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2017年09月27日 (水) | 編集 |
わたしたちが、しなければいけないこと。
人付き合いの苦手な孤独な少女ソンと、転校生のジア。
小四の夏休みの初めに出会った二人は、直ぐに"親友"となるのだが、二学期が始まると少しずつすれ違うようになる。
これが長編デビュー作となるユン・ガウン監督が、自らの体験をもとに作り上げたリアリティたっぷりの子どもたちの世界。
あの子のことスキ、あの子はキライ。
小学生の頃は、凄く仲が良さそうに見えた女の子たちが、いつの間にか別のグループになっていたり、ハミ子になっていたりするのが不思議だった。
同年代の男子の未熟な脳みそでは理解しがたい、女の子たちの独特の関係が、リリカルで繊細なタッチで描かれる。
冒頭、体育の授業でドッジボールをする子どもたち中にいるソンを、被写界深度の浅い望遠レンズが捉える
カメラは彼女に張り付いたまま、他の生徒は殆ど描写しない。
するとソンは、味方チームの一人から「ラインを踏んだ」と、早々にアウトを宣告されてしまう。
気だるげな表情がますます曇り、クラスの中で孤立している状況と、やりきれない疎外感を端的に表した秀逸な描写だ。
そんな彼女にとって、学校という閉鎖社会から解放される夏休みに、自分を知らないジアと出会ったことは、全てをゼロから始められる相手との、又とない機会になるのである。
だが、それもつかの間、ジアが地域の子どもたちのコミュニティに馴染み始めると、ソンの置かれた状況も彼女に知られてしまう。
思春期の入り口の頃には、親たちの社会が子どもたちにも投影され始める。
塾の月謝が払える家と払えない家の子、子どもにケータイを持たせる家とそうでない家の子には、スクールカーストが生まれ、「あの子の親は◯◯」といった噂も、"穢れ"となり友だちを選別する。
あの子とこの子は仲がいい、この子はあのグループに嫌われているといった、子供たちの間の力学も、目に見えない壁となって友だち関係を変化させてゆく。
ソンとジアの場合は、クラスの中心にいる優等生、ボラとの関係が裏切りと嫉妬を生む。
自ら作ってしまった幾つもの溝に引き裂かれ、モヤモヤを抱えながら毎日を過す少女たちは、いかにして葛藤にケリをつけるのか。
「(友だちと)ずっと叩き合っていたら、いつ遊ぶの?ぼくは遊びたい。」
色々と拗らせちゃっているお姉ちゃんに、負の連鎖の愚かさを悟らせる、四歳の弟くんの名言が光る。
決して大人目線の綺麗ごとの話にはせず、現実の厳しさを反映しつつも、彼女らが子どもゆえに希望の見える物語は、同じような境遇に陥っている子どもたちに、凄く勇気を与えるのではないか。
誰もが原体験として持つビターな記憶を描く、この作品の普遍的なドラマ性は、大人が観ても子どもが観ても心に響くと思う。
本作で企画を務めるイ・チャンドンは、監督作品こそ2011年の「ポエトリー アグネスの詩」以来途絶えているものの、近年では「冬の小鳥」のウニー・ルコント、「私の少女」のチョン・ジュリ、「フィッシュマンの涙」のクォン・オグァンに続いて本作のユン・ガウンと、若手作家たちを次々とデビューさせている。
この方は映画監督になる前は、教師で作家で社会運動家だったという異色の経歴の持ち主なのだけど、原石を見極め磨き上げる才能にも恵まれている様だ。
ようやく撮影開始が伝えられた、久々の監督作品「バーニング」も楽しみ。
ユン・ガウンは是枝裕和にも大きな影響を受けたそうで、どこまでも丁寧に心情をすくい取る心理劇に、二人の"師匠"の特質はしっかり受け継がれているのではないか。
「우리들(わたしたち)」という示唆に富んだタイトルが、最後にスッと腑に落ちる、素晴らしいデビュー作だ。
今回は、子どもたちの未来に広がる世界をイメージし「アラウンド・ザ・ワールド」をチョイス。
ドライ・ジン40ml、ミントリキュール10ml、パイナップルジュース10mlをシェイクし、グラスに注ぐ。
グリーンミントチェリーを一つ、グラスの縁に飾って完成。
パイナップルジュースの甘味に、ミントの香りがふわりと立つ。
美しいターコイズグリーンも目に涼しい、さっぱりとした夏向きのカクテルだ。
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人付き合いの苦手な孤独な少女ソンと、転校生のジア。
小四の夏休みの初めに出会った二人は、直ぐに"親友"となるのだが、二学期が始まると少しずつすれ違うようになる。
これが長編デビュー作となるユン・ガウン監督が、自らの体験をもとに作り上げたリアリティたっぷりの子どもたちの世界。
あの子のことスキ、あの子はキライ。
小学生の頃は、凄く仲が良さそうに見えた女の子たちが、いつの間にか別のグループになっていたり、ハミ子になっていたりするのが不思議だった。
同年代の男子の未熟な脳みそでは理解しがたい、女の子たちの独特の関係が、リリカルで繊細なタッチで描かれる。
冒頭、体育の授業でドッジボールをする子どもたち中にいるソンを、被写界深度の浅い望遠レンズが捉える
カメラは彼女に張り付いたまま、他の生徒は殆ど描写しない。
するとソンは、味方チームの一人から「ラインを踏んだ」と、早々にアウトを宣告されてしまう。
気だるげな表情がますます曇り、クラスの中で孤立している状況と、やりきれない疎外感を端的に表した秀逸な描写だ。
そんな彼女にとって、学校という閉鎖社会から解放される夏休みに、自分を知らないジアと出会ったことは、全てをゼロから始められる相手との、又とない機会になるのである。
だが、それもつかの間、ジアが地域の子どもたちのコミュニティに馴染み始めると、ソンの置かれた状況も彼女に知られてしまう。
思春期の入り口の頃には、親たちの社会が子どもたちにも投影され始める。
塾の月謝が払える家と払えない家の子、子どもにケータイを持たせる家とそうでない家の子には、スクールカーストが生まれ、「あの子の親は◯◯」といった噂も、"穢れ"となり友だちを選別する。
あの子とこの子は仲がいい、この子はあのグループに嫌われているといった、子供たちの間の力学も、目に見えない壁となって友だち関係を変化させてゆく。
ソンとジアの場合は、クラスの中心にいる優等生、ボラとの関係が裏切りと嫉妬を生む。
自ら作ってしまった幾つもの溝に引き裂かれ、モヤモヤを抱えながら毎日を過す少女たちは、いかにして葛藤にケリをつけるのか。
「(友だちと)ずっと叩き合っていたら、いつ遊ぶの?ぼくは遊びたい。」
色々と拗らせちゃっているお姉ちゃんに、負の連鎖の愚かさを悟らせる、四歳の弟くんの名言が光る。
決して大人目線の綺麗ごとの話にはせず、現実の厳しさを反映しつつも、彼女らが子どもゆえに希望の見える物語は、同じような境遇に陥っている子どもたちに、凄く勇気を与えるのではないか。
誰もが原体験として持つビターな記憶を描く、この作品の普遍的なドラマ性は、大人が観ても子どもが観ても心に響くと思う。
本作で企画を務めるイ・チャンドンは、監督作品こそ2011年の「ポエトリー アグネスの詩」以来途絶えているものの、近年では「冬の小鳥」のウニー・ルコント、「私の少女」のチョン・ジュリ、「フィッシュマンの涙」のクォン・オグァンに続いて本作のユン・ガウンと、若手作家たちを次々とデビューさせている。
この方は映画監督になる前は、教師で作家で社会運動家だったという異色の経歴の持ち主なのだけど、原石を見極め磨き上げる才能にも恵まれている様だ。
ようやく撮影開始が伝えられた、久々の監督作品「バーニング」も楽しみ。
ユン・ガウンは是枝裕和にも大きな影響を受けたそうで、どこまでも丁寧に心情をすくい取る心理劇に、二人の"師匠"の特質はしっかり受け継がれているのではないか。
「우리들(わたしたち)」という示唆に富んだタイトルが、最後にスッと腑に落ちる、素晴らしいデビュー作だ。
今回は、子どもたちの未来に広がる世界をイメージし「アラウンド・ザ・ワールド」をチョイス。
ドライ・ジン40ml、ミントリキュール10ml、パイナップルジュース10mlをシェイクし、グラスに注ぐ。
グリーンミントチェリーを一つ、グラスの縁に飾って完成。
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2017年09月22日 (金) | 編集 |
変えられる自分と、決して変われない自分。
スウェーデン、フィンランド、ノルウェー、ロシアにまたがる極北の地、ラップランドに暮らす北欧先住民族サーミ人の少女、エレ・マリャの物語。
サーミの血を引くアマンダ・シェーネル監督は、自分の一族の長老たちの中の、サーミを嫌うサーミの存在から本作の発想を得たという。
素晴らしい好演を見せるエレ・マリャ役のレーネ=セシリア・スパルロクと、妹役のミーア=エリーカ・スパルロクの姉妹は、実際にノルウェー北部でトナカイを放牧して暮らしているそうだ。
全く差別の無い人間社会は地球上に存在せず、今では人権思想の先進地帯である北欧にも、恥ずべき歴史がある。
嘗てはラップ人と呼ばれた放牧民サーミは、映画の舞台となる1930年代のスウェーデンでは、劣った人種として差別され、寄宿学校ではサーミ語も禁止、進学の道も閉ざされている。
サーミの子供たちは、都会から来た学者に“生きた標本”として扱われ、教師には「あなたたちの脳は文明に適応できない。街に出れば絶滅してしまうから、故郷で伝統を継ぎなさい」と諭される。
無垢なる子供時代を過ぎ、自分が被差別階層で、このままでは未来が無いと気付いた時、人はどうするのか。
ある者は、諦めて差別と好奇の目を甘んじて受けるだろう。
またある者は、怒りを胸に支配階層に対してプロテストし、社会を変えようとするのかも知れない。
もう一つ、自らの民族的アイデンティティを捨て、支配階層の中で別人として生きる道もある。
サーミの人種的な特徴は、ゲルマン系スウェーデン人とそれほど明確な違いはないのだ。
生来のエレ・マリャという名前を捨て、クリスティーナと名乗る老女を描く現在のシークエンスで、彼女が10代だった1930年代の過去がサンドイッチされる構造。
ある意味、最も辛く過酷な人生を選択した少女時代と、年輪を重ねた現在との対比が、鈍い痛みとなり観客の胸に突き刺さる。
エレ・マリャは自分がサーミであることを嫌い、金髪碧眼の典型的ゲルマン系の教師、クリスティーナに憧れている。
教師からもらったフィンランドの詩人、エディス・セーデルグランの「どこにもない国」を読んだ彼女は、教師の名を真似てクリスティーナと名乗り、差別と伝統の鎖に縛られたサーミではなく、自由な人生を生きようとするのだ。
だが、たとえ名前を変え、新たな家族を作り、教師になるという夢を叶えても、自らの中にあるサーミの血と誇りはくすぶり続ける。
運命に抗い、何者かに成りたかったエレ・マリャは、自らの存在を抹殺することで道を切り開くが、その代償として大切なものを失い、民族を裏切った者として一生罪悪感を抱えて生きざるを得ない。
