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冒頭に映し出される青リンゴのロゴ。
1995年の「ザ・ビートルズ・アンソロジー」以来、実に21年ぶりにリリースされた英Apple Corps公式作品。
ビートルズがライブバンドとしてツアーしていた63年から66年を中心に、世界を熱狂させ音楽史に絶大な影響を与えた彼らが、ライブ活動を終了するまでを描く長編ドキュメンタリーだ。
ジョン・レノンとポール・マッカートニーがどのように出会い、やがてジョージ・ハリソン、リンゴ・スターが加わってビートルズになっていったのか。
誰もが知っている名曲の数々が、どうやって作られていたのか。
リバプールのキャバーン・クラブで歌っていた時代から、大衆の前での最後の公演となったサンフランシスコのキャンドル・スティック・パークでのコンサートまでの濃密過ぎる時間。
彼らは世界に何をもたらし、なぜ人気絶頂でライブ活動を止めざるを得なかったのだろう。
60年代当時、ビートルズのコンサートをその目で目撃した人々の証言が印象的だ。
貧しい家庭環境にも関わらず、母親が無理をしてシェイ・スタジアムに連れて行ってくれたというウーピー・ゴールドバーグ。
ジョージ・ハリソンへのLOVEを、まるで少女の様な潤んだ目で語るシガ二―・ウィーバー。
そして時は公民権運動の時代、ビートルズは差別主義の牙城、南部諸州のコンサート会場での人種隔離を拒否する。
彼らのコンサートで、初めて白人と一緒の空間にいた、皆同じように音楽を楽しんでいたという証言が心に残る。
日本公開時には、今ではコンサートのメッカともいえる日本武道館の使用に右翼が反発し、反ビートルズ活動をしていたというのも面白い。
街宣車の上で演説していたのは赤尾敏だろうか。
いずれも音楽を通じた既成概念の打破であり、社会変革であり、やはり時代に求められた人たちだったのだろう。
「ラッシュ/プライドと友情」「アポロ13」など、実話ものを撮ると非凡な才能を発揮するロン・ハワード監督と、ドキュメンタリーの相性は抜群。
時系列に沿ったコンサート・シーンを軸にした構成は巧みで、ビートルマニアたちの熱狂がダイレクトに伝わってきて、まるで自分がその場にいるかのような臨場感だ。
まあ、どの会場でもあの熱気と金切り声の波に迎えられたら、歌っている方もだんだんと麻痺して、最後には「もうやってられないよ」となるのは分かる気がする。
というか、基本的にパフォーマーというよりも音楽を創ることが一番好きな人たちが、よくあの状態を何年も続けられたものだ。
当時のコンサートは今よりだいぶ短くて、前座を除けばだいたい3、40分くらいだったのも、彼らが耐えらえた要因だったのかもしれないな。
しかし心底凄いなと思ったのは、作中で何十曲もかかるのに、知らない曲が一つもなかったこと。
ビートルズのアルバムは何枚か持っているし、昔ポールのコンサートにも行った。
活動中に作られた映画は一応全部観ている。
けれど決して熱狂的なビートルズファンという訳ではない私でも、どの曲も知っているし、耳が覚えているのである。
劇中の「モーツァルト以来の、全ての作品が名作のミュージシャン」という言葉にも、納得せざるを得ない。
本作の劇場公開版のみ、音楽史上初めての野球場コンサートを記録した「the Beatles in Shea Stadium」のデジタルレストア版が同時上映となる。
映像・音楽とも半世紀前のものとは思えないくらい美しく修復され、パブリックビューイング感覚を味わえるので、ファンには垂涎ものだろう。
ところで、ビートルズの出演作ではなくても、彼らをモチーフにした映画は多い。
私はその中でも、本作にも描かれた64年の北米ツアーのために、ニューヨークにやって来たビートルズを一目見ようと奮闘する、田舎の若者たちを描いた「抱きしめたい」が好きだ。
これロバート・ゼメキスのデビュー作で1978年の作品なのだが、日本公開はエグゼクティブ・プロデューサーを務めたスピルバーグのバブルだった四年後の82年。
実に面白い映画なのだが、国内では未だDVD未発売なのだ。
ビートルズファンにとっても興味深い映画だと思うのだが、そろそろどこか出してくれないかねえ。
ビートルズと言えばリンゴ。
本作の製作元もApple Corpsなので、今回はリンゴの蒸留酒、ブラー社の「グランソラージュ カルヴァドス」をチョイス。 アップル・ブランデーの一種だが、フランスのカルヴァドス県で作られる二年以内のシールドを蒸留して作られた酒のみが、カルヴァドスを名乗る事を許される。 豊かなリンゴの香りが最大の特徴で、ある程度の歳月を経た物の方がマイルドなコクを味わえるのは普通のブランデーと同じ。 若い物はスパークリングウォーターで割ったり、カクテルベースにしてもいい。

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2009年1月15日、マンハッタン島の西側を流れる極寒のハドソン川に、鳥との衝突によって両エンジンの推力を失ったUSエアウェイズ1549便のエアバスA320が不時着水した。
