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いや~、呆れるほど面白かった。
ギャレス・エドワーズ版「GODZILLA ゴジラ」と世界観を共有する、レジェンダリー・ピクチャーズの怪獣シリーズの最新作。
1933年のオリジナルから数えて、正規作としては東宝版を含めて8作目の「キングコング」である。
南太平洋に浮かぶ謎の島、髑髏島(Skull Island)を舞台に、侵入者である調査隊と島の守護神キングコングとの戦いが描かれるが、シリーズのビギニングという位置付けのため、過去の作品と違ってニューヨークには行かず、基本的にこの島だけで完結するのが特徴だ。
脚本は、「GODZILLA ゴジラ」から続投のマックス・ボレンスタインと「ナイトクローラー」のダン・ギルロイ、「ジュラシック・ワールド」のデレク・コノリー。
監督は、ラスプーチンみたいな顎髭がコングよりインパクト大、32歳の俊英ジョーダン・ヴォート=ロバーツが務める。
作品の間口が非常に広く、普通の観客にも十分楽しめ、マニアを満足させる未見性とオマージュのバランスも絶妙な、傑作エンターテイメントだ。
※核心部分に触れています。
ベトナム戦争末期の1973年。
アメリカ政府の特務研究機関モナークのビル・ランダ(ジョン・グッドマン)は、南太平洋にあって、常に嵐に取り囲まれている謎の島・髑髏島の調査を計画。
ジャングルのスペシャリストである元SASの軍人ジェームズ・コンラッド(トム・ヒドルストン)を案内役として雇い、米軍のプレストン・パッカード大佐(サミュエル・L・ジャクソン)率いる軍のヘリコプター部隊と共に島への上陸に成功する。
しかし、地質調査のために爆弾を爆発させたところ、彼らの前に突如として巨大な類人猿”コング”が姿を現し、あっと言う間にヘリコプター部隊を全滅させてしまう。
散り散りになって生き残った人間たちは、二つのグループに分かれて迎えのヘリが来る島の北部を目指す。
だがこの島にいるのは、コングだけではなかった。
巨大な生物たちが支配する島で、人々は一人また一人と命を落として行く。
そんな時、コンラッドが指揮するグループは、高い塀に囲まれた原住民の村で、第二次世界大戦中にこの島に墜落した米軍パイロット、ハンク・マーロウ(ジョン・C・ライリー)と出会うのだが・・・
この映画のプロモーション中、なぜか「地獄の黙示録」のキービジュアルそっくりなポスターが発表されて話題を呼んだ。
ポスターが作られた理由は、映画を観ると一目瞭然。
これは、オリジナル「キングコング」の基本プロットと「地獄の黙示録」のディテールを巧みにミックスし、怪獣映画+秘境探検映画+戦争映画を一本で全てやった作品なのである。
トム・ヒドルストンが演じるジェームズ・コンラッドの役名は、「地獄の黙示録」の原作「闇の奥」の作者ジョセフ・コンラッドからの引用だろうし、ジャングルの奥で彼らを待っているマーロウは、「闇の奥」の主人公の名前だ。
そして、マーロン・ブランドが演じたカーツ大佐の役に当たるのが、コングへの復讐心から次第に狂気を帯びてゆくサミュエル・L・ジャクソンのパッカード大佐。
本作は基本的には、コングとパッカードという、全くサイズの違う二人の”怪物”による死力を尽くしたvsもの。
怪獣と人間が、思いっきりガン飛ばし合う映画は初めて観たよ(笑
ベトナムでの戦役で多くの部下を死なせた贖罪意識ゆえ、最初からちょっと壊れ気味のパッカード指揮下のヘリコプター部隊が、髑髏島を取り巻く嵐に突入するシーンは「天空の城 ラピュタ」を思わせる。
嵐を抜けた部隊のBGMに、ワーグナーの「ワルキューレの騎行」代わりにブラック・サバスの「パラノイド」をかけるセンスが最高だ。
しかし侵入者たちは、すぐにこの島がただの孤島ではないことを身を持って知るのである。
突如として現れる、コングのスケール感の描写が素晴らしい。
本作のコングは、ゴジラと戦うために45メートルまでスケールアップした東宝版を除けば、過去最大の31.6メートル。
ショットによってかなり縮尺を変えていると思うが、カメラワークが巧みで怪獣と間近で対峙するリアリティが感じられ、本当にとんでもなく巨大で恐ろしく見えるのだ。
パッカードにとって部隊を壊滅させ部下を殺したコングは、ベトコンへの恨みも積み重なって絶対に倒すべき敵となるのだが、最初に自分の行為が相手を怒らせた事実は彼の中から綺麗さっぱり忘れられている。
コングという未知の存在との遭遇と戦いを通して、"敵"とは自らが求めて初めて存在するもので、憎しみという燃料によって戦争の狂気は増幅してゆくというテーマが、ベトナム戦争末期という時代性と相まって浮き彫りになるという訳だ。
島の世界観は、過去の作品で描かれた髑髏島に、「もののけ姫」をミックスした感じ。
この島では動物たちは巨大で、力なき原住民たちは彼らを神と崇め畏怖の念を抱きながらひっそりと生きている。
コングの天敵である、髑髏の様な頭を持ち、後ろ足が無く前肢のみで這い回る巨大トカゲのスカル・クローラーに、馬鹿でかい水牛型のスケル・バッファロー、大木ほどもある大ナナフシに、明らかに東宝の「キングコング対ゴジラ」オマージュの大ダコ風水性怪獣、さらに竹林に擬態する巨大蜘蛛は、クモンガかと思ったら何と六本木ヒルズの蜘蛛のオブジェ、ママンからの発想だとか。
蜘蛛が脚で兵士を串刺しにするのは、モロにルッジェロ・デオダードの「食人族」だったが、イーライ・ロス以外にもハリウッドにこの映画の信奉者はいるんだな(笑
まあ、このあたりのオマージュや引用はまだ分かるのだが、意外だったのは松本零士の「戦場漫画シリーズ」的エピソード。
太平洋戦争中に島に墜落したマーロウには、最初は命を奪い合う敵であり、後に共に島からの脱出を目指したグンペイ・イカリという日本人のバディがいた。
同じ島に敵味方の兵士が降り立ち、のちに和解するのはジョン・ブアマンの「太平洋の地獄」っぽいが、壊れた飛行機の部品をニコイチしてイカダを作って脱出というアイディアの元ネタは、おそらく同じ設定の「戦場漫画シリーズ」のエピソード「雷撃艇13号」あたりだと思う。
なかなか渋いところだが、この映画の作り手のマニアックさなら十分あり得るだろう。
もっとも、新たな要素は多く導入されているものの、本作はあくまでも長い歴史を持つ「キングコング」の一作である。
全体的には、1933年のオリジナルを強く意識した作りで、ニューヨークには行かないものの、ヘリとの空中戦はあるし、コングは一度は"鎖"に囚われ、美女には弱いというお約束も踏襲されていて、キャラクターイメージはしっかりと守られている。
全編見せ場の連続で、怪獣も沢山出てきてお腹一杯、全く飽きる暇がないのだけど、一方で決して長尺という訳でもないのに、結構な数の登場人物をさばき切り、人間ドラマも見応えがある。
メインキャストから端役に至るまで、無駄なキャラが一人もいないのは見事だ。
唯一不満があるとすると、キャラクターが誰一人として変化しないこと。
この物語は、敵への憎しみから狂気に支配されてゆくパッカードと、憎しみから脱却して敵との友情を築いたマーロウが表裏の関係となっている。
二人の体現するテーゼとアンチテーゼのぶつかり合いはあるものの、彼らはすでに完成されたキャラクターで、個の中の葛藤による心情の変化はない。
話を進行させる役回りであるコンラッドの中に僅かでもこれがあると、物語の厚みが違ったはずで、現状ではパッカードとマーロウに全部持ってかれてしまって、印象が薄いのが勿体無い。
とはいえ、ビジュアルだけの超大作にとどまらず、これだけテーマ性があり完成度の高いドラマを構築したのは十分称賛に値する。
しかし、本作で一番胸が熱くなったのは、尿意に耐えてやたらと長いエンドクレジットを乗り切った後である!
