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■TITLE INDEX
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閉塞した日常を送る6人の高校生の物語。
彼らが抱える葛藤は、同性愛、摂食障害、不通の愛、暴力衝動、予期せぬ妊娠、etc。
孤独と焦燥の中で生きる10代の若者たちを鮮烈に描く、岡崎京子の代表作の一つ「リバーズ・エッジ」が原作出版からほぼ四半世紀を経て映像化された。
メガホンを取るのは、これが初の漫画原作作品となる行定勲。
「アズミ・ハルコは行方不明」が記憶に新しい、演劇畑の瀬戸山美咲が脚色を担当し、二階堂ふみ、吉沢亮ら旬の俳優たちが文字どおりに体を張った熱演を見せる。
6人それぞれが抱える、痛々しい青春の衝動が事件を引き起こし、”生きる”とはどういうことかをナイフのような鋭さで突きつけてくるのである。
高校生の若草ハルナ(二階堂ふみ)は、恋人の観音崎(上杉柊平)から激しい虐めを受けていた山田一郎(吉沢亮)を助けたことから、彼と親しくなる。
ある日、ハルナは一郎からある秘密を打ち明けられる。
それは学校近くの河原に放置された死体のことだった。
彼は死体を見ることで、生きる元気をもらっていると言うのだ。
ハルナの後輩で、大量の過食と嘔吐を繰り返すモデルの吉川こずえ(SUMIRE)も、一郎と秘密を共有し、この死体を心の拠り所にしていた。
一方、田島カンナ(森川葵)は、同性愛者であることを隠している一郎への一方通行の愛を募らせ、ハルナの友人でありながら観音崎との逢瀬を重ねる小山ルミ(土居志央梨)は、父親のわからない子を妊娠する。
淀んだ日常の中、若者たちの間に少しづつ不協和音が増幅し、やがて彼らの人生を永遠に変える運命の夜がやってくる・・・
なんとヴィヴィッドな!
岡崎京子の傑作を、色々な意味でよくぞここまで見事に映像化した。
驚くほど忠実でありながら、極めて映画的なのである。
原作が書かれたのは1993年から94年にかけてだが、下手に話を現在に移し替えなかったのがよかった。
のちに"失われた20年”と呼ばれることになる、バブル崩壊からの急速な景気後退で、それまでのイケイケムードとは打って変わって、若者たちにとって希望的な未来の見えない時代が到来する。
スタンダードの狭いアスペクト比が、世界の閉塞を象徴して印象的。
映画は、あえてここが何年と言う時代設定に言及はないものの、原作を踏襲したセリフの内容などから、基本的には原作と同じ93〜94年頃と捉えていいのだろう。
90年代の後半から本格的に普及が始まった携帯電話の類は出てこず、それ故にお互いの想いがすれ違う構造。
これが現在なら、劇中の幾つかの"事件”は起こらない(起こせない)のだから、やはり時代を反映した物語なのだ。
面白いのは劇中の登場人物が、一人ずつインタビューを受けるというアイディア。
あくまでも登場人物であって、演じる役者のインタビューでは無いのだけど、ここだけは2018年に生きる素の彼・彼女らが透けて見える。
基本的に本作に描かれる青春の痛みはどれも普遍的なもので、それ自体に四半世紀のズレは感じない。
だけど、日頃から10代の若者たちと濃密に接する仕事をしていると、葛藤する状況に置かれた時の反応や考え方はやはり少し違うと感じる。
上だけ見ていればよかったバブル時代が終わり、いきなりハシゴを外された90年代の若者たちは、五里霧中の時代に相当に迷い、抗ったと思う。
対して、最低限満ち足りてはいるものの、生まれてからずっと不況で、低成長の時代に生きている現在のティーンエイジャーは、ある意味達観していると言うか、自分に対しても他人に対しても現状をありのまま受け入れる傾向が強い。
もちろん個人によっても違いはあるが、端的に言えば世代全体として丸いのだ。
本作は、性格の違う6人のインタビューのシーンがあることによって、時代を跨いだ物語の同質性と同時に、現在からあの時代を俯瞰する視点を獲得しているのである。
一郎は同性愛と虐め、観音崎は抑えられない暴力衝動、こずえは摂食障害、カンナはあまりにも一途すぎる一郎への愛、ルミは父親の分からない妊娠と、登場人物はそれぞれにハードな問題を抱えているが、物語の軸であり、実質的な語り部のポジションにいるハルナだけは、特に大きな葛藤を抱えていない。
いや彼女の場合は、葛藤がないのが葛藤とも言える。
"二つ目の死体”が消えた後、こずえがハルナを指して「あの人は何でも関係ないんだもん」とうそぶくシーンがある。
彼女はいわば底の無い箱のようなもので、色々な感情が入ったとしても、すぐに抜け落ちて空っぽになってしまうのだ。
だから、観音崎とのベッドシーンでも全くの無気力、いわゆるマグロ状態で、セックスに感じるどころか艶っぽさの欠片もなく、関心はいつも見ているテレビ番組に飛んでいる。
