リドリー・スコットの代表作にして、80年代、いや20世紀後半を代表する近未来SF映画の金字塔、「ブレードランナー」の35年ぶりの続編。
ロイ・バッティとの死闘を生き延びたリック・デッカードが、恋人レイチェルと共に姿を消してから30年後の未来、西暦2049年のロサンゼルスを舞台に、人間とレプリカントの新たな物語が紡がれる。
傑作「メッセージ」に続いて、SF大作に起用されたドゥニ・ヴィルヌーヴ監督は、オリジナルに最大限のリスペクトを捧げ、前作からの35年間のテクノロジーの進歩を盛り込みつつ、テーマや世界観など映画として確実に深化させた。
しかも、どこからどう見ても「ブレードランナー」なのに、ちゃんとヴィルヌーヴの作家映画に仕上がっているのだから恐れ入るばかり。
今回はエグゼクティヴ・プロデューサーとして参加しているリドリー・スコットも、この出来なら満足だろう。
※核心部分に触れています。
2049年のロサンゼルス。
嘗てレプリカントを製造していたタイレル社は、寿命制限のないネクサス8型レプリカントの度重なる反乱による業績悪化で倒産。
ネアンダル・ウォレス(ジャレット・レト)率いるウォレス社は、タイレルの資産を受け継ぎ、より洗練され従順な新たなレプリカント、ネクサス9を製造していて、ネクサス8の残党はブレードランナーによって「解任(殺害)」されていった。
LAPD所属のブレードランナー“K”(ライアン・ゴズリング)は、日々ネクサス8を追い、家ではウォレス社製のホログラフィーAIの恋人ジョイ(アナ・デ・アルマス)と過ごしていた。
ある日、ネクサス8型逃亡レプリカントを「解任」した際、“K”は隠れ家の木の下に女性の白骨死体が収められた箱が埋まっているのを発見。
分析の結果、女性は帝王切開の合併症で死亡したレプリカントであることが判明する。
生殖能力を持たないはずのレプリカントが子を産んでいた。
“K”が女性の正体を探るうちに、彼女の名がレイチェルであること、30年前に失踪したブレードランナー、リック・デッカード(ハリソン・フォード)と恋愛関係にあったことが浮上する・・・
1982年の夏に公開された「ブレードランナー」は、まさに衝撃だった。
現在では多くのフォロワー作品の存在によって希釈されてしまったが、コンセプトデザインのシド・ミード、VFXのダグラス・トランブルらによって創造された西暦2019年のロサンゼルスは、驚くべき未見性に満ちていたのだ(シド・ミードは今回も参加している)。
炎を噴き上げる石油コンビナートの向こうに、マヤのピラミッドを思わせるタイレル社のビルがそびえ、空飛ぶスピナーが酸性雨の降り注ぐ広大な都市の上空を飛び交う。
西洋と東洋、未来と過去が混じり合った、生活感たっぷりの猥雑な未来都市で展開する、人間とレプリカントの生命を巡る哲学的なドラマは、SF好きの脳裏に深く刻まれている。
もちろんオリジナルも、「メトロポリス」をはじめとする、多くの創作の影響を受けていることは言うまでもないが、この映画が無ければ、「攻殻機動隊 THE GHOST IN THE SHELL」も「マイノリティリポート」も「エクス・マキナ」も生まれなかったか、全く違った作品になっていただろう。
「マッドマックス2」の出現が、ポストアポカリプトの世界観を永遠に変えたように、近未来SFは「ブレードランナー」の前と後で、大きな変貌を遂げたのである。
ドゥニ・ヴィルヌーヴは、「ブレードランナー2049」の冒頭部分を、前作と同じく瞳のエクストリームクローズアップから始める。
しかし、その瞳が見つめている風景は異なる。
四角いビルが林立する暗黒の都市ではなく、地の果てまで広がる円形のソーラー発電ファームだ。
世界観の継続性と同時に、オリジナリティを主張する、秀逸なファーストイメージ。
この世界では、30年の間に地球温暖化による水位上昇が進み、都市は海岸部に建てられた巨大な防波堤によって守られており、酸性雨の代わりに雪が不気味な静けさで降りしきる。
“ロサンゼルスの雪”は、ポール・ハギス監督の「クラッシュ」でも、ありえない奇蹟の象徴として使われていたが、狂った地球環境が引き起こすこちらでは、まるで終末を告げる死の灰のようだ。
汚染の進んだ内陸部は、まるで火星の様な赤い大地が広がり、嘗ての享楽の都市・ラスベガスは放棄されて廃墟に。
名手ロジャー・ディーキンスによる映像は、ただ美しいだけでなく、それぞれのシチュエーションでの映像設計が、キャラクターの心情と密接にリンクしている。
世界観の変化が雄弁に語るように、偉大なオリジナルを継承しながらも、本作は新たな地平を切り開く。
前作の公開当時からあった、6人目のレプリカント=デッカード説には、今回も明確な答えは無いが、リドリー・スコット本人がそうだと考えているのだからそうなのだろう。
そこから触発されたのか、ブレードランナー=レプリカント設定は、今回は最初から前提となっていて、主人公の“K”はウォレス社によって作られたネクサス9型レプリカントなのである。
同族を狩るのは同族の仕事という訳だ。
だが、“K”がブレードランナーらしい「解任」の仕事をするのは、冒頭の一件のみ。
発見されたレプリカントの生殖の痕跡を巡り、“K”は自らのアイデンティティの葛藤を抱えながら、全ての電子的記録が消えた“大停電”以前の過去を探し始める。
本作は探偵ものの色彩が強く、デッカードとレイチェルの消息を探す捜査が、“K”自身に関する新たな謎を呼ぶ。
「LOGAN/ローガン」が記憶に新しいマイケル・グリーンによる脚本は、30年前に消えた二人と産み落とされた奇蹟の子を探すプロセスを軸に、綿密に構成され先を読ませず、3時間近い長尺を全く感じさせない。
映画に登場するようなレプリカントは未だに実現していないが、現実世界の人工知能の研究開発はこの35年間で劇的に進んだ。
前作のレプリカント、ネクサス7にとって、最大の苦悩はたった四年しかない寿命だった。
元々心の無いアンドロイドの彼らは、生きているうちに感情を芽生えさせ、愛を知るようになる頃には寿命が尽きてしまう。
対して、感情を持つアンドロイドの出現が絵空事でなくなりつつある現在、本作に登場するレプリカント、ネクサス8と9たちは既に感情を持っていて、“K”にもバーチャルAIのジョイという恋人がいる。
個人的に本作でツボだったのが、いわばSIRIさんの究極進化系である、ジョイのキャラクター。
いや、もしかしたらヴィルヌーヴが一番やりたかったのも、現実と電脳世界に別たれた“K”とジョイの、あまりにも切ないラブストーリーだったのではないだろうか。
とことんまで“K”を愛し、どこまでも尽くすキュートな2.5次元のバーチャル彼女は、ある意味日本のサブカル文化にも通じるオタクの夢。
私も是非欲しいので、どこかの会社に頑張って開発してもらいたい( ;´Д`)
ブレードランナーでありながら、自らがレプリカントであることを知っている“K”は、いわば前作のデッカードとロイ・バッティを併せ持つキャラクターだ。
繁殖する従順なレプリカントを星を継ぐものとし、自分は新世界の創造主となろうとするネアンダル・ウォレスの野望に、探し出したデッカードと共に抗う“K”の前に立ちはだかるのが、ウォレスの忠実な部下であるレプリカントのラヴ。
創造主に報われない愛を捧げ、抵抗する術を知らない破壊の天使と、最愛のジョイを失い、自らが何者なのか、何のために生きているのかという根源的な葛藤を抱えた“K”の対決は、前作のクライマックスの裏返しの構造を持つ。
狩る者と狩られる者、恋人を殺したデッカードと対峙するバッティは、戦いの痛みをもって命を実感すると、強烈な生きざまをデッカードの記憶に焼き付けて命を終える。
ラヴとの哀しい戦いを制し、自らが殉じるもの、偽りの記憶でない人生の大義を見出し雪の中に横たわる“K”の姿に、バッティの最期の姿が重なり、無いはずの魂に涙が止まらない。
「ブレードランナー2049」は、少なくともクオリティ的には映画史上最も成功した続編の一つであり、21世紀初頭を代表する近未来SFの新たな金字塔となるだろう。
個人的に唯一の不満点は、ヴァンゲリスのテーマ曲を使ってくれなかったこと。
まあ作品のムード的にはちょっと違う気もするが、せめてエンドクレジットの途中にでも流して欲しかった。
