酒を呑んで映画を観る時間が一番幸せ・・・と思うので、酒と映画をテーマに日記を書いていきます。 映画の評価額は幾らまでなら納得して出せるかで、レイトショー価格1200円から+-が基準で、1800円が満点です。
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ハクソー・リッジ・・・・・評価額1650円
2017年06月29日 (木) | 編集 |
神さま、あと一人だけ。

「アポカリプト」以来、10年ぶりとなるメル・ギブソン監督作品。

第二次世界大戦下の沖縄で、信仰ゆえに不殺の誓いをたて、一切の武器を持たずに、75名もの負傷兵を救出した衛生兵、デズモンド・ドスを描く実話ベースの物語だ。
アンドリュー・ガーフィールドが「沈黙-サイレンス-」に続いて、再び日本の地で信仰を問われる。

なんかこの人、前世で日本に縁があるのでは?
タイトルの「ハクソー・リッジ」とは、戦いの舞台となる浦添の前田高地のこと。
前田高地の北側斜面が、ギザギザに切立った険しい崖であったことから、侵攻した米軍がハクソー(ノコギリ)尾根と呼んだことに由来する。
銃弾が飛び交う地獄の戦場で、自分の命を顧みず丸腰のまま走り回り、時には敵である日本兵さえも救おうとした信念はなぜ生まれたのか。
良心的兵役拒否者としては、アメリカ史上初めての名誉勲章が授与された“異色の英雄”の内面に迫ったユニークな戦争映画であり、宗教ドラマだ。
※核心部分に触れています。

デズモンド・ドス(アンドリュー・ガーフィールド)は、ヴァージニアの自然豊かな田舎町で育った。
父トム(ヒューゴ・ウィービング)は第一次世界大戦の帰還兵で、心に深い傷を負ったことから酒に溺れ、母バーサ(レイチェル・グリフィス)との諍いが絶えなかった。
やがて成長したドスは、献血に訪れた病院で出会った看護師のドロシー(テリーサ・パーマー)と恋に落ち、結婚を決意する。
しかし、折からの戦争は次第に激しさを増し、街の若者たちは続々出征していった。
幼少期の経験から聖書の「汝、殺すなかれ」という戒めを大切にしていたドスだったが、戦場で負傷兵を助ける衛生兵であれば、銃を持たなくても国のために尽くせるのではないかと考え、入隊することに。
グローヴァ―大尉(サム・ワーシントン)の部隊に配属されたドスは、激しい訓練をこなしてゆくのだが、唯一射撃の訓練だけは断固として拒否する。
軍務はやるが「人を殺すことはできない」と言うドスに、「人を殺すのが戦争だ」と呆れるグローヴァ―は除隊を勧める。
頑なに除隊を拒むドスは、同僚の兵士たちからあらゆる嫌がらせを受けるも動じない。
ドロシーとの結婚式のための休暇も取り上げられ、遂には命令拒否として軍法会議にかけられることになってしまうのだが・・・



前半は、初めて人を殺すことの意味を考える少年時代から、軍隊に志願し“絶対に銃を持たない兵士”が認められるまでの顛末、後半が沖縄に舞台を移し、ハクソー・リッジでの激戦という構成。
基本的に、ドスが過酷な現実を前に、信仰に基づく不殺の信念を、いかにして貫き通せたのかという物語だ。

彼は19世紀の米国で起こった、キリスト教系の新教派セブンスデー・アドベンチスト教会の敬虔な信徒。
日本でも活動しているこの教会は、キリストを天使ミカエルと同一視していたり、安息日が日曜ではなく土曜だったり、伝統的なプロテスタントとは色々と違いがある。
ただ、モーゼの十戒にある「汝、殺すなかれ」は、アドベンチストだけでなく全てのキリスト教会において、もっともベーシックな戒律だから、特にこの教派の信徒だけが不殺の信念を持っている訳ではないだろう。
ドスが絶対に銃に触れない訳は、むしろ彼の育った家庭環境が要因だ。

映画は、前半1時間以上をかけて、じっくりと戦場に赴くまでの彼の半生を描く。
緑豊かな田舎町に育ち、成長してドロシーと恋に落ち、入隊してから銃を持たないことを宣言し、非武装の兵士を認めない上官や同僚たちから執拗な嫌がらせを受け、ついには軍法会議にかけられてしまう。
しかし、軍内部のドスへの反発は当たり前の話だ。
第二次世界大戦時の米国に約1万2千人いた、信仰を理由とした良心的兵役拒否者は、通常 CPS(Civilian Public Service)と呼ばれる仕組みに参加し、森林消防や精神病院での仕事を軍務の代替策としていた。
ドスの様に呼ばれもしないのに自分から志願し、丸腰のままのこのこ戦場についてくるなど前代未聞だったのである。

ポイントは、ドスは反戦主義者ではないということと、いろいろな面で彼に似ている父親との関係性だ。
父のトムは第一次世界大戦に出征し、多くの仲間を失っている。
その経験から今でいうPTSDを発症し、戦争や権力を毛嫌いする反面、酒に溺れ時に銃を持ち出してDVに及ぶようになってしまう。
ドスは第一次世界大戦で戦った父を尊敬しているが、彼の暴力は嫌悪しているのである。
DVを止めようと、父に銃を突きつけた経験、そして幼い頃の喧嘩で弟を殺しかけた経験が、ドスの中でトラウマとなり、暴力への嫌悪が信仰と結びついて、不殺の信念が出来上がった様に見える。
普通に考えれば、不殺イコール反戦なわけで、人を助けたいけど戦争には反対しない、むしろ積極的に参加するという考えを理解するのは難しい。
この矛盾を埋め合わせるのが、「汝、殺すなかれ」を説く信仰というわけだ。

だからこの映画は、信仰とはそもそもジレンマを抱えている、ということを理解しないと誤解される危うさを孕んでいる。
「沈黙-サイレンス-」で、ガーフィールド演じる司祭ロドリゴは、江戸初期の長崎に潜入し「日本人のために信仰を広めたいが、そうすると信徒たちが殺される」という状況に葛藤する。
そして、自分は本当はどうすべきなのか神に問いかけたが、神は沈黙したまま。
300年後を描くこの映画では、ハクソー・リッジの戦闘に飛び込み、凄まじい戦争の現実に慄いたドスが、やはり神に問いかける。
だが「沈黙-サイレンス-」と異なるのは、神はその時人の声を借りて、ドスに答えを返すのだ。
「助けてくれ!」と。
ドスにとって、その声はまさに神の啓示であり、全ての葛藤は消し去られ、あとは忠実な信徒として声に従うのみ。

この映画に対する批判的意見として、彼は助けるために犠牲を望んでいるのではないか?というものがあったが、これは当てはまらないと思う。
罪深き人間たちの戦場で、ただひたすら命を助けて回るのは、彼にとっては神命であり試練。
神が何人の兵士を殺すのかなど、ドスにとってはあずかり知らぬことで、それが何人で何者であろうとも、目の前に傷ついた人間がいれば、救わねばならないのである。
戦闘が始まると、敵味方両方で「衛生兵!」の叫び声(日本軍のはもちろん日本語)が繰り返されるのが極めて印象的。
実は私の祖父は戦時中衛生兵で、戦場では一番しんどい役だと話していたが、この映画観るとなるほど納得だ。
硝煙の向こうの日本軍陣地にも、駆けずり回っているもう一人のドスがいる。
アメリカ人であろうと日本人であろうと、神の前ではみな等しく罪人であり、だからこそドスも、相手が日本兵であったとしても、助けようとしたのだろう。
神との対話やラストのイメージなど、ドスをキリストと重ね合わせているのは明らかで、ギブソン監督的には、ある意味2000年後の「パッション」vol.2か。

本作は、主人公の内面に寄り添った極めて主観的な映画で、戦争は過酷な試練の場としてのシチュエーションに過ぎない。
だから基本的に、ドスが見た世界しか描かれず、太平洋の戦場を描いた傑作TVシリーズの「ザ・パシフィック」が持っていた様な、歴史としての沖縄戦を俯瞰する視点はなく、敵である日本軍に対する特別な感情もない。
ドスにとっては自分が何を思い、何をなすのかが重要で、戦っている相手は日本人でなくてもいいし、場所も沖縄でなくてもいいのである。
沖縄の戦場をモチーフとした、一人の信仰者の信念の物語として観るならば、非常に良くできた映画で、満足度は相当に高い。
しかし、過去のメル・ギブソン監督作品、例えば「パッション」における拷問や「アポカリプト」の逃亡と人体破壊など、全体のバランスを崩してまで、一つのイメージだけを追求する独特のねちっこさはやや薄れた。
確かに戦闘描写は凄惨だが、公開当時は未見性の塊だった「プライベート・ライアン」などと比べても、一つ一つのシーンは映画的にきっちりと構成されていて、とんでもないものが目に飛び込んできた!という意外性は感じないのだ。

その分、メッセージ性の強いエンターテイメントとしてはとても観やすく、作家としては進化しているのだろうが、ギブソン監督の静かな狂気を期待してたファンとしては、そこだけはちょこっと物足りなかったな。

