幼くして事故で家族を亡くし、中学生の時にプロの棋士となった高校生、桐山零の葛藤と成長を描くリリカルな青春ストーリー。
原作もTVアニメも名作なので、必然的に期待のハードルは上がるが、二部作とはいえ、これだけ複雑な物語をよくぞまとめ上げた。
前後編277分の長尺を、全く飽きさせない。
大友啓史監督作品としては、「るろうに剣心」三部作以来の秀作だ。
主人公の桐山は、家族の死後に父の友人だったプロ棋士・幸田の家に引き取られるのだが、この時に幸田に「君は、将棋が好きか?」と聞かれたことが、全ての葛藤の発端となっている。
もしも「将棋が嫌い」と答えたなら、幸田は引き取ってくれただろうか。
何も持たない幼子は、生きるために将棋に縋るしかなかった。
自分の人生で、信じられるのは将棋しかない、将棋が強くなければ生きていけない。
そんな強迫観念を抱きながら、ずっと将棋と向き合ってきた桐山は、プロとなった今も、自分が本当に将棋を好きなのか分からない。
一方で、幸田の実子で共に育った義理の姉と兄は、天性の才能を持つ桐山を打ち破ることが出来ず、プロ棋士への道を閉ざされ、第二の人生に迷ったまま。
将棋によって救われる者、将棋によって絶望する者。
勝つか負けるか、ゼロサムの勝負師たちの世界では、誰もが将棋によって人生を左右されている。
そんな将棋漬けの生活を送る桐山にとって、初めて出来た安らぎの場が、和菓子屋・三日月堂の三姉妹の家だ。
将棋とはほとんど無縁の彼女たちとの交流を通して、桐山は幸田の家では味わうことの出来なかった家族の温もりを知ってゆく。
この作品の特徴は、破竹の勢いで出世街道を駆け上がる、プロ棋士として桐山を描く、ある種の競技スポーツものとしての面と、人間関係が苦手で視野の狭い少年が、世界の真実を知って行く成長ストーリーとしての面が、良い塩梅でバランスしながら融合していること。
基本的には、前編で桐山をはじめとする登場人物たちが、それぞれの葛藤を募らせ、後編では一人ひとりが、苦しみもがきながらも、答えを見つけてゆく構成となっている。
「君は、将棋が好きか?」という一つの問いから始まった桐山の葛藤は、何時しか自らを袋小路へと追い込み、孤立させてゆくが、物語を通してようやく彼は気付くのだ。
不幸なのは自分だけではなく、誰もが何かを背負って生きていること。
気づこうとしていなかっただけで、多くの人々の愛を受けながら成長していたこと。
そして、自分はやっぱり将棋が好きだということ。
桐山を演じる神木隆之介は、原作のイメージにぴったりだし、俳優陣は皆おしなべて好演。
ちょっと残念だったのは、染谷将太が特殊メイクで演じる二階堂の出番が、後半ではほとんどなくなってしまったこと。
美味しいキャラクターなのに勿体ない。
まあそれも含めて、全体的にややダイジェスト感はのこるものの、これは原作漫画のボリュームを考えれば致し方ないか。
佐々木蔵之介、伊藤英明、豊川悦司、そして羽生名人っぽいボスキャラには加瀬亮と、主だったところに主役級を配したプロ棋士の世界は、重量感があり対局のシークエンスは見応え十分。
将棋映画といえば二階堂、もとい村山聖の映画もあったけど、盤上の戦争の緊張感はむしろこっちが上だ。
もちろん、将棋に詳しい人の方がディープに楽しめるのは確かだろうが、知らなくても何が起こっているのかはだいたい分かる。
私も基本ルールを知っているくらいで、決して将棋通ではないけれど、いくつもの息詰まる対局には手に汗を握った。
素晴らしいのが山本英夫のカメラだ。
静的な将棋をモチーフにしながら、シネマスコープサイズを生かした、実に豊かな映画的な映像を構築しているのは見事。
舞台となる、隅田川周辺の下町の風情が、いい隠し味になっている。
三日月堂の三姉妹の家にいる、猫たちが可愛い。
今回は平成16年に起業し、湯島に本拠をおくクラフトビール、「アウグスビール ピルスナー」をチョイス。
丁寧に作られた、正統派ピルスナー。
酵母は、ヴァイエンシュテファン修道院のピルスナー酵母を取り寄せ、麦芽、ホップも本場産を使うというこだわり様。
スッキリ爽やか、飽きのこない端正な味わいだ。

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ディズニー手描きアニメーションの最高峰を、単に実写化しただけの作品ではない。
限りなく完璧に近かったオリジナルのドラマをさらに補完し、その先を見せてくれるのだ。
ベル父娘は、なぜあの退屈な村に住んでいるのか。
なぜ野獣は、冷酷な青年に育ってしまったのか。
そして、二人はなぜ惹かれあい、お互いを愛する様になったのか。
オリジナルの84分から、40分以上伸びた尺はドラマを確実に深化させている。
リンダ・ウールヴァートンの脚本を元に、自著の「ウォールフラワー」を自ら映画化したことで知られる、作家のスティーヴン・チョボスキーと、「ティンカーベルと月の石」のエヴァン・スピリオトポウロスが新たに脚色を担当。
監督は「ドリームガールズ」「ゴッド・アンド・モンスター」のビル・コンドン。
アラン・メンケンと故ハワード・アッシュマンが手がけた名曲の数々はそのままに、メンケン自身とティム・ライスのコンビによって、新たな楽曲も書き下ろされている。
俳優陣はベルを演じるエマ・ワトソンをはじめ、ほぼ全編CGの野獣と召使いたちも含めて、錚々たるオールスターキャストが揃った。
これは、名作アニメーションの実写化という枠を超えて、全てのファンの夢を最高の形で叶えた、「シン・美女と野獣」である。
※核心部分に触れています。
フランスの片田舎ヴィルヌーブ村に、カラクリ芸術家の父モーリス(ケヴィン・クライン)と暮らすベル(エマ・ワトソン)は、本が大好きで夢見がち。
保守的な村人からは父娘共に変人扱いされているが、ベルの美貌は誰が見ても村一番で、村のリーダー的存在のガストン(ルーク・エヴァンス)からは熱烈に求婚されている。
だが教養のカケラもないガストンとの結婚など、彼女にとっては考えたくもないこと。
ある日、モーリスが作品を売りに町へ行くことになり、ベルは土産としてバラを一輪所望する。
ところが、彼は森の中で道に迷ってしまい、永遠の冬に隠された不思議な城にたどり着く。
ここで喋るティーカップに驚いたモーリスは、城を逃げ出すのだが、ベルの言葉を思い出し、庭のバラを一輪折る。
その瞬間、巨大な野獣(ダン・スティーブンス)が姿を現す。
この城では、バラを盗むことは極刑に値する罪であり、モーリスは囚われの身となってしまう。