35年ぶりとは言っても完全な続きものなので、前作を鑑賞していることは必須。
ネット公開されている三本の前日譚、渡辺信一郎、ルーク・スコット両監督による「ブレードランナーブラックアウト2022」 「2036: Nexus Dawn」 「2048: Nowhere to Run」も、鑑賞しておくと世界観がより分かりやすい。
特に「ブラックアウト2022」は本編のキーワードになる“大停電”に至る話なので、これだけでも事前に観ておくことをお勧めする。
余談だが、ディテールで面白かったのは、今回も街の広告サイン。
ウォレス社の製品であるジョイの巨大なホログラフィー広告を、“K”が見つめるシーンがあるのだが、てっきりCGだと思っていたら、橋のセットを細かい雨と霧で満たし、そこにプロジェクション・マッピングの要領で映像を投射しているのだとか。
そこまでする効果があるのかどうかはともかく、やっぱり凄いぞハリウッド。
期待した強力わかもとは出てこなかったが、前作にも登場したパンナムのネオンサインは今回も見られる。
現実世界では1991年に消滅したパンナムだが、2019年設定の前作の時点であったのだから、会社が存続しているパラレルワールドだったことにしちゃったということか。
現在では衰退してしまったゲームのアタリの巨大看板もあったけど、こちらも同じ文脈なのだろう。
前作の重要キャラクター、ガフが登場して“ユニコーン”ならぬ“電気羊”の折り紙を披露したり、デジタル技術により復活した若い姿のままのレイチェルが、老いたデッカードの前に表れたり、前作との細かなリンクも巧み。
オリジナルの「ブレードランナー」は日本では劇場で大コケしたにも関わらず、後に評価が高まりビデオがヒットしたが、これは観る度に新たな発見が出来る、マニア心をくすぐる作品だったことが大きかった。
細かい部分が楽しいのは前作と同様で、劇場で長くかからないこともたぶん同じなので、こちらもソフト化を待ち望むファンが多くなりそうだ。
今回は、サンディエゴのクラフトビール、コロナド・ブリューイングの「イディオットIPA」をチョイス。
映画の中ではすっかり荒廃してしまっていたサンディエゴだが、幸いにも現在は風光明媚な港町で、コミコンの街としても知られる。
コロナドはダウンタウンの対岸、コロナド島にある地ビールブリュワリー。
フルーティな香りと味わいの後で、ポップ感がぐっと効いてくる。
イディオット(間抜け)というネーミングは、これを口にすると誰でもついつい飲み過ぎて、イディオットになってしまうからだとか。

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なんという熱量だ!
寺山修司が1966年に発表した唯一の長編小説「あゝ、荒野」が、半世紀を経て映画化された。
猥雑な新宿の街で出会った、全てが対照的な二人のボクサー、バリカン健二と新宿新次の鮮烈な青春を描く。
昭和の時代に書かれた物語は、荒々しい時代性に満ちていたが、これをただ単に現在に移し替えても説得力は無い。
映画は、時代を2021年の東京オリンピック後に設定するという、大胆な奇策に出た。
昭和から平成を飛び越して、まだ見ぬ次の時代へ。
超濃密な物語は、前後篇合わせて5時間を超える長尺を全く感じさせない。
これは日本の過去を鏡として未来を俯瞰しながら、日々を必死に生きる人間たちを追った激アツの人生劇場。
岸善幸は長編2作目にして、今年の日本映画を代表する一本を作り上げた。
2021年。
振り込め詐欺で少年院に入っていた新次(菅田将暉)が、新宿の街に帰ってきた。
嘗ての仲間たちはすでに足を洗い、居場所を失った新次の唯一の目標は、自分たちを裏切った裕二(山田裕貴)への復讐。
しかし、今はプロボクサーとなった裕二は、新次のかなう相手ではなくなっていた。
吃音に悩む理髪師の健二(ヤン・イクチュン)は、なんとかして自分を変えたいと願って、確執を抱える元自衛官の父・健夫(モロ師岡)と袂を分かち、街で声をかけてきたオーシャンボクシングジムの堀口(ユースケ・サンタマリア)の元に入門。
裕二と戦うために入門した新次とともに、プロライセンスを目指して懸命に過酷なトレーニングに挑む。
やがて、二人揃ってプロテストに合格し、それぞれ"新宿新次"と"バリカン健二"のリングネームでデビュー戦を迎えることになるのだが、順調に勝利を重ねる新次に対し、健二はどうしても相手と打ち合えない。
ボクサーとして致命的な優しさ故、健二は大きな壁に直面する。
そして遂に、新次の次戦の相手が裕二に決まるのだが・・・
もう十数年前になるが、寺山修司関係の出版イベントの映像編集を担当したことがあり、原作はその時に読んだ。
新宿を舞台に展開する、二人の若者と彼らを取り巻く人間たちの物語。
思えば原作が発表された1966年は、前回の東京オリンピックの後だった。
港岳彦の脚本は、二つのオリンピックを共通の転換点に、四年後の未来を予見するが、この地続き感が絶妙のさじ加減だ。
スポーツの祭典という壮大な打ち上げ花火の後には、不況が来るだろう。
少子高齢化社会で、公共機関の人手不足に悩む政府はソフトに徴兵制を推し進め、3.11の深刻な傷は未だ癒えず。
前回のオリンピック後に不況が訪れ、ベトナム反戦運動をはじめとするラジカルな学生運動が吹き荒れた史実を鏡としながら、2017年の現在の延長線上にある世界として十分な説得力。
自殺防止を訴える若者たちのエピソードが、ディストピア感を強烈に印象付け、見事に半世紀前の小説の精神性を、近未来に描き出している。
前編2021年から後編2022年にかけての新宿の街は、日本の縮図であり、物語のためのステージだ。
海外派兵のPTSDで元自衛官の父は自殺、母には捨てられ、若くして犯罪に手を染めると、今度は裕二への憎しみをエナジーとして、連戦連勝を重ねてゆく新次。
新次の父を自殺に追いやった元自衛隊将校を父に、韓国人を母に持ち、おそらくは父との確執が原因となっている吃音に苦しみ、一撃必殺のハードバンチャーながら、ボクサーとしては優しすぎる健二。
ボクシングのどつき合いで固い絆に結ばれた、不器用で孤独な二人。
特に後編は前半が新次編、後半が健二編というような構成になっていて、ダブル主役のどちらにも同等のドラマがある。
二人のヴィヴィッドな生き様を軸に、多くの人々が絡み合い、出会いと別れを繰り返す。
時として、ご都合主義を感じさせるほど、登場人物たちの相関距離が近く、複雑に絡み合っているが、これもある種の演劇的な熱を作り出していて、決してマイナスではない。
全体を通して見ると、前編が新宿という舞台への集いのドラマで、後編は作り上げた世界が壊れてゆくドラマ。
その過程で、それぞれの登場人物の抱える葛藤もだんだんと変わってゆく。
俳優がきちんと体を作っていて、相当にボリュームあるボクシングのシークエンスは迫力満点の仕上がりで、物語の進行とともにそのボルテージもアップ。
後編のミッドポイントに当たる"新次VS裕二"、クライマックスとなる"新次VS健二"の試合は凄まじく、まさに映画史に残る魂の死闘だ。
ボクシングを通してしか人と繋がることができない健二と、敵を憎み拒絶することで強くなってきた新次の激突は、それまでの登場人物全て、いや観客をもその場の臨場に巻き込み、熱狂として昇華される。
木村多江の最後の絶叫は、誰もが忘れられないだろう。
そして、ある世代にとっては、心の奥底に記憶している懐かしい感覚。
2020年代に展開する昭和の熱く刹那的ボクシングドラマ、これは現在に生まれ変わった、もう一つの「あしたのジョー」だ。
二人の主人公を演じる菅田将暉とヤン・イクチュンは、ともにキャリアベストと言っていい大熱演。
ヤン・イクチュンは、前回取り上げた「我は神なり」のボイスキャストとしても素晴らしかったが、本当に多才な人だ。
彼らだけでなく、本作はキャストが皆当て書きしたのかと思うほどの奇跡的なハマりっぷり。
ヒロインの芳子役の木下あかり、片目の堀口を演じるユースケ・サンタマリア、ちょっと情けないジムのスポンサー役の高橋和也らは、主役に負けず劣らずの強い印象を残す。
だが、前後篇で描かれた多くの登場人物のエピソードは、寺山修司の原作に極めて忠実なラストで断ち切られ、放ったらかしで終わっているものが多い。