今回は舞台となった沖縄の地酒、瑞泉酒造の泡盛古酒「おもろ 17年熟成古酒」をチョイス。
伝統的な甕貯蔵による長期熟成酒で、甘みと酸味が複雑に絡み合う香り、味わいはコクはあれどクセはなく、飲みやすい。
飲み方はストレートかロックで。
古くなれば古くなるほど味がマイルドになり、深みを持つ泡盛の古酒。
昔は100年を超えるものもあったそうだが、沖縄戦でほとんどの甕が割れてしまったという。
色々な意味で、戦争は人類最大の罪である。

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ショートレビュー「いつまた、君と 何日君再来(ホーリージュンザイライ)・・・・・評価額1500円」
2017年06月26日 (月) | 編集 |
どん底に落ちても、愛だけは残った。

ウエハース付きのアイスクリームから始まる物語。
第二次世界大戦後、文字通り裸一貫から出直すことになる、とある中国からの引き上げ家族の波乱万丈の戦後史
戦争は終わっても、庶民はただ生きるだけでも大変なのだ。
原作は、本作の企画者でもある、俳優の向井理の祖母・芦村朋子さんの手記。
描かれるのは、昭和15年、夫になる芦村吾郎のプロポーズから中国・南京への赴任、そして敗戦・引き上げ後の昭和21年からおおよそ10年間の出来事だ。
映画は、大学生時代の向井理が、お婆ちゃんの手記の執筆を手伝いながら過去が語られる構成で、本人が祖父にあたる吾郎役を演じている。
どの家族にも、どの人にも、その血の中には何世代にも渡って脈々と綴られた物語があるはず。
「人に歴史あり」という言葉を具現化した様な作品で、企画性自体が非常に面白い。

この作品がユニークなのは、映画やドラマではあまり描かれてこなかった、外地からの引き上げ者の戦後にスポットを当てていること。
敗戦前の日本は、オセアニアから中国大陸の奥地まで広がる広大な帝国で、各地に散らばった陸海軍部隊は350万人、在留民間人は300万人に及んだ。
民間人の帰還に関しては、財産の持ち出しが制限され、正規に持ち出せた現金は僅か千円だったという。
昭和20年の貨幣価値はおおよそ現在の400分の一と言われているが、5年で物価が100倍になったという戦後のハイパーインフレ下では一ヶ月の生活がやっとだろう。
戦争で疲弊しきった人口7000万人の国に、600万人以上の持たざる人々が戻ってくるのだから、これは大変なことだ。
「シン・ゴジラ」の劇中で、首都圏380万人を避難指定するにあたって、里見総理代理が「避難とは、住民に生活を根こそぎ捨てさせることだ。簡単に言わないでほしいなあ」とボヤく台詞があるが、あの状態がこの国の現実だった時代がある。

冒頭のアイスクリームの偶然から、「この世界の片隅に」を連想したが、北条家の様な内地の家族は、戦争が終わればそれなりに希望が見えるが、外地からの引き上げ家族にとって、戦後は全てを失った絶望から始まるという意味でも対照的。
この二本はセットで観ると、印象がより深まる。
しかも芦村の家族は、同情したくなるくらい、とことん運が無いのだ。
愛媛の実家には居場所が無く、出稼ぎに出てトラックを買い、運送屋を始めようとするもトラックがポンコツ過ぎて廃業、タイルの卸売店に就職してやっと安定したと思ったら倒産。
生活が上手くいきそうになると、なぜか突然ダメになるの繰り返し。
この悪循環の根が、先祖からの業にまで広がるのは、いかにも血脈主義の日本的な考えで面白い。

手記の構成ゆえにドラマ的な軸が弱く抑揚に欠け、「こういうことがありました」は描かれるが、それが具体的にどんな影響を及ぼしたかは具体性に乏しい。
現代パートの大学生の向井理が、キャラクターとして殆ど機能していないなど、作劇上の欠点は多い。
だが、市井の人々のリアルな戦後家族史として、これはなかなか興味深い作品だ。
何度もなんども打ち倒される吾郎と、それでも自ら選んだ人生を貫く朋子夫婦の姿には、普遍的な共感性があり、この映画を観た人は誰でも、自分の家族のルーツを知りたくなるだろう。
子供達が巣立ったら、世界を旅するという夫婦の夢を、ある方法で実現しているのも素敵だった。
あのポンコツトラックが一緒なのもいい(笑
先日亡くなった野際陽子のスクリーン最後の姿を目に焼き付け、高畑充希の歌うテーマ曲「何日君再来(いつの日君帰る)」に思わず落涙。
昭和の時代に想いを馳せる114分だ。

今回は中国に所縁のある映画なので、中国の酒宴に欠かせない白酒の中でも、一級品として知られる「貴州茅台酒(キシュウマオタイ酒)」をチョイス。
300年以上の歴史を持ち、日中国交回復の式典でも振舞われた、中国を代表する蒸留酒。
数ある白酒のなかでも相当にお高いが、独特の香りと濃厚なコクはその価値を十分感じさせる。
白酒を買うと小酒杯という小さなグラスが付いてくることが多いが、このグラスで一気にグイッと飲むのが一般的。
中国人と飲むと、とにかく次々と杯を勧めてくる。
マオタイは悪酔いしにくいのが特徴ではあるものの、当然ながら40度以上の酒を飲み続けてはたまらない。
勧められれば断らないのが礼儀ではあるのだけど、よくよく聞くと中国人は飲む振りして他の器に移したりしてるらしい。
なるほど、どんなに飲んでも平気な顔してるわけだ。

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ショートレビュー「残像・・・・・評価額1650円」
2017年06月24日 (土) | 編集 |
信念の代償は、あまりに高い。

昨年の10月に90歳で死去した、アンジェイ・ワイダの最後の輝き。
舞台となるのは、第二次世界大戦後、ソ連の影響下におかれ、急速にスターリニズムが浸透するポーランド。
アーティストであると同時に熱心な教育者でもあり、体制に抑圧され無念の死を遂げた前衛画家、ブワディスワフ・ストゥシェミンスキの最期の日々を描く物語だ。
生涯をかけて抑圧と闘ってきた反骨の巨匠の遺作として、これ以上相応しい作品があるだろうか。
ドイツ占領下のポーランドを描いた初期の「抵抗三部作」から、労働英雄とされた男の現実に迫る「大理石の男」「鉄の男」、ソ連軍によるポーランド人虐殺を題材とした「カティンの森」、そして嘗ての盟友を通し民主化運動の時代を描く「ワレサ 連帯の男」。
常に母国ポーランドの民衆に寄り添い、抑圧に抵抗する声を上げ続けた90歳の監督から、現在への警鐘と言える大力作だ。

ストゥシェミンスキは色彩のアーティストだったから、凝った色彩デザインは本作でも見どころだ。
序盤に、自宅で絵を描いていたストゥシェミンスキのカンバスが、突然真っ赤に染まる印象的な描写がある。
赤を基調としたスターリンの巨大な肖像画が、彼のアパートの窓を覆う様に掲げられたのだ。
国家が、一つの機関によって一元支配されることへの恐怖。
表現の自由など無く、芸術も国家に服従を強いられ、社会主義リアリズム以外は排除される。
教鞭をとるウッチ市の美術学校での演説会で、反対意見を述べたストゥシェミンスキに、大臣が「市電に轢かれて死ね」と暴言を吐く。
しかし実際にそこは、芸術家も登録制となり、非公認では画材すら買えず、仕事も出来ないまま、ジリジリと死に向かって追いやられるディストピアなのだ。

赤く塗りつぶされる社会に対し、黒を身にまとい続けるストゥシェミンスキは、ある意味ワイダ自身。
容赦無く人生が崩壊してゆく様は、全体主義の時代を実際に経験した人ならではのリアリティだ。
ただ、この映画における色彩は、一つの意味を比喩するだけではなく、多義的な意味を持っている。
例えば離婚した妻と暮らしていた一人娘は常に赤いコートを着ているが、この場合の赤は体制の色ではなく、ストゥシェミンスキの黒の対照であり、母親の葬儀の際に派手な色を咎められた娘がコートを裏返して黒にするのは、臨機応変に変化する人間の多面性を示している。
あまりに実直過ぎて赤を纏えず、商店のショーウィンドウの中で、非業の死を迎えるストゥシェミンスキは、まるで「灰とダイヤモンド」の、ゴミ山の上で絶命する主人公マチェクの様だ。

しかしポーランドは民主化され、ワイダ自身も一時期連帯から出馬し、国会議員を務めていた。
劇中で主人公が勤めていた美術学校も、現在ではウッチ・ストゥシェミンスキ美術アカデミーと改名され、復権を遂げている。
なぜワイダは、最後の作品として、初期の抵抗三部作を思わせる様なダークな作品を撮ったのか。
劇中でストゥシェミンスキは、自らの色彩理論を女子学生にこう語る。
「ものを見ると目に像が映るが、見るのをやめて視線を逸らすと、それが残像として残る。残像は形は同じだが常に補色なんだ」
これは嘗て存在した現実の歴史の時間の、補色としての映画である。
やがて残像すら残らなくなった時に、人々は実像を覚えているだろうか。
共謀罪の時代、これは日本人にも決して他人事ではない作品だ。