なんとなく最後にマーベル的なオマケがあるのは知っていたものの、予想を遥かに上回るインパクトに、劇場ではオタクな観客たちから思わず驚嘆の声と拍手が起こっていたし、私もあの瞬間脳内に変な汁が出た(笑
いや〜、2019年がもの凄く楽しみだ。
その後の2020年には既に「Godzilla vs. Kong」が一足先にアナウンスされてる訳だけど、両者の体格差はどうするんだろう。
仮に2020年が舞台だとすると、本作から47年経っているから、コングがその分成長してデカくなったとしても、100メートル越えのゴジラとは勝負にならない気がするのだけど。
まさか増殖するのだろうか?
増殖と言えば、本作の最大の謎が突然増殖するヘリコプターだ。
調査隊を乗せた貨物船アテナ号には前部甲板に5機、後部甲板とその奥の格納庫に3機が確認出来るのだが、上空に来るとなぜか13〜14機に増えてる。
しかも物語の終わりには更に3機が迎えに来るので、あの小さな貨物船に海自のいずも型ヘリ空母の搭載機数を超える17機が隠れていたことになる。
レジェンダリーの怪獣映画は「パシフィック・リム」でも、たった8機のチヌークで2000トンもあるイェーガーを空輸しちゃってたし、ヘリの扱いがやたら雑だ(笑
今回はもちろん、家に帰ってテレビでメジャーリーグを見ながら飲みたい「バドワイザー」をチョイス。
1876年に発売されてから、実に140年の歴史を誇るアメリカン・ビールの代表格。
本作ではパッカードとマーロウがこれを飲んでいる。
水みたいに薄いのが、カラッとした気候でのスポーツ観戦にはぴったりで、知らぬ間にピッチャー1つくらい簡単に空けられてしまう。

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ケン・ローチらしい、社会福祉のあり方をテーマとした硬派の社会派ドラマ。
007俳優みたいな名前の主人公は、心臓の病気で大工の仕事を医師から止められた、男やもめの爺さんだ。
彼はある日、社会福祉事務所で幼い2人の子供を抱えたシングルマザーのケイティと知り合い、交流を深めてゆく。
病気を抱えた老人と、新しい土地にやって来た母子家庭。
どちらも助けを必要としている人々なのは間違いないのに、彼らは社会保障のシステムから理不尽に疎外される。
80歳の巨匠が引退を撤回してまで作った作品だけあって、ローチの現状に対する沸々とした怒りがスクリーンのキャラクターを通して伝わってくる。
日本でも役所から手当を切られたとか、生活保護を拒否されたとかはよく聞くが、この話の状況が普通であれば、イギリスの状況はもっと酷い様だ。
病気で仕事が出来ない、あるいは幼い子どもを抱えているので手当てを受けたい、というごく当たり前で単純な話のはずなのに、ダニエルもケイティも届けを出すことすらなかなか出来ない。
受給資格があるかを判定する係は、米国系企業から派遣されていて、本人の病気とは全く関係ないマニュアル質問を繰り返す。
申請が却下されたら不服申し立てをするのだけど、なんとそれはネット経由でしかできないという。
高齢者や貧困層向けの行政サービスがネットのみ、それはつまり最初から助ける気が無いということだ。
極め付けは、ダニエルは医者から就労を禁じられているのに、求職中という”証拠”を作るために、なぜか無駄な就活をさせられるのだ。
しかも役所の指示に従わないと、どんどん累積の罰則がつけられて、受給資格が遠ざかるのだから酷い。
観ているうちに、ダニエルとケイティの感情に寄り添い、いつの間にか自分の中でも怒りのボルテージと諦めの気持ちが同時に高まってくるのを感じる。
2000年代に吹き荒れた、新自由主義のもたらしたものとは一体何か。
「本当に必要な人には福祉の手は届かない」とは、具体的にはどういうことなのか、この映画を観ればよく分かる。
支援が必要な人々の人間としての尊厳を貶めることで、受給資格を遠ざける社会福祉のあり方はやはり大きく間違っている。
極貧の中でフードバンクを訪れたケイティが、空腹に耐えかねて貰ったばかりのトマトのカンをその場で開けて食べてしまうシーンは、あまりの辛さに思わず涙が滲んだ。
本作に描かれるイギリスの役所の官僚主義、マニュアル主義があまりに酷いので、普段接している日本の役所の人たちがすごく良い人たちに見えてくるほど。
いや日本も実際には問題が少なくないのだろうけど、私の知る限りこれほど杓子定規で融通が利かないことは少ないのではないか。
逆に言えば無関心で手をこまねいていると、日本もすぐこういう状況になってしまうということだろうけど。
ダニエルは終始役所に対して怒っているのだが、実際には役所の人たちも色々辛くて、結局はシステムを作る政治の責任で、同時に政治家を選ぶ自分たちの責任ということなのだと思う。
ごく一部の不正受給などを見て、社会福祉のハードルを上げることに賛成を唱える人たちは、是非この映画を観てほしい。
しかし、どんな場合でも一番辛い立場に置かれるのは、所謂情報弱者であることは分かった。
社会の変化のスピードを考えると、自分の老後を想像して全く人ごととは思えない。
「わたしは、ダニエル・ブレイク」の名前の部分は、最後まで尊厳を保って生きたいと願う、全ての人々に置き換えられる。
巨匠入魂のヘビー級の力作であった。
今回はイギリス庶民の酒、日本でも同名パブチェーンがある「ホブゴブリン」をチョイス。
オックスフォード州ウィットニーの森の中にあるウィッチウッド・ブリュワリーは、銘柄が全てファンタジー繋がりで、ホブゴブリンの他にもブラックウィッチやゴライアスなどがある。
フルボディのダークエールは、チョコレートモルトの甘い香りが特徴で、強いクセがなく飲みやすい。

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ムッチャ面白い、青春スポコン活劇の快作である。
内容はやたら長い副題の通りで、福井商業高校の女子高生チアダンスチーム”Jets”が、海を渡って全米選手権で優勝するまでの山あり谷ありの3年間のサクセスストーリー。
プロットもテリングもベッタベタのどストレート。
まるで松岡修造の話を2時間聞いている様な、暑苦しいくらい熱い映画なのだけど、コレがウザイイのである。
林民生の脚本は軽快にリズムを刻み、「俺物語!!」でも暑苦しかった河合勇人の演出は、プラス5度くらい室温を上げてる(笑
まあこの軽いテイストは好みが分かれるだろうけど、本作はいわばお下品さを暑苦しさに置き換えた「ピッチ・パーフェクト」みたいなもので、これはこれで良いと思う。
