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2016年08月03日 (水) | 編集 |
ゴジラの咆哮の下、会議は踊る。
驚きの傑作、もとい究極の自主映画とも言うべき大怪作である。
12年前、「ゴジラ FINAL WARS」で北村龍平が完膚無きまでにぶっ壊し、更地になったゴジラ映画の世界観を見事にリビルド。
「もしも現代日本に怪獣が現れたら?」というリアリティの追求は、既に20年前に平成「ガメラ」がやった。
庵野秀明はじめ本作の作り手たちは、20年の歳月の流れを盛り込みながら、この路線を極限まで突き詰める。
登場人物個人の葛藤や苦悩は全てゴジラという大災厄に巻き込まれ、ほとんど何も描かれない。
彼・彼女らは皆“日本人”という群体の各種ステロタイプとなり、通常の映画的な意味での人間ドラマは限りなくゼロに近い特異な作り。
ここにあるのは、未知の巨大生物出現というシチュエーションで、日本の中枢で何が起こるのかという徹底的なシミュレーションであり、そこから見えてくるのはある種の日本人論とこの国の形、そして大破壊の向こうにある希望なのである。
✳︎ラストを含む核心部分に触れています。
東京湾で突然大量の熱水噴出が起こり、真下を通る東京湾アクアラインのトンネルが崩落。
海は血の様な赤に染まり、大量の水蒸気を噴き出し続けていた。
日本政府は海底火山か熱水噴出孔が出来たものとして対応を始めるが、内閣官房副長官の矢口蘭堂(長谷川博己)は、地質的にそれらの事態が起こり得ないこと、ネットに市民が撮影した生物と思われる動画が複数投稿されていることから、未知の生物の存在を疑うも、一笑に付される。
だが、海面から振り上げられた巨大な尻尾と共に巨大生物が姿を現し、多摩川河口から北上すると、ついに大田区蒲田に上陸してしまう。
想定外の事態に、自衛隊出動の是非などを巡り、日本政府は混乱。
その間にも、巨大生物は海洋生物から二足歩行の陸上生物へと変態しながら市街地を蹂躙、ようやく自衛隊のヘリコプター部隊が到着した時、突如として東京湾へと戻って行った。
再びの上陸に備えた対策が急がれる中、矢口はアメリカ政府の特使・カヨコ・アン・パターソン(石原さとみ)から、数年前に今回の事態を予測していた日本人科学者・牧悟郎の存在を明かされる。
彼は生まれ故郷の大戸島の伝説から、現れるであろう生物を「呉爾羅(ゴジラ)」と命名していた。
ゴジラのエネルギー源が核分裂であることを突き詰めた矢口のチームは、ゴジラの冷却システムである血流を止め体全体を“凍結”させるべく、経口血液凝固剤を使った作戦の立案を進める。
だが、ゴジラを人類の脅威とみなした国連安保理は、密かに核攻撃を検討し始める・・・
1954年に初代が登場して以降、東宝の「ゴジラ」シリーズは一貫してその世界観を受け継いで来た。
いや、現在までに2本作られたハリウッド版の世界観も、基本的に始めからゴジラが存在することを前提にしている点では変わらない。
ところが「シン・ゴジラ」は、1954年版以来の未知の巨大生物が歴史上初めて現れた世界、怪獣という概念すら存在しない世界を描く。
人類が予想だにしない、途轍もなく巨大な生き物が日本を襲ったら一体どうなるのか?
その時日本人はどう対応し、いかにして乗り越えるのか?
世界は存亡の危機を迎えた日本に対し、どう出るのか?
