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アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー・・・・・評価額1750円
2018年04月29日 (日) | 編集 |
滅亡が、やってくる。

マーベルのスーパーヒーロー大集合シリーズ、「アベンジャーズ」の第三弾は、制作発表当時から二部作となることがアナウンスされていた。
本作と、来年の同じ時期に公開される「アベンジャーズ4」、あるいは「アベンジャーズ/インフニティ・ウォー2」というタイトルになるかもしれないが、この前後編でマーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)のフェイズ3、そして2008年にスタートした今までの全シリーズに一応の区切りが付けられると言われている。
そんな集大成の一発目は、一言で「最強の前編」だ。
19作を数えるMCU作品中でも、屈指のクオリティを誇る「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー」「シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ」を手がけた、監督のアンソニーとジョーのルッソ兄弟、脚本チームのクリストファー・マルクスとスティーヴン・マクフィーリーは、今回も膨大な情報を巧みに構成し、モリモリに盛り上げた最高のポイントで、次回作への期待をマックスにして終わらせるという、なんとも小憎らしい、しかし最高の仕事をしている。
✳︎ラストを含む核心部分に触れています。観る前には読まないで!

ビッグバンによって生まれ、宇宙の根元の力を秘めた六つの結晶、インフィニティ・ストーン。
それぞれが「空間(スペース)」「現実(リアリティ)」「時間(タイム)」「力(パワー)」「魂(ソウル)」「精神(マインド)」を司り、ストーンを全て手に入れることができれば、全能の存在となれる。
すでに「力」のストーンを手中にしたサノス(ジョシュ・ブローリン)は、テッセラクトに収められた「空間」のストーンを求め、崩壊したアスガルドから逃れたソー(クリス・ヘムズワース)の宇宙船を急襲。
ソーとロキ(トム・ヒドルストン)の兄弟は敗れ、ヘイムダル(イドリス・エルバ)は最後の力を振り絞って、ハルク(マーク・ラファロ)を地球へと転送する。
ストーンのうち、「時間」はドクター・ストレンジ(ベネディクト・カンバーバッチ)が持ち、「精神」はヴィジョン(ポール・ベタニー)の額にある。
ハルクを追って地球に現れたサノスの部下たちによってストレンジが捕らえるも、彼を奪還しようとしたアイアンマン(ロバート・ダウニーJr.)とスパイダーマン(トム・ホーランド)は宇宙船への潜入に成功。
その頃、宇宙へと投げ出されたソーは、救難信号を受信したスター・ロード(クリス・プラット)らガーディアンズに助けられるのだが・・・


2012年のMCUフェイズ1の最終作、「アベンジャーズ」の時点で、参加していたヒーローはキャプテン、アイアンマン、ハルク、ソー、ブラック・ウィドウ、ホークアイの6人。
対して6年後の本作ではチームで動くヒーローが増え、チーム・プラックパンサーのオコエ姐さんやシュリ王女、ドクター・ストレンジの相方ウォン、さらに冒頭で退場するロキも加えると、vsサノスのヒーローチームだけで実に24人!
今時の小中学校の1クラスの生徒数並みに多いぞ。
増加した人数に対応するために、本作ではヒーローを数人ずつグループ化して、ヴィランのサノス側の話を含めて、重要なプロットラインが最大5本程度常に同時進行するという忙しさだ。
まあ過去のシリーズからの流れがあるので、それぞれの背景説明が不要という有利さはあるものの、これほど多くのキャラクターが登場するにもかかわらず、それなりに全員に見せ場を作り、とっ散らかった感がほとんど無いのは見事。
構成の上手さは、複雑なプロットラインをまとめきれずに、やや空中分解気味だった前作、「アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン」と比べても明らかだ。

本作が無謀なほど多くのキャラクターを登場させたのに、物語としてのまとまりを失わなかったのは、実質的な主人公をヒーローたちではなく、独特の思想に突き動かさえたヴィラン、サノスに設定したことが大きい。
究極の目的のため、六つのインフィニティ・ストーンを集めるサノスを軸とし、それを阻止するためにあちこちで立ち向かうヒーローたちという構図にしたことで、物語に分かりやすいテーゼとアンチテーゼの対立構造が生まれ、作品コンセプトが明確になった。
本作はMCU史上初めて、ヒーローではなくヴィランが主役となる物語なのである。
ディズニー傘下のマーベル・スタジオは関与していないが、スパイダーマンの権利を持つソニー・ピクチャーズでは、「スパイダーマン:ホームカミング」と世界観を共有する宿敵「ヴェノム」の単独映画が作られているので、MCUでもフェイズ4以降には、魅力的なヴィラン映画が多く作られることになるのかもしれない。

インフィニティ・ストーンを全て集めた者は、全能の存在となり、指先ひとつ動かすだけで全て思いのまま。
サノスの故郷タイタンは平和な惑星だったが、人口が増えすぎて崩壊の危機に陥り、サノスは無作為に全人口の半分を殺害することを主張するも、時すでに遅し。
彼は、滅びてしまった故郷のケースを教訓に、「この宇宙のバランスを保つために、全ての生命を半分にする」ことを目的に、あちこちの惑星を襲って人口の半分を殺してきた。
とは言え、宇宙には惑星がありすぎてとても間に合わないので、インフィニティ・ストーンを使うことが出来れば、一発で片がつくという訳。
まあ相当に歪んだ思想だが、この考え方自体は日本のSF作品などにもたまに出てくる。
例えば富野由悠季は、「機動戦士ガンダム」で人口の半分を死滅させていて、主人公のアムロに「人間なんて、戦争してなきゃとっくに滅んでた」と言わせているし、「宇宙戦艦ヤマト 2202」の白色彗星であちこちの星を滅ぼしまくっているガトランティス帝国は、人型人種の暴走を防ぎ、この宇宙のバランスを保つため、超古代文明が作った破壊装置という位置付けになっている。
殺される立場で考えれば、狂気としか思えないが、サノスの中でこれは絶対的な大儀なのだ。
6年前、サノスが「アベンジャーズ」のエンドクレジット後のおまけで初登場した時は、コミックに近いデザインだったが、今回はずっと人間に近いのも、彼を理解不能な絶対悪には感じさせないためだろう。
アゴが◯玉なのは譲れなかったようだが。

一方で、ヒーローたちにも、過去10年間に渡って作り上げてきた、それぞれの体現する大義があり、戦う理由と矜恃がある。
宇宙全体を救うためなら、心から愛する娘を生贄に捧げることを躊躇わず、無数の命を消し去ってもかまわないというサノス。
対照的に、すべての人を守ろうとし、仲間の一人の犠牲すら許さないというヒーローたち。
共に人智を超えた強大な力を持ちながら、ぶつかり合う二つの大義の勝敗は、当然ながらどんな犠牲をもやむなしと覚悟を決めている方に傾く。
本作の原作とされているのは、同名の「インフィニティ・ウォー」ではなく、その前編にあたる「インフィニティ・ガントレット」
映画版と原作の乖離が激しいMCUの例にもれず、基本的な設定と流れ以外は登場人物も行動原理もかなり異なる。
何しろ原作のサノスは、死を司るミストレス・デスに惚れ込んでしまい、愛しの彼女を振り向かせるために色々こじらせた行動をとるのだが、“指パッチンで宇宙の半分死滅”もその文脈で起こるのである。
だから原作を知っていても、この映画版の帰結する地点は意味的にだいぶ異なり、結構な衝撃をくらう。
特にこの10年MCUを追い続けてきた人ほど、ヒーローたちへの感情移入がブーメランとなって心に突き刺さるのではないか。
原作だと、ある人物の行動が形勢逆転の契機になるのだけど、果たして来年公開の後半戦でも原作の設定をある程度踏襲するのか、それとも全く異なる方向に舵を切るのか。
六つのインフィニティ・ストーンさえあれば、宇宙のすべてが思いのままになるのだから、ある意味どんな展開も可能な訳で、ここは思いもよらない“驚き”を期待したい。
原作の最重要キャラクターで、「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス」で存在の布石が打たれていたアダム・ウォーロックの登場もあるかも。
アベンジャーズの一作目のメンバーが全員、指パッチンの惨禍から生き残っているのも注目だ。
彼らはおそらく次回が最後の登場となるので、大きな活躍の場が用意されるのだろう。

ヒーローが負けてヴィランが勝つという、次があるにしてもアンハッピーな話。
全体のトーンはルッソ兄弟らしくシリアスで、ジョス・ウェドンが手がけた「アベンジャーズ」前ニ作と比べるとやや暗め。
その分、今回から合流したガーディアンズ・チームのユーモアが、いいアクセントになっている。
ガモーラを巡って、ソーと張り合うスター・ロードとか相当可笑しかった。
唯一、ちょっと物足りないと感じたのが、現実のアメリカのメタファーとしてのヒーロー映画という側面が見えなかったことだ。
ヒーローvsヴィランのアクション映画としては文句無しの面白さなのだが、ルッソ兄弟のキャプテン・アメリカ二作品や、アフロ・アメリカン現代史を内包していた「ブラックパンサー」なども含めて、MCUのシリアス系では社会性が良いスパイスになっていたので、今回も期待していたのだけど、その辺は薄味。
まあ後半になって、色々見えてくるのかもしれないし、今回はあくまでも「アベンジャーズ」なのでこのままスルーなのかもしれないけど。

例によって、エンドクレジット後におまけがあるのだが、今描写されたあるマークを見る限りでは、本国では来年3月に公開予定のブリー・ラーソン主演の「キャプテン・マーベル」が、次回作への橋渡しとして重要な作品になりそうだ。
「ブラックパンサー」で、初のアフリカ系単独映画を作って本作へ繋げたと思ったら、次はDCに先行された女性ヒーロー単独映画とは、マーベルの戦略には本当に抜け目が無い。
この夏公開の、お笑い路線の「アントマン&ワスプ」も楽しみ。
本作ではアントマンとホークアイは、司法取引に応じて軟禁中ということになっていたが、次回では戦力ダウンしたアベンジャーズに復帰するんだろうな。
関係無いけど、「魂」のストーンの案内人として久々登場のレッドスカルが、なんか哀れで良かった。

今回は、最終的に登場人物の半分が死んでしまう映画なので、その名も「午後の死」をチョイス。これは、いくつものカクテルレシピを残したことでも知られる、文豪アーネスト・ヘミングウェイが考案した物凄く変なカクテルで、当初はなんと黒色火薬をシャンパンで割ったという、一体どんな味がするのかも想像できないものだった。
その後、アブサンのシャンパン割になるのだが、アブサンが禁止されている国も多かったので、ペルノーを割るレシピが一般化、比率もペルノーとシャンパンが2:3だったり、45mlのペルノーとお好みの量のシャンパンだったり、複数存在する。
基本的にはシャンパングラスに、ペルノーまたはアブサンを注ぎ、シャンパンを静かに足すだけ。
ペルノーの香りが好きな人には、結構クセになる味わいだが、香草が苦手な人にはきついかも。
比率にもよるが、相当にアルコール度数が高いので、飲みすぎると本当に「午後の死」になっちゃう。

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ショートレビュー「タクシー運転手 約束は海を越えて・・・・・評価額1700円」
2018年04月27日 (金) | 編集 |
タクシーを止めるな!