観音崎とルミの、欲望のみで繋がっていた激しいベッドシーンとは、あらゆる意味で対照的。
性衝動と食べ物の関連性演出は、ちょっと「アデル、ブルーは熱い色」を思い出した。
悶々とした葛藤を抱え、常に心の痛みに突き動かされている一郎やこずえたちにとって、そんな風に全てをさらっと流してしまうハルナは、つかみどころのないタイプの人間で、だからこそ彼女のことが知りたくなってしまうのだろう。
エキセントリックな登場人物たちそれぞれが抱える青春の衝動が事件を起こし、生きることの意味を終始問いかけてくるドラマにあって、ニュートラルなポジションのハルナはそのまま観客の目となり、観客も彼女と共に考える。
そして、いくつかの出来事を経験することで、ハルナも少しづつ変わってゆく。
ある事件によって初めて感情を爆発させると、その次は人生を変える生と死のドラマが彼女を待っている。
これは、ただ生まれて漠然と時間を過ごしているハルナが、生きることの意味を考え、生きたいと思うようになるまでの物語。
物語の終わりには、青春のイニシエーションを経験し、成長したハルナの世界観を象徴するように、窮屈だったスタンダードの画面も、少しだけ広くなるのである。
覚悟を決めた渾身の演技を見せる、若い俳優たちが素晴らしい。
それぞれにベストアクトであり、今までのキャリアを超えた、新しい一面を表現している。
ハルナの内面を繊細に表現する二階堂ふみはもちろんだが、優しげな仮面の下にフツフツと沸き立つ怒りを隠した吉沢亮のあるショットの表情はゾッとさせられたし、森川葵なんて雰囲気がいつもと全く違うからクレジット見るまで本人と確信できなかった。
漫画の映画化といってもコスプレ系の作品ではないのに、キャラクターの再現度も恐ろしく高く、どの登場人物も画面に登場した瞬間に、記憶の中にいる漫画のキャラクターと完全に一致するのだから凄い。
若者たちのリアルな生と性を引き出し、四半世紀前の原作を現在に作る意味を明確に描き出した行定監督にとっても、本作は新たな代表作になったのではないだろうか。
近年の作品ではメランコリックな叙情性を持ち味としていたが、ここでは初期作品を思わせるギラギラした生っぽさが加わった。
岡崎京子の原作のファンとしてもこれは納得、作り手の情念を感じさせる傑作である。
今回は、川繋がりでウィスキーベースのカクテル「ムーン・リバー」をチョイス。
バーボンウィスキー40ml、コアントロー10ml、グレープフルーツジュース10mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
1985年に上田和男氏が考案したカクテルで、その名は映画「ティファニーで朝食を」で、オードリー・ヘップバーンが歌った主題歌にちなむ。
バーボンのコクとコアントローの甘みを、グレープフルーツの酸味が引き立てる。
鮮やかな黄色が川に映った満月を思わせる、美しい一杯だ。

![]() オールドグランダッド 80 750ml 40度 (☆スリムボトル)箱なし |


嘗て多くの人を殺めた殺人鬼、ビョンスはアルツハイマー症を発症し、表の仕事も裏の仕事も引退。
ところが、彼の住む街で新たな連続殺人事件が起こり、ひょんなことから二人の元・現シリアルキラーが邂逅を果たす。
主人公が認知症のサスペンスは、ナチスの戦争犯罪を扱った「手紙は覚えている」が記憶に新しいが、本作は主人公が忌むべき存在である殺人鬼というのがまずは意表を突く設定。
まあ確かに人殺しだって人間だから、歳もとれば認知症にもなるだろうけど、殺人鬼と認知症という二つのキーワードをリンクさせた原作者のアイディアはまことに秀逸。
しかもデジュと名乗った若い方のシリアルキラーは、いつに間にかビョンスに接近し、しれっと彼の娘のウンヒと恋仲になっているから、お父さんビョンスは大慌て。
無慈悲に他人の命を奪う二人の表の職業が、本来命を守る側の獣医と警官なのも面白い。
「主は与え、主は奪う」は聖書のヨブ記の言葉だが、神の様に他人の生殺与奪を握る殺人者もまた、奪い、そして与えるという訳か。
もっとも、やってることは同じだが、二人の動機、というか“殺しの思想”は対照的。
ビョンスは少年時代に暴力で家族を苦しめる父親を殺したことから、「正しい殺人もある」という考えに取り憑かれ、そこらじゅうにいる“世の中のゴミ”を、自分の基準でジャッジし葬ってきた。
身勝手極まりないが、どちらかといえば歪んだひとりビジランテの様なものだろう。
一方のデジュは、幼い頃にやはり母親に暴力を振るう父親を刺そうとしたところ、守ったはずの母親に殴られて瀕死の重傷を負ったのがトラウマ要因。
母親の裏切りによって、彼は全ての女性を恨み、殺すようになる。
殺しのスタイルも、素手で殺すビョンスに対してデジュは道具を使うなど、似ている様で、実はあらゆる点が対照的な二人のシリアルキラーの対決こそ、この映画の核心だ。