登場人物は多いが、それぞれの個人的な背景は必要最小限にしか描かれず、葛藤は全てゴジラ対策の活動と状況を通じて描かれるのみ。
極論すると、本作に描かれているのは“対怪獣シミュレーション”、それだけだ。
戦後わずか9年目に、本多猪四郎と円谷英二が創造した初代ゴジラは、甚大な犠牲を出した戦争の恐怖そのものだった。
ケロイドの様な皮膚と口から吐く放射能火炎は、ヒロシマ・ナガサキ、そして戦後の原水爆実験による核を具現化したもの。
この映画を観た当時の観客は、おそらく「戦争が怪獣の姿になって戻ってきた」と感じたのではないだろうか。
ならば、2016年のシン・ゴジラが象徴するのは、やはり日本人にとって忘れえぬ体験となった3.11の惨禍である。
最初に東京湾に出現する生物は、私たちが知る過去のゴジラと似ても似つかぬ姿をしている。
前肢が無く、鮮血のような赤い液体をエラから撒き散らしながら、後肢だけで巨大な体を押し進めるそれは、まるでウツボとトカゲを無理やり合体させたような異様な形をしており、映画史上最も醜い怪獣と言っていいだろう。
膨大な遺伝子情報を持つ地球型完全生物と位置付けられたそれは、変態を続けながら都市を蹂躙し、やがて小型の前肢を持つ二足歩行の形態となる。
劇中の登場人物が繰り返す「想定外」のセリフを聞くまでも無く、この人智を超えて変異する新たなるゴジラが、制御不能の核の象徴であることは明らかだ。
ゴジラがもう一つの3.11であるならば、何としても日本人の手で乗り越えなければならない。
本作の公開後、これがナショナリズムのプロパガンダであるという意見をいくつか目にしたが、ナンセンスである。
確かに、ここにはいわゆる”愛国的行動”をする人々が描かれている。
だが、彼らが守ろうとしているのは、どこどこの政党が率いる“日本国家”ではなく、原初の共同体としての“クニ”だ。
右だとか左だとかのイデオロギーに基づく価値観ではなく、自身と仲間の暮らしと生命を守ろうとする当たり前の努力なのである。
ゆえに、イデオロギーを想起させる表現は、極めて細やかに、慎重に避けられている。
自衛隊の活躍は描くが、政治的意味を持たれがちな日章旗や旭日旗などのシンボルは極力出てこない。
3.11後のように、国会前にデモ隊が押し寄せている描写はあるが、具体的に何を要求しているのかは聞き取れない。
日本政府の人間たちも、具体的にどの政党というよりも、いかにも現実にいそうな政治家や官僚の日本的ステロタイプとしてそれぞれが造形されている。
だから、ゴジラ出現の初期段階で、彼らが「想定外」の事態の連続に対応しきれず、右往左往を繰り返すあたりは、まるで3.11の焼き直しを見いているかのようなブラック・コメディ。
会議ばっかりやっていて、全然前へ進まないのも、良くも悪くも日本ならではのリアリティとして納得できる。
しかし現実と違うのは、本作では登場人物たちがゴジラという絶対的な脅威を前にして立ち直り、破滅の危機の中でそれぞれの立場でベストを尽くし、結果を出すことである。
ゴジラは巨大な天災であり、同時に核の歴史が作り出した人災でもあるのだが、本作の登場人物は新たな人災は作り出さないのだ。
現実の3.11を巡る対応は、我々自身である“日本”に対する大きな失望をもたらした。
我々=日本=現実はあの時失敗したが、「本来はこうあるべきだった、こう出来たはずだった」という理想形を、ゴジラという虚構との対立を通して見せてくれるのが本作であり、未曾有の危機を背景に、この国の人間のあり方を希望的に描いた物語なのである。
それゆえに、個々の内面がほとんど描かれていないにもかかわらず、「頑張れ!踏ん張ってくれ!」とフィクションを超えて登場人物たちを応援したくなるのだ。
本作のスタンスに一番近いのは、どこからどう見てもニューヨークであるゴッサムシティを舞台に、ジョーカーという絶対悪の脅迫に対して、市民たちが各々の良心によって立ち上がる「ダークナイト」かもしれない。
もちろん「シン・ゴジラ」は、第一義的にはスペクタクルな怪獣映画であって、観客は小難しい日本人論を観に行く訳ではない。
この映画には監督と名のつく人が庵野秀明と樋口真嗣、尾上克郎と3人いて、役割をどの様に分担しているのかは正確には分からない。
ただ、目まぐるしいカット割りと早口な台詞回しによるテリングは、まあ港で言われているように岡本喜八リスペクトもあるのだろうが、極めてアニメ的というか、庵野秀明の色を強烈に感じさせる。
そしてアニメと実写の違いの一つは、意図していないものは絶対に画にならないということ。