1980年5月、3000人以上の死傷者(諸説あり)を出した光州事件は、韓国現代史の“最も暗い時間”
事件が起こる直前、朴正煕大統領暗殺後の権力闘争の中で、全斗煥少将らがクーデターを起こし実権を掌握、戒厳令を全国に拡大し、野党指導者の金大中や金永南を逮捕した。
これに抗議する学生デモが各地で起こり、治安部隊と衝突するのだが、特に金大中の出身地でもある全羅南道では弾圧がエスカレート。
見かねた市民たちが学生に合流し、最大都市の光州では町を封鎖した軍と数十万の市民が対峙する異常事態となる。

本作は、閉ざされた都市・光州で何が起こっているのかを探るべく、身分を偽って韓国に潜入したドイツ人記者・ユルゲン・ヒンツペーターを、光州へと連れて行った名もなきタクシー運転手、通称“キム・サボク”を描く、実話ベースの物語だ。
相変わらず、ソン・ガンホ兄貴が抜群にいい。
キム・サボクは偽名で、ヒンツペーターとは二度と会うことはなかったそう。
映画の中でも示唆されているが、おそらくは当時の軍事政権に身元がばれるのを恐れたからだろう。
素性不明だったのだから、劇中に描かれているバックグラウンドなどはフィクションなのだけど、「たぶん、こんな人だったのだろう」という説得力抜群。

サボクは渋滞を引き起こす学生デモに愚痴を言い、政治に全く興味なしのノンポリでヘタレの小市民。
報道統制で、当時の一般人は光州で何が起こっていたのかも知らず、彼も最初はただ金のために光州行きを引き受ける。
しかし、光州で事件の現場に身を置き、市民が無残に殺される惨状を目の当たりにし、初めて権力の正体と恐ろしさに戦慄するのである。
そして、はるばる外国から真実を知るためやって来た、ヒンツペーターの強烈な使命感、光州市民の心意気に動かされ、少しずつ変わってゆく。
主人公がどこにでもいる普通の男だからこそ、彼の感じる気付きと衝撃は、そのまま私たち観客にも共有体験としてダイレクトに伝わってくる。
真実を知った後も、溺愛する一人娘との平穏な生活を失うことへの恐怖心と、間違ったことに見て見ぬふりは出来ないという道義心との間の葛藤が、彼の中でずっと続いているのもリアルだった。

韓国映画は、政治との距離が近い。
二期続いた保守政権の間は、干すべき左派芸能人のブラックリストが作られていたし、出来不出来は別として、映画会社が政権に忖度した「国際市場で逢いましょう」や「オペレーション・クロマイト」など愛国路線の作品も目立った。
しばしば直接介入に晒されることもあり、ハリウッドとは違った意味で政治の風に敏感。
革新政権の今は、本作の様な反保守権力的な作品が好まれるのだろう。

しかし、戦争映画の傑作「高地戦」で知られるチャン・フン監督は、本作をイデオロギーを超越する、普遍的な勇気と良心の物語として見事に昇華した。
ここに描かれるのは、当たり前のモラルや日常が脅かされる時、ごく普通の人たちの中から、何人もの英雄が生まれる瞬間。
真実を世界に知らせたサボクとヒンツペーター、大切なものを守るために銃弾に倒れてゆく光州の人々、そしてタクシーのソウルナンバーを見逃す若い兵士も、誰もが極限の中ですべきこと、できることをする。
史実がベースとなる歴史ドラマだが、個人の視点で捉えられているので感情移入しやすく、人間ドラマとして見応え十分。
たぶん本作で一番エンターテイメントとして盛っている部分だと思うけど、軍隊にポンコツタクシーで挑むおっさんたちは、映画史上一番カッコいいタクシードライバーだったぞ。

ちなみに本作の本国公開後、モデルとなったタクシー運転手の息子、キム・スンピル氏が名乗り出たことにより、現実のキム・サボクは、1984年に病により亡くなっていたことが明らかになったそう。
映画みたいに長生きして民主化を見届けることは出来なかったけど、映画が作られたことで、こういう人にスポットライトが当たって良かった。

韓国は地域ごとに人気のソジュ(焼酎)の銘柄があり、光州はイプセジュが有名。
しかし残念ながら正規輸入されていないので、日本でもお馴染みの全国区「眞露 チャミスル」をチョイス。
クセのないスッキリした味わいで、色々な飲み方ができるが、私のお気に入りは、キンキンに冷やしたチャミスルをソーダで割り、スティック状に細く縦切りにしたキュウリを入れる。
キュウリをポリポリしながら飲むのだけど、心なしかキュウリが甘く感じられて美味しい。
酒とツマミが一体化した便利な一杯だ。

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ショートレビュー「心と体と・・・・・評価額1650円」
2018年04月25日 (水) | 編集 |
恋するために、夢を見る。

嘗て、長編デビュー作の「私の20世紀」でカンヌ映画祭カメラドールを受けた、イルディコー・エニェディ監督の18年ぶりの長編劇映画は、非常に不思議な手触りのラブストーリーだ。
舞台となるのは、ハンガリーの首都ブダペスト郊外にある食肉処理工場。
主人公は、新任の品質管理官の女・マーリアと、工場の管理職をしている初老の男・エンドレ。
エンドレは、同僚たちと馴染めず、いつも一人でいるマーリアのことを気にかけている。
性別も年齢も性格も、一見対照的に見える二人は、心理カウンセリングを受けたことで、なぜか同じ夢を共有していることを知る。
夢の中で二人はオスとメスの鹿となり、住んでいるのはしんしんと雪が降りしきる幻想的な森の中。
孤独な二頭は、お互いを遠くから見つめ合い、やがて距離を縮めて行動を共にするようになる。
毎晩のように夢で逢瀬を重ねる二人は、現実世界でも急接近。

面白いのはマーリアのキャラクターで、彼女はある種の心の病と共に、ずっと生きてきた様なのだ。
サヴァン症候群を思わせる驚異的な記憶力を持ち、感情は人並みに豊かだがそれを表現することは苦手で、他人との肉体的接触を極端に恐れる潔癖症。
曖昧なものを嫌い、ロボットのように杓子定規に規定に厳格だが、より人間的にあろうと努力はしている。
一方のエンドレも、片腕に障害を持ち、色恋沙汰からの“引退”を自認して、孤独な一人暮らし。
マーリアは凍りついた肉体に心が封じ込められていて、そこから踏み出せず、エンドレは障害によって男としての自信を喪失し、新たなリスクを負うことに臆病になっている。
いわば、二人とも重度の逆恋愛体質に陥っているのである。

二人が見ているのは本当に夢なのか、それとも実在する二頭の鹿と心が繋がっているのかには言及がない。
鹿は多くの文化で神聖を持つとされる優美な生き物だが、二人が共有するロマンチックな夢の世界は、現実世界での接触に向けたリハビリの様なものかも知れない。
前半頻繁に描写される夢のシーンは、二人が現実で距離を縮めはじめ、夢の中で交尾したことが示唆されると、後半ではまったく出てこなくなる。
しかし、夢では上手くいっても、現実はまた違うというのが難しいところ。
何しろ、この世界は夢の中の森のように全てがピュアで美しくはない。
二人が勤務する食肉処理工場では、鹿の近縁種である牛が毎日殺されてゆく。
会社の中でも窃盗事件が起こり、従業員は影口を言い合っている。

この灰色の世界で、二人の恋は成立するのか。
マーリアとエンドレは、近付いたと思ったら離れ、時に痛みを感じながら、少しずつお互いの世界を変えてゆく。
人々が求める柔らかな陽の光にすら、触れられることを恐れていたマーリアは、エンドレと心も体も愛し合うために、様々なものに触るトレーニングをする。
ぬいぐるみ、動物の皮膚、マッシュポテト、知らなかった触感が彼女の心をかき乱す。
一方、エンドレもマーリアへの気持ちに気付き、彼女を失うことを恐れた時、森の中でオス鹿がただ一頭、相手を探してひた走るのが、最後の夢の描写。
本当の意味で愛し愛される喜びを知らない女性が、凍りついた肉体を溶かし、心と体とを一致させるまでの116分の静かなる叙情詩。
他に類をみない独創的な作品だが、最後にはどこかほっこり優しい気分になれる、愛すべき小品だ。

今回は森を思わせる緑のカクテル「ミドリミモザ」をチョイス。
日本を代表するメロンリキュール、サントリーのミドリを、シャンパンで割ったもの。
シャンパングラスに、冷やしたミドリ30ml、シャンパン120mlを注ぎ、仕上げに1〜2tsp程度の適量のライムシロップを加え、軽く混ぜる。
辛口のシャンパンと甘いミドリが、幸福にマリアージュする美しいカクテルだ。

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リズと青い鳥・・・・・評価額1750円
2018年04月23日 (月) | 編集 |
本当に愛しているからこそ。

ちょっと何度か鳥肌が立った。
31歳の若さで、傑作「聲の形」をものにした、山田尚子の進化が止まらない。
高校の吹奏楽部でオーボエを演奏するみぞれと、彼女の親友でフルート奏者の希美。
彼女らは高校最後のコンクールの自由曲で、童話を元にした「リズと青い鳥」という楽曲の、掛け合いのソロパートを担当することになるのだが、みぞれは童話の主人公の行動がどうしても理解できず、それは演奏に如実に影響してしまう。
卒業と進路選択を控えた高校3年生。
お互いの関係に悩む二人の少女の成長を描く、ごく地味なストーリーなのだけど、何気にもの凄く高度なことをやっている。
山田尚子監督以下、脚本の吉田玲子、音楽の牛尾憲輔ら「聲の形」のスタッフが再結集。
武田彩乃原作のTVアニメ「響け!ユーフォニアム」の1年後を描く続編であり、スピンオフという位置付けだが、過去への言及はあるものの、独立した物語として成立しているので、TVアニメを知らなくても全く問題ない。
✳︎核心部分に触れています。

鎧塚みぞれ(種﨑敦美)と傘木希美(東山奈央)は、共に北宇治高校吹奏楽部の3年生。
高校最後のコンクールで演奏する「リズと青い鳥」で、二人は第三楽章のソロパートを担当することになる。
この曲は、孤独な少女リズ(本田望結)と、彼女の元にやってきた青い鳥(本田望結:二役)との出会いと別れを描いた作品。
しかしみぞれは、リズと青い鳥に自分と希美を重ね合わせ、リズがなぜ別れを選ぶのかが理解できない。
「リズと別れた青い鳥は、会いたくなったらまた来ればいいと思うんだよね」と、屈託無く笑う希美に対して、みぞれはそう遠くない現実の別れの時を恐れている。
そんな時、みぞれは外部指導者の新山先生から音大への進学を勧められ、それを知った希美も音大を志望先に加えると言うのだが・・・・


