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2015年に公開されたA-1 Pictures制作、長井龍雪監督による長編アニメーション映画「心が叫びたがってるんだ。」の実写リメイクは、思っていた以上にオリジナルに忠実な作りだ。
実写化を手がけた熊澤尚人監督は、アニメーション版のテーマ、エッセンスを残しながら、瑞々しくもちょっとビターな青春寓話を作り上げている。
オリジナルは、お喋り好きで夢見がちな小学生・成瀬順が、ホンモノだと信じていたお城の形をしたラブホテルから、見知らぬ女性と出てきた父親を目撃。
父親を王子と思い込んで、そのことを母親に話したことから、家庭崩壊を招いてしまう。
家を出てゆく父親に、「全部お前のせいじゃないか」と言われ、大きなショックを受けた彼女の前に、玉子の妖精が現れて、「お喋り」を封印される。
以降、人と喋るとお腹が痛くなり、ケータイのメッセージアプリかメモ帳でしか他人とコミュニケーションを取れなくなった順が、高校生になった時にひょんな事からイベント「地域ふれあい交流会」実行委員となり、クラスメイトと自作のミュージカルを上演することになる、というのがプロットのアウトライン。
実行委員に任命されたのは、自らのお喋りに呪われた順、音楽の才能があるが人付き合いの苦手な拓実、中学生の頃拓実と付き合っていた菜月、故障で甲子園の夢を断たれた野球部の大樹。
実は彼ら四人全員が、"言葉"に関係する葛藤を抱えており、順の本当の心を具現化したミュージカル、その名も「青春の向う脛」の制作を通して、それぞれの内面と向き合い、しばしぶつかり合い、悶々とした恋に悩み、いつしか固い友情で結ばれて、成長してゆくという展開は変わらず。
しかし実写化に当たって、表現の違いによるリアリティラインの差は上手く調整されていて、単体の作品として違和感のないものになっている。
オリジナルではキャラクターとして表現されていた玉子の妖精は、玉子型の御守りとして、順の言葉、即ち本心を封じ込める殻としての役割を継承。
時に人を傷つけ、時に人を励まし動かす、言葉の魔力はより強調されていて、それが登場人物たちの葛藤のカタチとなって、自分の言葉で想いを伝えることの大切さを強く印象付けるのである。
全体として、アニメーションという手法ならではのファンタジックな寓意性はやや薄れたが、躍動する若い役者たちの肉体が本作に生々しい独自のカラーを与えている。
なかでも特筆すべきは成瀬順を演じた芳根京子で、喋ると腹痛に襲われてぶっ倒れるという、本作の中でも一番漫画っぽく、一歩間違えるとリアリティを失ってしまう、極めて難しいキャラクターを見事に演じた。
この人の名をはじめて知ったのは、傑作「幕が上がる」の演劇部員役の時。
一見地味ながら非常に演技力の高い人で、本作は彼女あっての作品と言って良いだろう。
また、長井龍雪の作品は、本作のオリジナル、更にその前のフジテレビのノイタミナ枠で放送された名作「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」も、風光明媚な秩父地方が舞台。
自然豊かだが都会から遠過ぎない、身近な田舎の持つ半分の非日常性が魅力だ。
周囲を山に囲まれた風景は、登場人物の微妙な閉塞感など、心象を表現するのにも大きな効果を上げていたが、本作でも秩父のロケーションは踏襲され、夕焼け色を中心に構成された美しいビジュアルは、リリカルで切ない青春のムードを盛り上げる。
元々良く出来た物語だけに、脚色を最小限にしたのは正解だと思うが、改変が機能していない部分もある。
特に、映画の視点を中途半端に順から拓実に移しているのは理解に苦しむ。
オトナの事情で拓実を演じる中島健人を一番手にしたかったのかも知れないが、拓実の描写をそれほど深めている訳でもなく、物語の軸をぶらすだけにしかなっていないのは残念。
そもそもこの話、全ての出来事が順を起点としていて、クライマックスも彼女と母親のわだかまり解消がポイントになっているから、彼女以外は主人公に成り得ないのである。
端的に言って、実写版「心が叫びたがってるんだ。」は、素晴らしい仕上がりだったアニメーション版を超えていないと思うが、夏休みに相応しいなかなかに良く出来た青春映画だ。
オリジナルを知っていても、知らなくても楽しめるし、芳根京子のパフォーマンスを鑑賞するだけでも一定の満足感は得られるだろう。
今回はアニメーション版でも付け合わせた、栃木県足利市のココファーム・ワイナリーの「ここさけ」ならぬ「Coco-Rose(こころぜ)」をチョイス。
ココファームは、知的障害を持つ「こころみ学園」の子どもたちが、社会とかかわりを持てるようにと、60年前に先生と生徒たち自らが山を切り開き、開墾して作った小さなワイナリー。
ココロゼは適度な酸味と仄かな甘味、フルーティーなアロマが楽しめる、フレッシュな味わいの若々しいロゼ。
CPも高く、夏場のワインパーティなどにもオススメだ。

![]() ココファームワイナリー こころぜ[2015]【ワイン 通販 シーザーワインカンパニー】 |


意思を持つクルマたちの世界を描く、「カーズ」シリーズ第三弾。
ディズニー・ピクサー両アニメーションスタジオのボスであり、シリーズの生みの親でもあるジョン・ラセターは今回エグゼクティブ・プロデューサーに退き、前二作でストーリーボードを手がけたブライアン・フィーが監督デビューを飾った。
