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マグニフィセント・セブン・・・・・評価額1600円
2017年01月31日 (火) | 編集 |
誰のために、銃を抜くのか。

予想以上にイイ(・∀・)! 
伝説的な「七人の侍」「荒野の七人」をベースに、21世紀にリブートした西部劇。
主演のデンゼル・ワシントンと、漢の映画を得意とするアントワン・フークア監督とのコンビは、ワシントンに主演男優賞のオスカーをもたらした「トレーニング・デイ」から「イコライザー」を経て通算三本目。
本作でも、それぞれ訳ありの7人を束ねるワシントンがやたらとカッコいい。
人種的に旧作よりもグッとバラエティ豊かになった7人のガンマンvs圧倒的に強大な敵との戦いは大いに盛り上がる。
だが、クリント・イーストウッドが、フロンティアの神話としての西部劇を“殺した”「許されざる者」からはや四半世紀。
ネオ西部劇の時代に生まれた「マグニフィセント・セブン」は、一見すると映画史上の古典である旧作に忠実ながら、徐々に全く違った顔をのぞかせてくるのである。

1879年。
ローズ・クリークの町は、冷酷非道な悪漢バーソロミュー・ボーグ(ピーター・サスガード)に苦しめられていた。
地下に眠る金の採掘のため、ボーグは町全体の立ち退きを命令し、逆らう者は容赦なく殺され、教会すら燃やされた。
夫を殺されたエマ・カレン(ヘイリー・ベネット)は、町を守るためにガンマンを雇うことを決意。
探しに出た町で見かけた凄腕のガンマン、サム・チザム(デンゼル・ワシントン)に助けを求める。
敵がボーグであることを聞いたチザムは依頼を快諾。
流れ者のギャンブラーのジョシュ・ファラデー(クリス・プラット)、昔なじみの狙撃手グッドナイト・ロビーショー(イーサン・ホーク)、ナイフ使いのビリー・ロックス(イ・ビョンホン)、先住民殺しで知られるジャック・ホーン(ヴィンセント・ドノフリオ)、コマンチの戦士レッド・ハーベスト(マーティン・センズメアー)、メキシコ人ガンマンのヴァスケス(マヌエル・ガルシア・ルルフォ)を仲間に引き入れ、ローズ・クリークに帰還。
ボーグの息のかかった保安官たちを退けると、町民たちを訓練し、ボーグ一派の襲撃に備える。
やがて、地平線の向こうからボーグの“軍隊”が現れ、町の運命をかけた決戦が始まる・・・



一応、原題は「荒野の七人」と同一タイトルで、プロットの大まかな流れは踏襲しているものの、設定は全くの別物だ。
メキシコの寒村を舞台に、食糧を奪いに来る盗賊団との戦いを描いた旧作に対して、舞台は南北戦争後のアメリカ西部へと移り、悪漢は金の採掘のために武力で町を乗っ取ろうとする悪徳実業家に変更されている。
食糧ではなく、苦労して開墾した土地を奪われそうになった人々が、ガンマンを雇って阻止しようという訳で、この設定はシェールガスの開発のために田舎町を丸ごと買収しようとする業者と、反対する住民との葛藤を描いた「プロミスト・ランド」を思わせる。
ただ生きるか死ぬかであった旧作に比べ、歯止めなき資本主義の歪みを取り入れた今風の世界観と言えるだろう。

物語の背景は大きく変更されているが、7人のキャラクターには「荒野の七人」と「七人の侍」との共通点が感じられる。

黒ずくめのデンゼル・ワシントンは、もちろんユル・ブリンナーで、よく見ると髭のカタチが志村喬と同じ。
クリス・プラットは、スティーブ・マックイーンであり稲葉義男で、三船敏郎も入っている。
血で手を汚した人生の報いに怯え、人を撃てなくなるイーサン・ホークは、ロバート・ヴォ―ンと加東大介を足して二で割ったようなキャラクター。
ナイフの達人、イ・ビョンホンは非常に分かりやすく、ジェームズ・コバーンと宮口精二だ。
マーティン・センズメアー演じるコマンチの戦士は、ホルスト・ブッフホルツと木村功のキャラクターをアレンジ。
巨漢のヴィンセント・ドノフリオは、チャールズ・ブロンソンと千秋実的なキャラクター。
マヌエル・ガルシア・ルルフォは、仲間になる経緯がちょっとヴォ―ンっぽく、メキシコ人設定はブロンソンとも被るが、ほぼオリジナルと言っていいキャラクターだ。
まあ全員がピッタリ同じという訳ではなく、キャラクターを分解したうえで再構成し、人種がバラバラの“多国籍軍”化されている。
ガンマンを探しに来る村人が、旧作の男性からヘイリー・ベネット演じる女性に変更され、彼女が物語の終盤で大きな役割を果たすのも含めて、いかにも現在のハリウッド映画だ。


映画は、前半ほぼ1時間弱で7人の仲間を集め、中盤はド素人である住人の訓練と町の要塞化、最後の30分が決戦というシンプルで分かりやすい構造。
町の住人たちと7人の交流や恋愛要素など人間ドラマの部分がカットされた反面、アクション描写はボリューム満点。
前半の随所に盛り込まれたガンファイトは、ガンマンそれぞれのキャラクターを反映し、時にはクールに、時にはコミカルに色づけられていて楽しい。
そして、クライマックスの迫り来るボーグの軍団と、7人が率いる町との最終決戦はそれまでタメを作っていた分一気呵成、30分に渡る怒涛の活劇はまさに手に汗握るド迫力だ。
力任せに突進してくる敵を、様々な工夫で退けるバトルシークエンスは「荒野の七人」より、むしろ「七人の侍」の影響を強く感じさせる。
敵の隠し玉であるガトリング砲も、ちょうど「七人の侍」における“種子島”の役割に符合し、両作品からうまい具合に良いとこ取りした作品なのだ。

ただ、終盤に突然明かされるサム・チザムの過去設定にはちょっと驚いた。
舞台が南北戦争後、そしてインディアン戦争末期のアメリカに移ったことで、登場人物たちにそれぞれ嘗ての敵味方という因縁が生まれたのはまあいい。
しかし、ボーグをチザムの家族の仇にしてしまったのは如何なものか?
復讐の連鎖の設定は「七人の侍」「荒野の七人」というよりむしろマカロニ的で、チザムが助っ人の依頼を受けた動機が、最初から私怨を晴らすことだったように見えてしまい、戦いの意味が矮小化される。
現実的には敵との因縁があった方が、無私の戦よりもリアルなのは確かだろうが、圧倒的不利な戦に大した見返りもなく、義によって参戦するからこそ、マグニフィセント・セブン(素晴らしき7人)なのではなかろうか。

