリックがキリスト教を伝道する時に、三枚の葉を三位一体に例えたことからと言われている。
アイリッシュ・ウイスキー30ml、ドライ・ベルモット30ml、クレーム・ド・ミントグリーン3dash、シャルトリューズ3dash。
シェークしてグラスに注ぎ、お好みでグリーンオリーブを1つ沈める。
スモーキーなウィスキーのベースに香草系リキュールそれぞれの香りが複雑に絡み合う。
辛口な大人のカクテルだ。

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いやー、トリップ感満点で実に楽しかった。
原作はラドヤード・キップリングが1894年に出版した小説で、ジャングルの奥地、動物たちの世界に暮らす人間の少年、モーグリの成長と冒険を描く。
動物園でもこんなにいっぺんには見られない、アニマルオールスターズは素晴らしいクオリティで描かれ、ジャングルから草原、古代遺跡まで詰め込まれた緑いっぱいの世界観は旅心を刺激する。
この夏、うだるようなテーマパークへ行きたくなく、海外旅行する時間もないけど、お手軽な非日常への逃避体験をしたい人には、本作は絶対のオススメだ。
もっとも、本作を観たら久々にディズニーランドのジャングル・クルーズに乗りたくなってしまったのだけど(笑
✳︎核心部分に触れています。
人間の少年、モーグリ(ニール・セディ)は物心ついた頃からジャングルで暮している。
育ての母は狼のラクシャ(ルピタ・ニョンゴ)で、彼女は黒豹のバギーラ(ベン・キングスレー)に赤ん坊だったモーグリを託されて以来、狼の群れの一員として育てているのだ。
だが、ある時ジャングルに現れた虎のシア・カーンは人間を敵視し、狼たちにモーグリを差し出すよう迫る。
危険を感じたラクシャとバギーラは、モーグリを本来の居場所である人間の世界に返すべく旅に出すのだが、復讐心に凝り固まったシア・カーンは納得せず、圧倒的な力で狼の群れを支配する。
その頃、バギーラとはぐれたモーグリは、熊のバルー(ビル・マーレイ)と出会い、ハチミツ取りに精を出す毎日を送りっている。
だが、人間の子の存在を知った類人猿の王、キング・ルーイ(クリストファー・ウォーケン)はジャングルを支配すべく「火」の秘密を求めてモーグリを誘拐するのだが・・・
端的に言えば、これは数奇な運命に導かれた少年モーグリが、ジャングルの一員として自分の居場所を見つけるまでの、波乱万丈の貴種流離譚だ。
原作は過去に複数回映像化されていて、ディズニー作品としては、ウォルト・ディズニーの遺作としても知られる、1967年のアニメーション映画の実写リメイクという位置付けとなる。
基本的には同じ話なのだけど、旧作はプロットを単純化した上でかなりコミカルな味付けがなされていて、明確にターゲットを若年層に絞った作り。
子供の頃に観た時はとても楽しかったけど、さすがに21世紀に実写で同じことをやっても説得力を持つとは思えない。
そこで本作は、旧作の主だった要素を維持した上でプロットをモダンに練り直し、傑作「ズートピア」にも通じる社会性を持たせることに成功している。
ジャングルで死んだ商人の子であるモーグリは、彼を拾った黒豹のバギーラによって、盟友の狼の群れに託され、愛情深い母狼のラクシャによって我が子として育てられている。
だが、動物たちの世界で絶対的な”異種”である人間の子供に対しては、仲間として接する者もいれば、ジャングルの脅威として敵視する者もいる。
その筆頭が、執拗にモーグリを付け狙う虎のシア・カーンだ。
実は彼こそがモーグリの実の親を殺した張本人でもあるのだが、その時に松明の炎によって顔に消えない傷を負わされ、人間に対する復讐心にとりつかれている。
そして、ジャングルの生態系の頂点に立つ最強の捕食者であるシア・カーンは、誰も力では逆らえないという状況を利用して、モーグリの居場所を奪う。
要するにこの物語は、コミュニテイを乗っ取った独裁者が、最も脆弱なマイノリティを迫害する構図を持っているのである。
不寛容と憎しみによって故郷を追われたモーグリはしかし、冒険の旅を通して寛容と献身によって様々な動物たちとの絆を育んでゆき、それはやがてシア・カーンに対する大きな武器となる。
マイノリティを不寛容から救うのは、自分自身の闘争の努力と、心あるマジョリティとの連帯だからだ。
同時に、物心ついた時から狼の一員として育てられたモーグリにとって、人生初めての旅は全く新しい価値観との出会いの機会ともなる。
