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19世紀に一世を風靡した伝説的なアメリカの興行師、P・T・バーナムの半生をモデルとしたミュージカル。
極貧の中で育ち、幼なじみの名家の令嬢チャリティと結婚したバーナムは、家族を幸せにするために、様々な個性を持った人々を集め、誰も見たことのないショーを作り上げる。
タイトルロールを演じるのは、「レ・ミゼラブル」の美声が記憶に新しいヒュー・ジャックマン。
妻のチャリティをミッシェル・ウィリアムズ、ビジネスパートナーとなるフィリップ・カーライルをザック・エフロンが演じる。
素晴らしい歌曲を手がけたのは、「ラ・ラ・ランド」でアカデミー賞に輝いたベンジ・パセックとジャスティン・ポール。
監督は、「ナルト」のハリウッド版を手掛けることもアナウンスされた、VFX畑出身のマイケル・グレイシーが務める。
ゴージャスなミュージカルで、見事な長編デビューを飾った。
19世紀半ばのアメリカ。
貧しい家に生れたバーナム(ヒュー・ジャックマン)は、幼なじみのチャリティ(ミッシェル・ウィリアムズ)を幸せにすることを誓って結婚。
だが、仕事はどれも長続きせず、妻と二人の娘に約束した生活をさせられないことを悩んでいる。
そんな時、バーナムは普通と違うゆえに日陰の人生を送っている人々を集めたショーを発案し、これが大ヒットして成功を掴む。
しかし、バーナムのサーカスには喝采を送るファンがいる反面、新聞の批評は最悪、保守的な市民からは「恥さらし」という反発を受け、反対運動を繰り広げる者もいる。
なんとか自分たちを上流社会に認めさせようと、バーナムはパートナーとなったフィリップ(ザック・エフロン)の人脈を使い、サーカスの団員と共に英国のビクトリア女王に謁見。
続いてヨーロッパで絶大な人気を博していた、スウェーデンの歌手ジェニー・リンド(レベッカ・ファーガソン)をアメリカに招聘し、大成功を収め、一流の興行師として名を知られるようになる。
一方で、ジェニーの興行に夢中になり、サーカスの人気は徐々に低下、団員たちとの間にも亀裂が生まれる。
そしてある夜、それまで築き上げてきたものが一気に崩れ落ちる事件が起こってしまう・・・
素晴らしいじゃないか。
反骨精神溢れる主人公が、社会の底辺のそのまた裏側に生きる異形の者たちを集めた見世物ショーを立ち上げ、新しいもの好きの大衆に大人気に。
小人症の親指トム、濃い髭を持つ女性歌手のレティ、黒人の空中ブランコ乗りのアン、多毛症の犬男、刺青男・・・性別も肌の色も年齢も違う彼らに共通するのは、社会のマジョリティとは異なる”何か”を持っていること。
彼らはそれ故に忌み嫌われているのだが、バーナムは逆にそれを唯一無二の個性として肯定し、ショーに引き入れるのである。
ただし、この映画はそんなバーナムを聖人君子とは描かない。
本作の共同脚本家は、実写版「美女と野獣」の監督として知られるビル・コンドン。
自らも性的マイノリティであることをカミングアウトしている彼は、人の心はそう単純でないことをよく知っている。
興行師であるバーナムにとって、ショーの出演者は金儲けの手段に他ならない。
バーナムが、世間からはフリークと呼ばれる彼らを受け入れるのは、別に多様性の社会を目指しているのではなく、その個性が金のガチョウに見えているからなのである。
社会の底辺の境遇に生まれ、金でとことん苦労したバーナムは、いわば承認欲求に突き動かされた、コンプレックスの塊だ。
ショーで金銭的に成功しても飽き足らず、かつて自分を蔑んだ上流社会、特に妻の両親を見返したいという想いに取り憑かれている。
それ故、ロンドン帰りのフィリップを演出家に迎え入れると、コネを使って米国の元宗主国であり、欧州エスタブリッシュメントの頂点たるイギリスのビクトリア女王に謁見。
その時に出会ったジェニー・リンドを米国に招き、必死に自らを一流に見せようとする。
結果的に、バーナムは望み通りに妻の両親をやり込めるまでになるのだが、それは同時に彼の人間的な器の小ささと卑しさを露見させる。
自分が”上流社会の一員”であることを印象付けたいバーナムは、ジェニーのコンサートにやって来たショーの団員たちを、パーティーの会場から締め出してしまうのだ。
本来、被差別階層にいた主人公を描いているうちに、いつの間にか主人公自身の無意識の差別感情が顕在化するのは「ズートピア」を思わせる。
フィリップが一目惚れしたアンとの、当時は御法度であった異人種間の恋が、その構造を強化する。
本作が描くのは、第一義的には自らの出自へのコンプレックスからの解放。
一度は成功を収めたものの、ある事件によって全てを失ったバーナムは、そこで一旦振り返って、自分が本当は何を成し遂げてきたのかを改めて知るのである。
それは金でも社会的地位でもない。
バーナムの最大の功績は、社会の常識に縛られず、打ちひしがれている者に光を与え、誰もが自由に生きることを肯定したことにある。
社会(周囲)を変えるには、先ずは自分が変わらねばならない。
これは多くの人々をそれぞれのコンプレックスから自由にした主人公自身が、実は一番囚われたままだったという寓話だ。
面白いのは、バーナムのショーが一般大衆には大受けしながら、批評家には目の敵にされる物語の展開が、本作が現実に辿った軌跡と完全に一致すること。
昨年末の本国公開時に、映画評論まとめサイトのRotten Tomatoesでは55パーセントの批評家が否定的な評価を出し「腐った」を意味するRottenマークが付いてしまった。
そのせいかオープニング興行はわずか880万ドルの4位スタートと、決して満足出来るものにはならなかった。
しかし実際に観た観客からは熱烈に支持され、口コミの影響もあり4週に渡って4位をキープした後に3位にジャンプアップ、現在に至るまで実に10週連続ベスト10という粘り腰の興行を展開し、全世界での興行収入は3億6千万ドルを超える大ヒットに。
実際のところ、本作は非常に欠点の分かりやすい作品であることは確かだ。
物語の構造的にはまさに”ザ・定番”であって、新鮮味は皆無。
本年度アカデミー賞にノミネートされた「ディス・イズ・ミー」を始めとする歌曲、冒頭から全編に散りばめられたミュージカルシークエンスは圧巻の仕上がりだが、間に挟まれるドラマ部分は良くも悪くも掘り下げられておらず概ね凡庸。
もしもドラマ部分だけをつなぎ合われたら、誰の記憶にも残らないだろう。
否定的評価を下した米国の評論家の気持ちは分かるが、私は本作はこれで良いと思う。