一見古典的に見えた物語も、実はイーストウッド以降のネオ西部劇のくびきからは逃れられず、だからこそ本来の物語のテーマそのものであり、「荒野の七人」も踏襲した「七人の侍」の「今度もまた負戦だったな・・・いや、勝ったのはあの百姓達だ。わし達ではない」に当たる台詞が無いのである。
これもモダナイズだと言えなくもないが、個人的にはせっかく21世紀にこの物語を作るのなら、単純なリーダーの復讐設定より、色々ワケありな他の6人の過去をもうちょい描いて、それぞれの戦う理由を多面的に見せた方が新しかった様に思うのだが。
まあそうは言っても、エンドクレジットでやっと流れるあのテーマ曲に胸熱になり、一昨年事故死したジェームズ・ホーナー大先生の最後のスコアに涙。

スケール感のあるエンタメ西部劇大作として、十分に楽しめる作品だ。

今回は、本作と同じ1879年にグスタフ・ニーバムによって創始された伝説のワイナリー「イングルヌック」をルーツに持つ、レイル・ヴィンヤーズの 「ジョージア ソーヴィニヨン・ブラン」をチョイス。
ソーヴィニヨン・ブラン100%の白は、複雑かつエレガントな香りが特徴。
スパイシーでドライな味わいはとても上品で、美味しいカリフォルニア・キュイジーヌと一緒にいただきたい。
ちなみに、現在「イングルヌック」の商標を所有しているのは、すっかりやり手のワイン屋のオヤジとなったフランシス・コッポラだというから面白い。

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ショートレビュー「静かなる叫び・・・・・評価額1650円」
2017年01月26日 (木) | 編集 |
絶望の果てに、見出した希望。

1989年12月6日。
フレンチ・カナダ最大の都市、モントリオールにあるモントリオール理工科大学に武装した男が侵入し、14人を虐殺、14人に重軽傷を負わせるという凄惨な事件が起こった。
本作は実際に起こったこの事件をモチーフとし、異才ドゥ二・ヴィルヌーヴが2009年に発表した旧作だが、素晴らしい出来栄えである。
学生たちで賑わうコピー室に、銃声が轟くショッキングなファーストカットから全く目が離せず、77分のコンパクトな物語は緊張感を保ったまま終始スリリングに展開。

豪雪のモントリオールに、モノクロのシャープな映像が絶妙に映える。

やはりこの人は天才だ。


この事件が特異なのは、他の学校乱射事件と違って、女性ばかりが殺されていること。
殺害された14人は全員女性で、怪我を負った14人のうち10人も女性。
犯人は自殺しているが、極端な反フェミニズム思想の持ち主で、“男性の職場”である理工系志望の女子学生に憎しみを募らせていったと考えられている。

映画は、犯人の青年、被害女性の一人で航空工学を志望するヴァレリー、彼女に心を寄せているらしい男子学生のジャン=フランソワの3人をフィーチャーし、事件の前、中、後で3人に何が起こったのかを、一部時系列を前後させながら描く。

犯人はなぜこんな事件を起こしたのか?
映画では、フェミニストに人生のチャンスを奪われたと思い込んでいる事が、彼の書いている“遺書”によって示唆されるが、具体的にどんなチャンスだったのかは描かれない。
実際の犯人は、父親によって幼少期から女性蔑視思想を教え込まれていたそうで、ありもしない被害妄想を募らせての犯行だったのかもしれない。
いずれにせよ、彼にとっては思い通りにならない人生の、憎しみと怒りのはけ口が女性であって、航空工学を志望するヴァレリーのような女子学生は、女であることを利用して男の職場を奪う憎きフェミニストという訳だ。

もちろん、それは一方的な思い込みに過ぎず、実際の理工系の女子学生は、男社会の厚い壁に苦しんでいるのだが、犯人にはそんな彼女たちを思いやる想像力は無い。
成績優秀なヴァレリーも、志望する企業の担当者に「子供が出来て辞められたらたまらない」という、現在ではセクハラとされる発言をされて幻滅している。
彼女は、教室に閉じ込められ最初に銃撃された9人のうちの一人で、重傷を負いながらもなんとか生き残る。
一方ジャン=フランソワは、負傷した別の女子学生を救い出すも、ヴァレリーへの銃撃を許してしまったことに自責の念を感じている。
共に凄惨な事件を経験した2人は、永遠に変わってしまった世界で、決して癒えない心の傷とどう向き合っていくのかという新たな葛藤を抱えることになるのである。

銃撃事件そのものは事実だが、映画に登場するキャラクター名は架空の存在。
だが実際に、生き残った被害者の多くは深刻なPTSDに悩まされ、事件にかかわったトラウマに耐えられず、自ら命を絶った者もいるというから、ヴァレリーとジャン=フランソワは何人もの被害者たちの、その後の人生から導きだされたキャラクターなのだろう。
そして、登場人物それぞれの母なる存在に対するアプローチも、実にヴィルヌーヴらしいポイント。
犯人の遺書で言及される母。
事件後にジャン=ピエールが、ある目的で訪れる実家の母。
そして、事件の記憶から立ち直ろうとしているヴァレリーの体に起こったこと。
理不尽な憎悪によって、無残に撃ち倒された若者たち。
絶望の果てに、僅かに見える光に救われる。

しかし、事件から四半世紀、昨年の6月にはフロリダ州のゲイナイトクラブで、同性愛者を狙った銃撃事件が起こり、実に50人が死亡し、53人が負傷するという米国史上最悪の惨事となった。
そして2017年の世界は、憎しみを煽り続けた男が世界最高の権力者の地位につくという、厄介な時代を迎えたばかり。
誰もが自分らしく生きられ、理不尽な憎しみと暴力が一掃される日は、まだまだ遠そうである。

今回は、ヴィルヌーヴの故郷カナダ、ケベックの地ビール「ボレアル」をチョイス。
数種類あるのだけど、オススメはジンジャーテイストでスッキリドライなLa Blanche。
シロクマのラベルもオシャレなのだけど、残念ながら日本には公式輸入されていない。
ケベックへ旅行へ行ったら飲んでみてほしい。

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沈黙 -サイレンス-・・・・・評価額1750円
2017年01月24日 (火) | 編集 |
神はどこにいるのか?なぜ沈黙するのか?