がんばる田舎娘の話は、各ジャンル印象的な作品が多い。
21世紀以降に限っても、東北の落ちこぼれ娘たちがジャズのビッグバンドを組む「スウィングガールズ」、斜陽の炭鉱の街を救うために少女たちが立ち上がる「フラガール」、書道パフォーマンスで不況の故郷にエールを送る「書道ガールズ‼︎わたしたちの甲子園」、そして高校演劇日本一に挑む弱小演劇部を描く「幕が上がる」など、秀作佳作がひしめいている。
実話ベースの話が多いのも、一つの特徴かもしれない。
その中でも本作は、「フラガール」と同じく、ダンスという躍動する肉体言語の力が圧巻。
こういう体で物語る作品を観ると、やっぱり役者って凄いなと思わされる。
撮影前から数ヶ月かけて技を磨いていったそうだが、いや数ヶ月じゃ普通無理でしょう。
もちろん撮影技術のアシストはあるとしても、少なくとも素人目には十分凄いパフォーマンスに見えるのだから。
広瀬すずと真剣佑なので「ちはやふる」を連想するけど、本作の白眉は部長役の中条あやみだ。
劇中のセリフにもあるが、違った華のある旬な二人を親友でライバルにしたことで、物語にしっかりした軸が通った。
お互いの葛藤が物語を進めるエンジンになって、苦しみながらも成長してゆく王道の青春ストーリーに、スポコンならではの壁をブレイクスルーし勝利するカタルシス。
クライマックス直前のポジション変えの後、中条あやみが広瀬すずに渡す夢ノートの一度破った跡とか、演出も結構細かい。
反面、この手の映画ではしばしばキーパーソンとなる、天海祐希の先生がやや描き足りないなあと思ってたら、終盤の回想シークエンスで涙腺決壊。
あそこも恥ずかしいくらいベッタベタだが、ジャンルは違えど同じ先生の端くれとしては感情移入して泣かざるをえなかった。
ティーンの話なのに潔いくらい色気を感じないのだけど、これは完全に友情・努力・勝利のスポ根少年漫画だから、ロマンス要素がほぼ無いのはこれでいい。
それでも広瀬すずと真剣佑の爽やかな関係や、最後まで名前が出ない中条あやみのストーカー君は、美味いスパイスになっていたと思う。
根暗キャラの山崎紘菜や和製レベル・ウィルソン、富田望生たちチームメイトの面々もそれぞれに魅力的。
春休みに部活の友達同士で観に行くのに最高の映画だ。
今回は福井の地酒、加藤平吉商店からチャンピオンにふさわしい「梵 純米大吟醸 ゴールドGOLD」をチョイス。
純米大吟醸らしい米の味わいと、ふわりとしたフルーティーな香りが華やか。
クセがなく、すっきりとした喉ごしで、非常に飲みやすい。
銘柄の梵とは、サンスクリット語で「けがれなき清浄」「真理をつく」という意味で、読み方のBORNでは「誕生」「創造」を表すという、まさにこの映画の少女たちにピッタリだ。
未成年は飲んじゃダメだけど。

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さすがはナ・ホンジンだ。
開けてみるまで、作品の中身が全く想像出来ない。
タイトルにはハングルと共に「哭声」という漢字が当てられているが、劇中のコクソンとは物語の舞台となる全羅南道 谷城(コクソン)郡という地名。
山深い片田舎で奇妙な連続殺人事件が起こり、人々は國村隼演じる謎の日本人が関わっていると噂する。
いかにも韓国的な祈祷師による悪霊払いなど、土着性を前面に出しながら、実はキリスト教が重要なモチーフとなる、「エクソシスト」以来最も恐ろしい正統派オカルト映画だ。
同時に、Jホラーを含むアジアの恐怖エッセンスを混ぜこぜにした、最恐のハイブリッドホラーでもあり、この組み合わせが映像として未見性を作り出しているだけでなく、先の読めない物語の意外性にも繋がっている。
全編にわたって不穏な湿気がまとわりつき、気づいた時には私たちは普段目に見ることの出来ない超常の世界に迷い、”惑わす者”の術中にどっぷりと嵌っているのである。
※核心部分に触れています。
谷城の山奥にやってきた、得体の知れない日本人(國村隼)。
目的も素性も謎のよそ者に関する噂が広がりを見せる中、村人が自分の家族を虐殺するという事件が連続して起こる。
どの事件にも共通するのは、体に爛れた湿疹が広がり、正気を失って言葉を発することもできない犯人たちの姿だった。
それぞれの事件のつながりも掴めず、警察の捜査は行き詰まる。
そんな時、事件を担当する村の警察官・ジョング(クァク・ドウォン)は、娘の体に犯人と同じ湿疹があるのに気づく。
事件の目撃者だという女・ムミョン(チョン・ウヒ)に、犯人は山の日本人だと聞いたジョングは、彼を追い詰めてゆくのだが、娘の症状はますます悪化し奇妙な言動をするようになる。
恐怖が蔓延する村には混乱が広がり、ジョングは高名な祈祷師・イルグァン(ファン・ジョンミン)に助けを求めるのだが・・・
毎日新聞のインタビューによると、舞台となるコクソンにはナ・ホンジンの祖母の実家があり、彼自身も幼い頃によく行った場所だという。
この一帯は韓国でも最も開発が遅れ、手つかずの自然が残っており「神を感じさせるシーンを描くのにふさわしいと思った」のが、この地を選択した理由だとか。
迷信深い人々が暮らす山深い僻地、連続する動機不明の殺人事件、犯人たちの体に広がる奇妙な湿疹、得体の知れない謎の日本人、悪霊払いの祈祷師というモチーフは、全体に韓国的というか汎東アジア的な土着のムードを感じさせ、横溝正史の探偵小説をもう少しホラーよりにした様な趣だが、実はこれは観客を誘う巧みなミスリードなのである。
冒頭に出てくる「ルカによる福音書 第24章」が重要なヒントで、これが実は映画の世界観を表している。
第24章で描かれているのは、キリストの復活とそれを目の当たりにした人々の戸惑いだ。
十字架に架けられてから三日目、イエスは予言通り復活するのだが、弟子たちはそれが信じられず、なかなか目の前の人をイエスと認められない。
この章で問われているテーマは、イエスの言葉を「信じる」ということだが、ナ・ホンジンはこの映画のテーマを「混同」であると述べている。
では本作の登場人物たちは、一体何を信じ、何を混同しているのか。
まず、この映画の人物相関を簡単に整理してみよう。
主人公となるのは警察官のジョングで、彼には妻と義母、そして可愛い盛りの一人娘がいる。
村で事件が起こり始め、原因はつかめず、手がかりとなりそうなものは犯人の体に広がる湿疹のみ。
そんな時に、ジョングは事件を目撃したと話すムミョン(名無し)という女から、山に住むよそ者の日本人が犯人だという証言を得る。