劇中のショーと同じく、この映画は観客の見たいものをそのまま見せてくれる。
主人公は基本的に善意のキャラクターで等身大の弱さを持ち、一度は調子に乗って天狗になるが、最後にはきちんと改心して成長するし、彼を含めて全てのキャラクターが大きな挫折を乗り越え、何らかの成長を遂げて幸せになる。
本作の”言いたいこと”の核心部分は、ほぼ全てミュージカルシークエンスのリリックとして表現されているので、ドラマの弱さはある程度確信犯なのだろう。
ジェットコースターの様な落差は、よく言えば見世物としてのメリハリに繋がっている。
そしてこれもまた、時代に呼ばれ、時代を反映した作品だ。
反対派の暴徒たちと多様性を象徴するショーの団員たちとの争いに、昨年から相次いでいる白人至上主義団体とリベラル派の衝突を思い出した人は多いと思う。
本国の米国なら尚更だ。
この映画が大ヒットするのは、やはりトランプの時代に対するある種の揺り戻しなのかも知れない。
今回は多様性をイメージして、「エンジェルズ・デイライト」をチョイス。
グラスにグレナデン・シロップ、パルフェ・タムール、ホワイト・キュラソー、生クリームの順番で、15mlづつ静かに重ねてゆく。
液体の比重の違いで、四色の層が混じり合わないのだが、スプーンの背をグラスに沿わせて、そこから注ぐようにすれば崩れにくい。
虹を思わせる美しいカクテルを目で楽しみ、飲んでは多様な味が溶け合う感覚を楽しむユニークなカクテルだ。

![]() ヘルメス バイオレット 720ml(26-3) |


東欧革命前夜の1980年代、退廃の都ワルシャワを舞台に、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの童話「人魚姫」を再解釈。
陸に上がった人魚姫は、ワイルドな美貌に美しい声とダンスでナイトクラブの歌姫となり、王子様ならぬイケメンのバンドマンと恋をする。
アグニェシュカ・スモチンスカ監督の長編デビュー作は、言わばミュージカルとファンタジーとホラーをごった煮したダークな夜会。
基本的な筋立てはアンデルセンの原作とほぼ同じだが、最大の違いは人魚姫が一人でなく、シルバーとゴールデンと名乗る、対照的な性格の姉妹だということ。
いや原作の人魚姫にも姉妹はいるのだが、本作では共に陸に上がって、二人で物語のテーゼとアンチテーゼを形作るのだ。
華奢な少女の様な上半身とは対照的な、巨大でヌメッとした魚の下半身の造形が良い。
この映画では、彼女らが人間の姿にメタモルフォーゼすると、下半身の穴が塞がってしまい、まるで人形の様になる。
バンドマンと恋をしたシルバーは、魚のままの下半身で交わることを彼に拒否され、マッドサイエンティストから、本物の人間の下半身の移植手術を受けることを決意。
その代償に、声という歌姫としての機能を失う。
ツノを引き抜いた悪魔が、人間界でロックバンドのボーカルとして活動していて、彼がシルバーに人間になることの危険性を警告するのも、ぶっ飛んだ世界観を強化する面白いアイデア。
もしも、愛が成就せず、相手の男が別の女と結婚すれば、シルバーは海の泡になって消えてしまう運命。
その場合は、結婚式の翌朝、太陽が昇るまでに彼を殺さねばならないのは原作通り。
もともと人魚たちにとって、人間の男はエサに過ぎず、ワルシャワもアメリカに行く前に立ち寄っただけのはずだった。
彼女らが陸に上がって、様々な経験をするのは、無垢なる少女が次第に大人になってゆくことのメタファー。
初めて恋をして、他者との関係を学び、大人として人生を選択する。
図らずも、エサを好きになってしまったシルバーと、冷静に人間を眺めエサとして喰らうゴールデンのコントラスト。
愛を信じて海の泡となるのか、それとも愛の魔力から自分を守るのか。
姉妹が、イルカの様なノイズで会話するのも面白い。
物語の顛末そのものは原作に忠実ながら、2人の人魚姫を合わせ鏡の存在にすることで、初恋の純粋な強さと、その代償としての痛みもまた深まった。
恋とは、時に身も心も溶けるほどに甘味で、時に耐えようも無いほど残酷なものなのである。
ミュージカルシーンは非常にボリュームがあり、細部をすっ飛ばしたような展開はかなり強引。
だが、この世界観ならそれも十分ありだろう。
凝ったシャレード表現が物語を補完し、楽曲のリリックがキャラクターの心情を雄弁に伝えてくるのだ。
細部まで作り込まれた美術とコスチュームが醸し出す、ゴージャスに安っぽい退廃美は、リンチや同じポーランドの異才ズラウスキーを思わせる。
思春期の性を暗喩するグロテスクなホラー性と、裏返しの純愛の切なさは、「RAW〜少女の目覚め〜」や「ビザンチウム」に通じる部分も。
「RAW」の場合は本作と同じく姉妹、「ビザンチウム」は母娘と、対照的な二人の女性の葛藤がジンテーゼを導き出す構造も同じ。
女性監督が少女をモチーフに描く長編デビュー作なのも、「RAW」とは共通する要素だ。
今回は舞台にちなんで「ローズ・オブ・ワルシャワ」をチョイス。
ウォッカ30ml、チェリーブランデー20ml、コアントロー10ml、アンゴスチュラビターズ1tspをステアしてグラスに注ぐ。
ワルシャワは第二次世界大戦で徹底的破壊されるも、戦後執念の修復で往年の姿を取り戻した美しい都市。
名前の通り、美しいローズカラーのこのカクテルは、ワルシャワの夕景をイメージしているとか。
フルーティで甘過ぎず、ビターズの苦味がいいアクセントになっている。
粋なオトナの女性に飲んでもらいたい一杯だ。

![]() 【あす楽】 ボルス チェリー ブランデー24度 700ml |


最初は犯罪組織の、次は国家の暗殺者となる一人の女の、情念の復讐劇。
スタント畑出身という異色の経歴を持つ、チョン・ビョンギル監督による、驚くべき未見性を持ったアクション大作である。
彼が一躍注目を集めた出世作「殺人の告白」は、日本でも「22年目の告白-私が殺人犯です-」としてリメイクされ、大ヒットしたのは記憶に新しい。
驚異的な戦闘能力を持つ主人公スクヒを、パク・チャヌク監督の怪作「渇き」の、欲望のままに暴走するヴァンパイア役で鮮烈な印象を残したキム・オクビンが演じ、圧巻の存在感。
無垢なる少女を殺人マシーンに育て上げる、中国朝鮮族マフィアの男ジュンサンにシン・ハギュン、彼女に第二の人生を与える国家情報院の幹部クォンをキム・ソヒョン、そして彼女を血塗られた運命から解放しようとする男ヒョンスをソンジュンが演じる。
これはアクション映画の新たな地平を切り開く、戦闘ヒロイン物の傑作だ!