背景の雲一つとっても、必ず何らかの意味があってそこに配されているので、映像的な密度が濃くなる。
この映画の画作りはその意味でアニメの考え方に非常に近く、ディテールが息苦しいほどに濃密で観客に弛緩した観方を許さない。
また、一度聞いただけでは聞き取れない膨大な専門用語と矢継ぎ早なテロップは、物語に映画的リアリティと早いテンポを与えることに寄与している。
進撃のゴジラによる都市破壊、自衛隊+米軍とのバトルシークエンス、そして官民合同チームがゴジラ凍結のための“ヤシオリ作戦”に挑むクライマックスに至るまで、VFXというより「特撮」と言いたくなる見せ場の作り込みは圧巻。
デジタルで作られた怪獣とミニチュア破壊の巧みな融合、ここぞというところで勇ましく鳴り響く伊福部音楽と、観客が期待するものをしっかり見せ、これが紛れも無い「ゴジラ」映画なのだと主張しながら、過去に作られたいかなる作品とも異なる、新鮮なビジュアルを見せてくれる。
特に、ゴジラの体内原子炉の冷却水の役割をする血液の流れを遮断させようと、直接ゴジラの口に凝固剤を流し込む“ヤシオリ作戦”には驚かされた。
ここではゴジラの動きを止めるため、今まで数多の大怪獣に蹂躙されて来た“電車”が思いもよらない大活躍を見せる。
爆弾を積んだN700系新幹線が、何種類もの在来線が、まるで神話のヤマタノオロチの様に、次々とゴジラに襲いかかるのである。
そして、3.11の時も大活躍した数十メートルものアームを持つポンプ車が、巨大な鎌首を持ち上げゴジラの熱を奪ってゆく。
ちなみにこのポンプ車が中国から提供されるエピソードも、現実の3.11と同じ。
荒唐無稽なSF兵器の類は一切登場せず、ゴジラを“凍結”させるための血液凝固剤すら既存のものという設定だ。
自衛隊にも米軍にも倒せなかったゴジラに、有志の民間人と働く電車・車たちが立ち向かうクライマックスは、まさに本作のテーマを象徴する。
ゴジラを殺すのではなく、永遠にそびえ立つ恐怖のスタチューとなって、東京に睨みを利かすというラストも誠に秀逸。
世界有数の自然災害列島、たとえゴジラでなくても、次なる危機はいつの日かまたやって来るだろうから。
ここからはちょっとしたトリビアと私的解釈。
ある意味ゴジラよりもインパクトのある、石原さとみ演じるカヨコ・アン・パターソンの描き方はたぶん賛否の分かれところだろう。
リアリティに徹するのであれば、例えばシャーロット・ケイト・フォックスとかネイティブに演じてもらうのが一番いいのだろうが、あのキャラクターはやはりアニメ監督の矜恃というか、2次元のリアルなのだと思う。
同時に、容易に想像できる日本人のメンタリティーと意思決定プロセスと違って、“フィクション”の度合いが強くならざるを得ない、外交の描写に対するクッションの役割も果たしている。
私は最初違和感が拭えなかったが、だんだんとサトミさんがミサトさんに見えて「スキ」になってきた(笑
そして彼女が追うのがゴジラの出現を予測し、行方不明になる牧悟郎という謎めいた科学者。
このキャラクターはもちろん第1作で平田昭彦が演じた芹沢博士の裏返しなのだろうけど、なんとなく名前に聞き覚えがあった。
実はシリーズ8作目の「怪獣島の決戦 ゴジラの息子」にジャーナリストの真城伍郎という人物が出てきていて、この作品でのオチのつけ方が、ゴジラ親子の凍結(冬眠)だったので、役名を含めてオマージュと思われる。
そして本作の大きな謎が、牧悟郎はどこへ消えたのか、ゴジラはなぜ突然東京湾に現れたのかということだが、深海生物だったゴジラは牧悟郎と何らかの形で結合してしまったのではないか。
そう考えると、最後に映し出される人間の様なフォルムがいくつも突き出している尻尾の意味深な映像への一つのアンサーとなるし、人間と怪獣が融合する「ゴジラvsビオランテ」に対するオマージュとも解釈できる。
あと、今回のゴジラの設定は1992年に発表された巴啓祐の漫画、「神の獣」に登場する大怪獣オーガからのインスピレーションを強く感じさせる。
「神の獣」では、地球という一つの大きな生命の害となった人類を滅ぼすために、地球そのものと同じ体の構造を持ったオーガが出現。
言わば怪獣映画の設定で「イデオン」をやったような壮大な作品なのだが、弱点の無い地球型完全生物という設定のみならず、背中から無数のプラズマ放電を出して飛行機を撃墜したり、戦いのあとに石の様に静止してダメージを回復させたり、描写的にも符合する部分が多い。
巴啓祐はこれ一作で断筆してしまった人で、「神の獣」も絶版になって久しいのだけど、内容的には24年経った今でも全く古びてない。