元から村では日本人に対する超自然的な噂が広がっており、次第に疑念を募らせたジョングは彼を訪ねて問い詰める。
そして、娘の言動が常軌を逸し始め、体に事件を起こした犯人たちと同じ湿疹が見つかり、祈祷師によって娘を呪う悪霊がいると知らされると、ジョングはそれが日本人だと思い込んでしまうのだ。
つまり、この時点では呪いをかけているのは日本人、被害者は村人たちとジョングの娘、対抗するのがジョングと祈祷師というシンプルな構図であり、ムミョンの役割はまだはっきりしない。
しかし、祈祷師が娘を救うために悪霊である日本人に”殺”を打つ、中盤の山場である儀式のシークエンスあたりから、映画はその様相を急速に変えてくるのである。
この映画にはあえて説明を排しているために、その描写の意味がいく通りにも捉えられる部分がたくさんある。
ジョング目線で物語を追っている観客は、しばしば目の前で起こっていることの意味を、別の意味と混同してしまうように出来ているのだ。
韓国人とそっくりだけど微妙に異なり、何を考えているのか分からない日本人の存在は、「信じて、混同する」という作品のコンセプトを象徴する。
作者は、この映画で「アジアの原始宗教を描いて、聖書中心の世界観を覆そうと思った」と語っている。
「同じ映画を見ても、観客の宗教観によって、それぞれが違う解釈をする」とも。
先日公開されたマーティン・スコセッシ監督の「沈黙 ーサイレンス-」の記事で、日本人と米国人の宗教観の違いによる物語の解釈の相違について書いたが、本作の場合は最初から違った解釈が生まれるように仕向けられているのである。
だから、この映画の読み解きには、本当は正解も不正解も無い。
だが、「聖書中心の世界観を覆そうと思った」という作者の言葉通りならば、本作は基本的に「ルカによる福音書 第24章」の反転と捉えて良いのではないかと思う。
そう考えると、一度殺された後で手に聖痕を持つ悪魔として復活する日本人は、キリストになれなかった者。
悪魔崇拝者で、悪魔を召喚するために村に呪いを広めていたのは彼で、最終的に「霊に肉や骨はないが、私にはあるのだ」の言葉通りに、死んだ彼自身の肉体を依代にして悪魔は召喚された。
祈祷師も悪魔崇拝者で、一見二人がバトルしているように見える中盤の儀式は、実はお互いの存在を知った二人が、別々の対象を呪っている。
祈祷師のターゲットは、助けると見せかけてジョングの娘を、日本人はトラックの運転席にいた瀕死の男、パク・チュンべにそれぞれ悪魔を召喚しようとしていたのだ。
パク・チュンべは最初日本人でなく祈祷師によって呪われた男で、祈祷師の儀式の後に家族を殺して逃亡。
日本人がこの男を偶然見つけたことによって、彼は”同士”の存在に気付き、同じ時刻に儀式を始める。
ところが祈祷師の儀式は、娘の苦しむ姿に耐えられなくなったジョングによって、日本人の儀式はムミョンによって阻止されてしまう。
ムミョンの正体に関しては、イエスよって七つの悪霊を追い出してもらい、彼の死と復活を見届けるマグダラのマリアの反転であり、この映画の登場人物の中で唯一最初から霊的な存在と解釈したい。
おそらく彼女はコクソンの土地神的な存在で、日本人と祈祷師が呪いを広めるのを阻止しようとしている。
だから、日本人は敵である彼女から逃げ、途中事故によって死亡、祈祷師も彼女の力によって鼻血が止まらなくなり、恐れをなして一旦は諦めようとするのだ。
しかし、ここで事態を混同して信ずる者を見誤ったジョングによって、彼女の目論見は水泡に帰してしまう。
最初の事件現場にもムミョンが悪霊に対して仕掛けた罠が残っていたことから、おそらく全ての事件で同じことが繰り返されていたのだろう。
人は、基本的に自分が信じたいことを信じるもので、だからこそ惑わす者たちにとっては陥し入れやすく、守護する者にとっては守りにくい。
ムミョンがジョングに言う「鶏が三回鳴くまで」も、キリストへの絶対的な忠誠を誓っていたペトロが、師に「あなたは鶏が鳴く前に三度私を知らないと言うだろう」と言われ、予言通りに裏切ってしまったという話の反転だ。
ただ、この映画は「誰」あるいは「何」を反転と位置付けるかによって、全く解釈が違ってきてしまうので、上記はあくまでも私的な読み解きで、二度三度観るうちに変わってくる可能性もあるだろう。
「哭声 コクソン」は、汎東アジア的な精神世界とキリスト教的な世界観を融合させ、正統派でありながら、驚くべき未見性に満ちたオカルトホラー映画の大傑作だ。
この映画の描く世界に一番近いのは、おそらく諸星大二郎の民俗学ホラー漫画だと思う。
キーパーソンとなる日本人を演じる國村隼が、評判通りの怪演で強烈な印象を残す。
疾風怒濤の「チェイサー」とは対照的に、156分の間ジワジワとはらわたを締め付けられ、脂汗が滲み出るような焦燥感は、他の映画では体験したことの無いもので、ナ・ホンジンは映画史に残る新たな代表作を作り上げた。
”惑わす者”は本当は誰なのか、誰を信じて、誰を信じないのか。
観客もジョングと共に疑心暗鬼に陥り迷い続けるラスト20分、究極の決断の結果はあの「ミスト」にも匹敵するインパクトだった。
今回は、赤唐辛子を使うカクテル「デビル」をチョイス。
ブランデー40ml、グリーン・ペパーミント20mlを氷を入れたシェイカーでシェイクして、グラスに注ぐ。
軽くレッド・ペッパーをふりかけて完成。
レッド・ペッパーを使わないレシピもある。
ペパーミントの清涼感が広がり、レッドペッパーの辛味がピリッとくる、刺激的なカクテルだ。

![]() GET27(ペパーミント・グリーン) |


ディズニーの第二黄金時代を代表する「リトル・マーメイド」「アラジン」から「プリンセスと魔法のキス」に至る、手描きアニメーション時代の多くの名作を手がけたレジェンド、ロン・クレメンツとジョン・マスカー監督の最新作。
ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオによる56作目の長編映画である。
前作の「アナと雪の女王」の雪と氷の世界とは対照的に、本作の舞台となるのはどこまでも広がる常夏の海。
南太平洋の島々に伝わる伝説をモチーフに、全能の女神テ・フィティの奪われた心を返すために、海に選ばれた16歳の少女・モアナの冒険を描くファンタジーアドベンチャー大作だ。
モアナ役には、ハワイ先住民の血をひくアウリィ・クラヴァーリョが抜擢され、演技だけでなく天性の歌唱力でも魅せる。