リーダーに率いられた群で暮らす狼は、厳格な掟に従って生きているのだが、旅の途中で友達になる熊のバルーは規則に縛られない根っからの自由人。
歌が大好きなバルーは、狼の掟を復唱するモーグリに「That's not a song, that's propaganda.(そんなの歌じゃないよ。ただのプロパガンダだよ)」と諭す。
また虎をも傷つけた人間の持つ「炎」を欲する、規格外の巨大類人猿ギガントピテクス、キング・ルーイの支配する猿たちの世界は、文字通りオーウェルの描いた”ビッグブラザー”的社会であり、シア・カーンとは違った意味の独裁者だ。
冒険の旅は世界の多様性、自由の素晴らしさと抑圧の恐ろしさを、モーグリに体験として教えるのである。
原作は一応インドがモデルだが、映画の多種多様な動物の暮らす世界観は、アフリカから東南アジアに至る生態系をミックスした様な架空のジャングル。
ギガントピテクスは絶滅種だし、現実世界では明らかに生息地域が違う動物たちもいる。
打ち捨てられた遺跡や村の人間を含め、本作の舞台が具体的にどこの国かを特定する描写はない。
バギーラにベン・キングスレー、バルーにビル・マーレイ、シア・カーンにはイドリス・エルバ、ラクシャにルピタ・ニョンゴと名優たちが演じる動物キャラはそれぞれしっかりキャラ立ちし、聞き応えあり。
なぜかサム・ライミがリス役で出てたり、マニアックな遊び心もある。
同じくイノシシ役で出演もしている監督は、安定のジョン・ファヴロー。
マーベルの「アイアンマン」シリーズで人気監督になったものの、本当に自分の作りたい作品をやりたいと巨額のオファーを蹴ってシリーズを降板。
雇われシェフがフードトラックを買って、自分の作りたい料理を追求する「シェフ 三ツ星フードトラック始めました」は、多分にセルフパロディが入った佳作だった。
今回、自前のプロダクションとの共同制作という形でディズニー作品への帰還を果たした訳だが、適度な緩さ、もとい大らかさが観やすさにつながる持ち味は健在。
世界観の充実により異世界へのトリップ感は素晴らしく、アスペクト比がビスタサイズゆえIMAX3Dの没入度も最高だ。
作り込まれたシナリオは分かりやすくも大人の鑑賞に耐えうる深みを持ち、5歳の子供から付き添いのおじいちゃんおばあちゃんまで楽しめる内容は、夏休みに家族で観るのにぴったり。
ディズニーアニメの実写リメイクは、「シンデラ」に続いての大成功ではないか。
ただ、60年代末という時代にあって、人種差別的という批判を受けた旧作に対して、ポリティカルコレクトネスという意味ではほぼほぼパーフェクトに近い本作だが、悪役シア・カーンの最期に関しては、ある意味非常に従来のハリウッド的というか、ここだけが結局不寛容が解消されないまま残る。
本作と同じく、動物を擬人化しコミュニティのあり方を描いた「ズートピア」が、エンドクレジットで刑務所の中の”ある人"を映し出すことで社会的な不寛容の根深さ、難しさを描いていたのに対して、こちらはもう一歩掘り下げされてないなあと感じたのは、最近のディズニー・ピクサーのアニメーション作品が凄過ぎるゆえだろうか。
まあ、こちらも十分素晴らしい映画なんだけど。
今回は森林を舞台にした話なので、その名も「照葉樹林」という日本生まれの緑のカクテルをチョイス。
グリーンティーリキュール45ml、ウーロン茶適量を氷を入れたタンブラーに注ぎ、軽くステアする。
照葉樹林とは日本から東南アジアにかけて広がる常緑の森で、ここは同時にお茶の文化圏でもある。
お茶の風味が甘さを引き立て、食前酒にぴったり。
深い緑が涼しげな、夏らしいカクテルだ。

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1984年の大ヒット作、32年ぶりのリブート。
この年の冬休みは「ゴーストバスターズ」「ゴジラ(1984版)」「グレムリン」の3本が興行街を盛り上げ、頭文字をとって「3G決戦」などと言われていたものだ。
現代とは逆に洋高邦低の時代で、結果はアメリカでの勢いそのままに41億円の配給収入を上げた「ゴーストバスターズ」が年間トップとなった。
時代は巡り、奇しくも「シン・ゴジラ」と「ゴーストバスターズ」の最新作が、再び同時期公開となったが、どちらも旧作を大いにリスペクトしつつ、物語的には無かったことになってるのも面白い偶然。
大ヒット中の「シン・ゴジラ」は、見事なモダナイズに成功したが、こちらはどうか?