馬のフィリップが無人で家に帰って来たことで、父の身に何かが起こったと確信したベルは、フィリップの導きで野獣の城に赴き、父を釈放するかわりに自分がこの城に止まると申し出るのだが・・・
80年代末から90年代にかけての、ディズニー第二黄金期を代表する傑作であり、アニメーション映画として史上初のアカデミー作品賞ノミネートをはじめ、数々の栄冠に輝いたオリジナルの「美女と野獣」は、現在に至る新時代のディズニーアニメーションの雛形となった作品だ。
この作品の大きな特徴は、ヴィルヌーブ夫人版の原作からの脚色の段階で、大きな葛藤を抱えて成長すべき人物が、ベルから野獣に入れ替わっていること。
原作の野獣は彼女の美しさに魅せられてかなり早くから求婚するのだが、ベルの方は彼の醜さに恐れおののいて拒絶、次第に彼女が見かけではなく心の大切さに気づいてゆく物語で、過去の多くの映画化作品もこの点は踏襲している。
だが、女性脚本家のリンダ・ウールヴァートンは、ベルを保守的な時代の風潮にとらわれない聡明で先進的な女性と造形し、むしろ自らの醜さから城に引きこもり、すっかり性格が歪んでしまった野獣が、彼女の優しさに絆されて成長する物語となっているのだ。
四半世紀前に颯爽と登場したベルは、「アナと雪の女王」や「モアナと伝説の海」に通じる、自らの才覚でしっかりと地に足をつけ、安易に男の助けを必要としないディズニープリンセスの先駆者で、彼女に過酷な運命から救われる野獣は、その後ブランド力が凋落してゆくプリンスの最初の一人だったのである。
本作は、多くのファンを持つオリジナルを最大限リスペクトし、極力そのイメージを損なわない様に作られており、物語はもちろんのこと、ロココ調のプロダクションデザインから衣装、ミュージカルシークエンスの構成に至るまで、オリジナルと音楽的、映像的なイメージが一致する様に作られている。
ただ、どんなに丁寧に作っても、アニメーションを忠実に再現するだけなら、それは単なるコスプレショーでしかない。
本作が素晴らしいのは、オリジナルのプロットを改めて分析し、実写化した場合弱くなる部分に綿密に手が入れられていて、その結果物語にさらなる深みが生まれていることだ。
アニメーションならではのカリカチュア表現が封じられた分、各キャラクターはそれぞれの背景を含めじっくりと描きこまれていて、行動原理は全員が強化されている。
これは、やはり評価の定まったアニメーション作品を、忠実に実写化して成功した「シンデレラ」の考え方と、基本的には同じだ。
モーリスとベルはなぜ父子家庭なのか、なぜ変人呼ばわりされながら、あの村に住んでいるのか。
アニメーション版では全く言及が無かった部分だが、本作では家族でパリに暮らしていた頃に、母親が不治の流行病だった黒死病にかかり、生まれたばかりのベルを病気から守るために、モーリスがやむなく母親を見捨て、田舎に疎開してきたという新たな設定がプラス。
"冷酷な王子"という以外に背景が描かれなかった野獣も、やはり幼い頃に最愛の母親を亡くし、残忍な父親に育てられたために、性格がねじ曲がってしまったことが描かれる。
共に母親の愛を失った過去という同根を見ることによって、二人がお互いに感情移入しやすくなるという訳だ。
また、屋敷を逃げ出したベルが狼の群れに襲われ、後を追った野獣に救われたことで二人の間が急接近するのは同じだが、本作では野獣も本好きという設定にして、恋心が生まれる理由付けを強化。
オリジナルでは、野獣はベルの気を引こうとして、屋敷の書庫を開放するだけなのが、こちらではお互いに好きな本を朗読したり語らったりする。
これはオタク部屋に招き入れたら、実は同好の士で思いのほか気が合ってしまった様なもので、表裏がなく実直なベルと、ちょい捻くれていてツンデレの野獣という、対照的な様でどこか似た者同士の二人をよりリアルに愛らしく見せている。
キャラクターが強化されているのは主役の二人だけではない。
ルーク・エヴァンスが最高のパフォーマンスで演じるガストンは、オリジナルでは猟師だったが、こちらでは帰還兵となっていて、英雄願望に取り憑かれた愚かなナルシストっぷりが際立つ。
彼はある意味、戦争の犠牲者なのだ。
何かと話題になった相方ル・フウの同性愛者設定は、実際の描写としては殆ど意識させないマイルドなものだが、彼はなぜ酷い扱いをされながら、ガストンの元を離れないのかという動機が明確となった。
彼の想いはガストンに届かなかったが、終盤の戦いのシークエンスの、マダム・ド・ガルドローブの女装攻撃で、その道に目覚めちゃた三銃士の一人と、ラストでビビッときちゃってたのは笑った。
この辺りは、自らもゲイであることをカミングアウトしている、ビル・コンドン流のさりげないモダナイズ。
さらに、原作やオリジナルでは野獣に呪いをかけただけで、後は知らんとばかりに物語から消えてしまう魔女が、本作ではその後もヴィルヌーブ村の近くの森に住み続けて、推移を見守っていることになっているのも脚色の大きな特徴。
無機物に変えられた召使いたちも元々村の住人で、村には記憶を消された家族が残されているのだが、これによってオリジナルでは曖昧だった、いつ呪いがかけられたのかという点も、それ程昔ではないことが分かる。
バラの花びらが全て落ちると、野獣が元に戻れないだけでなく、召使いたちも魂を失い、固まってしまうのも新設定。
魔女の呪いは、単に王子の冷酷さを諌めるためだけでなく、彼の行いを止めなかった召使いや村人全てに対し、愛する者から分かたれるという形でかけられているのである。
面白いのは、本作にはオリジナルのアニメーション版だけでなく、1946年のジャン・コクトー版の影響を節々に感じること。
元々アニメーション版自体がコクトーの影響下にあって、城の無機物が生きているという設定はもちろん、ガストンに当たるアヴナンというキャラクターもいて、彼がベルの兄(原作のベルには兄と姉がいる)といつも連んでいるのはガストンとル・フウのコンビの原型と言える。
本作で、城の入り口脇に配された、手の形のブロンズが持っているランプも、コクトー版の生きているランプの意匠を模したものだ。
さらに、アニメーション版ではモーリスは城に入っただけで、不法侵入として囚われてしまうが、今回はコクトー版(と原作)と同様に、庭のバラを折ったことで野獣の怒りをかう。
これにより、バラの持つ特別な意味を改めて印象付けている。