平成「ガメラ」も、この漫画から設定をかなり借りてきているし、平成の日本怪獣のオリジンと言っても良いのではないか。
そろそろ再販・再評価されるべき作品だと思う。
それにしても、これほどの規模の作品が製作委員会方式ではない、映画会社の単独製作で作られたこと自体、現在の日本映画としては極めて珍しい。
本作は全体が日本的あるあるネタで構成されている上に、早口の膨大な台詞なども問題になって、海外セールスも苦戦するだろうから、なおさらリスクは分散したかったはず。
劇中で「私は好きにした。君らも好きにしろ」という牧悟郎の遺書がキーワードとなるが、これはまさにこの作品の作り手の言葉だろう。
広告代理店のくびきから解き放たれた、映画人だけで作った魂の超大作。
映画会社の矜恃として、「シン・ゴジラ」を実現させた東宝プロデュース陣にも拍手を贈りたい。
今回は、怪獣つながりで福島県二本松市の人気酒造が手がける日本酒、「人気一 純米総攻撃」をチョイス。
ゴジラの生みの親の一人である円谷英二は福島の人で、これは円谷プロと人気酒造がコラボした怪獣酒シリーズの一つ。
売り上げの一部は、3.11で被災した子どもたちのための「ウルトラマン基金」に寄贈される。
怪獣が作ってるとの設定だが、中味は人間を変異させる謎の液体とかではなく、オーソドックスな美味しい純米酒。
昭和の怪獣映画を連想させる、レトロなラベルも楽しい。
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驚きの傑作、もとい究極の自主映画とも言うべき大怪作である。
12年前、「ゴジラ FINAL WARS」で北村龍平が完膚無きまでにぶっ壊し、更地になったゴジラ映画の世界観を見事にリビルド。
「もしも現代日本に怪獣が現れたら?」というリアリティの追求は、既に20年前に平成「ガメラ」がやった。
庵野秀明はじめ本作の作り手たちは、20年の歳月の流れを盛り込みながら、この路線を極限まで突き詰める。
登場人物個人の葛藤や苦悩は全てゴジラという大災厄に巻き込まれ、ほとんど何も描かれない。
彼・彼女らは皆“日本人”という群体の各種ステロタイプとなり、通常の映画的な意味での人間ドラマは限りなくゼロに近い特異な作り。
ここにあるのは、未知の巨大生物出現というシチュエーションで、日本の中枢で何が起こるのかという徹底的なシミュレーションであり、そこから見えてくるのはある種の日本人論とこの国の形、そして大破壊の向こうにある希望なのである。
✳︎ラストを含む核心部分に触れています。
東京湾で突然大量の熱水噴出が起こり、真下を通る東京湾アクアラインのトンネルが崩落。
海は血の様な赤に染まり、大量の水蒸気を噴き出し続けていた。
日本政府は海底火山か熱水噴出孔が出来たものとして対応を始めるが、内閣官房副長官の矢口蘭堂(長谷川博己)は、地質的にそれらの事態が起こり得ないこと、ネットに市民が撮影した生物と思われる動画が複数投稿されていることから、未知の生物の存在を疑うも、一笑に付される。
だが、海面から振り上げられた巨大な尻尾と共に巨大生物が姿を現し、多摩川河口から北上すると、ついに大田区蒲田に上陸してしまう。
想定外の事態に、自衛隊出動の是非などを巡り、日本政府は混乱。
その間にも、巨大生物は海洋生物から二足歩行の陸上生物へと変態しながら市街地を蹂躙、ようやく自衛隊のヘリコプター部隊が到着した時、突如として東京湾へと戻って行った。
再びの上陸に備えた対策が急がれる中、矢口はアメリカ政府の特使・カヨコ・アン・パターソン(石原さとみ)から、数年前に今回の事態を予測していた日本人科学者・牧悟郎の存在を明かされる。
彼は生まれ故郷の大戸島の伝説から、現れるであろう生物を「呉爾羅(ゴジラ)」と命名していた。
ゴジラのエネルギー源が核分裂であることを突き詰めた矢口のチームは、ゴジラの冷却システムである血流を止め体全体を“凍結”させるべく、経口血液凝固剤を使った作戦の立案を進める。
だが、ゴジラを人類の脅威とみなした国連安保理は、密かに核攻撃を検討し始める・・・
1954年に初代が登場して以降、東宝の「ゴジラ」シリーズは一貫してその世界観を受け継いで来た。
いや、現在までに2本作られたハリウッド版の世界観も、基本的に始めからゴジラが存在することを前提にしている点では変わらない。
ところが「シン・ゴジラ」は、1954年版以来の未知の巨大生物が歴史上初めて現れた世界、怪獣という概念すら存在しない世界を描く。
人類が予想だにしない、途轍もなく巨大な生き物が日本を襲ったら一体どうなるのか?