お互いの闇を知る怪物同士、父親と恋人の正体を知らない、無垢なるウンヒを間に挟んだ命がけの駆け引きは非常にスリリング。
ビョンスは、必死にウンヒをテジュから引き離して守ろうとするのだが、何しろ認知症なので、自分が何をやっているのか、次の瞬間には忘れてしまう。
例えば、ウンヒから映画館でデートしていると聞くと、急いで迎えに行くのだが、いざ映画館に入ると目的を忘れて、映画を観て笑い転げているうちに二人はいなくなってしまったり、肝心のデジュが何者かもしばし失念してしまうのだ。
“覚えられない”という現象が、サスペンスを増幅するのと同時に、もの哀しくシニカルな笑いにも繋がって、他に類の無い独特のムードを醸し出す。
またビョンスの視点以外のサブプロットを、極力排しているのもポイント。
病の進行と共に、彼の意識はだんだんと現実と妄想が入り混じったものになり、スクリーンに映っているものが事実なのかも曖昧になってくるのだ。
いったい何が本当の記憶なのか、誰が事件を起こしてるのかも含め、自分自身を信じられないビョンスと一体化した観客も、大いに混乱するしかない。
この辺り、ちょっとクリストファー・ノーランの出世作、「メメント」を思わせる凝った作劇で、心理サスペンスとかなりボリュームのあるアクションシークエンスとのメリハリも効いている。
残酷性が抑えられていることもあり、韓国犯罪映画の鬱要素は全部入ってるのに、後味は結構スッキリ。
ほぼ出ずっぱりで大怪演を見せる名優ソル・ギョングと、テジュを演じるキム・ナムギルとの火花散る演技合戦、ウンヒ役のキム・ソリョン、オ・ダルスらのキャスティングも絶妙。
心の迷宮に彷徨う118分、予想外の展開に何度も驚かされる、秀逸なクライムスリラーだ。
今回は、ラムベースのカクテル「アウトロー」をチョイス。
ラム20ml、テキーラ10ml、ウゾ10ml、グリーン・ミント・リキュール10ml、ライム・ジュース10mlをシェイクし、グラスに注ぐ。
好きな人にはたまらない、ウゾのアニス香がアクセントの相当に強いカクテルだが、グリーン・ミントの爽快感とライムの酸味が飲みやすく演出している。

![]() ウゾ 12 700ml kawahc |


ペルーの山奥からイギリスへとやって来たジェントルな子グマ、パディントンを描くシリーズ第二弾。
前作は、パディントンがロンドンに念願の家と家族を見つける物語だったが、今回はすっかり定住している彼が泥棒の濡れ衣を着せられる。
新参者には、社会はそんなに優しくないのだ。
果たしてパディントンは、事件の真相を解き明かして、人々の信頼を取り戻せるのか?
パディントン役のベン・ウィショーとブラウン一家の面々はもちろん続投。
ポール・キング監督は、異文化の出会いという前作の内容を踏まえつつ、登場人物たちの新たな葛藤により作品を深化させる。
素晴らしかった前作を、軽々と超える快作コメディだ。
※核心部分及びラストに触れています
ロンドンのブラウン一家の家に暮らすクマのパディントン(ベン・ウィショー)は、故郷のペルーで自分を育ててくれたルーシーおばさん(イメルダ・スタウントン)の100歳の誕生日プレゼントを物色中。
アンティークショップで、ロンドンの名所を描いたステキな飛び出す絵本を見つけたパディントンは、ロンドンに憧れていたおばさんへのプレゼントにぴったりだと思うのだが、それは世界に一冊しかない特別な絵本でとても高価。
そこで絵本を買うために、アルバイトに精を出す。
ところがある夜、アンティークショップに泥棒が入り、絵本を盗むのを目撃したパディントンは、追跡したものの逃げられてしまい、あろうことか自分が泥棒と間違えられて逮捕されてしまう。
刑務所に送られ、すっかり落ち込んだパディントンだが、ひょんなことから凶悪犯のナックルズ(ブレンダン・グリーンソン)と友達になり、それなりに楽しい生活を送りはじめる。
一方、パディントンの無実を信じるブラウン一家は、彼が見たという真犯人のポスターを作り、町中に貼り付けるも手がかりがつかめない。
実は真犯人は、ご近所に住む落ち目の俳優のブキャナン(ヒュー・グラント)なのだが、彼はこの絵本が秘密の宝の地図であることを知っていた・・・・
現代性、社会性、そしてもちろん娯楽性もたっぷりの、文句の付けようのない完璧なファミリー映画だ。
原作者のマイケル・ボンドは、第二次世界大戦中にドイツ軍の猛爆撃を受けるロンドンから田舎に疎開するために、トランクを持って名札を下げ列車に並ぶ子供たちのニュース映画を見たことから、この物語を着想したという。
2014年に公開された第1作は、アフリカ・中東からの難民がヨーロッパに押し寄せるのと時を同じくして作られ、パディントンが様々な事情で故郷を無くした難民のメタファーであることを明確化する。
未知の存在であるパディントンを、ホストたるロンドンっ子たちがいかにして迎え入れるのか?
同時に、ゲストたるパディントンは、他人の領域でどのように振る舞うべきなのか?
