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酒を呑んで映画を観る時間が一番幸せ・・・と思うので、酒と映画をテーマに日記を書いていきます。 映画の評価額は幾らまでなら納得して出せるかで、レイトショー価格1200円から+-が基準で、1800円が満点です。ネット配信オンリーの作品は★5つが満点。
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ショートレビュー「アイスと雨音・・・・・評価額1700円」
2018年03月28日 (水) | 編集 |
演じることは、生きることだ。

似た作品が思い浮かばない、強烈なインパクトを放つオンリーワンの作品である。
「アズミ・ハルコは行方不明」やTVの「バイプレイヤーズ」で知られる、松居大悟監督の大変な意欲作だ。
若い俳優たちを、オーディションで集めた芝居の準備が進んでいる。
作品は、イギリスの劇作家Simon Stephensの「MORNING」。
親友が街を出て行くことをきっかけに、動き始める若者たちの不穏なドラマだ。
未熟だが、熱い情熱を持った出演者たちは、時にぶつかり合いながらも、上演に向けて準備を進めて行く。
ところが興行的な理由で、初日のわずか一週間前に上演中止が決まり、若者たちの想いは突然断ち切られてしまうのだ。

実はこれ、実際に松居監督が演出するはずだった舞台が、上演二ヶ月前に中止されたことから着想した作品だという。
どうしても上演したいと願う青春の熱情と、それが許されない現実。
本来の初日までの残り一週間、若者たちの中で混じり合う厳しい現実の葛藤と芝居の中の葛藤、この二重構造を74分ワンカットで描く。
業界の内幕を描く、いわゆるセルフ・リフレクシブ・フィルムだが、劇中劇を現実から俯瞰するメタ的な構造とは明確に違う。
これは映画と演劇、現実と虚構がシームレスかつイコールに混じり合う、まか不思議な世界。
出演者同士が役者として会話していたと思うと、次の瞬間にはそれは劇中劇のワンシーンとなっている。
そして、そのシーンが終わるとまた現実に戻るのだが、劇中劇の前とは別の日になっているのだ。
上演一ヶ月前のリハーサルシーンから始まる映画は、芝居の切り替えでどんどんと時間をジャンプしてゆく。
ビスタサイズで描かれる部分は現実で、上下にマスクが入りシネスコサイズになるとそれは劇中劇。
舞台もリハーサルスタジを飛び出し、下北沢の街中に、そして聖地・本多劇場へ。
極めて演劇的でありながら、同時にカメラなしでは描けない映画的表現だ。

音楽を担当するMOROHAの二人がそのまま画面に登場し、ストーリーテラーの役割を果たす。
面白いのは、スクリーンの同じ空間にいるにも関わらず、映画の登場人物には彼らは見えていない、聞こえていないこと。
いわばキャラクターを持った心の声として機能するMOROHAのレリックと、暴走する劇中劇の登場人物、現実の出演者の閉塞した想いがぶつかり合い、混沌を深める映画は幻の初日に向かって走りだす。
やがて全てが一つに融合する瞬間は、現実と虚構のその先にある、幾つものナラティヴ芸術の融合から生まれた、新たな化学反応がもたらすカタルシス。
映画とは、こんなにも自由なものなのだ!

監督の松居大悟も本人役で出演。
実際に映画、演劇、TV、MVと、ジャンル横断的に活動している作者だからこそ、作り得た作品なのは間違いないだろう。
まだ32歳ととても若い人だが、現時点での集大成と言えるのではないか。
劇中劇同様、オーディションで選ばれたキャストも全員実名だ。
軸となる森田想は、ちょっと十代の頃の蒼井優を想わせるキャラクターで、鮮烈な印象を残す。
これは映画という映像表現と演劇というライブ表現、現実と虚構の垣根を取り払い、新しい表現に挑戦したユニークな実験映画で、小規模公開ながら商業作品として成立させたのが奇跡。
色々な意味で、最後まで攻め切った映画だ。

今回は、意外性のあるミックスということで、日本酒ベースのカクテル「春の雪」をチョイス。
日本酒30ml、ジン20ml、グリーンティーリキュール10ml、レモンジュース5mlを氷と一緒にシェイクし、グラスに注ぐ。
サントリースクールの花崎一夫氏が考案したカクテルで、グリーンは本作の若い俳優たちのように、春先に芽吹く緑をイメージしている。
日本酒ベースのカクテルゆえに、日本酒の銘柄によって味わいは大きく異なる。
個人的にはやや辛口の純米酒がオススメ。

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ショートレビュー「ヴァレリアン 千の惑星の救世主・・・・・評価額1550円」
2018年03月27日 (火) | 編集 |
”千の惑星”を巡る、アトラクションSF。

世界的な大コケの話題が先行してしまったが、全然悪くない。
というか個人的には、無味乾燥の作品が並ぶ、ゼロ年代以降のリュック・ベッソン監督作品では間違いなく一番好きだ。
原作はピエール・クリスタンとジャン=クロード・メジエールにより、1967年に誕生した歴史あるバンデシネ「Valérian and Laureline」で、メジエールは「フィフスエレメント」のコンセプトデザイナーとしても知られている。
だからだろう、両作のビジュアルコンセプトはかなり似通っており、この作品が作られる切っ掛けも、「フィフスエレメント」の制作中に、メジエールがベッソンに映画化を勧めたことだったという。
カラフルで魅惑的な異世界を駆け回る冒険譚は、まるで良くできた遊園地のアトラクションの様な、楽しいバーチャル宇宙旅行だ。

舞台は西暦2740年。
ディーン・デハーンとカーラ・デルヴィーニュ演じる、銀河の平和を守るエージェント、ヴァレリアンとローレリーヌが、数十年前に星間戦争で破壊された惑星パールの遺産を巡るミッションに参加し、危険な陰謀に巻き込まれることに。
彼らは、全宇宙から様々な種族が集まり、”千の惑星の都市"として知られる「アルファ宇宙ステーション」へと向かうのだが、その内部には謎の汚染エリアが急速に広まりつつある。
この危機を「10時間以内に救え」という命令を受けた二人は、汚染の原因を探るうちに、平和だった惑星パールが消滅した事件の裏に隠された、宇宙連邦軍内部の恐るべき秘密を知ってしまうのだ。

典型的な"世界観が全て"のSF映画で、主な舞台となる、千の惑星の文明がごちゃ混ぜになった、巨大な宇宙都市アルファの魅力で最後まで持たせる。
この宇宙都市、実は現在地球軌道上を飛んでいるISS”国際宇宙ステーション”が際限なく成長した未来の姿。
映画の冒頭4分で、ISSがいかにして宇宙都市アルファとなったのかを、デヴィッド・ボウイの名曲「スペース・オデッセイ」に乗せて描く。
”平和と友好のドッキング”の歴史は、1975年のアポロとソユーズのドッキングから始まる。
2020年代には、すでに現在のISSよりも大きく成長したステーションに、様々な国の宇宙船がやってくる。
さらに時代が進むと、今度は外宇宙からやってきたエイリアンたちの船が次々とドッキングし、数百年後にはあまりにも巨大に成長したアルファは地球軌道に止まれなくなり、太陽系外に向けて離脱、銀河中の文明を乗せたまま未知の宇宙を永遠に彷徨っているのである。
ちなみに、アルファの旅立ちを宣言するのはルトガー・ハウアー!

無数の種が様々なエリアに暮らし、全ての生態系を抱え込みながら、無限に自己増殖するカオスの宇宙都市。
このワクワクする世界観がこの映画のキモであり、アルファこそが実質的な主役である。
ぶっちゃけ、テーマ的な主人公となる惑星パールの生き残りたち、狂言回し的なヴァレリアンとローレリーヌを含めて、キャラクターの持つドラマ性は薄く、展開は行き当たりばったりだ。
いや、惑星パールの消滅から、因果応報的に続く現在のアルファの危機まで、かなり強引ながらプロットの整合性に関しては一応取れている。
ただベッソンのやりたいことが、ドラマチックに物語を盛り上げるというよりも、ドラマをダシにしてアルファが内包する面白いビジュアルをいっぱい見せたい!という方向に向いているのは明らかだ。
作劇的には、途中からヴァレリアンより、相方のローレリーヌの方が目立ってしまうし、冒険の途中に出会う魅惑的な不定形生物、バブルの扱いなど安易なご都合主義も目立つ。
まあ原作タイトルは「Valérian and Laureline」だから、どっちが主導でも良いのだろうけど。

ぶっちゃけ、ここには練り込まれた物語も深淵な哲学も無い。
しかし徹底的に世界観と現象の面白さに拘るのは、娯楽SFの見せ方として十分にありだと思う。
色んなタイプの宇宙人や、通り抜けフープみたいな箱とか、ドラえもんチックな未来道具も楽しい。
いい意味で、趣味性満載のプログラムピクチュアである。