その時日本人はどう対応し、いかにして乗り越えるのか?
世界は存亡の危機を迎えた日本に対し、どう出るのか?
登場人物は多いが、それぞれの個人的な背景は必要最小限にしか描かれず、葛藤は全てゴジラ対策の活動と状況を通じて描かれるのみ。
極論すると、本作に描かれているのは“対怪獣シミュレーション”、それだけだ。
戦後わずか9年目に、本多猪四郎と円谷英二が創造した初代ゴジラは、甚大な犠牲を出した戦争の恐怖そのものだった。
ケロイドの様な皮膚と口から吐く放射能火炎は、ヒロシマ・ナガサキ、そして戦後の原水爆実験による核を具現化したもの。
この映画を観た当時の観客は、おそらく「戦争が怪獣の姿になって戻ってきた」と感じたのではないだろうか。
ならば、2016年のシン・ゴジラが象徴するのは、やはり日本人にとって忘れえぬ体験となった3.11の惨禍である。
最初に東京湾に出現する生物は、私たちが知る過去のゴジラと似ても似つかぬ姿をしている。
前肢が無く、鮮血のような赤い液体をエラから撒き散らしながら、後肢だけで巨大な体を押し進めるそれは、まるでウツボとトカゲを無理やり合体させたような異様な形をしており、映画史上最も醜い怪獣と言っていいだろう。
膨大な遺伝子情報を持つ地球型完全生物と位置付けられたそれは、変態を続けながら都市を蹂躙し、やがて小型の前肢を持つ二足歩行の形態となる。
劇中の登場人物が繰り返す「想定外」のセリフを聞くまでも無く、この人智を超えて変異する新たなるゴジラが、制御不能の核の象徴であることは明らかだ。
ゴジラがもう一つの3.11であるならば、何としても日本人の手で乗り越えなければならない。
本作の公開後、これがナショナリズムのプロパガンダであるという意見をいくつか目にしたが、ナンセンスである。
確かに、ここにはいわゆる”愛国的行動”をする人々が描かれている。
だが、彼らが守ろうとしているのは、どこどこの政党が率いる“日本国家”ではなく、原初の共同体としての“クニ”だ。
右だとか左だとかのイデオロギーに基づく価値観ではなく、自身と仲間の暮らしと生命を守ろうとする当たり前の努力なのである。
ゆえに、イデオロギーを想起させる表現は、極めて細やかに、慎重に避けられている。
自衛隊の活躍は描くが、政治的意味を持たれがちな日章旗や旭日旗などのシンボルは極力出てこない。
3.11後のように、国会前にデモ隊が押し寄せている描写はあるが、具体的に何を要求しているのかは聞き取れない。
日本政府の人間たちも、具体的にどの政党というよりも、いかにも現実にいそうな政治家や官僚の日本的ステロタイプとしてそれぞれが造形されている。
だから、ゴジラ出現の初期段階で、彼らが「想定外」の事態の連続に対応しきれず、右往左往を繰り返すあたりは、まるで3.11の焼き直しを見いているかのようなブラック・コメディ。
会議ばっかりやっていて、全然前へ進まないのも、良くも悪くも日本ならではのリアリティとして納得できる。
しかし現実と違うのは、本作では登場人物たちがゴジラという絶対的な脅威を前にして立ち直り、破滅の危機の中でそれぞれの立場でベストを尽くし、結果を出すことである。
ゴジラは巨大な天災であり、同時に核の歴史が作り出した人災でもあるのだが、本作の登場人物は新たな人災は作り出さないのだ。
現実の3.11を巡る対応は、我々自身である“日本”に対する大きな失望をもたらした。
我々=日本=現実はあの時失敗したが、「本来はこうあるべきだった、こう出来たはずだった」という理想形を、ゴジラという虚構との対立を通して見せてくれるのが本作であり、未曾有の危機を背景に、この国の人間のあり方を希望的に描いた物語なのである。
