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2017年04月02日 (日) | 編集 |
熱情のムーンライトブルー。
マイアミに住む気弱な1人の少年が、たった一つの愛を胸に、自分が何者かを探しながら大人になるまでを描く物語。
原案はタレル・アルバン・マクレイニーの半自伝的戯曲「In Moonlight Black Boys Look Blue(月光の下で、黒人の少年がブルーに輝く)」で、これが長編二作目となるバリー・ジェンキンスによって脚色・監督された。
タイトル通り淡い月光によって浮かび上がる、人間の気高さと儚さ、愛の美しさと悲しみが物語を通して静かに観客の心に染み渡って行く。
本年度アカデミー作品賞を、土壇場で掻っ攫っただけはある、骨太のヒューマンドラマだ。
※ラストに触れています。
フロリダ州マイアミ。
ドラッグの売人として暮らすキューバ人のフアン(マハーラシャ・アリ)は、ある日同級生に追われて空き部屋に逃げ込んだ少年、シャロン(アレックス・ヒバート)と出会う。
ジャンキーの母親(ナオミ・ハリス)には愛されず、学校では毎日のようにいじめられているシャロンを、フアンとガールフレンドのテレサ(ジャネール・モネイ)は優しく迎え入れ、やがて彼はフアンの家に入り浸るようになる。
ある夜、自分の配下の男がドラッグを売った相手が、シャロンの母親だと気付いたフアンは、彼女を詰るのだが、自分にドラッグを売ってるのは誰だと逆に言い返されてしまう。
数年後、高校生となったシャロン(アシュトン・サンダース)は、相変わらずクラスのボスのテレル(パトリック・デシル)の酷いいじめに悩まされている。
ある夜、ふとビーチを訪れたシャロンは、そこで意外な人物と出会うのだが・・・
少年の成長と、同性の幼馴染への切ない愛を描く本作は、いわば「6才のボクが、大人になるまで。」ミーツ「ブロークバック・マウンテン」だ。
小学生、高校生、そして大人の3章に別れた物語は、それぞれの時代の主人公の呼び名が章題となっていて、これがその時点で彼が抱えている葛藤を象徴する。
第1章で、アレックス・ヒバートが演じる少年シャロンは「リトル」と呼ばれている。
その名の通り体が小さく、いじめられっ子で、同級生からは「オカマ」とからかわれる毎日。
父は無く、ジャンキーの母親と二人暮らしで、唯一仲良くしてくれる友だちは幼馴染のケヴィン。
そんなある日、シャロンは街でドラッグの売人をしているフアンと出会い、彼と擬似親子的な関係を結んでゆく。
導く者がいなかった彼の人生に、初めてメンターが現れるのだ。
この章では、シャロンは自分を愛してくれない母への憎悪を語り、フアンへの傾斜を強めるのだが、フアンはシャロンの母親が自分の顧客であることを知り、打ちひしがれる。
第2章は、シャロンが高校生の時代の物語。
アシュトン・サンダース演じる本名の「シャロン」が、そのまま章題になっている。
背はひょろ長くなったものの、相変わらず気弱ないじめられっ子。
母親は売春婦として働いていて、ドラッグを買うためにシャロンにも金の無心をするほどに中毒は悪化。
すでにフアンは亡くなっているが、ここでは彼のガールフレンドだったテレサが、擬似的な母親の役を果たしている。
家に居場所がないシャロンは、ある夜ケヴィンと月明かりの海岸で出会う。
ケヴィンは彼に「ブラック」というあだ名を付け、色々な想いを打ち明けているうちにキスを交わし、愛し合うことに。
思いがけない初めての経験は、シャロンの心に深く刻まれる。
ところが翌日、テレルにいじめの儀式に参加させられたケヴィンは、止むを得ず生贄のシャロンを殴りつけるのだが、彼にとっては愛が芽生えた直後の裏切りに他ならない。
学校はシャロンに告発を勧めるが、彼はテレルに直接復讐し、自ら警察に捕まることを選ぶのだ。
最終第3章で、トレヴァンテ・ローズが演じる大人になったシャロンは、ケヴィンへの想いを引きずる様に「ブラック」と名乗っていて、前2章とはまるで別人の様だ。
マッチョな肉体を金ピカのラッパー風ファッションに包み、故郷からは離れたアトランタでドラッグの売人をしている。
第2章の終わりで少年院に送られたシャロンは、そこで出会った悪い仲間に誘われて、昔のフアンと同じ様な人生を送っているのだ。