江戸初期、キリシタン弾圧下の日本を舞台に、棄教した師を探すため日本に潜入したカトリック司祭たちの苦悩を描く遠藤周作の傑作小説「沈黙」を、巨匠マーティン・スコセッシが20年来の執念を実らせて映画化。
正に入魂の一作で、プロットは原作小説に驚くほど忠実に、パワフルなテリングで全くダレずに162分の長尺を描き切った。
原作同様に書簡のモノローグをうまく使う事で、ダイジェストを感じさせることなく、巧みに映像作品として再構成されている。
日本という“信仰の沼”で、神を求め続けたカトリックの司祭たちの心に、いったい何が起こったのか?
信仰の本質と人間のあり方を問う、ヘビー級の力作である。
※核心部分に触れています。

17世紀、ポルトガル。
イエズス会の本部に、日本で長年布教活動をしていた司祭のフェレイラ(リーアム・ニーソン)が、拷問に耐えかねて棄教したという知らせが届く。
フェレイラの弟子のロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)とガルペ(アダム・ドライバー)は、師が信仰を捨てたことが信じられず、ことの真相を突き止め、弾圧下にある信徒を導くために、日本に潜入することを願い出る。
マカオまで到達した二人は、日本人漂流者のキチジロー(窪塚洋介)を案内人として、長崎からほど近いトモギ村へとたどり着き、隠れキリシタンの村人から大歓迎を受けるが、フェレイラのことは誰も知らないと言う。
二人はトモギ村に身を隠しながら、五島の村にも赴いて、キリシタンの村人に告解や洗礼の儀式を行って過ごす。
しかしある時、トモギ村が役人の捜索を受け、十字架に唾を吐けという命令に応じなかった信徒のモキチ(塚本晋也)ら三人が水磔の刑で処刑される。
身の危険を感じたロドリゴとガルペは二手に分かれ、五島に逃げたロドリゴは山中をさまよっている時にキチジローと再会。
だが、小心者のキチジローはロドリゴを奉行所に密告し、彼は囚われの身となる。
ある日、通詞(浅野忠信)に仏教の寺へと連れて行かれたロドリゴは、そこでずっと探し求めていたフェレイラと再会するのだが・・・・


遠藤周作の原作を読んだのは20年くらい前。
私はクリスチャンではないが、子供の頃に近所のプロテスタント教会の日曜学校に行っていたこともあって、キリスト教には以前から興味があった。
今にして思うと「沈黙」は、この宗教のディープな部分に惹かれてゆくきっかけとなった小説だったかも知れない。
人間にとって信仰とはなんぞや?神はどこにいるのか?という内なる問いに苦悶する司祭の物語は、当時私の中にあった信仰への疑念とピタリとはまり、宗教観にも大きな影響を受けた。
この傑作小説を、マーティン・スコセッシが映画化すると聞いたのはもうだいぶ前のこと。
シチリア系イタリア人移民の子としてニューヨークで生まれ、教会の大きな影響下で育ったスコセッシが、子供の頃カトリックの司祭を志していたのは良く知られた話だ。
彼のキリスト教観を考える上で、29年前に大センセーションを巻き起こした「最後の誘惑」に触れない訳にはいかない。
少し長くなるが、「沈黙」を考察する前に振り返ってみたい。
この作品でスコセッシは、上流階級であるローマ人たちをイギリス英語で喋らせ、キリストとその弟子たちをニューヨーク訛りの英語とすることで、差別化するのと同時に作品を彼自身の世界へと引き寄せている。

新約聖書には、客観的に見ると幾つもの矛盾がある。
だが、聖典に疑問を唱えることは長年に渡ってタブーとされてきた。
ギリシャの小説家、ニコス・カザンザキスが1951年に発表した「最後の誘惑」は、新約聖書に対して、大胆な解釈を加えることで矛盾を解消したのだが、彼の描き出したあまりに人間的なキリスト像はカトリック教会からは禁書扱いされ、ギリシャ正教会はカザンザキスが亡くなった時、キリスト教墓地に埋葬することを拒否した。
そんないわくつきの小説を比較的忠実に映画化したものだから、当然ながら教会とキリスト教右派の信徒からは大反発をくらい、各地で上映反対運動が繰り広げられたのだ。
しかし、この物語が聖書を読んだ人が感じる疑問に対して、キッチリと納得できる解を与えてくれることは事実である。
例えば、ユダとは何者だったのか?なぜキリストを裏切ったのか?
キリスト自身は人間としての自分と、神の子としての神聖をどう考えていたのか?
そして、ゴルゴダの丘で磔になるときに「神よ、神よ、なぜ我をお見捨てになるのですか!」と疑問を口にしながら、その後「すべては成し遂げられた」と満足して死んでしまうのはなぜか?

「最後の誘惑」はこの二つの言葉の間に、驚くべき“脚色”を加えている。
キリストが神に問い掛けた時、彼の前に天使と名乗る少女が現れ、「神はあなたを試されただけよ」と十字架から解き放つ。
解放されたキリストはマグダラのマリアと愛し合うが、彼女は神によって天に召されてしまう。
悲しみにくれるキリストを、天使はラザロのマリアのもとに導き、彼は彼女と子供を作ってすっかり世俗的な人生を送るのである。
そんなある日、彼はイエスの死と復活を説くパウロに出会い、「私がイエスだ。でたらめを広めるのはよせ」と告げるのだが、パウロは「私のイエスはもっと偉大な人だ」と冷たく突き放す。
そして長い年月が流れ、エルサレム滅亡の日。
死の床にあるキリストの元に、弟子たちが姿を現し、ユダが彼を断罪するのだ。
「なぜ十字架を逃げた?新しい秩序となるべき人が国を滅ぼした」
そしてユダは告げる。
「あの天使の正体は悪魔だ!」
真実を知ったキリストが神に謝罪し、「どんな苦痛にも耐えます、私を救世主にして下さい!」と祈ると、彼の意識はゴルゴダの丘の十字架に引き戻され、ここで初めて「全ては成し遂げられた」と呟くのである。
この作品には平凡な人間として生き、死の恐怖におののきながらも自らを生贄とすることで全人類の罪を引き受け、遂に神の子となるキリストの複雑かつ強烈な葛藤が描かれており、キリストとの同化を求める「沈黙」のロドリゴの葛藤と比較してみると非常に興味深い。

マフィアと教会が幅を利かす移民社会で生まれ育ったスコセッシにとって、暴力と愛、悪と正義は背中合わせ。
彼にとっての信仰とは、人間たちが様々な矛盾に葛藤する時、心の内に見出す神の導きなのかもしれない。
本作でロドリゴとガルペが日本行きを願い出る理由も、殉教すら厭わないはずの師が拷問耐えかねて“転んだ”という矛盾に直面したため。
師の捜索と虐げられた信徒に福音をもたらすという情熱に駆られ、遥か極東の島国まで来たものの、熱意だけが空回りしてなんの希望も未来も見いだせない。
救うどころか、自分たちが来たことで信心深い信徒が処刑されてしまったという矛盾。
日本人キリシタンたちを襲う、余りにも理不尽で残酷な運命を目の当たりにし、それでも沈黙する神に対して、ロドリゴは少しずつ疑念を募らせる。
神は本当にいるのか?もしかしたら自分は、存在しないものに空虚な祈りを捧げているのではないか?
神聖の矛盾に関するロドリゴの内的な葛藤は、師であるフェレイラの言葉によって更に深まる。
再会したフェレイラは、「日本は沼だ」という。
どんなにキリストの愛という苗を植えても、全て変質して腐ってしまう。
一見すると敬虔な信徒に見えるキリシタンの農民たちは、実は彼らなりに解釈したキリスト教とは似て非なる独自の宗教を信じているに過ぎないのだと。
頑なに否定するロドリゴも、自らの心に生じた亀裂が次第に大きくなるのを感じざるを得ない。
そして遂に、自らの棄教と信徒の命との取引という究極の決断を迫られた時、ロドリゴは内なるキリストに導かれ“転ぶ”のだ。