終盤、姉とは対照的にサーミとして生きて死んだ妹に、絞り出すように謝罪するクリスティーナは、物語のラストでようやく子供時代を過ごした故郷へと足を踏み入れるが、そこはもう彼女の知っているサーミの地ではないのである。
本作の舞台は遠い北欧の国だが、描かれているのは、日本のいわゆる通名の問題や部落差別、あるいは民族的な境遇が似たアイヌの歴史にも通じる内容で、決して過去の話では無い普遍的テーマを内包している。
私はこの映画を観て、韓国系の友人から聞いた話を思い出した。
現在の北朝鮮の出身だった彼女の祖父は、戦前日本名を名乗り、東京で政府の官僚として活躍したエリートだった。
しかしその反面、同郷の人々との交流は極力避けていて、戦後亡くなるまで親戚も含めて殆ど絶縁状態だったそうだ。
差別は、人から何を奪うのか。
たとえ今は差別が無くなった、弱まった、表には出なくなったとしても、本作の主人公の様に過去の差別によって大き過ぎる傷を負った人たちは、今も血を流しながら生きていることに、改めて気付かされた。
まだサーミだった頃のエレ・マリャが歌う伝統歌唱、ヨイクの調べが心に染み渡る。
丁寧に作られた見応えある拘りの力作だが、できればアマンダ・シェーネル監督には、エレ・マリャとは違う道を選んだ、妹のその後を描く物語も観せてほしい。
二つの視点を持つことで、初めて見えてくる“サーミの今”もあるのではないだろうか。
スウェーデンは寒い国らしく、非常に豊かなアルコール文化を持つが、今回は祝いの席などに欠かせない代表的な蒸留酒、「スコーネ アクアビット」をチョイス。
18世紀ごろに完成したとされるアクアビットは、ウィスキーと同じくラテン語の命の水(aqua vitae)を語源とし、ジャガイモを原料として蒸留した後、キャラウェイやアニスなどで香り付けした酒。
この香り付けは銘柄ごとに違いがあり、個性豊かなアクアビットが出来上がる。
スコーネはキャラウェイの香りとマイルドな口当たりが特徴で、冷凍庫でキンキンに冷やし、ビールをチェイサーにしていただくのが現地流。
まあ、日本人は悪酔いするわな(笑
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スウェーデン、フィンランド、ノルウェー、ロシアにまたがる極北の地、ラップランドに暮らす北欧先住民族サーミ人の少女、エレ・マリャの物語。
サーミの血を引くアマンダ・シェーネル監督は、自分の一族の長老たちの中の、サーミを嫌うサーミの存在から本作の発想を得たという。
素晴らしい好演を見せるエレ・マリャ役のレーネ=セシリア・スパルロクと、妹役のミーア=エリーカ・スパルロクの姉妹は、実際にノルウェー北部でトナカイを放牧して暮らしているそうだ。
全く差別の無い人間社会は地球上に存在せず、今では人権思想の先進地帯である北欧にも、恥ずべき歴史がある。
嘗てはラップ人と呼ばれた放牧民サーミは、映画の舞台となる1930年代のスウェーデンでは、劣った人種として差別され、寄宿学校ではサーミ語も禁止、進学の道も閉ざされている。
サーミの子供たちは、都会から来た学者に“生きた標本”として扱われ、教師には「あなたたちの脳は文明に適応できない。街に出れば絶滅してしまうから、故郷で伝統を継ぎなさい」と諭される。
無垢なる子供時代を過ぎ、自分が被差別階層で、このままでは未来が無いと気付いた時、人はどうするのか。
ある者は、諦めて差別と好奇の目を甘んじて受けるだろう。
またある者は、怒りを胸に支配階層に対してプロテストし、社会を変えようとするのかも知れない。
もう一つ、自らの民族的アイデンティティを捨て、支配階層の中で別人として生きる道もある。
サーミの人種的な特徴は、ゲルマン系スウェーデン人とそれほど明確な違いはないのだ。
生来のエレ・マリャという名前を捨て、クリスティーナと名乗る老女を描く現在のシークエンスで、彼女が10代だった1930年代の過去がサンドイッチされる構造。
ある意味、最も辛く過酷な人生を選択した少女時代と、年輪を重ねた現在との対比が、鈍い痛みとなり観客の胸に突き刺さる。
エレ・マリャは自分がサーミであることを嫌い、金髪碧眼の典型的ゲルマン系の教師、クリスティーナに憧れている。
教師からもらったフィンランドの詩人、エディス・セーデルグランの「どこにもない国」を読んだ彼女は、教師の名を真似てクリスティーナと名乗り、差別と伝統の鎖に縛られたサーミではなく、自由な人生を生きようとするのだ。
だが、たとえ名前を変え、新たな家族を作り、教師になるという夢を叶えても、自らの中にあるサーミの血と誇りはくすぶり続ける。
運命に抗い、何者かに成りたかったエレ・マリャは、自らの存在を抹殺することで道を切り開くが、その代償として大切なものを失い、民族を裏切った者として一生罪悪感を抱えて生きざるを得ない。
終盤、姉とは対照的にサーミとして生きて死んだ妹に、絞り出すように謝罪するクリスティーナは、物語のラストでようやく子供時代を過ごした故郷へと足を踏み入れるが、そこはもう彼女の知っているサーミの地ではないのである。
本作の舞台は遠い北欧の国だが、描かれているのは、日本のいわゆる通名の問題や部落差別、あるいは民族的な境遇が似たアイヌの歴史にも通じる内容で、決して過去の話では無い普遍的テーマを内包している。
私はこの映画を観て、韓国系の友人から聞いた話を思い出した。
現在の北朝鮮の出身だった彼女の祖父は、戦前日本名を名乗り、東京で政府の官僚として活躍したエリートだった。
しかしその反面、同郷の人々との交流は極力避けていて、戦後亡くなるまで親戚も含めて殆ど絶縁状態だったそうだ。
差別は、人から何を奪うのか。
たとえ今は差別が無くなった、弱まった、表には出なくなったとしても、本作の主人公の様に過去の差別によって大き過ぎる傷を負った人たちは、今も血を流しながら生きていることに、改めて気付かされた。
まだサーミだった頃のエレ・マリャが歌う伝統歌唱、ヨイクの調べが心に染み渡る。
丁寧に作られた見応えある拘りの力作だが、できればアマンダ・シェーネル監督には、エレ・マリャとは違う道を選んだ、妹のその後を描く物語も観せてほしい。
二つの視点を持つことで、初めて見えてくる“サーミの今”もあるのではないだろうか。
スウェーデンは寒い国らしく、非常に豊かなアルコール文化を持つが、今回は祝いの席などに欠かせない代表的な蒸留酒、「スコーネ アクアビット」をチョイス。
18世紀ごろに完成したとされるアクアビットは、ウィスキーと同じくラテン語の命の水(aqua vitae)を語源とし、ジャガイモを原料として蒸留した後、キャラウェイやアニスなどで香り付けした酒。
この香り付けは銘柄ごとに違いがあり、個性豊かなアクアビットが出来上がる。
スコーネはキャラウェイの香りとマイルドな口当たりが特徴で、冷凍庫でキンキンに冷やし、ビールをチェイサーにしていただくのが現地流。
まあ、日本人は悪酔いするわな(笑



2017年09月19日 (火) | 編集 |
ついに“奴”が生まれる。
リドリー・スコット監督による、「エイリアン」前日譚。
2012年の「プロメテウス」に続く第二弾は、スコット作品としては38年ぶりに「エイリアン」のタイトルが復活した。
内容的にも、人類はどこから来たのか?という謎解きの要素が強かった前作から、ぐっとホラー色を増して着実に伝説の第一作に接近。
種の起源を巡る宗教性を引き継ぎながら、前作では最後まで出てこなかった、H・R・ギーガーのデザインによる、“エイリアン(ゼモノーフ)”誕生のエピソードが描かれる。
宣伝では前作との繋がりはメンションしてないが、ストーリー的には「プロメテウス」の完全な続編で、観てないと作中あちこち意味不明だと思うので、最低限「プロメテウス」と、できれば第一作を鑑賞しておくのがオススメだ。
※核心部分に触れています。
人類の起源を探るべく、惑星LV-223に向かったプロメテウス号が、消息を絶ってから10年。
移民船コヴェナント号は、地球から冷凍休眠中の2000人の移民と、1400人分の胎芽を乗せて、惑星オリエガ6に向かっていた。
船を管理するアンドロイドのウォルター(マイケル・ファスベンダー)以外は、乗組員も皆冷凍休眠に入っていたが、予期せぬアクシデントに見舞われ、船長のブランソン(ジェームズ・フランコ)は死亡し、副官のオラム(ビリー・クラダップ)が指揮をとることに。
ブランソンの妻で、テラフォーミング技術者のダニエルズ(キサリン・ウォーターストン)ら乗組員は、悲しみを癒す間もなく船の修復に取り掛かる。
ところがパイロットのファリス(ダニー・マクブライド)らが船外作業をしてる時、突然どこからかノイズだらけの通信を受信。
解析の結果、それは航路からほど近い、未知の地球型惑星から発信されていることが判明。
冷凍休眠中の乗客を危険にさらすとダニエルズは反対するが、オラムは惑星の探査をすることを決定する。
やがて、惑星に降り立った一行は、遺棄された巨大な異星人の宇宙船の残骸を発見するのだが・・・
ある意味、リドリー・スコットのSF映画の、集大成とも思える作品である。
「プロメテウス」のレビューの最後で、私は「船が飛び立った先は“パラダイス”か、それとも“エデン”なのだろうか?」と書いた。
前作は人類の種の起源を巡るきわめて宗教色の強いミステリで、30億年前に地球に命の種を蒔いた創造主“エンジニア”の存在を求めて、ショウ博士ら調査チームの乗った探査船プロメテウス号が、古代の星図に描かれた惑星LV−223に向かう。
ところがその星はエンジニアたちの実験場で、彼らは自ら作り出した変異する恐るべきクリーチャーを制御できず、星を放棄していたのだ。
同じクリーチャーに遭遇した調査チームも襲われるが、生き残ったショウ博士とアンドロイドのデヴィッドは、残されていたエンジニアの宇宙船を起動し、彼らの本星を目指して飛び立ったのである。
つまり、次回作の舞台はエンジニア=創造主の星、即ちそれは“パラダイス”か“エデン”だろうと思ったのだ。
まあその予測は半分当たって、半分外れていた。
確かにショウ博士らは創造主の星にたどり着いていたが、その星はLV−223から持ち込まれたクリーチャーの元になる病原体によってあっさりと滅ぼされ、“パラダイス”ならぬ“インフェルノ”へと様変わりしていたのだ。
そしてその星からの通信を運悪くキャッチしてしまったのが、コヴェナント号だったという訳。
シリーズ中、スコットがメガホンを取った作品は、毎回宇宙船の名前が内容とリンクしている。
第一作の「ノストロモ」は、コンラッドの同名小説で、権力に利用され結局は死んでしまう主人公の名だったし、「プロメテウス」は、ゼウスの命に背いてまでも、人類に火(文明)を与えたギリシャ神話の神だ。
今回、2000人を超える移民を乗せて、宇宙を旅する「コヴェナント(COVENANT)」とは、聖なるものとの契約を意味する言葉。
これが、神から聖約として十戒を与えられた、モーゼの率いるユダヤの民の比喩なのは明らかだが、では創造主が滅びた星で、聖約を交わす相手は一体誰なのか?
