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2017年09月02日 (土) | 編集 |
絶対に、守り抜く。
ゾンビ映画の歴史を塗り替える大傑作だ。
韓国全土を襲う感染爆発の中、ザック・スナイダー系の走るゾンビを乗せた、ソウル発プサン行きの高速列車・KTXが突っ走る。
細長い列車の構造を最大限生かしたサスペンスは、文句なしにスリリング。
しかし本作を特別な作品足らしめているのは、ヨン・サンホ監督の過去の作品と同様、圧倒的な密度を持つ人間ドラマだ。
極限状態でカリカチュアされた登場人物たちは、人間の心の様々な面を剥き出しにする。
冷徹な父・ソグと心優しい娘・スアンの二人を軸に、社会の様々な階層の人びとの織りなす生死をかけた悲喜こもごものドラマは、一瞬たりとも目が離せない。
ダジャレ系邦題に躊躇している人は、騙されたと思って是非観に行ってほしい!
※ラストに触れています。
ソウルでファンド・マネージャーとして働くソグ(コン・ユ)は、娘のスアン(キム・スアン)の誕生日に、彼女をプサンに住む別居中の妻の元にを送り届けるため、早朝ソウル駅からKTXに乗車する。
直前に駅周囲では何か騒ぎが起こっていたが、先を急ぐソグは気に留めなかった。
列車には、身重のソギョン(チョン・ユミ)とその夫サンファ(マ・ドンソク)、試合に向かう高校球児のヨングク(チェ・ウシク)と彼女のジニ(アン・ソヒ)、バス会社の重役ヨンソク(キム・ウィソン)など多くの人が乗っていた。
ところが、出発直前に謎のウィルスに感染した女性が乗り込み、乗務員に襲いかかると、襲われた者も次々と発症し、車内はパニックに陥る。
実はこの時、韓国全土で人間をゾンビ化させる謎のウィルスによる、パンデミックが起こっていたのだ。
どこにも逃げ場のない、300キロで走る列車の中、人々は生き残るために戦い始めるのだが・・・
たぶん、それなりに映画に詳しい人でも、「ヨン・サンホって誰?」というくらいの認知度だろう。
この人は元々アニメーション畑の人で、しかも人間の心の奥底にあるダークな部分を好んで描く異色の映画作家なのである。
本国でも知る人ぞ知るという存在だし、日本では「花開くコリア・アニメーション」など、一部の映画祭でしか紹介されたことがない。
韓国の長編アニメーションとして、初めてカンヌ映画祭のオフィシャルセレクションとなった、長編デビュー作「豚の王」では、絶対的な学園ヒエラルキーに支配され、忠実な犬たちと太らされる豚どもに分けられた子供たちを描いた。
彼らは「世界」の縮図であり、世界の理を知ってしまった人間たちは、自分の心に巣食う怪物から永遠に逃れる事が出来ない。
続く「我は神なり」で描いたのは、ダムに沈む村を舞台に、住人の心を弄ぶ悪徳牧師と、一人真実に気づいた嫌われ者の粗野な男の闘い。
人間がいかに簡単に惑わされて、レッテルを信じ込んでしまうのか、信仰をモチーフにした物語は、予定調和を全て拒絶して、この世界の現実を突きつける。
私は人間の顔をここまでリアルに、しかも醜く描く作家を他に知らない。
アニメーションによるカリカチュア表現が、人間の最もえぐい闇の部分をくっきりと浮き彫りにさせるのである。
人間の負の面を描く、異端のアニメーション作家という立ち位置だったヨン・サンホが、実写のゾンビ映画を監督することになるには、以下のような流れがあったようだ。
まず彼の長編第三作として、2014年にアニメーション映画「ソウル・ステーション/パンデミック」が作られる。
この作品の完成を受けて、その娯楽映画としてのポテンシャルに着目したプロデュースチームが、実写で続編を作ることを決定。
「ソウル・ステーション/パンデミック」を寝かせたまま本作の制作を進め、2016年の夏に動員数1150万人という爆発的な大ヒットを記録し、その一ヶ月後に先に完成していた前日譚「ソウル・ステーション/パンデミック」を公開した。