米国では賛否両論だったが、期待以上の仕上がりだと思う。
冴えない科学者3人プラス新人社員の4人が、幽霊退治の会社を作ってNYを救うという基本部分は一緒。
一番の違いは男女逆転のキャスティングなのだが、さすが女性コメディの達人ポール・フェイグだ。
ジェンダーチェンジは思いのほか上手くいっていて、時代の変化を感じさせながら旧作の欠点を修正することに成功している。
旧作はビル・マーレイ、ダン・エイクロイド、ハロルド・ライミス、ニック・モラニス、さらにヒロインにシガニー・ウィーバーと当時全盛期を迎えていた人気者たちが集い、お祭り映画として楽しいのは確か。
リチャード・エドランドが手がけたVFXも見応えがあったが、肝心の物語がゆる過ぎ、とっ散らかり過ぎて、いまひとつ乗れなかった。
ハリウッド映画には、日本人からすると「なぜこれが大ヒットして、なおかつ(本国の)批評も良いんだ?」という作品がたまにあるが、旧作もその一つだと思う。
当時の日米の批評でもアメリカでは賛が先行、日本ではどちらかといえば否が優勢だったと記憶している。
日本の批評家は「アメリカンギャグの笑いにくさ」に言及してる人が多かったが、この辺りはまあ、映画に求めるものの違いだと思う。
新作は32年間の脚本理論の進化を反映し、まず旧作の要素を取捨選択しつつ物語をシンプルかつメリハリのあるプロットラインに集約。
クリスティン・ウィグとメリッサ・マッカーシーの「ブライズメイズ 史上最悪のウェディングプラン」コンビを軸にキャラを立て、マッドサイエンティストっぷりが最高のケイト・マッキノン、旧作のアーニー・ハドソンに当たるレスリー・ジョーンズとの掛け合いも楽しく、大いに笑わせてくれる。
幽霊退治のガジェットの種類が増えたのも、アクション演出の多様化につながっていて上手い。
ニューヨークのインフレと家賃高騰を背景に、嘗ては古い消防署の建物だったゴーストバスターズのオフィスが、チャイナタウンのレストランの二階に格下げになっていたり、旧作に引っ掛けたディテールの数々も良いアクセントだ。
しかし、本作で一番美味しいのは、クリス・ヘムズワースだろう。
”神”を演じられるくらいマッチョでイケメン、観賞用としては最高のクリヘムが演じるのは、徹底的におバカな受付男子。
この役は、ハリウッドの男性原理的ステロタイプの典型である、グラマラスなブロンドビューティーの逆転版。
「かわいくてお尻と胸の大きな女の子は、ちょっとバカなくらいが丁度良い」という、前時代的価値観を裏返して見せることで、男性作家は自虐的な笑いに転化させているのである。
クリヘムだけでなく、男たちは総じてろくなキャラが出てこないが、その分アホな男たちの支配する理不尽な社会で、居場所を求めて奮闘する四人の活躍が際立つ。
時代の空気を反映し、昨年あたりから急速にハリウッドのメインストリームとなってきた、男女逆転、あるいは男女同権のエンターテイメントの隊列に、「ゴーストバスターズ」も加わったというワケだ。
旧作を知らなくても十分に面白いと思うが、中年以上の世代にはオリジナル・キャストや馴染のゴーストたちがどこに出てくるかもお楽しみ。
再びクリヘム大活躍のエンドクレジット後にもおまけの小ネタがあるが、これはちょっと旧作を知らないと分からないだろう。
アメリカでは旧作ほどヒットしなかった様だが、続きを期待したい快作となった。
ちなみにこれ、立体演出にユニークな工夫がされているので、3D版を鑑賞する人はできればデフォがビスタサイズのスクリーンを選んでほしい。
2D版ならシネスコ固定でもOKだ。
今回は、劇中で人生(?)を謳歌していたゴースト、スライマーと同じ鮮やかな緑のカクテル「グリーンハット」をチョイス。
氷を入れたタンブラーに、ドライ・ジン25ml、クレーム・ド・ミントグリーン25ml、ソーダ適量を注ぎ、軽くステアする。
辛口のジンとミントの清涼感で、口に含むと一気に涼しくなる、夏向けのカクテルだ。
炭酸ジュースのように軽く飲めるが、アルコール度数はそれなりなので、飲み過ぎると真夏のゴーストを見るかもしれない。

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実話ベースの、素晴らしいヒューマンドラマ。
舞台となるのは、貧困層の若者たちが通うパリ郊外のレオン・ブルム高校。
生徒たちは移民の子が中心で、人種も宗教も様々。
落ちこぼれだらけの荒れたクラスを受け持つのは、ベテラン歴史教師のアンヌ・ゲゲン先生だ。
クラスにはムスリムが多く、ユダヤ人は少ない。
信仰へのスタンスも千差万別。
中世の教会の絵画に、地獄に堕ちたムハンマドの肖像が描かれていることを教えられて、侮辱だと怒り出す生徒もいる。
だが、ゲゲン先生は、なぜムハンマドがその絵に描かれているのか、その背景をしっかり説明する。
ある現象にはそこに至る理由があり、背景を知る事ができれば、多面的な見方ができるようになることを生徒たちは徐々に理解してゆく。
そして、「ホロコーストの歴史研究コンクール」へ参加しようという提案が、バラバラだった生徒たちの運命を変える。
アウシュビッツの絶滅収容所で真っ先に殺されたのは、老人、女性、子供たち。
それはなぜか?歴史の彼方に消えた数百万もの犠牲者は、一体何者だったのか?