外部から来た存在が、硬直した家族の現状を変えるという「メアリー・ポピンズ」の話型を応用しつつ、異文化の出会いと衝突による葛藤と、相互理解を描いた優れた作品だった。
今回、すっかりロンドンに定住したパディントンは、ご近所の人気者になっているものの、彼を”危険な異分子”とみなして敵視する人も相変わらずいるのがポイント。
そこで、定住の次のプロセスとして“仕事”につくのだが、例によって新しい体験は失敗ばかりで、遂には泥棒の濡れ衣を着せられて不当逮捕されてしまうのだが、それみたことかと嘲笑する者も、信じていたパディントンに裏切られと考えショックを受ける者もいる。
そしてもちろんブラウン一家のように、彼の無実を信じて疑わず、身を粉にして救出に尽力する人々も。
パディントンが、一人の市民としてロンドンに定住していたからこそ分かる、新参者への不安定な信頼という現実がここにある。
囚われの身となったパディントンの方も、自分が本当にブラウン一家にとって“家族”と言える存在なのかと疑心暗鬼に陥り、ナックルズの口車に乗って脱獄の片棒を担ぐことになってしまう。
この辺り、実際の移民の若者が、社会からの疎外感を募らせて裏社会や過激派に堕ちてゆく過程を思わせてちょっと社会派。
まあパディントンは根が生真面目だから、決して悪には染まらないのだけど。
ブラウン一家の抱えていた問題は、前作で基本的に解消しているので、パディントンの心配はもちろん杞憂。
彼らは囚われた大切な家族を救うために、一致団結したチームとなって活躍する。
前半は刑務所に送られたパディントンが、なぜかナックルズと仲良くなって、刑務所をスイーツパラダイス化しちゃう楽しげなシークエンスと、塀の外でブラウン一家が真犯人を探す話、ブキャナンが絵本に隠されたお宝の謎を解くプロセスが並行して描かれる。
そして後半になると、三つのプロットがお宝のありかを目指し、一気に収束してゆくのである。
新キャラクターでは、ブレンダン・グリーンソン演じるナックルズも良いが、パディントンを陥れる悪役ブキャナンが出色の出来だ。
落ち目で借金まみれなのに、自意識過剰なナルシストというこの役は、ヒュー・グラントに当て書きされたという。
まあ本人は仕事がドッグフードのCMだけ、みたいに落ちぶれてるわけじゃないけれど、「ブリジット・ジョーンズの日記」をはじめ、数々のラブコメでダメ男を演じてきたグラントにとっては、かなり自虐的なキャラクター。
しかし、前作のニコール・キッドマン同様に、おバカな悪役を心底楽しそうに演じていて本作の白眉と言える。
主役のパディントンまでも食い気味に、本当に最後の最後まで美味しいところをさらってゆくのだ。
各種オマージュ感じさせる見せ場もたっぷり。
刑務所の時計台は「モダン・タイムズ」だし、気球での脱出はギリアムの「バロン」か、もしかして「空かける強盗団」あたりも入っているだろうか。
刀を持ったブキャナンに対するバード夫人のセリフ「銃を持った相手にナイフだって?」は、「アンタッチャブル」で、ナイフを持った殺し屋にショーン・コネリーが言うセリフと同じで、その直後にあっさり逆転されちゃうのも一緒だ。
そして飛び出す絵本を見たパディントンが、絵本の中に入り込むような描写は、嘗て日本でも放送されていた人形アニメーション版「パディントン・ベア」そのもの。
あの作品ではパディントンは立体の人形なのだが、彼以外のキャラクターや町は飛び出す絵本の様な切り紙で作られているユニークな表現が印象的だった。
遊び心のあるディテールで小ネタをつなぎながら、ヘンリーが凝ってるヨガからジョナサンの趣味の鉄道模型まで、前半で細かく配したブラウン一家の伏線をパーフェクトに回収してゆくコミカルかつ小気味良い展開は、まさにストーリーテリングのカタルシス。
本当に無駄なカットが全く存在しないのだ。
思いっきり笑って、最後にはパディントンと人々の慈愛の心に泣き、奇しくも本作のクランクアップの日にその死が公表された原作者への、エンドクレジットの追悼文で二度泣き。
もうちょっとだけ、パディントンを取り巻く社会のネガの部分が強くても良い気がするが、その辺の塩梅は作家のさじ加減。
観終わると、無意識に周りの人々に優しくなれる、ファミリー映画の教科書にしたい傑作である。
今回はパディントンの故郷、ペルーを代表する蒸留酒「タベルネロ ピスコ」をチョイス。
元々ペルーは葡萄の栽培に適していて、スペインの入植とともにワイン造りが盛んになったのだけど、ペルー産ワインが本国のワイン業者を圧迫しているとして締め出され、ワインの代わりに作られるようになったのが、同じ葡萄を原料とするブランデーのピスコ。
現在ではいくつもの銘柄が作られていて、蒸溜所や葡萄の種類で味わいに違いがある。
40°を超える非常に強い酒だが、香り豊かで口当たりはまろやでクセがなく、そのものの味を楽しめるロックがオススメ。
カクテルベースとしても便利な一本。

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これは実にユニークな作品だ。
一昨年まで東京藝術大学大学院に在籍する学生だった清原惟が、その修了作品として監督したのが本作。
昨年開かれたユーロスペースでの卒業制作展で話題を呼び、その後PFFアワード2017グランプリを受賞。
本来は非商業映画ながら、今年改めてレイトショー公開されることになった、注目の“デビュー作”だ。
冒頭、狭くて暗い部屋の中で、真っ白なパジャマやネグリジェを着た少女たちが、安っぽい音楽で無邪気に踊っている。
するとその中の一人が、突然「シャッターの音がする」と言い出す。
彼女がこの映画の主人公の一人、「セリ」だ。
昔は店舗だったらしい、この家の玄関はシャッターなのだが、その音は他の少女たちには聞こえていない。
もうすぐ14歳の誕生日を迎えるセリは、父が失踪して以来、母の桐子と二人暮らし。
思春期の彼女は、最近桐子に恋人が出来たことに心乱されている。
一方、記憶を無くした「さな」は、フェリーの船上で知り合った透子によって、彼女の家に招き入れられ、そのまま同居人となる。
一見関係無い二つの物語だが、実は舞台となっているのは同じ家なのだ。
これは一体どういうことなのだろうか?