また中盤で、念じた場所に行ける魔法の地図帳が出てきて、ベルが母の死の真相を知るために、野獣と共にパリの生家に移動するという、アニメーション版には無いシークエンスがあるが、これもコクトー版の何処にでも瞬間移動できる魔法の手袋に符合する。
ディズニーがアニメーション映画を作る以前は、「美女と野獣」と言えばコクトーだった訳で、これらは実写ならではのリスペクトを込めたオマージュなのだろう。
肝心のミュージカルは、オリジナルの全てのシークエンスがキープされていて、ドラマの深化分新たな楽曲が増えているが、これがまた素晴らしいのである。
特にポッド夫人の歌うテーマ曲にのせて展開する、ボールルームでのダンスシーンは、伝説的なアニメーション版に輪をかけて煌びやかで、官能的なまでに美しい。
このシーンは単に綺麗なだけでなく、ダンスによって二人の気持ちが初めて一つになる象徴的なモーメントであり、湧き上がるエモーションによって、ここから涙が止まらなくなった人も多いのではないだろうか。
ちなみに1990年頃のディズニーは、ピクサーの開発したCAPSと呼ばれるデジタル彩色システムを導入していて、アニメーションにおけるデジタル技術の研究を急速に進めていた時代。
オリジナルのボールルームの背景美術には、CGIスーパーバイザーのジム・ヒリン率いるチームによって、ディズニーの手描きアニメーションとして、史上初の本格的な3DCGが使われている。
手描きのキャラクターとの合わせ技で、本作でも再現されている流麗なカメラワークを実現しているが、ほぼ全てのディズニーアニメーション作品が3DCGで作られる現在から思うと、ディズニー史、いや映画史においても記念碑的な名場面だった。
21世紀に実写映画として蘇った「美女と野獣」は、映像は途轍もなくゴージャス、音楽は最高にエモーショナル、役者たちも超一流、物語は元から素晴らしいかったものを更にブラッシュアップ。
アニメーション版とコクトー版、二つの映画的記憶にも裏打ちされ、ラストのカーテンコールに至るまで徹底的に作り込まれた、これ以上は望むべくもない、極上のエンターテイメント超大作である。
そして、何よりも本作の成功を決定付けたのは、主人公ベルを演じたエマ・ワトソンの存在だ。
10年続けたハーマイオニー・グレンジャー役のインパクトが強烈だったので、今までは「『ハリー・ポッター』の」だったが、これからは「『美女と野獣』の」が彼女の代名詞となるだろう。
それ程までに、完璧なベルだった。
彼女の笑顔を想えば、野獣でなくても「待ち続けよう、ここで永遠に!」って歌い上げたくなるわ(笑
今回は野獣イメージのコニャックと迷ったが、やはりベルをイメージしてシャンパーニュ。
ローラン・ペリエの「キュヴェ ロゼ ブリュット」をチョイス。
ピノ・ノワール100%、バラを思わせる淡いピンクの美しい色合い。
苺の香りが細かな泡と共に立ち上がり、スッキリとした喉ごし。
アペリティフとしてだけでなく、食中酒としても楽しめる。
英国のウィリアム王子の、結婚式晩餐会でも振舞われたというから、まさに本作にはぴったり。

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あの懲りない四人が帰ってきた。
ドラッグの退廃に浸る労働者階級の青年たちを描き、90年代を代表する刹那的青春映画となった「トレインスポッティング」の20年ぶりの続編である。
監督のダニー・ボイル、脚本のジョン・ホッジをはじめ、主要なスタッフ、キャストが再結集。
いま、なぜ再びの「トレインスポッティング」なのか。
前作のラストで、仲間たちの金を持ち逃げしたマーク・レントンを筆頭に、やりたい放題の破天荒な青春を送っていた四人の若者たちも、もう40代も半ば。
20年という歳月の経過があったからこそ見えてくる、人生の悲哀と衰えぬダメ人間パワーは、彼らと同じだけ歳をとった観客にとって希望であり絶望だ。
嘗ての青春映画は容赦なく心にビシビシ刺さる、素晴らしき"中年映画"となって見事な帰還を果たした。
仲間たちを裏切り、麻薬の売買で得た大金を持ち逃げしたマーク・レントン(ユアン・マクレガー)が、20年ぶりに逃亡先のオランダから故郷のエディンバラに帰ってくる。
既に母は亡くなり、彼を迎え入れるのは年老いた父だけ。
若き日を共にした悪友たちが気になったマークは、唯一分け前を渡していたジャンキーのスパッド(ユエン・ブレムナー)を訪ねるが、彼は自殺の真っ最中。
成り行きで助けるマークだったが、スパッドは相変わらずどん底の生活を送っていた。
一方、時代遅れのパブを相続したシック・ボーイことサイモン(ジョニー・リー・ミラー)は、ブルガリア人のパートナー、ベロニカ(アンジェラ・ネディヤルコーバ)と組んで、彼女を買った富裕層の男たち相手のゆすり家業。
20年前の事件で懲役を喰らったベグビー(ロバート・カーライル)は、仮釈放申請が却下され今も塀の中だ。
それぞれ崖っぷちのマークとスパッド、サイモンは昔のわだかまりを抱えつつ、パブを売春宿に改装するプランを立てて動き出す。
そんな時、刑務所でわざと怪我をして偽装入院したベグビーは、まんまんと脱獄に成功。
エディンバラの妻子の元に戻ってくるのだが・・・・
1996年に公開された前作は、「人生を選べ」と言いつつも、ドラッグの幻想に絡め取られ、猛烈に疾走しながら、実際には何処へも行くことのできない若者達の話だった。
マーク・レントンとヤク中仲間は、不況のエディンバラで、何者にもなれない現実をドラッグで紛らわし、いつ終わるともしれない怠惰な日常を生きる。
セコイ犯罪で小銭を稼ぎ、パブで酔ってはナンパとケンカ、たまにドラッグ断ちを試みるが挫折の繰り返し。
だが、彼らの青春の日常は徐々に崩壊し始める。
スパッドはブタ箱にぶち込まれ、シック・ボーイはラリっている間に、生まれたばかりの我が子を亡くし、注射針からHIVに感染したトミーはエイズを発症し死亡。
どうにもならない現実を打破するために、最後に選んだのもまたドラッグの取引というしょうもなさだったが、少なくとも彼らはまだ若く、未来の可能性は無限で楽観的だった。
前作の刹那的青春の背景には、若者たちの中でマグマの様に胎動している、圧倒的な熱量があったのだ。
あれから早20年。
時代は移り変わり、「トレインスポッティング」が長編二作目の若手監督だったダニー・ボイルは、「スラムドッグ$ミリオネア」でアカデミー賞を獲得して巨匠と呼ばれる様になり、あの映画が初主演だったユアン・マクレガーは、今ではジェダイ・マスターのオビ=ワン・ケノービとして世界中の誰もが知っている。