※ラストに触れています。
ソウルの暴力団事務所が何者かに襲撃され、全滅する。
捕らえられたのは謎の女、スクヒ(キム・オクビン)だった。
その恐るべき戦闘スキルに注目した国家情報院は、スクヒを死んだことにして、暗殺要員として第二の人生を与える。
10年間国家に仕えれば、自由の身になれるのだ。
そんな彼女の前にヒョンス(ソンジュン)という男が現れ、次第に二人は惹かれあう。
ところが結婚式当日に、新たな暗殺指令が下る。
スクヒがライフルのターゲットスコープの向こうに見たのは、死んだはずの夫ジュンサン(シン・ハギュン)だった。
彼こそが、孤児だったスクヒを最強の暗殺者に育て上げた、中国朝鮮族の裏社会のキーマン。
なぜ彼は生きているのか、ジュンサン出現により、スクヒの第二の人生は音を立てて崩れはじめる・・・
冒頭8分に及ぶ、神がかったアクションシークエンスに度肝を抜かれる。
ファーストパーソン・シューティングゲームを思わせる、POVのワンシーンどころかワンシークエンス・ワンショット風のビジュアルで、暴力団事務所のビルを襲撃。
最初は銃で現れる男たちを次々となぎ倒し、弾が尽きると今度は二刀流の刀で斬って斬って斬りまくる。
最後にはプロレスラーのような屈強な男たちと肉弾戦となり、ここで鏡に映ることでようやく殺戮の主が小柄な女性であることが明らかとなる、凝った仕組み。
もちろん、これは実際にはワンショット撮影ではなく、細かく割った映像をデジタルでつないでいるのだが、観客の目線を主人公と一体化することによって、一気に作品世界に誘い込み、同時に彼女の圧倒的な戦闘能力を体験させる一石二鳥。
誰もが、この美しくも恐ろしい主人公、スクヒに魅了されてしまうのである。
ストーリー的には、リュック・ベッソン監督の全盛期の代表作、「ニキータ」のバリエーションと言えるだろう。
警官を殺した不良少女が、フランス国家の暗殺要員となる物語とは、世界観の基本設定やキャラクターの役割などが酷似している。
アンヌ・パリローが演じた、タイトルロールのニキータがスクヒとなり、彼女のメンターとなるキム・ソヒョンの国家情報院の幹部は、チェッキー・カリョとジャンヌ・モローを合わせたキャラクター。
ジャン=ユーグ・アングラードの役は、ソンジュン演じるヒョンスだ。
本作で、結婚式の控え室のトイレから、ウェディングドレスのスクヒが狙撃を命じられるエピソードは、「ニキータ」のベネチアのホテルのバスルームから狙撃するシークエンスへの、明らかなオマージュになっている。
だが、基本設定は似ているものの、両作の全体像は相当に異なったものだ。
ただの不良少女が、国家によって暗殺者として育てられる「ニキータ」と違って、本作のスクヒは最初から最強の暗殺者として映画に登場する。
本作はメインプロットとなる物語の前提として、冒頭の暴力団事務所襲撃に至るスクヒの過去が重要な意味を持つ。
あくまでも現在の事象のみで話が進む「ニキータ」と異なり、こちらは過去の因縁が現在のスクヒを呪い縛り付ける、いかにも韓国的な“恨(ハン)”の物語なのである。
映画の前半は、いきなり暴力団を壊滅させたスクヒが、国家情報院の暗殺要員に育て上げられるプロセス。
後半はシャバに出た彼女が、過酷な任務をこなしつつ、新たな人生をスタートするのだが、ここに時系列を行ったり来たりしながら、彼女の過去が急速に収束してくる複雑な構造だ。
このややこしい筋立ては、成功している部分と、上手くいっていない部分がある。
国家情報院の監視役であるヒョンスと、彼の正体を知らずに惹かれてゆくスクヒの、嘘と真実がまじりあう切ない恋愛パートなどは、ウェットな情感を感じさせてなかなか良い。
自暴自棄となったスクヒが改めて生きようとする意欲の源を、彼女の育ての親であり最初の夫となった、ジュンサンとの間に生まれた娘に設定しているのも、終盤の彼女の行動に大きな意味を持ってくる。
一方で、かなりアバウトなジュンサンの行動原理と、彼の巡らせている陰謀の中身がさっぱりわからないのは問題だ。
そもそもの始まりは、ジュンサンがスクヒの父親を殺し、孤児となった幼少期の彼女を組織の暗殺者として育てたこと。
だが、事件の発端となったらしい父親の持っていた宝石が何だったのか、暴力団事務所のHDDがどう関係するのか、なぜジュンサンは自らの死を偽装したのかなど、おそらく設定はされているのだろうが、多くの描写の意味が最後までよく分からないまま終わっている。
まあHDDなどのアイテムは、いわゆるマクガフィンとして機能させようとしたとしても、子供まで作っているジュンサンのスクヒに対する感情と行動原理は、もう少し整合性を持たせてほしかった。
もっとも、これら筋立て上の明確な欠点をあげつらったところで、未見性の塊の様な本作のテリングによる、「もの凄いモノを観た」という異様な熱気と魔力に抗うのは難しい。
全然タイプは違うものの、突っ込みどころ満載の筋立てを、怒涛のビジュアルによって観客の意識ごと強引にねじ伏せてしまう力技は、「バーフバリ」二部作にも匹敵する。
本作を端的に表すなら、キム・オクビンの、キム・オクビンによる、キム・オクビンのための華麗なる殺戮ショー。
実際に格闘技の有段者だという、彼女のカッコいいアクションを眺めているだけで十分胸アツ。
冒頭の8分間で観客の心を完全につかむと、「誰も経験したことの無い世界を見せてやる!」とばかりに、さらなるサービス精神を発揮して存分に期待に応えてくれる。
スクヒの“卒業試験”となる、日本のヤクザの親分暗殺後のバイクチェイスとか、一見しただけではどうやって撮っているのか分からないショットが多々。
猛スピードで疾走しながら、日本刀で斬り合いとか、本作の特徴でもあるウェアラブルカメラ風の広角画面がスピード感を増幅し、興奮のあまり脳内に変な汁が出る。
いやー、こんな凄まじいものを作られてしまって、本家ヤクザ映画の国としては一体どうしたらいいのだろう。
その後の「ニキータ」オマージュの狙撃を挟んで、最後にはバスチェイス+肉弾戦という、これまた吃驚するしかない怒涛のクライマックスが待っているのである。
逃げるジュンサンたちの乗ったバスに追いついたスクヒは、すかさず乗り移ると窓ガラスをぶち割り、手斧を片手に次々と男たちを血祭りにあげてゆく。
そして遂に、もっとも愛し、もっとも憎んだジュンサンとのボスキャラ戦に突入するのだ。
終盤の一気呵成の展開は、韓国映画らしく全く情け容赦無く、その分悲しい運命に翻弄され、復讐の鬼神と化したスクヒの悲劇性が極まる。
しかも、ラストは完全にオープニングの殺戮の対となっていて、愛する者の死による悲劇の無限ループを感じさせるのは秀逸。
続編があるのかは分からないが、情念の暗殺者スクヒの物語は観客の心に確実に刻まれ、彼女は銀幕のアイコンとして永遠の生を得たのである。
ところで、彼女は幼少期からずっと自由意志を奪われている、究極の巻込まれ型キャラクターで、最後まで「悪女」にはなっていないと思うのだが、なぜこのタイトル?