だがこの映画はこれで良いと思うし、新次と健二の物語として、これ以外の落とし方はありえない。
BRAHMANの「今夜」が余韻たっぷりに流れる中、ある人生は物語とともに終わり、ある人生は続いてゆく。
映画館の灯りがついても、リアリティたっぷりに作り込まれた世界観の余白の中で、彼らは観た人の心に確かに生き続けているのだから。
昭和の香り漂う本作には、ホッピーを使った庶民のカクテル「ホッピー割り」をチョイス。
戦後の1948年に発売されたホッピーは、元々ビールの代用として広まったものだが、今となってはこれはこれで独特の味わいだ。
発売元のホッピービバレッジは、ビアジョッキと甲種焼酎、ホッピーをキンキンに冷やし、ジョッキに焼酎1に対してホッピーを5の割合で注ぎいれる“三冷”を推奨している。
しかし、本作がここまでエネルギッシュな映画になり得たのは、やはりU-NEXTの配信用として作られたことが大きのだろう。
しがらみの無い政治ならぬ、しがらみの無い、あるいは縛りの少ない映画。
ネットフリックスやアマゾン作品を含めて、ネット配信系から自由を感じさせる作品が続々出て来てるのは考えさせられる。

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異才ヨン・サンホ監督の、長編アニメーション第二作。
2013年の作品だが、「新感染 ファイナル・エクスプレス」公開に合わせて、ようやく日本で劇場公開となった。
私は待ちくたびれて海外版の円盤を買ってしまったが、このアニメーション史に類を見ない異色の傑作を、スクリーンで観られるのは素直に喜ばしい。
舞台となるのは、ダム建設計画によって立ち退きを迫られている寒村。
支払われるはずの保証金を狙って、奇蹟を売り物にするエセ教会が、不安を抱える住人たちの心にスルリと入り込む。
教会の正体にただ一人気づいたのが、飲んだくれで粗暴な村の嫌われ者。
彼は人々を正気に戻すため、孤独な闘いを始める。
原題は“偽り”を意味する「サイビ(사이비)」。
例によって、どこまでもダークなヨン・サンホの世界だが、リアリティのある登場人物たちが織り成す重厚な人間ドラマは圧巻。
偽りの向こうに見えてくる知りたくない真実に、観客はもはや驚愕するしかない。
※ラストに触れています。
ダムに沈むことが決まっているある村に、トラブルメーカーのミンチョル(ヤン・イクチュン)が久しぶりに帰ってくる。
ところが、彼の不在中に村には教会が建てられ、ミンチョルの妻も含めた村人は皆、奇蹟の力を持つというカリスマ牧師のソン・チョルウ(オ・ジョセ)を崇めていた。
街のバーでもめ事を起こしたミンチョルは、喧嘩の相手のギョンソク(クオン・ヘヒョ)が教会の実質的なリーダーで、しかも指名手配中の詐欺師であることに気づく。
ギョンソクは街でサクラを雇い、若いソンを祭り上げることで村人の信頼を得て、なけなしの財産を吸い上げようとしているのだ。
怒ったミンチョルは人々を説得して、教団の正体を暴こうと奮闘するが、村人はもちろん、警察までもがミンチョルの言葉に聞く耳を持たない。
父親に反発する一人娘ヨンソン(パク・ヒボン)も家出して、ギョンソクの斡旋する怪しげな店に出入りするようになる。
村人から“悪魔に憑かれた男”の烙印を押されて孤立してゆくミンチョルは、遂に実力行使を決意するのだが・・・・
韓国映画で宗教を扱った作品というと、巨匠イ・チャンドン監督の傑作「シークレット・サンシャイン」や、ナ・ホンジン監督のオカルトホラーの大怪作「哭声/コクソン」が記憶に新しい。
どちらもアプローチは全く異なるが、信仰の持つ多面性に着目し、モチーフを見つめる思いもよらない斬新な視点に、本作との共通点を見出せる。
宗教という生々しい題材をなぜアニメーションで?と疑問を呈する向きもあるようだが、アニメーションは本来非常に自由なもの。
本作の場合は、えぐ過ぎる内容を観やすくする意味もあるだろうし、実写よりも人物にカリカチュアが効く分、テーマを象徴的に際立たせ普遍性を持たせる効果もある。
実際のところ、本作は当初実写を想定して企画されたそうだが、後述する様にキャラクターの風刺的なデザインなども含め、結果的にアニメーションならではの作品になったと言えるだろう。
世相を鋭く切り取るヨン・サンホ作品らしく、本作も韓国の現実社会を反映している。
教会を実質的に率いる詐欺師ギョンソクの顔が、李明博元大統領に似せてデザインされていることからも、背景となるダム建設計画のモデルは、彼が推し進めた4大河川整備事業なのだろう。
これは韓国の主要な川を浚渫し、多数の堰を建設して川の貯水量を増やしつつ、環境にも配慮するという大事業で、2008年から2012年までに日本円にして実に2兆円以上が投じられた。
ところが実際には深刻な環境破壊を招いてしまい、大規模公共事業の失敗例として、今現在もその余波は続いている。
巨額の税金が投じられたこの事業の水面下に、有象無象様々な利権集団が蠢いていたのは想像に難くない。
李明博はまた、キリスト教至上主義的な言動でも知られ、在任時期が本作の制作期間と重なることを考えても、諸々の設定に影響を与えていそうだ。
ヨン・サンホ作品の例に漏れず、主人公のミンチョルは非共感キャラクターに造形されている。
久しぶりに家に帰ってきたと思ったら、娘のソンヨンが大学進学のためにコツコツ貯金していた通帳を持ち出して、ギャンブルと飲み代に使ってしまい、ソンヨンに追求されると暴力に訴える極悪非道っぷり。
外に飲みに出ても、怒りの感情をコントロールできず、ちょっとしたことでトラブルを起こす。
タフで腕っぷしは強いので、若い頃にヤンチャしていた男衆からは、ある程度のリスペクトを受けている様だが、基本的にはコミュニティの鼻つまみ者である。
事実を触れ回るが、悪魔の様に忌み嫌われる男と、嘘まみれだが、盲信的に信じられる牧師の言葉の間にある、不可思議な人間の心の正体こそが本作の核心だ。
ミンチョルとソンヨン親子、教会を実質率いる詐欺師ギョンソクと過去の罪に悩むソン牧師、それぞれ家族と教会の内側にも複雑な対立構造を抱え、一切の予定調和を拒否するプロットは、最後の最後まで先を読ませない。
とことんまで神に愛されない人間たちの織りなす愛憎のドラマは、人の心が信仰を求める意味を強烈に問いかける。
マーティン・スコセッシ監督が映画化したことでも知られる小説「沈黙」の作中、自身もキリスト教徒である遠藤周作は、棄教した神父フェレイラに「この国は(キリスト教にとって)沼地だ」と言わせている。
キリストの愛という苗を何度植えても、全て変質して腐ってしまう。
日本人の求める宗教は、現世と来世における利己的な救済であって、神の子イエスの尊い自己犠牲によって、全人類が救われたとするキリスト教の教義とは本来相容れない。
一見すると敬虔な信徒に見える日本人キリシタンたちも、実際は彼らなりに解釈したキリスト教とは似て非なる独自の宗教を信じているに過ぎないのだと、フェレイラは言う。
キリスト教がシャーマニズムと融合し、独自の進化を遂げることで普及した韓国も、土着性という意味では相当な底なし沼に見える。
本作でソン牧師を崇める村人たちが、世知辛い現世を捨て、天国に優先的に入りたいという自己利益のために信仰しているのは、「沈黙」の日本人キリシタンたちと共通するスタンスだ。
しかし、それが本来のキリスト教の形かどうかは、本作では大きな問題ではないし、宗教の偽善性を告発する映画でも無い。
そもそもミンチョルもギョンソクも、はたまた一見すると信仰に生きているかに見えるソン牧師も、実際には神の愛を信じられない不信心者であり、ポイントは彼らの言葉を信仰者がどう受け取るかだ。
やがて水に沈む、未来の無い終末の村で、人々は少なくとも自分の意思で信仰を選び、救いを求めている。
人間は信じたいことを信じるもので、村人たちは自分たちが崇めるものの正体が何者だとしても、少なくとも神の愛と幸せを感じているのは間違いない。
だからミンチョルがいくら正しいことを言っているとしても、それが人々が欲する事実でないとすれば、何の価値も無いのである。
彼は村で起こっている本当のことを知っていたが、ソンヨンを含む皆の心、なぜ神にすがるのかを理解しておらず、ましてや自分自身がその原因だとは全く考えていないのだ。