映画が進むうちに、二つの物語は同じ家の時空が僅かにずれた、パラレルワールド的な関係であることが分かってくる。
それぞれの主人公、セリは父親を、さなは記憶を失っている。
ともに自分の大切な何かを無くした二人は、どこからともなく聞こえてくる声や音、気配、時には襖の穴などの痕跡となって、お互いの喪失を埋めるかのように共鳴。
二つの世界の接触は徐々に不穏な空気を増幅し、しかし独立したまま話は進む。
本作を鑑賞した印象を一言で言えば、俗っぽくない黒沢清だろうか。
リンチやリヴェットに影響を受けているという清原監督は、大学院では黒沢清に師事していたそう。
ただ、彼の映画にある見世物的な外連味や強い観念性はあまり感じない。
アプローチが形而上的なのは同じだが、もう少し世界観の軸足が実在性にまたがっている様に思うのだ。
いわゆる三幕の構造は、無くはないものの希薄。
並行する二つの世界というアイディアは、「インターステラー」や「フリンジ」の様なSF的展開には足を踏み入れない。
どちらかが現実でどちらかが幻、あるいはどちらかが未来でどちらかが過去、いやいやもしかしたら片方の世界の人々は死んでいる・・・? などと、いくらでも想像はできるものの、二つの物語の主従を含めて、そこは重要ではないのだ。
セリは襖に明けた穴から何を見たのか。
さなのプレゼントの箱には何が入っていたのか。
画面には映らない、閉塞した日常と非日常との境界への畏怖と憧憬、観客の心の中に膨れ上がる形而上的イメージこそが、この映画の核心だろう。
ポリフォニックに展開する物語は、徐々にエントロピーを増大させながら、同時にキャラクターの内面の葛藤については一定の収束を見る。
この塩梅が絶妙で、観客は世界観の謎への分かりやすい解を欲しながらも、物語が断ち切られることを納得させられてしまうのだ。
映画の閉じ方は難しく、本作の様な謎で引っ張る作品はなおさらで、作者の天性のセンスを感じさせる。
学生映画だから、正直色々な部分で稚拙さも感じるが、贔屓目に見ればそんなところも荒削りな味わい。
築90年の小さな民家を、時空の迷宮に仕立て上げた空間設計、胸騒ぎを掻き立てる音響演出などのテリングは、間違いなく相当に非凡である。
清原惟、この名は覚えた。
白日夢の様な不思議な世界観の作品なので、「デイドリーム・マティーニ」をチョイス。
シトラスウォッカ90ml、オレンジジュース30ml、トリプルセック15ml、シロップ1dashを氷を入れたミキシンググラスでステアし、冷やしたグラスに注ぐ。
柑橘類のフレッシュな香りが、甘味と酸味のバランスを引き立て、白日夢の幻想に誘う。

![]() ストリチナヤ シトラスウォッカ 37.5度 750ml |


昨年の「夜は短し歩けよ乙女」「夜明け告げるルーのうた」の勢いそのままに、異才・湯浅政明が永井豪の伝説的傑作漫画「デビルマン」と、がっぷり四つに組んだ。
人類の天敵、捕食するものとして、別の種族が突如として現れ、その争いの中で、人類の罪深き本質が見えてくるという「デビルマン」の世界観は、その後「寄生獣」や「エヴァンゲリオン」、「東京喰種トーキョーグール」に至る膨大なフォロワーを生んだが、映像化は意外と少ない。
近年にはOVAや「009」とのコラボ作もあったが、私の様な昭和世代には原作漫画とは別物になっていたTVアニメ版だろうし、もう少し若い世代には、歴史的失敗作となった那須博之監督の実写映画が記憶に新しいだろう。
今回はNetflixのオリジナル作品の枠組みなので、放送コードのくびきから解放され、やりたい放題。
アニメーション作品としては初めて、原作の最初から最終章のハルマゲドンに至るまでが描かれ、そのまま原作を再現すると残酷すぎるビジュアルも、湯浅作品らしい独特の映像表現が上手い塩梅で中和させている。
原作全てとは言っても、あの時代の少年漫画にありがちな、行き当たりばったりの展開は、キャラクターの役割を含めて整理されて、良い意味での強引さは“らしさ”として残しつつ、21世紀の作品としてモダナイズ。
70年代の学ラン不良少年たちが、ヒップホップ化してラッパーになってるのはご愛嬌としても、例えば"アモンに次ぐ戦士"のはずなのに、原作では早々に出てきて死んでしまうシレーヌを、中ボスとして全体のミッドポイントに再配置。
さらにジンメンに喰われて取り込まれるのは、唐突に登場する明の友だち・サッちゃんではなく明の母親になっている。
面白いのはこの改変の結果、ジンメンとの戦いのエピソードが、原作フォロワーの「寄生獣」の母の敵討ちと同じような意味付けになっていること。
他にも、原作ではこれまたなんの伏線も無しに現れるミーコが、設定を大幅に変えて明や美樹のチームメイトになっていたり(原作のミーコは別キャラで登場する)、殆ど描かれなかった牧村家の両親とデーモン化する美樹の弟のエピソードが追加されるなど、全体に人間関係が密接になっているので、後半のカタストロフィにおける数々の喪失の感情が強化されている。
しかし脚色による改変の目的は、基本的にこの一点に絞られ、最近のリブート作品にありがちな、やたら設定をこねくり回して複雑化する方向に行かなかったのは良かった。
そして、感情対比表現としての“愛”と“喪失”は、最終的にサタンの中にある明への感情として純化される。
原作同様に、恐怖に取り憑かれ、自滅する人間の愚かさを強調しつつ、最後には悪魔には無いはずの"愛”の感情に明確に落とし込み、破滅と救済が一気に収束されてゆくのである。