ベースとなった「響け!ユーフォニアム」は、個性的な吹奏楽部員たちが織り成す、熱い青春群像劇。
対して、本作はその中の二人だけをフィーチャーした内面的な心象劇
同じ世界観の作品で、ここまでベクトルが異なるのは珍しい。
西屋太志のキャラクターデザインも、基本はTVアニメ版の池田昌子のデザインを踏襲しつつ、内容とテーマの変化を反映し、より細っそりと生っぽさを感じるものに。
画のテイストは、碧系の寒色を基調に、「聲の形」を思わせる繊細で淡いタッチとなっている。

快活で誰とでも友人になれる希美と、人付き合いが苦手で、希美以外に“親友”と言える存在がいないみぞれ。
卒業後も、どうしても希美と離れたくないみぞれの心に、別離への不安と恐れが湧き上がる。
そんな時に課されたコンクールの自由曲が、まさに自分の心を映し出したような「リズと青い鳥」だったという訳だ。

『たった一人で湖畔の家に住んでいるリズは、森の動物たちだけが友だち。彼女は嵐の日の翌朝、家の前に倒れていた青い服の少女を助ける。その日から、少女はリズの家で暮らすようになり、リズにとって初めての親友になる。ところがある夜、リズは少女が青い小鳥に変身するのを見てしまう。自分が引き止めていることで、彼女の自由を奪っていると感じたリズは、少女と別れる決意をする。』

と、童話の内容はこんな感じ。
映画は、現実世界と童話の世界を平行に描いてゆくのだが、みぞれはリズに自分を、彼女の前に現れる青い鳥の少女を希美に当てはめて考えている。
この童話を元にした楽曲は四楽章に分かれ、リズの苦悩と決意を描く第三楽章、「愛ゆえの決断」で、オーボエとフルートの掛け合いが、二人の心をそれぞれ代弁する。
ところがみぞれは、せっかく手に入れた幸せの青い鳥を手放すリズの気持ちが、どうしても理解できないのである。

ここで描かれるのは、「聲の形」でモチーフとなったイジメと贖罪のような、分かりやすい善悪の葛藤からくる痛みではない。
友だちのことが好き、大好きだから離れたくない、離れられたくない、離したくない。
もし別れたら、自分はまた一人ぼっちになってしまう・・・怖い、嫌だ。
ポジティブな感情がいつの間にか裏返って暴走し、意識しないうちに相手も自分も束縛しようとする利己的な心のダークサイド
だが程度の差はあれ、多くの人が経験し理解出来る感情だろう。
私もどちらかといえば、みぞれタイプの内向的な子供で、はっきりと感情を表現することが苦手だったので、みぞれの内面にある友だちを失うことへの悶々とした恐れはよく分かる。
最近、友だちに避けられたくなくて、1000万円と言う大金を盗み、友だちに配っていたという女子中学生の事件があったが、これもみぞれが陥ってしまっているメンタルと少し共通するのかもしれない。

山田尚子監督は、初めての経験ゆえに自分では制御できない感情に揺れる、思春期の少女の心を丁寧に描く。
以前から、説明的な台詞に頼らない心理描写には定評がある人だが、本作でその演出はますます研ぎ澄まされ、写実的だがアニメーションならではの映像表現と、画とシンクロした綿密な音響演出と三位一体となって、キャラクターの心象風景をさらに細かく描き出す。
例えば冒頭、みぞれは朝練前に学校の入り口で希美を待つ。
彼女の耳に聞こえて来る、カツカツという軽快な足音。
性格をそのまま表すように、希美の歩幅は大きくリズミカル。
メトロノームのように綺麗に揺れるポニーテールを見つめるみぞれの視線は、希美に対する憧れとも恋ともつかぬ複雑な思慕の念を、ただ歩いているだけで雄弁に伝えてくる

逆に、彼女たちの口から出てくる言葉や行動は、必ずしも本心とは限らない。
人との会話で本心をごまかそうとする時、あるいは心ここに在らずという時、みぞれは無意識に髪を触る。
そんな時、彼女の本当の言葉は心の奥底に隠されている。
快活で裏表がなさそうな希美も、相手の言葉を忖度して反応することがあり、そのことは自分でもわかっていて、後ろめたさを感じていたりする。
寄り画なら目や口の微妙な表情が、引き画でも姿勢や手足の細かな芝居が、隅々まで作り込まれた画面を通して、彼女たちの心の機微を伝えてくるのだ。
キャラクターの演技の驚くべき繊細さとリアリティは、もう今や誰もかなわない、圧倒的と言っていいクオリティ。
私はこの映画に、日本アニメーション映画史の文脈の中で、確実に受け継がれてゆく高畑イズムを見た。

TVアニメ版と違って、学校の外がほとんど描写されないのも特徴的だ。
童話の「リズと青い鳥」が、基本的に湖畔の家とリズが働くパン屋のみ、彼女の世界で完結しているのと同様に、この作品では学校そのものが閉ざされた世界であり、少女たちはまだその外の世界を知らず、飛び立つ準備ができていない。
閉塞した状況をブレイクスルーする瞬間が、外部から来たもの、彼女らを見守っている人生の先輩からもたらされるのもいい。
みぞれは、ずっと自分をリズで、希美を青い鳥だと思っている。
リズだけに感情移入して、青い鳥の気持ちなど考えていなかった。
だけど、なぜ青い鳥は決別を受け入れたのだろうか
そのことに思い至り、自分を青い鳥に当てはめて、彼女の心理を考えた時、みぞれは初めて相手の立場に立って自分を見つめることができるのである。

冒頭に映し出される「disjoint」という言葉は、数学の用語で「互いに素」の意味。
二つの数字の互いに割り切れる正の整数が1しかない状態で、つまり共通の要素を持たない。
これが、物語の始まりの時のみぞれと希美の状態。
お互いのことが好きだけど、実は自分のことしか考えていない。
物語を通して、単なる憧れや思慕の念を包み込む、大いなる愛の意味を学んだみぞれは、「dis」が消えて「joint」、まだまだ未熟だけど少しだけ相手を理解して、ようやく思いやることができるようになる。
水彩絵の具のにじみをベン図に見立てて、みぞれと希美の心を表現したカットなど、細部に至るまでセンス抜群。
思春期の普遍的な葛藤を、リリカルな心象劇として昇華した、珠玉の青春映画である。
本作はみぞれの心の成長にフォーカスした物語だったが、たぶん近い将来に今度は希美がもう一つ成長しなければならない時が来るのだろう。
願わくば大人になった彼女たちの物語を、スピンオフのスピンオフとして観てみたいな。

しかしこの作品、単体として素晴らしいのだが、「響け!ユーフォニアム」の続編として期待すると、コレジャナイと感じる人もいるかもしれない。
そちらの方向性は、本作の後にもう一本、石原立也監督以下TVアニメ版のチームによる、オリジナル劇場版第二作が制作中なので、楽しみに待とう。

今回は幸せの青い鳥、ジンベースのカクテル「ブルーバード」をチョイス。
ドライジン50ml、ブルー・キュラソー10ml、アロマティック・ビターズ1dashをステアして、グラスに注ぐ。
最後にレモンピールを絞って完成。
美しいブルーが印象的な、ドライで飲みやすいカクテル。
ちなみにブルーバードとは、青い羽毛を持つツグミ科の鳥の総称だが、メーテル・リンクの「青い鳥」で、実は最初から家で飼っていた青い鳥は、ツグミではなくハト。
まあ確かに青っぽくはあるけどね・・・。

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2018年04月21日 (土) | 編集 |
オタクの、オタクによる、オタクのための映画。

現実に絶望した人々が、すべての夢が可能となるVRワールド“オアシス”に生きる近未来。
亡くなった創業者が、オアシスのどこかに隠した5000億ドルの遺産を巡り、史上最大の争奪戦が繰り広げられる。
映画、音楽、TV、ゲームに漫画に小説と、20世紀ポップカルチャーの記憶とオマージュにあふれたアーネスト・クラインの同名小説(邦題「ゲームウォーズ」)を、現代ポップカルチャーの寵児、スティーブン・スピルバーグが映画化。
まさにオタクの夢が具現化した様な作品だが、さすがはスピルバーグだ。
オタクじゃなくても十分に楽しめる間口の広さと、現在性、社会性、予見性をも併せ持つのだから素晴らしい。
140分盛りに盛ったエンターテイメント活劇は、要素だけ見ると既視感だらけなのに、全体を通して観ると驚くべき未見性を感じさせる、ある意味現在までのスピルバーの集大成。
ポップカルチャーを愛するすべての人に向けた、“スキの塊”のような作品である。
✳︎ラストを含む核心部分に触れています。観る前には読まないで!

2045年、オハイオ州コロンバス。
荒廃した世界で親を亡くし、貧民街で叔母のトレーラーハウスに居候しているウェイド(タイ・シェリダン)は、“パーシヴァル”を名乗りVRワールド“オアシス”に入り浸っている。
五年前に死んだオアシスの創業者ハリデー(マーク・ライランス)は、彼の全財産とオアシスの管理権を“イースターエッグ”としてオアシスのどこかに隠した。
エッグを求めるものは、試練を受けて三つの鍵を得る必要があり、まず第一の鍵を得るために障害レースに勝たねばならないのだが、難しすぎてこの5年間誰も完走できていない。
ある時、パーシヴァルは、ハリデーの残した言葉から、隠しコースがあることを発見し、第一の鍵を獲得。
難関を始めて突破したパーシヴァルは、仲間のアルテミス(オリビア・クック)、エイチ(リナ・ウェイス)、ダイトウ(森崎ウィン)、ショウ(フィリップ・チャオ)らとともに一躍時の人になる。
しかし、オアシスの支配を狙うIOI社を率いるソレント(ベン・メンデルソーン)は、パーシヴァルの正体を探り出し、自分たちに協力させようと画策する。
その頃、パーシヴァルたちは、第一の鍵と共に現れたヒントを頼りに、第二の鍵の試練を見つけ出すのだが・・・


この映画を観た多くの人が「コレは私の映画だ!」と思うだろう。
キャラクターを含めて、各世代に思い入れのある、膨大な数のポップカルチャーのアイコンが登場するからだけではない。
身を削って虚構の夢を作った人々、そしてそれをこよなく愛する人々への、確信的な肯定感がそう思わせるのだ。
現実とVRワールドの二重構造自体は、今やそれほど珍しくない。
先日公開された「ジュマンジ/ウェルカム・トゥ・ジャングル」も、韓国映画の「操作された都市」も本作とよく似た構造を持つ。
現実世界ではパッとしない主人公が、ゲームの中ではヒーローになるという、キャラクターのギャップが面白さを生んでいるのも同じだ。
だが、本作が似た構造を持つ他作品と決定的に異なるのは、VRワールドそのものをクリエイターが丹精込めて作り上げた“作品”と捉えていて、その存在が持つ意味をフィーチャーしたことにある。