今回は惑星パールのイメージで、「ブルーラグーン」をチョイス。
ウォッカ30ml、ブルーキュラソー10ml、レモンジュース20mlをシェイクし、氷を入れたグラスに注ぐ。
オレンジ、レモン、レッドチェリーでデコレーション。
海外では多めのレモネードを使うのが一般的で、ジンを使ったバリエーションもある。
オリジナルは1960年に、パリのハリーズ・ニューヨーク・バーの2代目オーナー・バーテンダー、アンディ・マッケホルンによって考案された、南国の海を思わせる美しいカクテル。
レモンジュースの酸味が、スッキリとした味わいを演出している。

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ニッポン国 vs 泉南石綿村・・・・・評価額1700円
2018年03月24日 (土) | 編集 |
国家 vs 個人。

大変な手間と時間の掛かった大労作である。
かつて石綿(アスベスト)産業が集中していたことから、石綿村と呼ばれた大阪泉南地域。
石綿工場の労働者や周辺住民など、石綿によって健康被害を受けた人々が、有害性を知りながら放置したとして国を訴え、2006年から2014年まで8年半に渡って続いた泉南アスベスト国家賠償請求訴訟を描くノンフィクション。
「ゆきゆきて、神軍」で知られる鬼才・原一男監督の、「全身小説家」以来24年ぶりとなる劇場用長編ドキュメンタリー映画だ。
途中にインターミッションが入る映画は久々。
しかし、さすが原一男。
実に215分の大長編が、全く長く感じないのだからすごい。

私が住んでいるのは東京の下町。
昭和の頃の古い工場やマンションなどが、建て替えのために解体されるのをよく目にするが、必ずと言っていいほど書かれているのが工事中のアスベスト飛散対策について。
環境省のホームページには、こう書かれている。
「大気汚染防止法」に基づき、特定建築材料が使用されている建築物等の解体、改造、補修作業を行う際には、事前に都道府県等に届出を行い、石綿飛散防止対策(作業基準の遵守)が義務づけられます。」
石綿を大量に吸い込むと、20〜30年に及ぶ潜伏期間の後、肺がんや中皮腫などの疾患を誘発、呼吸器が機能しなくなり、最後まで苦しみながら死を迎える。
石綿の危険性はずっと昔から把握されていたのにも関わらず、2006年まで製造が許されていたのは、安くて便利この上ないものだったから。
断熱材、防音材、車のブレーキや各種パッキンなどなど、石綿は日本の高度成長期を支える物質で、政府はそのために石綿村の人々が地獄の晩年を迎える運命に目を瞑った。
日本という大を富ませるために、石綿村の人々という小を犠牲にすることが許されるのか。

前半は、割と淡々とした正攻法の裁判記録。
長期間石綿工場で働いていた人、病を患い良心の呵責を抱える石綿工場の元経営者、工場の隣で畑をやっていた父を亡くした遺族、あるいは母親の働く工場に寝かされていて、幼くして大量の石綿を吸った人。
第一陣の原告団約60人は、皆それぞれの理由で静かな時限爆弾を抱え込んでしまった人々だ。
しかも彼らが自らの病の原因が石綿だと知ったのは、2008年に大阪のクボタ工場の従業員と周辺住民に健康被害が多発しているとして、アスベスト疾患がクローズアップされたいわゆる「クボタショック」によって。
自分がアスベスト疾患だと知った時には、すでに多くの人が末期症状だったのだ。
原告らにとって、何年も続く裁判は長く、過酷この上ない。
作中のインタビューで、自らの体験を語っていた人々が、バタバタと力尽き、次第に葬儀のシーンが多くなってゆく。
多くの葬儀で、カメラが故人の死に顔を捉えているのが驚きだ。
原監督はどれほどの時間をかけて、これほどの信頼を得たのだろうか。

映画は、ただ裁判を追いかけるだけでなく、石綿村の歴史にも迫る。
高度成長期、人手不足の泉南地域には、働き手がどんどん外からやってきた。
彼らの多くは集団就職で憧れの都会を目指した田舎の若者や、在日コリアンの出自。
戦前に朝鮮半島からやって来て、苦労の末に自ら石綿工場を作った人もいれば、戦後に済州島四・三事件の虐殺から逃れてきた人も。
日本の石綿産業は、その本当の危険性を知らない、相対的な弱者によって成り立っていたのである。
そして在日コリアンの祖先の地でもある韓国でも、やはり石綿の被害は広がっていて、石綿鉱山は日本統治下で開発されたという皮肉。
政府の責任を問う訴訟は、日本だけでなく石綿産業のあった世界中の国で起されており、先行する日本の裁判の結果が外国にも影響を与えかねないという。
世界の被害者のためにも、日本で負けるわけにはいかないのだ。

ドキュメンタリー作家には、大きく分けて二つのタイプがいると思う。
一つ目は、あまり「私」を出さずにモチーフを徹底的に生々しく捉え、最終的な解釈は観客自身の内なる声に委ねるタイプ。
もう一つが、やらせギリギリまで思いっきり作家の主観を盛り込んでくるタイプ。
前者の典型が例えばワン・ビンだとすれば、原一男は間違いなく後者だろう。
インターミッション後の後半になると、ふつふつとした怒りにだいぶドライブかかって、映画も熱を帯びてくる。
原告団のリーダーに、柚岡一禎さんというすごい怒りんぼなおじさんがいるのだが、彼の暴走気味の行動なんて、見てると結構監督が煽ってるんじゃないか(笑
原告団・弁護団の中にも色々なキャラクターがいて、一人ひとりが見せてくれるドラマにも見応えがある。
柚岡さんの様に、最高裁で勝訴しても、救済の条件が厳し過ぎて、抜け落ちる人がいると最後まで問題提起する人もいれば、夫を亡くした佐藤美代子さんの様に、肩の荷を下ろす人もいる。
高裁での第二審敗訴後の涙の訴えが印象的だった彼女は、求め続けた塩崎厚生労働大臣の直接謝罪後には、すっきりとした笑顔を見せるのだ。
それが本当に真摯なものかは別として、彼女にとってはあの塩崎大臣の謝罪が、国という巨大で漠然とした存在が、顔の見える個人に落とし込まれた瞬間だったのだろう。
納得してない人も当然いるだろうが、やはりこの国における謝罪のパワーって大きいのだ。

ところでこの訴訟、最高裁判決が出たのは2014年の安倍政権下だが、第一陣の一審判決は2010年の民主党時代だ。
「コンクリートから人へ」を標榜した政権が、こんな理不尽な裁判をなぜ控訴したのか。
映画の弁護団の発言を聞く限りでは、政権内でも判断が割れ、控訴しない派の長妻厚労相を鳩山首相に対応を一任された仙谷特命相が押し切ったということだろうか。
石綿被害を認めれば、膨大な数の潜在的な訴訟リスクを抱えることを恐れたのかもしれないが、それは後から話し合えば良いこと。
何よりも危険を知りながら、国が放置したのは明らかな事実なのだから。
弁護団の「民主党ダメだな・・・」の一言が心に残る。
民主党政権の失敗は沢山あるが、こういう一つひとつの対応が「自民と同じじゃん」として、民心が離れていったのも政権喪失の大きな要因だろう。
この映画でも、原告団・弁護団と政府の間でサンドイッチにされる官僚たちの戸惑いが見えたが、一体国って何だろう?政治や司法って誰のためにあるんだろう?と考えさせてくれる、実にタイムリーな秀作。
215分の長さにビビっている人は、とても面白いので是非観に行って欲しい。
インターミッション付きなら、トイレの心配もないのだよ。

今回は昭和の香り漂う庶民の酒、ホッピーを使った定番「ホッピー割り」をチョイス。
戦後の1948年に発売されたホッピーは、元々ビールの代用として東京を中心に広まったものだが、関西では普及しなかった。
東京に来た関西人が見ると、「ビールに氷入れたみたいな変な飲み物」に見えるらしい(笑
ホッピービバレッジは、ビアジョッキと甲種焼酎、ホッピーをキンキンに冷やし、ジョッキに焼酎1に対してホッピーを5の割合で注ぎいれる“三冷”を推奨している。
低糖質でプリン体がゼロと健康面で注目され、近年では徐々に関西でも販路が広がっているそうなので、いつか難波のおばちゃんたちとホッピー割りで飲み明かしたい。

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ちはやふる ―結び―・・・・・評価額1800円
2018年03月19日 (月) | 編集 |
二度と訪れない、宝物の時。

有終の美・・・なんて言葉では全然足りない。
これは日本青春映画史、いや日本娯楽映画史を塗り替える、王道エンターテイメント大傑作。
「上の句」「下の句」からはや二年。
フレッシュな新入生だった瑞沢かるた部の面々も、実時間通りに高校三年生に。
かるたに明け暮れる青春を送っている皆が直面するのは、恋と進路という前作ではまだ見え隠れしていた新たな問題だ。
この二年間で、誰もが認めるトップ女優へと駆け上がった広瀬すずをはじめ、主要キャストは全員続投。
さらに魅力的な新キャラクターも加わって、物語はドラマチックに盛り上がる。
真っ直ぐの剛速球で「上の句」を、鋭い変化球で「下の句」を構成した小泉徳宏監督は、キャラクターと演じる俳優たちの成長を半ドキュメンタリー的に取り込みつつ、前二作の内容を全て回収した上で、高校三年間の集大成として本作を描く。
ここには思春期の葛藤のほぼ全てがあり、まさしく青春全部入りの豪華幕の内弁当の趣きだ。
※核心部分に触れています。