過去に起こった同様の事故では、ほとんどのケースで多くの犠牲者が出ており、乗員乗客155名全員の生還劇は本作の邦題にもなっている「ハドソン川の奇跡」として、全世界のマスコミで大きく報道されたのは記憶に新しい。
この事故で一躍全米の英雄となったのが、“完璧な着水”を成功させたチェズレイ・サレンバーガー機長だ。
元アメリカ空軍のパイロットで、実に40年に渡るキャリアを持つ機長は、冷静沈着なキャラクターもあって、プロフェッショナルの鏡として時代の寵児となる。
しかし、世間の関心が集中する中、彼自身はどういう心境だったのか。
原題はサレンバーガー機長の愛称「Sully」。
本作は、あの事故によって図らずも英雄に祭り上げられた、機長の内面を紐解く物語になっている。
自分の決断が本当に正しかったのか、彼の葛藤の軸になるのは「空港に引き返せなかったのか?」という疑問。
事故調査を担当する国家運輸安全委員会(NTSB)は、コンピューターシミュレーションと、パイロットによるフライトシミュレーターで検証を行い、そのどちらでも空港に引き返し無事に着陸することが可能だったと主張。
実際にコックピットにいた機長は、その結果に納得できないのだが、もしかしたら自分が間違っていたのかもという疑念にかられ、飛行機を市街地に墜落させる悪夢に苛まれる。
この事故の顛末はナショナル・ジオグラフィックTVのドキュメンタリー・シリーズ、「メーデー!」の「ハドソン川の奇跡」の回で詳しく解説されていたが、そちらではシミュレーションの件は事故調査の初期に浮かんだ小さな疑問という扱いだった。
調査にかかる膨大な時間を含めた事故全体でなく、機長のプロフェッショナルとしての仕事の責任にフォーカスした作品だから、ここが軸になり得る。
ただ、ドラマ性を高めるためだろうが、作劇上NTSBを機長を貶めようとする“悪役”に近い扱いにした事には疑問が残る。
彼らは彼らで事故のあらゆる要因を追求し、空の旅の安全性を向上させるプロフェッショナルであり、パイロットの過失の可能性を考え、追求するのは当たり前のこと。
最後にフォローはあるものの、彼らをやり込めることに物語のカタルシスに感じさせるのではなく、ここはもう少し引いた視点で描いても良かったと思う。
まあ、結末は分かっているし、色々あってもプロフェッショナルとして責任を全うし、正しい行いをした者は報われる。
今まで、様々な切り口で「正義とは?英雄とは?」を描いてきたイーストウッド作品としては非常にストレート。
言いたい事がシンプルだから、尺も96分と近年の作品群の中ではダントツに短い。
イーストウッドの前作、「アメリカン・スナイパー」は死をもたらす英雄と、彼自身の死を描いたレクイエムだったが、こちらは人々を救った英雄が報われる話となり、2本で完全な対照を形作る。
アメリカの未来にエールを贈る様な、気持ちの良い作品だ。
ナショナル・ジオグラフィックTVのドキュメンタリー版「ハドソン川の奇跡」と、おそらく同じ事件から着想しているであろう、ロバート・ゼメキス監督の「フライト」と合わせて観るとより面白い。
今回は舞台となる「ニューヨーク」の名を冠したカクテルを。 ライまたはバーボンウィスキー45ml、ライムジュース15ml、グレナデン・シロップ1/2tsp、砂糖1tspをシェイクしてグラスに注ぎ、オレンジピールを絞りかけて完成。
濃厚なウィスキーとライムは実によく合い、甘酸っぱくて微かにほろ苦い。 苦難を乗り越えて前に進む、大人のカクテルだ。

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「悪人」の、李相日と吉田修一のタッグ再び。
一件の殺人事件から始まる物語は、一年後に三つに枝分かれ。
東京、千葉、沖縄に忽然と姿を現した三人の男を巡る、オムニバス的な構成のミステリアスな群像劇が展開する。
タイトルの「怒り」の対象とは何か?
これは人が人を愛するときに生まれる、様々な感情の帰結する先を描く、非常にパワフルでヘビーな人間ドラマ。
渡辺謙、宮崎あおい、松山ケンイチ、妻夫木聡、綾野剛、森山未来ら日本を代表する名優たち、そしてオーディションで役を掴み取ったという広瀬すず、佐久本宝らの新世代。
俳優たちの情念の演技が激突する時、えもいわれぬエモーションがスクリーンから迸る。
※完全ネタバレ。核心部分に触れています。
ある夏の日、八王子の民家で凄惨な殺人事件が起こる。
窓が閉め切られ、蒸し風呂のようになった浴室には、惨殺された夫婦の遺体と共に「怒」の血文字が残されていた。
犯人は顔を整形手術し、別人となって捜査の網を掻い潜り、逃亡を続ける。
そして一年後、千葉と東京と沖縄に、時を同じくして素性の知れない三人の男が姿を現す。
千葉では、家出して東京の風俗店で働いていた愛子(宮崎あおい)が父の洋平(渡辺謙)に連れ戻されて帰郷。
彼女は二ヵ月前にふらりとやって来て、漁港で働き始めた田代(松山ケンイチ)と出会い、恋に落ちる。
東京では、エリートサラリーマンの優馬(妻夫木聡)が、同性愛者の集まるクラブで直人(綾野剛)と関係を持つ。
優馬は過去を語りたがらない直人を家に迎え入れ、同棲を始める。