近年では、ポーランドでも若い世代は、強い蒸留酒よりワインやビールを好む傾向があるそうだが、やはりポーランドと言えば伝統のウォッカの国。
今回は「べルヴェデール ウォッカ」をチョイス。
ジェームズ・ボンドの愛飲酒、スペクター・マティーニのオフィシャルとしても知られる、まろやかな口当たりのプレミアムウォッカ。
ムシムシする今の季節には、冷凍庫でキンキンに冷やし、シャーベット状にしてそのまま飲むかスパークリングウォーターで割るのがオススメ。

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怪物はささやく・・・・・評価額1650円
2017年06月21日 (水) | 編集 |
怪物を呼んだのは誰か。


重い病気にかかったママを持つ、孤独な少年の元に、夜な夜な巨大なイチイの木の怪物が現れて、三つの物語を語って聞かせる。

怪物は、三つ目の物語を語り終えたら、少年が心の中に隠している、四つ目の真実の物語を語らねばならないと言う。

突然現れた怪物と彼の語る物語は、何を意味するのだろうか。
思春期のヘビーな葛藤を、虚構と現実が入り混じる世界観の中で描いたパトリック・ネスの同名児童小説を、作者本人が映画のために脚色。
監督は、「永遠のこどもたち」「インポッシブル」で知られるJ・A・バヨナが務める。
フェリシティ・ジョーンズ、シガ二―・ウィーバー、リーアム・ニーソンというキャスティングが、数奇者好みのマニアックさだ。
※核心部分に触れています。

イギリスに住む13歳の少年コナー・オマリー(ルイス・マクドゥーガル)は、難病におかされたママ(フェリシティ・ジョーンズ)と二人暮らし。
部屋の窓から見えるのは、教会と墓地、そして大きなイチイの古木。
離婚したパパは、海の向こうのアメリカで新しい家族と暮らしている。
毎夜、ママが地の底に落ちそうになる恐ろしい悪夢にうなされるコナーだったが、その夜は目覚めても悪夢は終わらなかった。
イチイの古木が巨大な怪物(リーアム・ニーソン)となって、コナーの目の前まで歩いてきたのだ。
「私はお前に三つの真実の物語を話す。私が三つ目の物語を語り終えたら、今度はお前が四つ目の物語を話すのだ」と怪物は告げる。
コナーが心の中に隠している、誰にも知られたくない物語。
頑なに拒むコナーだったが、怪物は有無を言わさず一つ目の物語を語り始める。
そして、ママの容体も次第に悪化して入院することとなり、コナーは何かと馬が合わないおばあちゃん(シガ二―・ウィーバー)と暮らし始めるのだが・・・


パトリック・ネスの小説は、「十三番目の子」「ボグ・チャイルド」などで知られる、故シヴォ―ン・ダウドの原案に基づいている。
作家であり、表現の自由を守る活動家でもあったダウドは、作中の“ママ”と同じく、47歳の若さで乳癌のため亡くなった。
編集者が共通の人物であったことから、彼女の残した構想を基に、ネスが執筆することになったようだ。
ダウドが最後に伝えたかった想いをネスが受け継ぎ、今度はバヨナの手で映画となって観客に届けられ、いつかまた次の世代の子供たちに語り継がれる。
幸福な創作の連環によって、浮かびあがるのは物語の持つ力と役割である。

入れ子構造の物語と子供と怪物、この組み合わせはある意味鉄板だ。
「ネバー・エンディング・ストーリー」から「ナルニア国物語」「パンズ・ラビリンス」に至るまで、子供の心が具現化するファンタジーの世界の読み解きは面白い。
何らかの問題に直面し、心に闇を抱えた子供たちは、葛藤し現実を乗り越えるステージとしての物語の登場人物となる。
本作の特徴は、コナー少年の心の中に秘めたる物語があり、怪物が三つの物語を語り終えれば、彼が四つ目の物語を語ると、あらかじめ決められていること。
コナーは物語の結末を知っているが、それは決して認めたくない、彼自身の本音に関わるものなのだ。

ならば怪物の語る三つの物語の意味は何か。
大地の化身である怪物が語るのは、彼が“歩いた時”の物語。
一つ目物語は、ディズニー映画に出てきそうな古の王国で展開する。
王国には偉大な王と王妃夫妻、聡明な王子がいる。
王妃は継母で、王子とは血が繋がっておらず、魔女だという噂があった。
ある時、王が亡くなり、王子が成人するまでの間、王妃が女王として国を統治することになるのだが、まだ若い彼女は、権力を維持するために王子との結婚を画策する。
ところが、王子には村娘の恋人がいた。
王子は恋人と駆け落ちするも、イチイの木の根元で眠っている間に、彼女は何者かに殺されてしまう。
女王の仕業だと考えた王子は、怪物と化したイチイの木、怒りに燃える村人たちと共に王宮に攻め入り、女王を追放して王位につく。

一見するとごくごく単純な勧善懲悪物語だが、実は怪物が歩いたのは王子のためではなく、無実の女王を救い、誰の手も届かない土地に解放するため。
物語には裏があり、恋人を殺したのは王子自身で、邪魔になる女王を排除するために、陰謀を巡らせたのだ。
王位についた王子は、立派な名君となり国を治めたという。
女王は悪の魔女ではなかったが、権力に執着し王子との結婚を望み、王子は目的のためなら手段を択ばない冷酷さを持つが、王としては有能だった。
人間の世界には、絶対の悪も絶対の善もないのである。

二つ目の物語は、産業革命の頃の時代、村の司祭とアポセカリー(薬剤師)の話だ。
薬草から薬を作り人々を癒すアポセカリーは、既に時代遅れの存在で、司祭もまたこの強欲で偏屈な男を忌み嫌い、信徒に彼の治療を受けないよう説教したため、アポセカリーはますます困窮する。
彼は、司祭館の敷地に立つイチイの木が優れた薬効を持つことから、この木を欲しがっていたが、司祭はがんとして譲らなかった。
ところが、司祭の二人の娘が疫病にかかり、近代的な治療が効かなかったため、恥を忍んでアポセカリーに娘たちを助けて欲しいと哀願する。
しかし、イチイの木も渡すし、今までの信念も捨てるという司祭に、アポセカリーは治療を拒否し、娘たちは死んでしまう。
再び怪物となったイチイの木は、"司祭館"を襲い破壊するというもの。

この物語も単純にとらえれば、司祭が被害者でアポセカリーが悪者の様に見えるが、そうではない。
たしかにアポセカリーは強欲で嫌な男だが、実際に人々を癒す力を持っていた。
一方の司祭は、単に自分が嫌いという理由だけで、アポセカリーを破滅に追いやり、人々が彼の治療を受ける機会を奪い去ったのだ。
それでいて、自分の都合が悪くなると、あっさりと信念を曲げてしまう。
結局、娘たちの死も司祭の身勝手さがもたらしたことで、だから怪物は司祭館を壊して、彼を懲らしめたのだ。

水彩調の美しいアニメーションで描かれる二つの物語は、昔話の体裁をとっているが、実はコナー自身の物語でもある。
彼はこの世界を“可哀想なこちら”と“無関心なあちら”、あるいは“正しい”と“正しくない”の二元論で見ている。
ママはもちろんこちら側で、色々と衝突するおばあちゃんはあちら側。
おばあちゃんは彼女なりに苦しんで、娘のことや孫のことを考えているのだけど、その想いはコナーには届いていない。
一つ目の物語は、人間の世界が単純な二元論で出来ていることをやんわり否定し、人の心の複雑さを伝える。
コナーの中で鬩ぎ合う希望と絶望は、二つ目の物語の司祭とアポセカリーによって対比され、何かにつけて彼が縋ろうとする、単純な正論の身勝手さを見せつけられるのだ。

続く三つ目の物語の主人公は、現実世界のコナー自身。
ママが病気になって、そのことが周りに知られて以来、人々は腫れ物に触れるようにコナーを扱い、彼は疎外感を募らせている。
いつの間にか透明人間になってしまった自分に耐えられず、あえていじめっ子を見つめることで自己主張し、毎日殴られる。
ところが相手がそんなコナーの意図に気づき、「もうお前を見ない」と告げるのだ。
いじめっ子の言葉は、図らずも未だ語られていない四つ目の物語の秘密に触れ、その瞬間、怒りに駆られたコナーは自身が怪物となって、いじめっ子を病院送りにしてしまう。
なぜ彼は、いじめっ子にだけ自分を見えるようにしていたのか。
それは、秘めたる四つ目の物語の真実に対して、自分自身で課した罰なのである。