幼馴染の真島太一(野村周平)と綿谷新(新田真剣佑)と、かるたを通して何時も繋がっていたいと願う綾瀬千早(広瀬すず)は、瑞沢高校に入り太一と再会するとかるた部を作った。
千早は、以前大会で闘ったことのある西田優征(矢本悠馬)、和のものを心から愛する大江奏(上白石萌音)、頭脳派オタクの駒野勉(森永悠希)を次々に勧誘。 
かるた部は創部1年目で全国大会に出場して健闘するも、千早は個人戦で最強のクィーン若宮詩暢(松岡茉優)に敗れる。
あれから二年が経ち、一時かるたを離れていた新は千早の情熱に動かされ、自分の高校でもかるた部を作り連戦連勝。
都内でも強豪として知られるようになった瑞沢かるた部にも新入部員が入り、最後の全国大会を目指すことになる。
ところが、東京都予選の直前になって、医大を目指している太一が、受験に専念するため突然かるた部を辞めてしまい、千早は動揺を隠せない。
戦力低下した瑞沢かるた部は、果たして並み居る強豪を倒して、全国大会をつかみ取れるのか。
幼馴染の三人は、再びかるたで繋がることが出来るのだろうか・・・・


本作を観ると、「上の句」「下の句」と合わせて、三部作のプロットがいかに緻密に構成されているのかがよく分かる。
この三部作における“ルーク・スカイウォーカー”は、千早の様な溢れんばかりの情熱もなく、新の様な天才肌でもない、かるたに関しては凡人を自認する太一だ。
千早と新が光り輝く二つの太陽だとすれば、太一はその光に恋い焦がれる月
第一作の「上の句」では、太一が幼い頃に新との試合中に犯した罪がフォーカスされ、彼の贖罪が物語の核心となる。
続く「下の句」では、葛藤を解消した太一は一歩下がり、三人の幼馴染それぞれにとっての競技かるたの意味が描かれる。
千早にとっては皆と繋がるため、新にとっては名人だった祖父を超えるため、そして太一にとっては千早のため。
二年が経過し、高校三年生という節目の年となった本作では、再び太一が単独で物語の軸となり、千早への恋心と自らの居場所はどこかという、人生の分岐点での葛藤が物語を押し進める。
太一の生き方を定める物語に、すでに覚悟を決めている千早と新の、かるたへの熱い想いが絡み合う構図だ。

驚くべきことに、本作は三部作の最終章だというのに、主要な新キャラクターが四人もいる。
瑞沢かるた部の新入部員として、優希美青と佐野勇斗が演じる花野薫と筑波秋博。
映画オリジナルのキャラクターで、清原果耶演じる千早の新ライバルの我妻伊織。
そして、迷える太一にとってのメンターとなる、賀来賢人が好演する孤高の天才・周防久志である。
シリーズ物のセオリーとして、終盤になっての新キャラクターの大量投入は危険だ。
往々にして、そこまでの物語に絡ませるだけで精一杯で、中途半端な立ち位置になってしまうからである。
しかし、本作では新規参入組の四人が自然に作品世界にフィットして、能動的に物語に寄与しているのだから素晴らしい。
その理由は、四人全てに独自の葛藤があり、シンプルながら葛藤を解消するための三幕の物語が与えられていて、それらがメインプロットに無理なく取り込まれているからだ。
脚本も兼務する小泉徳宏監督は、キャラクター造形とキャラクター同士の感情の応酬の組み立てが実に上手い。
例えば千早と我妻伊織は、クライマックスの試合以前にはほとんど絡まないが、新を間にした三角関係が、出会ってすぐに二人をヒートアップさせる。
前作から引き継がれた要素も多く、元からかなり複雑なメインプロットを構築しているにもかかわらず、さらなるサブプロットをいくつも拵えて、最終的にはロジカルにキチッと収束させてくるのだから恐れ入る。
お手本にしたい、惚れ惚れする作劇の妙だ。

極めてロジカルなのはテリングも同じ。
全編を見回しても、無駄な部分は1カット足りとも無く、綿密に計算されたストーリーとテリングが、躍動する若い俳優たちの肉体と映画芸術の至高のトリニティーを形作り、大スクリーンに結実している。
光の効果が印象的な柳田裕男による映像は、スコープサイズを生かし切った鮮やかなもの。
キメキメのスローモーション表現が、ザック・スナイダーと双璧、即ち世界一カッコいいのは相変わらずだ。
今回はロトスコープのアニメーションで、百人一首の原点たる古の歌合わせを描いたり、試合のシークエンスで選手の腕にウェアラブルカメラを装着し、視覚的に選手と一体化した様な臨場感を作り出すなど、新たな手法も駆使して新鮮さを演出。
畳の上の格闘技の熱を、工夫を凝らしたビジュアルと、メリハリの効いた音響・音楽との相乗効果でメラメラと燃え上がらせる。
全編に渡って、ものすごく手間のかかったエモーショナルなテリングが、グイグイと物語を前に動かし、全く滞る部分がないのだ。

「ちはやふる ―結び―」で描かれるのは、端的に言えば一生で一度しか手に入ら無い宝物、青春の輝き。
百人一首の歌の数々が、千年前の一瞬の情景を五・七・五・七・七に閉じ込め、現在の私たちに見せてくれる様に、この映画の作り手は誰もが経験のある青春の情景を、この上なく美しい三本の物語として、永遠に封じ込めた。
仲間と繋がりたかった、祖父を超えたかった、好きな子のそばにいたかった。
三部作が始まった時点では、そんなシンプルで幼い葛藤を抱えていた三人の幼馴染は、物語を通してグッと成長し、受け取るよりも与えることの喜びを知り、未来へと続いてゆく人生の道を定め、周りの人々とも今までよりもずっと懐の深い関係を築いてゆく。
友情・努力・勝利を超えて、ここには青春時代に学ぶべき全てがあり、いちいち心に刺さってくる名台詞のオンパレード。
ある意味道徳の授業で見せたくなるくらい、良い子ちゃんたちの話なんだが、全く説教臭くないのは、全てのキャラクターの感情に共感できるリアリティがあるからだ。
これ以上なく完璧な三部作だと思うのだけど、唯一残念だったのは前作から若宮詩暢の役割が変わって、千早との最終決戦が描かれなかったこと。
「上の句」「下の句」で全体の括弧として描かれた名人・クィーン戦が、そのまま本作のラストだとすると、エンドクレジット中のあるシーンとの間には、おそらく四年の歳月が流れているはず。
四年に渡る、綾瀬千早vs若宮詩暢vs我妻伊織の死闘も見たかったなあ。

ちなみに前二作と本作の間、本編では描かれなかった高校二年生の瑞沢かるた部は、本作の公開に合わせてウェッブで公開されているスピンオフドラマ「ちはやふる ―繋ぐ―」で観ることができる。
5分ほどのショート+本編メイキングの構成で全5話。
第5話がそのまま「―結び―」の冒頭に繋がる他、色々本編にかかる部分があるので面白い。
補完的なエピソードなので、本編の鑑賞後に観ても良いと思う。
しかしメイキング観ると、ほんと若い役者たちが楽しそうにキラキラしていて、高校生に戻りたくなる。
できれば自分でなく野村周平の顔で(笑

今回は全国優勝を祝して、モエ・エ・シャンドンが、オーストラリアのヴィクトリア州ヤラヴァレーで生産しているスパークリング・ロゼ「シャンドン・ブリュット・ロゼ」をチョイス。
シャンパンは名乗れないが、きめ細かい泡の感覚と、フルーティな香りが楽しめる、祝事にはぴったりの華やかなスパークリング。
味わいはフランス産のものにもさほど劣らず、コストパフォーマンスの高さがうれしい。
ロゼならではの色合いも美しく、舌でも目でも楽しめる。

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ショートレビュー「坂道のアポロン・・・・・評価額1600円」
2018年03月17日 (土) | 編集 |
ジャズが紡ぐ青春。

1966年の佐世保を舞台にした、パワフルな青春音楽映画。
父が亡くなったことで佐世保の叔母の家に越してきた、知念侑李演じる西見薫が、ひょんなことから誰もが恐れるバンカラ不良の川渕千太郎と出会う。
一見対照的な二人だが、音楽好きという共通項があったことから、千太郎の幼馴染で実家がレコード店を営む迎律子に導かれる様に、二人はジャズ仲間となる。
冷静沈着なピアニストの薫と、腕っ節が強く喧嘩っ早いドラマーの千太郎。
水と油の様に見えて、実は家庭に居場所がない似た者同士の二人に、マドンナの迎律子が絡み、友情と恋と音楽の葛藤が描かれる超王道の青春ストーリーだ。
わりと出来不出来の差が激しい三木孝浩監督、今回がベストだと思う。

