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シアーシャ・ローナン演じるラジカルな女子高生、自称“レディ・バード”のこじらせ気味の青春を描く、愛すべき佳作。
これはグレタ・ガーウィグ監督の、女優・脚本家としての代表作、「フランシス・ハ」の前日譚の様な作品だ。
サクラメント出身ニューヨーク在住、あのちょっと痛いキャラクターの、ちょうど10年前の話と考えるとしっくりくる。
子離れできない母との確執、報われない二つの恋、女友達との難しい関係。
ガーウィグは、嘗ての自分が抱いていたのであろう青春の葛藤に対して、未来から優しく寄り添い、レディ・バードの小さな成長を見届ける。
タイトル・ロールのシアーシャ・ローナンの達者っぷりはもはや言うまでもないが、「マンチェスター・バイ・ザ・シー」のルーカス・ヘッジスや、「君の名前で僕を呼んで」でオスカーにノミネートされたティモシー・シャラメ、本作で脚光を浴びたビーニー・スタインフェルドなど、旬な若い俳優たちの瑞々しい演技も見どころだ。
2002年、カリフォルニア州サクラメント。
カソリック系の高校に通うクリスティン・マクファーソン(シアーシャ・ローナン)は、“レディ・バード”を名乗り、周囲にもそう呼ばせている。
退屈なサクラメントから出たい彼女は、ニューヨークの大学への進学を希望しているが、母のマリオン(ローリー・メトカーフ)は経済的理由から地元にとどまることを主張、進路を巡って二人の関係はギクシャクしている。
親友のジュリー(ビーニー・フェルドスタイン)と演劇クラスのオーディションを受けに行ったレディ・バードは、そこでダニー(ルーカス・ヘッジス)という青年と出会い付き合うことに。
しかしある時、彼女はダニーがトイレで男とキスしているところを目撃してしまい、別れを決断。
カフェでバイトをすることになったレディ・バードは、そこでイケてるミュージシャンのカイル(ティモシー・シャラメ)と知り合い急接近。
新しい交友関係も出来て、いつの間にか演劇クラスから足が遠のいていた彼女を、ある日ダニーが訪ねてくるのだが・・・
大人になって、ふと過去を振り返ると、思い出すのはちょっと恥ずかしい失敗の連続だ。
これはそんな青臭くて愛おしい、青春の記憶としてのグレタ・ガーウィグの一連の私小説的自分語りに連なる作品。
私生活のパートナーでもある、ノア・バームバック監督と組んだ「フランシス・ハ」の彼女は、ニューヨークでバレエダンサーをしているが、20代後半に差し掛かっても芽が出ず、ダンサーとしては限界を感じている。
理想と現実の間で抗うフランシスは、ドタバタ走ってはずっこける。
同じく、バームバック監督とのコンビ作「ミストレス・アメリカ」では、イケてない女子大生トレイシーが、ガーウィグ演じる猪突猛進型の三十路女ブルックと出会い、世界が変わってゆく話だが、やっぱり彼女は失敗しまくるのだ。
ガーウィグ自身が主演した二作では、ヤングとアダルトとの間で葛藤する、等身大の大人の女性をリアリティたっぷりに、しかし生々し過ぎずユーモラスにカリカチュアして表現していたが、本作ではシアーシャ・ローナンという若き分身を得て、カメラの裏側に自分のポジションを据えた。
時代設定の2002年は9.11の同時多発テロの翌年で、遠く離れたサクラメントの平凡な日常にあっても、そこはかとなくその影響が漂っていた頃。
主人公のレディ・バードことクリスティンは、早く何者かになりたい渇望を抱えた高校生だ。
彼女は登場して早々、進路を巡って母親と口論して車から飛び降り怪我をする。
過去にガーウィグが演じてきたキャラクター同様、頭で考えるよりも先に体が動きだし、結果的にいろいろとやらかすのである。
思いっきり背伸びしている彼女にとって、保守的なカソリック系の高校に行っていることも、過保護な親の庇護のもとに暮らしていることも、クリスティンと言う平凡な名前も気に入らない。