もしかして「悪女」という言葉のニュアンスが、韓国語だと少し違うのだろうか。
今回は血の様な赤、「ターンブル カベルネ・ソーヴィニヨン “エステート グロウン” ナパ ヴァレー」の2014をチョイス。
オーパス・ワンの隣にあることでも有名なナパの銘柄で、ワイン・アドヴォケイトで100点を取ったこともある。
一時価格が上昇したことから、インポーターが撤退し正規輸入が終わってしまったが、最近また飲めるようになった。
フルボディの辛口の赤で、この銘柄独特のコクと芳醇なベリー系の香り、タンニンは滑らかでとてもバランスがいい。
カリフォルニアとしては比較的高めだが、内容を考えると1万円以下ではベストチョイスといえるCPの高い一本だ。

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様々な理由で、心に傷を負った子供たちが暮らす養護施設「フォンテーヌ園」を舞台に、母親を亡くした孤独な少年、イカール(ズッキーニ)の心の再生を描く、素晴らしいストップモーションアニメーション。
ジル・パリスの小説「Autobiographie d’une courgette」を原作に、日本でもフランス映画祭で上映された「トムボーイ」などで知られる実写畑のセリーヌ・シアマが脚色、短編アニメーション作家のクロード・バラスが鮮やかな長編デビューを飾った。
2016年のアヌシー国際アニメーション映画祭で長編部門グランプリと観客賞の二冠、第89回アカデミー賞でも長編アニメーション部門にノミネートされている話題作である。
本作のキャラクターアニメーションは、プレスコ時に撮影された、演技中の子供たちの表情を参考に付けられていったという。
二頭身のキャラクターは可愛く造形され、カリカチュアされたカラフルな世界観も楽しげだけれど、フォンテーヌ園の子供たちがが抱えている問題はヘビーだ。
母親が国外退去になった移民の子、父親から虐待を受けていた子、両親共々ヤク中の子等々、みんな大人でもへこたれてしまうくらい、悲惨な境遇を経てここへ来ている。
そんな中でも、ズッキーニのトラウマは一番深刻かも知れない。
何しろ彼は、愛する母親を殺してしまったのだ。
もちろん故意ではなく、アル中の母親がズッキーニのちょっとした行動が原因で事故死してしまったのだが、幼心に刻まれた傷は限りなく深い。
ビールばかり飲んで、時には暴力もふるう母親でも、ズッキーニにとってはかけがえのない“ママ”であり、本名のイカールと呼ばれることを拒否し、ズッキーニという奇妙な名前にこだわるのもそれが母親が付けてくれたあだ名だからなのである。
上映時間は66分だが、エンドクレジットが結構長く5分ほどあるので、実質的な尺は約60分。
コンパクトな中に、実に効率的に筋立てが組み立てられている。
この種の物語にありがちな子供同士のイジメや、悪い大人の話も出て来るが、それらは必要最小限。
描きたいのはそこじゃないのだ。
パパは“雌鳥(若い女)”と消え、ママは殺してしまい、残されたのはパパが描かれた凧と、ママの残したビールの空き缶。
大きな喪失を抱え、天涯孤独の身となってしまった、ズッキーニの再生に深く関わるキャラクターは3人。
フォンテーヌ園来た当初、ズッキーニにちょっかいを出す、赤毛のガキ大将のシモン。
ズッキーニの心ときめく初恋の相手となる、新入りの女の子カミーユ。
そして、母親の死亡事故を担当したことで、ズッキーニと心を通わせることになる警察官のレイモンだ。
カミーユはお金の為に自分を引き取ろうとする叔母に抵抗していて、彼女のための共闘が、ズッキーニとカミーユ、シモンの絆をぐっと深める。
親はいなくとも、同じくらい大切な心つながる友達がいることを彼らは知るのである。
友情と初恋が子供たちの視野をグッと広げる物語の横軸なら、縦軸となるのがズッキーニと心優しい警察官レイモンとの関係だ。
詳しくは描かれないが、レイモンは何らかの理由で自分の子供とはずっと会えない状況にあるらしい。
彼は、様々な理由で親と離れ離れになった子供たちと対照を形作り、話し相手をするうちに、いつしかズッキーニを我が子の様に深く愛する様になる。
フォンテーヌ園の子供たちに共通するのは、無償の愛を与えられるべき親から見放され「自分はもう誰からも愛されていない」と思っていること。
だが、人間同士の絆は血の繋がりだけとは限らない。
これは、愛を諦めた子供たちが、再び愛される喜びを取り戻し、他者を愛することを実践できるまでの物語。
子供の観客はフォンテーヌ園の子供たちの友達となった感覚で、大人はレイモンの視点で子どもたちに寄り添い、次第に彼らの里親になった気分になる。
物語を通して子供たちの運命は別れ、それぞれ人生の新しいステップに踏み出すのだけど、ラストである人物から新しい命が生まれ、その場にいる人全員から愛を注がれているのは象徴的。
エンディングに流れる、ソフィー・ハンガーが歌う主題歌「Le vent nous portera」がじんわりと余韻を広げる。
暗闇に差し込む暖かな光の様な、気持ちの良い作品だ。
フランスとスイスの合作なのだけど、本作を観て飲みたくなったのは、イタリアの優しい風味のレモンのお酒「リモンチェッロ」だったりする。
イタリア南西部の地域が起源で、元々は各家庭で作られていたお手軽なリキュール。
レモンの果皮を蒸留酒に漬け込み、砂糖と水を加えて一ヶ月程度置くのが一般的。
腸の運動を促す作用があるので、食後酒として重宝されてきた。
キンキンに冷やして、キュッとストレートで飲むのがオススメだが、スパークリングウォーターで割ってもジュース感覚で美味しい。

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原題の「The Breadwinner」とは、“働き手”を意味する。
2001年のアメリカによる侵攻前夜、タリバン支配下のアフガニスタンを舞台とした、異色のアニメーション映画だ。
原作は、紛争地の子どもたちをモチーフに、多くの作品を発表しているカナダの児童文学作家、デボラ・エリスの同名小説で、実写作品の監督としても活躍するアニタ・ドロンが脚色。
邦訳版の原作も「生きのびるために」というタイトルで、続編の「さすらいの旅」「泥かべの町」「希望の学校」と共に、四部作としてさ・え・ら書房から出ている。
「ソング・オブ・ザ・シー 海のうた」や「ブレンダンとケルズの秘密」で知られるアイルランドのスタジオ、カートゥーン・サルーンが素晴らしいクオリティのアニメーション制作を担当し、両作でコ・ディレクターを務めたノラ・トゥーミーが、見事な長編監督デビューを飾った。