小玉ユキの原作漫画は未読。
初恋の痛みは物語上の重要な要素だが、基本男同士の友情ものである時点で、毎年大量生産されている、少女漫画原作のティーン向け恋愛映画とはハッキリと一線を画す。
映画は、10年後の1976年に医者となっている薫の日常で幕を開け、過去を回想する手法をとる。
クリスチャンの千太郎が肌身離さず持っていたロザリオが、76年にはなぜか薫の元にあり、10年前の関係は継続していないことが示唆される。
最初に開示された"未来"に向かう三人に、一体どんなドラマが待っているのか?という興味で物語を引っ張るあたり、ゼロ年代の現在から80年代の青春を俯瞰する「横道世之介」をちょっと思い出した。
三人の主要人物を演じる知念侑李、中川大志、小松菜奈が良い。
特に千太郎役の中川大志は、タイトル通りアポロンのような逞しい体躯もあって、太陽の様に映画の世界を照らす。
キャラクターの立ち位置的に、小松菜奈の扱いがちょっと勿体無いんじゃないかと思っていたのだけど、ラストまでくるとようやくその狙いがわかる。

売り物のセッションシーンも見事な出来栄えだ。
音楽は実際にやっている人が多いので、フィクションでもごまかしがきかない。
特に本作では、メインとなるのが「Moanin’」や「My Favorite Things」といった超メジャーな楽曲なので、ピアノの指使い、ドラムの叩き方一つで膨大なツッコミが待っている。
俳優たちはクランクインの10ヶ月前から練習を重ねたというが、努力の結果はスクリーン上に見事に結実していて、音楽映画として聞き応えも十分。
即興性のあるいくつものセッションは、ジャズという自由な音楽ならではのカタルシスを感じさせ、特にクライマックスの文化祭のセッションは、圧巻の出来栄え。
薫と千太郎の抱える葛藤が、それぞれの音楽性につながっているのも良い。
例えば薫をジャズの道に誘う「Moanin’」は"呻き声"や"不満"を意味する。
シチュエーションを変え、劇中で何度も演奏されるこの曲が、現状に幾つもの問題を抱える薫の心情の吐露としても機能するという訳だ。

一方で、1966年という設定は、ビジュアル的な出来が良いからこそ、もう少し時代性に意味を出して欲しかった。
一応、ディーン・フジオカ演じるトランペッターの桂木が、東京で学生運動をやっていたということにはなっているのだが、そのことが薫や千太郎の人生に大きく影響する訳でもない。
例えば、上記した「横道世之介」では、80年代に青春時代を過ごしたことが、ゼロ年代の登場人物の人生に大きな影響を与えている。
尺の問題もあるのだろうが、本作ではノスタルジックな情感を作り上げる以外に、時代設定にあまり意味を見いだせず、76年と66年の二重構造とした理由付けもやや弱い。
それでも、登場人物の青春の葛藤を音楽を通して昇華し、大人への階段をのぼる物語として、映像的にも音楽的にも十分な説得力を持つのは間違いなかろう。
薫は押し付けられたものではない自らの生き方を定め、千太郎は出生の呪縛から逃れ、自らの人生を探して旅立つ。
若者たちにも、嘗て若者だったオトナ世代にも楽しめる、非常に間口の広い作品になっている。

しかし、全てが腑に落ちるラストカットは絶妙だが、エンドクレジットはやはりジャズでシメて欲しかったな。
いや小田和正の歌自体は悪くないのだけど、それまで観てきた世界観との乖離が激しく、「ここは素直に「Moanin’」で良いやんか・・・」と思って、脳内変換してしまったよ。

今回は長崎は平戸の地酒、福田酒造の「長崎美人 大吟醸」をチョイス。
1688年に、平戸藩の御用酒屋として始まったという、長い歴史を持つ蔵。
大吟醸はフルーティーな吟醸香と米の旨味を楽しめる、とてもバランスの良い逸品。
本作では小松菜奈がクリスチャンの佐世保美人を演じていたが、そういえば彼女はスコセッシの「沈黙 -サイレンス-」でも、長崎の隠れキリシタンを演じていたっけ。
あの映画では、簀巻きにされて海に沈められちゃう可哀想な役だったけど、今回は幸せになれそうで良かった。

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しあわせの絵の具 愛を描く人 モード・ルイス・・・・・評価額1800円
2018年03月14日 (水) | 編集 |
青い鳥のいる家。

いや〜素晴らしい。
2016年の作品なのだけど、なぜこれがオスカーに絡まなかった⁇
特にサリー・ホーキンスの演技は極上で、2年連続ノミネート、いや受賞していても全然おかしくない。
彼女が演じるのは、カナダの画家モード・ルイス。
美術教育を全く受けておらず、いわゆるヘタウマな絵なのだけど、なんとも言えない素朴な味わいがある。
カナダでは国民的人気があるそうで、日本で言えば山下清画伯のような感じだろうか。
これはモードと、持病がある彼女を支えた最愛の夫エベレットとの物語。
監督・脚本を務めるのはアイルランド出身のアシュリング・ウォルシュ。
この方は、昨年公開された韓国映画「お嬢さん」の原作として知られる、サラ・ウォーターズの「荊の城」のBBCドラマ版を始め、TVドラマや複数の劇映画を手がけているベテラン。
日本で監督作品が正式公開されるのはこれが初めての様だが、繊細で妙妙たる仕事をしている。

港町ディグビーに住むモード・ドゥーリー(サリー・ホーキンス)は、絵を描くことをこよなく愛する女性。
リウマチで手足が少し不自由だが、同居する叔母アイダ(ガブリエル・ローズ)に厄介者扱いされる生活に耐えられず、買い物先で見つけた「住み込みの家政婦募集」の広告に応募する。
雇い主となったのは、魚の行商をしているエベレット・ルイス(イーサン・ホーク)。
小さな家に共に暮らすようになった二人は、最初は様々なことでぶつかり合うが、次第に打ち解けて、やがて結婚。
そんな時、モードが自宅の壁やカードに描いていた絵が、アメリカから避暑に来ていたサンドラ(カリ・マチェット)の目に止まり買い取られる。
本人も知らないうちにモードの絵の人気は高まってゆき、ついにはニクソン副大統領からもオーダーが入るほどに。
モードは本格的に画家として活動を始め、逆にエベレットが家事をすることになるのだが、夫婦の役割の変化は二人の間に目に見えない亀裂を作っていた・・・


舞台となるのはカナダの東海岸、風光明媚なノバスコシア州。
「赤毛のアン」の島として日本人に人気の、プリンス・エドワード島の南にある大きな半島だ。
この土地に生まれ、生涯を過ごしたモードは、重度のリウマチで手足に障がいがあり、体を縮めてボソボソ喋る。
両親の死後は、相続した兄によって生家が売却されたため、叔母のアイダの家に引き取られるも、自分を一人前の大人の女性と認めないアイダとの生活に嫌気がさし、家を飛び出して自立の道を歩むことに。
そんな彼女と出会ったエベレットは、粗野で怒りっぽい。
最初のうちはモードをモノの様に扱い、思い通りにならないと暴力を振るう非共感キャラクターだが、モードは彼の心根の寂しさと優しさを見抜いている。
孤児院で育ったエベレットは、他人とのコミュニケーションが苦手で、愛し方も愛され方も知らないのだ。
障がいゆえに家族に疎まれたモードと、天涯孤独のエベレット。
運命に引き合わされた二つの魂は、やがて惹かれ合い、かけがえのないソウルメイトになってゆく。

二人の暮らす小さな家がいい。
物語の大半が展開する舞台でもある家は、ダイニングキッチンの1階と、寝室になっているロフトのたった二部屋。
日本の都会のワンルームマンションと大差ないか、むしろ狭いくらいで、家というよりほとんど小屋だ。
確かにこんな小さな空間に額を合わせる様に暮らしていたら、よほど相性が良くないと我慢できないだろう。
この家に引っ越してきたモードは、殺風景だった壁やドア、あらゆるところに絵を描き、超ラブリーなステキな我が家兼ギャラリーショップにしてしまうのである。

出会いは雇い主と使用人、やがて夫婦となり、彼女の絵が世間に認められると、二人の役割、関係性も変わってくる。
家政婦のはずだった妻は稼ぎのいい画家となり、一家の稼ぎ頭だった夫はいつしか妻に代わって家事をこなす専業主夫となる。
才能ある妻を持った夫の、戸惑いと葛藤を繊細に演じるイーサン・ホークも素晴らしい。
もともとコミュニケーション下手もあり、妻が注目を集めれば集めるほどに、世間の嘲笑に男としてのプライドを刺激され、これでいいのかと頭を悩ます。
しかしモードは揺るがない。
絵が描けて、愛し愛される人がいればいい。
根底の部分で価値観を共にする二人は、壊れそうになってもギリギリで踏みとどまる。
劇中、モードの知らないある秘密を告げるため、病床の叔母が彼女を呼び出すシーンで、叔母はモードに「一族で幸せになったのは結局お前だけ」と言う。
二人の家の壁には、青い鳥が描かれている。
どんなに有名になっても、お金持ちになることに興味を持たず、素朴な生き方を変えない二人は、幸せの本質を知っているのだ。