オアシスの創業者ハリデーが残したのは、彼の作り上げた世界全てを手に入れられる“イースターエッグ”へと通じる三つの鍵。
日本でもだんだん知られるようになって来たが、イースターはキリストが処刑されて三日後に復活したことを祝うキリスト教の祭り。
イースターの日付は毎年変わり、キリストの復活が日曜だったので、春分の後の満月から数えて最初の日曜日に催される。
命が生まれ出る卵は生命そのものの象徴とされ、イースターの日には家や庭に隠されたカラフルにペイントされた卵、イースターエッグを子供たちが探す、エッグハントという遊びをする。
この風習を、VRワールドでのお宝争奪ゲームに置き換えたのが本作という訳。

世界が荒廃し、人々が文字通りの心のオアシスに逃避する時代、ハリデーはデジタル時代の救世主でキリストだ。
映画の終盤に示唆されるように、オアシスは電子的存在となったハリデー自身であり、彼の肉体が死することで始めて完成したと言える。
だから、彼のイースターエッグを獲得するには、私たちが映画や本に秘められた作者の意図を読み解くように、ハリデー自身を深く知る必要がある。
ポップカルチャーオタクであるパーシヴァルやお仲間たちは、トレッキーにしてスーパーオタク、オアシスの創造主にして現実世界の救世主であるハリデーを深くリスペクトし、彼の心から試練の持つ意味を読み解こうとする。

一方で、この世界にはパーシヴァルたちを利用しようとするIOI社という敵役がいる。
この会社は、オアシスに逃避した人々の射幸心を煽ってサービスを展開し、ユーザーに多額の債務を背負わせた後、現実世界で彼らを逮捕・拘束、VRワールドでの労役を課すという、まるで未来版の「カイジ」みたいな悪辣な企業。
彼らがやってるのは、現在のソーシャルゲームのアイテム課金のアップグレード版みたいなことだが、いわばハリデーが作った心の拠り所としてのオアシスを、別の意図で乗っ取ろうとする思想の侵略者、癌細胞のようなものである。

面白いのは、IOIを率いるソレントとその側近連中はポップカルチャーに全く興味無しなのに対して、一般社員たちはむしろパーシヴァルたちに近く、オタクっぽいということ。
オアシスは基本的に巨大なゲームSNSなので、この中で仕事をしたがるのは結局オタクのゲーマーたち。
一般社員たちが頑張って遂行していることを、ソレントらが利益として吸い上げるという構図は、今の日本のコンテンツ業界に蔓延する“スキの搾取”と全く同じことで実に興味深い。
自分たちの愛するものを、ぶち壊すために働いているIOIの社員たちの姿は、ある意味でこの国の鏡像であって涙なしには見られないのである。

誰よりもフィクションの持つ力を信じていた、ハリデーが仕掛けたイースターエッグ争奪戦は、自らの後継者にふさわしい思想と能力の持ち主を探し出すプロセス。
自由な心の拠り所としてのオアシスを守ろうとするパーシヴァルたちと、金のためにオアシスを支配しようとするIOIの戦いは、最後の鍵の試練の場を巡って、最終決戦に突入する。
全編オマージュだらけの本作だが、このクライマックスの盛り方は凄まじい。
事前に映像が公開されていたけど、ダイトウの「オレはガンダムでいく」からのキメポーズ「シャキーン!」には、厨二心が燃えた。
オアシスを守るために集まった、無数の人々のアバターが突撃する中、パーシヴァルのデロリアンが疾走する。
そしてソレントの操る敵のボスキャラ、メカゴジラが伊福部昭のゴジラのテーマと共に突進し、アイアンジャイアントとガンダムと戦うという、夢のような光景が繰り広げられるのだ。

まあ出てくるキャラクターやアイコンに関しては、さすがに多すぎて切りがないし、各方面でスペシャリストたちが語っていると思うのでこれくらいに。
しかし、膨大な数のコピーライトは本当によく使用許諾が取れたなと感心。
“ゼメキスのキューブ”や「ターミネーター2」のパロディの、アイアンジャイアントのサムズアップみたいなマニアな遊び心の描写も楽しいが、一瞬しか映らなかったり、画面の隅っこの方にいたりして、一度鑑賞しただけでは認識すらできないキャラクターの数も物凄い。
やはりスピルバーグの名前が無ければ成立しない企画だろうが、日本人にとっては彼から日本のポップカルチャーへのラブレターのように感じられて嬉しくなる。

そしてVRワールドでの決戦は、いつしか現実世界と重なり合い、ポップカルチャーを搾取の場としか見ない者たちは、どちらの世界でも、大好きなものを守ろうとする人々によって打ち倒される。
クソみたいな現実からの逃避の場だったとしても、それがあるから救われる人もいるし、虚構から現実を変えることだって出来るのだ。
虚構と現実は対立するのではなく、現実を生きるために虚構が必要だという肯定的なジンテーゼに、クリエイターの矜持がにじみ出る。
ここまで来ると、劇中のハリデーがだんだんとスピルバーグ本人に見えてきたのは私だけではあるまい。
フィクションを形作るのは、現実世界での色々な経験に裏打ちされた、誰かに知ってもらいたいクリエイターの想い。
オタクの夢の世界としてのオアシスは、さらにディープなオタクだったハリデー=スピルバーグの、埋もれていった夢や涙や後悔の墓場でもある。
だからこそ、遂に対面を果たしたハリデーと、究極のファンたるパーシヴァルと会話は、とても切なくて優しいのである。

今回は、いつでもどこでも見られる夢の世界の話なので、「デイドリーム・マティーニ」をチョイス。
シトラスウォッカ90ml、オレンジジュース30ml、トリプルセック15ml、シロップ1dashを氷を入れたミキシンググラスでステアし、冷やしたグラスに注ぐ。
柑橘類のフレッシュな香りが、甘味と酸味のバランスを引き立てる。
VRワールドを堪能しつつ、飲みたいお酒だ。
本作に触発された天才が、本当にオアシスを作ってくれないかしら。
あんな楽しい世界があったら、確実に入り浸って課金するわ(笑

ところで、間口が広い作品とは言っても、オタク度が高まるほど加速度的に楽しみが増えるのは間違いない。
本作を心底楽しむために観ておいてもらいたい作品は何本もあるのだが、今から元ネタ映画を一本観るなら「シャイニング」がおススメ。
劇場名がオーバールックだったり、あのシークエンスは大笑いした。

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ショートレビュー「ワンダーストラック ・・・・・評価額1600円」
2018年04月18日 (水) | 編集 |
この街は、すべてがワンダー。

「キャロル」のトッド・ヘインズ監督の最新作は、ニューヨークを舞台に、時系列の異なる二つの小さな冒険物語が絡み合う、ミステリアスな寓話劇。
1977年、ミネソタ州ガンフリントに暮らす少年ベンは、最愛の母を突然亡くし、自らも事故で聴覚を失う。
彼は母の残した一冊の本、「ワンダーストラック 」を手がかりに、顔も見たことのない父親を探して未知の世界へと旅立つ。
一方、1927年のニュージャージー州ホーボーケンでは、聾唖の少女ローズが、銀幕のスター、リリアン・メイヒューと会うために、ハドソン川の対岸にそびえる摩天楼の都を目指す。
共に耳が聞こえない2人の子供が、自分にとって大切な人物を探すために、異なる時代のニューヨークを訪れる。
方や70年代風のカラー・トーキー、方やモノクロ・サイレント映画風に語られる二つの物語は、一見無関係に進むのだが、やがてどちらもマンハッタンのアッパー・ウェスト・サイド、セントラルパークに面して建つ、アメリカ自然史博物館へ。

映画「ナイトミュージアム」シリーズの舞台としても知られるこの博物館は、主に自然史と自然科学をフィーチャーし、150年の歴史を持つ全米でも有数の壮大な博物館だ。
入り口ホールで出迎えてくれる三頭の恐竜の全身骨格は有名だが、広大な館内を隅々までじっくり見学しようと思ったら、1日ではとても巡り終わらない。
タイトルの「ワンダーストラック」とは、博物館のミュージアムショップで売られている本で「大変な驚き」とか「大いなる目覚め」の意味。
母の遺品の中にあったこの本には、マンハッタンの書店のしおりが挟まれていて、その裏には「愛してるよ、ダニーより」というメモ書きが残されていた。
ベンはこの“ダニー”こそ父だと確信し、書店の名を頼りに、素性を知らない彼の居場所を探そうとする。
1977年のニューヨークを彷徨うベンの物語を、この本がアメリカ自然史博物館へ、そして1964年のニューヨーク万博の記憶を宿すクィーンズ美術館へ、やがて半世紀前のローズの物語へと導いて行く。

映画に仕込まれた、いくつもの暗喩と二重性の仕掛けが楽しい。
天空の“スター”が好きなベン、銀幕の“スター”を探すローズ。
「ヴァレリアン 千惑星の救世主」にも使われていた、デヴィッド・ボウイの「スペース・オデッセイ」と、「2001年宇宙の旅(原題:2001: A Space Odyssey)」の「ツァラトゥストラはかく語りき」。
より主観的なベンの物語と、客観的なローズの物語。
二つの時系列をそれぞれの時代の映画のスタイルで語り、耳が聞こえない二人の子供の物語に、映像芸術としての映画を象徴させる。
特にベンは聞こえなくなったばかりだから、会話によるイージーなコミュニケーションを封じ、回り道させることで彼の様々な気づきを強調する効果的な設定だ。

原作・脚本はブライアン・セルズニック。
黄金時代のハリウッドの大立役者、セルズニック一族に生まれ、自身も古い映画のファンであると語る彼の作品では、映画も重要なモチーフ。
今回は、映画の父ジョルジュ・メリエスを再発見する「ヒューゴの不思議な発明」ほど前面に出してはいないが、映画史を隠し味に、歴史の記憶を宿した博物館が二つの物語を結びつける。

一見脈略のない沢山のものが、次第に意味を持ってくる。
色々な記憶が集まる博物館や博覧会は、いわば万物が集う知のタイムマシン
そこに集積された、ニューヨークという巨大な街が持つマクロな記憶が、個人のミクロな記憶と素敵に重なり合うのだ。
「ヒューゴの不思議な発明」や、9.11で父を亡くした少年が、残された謎を解くためにニューヨーク中を冒険する「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」などが好きな人にオススメ。
まあよくよく考えると、最初からある人物が本当のことを語っていれば、こんな面倒な事態にはならなかったのだけど、それを言っちゃうのは野暮というもの。
子供たちが成長する寓話においては、全ての出会いも困難も冒険の必然なのである。

今回はニューヨークの地ビール「ブルックリンラガー」をチョイス。
禁酒法以前のニューヨークに多く存在した、ドイツ系醸造所の味を復活させるため、1998年に創業した銘柄。
伝統のウィンナースタイルで作られるこのビールは、バドやミラーといった一般的なマスプロビールに比べればずっと欧州風で、フルーティで適度な苦みと深いコク、ホップ感を持つ。
この一本にも、ニューヨークの生きた歴史が秘められている。

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ショートレビュー「パシフィック・リム:アップライジング・・・・・評価額1400円」
2018年04月14日 (土) | 編集 |
おかえり「パシフィック・リム」、さよならデル・トロ。