同じころ沖縄では、男関係でトラブルを起こした母と、逃れるようにして引っ越して来た高校生の泉(広瀬すず)が、無人島でバックパッカーの田中(森山未来)と鉢合わせする。
一年前の事件を追う警察は、整形後の手配写真を公開するが、その写真は三人の男それぞれに、どこかが似ていた。
千葉、東京、沖縄で、人々の心に疑念が湧き上がる・・・・
日本映画奇跡の年、2016年の傑作群にまた一本。
分かっていたけど、やはり李相日は凄い。
142分の長尺を全く感じさせない、ち密な筋立て、パワフルなテリングに圧倒された。
凄惨な殺人事件の一年後、日本の三か所に表れた三人の男を巡る三つの物語は、直接は交錯しない。
逃亡劇のモデルになっているのは、おそらく映画化もされた市橋達也事件だろう。
犯人の手配写真にどこか少し似ているということが発端となって、三人の男を愛する人間たちが、少しずつ疑念を募らせてゆくのだが、犯人探しのミステリの体裁は保ちながらも、描かれるのはむしろ、人を愛し信じることの難しさと尊さ、そして恐ろしさだ。
表面的な「面白さ」の奥底にテーマを潜ませるのは、殺人犯の逃避行をモチーフに、本当の悪人とは誰なのか?という人間社会の深層を描き出した秀作、「悪人」とも共通する。
独立した三つの物語は、それぞれが単独でも映画になりそうな濃密さ。
千葉に表れた“田代”は、漁協で働く洋平の娘、愛子と恋に落ちる。
このエピソードは、家出して歌舞伎町の風俗店で働く愛子を、洋平が連れ戻しに行くシーンから始まる。
8年前に洋平が妻を亡くして以来、父娘の間にはわだかまりが出来ているらしく、洋平はどこかで愛子を信じられず、彼女の様な娘は幸せになれないと思っている。
だから、愛子が田代と暮らしたいというと、驚きつつも受け入れるのだが、今度は手配書を見た愛子自身が、田代を信じられなくなってしまう。
人間は自分以外の存在をどこまで信じられるのか、愛の前に立ちはだかる大きな難問に、父娘は直面するのである。
東京を舞台に描かれるのは、同性愛者のカップルの物語だ。
大手企業に勤める優馬は、ある夜関係を持った“直人”を家に招き入れ、同棲をはじめる。
エリートであり、同性愛者であることもある程度オープンにしている優馬にとって、レジ袋の中で斜めになってしまった弁当を一生懸命直そうとする直人は、どこか頼りない守るべき存在。
しかし、素性を明かさない直人に、ある事が切掛けになり嫉妬心を抱き、次いで手配写真を見てしまったことで疑念にかられる。
時を同じくして直人が失踪。
突然警察からかかってきた電話に、彼が犯人である事を確信した優馬は、保身のために無関係を装うのだ。
優馬の愛は、嫉妬と猜疑心によって崩壊してしまうのである。
沖縄に表れた“田中”を巡る物語は、他の二つの物語と明確に構造が異なる。
千葉と東京の物語は、男と女、男と男の愛に関する物語だ。
しかし田中は、少なくとも恋愛の対象にはならない。
無人島でキャンプしていた田中と出会う泉は、男関係にだらしない母と、夜逃げ同然で沖縄にやって来た母子家庭の娘。
彼女が田中に対して抱いているのは、年上の自由な男性への憧れに似た感情だろう。
泉には、彼女に対して恋心を募らせている辰哉という同級生がいる。
三人が友だち関係になった時に、泉が辰哉の目の前で米兵にレイプされるという痛々しい事件が起こり、泉は心を閉ざしてしまうのである。
彼女を救えなかったことで自己嫌悪に陥った辰哉にとって、同じ罪を共有する田中の存在は救いであり、ある種の共犯者だと思っている。
だから辰哉が全ての真相を知った時、彼らの物語は残酷な結末に向かって、一気呵成に動き出すのである。
信じて欲しかった者は信じられず、信じるに値しない者が信じられてしまう悲劇。
それぞれの物語は完全に独立しているが、細切れ化ギリギリの巧みな編集構成と、話が切り替わりる時点で映像と音声をクロスさせ、ボイスオーバーを駆使することによって、全体を一つの作品とし、重層的なテーマを浮かび上がらせている。
タイトルの「怒り」は、殺人事件の犯人である田中が、この世の全てに対して抱いている抑えがたい感情であり、衝動だが、それは結局もっとも鋭いブーメランとなって彼に戻ってくる。
この感情がフィーチャーされるのは、三つの物語の中でも沖縄だけ。
犯人を他のどこでもなく、基地問題で揺れる沖縄に逃亡させたのには明らかに意味がある。
田中も、泉も、辰哉も、沖縄そのものもそれぞれに別種の怒りを抱えた存在だ。
もちろん他のエピソードの登場人物の中にも怒りはあるが、それは愛や疑念、恐れと言った感情に対して、相対的に小さい。
むしろ浮かび上がるのは、坂本龍一によるテーマ曲のタイトルでもある「許し」の感情だ。
前作が「許されざる者」だったから、今回は許しまでを描いたという訳か。
本作は、冒頭の殺人現場に残された「怒り」の血文字から「許し」のテーマ曲へと向かう物語だが、沖縄の物語だけは怒りが解消されるわけでも、許されるわけでもない。
ハッピーエンドと言える千葉の物語と、後悔と共にではあるが葛藤に一応の決着を見る東京の物語、対してラストカットの誰にも届かない泉の魂の叫びは、この世界の不条理と残酷さを象徴している。
李相日作品の例に漏れず、この映画も役者が皆さん素晴らしいが、特に宮崎あおいの凄みを改めて感じた。
