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2017年03月03日 (金) | 編集 |
そこは、夢を見られる街。
二年前、鮮烈な音楽バトル映画「セッション」で、センセーションを巻き起こしたデミアン・チャゼル監督の最新作は、前作とはガラリとムードを変えたミュージカルスタイル。
タイトルの「ラ・ラ・ランド」とは、ハリウッドの俗称であるのと同時に、陶酔して夢の中にいるような精神状態のことでもある。
ジャズピアニストで自分の店を持ちたいと願うセブ、女優を目指すミアという二人の夢追い人の出会いから恋の熱情と葛藤、そして青春の終わりまでを描くパワフルな音楽映画だ。
チャゼルが相変わらず無駄のないキレキレのテリングで魅せ、ライアン・ゴズリングとエマ・ストーンという旬な二人がセブとエマを演じる。
※ラストに触れています。
クリスマスが近い、現代のハリウッド。
女優になることを夢見、アリゾナの田舎からやってきて6年、未だオーディションに落ち続けているミア・ドーラン(エマ・ストーン)は、ある夜ピアノの音色に誘われてレストランに足を踏み入れる。
だが、そこにいたジャズピアニストのセバスチャン”セブ”・ワイルダー(ライアン・ゴズリング)は、オーナーの意に沿わない演奏をしたとしてクビになってしまう。
その日から、偶然にも何度も会うことになる二人は、いつしか恋に落ち、一緒に暮らし始める。
セブにはいつかジャズの店を開くという夢があるが、現実は厳しい。
ミアとの暮らしのために、フュージョンバンドのキーボードプレイヤーとなったセブは、図らずもミュージシャンとして成功してしまうが、それはある意味自分の夢からは遠ざかることを意味していた。
一方のミアもなかなか仕事が上手くいかず、季節がめぐる頃には二人の間には秋風が吹くようになってしまう・・・・
予告編のイメージから、どうしてもレトロオマージュな正統派ミュージカルを期待させるが、実は大きなミスリードだ。
この映画は、そんな作品の"フォーマット"に気を取られると本質を見失う。
冬・春・夏・秋、そしてもう一つの冬の五つの章から構成された物語は、確かにディテールには作者の映画的記憶として、古き良きハリウッドミュージカルがちりばめられている。
だが本作は、巷で言われているような古典ミュージカルの復権とか、MGM回帰などのベクトルは持ち合わせていない。
何しろここには、ジーン・ケリーの「雨に唄えば」からマーティン・スコセッシの「ニューヨーク・ニューヨーク」、バズ・ラーマンの「ムーラン・ルージュ」に至る全く毛色の違った何本ものミュージカル、さらには「理由なき反抗」や「カサブランカ」といった非ミュージカル作品を含む、無数のオマージュがゴチャゴチャにぶち込まれていて、そこには何の系統性も見出せない。
思えばデミアン・チャゼルという人は、音楽観も映画観も極めて独特だ。
ライアン・ゴズリング演じるセブは、”昔ながらのジャズ”に固執しているが、元々ジャズなんて即興性の高いフリーな音楽で、それほど長くない歴史の中でどんどんスタイルを変えてきたはず。
だからセブ、すなわちチャゼルの考える昔ながらのジャズがどんなものなのか、今ひとつ分からない。
セブはミアと付き合いだすと、金のために学生時代の知人がやっているジャズとR&Bが融合したようなフュージョンバンドに入って活動を始めるのだけど、これが結構カッコイイのである。
要するに、セブがやりたい音楽ではない、イコール堕落したダメな音楽という位置付けではないようなのだ。
音楽も映画も、チャゼルの中には世間一般のカテゴライズとは別に、あくまでも彼の価値観に基づく古典的正統派と、新しくてカッコイイけど正統派ではないオレ基準の分類があって、どっちらにしても自作に引用するのは好きなものだけ、ということなのかも知れない。