当初本作を監督すると伝えられたトム・ムーアも、アンジェリーナ・ジョリーと共にプロデューサーとして参加している。
11歳の少女パヴァーナ(サーラ・チャウドリ)は、戦争で足を失った元教師の父、体の弱い母、姉、幼い弟と共に、カブールの小さな家で暮らしている。
だがある日、パヴァーナが父の行商を手伝っていると、理不尽な理由でタリバンの兵士に目をつけられ、父は“イスラムの敵”として、刑務所に入れられてしまう。
一家に残されたのは女と赤ん坊だけ。
女が働きに出ることは禁止されているので、大黒柱を失った一家はたちまち困窮する。
そこでパヴァーナが少年を装い、街に出て働くことになる。
もちろん彼女にとって、働くことは初めての経験だが、乳飲み子のいる家族を支え、父を刑務所から救い出す賄賂を作るためにはお金がいるのだ。
聡明なパヴァーナは、同じ境遇の友達ショーツィア(ソマ・チャーヤ)の助けもあり、だんだんと働くことにも慣れてゆくが、彼女たちが知る由もないところで、カブールには戦争の嵐が迫っていた・・・
主人公のパヴァーナを演じるサーラ・チャウドリは、アフガニスタン系カナダ人。
9歳の時に原作を読んだ彼女は、自分の家族のルーツと重ね合わせ、主人公への精神的な結びつきと共に教育を受けられる幸運を感じたという。
タリバン政権下のアフガニスタンは、女性の権利が根こそぎ否定され、実質男性の所有物とされていた異常な社会。
学校に行くことはもちろん、男性家族の許可なしには外出することさえ禁じられた状況では、もはやお金を稼ぐことも、買い物に出ることすらできない。
この時代、女だけの家は存在し得ないのだ。
そんな中で、長い髪を切り、亡くなった兄の服を着て、少年のフリをしたパヴァーナは、同じ理由でやはり少年の姿をしているショーツィアを共犯者とし、彼女から男として生きてゆく術を学んでゆく。
男女の性差が目立たない年齢だからこそ出来る奇策だが、聡明な少女は封じられた家族を養うため、一家の唯一の働き手(breadwinner)として街に出る。
刑務所の父が釈放されることを願って、それまでなんとしても家を守るために懸命に働くのだ。
丸を基調としたキャラクターデザイン、手描きと切り紙風アニメーションが混在する特徴的なテリングのスタイル、現実世界の物語と主人公が語るむかし話が、徐々にシンクロしてゆく映画版オリジナルの筋立てなど、カートゥーン・サルーン作品らしい味わい。
むかし話の主人公、スレイマンは、恐怖の象徴である巨大な“エレファント・キング”を倒すため、ながい旅に出て、三つの試練をクリアしなければならない。
パヴァーナの現実世界での“冒険”がむかし話とシンクロし、虚構の“恐怖”が迫り来る戦争の脅威によって、徐々に現実で顕在化するという仕掛けは秀逸だ。
劇中のフィクションを、現実の戦争のメタファーとして落とし込む手法は、ちょっとギレルモ・デル・トロの傑作「パンズ・ラビリンス」を思わせる。
また戦時下の女性を主人公とした作品であり、過酷な状況下でも日常に根ざした陽性の視点は、「この世界の片隅に」にも通じる部分があると思う。
印象的なのは、パヴァーナが文盲のタリバン兵ラザックに、愛する妻の死を知らせる手紙を読んであげ、その親切が後々に因果応報的に効いてくるエピソード。
イスラム原理主義者と呼ばれているが、「タリバン兵の多くは、実際には(文盲ゆえ)コーランを読んだこともない、飢えたパシュトゥーンの怒れる子である」という、昔読んだルポ記事を思い出した。
タリバンの勃興は、多民族国家のアフガニスタンで最大の民族でありながら、社会主義革命以降影響力が低下したパシュトゥーン人の不満の高まりがその一因と言われている。
自分たちが抑圧を感じているからこそ、いざ立場が逆転した時に、弱き者をより残酷に抑圧する悪循環。
しかし本作では、人間の作り出す悪を逃れようの無い絶対悪とはせず、知恵と寛容と優しさによって退けさせる。
粗野な乱暴者と思っていたタリバン兵が、愛する者を亡くした悲しみに耐える姿に接したことで、パヴァーナは人間の複雑さを感じると共に、幼いながらに世界の多面性を知るのである。
これは、ジェンダーイコーリティーと共に、教育へのアクセスという、本作の訴える重要なテーマを象徴するエピソードでもあった。
映画の終盤は、原作よりもドラマチックな脚色がなされていて、それまでの世界が崩壊する中、パヴァーナと一家はそれぞれ苦難の道に歩みだす。
女性に自己決定権が認められない絶対的男性優位社会で、男たちの庇護を拒否した彼女らの未来は厳しい。
タリバンが去っても、今度は戦争というより大きな災厄が立ちはだかる。
9.11の同時多発テロに端を発する米軍の侵攻から17年、アフガニスタンでは3万人を超える民間人が犠牲になり、その数は未だ増え続けているという事実を私たちは知っている。
しかし、物語を通して逞しく成長し、この無情の大地で生き抜くことを決意したパヴァーナは、もう父に依存するだけの無力な少女ではない。
原作の続編にある様に、彼女には過酷な人生が待っているけれど、生きている限り希望はゼロではないのだ。
地味な題材なので、洋画アニメーション不毛の地、日本での劇場公開は無いかと思っていたが、アニー賞の長編インディーズ部門で受賞、アカデミー賞にもノミネートされたことで、ある程度注目も集まった。
これは小規模でも日本公開してもらって、多くの人に観てもらいたい大力作だ。
まだ日本語レビューが殆ど出ていないので、本当に微力ながら、このブログ記事にて応援したい。
世界でもまだ公開されていない国が多い様だが、出来れば興行的にも成功して、原作の続編も映画化して欲しいところ。
ちなみに、劇中でパヴァーナの同世代のメンターとなるショーツィアのその後は、第三部の「泥かべの町」で描かれる。
現時点での最終話となる「希望の学校」まで、悲惨な状況下でもとにかくタフな少女たちの物語は読み応え十分なので、映画が公開されるまでに全巻読破しちゃっても良いかもだ。
アフガニスタンは果樹栽培が盛んで、様々なフルーツが採れるのだが、近年輸出用としても人気が高まっているのが、種が詰まっていることから古来より肥沃の象徴とされ、中東地域でもよく見られるザクロだとか。
今回はウォッカにザクロの果汁を配合したドイツのリキュール「オルデスローエ グラナートゥアプフェル」をチョイス。
甘酸っぱい風味で、真紅の色合いも美しい。
オン・ザ・ロックかスパークリング・ウォーターで割るのがおススメ。
※「生きのびるために」のタイトルでのNetflix配信に続いて、「ブレッドウィナー」として2019年12月より日本劇場公開が決定しました。

![]() オルデスローエ グラナートゥアプフェル(ザクロ) リキュール 700ml 16度 |


期待に違わぬ面白さ!