そしてベテランの名優たちに混じって、広瀬すずは昨年の「海街diary」から「ちはやふる」そして本作と、名監督たちに愛されここ一年で演技者として物凄く成長したのじゃなかろうか。
辰哉役の佐久本宝が、またいい面構えでインパクト大。
なかなか楽しみな逸材が出てきた。
今回は沖縄の泡盛を使ったカクテル「泡盛モヒート」をチョイス。
泡盛の老舗「残波」の推奨レシピは、氷を入れたグラスに残波の白45ml、レモン汁20ml、シロップ10mlを注ぎ、かき混ぜる。
叩いたミントを入れ、適量のソーダを注いだら、最後に手の平でミントの葉を叩いて更にトッピング。
泡盛のほのかな甘みにミントの香りが爽やかな、ドライで夏向きの一杯だ。

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生きることの苦しさと喜びを、青春の切ないきらめきの中に綴った、大今良時の同名傑作コミックのアニメーション映画化。
主人公の少年が聾唖の少女へのいじめを繰り返し、自ら孤立してゆく少小学生時代と、二人が再会してからの高校時代が描かれる。
これは幼さゆえに取り返しのつかない罪を犯した少年が、生きることの意味に向き合い、自分と世界を取り戻すまでの物語。
原作コミックも素晴らしかったが、映画も凄い。
京都アニメーションの若きエース、山田尚子監督の現時点でのベストだ。
もちろん、全七巻の内容を巧みに取捨選択し、129分でキッチリまとめ上げた吉田玲子の脚本の上手さもあるが、31歳の若さでこれ程の密度と完成度の作品を仕上げるとは末恐ろしい。
小学六年の石田将也(入野自由)は、転校生の西宮硝子(早見沙織)の耳が聞こえないことを知り、彼女をいじめることで大嫌いな退屈から逃れる。
ところが、いじめが原因で起こったある事件が切っ掛けとなり、一転して彼自身がいじめの対象になってしまう。
やがて硝子も再び転校し、一人残された将也は心を閉ざす。
数年後、高校生になった将也は相変わらず周囲から孤立したまま。
自分自身への嫌悪感から自殺を決意した将也は、その前に一言謝罪しようと手話を覚え、硝子の元を訪れる。
ところが、久しぶりに会った硝子の反応は意外なもので、二人はお互いに対する複雑な想いを抱えたまま「友だち」として再出発をはかることになるのだが・・・・
聾唖の少女へのいじめから始まる物語は、相当に痛くて苦しい。
この作品では、誰かを傷つければ必ずブーメランになって返ってくるのだから尚更だ。
小学六年生時の将也は、同世代の子供のなかでも幼く造形されている。
彼の最大の関心は「退屈しないこと」で、硝子へのいじめは、川に飛び込む度胸試しや、ビデオゲームをプレイするのと同じ次元なのだ。
耳の聞こえない彼女は「自分たちとは違う存在」、という勝手な認識が無感情な行為を助長する。
相手の気持ちや痛みを理解するほど、彼は成長してないのである。
だから、シングルマザーの母親が、壊した補聴器に対する巨額の賠償金を引きだし、札束という“カタチ”を見せつけられて初めて、自分のしたことの重大性を認識するのだ。
札束が与えたインパクトは、後日高校生になった将也が同額を母親に返済することにも表れている。
自分のしたことへの認識の変化は、外部からのいじめと、深刻な自己嫌悪として将也を襲い、彼はそれまでの粗野だが快活なガキ大将から、一転して精神的な引きこもりへと変貌してゆく。
以来、将也には同級生たちの顔にバツ印が貼られて見え、表情が分からなくなるのだが、この原作由来の表現はなかなかに映画的だ。
将也以外の登場人物も、皆どこかで傷つき、大なり小なり罪を抱えて生きている。
小学校の同級生だった上野直花は、将也への恋心を抱きつつ、自分も硝子に対する嫌がらせを行っていたがゆえに、いじめられる将也を救うことが出来ない。
優等生キャラの川井みきは、自己保身のためにいじめと無関係を装うが、自分の行いから逃れることは出来ず、せっかく再生しつつあった友達の関係をバラバラにしてしまう。
硝子の妹の結弦は姉に対する世間の無常を見て育ち、硝子がいつか自ら命を絶つのではないかと恐れ、彼女を生に繋ぎとめるために死をモチーフとした写真を撮り続けている。
そして硝子もまた、単に純粋無垢な存在とは造形されていない。
彼女は自身に対する好奇と嫌悪の目から逃れるために、常に愛想笑いを浮かべて本心を見せず、誰とも向き合わない。
自己嫌悪を押し殺し、素の感情を心に引きこもらせているという点で、彼女は高校生の時点で将也と似た者同士なのである。
小学生から高校生への心の成長によって、登場人物たちは自分のことだけでなく、相手のことを考えられるようになる。
それは同時に自らの罪を罪として認識する時間でもあり、小学生の時には結べなかった絆を育むことが出来るようになっている反面、幼かった葛藤もまた心の中で育ち、他者の見えない想いと複雑に絡み合う。
本作で描かれるのは、子供の時代に生まれ封印されてきた葛藤が、再びの出会いとむき出しの感情の激しいぶつかり合いの末に解消し、登場人物たちのなかで世界が生まれ直す物語なのである。
原作を読んだとき、この内容なら実写作品でもいけるだろうなと思っていたが、結果的にはやはりアニメで良かった。