カイジュウ・プロレス第二章は、太平洋の海底での決戦で、次元の裂け目が閉じてから10年後の物語。
今回の主人公は、前作で壮絶な最期を遂げたペントコスト司令官の息子、ジョン・ボイエガ演じるジェイクだ。
父の背中を追って、イェーガーのパイロットになったものの、落ちこぼれて軍を離れていたジェイクは、ひょんなことから復帰を果たし、教官としてパイロット候補生の指導に当たることに。
復興途中の人類は、再びのカイジュウの襲来に備え、イェーガーも進化させている。
引き続きパイロットを養成しているだけでなく、中国企業が開発した遠隔操作のドローンタイプも配備間近。
この辺り、現実に米軍の内部で航空機をどこまでドローン化するかの葛藤があったり、中国が世界一のドローン大国となったことを反映していて面白い。

レジェンダリー・ピクチャーズ自体が中国資本になったことで、前作以上に中華な要素が増えたが、それでもなお作り手の日本型カイジュウ、ロボットへの愛は十分に伝わってくる。
もとより、米国で興行的にパッとしなかった作品の続編が作れたのは、ひとえに中国での起死回生の大ヒットのおかげなのだから、この作品に関しては中国様々。
イェーガーメーカーのツンデレ社長を演じたジン・ティエンは相変わらず美しいが、せっかくマックス・チャンをキャスティングしているのに、見せ場なく終わっちゃったのは、ちょっと残念だったな。

私は前作のブログレビューで、「バトルシークエンスが、全て暗いところばっかりなのがもったいない」と書いた。
おそらく同じ意見が多かったのだろう、今回は「分かったよ、明るいところで見せてやるよ!」とばかりにオール・デイシーン。
冒頭の巨大イェーガーと、ボスボロットみたいなチビっ子イェーガーとの追いかけっこから始まって、日本での決戦までずーっとどピーカン。
夜のシーンでは分かりにくかった、イェーガーのメカのディテールまでよく見える。
特に、東京での市街戦から、全てのカイジュウの聖地“マウント・フジ”を目指す、クライマックスのラスト30分は、正に見たかったものを全て見せてくれる大サービスだ。
異なる個性を持つ四体のイェーガーと、予想だにしない驚きのスゴ技を持つ三大カイジュウとの戦いは、大いに盛り上がる。

しかし・・・本作は、そこへたどり着くまでが、あんまり面白くないのである。
科学考証がむちゃくちゃだったり、展開が色々強引なのは前回もそうだったからそこはいい。
問題はやはり、大味過ぎる物語の構成で、ドラマに目の置き所がないことだ。
前作は、対カイジュウ戦で兄を死なせてしまったローリーと、幼い頃に家族をカイジュウに殺されたマコのシンプルな成長物語だったが、今回はペントコストの落ちこぼれ息子と、やはりカイジュウによって家族を失った少女アマーラが同様のポジションにある。
ところが、パイロット候補生を集めて中途半端に群像劇を目指したため、各キャラクターが埋没し、ドラマの軸が失われてしまった。
そもそも、ジェイクはなんで落ちこぼれてるのかもよく分からないし、候補生たちの訓練シーンもほとんど描かれないのでアマーラ以外は全く印象に残らず、クライマックスでは誰が誰で、どのイェーガーに乗っているのかも不明瞭。
当然、誰にも感情移入するに至らない。

また、二番煎じを避けた敵の正体は、意外性があってよかったのだが、そのせいで肝心のカイジュウがなかなか出てこないのはいかがなものか。
ジプシーvs偽ジプシーという、いかにも日本の特撮ものにありそうなシチュエーションが二度あり、アクションとしては見応えがあるが、見たいのはやはりvsカイジュウなのである。
せめてドローン・イェーガーがカイジュウ細胞に侵食された、エヴァっぽい奴らとイェーガーのバトルがあればよかったのだが、つなぎのエピソードであんまり見せ場にはならず。

外連味たっぷりだったデル・トロほど、スティーヴン・S・デナイトの演出にクセが無いのも逆に欠点が目立つ理由かも知れない。
デル・トロの迸るオタク心は、幾つもの震えるほどカッコイイ画として結実していたが、今回はアクションの流れは良くできているものの、止め画として圧倒的に印象的なショットが無い。
イェーガーやカイジュウの演技に、前作の様な“見得を切る”演出が見られないことも、インパクトの弱さにつながっている。
前作はデル・トロの作家映画だったことで、様々な欠点が帳消しにされていたが、今回のデナイトの仕事は多分に職人的で、その分アラが目立ってしまった。
繰り返すが、クライマックスはそこだけで観る価値十分な位燃えるし、本国で酷評されたほど悪くはない。
だけど、もう少し全体をブラッシュアップ出来ていたら・・・と思うのも事実だ。

今回は、富士山の地ビール「富士桜高原麦酒 ヴァイツェン」をチョイス。
オクトーバーフェストなどでもお馴染み、河口湖に醸造所を持つ地ビールだ。
ここの醸造士たちはドイツで醸造技術を学んでいて、どれも本場仕込みの本格的な味わいが楽しめる。
南ドイツで生まれたヴァイツェンスタイルで作られるこちらは、バナナを思わせる香りでとてもフルーティ。
苦味が少なく、ビールが苦手な人でも、飲みやすいのが特徴だ。

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ダンガル きっと、つよくなる・・・・・評価額1700円
2018年04月14日 (土) | 編集 |
すべての壁を、超えてゆけ。

インド版星一徹みたいな実在の熱血レスリングおやじ、マハヴィル・シン・フォーガットと彼の教えを受けた二人の娘、ギータとバビータの半生を描く物語。
保守的なインド社会にあって、秘められた娘の才能を見抜き、人々の嘲笑も意に介さずに、ひたすら二人の才能を開花させるために突き進む。
「きっと、うまくいく」「PK ピーケー」などのスーパースター、アーミル・カーンが、プロデューサーも兼務してマハヴィルを演じ、さすがの存在感。
監督、脚本を務めたのはニテーシュ・ティワーリー。
ドンと力強く背中を押される様な、スポ根ものの王道プロットに、ジェンダーイコーリティーのイッシューを組み込み、パワフルで深みのある娯楽快作となった。
※核心部分に触れています。

レスリングをこよなく愛する男、マハヴィル(アーミル・カーン)。
彼は国際大会の金メダルを夢見ながら、経済的な理由で選手生活に終止符を打つ。
せめて自分の息子に夢を託そうと思うが、生まれてきた子供は四人連続で女の子ばかり。
すっかり諦めていた頃、長女のギータ(ザイラー・ワシーム/ファーティマー・サナー)と次女のバビータ(スハーニー・バトナーガル/サニヤー・マルホートラ)が、喧嘩で男の子をボコボコにやっつける。
二人に、生まれついてのレスラーとしての才能を見出したマハヴィルは、早速英才教育を開始。
最初は嫌がっていた二人も、次第に父の想いを受け入れて、レスリングの実力はうなぎのぼり。
地方のアマチュア大会で男相手に連勝を重ね、ついにギータがナショナル・チーム入りすることになる。
マハヴィルにとって長年の夢である、“国際大会の金メダル”はもう不可能ではない。
一方でそれは、長年手塩にかけて育てたギータが、自分の手を離れることを意味していた・・・


タイトルになっている「Dangal」とはなんぞや?
インド映画ならではの、やたらとリズミカルなエンディングテーマ曲が頭に残り、「ダンガル♪ダンガル♪」と思わず口ずさみたくなるが、調べてみるとヒンズー語で「土の上で行う伝統的なレスリング」のことらしい。
映画の前半で、マハヴィルが畑を切り開いて作る土俵の様な練習場、レスリングマットのない街中の広場で行われるアマチュアの大会、あれが本来のダンガルなのだな。
アーミル・カーン演じる頑固一徹のマハヴィルは、どんどんと我らが星一徹に見えてくる。
そういえば、インドでは野球をクリケットに置き換えた「巨人の星」リメイク版、「スーラジ ザ・ライジングスター」が放送されたりしているから、日本のスポ根ものとの親和性は高いのかもしれない。

熱血のマハヴィルに、図らずもレスリングの才能を発見されてしまったギータとバビータ。
男の子の様な短パンをはかされ、練習の邪魔になると長い髪を切られ、問答無用の過酷なトレーニングを課される姉妹は、当然反発する。
インドは保守的な社会で、特に田舎には様々な不文律がある。
女性が肌を見せるのは破廉恥だと思われるし、男と組み合ってレスリングするなど、当然もってのほか。
街の人たちは、レスリング狂人のおやじが、かわいそうな娘たちを使って叶うはずのない夢を追いかけていると笑いものにするが、マハヴィルは決して止まらない。
レスラーにはタンパク質が必要だが、インドの多くの家庭は厳格なベジタリアンで、そもそも肉は高い。
マハヴィルは妻の反対を押し切って鶏を調理すると、娘たちにたっぷり与える。
親が果たせなかった夢を子に押し付ける、というのはよくある話で、娘たちも最初はそう考えていて、なんとか父親を思いとどまらせようとする。
しかし、14歳にして結婚させられる友達に、「インドの女は子を産む道具。あなたたちは違う」と諭されて、ふと振り返る。
姉妹は、レスリングをすることで、この国の女性を縛る、多くの理不尽な因習から解放されていることに気づくのだ。
「女だからしてはいけない、女だから出来っこない」マハヴィルはそんなことを一言も言わない。
男尊女卑が強く残る社会にあって、少々偏屈でも父の愛が特別だということを知ってから、インド初の国際大会金メダルという夢が三人の間で共通化。

映画は、前半が少女編、後半が大人編の構成で、前半はマハヴィルとギータ、バビータの三人を比較的均等に描いてゆくのだが、中盤以降は長女のギータが明確な主人公となってゆく。
着々と実力をつけ、ついに全国チャンピオンとなったギータは、インド代表として国立スポーツ・アカデミーの寮に住み込み、ナショナル・チームのコーチから教えを受けることになる。
レスリング一色で厳格だった実家の生活から解放され、都会で練習の合間にオシャレや娯楽を楽しむことが出来る様になった一方、コーチからは「父親の教えはすべて忘れろ」と指導される。
いつかはやってくる親離れ子離れの葛藤が、試合に勝ちたいというギータのもう一つの葛藤と絡み、実に上手い具合にクライマックスへと収束する。
日本版予告では、まるでロンドン五輪がクライマックスになるかの様な表現をしてるが、本作に五輪はほぼ無関係。
確かにギータは、ロンドン五輪にインド初の女子レスリング代表として参加しているのだけど、本作のクライマックスはその2年前、2010年にデリーで開催されたコモンウェルス・ゲームズだ。
日本ではほとんど馴染みがないが、コモンウェルス・ゲームズは嘗ての大英帝国植民地諸国からなる英連邦加盟国のスポーツ大会。
域内人口は23億人に及び、52カ国が参加して、オリンピックと同じく4年に一度開催される一大イベントだ。
日本やロシアといった女子レスリングの最強豪国は出ていないので、比較的金メダルに手が届きやすい・・・といっても、後発国のインドにとっては、国際大会のメダル自体が遠い。