ここまで、基本的に原作に極めて忠実に展開する物語は、棄教した後の最終局面で大きく解釈を変えてくる。
この部分は原作と映画というよりも、日本人とアメリカ人であるスコセッシの間で物語の読解が少し異なっている様に思う。
神は沈黙しているのではなく、ロドリゴの中で一緒に苦しんでいた。
原作では、元々キリストとの同化を求めていたロドリゴが、棄教の瞬間に神との新たな関係を見出して「私はこの国で今でも最後の切支丹司祭なのだ」と悟り、その後は江戸の切支丹屋敷の役人の日記として、ロドリゴが亡くなるまでの出来事が事務的に記されるのみ。
ところが映画では、オランダ人商人の書いた書簡として彼の長崎での暮らしや切支丹屋敷での出来事が、それまでのドラマの延長として描写され、人生の最期に彼がトモギ村でモキチにもらった十字架を抱いて死ぬことまでが描写される。

つまり映画版では、ロドリゴは密かにそれまでと同じ信仰を持ち続け、キリスト教徒として人生を全うしたことが示唆される。
彼は内心では教会も神も裏切ってはおらず、信仰は勝利したように見える。
だが、原作のロドリゴは「彼ら(教会)を裏切ってもあの人を決して裏切ってはいない。今までとはもっと違う形であの人を愛している」と言う。
これはある意味、前記したフェレイラの「日本は沼」論の肯定だ。
何度も裏切って、その度に告解に来るキチジローの顔を通して、弱く哀れな人々に寄り添う者としてのキリストを見たロドリゴの信仰もまた、日本という底なしの沼にあって変質している。
遠藤周作はキリスト教徒であることと、日本人であることの矛盾を終生追求した人で、彼の思想の根底には、日本人の求める宗教は現世と来世における利己的な救済であって、キリストの尊い自己犠牲によって、全人類が救われたとするキリスト教の教義とは本来相容れないとの考えがある。
信仰するからには自分の利益にならなければならないという宗教観は、日本だけでなく東アジア全体に言えることで、遠藤周作の考察が間違っていなかったのは、例えば人口の3割がキリスト教徒の韓国の教会が、シャーマニズムを取り込んで現世利益追求型に変質していったことでもよくわかる。
だから小説の「沈黙」では、ロドリゴが心にどんな秘密を抱えていたのかは、あえて曖昧なまま終わらせているのだが、モキチにもらった十字架というアイテムを加えてまで、ロドリゴのキリストへの帰依を強調したスコセッシは、日本人でないキリスト教徒として原作者の考察と葛藤に共感はしても、最終的には信仰の力を信じたいということなのだろう。

映画「沈黙 サイレンス」は、小説「沈黙」のエッセンスをマーティン・スコセッシがディープに考察し、自らの解釈で映像化した大力作である。
人間にとって信仰とは何か、人はどう生きるべきなのかという本作の問いは、今なお思想、宗教、人種などによる様々な抑圧が覆うこの世界に、大きな説得力を持って響く。
世界は激変していて、私たちだっていつ抑圧される側になるかわからない。
そんな時、私たちはキチジローになるのか、それともモキチなのか、ロドリゴなのだろうか。
観終わって余韻がじわじわと広がり、じっくりと考えさせられる。
それにしても、本作を成功に導いた大きな要因はキャスティングの妙だ。
主演のアンドリュー・ガーフィールドの青臭さが残る青年司祭も良いが、リーアム・ニーソンのフェレイラは、コスチュームもムードも嘗てニーソンが演じたクワイ=ガン・ジンを感じさせ、ダークサイドに落ちた説得力が倍増。
日本人キャストも皆素晴らしく、一見穏やに見えて、その底に恐ろしい嗜虐性を秘めた井上筑後守役のイッセー尾形や、ポーカーフェイスの通詞を演じた浅野忠信は原作のイメージ通り。
モキチ役の塚本晋也は、その風貌もあって、水磔のシーンでは本当にキリストに見えてきた。
そして、ロドリゴと好対照を形作り、影の主役ともいうべきキチジローは窪塚洋介のハマリ役である。
何度もなんどもロドリゴを裏切る、心弱きもう一人のユダは、それほど信心深くもないが、沈黙する神に対して心のどこかで畏怖を感じている、私たち大多数にとって一番感情移入しやすい人物。
新約聖書でユダをどうとらえるかが重要であるように、本作を読み解くキーパーソンはキチジローだ。

ちょっと面白かったのは、ロドリゴがトモギ村から逃げて、五島へ上陸するところで、廃墟となった村で野良猫の群れと出会うシーン。
原作でも野良猫がいる描写はあるのだが、こんな大群だとは思わなかった。
キリスト教は中世以来猫を忌むべき動物としてきて、魔女狩りの時代には魔女と疑われた女たちだけでなく、たくさんの猫も虐殺された。
まあその結果としてネズミが爆発的に増えて、ペストの大流行につながるから世の中因果応報なのだけど、ロドリゴにとって村人全員が連行された村で、魔女の眷属であり異端の象徴である大量の猫に迎えられるのは、地獄へと足を踏み入れるような意味があったのだろう。

今回は、キリスト教の儀式に欠かせない赤ワイン、栃木県のココファーム・ワイナリーの「のぼっこ」をチョイス。
小公子という早熟な品種をタンクで低温醗酵させ、発酵の後半には温度を落としてから瓶詰めされる。
発酵中に発生する微発泡が残り、豊かな果実の風味が味わえる。
気取らずに飲める、フレッシュな一本だ。

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ゾウを撫でる・・・・・評価額1650円
2017年01月19日 (木) | 編集 |
触っているのは、どんな映画?