生々しく超ヘビーな物語を、京アニらしいリリカルな世界観、軽やかな演出のタッチが救っている。
カラフルで光に満ちた四季の情景、浅い被写界深度を巧みに使った視点の誘導、やわらかな主線の表現で描かれる繊細なキャラクター。
丁寧な仕事からは、この作品に最も相応しい画作りを追求したことが伝わってくる。
ちなみに原作では、主要な登場人物たちが皆で自主制作映画を作るプロセスが、後半の物語の背景になっているのだが、映画版ではこの設定がバッサリ切られている。
映画作りは彼らの進路と密接に関わってくるのだけど、映画のオチのつけ方が原作と違うので、この改変は正解だと思う。
永遠に下を向いて生きる訳にはいかず、真摯な贖罪にはいつか許しがくる。
犯した罪によって自分を嫌い、周りの目を避けてきた将也が、相手の顔を見て真剣にその心を理解しようとする時、顔のバツ印だってはがれてゆく。
本作が秀逸なのは、硝子が聾啞であることを葛藤の原因にせず、やった方であれやられた方であれ、誰もが何らかの経験を持つ「いじめ」を起点として普遍性を持たせたことだ。
障がいを描いた作品と捉えられがちだが、これは硝子が聾唖でなくても、外国人でも、他の身体的な障がいでも、いや例えばちょっとした容姿の特徴だったり、ほんのわずかでも「自分たちと違う」という部分があれば成立してしまう物語なのである。
だから観客も逃げられない。
どんな差別もしませんという人も、他人に対する嫌悪と不寛容の心は必ず抱えている。
「だって身に覚えがあるでしょう?」
物語を通して、そのことを突きつけられた観客は、登場人物と共に苦しみながらも、彼らの一員となった感覚で、自らも葛藤せざるをえないのである。
将也の義兄が外国人だったり、これも十代の小さな世界で多様性を描く物語でもある。
今回は、舞台となる岐阜県大垣市の地酒、江戸時代から続く伝統ある酒蔵、三輪酒造の「道三吟雪花 純米吟醸」をチョイス。
映画が相当な辛口だったので、お酒もこの地方らしい淡麗辛口。
喉ごしスッキリ、味と香りとコクの三位一体のバランスが良く、食前酒にも食中酒にも使え、料理も選ばないオールマイティーな酒だ。
きりりと冷やしていただきたい。
ところで永束君はいきなり3万も貸そうとしたり、不良にパクられそうになってた自転車は14万円以上するBIRDYっぽかったし、実は凄いお金持ち設定なんだろうか。
原作でも彼の家は出てこなかったけど。

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第73回アカデミー短編アニメーション賞に輝いた、マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィットの代表作「岸辺のふたり」は、小さなボートに乗っていずこかへと去った父を待ち続ける少女の物語だ。
幼い少女が大人になり、家族を持ち、やがて年老いてゆく円環する人生の物語が、自転車の回転する車輪に象徴され、一切の台詞を排した8分間で描き切った傑作だ。
本作は、主人公の男が海で遭難するシーンから始まり、ある意味「岸辺のふたり」第2章とも言える作品となっている。
モチーフ的に、公開中の「ソング・オブ・ザ・シー 海のうた」に通じるものがあるのも面白い。
絶海の孤島へと流れついた男は、自生している竹を編んで筏を作り、島からの脱出を試みるものの、姿を見せない何ものかによって筏を壊されて島へと逆戻り。
筏作を作っては壊されるというプロセスは繰り返され、ついに3度目の挑戦の時に、男は筏を壊していたのが巨大な赤いウミガメであることを確信するのである。
労力を無にされた男は怒り、ウミガメが岸に上がったところを襲い、ひっくり返りして殺してしまう。
しかし、興奮が収まるにしたがって、罪悪感にかられた男はウミガメを蘇生させようとするのだが、不思議なことにウミガメの死体は若い女の姿となって蘇り、男はこの不思議な女と島で暮らすことを決意する。
前作の10倍となる80分の長編作品だが、こちらも台詞は無く、登場人物もわずかに3人。
物語の寓話性はさらに高まり、描かれていることが現実なのかを含めて、事実として明示されている事象は少ない。
例えば、男の脱出を執拗に邪魔するのは何ものなのか。
シンプルに考えれば男がウミガメに魅入られ、彼女が邪魔をしていたということなのだろうけど、劇中ではウミガメが筏の下に潜ったという以上のインフォメーションは語られない。
男がウミガメを殺してからの異種婚姻譚の展開も、深読みすればすべて男の孤独と罪悪感が生み出した妄想という捉え方もできるだろう。
まあ物語の解釈に関しては、この作風ならいくらでも屁理屈をこねられるので、スクリーンに映し出されていることをそのままイメージとして受け取ればいいのだと思う。
ゆったりとした映像の流れに身を任せて見えてくるものは、おそらく観客自身の心象風景なのだ。
私は、このリリカルで魅力的な異種婚姻譚に、愛に関するこの世界の理を見た。
嵐に巻き込まれ男が、島に打ち上げられるのはある種の生まれ直し。
そして彼は海から来た愛の象徴たるウミガメの精霊によって、隔絶した理想郷に留め置かれる。