彼がようやく人間の心の複雑さ、自分のしたことの意味に気づくのは、全てを失った後。
結局沈むことの無かった村で、老いたミンチョル最後にとる謎めいた行動は、神に対する祈りなのか、呪詛なのか。
容赦無い展開に打ちのめされるが、同時に満足感に満たされるのは、そこに至る納得の人間ドラマがあるからだ。
どんよりとした余韻が長く後を引き、観客を混沌の底なし沼に捕らえて離さない、独創の傑作である。
4大河川整備事業後の韓国の川はアオコが発生しやすくなり、季節と所によってはまるでお茶の川の様になってしまっているらしい。
という訳で、今回は韓国を代表するソジュ「真露 緑茶割り」をチョイス。
氷を入れたタンブラーに真露と濃いめの緑茶を3:7で注ぎ、軽くステアして完成。
ウルトラヘビーな映画の後味を、スッキリとした味わいで中和してくれる。

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ロマンチックなタイムトラベルSFの良作だ。
韓国発のこのジャンルの作品は、ハリウッドでもリメイクされたイ・ヒョンスン監督の「イルマーレ」が有名だが、本作も決して負けていない。
主人公は、末期癌を患った医師のハン・スヒョン。
彼は医療支援に訪れたカンボジアで、赤ん坊の手術のお礼にと、盲目の老人から願いごとを叶えるという10粒の薬を贈られる。
スヒョンの唯一の願いは、30年前に不慮の事故で亡くなった、恋人のヨナに一目会うこと。
ところが1985年にタイムトラベルし、彼女に会うために接触した過去の自分は、事故のことを知ると彼女を助けたいと懇願する。
だが、現在のスヒョンにはヨナを助けられない理由がある。
彼女の悲劇的な死から10年後、出会った女性との間に、愛娘・スアが生まれていたのだ。
もしも結婚直前の仲だったヨナを助けると、スアは存在しないことになってしまう。
そう、本作がユニークなのは、葛藤の軸が現在と過去、異なる時間の自分自身の間にあることだ。
ほとんどやり尽くされた感もあるタイムトラベルものだが、これはちょっと新しい。
過去のヤング・スヒョンは目の前の恋人の命と、彼女との間に思い描く未来を救いたい。
だが、死を目前にしたオールド・スヒョンには、娘と共に過ごして来た20年分のかけがえのない思い出があり、愛するスアを消してしまうことなどとても出来ない。
別の時間にいる同じ人物の中で異なる愛が対立し、恋人か娘か、究極の決断を迫られるのである。
タイムトラベルで生まれるパラドクスの捉え方は、この種の作品の世界観に直結する最重要要素だが、本作はシンプル。
パラレルワールドは生まれず、過去を変えた段階で未来もどんどん変化する「バック・トゥ・ザ・フューチャー」形式で、タイムトラベラー本人の記憶は変わらない。
末期癌の進行と薬の残数、二つのリミットが迫る中、いかにしてオールド・スヒョンとヤング・スヒョンは、相反する目的を達成するのか?
本作は、フランス人作家ギョーム・ミュッソの傑作小説、「時空を超えて(現在邦訳版は映画と同タイトルに改題)」の比較的忠実な映画化だが、ホン・ジヨン監督は韓流らしいウェットなテイストも加え、エモーショナルに盛り上げる。
二人のスヒョンの出す結論、ヨナとスアを二人とも救う唯一の方法は、まあちょっと考えれば分かってしまうのだが、本作はそこからさらにサブキャラクターを巧妙に巻き込んだ捻りがあり、二転三転する物語にドキドキが止まらない。
良質の韓国映画の例に漏れず、俳優陣が素晴らしい。
主人公スヒョンの現在と過去を二人一役で演じる、キム・ユンソクとピョン・ヨハンの絶妙のコンビネーション、ヒロインのヨナ役のチェ・ソジンの可憐さ、サラッと美味しいところを持って行く、名バイプレイヤーのキム・サンホとアン・セハ。
彼らの織りなす優しい愛のドラマに、最後には涙腺決壊。
丁寧に作られた見応えのある作品だが、惜しむらくは30年の時代差があまり生かされていないこと。
例えば「バック・トゥ・ザ・フューチャー」では、80年代と50年代の世相や音楽、ファッションのギャップが大きな魅力になっていた。
韓国の1985年は、ソウルオリンピックを控え、民主化運動が最終章に差し掛かる激動期で、もうちょっと時代性が物語に絡んで来ても良かったと思う。
本作は、相反する二つの愛の落とし所を探す物語、いうことで「ワット・イズ・ラブ」をチョイス。
コアントロー15ml、アセロラジュース45ml、レモンジュース1tsp、 トニックウォーター適量。
タンブラーに氷と素材を入れておき、トニックウォーターを注ぎ、軽くステアして完成。
オレンジ風味のコアントローの甘みと、アセロラの酸味の相乗効果が効いている。
甘酸っぱく飲みやすく、ピンクがかった色味も綺麗で、華やかなカクテルだ。

![]() コアントロー 40度 並行 700ml あす楽 |
実在の心霊研究家、ウォーレン夫妻を描くオカルトホラー、「死霊館」のオープニングに登場した最恐の呪いの人形・アナベルをフィーチャーしたスピンオフ第2弾。
今回はアナベル人形がなぜ誕生したのかを描くビギニングで、孤児院となった田舎の家を舞台に、事故死した少女の形見の人形が人々を恐怖に陥れる。
監督はジェームズ・ワン作品の撮影監督として知られるジョン・R・レオネッティから、闇の中だけで実体を持つオバケというワンアイデアを生かし切った、「ライト/オフ」で脚光を浴びたデヴィッド・F・サンドバーグに交代。
ぶっちゃけ、いまいちパッとしなかった前作より遥かにセンスの良い快作に仕上がった。
※核心部分に触れています。
物語の始まりは1945年の昔。
人形師のサミュエルが、見覚えのある禍々しい人形を丹念に制作している。
シリアルナンバーから、100体が作られたらしいその人形の最初の一体を、彼は最愛の一人娘・アナベルに与えるのである。
まあ例によって、こんなに不気味な造形の人形が引く手数多の大人気という設定は納得しかねるが、そこは映画。
もっとも古い写真で見ると、ミッキーマウスやマクドナルドのドナルドの着ぐるみなんかも、昔のは相当にコワイので、カワイイの基準が現在とは異なっている可能性はある。
というかそういうことにしておこう。
ところが、それから間も無くアナベルは事故死してしまい、映画は一気に12年後に。
サミュエル夫妻は田舎の広大な自宅を、修道女のステファニーに孤児院として解放。
引っ越して来た10代の少女たちの中の、ポリオと闘病中のジャニスが、封印されたアナベル人形を見つけてしまった(見つけさせられた)ことから恐怖劇場の幕が開く。
実はアナベルの死後間も無く、家に入り込んだ霊体の存在に気づいたサミュエル夫妻は、アナベルの幽霊と思い込み、形見の人形の中に入ることを許可する。
しかし実際にはそれはアナベルを装う邪悪な悪魔であり、様々な超常現象の挙句に妻が人形に襲われるに至って、夫妻は教会の力を借りて人形を封印していたのだ。
この基本コンセプトは、懐かしの「ペットセメタリー」に近い。
愛しい人の幽霊を召喚したつもりだったけど、なんか違うのが来ちゃったというやつだ。
私も愛猫に「死んだら幽霊になって戻ってくるんだよ」と言い聞かせているので、このパターンで来られたら簡単に騙されそう。
この悪魔は狡猾なだけでなく、とにかく大胆で暴力的なのが特徴。
人形そのものは突然現れて驚かせる程度なのだが、取り憑いている悪魔が実体化して暴れ回り、人をぶん投げるは骨を折るはやりたい放題。
さらにジャニスの肉体を、無理やり奪おうとするのである。
ヤクザな悪魔に襲われるのが、か弱いシスターと少女たちなので、余計に勝てなそうで絶望感が募る。
中途半端に実体を持ってて、叩かれて痛がったりするのは悪魔的にはどうなのという気もするが、グラント・ウッドのアメリカンゴシックを思わせるロケーションも、ムーディで効果的。
人形、悪魔本体、憑依されたジャニスと、恐怖の対象が三つもあるのに、きちっと役割分担してとっ散らかった印象にならない作劇・演出の手腕はなかなかだ。
サンドバーグの恐怖演出は、「ライト/オフ」を思わせる光と闇の対比を生かしたものから、Jホラーテイストまで引き出しを総動員。
作劇的に面白いのは、物語の前半はジャニスを主人公に彼女の視点で進み、中盤から親友のリンダに入れ替わること。