彼女の旅の仲間となる、タトゥーだらけの半神マウイには、ドウェイン・ジョンソン。
ミュージカル・アニメーションとしても聞き応え十分で、春休みにぴったりの娯楽大作だ。
※核心部分に触れています。
平和な島の族長の娘・モアナ(アウリィ・クラヴァーリョ)は、幼少期のある出来事により海との絆で結ばれた少女。
彼女が16歳になった時、島では突然魚が獲れなくなり、ヤシの実にも病気が蔓延。
実は遠い昔、世界の命の源である女神テ・フィティの心の石が半神マウイ(ドウェイン・ジョンソン)によって盗まれ、マウイは逃走の途中に悪魔テ・カァの襲撃に遭い、心の石をなくしてしまう。
以来、少しずつ海は闇の力に蝕まれ、千年の時を経てモアナの島にも影響が及んだのだ。
海によってテ・フィティの心を返す者として選ばれたモアナは、サンゴ礁を超えてはいけないという島の掟を破り、一人大洋に船を乗り入れる。
テフィティの居場所を知るマウイを探すモアナは、流れ着いた島でマウイと出会う。
マウイは、嘗てテ・カァと戦った時に無くした、どんなものにも変身できる魔法の釣り針を取り戻したら、テ・フィティの元へ連れて行ってくれるというのだが・・・
いや〜楽しかった。
カテゴリ的にはディズニー・プリンセスものの最新作となるのだろうが、ここまで思い切った作りにするとは意外。
まあ「アナと雪の女王」でも”真実の愛”は姉妹愛だったし、アナとクリストフのロマンス未満の関係はあるものの、完全にサブエピソード扱いだった。
ところが今回は、遂に恋愛要素すらプロットから完全に消え去り、歴代のディズニー・ピクサーの女性主人公の作品でも、最も冒険アクション色が強い。
本作の印象を簡単に言えば、明るく楽しいディズニー的世界観の中で、「マッドマックス 怒りのデス・ロード」をやり、ジブリアニメのスパイスを効かせたと言う感じだろう。
ジョージ・ミラーと宮崎駿への愛は、クレメンツとマスカー両監督も公言している。
特に「怒りのデス・ロード」に関しては、前半に分かりやすいオマージュシークエンスがある。
マウイが幽閉されていた島から脱出した二人が、ココナッツの海賊団に襲われるのだけど、ドラムをドンドコ打ち鳴らしながら追ってくるこいつらが、完全にイモータン・ジョーとウォーボーイズなのだ(笑
ディテールだけでなく、モアナをフュリオサ大隊長に、巻き込まれて最初はイヤイヤ彼女を助けることになるマウイをマックスに置き換えると、全体の構造もある程度似ていることがわかわる。
もっとも、クレメンスとマスカーは2011年には歴史学者や言語学者などのスペシャリストと共にポリネシアを訪れ、綿密な考証のもとにストーリー作りを始めていて、時期的に考えると構造的な相似は偶然で、制作途中に「怒りのデス・ロード」にインスパイアを受けて、オマージュ描写を加えたのだろう。
全ての命の源、世界が始まった場所を目指す壮大な貴種流離譚のテーマは、「私は本当は何者か」ということである。
これは、ここしばらくのディズニー映画のヒロインに共通するもので、本作の両監督の前作「プリンセスと魔法のキス」もそう。
あの映画の主人公・ティアナは自分のレストランを開くという夢に邁進している反面、それ以外の生きる楽しみをすっかり忘れてしまっている。
それが魔法でにカエルにされた王子と出会い、うっかり自らもカエルになってしまったことで、人間に戻るための旅を通して、人生で本当に大切なことに向き合い、成長してゆく。
ティアナよりも少し若いモアナの場合、島の族長の娘として生まれ、いつか島を統べる仕事を父親から受け継ぐことを、生まれながらに運命付けられている。
一族が代々になってきた役割の大切さは重々承知しているものの、島の外に広がる海への憧れには抗しがたい。
その衝動が島に定住した一族が封印してきた、大洋の航海者の血によるものであることを知り、ますます自分は何者かという葛藤を募らせる。
そして、降ってわいた島の危機と、最大の理解者である祖母の後押しによって未知の世界へと旅立つことになるのだ。
モアナが選ばれたのは、彼女が島に引きこもった人々を再び海に導く者だから。
しかしそのためには、行く手を阻む闇を討ち払わねばならず、世界の命運がかかった使命に挑むモアナは、滅びの時代に人類の未来を託されたナウシカであり、一つの指輪をオロドルインの火口まで持って行ったフロド・バギンスだ。
人知の及ばぬ運命によって与えられた使命は、同時に恐るべき呪いとして彼女に重くのしかかる。
しかも「私は本当は何者か」という葛藤は、モアナだけではなく、彼女の相方となるマウイや、旅の目的でもある女神テ・フィティにも共通のもの。
人間の子として生まれ、親に捨てられたマウイは、神に拾われて力を授けられることで不死の半神となった。
神と人間、どちらの世界にも属せない彼は、自分を捨てた人間たちから愛されたい、英雄として讃えられたいという、強烈な承認欲求から逃れらない。
だから神しか持たない命を生み出す力を欲して、テ・フィティの心の石を盗んでしまうのだ。
そして、あらゆる存在が持つ二面性は、神とて例外ではない。
心の石を盗んだマウイを襲い、千年後の今もテ・フィティの島にいて、世界に闇を吐き出し続ける溶岩の悪魔、テ・カァこそは心を失って変異したテ・フィティそのもの。
つまりテ・カァはある種の祟り神なのである。
航海者モアナとマウイの旅は、テ・カァをあるべき姿に戻し、世界に調和をもたらすのと同時に、それぞれに自らをの生き方を決める人生の通過儀礼。
モアナの活躍により心を取り戻し、"本当の自分"の姿となったテ・フィティの顔がモアナと似ているのも、この物語構造を裏打ちする。
物語のテーマを、相関する主要登場人物全員の葛藤に組み込み、多重構造にするアイデアはまことに秀逸だ。
ところで、本作にインスパイアを与えていると思われるいくつかの作品の一つに、「ロード・オブ・ザ・リング」三部作があるのだが、終盤におそらく狙ってやったんじゃないかという、可笑しな符合がある。
女神テ・フィティと悪魔テ・カァが同一の存在だと知らないモアナとマウイは、テ・フィティの島への進入のために、テ・カァの溶岩の防壁を越えるために大変な苦労をし、諦めたマウイは遁走してしまう。
ところが、一人になったモアナがようやくテ・カァの突破に成功した後、鷹に変身したマウイが何事も無かった様に島の反対側の空から戻ってくるのである。
これは一つの指輪をオロドルインの火口に運ぶのに、最初から大鷲のグワイヒア一族の手を借りればいいじゃないか、という「ロード・オブ・ザ・リング」の突っ込みどころと同じ様なもの。