生徒たちにとって、ホロコーストの歴史を学び、考えることは、他人を理解する寛容を育むことでもある。
絶滅収容所の生存者であるレオン・ズィゲル氏(本人)の言葉に、生徒役の俳優たちが流す涙は演技ではないだろう。
生徒たちとほぼ同じくらいの年齢でこの世の地獄を見たズィゲル氏は、解放されて以来自らの体験を語り続け、本作の公開直後の2015年1月に逝去されたという。
この映画に出演した人々、鑑賞した人々は原題通り、「受け継ぐ者たち」となったわけだ。
映画は半分ドキュメンタリーのように客観性を保ち、観客は生徒の一人になった感覚で物語を体験する。
ただ、ずっと引いた視点ではなく、何人かの生徒たちの日常にすっとカメラが入る。
フランス社会でも、偏見を持たれがちな移民社会の少年少女たちの、どこにでもあるリアルな青春の日々に、観客は無理なく彼らの”クラスメイト”になれるのである。
その一人で、劇中で映画作家志望の少年マリックを演じるアハメット・ドゥラメは、本作の脚本家。
彼は実際にこの教室にいて、自身の体験を綴ったという。
なんと素晴らしい啓蒙の連鎖だろうか。
この映画を観た観客の中からも、きっと第二、第三のアハメットが出てくるに違いない。
一方で、ゲゲン先生の授業に誰もがついて行けるわけではないこともしっかり描かれている。
コンクールの課題からドロップアウトしてしまう生徒もいるし、クラスは違う様だが暴力的に女性を蔑視し、「将来ISみたいな過激思想に染まりそうだなあ、あるいはもう染まっているのか」と思わせる生徒も出てくる。
色々な意味で、ここにあるのは”今”のフランスなのだ。
映画の冒頭、本筋と直接関係ないあるエピソードが描かれる。
それは高校の卒業生がヒジャブを着用していることを理由に、学校での証明書発行の手続きを拒否されるというもの。
フランスは政教分離の観点から、公立学校など公の場で宗教的シンボルの着用を禁じている。
このエピソードは、元生徒と先生たちが揉めたところで終わり、作中でその後どうなったのかは描かれない。
これは観客に対する、作り手からの宿題なのかもしれない。
ヒジャブの禁止は多様性を守るために必要なことなのか?それともこの規則そのものが多様性の否定なのか?