視点と主人公の入れ替わりはオリジナルの「死霊館」シリーズの特徴でもあるので、おそらく意識しているのだろう。
オバケ屋敷からの脱出ものとして十分に盛り上げると、最後にはきっちりと前作に繋げる。
オカルトカテゴリでは、かなり出来の良い作品だ。
因みに、「死霊館」シリーズは一応実話の触れ込みだが、本作は完全フィクション。
ウォーレン夫妻のオカルト博物館に保管されているホンモノのアナベル人形は、アメリカの絵本「ラガディ・アン」のキャラクター人形(ラストにチラリと出てくる)で、本作の不気味この上ない人形とは全く異なる。
だがこの絵本は、作者のジョニー・グルエルが、幼くして病死した娘のために、彼女がラガティ・アンと呼んで大切にしていた人形を主人公として語った物語で、本作のサミュエルとアナベルの設定にインスパイアを与えているのかも知れない。
今回は悪魔に対抗する天使「エンジェル・フェイス」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、アプリコット・ブランデー15ml、カルバドス15mlをシェイクして、グラスに注ぐ。
スッキリしていて飲みやすいカクテルだが、アルコール度数は相当に高いので、うっかりすると天使の前に悪魔に出会ってしまう。

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2011年の「猿の惑星:創世記(ジェネシス)」から始まる、リブート版新三部作完結編。
本作のキャッチコピーは、「そして、猿の惑星になる」という大胆なもの。
要するに、物語の結末は昨今流行のパラレルワールドにはならず、人類は滅び、猿たちが地球の支配者となる旧シリーズ第一作へと繋がると、明確に言い切っちゃってるのだ。
ならば、前作「猿の惑星:新世紀(ライジング)」の時点では、拮抗していたはずの人類と猿の運命は如何にして交錯し、猿たちは星を継ぐものとなるのだろうか。
主人公のシーザーは、引き続き究極の中の人たるアンディ・サーキスが演じ、宿命の仇敵となるマッククロウ大佐に名優ウッディ・ハレルソン。
旧シリーズの遺産を受け継いだマット・リーヴス監督は、一つの種の滅びと別の一つの種の勃興を、英雄シーザーの物語として見事に昇華し、神話的風格を持つ骨太の傑作に仕上がった。
※核心部分に触れています。
猿インフルエンザウィルスALZ-113のパンデミックにより、人類が滅亡の縁に立たされてから15年。
進化した猿たちは、生き残った人類の武力に怯え、リーダーのシーザー(アンディ・サーキス)の指揮の元、密林に砦を作ってひっそりと暮らしている。
そんな時、人間のいない安全な土地を探すため、旅に出ていたシーザーの息子、ブルーアイズが戻ってくる。
彼は移住できる理想の土地を見つけたのだが、その日の夜、マッククロウ大佐(ウッディ・ハレルソン)率いる軍隊が砦を急襲し、ブルーアイズとシーザーの妻が殺されてしまう。
復讐心に駆られたシーザーは、皆を新天地に向けて出発させると、友人のモーリス(カリン・コノヴァル)、ロケット(テリー・ノタリー)と共に大佐を追う。
途中、うち捨てられた人類の村に立ち寄ったシーザーは、そこで病気で口がきけなくなった人間の少女(アミア・ミラー)を発見。
彼女をノヴァと名付けて連れてゆくことにする。
やがて、一行は大佐のいる要塞にたどり着くが、そこでは思いもよらない事態が起こっていた・・・
“RISE” “DAWN” ときて、今回は“WAR”だ。
原題でも邦題でも、はたまた予告編でも、本作で描かれるのが人類と猿との戦争で、その結果として地球が猿の惑星になることが示唆されているのだが、実はこのタイトルには捻りがあり、巧みなミスリードとなっている。
結論から言えば、猿たちは自衛のための小さな戦いはするが、人類との最終戦争は起こらない。
原題の「War for the Planet of the Apes」を直訳すれば「(地球が)猿の惑星になるための戦争」であり、人類は猿たちを一方的に敵視し、奴隷扱いしたあげく、自分たち同士で戦って自滅するのである。
人類とは違った道を歩んでいたはずの猿たちの世界に、裏切りと復讐が横行し、どんどんと人間化する一方、人類にもある変化が出ている。
猿インフルエンザの抗体の副作用とみられる新たな失病が現れ、人類を地球の支配者たらしめる知性が失われつつあるのだ。
この病を発症した者は、口がきけなくなり知能の低下がみられることから、拡大を恐れた大佐は自軍の発症者たちを殺害、彼の方針に反発する別の部隊との間で戦争が迫っており、戦いの準備のために捕らえた猿たちを使役する。
前作で、廃墟の砦に立て籠もる人類に、馬に乗った猿の軍団が襲い掛かるシークエンスは、明らかに西部劇の白人入植者vs先住民をイメージしていたが、本作での両者の関係は絶滅収容所のナチスとユダヤ人、あるいは日本軍捕虜収容所が投影され、抑圧の構図を強化。
第一作の「猿の惑星」の原作者ピエール・ブールは、第二次世界大戦中仏領インドシナで日本軍の捕虜となり、その時の体験をもとに書かれたのが、泰緬鉄道を巡るイギリス軍捕虜と日本軍の軋轢を描いた「戦場にかける橋」なのである。
本作の収容所と強制労働の描写は、原作者のもう一つの代表作にインスパイアされているのは間違いないだろう。
マット・リーヴスは、他にも「大脱走」や「地獄の黙示録」と言った戦争映画、さらに「許されざる者」などの西部劇、はたまた旧シリーズからも映画的記憶を効果的に引用し、物語をダイナミックに盛り上げる。
リブート版の三部作全体の下敷きとなっているのが、旧シリーズの第四作「猿の惑星・征服」だ。
第三作「新・猿の惑星」で、消滅した地球を脱出し、時間を遡って現代の地球に到達したコーネリアス博士ら進化した猿と、彼らに支配される自分たちの未来を知った人類との間で確執が起こる。
続く第四作では、疫病で犬や猫が死滅し、地球に到達した猿たちの子孫が人類の奴隷となっており、コーネリアスの息子のシーザーが、自由を求めて人類に対して反乱を起こす。
この三部作は基本的に、旧約聖書の「出エジプト記」を思わせる「猿の惑星・征服」の流れを踏襲しており、本作でもそれは変わらない。
前作で「猿は猿を殺さない」という禁を破り、無原罪の存在でなくなった猿たちの物語は、やはり聖書に回帰するのである。
この三部作で人類に起こっていることは、基本的に驕り高ぶりに対する神罰であり、言葉を失うことは、旧約聖書の「創世記」で、神が天まで届かんとするバベルの塔を作った人類の言葉を乱し、お互いに話が通じないようにしたことと符合する。
猿たちは英語を喋れるものの、シーザーなど数頭以外は基本的に非口頭言語でコミュニケーションをとっているのも対照的。
大佐が言葉を失った人間を虐殺するのとは逆に、猿たちが同じ症状の少女ノヴァを仲間として迎え入れるのも同じ文脈だろう。
また人類の抑圧に対して最初に反乱を起こし、猿たちを約束の地に導こうとするシーザーが、エジプトの圧政に対してユダヤ人の大脱出を率いた、モーゼのメタファーであることも明らかだ。
支配者としての驕れる人類を象徴する大佐は、この期に及んでもわが身を振り返るどころか身内と無益な戦を繰り広げるが、復讐に駆られていたシーザーは、仲間の危機にあるべき姿を取り戻す。
自らも病を発症し、言葉を失った大佐を見たシーザーが、構えていた銃をおろし、大佐が拳銃で自殺する瞬間、種としての両者の運命は別たれた。
生きることを放棄した人類は、大いなる自然の力によって淘汰され、復讐ではなく許しを選んだ猿たちは、新たな星を継ぐものとして祝福を受ける。
ただし、前作でコバを殺し、本作でも一時的に大佐を憎しみの心で追ったシーザーは、約束の地で生きることを許されない。
彼はモーゼとして猿たちを導き、進化することで生まれた原罪を背負って死ぬことで、この世界のキリストとなるのである。
三部作を通して、シーザーの葛藤を軸に紡がれた物語はドラマチックにヒートアップし、彼の死と共に新しい世界の創世を描き上げ、完結編としてこれ以上は無い圧巻のフィニッシュ。
もちろん、デジタルキャラクターに命を吹き込み、生身の人間以上にリアルな生命を感じさせたパフォーマンスキャプチャの俳優陣は、VFXクルーと共に大いに賞賛されるべきだ。
以前から言っているけど、アンディ・サーキスにはここらで是非ともオスカーを!