一本の映画がクランクインするまでの、映画に関わる様々な人を描く群像劇。
元々2013年にネスレシアターのインターネット配信用に作られた短編を連結させ、未公開部分を含めて再構成した作品である。
「ゾウを撫でる」とは何とも不思議なタイトルだが、これはインドの寓話「群盲象を撫でる」から取られている。
王が盲人たちに象を触らせ、「これは何だ?」と問う。
盲人たちは、足だとか牙だとか象の色々な部分を触って、自分が触った物について異なった意見を話す。
彼らが言っていることは間違ってないが、全体を俯瞰しないと象の本当の姿は見えない。
様々な人々が感性と技術を持ち寄り、分業して作って行く映画は、正に細部が組み合わされることで姿を現す象だ。
本作では、監督、脚本家、俳優陣、さらにはフィルムコミッションの担当者や、大道具を運ぶトラックの運転手など、映画制作の中枢から末端まで多くの人物が登場し、それぞれのエピソードは、適度な距離を保ちながら詩的な世界観を構成する。
「ツレがうつになりまして。」の佐々部清監督と、高倉健の遺作となった「あなたへ」の脚本で知られる青島武は、極めてユニークな記憶に残る佳作を作り上げた。

寡作な映画監督の神林(小市慢太郎)が、15年ぶりの新作映画「約束の日」に着手し、脚本を担当する鏑木(高橋一生)と共に地方の海岸へロケハンに訪れる。
台本印刷会社で働く栃原(伊嵜充則)は、送られてきた原稿の作者がシナリオ学校で同期だった鏑木であることに気付き戸惑う。
栃原によって製本された「約束の日」の台本は、出演する俳優たちに送られてゆく。
子役出身で彼女との関係に悩む高樹(金井勇太)、きつい性格が周りに疎まれている大女優の椿(羽田美智子)、人気若手俳優の松波(中尾明慶)、そして元妻が亡くなったばかりのベテラン俳優の椎塚(大杉漣)。
ロケ地のフィルムコミッションの榊原(菅原大吉)は、撮影準備に奔走し、大道具を運ぶことになったトラック運転手の梨本(金児憲史)とヒッチハイカーの森川(山田裕貴)は、奇妙な形状の積み荷に興味を惹かれる。
ところがクランクインが迫るある日、突然主演女優の失踪が報じられる。
強い風が吹きすさぶ撮影現場で、準備を整えた共演者やスタッフは主演女優が現れるのを待ち続けるのだが・・・・


なるほど、これは「アメリカの夜」+「ゴドーを待ちながら」という訳か。
フランソワ・トリュフォー監督の「アメリカの夜」は本作と同じく、ある映画の制作に係る人々を描いた、いわゆるセルフ・リフレクシヴ・フィルムの代表作。
本作の劇中で言及される「ゴドーを待ちながら」は、劇作家のサミュエル・ベケットによる戯曲。
一本の樹が立つ田舎の街道で、ゴドーという人物の到着を、ひたすら待ち続ける二人の男を描いた不条理劇だ。
本作では、映画「約束の日」のロケ現場で、スタッフや俳優たちが、最後まで顔が明かされない主演女優の到着を待っている。
もう一本、劇中であるバーを訪ねた神林監督が、キープしたボトルに書くのが「羅生門の様な夜に」という言葉。
「羅生門」はもちろん登場人物の視点によって、同じ事件が全く別の顔を見せるという黒澤明の傑作。
これは不条理劇と多面性の構造を持つ、映画を愛する人々の物語なのである。

冒頭、海岸へロケハンに訪れた神林に、脚本家の鏑木がこんな話をする。
彼が古い映画館で映画を観ていた時、フィルムが切れたのに切り替わらない。
実はその時、老映写技師(演じるは深谷シネマ支配人の竹石研二さん)は映写室で倒れて亡くなっていたのだ。
デジタル上映の現在の映画館に映写技師は必要ないが、フィルム上映では一巻が終わる毎に、画面に一瞬だけ表示されるパンチマークに合わせて、2台の映写機を切り替える必要があった。
映写技師の死から始まる物語は、フィルム映画の終焉から、デジタル時代の映画への再生へのプロセス
本来、インターネット配信用に作られ、劇場用長編へと進化した、本作の出自に符合するのが面白い。

本作はまた、ドラマの背景に配された3.11の記憶を色濃く反映している。

映画「約束の日」のキービージュアルとなる、ロケ地の海岸に大道具として作られたバオバブに似た樹は、たぶん「ゴドーを待ちながら」で街道に立つ一本の樹の反映であるのと同時に、3.11の津波を生き延びた陸前高田市の"奇跡の一本松"のメタファーだろう。
「約束の日」の内容は映画の中で詳しく語られないが、どうやらこの樹は人々に守られてきた希望の象徴の様な物らしい。
それは正に奇跡の一本松だし、一度死んだ松が保存プロジェクトによってオブジェとして復活した経緯も、映画という虚構の中で大道具として建てられることに重なる。

他にも、前記した奇妙なタイトル含め暗喩が散りばめられていて、物語を読み解いてゆくミステリ的楽しみも大きい。
特に
印象的なのが、神林監督がバーの女性に語る54本の奇跡の樹の小話
54の数字は何だろうと調べてみると、日本にある原発の数だとか。

そう思って観ると、この小話はかなり意味深い。

「ゾウを撫でる」は、単に映画愛を語る作品ではなく、そこから今という時代を俯瞰し、映画のあり方をも描こうとしてる。

インターネットで配信した連作を再構成し、映画館で公開という試みは、三浦大輔監督の「裏切りの街」もそうだった。

デジタル化、ネットワーク化によって、映画の形は変化し続けるだろうし、映画を成立させるのに様々な方法論も出てくるだろう。
本作の場合は、単につなぎ合わせたのではなく、物語の断片を組み合わせ、初めて全体像が見え、なおかつそのプロセスが物語を構成するというコンセプトが実に秀逸。
浮かび上がるのは、ポスト3.11の時代に、映画という希望を建てる人々を描いた独創的な作品だ。

上映館は少ないが、映画好きには是非オススメしたい。

今回は、劇中で神林監督が飲んでいる「I.W.ハーパー」をチョイス。
1877年に、ドイツ移民のアイザック・ウォルフ・バーンハイムによってケンタッキーに創業した、歴史あるあバーボンウィスキー。
飲み方はロックで。
羅生門の様な夜に、美女と語らいながら、チビチビと飲みたい。
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ショートレビュー「The NET 網に囚われた男・・・・・評価額1600円」
2017年01月17日 (火) | 編集 |
その網に囚われたら、もう逃げられない。

ここのところ、少し作風が変わりつつあるキム・ギドク。
北朝鮮スパイの疑似家族を描いたプロデュース作の「レッド・ファミリー」以来、理不尽な社会の仕組みと個人の対立をモチーフにした作品が目立つ。