本作の冒頭、ピーター・ウェイランドによって創られたアンドロイドは、ミケランジェロの彫刻を見て、自分をデヴィッドと名付ける。
デヴィッドとは旧約聖書の登場人物で、ペリシテ軍の巨人ゴリアテを倒し、やがて自分を妬んだ王のサウルに命を狙われるも、彼の死後に全イスラエルの王となったダビデのことである。
ダビデは、悪霊に悩まされるサウルの心を癒すために竪琴を弾くが、本作でもデヴィッドはピーターの前でリヒャルト・ワーグナーの「ラインの黄金」第四場の「ヴァルハラ城への神々の入城」をピアノで弾きこなし、ピエロ・デラ・フランチェスカの「キリストの降誕」を鑑賞する。
ここではサウルとダビテの王権の移行に絡めて、両者の未来の関係を暗示すると共に、創造主たるピーターに対して、「貴方が自らを模して自分を作ったのなら、芸術を理解する心も含めて同じ能力がありますよ」というさりげない、しかし明確なアピール。
しかも有限の命しか持たない人間に対し、アンドロイドは死から解放されている。
やがて人間を自らより劣ったものとして認識したデヴィッドにとって、人類の創造者たるエンジニアもまた、崇敬の対象ではないのである。
コヴェナント号の聖約は、“パラダイス”であったはずの星を、自らが創造主となり完璧な生物を作り上げる新たな実験場“インフェルノ”へと変えた地獄の王、デヴィッドと結ばれるのだ。
他にも、本編終盤に登場する在りし日の乗組員の記念写真が、明らかにダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を意識した構図(本作のプロローグとなる“LAST SUPPER”と題したプロモーション・リールも公開されている)だったり、様々な宗教的な暗喩が含まれているが、脚本家のテイストの違いか、それらは「プロメテウス」ほど思わせぶりではなく、物語の表層に配されていて比較的わかりやすい。
本作は基本的にデヴィッドが人類でもエンジニアでもない、新たな世界の創造主となり、第一作に登場したこの宇宙の絶対生物、“エイリアン”を完成させるまでの物語であり、人間の登場人物は相対的に犠牲者としての役割しか持たされていない。
全編を通して、デヴィッドにとって最大の脅威となるのは彼の改良型、全く同じ姿をしているが、創造の欲求を持たず、人類の従順な同伴者であるコヴェナント号のアンドロイド、ウォルターである。
本来、人間が使役させる目的で作られた両者が対決するという構図は、スコットが作り出したもう一つのSF金字塔「ブレードランナー」における、ブレードランナーと逃亡レプリカントの関係を思わせ、思わずニヤリ(劇中に明示はないが、スコットはハリソン・フォード演じるブレードランナーもまたレプリカントであると語っている)。
「エイリアン:コヴェナント」は、宗教色・哲学色の強い謎解きもの、という色彩が強かった前作よりも、全体的にシンプルで観やすくまとまっていて、シリーズ本来のSFホラーとしてはなかなか面白い。
フェイスハガー状態からの成長速度が少々早過ぎの気はするが、惑星からの脱出船上のバトルシークエンス、コヴェナント号の中での第一作を思わせる捜索シークエンスと、大きく二つあるvsエイリアンの見せ場はスリリングだし、エイリアンもシャワールームでイチャイチャしてるカップルを背後から串刺しとか、唐突にB級感覚あふれる下世話な襲撃まで見せてくれて終盤大活躍だ。
しかし、端的に言って本作の方が「プロメテウス」よりも完成度は高いと思うが、宗教ミステリ好きとしては、破綻が目立つものの前作の凝った筋立ての方が個人的には好みだった。
信心深いオラムが部下に信頼されてないなど、設定はされているものの、あまり生かされていないディテールも多く、物語的にはやや物足りなさを感じる。
新たな創造主との聖約を結んだコヴェナント号の向かう惑星オリエガ6は、カナンの地にはなりそうもないが、本作のラストは直接第一作に繋がるものではない。
まだ企画は流動的な様だが、スコット監督による「Alien:Awakening」あるいは「Alien: Covenant 2」と呼ばれる続編は、すでにシナリオ段階にあるのは間違い無い模様。
楽しみだが、どんな話になるにしろ、全体を通しての整合性をとるのはかなり難しそうだ。
まあ今までの流れからすると、デヴィッドもまた自ら創造したエイリアンに滅ぼされそうな気がするけど。
ちなみにオリエガとは馭者座のことで、こちらにもギリシャ神話のエピソードがいろいろあるので、次回作のヒントになるのかもしれない。
今回は悪夢の始まりを描いた作品ということで、「ナイトメア・オブ・レッド」をチョイス。ドライジン30ml、カンパリ30ml、パイナップル・ジュース30ml、オレンジ・ビター 2dashを氷を入れたグラスに注ぎ、ステアする。
その名の通り、赤みがかった色が美しいカクテル。
フルーツの甘みと苦味が絶妙にバランスし、辛口でアダルトな味わいだ。
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リドリー・スコット監督による、「エイリアン」前日譚。
2012年の「プロメテウス」に続く第二弾は、スコット作品としては38年ぶりに「エイリアン」のタイトルが復活した。
内容的にも、人類はどこから来たのか?という謎解きの要素が強かった前作から、ぐっとホラー色を増して着実に伝説の第一作に接近。
種の起源を巡る宗教性を引き継ぎながら、前作では最後まで出てこなかった、H・R・ギーガーのデザインによる、“エイリアン(ゼモノーフ)”誕生のエピソードが描かれる。
宣伝では前作との繋がりはメンションしてないが、ストーリー的には「プロメテウス」の完全な続編で、観てないと作中あちこち意味不明だと思うので、最低限「プロメテウス」と、できれば第一作を鑑賞しておくのがオススメだ。
※核心部分に触れています。
人類の起源を探るべく、惑星LV-223に向かったプロメテウス号が、消息を絶ってから10年。
移民船コヴェナント号は、地球から冷凍休眠中の2000人の移民と、1400人分の胎芽を乗せて、惑星オリエガ6に向かっていた。
船を管理するアンドロイドのウォルター(マイケル・ファスベンダー)以外は、乗組員も皆冷凍休眠に入っていたが、予期せぬアクシデントに見舞われ、船長のブランソン(ジェームズ・フランコ)は死亡し、副官のオラム(ビリー・クラダップ)が指揮をとることに。
ブランソンの妻で、テラフォーミング技術者のダニエルズ(キサリン・ウォーターストン)ら乗組員は、悲しみを癒す間もなく船の修復に取り掛かる。
ところがパイロットのファリス(ダニー・マクブライド)らが船外作業をしてる時、突然どこからかノイズだらけの通信を受信。
解析の結果、それは航路からほど近い、未知の地球型惑星から発信されていることが判明。
冷凍休眠中の乗客を危険にさらすとダニエルズは反対するが、オラムは惑星の探査をすることを決定する。
やがて、惑星に降り立った一行は、遺棄された巨大な異星人の宇宙船の残骸を発見するのだが・・・
ある意味、リドリー・スコットのSF映画の、集大成とも思える作品である。
「プロメテウス」のレビューの最後で、私は「船が飛び立った先は“パラダイス”か、それとも“エデン”なのだろうか?」と書いた。
前作は人類の種の起源を巡るきわめて宗教色の強いミステリで、30億年前に地球に命の種を蒔いた創造主“エンジニア”の存在を求めて、ショウ博士ら調査チームの乗った探査船プロメテウス号が、古代の星図に描かれた惑星LV−223に向かう。
ところがその星はエンジニアたちの実験場で、彼らは自ら作り出した変異する恐るべきクリーチャーを制御できず、星を放棄していたのだ。
同じクリーチャーに遭遇した調査チームも襲われるが、生き残ったショウ博士とアンドロイドのデヴィッドは、残されていたエンジニアの宇宙船を起動し、彼らの本星を目指して飛び立ったのである。
つまり、次回作の舞台はエンジニア=創造主の星、即ちそれは“パラダイス”か“エデン”だろうと思ったのだ。
まあその予測は半分当たって、半分外れていた。
確かにショウ博士らは創造主の星にたどり着いていたが、その星はLV−223から持ち込まれたクリーチャーの元になる病原体によってあっさりと滅ぼされ、“パラダイス”ならぬ“インフェルノ”へと様変わりしていたのだ。
そしてその星からの通信を運悪くキャッチしてしまったのが、コヴェナント号だったという訳。
シリーズ中、スコットがメガホンを取った作品は、毎回宇宙船の名前が内容とリンクしている。
第一作の「ノストロモ」は、コンラッドの同名小説で、権力に利用され結局は死んでしまう主人公の名だったし、「プロメテウス」は、ゼウスの命に背いてまでも、人類に火(文明)を与えたギリシャ神話の神だ。
今回、2000人を超える移民を乗せて、宇宙を旅する「コヴェナント(COVENANT)」とは、聖なるものとの契約を意味する言葉。
これが、神から聖約として十戒を与えられた、モーゼの率いるユダヤの民の比喩なのは明らかだが、では創造主が滅びた星で、聖約を交わす相手は一体誰なのか?
本作の冒頭、ピーター・ウェイランドによって創られたアンドロイドは、ミケランジェロの彫刻を見て、自分をデヴィッドと名付ける。
デヴィッドとは旧約聖書の登場人物で、ペリシテ軍の巨人ゴリアテを倒し、やがて自分を妬んだ王のサウルに命を狙われるも、彼の死後に全イスラエルの王となったダビデのことである。
ダビデは、悪霊に悩まされるサウルの心を癒すために竪琴を弾くが、本作でもデヴィッドはピーターの前でリヒャルト・ワーグナーの「ラインの黄金」第四場の「ヴァルハラ城への神々の入城」をピアノで弾きこなし、ピエロ・デラ・フランチェスカの「キリストの降誕」を鑑賞する。
ここではサウルとダビテの王権の移行に絡めて、両者の未来の関係を暗示すると共に、創造主たるピーターに対して、「貴方が自らを模して自分を作ったのなら、芸術を理解する心も含めて同じ能力がありますよ」というさりげない、しかし明確なアピール。
しかも有限の命しか持たない人間に対し、アンドロイドは死から解放されている。
やがて人間を自らより劣ったものとして認識したデヴィッドにとって、人類の創造者たるエンジニアもまた、崇敬の対象ではないのである。
コヴェナント号の聖約は、“パラダイス”であったはずの星を、自らが創造主となり完璧な生物を作り上げる新たな実験場“インフェルノ”へと変えた地獄の王、デヴィッドと結ばれるのだ。
他にも、本編終盤に登場する在りし日の乗組員の記念写真が、明らかにダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を意識した構図(本作のプロローグとなる“LAST SUPPER”と題したプロモーション・リールも公開されている)だったり、様々な宗教的な暗喩が含まれているが、脚本家のテイストの違いか、それらは「プロメテウス」ほど思わせぶりではなく、物語の表層に配されていて比較的わかりやすい。
本作は基本的にデヴィッドが人類でもエンジニアでもない、新たな世界の創造主となり、第一作に登場したこの宇宙の絶対生物、“エイリアン”を完成させるまでの物語であり、人間の登場人物は相対的に犠牲者としての役割しか持たされていない。
全編を通して、デヴィッドにとって最大の脅威となるのは彼の改良型、全く同じ姿をしているが、創造の欲求を持たず、人類の従順な同伴者であるコヴェナント号のアンドロイド、ウォルターである。
本来、人間が使役させる目的で作られた両者が対決するという構図は、スコットが作り出したもう一つのSF金字塔「ブレードランナー」における、ブレードランナーと逃亡レプリカントの関係を思わせ、思わずニヤリ(劇中に明示はないが、スコットはハリソン・フォード演じるブレードランナーもまたレプリカントであると語っている)。
「エイリアン:コヴェナント」は、宗教色・哲学色の強い謎解きもの、という色彩が強かった前作よりも、全体的にシンプルで観やすくまとまっていて、シリーズ本来のSFホラーとしてはなかなか面白い。
フェイスハガー状態からの成長速度が少々早過ぎの気はするが、惑星からの脱出船上のバトルシークエンス、コヴェナント号の中での第一作を思わせる捜索シークエンスと、大きく二つあるvsエイリアンの見せ場はスリリングだし、エイリアンもシャワールームでイチャイチャしてるカップルを背後から串刺しとか、唐突にB級感覚あふれる下世話な襲撃まで見せてくれて終盤大活躍だ。
しかし、端的に言って本作の方が「プロメテウス」よりも完成度は高いと思うが、宗教ミステリ好きとしては、破綻が目立つものの前作の凝った筋立ての方が個人的には好みだった。
信心深いオラムが部下に信頼されてないなど、設定はされているものの、あまり生かされていないディテールも多く、物語的にはやや物足りなさを感じる。
新たな創造主との聖約を結んだコヴェナント号の向かう惑星オリエガ6は、カナンの地にはなりそうもないが、本作のラストは直接第一作に繋がるものではない。
まだ企画は流動的な様だが、スコット監督による「Alien:Awakening」あるいは「Alien: Covenant 2」と呼ばれる続編は、すでにシナリオ段階にあるのは間違い無い模様。
楽しみだが、どんな話になるにしろ、全体を通しての整合性をとるのはかなり難しそうだ。
まあ今までの流れからすると、デヴィッドもまた自ら創造したエイリアンに滅ぼされそうな気がするけど。
ちなみにオリエガとは馭者座のことで、こちらにもギリシャ神話のエピソードがいろいろあるので、次回作のヒントになるのかもしれない。
今回は悪夢の始まりを描いた作品ということで、「ナイトメア・オブ・レッド」をチョイス。ドライジン30ml、カンパリ30ml、パイナップル・ジュース30ml、オレンジ・ビター 2dashを氷を入れたグラスに注ぎ、ステアする。
その名の通り、赤みがかった色が美しいカクテル。
フルーツの甘みと苦味が絶妙にバランスし、辛口でアダルトな味わいだ。



2017年09月14日 (木) | 編集 |
“真実”の正体とは。
てっきり原作ものだと思っていたら、オリジナルだとは。
二度目の強盗殺人で逮捕され、すぐに自供するもコロコロと供述を変える容疑者・三隅と、彼に振り回される敏腕弁護士・重森。
最初から死刑確実、「負け」が決まった単純な裁判のはずが、事件の背景を調査するうちに、重森の中で少しずつ有罪の確信が揺らいでゆく。
なぜ三隅は殺したのか?彼は本当に犯人なのか?なぜ供述をかえるのか?