マハヴィルから長年受けてきたコーチングと、ナショナル・チームで受けた新しいコーチングとの方向性の違いに戸惑い、国際試合で勝てなくなったギータは、コモンウェルス・ゲームズを前に、父の教えに回帰することを決断する。
個人スポーツは、選手の実力だけじゃなくコーチとの相性も大切なんだな。
一度はナショナル・チームのコーチに感化されるギータと、姉の後を追って代表入りするも、あくまでも父の教えを大切にするバビータとのコントラストも効果的なアクセントになっている。
大会に挑むギータに、マハヴィルは国際大会の金メダルに拘る理由を明かす。
「銀メダルならお前はいつか忘れられる。しかし金メダルなら、お前はこれからの子供たちの目標になって、たくさんの女の子たちを勝利に導くことになるんだ」と。
この父の言葉を胸に、すべてをかけたコモンウェルス・ゲームズを含めて、レスリング・シークエンスはボリュームたっぷりだ。
役者がきちんと体を作っていて、ビジュアル的にも演出的にも十分なリアリティがあり、まるで本物の試合を見ているような緊張感。
多分フィクションなんだろうけど、マハヴィルとナショナル・チームのコーチとの間のひと悶着もギータの成長を後押しし、父娘それぞれがたどり着いた到達点に感極まり、思わず涙。

ギータ役を少女と大人でリレーしたザイラー・ワシームとファーティマー・サナー、バビータを演じたスハーニー・バトナーガルとサニヤー・マルホートラの四人は、8ヶ月かけてレスリングのトレーニングを積んだそうで、見事な説得力で素晴らしい。
だが彼女ら以上に、マハヴィル役のアーミル・カーンのカメレオンっぷりが凄いのである。
今回は一歩引いて、主役ではなく娘たちを引き立てる役なのだけど、冒頭の筋肉ムキムキ青年から後年のでっぷり太ったメタボおやじまで見事な演じ分け。
なんでも70キロだった体重を97キロまで増やし、中年パートを撮影した後に、筋肉をつけながら再び70キロまで落とし、あの冒頭シーンを撮ったのだとか。
あまりの変わりっぷりに、特殊メイクかと思ったくらい。
まあ40代で無理なく大学生役やってた人だから、驚くことではないかもしれないが。
役柄的には主役ではないと言っても、終始映画を支配するのはやはり圧倒的なオーラを持つこの人なのだ。

実話ベースを脚色した正攻法の物語に、インド映画特有の外連味を適度に抑制した演出、そして物語に説得力を与える俳優たち。
自分の果たせなかった夢を子供に叶えて欲しいという、パーソナルな親の我欲は、いつしかインド社会の全ての娘たちの夢となり、ギータとバビータもまた幾多の葛藤と苦難の先に、自らの生きる道をつかみ取る。
140分の長尺もあっという間、まさに娯楽映画の金メダル、誰が見ても楽しめる普遍的な作品だが、特に世界中の女の子たちに観てほしい!

ところでこれ、日本レスリング協会が後援してるんだが、女子レスリングの話だし、ナショナル・チームのコーチと、選手指導を続ける元のコーチ(父親)との確執が大きな要素で、練習センターの出禁や嫌がらせのエピソードがあったりするので、どうしても現実のパワハラ騒動を思い出しちゃう。
辞任した前強化本部長も本作の試写を観て、選手たちに訓示を垂れたというから、シニカルなブラックジョーク以外の何ものでもない。
まあ後援を決めた時には、「敵は女を下に見る全ての人たち」ってマハヴィルの台詞がブーメランになって戻って来るとは、1ミリも思ってなかったのだろうけど、別の意味でタイムリーになっちゃったな。
相撲協会の時代錯誤というか、思考停止な不見識もひどいし、日本もまだまだ問題だらけだ。

今回はインドのビール、マハヴィルをイメージして、その名も「ゴッドファーザー ラガー」をチョイス。
名前はものすごく強そうだが、スタンダードな下面発酵のピルスナー。
熟成期間が通常のラガーの倍以上あり、わりと香りが強くしっかりしたコクがあるのが特徴。
暑い国のビールらしく、基本的には清涼で飲みやすいので、日本人好みだと思う。

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ショートレビュー「見栄を張る・・・・・評価額1600円」
2018年04月10日 (火) | 編集 |
プライドよりも、大切なこと。

藤村明世監督の長編デビュー作は、愛すべき小品である。
主人公は、28歳にして自信喪失気味の売れない女優・絵梨子。
高校生の頃から女優を夢見て、上京して10年頑張ってはいるものの、仕事にはなかなか恵まれず、代表作と言えば何年も前のビールのCMくらい。
芸人志望の年下の彼氏・翔は、稼ぎゼロのヒモ状態だが、惰性でなんとなく付き合っている。
自分でも何とかしなければ・・・と思っているアラサーの彼女に、ある日突然の知らせが入る。
何かにつけて自分を心配していた姉の由紀子が、交通事故に遭い亡くなったのだ。
葬儀のために故郷へと帰った絵梨子は、姉が葬式で泣く弔問客を演じる、いわゆる「泣き屋」だったことを知る。
女手一つで育てられた姉の一人息子・和馬の行く末を案じた絵梨子は、しばらく故郷に留まろうと、由紀子の後任に立候補するも、泣き屋という仕事の意味を理解出来ず、散々な結果に。

自信のない人ほど、不必要な見栄を張る。
泣き屋を雇い、葬式を賑やかして見栄を張ること、「私は東京の女優よ」と見栄を張ること、どちらも本質を外れて誤魔化す行為だ。
だが、この映画に描かれる泣き屋は、とにかく泣いてその場を繕えば良いと言うことではない。
人と人との接点が希薄化している現在、泣き屋でなくとも誰かの葬儀に出席したとして、必ずしもその人のことを深く知っている訳ではないだろう。
涙を流すことなら、演技をかじっていれば誰でも出来るが、涙ひとつとっても本当はそこに意味があるのだ。
どんな想いで流す涙か、それが重要なのである。
この映画の泣き屋は、いわば弔いの演出家で導き手であり、弔問客が亡き人へ感情移入する動線。
ゆえに、きちんと気持ちを作って、なり切らなければ説得力がない。
これは正に、本質的な役者の仕事である。
自信を失い、他人の視線を意識した表層的な演技しか出来なくなっていた絵梨子は、泣き屋の仕事を考えることを通して、大きなヒントを掴む。
同時にそれは、陥っていた自己閉塞を打破し、足踏み状態の人生を前に進めることになる。

“撮影師”長田勇市が、舞台となる和歌山の情景を実に映画的にフレーミングし、久保陽香が絵梨子の内面を繊細に演じる。
和馬のキャラクター造形があまりにもいい子すぎたり、心情の掘り下げがやや演技頼りになっていたり、藤村明世の演出は成長の余地を残すが、心に残るデビュー作だ。
劇中で、絵梨子の成長に決定的な役割を果たすのが、小栁圭子演じるおばあちゃんの依頼なのだが、あのお葬式はとても印象深い。
絵梨子の泣きを通して、姉の由紀子がどんな泣き屋だったのかも伝わってくる、いいシーンだった。
なんとなく、自分の葬式でもこんな泣き屋なら雇ってもいいかなと思わせるのだから、映画の勝利と言っても良いと思う。

ところで、斎藤工監督の「Blank13」にも泣き屋が出て来たが、この職業は今の日本にも実際にあるんだろうか。
孤独に死ぬ人が増えてるし、この映画が描く弔いの形、弔いの意味はとても現在性があると思う。
イギリスの映画で、身寄りのない人の葬儀を行う民生係を描いた「おみおくりの作法」という佳作があるのだけど、死者に寄り添う主人公の心情は、この映画の泣き屋の心得と少し被るものがあるかも知れない。
ちなみに、監督の話だと本作は女性には好評な一方で、若い男の子たちの感想が辛辣らしい。
まあ劇中の翔みたいに男は精神年齢低いから、この映画のシチュエーションはある程度歳を重ねないと実感に乏しいのかも知れないな。
若い頃よりも“死”を身近に感じる中年のおっさんとしては、こじらせちゃってる絵梨子にも、泣き屋を依頼するおばあちゃんにも、思いっきり感情移入したよ。

今回は舞台となる和歌山の地酒、「黒牛 純米吟醸」をチョイス。
私の親は和歌山の出身なので、昔は帰省するとよくこの酒を買って来ていた。
しっかりしたコクがあり、フルーティでまろやか。
和歌山の日本酒は比較的甘いのが特徴で、黒牛の純米も日本酒度以上に甘みを感じ、名前の通りにお肉料理とよく合う。

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ウィンストン・チャーチル /ヒトラーから世界を救った男・・・・・評価額1700円
2018年04月07日 (土) | 編集 |
“政治屋”の孤独。

おそらく、20世紀の世界史で最も有名な人物の一人だろう、第二次世界大戦下のイギリスを率いた、ウィンストン・チャーチルを描く重厚な歴史ドラマ。
ナチス・ドイツの脅威がドーバー海峡に迫り、国論が対ドイツ融和派と強硬派の真っ二つに割れる中、政権を託されたチャーチルはいかにして国をまとめ上げたのか。
ここに描かれるのは、闇が世界を覆い尽くそうとする時、時代の趨勢に抗った政治のプロフェッショナルの孤独と苦悩だ。
「博士と彼女のセオリー」のアンドリュー・マクカーテンが脚本を担当し、監督は「つぐない」「アンナ・カレーニナ」のジョー・ライトが務め、スタイリッシュかつ暗喩的な映像で魅せる。
細身のゲイリー・オールドマンが、辻一弘の特殊メイクによって、恰幅の良いチャーチルに大変身。
無冠の帝王の称号を、初のオスカー戴冠で返上したのも納得、圧巻の名演だ。

イギリス政界の嫌われ者、ウィンストン・チャーチル(ゲイリー・オールドマン)に、運命の瞬間が迫っていた。
戦争の拡大を受けて、チェンバレン首相は辞職を表明、挙国一致内閣を成立させられるのは、野党労働党の支持を受けられるチャーチルしかいなかったのだ。
国王ジョージ6世(ベン・メンデルソーン)の組閣要請を受けたチャーチルは首相に就任するも、同盟を組むフランス政府は既に戦意そう失し、英仏の陸軍はダンケルクへと追い詰められつつある。
しかも、党内バランスを重視して組閣したため、戦争内閣も対独融和派と強硬派が拮抗し、決して一枚岩ではない。
ドイツ軍がダンケルクを包囲し、刻々とタイムリミットが迫る中、チャーチルは民間船を徴用してダンケルクへと向かわせる“ダイナモ作戦”を発動。
一方、融和派のチェンバレン前首相(ロナルド・ピックアップ)と外相のハリファックス伯爵(スティーヴン・ディレイン)は、チャーチル降ろしを画策するのだが・・・