去年日本で公開された「殺されたミンジュ」は、凝った世界観のロジックが上手くストーリーに移し替えられておらず、終始ぎこちない凡作だったが、本作はなかなかだ。


主人公は、北朝鮮の漁師、ナム・チョル。
妻と一人娘と慎ましくも幸せに暮らしていた彼は、ある日船のエンジン故障で韓国へと漂流し、国境警備の韓国軍に捕えられてしまう。
ただちに北朝鮮へ送還して欲しいと希望するも、軍歴があったものだから初めはスパイと疑われ、拷問を受ける。
やがてシロと分かると、韓国当局は彼を北へ帰さず亡命させようと、あの手この手で懐柔しようとするのである。
「独裁政権の国に、帰すわけにはいかない」というのが彼らの主張する“正義”なのだ。
帰国の意思を挫くために、ソウルのど真ん中に置き去りにされ、資本主義の豊かさを見せつけられたりもするが、聡明なナム・チョルは飽食の社会の裏にある歪みも感じ取る。

なにがなんでも妻子の待つ故郷へと帰るというナム・チョルの意思は固く、韓国はとうとう彼を送還するのだが、この映画の核心はこれからだ。
北朝鮮にとって、一度韓国に渡って戻ってきた者は、表向きは故郷を裏切らなかった英雄だが、その実南のスパイとなっているかもしれない“疑わしき者”なのである。
悪名高き国家安全保衛部に連行されたナム・チョルは、今度は北朝鮮当局からスパイの容疑をかけられ取り調べを受けることになる。
このシークエンスは、韓国での取り調べシーンの対となるように演出されていて、国家権力という社会システムと個人の深い断絶は、イデオロギーの違いによるものではないことを示唆する。

ナム・チョルにとって唯一の願いは、妻と娘と一緒に静かに暮らすこと
当たり前のことだが、個人の幸福は国家のイデオロギーとは全く別の所にあって、民主国家でも不幸な人はいくらでもいるし、独裁国家でも幸せな人はいる。
しかし、どちらの世界でも一度権力に囚われてしまうと、力無き庶民はもはやどう足掻こうが逃れられない、網にかかった魚であるという絶望感。

二度と元の生活に戻れないことを知った主人公が、自ら破滅の道を選ぶダウナー系のカタルシスは、いかにもギドクらしい佳作である。


ただ、主人公以外の登場人物が、いささか類型的すぎるのは気になる。

特に韓国当局の登場人物は良い人、嫌な人、ダメな人とそれぞれ人間の一面しか描かれず、リアリティに欠ける。
「レッド・ファミリー」くらいカリカチュアされた世界観なら、これでも良いのだろうが。

今回はソウルで人気の焼酎「チャミスル」をチョイス。
韓国では焼酎の銘柄に地域性が強いらしく、首都圏は真露のチャミスルなんだそうな。
さっぱりしていて、甘味がやや強くマイルドな味わいは韓国焼酎の中でも、たぶん一番飲みやすい。
ロックで飲むのがおススメ。

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ショートレビュー「MERU/メルー・・・・・評価額1700円」
2017年01月11日 (水) | 編集 |
彼らが、その頂を目指す訳。

これは圧巻、どこまでも凄い世界だ。
ヒマラヤ奥地に聳える未踏峰、メルーに挑むクライマーたちを追ったハードコアなドキュメンタリー。
メルー中央にそびえる、その名も”シャークフィン”は、まるで鋭く尖ったナイフ。
雪と氷に覆われた1200メートルを登り切っても、その先には手がかりになる凹凸が殆ど存在しない450メートルの高さの花崗岩の難所が待ち構えている。
同じヒマラヤでも、エベレストと違ってここにはシェルパもいない。
メルーの峰に辿り着くには、過酷な自然環境の中、自ら90キロもある装備を背負って、ほとんど垂直の壁を登っていかなけれならない。
過去多くのチャレンジャーが絶望を味わった、まさに難攻不落の自然の要塞だ。

本作でこの山に挑むのは、世界的トップクライマーとして知られるコンラッド・アンカー、ナショナル・ジオグラフィックの山岳カメラマンで、本作の共同監督兼カメラマンでもあるジミー・チン、若きクライマーで風景アーティストのレナン・オズタークの3人。
最初に彼らがメルーに挑戦したのは、2008年のこと。
だが連日の悪天候に阻まれ、一週間の予定の倍以上に渡って悪戦苦闘を続けるも、頂上まであと僅かの地点で敗退。
下山した彼らは、長期間足が濡れっぱなしの状態だったものだから、凍傷と感染症が合わさった塹壕足になってしまい、何週間も車椅子生活を余儀なくされたという。
二度とこの恐ろしい山には挑まない・・・そう誓ったはずなのに、それから3年後の2011年、彼ら3人は再びシャークフィンのテッペンに狙いを定めるのだから、山男って連中はもう(笑

しかし、ことはそう簡単には運ばない。
「登山の映画じゃない。登山家の映画だ」とは本作のキャッチコピーだが、ベテラン、中堅、若手の3人のチームには、山への帰還を前にして厳しい試練が降りかかるのだ。
メルー再挑戦まで僅か5ヶ月の時点で、一番若いレナンが雪山でジミーと撮影中にスキー事故に遭い、命すら危ぶまれるほどの大怪我を負う。
一命を取り留めたレナンにとって、再びあの山に登る事がリハビリの最大の動機となるのだが、病み上がりで体に爆弾を抱える若者を同行させることは、チームにとっては大きなリスクだ。
それでもコンラッドとジミーは、それぞれに悩んだ末に、3人で登ることを決断するのである。

実は、コンラッドにとってメルーへの挑戦は、若い頃に彼を導いてくれた”メンター”、マグス・スタンプから引き継いだ悲願。
スタンプは、メルー登頂を夢見ながら、1992年にアラスカで遭難死してしまう。
そして今、コンラッドはジミーのメンターとなり、ジミーはレナンのメンターとなって、山に登る。
岩と雪と氷のルートを読み、経験に裏打ちされた確かな技術によって、文字通り一歩一歩攻略するクライミングは、いわば大自然を相手にする命懸けのチェス
信頼できるメンターに出会うことによって、世代を超えて心と技術が継承されるクライマーの世界は、なんだかジェダイの騎士たちの様だ。
自然の中で人間の小ささを知るからか、固い絆で結ばれた山男たち、彼らの側にいる女たちも皆謙虚で優しい。
本作で共同監督を務めるエリザベス・チャイ・バサルへリィも、ジミー・チンの妻である。
「どこに登るかじゃない。誰と登るかだ」「景色だよ、この景色が見たくて登るんだ」
単に過酷な山登りだけでない、その背景にある人生のドラマが見える故、彼らが山に挑むいくつもの理由にどっぷり感情移入。
挑戦する人間の可能性に、力強く背中を押される、素晴らしき87分。
大画面で観るべき作品である。