そして本作が特に凄いなと思ったのは、新旧両シリーズの間に大きな可能性をもつ余白を残したこと。
今回は、シーザーの他に、コーネリアス、ノヴァといった旧シリーズと同名のキャラクターが出てくるのだが、旧シリーズの第一作は推定2000年後の未来の話だから同一キャラクターではない。
シーザーの物語は完結したけれど、ここに登場するキャラクターたちそれぞれに、未だ描かれていない物語があるわけで、今でも西洋人の名前の多くが2000年前の聖書から取られているのと同じ様に、旧シリーズの世界では、この時代の話が変形して神話となっていると考えると面白い。
こんな風に感じられるのも、物語の閉じ方が本当に見事だから。
マット・リーヴス、オタクとして最高の仕事をしているのではないか。
同名キャラクターは新旧のシリーズを繋げつつ、同一世界観のスピンオフの可能性を感じさせる。
全世界で現在までに17億ドルの興行収入を上げているドル箱シリーズ、遅かれ早かれリブートされるだろう。
はたしてそれは、若きコーネリアスの物語になるのだろうか。
今回は、シーザーが猿たちを約束の地に導く話なので、「カ・マルカンダ ガヤ プロミス」の2015をチョイス。
イタリア・トスカーナ産のフルボディ、辛口の赤。
メルロー、シラー、サンジョヴェーゼを別々に発酵させた後にブレンド、熟成。
みずみずしく濃厚な果実味と、フレッシュなアロマが楽しめる。
CPも良く、バランスの良い一本だ。
2015はまだ少し若いので、しばらく寝かせてから飲むのも良いだろう。

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タイトルの「ナラタージュ」とは、回想で過去を描くことを意味する。
東京の映画配給会社に勤めている主人公の泉の現在から、記憶の中の大学二年生の夏へ、更に高校三年生の過去へ。
有村架純と松本潤が演じる泉と葉山は、高校の演劇部で出会った、顧問の教師と生徒。
そして、お互いに距離を縮めつつ、一旦は泉の卒業によって別離を迎えるのだが、1年後の夏に彼女が演劇部に客演して再開を果たすと急接近。
二人は共に他人には言えない深刻な心の傷を抱え、お互いを必要としていて、いわば無意識の共依存の関係にある。
だが一方の感情は幼くも真剣な恋で、一方は必ずしもそうでなかったことから、とてもややこしい、抜き差しならない関係に陥るのである。
現在の東京、豪雨の夜を起点に、映画はミステリアスに、少しずつ全貌を見せる。
行定勲監督作品では、幻想の魔都・上海を舞台に双子姉妹の入れ替わりを描いた異色のミステリ「真夜中の五分前」に近い印象。
全編の描写が、泉をはじめとする登場人物の心象風景として機能するのは、いかにもこの人らしい。
泉が葉山にもらった懐中時計を手に見る、悲しみの雨、浄化の雨。
別居中の妻と問題を抱えている葉山が、演劇部で上演するのはシェイクスピアの「真夏の夜の夢」。
これは真夏の夜の森に集まった、恋の問題を抱えた人間と妖精たちが、トリックスターの妖精パックの媚薬の魔法にかかり、相手を入れ替えたりすれ違ったり大騒動を繰り広げる元祖ラブコメ。
こんがらがった現実の人間関係を反映しているのは、言わずもがなだ。
また二人は映画好き設定で、「隣の女」「エル・スール」「浮雲」「ダンサー・イン・ザ・ダーク」などもメタファーとなり、内容を知っていると本作とのシンクロに思わずニヤリ。
効果的に使われるのが、主人公の裸足のアップショット。
何度も出てくるのだけど、それが何時、誰といる時か、どのようなシチュエーションの描写なのかによって、その都度裸足であることの意味が異なる。
泉はただ目の前で起こることに、素直に真摯に向き合っているだけなのだが、彼女の真っ直ぐさが葉山と、坂口健太郎演じる小野の心を狂わせる。
全体を俯瞰すると、ラブストーリーと言い切ることすら躊躇する心理劇。
有村架純も松本潤も地味キャラに徹し淡々と展開するが、丁寧に組み立てたられた心の物語を読み解く面白さがある。
快活なイメージを封印した有村架純がいい。
自分自身が何者で、何を求めているのかに戸惑い、断ち切れない想いを引きずり、追い詰められてゆく演技は説得力がある。
基本彼女の回想形式で進むので、葉山のキャラクターは表層にとどまるが、ある意味ひどくズルくて、優柔不断の塊みたいなダメ男だけど、常に妙な色気を醸し出す松本潤にはちょっと驚かされた。
惜しむらくは文化祭で「真夏の夜の夢」を上演した後、演劇部に起こるあるショッキングな事件が印象的ではあるものの、全体の流れから今ひとつ浮いて感じられること。
もちろんこれは泉と葉山にとっては、過去の記憶に向き合うひとつのきっかけにはなっているのだけど。
本作は濃密な空気を纏ったディープな心理ドラマであり、よく言えば分かりやすく、悪く言えば幼い邦画ラブストーリーのトレンドからは明確に背を向ける。
賛否両論?上等じゃないか。
行定勲や是枝裕和といった実績あるベテランが、本作や「三度目の殺人」の様な、観客とサシで勝負するスタイルの作品を作ってくれるのは大歓迎だ。
今回は舞台なる富山の地酒、清都酒造場の「勝駒 純米」をチョイス。
やわらく上品な中にしっかりとした骨があり、やや辛口でスッキリとした喉越し、適度な酸味のバランスが素晴らしい。
いわばお米の味のフルボディ。
蔵の規模が非常に小さいこともあり、名声が高まる近年ではだんだん入手困難になりつつある。
綿密なドラマに負けない、力のある酒だ。

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公民権運動の時代を背景に描かれる、黎明期のNASAを支えた、実在する三人のアフリカ系女性の物語。
肌の色と性別、二重のガラスの天井に閉じ込められた彼女らはしかし、米ソ宇宙開発競争のなりふり構わぬ状況において、地道な努力により、少しずつ自らの実力を男性社会に認めさせて行く。
原題の「HIDDEN FIGURES」とは、直訳すれば「隠された人々」となる。
三人の女性たちをタラジ・P・ヘリン、オクタヴィア・スペンサー、ジャネール・モネイが生きいきと演じ、ケビン・コスナー、キルスティン・ダンスト、マハーシャラ・アリら実力者が脇を固める重厚なキャスティング。
監督・脚本は敏腕CMディレクターとして活躍し、劇場用長編デビュー作の「ヴィンセントが教えてくれたこと」で注目された、セオドア・メルフィが務める。
1961年、ヴァージニア州ハンプトン。
NASAのラングレー研究所では、多くの黒人女性たちが計算手として働いていた。
実質的なリーダーとして采配を振るっているドロシー(オクタヴィア・スペンサー)は、管理職への昇進を希望しているが、上司のミッチェル(キルスティン・ダンスト)に「黒人グループに管理職は置かない」と却下されてしまう。
メアリー(ジャネール・モネイ)はエンジニア志望だが、白人の学校の単位を条件にしているNASAの規約が壁になっている。
子どもの頃から計算の天才として名高かったキャサリン(タラジ・P・ヘリン)は、黒人女性として初めて、宇宙計画の中枢である宇宙特別研究本部に配属されるが、白人男性ばかりの環境で、なかなか機会を与えてもらえない。