是枝裕和監督の新境地と言って良いだろう。
ここ数年の彼は、主に“家族の在り方”をモチーフとして、「色々問題はあるけど、やっぱり希望はあるよね」的な、影はあるもののポジティブで、良い意味で分かりやすい映画を作ってきた。
ところが本作は、安易な感動要素を排し、表層に隠された人間社会のダークサイドを容赦なく抉ってくる。
しかも物語の輪郭は形を変え続け、124分の間観客の思考を常に揺さぶってくるのだ。
本作も“家族の在り方”は重要な要素になっているのだが、今までの作品からぐるっとカメラ位置を反転させて、裏側から撮ったような味わいが印象的。
文書で魅力を表現するのが非常に難しい作品だが、普通のミステリと思っていると、予想もしない所に着地する問題作だ。
※ここから核心部分に触れています。鑑賞後にお読みください。
役所広司が怪演する三隅は、掴みどころのない謎めいたペルソナを持つ。
言ってることは二転三転して無茶苦茶なのに、その言葉の底には確信的な何かがあると感じさせるのだ。
何よりも勝ちにこだわり、“依頼人の利益”だけを重視している重森は、拘置所の接見室で三隅となんども言葉を交わすうちに、この男の底知れぬ闇に取り込まれ、本来彼にとって興味の無いはずの“真実”を求めざるを得なくなる。
そして、それは私たち観客も期待しているものだ。
だがこれは、作者によるかなり意地悪なミスリードで、普通のミステリでは最重要となる“真実”は、この映画では全く重きを持たない。
映画「ゾウを撫でる」のタイトルにもなった、インドの説話がここでも引用される。
王様が盲人たちにゾウを触らせるが、脚を触った者、鼻を触った者、耳を触った者、それぞれに語るゾウの“真実”は全て異なる。
ならば本作の観客が、最後に目にする象の姿とは何か。
この映画は、最初から事件の“真実”を描こうとはしていない。
三隅は自分のことを「空っぽの器」だと言う。
日本の司法制度は、“真実”が明らかになる場ではなく、誰もが空っぽの三隅の中に、都合のいい人物像をあてはめ、そこに浮かび上がるストーリーに、“真実”と思いたいものを見ているだけ。
判決が出た後、重森が三隅と接見するシーンで、二人を隔てるアクリルガラスに三隅の顔が映り込み、重森の顔と重なる描写がある。
鬼畜に等しい殺人者なのか、人生を狂わされた犠牲者なのか、彼が何者なのかを決めているのも、実は彼自身ではないと言うことを、重森はようやく理解するのである。
事件の被害者の一人娘であり、三隅に対して特別な感情を抱く咲江は、裁判で自ら証言する機会を奪われ、「ここでは誰も本当のことを話さない」とつぶやく。
タイトルの「三度目の殺人」=「死刑」は、最後まで正体が見えない曖昧な意思によって決定され、物語のラストで重盛は、自ら身を置く法曹社会における“真実”の不在を知ってしまう。
そう、“真実”があると思っていた場所に、それは無いということが、本作が突きつける“真実”なのである。
ずっと重森と共に、フィクションとしての事件の“真実”を求めてきた観客は、虚構と現実の垣根を唐突に外され、もはや指針となる“真実”の存在しない世界の四つ筋で、どこにも行くことが出来ずに立ちすくむだけ。
これはいわば、裁判劇に比喩した「内容的にも感情的にも、分りやすいストーリー」を求める観客に対する、映画作家・是枝裕和からの挑戦状。
単純な殺人事件から始まって、人間の心の持つ複雑な闇、日本の社会の歪みや司法制度の問題にまで踏み込む、懐の深い心理ドラマだ。
福山雅治と役所広司、火花を散らしぶつかり合う二人の名優の狭間で、キーパーソンとなる広瀬すずが素晴らしく良い。
ぼーっと観ていれば理解できる類のイージーな作品ではなく、観客に真剣な思索を要求する。
観終わると、誰かと語り合いたくなる映画だ。
今回は、福島県の豊国酒造のその名も「真実 吟醸酒」をチョイス。
実は蔵元の御嬢さんの名前から取られたそうだが、丁寧に作られた日本酒らしい端正な酒。
ふわりとした米の吟醸香と、まろやかな口当たり、スッキリとした喉ごしが楽しめる辛口の一本だ。
記事が気に入ったらクリックしてね
てっきり原作ものだと思っていたら、オリジナルだとは。
二度目の強盗殺人で逮捕され、すぐに自供するもコロコロと供述を変える容疑者・三隅と、彼に振り回される敏腕弁護士・重森。
最初から死刑確実、「負け」が決まった単純な裁判のはずが、事件の背景を調査するうちに、重森の中で少しずつ有罪の確信が揺らいでゆく。
なぜ三隅は殺したのか?彼は本当に犯人なのか?なぜ供述をかえるのか?
是枝裕和監督の新境地と言って良いだろう。
ここ数年の彼は、主に“家族の在り方”をモチーフとして、「色々問題はあるけど、やっぱり希望はあるよね」的な、影はあるもののポジティブで、良い意味で分かりやすい映画を作ってきた。
ところが本作は、安易な感動要素を排し、表層に隠された人間社会のダークサイドを容赦なく抉ってくる。
しかも物語の輪郭は形を変え続け、124分の間観客の思考を常に揺さぶってくるのだ。
本作も“家族の在り方”は重要な要素になっているのだが、今までの作品からぐるっとカメラ位置を反転させて、裏側から撮ったような味わいが印象的。
文書で魅力を表現するのが非常に難しい作品だが、普通のミステリと思っていると、予想もしない所に着地する問題作だ。
※ここから核心部分に触れています。鑑賞後にお読みください。
役所広司が怪演する三隅は、掴みどころのない謎めいたペルソナを持つ。
言ってることは二転三転して無茶苦茶なのに、その言葉の底には確信的な何かがあると感じさせるのだ。
何よりも勝ちにこだわり、“依頼人の利益”だけを重視している重森は、拘置所の接見室で三隅となんども言葉を交わすうちに、この男の底知れぬ闇に取り込まれ、本来彼にとって興味の無いはずの“真実”を求めざるを得なくなる。
そして、それは私たち観客も期待しているものだ。
だがこれは、作者によるかなり意地悪なミスリードで、普通のミステリでは最重要となる“真実”は、この映画では全く重きを持たない。
映画「ゾウを撫でる」のタイトルにもなった、インドの説話がここでも引用される。
王様が盲人たちにゾウを触らせるが、脚を触った者、鼻を触った者、耳を触った者、それぞれに語るゾウの“真実”は全て異なる。
ならば本作の観客が、最後に目にする象の姿とは何か。
この映画は、最初から事件の“真実”を描こうとはしていない。
三隅は自分のことを「空っぽの器」だと言う。
日本の司法制度は、“真実”が明らかになる場ではなく、誰もが空っぽの三隅の中に、都合のいい人物像をあてはめ、そこに浮かび上がるストーリーに、“真実”と思いたいものを見ているだけ。
判決が出た後、重森が三隅と接見するシーンで、二人を隔てるアクリルガラスに三隅の顔が映り込み、重森の顔と重なる描写がある。
鬼畜に等しい殺人者なのか、人生を狂わされた犠牲者なのか、彼が何者なのかを決めているのも、実は彼自身ではないと言うことを、重森はようやく理解するのである。
事件の被害者の一人娘であり、三隅に対して特別な感情を抱く咲江は、裁判で自ら証言する機会を奪われ、「ここでは誰も本当のことを話さない」とつぶやく。
タイトルの「三度目の殺人」=「死刑」は、最後まで正体が見えない曖昧な意思によって決定され、物語のラストで重盛は、自ら身を置く法曹社会における“真実”の不在を知ってしまう。
そう、“真実”があると思っていた場所に、それは無いということが、本作が突きつける“真実”なのである。
ずっと重森と共に、フィクションとしての事件の“真実”を求めてきた観客は、虚構と現実の垣根を唐突に外され、もはや指針となる“真実”の存在しない世界の四つ筋で、どこにも行くことが出来ずに立ちすくむだけ。
これはいわば、裁判劇に比喩した「内容的にも感情的にも、分りやすいストーリー」を求める観客に対する、映画作家・是枝裕和からの挑戦状。
単純な殺人事件から始まって、人間の心の持つ複雑な闇、日本の社会の歪みや司法制度の問題にまで踏み込む、懐の深い心理ドラマだ。
福山雅治と役所広司、火花を散らしぶつかり合う二人の名優の狭間で、キーパーソンとなる広瀬すずが素晴らしく良い。
ぼーっと観ていれば理解できる類のイージーな作品ではなく、観客に真剣な思索を要求する。
観終わると、誰かと語り合いたくなる映画だ。
今回は、福島県の豊国酒造のその名も「真実 吟醸酒」をチョイス。
実は蔵元の御嬢さんの名前から取られたそうだが、丁寧に作られた日本酒らしい端正な酒。
ふわりとした米の吟醸香と、まろやかな口当たり、スッキリとした喉ごしが楽しめる辛口の一本だ。

![]() 豊国酒造 吟醸酒 真実 720ml |


2017年09月12日 (火) | 編集 |
“We shall never surrender.”
鬼才クリストファー・ノーランの最新作は、10本目の監督作品にして自身初となる、実話ベースの異色の戦争ドラマだ。
第二次世界大戦初期、ドイツ軍の怒涛の侵攻により、フランスのダンケルク港に、英仏両軍40万人の将兵が追い詰められる。
総攻撃が迫る中、チャーチルは孤立無援の彼らを救出するために、軍民を総動員した”ダイナモ作戦”を発動。
空前絶後の大撤退作戦には無数の物語があったはずだが、本作では海岸に取り残された若い兵士たち、ダンケルクに向かう一艘の民間プレジャーボート、ドーバー海峡上空でドッグファイトを繰り広げる英軍戦闘機隊、時系列の異なる陸海空三つの視点で、緊迫した物語が展開する。
膨大な情報量に裏打ちされた、106分のドラマは一気呵成。
ダンケルクの戦場に送り込まれた観客は、一人の兵士となって歴史が神話となる瞬間を目撃するのである。
※核心部分に触れています。
1940年5月末。
前年に始まった戦争は、ドイツ軍が破竹の勢いで欧州大陸を席巻。
ベネルクス三国、フランスを電撃戦で瞬く間に撃破し、残存フランス軍と駐留していたイギリス軍は北部ダンケルクに追い詰められる。
彼らを救出するために発動されたダイナモ作戦は、ドイツ軍の妨害を受け、困難を極めていた。
兵士のトミー(フィン・ホワイトヘッド)は、命からがら海岸へたどり着いたものの、そこで見たのは救出を待つ兵士たちの長蛇の列。
海岸で知り合ったギブソン(アナイリン・バーナード)と、沈む船から助けたアレックス(ハリー・スタイルズ)と共に、なんとか迎えの駆逐艦に乗り込むものの、Uボートの魚雷攻撃を受けて沈没し、海岸へと逆戻りしてしまう。
一方、兵士たちを救出するために、自分の所有する小型のプレジャーボート、ムーン・ストーン号でダンケルクへ向かっていたミスター・ドーソン(マーク・ライランス)は、転覆した船の上に兵士(キリアン・マーフィー)を見つけ、救助する。
だが、船がダンケルクへと向かっていることを知った兵士は暴れ出し、乗組員の少年ジョージ(バリー・コーガン)が大怪我を追ってしまう。
空では、ドイツ空軍をダンケルクから追い払おうと、英国空軍のスピットファイア戦闘機隊が奮戦。
メッサーシュミットとの交戦で、隊長機を失ったファリア(トム・ハーディー)とコリンズ(ジャック・ロウデン)は、救助に向かう船団を狙うドイツ軍の爆撃隊を発見するのだが・・・・
非常にノーランらしい作品で、従来の多くの戦争映画とは概念がかなり異なる。
戦争している相手はドイツ軍なのだが、本作の場合誰と戦っているのかは本質ではない。
だから陸上でドイツ兵の姿は全く登場しないし、空中戦でも視点は英軍パイロットに限定され、ドイツ軍パイロットは描写されない。
さらに冒頭の字幕でも、“ドイツ”ではなく単に“Enemy(敵)”と表記される徹底ぶり。
具体的に、ナチス・ドイツという分かりやすい“悪役”を思わせるイメージは、あえて隠されている。
本作における戦争は、抗うことが難しい強大な災厄として描かれるが、重要なのはそれが人間自らの“罪”と“業”が作り出したものだということなのだ。
戦争は人間に内包されていて、その意味において本作は、「ダークナイト」でジョーカーという象徴的絶対悪に対し、市民一人ひとりが信念を持って立ち上がった展開の延長線上にある。
戦争映画における映像革命となった「プライベート・ライアン」以降、戦場をモチーフとした映画は、基本的に戦闘の悲惨さを徹底的に、時には過剰なまでにリアルに描き、人間の愚かしさと残酷さの中に、仄かな希望を描くことがスタンダード。
イーストウッドの「硫黄島」二部作も、記憶に新しいメル・ギブソンの「ハクソー・リッジ」も基本的な考え方は同じだ。
ところが、人間の愚かさは抑えられているものの、本作がフィーチャーするのは、戦闘そのものよりも、戦争の惨禍からの“救出”なのである。
これは戦争映画というよりも、むしろディザスター映画の構造に近い。
違いは自然の振る舞いではなく、人間の行いに対して、人間が責任を負うという点で、ドラマ的に浮かび上がるのは悲劇性よりもある種のロマンチシズムとヒロイズムであり、人間の持つポジティブな面が前面に出ているのが特徴だ。
敵に囲まれた海岸から、英仏34万人の兵士を救出した(最後まで敵軍をくい止めた仏軍の一部は捕虜となった)、不可能と思われた大撤退作戦の経験から、イギリスには「ダンケルク・スピリット」と言う新たな言葉が生まれた。