ようやく中毒から抜け出した母親は、薬物のリハビリ施設で暮らしていて、遅ればせながら嘗ての自分の行いを悔いている。
カタギとは言えないまでも、もうシャロンを傷つける者はいない。
しかし、そんな時にかかってきたケヴィンからの電話が、シャロンの心を激しく揺さぶるのである。
第1章で愛を知らずに育っている少年は、まだ自分が何者かも分からず、ただ愛されることを欲しているのみ。
数年後の第2章で初めて人を愛することを知り、自らのアイデンティティを強烈に意識する。
そして長い喪失を経た第3章で、嘗てのメンターの面影を模して生きている男は、突然かかってきたケヴィンからの電話によって、胸にぽっかり空いた穴の正体に気付く。
不遇のマイノリティ社会、ゲイであることへの戸惑い、イジメにドラッグにネグレクトとモチーフはとことん悲惨なのだが、バリー・ジェンキンスはあえてシチュエーションをドラマチックに盛り上げることを避け、映画ならではの視聴覚言語を使ってシャロンの人生を極めて詩的に描き出す。
構図やカメラワーク、色彩設計や俳優の捉え方に至るまで、全体の画作りがウォン・カーワァイっぽいのだが、やはり相当に研究し、意識しているらしい。
「ぽい」とは言っても、きちんと本歌取りして自分の表現に昇華しているのはもちろんのこと。
筋立ての上では主人公と適度な距離を保ち、テリングでは逆に主観に寄り添った映像表現と、クセの強い心象的な音楽・音響演出が、それぞれの章で自然に彼の心情を語りかける。
三つの時代でシャロンを演じる、3人の俳優たちが素晴らしい。
特に第3章のトレヴァンテ・ローズの演技は、第1章でフアンを演じるマハーラシャ・アリと並んで、本作の白眉と言える。
最初の2章のシャロンは、いかにも細っこいいじめられっ子という感じだったのが、第3章では突如としてコワモテのおっさん化しており、「こいつ誰だ⁇」というくらいの変わり様。
それでいて、母親やケヴィンと絡む部分では、中味は子供の頃のままの心根の優しい男なのが伝わってくる。
今は施設で静かに生きる母との和解のシーンの涙や、久々に連絡をくれたケヴィンに会う時に髪型や口臭を気にしたりする仕草は、裏社会の人間とは思えない繊細なキャラクター。
再会したケヴィンにも、「うつむくクセは変わらないな」と言われてしまう。
そして、懐かしい人への想いを歌った"Hello Stranger"がジュークボックスから流れる時、二人はあの時の海岸での気持ちが、お互いの心に今も残っていることを知るのである。
誰の中にもある、変わってゆく人生の、変わらないもの。
自分を何者かにしてくれた、人生でただ一つの愛を再び確信し、「ブラック」と呼ばれた男は、遂に本当の「シャロン」に戻るのだ。
静かに抱き合うシャロンとケヴィンの姿が、ブルーに光る月光の下へと回帰するラストシーンが美しい。
人種的マイノリティのドラマであるのと同時に、性的マイノリティのラブストーリーとして、初のアカデミー作品賞。
しかも助演男優賞のマハーラシャ・アリは、アメリアの極右が大嫌いなムスリムで、役柄はキューバ難民の子。
トランプの時代だから賞を取れたと揶揄する向きもある様だが、アカデミー賞が政治的で時代を反映するのは当たり前で、むしろ主人公を演じた3人には、共同主演男優賞をあげたかったくらい。
観終わってから、ジワリと静かな余韻が広がるタイプの作品だが、語り口のスタイルからして、ある程度人を選ぶと思うし、この映画をつまらなかった、あるいは愛せない人もいるだろう。
つまらない、のはいい。
だけどもし愛せないのであれば、なぜ愛せないのかを自問自答して欲しい。
虚構の中に真実を描く映画は、自分を映す鏡でもある。
月光の中に浮かび上がるのは、知らない自分の姿かも知れない。
今回は懐かしい人と共に飲みたい赤。
思い出に負けないフルボディ、カリフォルニアはシャトー・セント・ジーンの「カベルネ・ソーヴィニヨン ソノマ・カウンティー」の12年をチョイス。
ベリー系に仄かにスパイスが混じる豊かな香りが特徴。
しっかりとしたコクがあり、パワフルなボディは特に肉料理の味を引き立てる。
カリフォルニアの代表的な銘柄の一つで、リーズナブルなのも嬉しいところ。