しかし、人類最初の有人宇宙飛行を目指すマーキュリー計画は遅れ、ソ連のボストーク1号に一番乗りを奪われてしまう。
NASA全体が強烈なプレッシャーにさらされる中、本部長のハリソン(ケビン・コスナー)は、キャサリンの稀有な才能を認め、徐々に彼女を重要な任務に就かせるようになる。
その頃、計算手の仕事を不要とするマシン、IBMの巨大なコンピュータがラングレーに運び込まれる・・・・
第二次世界大戦後、戦勝国となった米ソ両国はナチスドイツのミサイル技術者を競って移送、あるいは拘束連行し、自国の技術と融合させ、無限の可能性を追求する宇宙開発競争に突入する。
先行したのはソ連で、1957年10月4日に世界初の人工衛星・スプートニク1号を打ち上げると、1961年4月12日にはユーリイ・ガガーリンが、ボストーク1号により人類初の有人宇宙飛行に成功。
出遅れたアメリカは、1958年になって人工衛星・エクスプローラー1号を成功させ、有人宇宙飛行を目指すが、ここでもソ連の先行を許してしまう。
ロケットを打上げ、地球に帰還させる技術は、そのまま敵国に核の炎を届ける大陸間弾道弾・ICBMの技術であり、宇宙への進出は遥か上空から相手を監視し、丸裸に出来ることを意味する。
冷戦の時代にあって、どちらか一方に宇宙を支配されることは、生殺与奪の権を握られることを意味し、決して許容できる事態ではなかったのだ。
映画の舞台となる1961年のNASAは、まさにソ連宇宙技術陣の猛ラッシュによって、リングのコーナーに追い込まれていたのである。
ボストーク1号に対するアメリカの回答が、一人乗り宇宙船で弾道飛行、軌道飛行を目指すマーキュリー計画であり、この計画がジェミニ計画、アポロ計画による有人月面探査へとつながって行くのだが、宇宙飛行を成功させるには複雑怪奇な軌道計算が必要となる。
まだコンピュータが普及する以前、NASAには優れた数学的才能をもつ女性たちが集められ、いわば人間コンピュータとして働いていた。
本作の主人公となるキャサリン、ドロシー、メアリーが属するのは、アフリカ系の黒人女性たちからなる“西計算グループ”。
三人の中でも、物語の軸となるのは数学の天才、キャサリン・G・ジョンソン。
彼女は実に30年以上に渡って各時代の宇宙計画に参加し、NASAの伝説的女性スタッフ五人をモチーフにした、レゴのフィギュアセットのメンバーにもなった凄い人なのだ。
ロン・ハワード監督で映画化されたアポロ13号の事故で、宇宙飛行士が故障した宇宙船の正確な位置を把握できるシステムを作り上げ、安全に帰還できる軌道を辿れるよう尽力したのはキャサリンなのである。
だが、溢れんばかりの才能の持ち主である彼女たちにも、時代は決して優しくない。
キャサリンが新たに配属された、宇宙特別研究本部のビルには、有色人種の女性用トイレが無く、彼女は時間を浪費していちいち遠くのビルに行かねばならない。
直属の上司は、検算に必要な数字の大半を塗りつぶして渡してくる。
昇進希望を却下されたドロシーは、NASAがIBMコンピュータを導入しようとしていることを知り勉強しようとするのだが、専門書がある白人用図書館では本を借りられない。
メアリーは学校の単位の不足を理由にエンジニア職への転身を拒否されるが、その単位は白人専用の学校でしか取得できないものなのだ。
上司に「君が白人男性だったら、エンジニアを目指したか?」と聞かれたメアリーは、こう答える。
「いいえ。(白人男性なら)とっくに(エンジニアに)なってるから」と。
凡百の男たちを遥かに凌ぐ実力を持っているという自負と、それが認められない現実に対するもどかしい想い。
このあたりのエピソードは、史実がある程度脚色されており、必ずしも現実の彼女たちが経験したことではない様だが、当時の有色人種の女性の置かれた困難な状況を、分かりやすく描き出している。
しかし、差別的な状況は描かれるが、それはあくまでも背景にとどまり、映画は白人男性優位の組織の中で、彼女たちが苦しみながらなし遂げたことを強調する。
本作のファーストプライオリティは過去を告発することではなく、今も色々なガラスの天井を感じている人たちに、先人たちの人生を通じてエールを贈ることだから、このスタンスが相応しい。
白人の登場人物にも有色人種に偏見を持つ者はいるが、いわゆる悪役的な描き方をしておらず、皆それぞれに彼女たちの努力と熱意に次第に心動かされるのも良いバランスだ。
全体、描いている内容はシリアスだが、ユーモアが絶妙なアクセントとなっており、テリングのテンポの良さ、感情移入しやすいキャラクター造形も相まって、非常に物語に入りやすいのである。
時代を象徴するファッションや音楽の使い方も上手く、単に辛さに耐えるだけでない機知に富んだ女性たちの逞しさも魅力的。
コンピュータの時代が本格的にやって来れば、計算手はクビになる。
ならば誰も習得してないプログラミングの技術を皆で覚えちゃうとか、頭の固い男たちをさらっと出し抜くあたりはまことに痛快だ。
そのコンピュータの出した数字が信用できなくて、結局最後は人間の出番になるのも、王道だけど思わず胸をなでおろす。
三人が男性社会の軋轢の中で、実力によって信頼を得て少しずつ前進し、葛藤が各段階でマーキュリー・ロケットの打ち上げとして昇華されるのもカタルシスを呼ぶ。
本作を観たならば、よほど偏屈な人でなければ、誰もが頑張るキャサリンたちを応援したくなるだろう。
ここにあるのは、軽妙なタッチで描かれる、アフロアメリカン現代史にして女性解放史、そしてアメリカ宇宙開発史の、知られざる重要な1ページなのである。
アメリカの宇宙計画を描いた映画には傑作が多い。
同じ時代の「ライトスタッフ」とは、物事の表と裏の関係で、9年後を描く「アポロ13」では彼女らが成し遂げたことのその先が見られる。
ロン・ハワードとトム・ハンクスが共同プロデュースしたTVドラマ、「フロム・ジ・アース/人類月に立つ」は、マーキュリーからアポロまで、有機的に結合したアメリカ宇宙計画を包括的に知ることができる。
これらの作品と合わせて観ると、より本作への理解が深まって面白いと思う。
ところで、幻となった副題「私たちのアポロ計画」は、映画ラストで本部長のハリソンとキャサリンの間で交わされる、この映画のテーマを象徴する印象的なやり取りに引っ掛けられた、ぴったりの物だった。
宇宙計画の歴史も知らず、調べようともせず、他人の付けた火に乗っかって、的外れな文句垂れて炎上させたクレーマー連中は20世紀フォックスに謝れよな。
今回は邦題から「ドリーム」をチョイス。
ブランデー40ml、オレンジ・キュラソー20ml、ぺルノ1dashを、氷と共にシェイクしてグラスに注ぐ。
コクのある甘味のブランデーとオレンジの風味が組み合わさり、ぺルノが両方を引き立てる。
ゴージャスな味わいの甘口のカクテルだ。

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ヨン・サンホ監督によるゾンビ映画の大傑作、「新感染 ファイナル・エクスプレス」で、ソウル発プサン行きのKTXが出発する数時間前を描く、文字通りの前日譚。