3人のメルー挑戦は、ギネスブックにも認定されている、という訳で「ギネス・エクストラ・スタウト」をチョイス。
クリーミーな泡と深いコクはギネスならでは味わい。
ちなみに高山では高山病によって酔った様な症状が出ることがあるが、この状態で酒を飲むと更に悪化するとか。
メルーの頂上で飲むのはキケンそうだが、降りてからパブで一杯やるのは良いよね。

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メッセージ・・・・・評価額1750円
2017年01月05日 (木) | 編集 |
それでも、あなたに会いたい。

ネビュラ賞、スタージョン賞を受賞した、テッド・チャン作の傑作SF短編小説「あなたの人生の物語」を、ケベック出身の若き異才ドゥニ・ヴィルヌーヴが映画化。
突然、世界各地に異星人の巨大な宇宙船が出現。
来訪の目的は全く不明で、パニックに陥った人類は何とかコミュニケーションを取ろうとするも、その方法が無い。
これは、未知なる訪問者の“言葉”を解読し、意思疎通を託された、言語学者の物語。 
はたして、彼らはなぜ地球へとやって来たのか?何を伝えようとしているのか?
原作のシンプルなプロットをベースに、物語を大幅に拡充しているが、それでも核心のテーマ、ムードはしっかりと維持されている。
原作ファン、SFファンはもちろん、全ての映画を愛する人にお勧めできる、哲学SFの新たな金字塔だ。
※核心部分に触れています。

世界のあちこちに、巨大な宇宙船が忽然と舞い降りる。
謎の異星人の目的は一体何なのか?
政府に雇われた言語学者のルイーズ・バンクス博士(エイミー・アダムズ)は、彼らの言語を解き明かすために、物理学者のイアン・ドネリー(ジェレミー・レナー)らと共に、ウィーバー大佐(フォレスト・ウィテカー)率いる対策チームに入る。
ルイーズは、モンタナの平原に出現した宇宙船で、便宜上“アボット”と“コステロ”と名付けられた異星人とコンタクトするが、彼らの“言葉”は人類の言語の概念とは全く異なるものだった。
世界各国のチームと連携しながら、コミュニケーションの研究は僅かずつ進んでゆくのだが、来訪の目的は遅々として判明せず、しびれを切らして宇宙船への攻撃を示唆する国も出始める。
そんなある日、ルイーズのチームは異星人からある驚くべき言葉を聞き出すのだが・・・


異星の文明とのファーストコンタクトを描いた作品は多いが、彼らとのコミュニケーション手段そのものをフィーチャーした作品は珍しい。
だが、よくよく考えてみれば、これはきわめて興味深いモチーフだ。
地球上の人類だって、全く異なる言語の話者が意思疎通するのは難しい。
話し言葉だけでなく、書き言葉も同じだ。
遠い昔に断絶してしまって、未だ解読できない古代の言語もある。
18世紀末に、ロゼッタ・ストーンという“辞書”が発見されなかったら、私たちは古代エジプトで起こった、多くの歴史上のドラマを知ることは出来なかったかもしれない。
それでもまだ、人間同士ならジェスチャーというコミュニケーション手段もあるが、相手が人類とは全く似ても似つかない姿の異星人なら、身ぶり手ぶりで表現できることも大幅に限られてしまうだろう。
本作に登場する異星人は、まるで巨大なゴミバケツに七本の触手を生やした様な姿で、人類からはヘプタポッド(7本脚)と呼ばれる。
頭頂部の目で全周囲を見ることが出来、円筒形の体を持つ彼らには、前後左右の概念すらないのだ。

テッド・チャンの原作は、 そんな異種同士の第三種接近遭遇を描くシンプルな短編。
普通に考えれば、ハリウッド大作になるとは思えない、地味な物語にどうアプローチするのか興味津々だったが、本作はエリック・ハイセラーによる脚色が本当に見事だ。
原作のプロットをベースに、もしも意図のわからないUFOがあちこちに居座ったら、世界はどう動くのかと言うシミュレーション的視点を加え、極めてスリリングに盛り上げる。 

この脚色のために、宇宙船本体は地球軌道上にあって、無数のレンズ型の通信装置だけが地上に表れるという原作の設定は、地球上の12ヶ所に直接宇宙船が舞い降りるという風に変わっている。
自国領内に宇宙船が出現した国々は、表面上お互いに協力してコミュニケーション手段の開発をしているものの、次第にヘプタポッドの意図と、他国の動向に対して疑心暗鬼を募らせる。
近年、ハリウッド映画においても次第に存在感を増す中国が、対ヘプタポッド主戦論の急先鋒として描かれているのが興味深い。
ルイーズたちの役割は、単にヘプタポッドの言語を解き明かすことから、人類の誤解を解き、宇宙戦争を止めることへと移って行くのだ。

ここで重要になるのが、この物語の核心である言語と思考の関係である。
私たちは頭の中で言葉によって思考するが、例えば日本語と英語の様に、逆さまの文法を母語とする人間は、思考の順番も逆になる。
これだけでも少なからず、それぞれの世界観に影響を与えていまいか。
ならば、既知の言語とは全く違う概念を持つ言語を習得した場合、それは人間にどんな影響を与えるのか。
ヘプタポッドの言語、彼らが書くというよりも空中に描き出す文字は、おそらくテッド・チャンの民族的ルーツである漢字を元にデザインされた、円を基調とした一つの模様で一つの文を表す表意(義)文字だ。
人間の書く文章は、基本的に一つの言葉を書いたら、その続きを書いて行くことで意味のある文章となるが、ヘプタポッドの文字は文章全体が一気に浮かび上がる。
つまり、彼らの思考には時間軸という概念が無いのである。
ヘプタポッドにとって、この宇宙は始まりから終わりまでが予め存在していて、過去も未来も既に決定されているのだ。
彼らが地球にやってきた理由も、遠い未来において彼らと地球人はある関わりを持つことになっており、その未来に導くために必要だったから。

本作は、ルイーズがヘプタポッドとのコミュニケーションに邁進する数カ月間の物語と、フラッシュバック的にランダムに挿入される、彼女と家族とのプライベートな生活の映像の羅列によって構成されている。
一見関係ない二つの物語は、実は密接にリンクしていて、フラッシュバック映像の意味を知った時、観客は深い思念の海に沈んでゆくだろう。 
そう、ヘプタポッドの言語をディープに研究し、習得することで、ルイーズもまた彼らと同じ思考回路を獲得する。
彼女の思考は時間の流れから自由になり、初めから終わりまで全てを見通すことが出来るようになるのである。
ルイーズは、この未知なる能力によってもたらされる、決定された未来の情報を利用することで、人民解放軍強硬派のシャン上将を説得し、宇宙戦争を未然に防ぐ。
だがそれは同時に、ルイーズのこれからの人生から、"未知の体験"という意味での“未来”という概念が無くなることを意味する。

