2018年01月16日 (火) | 編集 |
形而上的なる我が家。
これは実にユニークな作品だ。
一昨年まで東京藝術大学大学院に在籍する学生だった清原惟が、その修了作品として監督したのが本作。
昨年開かれたユーロスペースでの卒業制作展で話題を呼び、その後PFFアワード2017グランプリを受賞。
本来は非商業映画ながら、今年改めてレイトショー公開されることになった、注目の“デビュー作”だ。
冒頭、狭くて暗い部屋の中で、真っ白なパジャマやネグリジェを着た少女たちが、安っぽい音楽で無邪気に踊っている。
するとその中の一人が、突然「シャッターの音がする」と言い出す。
彼女がこの映画の主人公の一人、「セリ」だ。
昔は店舗だったらしい、この家の玄関はシャッターなのだが、その音は他の少女たちには聞こえていない。
もうすぐ14歳の誕生日を迎えるセリは、父が失踪して以来、母の桐子と二人暮らし。
思春期の彼女は、最近桐子に恋人が出来たことに心乱されている。
一方、記憶を無くした「さな」は、フェリーの船上で知り合った透子によって、彼女の家に招き入れられ、そのまま同居人となる。
一見関係無い二つの物語だが、実は舞台となっているのは同じ家なのだ。
これは一体どういうことなのだろうか?
映画が進むうちに、二つの物語は同じ家の時空が僅かにずれた、パラレルワールド的な関係であることが分かってくる。
それぞれの主人公、セリは父親を、さなは記憶を失っている。
ともに自分の大切な何かを無くした二人は、どこからともなく聞こえてくる声や音、気配、時には襖の穴などの痕跡となって、お互いの喪失を埋めるかのように共鳴。
二つの世界の接触は徐々に不穏な空気を増幅し、しかし独立したまま話は進む。
本作を鑑賞した印象を一言で言えば、俗っぽくない黒沢清だろうか。
リンチやリヴェットに影響を受けているという清原監督は、大学院では黒沢清に師事していたそう。
ただ、彼の映画にある見世物的な外連味や強い観念性はあまり感じない。
アプローチが形而上的なのは同じだが、もう少し世界観の軸足が実在性にまたがっている様に思うのだ。
いわゆる三幕の構造は、無くはないものの希薄。
並行する二つの世界というアイディアは、「インターステラー」や「フリンジ」の様なSF的展開には足を踏み入れない。
どちらかが現実でどちらかが幻、あるいはどちらかが未来でどちらかが過去、いやいやもしかしたら片方の世界の人々は死んでいる・・・? などと、いくらでも想像はできるものの、二つの物語の主従を含めて、そこは重要ではないのだ。
セリは襖に明けた穴から何を見たのか。
さなのプレゼントの箱には何が入っていたのか。
画面には映らない、閉塞した日常と非日常との境界への畏怖と憧憬、観客の心の中に膨れ上がる形而上的イメージこそが、この映画の核心だろう。
ポリフォニックに展開する物語は、徐々にエントロピーを増大させながら、同時にキャラクターの内面の葛藤については一定の収束を見る。
この塩梅が絶妙で、観客は世界観の謎への分かりやすい解を欲しながらも、物語が断ち切られることを納得させられてしまうのだ。
映画の閉じ方は難しく、本作の様な謎で引っ張る作品はなおさらで、作者の天性のセンスを感じさせる。
学生映画だから、正直色々な部分で稚拙さも感じるが、贔屓目に見ればそんなところも荒削りな味わい。
築90年の小さな民家を、時空の迷宮に仕立て上げた空間設計、胸騒ぎを掻き立てる音響演出などのテリングは、間違いなく相当に非凡である。
清原惟、この名は覚えた。
白日夢の様な不思議な世界観の作品なので、「デイドリーム・マティーニ」をチョイス。
シトラスウォッカ90ml、オレンジジュース30ml、トリプルセック15ml、シロップ1dashを氷を入れたミキシンググラスでステアし、冷やしたグラスに注ぐ。
柑橘類のフレッシュな香りが、甘味と酸味のバランスを引き立て、白日夢の幻想に誘う。
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これは実にユニークな作品だ。