怪物の語る三つの物語は、少年が残酷な現実を受け入れるための、通過儀礼としての疑似体験。
最初の二つの物語で、抱えている問題の本質を知り、三つ目の物語でこれが自分の現実であることを突きつけられる。
ついにコナーは、彼の人生に何が起こっているのかを認め、第四の物語とその向こうにある辛い真実に向き合う必要に迫られるのだ。
三つの物語を聞いている間にも、コナーを取り巻く環境は、確実に変化している。
どんな治療をしてもママはもう助からない、その事実は変えられない。
パパはアメリカの家庭にコナーを迎え入れるつもりはなく、これからはおばあちゃんと暮らさなくてはならない。
そして何よりも、日々少しずつやせ細り、死に向かってゆくママの姿を見続けるのが耐えられない。
だから、コナーは毎夜観る悪夢の終りで、地の底に飲みこまれようとするママの手を放してしまうのである。
「ボクは、苦しみから解放されるために、ママの死を願っている」という絶対に認めたくない真実、それが第四の物語。
大人と子供の狭間、13歳で背負わされる過酷な運命は、悪夢の結末と共に強烈な自己嫌悪となって、まだ幼い心を引き裂こうとする。
しかし、そんな現実が物語を生み出し、物語が現実を支え、コナーは少しずつ成長し、ようやく自らの真実の物語を語ることで乗り越えて行く。

シームレスにつながる現実世界と物語世界の、映画ならではのビジュアル表現、ぱっと見ではシン・ゴジラとグルートを合体させたような怪物のデザイン(実際は原作の挿絵に非常に忠実)も味わいがある。
原作には言及のない、「キング・コング」のメタファーとしての使い方も面白かった。
非常に重要なのは、原作小説と映画とでは、メンターとなる怪物がなぜコナーの前に現れたのかという解釈が異なっていること。
映画のコナーは、ただ一人孤独の中で怪物を生みだし、葛藤を解決したのではない。
おそらく、パトリック・ネスは小説を執筆し終えてから、この解釈を思いついて映画に採用したのではないだろうか。
物語は、誰かが大切な誰かへと想いを込めて贈る時に、現実を超える広がりと力を持つ。
ママからコナーへの魂の継承によって、詩的な余韻の広がる怪物と少年の物語は、彼のこれからの人生を哀しみではなく愛で包み込むのである。

今回は原作小説でママの愛飲酒、イギリスのリキュール「ピムス」をチョイス。
ロンドンのシティでオイスター・バーを経営していたジェームズ・ピムスが、ジンをベースにしたオリジナルのカクテル「ピムス ナンバーワンカップ」を作ったのは1840年のこと。
現在でもピムスのレシピは、世界で6人だけが知っているらしい。
ピムスとサイダーを1:3の割合で、氷を入れたグラスに注ぎ、スライスしたレモンと、板状にカットしたキュウリを入れて軽くステアして完成。
ピムスに配合されているハーブやフルーツのフレーバーが、スッキリとした清涼感を演出する。
日本の夏にもピッタリの一杯だ。

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2017年06月18日 (日) | 編集 |
真実は、人生に何をもたらすのか。

人間心理を繊細に描き出すイランの異才、アスガー・ファルハディ監督の最新作は、さすがの面白さだ。
主人公は、劇作家アーサー・ミラーの代表作、「セールスマンの死」を上演しようとしている仲の良い俳優夫婦。
ある夜、引っ越して間もないアパートに何者かが侵入し、妻が暴行される事件が起こる。
事件への対応を巡りすれ違う夫婦は、やがて明らかになる真実によって、さらなる葛藤に直面する。
主演のシャハブ・ホセイニとタネラ・アリシュステイが素晴らしく、二人の噛み合わない想いがぶつかり合うことで、強烈にキャラクターが立つ。
第89回アカデミー外国語映画賞に輝くも、トランプ政権のイスラム圏からの入国禁止措置に反発し、ファルハディ監督らが授賞式をボイコットしたことでも話題を呼んだ。
夫婦というミニマルなコミュニティから、分断された世界が見える問題作だ。
※核心部分に触れています。

現代のテヘラン。
エマッド(シャハブ・ホセイニ)は、教師をしながら妻のラナ(タネラ・アリシュステイ)と共に劇団に所属し、「セールスマンの死」の上演準備に忙しい。
ところが、住んでいたアパートが倒壊の危機に晒され、二人はやむなく劇団仲間が紹介してくれたアパートに引っ越すことにする。
仕事と引越しと芝居の稽古が同時進行する、慌ただしい日々。
ついに、芝居が初日を迎えた日の夜、遅れて帰宅したエマッドは、ラナが病院に運ばれたことを知らされる。
彼女がシャワーを浴びている間に何者かが家に侵入し、彼女を暴行したのだ。
警察への通報を拒否し、気丈に翌日の舞台に立ったラナだったが、公演中に泣き出してしまう。
怒りに駆られたエマッドは、一人で犯人を探し始めるのだが・・・


冒頭、隣接地での乱暴な地盤工事によってによって、エマッドとラナの住むアパートが倒壊しそうになり、退去を余儀なくされる。
堅牢に見える人生も、予期せぬ脅威によって、あっけなく崩壊してしまうという、二人の未来を簡潔に示唆する秀逸なオープニング。
仲睦まじい夫婦の日常が、引越し先で起こった暴行事件によって非日常の世界へと突入する。
心と体に深刻な傷を負ったラナは、恐怖から事件と向き合えず、警察への不信と世間体から、被害届は出さないと頑なに主張。
一方、最愛の妻を暴行されたエマッドは、現場に乗り捨てられたトラックを手掛かりに、躍起になって犯人を見つけようと奔走する。
やがて、夫婦の間には、目に見えない溝が生まれてくるのである。

ファルハディの名を世界に知らしめた「彼女が消えた浜辺」では、カスピ海のリゾートでバカンスを楽しんでいた友人たちが、一緒に来ていたエリという女性が忽然と姿を消したことで混乱に陥る。
彼女は黙って帰ったのか、それとも溺れてしまったのか。
誰も解決策を見出せず、仲の良かった友人たちは、事態への対応を巡って、エゴをむき出しにしてお互いを罵り合うようになる。
アカデミー外国語映画賞を得た「別離」では、一人娘により良い教育を受けさせるために、海外移住を主張する妻と、認知症で要介護の父親を抱えて、慣れない環境に踏み出せない夫の間の離婚騒動が、もう一組の夫婦を巻き込んだ四つ巴の争いとなる。
四人の本質的には善意の行動が、ボタンの掛け違えから負の連鎖を呼び込んでしまうのだ。
パリを舞台にした「ある過去の行方」も含めて、いずれの作品も登場人物たちの葛藤が複雑に絡み合い、いつの間にかカオスな状態になってしまう心理劇。
誰もが感情移入できる普遍性のある人間同士のドラマに、イスラムの信仰というイランならではのスパイスが絶妙に効いている。

本作では、暴行事件を巡る夫婦それぞれの苦悩を軸に、愛と罪の物語が展開する。
起こってしまったことを無かったことには出来ないが、向き合い方には違いがある。
ラナは記憶に蓋をするように事件そのものから顔を背け、ただ恐怖を内に抱えて憔悴したまま。
そんな妻の態度に納得できないエマッドは、彼女のためと思いながら犯人を捜すが、実は自分の心に決着をつけるために、復讐に走っていることに気づかない。
エマッドの苛立ちは、実はラナにも向けられている。
夜遅く呼び鈴が鳴り、エマッドが帰宅したのだと考えたラナは、相手を確かめずに解錠してしまっていたのだ。
もちろん、彼女が悪い訳でないのは分かっているが、不用意に鍵を開けた妻に対する静かな怒りは、夫の無意識に燻っているのである。

エマッドの怒り、ラナのやるせない後悔は、アパートの以前の住人と、二人に部屋を紹介した劇団仲間にも向く。
大量の家財道具を置き去りにしていた前の住人は、実は娼婦で、夜な夜な男たちが部屋に出入りしていたことが明らかになり、大家である劇団仲間も実は彼女の客であったことが示唆される。
もしも、前の住人がきちんと家財道具を移動していたら、劇団仲間が彼女の素性をエマッドたちに伝えていたら、事件は起こらなかったのではないか。
そして、終盤になって登場する意外な容疑者と、エマッドとラナに突きつけられる究極の選択
ファルハディの作品は、観ているうちに観客も事件の関係者になったような没入感が特徴だが、本作でも、私たちは二人の葛藤を固唾を飲んで見つめると同時に、「あなたならどうする?」というスクリーンの向こうからの作者の問いかけに、自分なりの答えを探すことになる。

男女の見る世界の違い、イラン社会独特の本音と建前、見えにくい経済格差。
現実の世界で夫婦が直面する分断が、作中の重要なモチーフとなる劇中劇「セールスマンの死」と重なる仕掛け。
20世紀のアメリカを代表する劇作家、アーサー・ミラーによるこの戯曲は、第二次世界大戦後に深刻化するアメリカ社会の分断を、一人の老セールスマンの最期を通して描いた問題作だ。
敏腕セールスマンだった主人公は、成績の落ち込みが激しく、過去の栄光にすがって生きている。
育て上げた二人の息子に気持ちは通じず、ついには親子二代に渡って使えたボスに解雇され、自ら死を選ぶ。
過剰な競争社会、世代間断絶、未来の見えない時代など、戦後アメリカの社会分断を描いた戯曲が、現代イランを舞台とした物語の背景となる。