彼の映画では、オマージュはあくまでもオマージュで、それぞれにちゃんと意味をもたせているが、作品で言いたいことの本質に関わってくることはないのである。
この独特のスタンスは、作中での音楽や映画の扱いにも表れている。
ジャズピアニストであるはずのセブは、他の人が演奏している真ん前で、ミアにジャズの素晴らしさをベラベラと講義するし、女優を目指しているミアは、上映中のスクリーンの前に突っ立って影を落とし、二人は映画そっちのけでキスしようとする。
どちらも、音楽や映画を深く愛する人たちからすれば「ちょっと待てよ」と思ってしまう描写なのだが、チャゼルにとっては愛する映画も音楽も自分の作品世界に取り込まれた段階で、全て表現手段の一つになってしまうのだろう。
だから、本作の予告から夢いっぱいの明るいミュージカルを期待していると、癖のあるゴリゴリの作家映画を観せられることになり、相当面くらう。
本作におけるミュージカルとは、あくまでも映画的に登場人物の感情を伝え、自分のイメージするラ・ラ・ランドの世界観を表現する手段に過ぎない。
本作は青春映画であると同時に、映画を通してショービス界に生きる人々をメタ的に描くセルフ・リフレクシヴ・フィルムの一種だ。
この映画のハリウッドは、いわばチャゼルの脳内でカリカチュアされて再構成された、ファンタスティックではあるが厳しい現実を反映したラ・ラ・ランド。
一見するといつの時代だか分からなくなるレトロモダンな世界観で、セブの車が今となってはクラッシクなビュイック・リビエラ・コンバーチブル、ミアが乗っているのが現代のハリウッドで大人気のプリウスというのも、作家の映画的記憶としての過去と現在が入り混じる作品世界を象徴する。
冒頭、大渋滞のフリーウェー上で繰り広げられる、ド派手なミュージカルシークエンス。
この映画はミュージカルのスタイルで語りますよ、渋滞にはまった車のように人生でなかなか進めない二人の物語ですよ、そして二人の最悪の出会いが象徴するように一筋縄ではいかない映画ですよ、という作品全体のイメージを端的に語る力技で一気に世界に引き込まれる。
そして出会いの冬、徐々に接近する春、恋の炎が燃え上がる夏、そして文字通り秋風の秋。
マジックアワーでの長回しのミュージカルシーンが美しい。
ラ・ラ・ランドで出会ったセブとミアの物語はしかし、夢の様には上手くいかない。
二人は共に夢追い人だから、お互いを応援するうちに恋に落ち、今度は恋に囚われて夢を捨てようとする。
四季を通じて二人の恋を追った物語は、一度は女優を諦めて実家に帰っていたミアが、セブに背中を押されて参加したオーディションで大きな手応えを感じるところで一区切り、最後の二度目の冬の章ではいきなり5年後に飛んでいるのである。
どうやら別れてしまったらしい二人は、それぞれの道で成功を収めている。
ミアは今やスター女優となり、優しい夫と娘にも恵まれて幸せに暮らしていて、セブもまた夢だった拘りのジャズの店を開いて人気店となっている。
そして、ある日偶然にも二人の運命は再び邂逅するのだ。
冒頭と同じく大渋滞にはまったミアと夫は、食事をするためにフリーウェーを降り、ジャズの音色に誘われるようにして一軒の店に入る。
店の名は、セブがいつか店を開いたら付けたいと語っていた「Seb’s」。
ここからが、この映画の驚くべきクライマックス。
二人の思い出の曲を演奏する懐かしいセブの姿を見ながら、ミアは二人の出会いから現在までの”if”の過去を見る。
もしも出会いが最悪でなかったら、もしも二人が別れなかったら、もしも一緒にパリへ行っていたら、もしも家族になっていたら。