やがて二人は新たな命を授けられ、成長した息子は理想郷から旅立って行くが、主人公自身はもはやそこから出て行く理由がない。
男の奇妙な人生が体現する人間の命のサイクルもまた、大自然の中で繰り返される無数の連環の一つに過ぎず、男を生まれ直させた海も、時として津波を起こして命を根こそぎ奪い取る。
「どこから来たのか どこへ行くのか いのちは?」というコピーは、詩人の谷川俊太郎が本作に寄せた詩の一節。
上映時間80分は、観客それぞれがこの問いに対してアンサーを見つけるまでの時間と言えるのではないだろうか。
本作の主人公は、ずっと島から出ない、どこにも行かない(行けない)。
それでも人間は遠大なる時間の中で、果てしない旅をしているのである。
極力シンプルなストーリー、テリングのなかで、行動だけ擬人化された蟹さんたちが可愛く、いいアクセントになっていた。
今回は、海をイメージしたカクテル「オーシャンブルーフィズ」をチョイス。
氷の入ったグラスにブルーキュラソー10ml、ウオッカ15ml、レモンジュース5mlを注ぎ、サイダー125mlを加えて軽くステアする。
適度な甘みに、レモンの酸味が爽やかさを演出。
飲みやすく、南国の澄んだ海を思わせる、目にも涼しいカクテルだ。

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「エターナル・サンシャイン」「ムード・インディゴ うたかたの日々」など、ユニークな映像表現で多くのファンを持つミッシェル・ゴンドリー監督が、自らの原点を描いた半自伝的な青春ロードムービー。
14歳の夏休み、個性を追い求めるアーティスト肌の主人公は、機械いじりの得意なクラスメイトと親友になり、廃品を集め手作りした“動くログハウス”で、広大なフランスを巡るグランド・ツーリングに出る。
旅立ちの動機は未知の世界への好奇心、日常の閉塞、そして幼い恋。
男の子なら誰もが記憶にある、少年時代の記憶の断片を散りばめた普遍的な物語で、思春期のビジョンクエストは、ワクワクする冒険の香りでいっぱいだ。
※ラストに触れています。
ベルサイユに住むダニエル(アンジュ・ダルジャン)は、絵の得意な14歳。
彼は女の子の様な可愛らしい風貌のために、クラスメイトからなにかといじられている。
ある日、ダニエルは転校してきたテオ(テオフィル・パケ)と出会う。
彼は目立ちたがり屋で、機械いじりが趣味のちょっと変わった男の子。
クラスでもちょっと浮いた存在の二人は、すっかり意気投合し、夏休みに日常から脱出するために、廃品を集めて実際に動く“車”を作り始める。
遂にやって来た夏休み、警察の目をごまかすために、一見すると小さなログハウスにしか見えないデザインで完成した車は、300キロ南の避暑地・モルヴァンを目指して走り始めるのだが・・・
これ好きだなあ。
14歳の夏、日本で言えば中二の夏休み。
中二病なんて言葉もあるが、何気に創作を生業にする人には、この時期に覚醒したというケースが多い。
ジェームズ・キャメロンは14歳でキューブリックにはまり、映画監督を志したというし、尾田栄一郎は中二で本格的に漫画を描き始めたのだそうな。
おそらくゴンドリーにとっても、この年齢は人生の分岐点だったのだろう。
まだ大人ではなく、かといってもう子供でもない。
境界の存在である14歳の少年の心は、未来への希望と不安が入り混じった漠然としたモヤモヤでいっぱいだ。
自分の可能性は無限で、何者にもなれるという根拠のない自信が湧き上がる一方で、結局何も出来ない大人になってしまうのではないかという悲観が顔を見せることも。
主人公で、作者の分身であるダニエルは、まさにそんな思春期の混沌の中にいる。
一見すると女の子に見える長いブロンドの美少年は、容姿をからかわれたくはないのだけど、他の少年たちの様なショートヘアにするのは「個性がなくなる」と拒否する。
彼は他の誰かと同じ、平凡な自分が嫌なのだ。
だから承認欲求が強く、早く特別な何者かになりたくて、描きためた絵でささやかな個展を開いたりもする。
たぶんクリエイター系の職業についている人の多くが、大なり小なりダニエルと似た少年時代を過ごしてきたのではないだろうか。
私もこんな美少年ではなかったけど、ちょっと自意識過剰で背伸びしがちな彼にはどっぷり感情移入してしまったよ。
当然、このキャラクターではクラスの中で浮いてしまうのだけど、ダニエルの場合は上手い具合に馬が合うテオと出会えた。
この二人、変わり者なのは同じだが、性格や家庭環境は対照的。
シングルマザーに育てられ、ロックな兄貴と歳の近い弟のいるダニエルは、プライドが高く、傷つくことが怖い、色々な意味でちょっと奥手。
一方、お調子者で物怖じしないテオの家庭は、母親は闘病中で子供に関心のない父は骨董商としてギリギリの生活。
互いに異なる葛藤を抱え、ちょうど凹凸の様に絶妙にかみ合った二人は、日常から脱出すべく二人の才能を組み合わせた車を作り始める。
廃品を集め、機械の部分はテオが主導して組み立て、警察の目をごまかすためのユニークなデザインはダニエル。
映像的にはわりと抑え目な本作だが、手作りの動くログハウスのワクワクするビジュアルは、まさにゴンドリーの世界。