2006年に公開された第一作では、あまりにも生き急いでいるレーシングカーのライトニング・マックィーンが、ひょんなことから田舎町のラジエータースプリングスに迷い込み、時間の止まったような世界で生き方を見つめ直す。
続く第二作は、ガラリと作風を変え、マックィーンの相方のトーイングカーのメーターをフィーチャーした、スピンオフ的なスパイ活劇になっていた。
第一作から11年が経過した本作は、再びマックィーンの生き方をめぐる物語に回帰する。
華やかなレースの世界で活躍を続けているものの、アスリートである以上、永遠に勝利し続けることは出来ない。
どんなに頑張っても、工夫しても、勝てなくなった時、一体どうしたらいいのか。
「クロスロード」という邦題のサブタイトルが秀逸。
これはクルマたちに比喩された、誰もに訪れる人生の分岐点の物語なのである。
※核心部分に触れています。
ピストンカップで7度の優勝歴を誇るスーパースター、ライトニング・マックィーン(オーウェン・ウィルソン)は、ベテランと言われる歳になっても、まだまだモチベーションは高い。
しかしあるレースで、最新テクノロジーを駆使した新世代レーサー、ジャクソン・ストーム(アーミー・ハマー)が現れ、あっさりと優勝を飾ると、連戦連勝。
ストームに続いてレース界には次々と新世代レーサーが現れ、マックィーンと同世代の旧型レーサーたちは次第に解雇や引退に追い込まれていった。
迎えた2016年の最終戦、レース終盤ストームについていけず、焦ったマックィーンは大クラッシュを起こしてしまう。
4ヶ月後、2017年シーズン開幕が2週間後に迫る中、修理が終わったマックィーンはまだ出場するか決めかねていた。
今までのやり方ではストームに歯が立たないが、どうすれば勝てるのか分らない。
そんな時、スポンサーのラスティとダスティーが、会社を大富豪のスターリング(ネイサン・フィリオン)に売却し、新たなレーサー育成施設「ラスティーズ・レーシング・センター」が完成。
マックィーンもスターリングに招かれ、施設のトレーナー、クルーズ・ラミレス(クリステラ・アロンゾ)の元で再生を目指すことになる。
しかし成績はなかなか上がらず、引退を勧めるスターリングに対し、マックィーンは開幕戦のフロリダ500で優勝できなければ引退すると宣言し、了解を取り付けるのだが・・・・
素晴らしい仕上がりである。
原点回帰しながらも、新たなステージへ。
アスリートの引き際というモチーフが、世界観を共有する「プレーンズ2/ファイアー&レスキュー」と同じじゃない?と思っていたが、結果的に全く違った所に着地した。
「プレーンズ2」で、エアレーサーのダスティを襲うのは、レアパーツの故障というもので、パーツさえ手に入ればレースに復帰できた。
だが、本作でマックィーンが直面するのは、誰もが決して逃れることのできない、肉体の老化である。
テーマ的には、誰もが楽しめるファミリー映画を指向した「カーズ2」と比べて、ぐっと大人向け。
ディズニー・ピクサーの映画で、「老いを認めろ」なんて台詞が出てくるとは思ってなかった。
もちろん小さい子が観ても楽しめるとは思うが、描いていることをちゃんと理解できるのは小学校高学年くらいからじゃないだろうか。
そのぶん、大人にはいちいちグッとくる瞬間が何度もある。
本作を端的に表すならば、師弟の出会いと継承の物語・第2章だ。
第一作でドック・ハドソンに出会い、彼の助けで真のトップに駆け上がったマックィーンが、今度はレーサーに憧れながら、挑戦をあきらめトレーナーになったクルーズと出会い、人生の決断を下す。
まだまだ自分は走れる、だけど今はもっと大切なことがある。
自らの才能を信じ、運をも味方につけ自力でトップにたどり着く者もいれば、溢れんばかりの才能を持ちながら、誰かに見つけてもらえなければ、スタートラインにつく勇気を持てない者もいる。
マックィーンは前者で、クルーズは後者だ。
だが、誰であろうと大きな挫折を味わうことはあるし、そんな時に出会う運命のメンターは、若者の人生を左右する。
マックィーンにとって、それは第一作のハドソンだし、クルーズにとっては出場できなかった最初のレースの挫折を引きずり、本作でマックィーンに出会ことでようやく乗り越える。
そして、葛藤する若者たちとの絆によって、ロートルもまた、今まで知らなかった新たな喜びを見出してゆく。
人生悲喜交交が、個性豊かなクルマたちに見事に比喩され、思わず涙。
このシリーズは、キャラクターアニメーションであるのと同時に、本格的なモータースポーツ映画でもあり、毎回クルマ愛溢れる凝ったディテールが見もの。
今回は映画のテーマとリンクして、物語が1世紀にわたって継承されてきた、アメリカンストックカーレースの原点への旅にもなっているのが面白い。
一見すると普通のセダンの形をしたNASCARに代表されるストックカーレースは、禁酒法の時代に酒を満載しパトカーを振り切るために、特別に改造された市販車がルーツと言われる。
劇中で忘れられたモータースポーツの聖地、トーマスビルを訪れたマックィーンとクルーズが、障害物を避けながら夜の森を駆け抜けるトレーニングをするのは、この故事に因んだことなのだ。
やがて、警察に追われなくなると、レースの舞台はダートトラックと呼ばれる安価に設置できる未舗装のオーバルサーキットに移り、全米のあちこちにダートトラックが作られた。
路面のμ(摩擦係数)が低いダートトラックは、マシンコントロールの習得に適していることから、四輪二輪を問わず、多くのレーサーたちがダートトラックから巣立っていったのである。
私もアメリカでダートトラックのコースを走ったことがあるが、意外とちゃんとグリップするので、アンダーパワーなクルマだと映画みたいにドリフトを決めるのは難しい。