淡々とした本作のテリングでユニークなのは、時代の情報をあえて見せないということだろう。
現実のモードがエベレットに出会ったのは1938年で、亡くなったのは1970年。
物語上ではなんと32年もの歳月が経過しているのだが、二人の生活スタイルは最初から最後までほとんど変化しない。
家も描かれた絵が増えて行く程度で基本そのままだし、一度エベレットがトラックを乗り換える以外目立った買い物もしないから、時の流れを意識しない様に出来ているのだ。
モードを取材するのにTVが登場したり、ニクソン"副大統領"の名前が出てきたり、街中の車の型などでも今がいつ頃なのかはなんとなく把握できるのだけど、具体的に何年というインフォメーションは出てこない。
そして、モードの病状が悪化して、最期の時を迎える時に、近代的な病院が出てくることで、観客は物語の中で流れた遠大な歳月を知る。
第二次世界大戦から激動の60年代、そして70年代へと時代は大きく動いていたが、モードとエベレットの幸せの時間は変わらない。
モードの描いた沢山の絵は、その一枚一枚が彼女の命のきらめきで、エベレットはその光に満たされていた。
お互いを想い、愛した二人の永遠の別れに涙が止まらない。

映画には描かれてないが、モードが亡くなった後、エベレットもまた絵を描くようになったという。
残されている彼の作品をネットで見ると、まるで亡き妻の魂が乗り移ったかの様に作風がそっくりなのに、またしても落涙。
本当に、心の奥底で強く繋がった夫婦だったのだろう。
エンドクレジットに現実のモードとエベレット夫婦が出てくるのだが、最後のモードのアップショットに驚き。
全然似てはいないのだが、サリー・ホーキンスと眼差しが完全に一致
これを演技で出しているとしたら、本当に凄い役者だ。

ちなみに劇中に出てくる三匹の黒猫の絵がなんとも愛らしくて、欲しいと思って調べたらモードの絵は今では日本円で数百万はするらしい。
当時たった数ドルで買った人たちが羨ましい。
貨幣価値の差を考えても当時の値段は安いと思うし、絵のサイズも小さいので、忘れられて民家の屋根裏とかで埃を被ってる作品も結構あるんじゃないだろうか。

今回は、カナダのクラフトビール「スキャンダルラガー」をチョイス。
名前やボトルデザインなどは結構刺激系に攻めた感じだが、実は醸造所所有の地底湖から汲み上げた水と、オーガニック原料から作られた拘りのオーガニックビール。
実際飲んでみると、丸みのある優しい味と喉ごしでとても飲みやすい。
適度なホップ感もあり、モードの絵のように飲み飽きない一本。
ちなみにメジャー系ではカナダビールといえばモルソンなのだが、日本でもどこかインポートしないものか。

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ショートレビュー「ビッグ・シック ぼくたちの大いなる目ざめ・・・・・評価額1650円」
2018年03月11日 (日) | 編集 |
今、ぼくたちに必要なこと。

シカゴを舞台に、パキスタン出身でスタンダップコメディアンとして成功を目指すクメイルと、白人女性エミリーとの恋の顛末を描く軽妙な佳作。
文化の壁を埋められず二人は一度は別れるのだけど、彼女が原因不明の病で昏睡状態に陥ったことで、大きな転機が訪れる。
実話ベースで、主人公のコメディアンを演じているのは本人、脚本も本人カップルが共同で執筆と、何気に映画全てがノロケじゃねーか!という作品なのだが、クメイル・ナンジアニとエミリーを演じるゾーイ・カザンの二人がなんとも可愛くて、周りの家族や友人たちの描き方も愛情いっぱい。
低予算ゆえの手作り感が、たまらなく暖かい。

観ながら、「どこかで聞いたような話だなあと」思っていたのだが、劇中で起こることとプロットの展開は「8年越しの花嫁」によく似ている。
まあ経過時間的にはずっと短いのだけど、病院でのクメイルと彼女の両親とのやりとりとか、昏睡から回復してもすぐに元に戻らないあたり、偶然とはいえデジャヴを感じた。
ただ、二人を分かつ問題は、昏睡以外は大きく異なる。
クメイルとエミリーの間に横たわるのは、アメリカとパキスタン、水と油ほどにも異なる二つの国の価値観と家族観という多民族国家ならではイッシューだ。
パキスタン生まれで十代で両親とともにアメリカに移民し、すっかりアメリカ社会に馴染んでいるクメイルだが、両親の前ではパキスタン人のアイデンティティを重んじる“フリ”をしている。
ムスリムとしてお祈りをするフリ、母の望むパキスタン人女性と見合いをするフリ。

このあたりの移民の世代間ギャップは、いかにも米国社会あるある。
私の米国の親戚も、一世の親世代は未だに英語が不得意な“日本人”だが、三世になる孫世代はもはや英語でしかコミュニケーションが取れず、完全なアメリカン。
私が学生時代にたまに遊んでいたイラン移民二世のクラスメイトも、カラオケでガンガン酒飲んでいたが、実家に帰ったら「敬虔なムスリムのフリをするんだよ」と言っていた。
移民社会だからこそ、祖国のアイデンティティを大切にする親世代と、もはやアメリカにしか帰属意識のない子供世代の微妙な距離感と葛藤は、多くの家庭が抱えているイッシューだろう。
パキスタン人であることへの拘りというより、単に愛する親との関係を壊したくないクメイルは、見合いしていることがエミリーにバレたことで、一度は別れを決意する。
しかし、彼女が昏睡に陥ったことで、改めて自分の中のエミリーの大きさを実感し、彼女の回復を待ち続けることになるのだ。

人生で本当に大切なことは?本当に失いたくないものは何か?
病と回復が、邦題通りに二人の心の目覚めを後押しする。
愛するエミリーを失うかもしれないという恐怖が、クメイルの中では彼女に対する愛情をマックスまで高めてゆく。
しかし、昏睡している間エミリーの時間は止まっているので、目覚めた時点ではクメイルはまだ自分を裏切った元カレの状態。
彼女には、ここから時間差で彼の想いを知ってゆくプロセスが必要で、結末はわかっていても、不器用な恋の行く末にはハラハラさせられる。
クロスカルチャーのカップルを描いた、コミカルなラブストーリーとして秀逸なだけでなく、家族とのジェネレーションギャップ、異文化のカルチャーギャップなど、様々なコミュニケーションの葛藤を描いた映画としてもよく出来ている。
この世界に必要なのは、ヘイトと拒絶より、愛とユニティ
本作もまた、トランプの時代に観るから、より説得力が増す一本だ。
歴代支持率最低の、問題だらけの大統領だけど、ある意味米国のみならず世界中のクリエイターにネタと創作の意欲を提供している。
その意味では歴代大統領でMVPかも知れないな(苦

今回は、アメリカ社会ならではの話なので、星条旗をイメージしたカクテル「アメリカン・フラッグ」をチョイス。
細めのグラスに、グレナデン・シロップ10mlを注ぎ、次にバースプーンの背を使いクレーム·ド·カカオ ホワイト10ml、ブルー・キュラソー10mlの順に静かに注ぎ入れ、浮かせる。
比重の関係で赤、白、青のアメリカ国旗が浮かび上がるユニークな甘口カクテル。
まあ横から見るとフランス国旗にも見えるんだけど。
味わいというよりも、目で見て楽しむカクテルだ。

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ショートレビュー「さよならの朝に約束の花をかざろう・・・・・評価額1600円」
2018年03月10日 (土) | 編集 |
あなたに会えて、良かった。

作者のポテンシャルを、十二分に感じさせる力作である。
「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」「心が叫びたがってるんだ。」などの脚本家として知られる岡田麿里が、初めて監督を務めた長編アニメーション映画。
実写作品も手がけてる人だから、実写でデビューする選択肢もあっただろうが、あえて独自のノウハウを必要とするアニメーション、しかもオリジナルの異世界ファンタジーという難しい素材。
相当に攻めた作品と言える。
物語の軸となるのは、十代で肉体の成長が止まり、その後数百年の間時無き時を生きる種族イオルフの少女マキアと、彼女が救った人間の赤ん坊エリアル。
数奇な運命に導かれる“母子”の、数十年間にわたる壮大なクロニクルだ。

舞台となる異世界では、レナトと呼ばれる古の巨大なドラゴンを兵器として戦力化したメザーテ王国が覇権を握っているが、レナトは赤目病という致死性の病により数が急減している。
物語は、メザーテ軍が人里離れたイオルフの村を急襲する序盤から大きく動きだす。
レナトを失うことによる権威失墜を恐れたメザーテの王族は、イオルフの長寿の血に目をつけ、超自然的な権威を維持するためにイオルフの女に子を産ませようと、平和な村を襲ったのだ。
マキアはなんとか逃げ延びるが、村で一番の美女レイリアは拉致される。
この事件によって故郷に帰れなくなったマキアが、旅の途中で出会うのがエリアル。
縁により擬似的な母子となったものの、自分より先に子供が死ぬことは分かっている。
人間よりもはるかに長い時間を生きるイオルフは、同じ時を共にした人間と必ず死別することから、"別れの一族"とも呼ばれているのだ。