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マイアミに住む気弱な1人の少年が、たった一つの愛を胸に、自分が何者かを探しながら大人になるまでを描く物語。
原案はタレル・アルバン・マクレイニーの半自伝的戯曲「In Moonlight Black Boys Look Blue(月光の下で、黒人の少年がブルーに輝く)」で、これが長編二作目となるバリー・ジェンキンスによって脚色・監督された。
タイトル通り淡い月光によって浮かび上がる、人間の気高さと儚さ、愛の美しさと悲しみが物語を通して静かに観客の心に染み渡って行く。
本年度アカデミー作品賞を、土壇場で掻っ攫っただけはある、骨太のヒューマンドラマだ。
※ラストに触れています。
フロリダ州マイアミ。
ドラッグの売人として暮らすキューバ人のフアン(マハーラシャ・アリ)は、ある日同級生に追われて空き部屋に逃げ込んだ少年、シャロン(アレックス・ヒバート)と出会う。
ジャンキーの母親(ナオミ・ハリス)には愛されず、学校では毎日のようにいじめられているシャロンを、フアンとガールフレンドのテレサ(ジャネール・モネイ)は優しく迎え入れ、やがて彼はフアンの家に入り浸るようになる。
ある夜、自分の配下の男がドラッグを売った相手が、シャロンの母親だと気付いたフアンは、彼女を詰るのだが、自分にドラッグを売ってるのは誰だと逆に言い返されてしまう。
数年後、高校生となったシャロン(アシュトン・サンダース)は、相変わらずクラスのボスのテレル(パトリック・デシル)の酷いいじめに悩まされている。
ある夜、ふとビーチを訪れたシャロンは、そこで意外な人物と出会うのだが・・・
少年の成長と、同性の幼馴染への切ない愛を描く本作は、いわば「6才のボクが、大人になるまで。」ミーツ「ブロークバック・マウンテン」だ。
小学生、高校生、そして大人の3章に別れた物語は、それぞれの時代の主人公の呼び名が章題となっていて、これがその時点で彼が抱えている葛藤を象徴する。
第1章で、アレックス・ヒバートが演じる少年シャロンは「リトル」と呼ばれている。
その名の通り体が小さく、いじめられっ子で、同級生からは「オカマ」とからかわれる毎日。
父は無く、ジャンキーの母親と二人暮らしで、唯一仲良くしてくれる友だちは幼馴染のケヴィン。
そんなある日、シャロンは街でドラッグの売人をしているフアンと出会い、彼と擬似親子的な関係を結んでゆく。
導く者がいなかった彼の人生に、初めてメンターが現れるのだ。
この章では、シャロンは自分を愛してくれない母への憎悪を語り、フアンへの傾斜を強めるのだが、フアンはシャロンの母親が自分の顧客であることを知り、打ちひしがれる。
第2章は、シャロンが高校生の時代の物語。
アシュトン・サンダース演じる本名の「シャロン」が、そのまま章題になっている。
背はひょろ長くなったものの、相変わらず気弱ないじめられっ子。
母親は売春婦として働いていて、ドラッグを買うためにシャロンにも金の無心をするほどに中毒は悪化。
すでにフアンは亡くなっているが、ここでは彼のガールフレンドだったテレサが、擬似的な母親の役を果たしている。
家に居場所がないシャロンは、ある夜ケヴィンと月明かりの海岸で出会う。
ケヴィンは彼に「ブラック」というあだ名を付け、色々な想いを打ち明けているうちにキスを交わし、愛し合うことに。
思いがけない初めての経験は、シャロンの心に深く刻まれる。
ところが翌日、テレルにいじめの儀式に参加させられたケヴィンは、止むを得ず生贄のシャロンを殴りつけるのだが、彼にとっては愛が芽生えた直後の裏切りに他ならない。
学校はシャロンに告発を勧めるが、彼はテレルに直接復讐し、自ら警察に捕まることを選ぶのだ。
最終第3章で、トレヴァンテ・ローズが演じる大人になったシャロンは、ケヴィンへの想いを引きずる様に「ブラック」と名乗っていて、前2章とはまるで別人の様だ。
マッチョな肉体を金ピカのラッパー風ファッションに包み、故郷からは離れたアトランタでドラッグの売人をしている。
第2章の終わりで少年院に送られたシャロンは、そこで出会った悪い仲間に誘われて、昔のフアンと同じ様な人生を送っているのだ。