大人向けアニメーション市場が極めて小さい韓国では、「ソウル・ステーション/パンデミック」単体では大ヒットは望めない。
ならば、リスクをおかしても実写作品を先行させ、相乗効果で一気に2本分の回収を狙うという考え方だろうが、完成した作品を2年も公開延期しておけるというのが凄い。
製作委員会方式の日本では、投資家の余程の理解が得られないと難しい戦略だ。
実写になったことで、表現としてはむしろマイルドになったが、その人間ドラマのディープさはまさにヨン・サンホ。
ドラマの中心となるソグのキャラクターが、最初は非共感キャラクターなのが上手い。
ファンドマネージャーをしている彼は、基本的に世界を自己中心的に見ていて、自分さえ助かれば他はどうなっても良いと思っている。
だから他の乗客が避難し終わる前にドアを閉めようとするし、軍隊が列車を隔離しようとしているという情報を得ると、顧客の軍人に手を回して自分と娘だけ例外にしてもらおうとする。
対照的なのが、そんな父を見て育った娘のスアン。
心優しい彼女は、父の行動に逐一素朴な疑問を呈することで、ソグに自分がやっていることが人間としていかに間違ったているかを悟らせ、罪悪感を感じさせる。
やがてゾンビパニックの中、ソグのキャラクターはいけ好かないエリート金融マンから、自分の命を顧みず、必死に娘を守ろうとする勇気ある父親像に徐々に変わってゆき、観客もいつしか彼にどっぷりと感情移入。
物語の中で、図らずもソグと共闘することになる、屈強なマッチョマンのサンファ、高校球児のヨングクにも、絶対に守りたい人がいる。
連結部で各車両が仕切られた、細長い列車の構造を生かし、物語の中盤で三人の男たちと女性たちを、列車内で離れ離れにしたことで、親子、夫婦、恋人同士、極限状態で互いを思いやるそれぞれの愛が、物語を推進する強力なエナジーとなった。
境遇の異なる人々が密室の列車に乗り合わせ、ソンビ襲来という未曾有の危機に立ち向かう筋立ては、グランドホテル方式のお手本のような仕上がりで、いわば陸上版の「タイタニック」の趣だ。
本作はゾンビ映画の範疇に入るが、人体破壊などのいわゆるスプラッタ描写は抑えられ、観客にそれほどハードなホラー耐性を求めない。
アメリカでも日本でも、観客を選ぶマニアなカテゴリと言う認識のゾンビ映画が、韓国で国民の1/4を動員するパワフルな興行となったのは、この作品がゾンビ映画である以上に、優れたファミリー映画として受け入れられたからだろう。
実際本作を家族や恋人同士で観たら、横にいる人が愛おしくてたまらなくなると思う。
もちろん、過去のアニメーション作品と共通するヨン・サンホならではの暗喩性、風刺性もしっかりと感じられる。
TVドラマの「ウォーキング・デッド」シリーズや、日本の「アイアムアヒーロー」もそうだったが、このカテゴリの中には物語が展開するうちに、「ゾンビも恐いけど、結局人間にとって一番の脅威は人間だよね」という方向に行く作品があるが、本作もその一つにして最も良く出来た一本だ。
人間の愛を前面に出しながら、いわば改心しないバージョンのソグ、事件を通してどんどんエゴの塊化してしまう、ある人物の徹底的なクズっぷりは素晴らしい。
社会的には立派な地位にあるこの人物と、対になるようにホームレスのキャラクターが出てくるのだが、この二人は「我は神なり」の牧師と主人公と同じように、人の見かけと本性の善悪のギャップを端的に表すキャラクター。
人間がゾンビ化するということも、本作においては本性を隠す仮面を取り払うという暗喩であるかもしれない。
また物語の行き先が、なぜプサンなのかも、おそらく韓国ならではの意味がある。
ソウルから始まり瞬く間に韓国全土に広まる感染爆発、しかしプサンは初期防衛に成功した安全地帯とされるが、これは朝鮮戦争初期の構図そのものだ。
1950年6月25日、突如南侵を開始した北朝鮮軍によって、戦争に備えていなかった韓国軍は総崩れとなり、ほぼ全土で敗走。
半島の南東に追い詰められた韓国軍と国連軍が、遂に北朝鮮の侵攻を止め、その後の反撃の契機となったのが"釜山橋頭堡の戦い"だ。