端的に言えば「大いなる苦難の時、皆が一丸となって団結し、決して諦めない」という不屈の精神を表した言葉だ。
「ダークナイト」三部作や「インターステラー」でも分かるように、基本的にノーランは厳しい現実が人間たちの信念を持った行動によって覆され、語り継がれるべき神話となる瞬間を描きたい人なのだと思う。
こうした過去の作品を見ても、行動原理としてのダンケルク・スピリットは、生粋の英国人であるノーランの思想の根源にある部分だろう。
ゆえに、本作もまたダンケルクの史実を忠実に描いた作品というよりも、史実をモチーフにした寓話であり、現代イギリスの神話と言える。
ノーランは、この新たなる戦争神話を成立させるため、それぞれに象徴的な意味を持ち、異なる時系列で語られる三つの物語を用意する。
「The Mole(防波堤)」のパートは、ダンケルク海岸で救出を待つトミーら陸軍兵士たちの一週間を描く物語だ。
当時ダンケルクの港は既に破壊されていたが、英海軍は残されていた防波堤を使って、兵士を救助船に乗りこませていた。
しかし、爆撃やUボートの雷撃など、敵軍の執拗な攻撃によって、船はしばし撃沈される。
無名の若手俳優たちによって演じられる兵士たちは、自分の意思とは関係なく戦場に送り込まれ、何度も生死の間をさまよい、遂には生き残るために究極の選択を迫られるのである。
このパートのキャラクターは、基本的に救出される者たちで受身の存在だが、行動と結果は因果応報の原則に基づいていて、悪しき行いをした者はその報いを受けなければならない。
「The Sea(海)」のパートで描かれるのは、ダイナモ作戦に呼応して、英国からダンケルクへ向かう民間の小型プレジャーボート、ムーン・ストーン号の一日。
名優マーク・ライランス演じる、船長のミスター・ドーソンは、若者たちを戦場へと送り込んだ大人世代の象徴で、自分たちの世代が起こした戦争の責任を取るために若者たちの救出に赴く。
彼のバックグラウンドは全く描かれないが、背後から来る戦闘機をエンジン音だけで自軍のスピットファイアと聞き分ける描写からも、軍歴があることが匂わされる。
おそらくは第一次世界大戦の従軍経験者で、だからこそ途中で救出するキリアン・マーフィー演じる兵士の癒せない“痛み”も理解している。
ここでは「防波堤」パート以上に、戦争の理不尽さが強調されているが、どのような状況でも個の信念と責任において、なすべきことをなす崇高さはそれ以上に重要なのである。
「The Air(空)」のパートは、ダイナモ作戦を援護すべく出撃した、スピットファイア戦闘機隊のパイロット、ファリアとコリンズの一時間を描く物語。
彼らもミスター・ドーソン一行と同じく救出者であり、救助船を攻撃しようとするドイツ空軍と、ドーバー海峡上空で空中戦を繰り広げる。
戦闘機パイロットたちは、本作の三つの物語の登場人物の中で、最も高いスキルを要求されるプロフェッショナルだが、それは報われない戦でもある。
撃墜され、ムーン・ストーン号に拾われたコリンズが、英国に帰還した時に、陸軍兵に「空軍は何してた!」と罵声を浴びせられる描写があるが、あれは実際にダイナモ作戦に参加した多くのパイロットが経験したことだという。
霧で見通しが悪かったのに加え、ダンケルクに向かう敵を阻止していた戦闘機隊の奮戦は、救出を待つ兵士たちからは遠すぎて見えなかったからだ。
しかしここでも、彼らは自らの使命を遂行することに疑いは持たないのである。
一週間、一日、そして一時間と、異なる時系列で描かれる、救出される者、する者の物語は次第に複雑に絡み合い、様々な寓意を表しながらやがて集束に向かう。
生き残ったトミーは、帰還兵を熱烈に歓迎する母国の人々の反応に驚き、「逃げ帰ってきただけだ」というが、それは彼がダンケルクで起こったことの全貌を知らないからだ。
人々は、総力戦を繰り広げた軍のみならず、危険を顧みずに船を出したミスター・ドーソンのような民間人の活躍を含め、英国社会全体が団結しなし遂げたことの結果と、後にダンケルク・スピリットと呼ばれることになる精神性に熱狂しているのである。
結果的に、ダイナモ作戦が成功したことにより、来るべきドイツ軍のイギリス侵攻への防備を固め、その後の大陸への反転攻勢に必要な訓練された兵士たちを守り抜くことができた。
そして、トム・ハーディ演じるファリアは、正しく歴史を神話化する役回りだ。
帰りの燃料を諦めて戦い続け、最後はプロペラも止まり滑空しながら敵機を撃墜し、そのまま敵の待ち受ける海岸へ着陸するシーンは、それまでのリアリティたっぷりな戦争描写から一転して、まるで白日夢の様なファンタジックなイメージとなっている。
上空を通過するファリアのスピットファイアを、海岸の兵士たちが見送るシーンは、天翔ける英雄が降臨したかの様で、有名なチャーチルの“Never Surrender”演説と共に、本作をイギリスの神話へと昇華する。
「インセプション」の、夢の中の階層での時間スケールの変化を、異なる方向に進化させた作劇の妙、例によってノーCGで実物に拘ったフィルム撮影、徹底的に作りこまれた音響などの技術要素など、細部に至るまでノーラン節が炸裂。
特に今回は音への拘りが強く感じられ、カチカチと鳴り続け、命のタイムリミットを意識させる秒針の音、ハンス・ジマーの不安感を掻き立てるスコアなど、最初から最後まで音が心を削ってゆく。
ドイツ軍の急降下爆撃機、スツーカの“悪魔のサイレン”は今までも数々の映画で描かれてきたが、本作のそれは本当に地獄の底から響き渡るようで、とんでもなく恐ろしかった。
映像の向こう側には、実際に映っている以上の情報が詰め込まれていて、いつも通りの圧倒的な密度なのだが、上映時間が106分と短めなので、ノーラン作品としては意外と疲労度は低い。
なお、本作はIMAXフォーマットを前提としていて、通常上映ではかなりの情報量が抜け落ちるので、可能であればIMAXでの鑑賞がベスト。
追加料金の価値は十分ある。
今回は脱出の成功を祝し、ダンケルクからもそれほど遠くないシャンパーニュ「モエ・エ・シャンドン ブリュット アンペリアル NV」をチョイス。
シャンパーニュを代表する銘柄の、辛口のシャンパン。
シャルドネ、ピノ・ノワール、ピノ・ムニエの三種が紡ぎ出す豊かな果実香と、きめ細かな泡が作り出すしなやかな口当たりを楽しめる。
非常にバランスが良く、料理、シチュエーションを選ばないオールマイティーな一本。
ダンケルク・スピリットに乾杯!
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鬼才クリストファー・ノーランの最新作は、10本目の監督作品にして自身初となる、実話ベースの異色の戦争ドラマだ。
第二次世界大戦初期、ドイツ軍の怒涛の侵攻により、フランスのダンケルク港に、英仏両軍40万人の将兵が追い詰められる。
総攻撃が迫る中、チャーチルは孤立無援の彼らを救出するために、軍民を総動員した”ダイナモ作戦”を発動。
空前絶後の大撤退作戦には無数の物語があったはずだが、本作では海岸に取り残された若い兵士たち、ダンケルクに向かう一艘の民間プレジャーボート、ドーバー海峡上空でドッグファイトを繰り広げる英軍戦闘機隊、時系列の異なる陸海空三つの視点で、緊迫した物語が展開する。
膨大な情報量に裏打ちされた、106分のドラマは一気呵成。
ダンケルクの戦場に送り込まれた観客は、一人の兵士となって歴史が神話となる瞬間を目撃するのである。
※核心部分に触れています。
1940年5月末。
前年に始まった戦争は、ドイツ軍が破竹の勢いで欧州大陸を席巻。
ベネルクス三国、フランスを電撃戦で瞬く間に撃破し、残存フランス軍と駐留していたイギリス軍は北部ダンケルクに追い詰められる。
彼らを救出するために発動されたダイナモ作戦は、ドイツ軍の妨害を受け、困難を極めていた。
兵士のトミー(フィン・ホワイトヘッド)は、命からがら海岸へたどり着いたものの、そこで見たのは救出を待つ兵士たちの長蛇の列。
海岸で知り合ったギブソン(アナイリン・バーナード)と、沈む船から助けたアレックス(ハリー・スタイルズ)と共に、なんとか迎えの駆逐艦に乗り込むものの、Uボートの魚雷攻撃を受けて沈没し、海岸へと逆戻りしてしまう。
一方、兵士たちを救出するために、自分の所有する小型のプレジャーボート、ムーン・ストーン号でダンケルクへ向かっていたミスター・ドーソン(マーク・ライランス)は、転覆した船の上に兵士(キリアン・マーフィー)を見つけ、救助する。
だが、船がダンケルクへと向かっていることを知った兵士は暴れ出し、乗組員の少年ジョージ(バリー・コーガン)が大怪我を追ってしまう。
空では、ドイツ空軍をダンケルクから追い払おうと、英国空軍のスピットファイア戦闘機隊が奮戦。
メッサーシュミットとの交戦で、隊長機を失ったファリア(トム・ハーディー)とコリンズ(ジャック・ロウデン)は、救助に向かう船団を狙うドイツ軍の爆撃隊を発見するのだが・・・・
非常にノーランらしい作品で、従来の多くの戦争映画とは概念がかなり異なる。
戦争している相手はドイツ軍なのだが、本作の場合誰と戦っているのかは本質ではない。
だから陸上でドイツ兵の姿は全く登場しないし、空中戦でも視点は英軍パイロットに限定され、ドイツ軍パイロットは描写されない。
さらに冒頭の字幕でも、“ドイツ”ではなく単に“Enemy(敵)”と表記される徹底ぶり。
具体的に、ナチス・ドイツという分かりやすい“悪役”を思わせるイメージは、あえて隠されている。
本作における戦争は、抗うことが難しい強大な災厄として描かれるが、重要なのはそれが人間自らの“罪”と“業”が作り出したものだということなのだ。
戦争は人間に内包されていて、その意味において本作は、「ダークナイト」でジョーカーという象徴的絶対悪に対し、市民一人ひとりが信念を持って立ち上がった展開の延長線上にある。
戦争映画における映像革命となった「プライベート・ライアン」以降、戦場をモチーフとした映画は、基本的に戦闘の悲惨さを徹底的に、時には過剰なまでにリアルに描き、人間の愚かしさと残酷さの中に、仄かな希望を描くことがスタンダード。
イーストウッドの「硫黄島」二部作も、記憶に新しいメル・ギブソンの「ハクソー・リッジ」も基本的な考え方は同じだ。
ところが、人間の愚かさは抑えられているものの、本作がフィーチャーするのは、戦闘そのものよりも、戦争の惨禍からの“救出”なのである。
これは戦争映画というよりも、むしろディザスター映画の構造に近い。
違いは自然の振る舞いではなく、人間の行いに対して、人間が責任を負うという点で、ドラマ的に浮かび上がるのは悲劇性よりもある種のロマンチシズムとヒロイズムであり、人間の持つポジティブな面が前面に出ているのが特徴だ。
敵に囲まれた海岸から、英仏34万人の兵士を救出した(最後まで敵軍をくい止めた仏軍の一部は捕虜となった)、不可能と思われた大撤退作戦の経験から、イギリスには「ダンケルク・スピリット」と言う新たな言葉が生まれた。
端的に言えば「大いなる苦難の時、皆が一丸となって団結し、決して諦めない」という不屈の精神を表した言葉だ。
「ダークナイト」三部作や「インターステラー」でも分かるように、基本的にノーランは厳しい現実が人間たちの信念を持った行動によって覆され、語り継がれるべき神話となる瞬間を描きたい人なのだと思う。
こうした過去の作品を見ても、行動原理としてのダンケルク・スピリットは、生粋の英国人であるノーランの思想の根源にある部分だろう。
ゆえに、本作もまたダンケルクの史実を忠実に描いた作品というよりも、史実をモチーフにした寓話であり、現代イギリスの神話と言える。
ノーランは、この新たなる戦争神話を成立させるため、それぞれに象徴的な意味を持ち、異なる時系列で語られる三つの物語を用意する。
「The Mole(防波堤)」のパートは、ダンケルク海岸で救出を待つトミーら陸軍兵士たちの一週間を描く物語だ。
当時ダンケルクの港は既に破壊されていたが、英海軍は残されていた防波堤を使って、兵士を救助船に乗りこませていた。
しかし、爆撃やUボートの雷撃など、敵軍の執拗な攻撃によって、船はしばし撃沈される。
無名の若手俳優たちによって演じられる兵士たちは、自分の意思とは関係なく戦場に送り込まれ、何度も生死の間をさまよい、遂には生き残るために究極の選択を迫られるのである。
このパートのキャラクターは、基本的に救出される者たちで受身の存在だが、行動と結果は因果応報の原則に基づいていて、悪しき行いをした者はその報いを受けなければならない。
「The Sea(海)」のパートで描かれるのは、ダイナモ作戦に呼応して、英国からダンケルクへ向かう民間の小型プレジャーボート、ムーン・ストーン号の一日。
名優マーク・ライランス演じる、船長のミスター・ドーソンは、若者たちを戦場へと送り込んだ大人世代の象徴で、自分たちの世代が起こした戦争の責任を取るために若者たちの救出に赴く。
彼のバックグラウンドは全く描かれないが、背後から来る戦闘機をエンジン音だけで自軍のスピットファイアと聞き分ける描写からも、軍歴があることが匂わされる。