これをサタンを矮小化する改悪と捉えるファンも少なくなさそうだが、私は悲しきサタンと共に泣いた。
実に湯浅作品らしい解釈であり、熱く支持したい。
Netflix版「DEVILMAN crybaby」は単純な原作の映像化ではなく、永井豪と湯浅政明という二人の作家のコラボレーションから生まれた、新しいイメージの「デビルマン」だ。
ここでは1+1は単純な=2ではなく、例えば=Aであるような予測不能の化学変化を起こしている。
映画でもなく、TVでもない、ネット配信という可能性は、またしても非常にユニークかつハイクオリティな作品として結実した。
少なくとも「デビルマン」の映像化としては、過去の全作品中でベストであり、唯一無二の独特のアニメーション演出は、何度も繰り返して観たくなる快作である。
ところで、原作には無いエンドクレジット後のアレは、サタンを滅ぼした神によるリセットという理解で良いのだろうか。



開拓時代のアメリカ。
謎めいた“牧師”によって執拗に追われ、攻撃されるある女性の人生を、4章構成で描く異色の西部劇。
主人公のリズをダコタ・ファニング、少女時代をエミリア・ジョーンズが演じ、屈強な肉体と歪んだ信仰を持つ牧師をガイ・ピアースが怪演する。
監督・脚本はオランダ出身のマルティン・コールホーヴェン。
アメリカ資本も入ってはいるが、実際のロケーションもプロダクションも、オランダをはじめとする欧州の複数の国の合作体制で行われているヨーロッパ映画だ。
今まであまりスポットが当てられたなかった、西部開拓時代の女性史の闇。
マカロニにオマージュを捧げた、パワフル&ダークなダッチ・ウエスタンである。
とある村で助産師として働く唖の女性リズ(ダコタ・ファニング)は、年の離れた夫と二人の子どもと共に暮らしている。
夫の連れ子である息子はなかなか母親として認めてくれないが、村人からは頼られ、夫には愛されて、幸せな生活を営んでいる。
しかしある時、村の教会に新しい牧師(ガイ・ピアース)が赴任し、礼拝で彼の顔を見たリズは恐怖に戦慄する。
すると、礼拝に来ていた妊婦が産気づき、リズはすぐに対処しようとするが難産となり、母親の命を救うため、やむなく赤ん坊を犠牲にする。
この事件によって、彼女と村人の間には微妙な距離ができ、逆恨みした父親が家に押しかけて来て、家畜を殺されてしまう。
牧師はリズに「汝の罪を罰する」と告げると、しばしば彼女と家族の周りに現れ、少しずつ精神を追い詰めてゆく。
実は、リズと牧師の間には、二人だけが知っている恐ろしい因縁があった・・・・
4章からなる物語は、リズが小さな村で家族と幸せに暮らす第1章から始まり、突然の異物“牧師”の出現によって非日常へと突入すると、第2章、第3章と彼女の過去へと遡ってゆく。
現在を起点に時間を逆行し、「なぜこうなったのか?」を描いてゆく作品には、主人公の男の自殺の瞬間から、彼の人生を遡ることで現代韓国史を描き出した「ペパーミント・キャンディー」が有名だが、本作の構成もまたきちんとした意味がある。
はたして牧師は何者なのか、リズと過去に何があったのか、第1章で提示された謎で観客の興味を引っ張り、徐々に二人の間にある因縁が明かされて行くと共に、物語の全貌と映画のテーマがくっきりと浮き上がってくるという仕掛け。
タイトルの「ブリムストーン」とは燃える石、硫黄のこと。
「Fire and brimstone」の慣用句になると神の怒りを指し、黙示録20章は「彼ら(獣と偽預言者)は生きたまま硫黄の燃える炎の池に投げ込まれた(These both were cast alive into a lake of fire burning with brimstone.)」とその光景を描写している。
本作で描かれるリズの人生は、まさにいくつもの炎によって焼かれる様な過酷なものだ。
第1章で現在の幸せを失うと、第2章ではなぜか一人で荒野を彷徨う少女時代の彼女が、人買いの手に落ち娼館に売られ、娼婦に身を落とす。
男たちに暴力的に支配される日々、しかしそんな生活ですら甘受する彼女の前に、またしても牧師が姿を現わす。
最初ジョアンナと名乗っていた彼女が、なぜリズという名に変わったのか、なぜ普通に話していたのに唖になったのか。
ミステリアスに展開する映画は、第3章で起点であるオランダ移民のコミュニテイにたどり着き、遂に牧師とリズの本当の関係が明かされるのである。
第2章、第3章で描かれるのは、女たちへの徹底的な抑圧だ。
妻は夫との性交渉を拒む権利を持たず、抵抗すれば鞭でひどく殴られ、口ごたえすれば禍々しい金属の口枷を嵌められる。
その名も娼館“インフェルノ”に囚われた娼婦たちは、どんなに男にいたぶられても反撃を許されない。
キスを拒んで男の舌を噛めば、目には目の論理で舌を切り取られる。
それでも彼女たちが声を上げようとするなら、命を賭けるしかない。
しかし夫の目の前で首を吊って見たとしても、既に愛のカケラも持たない相手にはなんの痛みももたらさない。
これは#MeTooの嵐が吹き荒れる今、ある意味で非常にタイムリーな作品だ。
力が正義のマッチョな男性優位社会の中で、ジョアンナ改めリズをはじめ、決定権を持たない女性たち人生は、ほとんど男運まかせ。
リズの様に最悪の巡り合わせだと、タイトル通り心も体も炎で焼かれ、たとえ優しい男に出会えたとしても、彼らは弱肉強食の荒野では相対的に無力だ。