あの映画でも殆どの観客は気にしなかったのだから、こちらでもあえて同じことをやってみたというのは穿ち過ぎか(笑
「モアナと伝説の海」は非常によく出来た娯楽大作だが、女性主人公の作品に対するディズニーの試行錯誤も感じられる。
現在、初代の白雪姫から「メリダとおそろしの森」のメリダまで、ディズニーオフィシャルのプリンセスは11人で、「アナと雪の女王」の2人もまだこのリストには入っていない。
本作でもマウイが冗談めかしてモアナを「プリンセス」と呼ぶのだが、彼女は「私はプリンセスなんかじゃない」と返すのだ。
映画は時代を反映するもので、プリンスのブランドが暴落した様に、ここまで過去の路線と違ってくると、もはやプリンセス括りは要らないのかも知れない。
マーケティング的には今でも重要なんだろうけど、アニメーションが新作の度に変化し続けるのに対して、「シンデレラ」「美女と野獣」と言った実写リメイクシリーズが、むしろ正統派キープなのは面白い。
21世紀のディズニープリンセスは何処へ行くのだろう。
まあどっちの路線も、それぞれ良さがあるのだけど。
同時上映の「Inner Workings」は、言わば「インサイド・ヘッド」の臓器版。
いや、むしろあの映画の元ネタである短編、「理性と感情(Reason and Emotion)」を脳と心臓に置き換えたものと言えるかも。
脳の目覚めと共に、心臓や肺、胃袋といった臓器が擬人化されて活動を始める。
ルーティンに縛られた人間が、心と体を解放するという展開は、テーマ的にも描写的にも「紙ひこうき」と被るのが少々気になるが、結構笑わせてもらった。
いつも尿意に耐えてる膀胱くんがかわいい。
あの気持ち分かるわ(笑
ちなみに、「Inner Workings 」も「モアナと伝説の海」も3GCG作品ながら、一部手描きアニメーションが効果的に組み込まれているのが印象的。
マウイのタトゥーが動くのなんて、手描きならではだもんね。
今回はトロピカルなカクテルの定番の一つ「ブルーラグーン」をチョイス。
ウォッカ30ml、ブルー・キュラソー10ml、レモン・ジュース20mlをシェイクして、アイスを入れたシャンパングラスに注ぐ。
スライスしたレモン、オレンジ、チェリーを飾って完成。
南国の海を思わせるブルーが目に鮮やかで、辛口のウォッカ、レモンの酸味がスッキリとした味わい。
あと、近年のディズニーアニメーションの例に漏れず、エンドクレジット後におまけがあるので最後まで席を立たない様に。
「リトル・マーメイド」を観たことない人は、できれば事前に鑑賞しておくと爆笑できるかも。



母娘二人暮らしの母子家庭。
何かと問題のある母が突然失踪し、少女・トモが身を寄せたマキオ叔父さんの家には、トランスジェンダーのパートナー、リンコさんがいた。
最初は戸惑ったものの、親身に世話をしてくれるリンコさんの優しさに癒され、いつしか三人は本当の家族の様になってゆく。
しかし、まだまだ日本の社会は性的マイノリティーに対して寛容とは言い難い。
女性としての人生を歩もうとするリンコさんには、偏見の目がつきまとう。
荻上直子監督の新境地と言える、極めて丁寧に作られた秀作である。
興行的にも批評的にも大成功した「かもめ食堂」以来、彼女の作品は良くも悪くもあの映画を引きずってきた。
端的にそのスタイルを言い表すと、フィンランドの日本食堂や、変人が集まる南国の民宿など、日常から離れた特殊な空間を用意して、そこに一般社会からずれたキャラクターを配し、ある種のファンタジーとしての寓話劇を成立させるというもの。
今回も、基本的な物語の成り立ちはそれほど変わらないのだが、現在日本のごく一般的な都市で展開する本作は日常から逃げない、いや逃げられない。
LGBTに対する差別、育児放棄といったモチーフは、基本的に個人の内的な葛藤の物語であった過去の作品と異なり、明確に社会との関わりで生まれてくるものだから、ファンタジーに落とし込むことはできないのである。
ここにきて、荻上監督は「かもめ食堂」の呪縛からは完全に脱したと言っていいだろう。
母に捨てられたトモを含め登場人物の多くは、少し”普通"と違う人生を歩んでいることに葛藤している。
心と体が別の性で生まれてしまったリンコさん、ちゃんと母親ができないトモの母、同性に恋した自分に戸惑うトモの同級生のカイ、そんな息子を受け入れられないカイの母。
三人の疑似家族を全体の軸として、そのまた軸となるのは絶対にぶれないマキオ叔父さん。
彼らを取り巻く人々の物語に、擁護するもの、差別するものを含めて色々な考え方や、登場人物のバックグランウンドを組み込む構成も巧みだ。
映画は、皆の抱える問題を一つ一つ提示しつつ、お涙頂戴に走ることもなく、感情に寄り添いながら、リアリティを保ったまま淡々と物語を紡ぐ。
内容的にはかなりエグい部分を含むのだけど、子供目線で描いたことと、ウィットに富んだ登場人物のユーモアに救われている。
タイトルにもなっている彼らが編んでいる”ある物”の意味など、メタファーの使い方も秀逸で、思春期に足を踏み入れつつあるトモとリンコさんの、性に関する開けっぴろげな会話もこの作家らしい。
これは、小学五年生の目で見た小さな世界の多様性。
物語の結末はちょっとビターだが、観終わって「どんな立場の人にも優しくありたい」と思える、とても気持ちの良い映画だ。
トランスジェンダーの女性を演じた生田斗真をはじめ、俳優陣は皆好演だが、主人公であり語り部でもあるトモ役の柿原りんかがナチュラルで素晴らしい。
末恐ろしい演技力である。
彼女と同じくらいの年齢の子供たちには、色々感じ取るところの多い映画だと思うので、春休みに親子で鑑賞したりするにもオススメ。
もちろん映倫G指定なので子供たちだけでも。
今回は、桜の季節に桜を原料として使ったユニークなビール「サンクトガーレン さくら」をチョイス。
ホップの使用を控える代わりに、桜の名所として有名な長野県伊那市高遠産の桜の花と桜の葉を大量に使用。
日本ではビールに桜を使うことが出来ないので、一応発泡酒扱いになる。
桜デザインのボトルから注いでしまえば、見た目は普通のビールなのだけど、ほんのりとした桜の香りが広がり、口に含むと本当に桜餅の感じがする。
もちろん甘いのはあくまでも香りで、ビール的なキレや苦味を持ちながらも、ここまでちゃんと桜してるのはなかなか凄い。
お花見ピクニックにこれほどふさわしい一本も無いだろう。
発明した人にイグ・ノーベル賞あげたい(笑