自分を特別な存在にしたくて、レディ・バードを名乗り、髪を赤く染め、クリエイティブなクラスを履修する。
そしてもどかしい高校時代の終わりと共に、閉塞した故郷を抜け出し、誰も自分を知らない遠くの街で、自立した存在になりたいのだ。
物語の軸となるのは、レディ・バードと母親との関係。
母のマリオンは、ぶつかりつつも内心娘のことが大好きで、家の経済的な事情もあって、卒業後も近くにいて欲しいと思っているのだけど、思春期真っ只中のレディ・バードにはそんな親心も疎ましく思える。
「フランシス・ハ」にも、夢破れてサクラメントへ里帰りするシークエンスがあったが、本名すら封印するレディ・バードにとって、故郷は自分を縛る母親そのものなのだ。
ちなみに、サクラメントはカリフォルニアの州都だが、サンフランシスコやロサンゼルスといった華やかな大都会と違って、特に名所や特徴があるわけでもなく、規模も一回り小さく、ぶっちゃけかなり地味な地方都市。
このパッとしない街で、レディ・バードは親に反発しつつ、ダニー、次いでカイルとイマイチ割り切れない恋をして、同性の二人の友人ジュリーとジェナとの間で悩む。
特別な存在を目指しているものの、実際にやっていることはごく普通。
いわば青春映画あるある満載の、ごくシンプルな物語なのだが、軽妙な語り口の中に誰もが納得するリアリティがある。
レディ・バードの数々のイタタな失敗は、脛に傷を持つすべての大人にとって、自分の傷をえぐられる様。
決して大爆笑する様な作品ではないのに、絶妙な台詞回しによるクスクスが止まらず、スクリーンから目が離せない。
映画監督、グレタ・ガーウィグのテリングのセンスが抜群に良いのだ。
前面に出る訳ではないが、ちょっと面白いのが劇中劇との象徴的な二重性。
アメリカの学校では、選択カリキュラムに演劇クラスを取り入れているところが多い。
大会で勝ち抜くことを目指す日本の学校の演劇部とはまた違った、あくまでも授業の一環としての演劇なのだが、多くの場合、履修を希望する生徒はオーディションを受け、それぞれの特質に合った役割で参加する。
本作でダニー役を演じているルーカス・ヘッジスも、中学の演劇クラスの公演でスカウトされたのが俳優になった切っ掛けだそう。
劇中で、レディ・バードたちが上演するのが「メリリー・ウィー・ロール・アロング」だ。
「カンパニー」「スウィーニー・トッド」などで知られるミュージカルの巨匠、スティーヴン・ソンドハイムが1981年に発表した作品で、日本でも5年前に宮本亜門演出で上演されている。
物語の主人公はハリウッドで人も羨む成功を手にしたプロデューサーだが、彼自身は自分の人生の何もかもにうんざりしている。
彼は「なぜ(今)ここにいる?」を考えながら、現在を起点に嘗て同じ夢を共有していた友人たちとの、今に至る20年を思い返してゆく。
ピュアだった若者たちの栄光と挫折、それぞれの分かれ道。
その判断は正しかったのか、失敗だったのか、主人公の自問はやがて観客自身の過去への問いと重なってゆくのである。
この感覚は、レディ・バードの中に過去の自分を見つめる作者のガーウィグ、そして彼女のいくつもの失敗を、いつしか自分の青春期の経験に重ね合わせている観客の心理に通じる。
青春の痛さは、国や社会、ジェンダーの違いがあったとしても、確実に普遍的な共感を呼ぶ部分があって、レディ・バードのハイスクール・ライフは誰の心の中にもある、“あの頃の自分”へのモヤモヤした想いを刺激する。
最初から最後まで、とことんやらかして終わるレディ・バードの物語に、彼女同様に青春真っ只中のティーンエイジャーはもちろん、青春なんてウン十年前よ?というおっさん・おばさん世代も、ちょい親目線で自分のことの様に一喜一憂し、等しく心を鷲掴みにされるだろう。