彼女には歪んだ信仰と、欲望という偽りの愛に基づく、ありとあらゆる暴力が降りかかり、牧師はその比喩的な象徴と言える。
しかも本作はヨーロッパ映画。
ハリウッド映画にありがちな予定調和を、ことごとく裏切ってくる。
虐げられる者に助けは来ず、無垢なるものは失われ、第1章の後日談となる最終の第4章に至っても、物語は観客の望むものは見せてくれない。
劇中、神の視点を思わせる鳥瞰ショットが何度も出てくるが、この映画の世界には男の肉欲を満たすための神はいても、女たちを守る神はどこにもいないのである。
物語の終わりに微かに見える希望も、あくまでもリズの人間としての尊厳と自由を求める行動によってもたらされたもので、神の言葉を都合よく語り、信仰を盾に性差別と抑圧を正当化する、男性原理的キリスト教社会に対する痛烈な批判と言える。
そういえば、アメリカ開拓時代の奴隷制度の闇を最初に描いた「アンクル・トム」も、ハンガリーのゲザ・フォン・ラトヴァニ監督によるヨーロッパ映画だった。
本作もオランダ人作家が、異国に渡った同胞をモチーフとしたからこそ描けた、個性的かつ非凡な西部劇である。
声を封じられたリズを、説得力たっぷりに演じるダコタ・ファニングが素晴らしい。
少女の様な無垢さと母親の貫禄を同時に感じさせる成熟した演技を見せるが、まだ23歳だったのには逆に驚いた。
子役の頃から見てるので、勝手にもう30歳くらいかと思っていた。
彼女のローティーン時代を演じるエミリア・ジョーンズも、ダコタの十代の頃とそっくりで、一瞬どちらが演じているのか分からなくなるほどのピッタリなコンビネーション。
しかし、そんな魅力的な主人公と互角以上の存在感なのが、最狂の変態ストーカー“牧師”を演じたガイ・ピアースだ。
あまりのゲスっぷりにリアルな人間ではなく、霊的な悪鬼の類かと思っていたくらい。
リズの首元にヴァンパイアのキズの様なもの(鞭のキズなのだろうが)があったり、一度死んだはずなのにピンピンして現れたり、リズが牧師の超自然的な力を匂わせたり、明らかにそういう印象に持って行っている。
これは欲望の限りに虐げる男と、懸命に抗う女を象徴的に描いた寓話なので、牧師は偽りの神の子=悪魔という捉え方で良いのかも知れない。
今回はオランダ系移民社会に端を発する物語なので、オランダを代表するビール銘柄「ハイネケン ロングネック」をチョイス。
1873年に、ジェラルド・ハイネケンがアムステルダムの一角で創業し、140年後の現在では世界中に愛飲者がいるフルーティーで非常に飲みやすいビール。
付け合わせる料理も選ばない使い勝手の良い一本で、キリリと冷やしてグイッといただきたい。

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ピクサー・アニメーション・スタジオの最新作は、メキシコの重要な祝日である”死者の日(Día de Los Muertos)"をモチーフにした、ファミリーファンタジー。
音楽に憧れる靴屋のせがれが、ひょんなことから死者の国へソウルスリップ、家族の歴史にまつわる秘密を解き明かし、何世代にも渡る誤解を解くべく冒険を繰り広げる。
脚本はエイドリアン・モリーナとマシュー・アルドリッチ、「トイ・ストーリー3」のリー・アンクリッジが監督を、モリナーがコ・ディレクターを務める。
ピクサーの長編アニメーションで、英語圏以外の人間キャラクターが主役となるのは、今回が初めて。
メキシコ文化の、極彩色の死者の国の世界観が圧巻。
音楽要素とビジュアルが密接に結びつき、驚くべき未見性に満ちた傑作である。
ミゲル・リヴェラ(アンソニー・ゴンザレス)は、メキシコの小さな街サンタ・セシリアに住む12歳の少年。
靴工場を営む彼の家では、ミゲルの高祖父にあたる人物が音楽家になるという夢を追い、妻のママ・イメルダ(アラナ・ユーバック)と娘のママ・ココ(アナ・オフェリア・ムルギア)を捨てて失踪したことから、音楽が禁止されている。
だが、地元出身の偉大なミュージシャン、今は亡きエルネスト・デ・ラ・クルス(ベンジャミン・ブラッド)に憧れるミゲルは、密かに音楽家になりたいという夢を抱いていた。
死者の日に、音楽のコンテストが開かれることを知ったミゲルは、ギターを借りるためにデ・ラ・クルスの霊廟に侵入する。
ところが、飾られていたギターを奏でた瞬間、ミゲルは死者たちが住む死者の国に迷い込んでしまう。
そこで彼は、ガイコツになったママ・イメルダや一族のご先祖様たちと出会う。
日の出までに元の世界へ戻らないと、ガイコツ化して永遠に家族と会えなくなることを知ったミゲルは、ひょんなことから知り合ったヘクター(ガエル・ガルシア・ベルナル)と共に、デ・ラ・クルスにあることを頼むため、冒険の旅に出るのだが・・・
原題の「Coco」は、物語のキーパーソンとなるミゲルの曽祖母の名前だが、映画全体のイメージは劇中歌から取られた邦題の「リメンバー・ミー」の方が分かりやすい。
どうもディズニーは、最初”死者の日”そのものをタイトルに考えていたフシがあり、この映画の企画が始まってしばらくたった2013年に”Día de Los Muertos”を商標登録しようとしている。
当然これはメキシコ系コミュニティの大反発を受けて撤回を余儀なくされ、いわゆる文化盗用のイッシューに触れないためにも、結果的にキャラクターの固有名詞の「Coco」になった模様。