ちなみに、昔知り合ったトランスジェンダーの女性に聞いたのだけど、性転換手術の後に作った「穴」が塞がらないように、金属の棒を入れておくのだそう。
それで最後にその棒を引き抜く時の痛さは、悶絶ものらしい。
まあ二十年くらい前の話だから、今はもうちょっとマシなのかもしれないけど。

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冬の富山を舞台に、軽度の知的障がいのある真白の初めての恋を描く、リリカルなラブストーリー。
普段の真白は、実家の自転車屋の店番をしたり、犬の散歩をしたりして平凡な日常を過ごしている。
彼女の精神年齢が幼いことは見た目からは分からず、少々話し方が独特ではあるが日常生活を送るにはまったく問題ない。
だから恋の相手となる東京から来たカメラマン・景一は、当初彼女が障がい者だとは気付かず、不慣れな街の案内をしてもらっているうちに親しくなってゆく。
生まれてから地元の小さな世界しか知らず、常に守られて生きてきた真白は、彼と出会うことによって必要とされる喜びを知り、次第に恋心を抱くようになるのである。
真白のモデルになっているのは、脚本の北川亜矢子の弟さんだとか。
だからだろう、真白のキャラクターはごく自然に造形され、物語も彼女の感情に寄り添いながらも、常に客観性を保つ。
何が普通で何が普通で無いのか、線引きは人それぞれ違うし、彼女に対してどう接するるべきかという考え方も異なる。
真白に障がいがあることを知っても、景一の態度は変わらないし、実家の隣に住んでいる東京帰りの美容師の従姉妹・雪奈も、どこにでもいる若い女性として彼女に接する。
一方で、より近い関係の両親や兄は、どうしても過保護になってしまうコントラスト。
でも登場人全員の真白に対するスタンスには、ちゃんと理由があるのだ。
両親や兄が過保護気味なのは、真白が5歳の時に誘拐未遂にあったことが影を落としてる。
世の中の悪意に対して無防備な娘を守るために、彼らは彼女をなるべくそばに置いて守りたいのだろう。
だが、そんな両親の姿は、微妙に距離感の違う雪奈にとっては、真白を自分たちのエゴで籠の鳥にしているように見えるのである。
彼女の恋を応援する者、心配する者。
時として人を思いやる気持ちが、相手の人生の可能性を阻む壁になる皮肉。
主人公の真白を含めた全員が、彼女の恋の熱情に巻き込まれ、それぞれの立場で彼女を思いやり葛藤する。
そして皆、物語を通して少しだけ成長するのである。
これからも真白の日常は大きく変わらないだろうけど、それでも初めての恋の苦しみを通して、彼女の未来の可能性は広がったのだと思う。
富山在住でこれがデビュー作の坂本欣弘監督の元、自主制作体制で作られた作品は、低予算だが地方都市の生活に根を下ろし、リアリティ十分。
雪化粧の立山連峰が背後にそびえる冬の富山の風景は、シネスコサイズの画面に大いに映えるのだな。
作品世界にナチュラに存在する俳優陣も素晴らしい。
特に真白役の佐藤みゆき、景一役の福地祐介、従姉妹の雪奈を演じた岩井堂聖子の三人は、真白の恋の共犯者としてとてもいいトリオだった。
ところで雪奈さん、髪の毛の量はそんなに重要ですかあ( ;´Д`)
劇中でとても印象的なのが冬の立山の御来光で、一度は見てみたくなる。
そんな立山繋がりで富山の地酒、立山酒造の「銀嶺立山 純米大吟醸 雨晴」をチョイス。
やや辛口で、純米酒らしい適度なコク、後味のキレもあり食中酒として料理を選ばない。
個人的には立山連峰を眺めながら、北陸の海の幸と合わせたい良質のお酒だ。

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二年前、鮮烈な音楽バトル映画「セッション」で、センセーションを巻き起こしたデミアン・チャゼル監督の最新作は、前作とはガラリとムードを変えたミュージカルスタイル。
タイトルの「ラ・ラ・ランド」とは、ハリウッドの俗称であるのと同時に、陶酔して夢の中にいるような精神状態のことでもある。
ジャズピアニストで自分の店を持ちたいと願うセブ、女優を目指すミアという二人の夢追い人の出会いから恋の熱情と葛藤、そして青春の終わりまでを描くパワフルな音楽映画だ。
チャゼルが相変わらず無駄のないキレキレのテリングで魅せ、ライアン・ゴズリングとエマ・ストーンという旬な二人がセブとエマを演じる。
※ラストに触れています。
クリスマスが近い、現代のハリウッド。
女優になることを夢見、アリゾナの田舎からやってきて6年、未だオーディションに落ち続けているミア・ドーラン(エマ・ストーン)は、ある夜ピアノの音色に誘われてレストランに足を踏み入れる。
だが、そこにいたジャズピアニストのセバスチャン”セブ”・ワイルダー(ライアン・ゴズリング)は、オーナーの意に沿わない演奏をしたとしてクビになってしまう。
その日から、偶然にも何度も会うことになる二人は、いつしか恋に落ち、一緒に暮らし始める。
セブにはいつかジャズの店を開くという夢があるが、現実は厳しい。
ミアとの暮らしのために、フュージョンバンドのキーボードプレイヤーとなったセブは、図らずもミュージシャンとして成功してしまうが、それはある意味自分の夢からは遠ざかることを意味していた。
一方のミアもなかなか仕事が上手くいかず、季節がめぐる頃には二人の間には秋風が吹くようになってしまう・・・・
予告編のイメージから、どうしてもレトロオマージュな正統派ミュージカルを期待させるが、実は大きなミスリードだ。
この映画は、そんな作品の"フォーマット"に気を取られると本質を見失う。
冬・春・夏・秋、そしてもう一つの冬の五つの章から構成された物語は、確かにディテールには作者の映画的記憶として、古き良きハリウッドミュージカルがちりばめられている。
だが本作は、巷で言われているような古典ミュージカルの復権とか、MGM回帰などのベクトルは持ち合わせていない。
何しろここには、ジーン・ケリーの「雨に唄えば」からマーティン・スコセッシの「ニューヨーク・ニューヨーク」、バズ・ラーマンの「ムーラン・ルージュ」に至る全く毛色の違った何本ものミュージカル、さらには「理由なき反抗」や「カサブランカ」といった非ミュージカル作品を含む、無数のオマージュがゴチャゴチャにぶち込まれていて、そこには何の系統性も見出せない。
思えばデミアン・チャゼルという人は、音楽観も映画観も極めて独特だ。