この映画は、禁酒法時代からのモータースポーツの歴史をたどり、やがてストックカーレース発祥の地であるフロリダへと到達する構造となっている。
マックィーンとクルーズが勘違いから出場する、クラッシュ大前提の8の字レースも実在する。
映画では田舎のダートトラックだったが、ちゃんと8の字にレイアウトされたサーキットも存在し、スクールバスが一番人気なのも、8の字レースと言えば古いスクールバスを使って豪快にぶっ壊すのが定番だから。
ほとんどの学校にスクールバスのあるアメリカでは、毎年大量のバスが引退するので、安定供給されるという訳だ。
また、第一作からリチャード”キング”・ペティを始め、数々の人気レーサーがキャラクターとして再現され、時には自ら声優として登場していたが、今回もNASCARファンに向けた数々の小ネタが隠されている。
リチャードの息子のカイルが、マックィーンの友人で、新世代レーサーの台頭で引退するキャルを演じていたり、新世代レーサーたちのボイスキャストは、実際にNASCARの若手レーサーだったりする。
しかし一番クルマ愛、というかモータースポーツ愛を感じるのは、やはりトーマスビルの住人として、ルイーズ・スミスをはじめとした伝説的な黎明期のNASCARレーサーたちを蘇らせたことだろう。
この辺りはアメリカンモータースポーツのファンとしては、感涙ものだった。
非常に巧みなのが、マックィーンのパートナーとして、バーチャルな世界しか知らないクルーズが初めてリアルなレーシングトレーニングを始めてから、実はすべてがクルーズのための実践トレーニングになっていること。
海岸の速度計測ではまともに走ることすらできなかったクルーズだが、サンダーホロウでの8の字レース、トーマスビルでのいくつものトレーニングでは、よく見ると全てのシチュエーションで、彼女はマックィーンより前でフィニッシュしているだ。
もちろんマックィーンは自分が勝つためにトレーニングしているのだが、旅の間にレーサーとしての彼女の真の資質を見る瞬間を積み重ねていたからこそ、最後のあの決断が十分な説得力を持つのである。
そしてクライマックスとなるフロリダ500のレースシークエンスでは、それまでの伏線を手際よく全て回収すると、手に汗握る怒涛のバトルとして昇華し、圧巻の迫力。
前二作もそうだったが、私はモータースポーツを描いた映画で、このシリーズ以上の臨場感を持つ作品を「ラッシュ/プライドと友情」くらいしか知らない。
物語を通し、マックィーンは自らの人生を選択できる権利を勝ち取り、クルーズはついに夢の入り口に立った。
ライトニング・マックィーン三部作として、これ以上ない見事な完結編だと思うが、果たして第4弾はあるのだろうか。
今回は、渋くて深い物語なので、じっくり味わって飲みたいアメリカン・クラフトビール、サンフランシスコのアンカーブリューイングの「アンカー リバティーエール」をチョイス。
マスカットのような非常にフルーティで芳醇な香り、適度な苦味とかすかな甘みが絡み合う、複雑な味わい。
コクがありながら、スッキリとした喉越しで飲みやすい。
ああ、ビール飲みながらNASCAR観戦したい。
90年代に日本でも開催されたけど、客入りが悪過ぎてすぐに終わってしまった。
あのショーアップされたノリは、日本人にはなかなか理解されないんだろうなあ。

![]() アンカー リバティー エール 355ml |


TVアニメ版「ポケットモンスター」の放送が開始されたのは1997年4月1日のこと。
前年に発売されたゲームボーイ用ソフトは、世界中で爆発的なブームを巻き起こしており、アニメもすぐに大人気番組となった。
1年後の1998年には、初の劇場版「ミュウツーの逆襲」が封切られ大ヒット。
翌年11月にはアメリカに上陸し、日本映画史上最初の、そして今のところ最後の全米No.1の快挙を成し遂げている。
「ポケットモンスター」は名実ともに、ゲームとアニメの両方の世界で、記録と記憶に残る作品になったのである。
あれからはや20年。
近年の劇場版とはかなり毛色の違った本作は、色々な意味でアニバーサリーに相応しい作品だ。
シリーズの立ち上げから一貫して総監督を務め、劇場版全作を手がけてきた湯山邦彦監督は、現時点でのシリーズ集大成として、極めてユニークなアプローチをとった。
タイトルの「キミにきめた!」が示唆するように、物語の導入はTV版の第1話「ポケモン!きみにきめた!」の忠実なリメイクである。
ポケモンマスターを目指す10歳のサトシと、ピカチューとの出会いと旅立ち。
お互いのファーストインプレッションは最悪だった一人と一匹に、最初の絆が生まれるまでは、ほぼTV版のまんま。
しかし、そこから本作は、オリジナルと僅かにずれたパラレルワールドを形作るのだ。
TVのメインキャラクターであるカスミやタケシは登場せず、代りにポケモン博士を目指すソウジと勝ち気な少女マコトに、ヒトカゲを捨てるダイスケは、勝利のためなら手段を択ばない少年クロスに置き換えられている。
カントー地方の小さな世界から、20年かけて徐々に広がってきた世界観も、あらかじめある程度のスケールが設定されていて、サトシはソウジ、マコトとポケモンたちをパートナーに、伝説のポケモン、ホウオウを探す旅に出る。
最初のポケモンブームの当時、子供だったポケモントレーナーたちも、もう30歳前後。
これは、シリーズのオリジンを知らない現在の子供たちの為の、もう一つのビギニングだ。
近年の劇場版は、複雑化する世界観を反映し、色々なテーマの物語があったが、今回はごくシンプル。