子どもの頃に作った秘密基地の発展系で、あんなので旅をしたら最高に楽しそうだ。
テオみたいな器用な友だち欲しかったなあ。
二人の夢の車による冒険の波乱万丈も、あくまでも実際に起きそうな程度に抑えられているのも上手い。
大陸を巡るグランド・ツーリングは、ダニエルとテオにとって初めての誰からも束縛されない自由な時間、自由な経験。
他人の庭に侵入しちゃったり、なぜか日本語が飛び交う怪しげな風俗店に入って“サムライカット”にされちゃったり、ロマ人のキャンプの近くに停めたばかりにヘイトクライムの巻き添えをくったり。
全て少年たちにとっては未知の体験で大いに刺激的だけど、決して荒唐無稽ではないのだ。
そして、ひと夏の冒険の終わりの日常への回帰は、ちょっとだけ成長した二人に、予期せぬ喪失と新たな旅立ちというちょっとビターな結末をもたらすのである。
本作はいわゆるバディものの構造を持っているが、基本の視点はあくまでゴンドリーの分身であるダニエルに置かれている。
彼の行動原理、そして旅の目的の根底に、同級生のローラへの恋心があるのも良い。
まだお互いの心の内を見抜くほど洞察力はなく、好きだからこそ行動する勇気も持てず、願望と妄想を募らせるだけ。
二人のさりげない心理描写の積み重ねがあるから、最後の最後に男女の視点を逆転させる描写のセンスの良さが際立つ。
旅の行程を恋路に見立てるのは、少年たちならぬ大人のグランド・ツーリングを描いたクロード・ルルーシュの「男と女」にも通じるフランスのエスプリ。
これはミッシェル・ゴンドリーの原点にして、この作家の良さがストレートに楽しめる作品で、今年公開の映画では「シング・ストリート 未来へのうた」と並ぶ、中二病映画の愛すべき佳作である。
今回は旅の目的地、モルヴァンが属するブルゴーニュ地方のワイン「サン・ブリ ドメーヌ・フェリックス&フィルス」の2014をチョイス。
ダニエルとテオも多分通りかかったであろう、サン・ブリ村を中心とした地域で作られる、ソーヴィニョン・ブラン100%のライトな白ワイン。
柑橘系の香りと、さっぱりとした喉ごしが楽しめる。
コスパも高く、普段使い出来る一本だ。

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![]() サン・ブリ ソーヴィニヨン ドメーヌ・フェリックス&フィルス |


「みつばちマーヤ」は、昭和四十年代生まれにとっては、懐かしいタイトル。
もともとこの物語はドイツの作家ワルデマン・ボンゼルスの児童小説が原作なのだが、1975年に放送された日本アニメーション制作のTVシリーズがあまりにも有名なため、日本の作品と思っている人も多いだろう。
本作は、原作の生まれたドイツとオーストラリア合作で、2012年にCGアニメーションでTVシリーズを制作した、ベルギーのスタジオ100によって作られた劇場版という位置付け。
もっとも、マーヤや相方のウィリー、バッタのフィリップなど、メインのキャラクターデザインは日本アニメーション版を踏襲していて入りやすい。
原作の挿絵は色々なデザインがあるのだけど、75年のアニメが全世界で放送されたことで、マーヤ=日本アニメーション版というイメージが出来上がったのだろう。
もちろん、オリジナルの白梅進のデザインが優れていたことが前提なのは言うまでもない。
✳︎以下、核心部分に触れています。
基本子供向けに作られていて、分かりやすいストーリー、明るくカラフルな世界観で楽しく観られるのだが、その実テーマはかなり硬派だ。
ここでも描かれるのは、寛容と多様性。
今年はディズニー・ピクサーの「ズートピア」「ファインディング・ドリー」が、相次いでこのテーマを選んでいたが、もはや不寛容と画一化の圧力はここ数年の間、アメリカだけでなく全世界的に重要なイシューとなっているのだろう。
プロットの縦軸は「役割」に縛られたミツバチの社会のはみ出し者、マーヤのありのままの自分の居場所を探す葛藤。
全てのミツバチには定められた役割があり、そのことに疑問を挟まず、黙々と働くことが美徳とされている。
しかし、好奇心旺盛なマーヤは、好き勝手に行動したあげく、質問の嵐で大人たちを黙らせてしまい、巣から追放されてしまうのだ。
そして横軸となるのは、ちょいメルケル首相っぽい温和な女王蜂を追い落とそうとする宮廷陰謀劇と、スズメバチとの戦争の危機。
ミツバチは草原の支配を巡ってスズメバチと対立関係にあり、女王はその融和的な政策を疎ましく思う女官長のバズリーナによって秘密裏に幽閉されてしまい、彼女の権謀術数に惑わされたミツバチとスズメバチは戦いに向かう。
実はマーヤが追放されたのも、バズリーナの秘密を見てしまったことが一因となっていて、旅の途中でスズメバチの子供と友達になっていた彼女は、二つの種族の危機を知って戦いを止めるために動き出す。
マーヤは冒険を通して、スズメバチだけでなく多くの虫たちと出会い、絆を育んでいて、それが利己的で欲得づくのバズリーナに対する大きな力となるのである。
この辺りは同じ様に大人(動物)社会から追放された子供の冒険を描く、ディズニーの「ジャングル・ブック」にも通じる構造だ。