本作を観た人に、それぞれの解は見つかるのだろうか。
今回は多様性への希望を込めて、「エンジェルズ・デイライト」をチョイス。
グラスにグレナデン・シロップ、パルフェ・タムール、ホワイト・キュラソー、生クリームの順番で、15mlづつ静かに重ねてゆく。
スプーンの背をグラスに沿わせて、そこから注ぐようにすれば崩れにくい。
虹を思わせる四色の層が比重の違いで生まれる。
先ず目で味わい、口の中で多様な味が一つに溶け合う不思議な感覚を楽しむ事ができるユニークなカクテルだ。

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![]() ヘルメス バイオレット 27度 正規 720ml |
一度聞いたら忘れられない、独特の歌声。
2011年に27歳の若さで急逝したジャズ・シンガー、エイミー・ワインハウスのデビューから死までの軌跡を追った長編ドキュメンタリー。
冒頭、まだデビュー前のエイミーが友達と戯れるシーンから始まり、やがて音楽業界に注目された彼女は、瞬く間にスターダムを駆け上がる。
だけど、それは彼女にとって栄光と不幸の始まり。
アルバム「フランク」のヒットで時の人となったエイミーの元には、海千山千の音楽業界の勝負師たちが集まってくる。
クスリで彼女を繋ぎとめる最低のクズ夫、虚栄心から愛娘を金づるにしてしまう実のパパ、彼女をスケジュール通りに歌わせることにしか興味のない新マネージャー。
ただ歌いたかっただけなのに、ただ愛されたかっただけなのに、彼女はあまりに才能があり過ぎたために、周りに祭り上げられてしまった。
「だから放っといて。音楽をするから。音楽をする時間が必要なの」とエイミーは言う。
しかし、スターになったことで、彼女は歌う自由も制限されることになる。
別れた男との赤裸々な関係の歌だったり、クスリのリハビリ施設での経験を歌っていたり、エイミーが作る歌詞はほとんどが彼女自身の人生を歌った私小説的作品。
精神に余裕がある時は良いだろう。
あるいは彼女がもっと長生きして、過去の自分を客観的に振り返る余裕がある年齢になっていたら、これらの歌はいつでも自分の引き出しとして歌えるのかもしれない。
しかし、彼女はまだ二十歳そこそこだったのだ。
新しい恋をしている時に、過去の男のことなど歌いたいだろうか。
クスリ抜きしてフレッシュな気分でいるのに、リハビリの歌はかえって辛くなかっただろうか。
それでも観客はエイミーにヒット曲を歌うことを望み、周囲もまた彼女にその時の感情にあった曲を歌う自由を取り上げた。
アーティストにはそれぞれの資質がある。
巨大なスタジアムで、数万人もの歓声を浴びてこそ輝くアーティストもいれば、数十人ほどの観客に、じっくりと歌詞を聞かせてこそ喜びを感じる才能もいる。
おそらく、エイミー・ワインハウスは後者だったのだ。
憧れの人だったトニー・ベネットと「Body and Soul」をデュエットするシーンの彼女は、まるで少女の様に歌う喜びに満ちていた。
映画は淡々とエイミーの10年間を辿るが、人生に関する多くの示唆に富む。
作中の彼女のパフォーマンスは、改めて見ても圧巻で、これはやはり周りがほっとかなかっただろう。
だが、幾つもあった人生の分岐点で、彼女が別の選択をしていたら。
彼女は「音楽」に生き、「音楽業界」に殺されたのかもしれない。
素のエイミーを知る友達たちの、彼女を助けたいという願いが届かなかったのが、今となっては残念。
とても悲しい映画なのだけど、その悲しみが不思議と心地よい詩情を呼ぶというか、まるでこの作品自体が素晴らしいジャズの様。
アシフ・カパディア監督は作中のエイミーと共鳴して、映画という音楽を奏でているのだ。
ジャズ・シンガーの生き方を語る、ラストのトニー・ベネットの言葉が、深く心に残る。
アルコールが一因となって命を落としたエイミーの映画に、お酒を合わせるのは難しいのだけど、彼女が育ったロンドンといえばジンの街。
今回はジンをベースとしたカクテル「ギムレット」をチョイス。
このカクテルは、元々海軍将校のジンの飲み過ぎを憂いだ軍医のギムレット卿が、ライム・ジュースと混ぜるのを勧めたことから生まれたとされる。
ドライ・ジン45ml、ライム・ジュース15mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
スライスしたライムを添えて完成。
ドライな味わいとライムの酸味が、すっきりフレッシュなカクテルだ。

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驚きの傑作、もとい究極の自主映画とも言うべき大怪作である。