「セールスマンの死」では、主人公の保険金によって、残っていた家のローンが完済されたことが妻の独白によって告げられる。
本作では、妻を襲った暴漢には大きな悲劇が訪れるが、そのことによって、主人公夫婦の間には、決して修復できない大きな溝が出来てしまう。
どちらの物語でもいくつもの分断が重なり合った結果、目的は果たすも幸せは失われるという本末転倒のアイロニーがもたらされるのである。
映画の鑑賞にあたっては、「セールスマンの死」は知らなくても楽しめるだろうが、本作の様に過去の作品にインスパイアされて作られ、元の作品を物語に内包するような構造になっていると、元の作品を知ってるのと知らないとでは理解に差が出てしまう面があるのは否めない。
もちろん単体で観ても十分に面白いのだけど、これも物語作りの難しいところだ。

しかし、本来なら20世紀の米国から21世紀のイランへと繋がる、素晴らしい創作の連鎖なのに、トランプ政権の愚かな政策の結果、本作そのものが分断の象徴となってしまったのは皮肉。
まあ、そのおかげで、描こうとしたテーマはむしろ際立ったかも知れないけど。

今回は、アメリカを代表する戯曲にインスパイアされた作品ということで、美しい二層のカクテル「アメリカン・ビューティー」をチョイス。
ブランデー20 ml、ドライ・ベルモット15 ml、オレンジ・ジュース15 ml、グレナデン・シロップ10 ml、ペパーミント・ホワイト1 dashをシェイクし、グラスに注ぐ。
最後に、ポートワイン1tspを静かに浮かせて二層にして完成なのだが、比重の重いポートワインをうまく浮かせるのは至難の技なので、混ざってしまっても良しとしよう。
「アメリカン・ビューティー」というと、まさに現代アメリカの分断を描いたサム・メンデスの映画があったが、元々はバラの品種の名前。
その名の通り、上層の濃い赤と下層の淡いピンクがバラを表現する。
映画は物語の進行と共に分断が深まってゆくが、こちらは上下層が混じり合い、優しい甘みとあっさりとしたあと味を楽しめる。

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ショートレビュー「パトリオット・デイ・・・・・評価額1650円」
2017年06月14日 (水) | 編集 |
愛国者たちの街。

アフガン戦争の“レッド・ウイング作戦”で、ただ一人生き残った兵士の物語「ローン・サバイバー」、メキシコ湾で起こった、石油プラットホーム爆発事故を描く「バーニング・オーシャン」に続く、ピーター・バーグ監督とマーク・ウォールバーグによる実録レクイエム3作目。
今回のモチーフになるのは、2013年4月15日に起こった、“ボストンマラソン爆弾テロ事件”だ。
タイトルの「パトリオット・デイ(愛国者の日)」とは、アメリカ独立戦争の緒戦を記憶するため、戦いの舞台となったマサチューセッツを含む三州で制定されている祝日。
ボストンマラソンは、この祝日の制定を記念して、1897年に始まったアメリカで一番古い歴史を持つマラソン大会なのである。
第117回目の大会となったこの年も、多くの参加者や見物客でにぎわっていたが、最も人の集まるゴール付近で、午後2時45分に二度の爆発が連続して起こり、3人が死亡し、300人近くが負傷する大惨事となってしまった。


映画は、事件の前夜から、容疑者逮捕までの緊迫の5日間を描く群像劇。
マーク・ウォールバーグが演じる殺人課の刑事トミーは、映画のために作られたキャラクターだが、トミーと彼の妻以外は基本的にほとんどが実在の人物だ。
前二作と同様に、基本は究極の再現ドラマで、登場人物の内面描写は必要最小限に抑えられている。
しかし今回は、関係者がボストン警察、ボストン市民、FBI、無数の被害者、容疑者とその知人たちと非常に多岐にわたっており、物語にまとめ役が必要だ。
架空のトミーを軸に置くことによって、事実関係を改変せずに、観客の感情移入の対象が出来て、物語に入りやすくなる。
この人物の造形も良く出来ていて、冒頭爆弾とは関係ない軽犯罪の捜査で、容疑者の家のドアを蹴破ろうとして怪我をしてしまう(笑
荒唐無稽な刑事ドラマのキャラクターと違って、リアルな人物像を持ち、事件の中心にいるのだが、実は決定的に重要な役割は果たしていない
事件当時に捜査にあたった多くの警察官たちを統合し、物語のどこにでも配せる、ナチュラルなポジションにいるキャラクターなのだ。

一回目の爆発までの30分弱の第一幕で、関係する十数人の日常をざっくり描き、一度事件が起きれば後は極限の緊張感が最後まで持続するサスペンスフルな展開。
ピーター・バーグは個々の人物の心情に寄り添うのではなく、その場で起こったことを丹念に描き、現象を極力リアルに感じさせることで、観客を一人ひとりを善意のボストン市民とする。
例えば、爆心地近くで亡くなった8歳の少年がいる。
彼の体に刺さった破片が証拠になるために、捜査上層部の許可が無いと遺体を路上から動かせない。
遺体は何も語らないが、バーグは放置された遺体を見守る一人の警察官を描写し、ようやく遺体が搬送される時、彼は敬礼で見送るのである。
あるいは逃亡中の容疑者に拳銃を奪われそうになり、抵抗して四人目の犠牲者となる警察官に関しては、彼の交友関係をかなりの時間をかけてキッチリと描いている。
どちらの描写も事件の捜査には直接関係が無いのだが、死を受け止める人を描くことで、それは単なる死から観る者にとって意味ある誰かの死になるのである。

同じ意味で、ほんの端役まで第一幕に登場させた訳は、例によって再現ドラマと現実が合流するエピローグまで来ると納得だ。

今回は前二作と比べて生き延びた被害者が多いので、エピローグの作りもレクイエムよりも、真に共同体を愛する人々にエールを送ることに主眼を置いた作りになっていて、本作の言いたいことはこの部分に集約される。
事件で共に足を失ったカップルの、テロ事件の被害者は「平和の大使」という、絶望を希望に変える力強い言葉に驚嘆。

事件を起こしたチェチェン系米国人のツァルナエフ兄弟の描き方も、偏向した部分はなく、あくまでもある現象を起こした人物であって、それ以上でも以下でもない。
むしろ面白かったのは、兄の妻の語る「イスラム教徒の妻であることとは」という、独特の哲学の部分だった。
悲劇の跡に残るのは憎しみではなく、愛であって欲しい。
亡くなった人々を悼み、人間の勇気に希望を見るピーター・バーグとマーク・ウォールバーグのユニークな実録シリーズ(?)。

次は一体何の事件をモチーフに描くのだろう。

今回はお馴染みボストンの地ビール、ボストン・ビア・カンパニーの「サミュエル・アダムズ ボストン・ラガー」をチョイス。
水の様に薄いアメリカンビールとは一線を画し、マイルドでありながらもコクがあり、モルトの強い風味を味わえる。
サミュエル・アダムズは合衆国独立に深く関わったボストン出身の政治家で、独立戦争の序章とも言えるボストン茶会事件を主導し、アメリカ独立宣言にも署名した建国の父の一人。
やはりボストンの歴史は面白い。

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ショートレビュー「海辺のリア・・・・・評価額1650円」
2017年06月13日 (火) | 編集 |
それでも、生きている。


認知症を患った元スター俳優の桑畑兆吉が、介護施設を脱走する。
舞台や映画への出演だけでなく、俳優養成所を経営するほどの大御所だったが、台詞を覚えられなくなり20年前に引退。

やがて長女の由紀子と元弟子の行男夫婦にそそのかされ、財産を奪われて僻地の施設に追いやられていたのだ。

延々と能登の海岸を歩き続ける兆吉は、嘗て私生児を生んだとして勘当した、愛人との間にできた次女の伸子と出会い、束の間の旅を共に続ける。


タイトルの「リア」とは、シェイクスピアの「リア王」のこと。
ブリテンの王リアは、退位にあたって三人の娘に領地を分割しようとする。
長女と次女は、父にすり寄って歓心を買うが、三女のコーディリアだけは実直にものを言い、怒ったリアによてって勘当され、彼女をかばったケント伯も追放される。
しかし、リアが退位すると長女と次女は父を疎んじるようになり、行き場を失ったリアは荒野を彷徨い、狂気にとりつかれてしまう。
フランス王妃となったコーディリアは、フランス軍を率いドーヴァーに布陣。
父との再会を果たすも戦いに敗北し、リアと共に捕虜となってしまう。
コーディリアは処刑され、彼女の遺体を抱いたリアは哀しみに絶叫してこの世を去る。
実際にはリア親子の物語に、グロスター伯の二人の息子、エドガーとエドマンドの異母兄弟の陰謀劇がサブストーリーとして複雑に絡み合い、登場人物の大半が死んでしまう。
王の老いがもたらす心の弱さと孤独、誠実な者が必ずしも救われるとは限らないこの世の無情、因果応報の人間の業が、大いなる悲劇を引き起こす物語だ。