映画版のタイトルは「Arrival(邦題:メッセージ)」になっているが、原作は「あなたの人生の物語(Story of Your Life)」である。
「あなた」とは、将来生まれてくるルイーズの娘のこと。
フラッシュバック映像は、ルイーズが新たな思考を獲得してゆく過程において、徐々に見えてきていた彼女自身の未来。
ルイーズは、まだ生まれていない娘の誕生から25歳での早すぎる死まで、その全てを見てしまうのである。
もしもこれからの人生で起こることを全部知ってしまって、そしてそれが決して避けられないとしたら、私たちの心はどう変化するのか。
親よりも早くに死んでしまうとしても、それでも我が子に会いたいと思うのか。
将来別れると知っていても、それでも誰かを愛し、家族になろうとするのか。
悲しい別離が来ることは分かっていても、ルイーズは「あなたの人生の物語」を語り、まだ見ぬ娘を受け入れる。
時間の概念が無ければ、人生に希望も、絶望も生まれないが、彼女の心から愛は失われないのだ。
それは人類が人類たる、根元の感情だからかもしれない。

優れたハードSFの多くは、同時に味わい深い詩である。 
これは、原語と思考をモチーフに、時間と愛、世界の見え方と私達の存在する意味を哲学する、驚くべき物語。

しかも原作のエッセンスを完全に保持したまま、スケール感のある娯楽映画に昇華しているのだから畏れ入る。
また本作は、見方によっては優れた物語論とも言える。
私たちは、時間軸を持つ芸術である小説や映画を何度も鑑賞することがあるが、二度目以降はある意味時間軸から解放されている。
主人公が悲しい最期を遂げるから、愛せないなどということは無く、全てを知っているからこそ、より一層大切に思える作品もあるだろう。
この映画も同じで、私は事前に原作を読んでいて良かった。
何が起こるか分かっているからこそ、物語の本質を自身の中で哲学し、より深く鑑賞できたと思う。
本作の日本公開は、まだまだ先のGW明け。
そういう訳で、このレビューをここまで読み進めちゃた人たちには、いっそ原作をじっくり読み込んでから鑑賞することをお勧めしておきたい。

今回は文字が重要なモチーフになる作品なので、海外ワインには珍しい「天地人」の漢字ラベルで知られるルー・デュモンの「フィサン・ルージュ」の2009をチョイス。
これはワイン造りの夢を抱いた日本人の仲田晃司氏が、単身渡仏して設立した若い銘柄。
適度な強さのボディと、フルーティな風味と心地よい酸味のマッチングが良い。
とても飲みやすく、高温多湿な日本の夏でも胃にもたれない。
宇宙人にも飲ませたくなる、バランスの良い赤だ。

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ショートレビュー「妖怪ウォッチ 空飛ぶクジラとダブル世界の大冒険だニャン!・・・・・評価額1550円」
2017年01月05日 (木) | 編集 |
CGでも結構イケるニャン!

キッズアニメの定番が、なぜか春休みとGWに集中する中、お正月の顔として定着した大人気シリーズ第三弾。
このシリーズは大人気ない大人たちが全力で世界観を遊び倒し、本来のターゲットであるはずの子供に全然媚びて無いのがいい。
第二作は短編集的な作りだったが、今回はしっかり長編。
謎の空飛ぶクジラ妖怪によって、2次元のアニメ世界と実写世界が入れ替わってしまうという、かなり冒険的な内容になっている。
これはある種のパラレルワールドで、事態の影響を受けるのは、基本的に妖怪だけ。
人間は二つの世界に同じ人物はいるものの、別人格という設定になのだが、妖怪と親しくなりすぎた天野景太は、妖怪と同じく二つの世界で同一人格ということになっている。
実はもう一人、怪我で挫折したバレリーナの少女・カナミという、この映画の本当の意味での主人公がいて、もう一度自由に踊りたいという彼女の願望が悪しき妖怪を呼び寄せ、なんでもありのアニメ世界を実写世界と繋げてしまったというワケだ。

昭和の時代からのキッズ漫画やアニメをメタ的に俯瞰するスタンスは相変わらずで、実写CG+アニメの表現手法がこの構造を明確化する。
劇場一作「誕生の秘密だニャン!」のタイムトラベルによる二重世界が、今回は現実世界とアニメ世界のパラレルワールドに置き換えられたと思えばいい。
カナミの心に巣喰った悪しきクジラ妖怪を倒して、彼女の傷ついた心を癒すのが物語の骨子だが、実写世界に行くとアニメならではのカートゥーン的誇張表現が封じられちゃって、キャラも妙に現実的になってしまう。
全然凄そうに見えないジバニャンのひゃくれつ肉球とか、組み立てに異常に時間がかかるUSAぴょんの戦車とか、アニメの表現ってカリカチュアされてるけど、現実にはこんなだよねーという冷めた目線が可笑しい。
クジラ妖怪改めクジラマンと戦いながら、2つの世界が目まぐるしく入れ替わるアイディアは面白かった。

子供たちにはカワイイ妖怪キャラとベタなギャグで笑ってもらいつつ、クライマックスに懐かしの「ウルトラQ」のケムール人までぶち込んだパロディとオマージュの嵐は、オリジナルを知らない子供より、むしろ大人の方が楽しめるかも、というか作り手は確実に楽しんでる。
カナミの心がクジラ妖怪を呼び寄せ、ダークサイドに支配されつつある一方、彼女の大切な”友達”であるコアラ人形がコアラニャン(笑)という迷った心を象徴する妖怪化して、景太たちと一緒に彼女を助けようとするのは涙。
子供たちと付き添いのお父さん、お母さん、それぞれに違った視点から楽しめる、正月映画としてなかなかに良く出来た作品だと思う。
それにしても、ゲームベースだけあって、妖怪キャラのCGとの親和性は非常に高いから、このパラレルワールド設定は別の形でいずれまた使えそう。
ただ、妖怪キャラでぬらりひょんと閻魔大王だけは、なぜかイケメン俳優二人が演じてるのだけど、彼らもCGで良かったのでは?
・・・あっ、なるほどお母さんサービスか!

今回はレベルファイブのある福岡の地ビール、杉能舎の「博多麦酒 スタウト」をチョイス。
じっくり焙煎されたロースト麦芽と、ほのかな甘みを醸し出す出すハニーモルトで仕込まれた上質の黒ビール。
苦味が少なく、やわらかなビロードのような喉越しの上品な味わいで、創業140年の老舗の酒蔵が作るだけあって、繊細なこだわりを感じる。

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