描き割りの背景で演じられる7分間の”if”の人生劇場は、グザビエ・ドラン監督の「Mommy/マミー」で、全ての母なるものの夢、おそらく訪れないであろう幸せな”if”の未来を描く、切な過ぎるシークエンスを彷彿とさせる。
あるいは、愛し合う運命の二人がすれ違いを繰り返す、「君の名は。」以前の新海誠的であるとも言えるかもしれない。
いや、ミアが見ているのが単なる夢ではなく、彼女の想いが作り出したアナザーワールドだとしたら、これは結末の違うもう一つの「君の名は。」と捉えても、あながち間違いではないと思う。
夢を見られる街、ラ・ラ・ランドでも二つの夢は同時には掴めない。
セブとミアは、弱気になった時に夢を後押しする、同志としてお互いに必要な関係だった。
彼らはそれぞれの夢を叶えるために、恋を諦めなければならなかったが、それは愛の終りを意味しない。
映画は、セブとミアが笑みを浮かべながらお互いを見つめ合うところで幕を閉じる。
成功者になった二人にとって、ラ・ラ・ランドでの陶酔の日々は過去。
もう人生を共に歩むことはなくても、彼らの中で嘗て育まれた愛の記憶は永遠に生き、それぞれの夢を追いながらしっかりと地に足をつけて生きてゆくのだろう。
これはデミアン・チャゼルによる映画と音楽へのラブレターであり、若者たちの青春の熱情とその終わりを描く、切なくも美しい物語。
普遍性と未見性が絶妙にバランスする、文句なしの傑作である。
今回はラ・ラ・ランドのイメージに合わせてカラフルなカクテル、「エンジェルズ・デイライト」をチョイス。
グラスにグレナデン・シロップ、パルフェ・タムール、ホワイト・キュラソー、生クリームの順番で、15mlづつ静かに重ねてゆく。
スプーンの背をグラスに沿わせて、そこから注ぐようにすれば崩れにくい。
虹を思わせる四色の層が比重の違いで生まれる。
先ず目で味わい、口の中で多様な味が一つに溶け合う不思議な感覚は、まさに陶酔のラ・ラ・ランド。
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二年前、鮮烈な音楽バトル映画「セッション」で、センセーションを巻き起こしたデミアン・チャゼル監督の最新作は、前作とはガラリとムードを変えたミュージカルスタイル。
タイトルの「ラ・ラ・ランド」とは、ハリウッドの俗称であるのと同時に、陶酔して夢の中にいるような精神状態のことでもある。
ジャズピアニストで自分の店を持ちたいと願うセブ、女優を目指すミアという二人の夢追い人の出会いから恋の熱情と葛藤、そして青春の終わりまでを描くパワフルな音楽映画だ。
チャゼルが相変わらず無駄のないキレキレのテリングで魅せ、ライアン・ゴズリングとエマ・ストーンという旬な二人がセブとエマを演じる。
※ラストに触れています。
クリスマスが近い、現代のハリウッド。
女優になることを夢見、アリゾナの田舎からやってきて6年、未だオーディションに落ち続けているミア・ドーラン(エマ・ストーン)は、ある夜ピアノの音色に誘われてレストランに足を踏み入れる。
だが、そこにいたジャズピアニストのセバスチャン”セブ”・ワイルダー(ライアン・ゴズリング)は、オーナーの意に沿わない演奏をしたとしてクビになってしまう。
その日から、偶然にも何度も会うことになる二人は、いつしか恋に落ち、一緒に暮らし始める。
セブにはいつかジャズの店を開くという夢があるが、現実は厳しい。
ミアとの暮らしのために、フュージョンバンドのキーボードプレイヤーとなったセブは、図らずもミュージシャンとして成功してしまうが、それはある意味自分の夢からは遠ざかることを意味していた。
一方のミアもなかなか仕事が上手くいかず、季節がめぐる頃には二人の間には秋風が吹くようになってしまう・・・・
予告編のイメージから、どうしてもレトロオマージュな正統派ミュージカルを期待させるが、実は大きなミスリードだ。