ようやく中毒から抜け出した母親は、薬物のリハビリ施設で暮らしていて、遅ればせながら嘗ての自分の行いを悔いている。
カタギとは言えないまでも、もうシャロンを傷つける者はいない。
しかし、そんな時にかかってきたケヴィンからの電話が、シャロンの心を激しく揺さぶるのである。
第1章で愛を知らずに育っている少年は、まだ自分が何者かも分からず、ただ愛されることを欲しているのみ。
数年後の第2章で初めて人を愛することを知り、自らのアイデンティティを強烈に意識する。
そして長い喪失を経た第3章で、嘗てのメンターの面影を模して生きている男は、突然かかってきたケヴィンからの電話によって、胸にぽっかり空いた穴の正体に気付く。
不遇のマイノリティ社会、ゲイであることへの戸惑い、イジメにドラッグにネグレクトとモチーフはとことん悲惨なのだが、バリー・ジェンキンスはあえてシチュエーションをドラマチックに盛り上げることを避け、映画ならではの視聴覚言語を使ってシャロンの人生を極めて詩的に描き出す。
構図やカメラワーク、色彩設計や俳優の捉え方に至るまで、全体の画作りがウォン・カーワァイっぽいのだが、やはり相当に研究し、意識しているらしい。
「ぽい」とは言っても、きちんと本歌取りして自分の表現に昇華しているのはもちろんのこと。
筋立ての上では主人公と適度な距離を保ち、テリングでは逆に主観に寄り添った映像表現と、クセの強い心象的な音楽・音響演出が、それぞれの章で自然に彼の心情を語りかける。
三つの時代でシャロンを演じる、3人の俳優たちが素晴らしい。
特に第3章のトレヴァンテ・ローズの演技は、第1章でフアンを演じるマハーラシャ・アリと並んで、本作の白眉と言える。
最初の2章のシャロンは、いかにも細っこいいじめられっ子という感じだったのが、第3章では突如としてコワモテのおっさん化しており、「こいつ誰だ⁇」というくらいの変わり様。
それでいて、母親やケヴィンと絡む部分では、中味は子供の頃のままの心根の優しい男なのが伝わってくる。
今は施設で静かに生きる母との和解のシーンの涙や、久々に連絡をくれたケヴィンに会う時に髪型や口臭を気にしたりする仕草は、裏社会の人間とは思えない繊細なキャラクター。
再会したケヴィンにも、「うつむくクセは変わらないな」と言われてしまう。
そして、懐かしい人への想いを歌った"Hello Stranger"がジュークボックスから流れる時、二人はあの時の海岸での気持ちが、お互いの心に今も残っていることを知るのである。
誰の中にもある、変わってゆく人生の、変わらないもの。
自分を何者かにしてくれた、人生でただ一つの愛を再び確信し、「ブラック」と呼ばれた男は、遂に本当の「シャロン」に戻るのだ。
静かに抱き合うシャロンとケヴィンの姿が、ブルーに光る月光の下へと回帰するラストシーンが美しい。
人種的マイノリティのドラマであるのと同時に、性的マイノリティのラブストーリーとして、初のアカデミー作品賞。
しかも助演男優賞のマハーラシャ・アリは、アメリアの極右が大嫌いなムスリムで、役柄はキューバ難民の子。
トランプの時代だから賞を取れたと揶揄する向きもある様だが、アカデミー賞が政治的で時代を反映するのは当たり前で、むしろ主人公を演じた3人には、共同主演男優賞をあげたかったくらい。
観終わってから、ジワリと静かな余韻が広がるタイプの作品だが、語り口のスタイルからして、ある程度人を選ぶと思うし、この映画をつまらなかった、あるいは愛せない人もいるだろう。
つまらない、のはいい。
だけどもし愛せないのであれば、なぜ愛せないのかを自問自答して欲しい。
虚構の中に真実を描く映画は、自分を映す鏡でもある。
月光の中に浮かび上がるのは、知らない自分の姿かも知れない。
今回は懐かしい人と共に飲みたい赤。
思い出に負けないフルボディ、カリフォルニアはシャトー・セント・ジーンの「カベルネ・ソーヴィニヨン ソノマ・カウンティー」の12年をチョイス。
ベリー系に仄かにスパイスが混じる豊かな香りが特徴。
しっかりとしたコクがあり、パワフルなボディは特に肉料理の味を引き立てる。
カリフォルニアの代表的な銘柄の一つで、リーズナブルなのも嬉しいところ。

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