しかし、映画が始まって40代のおっさんになった四人が続々と登場すると、何も変わってないじゃないか!(笑
冒頭のルームランナーが暗喩する様に、彼らは20年経っても、前作のラストで足踏みしているだけなのだ。
当時まだ統合途中だったヨーロッパは、一回りしてブレグジットにより統合崩壊の危機にある。
偶然だろうが、金を奪って唯一旅だったはずのマークが、逃亡先のオランダで居場所を失い、止むを得ずエディンバラに帰ってくるのも、なんだか再発しつつある英国病の象徴に思えてくるのが可笑しい。
映像も音楽も作品世界は相変わらずスタイリッシュだが、触れば切れそうな危うさはもう無い。
四人は全く成長していないけれど、やはりもう後先考えずに突っ走れるほど若者ではないのだ。
久しぶりに戻った実家で、マークが昔のレコードをかけようとして、思わず止めてしまう描写がいい。
音楽はこの世界の時代性そのものであり、当時の音楽を聴けば自分が年をとったことを否が応でも突きつけられてしまうからだ。
20年前の事件のわだかまりを胸のうちに抑えつつ、結局のところ連むしかないマーク、サイモン、スパッドの三人と、マークの帰還を知り復讐に燃えるベグビー。
やってことは以前とほとんど変わらないが、若気の至りの自暴自棄も、それが20年も続けばもはやぶざまだ。
成長しない男たちとは違って、一人ちゃんとした大人になっている、ダイアンとの対比が切ない。
だが、そんな彼らを映画は決して絶望的なだけには描かないのである。
前作のドラッグに変わって、四人を縛るのは"過去"だ。
本作は完全な続き物で、この作品の中に前作を内包しているのだけど、現在の葛藤を生み出している過去の様々な因縁が、スパッドが彼なりの視点で書いている"回想録"によって、物語として昇華されるメタ的な構造になっているのが面白い。
モチーフは何処にも行けないダメダメな男たちで、やっていることも大して変わらないのだけど、前作があっての本作という入れ子構造と、20年の歳月の経過が全く別のアプローチを可能にしているのである。
四人は20年かけて振り出しに戻った訳だが、何処にも行けてないということは、逆に言えばここからまだ何処にでも行けるということだ。
彼らはこれから真の大人になるのかも知れないし、また同じループを繰り返すだけかも知れない。
とことん情けないおっさんたちの悪あがきは、今まさに何処かへと旅立とうとしている若者たちが観ると、多分あまりピンとこないのではないかと思う。
しかし、今四十代後半のほぼ同世代で、20年前に前作を観てすっかり魅了された元若者としては、成長できない自分の鏡像を見せられているようで、色々身につまされる話だった。
彼らをもっと残酷に描くことも出来たと思うが、微妙な希望を残してくれたのには、正直なところ思わずホッとした。
20年前の「トレインスポッティング」は、青春真っ只中だった私たちにとって「俺たちの映画」だったが、「T2 トレインスポッティング」も、中年になった私たちの、愛すべき「俺たちの映画」だったのである!
今回はスコットランドのクラフトビール醸造所、ブリュードッグの「ハードコア・インペリアルIPA」をチョイス。
名前の通り普通のビールでは物足りない人のための、ハードコアなIPAだ。
強いホップ感と驚くほどフルーティーで複雑なアロマが、ゆっくりと脳を酔わせてゆく。
ブリュードッグは、他にも様々なユニークなビールをプロデュースしていて、ハードコアほど強くなくていいという人には、ややマイルドな「パンクIPA」もオススメだ。

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政府当局のご機嫌を損ねたために、2010年から20年間の「映画監督禁止令」を受けたイランの名匠ジャファル・パナヒ流の、ウィットに富んだ映画だけど映画じゃない第三弾。
今回は監督自らがテヘランのタクシーのドライバーに扮し、乗り込んでくる様々な客たちを通して現代イラン社会を風刺する。
もちろんこれは本物ではなくて、客たちも含めて実際には俳優が演じているモキュメンタリー。
禁止令に違反すると6年の懲役がかされる可能性があるとかで、これで「いやいや、映画なんて撮ってませんよ、タクシードライバーやって偶然撮れただけですよ」って釈明できてしまうのだろうか。
車載された幾つかのカメラを切り替えながら、リアルタイムで進行する82分。
タクシーには様々な人が乗ってくるのだが、実際には劇映画として極めて綿密に構成されている。
冒頭、自称路上強盗の男は乗り合わせた女性教師と死刑論争を交わす。
交通事故で大怪我を負った夫の妻は、遺産分けのためにスマホで遺言を撮ろうとする。
パナヒ自身も顧客だという、怪しげな海賊版レンタルビデオ屋が向かった先は、映画作りの題材に悩む監督志望の大学生で、世界的巨匠のパナヒに助言を仰ぐ。
更には、なぜか金魚鉢を持って乗ってきて、泉に向かえという二人のおばちゃん。
裕福な幼なじみは強盗に襲われた話を聞いてい欲しいと訴え、パナヒの同志でもある人権派の弁護士は闘争への決意を語る。
イランのタクシー事情は知らないが、映画を観る限りほぼ乗り合い自動車で、先客がいても後からどんどん乗ってきちゃう。
行き先の方向が合わないと、ドライバーも客に「ここで降りて」と言っちゃうのが凄い。
まあ、頼めば貸切にも出来るみたいだが。
それぞれに訳ありの客、一人ひとりのエピソードがメタファーとして機能し、少しずつイラン社会の断片が見えてくるというワケ。
戦地や執行数非公表の中国を別にすれば、世界で最も死刑が多く、女性の相続権が保障されておらず、外国の文化が厳しく規制され、女性がスポーツを見に行くだけで投獄される危険がある、息苦しい国の姿が浮かび上がる。
おかしな客たちの中でも、後半出てくるパナヒの姪のハナちゃんのキャラクターが強烈。
もちろんモキュメンタリーだから、この娘も本物かどうかは分からないが(※)、炸裂するマシンガントークには巨匠のおじさんもタジタジ。
まさに口から生まれてきた様な女の子で、監督になるのか女優になるのか末恐ろしい才媛なのだが、彼女が学校の課題で撮っている短編映画に関する疑問がそのままこの映画のテーマ。
先生の言う上映可能な映画とは何か。
キャラクターにはコーランの聖人の名を使うこと、いい人はネクタイをしていてはいけない、男女が触れ合ってはいけない、リアルなものを撮れと言いつつ、犯罪や暴力などの俗悪なリアリズムはダメだという。
・・・じゃあ何を撮れと?