それゆえに、個々の内面がほとんど描かれていないにもかかわらず、「頑張れ!踏ん張ってくれ!」とフィクションを超えて登場人物たちを応援したくなるのだ。
本作のスタンスに一番近いのは、どこからどう見てもニューヨークであるゴッサムシティを舞台に、ジョーカーという絶対悪の脅迫に対して、市民たちが各々の良心によって立ち上がる「ダークナイト」かもしれない。
もちろん「シン・ゴジラ」は、第一義的にはスペクタクルな怪獣映画であって、観客は小難しい日本人論を観に行く訳ではない。
この映画には監督と名のつく人が庵野秀明と樋口真嗣、尾上克郎と3人いて、役割をどの様に分担しているのかは正確には分からない。
ただ、目まぐるしいカット割りと早口な台詞回しによるテリングは、まあ港で言われているように岡本喜八リスペクトもあるのだろうが、極めてアニメ的というか、庵野秀明の色を強烈に感じさせる。
そしてアニメと実写の違いの一つは、意図していないものは絶対に画にならないということ。
背景の雲一つとっても、必ず何らかの意味があってそこに配されているので、映像的な密度が濃くなる。
この映画の画作りはその意味でアニメの考え方に非常に近く、ディテールが息苦しいほどに濃密で観客に弛緩した観方を許さない。
また、一度聞いただけでは聞き取れない膨大な専門用語と矢継ぎ早なテロップは、物語に映画的リアリティと早いテンポを与えることに寄与している。
進撃のゴジラによる都市破壊、自衛隊+米軍とのバトルシークエンス、そして官民合同チームがゴジラ凍結のための“ヤシオリ作戦”に挑むクライマックスに至るまで、VFXというより「特撮」と言いたくなる見せ場の作り込みは圧巻。
デジタルで作られた怪獣とミニチュア破壊の巧みな融合、ここぞというところで勇ましく鳴り響く伊福部音楽と、観客が期待するものをしっかり見せ、これが紛れも無い「ゴジラ」映画なのだと主張しながら、過去に作られたいかなる作品とも異なる、新鮮なビジュアルを見せてくれる。
特に、ゴジラの体内原子炉の冷却水の役割をする血液の流れを遮断させようと、直接ゴジラの口に凝固剤を流し込む“ヤシオリ作戦”には驚かされた。
ここではゴジラの動きを止めるため、今まで数多の大怪獣に蹂躙されて来た“電車”が思いもよらない大活躍を見せる。
爆弾を積んだN700系新幹線が、何種類もの在来線が、まるで神話のヤマタノオロチの様に、次々とゴジラに襲いかかるのである。
そして、3.11の時も大活躍した数十メートルものアームを持つポンプ車が、巨大な鎌首を持ち上げゴジラの熱を奪ってゆく。
ちなみにこのポンプ車が中国から提供されるエピソードも、現実の3.11と同じ。
荒唐無稽なSF兵器の類は一切登場せず、ゴジラを“凍結”させるための血液凝固剤すら既存のものという設定だ。
自衛隊にも米軍にも倒せなかったゴジラに、有志の民間人と働く電車・車たちが立ち向かうクライマックスは、まさに本作のテーマを象徴する。
ゴジラを殺すのではなく、永遠にそびえ立つ恐怖のスタチューとなって、東京に睨みを利かすというラストも誠に秀逸。
世界有数の自然災害列島、たとえゴジラでなくても、次なる危機はいつの日かまたやって来るだろうから。
ここからはちょっとしたトリビアと私的解釈。
ある意味ゴジラよりもインパクトのある、石原さとみ演じるカヨコ・アン・パターソンの描き方はたぶん賛否の分かれところだろう。
リアリティに徹するのであれば、例えばシャーロット・ケイト・フォックスとかネイティブに演じてもらうのが一番いいのだろうが、あのキャラクターはやはりアニメ監督の矜恃というか、2次元のリアルなのだと思う。