1939年の9月、ドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発。
ドイツは翌40年4月に、デンマーク、ノルウェーを攻略し、5月には遂にフランスとベネルスク3国への電撃戦を開始する。
機械化された機甲師団と航空支援により、迅速に展開するドイツ軍のスピードに、第一次世界大戦の経験に囚われいたフランスは対抗できず、瞬く間に国土を蹂躙され陥落寸前。
仏国内に駐留していたイギリス軍と一部フランス軍の40万人は、フランス北部のダンケルクへと追い詰められる。
イギリスのチェンバレン首相は、ドイツに対して融和政策をとり、状況判断を誤ったとして、批判が高まり辞任。
誰が首相になっても荊の道が待っている難局に、チェンバレン内閣の海軍大臣だったウィンストン・チャーチルが、担ぎ出されたという構図。

この時点で65歳の古参政治家だったチャーチルは、失敗と成功を行ったり来たり。
世論に乗っかって保守党を離党して自由党に所属し、その後また保守党に舞い戻るなど政界渡り鳥でもあったので、当然敵も多い。
劇中で何度も言及されるガリポリの戦いは、チャーチルがアスキス内閣の海軍大臣だった第一次世界大戦中、オスマントルコのガリポリ半島への上陸に失敗し、15万人にのぼる膨大な死傷者を出した作戦。
もっとも、これは艦隊を直ちに差し向けよというチャーチルの命令に、海軍卿のジャッキー・フィッシャーらが反対したことで、結果的に中途半端な体制での上陸となり、トルコの猛反撃を許したもので、一概にチャーチルの責任とは言い難いのだが。
ガリポリの戦いの悲惨さは、若き日のメル・ギブソンが主演し、ピーター・ウィアーが監督したオーストラリア映画、「誓い(原題:Gallipoli)」を見るとよく分かる。

本作の原題は「Darkest Hour」
功罪あるチャーチルにとって“最も暗い時間”、1940年5月10日の首相就任直前から、ダンケルクの英仏両軍を成功裏に撤退させたダイナモ作戦後の、有名な庶民院での“We shall never surrender.”の演説までの四週間を描く。
昨年大ヒットしたクリストファー・ノーラン監督の「ダンケルク」は、ダイナモ作戦の現場を時系列の異なる三つのパートに分けて描いた。
「防波堤」パートは救出を待つ陸軍兵士たちの1週間、「海」は救出に赴く小型船の1日、そして「空」は救出を妨害するドイツ空軍と空中戦を繰り広げる、スピットファイア戦闘機隊の1時間だ。
ノーランは徹底的に現場で起こった事象に拘ってこの構成にしたのだが、実際に戦争の現場の命運を決めるのは会議室での出来事だ。
ヒットラーを忌み嫌う対ドイツ強硬派のチャーチルは、最初から全面戦争の覚悟を決めているが、その前に国内、いや閣内の融和派との闘争に勝利しなければならない。

党内基盤の弱いチャーチルは、国王の信頼を得ると、彼の助言を受けて庶民の生の声を求めて初めて地下鉄に乗る。
階級社会のイギリス国会は非公選の貴族院と、公選の庶民院の二院制。
チャーチルは庶民院議員とはいえ、貴族の血を引く二代目政治家と言うエスタブリッシュメントゆえに、普段は運転手付きの高級車で送迎され、公共交通機関など乗り方も知らない。
地下鉄に向かう前に、車から窓の外の市井の人々の日常を見つめるシーンは、映画の序盤の同様のシーンの対となっていて、平和が急速に失われ、戦争の惨禍が迫っていることを街の様子から端的に感じさせる秀逸な描写。
決意したチャーチルは、地下鉄に乗り込んで、居合わせた人々の声を直接聞くのだが、面白いのはその直後の国会での演説シーンだ。
彼は、たった今地下鉄で聞いてきたことと称して、自党の議員たちに向けて主戦論を支持する人々の言葉を豪快に盛って、と言うか捏造して語り、拍手喝采を浴びるのである。
良くも悪くも生まれ付いての“政治屋”の気質と言うか、自分の目的を達成するためなら手段は選ばず。
この部分はフィクションが入っている様だが、こうして社会は覚悟を決めた少数のラジカルな人物によって、強引に動かされてゆくのだなと実感させられる名シーンだ。

本作はノーランの「ダンケルク」には存在しない、もう一つの時系列、政治家たちの1ヶ月を描く「会議室」の物語であり、歴史の同じ事象を異なる視点から描いた二つの映画は、相互補完的な関係にある。
「ダンケルク」が、大撤退の奇蹟を現代イギリスの神話として再構築した作品だとすれば、ジョー・ライトはその裏側で何が起こっていたのか、ダンケルクに向かうドイツ軍を牽制して捨て石となったカレーの部隊の犠牲を含め、神話の実像を綿密に描き出すのだ。
もっとも、映画を見ているとまるで全滅したようにも見えるカレーの部隊は、実際には多大な犠牲を出した後、5月26日に降伏している。
これはチャーチルの政治的ウソに通じる映画的ウソで、だから歴史を描く劇映画は、どんな作品であろうとも、まるまる信用してはいけないのだけど。
ライトの作品では、「つぐない」もダイナモ作戦が重要なモチーフとなっていたが、やはり英国の作家にとってダンケルクの記憶とは、かくも重要なものなのだろう。

そして、前評判通り圧巻の名演を見せるゲイリー・オールドマンは、文句なしに本作のMVP
チャーチルが今の時代にいたらパワハラ・セクハラ爺さんだろうが、攻撃的でパワフルな表の顔と繊細な裏の顔を見事に表現していて素晴らしい。
その思想や政治手法など、手放しでは賛同できない部分も含めて、複雑な人間性を演じ切った。
リリー・ジェームス演じる秘書のエリザベスを、物語の案内役兼観客の感情移入キャラクターにしたのが上手く、最初は横柄な非共感キャラクターのチャーチルが、だんだんと可愛く見えてくる。
テリングでは、凝った映像表現に定評があるライトらしく、光と影のコントラスが特徴的。
映画全体を“舞台”に閉じ込めるという奇策を使った「アンナ・カレーニナ」ほどではないが、国会などはまるで舞台の様にスポットライトが当たっている。
「Darkest Hour」の原題通り、エレベーターや専用トイレの狭い空間、ドアの窓枠などで切り取られチャーチルが闇に囲まれているショットの数々が印象的。
国王ジョージ6世との会食シーンでも、柔らかな光に包まれた王の前で、彼だけが逆光で闇の中にいる。
漆黒に閉ざされた専用トイレから、アメリカのルーズベルト大統領に電話をかけ、援助要請を断られるシーンは、追い詰められたチャーチルの孤独と焦燥を強く感じさせ、本作の白眉だ。

独裁色の強い、ストロングマン・タイプのリーダーが各国に次々と現れる現在、本作もある意味、非常にタイムリーな作品と言えるだろう。
ここでチャーチルの見せるリーダシップは、現在の世界に置き換えるとどうなるのか?
もしもこの時代の英国人だったら、支持するのはチャーチルかチェンバレンか?
人間的な好き嫌いは別として、求めたいのはどのようなリーダーだろうか?
80年近く前の“最も暗い時間”と、そこに光を導いたチャーチル像から見えてくるのは、実は現在の世界の比喩的な鏡像なのかもしれない。

チャーチルは酒豪であり、様々な愛飲酒が知られているが、今回はアルメニアのエレバンブランデー社が、白ワインを原料として作るブランデー「アララット アフタマール」をチョイス。
ラム酒に近い独特の甘い香りがあり、ブランデーとワインの中間的な味わいだ。
第二次世界大戦中にクリミア半島で行われたヤルタ会談時に、チャーチルが当時ソ連領だったアルメニアブランデーをいたく気に入り、スターリンに年間数百本を送らせたという逸話が残っている。
まあこの人の場合、飲めればなんでもよかったと言う気がしないでもないけど(笑

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ショートレビュー「ジュマンジ/ウェルカム・トゥ・ジャングル」・・・・・評価額1600円
2018年04月04日 (水) | 編集 |
友情・勇気・勝利!スキルを駆使して突破せよ!

楽し~!こりゃヒットする訳だ。
クリス・ヴァン・オールズバーグ原作の「ジュマンジ」が、故ロビン・ウイリアムズ主演で映画化され、本国公開となったのは1995年のクリスマスシーズン。
不思議な魔力を持ったボードゲーム“ジュマンジ”によって、ゲームの世界が現実に出現するという斬新な設定を、「キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー」のジョー・ジョンストン監督が魅惑的なビジュアルで描き上げ、クリーンヒットを飛ばした。
汎用性のある設定ゆえに、すぐに続編が作られるのだろうなと思っていたが、10年後の2005年になって同じ原作者の「ザスーラ」がジョン・ファヴロー監督で映画化されたものの、続編に関してはいつまで経っても作られず、今回21年目にしてようやく実現。

久々のリブートで、前作を観ていない人が多くなっていることもあるのだろう、続編でありながら半分リメイクのような作りになっているのが面白い。
前作はウィリアムズ演じるアランが1969年にゲームの中に閉じ込められ、1995年になってゲームを開いたジュディとピーターの兄弟、26年前に自分を見捨てたサラと共闘してゲームをクリア。
四人はそれぞれの時代へと帰り、川に流されたジュマンジが海岸に流れ着いて終わるのだが、今回は1996年に少年アレックスがそのジュマンジを拾うところから始まる。
完全な続きものでありながら、物語としては独立しているので、前作を観てなくても問題無い作り。
ボードゲームだったジュマンジは、アレックスの気をひくために魔力でTVゲームにトランスフォーム。
彼がゲームの世界に吸い込まれた後、存在を忘れられて20年、たまたまジュマンジを見つけた現在の高校生、スペンサー、ベサニー、フリッジ、マーサの四人が再びゲームをプレイする。
前作ではゲームの世界が現実に召喚されるが、今回は逆に現実の人物がゲームの世界に吸い込まれる形となり差別化。
ARとVRの違いみたいなものか?
アランの役割をアレックスが引き継ぎ、時間SF的な要素も踏襲されている。

一番の相違点は、ゲーム世界の世界に入ると性格はそのままに、肉体的に現実とは対照的なバーチャルキャラクターに変わること。
気弱な秀才スペンサーはマッチョなドウェイン・ジョンソンに、自己中な美少女ベサニーはあろうことかデブでオヤジなジャック・ブラックに。
スポーツマンのフリッジはチビで足の遅いケヴィン・ハートとなり、体育嫌いで人付き合いの苦手なマーサは戦闘美少女系カレン・ギランに。
このギャップの可笑しさは、「君の名は。」「レオン」などの入れ替わりコメディに通じる。
特にジャック・ブラックのオネエ演技は、「レオン」で元KARAの知英と入れ替わった竹中直人並みの破壊力だ(笑
この四人に、20年前に消えたアレックスが加わり、ゲームクリアに必要な全てのスキルが揃うというワケ。
思春期のコンプレックスと問題を抱えた若者たちが、冒険を通して力を合わせることを学び、それぞれの役割を果たして成長するのは、この種の青春エンタメの王道だ。

本作の構造としては、ほぼ完全な異世界ファンタジーなので、現実が非現実に侵食される前作の方が、映像としての未見性は強かった。
ゲームのシステムが変わった今回は、キャラの入れ替わりの面白さに加えて、「三回死ぬとお終い」のライフの設定などを効かせて盛り上げる。
特撮畑出身で、誰も見たことのない凄いビジュアルを作ることを得意とするジョー・ジョンストンと、「バッド・ティーチャー」や「SEXテープ」など、ちょいお下品でキャラクターの可笑しさで見せるコメディ畑のジェイク・カスダン監督の持ち味の違いが、そのまま作品の魅力となる。
両作に共通するのは、ドンドコドンドコとドラムの音が鳴る度にワクワクする高揚感で、オリジナルにたっぷりのオマージュを捧げた上で、上々の出来栄えのアップデートとなった。
予想外の大ヒットを受けて、続編も早速決まったそうなので楽しみ。
関係ないけど、ジュマンジの案内人のナイジェルは、予告編観た時からずっとネイサン・フィリオンだと思ってた。
髭面に帽子で分かりにくいけど、顔も声もそっくりじゃない?