それまで描かれてきた客たちのエピソードが、最終的にこの矛盾した課題に対するハナちゃんが吐露する率直な疑問の言葉に集約される仕組み。
映画の題材を探す大学生や、作者自身の置かれた状況に対するアンサーともなっている。
非常に政治的な映画で、テーマ的には重いのだけど、映画作家として覚悟を決めているパナヒのスタンスは明快かつ軽快。
フィクションとリアルの壁を飄々と超えて、抑圧者を痛烈に一刺しするユニークな風刺劇であり、同時にユーモラスな群像劇としても秀逸で、とても面白い。
イランはアルコールご法度なれど、裏では結構簡単に手に入るらしい。
今回は深いブルーが美しい「ペルシアの夜」をチョイス。
ドライ・ジン25ml、ブルー・キュラソー15ml、アップル・ジュース25ml、レモン・ジュース1tspをシェイクし、氷を入れたグラスに注ぐ。
トニック・ウォーターを適量加えた後、パルフェタムール2tspをそっと底に沈め、最後に三日月に見立てたスライス・レモンを飾って完成。
東京全日空ホテル発祥のカクテルは、ペルシア湾の夜の風景を思わせる、すっきりとした飲みやすい一杯だ。
(※)後日関係者に確認したところ、ハナちゃんは本物の姪御さんだそう。

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劇場用長編アニメーションとしては、「MIND GAMEマインド・ゲーム」以来13年ぶりとなる湯浅政明監督作品は、期待に違わぬ独創の快作だ。
原作は、森見登美彦の同名小説。
主人公たちが在籍している京都大学周辺を舞台に、"黒髪の乙女"と彼女に片思いする"先輩"の恋の顛末が描かれる。
全体的には、2010年にフジテレビのノイタミア枠で放送された、同じ原作・監督コンビによる「四畳半神話体系」の延長線上といった印象。
非常に文学的な作品で、インプットされた魅力を改めて文書で表すのがとても難しい。
スクリーン上で起こる現象だけ言えば、最初に浴びるほど酒を飲んで、古本市をぶらつき、学園祭でゲリラ演劇をやって、風邪を引いた人たちをお見舞いする映画(笑
どれも人生を豊かにしてくれることだが、ひとつひとつは何の脈略も無く、これだけではどう展開するのか全く想像も出来まい。
しかし、これらの出来事が起こる夜の京の街は、現実と幻想と先輩の妄想が入り混じり、人間だか妖怪だか分からない奇怪なキャラクターたちが大騒動を巻き起こす、超シュールな半異世界なのである。
原作の第1章の"一夜"に残りの全ての章を取り込んで、トータルで一晩の話にしてしまった脚色がまずユニーク。
京都を代表する花街、先斗町では“詭弁論部”の面々が奇妙なダンスを繰り広げ、酒豪の乙女は三階建てのお屋敷列車で現れる謎の老人・李白さんと飲み比べ。
古本市では、先輩が乙女の思い出の絵本「ラ・タ・タ・タム」を探して大奮闘。
夜の京大では、一目ぼれした女性へのメッセージとして、パンツ総番長がゲリラ演劇を上演し、成り行きで主役を演じることになった乙女と総番長とのラブシーンを阻止するために、先輩がミュージカルに乱入する。
好奇心旺盛で真っ直ぐに歩き続ける乙女と、外堀を埋めるだけでなかなか本丸に攻め込めない先輩の屈折した想いがすれ違いを繰り返し、奇怪な人々と奇妙なシチュエーションに彩られたラブコメ冒険物語は、春から始まって恋心が盛り上がる夏、やがて肌寒い秋、そして寒風吹き荒ぶ冬の夜へ。
四季を一晩に閉じ込めたことで、世界そのものが先輩の心象となっているのが面白い。
この摩訶不思議な作品を成立させる、実に軽快で自由なアニメーション表現は、まさに湯浅ワールドと言うべき独特なもので、他に似たスタイルの作家が思い浮かばない。
フラッシュを駆使した手描き表現、変幻自在のキャラクター、京都でありながら現実を逸脱した世界観の美術デザインも魅力的。
アングラ色溢れる李白さんのテントは、なんだか唐組紅テントみたいだった。
作画枚数を抑えるのに必死で、殆ど動かない紙芝居的アニメに慣れた目には、むしろ忙しなく感じるほどに、色も形も変化し続ける本作は、アニメーション表現の原点を思い起こさせてくれる。
怒涛の台詞量も本作の特徴で、ユニークな映像と相まって作品密度をグッと押し上げる。
役に命を吹き込むボイスキャストも、乙女役の花澤香菜の抜群の安定感も素晴らしいが、「逃げ恥」ですっかり童貞キャラが板についてしまった星野源が絶妙。
まあ彼は「箱入り息子の恋」の頃から、この手のキャラがピッタリ嵌っていたけど。
とりあえず酒飲みが観ると、先斗町に行きたくてたまらなくなる。
森見登美彦の小説といえば、赤玉と偽電気ブランだが、戦後の闇市の時代には本当に偽電気ブランがあったそうだ。
もっとも、味の方は小説と違って相当酷かったらしいが。
という訳で、今回は浅草神谷バー発祥の日本最古のカクテル「電気ブラン」をチョイス。
レシピは今も非公開だが、ブランデーベースで味もやはりブランデーっぽい。
当初は45°もある非常に強い酒だったが、現在売られているのは40°と30°の二種類。
飲み方はビールをチェイサー代わりにして、交互に飲むのが神谷バー流オリジナル。
当たり前だが非常に酔いが早く、乙女みたいな豪快な飲みっぷりは無理だからね、念のため。

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誰もが知るデンマーク生まれのオモチャ、レゴの世界で繰り広げられるアドベンチャーを描き、2014年に世界中で大ヒットした「LEGOムービー」。
本作は、あの映画で準主役として活躍した、「レゴバットマン」を主人公にしたスピンオフ的な続編となる。