おそらくは第一次世界大戦の従軍経験者で、だからこそ途中で救出するキリアン・マーフィー演じる兵士の癒せない“痛み”も理解している。
ここでは「防波堤」パート以上に、戦争の理不尽さが強調されているが、どのような状況でも個の信念と責任において、なすべきことをなす崇高さはそれ以上に重要なのである。
「The Air(空)」のパートは、ダイナモ作戦を援護すべく出撃した、スピットファイア戦闘機隊のパイロット、ファリアとコリンズの一時間を描く物語。
彼らもミスター・ドーソン一行と同じく救出者であり、救助船を攻撃しようとするドイツ空軍と、ドーバー海峡上空で空中戦を繰り広げる。
戦闘機パイロットたちは、本作の三つの物語の登場人物の中で、最も高いスキルを要求されるプロフェッショナルだが、それは報われない戦でもある。
撃墜され、ムーン・ストーン号に拾われたコリンズが、英国に帰還した時に、陸軍兵に「空軍は何してた!」と罵声を浴びせられる描写があるが、あれは実際にダイナモ作戦に参加した多くのパイロットが経験したことだという。
霧で見通しが悪かったのに加え、ダンケルクに向かう敵を阻止していた戦闘機隊の奮戦は、救出を待つ兵士たちからは遠すぎて見えなかったからだ。
しかしここでも、彼らは自らの使命を遂行することに疑いは持たないのである。
一週間、一日、そして一時間と、異なる時系列で描かれる、救出される者、する者の物語は次第に複雑に絡み合い、様々な寓意を表しながらやがて集束に向かう。
生き残ったトミーは、帰還兵を熱烈に歓迎する母国の人々の反応に驚き、「逃げ帰ってきただけだ」というが、それは彼がダンケルクで起こったことの全貌を知らないからだ。
人々は、総力戦を繰り広げた軍のみならず、危険を顧みずに船を出したミスター・ドーソンのような民間人の活躍を含め、英国社会全体が団結しなし遂げたことの結果と、後にダンケルク・スピリットと呼ばれることになる精神性に熱狂しているのである。
結果的に、ダイナモ作戦が成功したことにより、来るべきドイツ軍のイギリス侵攻への防備を固め、その後の大陸への反転攻勢に必要な訓練された兵士たちを守り抜くことができた。
そして、トム・ハーディ演じるファリアは、正しく歴史を神話化する役回りだ。
帰りの燃料を諦めて戦い続け、最後はプロペラも止まり滑空しながら敵機を撃墜し、そのまま敵の待ち受ける海岸へ着陸するシーンは、それまでのリアリティたっぷりな戦争描写から一転して、まるで白日夢の様なファンタジックなイメージとなっている。
上空を通過するファリアのスピットファイアを、海岸の兵士たちが見送るシーンは、天翔ける英雄が降臨したかの様で、有名なチャーチルの“Never Surrender”演説と共に、本作をイギリスの神話へと昇華する。
「インセプション」の、夢の中の階層での時間スケールの変化を、異なる方向に進化させた作劇の妙、例によってノーCGで実物に拘ったフィルム撮影、徹底的に作りこまれた音響などの技術要素など、細部に至るまでノーラン節が炸裂。
特に今回は音への拘りが強く感じられ、カチカチと鳴り続け、命のタイムリミットを意識させる秒針の音、ハンス・ジマーの不安感を掻き立てるスコアなど、最初から最後まで音が心を削ってゆく。
ドイツ軍の急降下爆撃機、スツーカの“悪魔のサイレン”は今までも数々の映画で描かれてきたが、本作のそれは本当に地獄の底から響き渡るようで、とんでもなく恐ろしかった。
映像の向こう側には、実際に映っている以上の情報が詰め込まれていて、いつも通りの圧倒的な密度なのだが、上映時間が106分と短めなので、ノーラン作品としては意外と疲労度は低い。
なお、本作はIMAXフォーマットを前提としていて、通常上映ではかなりの情報量が抜け落ちるので、可能であればIMAXでの鑑賞がベスト。
追加料金の価値は十分ある。
今回は脱出の成功を祝し、ダンケルクからもそれほど遠くないシャンパーニュ「モエ・エ・シャンドン ブリュット アンペリアル NV」をチョイス。
シャンパーニュを代表する銘柄の、辛口のシャンパン。
シャルドネ、ピノ・ノワール、ピノ・ムニエの三種が紡ぎ出す豊かな果実香と、きめ細かな泡が作り出すしなやかな口当たりを楽しめる。
非常にバランスが良く、料理、シチュエーションを選ばないオールマイティーな一本。
ダンケルク・スピリットに乾杯!

![]() モエ エ シャンドン ブリュット アンペリアル NV 750ml(泡・白) 正規品(箱なし)(モエ・エ・シャンドン Moet et Chandon シャンパン)[Y][J][H] |


2017年09月07日 (木) | 編集 |
彼女の本当の姿とは。
予告編から期待したものを、良い意味で裏切られる。
覆面男に襲われたた主人公が、犯人を探し出そうとするうちに、周りの男たちが怪しく思えて疑心暗鬼になり、徐々に精神崩壊してサイコ化するのかと思っていた。
しかし、そっち系の分かりやすいサスペンス方向には行かないのである。
イザベル・ユペール演じるミシェルは、一見すると知的でエレガントな女性なのだけど、実は最初からかなり変な人なのだ。
冒頭で、家に押し入った覆面男にレイプされるのだが、泣き叫ぶでもなく、通報するでもなく、男が去ると何もなかったかの様に淡々と家の片づけを始め、寿司の出前をオーダーして美味しくいただいたりする。
後日、別れた夫や友人たちと会食すると、あっけらかんと「実は私、レイプされちゃった・・・」と告白し、警察に訴える気は無いと告げる。
おまけに親友で仕事のパートナーでもある女性の夫とは、不倫関係にある。
明らかに普通でない、一体彼女は何者で何を考えているのだろう?と思わされる秀逸な序盤の展開だ。
人間を斜めから切る異才、ポール・ヴァーホーベンが、ミシェルの心の奥底に隠された闇の記憶を発掘する。
現在の彼女の中に徐々に見えてくるのが、39年前に父親が起こした凄惨な事件の記憶だ。
彼は突如として隣近所の住民を手当り次第に虐殺し、終身刑が確定して以来ずっと服役中なのだが、最近仮出所の申請を出していることが報じられている。
事件当時10歳だったミシェルも、殺人への関与を疑われて、辛い子供時代を過ごしているのである。
父親を憎み続けている彼女が、この事件に呪縛され、精神形成に大きな影響を受けているのは明らかだ。
彼女の仕事が、モンスターに女性が陵辱されるエロゲーの制作会社の経営だったりするのをはじめ、心の中のちょっとしたズレや歪みを示唆する様々な暗喩が、全編に渡って仕込まれている。
まあちょっとおかしいのはミシェルだけじゃなくて、彼女を暴行した意外な真犯人を含めて、何人かの主要な登場人物もどこか頭のネジが飛んじゃってるのだけど。
ミシェルは現在の暴行犯を追ううちに、図らずも自分でも意識していない、常識や道徳とは相反する本当の心に向かい合うことになるのだが、それは同時に今の自分を作り出した元凶とも言える父親への感情にも変化をもたらす。
端的に言えば、これは39年間屈折して生きてきた女性が、男たちに復讐しながら自然な生き方を取り戻す物語だ。
バーホーヴェンのインタビューを読んだのか講演で聞いたのか、昔のことなので記憶が定かでないが、彼は第二次世界大戦中、ドイツ占領下のハーグで過ごした幼少期に、残酷な死をたくさん見たと言う。
敵であるドイツ軍に殺される者も、味方であるはずの連合軍の爆撃で死ぬ者もいて、街じゅうに死体が転がり、さっき見かけた近所の人が次の瞬間にはこの世からいなくなっている世界。
そんな現実を幼い頃に知ってしまい、自分の中の何かがずっと壊れたまま大人になったと語っていた。
この映画を観て、ミシェルの個人史と精神状態の演出には、バーホーヴェン自身の経験が反映されているのではと思った。
イザベル・ユペールの、つかみ所のない多面性の演技が圧巻。
見応えのある心理ドラマである。
今回はイザベル・ユペールのキャラクターのイメージで、魔酒アブサンを使ったカクテル、「イエロー・パイロット」をチョイス。
アプリコット・ブランデー20ml、アブサン20ml、シャルトリューズ・ジョーヌ20mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
名前の通り鮮やかな黄色のカクテル。
シャルトリューズ・ジョーヌは、フランスの代表的な修道院系薬草リキュールで、源流は17世紀に遡るといわれる。
材料三酒が皆香り高く、非常に複雑なアロマを楽しめる。
この映画同様、独特な香りがクセになる人がいる反面、拒絶反応を示す人も多そう。
記事が気に入ったらクリックしてね
予告編から期待したものを、良い意味で裏切られる。
覆面男に襲われたた主人公が、犯人を探し出そうとするうちに、周りの男たちが怪しく思えて疑心暗鬼になり、徐々に精神崩壊してサイコ化するのかと思っていた。
しかし、そっち系の分かりやすいサスペンス方向には行かないのである。
イザベル・ユペール演じるミシェルは、一見すると知的でエレガントな女性なのだけど、実は最初からかなり変な人なのだ。
冒頭で、家に押し入った覆面男にレイプされるのだが、泣き叫ぶでもなく、通報するでもなく、男が去ると何もなかったかの様に淡々と家の片づけを始め、寿司の出前をオーダーして美味しくいただいたりする。
後日、別れた夫や友人たちと会食すると、あっけらかんと「実は私、レイプされちゃった・・・」と告白し、警察に訴える気は無いと告げる。
おまけに親友で仕事のパートナーでもある女性の夫とは、不倫関係にある。
明らかに普通でない、一体彼女は何者で何を考えているのだろう?と思わされる秀逸な序盤の展開だ。
人間を斜めから切る異才、ポール・ヴァーホーベンが、ミシェルの心の奥底に隠された闇の記憶を発掘する。
現在の彼女の中に徐々に見えてくるのが、39年前に父親が起こした凄惨な事件の記憶だ。
彼は突如として隣近所の住民を手当り次第に虐殺し、終身刑が確定して以来ずっと服役中なのだが、最近仮出所の申請を出していることが報じられている。
事件当時10歳だったミシェルも、殺人への関与を疑われて、辛い子供時代を過ごしているのである。
父親を憎み続けている彼女が、この事件に呪縛され、精神形成に大きな影響を受けているのは明らかだ。
彼女の仕事が、モンスターに女性が陵辱されるエロゲーの制作会社の経営だったりするのをはじめ、心の中のちょっとしたズレや歪みを示唆する様々な暗喩が、全編に渡って仕込まれている。
まあちょっとおかしいのはミシェルだけじゃなくて、彼女を暴行した意外な真犯人を含めて、何人かの主要な登場人物もどこか頭のネジが飛んじゃってるのだけど。
ミシェルは現在の暴行犯を追ううちに、図らずも自分でも意識していない、常識や道徳とは相反する本当の心に向かい合うことになるのだが、それは同時に今の自分を作り出した元凶とも言える父親への感情にも変化をもたらす。
端的に言えば、これは39年間屈折して生きてきた女性が、男たちに復讐しながら自然な生き方を取り戻す物語だ。
バーホーヴェンのインタビューを読んだのか講演で聞いたのか、昔のことなので記憶が定かでないが、彼は第二次世界大戦中、ドイツ占領下のハーグで過ごした幼少期に、残酷な死をたくさん見たと言う。
敵であるドイツ軍に殺される者も、味方であるはずの連合軍の爆撃で死ぬ者もいて、街じゅうに死体が転がり、さっき見かけた近所の人が次の瞬間にはこの世からいなくなっている世界。
そんな現実を幼い頃に知ってしまい、自分の中の何かがずっと壊れたまま大人になったと語っていた。
この映画を観て、ミシェルの個人史と精神状態の演出には、バーホーヴェン自身の経験が反映されているのではと思った。
イザベル・ユペールの、つかみ所のない多面性の演技が圧巻。
見応えのある心理ドラマである。
今回はイザベル・ユペールのキャラクターのイメージで、魔酒アブサンを使ったカクテル、「イエロー・パイロット」をチョイス。
アプリコット・ブランデー20ml、アブサン20ml、シャルトリューズ・ジョーヌ20mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
名前の通り鮮やかな黄色のカクテル。
シャルトリューズ・ジョーヌは、フランスの代表的な修道院系薬草リキュールで、源流は17世紀に遡るといわれる。
材料三酒が皆香り高く、非常に複雑なアロマを楽しめる。
この映画同様、独特な香りがクセになる人がいる反面、拒絶反応を示す人も多そう。



2017年09月02日 (土) | 編集 |
絶対に、守り抜く。
ゾンビ映画の歴史を塗り替える大傑作だ。
韓国全土を襲う感染爆発の中、ザック・スナイダー系の走るゾンビを乗せた、ソウル発プサン行きの高速列車・KTXが突っ走る。
細長い列車の構造を最大限生かしたサスペンスは、文句なしにスリリング。
しかし本作を特別な作品足らしめているのは、ヨン・サンホ監督の過去の作品と同様、圧倒的な密度を持つ人間ドラマだ。
極限状態でカリカチュアされた登場人物たちは、人間の心の様々な面を剥き出しにする。
冷徹な父・ソグと心優しい娘・スアンの二人を軸に、社会の様々な階層の人びとの織りなす生死をかけた悲喜こもごものドラマは、一瞬たりとも目が離せない。
ダジャレ系邦題に躊躇している人は、騙されたと思って是非観に行ってほしい!