今回はそのまんま「ジャングル・ファンタジー」をチョイス。
氷を入れたタンブラーにグリーン・バナナ・リキュール40mlとパイナップル・ジュース120mlを注ぎ入れ、ステアして完成。
グリーン・バナナのコクのある甘みと、パイナップルのサッパリとした甘酸っぱさの相性はとてもいい。
夏に飲みたいカクテルだ。

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ペンダゴン・ペーパーズ 最高機密文書・・・・・評価額1750円
2018年04月01日 (日) | 編集 |
報道は、誰の為にあるのか。

さすがスピルバーグ、地味な素材ながら圧巻の面白さ。
アメリカ政府がひた隠すベトナム戦争の真実を、ニューヨーク・タイムズとワシントン・ポストが暴露した史実の映画化。
メリル・ストリープとトム・ハンクスという、現代ハリウッドを代表するオスカー俳優が、それぞれワシントン・ポストの女性社主と敏腕編集主幹を演じる。
二人は、経営と現場というそれぞれの立場で苦悩しながら、失政の事実を捻じ曲げ、報道の自由を統制しようとする政府に対し、ライバルのニューヨーク・タイムズと共闘する。
真実を明らかにしようとする人々に、幾つもの困難が次々と襲いかかり、結果を知っていても最後まで目が話せないサスペンスフルな仕上がり。
公文書管理の在り方が、深刻なイッシューになっている今の日本にとって、ものすごくタイムリーな作品でもある。
※核心部分に触れています。

ベトナム戦争が泥沼化し、反戦運動が盛り上がりを見せる1971年。
株式公開を控えたワシント・ポストの社主キャサリン・グラハム(メリル・ストリープ)は、ワシントンの名士たちとの会合に余念がない。
一方、編集主幹ベン・ブラッドリー(トム・ハンクス)は、ライバル紙ニューヨーク・タイムズのエース、ニール・シーハン記者が3ヶ月も記事を書いていないことが気になっていた。
彼は何か大きなスクープを掴み、それに専念しているに違いない。
ベンの予想は的中し、タイムズは政府が長年にわたって隠蔽していたベトナム戦争に関する極秘文書、“ペンダゴン・ペーパーズ”を暴露し、全米に衝撃を与えた。
政府も、タイムズの文書の追加掲載差し止めの仮処分を求めて、裁判所に提訴。
仮処分は認められ、もし最高裁がこれを最終的に追認すれば、文書の残りは永久に掲載できなくなる。
ようやく情報源にたどり着いたポストも、4000ページに及ぶ文書を入手し、ベンは裁判所の判断を待たずに掲載しようとするが、経営陣や法務部は強硬に反対。
株価に悪影響を与えるどころか、場合によっては会社の存続すら危うくなる事態に、キャサリンはトップとして究極の決断をせまられる・・・


もしもあなたが、国家が国民を欺いた証拠となる文書を入手したら、どうするだろうか。
21世紀の現在なら、インターネットという強力な武器があり、やりようによっては個人でも国家と闘えるかもしれない。
だが、本作の舞台となる1971年には、それを扱えるだけの影響力を持つのは、新聞・TVなどの大手マスメディアだけだった。
劇中で何度も言及される合衆国憲法修正第1条は、1791年に制定された権利章典と呼ばれる国民の人権を保障する10の条文の中でも、信教の自由、言論の自由、出版・報道の自由、集会の自由、請願の自由を保障している。
自由主義国家としての合衆国の根幹に関わる、最も重要な条文だ。
この根幹が揺り動かされたのが、1971年に起こった「ペンダゴン・ペーパーズ」のスクープと、それに対する政府の対応なのである。
この文書には、1945年の第二次世界大戦終結から1968年までの23年間に及ぶ、アメリカによるインドシナ半島への介入の歴史の詳細と共に、ベトナム戦争が勝利する見通しのない戦争だったことが書かれていた。
国民に嘘をつき、勝てない戦争に若者を際限なく送り込むことが許されるのか?
当時のニクソン政権は、暴露は情報漏洩であり、アメリカ国家の安全保障に深刻な影響を与えるとして、掲載の差し止めを求めて提訴。
政府の都合で言論・報道の自由を制限することの是非が争われ、後の同様の判例に大きな影響を与えた。

映画は、経営トップの社主キャサリン・グラハムと、現場を率いるベン・ブラッドリーの二人を軸として、双方の物語をクロスカッティングの手法で並行して描く。
片やフィックス基調の落ちついた画作り、片や忙しなくカメラが動き回るコントラスト。
会社は新しい時代へ対応するため、一族経営体制から株式公開して資金調達を図ろうとしており、キャサリンは首都ワシントンの政財界の名士たちと、会食やパーティーを重ねている。
安定を重んずる投資家たちにとって、投資先の会社が政府と敵対することは決して好ましいことではなく、ましてや会社存続の危機に陥るかもしれない極秘文書暴露など、経営的には最悪のタイミング。
特に、当時は珍しい女性社主だったキャサリンは、別のプレッシャーにも晒されている。
彼女の父ユージーン・メイヤーは、アメリカの中央銀行に当たる連邦準備制度理事会議長を務めたほどの人物で、破産したワシントン・ポストを買収し、米国有数の高級紙として育て上げた。
そしてキャサリンの夫のフィルが社主を継ぐのだが、やがて重圧に耐えかねて自殺してしまい、専業主婦だったキャサリンに予期せぬ社主の椅子が回ってくる。
ワシントン・ポストという会社に対する愛は深いものの、突然放り込まれた男社会の中で、自分は心からの信頼を勝ち得ていないのではないか、お飾りと思われているのではないかという気持ちが、彼女の中でずっと解消していないのである。

一方、ベン・ブラッドリーに率いられた現場は、経営の事情などお構いなしで、ニューヨーク・タイムズへの掲載が仮処分で差し止められている間に、ベンダゴン・ペーパーズを追い求める。
もともとタイムズに渡った文章は、軍関係のシンクタンクとして有名な、ランド研究所に保管されていたもの。
密かに人脈を辿り、遂に文書を持ち出した元職員ダニエル・エルズバーグに行き当たる。
ところが、ポストに届いたのは、未整理の文書実に4000枚。
ページの順番すらバラバラな文書を急いで読み解き、タイムズの仮処分に裁判所が判断を示す前に、掲載しなければならない。
もし裁判所が政府の意向に沿って差し止めを認めれば、ポストとしても掲載することが出来なくなってしまうからだ。
可能な限り急ぎたい現場と、政府と衝突するリスクを減らしたい、即ち裁判所の判断を待ちたい、経営・法務陣。
どちらも正論のせめぎ合いは見応えがあり、同時に最高責任者としいて最終判断を委ねられるキャサリンの苦悩もまた深まってゆく。

面白いのは、現場が権力の不正を追求する一方、キャサリンはケネディ/ジョンソン政権の国防長官であり、ペンダゴン・ペーパーズの責任者であった、ロバート・マクナマラの親友だという人間関係。
キャサリンが現場にGOサインを出すことは、そのまま長年の友人の不名誉を明らかにすることに等しい。
一方、ベンはベンでケネディ夫妻とごく親しい間柄だったりするし、ぶっちゃけ皆狭いワシントン村の住人でズブズブの仲なのである。
だからこそ、二人は自戒の念を込めてそれぞれの立場で葛藤するし、日本的に忖度が発生してもおかしくない状況なのだが、この映画の登場人物は原理原則のところでは決してブレない。
報道が奉仕すべきは国民であって、権力者ではないのだ。
言論の自由と国民の知る権利は、政府の面子を保つよりもはるかに大切で、そのために経営者は言論の奉仕者たるメディアの現場を守らねばならない。
首都ワシントンの華やかな社交界に生きる経営トップも、着々とスクープを準備する現場指揮官も、アメリカの民主主義を守るという目的は同じ。
政府の訴えを退ける最高裁判断を勝ち取ったキャサリンは、支持者やマスコミの集まる裁判所前の階段を堂々と降りてくる。
自由の国のリーダーシップのあるべき姿を示した彼女を見つめる、多くの若い女性たちの視線が印象的だ。
これはジェンダーイコーリティーを隠し味に、言論・報道の自由を守る闘争を正面から描いた骨太のポリティカルサスペンス。
「フェイクニュースだ!」を口癖に、メディアへの敵対姿勢を露わにしたトランプ大統領の登場後、企画開始から公開までわずか一年という、ハリウッド映画としては異例のスピードでこの映画を作り上げた人々もまた、登場人物たちと同じ危機感と志を抱いているのだろう。

しかし、文書の責任者であったマクナマラに対する描写が、どちらかと言えば同情的なのに対し、実際に報道規制に走ったニクソン大統領は、とことん卑劣で救いようの無い憎まれ役になっているのが面白い。
映画が終わって劇場の灯りがつくと、そのまま「大統領の陰謀」を観たくなる終盤の作りも含めて、トランプ政権の行く末を暗示していると捉えるのはうがち過ぎだろうか。
ちなみに、トランプ批判の急先鋒でもあるワシントン・ポストの現オーナーは、何かにつけてトランプ政権と対立しているAmazonのCEOジェフ・べゾスだったりするから、やはりワシントン村の人間関係は面白い。
トランプ政権の未来を決めるのは、ネットの世界の支配権をめぐる新たな闘争なのかもしれない。

今回は辛口の映画ゆえに、辛口のカクテル「マティーニ」をチョイス。
ドライ・ジン48ml、ドライ・ベルモット12mlをステアしてグラスに注ぎ、オリーブを一つ沈めて完成。
「カクテルの帝王」と呼ばれるほど、メジャーな一杯。
「007」シリーズや「7年目の浮気」などの映画にも登場するほか、酒豪ウィンストン・チャーチルの愛飲酒の一つとしても知られる。
もともとはスイート・ベルモットが使われていたので、それほど辛口ではなかったようだが、次第にドライ・ベルモットに移行し、辛口のカクテルの代表格となった。
キリッとした輪郭の味わいで、強いが悪酔いしにくいのも、スパイや政治家に愛される理由?

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