同時に、容易に想像できる日本人のメンタリティーと意思決定プロセスと違って、“フィクション”の度合いが強くならざるを得ない、外交の描写に対するクッションの役割も果たしている。
私は最初違和感が拭えなかったが、だんだんとサトミさんがミサトさんに見えて「スキ」になってきた(笑
そして彼女が追うのがゴジラの出現を予測し、行方不明になる牧悟郎という謎めいた科学者。
このキャラクターはもちろん第1作で平田昭彦が演じた芹沢博士の裏返しなのだろうけど、なんとなく名前に聞き覚えがあった。
実はシリーズ8作目の「怪獣島の決戦 ゴジラの息子」にジャーナリストの真城伍郎という人物が出てきていて、この作品でのオチのつけ方が、ゴジラ親子の凍結(冬眠)だったので、役名を含めてオマージュと思われる。
そして本作の大きな謎が、牧悟郎はどこへ消えたのか、ゴジラはなぜ突然東京湾に現れたのかということだが、深海生物だったゴジラは牧悟郎と何らかの形で結合してしまったのではないか。
そう考えると、最後に映し出される人間の様なフォルムがいくつも突き出している尻尾の意味深な映像への一つのアンサーとなるし、人間と怪獣が融合する「ゴジラvsビオランテ」に対するオマージュとも解釈できる。
あと、今回のゴジラの設定は1992年に発表された巴啓祐の漫画、「神の獣」に登場する大怪獣オーガからのインスピレーションを強く感じさせる。
「神の獣」では、地球という一つの大きな生命の害となった人類を滅ぼすために、地球そのものと同じ体の構造を持ったオーガが出現。
言わば怪獣映画の設定で「イデオン」をやったような壮大な作品なのだが、弱点の無い地球型完全生物という設定のみならず、背中から無数のプラズマ放電を出して飛行機を撃墜したり、戦いのあとに石の様に静止してダメージを回復させたり、描写的にも符合する部分が多い。
巴啓祐はこれ一作で断筆してしまった人で、「神の獣」も絶版になって久しいのだけど、内容的には24年経った今でも全く古びてない。
平成「ガメラ」も、この漫画から設定をかなり借りてきているし、平成の日本怪獣のオリジンと言っても良いのではないか。
そろそろ再販・再評価されるべき作品だと思う。
それにしても、これほどの規模の作品が製作委員会方式ではない、映画会社の単独製作で作られたこと自体、現在の日本映画としては極めて珍しい。
本作は全体が日本的あるあるネタで構成されている上に、早口の膨大な台詞なども問題になって、海外セールスも苦戦するだろうから、なおさらリスクは分散したかったはず。
劇中で「私は好きにした。君らも好きにしろ」という牧悟郎の遺書がキーワードとなるが、これはまさにこの作品の作り手の言葉だろう。
広告代理店のくびきから解き放たれた、映画人だけで作った魂の超大作。
映画会社の矜恃として、「シン・ゴジラ」を実現させた東宝プロデュース陣にも拍手を贈りたい。
今回は、怪獣つながりで福島県二本松市の人気酒造が手がける日本酒、「人気一 純米総攻撃」をチョイス。
ゴジラの生みの親の一人である円谷英二は福島の人で、これは円谷プロと人気酒造がコラボした怪獣酒シリーズの一つ。
売り上げの一部は、3.11で被災した子どもたちのための「ウルトラマン基金」に寄贈される。
怪獣が作ってるとの設定だが、中味は人間を変異させる謎の液体とかではなく、オーソドックスな美味しい純米酒。
昭和の怪獣映画を連想させる、レトロなラベルも楽しい。

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