※ラストに触れています。
ソウルでファンド・マネージャーとして働くソグ(コン・ユ)は、娘のスアン(キム・スアン)の誕生日に、彼女をプサンに住む別居中の妻の元にを送り届けるため、早朝ソウル駅からKTXに乗車する。
直前に駅周囲では何か騒ぎが起こっていたが、先を急ぐソグは気に留めなかった。
列車には、身重のソギョン(チョン・ユミ)とその夫サンファ(マ・ドンソク)、試合に向かう高校球児のヨングク(チェ・ウシク)と彼女のジニ(アン・ソヒ)、バス会社の重役ヨンソク(キム・ウィソン)など多くの人が乗っていた。
ところが、出発直前に謎のウィルスに感染した女性が乗り込み、乗務員に襲いかかると、襲われた者も次々と発症し、車内はパニックに陥る。
実はこの時、韓国全土で人間をゾンビ化させる謎のウィルスによる、パンデミックが起こっていたのだ。
どこにも逃げ場のない、300キロで走る列車の中、人々は生き残るために戦い始めるのだが・・・
たぶん、それなりに映画に詳しい人でも、「ヨン・サンホって誰?」というくらいの認知度だろう。
この人は元々アニメーション畑の人で、しかも人間の心の奥底にあるダークな部分を好んで描く異色の映画作家なのである。
本国でも知る人ぞ知るという存在だし、日本では「花開くコリア・アニメーション」など、一部の映画祭でしか紹介されたことがない。
韓国の長編アニメーションとして、初めてカンヌ映画祭のオフィシャルセレクションとなった、長編デビュー作「豚の王」では、絶対的な学園ヒエラルキーに支配され、忠実な犬たちと太らされる豚どもに分けられた子供たちを描いた。
彼らは「世界」の縮図であり、世界の理を知ってしまった人間たちは、自分の心に巣食う怪物から永遠に逃れる事が出来ない。
続く「我は神なり」で描いたのは、ダムに沈む村を舞台に、住人の心を弄ぶ悪徳牧師と、一人真実に気づいた嫌われ者の粗野な男の闘い。
人間がいかに簡単に惑わされて、レッテルを信じ込んでしまうのか、信仰をモチーフにした物語は、予定調和を全て拒絶して、この世界の現実を突きつける。
私は人間の顔をここまでリアルに、しかも醜く描く作家を他に知らない。
アニメーションによるカリカチュア表現が、人間の最もえぐい闇の部分をくっきりと浮き彫りにさせるのである。
人間の負の面を描く、異端のアニメーション作家という立ち位置だったヨン・サンホが、実写のゾンビ映画を監督することになるには、以下のような流れがあったようだ。
まず彼の長編第三作として、2014年にアニメーション映画「ソウル・ステーション/パンデミック」が作られる。
この作品の完成を受けて、その娯楽映画としてのポテンシャルに着目したプロデュースチームが、実写で続編を作ることを決定。
「ソウル・ステーション/パンデミック」を寝かせたまま本作の制作を進め、2016年の夏に動員数1150万人という爆発的な大ヒットを記録し、その一ヶ月後に先に完成していた前日譚「ソウル・ステーション/パンデミック」を公開した。
大人向けアニメーション市場が極めて小さい韓国では、「ソウル・ステーション/パンデミック」単体では大ヒットは望めない。
ならば、リスクをおかしても実写作品を先行させ、相乗効果で一気に2本分の回収を狙うという考え方だろうが、完成した作品を2年も公開延期しておけるというのが凄い。
製作委員会方式の日本では、投資家の余程の理解が得られないと難しい戦略だ。
実写になったことで、表現としてはむしろマイルドになったが、その人間ドラマのディープさはまさにヨン・サンホ。
ドラマの中心となるソグのキャラクターが、最初は非共感キャラクターなのが上手い。
ファンドマネージャーをしている彼は、基本的に世界を自己中心的に見ていて、自分さえ助かれば他はどうなっても良いと思っている。
だから他の乗客が避難し終わる前にドアを閉めようとするし、軍隊が列車を隔離しようとしているという情報を得ると、顧客の軍人に手を回して自分と娘だけ例外にしてもらおうとする。
対照的なのが、そんな父を見て育った娘のスアン。
心優しい彼女は、父の行動に逐一素朴な疑問を呈することで、ソグに自分がやっていることが人間としていかに間違ったているかを悟らせ、罪悪感を感じさせる。
やがてゾンビパニックの中、ソグのキャラクターはいけ好かないエリート金融マンから、自分の命を顧みず、必死に娘を守ろうとする勇気ある父親像に徐々に変わってゆき、観客もいつしか彼にどっぷりと感情移入。
物語の中で、図らずもソグと共闘することになる、屈強なマッチョマンのサンファ、高校球児のヨングクにも、絶対に守りたい人がいる。
連結部で各車両が仕切られた、細長い列車の構造を生かし、物語の中盤で三人の男たちと女性たちを、列車内で離れ離れにしたことで、親子、夫婦、恋人同士、極限状態で互いを思いやるそれぞれの愛が、物語を推進する強力なエナジーとなった。
境遇の異なる人々が密室の列車に乗り合わせ、ソンビ襲来という未曾有の危機に立ち向かう筋立ては、グランドホテル方式のお手本のような仕上がりで、いわば陸上版の「タイタニック」の趣だ。
本作はゾンビ映画の範疇に入るが、人体破壊などのいわゆるスプラッタ描写は抑えられ、観客にそれほどハードなホラー耐性を求めない。
アメリカでも日本でも、観客を選ぶマニアなカテゴリと言う認識のゾンビ映画が、韓国で国民の1/4を動員するパワフルな興行となったのは、この作品がゾンビ映画である以上に、優れたファミリー映画として受け入れられたからだろう。
実際本作を家族や恋人同士で観たら、横にいる人が愛おしくてたまらなくなると思う。
もちろん、過去のアニメーション作品と共通するヨン・サンホならではの暗喩性、風刺性もしっかりと感じられる。
TVドラマの「ウォーキング・デッド」シリーズや、日本の「アイアムアヒーロー」もそうだったが、このカテゴリの中には物語が展開するうちに、「ゾンビも恐いけど、結局人間にとって一番の脅威は人間だよね」という方向に行く作品があるが、本作もその一つにして最も良く出来た一本だ。
人間の愛を前面に出しながら、いわば改心しないバージョンのソグ、事件を通してどんどんエゴの塊化してしまう、ある人物の徹底的なクズっぷりは素晴らしい。
社会的には立派な地位にあるこの人物と、対になるようにホームレスのキャラクターが出てくるのだが、この二人は「我は神なり」の牧師と主人公と同じように、人の見かけと本性の善悪のギャップを端的に表すキャラクター。
人間がゾンビ化するということも、本作においては本性を隠す仮面を取り払うという暗喩であるかもしれない。
また物語の行き先が、なぜプサンなのかも、おそらく韓国ならではの意味がある。
ソウルから始まり瞬く間に韓国全土に広まる感染爆発、しかしプサンは初期防衛に成功した安全地帯とされるが、これは朝鮮戦争初期の構図そのものだ。
1950年6月25日、突如南侵を開始した北朝鮮軍によって、戦争に備えていなかった韓国軍は総崩れとなり、ほぼ全土で敗走。
半島の南東に追い詰められた韓国軍と国連軍が、遂に北朝鮮の侵攻を止め、その後の反撃の契機となったのが"釜山橋頭堡の戦い"だ。
つまりプサンという地は、滅亡の危機の時に、韓国にとって文字通りに最後の砦となった忘れえぬ街なのである。
もちろん戦争から60年以上たって作られた本作は、北朝鮮の脅威をそのまま比喩しているという訳ではないと思う。
韓国人自らが危機の原因を作り出し、家族や友達だった者に喰われるゾンビパニックは、朝鮮戦争の恐怖の記憶を韓国社会の原点として深層に配し、理念対立による深刻な社会分断や、人間の本質を見ない格差社会の風刺として見るべきであろう。
しかし、この映画を観て改めて驚かされたのは、列車の中をゾンビが走り回り、乗務員や乗客が喰われるという話でありながら、正式にKORAIL(韓国鉄道公社)の協力を取り付けていること。
日本では国鉄時代の「新幹線大爆破」も、近年の「藁の盾」もJRの協力が得られず、ミニチュア撮影や台湾ロケを余儀なくされていることを考えると、映画撮影に対するパブリックの柔軟性は韓国の方がはるかに上の様だ。
「アイアムアヒーロー」も韓国で撮影されていたし、やはり韓国は日本映画にとっても重要なリソースになってゆくだろう。
物議を醸した「新感染 ファイナル・エクスプレス」という邦題は、個人的には嫌いじゃないが、本作の持つ重厚なドラマ性を考えると、やはり内容を的確に表してるとは言い難い。
おそらくこの邦題で、大味かつおバカな大作をイメージしてしまっている人も多いと思うが、本作は誰もが予想し得ない終末の世界で、人間の中にある究極の悪と、究極の善の戦いを描いたエポックメイキングな傑作である。
運命の旅の終わりで、生と死を別つトンネルに、スアンが父のために練習した「アロハ・オエ」の歌声が静かに響く。
これは、ハワイ王国最後の女王リリウオカラニが作詞したと伝えられる、愛する人との別れの場面を描いた歌。
希望と絶望が混じり合い、切ない想いが伝わる、映画史に残るであろう素晴らしいラストだった。
こんなにも恐ろしくて悲しく、美しい映画はめったに無い。
現時点での、私的ムービー・オブ・ザ・イヤーだ。
ゾンビ映画には、そのまんま「ゾンビ」をチョイス。
ホワイトラム30ml、ゴールドラム30ml、ダークラム30ml、アプリコットブランデー15ml、オレンジジュース 20ml、パイナップルジュース 20ml、レモンジュース 10ml、グレナデンシロップ 10mlをシェイクして、このカクテルが名前の元になった氷を入れたゾンビグラスに注ぐ。
複数のラムを使っているのは、あえて酔いを深めるため。
オリジナルレシピではさらに多く、5種類ものラムを混ぜていたという危険なカクテルだ。
口当たりはフルーティーでフレッシュだが、飲んでいるうちにいつの間にか酩酊し、ゾンビと化してしまう。
ところで、本作の公開後には前日譚の「ソウル・ステーション/パンデミック」と旧作の「我は神なり」の正式公開が決まっているが、残念ながら長編デビュー作の「豚の王」は抜け落ちたままだ。
恐ろしく陰鬱な作品だが、ヨン・サンホという作家を理解する上で、「豚の王」は欠かせないので、ぜひこちらも正式公開を望みたい。
できれば短編作品も含んだ特集上映など、どこかやらないかね。
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ゾンビ映画の歴史を塗り替える大傑作だ。
韓国全土を襲う感染爆発の中、ザック・スナイダー系の走るゾンビを乗せた、ソウル発プサン行きの高速列車・KTXが突っ走る。
細長い列車の構造を最大限生かしたサスペンスは、文句なしにスリリング。
しかし本作を特別な作品足らしめているのは、ヨン・サンホ監督の過去の作品と同様、圧倒的な密度を持つ人間ドラマだ。
極限状態でカリカチュアされた登場人物たちは、人間の心の様々な面を剥き出しにする。
冷徹な父・ソグと心優しい娘・スアンの二人を軸に、社会の様々な階層の人びとの織りなす生死をかけた悲喜こもごものドラマは、一瞬たりとも目が離せない。
ダジャレ系邦題に躊躇している人は、騙されたと思って是非観に行ってほしい!