もちろん、本作の場合は比較的低年齢を意識した作りのため、ファンタジーのオブラートに包まれて決して生々しくはならないのだが、この世界で暮らす誰もが幸せでいるために大切なこと、考えるべきことが何なのかはしっかり伝わる。
縦軸と横軸が巧みに絡み合い、伏線がしっかりと回収されてゆくクライマックスは、なかなかの盛り上がりを見せ、硬直した大人たちの無意識の不寛容を、子供たちの曇りなき眼が払拭する展開は実に痛快。
様々な虫たちのキャラクターも楽しく、もっと注目されていい快作だと思う。
ちなみにマーヤ役の声優は、続編やリメイクごとに毎回変わっていて、今回ははるかぜちゃんこと春名風花が微妙に本人とかぶるキャラクターを好演しているが、なにげにウィリー役は41年前と同じ野沢雅子が演じてる。
もう80歳になるそうだが、変わらぬ声質を維持し続けているのは本当に凄い。
クレジットを見ると英語キャストも豪華だから、ソフト化されるときは両方聴けるようにしていただきたい。
今回は、はちみつを使ったカクテル「エル・ドラード」をチョイス。
テキーラ45ml、レモンジュース30ml、はちみつ3tspをシェイクして、氷を入れたグラスに注ぐ。
お好みでカットしたオレンジを沈める。
レモンの酸味とはちみつのやさしい甘みで、理想郷の名の通りすっきりとした味わい。
シチュエーションを選ばない、美味しくて便利な一杯だ。

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現代のホラーマイスター、ジェームズ・ワンがプロデュースした低予算ホラーの佳作。
オリジナルは、スウェーデン出身のデヴィッド・F・サンドバーグ監督が、2013年に発表した2分42秒の同名ショートフィルム。
近年ではすっかり定着した、ネット発表の自主制作短編→長編映画化の流れだが、当然ながら全てが成功する訳もなく、中にはショート版の面白さを全くスポイルしてしまったような失敗作も珍しくない。
その点本作は、闇の中だけで具現化するオバケというワンアイディアを生かしながらも、非常に上手く長編化していると思う。
何よりもまず、恐怖の対象の見せ方が非常にセンス良く、怖い。
灯りを点けると何も見えないのに、消した瞬間不気味な影が現れ、点けたり消したりしている間に「ダルマさんが転んだ」状態でどんどんと近づいてくる。
子どもの頃、ホラー映画やTVの心霊番組などを観て、どうしても灯りを消せなくなってしまった経験は誰にでもあるだろう。
あるいは、街灯もなく月も出ていない暗闇の夜道を、一人で歩く時のえもいわれぬ不安。
こうした闇に対する人間の根源的・本能的な恐怖を、巧みに恐怖演出に使っているのだ。
この映画のオバケは、強い灯りの下では消えてしまう弱点はあるが、どこにでも存在する闇の中では神出鬼没。
しかも、具現化するとレスラー並みの怪力を発揮し、むちゃくちゃ強いのである。
物語も、シンプルながらよく考えられている。
テリーサ・パーマーが好演するロックな主人公レベッカは、鬱病を患った母親とそりが合わず、家を出て一人暮らしをしているが、母と実家に残っている幼い弟が彼女に助けを求めてくる。
家の中に闇の中でしか見えない“何か”がいて、母をコントロールしているというのだ。
実はレベッカも、嘗てその存在を感じていたものの、誰からも信じてもらえずに孤立を深めていった過去がある。
“ダイアン”と呼ばれるオバケの正体に関しては、物語の中で謎解きもあるのだが、基本的にお互いに信頼を失った家族の葛藤に、スルリと怪異が滑り込み支配するという構造。
皆の不仲につけ込んでいるオバケとしては、家族の絆が復活するのがまずいので、誰かが自分の存在を暴こうとすると妨害して、相手が諦めなければ殺してしまう。
したがってダイアンとの対決は、必然的にバラバラ家族の精神的な再生の物語となる。
ありがちなB級ホラーの様に、不条理なままいきなり切ることもせず、話にきちんと納得できるオチをつけているのも好印象だ。
ちなみにサンドバーグ監督は、本作のショート版以外にも妻のロッタ・ロステンの主演で、自主制作ショートホラーを何本もネットに公開している。
どれもなかなか面白く、本作の恐怖シチュエーションの元ネタになっている作品もあるので、鑑賞後に“ponysmasher”でググってみると二度美味しい。
既に撮影中の「アナベル 死霊館の人形」の第二弾に続いて、本作の続編も決まったというから今後楽しみな作家だ。
今回は闇の中にだけ出現する黒いオバケの話なので、珍しいブラックウォッカ「ヴラヴォド」をチョイス。
ミャンマー産の薬草ブラックカテチューの抽出液を配合し、本来無色透明なウォッカを黒く染めてしまったもの。
味わいは見た目ほど奇を衒ったものではなく、むしろ普通のウォッカよりマイルドで飲みやすい。
香りが特に強いわけでもないので、ハーブ系の酒が苦手でも大丈夫だろう。
そのままで飲んでも良いが、やはりウォッカベースのカクテルに使うと面白い。
一見真っ黒に見えるが、実際は濃い赤色をしているので、組み合わせる素材によって色が変わって見える。
パーティなどのネタとしてもウケそうだ。

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