アメリカ中西部、ミズーリ州の片田舎で展開する、珠玉の人間ドラマだ。
何者かに娘を殺された母親が、遅々として進まぬ捜査に苛立ち、街外れに立つ三枚のビルボードに警察署長を批判する広告を出す。
この行動が波紋を呼び、やがて小さな街に予期せぬ嵐が巻き起こるのである。
ネタ集めのため本物のサイコパスを募集した脚本家が、創作に現実を侵食される怪作、「セブン・サイコパス」で知られる英国人劇作家のマーティン・マクドナーは、再び異国アメリカを舞台に、極めてユニークでパワフルな悲喜劇を作り上げた。
物語の軸となる3人の登場人物を演じる、フランシス・マクドーマンド、サム・ロックウェル、ウッディ・ハレルソンが素晴らしく、それぞれ演技賞物の名演を見せる。
※核心部分に触れています。
ミズーリ州エビング。
ミルドレッド・ヘイズ(フランシス・マクドーマンド)は、7カ月前に娘を何者かに殺された。
レイプされ、遺体は焼かれた凄惨な事件だが、手掛かりは乏しく犯人逮捕には至っていない。
ある日ミルドレッドは、街道に立つ三枚のビルボードに、地元警察署長のウィロビー(ウッディ・ハレルソン)を批判する広告を出す。
「レイプされて殺された」「犯人は逮捕されない」「どうして、ウィロビー署長?」
名指しされたウィロビーは困惑するばかり。
彼の部下で、日ごろからレイシストとして悪名高いディクソン巡査(サム・ロックゥエル)は怒りを滾らせ、広告を掲載した代理店のレッド(ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ)を脅迫し、ミルドレッドの友人のデニス(アマンダ・ウォーレン)を微罪で逮捕する。
娘の事件ではミルドレッドに同情していた街の人々も、人望厚く末期ガンに苦しむウィロビーを名指しした広告には批判的だが、彼女は全く意に介さず広告の取り下げに応じない。
そんな時、歯科医ともめ事を起こしたミルドレッドを尋問中に、ウィロビーが突然吐血する・・・
人間は愚かで、滑稽で、愛おしい。
田舎の小さな街で怒涛の展開を見せる本作は、いわば人間活劇だ。
マクドーマンド演じる主人公、ミルドレッド・ヘイズのファミリーネームは、ゲール語の「火の神の子(ÓhAodha)」が語源。
その名の通りに燃え上がる炎のような性格で、抑えられない感情に突き動かされた彼女が警察批判のアクションを起こし、それに対する他の登場人物のリアクションが複雑に影響しあい、全く先の読めないスリリングなドラマを作り出す。
舞台となるのが、ミズーリ州の架空の町、エビングに設定されていることにも意味がある。
何しろ原題は「Three Billboards Outside Ebbing, Missouri」と、思いっきり地名を強調しているし、ポスターなどに使われているロゴにはミズーリ州の地図まで入っている。
アメリカ合衆国本土のほぼ中央に位置するこの州は、合衆国を構成する50州の中で24番目に加入し、南北戦争では北部合衆国派と南部連合国派が激しく対立した結果、北部側に立った。
政治的には中道やや保守の有権者が多く、大統領選挙では1956年、2008年、2012年の三回を除く過去100年以上、ミズーリで勝った候補がそのまま大統領になっていて、選挙の全国趨勢を表すいわゆるベルウェザー州として知られている。
人口はほぼ50州のアベレージで、住人の人種も近年米国南部と西部で急増しているヒスパニック系が比較的少ない以外、伝統的な全米の人種構成に近い。
要するにこの州は合衆国のヘソであり、平均であり、縮図なのである。
英国人のマーティン・マクドナーは、暴力と怒りと不寛容が渦巻く現在アメリカ社会を俯瞰し、この架空の町にアメリカそのものを象徴させようと考えたのだろう。
エビングという町名が、「落下」や「衰退」を表すのも意味深だ。
物語の前半、ミルドレッドと、「セブン・サイコパス」でもマクドナー監督と組んだウッディ・ハレルソン演じるウィロビー署長、サム・ロックウェルのディクソン巡査が三つ巴の相関を形作る。
どんなに非難されても広告を取り下げない、ミルドレッドの頑なな態度の裏には、事件の直前に娘と喧嘩をしたことが、彼女が殺される遠因となったという認めたくない事実がある。
捕まらない犯人以外の誰かのせいにしないと、自分を責めるしかなくなるので、当事者の一人であるウィロビーに矛先を向けたのだ。
一見すると強面の信念の人にも見えるミルドレッドは、自らの内面の弱さに突き動かされているのである。
一方、自分に人望がないのを自覚していて、人格者のウィロビーに心酔しているディクソンにとって、ミルドレッドの行為は、ウィロビーのみならず自分に対する侮辱でもある。
彼もまた、警察という虎の威を借りる狐に過ぎないからこそ、警察批判が許せない弱い人間なのだ。
基本的に、ビルボードに広告を出したミルドレッドと、それに激しく反発するディクソンは、共に非共感キャラクターに造形されていて、二人の憎悪と怒りの応酬に、間に挟まった良い人で感情移入キャラクターのウィロビーが頭を悩ませるという構図。
真っ赤なビルボードに描かれたミルドレッドの広告は、確かにインパクトがあるが、実は映画の中ではビルボードを裏側から捉えたショットが多い。
最初に広告に気付くディクソンも、パトカーで巡回している時にビルボードの裏側から作業員を見つけ、振り返って言葉を読む。
警察批判の文言は、あくまでも物語の導入であり、核心は何も描かれていないその裏側にあるのである。
三つのビルボードの起こした小さな波紋が、ウィロビーを触媒にミルドレッドとディクソンの中で増幅され、閉塞した平凡な街は徐々に臨界点近づいてゆく。
そして、ガンで余命いくばくもないウィロビーが、驚くべき行動を起こして突然退場すると、沸々と滾っていた怒りが別の怒りを生み出し、さらには思い込みからくるボタンの掛け違いもあって、もはや文字通りに一度燃え上がらないかぎり治らなくなる。
怒りの感情で一杯いっぱいになってしまった人間が、いかにして心の均衡を取り戻すかのドラマは、中盤以降予想だにしない展開が続き最後までハラハラ。