この映画は、そんな作品の"フォーマット"に気を取られると本質を見失う。
冬・春・夏・秋、そしてもう一つの冬の五つの章から構成された物語は、確かにディテールには作者の映画的記憶として、古き良きハリウッドミュージカルがちりばめられている。
だが本作は、巷で言われているような古典ミュージカルの復権とか、MGM回帰などのベクトルは持ち合わせていない。
何しろここには、ジーン・ケリーの「雨に唄えば」からマーティン・スコセッシの「ニューヨーク・ニューヨーク」、バズ・ラーマンの「ムーラン・ルージュ」に至る全く毛色の違った何本ものミュージカル、さらには「理由なき反抗」や「カサブランカ」といった非ミュージカル作品を含む、無数のオマージュがゴチャゴチャにぶち込まれていて、そこには何の系統性も見出せない。
思えばデミアン・チャゼルという人は、音楽観も映画観も極めて独特だ。
ライアン・ゴズリング演じるセブは、”昔ながらのジャズ”に固執しているが、元々ジャズなんて即興性の高いフリーな音楽で、それほど長くない歴史の中でどんどんスタイルを変えてきたはず。
だからセブ、すなわちチャゼルの考える昔ながらのジャズがどんなものなのか、今ひとつ分からない。
セブはミアと付き合いだすと、金のために学生時代の知人がやっているジャズとR&Bが融合したようなフュージョンバンドに入って活動を始めるのだけど、これが結構カッコイイのである。
要するに、セブがやりたい音楽ではない、イコール堕落したダメな音楽という位置付けではないようなのだ。
音楽も映画も、チャゼルの中には世間一般のカテゴライズとは別に、あくまでも彼の価値観に基づく古典的正統派と、新しくてカッコイイけど正統派ではないオレ基準の分類があって、どっちらにしても自作に引用するのは好きなものだけ、ということなのかも知れない。
彼の映画では、オマージュはあくまでもオマージュで、それぞれにちゃんと意味をもたせているが、作品で言いたいことの本質に関わってくることはないのである。
この独特のスタンスは、作中での音楽や映画の扱いにも表れている。
ジャズピアニストであるはずのセブは、他の人が演奏している真ん前で、ミアにジャズの素晴らしさをベラベラと講義するし、女優を目指しているミアは、上映中のスクリーンの前に突っ立って影を落とし、二人は映画そっちのけでキスしようとする。
どちらも、音楽や映画を深く愛する人たちからすれば「ちょっと待てよ」と思ってしまう描写なのだが、チャゼルにとっては愛する映画も音楽も自分の作品世界に取り込まれた段階で、全て表現手段の一つになってしまうのだろう。
だから、本作の予告から夢いっぱいの明るいミュージカルを期待していると、癖のあるゴリゴリの作家映画を観せられることになり、相当面くらう。
本作におけるミュージカルとは、あくまでも映画的に登場人物の感情を伝え、自分のイメージするラ・ラ・ランドの世界観を表現する手段に過ぎない。
本作は青春映画であると同時に、映画を通してショービス界に生きる人々をメタ的に描くセルフ・リフレクシヴ・フィルムの一種だ。
この映画のハリウッドは、いわばチャゼルの脳内でカリカチュアされて再構成された、ファンタスティックではあるが厳しい現実を反映したラ・ラ・ランド。
一見するといつの時代だか分からなくなるレトロモダンな世界観で、セブの車が今となってはクラッシクなビュイック・リビエラ・コンバーチブル、ミアが乗っているのが現代のハリウッドで大人気のプリウスというのも、作家の映画的記憶としての過去と現在が入り混じる作品世界を象徴する。
冒頭、大渋滞のフリーウェー上で繰り広げられる、ド派手なミュージカルシークエンス。