日本、韓国とも「新感染」の後に遅れて公開されたが、実際にはアニメーション作品の本作が先に作られ、続編として実写作品が企画されたというユニークな経緯を持つ。
出てくるのは娼婦に、ヒモに、何人ものホームレス。
韓国社会の底辺の人々が、突然のゾンビパニックに襲われる。
非常に間口の広いエンターテイメントとなっていた「新感染」に対し、勝手知ったるアニメーション手法で描かれる本作は、ネガティヴパワーMAXのゴリゴリの作家映画だ。
「新感染」の感動を期待した人はビックリするだろうが、この容赦の無さこそ、人間の底知れぬ闇を描く本来のヨン・サンホなのである。
※核心部分に触れています。
ある夜、一人の老ホームレスが首から血を流し、ソウル駅の一角で倒れる。
異変に気付いた弟は助けを求めるが、誰にもまともに取り合ってもらえず、兄は息絶えてしまう。
弟は、「兄が死んでしまった、助けて下さい」と駅員にすがるが、奇妙なことに兄の遺体は大量の血痕を残して、忽然と消えていた。
その頃、風俗店から逃げ出し、場末の安ホテルに身を寄せているヘスン(シム・ウンギョン)は、恋人のキウン(イ・ジュン)が勝手に自分の写真を出会い系サイトに載せ、売春させようとしていることに気づく。
問い詰めるとキウンは逆切れする始末で、怒ったヘスンは勢いでけんか別れ。
行き場もなく夜の街をさまようが、ソウル駅で狂暴化した暴徒が人々を襲っている所に出くわし、ホームレスの男と共に逃げ回ることになる。
その頃、キウンの元に出会い系サイトのヘスンの写真を見た男がやって来るが、彼は家出した娘を探していた父親(リュ・スンヨン)だった。
怒り心頭の父親の車に乗せられたキウンは、ヘスンを探して安ホテルに戻るが、そこでも既に異変が起こっていた・・・
主人公ヘスン役の声優は、前作の「新感染」で列車に乗り込んでくる“最初の感染者”を演じたシム・ウンギョン。
足の傷の位置など共通点もあるが、コスチュームも違うし同一キャラという設定ではない模様。
世界観以外は、物語的に繋がっている訳ではないので、本作単体で観ても問題ない。
それでも、二部作としての構成はよく考えられていて、こちらもある種の父娘ものの構造を持ち、韓国社会の様々な問題を提起する社会派の寓意劇なのも共通。
だが、「新感染」が災厄からの脱出、即ち絶望の中の希望を描くのに対し、ゾンビの街となったソウルを舞台とするこちらは、絶望の中の絶望を描く。
前作に登場するのは韓国社会の中流以上の人物だが、本作の軸になるのは韓国社会の底の底にいる人々だ。
ヘスンは家出して借金まみれとなり、風俗店で働いていた元娼婦で、彼氏のキウンは自堕落で甲斐性なしのヒモ。
ゾンビパニックの中、へスンと行動を共にするのは、ソウル駅を根城にするホームレスのおじさんだ。
「新感染」の登場人物は、色々問題を抱えていたとしても、基本的には満ち足りた人々で、突如として起こった災厄から脱出さえすれば、希望に帰り着くことが出来た。
一方で、最初からどん底の日々を送っている本作の登場人物にとって、生きていても、ゾンビに襲われても絶望しかないのである。
前作は「泣けるゾンビ映画」として話題となったが、本作には劇中でヘスンとホームレスのおじさんが号泣するシーンがある。
家出してきたことを悔い、「家に帰りたい」と泣くヘスンに、おじさんが「俺の帰る家はもうどこにも無いんだ!」と泣き返す。
しかも、ただ家に帰りたいという登場人物の切なく細やかな願いに、物語が用意する答えは、この上なく残酷だ。
映画のプロットは、安全な場所を探して夜のソウルを彷徨う、ヘスンとホームレスのおじさん、彼女らを探すキウンと父親、二組四人によるツートラック。
ヘスンにとって、長年会っていない父親は、絶望的な状況を抜け出せるかもしれない、ほんのわずかな希望であり、「新感染」におけるプサンのようなものだ。
ところが、物語のクライマックスで、ヨン・サンホは悪意たっぷりに、観客もろともヘスンを地獄へと突き落とす。
ここでの展開は、キャラクターの行動原理的にやや強引ではあるのだが、映画のテーマをクッキリと際立たせる。
権力に対する不信も、本作はより辛辣だ。
現代のゾンビ映画のひな形となった、ジョージ・A・ロメロの「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」は、ただ一人生き残った黒人男性がゾンビと間違えられ、白人のガンマンたちに射殺されるというショッキングな結末を迎える。
「新感染」のラストで、ヨン・サンホはこれの反転をやったわけだが、本作ではさらに再反転。
状況を把握できていない政府は、ゾンビに追われて逃げ惑う人々をホームレスの暴動と勘違いし、武力を使って鎮圧するのである。
ヨン・サンホは、二部作のゾンビを、人々が非日常として見て見ぬふりをするホームレスのメタファーと語っており、このシークエンスはまさに映画の世界観を象徴する。
前には軍・警察、後ろにはゾンビ。
力なき人々は、誰からも助けられずに滅びてゆくほかはない。
ソウルからプサンへと逃げ延びる「新感染」の構造が、朝鮮戦争の展開と酷似していることは前作のレビューで指摘したが、本作で人々が権力に見捨てられて死んでゆく様は、朝鮮戦争の緒戦、韓国軍がソウル市民と防戦している自軍を置き去りにしたまま退路の橋を爆破し、軍民に多大な犠牲者を出した韓国史の恥部“漢江人道橋爆破事件”を思い出した。
「ソウル・ステーション/パンデミック」は、実写とアニメ、社会階層の上下、希望と絶望など、いくつもの要素が「新感染 ファイナル・エクスプレス」の対になるように作られた作品だ。
ここには前作のような、人間の無償の愛によるエモーショナルな感動はなく、社会の最下層の人々が辿る悲惨すぎる運命に、違う意味で泣けてくる。
ゾンビを社会問題のメタファーとして描き、本当に恐ろしい人間の心の闇を浮かび上がらせる、まことに正統派のロメロ映画の子孫であり、優れた寓意劇だ。
しかしこれ、もし単体で公開していたら、ヨン・サンホの過去の作品同様に、興行的成功は難しかっただろう。
知る人ぞ知るクセの強い映画作家だった彼を、圧倒的に観やすい「新感染」に導いたプロデュースチームは、新海誠に「君の名は。」を作らせた川村元気と同じ位凄いことをやっている。
何気にこの二人、作風は真逆だが共にカルトなアニメーション監督で、2016年の夏に突如として国民的大ヒット作を放つなど、経歴に通じる部分があるのが面白い。
大メジャーに躍り出た彼らの次回作に興味は尽きないが、ヨン・サンホは漫画家の古谷実のファンで、「シガテラ」をアニメーション映画化する希望をもっているそうだ。
うーん、チョイスがいかにもこの人らしくて、ものすごく観たいぞ。
ヒットはしなそうな気がするけど(笑
今回は、夏のソウルの夜に起こった黙示録的悪夢の物語なので、寝苦しい暑い夜に飲みたい、焼酎の真露をベースにした「真露カッパー」をチョイス。
冷やした真露45~60mlを適量のミネラルウォーターで割り、スティック状に細くスライスしたキュウリを入れて完成。
焼酎につけるとキュウリの甘味が強調されて、飲みながらポリポリ食べるのが美味しい。

![]() 真露 25°ペット 1.8L 1本 |