二件の“炎上”後に、ようやく犯人探しのミステリーが絡んでくるかと思わせつつも、結局核心はそこにはないのだ。
同じくミズーリの田舎を舞台とした「ウィンターズ・ボーン」で、ヒルビリーの寡黙な男を好演したジョン・ホークス演じる、ミルドレッドの別れた夫と若い恋人のエピソード、レイシストにして実はマザコンという、ディクソンと母親のエピソードなども上手く絡み、ブラックなユーモアが良いスパイスとして効いている。
人間、とことんまで怒らないと解消出来ないこともあるし、傷ついて相手の立場を知って、初めて理解出来ることもある。
無原罪の人間は聖書の中にしかおらず、犯した罪はどんな形でも背負って行かねばならない。
テリングのスタイルは全く異なるが、人生のあらゆる面を肯定も否定もしない、厳しくも優しいスタンスは、昨年の「マンチェスター・バイ・ザ・シー」に通じるものがある。
“土地”が重要な要素で、タイトルに地名が入ってるのも同じ。
人生で失ったものは決して元には戻らないけれど、何か引っかかっているのなら、たとえ不毛な行動であっても、前を向くために全力で抗い、迷うしかないのだ。
自らの滑稽さと愚かさの自覚が、燻っていた怒りの火を静かに消し、一筋の光を感じさせるラストも秀逸。
悲劇と喜劇の境界で、人間の心の不可思議さを描いた、未見性に満ちた傑作である。
ミズーリ州のある中西部は、アメリカでもっともBBQとバーボンの美味いところ。
なにしろこの州には、バーボンという名の町まである。
今回は1856年にミズーリ州ウェルトンで創業した「マコミーック スペシャル・リザーブ」をチョイス。
今ではコーン・ウィスキーの方が有名な会社だが、ケンタッキー産とは異なる独特の香りとコクは味わい深い。
ロックで飲むのがおすすめ。
バーボンの語源は、独立戦争時に支援してくれたフランスのブルボン王家の名を、ケンタッキー州の郡名として残したもので、バーボン発祥の地はこちら。
ミズーリ州のバーボンは、逆にバーボンウィスキーにちなんで名づけられたというから、どんだけ酒好きな町なのだろう。

![]() マコーミック スペシャル リザーヴ(リザーブ) 40度 750ml |


物語の着地点がとにかくステキ。
ジュリア・デュクルノー監督のセンス・オブ・ワンダーを感じさせる、見事な長編デビュー作だ。
冒頭、田舎の街道で交通事故が起こる。
誰かが道に飛び出して、避けようとした車は立木に激突してしまう。
事故の原因となった人物は、しばらく倒れているのだが、スクッと立ち上がると、おもむろに車に歩み寄る。
カメラは引いているため、その人物が男性なのか女性なのかを含め、いったい何が起こっているのかの詳細は見えない。
ここからすでに、不穏でメランコリックな空気がスクリーンに充満しているのである。
本作は、核心を語ろうとすると、どう語ろうと確実にネタバレになるので、観る予定の人はこれ以上読まず、ネットに情報が溢れる前に鑑賞することをオススメする。
ガランス・マリリエール演じる主人公のジュスティーヌは、厳格なベジタリアン一家に育ち、両親からも“神童”と呼ばれる秀才ながら、奥手で内向的な少女。
16歳になった彼女は、両親と姉も学んだ獣医学校に飛び級して入学するために、初めて親元を離れる。
寮生活の初日、いきなりクレイジーな新歓コンパの洗礼を受けるのだが、フランスの学校ってこんなぶっ飛んでるのだろうか??
米国のフラットパーティーとかも相当イカれてるけど、動物の生き血をぶっかけてるとか、生のウサギの内臓を食わせるとか、さすがに聞いたこと無い。
まあ、これは命を扱う獣医学校ならではのものだろうけど。
ともあれ、生まれて初めて肉を口に入れたジュスティーヌの内面で、少しずつ何かが変わってゆく。
全身の皮膚が炎症を起こして疼き、今までの反動の様に肉に対する異常な欲求に悩まされる。
やがて、決して口にしてはいけない、“ある物”を食べてしまったことから、ついに彼女は抑えられないカニバリズム衝動に目覚めてしまうのである。
そんなジュスティーヌを見ても、すでに変貌を遂げていた一年先輩の姉は何も言わず、むしろ妹と同じ嗜好を隠そうとしない。
神童と呼ばれた奥手な妹に対して、明らかな問題児でアバズレ感あふれる姉。
対照的な姉妹の愛憎劇の側面がフィーチャーされ、ぶっ壊れてゆく二人にとってのカニバニズムとは何のメタファーか。
ルームメイトの男性の肉体を見つめ、「食べたい」という衝動を抑えるかのように、セックスを求めるジュスティーヌ。
アーティスティックなテリングのスタイルがミスリードを広げ、生と死、生と性、愛と暴力、映画を観慣れた人ほど、仕込まれた暗喩の意味を考えるだろう。
ところがある瞬間、全てが腑に落ちる。
少女の家がベジアリアンだった訳、肉を口にしたことで起こったアレルギー反応、二つの皮膚炎のクリーム、そして妹がある物を食べた瞬間、姉の流した涙の意味。
本作の秀逸な着地点は、綿密に構成された悪意たっぷりの優れたシナリオの産物。
デュクルノー監督は、本作は思春期に少女の心と体がメタモルフォーゼし、大人の女に変わってゆく感覚を描いた映画だと語っている。
厳格な家庭で純粋培養された少女は、獣医学校という装置によって、原始的な本能を覚醒させ、自分が命を食らい子を産み育てる一匹の獣であることを、初めて意識するのである。
これは、ある少女が自分が何者かを知り、ありのままの自分に目覚める話ではあるが、彼女の“血”に眠るカニバニズム衝動を明らかに性愛とリンク付けているので、ある意味男性にとってはとても怖い話。
そういえば、蟷螂のメスは交尾した後オスを喰うというし、ミツバチのオスは女王蜂と交尾すると性器を引きちぎられて死んでしまうらしい。
くわばらくわばら。
今回はやはり血の様な赤。
フランス南西部のカオール地区から「レ・コント・カオール」の2014をチョイス。
黒いワインとも言われる、非常にダークな色合いが特徴。
フルボディで、強いタンニンと複雑なフルーツの香り、合う料理はやっぱり肉!