サトシが、仲間やライバルたちとポケモンバトルをしながら、様々な葛藤に直面し、共に成長して行く。
そうだよ、ポケモンて元々こういう話だったんだよ。
昨年大ヒットした「ポケモンGO!」でもお馴染みの、初期ポケモンたちが大挙出演するが、最近のポケモンとくらべると、初期のデザインが現実の生物のカリカチュアだったのがよく分かる。
初期のTV版で、サトシの成長を感じさせたバタフリーとの出会いと別れを、少しアレンジして再現してくれたのも嬉しかった。
そして、前半のあるシーンと対になる、クライマックスのサトシとピカチュウの、トレーナーとポケモンの関係を超えた友情の演出には、思わず涙腺決壊。
ある意味、20年目の驚きの掟破りなのだけど、あれは多分サトシにだけ聞こえた心の声なのだろう。
ちょうど今「ポケモンGO!」1周年で、サトシの帽子を被ったピカチュウが出るのだけど、映画を見てこの帽子の意味を知ると、ゲームやりながら泣ける。
「劇場版ポケットモンスター キミに決めた!」は、20年目の原点回帰にして、超正統派冒険ファンタジーだった。
単純なリメイクにせず、パラレルワールド設定にしたのは、おそらく作り手の間でも議論があったと思う。
今の子供たちには分かりやすいビギニングだけど、昔からのファンにとっては、自分たちの愛した世界が塗り替えられてしまうのだから。
ゆえに、あのエンディングは、自分の子供を連れて観に来てくれているかも知れない、大人に成ったポケモントレーナーたちに対する、20年間分の感謝なのだろうな。
劇中にサトシが見る、“ポケモンのいない世界”の夢も、嘗てポケモンの世界で遊び、やがて“卒業”していったファンに向けた、過ぎ去りし日からのメッセージ。
本作は子供たちにはαであり、大人たちにはΩ。
大人と子供どちらの視点でも楽しめ、それぞれに別の感慨にひたることができる、夏休みファミリー映画の快作である。
今回は伝説のポケモン、ホウオウを追う話なので、カクテル「フェニックス」をチョイス。
ウオッカ30ml、ピーチリキュール25ml、アマレットリキュール5ml、パイナップルジュース45ml、オレンジジュース45mlをシェイクし、氷を入れたタンブラーに注ぐ。
マラスキーノチェリーとミントの葉を飾って完成。
フルーティでスッキリとした、夏向きのカクテルだ。
ところで、今回のパラレルワールド設定は、J・J・エイブラムス版「スタートレック」みたいに、今後も使うのだろうか?

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妻の遺した愛犬“デイジー”の仇を打つため、ロシアン・マフィアを壊滅させた、キアヌ・リーブス演じる最強の殺し屋、ジョン・ウィックの復讐を描くシリーズ第二弾。
監督のチャド・スタエルスキ、脚本のデレク・コルスタッドをはじめ、主だったスタッフ、キャストは続投。
前作で盗まれたままだった、愛車ムスタング・マッハⅠの奪還シークエンスをプロローグに、スケールアップした「ジョン・ウィック チャプター2」は軽々と一作目を超えて来た。
適度に緩急はあるものの、銃で、ナイフで、素手で、ほぼ2時間ずっと戦い続ける、まさにノンストップ・バトル・アクションだ。
本シリーズの最大の特徴が、オリジナル脚本なのに、アメコミ映画よりも漫画っぽい世界観。
ここには「ハリー・ポッター」シリーズの魔法界の様に、表社会の裏側に殺し屋と犯罪者だけの世界があるのだ。
殺し屋たちの請負組織であり、同時にサンクチュアリでもある、ホテル・コンチネンタル・グループを中心に、世界の犯罪組織を取り仕切る12主席会だとか、ニューヨークのホームレスを束ねる謎の組織が裏社会を構成。
銃器ソムリエからおススメの武器を調達したり、オーダーメイドテーラーで防弾機能付きスーツを作ったり、犯罪者御用達の各種プロフェッショナルの、凝りに凝ったディティール描写も楽しい。
基本的に殺し屋が狙うのも犯罪者だけで、現実世界を舞台としていても、裏社社会の描写だけで成り立っているのは、嘗ての東映任侠映画にも通じる。
劇中のニューヨークなんて、全ての街角に殺し屋がいて、むしろ殺し屋しかいないのか?というくらいの異常な殺し屋人口密度だし。
この世界観を支え、登場人物の行動原理にもなっているのが各種の掟。
五年前に、ジョンが殺し屋業界を引退するために遂行した、実現不可能とされたミッション。
この時にカモッラの幹部サンティーノの助けを借りたため、ジョンは一度だけ「血の誓印」のメダルを持つサンティーノのどんな依頼も受けなければならない。
カモッラの代表として12主席の座にある姉を殺せ、という依頼を渋々受けたジョンは、ニューヨークからローマへ。
迷宮のような遺跡を使ったロケーション効果も高く、終盤の鏡の部屋のシークエンス(「燃えよドラゴン」への素晴らしいオマージュ)と共に、複合戦闘アクションの見せ場になっている。
まあ、前回に引き続き、悪役がわざわざジョンを怒らせて、自分からキケンに近づいて行くのはおかしいと言えばおかしいのだけど、本作の場合は「独自の行動原理の人たちの話だから」というエクスキューズで、なんとなく納得させられてしまう。
コンチネンタルの敷地内では殺しはご法度などの、裏社会独自の掟が本作ではキャラクターの枷として機能していて、物語のメリハリにもつながっている。
ジョン・ウィックのキャラクターも、確かにムチャクチャ強いのだけど、結構あちこちで刺されたり、撃たれたり、終始ボロボロなのもいい。
彼が”伝説の殺し屋”なのは、仕事の腕以上に打たれ強いからなのではないか(笑