つまりプサンという地は、滅亡の危機の時に、韓国にとって文字通りに最後の砦となった忘れえぬ街なのである。
もちろん戦争から60年以上たって作られた本作は、北朝鮮の脅威をそのまま比喩しているという訳ではないと思う。
韓国人自らが危機の原因を作り出し、家族や友達だった者に喰われるゾンビパニックは、朝鮮戦争の恐怖の記憶を韓国社会の原点として深層に配し、理念対立による深刻な社会分断や、人間の本質を見ない格差社会の風刺として見るべきであろう。
しかし、この映画を観て改めて驚かされたのは、列車の中をゾンビが走り回り、乗務員や乗客が喰われるという話でありながら、正式にKORAIL(韓国鉄道公社)の協力を取り付けていること。
日本では国鉄時代の「新幹線大爆破」も、近年の「藁の盾」もJRの協力が得られず、ミニチュア撮影や台湾ロケを余儀なくされていることを考えると、映画撮影に対するパブリックの柔軟性は韓国の方がはるかに上の様だ。
「アイアムアヒーロー」も韓国で撮影されていたし、やはり韓国は日本映画にとっても重要なリソースになってゆくだろう。
物議を醸した「新感染 ファイナル・エクスプレス」という邦題は、個人的には嫌いじゃないが、本作の持つ重厚なドラマ性を考えると、やはり内容を的確に表してるとは言い難い。
おそらくこの邦題で、大味かつおバカな大作をイメージしてしまっている人も多いと思うが、本作は誰もが予想し得ない終末の世界で、人間の中にある究極の悪と、究極の善の戦いを描いたエポックメイキングな傑作である。
運命の旅の終わりで、生と死を別つトンネルに、スアンが父のために練習した「アロハ・オエ」の歌声が静かに響く。
これは、ハワイ王国最後の女王リリウオカラニが作詞したと伝えられる、愛する人との別れの場面を描いた歌。
希望と絶望が混じり合い、切ない想いが伝わる、映画史に残るであろう素晴らしいラストだった。
こんなにも恐ろしくて悲しく、美しい映画はめったに無い。
現時点での、私的ムービー・オブ・ザ・イヤーだ。
ゾンビ映画には、そのまんま「ゾンビ」をチョイス。
ホワイトラム30ml、ゴールドラム30ml、ダークラム30ml、アプリコットブランデー15ml、オレンジジュース 20ml、パイナップルジュース 20ml、レモンジュース 10ml、グレナデンシロップ 10mlをシェイクして、このカクテルが名前の元になった氷を入れたゾンビグラスに注ぐ。
複数のラムを使っているのは、あえて酔いを深めるため。
オリジナルレシピではさらに多く、5種類ものラムを混ぜていたという危険なカクテルだ。
口当たりはフルーティーでフレッシュだが、飲んでいるうちにいつの間にか酩酊し、ゾンビと化してしまう。
ところで、本作の公開後には前日譚の「ソウル・ステーション/パンデミック」と旧作の「我は神なり」の正式公開が決まっているが、残念ながら長編デビュー作の「豚の王」は抜け落ちたままだ。
恐ろしく陰鬱な作品だが、ヨン・サンホという作家を理解する上で、「豚の王」は欠かせないので、ぜひこちらも正式公開を望みたい。
できれば短編作品も含んだ特集上映など、どこかやらないかね。
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ゾンビ映画の歴史を塗り替える大傑作だ。
韓国全土を襲う感染爆発の中、ザック・スナイダー系の走るゾンビを乗せた、ソウル発プサン行きの高速列車・KTXが突っ走る。
細長い列車の構造を最大限生かしたサスペンスは、文句なしにスリリング。
しかし本作を特別な作品足らしめているのは、ヨン・サンホ監督の過去の作品と同様、圧倒的な密度を持つ人間ドラマだ。
極限状態でカリカチュアされた登場人物たちは、人間の心の様々な面を剥き出しにする。
冷徹な父・ソグと心優しい娘・スアンの二人を軸に、社会の様々な階層の人びとの織りなす生死をかけた悲喜こもごものドラマは、一瞬たりとも目が離せない。
ダジャレ系邦題に躊躇している人は、騙されたと思って是非観に行ってほしい!