CPも高く、新歓コンパで大量消費しても懐が痛まない。
普段使いにぴったりなワインだ。

![]() レ・コント カオール [2014]赤ワイン フルボディ 750mlフランス 南西地方 AOCカオールLes Comtes Cahors |


「ハート・ロッカー」「ゼロ・ダーク・サーティ」と言った漢の映画で知られるキャスリン・ビグロー監督が、1967年の夏に起こったデトロイト暴動を描いた超ハードな実録ドラマ。
発砲事件の発生を受けて、現場のモーテルに突入した地元デトロイト市警の警官たちは、通常の捜査手順を無視して、容疑者となった客たちを拷問し、暴力で自白を強要しはじめる。
カオスな戦場と化した街の一角で、その時何が起こっていたのか。
本作では、徹底的に作り込まれた“現場”で、観客も権力から銃を突きつけられた容疑者の1人となり、142分の恐怖の一夜を過ごすことになるのだ。
歴史を鏡とし、今なお人種間の対立が続く“アメリカの今”が見えてくる秀作である。
※ラストに触れています
1967年7月。
デトロイトの黒人居住区の無許可酒場で開かれていた、ベトナム戦争からの帰還兵を迎えるパーティーを市警が摘発。
反発する住民たちの投石は、瞬く間に暴動へと拡大していった。
歌手のラリー(アルジー・スミス)は、暴動によってチャンスを掴むはずのステージがキャンセルとなってしまい、仕方なく友人のフレッド(ジェイコブ・ラティモア)と共に、アルジェ・モーテルに宿をとる。
モーテルでジュリー(ハンナ・マリー)とカレン(ケイトリン・デヴァー)という白人女性と知り合ったラリーたちは、彼女らの友人の部屋へ向かうが、そこで一人の男が暴動の真っ最中にも関わらず、陸上競技用ピストルでふざけ始める。
呆れたラリーらは部屋へと引き上げ、女性たちは帰還兵のグリーン(アンソニー・マッキー)の部屋へと移った。
同じ頃、州兵隊と話していた警備員のメルヴィン(ジョン・ボイエガ)は、モーテルの窓から数発の発砲音を聞く。
通報を受けたデトロイト市警のフィリップ(ウィル・ポールター)らは、暴徒による狙撃と判断し、モーテルに乗り込むのだが・・・
アメリカでは、しばしばアフリカ系市民による暴動が起こる。
その多くの原因となるのが、警察による差別的な暴力だ。
大都市の一部が完全に無法地帯となる様な大規模なものは、1992年に黒人青年を殴打した白人警官に無罪評決が出た、いわゆる“ロドニー・キング裁判”に黒人社会の怒りが爆発したロス暴動以来起こっていないが、小規模なものは現在でも珍しくない。
つい最近も、ノースカロライナ州で黒人青年が白人警官に射殺された事件への抗議デモが暴動に発展し、流れ弾に当たって犠牲者がでたのは記憶に新しい。
この映画は、今よりもはるかに人種差別が激しく、改善を求める公民権運動が吹き荒れた60年代が舞台だ。
冒頭、アフロアメリカン現代史が、簡単なイラストと字幕によって解説されるので、予備知識がなくてもある程度の背景は理解できる。
とは言え、歴史のディテールとアメリカの人種問題の現状を知っていた方が、深く観ることが出来るのは言うまでもない。
主なモチーフとなっているのは、やはり警察による暴力がきっかけとなった、1967年のデトロイト暴動の最中に発生し、州兵を狙撃した容疑者とされた黒人青年たちを、デトロイト市警の白人警官たちが虐殺した“アルジェ・モーテル事件”だ。
モーテルの宿泊者の一人が、ふざけ半分に陸上競技のスタート合図用のピストルを窓から何回か鳴らしたのを、街を警備していた州兵隊が狙撃事件と誤解。
駆けつけたデトロイト市警の警官たちは、発砲元とされたモーテル別館の宿泊者を壁際に並ばせ、狙撃者を特定するために違法で残酷な“尋問”に取り掛かるのである。
映画は綺麗に三つのパートに別れていて、序盤約50分が暴動が始まって街全体に広まるまで、中盤50分がアルジェ・モーテルでの事件の一夜、終盤40分が後始末の裁判と関係者に陰を落とす事件の余波。
ドラマの三幕構造で言えば、第二幕の前半がモーテルの一夜、後半が裁判のシークエンス、その後が第三幕という構造になっている。
多くの立場の違う登場人物のいる偶像劇だが、映画の軸となるのはボーカルグループのザ・ドラマティックスのメンバーで、事件の夜にステージがキャンセルされ、たまたまモーテルに泊まっていたラリー・リードであり、彼がテーマを体現する実質的主人公と言える。
キャスリン・ビグローの演出は、例によって事件の現場に放り込まれたような圧倒的臨場感。
まだ誰が主人公なのか明確でない序盤、たっぷりと時間をかけて暴力のカオスが街全体に広がり、人種間の異様な緊張が増大してゆくプロセスをじっくりと見せる。
やがて、ギリギリの均衡を崩す様にモーテルで“事件”が起こると、映画はテリングのスタイルを大きく変えるのである。
このシークエンスは、編集による時間操作が無く、進行はほぼリアルタイム。
半ドキュメンタリー的なある種の密室劇は、緊張が極限に達しどっと疲れる。
キャストの中で、比較的知名度の高いジョン・ボイエガとウィル・ポールターをそれぞれ中立の観察者と抑圧者のポジションに置き、被害者のモーテルの客たちには、アベンジャーズのファルコンの中の人を除いて、無名の俳優たちを配するキャスティングの妙も効いている。
狙いとしては、やはり知名度の低い若手俳優中心だった「ダンケルク」の「防波堤」のシークエンスに近い。
彼らが“どこにでもいそうな知らない人”だからこそ、観客もまた彼らの1人になった様な感覚となり、恐怖と絶望のシチュエーションに放り込まれる。
ただでさえ威圧感のある警官に、問答無用で身に覚えの無い事件の容疑者にされ、銃を突きつけられ「殺す」と脅されるのだから、コレは心底恐ろしい。
そして、第二幕の後半となる事件の後始末では、ボイエガ演じるメルヴィンも、黒人は中立にすらなり得ない現実を突き付けられ、絶望の淵に沈んでゆくのである。
白人警官たちのやってることはとことんゲスいのだが、何よりも半世紀も昔の事件を描いているのに、そうは思えないほど現在との同質性を感じさせるのが衝撃。
この50年で少なくとも法的には人種差別はほぼ無くなり、警察を含め要職につく有色人種は著しく増え、アフリカ系の大統領だって生まれた。
そんな変化にも関わらず、白人警官による暴力がなぜ無くならないのか、トランプの時代、時計の針はむしろ逆行しているのか。
ここ数年で相次いだ、白人警官による黒人青年の射殺事件でも、警官が殆ど罪に問われない状況は続いている。
本作に描かれた白人女性への容赦ない暴力も含めて、半世紀前の事件から見えてくるのは紛れもなく現在だ。
物語の最後で、“白人のためのブラックミュージック”を拒否し、教会の聖歌隊に入ったラリーが歌うゴスペル、「Peace be still」の歌詞が、そのままこの映画のテーマと直結しているのでじっくりとお聴きいただきたい。
モーテルの夜、警官たちに強要されて神への祈りを歌ったラリーが、自らの意思でゴスペルをパワフルに歌い上げるラストは、今なお人種葛藤が続く中での、人間性への微かな希望を感じさせる秀逸なイメージだった。
今回は工場の街デトロイトが燃え上がる話なので、工場街生まれの酒「ボイラー・メイカー」をチョイス。
適量のビールを入れたグラスの中に、ショットグラスに注いだバーボンを落として完成。
元々はボイラー工場の労働者がビールにバーボンを入れたのが発祥とされるが、同様のビール+蒸留酒は、韓国の爆弾酒をはじめ世界中に存在する。
目的もどれも同じで、手っ取り早く酔っ払うこと。
二日酔い必至の危険な酒である。

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