最初、若い母親と赤ん坊だった二人は、時が過ぎると姉と弟と見られる様になり、やがて子は母の年齢を追い越してゆく。
映画は、様々な人々と一期一会を繰り返しながら、奇妙な家族として暮らすマキアとエリアルの人生を縦軸とし、メザーテの王宮の籠の鳥となった、レイリアの奪還を目指すイオルフのレジスタンスとの物語が横軸となる。
レイリアは娘メドメルを産んだものの、彼女には期待されたイオルフの長寿の兆候は出ず、二人もまた異なる時を生きる母娘となるのである。

冒頭、マキアは一族の長老としてイオフルの民を束ねるラシーヌに、「イオルフの外に出たら、人を愛してはいけない」と説かれる。
イオルフと人との出会いは必ず別れる運命で、そこには悲しみしかないと。
別れることが分かってるなら、最初から出会わない方が幸せなのか?別れは全て不幸なのか?
イオルフのこの葛藤は、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の「メッセージ」で、エイミー・アダムズ演じる言語学者のルイーズが陥るジレンマにも通じる。
宇宙人の言語を解読したことで、時間を超越する新たな思考回路を獲得したルイーズは、まだ生まれていない娘の誕生から悲劇的な死まで、人生の全てを見てしまうのだ。
しかし、彼女はいつか来る別れの悲しみよりも出会いの喜びを選び、別れすらも愛によって包み込むのである。
ここでは同じ結論が、母性の本質を追求する、長いながい旅路の物語として表現されているという訳だ。

本作の筋立てはかなり複雑で、描ききれていない部分もある。
自分が親の立場になった時のエリアルの心情の変化は、もう少し深く描写して欲しかったし、登場人物が多い分、脇のキャラクターのエピソードはダイジェストを感じさせる。
レナトと赤目病の意味付けも中途半端だ。
2時間以内の尺に収めるために、サブプロットを削り過ぎている感は否めない。
一方で、完全な異世界を、野暮な説明性を極力排して序盤で過不足無く描写しているのはさすがだ。
そして、綿密に作り込まれた世界観、丁寧なキャラクターアニメーションもあって、見応えのある力作に仕上がっている。
細かなモブにも動きつけてあるが、低予算の深夜アニメ並みに動かない作品も多い中、本来の劇場用アニメーションのクオリティに達した作品は貴重だ。
岡田麿里監督の次回作を、楽しみに待ちたい。

今回は、白でまとめられたイオルフの民のビジュアルイメージから、「ホワイトレディ」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、ホワイト・キュラソー15ml、レモン・ジュース15mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
雪を思わせる半透明のホワイトが美しい。
フルーティな華やかさを、ジンの辛口な味わいが自然にまとめ上げ、バランスのとれたエレガントなカクテルだ。

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シェイプ・オブ・ウォーター・・・・・評価額1800円
2018年03月05日 (月) | 編集 |
水に包まれた愛のカタチ。

映画館の上のアパートに住む、声を失った孤独な女性が、政府の研究所に囚われた大アマゾンの半魚人と恋をする。
2017年度のベネチア国際映画祭金獅子賞、本年度アカデミー賞でも作品賞・監督賞ほか4部門を制した話題作だ。
サリー・ホーキンスが主人公イライザを好演、彼女と恋に落ちる半魚人の"彼"に、「ヘルボーイ」でも半魚人のエイブ・サピエンを演じていたダグ・ジョーンズ。
マイケル・シャノン、リチャード・ジェンキンス、オクタビア・スペンサーら、実力者が脇を固める重厚な布陣。
どこまでも優しく残酷で美しい、大人のためのメロウな童話だ。
ギレルモ・デル・トロ監督は、自身の最高傑作を作り上げた。
※核心部分に触れています。

1963年、 ボルティモア。
政府の研究所に掃除婦として務めるイライザ(サリー・ホーキンス)は、ラボに半人半魚の不思議な生き物が運び込まれるのを目撃。
アマゾンの奥地で、現地の人々から神として崇められていたという"彼"(ダグ・ジョーンズ)に心惹かれたイライザは、人目を避けて会いに行くようになる。
声を出せない障がいを持つイライザだったが、"彼"との間に声は不要。
音楽や手話でコミュニケーションをとり、次第に距離を縮めてゆく。
"彼"の研究をしているホフステトラー博士(マイケル・スタールバーグ)は、イライザの行動に気づくが、なぜか黙認する。
ある日、警備主任のストリックランド(マイケル・シャノン)とホフステトラー博士が激しく言い争っているのを見たイライザは、"彼"が間もなく解剖されることを聞いてしまう。
イライザは、隣人のイラストレーターのジャイルズ(リチャード・ジェンキンス)の助けを借り、研究所から"彼"を脱出させようと計画するのだが・・・

ベースとなっているプロットそのものは、邪悪な権力に囚われた特別な生物を、善意の主人公が救い出すという、過去何十本作られたのか分からないほど、ごくごくありきたりな話。
しかし魅力的なキャラクターと、様々な物語の話型をごちゃ混ぜにしたディテール、デル・トロの作家性全開のテリングによって、驚くほど未見性のある映画に仕上がっている。
全体の印象は、アンデルセンの「人魚姫」をジャック・アーノルド監督の古典モンスター映画「大アマゾンの半魚人」と結合させ、「パンズ・ラビリンス」と「ヘルボーイ」のテイストで仕上げたようなイメージだ。
切ないラブストーリーであり、ユニークなモンスタームービーでもあり、優れたサスペンス映画でもある。
これ自体が、水のように常に形を変えるジャンル横断的な映画であり、本作の魅力を言葉で説明するのはとても難しい。

米ソ冷戦下の1962年という設定が絶妙で、時代性が物語の背景としてうまく生かされている。
核を突きつけ合う国家間の対立で世界は不安定、この年には核戦争をギリギリで回避したキューバ危機が起こり、アメリカ国内ではベトナム戦争への反発と公民権運動の高まりによって、それまでの社会が大きく動きつつある時代。
冷戦の終結から時代がぐるっと一巡して、世界は再び内向きに回帰し、社会の分断が深まる現在とは、似ているのだけど少し異なる、合わせ鏡としての舞台設定だ。

映画の冒頭は、「むかしむかし、あるところ」に暮らすイライザの日常を描く。
アメリカの怪奇幻想文学の源流、エドガー・アラン・ポーが終生暮らした町としても知られる、メリーランド州ボルティモアにある研究所で清掃員として働く彼女は、昼夜逆転の生活を送っている。
毎夜同じ時間に起きて、バスルームでササっとマスターベーションし、バスで職場に向かい、仕事を終えると帰ってくるの繰り返し。
彼女の家は、映画館という"聖地"の上のアパートだが、華やかな映画のような人生とは対照的な地味な生活。
交流関係も、隣室に住むイラストレーターで同性愛者のジャイルズと、仕事仲間のゼルダくらい。
障がいを持つ主人公と、性的マイノリティ、アフリカ系女性と皆当時の社会では傍流の人々で、それぞれに問題を抱えてハッピーとは言えない日々を過ごしている。
現在を詳細に描写する反面、イライザの過去に関しては、ほとんど描かれない。
彼女の姓のエスポジートは、もともとは捨て子や孤児を意味する言葉だが、実際に彼女が孤児だったのかどうかも、なぜ声が出せないのかも詳細は不明なまま。
これは後記する物語の仕掛けの、重要な伏線にもなっている。

そんなイライザが、恋におちる。
しかも"彼"は人間ではなく、研究所に実験体として囚われた奇怪な半魚人だ。
なんとなく鯉っぽい顔を含め、よく見るとデザインは大分異なるのだが、アマゾンの奥地で捕まったという設定からも、ユニバーサルの古典モンスターの中でも、今も高い人気を誇る「大アマゾンの半魚人」を強く意識しているのは間違い無いだろう。
あの映画では、テリトリーに侵入してきた科学者たちに怒った半魚人は、ヒロインを誘拐するも、追跡してきた科学者の銃弾に倒れ、水の中に沈んでゆく。
本作は、半魚人が殺されずに捕らえられた、"if"の世界を描く物語なのかもしれない。
ひょんなことから、この奇妙な生物に出会い心惹かれたイライザは、食べ物で気を引くとジェスチャーと音楽とダンスで急速に距離を縮める。
姿形も、種の違いも関係なく、大切なのは心が繋がるということ。
この愛の形は、いわば「美女と野獣」の美女が普通のおばさんで、野獣が王子に戻らない、よりピュアなバージョン。
やがてイライザは、死する運命の"彼"を救うべく、研究所からの救出を決意する。