この映画はミュージカルのスタイルで語りますよ、渋滞にはまった車のように人生でなかなか進めない二人の物語ですよ、そして二人の最悪の出会いが象徴するように一筋縄ではいかない映画ですよ、という作品全体のイメージを端的に語る力技で一気に世界に引き込まれる。
そして出会いの冬、徐々に接近する春、恋の炎が燃え上がる夏、そして文字通り秋風の秋。
マジックアワーでの長回しのミュージカルシーンが美しい。
ラ・ラ・ランドで出会ったセブとミアの物語はしかし、夢の様には上手くいかない。
二人は共に夢追い人だから、お互いを応援するうちに恋に落ち、今度は恋に囚われて夢を捨てようとする。
四季を通じて二人の恋を追った物語は、一度は女優を諦めて実家に帰っていたミアが、セブに背中を押されて参加したオーディションで大きな手応えを感じるところで一区切り、最後の二度目の冬の章ではいきなり5年後に飛んでいるのである。
どうやら別れてしまったらしい二人は、それぞれの道で成功を収めている。
ミアは今やスター女優となり、優しい夫と娘にも恵まれて幸せに暮らしていて、セブもまた夢だった拘りのジャズの店を開いて人気店となっている。
そして、ある日偶然にも二人の運命は再び邂逅するのだ。
冒頭と同じく大渋滞にはまったミアと夫は、食事をするためにフリーウェーを降り、ジャズの音色に誘われるようにして一軒の店に入る。
店の名は、セブがいつか店を開いたら付けたいと語っていた「Seb’s」。
ここからが、この映画の驚くべきクライマックス。
二人の思い出の曲を演奏する懐かしいセブの姿を見ながら、ミアは二人の出会いから現在までの”if”の過去を見る。
もしも出会いが最悪でなかったら、もしも二人が別れなかったら、もしも一緒にパリへ行っていたら、もしも家族になっていたら。
描き割りの背景で演じられる7分間の”if”の人生劇場は、グザビエ・ドラン監督の「Mommy/マミー」で、全ての母なるものの夢、おそらく訪れないであろう幸せな”if”の未来を描く、切な過ぎるシークエンスを彷彿とさせる。
あるいは、愛し合う運命の二人がすれ違いを繰り返す、「君の名は。」以前の新海誠的であるとも言えるかもしれない。
いや、ミアが見ているのが単なる夢ではなく、彼女の想いが作り出したアナザーワールドだとしたら、これは結末の違うもう一つの「君の名は。」と捉えても、あながち間違いではないと思う。
夢を見られる街、ラ・ラ・ランドでも二つの夢は同時には掴めない。
セブとミアは、弱気になった時に夢を後押しする、同志としてお互いに必要な関係だった。
彼らはそれぞれの夢を叶えるために、恋を諦めなければならなかったが、それは愛の終りを意味しない。
映画は、セブとミアが笑みを浮かべながらお互いを見つめ合うところで幕を閉じる。
成功者になった二人にとって、ラ・ラ・ランドでの陶酔の日々は過去。
もう人生を共に歩むことはなくても、彼らの中で嘗て育まれた愛の記憶は永遠に生き、それぞれの夢を追いながらしっかりと地に足をつけて生きてゆくのだろう。
これはデミアン・チャゼルによる映画と音楽へのラブレターであり、若者たちの青春の熱情とその終わりを描く、切なくも美しい物語。
普遍性と未見性が絶妙にバランスする、文句なしの傑作である。
今回はラ・ラ・ランドのイメージに合わせてカラフルなカクテル、「エンジェルズ・デイライト」をチョイス。
グラスにグレナデン・シロップ、パルフェ・タムール、ホワイト・キュラソー、生クリームの順番で、15mlづつ静かに重ねてゆく。
スプーンの背をグラスに沿わせて、そこから注ぐようにすれば崩れにくい。
虹を思わせる四色の層が比重の違いで生まれる。
先ず目で味わい、口の中で多様な味が一つに溶け合う不思議な感覚は、まさに陶酔のラ・ラ・ランド。

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