※ラストに触れています。
ソウルでファンド・マネージャーとして働くソグ(コン・ユ)は、娘のスアン(キム・スアン)の誕生日に、彼女をプサンに住む別居中の妻の元にを送り届けるため、早朝ソウル駅からKTXに乗車する。
直前に駅周囲では何か騒ぎが起こっていたが、先を急ぐソグは気に留めなかった。
列車には、身重のソギョン(チョン・ユミ)とその夫サンファ(マ・ドンソク)、試合に向かう高校球児のヨングク(チェ・ウシク)と彼女のジニ(アン・ソヒ)、バス会社の重役ヨンソク(キム・ウィソン)など多くの人が乗っていた。
ところが、出発直前に謎のウィルスに感染した女性が乗り込み、乗務員に襲いかかると、襲われた者も次々と発症し、車内はパニックに陥る。
実はこの時、韓国全土で人間をゾンビ化させる謎のウィルスによる、パンデミックが起こっていたのだ。
どこにも逃げ場のない、300キロで走る列車の中、人々は生き残るために戦い始めるのだが・・・
たぶん、それなりに映画に詳しい人でも、「ヨン・サンホって誰?」というくらいの認知度だろう。
この人は元々アニメーション畑の人で、しかも人間の心の奥底にあるダークな部分を好んで描く異色の映画作家なのである。
本国でも知る人ぞ知るという存在だし、日本では「花開くコリア・アニメーション」など、一部の映画祭でしか紹介されたことがない。
韓国の長編アニメーションとして、初めてカンヌ映画祭のオフィシャルセレクションとなった、長編デビュー作「豚の王」では、絶対的な学園ヒエラルキーに支配され、忠実な犬たちと太らされる豚どもに分けられた子供たちを描いた。
彼らは「世界」の縮図であり、世界の理を知ってしまった人間たちは、自分の心に巣食う怪物から永遠に逃れる事が出来ない。
続く「我は神なり」で描いたのは、ダムに沈む村を舞台に、住人の心を弄ぶ悪徳牧師と、一人真実に気づいた嫌われ者の粗野な男の闘い。
人間がいかに簡単に惑わされて、レッテルを信じ込んでしまうのか、信仰をモチーフにした物語は、予定調和を全て拒絶して、この世界の現実を突きつける。
私は人間の顔をここまでリアルに、しかも醜く描く作家を他に知らない。
アニメーションによるカリカチュア表現が、人間の最もえぐい闇の部分をくっきりと浮き彫りにさせるのである。
人間の負の面を描く、異端のアニメーション作家という立ち位置だったヨン・サンホが、実写のゾンビ映画を監督することになるには、以下のような流れがあったようだ。
まず彼の長編第三作として、2014年にアニメーション映画「ソウル・ステーション/パンデミック」が作られる。
この作品の完成を受けて、その娯楽映画としてのポテンシャルに着目したプロデュースチームが、実写で続編を作ることを決定。
「ソウル・ステーション/パンデミック」を寝かせたまま本作の制作を進め、2016年の夏に動員数1150万人という爆発的な大ヒットを記録し、その一ヶ月後に先に完成していた前日譚「ソウル・ステーション/パンデミック」を公開した。
大人向けアニメーション市場が極めて小さい韓国では、「ソウル・ステーション/パンデミック」単体では大ヒットは望めない。
ならば、リスクをおかしても実写作品を先行させ、相乗効果で一気に2本分の回収を狙うという考え方だろうが、完成した作品を2年も公開延期しておけるというのが凄い。
製作委員会方式の日本では、投資家の余程の理解が得られないと難しい戦略だ。