一昨年まで東京藝術大学大学院に在籍する学生だった清原惟が、その修了作品として監督したのが本作。
昨年開かれたユーロスペースでの卒業制作展で話題を呼び、その後PFFアワード2017グランプリを受賞。
本来は非商業映画ながら、今年改めてレイトショー公開されることになった、注目の“デビュー作”だ。
冒頭、狭くて暗い部屋の中で、真っ白なパジャマやネグリジェを着た少女たちが、安っぽい音楽で無邪気に踊っている。
するとその中の一人が、突然「シャッターの音がする」と言い出す。
彼女がこの映画の主人公の一人、「セリ」だ。
昔は店舗だったらしい、この家の玄関はシャッターなのだが、その音は他の少女たちには聞こえていない。
もうすぐ14歳の誕生日を迎えるセリは、父が失踪して以来、母の桐子と二人暮らし。
思春期の彼女は、最近桐子に恋人が出来たことに心乱されている。
一方、記憶を無くした「さな」は、フェリーの船上で知り合った透子によって、彼女の家に招き入れられ、そのまま同居人となる。
一見関係無い二つの物語だが、実は舞台となっているのは同じ家なのだ。
これは一体どういうことなのだろうか?
映画が進むうちに、二つの物語は同じ家の時空が僅かにずれた、パラレルワールド的な関係であることが分かってくる。
それぞれの主人公、セリは父親を、さなは記憶を失っている。
ともに自分の大切な何かを無くした二人は、どこからともなく聞こえてくる声や音、気配、時には襖の穴などの痕跡となって、お互いの喪失を埋めるかのように共鳴。
二つの世界の接触は徐々に不穏な空気を増幅し、しかし独立したまま話は進む。
本作を鑑賞した印象を一言で言えば、俗っぽくない黒沢清だろうか。
リンチやリヴェットに影響を受けているという清原監督は、大学院では黒沢清に師事していたそう。
ただ、彼の映画にある見世物的な外連味や強い観念性はあまり感じない。
アプローチが形而上的なのは同じだが、もう少し世界観の軸足が実在性にまたがっている様に思うのだ。
いわゆる三幕の構造は、無くはないものの希薄。
並行する二つの世界というアイディアは、「インターステラー」や「フリンジ」の様なSF的展開には足を踏み入れない。
どちらかが現実でどちらかが幻、あるいはどちらかが未来でどちらかが過去、いやいやもしかしたら片方の世界の人々は死んでいる・・・? などと、いくらでも想像はできるものの、二つの物語の主従を含めて、そこは重要ではないのだ。
セリは襖に明けた穴から何を見たのか。
さなのプレゼントの箱には何が入っていたのか。
画面には映らない、閉塞した日常と非日常との境界への畏怖と憧憬、観客の心の中に膨れ上がる形而上的イメージこそが、この映画の核心だろう。
ポリフォニックに展開する物語は、徐々にエントロピーを増大させながら、同時にキャラクターの内面の葛藤については一定の収束を見る。
この塩梅が絶妙で、観客は世界観の謎への分かりやすい解を欲しながらも、物語が断ち切られることを納得させられてしまうのだ。
映画の閉じ方は難しく、本作の様な謎で引っ張る作品はなおさらで、作者の天性のセンスを感じさせる。
学生映画だから、正直色々な部分で稚拙さも感じるが、贔屓目に見ればそんなところも荒削りな味わい。
築90年の小さな民家を、時空の迷宮に仕立て上げた空間設計、胸騒ぎを掻き立てる音響演出などのテリングは、間違いなく相当に非凡である。
清原惟、この名は覚えた。
白日夢の様な不思議な世界観の作品なので、「デイドリーム・マティーニ」をチョイス。
シトラスウォッカ90ml、オレンジジュース30ml、トリプルセック15ml、シロップ1dashを氷を入れたミキシンググラスでステアし、冷やしたグラスに注ぐ。
柑橘類のフレッシュな香りが、甘味と酸味のバランスを引き立て、白日夢の幻想に誘う。

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