12年前、「ゴジラ FINAL WARS」で北村龍平が完膚無きまでにぶっ壊し、更地になったゴジラ映画の世界観を見事にリビルド。
「もしも現代日本に怪獣が現れたら?」というリアリティの追求は、既に20年前に平成「ガメラ」がやった。
庵野秀明はじめ本作の作り手たちは、20年の歳月の流れを盛り込みながら、この路線を極限まで突き詰める。
登場人物個人の葛藤や苦悩は全てゴジラという大災厄に巻き込まれ、ほとんど何も描かれない。
彼・彼女らは皆“日本人”という群体の各種ステロタイプとなり、通常の映画的な意味での人間ドラマは限りなくゼロに近い特異な作り。
ここにあるのは、未知の巨大生物出現というシチュエーションで、日本の中枢で何が起こるのかという徹底的なシミュレーションであり、そこから見えてくるのはある種の日本人論とこの国の形、そして大破壊の向こうにある希望なのである。
✳︎ラストを含む核心部分に触れています。
東京湾で突然大量の熱水噴出が起こり、真下を通る東京湾アクアラインのトンネルが崩落。
海は血の様な赤に染まり、大量の水蒸気を噴き出し続けていた。
日本政府は海底火山か熱水噴出孔が出来たものとして対応を始めるが、内閣官房副長官の矢口蘭堂(長谷川博己)は、地質的にそれらの事態が起こり得ないこと、ネットに市民が撮影した生物と思われる動画が複数投稿されていることから、未知の生物の存在を疑うも、一笑に付される。
だが、海面から振り上げられた巨大な尻尾と共に巨大生物が姿を現し、多摩川河口から北上すると、ついに大田区蒲田に上陸してしまう。
想定外の事態に、自衛隊出動の是非などを巡り、日本政府は混乱。
その間にも、巨大生物は海洋生物から二足歩行の陸上生物へと変態しながら市街地を蹂躙、ようやく自衛隊のヘリコプター部隊が到着した時、突如として東京湾へと戻って行った。
再びの上陸に備えた対策が急がれる中、矢口はアメリカ政府の特使・カヨコ・アン・パターソン(石原さとみ)から、数年前に今回の事態を予測していた日本人科学者・牧悟郎の存在を明かされる。
彼は生まれ故郷の大戸島の伝説から、現れるであろう生物を「呉爾羅(ゴジラ)」と命名していた。
ゴジラのエネルギー源が核分裂であることを突き詰めた矢口のチームは、ゴジラの冷却システムである血流を止め体全体を“凍結”させるべく、経口血液凝固剤を使った作戦の立案を進める。
だが、ゴジラを人類の脅威とみなした国連安保理は、密かに核攻撃を検討し始める・・・
1954年に初代が登場して以降、東宝の「ゴジラ」シリーズは一貫してその世界観を受け継いで来た。
いや、現在までに2本作られたハリウッド版の世界観も、基本的に始めからゴジラが存在することを前提にしている点では変わらない。
ところが「シン・ゴジラ」は、1954年版以来の未知の巨大生物が歴史上初めて現れた世界、怪獣という概念すら存在しない世界を描く。
人類が予想だにしない、途轍もなく巨大な生き物が日本を襲ったら一体どうなるのか?
その時日本人はどう対応し、いかにして乗り越えるのか?
世界は存亡の危機を迎えた日本に対し、どう出るのか?
登場人物は多いが、それぞれの個人的な背景は必要最小限にしか描かれず、葛藤は全てゴジラ対策の活動と状況を通じて描かれるのみ。
極論すると、本作に描かれているのは“対怪獣シミュレーション”、それだけだ。
戦後わずか9年目に、本多猪四郎と円谷英二が創造した初代ゴジラは、甚大な犠牲を出した戦争の恐怖そのものだった。
ケロイドの様な皮膚と口から吐く放射能火炎は、ヒロシマ・ナガサキ、そして戦後の原水爆実験による核を具現化したもの。
この映画を観た当時の観客は、おそらく「戦争が怪獣の姿になって戻ってきた」と感じたのではないだろうか。
ならば、2016年のシン・ゴジラが象徴するのは、やはり日本人にとって忘れえぬ体験となった3.11の惨禍である。
最初に東京湾に出現する生物は、私たちが知る過去のゴジラと似ても似つかぬ姿をしている。
前肢が無く、鮮血のような赤い液体をエラから撒き散らしながら、後肢だけで巨大な体を押し進めるそれは、まるでウツボとトカゲを無理やり合体させたような異様な形をしており、映画史上最も醜い怪獣と言っていいだろう。
膨大な遺伝子情報を持つ地球型完全生物と位置付けられたそれは、変態を続けながら都市を蹂躙し、やがて小型の前肢を持つ二足歩行の形態となる。
劇中の登場人物が繰り返す「想定外」のセリフを聞くまでも無く、この人智を超えて変異する新たなるゴジラが、制御不能の核の象徴であることは明らかだ。