※ラストに触れています。
ソウルでファンド・マネージャーとして働くソグ(コン・ユ)は、娘のスアン(キム・スアン)の誕生日に、彼女をプサンに住む別居中の妻の元にを送り届けるため、早朝ソウル駅からKTXに乗車する。
直前に駅周囲では何か騒ぎが起こっていたが、先を急ぐソグは気に留めなかった。
列車には、身重のソギョン(チョン・ユミ)とその夫サンファ(マ・ドンソク)、試合に向かう高校球児のヨングク(チェ・ウシク)と彼女のジニ(アン・ソヒ)、バス会社の重役ヨンソク(キム・ウィソン)など多くの人が乗っていた。
ところが、出発直前に謎のウィルスに感染した女性が乗り込み、乗務員に襲いかかると、襲われた者も次々と発症し、車内はパニックに陥る。
実はこの時、韓国全土で人間をゾンビ化させる謎のウィルスによる、パンデミックが起こっていたのだ。
どこにも逃げ場のない、300キロで走る列車の中、人々は生き残るために戦い始めるのだが・・・
たぶん、それなりに映画に詳しい人でも、「ヨン・サンホって誰?」というくらいの認知度だろう。
この人は元々アニメーション畑の人で、しかも人間の心の奥底にあるダークな部分を好んで描く異色の映画作家なのである。
本国でも知る人ぞ知るという存在だし、日本では「花開くコリア・アニメーション」など、一部の映画祭でしか紹介されたことがない。
韓国の長編アニメーションとして、初めてカンヌ映画祭のオフィシャルセレクションとなった、長編デビュー作「豚の王」では、絶対的な学園ヒエラルキーに支配され、忠実な犬たちと太らされる豚どもに分けられた子供たちを描いた。
彼らは「世界」の縮図であり、世界の理を知ってしまった人間たちは、自分の心に巣食う怪物から永遠に逃れる事が出来ない。
続く「我は神なり」で描いたのは、ダムに沈む村を舞台に、住人の心を弄ぶ悪徳牧師と、一人真実に気づいた嫌われ者の粗野な男の闘い。
人間がいかに簡単に惑わされて、レッテルを信じ込んでしまうのか、信仰をモチーフにした物語は、予定調和を全て拒絶して、この世界の現実を突きつける。
私は人間の顔をここまでリアルに、しかも醜く描く作家を他に知らない。
アニメーションによるカリカチュア表現が、人間の最もえぐい闇の部分をくっきりと浮き彫りにさせるのである。
人間の負の面を描く、異端のアニメーション作家という立ち位置だったヨン・サンホが、実写のゾンビ映画を監督することになるには、以下のような流れがあったようだ。
まず彼の長編第三作として、2014年にアニメーション映画「ソウル・ステーション/パンデミック」が作られる。
この作品の完成を受けて、その娯楽映画としてのポテンシャルに着目したプロデュースチームが、実写で続編を作ることを決定。
「ソウル・ステーション/パンデミック」を寝かせたまま本作の制作を進め、2016年の夏に動員数1150万人という爆発的な大ヒットを記録し、その一ヶ月後に先に完成していた前日譚「ソウル・ステーション/パンデミック」を公開した。
大人向けアニメーション市場が極めて小さい韓国では、「ソウル・ステーション/パンデミック」単体では大ヒットは望めない。
ならば、リスクをおかしても実写作品を先行させ、相乗効果で一気に2本分の回収を狙うという考え方だろうが、完成した作品を2年も公開延期しておけるというのが凄い。
製作委員会方式の日本では、投資家の余程の理解が得られないと難しい戦略だ。
実写になったことで、表現としてはむしろマイルドになったが、その人間ドラマのディープさはまさにヨン・サンホ。
ドラマの中心となるソグのキャラクターが、最初は非共感キャラクターなのが上手い。
ファンドマネージャーをしている彼は、基本的に世界を自己中心的に見ていて、自分さえ助かれば他はどうなっても良いと思っている。
だから他の乗客が避難し終わる前にドアを閉めようとするし、軍隊が列車を隔離しようとしているという情報を得ると、顧客の軍人に手を回して自分と娘だけ例外にしてもらおうとする。
対照的なのが、そんな父を見て育った娘のスアン。
心優しい彼女は、父の行動に逐一素朴な疑問を呈することで、ソグに自分がやっていることが人間としていかに間違ったているかを悟らせ、罪悪感を感じさせる。
やがてゾンビパニックの中、ソグのキャラクターはいけ好かないエリート金融マンから、自分の命を顧みず、必死に娘を守ろうとする勇気ある父親像に徐々に変わってゆき、観客もいつしか彼にどっぷりと感情移入。
物語の中で、図らずもソグと共闘することになる、屈強なマッチョマンのサンファ、高校球児のヨングクにも、絶対に守りたい人がいる。
連結部で各車両が仕切られた、細長い列車の構造を生かし、物語の中盤で三人の男たちと女性たちを、列車内で離れ離れにしたことで、親子、夫婦、恋人同士、極限状態で互いを思いやるそれぞれの愛が、物語を推進する強力なエナジーとなった。
境遇の異なる人々が密室の列車に乗り合わせ、ソンビ襲来という未曾有の危機に立ち向かう筋立ては、グランドホテル方式のお手本のような仕上がりで、いわば陸上版の「タイタニック」の趣だ。
本作はゾンビ映画の範疇に入るが、人体破壊などのいわゆるスプラッタ描写は抑えられ、観客にそれほどハードなホラー耐性を求めない。
アメリカでも日本でも、観客を選ぶマニアなカテゴリと言う認識のゾンビ映画が、韓国で国民の1/4を動員するパワフルな興行となったのは、この作品がゾンビ映画である以上に、優れたファミリー映画として受け入れられたからだろう。
実際本作を家族や恋人同士で観たら、横にいる人が愛おしくてたまらなくなると思う。
もちろん、過去のアニメーション作品と共通するヨン・サンホならではの暗喩性、風刺性もしっかりと感じられる。
TVドラマの「ウォーキング・デッド」シリーズや、日本の「アイアムアヒーロー」もそうだったが、このカテゴリの中には物語が展開するうちに、「ゾンビも恐いけど、結局人間にとって一番の脅威は人間だよね」という方向に行く作品があるが、本作もその一つにして最も良く出来た一本だ。
人間の愛を前面に出しながら、いわば改心しないバージョンのソグ、事件を通してどんどんエゴの塊化してしまう、ある人物の徹底的なクズっぷりは素晴らしい。
社会的には立派な地位にあるこの人物と、対になるようにホームレスのキャラクターが出てくるのだが、この二人は「我は神なり」の牧師と主人公と同じように、人の見かけと本性の善悪のギャップを端的に表すキャラクター。
人間がゾンビ化するということも、本作においては本性を隠す仮面を取り払うという暗喩であるかもしれない。
また物語の行き先が、なぜプサンなのかも、おそらく韓国ならではの意味がある。
ソウルから始まり瞬く間に韓国全土に広まる感染爆発、しかしプサンは初期防衛に成功した安全地帯とされるが、これは朝鮮戦争初期の構図そのものだ。
1950年6月25日、突如南侵を開始した北朝鮮軍によって、戦争に備えていなかった韓国軍は総崩れとなり、ほぼ全土で敗走。
半島の南東に追い詰められた韓国軍と国連軍が、遂に北朝鮮の侵攻を止め、その後の反撃の契機となったのが"釜山橋頭堡の戦い"だ。
つまりプサンという地は、滅亡の危機の時に、韓国にとって文字通りに最後の砦となった忘れえぬ街なのである。
もちろん戦争から60年以上たって作られた本作は、北朝鮮の脅威をそのまま比喩しているという訳ではないと思う。
韓国人自らが危機の原因を作り出し、家族や友達だった者に喰われるゾンビパニックは、朝鮮戦争の恐怖の記憶を韓国社会の原点として深層に配し、理念対立による深刻な社会分断や、人間の本質を見ない格差社会の風刺として見るべきであろう。
しかし、この映画を観て改めて驚かされたのは、列車の中をゾンビが走り回り、乗務員や乗客が喰われるという話でありながら、正式にKORAIL(韓国鉄道公社)の協力を取り付けていること。
日本では国鉄時代の「新幹線大爆破」も、近年の「藁の盾」もJRの協力が得られず、ミニチュア撮影や台湾ロケを余儀なくされていることを考えると、映画撮影に対するパブリックの柔軟性は韓国の方がはるかに上の様だ。
「アイアムアヒーロー」も韓国で撮影されていたし、やはり韓国は日本映画にとっても重要なリソースになってゆくだろう。
物議を醸した「新感染 ファイナル・エクスプレス」という邦題は、個人的には嫌いじゃないが、本作の持つ重厚なドラマ性を考えると、やはり内容を的確に表してるとは言い難い。
おそらくこの邦題で、大味かつおバカな大作をイメージしてしまっている人も多いと思うが、本作は誰もが予想し得ない終末の世界で、人間の中にある究極の悪と、究極の善の戦いを描いたエポックメイキングな傑作である。
運命の旅の終わりで、生と死を別つトンネルに、スアンが父のために練習した「アロハ・オエ」の歌声が静かに響く。
これは、ハワイ王国最後の女王リリウオカラニが作詞したと伝えられる、愛する人との別れの場面を描いた歌。
希望と絶望が混じり合い、切ない想いが伝わる、映画史に残るであろう素晴らしいラストだった。
こんなにも恐ろしくて悲しく、美しい映画はめったに無い。
現時点での、私的ムービー・オブ・ザ・イヤーだ。
ゾンビ映画には、そのまんま「ゾンビ」をチョイス。
ホワイトラム30ml、ゴールドラム30ml、ダークラム30ml、アプリコットブランデー15ml、オレンジジュース 20ml、パイナップルジュース 20ml、レモンジュース 10ml、グレナデンシロップ 10mlをシェイクして、このカクテルが名前の元になった氷を入れたゾンビグラスに注ぐ。
複数のラムを使っているのは、あえて酔いを深めるため。
オリジナルレシピではさらに多く、5種類ものラムを混ぜていたという危険なカクテルだ。
口当たりはフルーティーでフレッシュだが、飲んでいるうちにいつの間にか酩酊し、ゾンビと化してしまう。
ところで、本作の公開後には前日譚の「ソウル・ステーション/パンデミック」と旧作の「我は神なり」の正式公開が決まっているが、残念ながら長編デビュー作の「豚の王」は抜け落ちたままだ。
恐ろしく陰鬱な作品だが、ヨン・サンホという作家を理解する上で、「豚の王」は欠かせないので、ぜひこちらも正式公開を望みたい。
できれば短編作品も含んだ特集上映など、どこかやらないかね。

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