全てを忘れつつある兆吉が、それでもなお記憶している「リア王」の愛と狂気が、現実世界の彼の境遇とシンクロする仕掛け。

王は勿論仲代達矢で、黒木華演じる次女の伸子がコーディリアなのだが、彼女と兆吉を追い出した長女の関係にはエドガーとエドマンドも投影されている。

因みに、仲代達矢と長女を演じる原田美枝子の組み合わせは、黒澤明が「リア王」を翻案した「乱」とほぼ同じ。

「乱」は原作の娘を息子に変え、原田美枝子演じる長男の妻の楓の方が一族を滅ぼす魔性の女だったが、今回はオリジナルの戯曲どおり長女設定となっていて、この辺りはオマージュか。
兆吉の元弟子で良心の葛藤に揺れる阿部寛が、戯曲の長女の夫オルバニー公とケント伯を合わせた様な人物となっていて、小林薫が演じる由紀子の愛人がエドマンド的な役回り。

複雑な「リア王」の構成要素を集約し、映画の登場人物はわずか5人
しかも冒頭5分で、全員が姿を見せるというスピーディーな展開だ。
大半のシーンが能登の海岸で進行し、ほぼ全編にわたって、この映画の狂気の王たる仲代達矢をフィーチャーする。
シネマスコープ画面の背景になるのは、海や砂浜といった、いわゆる“ヌケのいい画”なのだが、被写界深度は浅く設定され、俳優の演技がクッキリと浮き立つ。

独特の台詞回しやカメラワークを含めて、全編ロケーションながら非常に演劇的なのが特徴で、その経歴も主人公とオーバーラップする、仲代達矢のキャリア集大成とも言える魂の演技は見ごたえたっぷりだ。

シェイクスピアの戯曲は壮大な悲劇で終わるが、21世紀の日本のリアははたしてどうなるのか。
父親への愛憎を抱えた伸子が、常に死を匂わせていて、小林政広監督だけに生温い結末にはしないだろうなと、終始ハラハラ。
本作のテーマが結実するラストショットは、本当に見事だった。


しかし、老いを描く日本映画は本当に増えた気がする。

今年だけでも、本作の他に「家族はつらいよ2」「八重子のハミング」といった作品が心に残る。

それだけ社会全体にとって、老いとどう向き合うかが切実なモチーフになりつつあるということか。

今回は舞台となる石川の酒、車多酒造の「天狗舞 古古酒純米大吟醸」をチョイス。
酒器に注いだ瞬間にふわりと立ち上がる優しい吟醸香、一口飲んで思わず「美味い!」と呟いてしまう、熟成されたまろやかな味わい。
全てが極めてハイレベルに仕上げられた、極上の日本酒である。
普段使いにはちょっとお高いが、何かの記念日などにはピッタリだ。

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20センチュリー・ウーマン・・・・・評価額1700円
2017年06月08日 (木) | 編集 |
この素晴らしき、女たちよ。

「人生はビギナーズ」で脚光を浴びたマイク・ミルズ監督による、自身の少年時代をモチーフとしたのエッセイ的ヒューマンドラマ。
40歳の時に出産したシングルマザーのドロシアは、15歳になった息子ジェイミーの育て方に迷い、歳の近い20代の賃借人のアビーと、息子の部屋に入り浸っている17歳の幼馴染ジュリーに助けを求める。

ほぼ一つ屋根の下で暮らす、3人の女性+ヒッピー崩れのおじさんウィリアムと、ジェイミーの関係を通して、思春期の葛藤と成長、背景となる混迷の70年代と、強いアメリカへの回帰を掲げたレーガノミクスの80年代の狭間の時代が見えてくるというワケ。
邦題はカタカナ化しただけの「20センチュリー・ウーマン」だが、正しくは複数形の「Women(ウィメン)」だ。

1979年のサンタバーバラ。
55歳になったドロシア(アネット・べニング)は、15歳の息子ジェイミー(ルーカス・ジェイド・ズマン)との関係に悩んでいる。
高齢出産で生み、女手一つで育ててきた。
今のとこは問題なく、母親思いの素直な良い子でいてくれる。
しかし、これ以上自分一人で息子を一人前の男に育て上げる自信が持てないのだ。
そこでドロシアは、家の一階の部屋を貸しているフォトグラファーのアビー(グレタ・ガーウィグ)と、近所に住むジェイミーの幼馴染のジュリー(エル・ファニング)に「複雑な時代を生きるのは難しい。助けてやって」とお願いする。
「男の子なんだから、男の方が良いのでは?」と戸惑う二人だが、ドロシアは「あの子には女性の方が良い気がする」と言う。
ジェイミーと3人の女性たちの、忘れられない日々が始まった・・・・


映画は、ドロシアの愛車である1960年に発売された2代目フォード・ギャラクシーが、突然の車両火災に見舞われるところから始まる。
この年はイラン革命による第二次オイルショックによって、アメリカの自動車産業は再びの激震に見舞われ、燃費の良い日本車のますますの躍進を許す。
11月にはテヘランのアメリカ大使館人質事件が起こり、ベトナム戦争の敗北とウォーターゲート事件によって、アメリカが自信を失った混迷の70年代は、古き良き時代を象徴するギャラクシーと共に、炎上したまま幕を閉じようとしているのである。


大恐慌から第二次世界大戦の激動期に青春を送り、戦争中にはパイロットを目指したというドロシアは、とにかくパワフルで物怖じしない。
技術職として男社会でバリバリ働き、家の使っていない部屋を、アビーとウイリアムに貸して副収入を得ているやり手の肝っ玉母さんだ。
当時としては高齢の40歳で出産し、息子ジェイミーとは世代の差を感じている(だからこそアビーとジュリーに助けを求める)。
ジェイミーを理解するためにクラブハウスに行ってみたり、パンクロックを聞いてみたり、新しい風にも比較的寛容だが、いずれ彼は"外での顔"を自分には見せなくなると考えている。
日々のエネルギー源は、メンソールの“体に良い”タバコだ。

賃借人のアビーは、ニューヨーク帰りのパンクなフォトグラファー。
50年代生まれの彼女は、胎内にいた時に母親が摂取した流産防止薬の副作用で、子宮頸がんになってしまい、地元サンタバーバラへ戻ってきた。
がんの再発に怯え、今を生き急ぐ彼女は、時代の波に敏感で、常に人生を模索している。
ドロシアにも「あなたの生き方を見せてあげて」と頼まれ、パンクロックやフェミニズムといった世界にジェイミーを誘う、人生のメンターとなる。
スポンジの様に"新し過ぎる価値観"を吸収してゆくジェイミーに、頼んではみたものの、ドロシアは戸惑いを隠せず、「あの子の外での顔を見られて羨ましいわ」とアビーに言う。
すると彼女は、ポラロイドで撮ったジェイミーの外でも変わらない笑顔の写真を渡すのだ。

そして、ジェイミーの2歳年上の幼馴染ジュリーは、初恋の相手であり、誰よりも近しい関係。
セラピストの母親にグループセラピーへの参加を強いられ、人間のネガティヴな面を見て育った彼女は、継父や脳性麻痺の妹とも馴染めなくて、ほとんど家に寄り付かずにジェイミーの部屋に入り浸っている。
ほぼセックスを通じてしか他人との関係を深められず、17歳にして男性経験は豊富だが、一番大切で心のよりどころであるジェイミーとはセックス厳禁
しかし、好きな子が毎日の様に自分のベッドで寝ていて、しかも何も出来ないなんて、ティーンの男の子にとっては拷問以外のなにものでもない。
当然ジェイミーとしては、友達以上恋人未満の状態を打破したいのだが、いわゆる腐れ縁になってしまって進展せず。
ドロシアが見るのはジェイミーの内での顔、アビーは外での顔、ジュリーは秘めたる顔を知っている。

マイク・ミルズの前作「人生はビギナーズ」は、彼と父親が亡くなる前の5年間の出来事に基づいた作品だったが、今回フィーチャーされるのは少年時代の母親との関係
ドロシアとアビーは、ミルズの母と姉がモデルだそうで、それぞれ物語の中での役割に合わせ、ある種のステロタイプに造形されながら、深みのある人間性とリアリティを失わない。
もう一人の賃借人のウィリアムを含め、登場人物の誰もがちょっとずつ拗らせちゃっている人たちなのだが、狭間の時代にあって彼らが皆とても活き活きと描かれている。
迷走する政治、パンクロックの台頭、ヒッピー文化の残滓、ウーマンリブによるフェミニズムの浸透といった時代を象徴するシンボルが、物語の中に満遍なく配置されており、 21世紀の未来から俯瞰する過去は、トーキング・ヘッズをはじめとする当時のヒットナンバーにのって、アナログTVの様な滲むRGBと共にリリカルに疾走する。
時代感を浮き立たせる、写真や映像のコラージュ的な使い方も巧みで、伝説のカルト・ドキュメンタリー「コヤニスカッツィ」が引用されていたのには驚いた。
もっともこの映画は1982年公開なので、少しズレているのだけど、セリフを排した上で、スローモーションやタイムラプス映像を駆使し描かれるのが、"平衡を失った世界"なのは、なるほど本作に通じるものがある。
物語の視線は、ある種の自分史ということもあってか、近過ぎず遠過ぎず適度な距離感を保ち続けていて、それが観客の心にちょっとビターだけど、二度と戻らない思春期のノスタルジーを呼び起こすのだ。