恋するイライザを演じる、サリー・ホーキンスが抜群に良い。
時に"彼"を見つめるまっすぐな少女のような眼差し、時に中年女性のくたびれた表情。
ホーキンスに当て書きされたというイライザは、シーンによって、ショットによって、いくつもの異なる顔を見せる、不思議で魅力的なキャラクターになっている。
彼女の前に立ちはだかるのが、サディスティックに"彼"を虐待する、マイケル・シャノン演じるストリックランドだ。
異形の"彼"を救おうとする、イライザとマイノリティの仲間たちが体現するのが、愛と寛容だとすれば、ストリックランドは傲慢と不寛容の塊だ。
だが、デル・トロは彼を単純な悪役には描かない。
ストリックランドは、今風に言えば成功者を気取る社畜の様なもので、どんなに辛くても国家の官僚機構の中で出世を目指す生き方しか知らないのである。
もう一人、実は研究所に送り込まれたソ連のスパイであるホフステトラー博士は、研究者として"彼"を生かしたいという願いと、アメリカの手に落ちるくらいなら殺してしまえという本国からの指令の板挟みとなる。
自由な意志で動くイライザたちと、組織の歯車であり、イデオロギーの奴隷でしかない二人の男は対照的に描かれるが、私はこの悲しき男たちにすっかり感情移入してしまった。
自ら危険を冒して、純粋な目的を遂げようとするイライザたちの行動は尊い。
しかし私たちの多くは、どちからかと言えばストリックランドの側で生きているのである。

そして、追う者と追われる者、登場人物たちの運命が雨の中で交錯するクライマックス、全編に仕込まれた伏線と暗喩、その一つ一つが回収され、きちんと意味を持ってくるストーリーテリングのカタルシス。
あの傑作「パンズ・ラビリンス」を超える、映画のたたみ方が実に見事だ。
この映画を観る観客は、「どこからどこまでが現実なんだろう?」と感じるかもしれない。
しかし、本作は夢の中の様な水中のビジュアルと、ジャイルズの"語り"から始まる。
「あのことについて語るなら、何を話そう?そうだな、いつの話かって?あれはハンサムな王子の時代が、終わりに近づいたころ・・・・」
つまりこの映画は、最初から彼の語る"物語"なのである。
ハンサムな王子の時代とは、翌年に暗殺されたジョン・F・ケネディの比喩だろう。
これは、アメリカの理想主義の時代と、激動の60年代の狭間で語られるささやかな御伽噺。

アン・リー監督の「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」で、海難事故からただ一人生き残った主人公は、保険会社の調査員に二つの体験談を語る。
一つは船が難破して、生き残った人間たちが一艘のボートに乗り合わせ、殺し合いの末に自分だけが残ったというもの。
もう一つは、ボートに乗り合わせたのは、主人公と何頭かの動物たちで、その中の気高く美しいベンガルトラ、リチャード・パーカーが残りの動物を食い、自分はなんとかトラとの共生関係を作り上げて生き残ったと。
"真実"を聞く調査員に、主人公は問いかける。
どちらの話でも結果は同じ、ならばどちらが"語られるべき物語か?"と。
ジャイルズ=デル・トロの物語で何が起ころうとも、それは語られるべき出来ごとであり、物語としての真実なのである。
イライザはきっと、遠い昔に誰かに恋をして、声と引き換えに陸に上がった人魚姫。
"彼"と出会い、忘れていた感情を思い出した。
常に形を変え続ける水の中で、二人は永遠に幸せになったのだろう。
切なく愛おしい、珠玉の傑作である。

今回は深い海の様に青い、フランスのスパークリング「ラ・ヴァーグ・ブルー」をチョイス。
青は聖母マリアのシンボルカラーである事から、縁起物としてパーティでよく供される定番のスパークリングだ。
ソーヴィニヨン・ブランで作られるこちらは、やや辛口で口当たりも良く、柑橘系の爽やかな香りと適度な酸味を持つ使い勝手の良い一本。
ブルーのボトルの深淵に、水の中に消えていった二人の姿が見えるかもしれない。

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ブラックパンサー・・・・・評価額1750円
2018年03月03日 (土) | 編集 |
守るべきか、分かち合うべきか。

2016年に公開された「シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ」でMCU初登場を飾った、アフリカ出身のスーパーヒーロー、ブラックパンサーの単独作品第一弾。
世界やら宇宙やらを救ってしまう「アベンジャーズ」系と違って、超科学王国ワカンダの王位継承を巡るお家騒動の話で、その意味では「マイティ・ソー」に近いのだが、過去のマーベル作品とは違った“正義に関する葛藤”を盛り込んでいる。
「フルートベール駅で」「クリード チャンプを継ぐ男」の俊英ライアン・クーグラーが脚本・監督を務め、「シビル・ウォー」に引き続き、タイトルロールに「42 世界を変えた男」のチャドウィック・ボーズマン。
彼の前に立ちはだかる宿敵キルモンガーを、クーグラーとの名コンビ、マイケル・B・ジョーダンが演じる。
いかにもアメコミらしい正統派のストーリーに、骨太のテーマを内包するポリティカル・スーパーヒーロー映画である。
※核心部分に触れています。

ソコヴィア協定の署名式で起こった爆破事件により、父ティ・チャカ王が亡くなり、ティ・チャラ王子(チャドウィック・ボーズマン)はアフリカ奥地の秘密郷、ワカンダの国王に即位。
国王とブラックパンサーという二つの顔を持つことになった彼の元に、大英博物館からワカンダの力を支えるヴィブラニウムが盗まれたとの一報が入る。
事件にユリシーズ・クロウ(アンディ・サーキス)が関与していることを知ったティ・チャラは、取引が行われる韓国に飛び、CIAのエヴェレット・ロス(マーティン・フリーマン)の協力で一度はクロウを捉えることに成功するも、キルモンガーの異名を持つエリック・スティーヴンズ(マイケル・B・ジョーダン)に奪還されてしまう。
そして、負傷したロスの治療のためワカンダに帰還したティ・チャラの前に、再びキルモンガーが姿を表す。
彼は1992年に死んだ王弟ウンジョブの遺児ウンジャダカ王子を名乗り、ティ・チャラの王座に挑戦することを宣言するのだが・・・


公民権運動の嵐が吹き荒れる1966年のアメリカで、二つの”ブラックパンサー”が誕生した。
一つ目は本作の原作であり、スタン・リーとジャック・カービーによって創造された、メジャーなアメコミ史上初めてのアフリカ系スーパーヒーローだ。
もう一つは、横暴な白人警官の暴力から、黒人住人を守る為に結成された自警団から発展した過激な政治組織、ブラックパンサー党である。
マリオ・ヴァン・ピープルズ監督の映画「パンサー」でも知られるこの組織は、マルコムXやキング牧師ら公民権運動の指導者が相次いで暗殺されたこともあり、一定の支持を集め一部白人の左派組織とも連携して、権力相手の武装闘争を繰り広げた。
二つのブラックパンサーが同じ年に生まれたのは偶然で、コミックのブラックパンサーは暴力的な活動と関連付けられることを嫌い、一時ブラックレパードと改名したほど。
しかし、半世紀が経過した現在、本作の作り手たちはそこに歴史の必然を見出した様だ。

物語の起点が、1992年のカリフォルニア州オークランドに設定されているのには意味がある。
オークランドは、ヒューイ・P・ニュートンとボビー・シールによってブラックパンサー党が結成された発祥の地であり、1992年は黒人青年を殴打した白人警官に無罪評決が下った、いわゆる”ロドニー・キング裁判”を切っ掛けとして、あのロス暴動が勃発した年なのだ。
2009年に同じオークランドで起こった、白人警官による丸腰の黒人青年の射殺事件を題材とした「フルートベール駅で」により、センセーショナルな長編デビューを飾ったライアン・クーグラー監督もまた、オークランドの生まれ。
アフリカの架空の国を舞台とした本作のバックボーンには、アフロアメリカン闘争史が内包されているのである。
そう考えると、本作に韓国のシークエンスが含まれるのも意味深に思えてくる。
ロス暴動はロドニー・キング裁判のみを原因としたものではなく、伝統的な黒人たちの居住区に韓国からの新移民が流入し、人種間の緊張が高まっていた時に起こった、韓国人商店主による黒人少女の射殺事件も大きく影響しているからだ。

ティ・チャカとティ・チャラ、ウンジョブとキルモンガーことウンジャダガ、二組の親子が体現するのが正義と悪ではなく、同じワカンダの正義のテーゼとアンチテーゼを形作るのも面白い。
数あるMCUヒーローの中でも、”正義とは何か”を最も真面目に追求してきたのが、戦争のプロパガンダのために生まれたという原点を持つ、キャプテン・アメリカを主役としたシリーズだろう。
特に9.11後の違法な情報収集をモチーフとした「ウィンター・ソルジャー」と、強大な力は何に帰属させるべきなのかを問うた「シビル・ウォー」は、現実のアメリカ国家が掲げる正義に、正面から異議を投げかけたハードな政治映画でもあった。
その「シビル・ウォー」で初登場したブラックパンサーは、何しろヒーローと一国を率いる国王の二足の草鞋を履いているのだから、政治的にならない訳がない。
この映画では、登場人物の葛藤が長年に渡るアメリカ内部の分断と外交政策の対立のメタファーとなっていて、そのことが小さな王国の従兄弟同士のお家騒動というちっちゃな話に、壮大なスケール感を与えることに繋がっている。