相方の犬に対する責任をちゃんと果たし、スクラップ寸前の愛車を愛おしそうに乗って帰ってくるなど、妙に律儀でこだわり屋なところも可愛らしい。
しんみりすると亡き妻の動画をスマホで見ていたり、孤独でありながら孤独に抗う、ある意味すごく人間的で、ハード過ぎないハードボイルドなところも、このキャラクター独特の魅力だろう。
何十人殺ったのか分からないくらい、人が死にまくるのだけど、漫画チックな世界観とエキセントリックな登場人物、さらに暴力描写を変にリアルにしていないので、心置きなく痛快アクションを楽しめる。
印象的な敵キャラにあえてトドメを刺さないのは、次回以降の再登場の布石なのか。
他にも色々と伏線らしきものも張られ、 まだまだ続きそうな話なので、「チャプター3」にも期待。
犬、車、家と来て、次にジョンの怒りに火をつけるアイテムは何だろうか。
今回はジョン・ウィックの好きな、ブランデーをベースとするカクテル「スティンガー・ロイヤル」をチョイス。
「Stinger」とは動植物の牙や針、あるいは痛撃の意味。
ブランデー40mlとホワイト・ペパーミント(クレーム・ド・ミント・ホワイト)20ml、ペルノ2dashをシェイクし、氷を入れたグラスに注ぐ。
シンプルなカクテルのため、使うブランデー次第で大分味が変わる。
強いが、ミントの風味がフレッシュで飲みやすい。

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ひょんなことから一晩だけ魔女となった、自分に自信のない女の子が、魔法界のマッドサイエンティストの暴走を止めため、不思議な世界で冒険を繰り広げる。
「思い出のマーニー」の西村義明プロデューサー、米林宏昌監督ら嘗てのスタジオジブリのスタッフが中心となって立ち上げた新会社、スタジオポノックの第一作。
英国の作家、メアリー・スチュアートの小説「The Little Broomstick(新訳 メアリと魔女の花)」を、米林監督と「かぐや姫の物語」の坂口理子が脚色している。
豪華な声優陣も含めて、盤石の布陣で挑んだ大作だが、はたして若者たちの新スタジオはジブリの陰から逃れられたのだろうか。
※核心部分に触れています。
深い森が広がる、赤い館村に引っ越してきた11歳の少女メアリ(杉咲花)は、ある日、霧の中で美しい青い花を見つける。
それは嘗て魔女の国から盗み出され、7年に1度しか咲かない禁断の花“夜間飛行”だった。
花の力で一夜限りの魔女となったメアリは、積乱雲の向こうにある魔法界の最高学府、エンドア大学にやって来る。
校長のマダム・マンブルチューク(天海祐希)は、花の力で魔法を使えるメアリを、最高レベルの才能を持つ本物の魔女と勘違いして入学を許可。
しかし、メアリが夜間飛行を持っていることに気付いたマンブルチュークは、メアリの友だちのピーター(神木隆之介)を誘拐し、花を渡すことを要求。
実は、エンドア大学では、マンブルチュークと魔法科学者のドクター・デイ(小日向文世)によって、ある秘密の実験が行われており、夜間飛行はその最終実験に欠かせないものだったのだ。
メアリは魔法書「呪文の神髄」を使って、全ての魔法を終わらせようとするのだが・・・
米林監督の「思い出のマーニー」を最後に、ジブリが制作部門を閉鎖して3年。
大きすぎるブランドの終焉は、その反作用として、今までジブリの陰に隠されていたアニメーション作家たちに、スポットライトを当てるという結果をもたらした。
新海誠の「君の名は。」、山田尚子の「声の形」、片淵須直の「この世界の片隅に」の相次ぐ大ヒット、そして湯浅政明の「夜明け告げるルーのうた」が、高畑勲以来22年ぶりに、アヌシー最高賞に輝いたのは記憶に新しい。
これら高い作家性を持つ傑作群の登場と、その興行的あるいは批評的成功は、日本の長編劇場用アニメーションが、興行形態を含め地殻変動を起こしたことを示している。
そんな中、旧ジブリのスタッフを中心として設立されたスタジオポノックは、自分たちがジブリの後継者であることを高らかに宣言した。
本作の「魔女、ふたたび。」というキャッチコピー、主人公の横顔を意匠したスタジオのロゴは、明らかにジブリを連想させるし、西村プロデューサーは、製作発表記者会見で「ジブリの血を引いた作品」と語っている。
要するにポストジブリの時代に、すっぽりと空いたままの旧ジブリのポジション、正確に言えば宮崎駿が担ってきた大衆エンターテイメント路線のポジションを、客層ごとそのまま引き継ごうという訳だ。
結果的に、その目論みはまずまずの成功と共に、呪縛をもたらしていると思う。
本作を観た観客が確実に感じる既視感は、ある程度意図されたものだろう。
少女の魔女は「魔女の宅急便」だし、巨大な積乱雲の向こうにあるエンドア大学は「天空の城ラピュタ」、人間の子どもが図らずも不思議な世界へ招かれるのは「千と千尋の神隠し」、動物たちの反乱は「もののけ姫」の引用と言える。
ジブリ映画、もとい宮崎映画全部入りの世界観だ。
ふとした偶然から魔力を手に入れたメアリは、意思を持つ魔法の箒によってエンドア大学に連れてこられるのだが、ちょっとホグワーツっぽいこの大学では、秘密裏に恐ろしい実験が行われている。
それは誰もがあらゆる魔法を使えるようにするために、人間をより高次の存在に変身させることで、実験を完成させるためには、神秘の力を秘め、7年に一度しか咲かない夜間飛行が必要になる。
マンブルチュークとドクター・デイも元々は普通の教育者だったのだが、過去に一度夜間飛行を手にしてしまったことで、未知の領域に魔法を進化させられるという考えにとりつかれてしまった。