ミルズは、私小説的なエピソードをドラマとして再構成し、強烈な時代性と普遍性を併せ持つ、詩情あふれる秀作を作り上げた。
アネット・べニング、グレタ・ガーウィグ、エル・ファニング、世代の違う3人の女優たちが素晴らしく魅力的で、それぞれからキャリアベストと言える好演を引き出している。
今は大人になった一人の少年と、彼女たちの思い出を通して見る、幻想のアメリカの20センチュリー・クロニクルはセンス・オブ・ワンダーの塊の様な至福の時間なのである。

本作の舞台となるサンタバーバラは全米有数のワインどころ。
という訳で、スター・レーン ヴィンヤードの「カベルネ・ソーヴィニヨン ハッピー・キャニオン・オブ・サンタ・バーバラ」の2012をチョイス。
ベリー系にハーブ系が混じり合う複雑なアロマ。
複雑な味わいが、しっかりとした骨格に支えられる、ドロシアの様なフルボディのパワフルな赤。
これがファーストヴィンテージながら、高い評価を受けた一本だ。
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ショートレビュー「光・・・・・評価額1650円」
2017年06月07日 (水) | 編集 |
降り注ぐ、光の中へ。

リュミエール兄弟が、パリのグラン・カフェでシネマトグラフ・リュミエールを披露して以来、映画とは暗闇の中の光の芸術である。
では、映画から光を封じた時、それでもなお、映画は映画たり得るのだろうか。
河瀬直美監督の「光」は、ハンセン病をモチーフにした「あん」に続いて、視覚障がいという社会的マイノリティを軸に、人生における光=希望への渇望を描きながら、同時に「映画とは何か」という、映画作家として根源の難問に挑む意欲作だ。

主人公は、視覚障がい者のための、映画の音声ガイドを作る尾崎美佐子と、光を失いつつあるカメラマンの中森雅哉。
音声ガイドとは、スクリーンに映しだされた台詞以外の視聴覚情報を、声に置き換えたものだ。
一見脚本のト書きの様だが、より詳細で、ガイドを聞くことで、映像が無くても頭の中に画が浮かばなければならない。
美佐子が担当している劇中映画の、途中段階でのモニター試写後のディスカッションで、二人は出会う。
「あなたのガイドは主観だ」と彼は言う。
どのようなガイドを作れば、光を失った人たちにも映画を楽しんでもらえるのか。
藤竜也演じる劇中映画の監督に会った美佐子は、ラストの解釈は決まっていないと言う監督に対し、「それでも、最後は希望を感じ欲しいんです」と言う。
美佐子は自分のフィルターを通して、ガイドを作ってしまっている事に気づいていない。

彼女がなぜ希望に拘るのか。
敏腕カメラマンだった中森が、少しずつ消えてゆく視野と共に、人生の希望を失ってゆくように、美佐子もまた心に大きな傷を負っている。
美佐子の父親が蒸発して、それを切っ掛けに母親が認知症になってしまった様なのだ。
今はまだ、周りの助けを借りて実家で暮らしているが、いずれそれも難しくなることも分かっている。
そして、彼女がガイドを作っている劇中映画もまた、妻が認知症になった男の想いを描いたものなのである。
もはや妻は記憶を失っているが、男は何もできずに、ただ彼女を見つめるしかない。
自分と母の記憶に繋がる映画に、美佐子は無意識のうちに自己を重ね、希望を見出そうとしているのだろう。

時にぶつかり合い、絆を強めてゆく二人の心の旅路が、極めて映像的な劇中映画のラストを、どう音声ガイドで表現するかという葛藤に、象徴的に集束するのは上手い。

おそらく綿密に取材を重ねたのだろうが、音声ガイド作りのために、なんども繰り返されるディスカッションのシーンが秀逸だ。
視覚障がいの程度も人によって異なり、必要とするインフォメーションも微妙に異なる。
だが、全盲の女性の「映画は見えないけど、その世界に入れる」という表現には、見えることで気づかない、映画という芸術の可能性を教えられた気がする。

中森と美佐子は共に喪失を抱え、未来を生きるためには、過去に区切りを付けなければならないことを知っているが、大切なものを捨てるのは簡単ではない。
しかし例え大切なものを失ったとしても、見ることが出来なかったとしても、“光”は必ずそこにあるのだ。
文字通り光に包まれる二人の衝動的なキス、そして失踪した母を夕日の中に見出す描写は、まさにこの映画を象徴する名シーン。
そして、物語を通して喪失に向き合い、目に見える現象だけでなく、映画という芸術の精神性を理解できるようになった美佐子が、難しいラストをどう表現したのか。
そっと目を閉じる。
樹木希林の読む音声ガイドに耳を傾けると、暗闇にふっと光が見える。
スクリーンの中と外、そして劇中映画が溶け合い、ジワリと余韻が広がる、とても印象深いラストだった。

以前の河瀬監督の作品は、むき出しの"ワタシ"が強すぎて、正直ちょっと苦手だったのだが、ここ二作は手持ちカメラや極端なアップなど、テリングのスタイルで独自性を貫きながらも、筋立ては良い意味で地に足をつけたフィクションになっていて、ずいぶんと入りやすくなった。
役者の生かし方も相変わらず上手く、永瀬正敏と水崎綾女も素晴らしいが、美佐子の上司と劇中映画のヒロインを演じる神野三鈴が強い印象を残す。

今回は、舞台となる奈良の地酒、油長酒造の「風の森 純米 露葉風 無濾過生原酒」をチョイス。
口にした瞬間、微発泡の感触と共に、フルーティな香りがフワリと広がり心地いい。
発泡はそれほど長くは続かないが、キレとコクも申し分なく、米の豊潤な旨味を楽しめる。
キリリと冷やしていただきたい。

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2017年06月03日 (土) | 編集 |
ヒーローは、決して死なない。

ヒュー・ジャックマンが、17年間演じ続けた孤高の"X"有終の美
ミュータントが滅びつつある近未来を舞台に、ワケありの少女ローラを守ることになった、ウルヴァリン最後の戦いが描かれる。
ジェームズ・マンゴールド監督は、前作「ウルヴァリン:SAMURAI」から続投。
あるキャラクターを描く完結編として、これ以上は考えられない素晴らしい仕上がりで、「アベンジャーズ」系を含めたマーベル映画全体でも、オールタイム・ベストと言える大傑作だ。
「LOGAN ローガン」は、アメコミ原作というジャンルを超えて、ハリウッド娯楽映画の歴史を受け継ぐ、新たな金字塔となった。
※ラストに触れています。

ミュータントが激減した2029年。
年老いたローガン(ヒュー・ジャックマン)は、”ウルヴァリン”の名を封印し、本名のジェームズ・ハウレットを名乗り、リムジンの運転手として生計を立て、メキシコ国境にある廃工場で細々と暮らしている。
廃工場の打ち捨てられた大型タンクの中には、認知症を発症し、その能力をコントロール出来なくなった90歳のチャールズ・エグゼビア(パトリック・スチュワート)が隔離されていて、ローガンとミュータントを探知する能力を持つキャリバン(スティーヴン・マーチャント)が介護していた。
長年の戦いによって疲弊したローガンの体は、埋め込まれたアダマンチウムの毒によって、ヒーリング・ファクターが無力化されつつあり、もはや不死身ではなくなっている。
そんなある日、ローガンはガブリエラ(エリザベス・ロドリゲス)と名乗る見知らぬ女から、ローラ(ダフネ・キーン)という少女をノースダコタ州のカナダ国境まで送り届けて欲しいという依頼を受ける。
面倒なことに関わりたくないと断るが、直後にピアーズ(ボイド・ホルブルック)という男が現れ、ガブリエラが盗んだものを回収しに来たと言う。
間も無くガブリエラは殺され、やむなくローガンはローラを廃工場に匿う。
チャールズは「彼女は新たなミュータントだ!」と喜ぶが、ローガンは戯言だと取り合わない。
しかし、ピアーズの部隊が押し寄せてくると、ローガンは驚きの光景を目にする。
ローラの拳から、アダマンチウムの鋭い爪が伸びたかと思うと、屈強な兵士たちを瞬く間に打ち倒してゆくのだ。
まるで嘗てのウルヴァリンの様に・・・・