ゴジラがもう一つの3.11であるならば、何としても日本人の手で乗り越えなければならない。
本作の公開後、これがナショナリズムのプロパガンダであるという意見をいくつか目にしたが、ナンセンスである。
確かに、ここにはいわゆる”愛国的行動”をする人々が描かれている。
だが、彼らが守ろうとしているのは、どこどこの政党が率いる“日本国家”ではなく、原初の共同体としての“クニ”だ。
右だとか左だとかのイデオロギーに基づく価値観ではなく、自身と仲間の暮らしと生命を守ろうとする当たり前の努力なのである。
ゆえに、イデオロギーを想起させる表現は、極めて細やかに、慎重に避けられている。
自衛隊の活躍は描くが、政治的意味を持たれがちな日章旗や旭日旗などのシンボルは極力出てこない。
3.11後のように、国会前にデモ隊が押し寄せている描写はあるが、具体的に何を要求しているのかは聞き取れない。
日本政府の人間たちも、具体的にどの政党というよりも、いかにも現実にいそうな政治家や官僚の日本的ステロタイプとしてそれぞれが造形されている。
だから、ゴジラ出現の初期段階で、彼らが「想定外」の事態の連続に対応しきれず、右往左往を繰り返すあたりは、まるで3.11の焼き直しを見いているかのようなブラック・コメディ。
会議ばっかりやっていて、全然前へ進まないのも、良くも悪くも日本ならではのリアリティとして納得できる。
しかし現実と違うのは、本作では登場人物たちがゴジラという絶対的な脅威を前にして立ち直り、破滅の危機の中でそれぞれの立場でベストを尽くし、結果を出すことである。
ゴジラは巨大な天災であり、同時に核の歴史が作り出した人災でもあるのだが、本作の登場人物は新たな人災は作り出さないのだ。
現実の3.11を巡る対応は、我々自身である“日本”に対する大きな失望をもたらした。
我々=日本=現実はあの時失敗したが、「本来はこうあるべきだった、こう出来たはずだった」という理想形を、ゴジラという虚構との対立を通して見せてくれるのが本作であり、未曾有の危機を背景に、この国の人間のあり方を希望的に描いた物語なのである。
それゆえに、個々の内面がほとんど描かれていないにもかかわらず、「頑張れ!踏ん張ってくれ!」とフィクションを超えて登場人物たちを応援したくなるのだ。
本作のスタンスに一番近いのは、どこからどう見てもニューヨークであるゴッサムシティを舞台に、ジョーカーという絶対悪の脅迫に対して、市民たちが各々の良心によって立ち上がる「ダークナイト」かもしれない。
もちろん「シン・ゴジラ」は、第一義的にはスペクタクルな怪獣映画であって、観客は小難しい日本人論を観に行く訳ではない。
この映画には監督と名のつく人が庵野秀明と樋口真嗣、尾上克郎と3人いて、役割をどの様に分担しているのかは正確には分からない。
ただ、目まぐるしいカット割りと早口な台詞回しによるテリングは、まあ港で言われているように岡本喜八リスペクトもあるのだろうが、極めてアニメ的というか、庵野秀明の色を強烈に感じさせる。
そしてアニメと実写の違いの一つは、意図していないものは絶対に画にならないということ。
背景の雲一つとっても、必ず何らかの意味があってそこに配されているので、映像的な密度が濃くなる。
この映画の画作りはその意味でアニメの考え方に非常に近く、ディテールが息苦しいほどに濃密で観客に弛緩した観方を許さない。
また、一度聞いただけでは聞き取れない膨大な専門用語と矢継ぎ早なテロップは、物語に映画的リアリティと早いテンポを与えることに寄与している。
進撃のゴジラによる都市破壊、自衛隊+米軍とのバトルシークエンス、そして官民合同チームがゴジラ凍結のための“ヤシオリ作戦”に挑むクライマックスに至るまで、VFXというより「特撮」と言いたくなる見せ場の作り込みは圧巻。
デジタルで作られた怪獣とミニチュア破壊の巧みな融合、ここぞというところで勇ましく鳴り響く伊福部音楽と、観客が期待するものをしっかり見せ、これが紛れも無い「ゴジラ」映画なのだと主張しながら、過去に作られたいかなる作品とも異なる、新鮮なビジュアルを見せてくれる。
特に、ゴジラの体内原子炉の冷却水の役割をする血液の流れを遮断させようと、直接ゴジラの口に凝固剤を流し込む“ヤシオリ作戦”には驚かされた。
ここではゴジラの動きを止めるため、今まで数多の大怪獣に蹂躙されて来た“電車”が思いもよらない大活躍を見せる。
爆弾を積んだN700系新幹線が、何種類もの在来線が、まるで神話のヤマタノオロチの様に、次々とゴジラに襲いかかるのである。
そして、3.11の時も大活躍した数十メートルものアームを持つポンプ車が、巨大な鎌首を持ち上げゴジラの熱を奪ってゆく。