この映画の世界では、魔法と科学は融合していて、いき過ぎた欲望の追求で起こる事件は、思いっきり原発事故のメタファー。
夜間飛行が青白い光を放つのは、原発で見られるチェレンコフ光を思わせるし、クライマックスには“メルトダウン”の描写すらあるのだ。
まあ、そんな社会的テーマ性までもが、3.11後に「スタジオジブリは原発ぬきの電気で映画をつくりたい」という横断幕を掲げたジブリの魂を継承しているのである。
しかし、当然ながら米林宏昌と宮崎駿の作家性は大きく異なる。
例えば、宮崎作品における少年少女のキャラクターは、基本的に天真爛漫でポジティブ。
彼らの抱えている葛藤は、多くの場合外部からもたらされる危機が要因だ。
対照的に本作のメアリは、自分が大嫌いで、自信を持てないネガティブな少女として造形されている。
内的な要因による葛藤は「思い出のマーニー」の主人公・杏奈にも通じ、宮崎作品の少年少女が、大人からみた理想の子どもだとすると、米林作品に登場するのは、よりリアルで作者自身の実感に近い少年少女像と言えるだろう。
キャラクター観の違いは、米林監督のデビュー作で、宮崎駿が脚本を担当した「借りぐらしのアリエッティ」にも見て取れる。
米林監督は宮崎駿の脚本をそのまま使わず、取捨選択して再構成していったそうだが、小人の少女と重い病気を抱えた人間の少年の物語では、おそらくは脚本が描き出そうとした、世界の理をも含む大きなテーマと、演出家の志向する、より小さくパーソナルなテーマが、一本の作品の中で鬩ぎ合っていた。
そのアンバランスさが、思春期の不安や希望と結びついて、面白い効果を生んでいたのだが、本作では宮崎映画的なテイストを追求するあまり、少々作家性を押さえすぎている様に思う。
米林監督は、どちらかと言えば本作の様なノンストップ活劇よりも、リリカルな人間ドラマの方が得意なのだろう。
もちろん、彼は元々敏腕アニメーターだし、画をダイナミックスに動かすことに関しては誰よりも上手く、それは本作におけるスペクタクルな名ショットの数々からも見てとれる。
ただこの人は、演出家としては非常に上品で、宮崎駿のように、多少論理がぶっ壊れてしまっても、勢いで全てを押し流してしまうような、強引な演出はおそらく出来ない。
今回は冒険ファンタジーという題材が重なるだけに、観客に「もし宮崎駿が演出していたら?」を想像させてしまうのは苦しい。
おそらく、動物たちの反乱は、嘘をついてでも破壊スペクタクルと組み合わせるだろうし、マンブルチュークやドクター・デイのキャラクターは、確実にもっと狂気を迸らせるだろう。
米林監督の資質を生かすには、ややダイジェスト的に展開する脚本を更に細かく描き込み、特にメアリの成長物語の部分を明確に軸とすべきだった。
特に、冒頭で魔女の花を盗み出す赤毛の少女の正体と、メアリとの関わりは明らかに描き足りていない。
本作を鑑賞した後に、プロット上問題のある部分、描写が足りない部分を書き出してみたが、102分とコンパクトな上映時間にプラス30分の尺があれば、さらに魅力的な物語が構築出来たのではないかと思う。
もっとも、尺が伸びるということは、そのまま製作費の増大につながるし、新スタジオとして冒険し難いのも理解できる。
「メアリと魔女の花」には色々と欠点はあるけど、それは嘗てのジブリ映画も同じ。
少なくともこの映画は、幾つかの宮崎作品の様に、途中から破綻してはいない。
作家映画と考えると、やや突き抜け切れていないが、大人も子どもも楽しめるファミリームービーとして十分によく出来ているし、新たなブランドの一発目としては、賞賛して良い作品だと思う。
少し気になったのは、メアリが変身魔法を解く時に「魔法なんかいらない!」と言い切ること。
これは、テーマにつながる決め台詞としてちょっとアバウトすぎる。
魔法の世界は魔法の存在が前提なのだから、これでは彼らの存在そのものを否定して、投げ出しただけになってしまう。
変身実験=原発事故と置き換えると「科学なんかいらない」という、一番身も蓋もない結論である。
一時だけ魔女になったものの、人間として生きてゆく自分には必要ない、という意味であることは分かるのだが、一番印象に残る台詞だけにもうちょっと考えて欲しかったな。
ともあれ、宮崎駿の引退撤回と共に、本家ジブリも再び動き出した。
重鎮vs若手の、継承を巡る真の勝負はこれからだ。
本作の興行的成功を祈ると共に、スタジオポノックの次回作を、楽しみに待ちたい。
夜間飛行のデザインは何となくブルーベリーの実に見える。
今回は、偶然にも映画のキャラクター名に似ているドクターディムースの「ブルーベリー ワイン」をチョイス。
ブルーベリー100%から作られる、ドイツ製のブルーベリーワイン。
葡萄のワインよりアルコール度数が低く、飲みやすいので強いお酒が苦手な人にもお勧めできる。
そのままで十分美味しいが、暑い夏には氷をいれてもよし、ソーダで割ってもよし。
冬にはシナモンやフルーツジュースを加えて、ホットワインにしても美味しい。

![]() ドクターディムース ブルーベリーワイン750ml×1本【Dr. Demuth Blueberry Wine】【ドイツ】【甘口ワイン】【カトレンブルグ】【果実酒】【フルーツワイン】【業務用】 |


突然変異した真菌のパンデミックにより、人類の大半が”ハングリーズ"と呼ばれる生ける死体と化した世界。
感染したにも関わらず知性を失わない少女・メラニーと、彼女の脳からワクチンを作り出そうとするマッドサイエンティスト、少女が慕う教師、生き残った軍人たちのロードムービーだ。