現状を繰り返すことしか知らないマニュアル人間の冒険を通して、レゴの醍醐味であるスクラップ&ビルドの哲学を描き、「そもそもレゴとは何か?」を表現した前作に対して、今回はレゴの世界観の中だけで成立する見事な「バットマン映画」だ。
レゴで出来たゴッサムシティを舞台に、オリジナルの実写DC作品をたぶんに自虐的にパロディ化しながら、バットマンと仲間たちVSジョーカー率いる悪役オールスターズの戦いが描かれる。
監督は、「LEGOムービー」の共同監督、クリス・マッケイが続投。
前作も素晴らしかったが、個人的には今回の方が更に面白かった。
ゴッサムシティに危機が迫る。
ジョーカー(ザック・ガリフィアナキス)が悪役たちを引き連れて、街を乗っ取ろうとバットマン(ウィル・アーネット)に宣戦布告。
何とか全員を捕まえたものの、ジム・ゴードンの後を継いだバーバラ・ゴードン(ロザリオ・ドーソン)から、バットマンを警察の一員にすると言われて困惑。
孤独を愛するバットマンは、孤児のロビン(マイケル・セラ)を仲間に引き入れて、スーパーマンの孤独の要塞から、ファントムゾーンへ通じるプロジェクターを盗み出し、アーカムに収監されていたジョーカーをファントムゾーンに送ってしまう。
ところが、ジョーカーはファントムゾーンに幽閉されていた悪役たちを味方につけると、ゴッサムシティに逆襲。
バットマンは街の崩壊を救うべく一人で戦おうとするのだが・・・・
このシリーズが何より素敵なのは、レゴ遊びで自分の作った物やキャラクターから物語を空想する延長線上にあること。
だからレゴで遊んだ経験があれば、老若男女問わずに作品世界に入りやすい。
私が子供の頃は、まだ今の様な人形キャラクター「ミニフィグ」は無くて、ロボットや恐竜を自分で作ったものだった。
当時も最新のホームメーカーシリーズには、ミニフィグよりちょっと大きめの人形がついていたが、セットは高かったので買ってもらえなかったのだ。
それでも、恐竜を作れば子供部屋はジュラ紀のジャングルになったし、宇宙船を作れば遥か銀河の彼方に旅することが出来た。
誰もがレゴで空想の世界を作り、そこで遊んだという経験を持っているから、この映画を観る時に観客の意識は自然に子供時代のレゴ遊びの感覚に戻り、普通の実写映画、いやアニメーション映画に対してもリアリティラインはずっと低くなる。
だからこの映画のキャラクターは、実はみんな"子供"だ。
設定上は大人でも、葛藤と感情が思いっきり純化された子供なのだ。
幼くして両親を失い、大きな喪失を抱えたバットマンは、自分は孤独を愛すると主張する一方で、誰よりも家族を欲している。
彼が実際に家族を持てないのは、大切な存在を再び失うことを恐れているからなのだ。
宿敵であるジョーカーはというと、強烈な承認欲求に取り憑かれていて、バットマンに自らをライバルとして認めてもらうためだけに、ひたすら悪を行うストーカーみたいな男になっている。
一方、劇中でも子供設定であるロビンの夢は、もっと直球に「大金持ちのブルース・ウェインの養子になること」だ。
これが普通の映画であれば、こういった欲求や葛藤は大人の建前によって胸の内に隠されて、ワンクッションもツークッションも置いた出し方になるのだけど、ここは誰もが子供に帰るレゴの世界。
登場人物全てが、心に抱えているものをストレートに出してぶつかり合う。
だが、その分結果も解決法もこれまたストレート。
言いたいことは全部言って、やりたいことは全部やれば、皆が胸がスッキリするのである。
ある意味これは、全員が心の内を秘め、相当に鬱屈しているノーラン版「ダークナイト」三部作に対するアンチテーゼ。
この様な作劇が成立するのは、大人も子供も同じ目線で楽しめる、レゴというオモチャの持つ独特な世界観ゆえであり、もしも同じシナリオで実写作品を作ったら、間違いなく恐ろしく陳腐な代物が出来上がるだろう。
ビームを撃つ時など、「ピュンピュン」と効果音を口で言っているのも、本作があくまでもレゴ遊びの拡大版なのを象徴している。
レゴの世界という特別なフォーマットは、どんな物語も受け止めて純化してしまう、もの凄い包容力を持っているのだ。
次回作は早くもこの秋公開予定の「レゴ ニンジャゴー ザ・ムービー」だそうだが、劇場映画ではないけど「レゴ スター・ウォーズ」は既にあるし、「レゴ アベンジャーズ」、「レゴ ロード・オブ・ザ・リング」、なんでも出来るだろう。
仲良くいがみ合う、寂しがり屋のヒーローと構ってちゃんなヴィランの物語も面白いが、凝りに凝ったディテールは大人の作り手が子供に戻ってレゴで遊び倒している様。
特にジョーカーがファントムゾーンから連れてくる、「すごく悪い奴ら」にはワクワク。
名前を言ってはいけないヴォルデモート卿や、サウロンの目あたりは記憶に新しいが、ハリーハウゼン版「タイタンの戦い」に出てくる、四本腕のクラーケンとか、「ドクター・フー」のダーレク族は確かにマニアック過ぎる。
今の子供は知らないだろ(笑
このあたりの、作り手の大人たちの悪ノリっぷりは、ちょっと「妖怪ウォッチ」に通じるのが面白いな。
今回は、デンマークの代表的なビール「ツボルグ グリーン」をチョイス。
現在は同じくデンマークを拠点にするカールスバーグの傘下に入っており、ピルスナーの味わいは良く似ている。
適度なコクとキレを持ち、スッキリとしたデンマークピルスナーは日本人の好みにも合っていると思う。
今年は日本にもレゴランドが出来たけど、残念ながらアルコールは売ってないらしい。

![]() ツボルグ グリーンラベルビ−ル 瓶 330ml 【02P01Apr17】 【PS】 |
パキスタンの奥深く、カラコルム山脈の麓。
とある部族に生きる母アッララキの生き甲斐は、まだ幼い娘のザイナブとの時間。
ところがある日、アッララキは部族間抗争を手打ちにするため、ザイナブが敵対する一族のロリコンジジイと結婚させられることを知ってしまう。