ところで、レディ・バードの赤毛設定は、マイク・ミルズ監督の半自伝的作品「20センチュリー・ウーマン」でガーウィグが演じた、ニューヨーク帰りのパンクなフォトグラファー、アビーのキャラクターが影響しているのかもしれない。
本作が「フランシス・ハ」の延長線上にあるのは間違いないが、アビーもまたレディ・バードの10年後の姿と考えても違和感がない。
ニューヨークに旅立ったレディ・バードは、フランシスになるのか、アビーになるのか、映画が終わっても、物語の余白にジワジワと余韻が広がる。
これは、どこにでもいる一人の少女が、ズッコケつつも大人への階段を一歩だけ上り、今までとは違った人生の景色を見られる様になるまでを描く、リリカルで味わい深い優れた青春映画だ。
今回は、レディ・バード憧れの地「ニューヨーク」をチョイス。
ライまたはバーボンウィスキー45ml、ライムジュース15ml、グレナデン・シロップ1/2tsp、砂糖1tspをシェイクしてグラスに注ぎ、オレンジピールを絞りかけて完成。
ウィスキーの濃厚さをライムが軽くしてくれて、甘酸っぱくてほろ苦い。
やらかしても、やらかしても、しっかりと歩み続ける大人のためのカクテルだ。

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いやー、これは面白い。
広島県の架空の都市・呉原を舞台に、東映が昭和の実録映画にディープなセルフオマージュを捧げたパワフルな犯罪映画。
北海道警の悪徳刑事を描いたピカレスク大河ドラマの傑作、「日本で一番悪い奴ら」の監督・白石和彌、脚本・池上純哉のコンビが、柚月裕子の同名小説を映画化。
暴対スペシャリストにして汚職刑事、狐のように狡猾で手負いの一匹狼のように恐ろしいダーティーヒーローを、役所広司が怪演。
彼とバディを組むことで、警察官として何をすべきなのか、大きな葛藤を抱えることになる若い刑事を松坂桃李が演じる。
嘗て東映が標榜した“不良性感度”全開、いい意味で昭和の猥雑さを感じさせる娯楽映画だ。
天皇の病状が悪化し、一つの時代が終わりつつある昭和63年。
所轄の呉原東署捜査二課に配属された日岡秀一(松坂桃李)は、暴力団との癒着が噂されるベテラン刑事の大上章吾(役所広司)と、サラ金の呉原金融の社員の失踪事件を担当することになる。
折しも呉原では、地元の尾谷組と広島の五十子会傘下で新たに進出して来た加古村組の関係が悪化。
尾谷組の組長が服役中の間に、加古村組が縄張りを奪い取ろうと動き、尾谷組との間でいつ抗争が始まってもおかしくない状況だった。
呉原金融は五十子会のフロント企業で、失踪が内紛絡みの殺人事件だと睨んだ大上は、手段を択ばない捜査で証拠を見つけ、加古村の動きを封じようとする。
広島大卒のエリートコースを歩んできた日岡は、時として法すら無視する大上の捜査方法に反発しつつも、抗争を止めるために協力してゆくのだが・・・
冒頭、養豚場で展開する容赦ないバイオレンスシーンから、いきなり度肝を抜かれる。
豚の糞と血にまみれ、人を人とも思わぬ男たちの外道っぷり。
「R15+」のレイティングとは言え、インディーズならまだしも、今時の邦画メジャーの作品でここまで凄惨な描写は珍しい。
昭和は64年の1月7日に終わり、その3年後には暴力団対策法が成立し、全国のヤクザ組織の活動には大きなブレーキがかけられることになる。
つまりこれは昭和ヤクザがそれらしい姿であった、最後の時代の物語なのだ。
さすがに手ブレする手持ちカメラは真似なかったが、冒頭のアナログ時代の三角マークから眉間に皺をよせた厳つい顔の男たち、外連味たっぷりの特徴的なナレーションやテロップ、音楽の使い方に至るまでいつか観た映画的記憶が満載。
「仁義なき戦い」シリーズ、「県警対組織暴力」、「実録 私設銀座警察」、「仁義の墓場」などなど、心に焼き付いた幾つもの名シーンが蘇る。
これは昭和のプログラム・ピクチュアをモチーフとした、昭和世代なら観るだけでノスタルジックなカタルシスを感じられる、いわば実録版「レディ・プレイヤー1 」なのである。