実写になったことで、表現としてはむしろマイルドになったが、その人間ドラマのディープさはまさにヨン・サンホ。
ドラマの中心となるソグのキャラクターが、最初は非共感キャラクターなのが上手い。
ファンドマネージャーをしている彼は、基本的に世界を自己中心的に見ていて、自分さえ助かれば他はどうなっても良いと思っている。
だから他の乗客が避難し終わる前にドアを閉めようとするし、軍隊が列車を隔離しようとしているという情報を得ると、顧客の軍人に手を回して自分と娘だけ例外にしてもらおうとする。
対照的なのが、そんな父を見て育った娘のスアン。
心優しい彼女は、父の行動に逐一素朴な疑問を呈することで、ソグに自分がやっていることが人間としていかに間違ったているかを悟らせ、罪悪感を感じさせる。
やがてゾンビパニックの中、ソグのキャラクターはいけ好かないエリート金融マンから、自分の命を顧みず、必死に娘を守ろうとする勇気ある父親像に徐々に変わってゆき、観客もいつしか彼にどっぷりと感情移入。
物語の中で、図らずもソグと共闘することになる、屈強なマッチョマンのサンファ、高校球児のヨングクにも、絶対に守りたい人がいる。
連結部で各車両が仕切られた、細長い列車の構造を生かし、物語の中盤で三人の男たちと女性たちを、列車内で離れ離れにしたことで、親子、夫婦、恋人同士、極限状態で互いを思いやるそれぞれの愛が、物語を推進する強力なエナジーとなった。
境遇の異なる人々が密室の列車に乗り合わせ、ソンビ襲来という未曾有の危機に立ち向かう筋立ては、グランドホテル方式のお手本のような仕上がりで、いわば陸上版の「タイタニック」の趣だ。
本作はゾンビ映画の範疇に入るが、人体破壊などのいわゆるスプラッタ描写は抑えられ、観客にそれほどハードなホラー耐性を求めない。
アメリカでも日本でも、観客を選ぶマニアなカテゴリと言う認識のゾンビ映画が、韓国で国民の1/4を動員するパワフルな興行となったのは、この作品がゾンビ映画である以上に、優れたファミリー映画として受け入れられたからだろう。
実際本作を家族や恋人同士で観たら、横にいる人が愛おしくてたまらなくなると思う。
もちろん、過去のアニメーション作品と共通するヨン・サンホならではの暗喩性、風刺性もしっかりと感じられる。
TVドラマの「ウォーキング・デッド」シリーズや、日本の「アイアムアヒーロー」もそうだったが、このカテゴリの中には物語が展開するうちに、「ゾンビも恐いけど、結局人間にとって一番の脅威は人間だよね」という方向に行く作品があるが、本作もその一つにして最も良く出来た一本だ。
人間の愛を前面に出しながら、いわば改心しないバージョンのソグ、事件を通してどんどんエゴの塊化してしまう、ある人物の徹底的なクズっぷりは素晴らしい。
社会的には立派な地位にあるこの人物と、対になるようにホームレスのキャラクターが出てくるのだが、この二人は「我は神なり」の牧師と主人公と同じように、人の見かけと本性の善悪のギャップを端的に表すキャラクター。
人間がゾンビ化するということも、本作においては本性を隠す仮面を取り払うという暗喩であるかもしれない。
また物語の行き先が、なぜプサンなのかも、おそらく韓国ならではの意味がある。
ソウルから始まり瞬く間に韓国全土に広まる感染爆発、しかしプサンは初期防衛に成功した安全地帯とされるが、これは朝鮮戦争初期の構図そのものだ。
1950年6月25日、突如南侵を開始した北朝鮮軍によって、戦争に備えていなかった韓国軍は総崩れとなり、ほぼ全土で敗走。