女性に人権がほぼ無く、命の価値も紙ほどの野蛮な部族社会。
自らも15歳でずっと年上の夫と結婚し、女にとって「結婚は人生の終わり」ということを身をもって知るからこそ、母は娘のために命がけの逃亡を決意する。
既に決まった結婚が破綻となれば、双方の部族の面目は丸つぶれ。
もし捕まれば、いわゆる名誉殺人によって確実に殺される。
題材から、重苦しい地味な人間ドラマと思っていたが、驚いた。
男が支配する部族社会で、望まない結婚からの女たちの逃亡劇という点では、トルコの田舎を舞台とした「裸足の季節」を思わせる。
しかし、ここは政府の力も及ばず、部族間の力関係が支配する無法地帯。
これはまさに、パキスタン版「マッドマックス 怒りのデス・ロード」なのだ。
もちろん、こっちは製作費150億円の超大作じゃないので、あんな「ヒャッハー!」なアクションは作れないが、実際映画の構造はよく似ている。
アッララキとザイナブは、逃亡の途中で強烈なデザインのパキスタン版のデコトラに助けを求める。
ドライバーのソハイルは、最初は嫌がっていたものの、成り行きで二人を助けることになるのだが、実はこの男は嘗てアフガニスタンで戦い、愛した女を亡くした元ムジャヒディンの戦士という、完全にパキスタンのマックス。
製作費以外で両作品の最大の違いは、こちらは必ずしも完全なフィクションではないということだ。
製作・監督・脚本を兼務するアフィア・ナサニエルは、パキスタンに生まれ、国際機関で働いた後に米国で映画作りを学び、30代に入ってから短編作品を発表し始めたという異色の経歴の持ち主。
本作は、ある部族の母親が、児童婚をさせられそうになった娘と共に逃げたという現実のエピソードが基になっているという。
部族の村では女たちは皆シェイラやヒジャブで髪を隠しているが、母娘が向かう大都市のラホールでは何もつけてない女性も珍しくない。
同じ国でも土地によって気風が全く違うこと、男たちの意識も画一的ではないこと、色々な要素がバランスをとって描かれている。
シンプルな物語はスリリングに展開し、母娘の逃避行は最後まで緊張感を保ち、ラストをオープニングの解となるミラーイメージにする物語の畳み方もなかなか巧み。
残念ながら、この世界にはいまだに21世紀と中世が混在している。
ナサニエル監督によると、この映画も後押しとなり、パキスタン社会は少しずつ前に進んでいるというのが希望。
児童婚や名誉殺人が、世界のどこでも完全に不名誉と認識されるのは、いつのことなのだろう。
小粒だがピリリと辛い、志の高い佳作である。
今回は、少女ザイナブのイメージで「リトル・プリンセス」をチョイス。
ホワイト・ラム30mlとスイート・ベルモット30mlをステアして、あらかじめ冷やしておいたグラスに注ぐ。
琥珀色の気品あるショートカクテル。
シンプルなレシピだが、甘い名前とは裏腹にアルコール度数が高く、いつの間にか酔っ払ってしまう小悪魔の様な一杯だ。

![]() ノイリー・プラット スイート 750ml |
マイアミに住む気弱な1人の少年が、たった一つの愛を胸に、自分が何者かを探しながら大人になるまでを描く物語。
原案はタレル・アルバン・マクレイニーの半自伝的戯曲「In Moonlight Black Boys Look Blue(月光の下で、黒人の少年がブルーに輝く)」で、これが長編二作目となるバリー・ジェンキンスによって脚色・監督された。
タイトル通り淡い月光によって浮かび上がる、人間の気高さと儚さ、愛の美しさと悲しみが物語を通して静かに観客の心に染み渡って行く。
本年度アカデミー作品賞を、土壇場で掻っ攫っただけはある、骨太のヒューマンドラマだ。
※ラストに触れています。
フロリダ州マイアミ。
ドラッグの売人として暮らすキューバ人のフアン(マハーラシャ・アリ)は、ある日同級生に追われて空き部屋に逃げ込んだ少年、シャロン(アレックス・ヒバート)と出会う。
ジャンキーの母親(ナオミ・ハリス)には愛されず、学校では毎日のようにいじめられているシャロンを、フアンとガールフレンドのテレサ(ジャネール・モネイ)は優しく迎え入れ、やがて彼はフアンの家に入り浸るようになる。
ある夜、自分の配下の男がドラッグを売った相手が、シャロンの母親だと気付いたフアンは、彼女を詰るのだが、自分にドラッグを売ってるのは誰だと逆に言い返されてしまう。
数年後、高校生となったシャロン(アシュトン・サンダース)は、相変わらずクラスのボスのテレル(パトリック・デシル)の酷いいじめに悩まされている。
ある夜、ふとビーチを訪れたシャロンは、そこで意外な人物と出会うのだが・・・
少年の成長と、同性の幼馴染への切ない愛を描く本作は、いわば「6才のボクが、大人になるまで。」ミーツ「ブロークバック・マウンテン」だ。
小学生、高校生、そして大人の3章に別れた物語は、それぞれの時代の主人公の呼び名が章題となっていて、これがその時点で彼が抱えている葛藤を象徴する。
第1章で、アレックス・ヒバートが演じる少年シャロンは「リトル」と呼ばれている。
その名の通り体が小さく、いじめられっ子で、同級生からは「オカマ」とからかわれる毎日。
父は無く、ジャンキーの母親と二人暮らしで、唯一仲良くしてくれる友だちは幼馴染のケヴィン。
そんなある日、シャロンは街でドラッグの売人をしているフアンと出会い、彼と擬似親子的な関係を結んでゆく。
導く者がいなかった彼の人生に、初めてメンターが現れるのだ。
この章では、シャロンは自分を愛してくれない母への憎悪を語り、フアンへの傾斜を強めるのだが、フアンはシャロンの母親が自分の顧客であることを知り、打ちひしがれる。
第2章は、シャロンが高校生の時代の物語。