ちなみにこのポンプ車が中国から提供されるエピソードも、現実の3.11と同じ。
荒唐無稽なSF兵器の類は一切登場せず、ゴジラを“凍結”させるための血液凝固剤すら既存のものという設定だ。
自衛隊にも米軍にも倒せなかったゴジラに、有志の民間人と働く電車・車たちが立ち向かうクライマックスは、まさに本作のテーマを象徴する。
ゴジラを殺すのではなく、永遠にそびえ立つ恐怖のスタチューとなって、東京に睨みを利かすというラストも誠に秀逸。
世界有数の自然災害列島、たとえゴジラでなくても、次なる危機はいつの日かまたやって来るだろうから。
ここからはちょっとしたトリビアと私的解釈。
ある意味ゴジラよりもインパクトのある、石原さとみ演じるカヨコ・アン・パターソンの描き方はたぶん賛否の分かれところだろう。
リアリティに徹するのであれば、例えばシャーロット・ケイト・フォックスとかネイティブに演じてもらうのが一番いいのだろうが、あのキャラクターはやはりアニメ監督の矜恃というか、2次元のリアルなのだと思う。
同時に、容易に想像できる日本人のメンタリティーと意思決定プロセスと違って、“フィクション”の度合いが強くならざるを得ない、外交の描写に対するクッションの役割も果たしている。
私は最初違和感が拭えなかったが、だんだんとサトミさんがミサトさんに見えて「スキ」になってきた(笑
そして彼女が追うのがゴジラの出現を予測し、行方不明になる牧悟郎という謎めいた科学者。
このキャラクターはもちろん第1作で平田昭彦が演じた芹沢博士の裏返しなのだろうけど、なんとなく名前に聞き覚えがあった。
実はシリーズ8作目の「怪獣島の決戦 ゴジラの息子」にジャーナリストの真城伍郎という人物が出てきていて、この作品でのオチのつけ方が、ゴジラ親子の凍結(冬眠)だったので、役名を含めてオマージュと思われる。
そして本作の大きな謎が、牧悟郎はどこへ消えたのか、ゴジラはなぜ突然東京湾に現れたのかということだが、深海生物だったゴジラは牧悟郎と何らかの形で結合してしまったのではないか。
そう考えると、最後に映し出される人間の様なフォルムがいくつも突き出している尻尾の意味深な映像への一つのアンサーとなるし、人間と怪獣が融合する「ゴジラvsビオランテ」に対するオマージュとも解釈できる。
あと、今回のゴジラの設定は1992年に発表された巴啓祐の漫画、「神の獣」に登場する大怪獣オーガからのインスピレーションを強く感じさせる。
「神の獣」では、地球という一つの大きな生命の害となった人類を滅ぼすために、地球そのものと同じ体の構造を持ったオーガが出現。
言わば怪獣映画の設定で「イデオン」をやったような壮大な作品なのだが、弱点の無い地球型完全生物という設定のみならず、背中から無数のプラズマ放電を出して飛行機を撃墜したり、戦いのあとに石の様に静止してダメージを回復させたり、描写的にも符合する部分が多い。
巴啓祐はこれ一作で断筆してしまった人で、「神の獣」も絶版になって久しいのだけど、内容的には24年経った今でも全く古びてない。
平成「ガメラ」も、この漫画から設定をかなり借りてきているし、平成の日本怪獣のオリジンと言っても良いのではないか。
そろそろ再販・再評価されるべき作品だと思う。
それにしても、これほどの規模の作品が製作委員会方式ではない、映画会社の単独製作で作られたこと自体、現在の日本映画としては極めて珍しい。
本作は全体が日本的あるあるネタで構成されている上に、早口の膨大な台詞なども問題になって、海外セールスも苦戦するだろうから、なおさらリスクは分散したかったはず。
劇中で「私は好きにした。君らも好きにしろ」という牧悟郎の遺書がキーワードとなるが、これはまさにこの作品の作り手の言葉だろう。
広告代理店のくびきから解き放たれた、映画人だけで作った魂の超大作。
映画会社の矜恃として、「シン・ゴジラ」を実現させた東宝プロデュース陣にも拍手を贈りたい。
今回は、怪獣つながりで福島県二本松市の人気酒造が手がける日本酒、「人気一 純米総攻撃」をチョイス。
ゴジラの生みの親の一人である円谷英二は福島の人で、これは円谷プロと人気酒造がコラボした怪獣酒シリーズの一つ。
売り上げの一部は、3.11で被災した子どもたちのための「ウルトラマン基金」に寄贈される。
怪獣が作ってるとの設定だが、中味は人間を変異させる謎の液体とかではなく、オーソドックスな美味しい純米酒。
昭和の怪獣映画を連想させる、レトロなラベルも楽しい。

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