監督はTVドラマの「SHERLOCK/シャーロック」で知られるコーム・マッカーシー、原作はマイク・ケアリーの小説「パンドラの少女(The Girl with All the Gifts)」で、作者自らが脚色を担当している。
ゾンビもののバリエーションながら、「28日後」や「わたしは生きてゆける」に通じる、イギリス映画独特のウエットな文学的なムードを持ち、ジュブナイルものの要素が強い。
映画の中で人類文明を滅亡させる真菌は、実在するタイワンアリタケの突然変異種ということになっている。
タイワンアリタケはいわゆる冬虫夏草の一種で、寄生された蟻は脳を乗っ取られゾンビ状態になり、植物の葉の葉脈にがっちりと噛みついて絶命、やがて真菌は蟻の体を依代として成長し、結実すると胞子を吹き出して、さらに感染を広げてゆく恐ろしい生物である。
本作ではこれが人間に感染する様に進化したという設定で、感染者に噛まれるか胞子を吸い込むかすると、1分と持たずに知性を失い、抗い難い食欲のみ残ったハングリーズになってしまう。
ところが、母親が感染した時に胎内にいた子供たちの脳は、感染しても真菌と共生し知性を保持できることが分かり、生き残った大人たちは彼らの脳からワクチンを開発しようとしているのだ。
ここでポイントになるのは、子供たちは一見すると普通ながら、知性以外はハングリーズと同じ特質を持ち、生きている人間に対して食欲を抑えられないということ。
もちろん、子供たちに噛まれても感染は免れない。
だから大人たちにとって、彼らは子供の姿をしたバケモノで、薬を作るために生かしている材料にすぎず、子供たちもまた自分たちが大人たちとは別種の存在で、いつかは殺される運命にあることを感じ取っている。
ちょっとカズオイシグロっぽい、ミステリアスな”学校”から始まる物語は、やがて基地の壊滅とともに、安全な地を探すロードムービーへと移行する。
初めて自分の目で外の世界を見たメラニーが、大人たちに混じってサバイバルしながら、自分が何者なのかを知り、生きる意味を見出してゆくプロセスはなかなか面白い。
彼女を一人の人間の子供として接し、擬似親子的な関係となる教師のヘレンと、あくまでも人類を存続させるために、メラニーを犠牲としてワクチンを作ろうとするコールドウェル博士(グレン・クローズが怪演!)が好対照を形作り、それまで職務として子供たちに接してきた兵士たちは、徐々にメラニーの中にある人間性を認めざるをえなくなる。
そして、感染したハングリーズが最終的にどうなるのか、ほぼ確定した世界の未来図を知った時、メラニーにとっても、大人たちにとっても残された時間は、もはやごく僅か。
数奇な運命を抱えて生まれた一人の少女の物語は、やがて旧人類と新人類の間の、星を継ぐものを巡る、壮大な選択の物語に発展するのである。
全ての災いが出尽くした後に残るのは、たった一つの”希望”という展開は、なるほどこれは終末の世界のパンドラの神話だ。
しかし、”全てを与えられた者(The Girl with All the Gifts)”=パンドラが開けた箱に最後に残ったギリシャ語の”エルピス”は、希望だという説と、実はゼウスが仕込んだ偽りの希望だという説がある。
希望だとしても、果たしてそれは誰にとっての希望なのか。
ハッピーエンドでありバッドエンド、独特の後味を残す、ディストピアSFの佳作である。
今回はストレートにカクテルの「ゾンビ」をチョイス。
ホワイトラム30ml、ゴールドラム30ml、ダークラム30ml、アプリコットブランデー15ml、オレンジジュース 20ml、パイナップルジュース 20ml、レモンジュース 10ml、グレナデンシロップ 10mlをシェイクして、このカクテルが名前の元になった氷を入れたゾンビグラスに注ぐ。
「ティファニーで朝食を」にも登場する、ハリウッド生まれの有名なカクテルだが、考案者が酔いを深めるために複数のラムを使ったという危険なカクテル。
上記は現在の一般的なレシピだが、オリジナルは更に量が多く、5種類ものラムを混ぜていたというから恐ろしい。
口当たりはフルーティーでフレッシュ、飲みやすいのだが、ロングカクテルな上に、その名の通り非常にアルコールが強く、酒に弱い人だとすぐに酩酊してゾンビ化するので注意。

![]() バカルディ ホワイト ラム 正規 750ml 40度[スペリオール][スピリッツ][シルバー][長S] |


世界中で「映画とは何か?」という論争を巻き起こした、鬼才ポン・ジュノ監督によるNetflixオリジナル作品。
これは2006年公開の傑作、「グエムル 漢江の怪物」の対になるような作品だ。
「グエムル」では、米軍の垂れ流した毒薬による突然変異で、おぞましい姿を持つ人喰いの怪物が出現し、怪物にさらわれた少女を救うため、少女の家族が怪物と戦う。
予期せぬ脅威の出現に右往左往する韓国社会と無能な政府、強引に介入する米国やWHOといった外部勢力が暗躍し、混沌の中に現代韓国の歪みが浮かび上がるという仕組み。
今回、またしてもアメリカの作り出した怪物が、韓国の地で大騒動を巻き起こす。
しかし、本作の怪物は人間を喰うのではなく、逆に喰われる運命。
地球の食糧危機を救うべく、遺伝子操作で作られた“スーパー・ピッグ”と呼ばれているが、見た目はブタというより食用のカバ(?)のオクジャと、彼女を救おうとする少女ミジャの物語だ。
スーパー・ピッグを開発した米国企業ミランドグループは、話題作りと生息環境ごとの育ち方の違いを調べるために、世界中の26の農家に10年間飼育を委託し、そのうちの一つがミジャの家というワケ。