アシュトン・サンダース演じる本名の「シャロン」が、そのまま章題になっている。
背はひょろ長くなったものの、相変わらず気弱ないじめられっ子。
母親は売春婦として働いていて、ドラッグを買うためにシャロンにも金の無心をするほどに中毒は悪化。
すでにフアンは亡くなっているが、ここでは彼のガールフレンドだったテレサが、擬似的な母親の役を果たしている。
家に居場所がないシャロンは、ある夜ケヴィンと月明かりの海岸で出会う。
ケヴィンは彼に「ブラック」というあだ名を付け、色々な想いを打ち明けているうちにキスを交わし、愛し合うことに。
思いがけない初めての経験は、シャロンの心に深く刻まれる。
ところが翌日、テレルにいじめの儀式に参加させられたケヴィンは、止むを得ず生贄のシャロンを殴りつけるのだが、彼にとっては愛が芽生えた直後の裏切りに他ならない。
学校はシャロンに告発を勧めるが、彼はテレルに直接復讐し、自ら警察に捕まることを選ぶのだ。
最終第3章で、トレヴァンテ・ローズが演じる大人になったシャロンは、ケヴィンへの想いを引きずる様に「ブラック」と名乗っていて、前2章とはまるで別人の様だ。
マッチョな肉体を金ピカのラッパー風ファッションに包み、故郷からは離れたアトランタでドラッグの売人をしている。
第2章の終わりで少年院に送られたシャロンは、そこで出会った悪い仲間に誘われて、昔のフアンと同じ様な人生を送っているのだ。
ようやく中毒から抜け出した母親は、薬物のリハビリ施設で暮らしていて、遅ればせながら嘗ての自分の行いを悔いている。
カタギとは言えないまでも、もうシャロンを傷つける者はいない。
しかし、そんな時にかかってきたケヴィンからの電話が、シャロンの心を激しく揺さぶるのである。
第1章で愛を知らずに育っている少年は、まだ自分が何者かも分からず、ただ愛されることを欲しているのみ。
数年後の第2章で初めて人を愛することを知り、自らのアイデンティティを強烈に意識する。
そして長い喪失を経た第3章で、嘗てのメンターの面影を模して生きている男は、突然かかってきたケヴィンからの電話によって、胸にぽっかり空いた穴の正体に気付く。
不遇のマイノリティ社会、ゲイであることへの戸惑い、イジメにドラッグにネグレクトとモチーフはとことん悲惨なのだが、バリー・ジェンキンスはあえてシチュエーションをドラマチックに盛り上げることを避け、映画ならではの視聴覚言語を使ってシャロンの人生を極めて詩的に描き出す。
構図やカメラワーク、色彩設計や俳優の捉え方に至るまで、全体の画作りがウォン・カーワァイっぽいのだが、やはり相当に研究し、意識しているらしい。
「ぽい」とは言っても、きちんと本歌取りして自分の表現に昇華しているのはもちろんのこと。
筋立ての上では主人公と適度な距離を保ち、テリングでは逆に主観に寄り添った映像表現と、クセの強い心象的な音楽・音響演出が、それぞれの章で自然に彼の心情を語りかける。
三つの時代でシャロンを演じる、3人の俳優たちが素晴らしい。
特に第3章のトレヴァンテ・ローズの演技は、第1章でフアンを演じるマハーラシャ・アリと並んで、本作の白眉と言える。
最初の2章のシャロンは、いかにも細っこいいじめられっ子という感じだったのが、第3章では突如としてコワモテのおっさん化しており、「こいつ誰だ⁇」というくらいの変わり様。
それでいて、母親やケヴィンと絡む部分では、中味は子供の頃のままの心根の優しい男なのが伝わってくる。
今は施設で静かに生きる母との和解のシーンの涙や、久々に連絡をくれたケヴィンに会う時に髪型や口臭を気にしたりする仕草は、裏社会の人間とは思えない繊細なキャラクター。
再会したケヴィンにも、「うつむくクセは変わらないな」と言われてしまう。
そして、懐かしい人への想いを歌った"Hello Stranger"がジュークボックスから流れる時、二人はあの時の海岸での気持ちが、お互いの心に今も残っていることを知るのである。
誰の中にもある、変わってゆく人生の、変わらないもの。
自分を何者かにしてくれた、人生でただ一つの愛を再び確信し、「ブラック」と呼ばれた男は、遂に本当の「シャロン」に戻るのだ。
静かに抱き合うシャロンとケヴィンの姿が、ブルーに光る月光の下へと回帰するラストシーンが美しい。
人種的マイノリティのドラマであるのと同時に、性的マイノリティのラブストーリーとして、初のアカデミー作品賞。
しかも助演男優賞のマハーラシャ・アリは、アメリアの極右が大嫌いなムスリムで、役柄はキューバ難民の子。
トランプの時代だから賞を取れたと揶揄する向きもある様だが、アカデミー賞が政治的で時代を反映するのは当たり前で、むしろ主人公を演じた3人には、共同主演男優賞をあげたかったくらい。
観終わってから、ジワリと静かな余韻が広がるタイプの作品だが、語り口のスタイルからして、ある程度人を選ぶと思うし、この映画をつまらなかった、あるいは愛せない人もいるだろう。
つまらない、のはいい。
だけどもし愛せないのであれば、なぜ愛せないのかを自問自答して欲しい。
虚構の中に真実を描く映画は、自分を映す鏡でもある。
月光の中に浮かび上がるのは、知らない自分の姿かも知れない。
今回は懐かしい人と共に飲みたい赤。
思い出に負けないフルボディ、カリフォルニアはシャトー・セント・ジーンの「カベルネ・ソーヴィニヨン ソノマ・カウンティー」の12年をチョイス。
ベリー系に仄かにスパイスが混じる豊かな香りが特徴。
しっかりとしたコクがあり、パワフルなボディは特に肉料理の味を引き立てる。
カリフォルニアの代表的な銘柄の一つで、リーズナブルなのも嬉しいところ。

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