映画の始まりの時点で、ティ・チャラの持つ世界観はかなり狭い。
ワカンダ王国は、世界を変えることも出来る、ヴィブラニウムという資源と超科学文明をもちながら、他国との関わりは避け全て独占し、その代わり外の世界へ干渉はしない。
先代のティ・チャカから受け継いだ伝統的な外交方針であり、これが王国の基本的なテーゼとなっているようだ。
スパイを送り込んで情報収集はしているものの、自国の脅威とならない限り、アフリカの他の国が奴隷貿易で搾取されても、戦争で多くの人が死んでも我関せず。
これはアメリカのモンロー主義に代表される典型的な孤立主義であり、難民問題でヨーロッパが揺れ、アメリカでは市民社会の分断が深まる中、各国が自国中心の世界観に回帰する現実をそのまま反映している。
一方、ティ・チャカの元カノにして凄腕のスパイ、ブラックウィドーのライバルになりそうなナキアは、世界の現実をその目で見ている。
彼女は、富と力を独占するのではなく、分かち合い、時には支援し、場合によっては介入も辞さないという国際主義の立場をとり、キルモンガーの体現するアンチテーゼとの葛藤の末に、これが最終的に本作のジンテーゼとなる。
序盤、ボコ・ハラムに拉致された女性たちの救出と解放のエピソードは、物語の行く先を示唆しているのだ。
ティ・チャラ自身も、新人国王としてどの方向に国を導くのか揺れていて、ロスが負傷すると秘密が露見するリスクを冒してワカンダで治療するために入国させる。
そして父が王国の秘密を守るために実の弟を殺し、遺児を置き去りにするという誤ちを犯したことを知り、孤立主義を維持することに徐々に疑問を募らせ、ナキアの考えに揺り動かされてゆくのである。

ティ・チャラの宿敵となる、キルモンガーのキャラクターもユニークだ。
厳密に言えば、彼はいわゆるヴィランではない。
半分ワカンダ人、半分アメリカ人の彼は、王国への帰還を果たすと、王族としての権利を行使し、正々堂々と勝負して、一度はティ・チャラを倒すのだ。
だからこそ、周りもキルモンガーをティ・チャラとは異なる信念を持つ新国王、もう一人のブラックパンサーと認めざるをえない。
このキャラクターから連想するのは、やはりドナルド・トランプだろう。
彼が下馬評を覆し、第45代アメリカ大統領に当選したことは多くの反発を生んだが、正当な手続きを経て大統領になったことは否定できない。
プアホワイトを救うとして選挙キャンペーンを繰り広げたことは、キルモンガーが抑圧された世界の人々を解放するという大義を掲げ、ワカンダの内部にあった不満をすくい上げ、味方につけたことに通じる。
一見理想主義的な大義を掲げつつも、実際には支配される前に支配する、世界に武器を輸出して戦わせ、自国は繁栄を謳歌するというキルモンガーの思想も、孤立主義の先にある覇権主義というアメリカの外交政策のカリカチュアだ。
だが、キルモンガーの父ウンジョブは、裏切り者としてティ・チャカの手で殺されてしまうが、父の死によって捻くれてしまった息子よりも、純粋な視点で抑圧への抵抗を目指していたことが示唆されている。
だから彼が幼いキルモンガーに、まだ見ぬ美しい故郷ワカンダのことを語っている冒頭部分は、クライマックスの夕景に繋がり、観終わって思い出すととても切ないのだ。

本作は、アフリカの架空の国を舞台とした荒唐無稽なアメコミ映画だが、ここに描かれる物語は、アメリカの今、いや世界の今と完全に地続きで、それが本国での爆発的大ヒットの重要な要因の一つだろう。
王位に復帰したティ・チャラが最後の演説で語る「危機に陥った時、賢者は橋をかけ、愚者は壁を作る」は、国境の壁を公約にしたトランプへの痛烈な批判だ。
超正統派のスーパーヒーロー映画として十分に楽しませつつ、しっかりと現在性、社会性を組み込んでくるクーグラーの作劇センスはさすが。
ちなみに、個人的に本作で一番の萌えポイントだったのが、チーム・ブラックパンサーの”Q”こと、ティ・チャラの妹ちゃんのシュリ王女のキャタクター。
科学の天才にして自らも発明品を装着して戦っちゃう16歳という、トニー・スタークが激しく嫉妬しそうな彼女には、国王とよりを戻したナキア共々、今後のMCUのシリーズでより重要な役割を期待したい。
とりあえず、彼女とバッキー・バーンズが鍵となりそうな「アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー」が楽しみだ。
子供たちのセリフからすると、今度のバーンズはもしかすると”あのキャラクター”になるのかな?

今回はブラックパンサーならぬ「ブラック・ベルベット」をチョイス。
ギネスビール150mlとシャンパン150mlを十分に冷やし、シャンパングラスに注ぎ、サッと混ぜる。
二種類の発泡性醸造酒の作り出すきめ細かな泡を、肌ざわりの良いベルベットになぞらえているというわけ。
使う黒ビールとシャンパン、あるいはスパークリングワインの種類によってだいぶ味わいが異なるが、共通するのは非常に舌触りがよく、黒ビールが苦手な人にとっても飲みやすいこと。
キャラメル色の美しいカクテルだ。

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ショートレビュー「聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア・・・・・評価額1650円」
2018年03月02日 (金) | 編集 |
聖なる鹿は誰か?

パワフルなテリングに、グイグイ引き込まれる。
異才ヨルゴス・ランティモスによる、ムーディかつ恐ろしいサイコホラーだ。
コリン・ファレル演じる心臓外科医のスティーブンは、手術ミスで患者の男性を殺し、罪悪感から患者の遺児マーティンを気にかけている。
しかし、スティーブンがマーティンを家に招き入れるようになると、彼は態度を豹変させ、呪いの言葉を吐くのである。
曰く、スティーブンの家族は皆、最初に四肢が麻痺し、次に目から血を流し、そうなれば数時間後には死ぬ。
止めるには、家族の誰か一人を選び殺すことで、罪を清算するしかないと。
半信半疑のスティーブンの目の前で、子供たちは歩けなくなり、やがて血の涙を流し始める。
※核心部分に触れています。

奇妙なタイトルと物語のベースとなっているのは、エウリピデスによるギリシャ悲劇「アウリスのイピゲネイア」だ。
トロイア戦争の時、アガメムノン率いるギリシャの軍勢が凪により出撃不能に陥る。
これが自らに対する、女神アルテミスの怒りによるものだと知ったアガメムノンは、娘のイピゲネイアを生贄に捧げることを決意。
アガメムノンは英雄アキレウスと結婚させると騙し、妻のクリュタイムネストラ、イピゲネイアと弟のオレステスを呼び出す。
哀れなイピゲネイアは婚礼衣装に身を包んで死を迎えようとするのだが、彼女を哀れんだアルテミスが最後の瞬間に救い出し、あとには血にまみれた一頭の鹿が残された。
このエピソードが、本作のタイトルの由来となっている。

本作でアガメムノンに当たるのが、スティーブン。
クリュタイムネストラがニコール・キッドマンのアナ、イピゲネイアとオレステスが、二人の子供であるキムとボブ。
アキレウスに当たるのはバリー・コーガン演じるマーティンだが、この役は呪いを告げるメッセンジャーに役割が変わっている。

広角レンズの歪んだ画面、意図不明のまま動くカメラワーク、被りまくる不協和音、作為的で噛み合わない会話。
いかにもランティモスらしい、常道を外した不気味な描写が、不穏な空気を徐々に増幅して行く。
一作ごとにそのスタイルは洗練され、相当に個性的で変態チックな、一つの美学を形作る。
全体構造とタイトル以外にも、脚の障がい、聖なる髪の毛、目から流れる血、足へのキスなどの宗教的暗喩も面白い。
足の麻痺と突然の回復は、使徒ペテロがキリストの名の下に足の悪い人を歩かせたという奇跡、髪の毛の霊力と目から流れる血は、髪を切られたことで力を失った豪傑サムソンが目を焼かれた話を思わせる。
アナがマーティンの足にキスするのは、今も洗足式として残るキリストが弟子たちの足を洗った話から。
それぞれの持つ意味を考察すると、何が起こっているのかが断片的に見えてくる。

どうあっても罪から逃れられぬと悟った時、人はどうするのか。
主人公の究極の決断の行方に、全く目が離せない。
どこまでも独創的な作品だけど、私が少しだけ連想したのは、韓国的な土着性を表に出しながら、実はキリスト教が重要なモチーフとなるオカルトホラー、「哭声/コクソン」だった。
はたして主人公が招き入れたマーティンは、贖罪を促す神のメッセンジャーなのか、悪魔が使わした惑わす者なのか。
聖なる鹿は現れず、ある者の犠牲によって、スティーブンの人生は平穏を取り戻したように見える。
しかし、本当に罪は清算されたのか。
イピゲネイアが犠牲になった後、神話のアガメムノンは、娘の死を恨んだクリュタイムネストラによって暗殺されているのである。

今回はヨルゴス・ランティモス監督の故郷、ギリシャを代表すスピリット「ウゾ12」をチョイス。
無色透明だが、水で割るとカルピスの様な白っぽい色に変化する不思議な酒。
アニスの強烈な香りが印象的で、香草が苦手な人には敬遠されそうだが、逆に好きな人にはクセになる。
日本で言えば焼酎の様な大衆酒で、当然ながらギリシャ料理との相性はとても良い。

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