ミジャと祖父がオクジャと共に暮らす山深い韓国の田舎は、ある種の理想郷として描写される。
監督によると、このシークエンスは宮崎駿の「未来少年コナン」の影響を受けているという。
なるほど、隔絶された楽園の平和が、外界からの侵入者によってかき乱され、連れ去られた大切な存在を追って、少女が冒険の旅に出るという導入は、まさにあの傑作アニメの女の子版だ。
どこまでも広がる樹木の海で、ストレスなく育ったオクジャは、完璧なスーパー・ピッグとして回収され、ニューヨークのショーに出たあと食肉処理される運命。
なんとかオクジャを取り戻そうとするミジャの闘いに、食肉や動物虐待に反対する、ALF(動物解放戦線)のメンバーたちが参戦する。
だが、本作の場合、ミランドグループが悪玉でALFが善玉かと言うとそうでもない。
前者が暴走する商業主義の象徴なのは間違いないが、ALFも教条的な理念に凝り固まり、生物としての人間の業に目を瞑る、どこか歪んだ人々として描写される。
ミランドグループもALFも、人間を自然のライフサイクルから外れた存在と考えている点では、全く変わらない。
小さな理想郷の外の世界では、工場で製品として作られた動物が殺され、一方で過激派団体が暴れまわるという、ブラックジョークの様な光景が繰り広げられていることを、ミジャは初めて知るのである。
少女と怪物だけがピュアな存在で、それ以外は全部俗物というのは、いかにもポン・ジュノらしい。
タイトルにもなっているスーパー・ピッグのオクジャは、最初はあんまり可愛く思えないが、話が進むにつれてオクジャの愛情深い性格が描写され、ミジャとの関係がペットと飼い主というよりも、擬似的な母娘(ミジャが娘)であることが描かれると、急速に感情移入。
何しろオクジャはミジャが危険に晒されると、命がけで彼女を守ろうとするのだ。
それゆえオクジャが連れてゆかれるスーパー・ピッグの精肉工場が、完全にナチスの絶命収容所のメタファーなのは萎えた。
相変わらず、ブラックなテリングには容赦がないが、だからこそ単純なハッピーエンドでもなく、バッドエンドでもない、ラストの独特の余韻が生まれている。
終始仏頂面でミジャを演じるアン・ソンヒョンが素晴らしく、脇を固めるジェイク・ギレンホールの動物博士とか、ティルダ・スウィントンのCEOとかも、最高に気持ち悪くていい。
映画の国籍を軽々と超える、シニカルなSF風刺劇の傑作である。
当ブログは基本的にスクリーンで観た作品をレビューしているので、いつのもような評価額は出せない。
あくまでTV画面で観た印象で評価するなら、5点満点で4.8は付けたい。
とはいえ、これはやはりスクリーンで観たかった。
本作は配信のみの国と、劇場公開+配信の国に分かれている様だが、TV画面では収まりの悪いシネマスコープサイズでわざわざ作っているのだから、作り手が劇場での鑑賞を最善と考えているのは間違いないだろう。
Netflixの革新は、単にいつでもどこでも観られるユビキタス鑑賞に限らない。
観客だけでなく、興行関係者の意向にも左右される、既存の劇場用映画の制作システムに比べ、圧倒的に自由な制作環境。
作品を独占せずに、クリエイター側に権利を残すフェアなスタンスなど、今後の映画作りのスタンダードを劇的に変え、業界の既得権益を打破し、制作現場を“民主化”できる可能性を秘めている。
だからこそ、なんとか劇場との共存を模索して欲しいのだけど、それはNetflix側の努力だけでは不可能だ。
本作が今年のカンヌで、コンペ部門のセレクションに入りながら、フランスでの劇場公開予定が無いことから、審査委員長のペドロ・アルモドバルに「どの賞も与えるべきではない」と言われてしまい、その後の規定の改定により、来年度から配信のみの作品は、映画祭から排除されることが決まったのは記憶に新しい。
しかし、フランスは劇場を守るための規制が厳格過ぎて、劇場公開から36ヵ月経たないと、Netflixの様な定額動画配信サービスで配信できない。
これではNetflixが劇場公開したくても、出来る訳がないのだ。
ネット配信の波はもう止まらないし、興行への影響も確実に出て、淘汰される劇場も出てくるだろうが、映画館側の姿勢も変わらざるを得ないだろう。
それにしても、映画を劇場で観るのか、ネットで観るのかの論争は、まるで映画の発明を巡るエジソンとリュミエール兄弟の関係を逆転させたようで非常に興味深い。
映画のハードは、エジソンの開発したキネトグラフと、ジョージ・イーストマンによる動画用ロールフィルムの発明によって完成した。
だがこの時点では、映画を観るにはキネトスコープという箱型の鑑賞装置を覗き込むしかなく、キネトスコープパーラーという施設で、個別に鑑賞する仕組みだった。
現在では、衆人が集まる暗闇の中でスクリーンに映写する、リュミエール兄弟のシネマトグラフの登場をもって映画の完成とされている。
レオス・カラックスは、異色の寓話「ホーリー・モータース」で、映画の死を描いた。
“人々が光る機械に興味を失う”、それは古代の洞窟壁画から続く、暗闇の中で時空を超越する創造の叡智=イデアを観るという数万年に及ぶ神秘の共有体験が、十九世紀末にテクノロジーと融合することで生まれた、劇場用映画の静かなる終焉である。
共有体験をもたらしたシネマトグラフは滅び、再びパーソナルなキネトスコープに戻るのか、それとも共存の道を歩むのか。
映画館で、見ず知らずの人たちと分かち合う時間を至福と感じる私としては、映画の異なる楽しみ方として、両者共存は十分に可能だと思うのだが。
はたして10年、20年後に映画はどんな姿になっているのだろう。