半島の南東に追い詰められた韓国軍と国連軍が、遂に北朝鮮の侵攻を止め、その後の反撃の契機となったのが"釜山橋頭堡の戦い"だ。
つまりプサンという地は、滅亡の危機の時に、韓国にとって文字通りに最後の砦となった忘れえぬ街なのである。
もちろん戦争から60年以上たって作られた本作は、北朝鮮の脅威をそのまま比喩しているという訳ではないと思う。
韓国人自らが危機の原因を作り出し、家族や友達だった者に喰われるゾンビパニックは、朝鮮戦争の恐怖の記憶を韓国社会の原点として深層に配し、理念対立による深刻な社会分断や、人間の本質を見ない格差社会の風刺として見るべきであろう。
しかし、この映画を観て改めて驚かされたのは、列車の中をゾンビが走り回り、乗務員や乗客が喰われるという話でありながら、正式にKORAIL(韓国鉄道公社)の協力を取り付けていること。
日本では国鉄時代の「新幹線大爆破」も、近年の「藁の盾」もJRの協力が得られず、ミニチュア撮影や台湾ロケを余儀なくされていることを考えると、映画撮影に対するパブリックの柔軟性は韓国の方がはるかに上の様だ。
「アイアムアヒーロー」も韓国で撮影されていたし、やはり韓国は日本映画にとっても重要なリソースになってゆくだろう。
物議を醸した「新感染 ファイナル・エクスプレス」という邦題は、個人的には嫌いじゃないが、本作の持つ重厚なドラマ性を考えると、やはり内容を的確に表してるとは言い難い。
おそらくこの邦題で、大味かつおバカな大作をイメージしてしまっている人も多いと思うが、本作は誰もが予想し得ない終末の世界で、人間の中にある究極の悪と、究極の善の戦いを描いたエポックメイキングな傑作である。
運命の旅の終わりで、生と死を別つトンネルに、スアンが父のために練習した「アロハ・オエ」の歌声が静かに響く。
これは、ハワイ王国最後の女王リリウオカラニが作詞したと伝えられる、愛する人との別れの場面を描いた歌。
希望と絶望が混じり合い、切ない想いが伝わる、映画史に残るであろう素晴らしいラストだった。
こんなにも恐ろしくて悲しく、美しい映画はめったに無い。
現時点での、私的ムービー・オブ・ザ・イヤーだ。
ゾンビ映画には、そのまんま「ゾンビ」をチョイス。
ホワイトラム30ml、ゴールドラム30ml、ダークラム30ml、アプリコットブランデー15ml、オレンジジュース 20ml、パイナップルジュース 20ml、レモンジュース 10ml、グレナデンシロップ 10mlをシェイクして、このカクテルが名前の元になった氷を入れたゾンビグラスに注ぐ。
複数のラムを使っているのは、あえて酔いを深めるため。
オリジナルレシピではさらに多く、5種類ものラムを混ぜていたという危険なカクテルだ。
口当たりはフルーティーでフレッシュだが、飲んでいるうちにいつの間にか酩酊し、ゾンビと化してしまう。
ところで、本作の公開後には前日譚の「ソウル・ステーション/パンデミック」と旧作の「我は神なり」の正式公開が決まっているが、残念ながら長編デビュー作の「豚の王」は抜け落ちたままだ。
恐ろしく陰鬱な作品だが、ヨン・サンホという作家を理解する上で、「豚の王」は欠かせないので、ぜひこちらも正式公開を望みたい。
できれば短編作品も含んだ特集上映など、どこかやらないかね。

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