ブライアン・シンガー監督による「X-MEN」第一作が公開されたのは、ニューミレニアム初年の2000年のこと。
アメコミ映画全盛の現在からはなかなか想像できないが、旧「バットマン」シリーズの終了以降、久しぶりにハリウッド・メジャーで作られた正統派アメコミ・スーパーヒーロー超大作であった。
このシリーズで一番人気となったのが、金属の爪を持つ不死身の男、ウルヴァリンだ。
「X-MEN」シリーズ本体の他、スピンオフとして「ウルヴァリン」三部作が作られ、「LOGAN ローガン」はその最終作に当たる。
本作は、「X−MEN」の歴史だけではなく、アメリカン・ヒーローの源流としての西部劇、さらには一部日本の時代劇の記憶をも内包する、非常に懐の深い映画になっていて、これはもうハリウッドは絶賛するしかないだろう。

殺人のスペシャリストが、ひょんなことから子供を守る、という話型は「レオン」や「ターミネーター2」、あるいは「子連れ狼」に至るまで無数にあるが、原作シリーズで本作のベースになっている物語は二本ある。
一本目は、オフィシャルに映画原案とされている、「ウルヴァリン:オールドマン・ローガン」だ。
ヒーローたちがヴィラン連合に敗れて、アメリカがヴィランたちの支配する王国となった未来。
"爪"を封印して戦いから足を洗い、カリフォルニアで妻子と共に農夫として暮らしているローガンの元に、盲目となったホークアイが訪ねてきて、自分の目となって、東海岸へ"ある物"を届ける手助けをして欲しいと言う。
ローガンは迷うが、農地の賃料の支払いが滞っていて、金のためにホークアイと共に旅に出る。
しかし結果的にローガンは、再びウルヴァリンとして生きざるを得なくなるというストーリー。
基本設定だけでも気づく人は気づくだろうが、この話の元ネタになっているのは、フロンティアの神話としての西部劇の終わりを描いた、クリント・イーストウッド監督の伝説的傑作「許されざる者」だ。
面白いのは、イーストウッドの映画では、最終的に老ガンマンが銃を置くのに対して、「オールドマン・ローガン」では再びの修羅の道へとキャラクターを導き、どちらかというと日本版リメイクの「許されざる者」に近い展開になっていること。
本作とはプロットは大分異なるのだが、ヒーローがほぼ死に絶えた世界観と、心の中に疼く怒りと贖罪を抱え、生きる希望を失った老ローガンのキャラクター造形は、この作品を色濃く反映している。
読み応えのある名作なので、オススメしておきたい。

二本目は、本作のヒロインである"ローラ"の誕生を描いた、「X-23 : INNOCENCE LOST」だ。
ウェポンX計画でウルヴァリンが脱出した後、研究チームはウルヴァリンの遺伝子コードを使ったクローン再生を試みるも失敗の連続。
そこで遺伝学者のサラ・キニー博士は、破損したY染色体を使わずに、X染色体だけを使った女性体クローンを開発し、自らが代理母となって出産する。
彼女こそ、23番目にして初めて成功したウルヴァリンのクローンで、遺伝的な娘。
X−23のナンバーで呼ばれ、最強の暗殺者として育て上げられるのだが、キニー博士とザンダー博士の組織内の内紛に巻き込まれ、生みの母であるキニー博士をも殺してしまう。
組織を壊滅させた彼女は、最後にキニー博士からの手紙で"ローラ"という名前を与えられる。
本作ではキニー博士の存在が無くなり、不完全なクローンであるX-23の誕生後に、ザンダー博士らが感情を排除した完全なクローン、X-24を完成させ、組織の看護師だったガブリエラが、不要な存在となった彼女を逃すという設定に変わっている。
「X-23 : INNOCENCE LOST」は、タイトル通りとても切ない物語なのだが、残念ながら日本語版は未発売。
英語版でも電子書籍版なら比較的安価に読めるので、こちらもオススメ。

ジェームズ・マンゴールドと脚本チームは、この二本を巧みにミックスし、新たな要素を加えてオリジナルのプロットを構成しているのだが、本作の一番ユニークなポイントは、アメコミ映画としては極めて例外的に、老いと継承をテーマとしていることだろう。
スーパーヒーローも人間である以上は老い、衰えるのは必定。
2029年という、過去のシリーズとかなり離れた時代設定が絶妙だ。
ウルヴァリンを不死身にしていたヒーリング・ファクターが失われ、必滅の存在になったことで、別人の様にくたびれた姿が、ぐっとリアリティを高める。
老いたのはローガンだけではない。
あの超明晰頭脳だったプロフェッサーXは、あろうことか認知症になってしまい、ローガンたちの介護なしには、生きることすら出来なくなってしまっている。
実際にはローガンの方が年上設定だが、まさかスーパーヒーロー映画で老々介護の現場を見るとは。
私事だが、最近小さな文字が見難くなってしまって、劇中でローガンが何度も老眼鏡(ダジャレではない)をかける描写に、「あーそうだよね、小さいと見えないんだよね」と思わず感情移入してしまった。
元々マイノリティの悲哀を描いていた「X-MEN」だが、ここでは老人と子供という、社会の中のリアルな弱者(喧嘩は強いけど)をフィーチャーするのである。

原案の「オールドマン・ローガン」に見られる、象徴としての西部劇の記憶は、映画化に当たってさらに大きな意味を持ってくる。
ラスベガスに到着したローガンたちが、ホテルの部屋で休んでいる時に、テレビで流れれているのが、あの「シェーン」なのだ。
グランド・ティトンの美しい大自然を舞台に、流れ者のシェーンが、心優しい農民家族のため、悪徳牧畜業者と彼の雇った殺し屋に立ち向かうこの映画は、単純な勧善懲悪西部劇全盛の時代に、銃による暴力の影の部分を描き、ある意味「許されざる者」の原点と言える名作だ。
ラスト近く、旅立つシェーンを引き留めようとする少年に、彼はこう言う。
「生き方は変えられない。一度人を殺してしまったら、もう後には戻れない。一生つきまとう」
この映画のラストに関しては、銃撃戦で脇腹を撃たれていることから、去って行くシェーンは馬上で死んでいるのではないか、という議論が昔からある。
おそらくマンゴールドもそう捉えているのだろう。
本作のクライマックスで、未来の希望である子供たちを救うために、ローラと共に最後の力を振り絞って戦ったローガンは、彼女の腕に抱かれて絶命し、葬儀のシーンでローラは上記したシェーンの言葉を引用するのである。
「ウルヴァリン」三部作は最初が「ウルヴァリン:X-MEN ZERO(原題:X-Men Origins: Wolverine)」で最後は「LOGAN ローガン」。
愛を知らないローガンとローラは最後に本当の家族になって、不死身の超人ウルヴァリンは、一人の父親ローガンとして死んだ。
「こんな感じなのか・・」という彼の言葉は、シリーズ17年の蓄積があるからこそ、心に染み渡る。

そして、本作はローガンだけではなく、ローラの物語でもある。
アニメ版・コミック版で彼女を創造したクレイグ・カイルは、ローラはマーベルのピノキオだと述べている。
名前のない殺人マシーンとしてして生まれ、過酷な運命に翻弄されてきた少女が、メンターであり父であるローガンと巡り会って、殺人の記憶を背負い、ローラとして生きてゆく決意を固めるまでの物語。
R指定となることを避けなかったアクションシーンのスプラッター度合いも、過去のシリーズを"ファンタジー"としてメタ的に内包しながら、リアルな世界へと落とし込むのには必要不可欠。
何しろこの父娘の武器は拳から生えた"サムライの刀"なのだから、そりゃ現実に使ったら血まみれになって当たり前である。
それでいて、銃を使うことに象徴的な意味をもたせているのも、本作が西部劇の流れをくむことを感じさせて上手い。
物語を通してローガンを理解し、本当の父として弔ったローラが、彼の墓に立てた十字架を"X"の形に直すのは、まさに魂の継承を表す胸アツな瞬間。
老いたるヒーローが死に、若い世代に精神的に受け継がれるのは、イーストウッドの「グラン・トリノ」を思わせるが、私はここでもう一本、「子連れ狼」を翻案したコミックをサム・メンデスが映画化した、「ロード・トゥ・パーディション」を思い出した。
ヒーローの肉体は時の彼方に去っても、魂は決して死なないのである。

ヒュー・ジャックマンは、次期ウルヴァリン役にトム・ハーディを推しているそうだが、コミックでは父の死後ローラが二代目ウルヴァリンを名乗っているので、映画も5年くらい間隔をあけて、ダフネ・キーン主演の女ウルヴァリンで良いのじゃないかという気がする。
まあウルヴァリンとしてでなくても、彼女のキャラクターはとても魅力的だったので、何らかの形で「X-MEN」の世界には戻ってきて欲しい。

今回は、ローガンの様な、いぶし銀のバーボン。
ジム・ビームの少量生産プレミアム銘柄「スモールバッチ ブッカーズ」をチョイス。
深く美しい琥珀色が印象的。
元々ビーム家のパーティで賓客に提供していたものを、あまりに評価が高いので商品化したもの。
深い熟成を感じさせるコクと、フルーテイな香りの中のほろ苦さ。
非常にバランスの良いバーボンで、古い友達と出会った時にでも、共に飲み交わしたい一本だ。
まずは最高の演技を見せてくれた、ヒュー・ジャックマンとパトリック・スチュワートに乾杯。
二人とも17年間お疲れ様でした!

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