まあ”Día de Los Muertos”を英訳すると、ジョージ・A・ロメロのゾンビ映画と同じ
”Day of the Dead”になっちゃうから、それはそれでどうかと思うが。
それでは、モチーフとなっている”死者の日”とは何か。
これは前夜祭の10月31日から、カソリックの諸聖人の日である11月1日と翌2日かけて、メキシコ全土で行われる死者を迎える祭りで、アメリカのメキシコ系コミュニティでも盛大に祝う。
この祭りの期間、人々はご先祖様の霊を迎えために、オフレンダという豪華な祭壇を自宅に設けるほか、街も墓も飾り付けられる。
要するに日本のお盆に近い祭りなのだけど、やたらと派手なのが特徴だ。
過去にも様々な映画に登場してきたが、近年では「007 スペクター」のアヴァンタイトルが記憶に新しい。
アメリカのハロウィンと共通するディテールも多く、日付もかぶるので混同されがちだが、基本的には異なったテーマを持つ祭りである。
知られざる家族の秘密を巡る冒険を中心軸とした筋立ては、ピクサーらしくミステリアスでドラマチック。
「人間は二度死ぬ」という言葉がある。
一度目の死は肉体がこの世から消えた時、二度目の死は覚えている人が誰もいなくなった時。
残念ながらこの言葉の原典はわからないが、松田優作や永六輔の言葉、あるいは福永武彦の「草の花」や萩尾望都の「トーマの心臓」にも同様の記述がある。
洋の東西や時代を問わず、人間の死の捉え方として一つの真理をついた言葉なのだと思う。
そして本作もまた、”記憶の死”を愛憎入り混じる”家族の絆”と結びつけることで、物語のテーマに直結するプロットのバックボーンを構築している。
この映画の世界では、現世に覚えてくれている人、語り継いでくれる人が誰もいなくなると、死者の国からも存在が消えてしまうのだ。
逆に言えば一人でも存在を覚えてくれる人がいれば良いわけで、デ・ラ・クルスやフリーダ・カーロみたいなセレブは、死んでも永遠が保障されているようなもの。
人生の出会いと別れには、二種類あると思う。
例えば学校の友だちや職場の仲間などは、人が自ら選び取り一生の中で横に広がってゆく絆。
これは一世代のみ続き、全員の死とともに消えてしまう。
対して、選べる出会いと選べない出会いがある家族の場合は、一個人の生を超えて、一つの系統として紡がれ、のび続けてゆく縦の絆だ。
家族というミニマムなコミュニティが続いてゆくかぎり、死者たちは永遠の命を持つことができ、逆に家族にすら忘れられた者は、文字どおり消滅するしかない。
人生の終わりに近づいているママ・ココが、今も覚えている人、帰りを待ち続けている人。
嘗て家族を捨てたことにより、一族が音楽を禁じる切っ掛けになった”音楽家”とは一体誰なのか。
運命のいたずらによって、一度は途切れた真実の愛が再び繋がる物語は、ぶっちゃけ相当に泣ける。
高度に完成された物語に負けず劣らず、テリングも素晴らしい。
カートゥーン風味でありながら、非常に写実的なディテールは、今までのピクサー作品からさらなる技術的進化を感じさせるものだ。
2.39 : 1のアスペクト比を最大限に生かした、オレンジ色の花びらが降り積もるド派手な極彩色の死者の国、重力の法則を無視して立体的に造形された世界は、被写界深度と大気演出によってより大きさと距離感が強調される。
以前から何度か書いているが、異世界ファンタジーは観客に「その世界へ行ってみたい」と思わせたら半分勝ったようなもの。
その点本作は文句無しで、これほど没入できる大スクリーンで観たい映画もちょっと無い。
もちろん、音楽が重要な要素となった作品だけに、音楽シーンも大きな見どころ、聴きどころ。
邦題にもなっている「リメンバー・ミー」を始め、素晴らしいリリックが心に沁み、サウンドトラックも出色の出来栄えだ。
ところで、一部で話題になったのがリールFX制作、ホルヘ・グティエレス監督の2014年作品、「ブック・オブ・ライフ〜マイロの数奇な冒険〜」のパクリ疑惑。
確かに、メキシコが舞台で死者の日をモチーフにしていること、主人公が音楽家になることを禁じられていること、死者の国で冒険することなど重要なベース設定に共通点がある。
プリプロダクション段階で、ある程度の影響を受けているのは、制作期間を考えてもあり得ることだろう。
しかし完成した映画そのものは、まるで別物だ。
モチーフに対するアプローチも異なるし、キャラクター造形もプロット構造も全く違う。
むしろそれぞれ違った魅力がある作品なので、両方鑑賞して比べてみたら面白いと思う。
同時上映の「アナと雪の女王 家族の思い出」も、忘れられていた家族の愛を再発見する物語で、テーマ的な共通項がある。
22分という短編としては異例のボリュームだが、その分オラフを主人公とした物語はヒューマン(?)ドラマとして見応え十分だ。
今回は、ディズニー+ピクサーの合わせ技で、まとめて泣かせにかかっているな。
今回は、死者の日にご先祖様と乾杯したいメキシカンビール「テカテ」をチョイス。
バハ・カリフォルニアのテカテという街に生まれた、メキシコを代表するビール銘柄で、本国を含む北中米でシェアNo.1を誇る。
キレとコクのバランスがよく、スッキリとした味わい。
ソルティードッグの様にグラスの縁に塩をつけ、ライムを絞ったところに注ぎ入れ、グビグビやるのがメキシコ流だ。

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