ライアン・ゴズリング演じるセブは、”昔ながらのジャズ”に固執しているが、元々ジャズなんて即興性の高いフリーな音楽で、それほど長くない歴史の中でどんどんスタイルを変えてきたはず。
だからセブ、すなわちチャゼルの考える昔ながらのジャズがどんなものなのか、今ひとつ分からない。
セブはミアと付き合いだすと、金のために学生時代の知人がやっているジャズとR&Bが融合したようなフュージョンバンドに入って活動を始めるのだけど、これが結構カッコイイのである。
要するに、セブがやりたい音楽ではない、イコール堕落したダメな音楽という位置付けではないようなのだ。
音楽も映画も、チャゼルの中には世間一般のカテゴライズとは別に、あくまでも彼の価値観に基づく古典的正統派と、新しくてカッコイイけど正統派ではないオレ基準の分類があって、どっちらにしても自作に引用するのは好きなものだけ、ということなのかも知れない。
彼の映画では、オマージュはあくまでもオマージュで、それぞれにちゃんと意味をもたせているが、作品で言いたいことの本質に関わってくることはないのである。
この独特のスタンスは、作中での音楽や映画の扱いにも表れている。
ジャズピアニストであるはずのセブは、他の人が演奏している真ん前で、ミアにジャズの素晴らしさをベラベラと講義するし、女優を目指しているミアは、上映中のスクリーンの前に突っ立って影を落とし、二人は映画そっちのけでキスしようとする。
どちらも、音楽や映画を深く愛する人たちからすれば「ちょっと待てよ」と思ってしまう描写なのだが、チャゼルにとっては愛する映画も音楽も自分の作品世界に取り込まれた段階で、全て表現手段の一つになってしまうのだろう。
だから、本作の予告から夢いっぱいの明るいミュージカルを期待していると、癖のあるゴリゴリの作家映画を観せられることになり、相当面くらう。
本作におけるミュージカルとは、あくまでも映画的に登場人物の感情を伝え、自分のイメージするラ・ラ・ランドの世界観を表現する手段に過ぎない。
本作は青春映画であると同時に、映画を通してショービス界に生きる人々をメタ的に描くセルフ・リフレクシヴ・フィルムの一種だ。
この映画のハリウッドは、いわばチャゼルの脳内でカリカチュアされて再構成された、ファンタスティックではあるが厳しい現実を反映したラ・ラ・ランド。
一見するといつの時代だか分からなくなるレトロモダンな世界観で、セブの車が今となってはクラッシクなビュイック・リビエラ・コンバーチブル、ミアが乗っているのが現代のハリウッドで大人気のプリウスというのも、作家の映画的記憶としての過去と現在が入り混じる作品世界を象徴する。
冒頭、大渋滞のフリーウェー上で繰り広げられる、ド派手なミュージカルシークエンス。
この映画はミュージカルのスタイルで語りますよ、渋滞にはまった車のように人生でなかなか進めない二人の物語ですよ、そして二人の最悪の出会いが象徴するように一筋縄ではいかない映画ですよ、という作品全体のイメージを端的に語る力技で一気に世界に引き込まれる。
そして出会いの冬、徐々に接近する春、恋の炎が燃え上がる夏、そして文字通り秋風の秋。
マジックアワーでの長回しのミュージカルシーンが美しい。
ラ・ラ・ランドで出会ったセブとミアの物語はしかし、夢の様には上手くいかない。
二人は共に夢追い人だから、お互いを応援するうちに恋に落ち、今度は恋に囚われて夢を捨てようとする。
四季を通じて二人の恋を追った物語は、一度は女優を諦めて実家に帰っていたミアが、セブに背中を押されて参加したオーディションで大きな手応えを感じるところで一区切り、最後の二度目の冬の章ではいきなり5年後に飛んでいるのである。
どうやら別れてしまったらしい二人は、それぞれの道で成功を収めている。
ミアは今やスター女優となり、優しい夫と娘にも恵まれて幸せに暮らしていて、セブもまた夢だった拘りのジャズの店を開いて人気店となっている。
そして、ある日偶然にも二人の運命は再び邂逅するのだ。
冒頭と同じく大渋滞にはまったミアと夫は、食事をするためにフリーウェーを降り、ジャズの音色に誘われるようにして一軒の店に入る。
店の名は、セブがいつか店を開いたら付けたいと語っていた「Seb’s」。
ここからが、この映画の驚くべきクライマックス。
二人の思い出の曲を演奏する懐かしいセブの姿を見ながら、ミアは二人の出会いから現在までの”if”の過去を見る。
もしも出会いが最悪でなかったら、もしも二人が別れなかったら、もしも一緒にパリへ行っていたら、もしも家族になっていたら。
描き割りの背景で演じられる7分間の”if”の人生劇場は、グザビエ・ドラン監督の「Mommy/マミー」で、全ての母なるものの夢、おそらく訪れないであろう幸せな”if”の未来を描く、切な過ぎるシークエンスを彷彿とさせる。
あるいは、愛し合う運命の二人がすれ違いを繰り返す、「君の名は。」以前の新海誠的であるとも言えるかもしれない。
いや、ミアが見ているのが単なる夢ではなく、彼女の想いが作り出したアナザーワールドだとしたら、これは結末の違うもう一つの「君の名は。」と捉えても、あながち間違いではないと思う。
夢を見られる街、ラ・ラ・ランドでも二つの夢は同時には掴めない。
セブとミアは、弱気になった時に夢を後押しする、同志としてお互いに必要な関係だった。
彼らはそれぞれの夢を叶えるために、恋を諦めなければならなかったが、それは愛の終りを意味しない。
映画は、セブとミアが笑みを浮かべながらお互いを見つめ合うところで幕を閉じる。
成功者になった二人にとって、ラ・ラ・ランドでの陶酔の日々は過去。
もう人生を共に歩むことはなくても、彼らの中で嘗て育まれた愛の記憶は永遠に生き、それぞれの夢を追いながらしっかりと地に足をつけて生きてゆくのだろう。
これはデミアン・チャゼルによる映画と音楽へのラブレターであり、若者たちの青春の熱情とその終わりを描く、切なくも美しい物語。
普遍性と未見性が絶妙にバランスする、文句なしの傑作である。
今回はラ・ラ・ランドのイメージに合わせてカラフルなカクテル、「エンジェルズ・デイライト」をチョイス。
グラスにグレナデン・シロップ、パルフェ・タムール、ホワイト・キュラソー、生クリームの順番で、15mlづつ静かに重ねてゆく。
スプーンの背をグラスに沿わせて、そこから注ぐようにすれば崩れにくい。
虹を思わせる四色の層が比重の違いで生まれる。
先ず目で味わい、口の中で多様な味が一つに溶け合う不思議な感覚は、まさに陶酔のラ・ラ・ランド。

![]() ヘルメス バイオレット/サントリー 720ML 1本 |