しかし、昭和世代のおっさんの映画マーケットなどたかが知れている。
この映画が秀逸なのは、単にラッピングの再現だけで満足することなく、物語の裏側に県警本部vs所轄警察署vs地元ヤクザvsよそ者ヤクザという、四つ巴の凝ったコンゲームが仕組まれており、互いに騙し合い、出しぬこうとする展開の面白さでも十分に魅せること。
呉をモデルとした架空の都市・呉原市は、地元の組織・尾谷組が伝統的に仕切ってきたが、組長は服役中で、その隙を突いて広島市に本拠を置く巨大組織・五十子会傘下の加古村組が進出を加速し、尾谷組のシマを奪いにかかる。
小競り合いが続く中、ついに尾谷組のチンピラが殺される事件が起こり、全面戦争がいつ起こってもおかしくない、一触即発の状況が続く。
役所広司演じる大上は、尾谷組とはズブズブの癒着関係が公然の秘密となっている。
彼は失踪した呉原金融の社員が、何らかの理由で加古村組のリンチに合い殺されたと見立て、殺人事件として立件することで加古村の動きを封じ、戦争を阻止しようとしているのだ。
大上は、ヤクザの撲滅は不可能でナンセンスと考えていて、彼のファーストプライオリティーはヤクザを警察のコントロール下に置くこと。
そのためには、賄賂も取るし、便宜を図ることもあるし、暴力で屈服させることもある。
必要とあれば自らも法を犯す。
一方、彼とコンビを組むことになるのが、松坂桃李演じるエリート、日岡秀一だ。
彼は、単なる新任の所轄刑事ではなく、何かと不正の噂のある大上を密かに捜査するために、県警本部の監察官によって送り込まれたスパイでもある。
本作の主人公は、まだ人間としても警察官としても未熟で未完成な日岡で、常識人である彼の視点で話が進むので観やすい。
日岡と大上はバディであり、マスターとパドワンでもあり、ソーとロキの様な腹に一物ある関係でもあるのだが、物語が始まった時点で、日岡の目には裏社会と警察とが絡み合う、巨大な利害構造のほんの一部しか見えておらず、警察官は基本的に法を忠実に執行すれば良いと思っている。
彼にとって大上は、ヤクザ同士の対立を利用して私腹を肥やす悪徳刑事であり、倒すべき悪漢なのである。
しかし、事件の全貌を知るにつれて、粗野な仮面に隠された大上の真意、合法・違法の線引きでは割り切れないこの世界の闇、清濁併せ呑む覚悟を決めたものだけが、行使できる“正義”もあることを理解してゆく。
野獣同士が噛み合うのは構わない。
問題は、野獣が人間の手を噛まないようにすることであり、そのために必要なのは、自らが半身だけ野獣の一員となり、知恵を使って人知れず闇の世界を操る力を持つこと。
これは、一人の若い刑事がこの世界の真実を知って成長してゆく寓話であると同時に、必要悪としての「孤狼の血」の継承の物語なのである。
「シャブ極道」「渇き」に連なる破天荒なキャラクターを、重厚に演じる役所広司が素晴らしい。
最近「彼女がその名を知らない鳥たち」や、ロマンポルノもびっくりの珍作「娼年」などで、分かりやすいイケメン俳優からの脱却を図る松坂桃李も、大ベテランとがっぷり四つに組む好演を見せる。
石橋蓮司のクズっぷり、伊達男な江口洋介、案外いい人のピエール瀧ら、暴力の世界に生きる男たちが印象強いが、訳ありのクラブママの真木よう子や、日岡と恋仲になる薬剤師を演じる阿部純子など、出番は多くないものの、女性キャラクターもなかなかに魅力的だ。
「東映は、心にモンモンを背負ってる」映画業界の人々は、愛着を込めて東映をこう表現する。
昭和が終わる一年前を描く本作が、平成が終わる一年前に作られたのは、企画としての明確な意味があると思う。
フィクションの娯楽映画にも、過度なコンプライアンスを求める風潮が蔓延し、事なかれ主義に流されがちな時代にあって、白石和彌は昭和の劇薬を巧みに換骨奪胎し、次の時代に向けて不良性感度の復活を宣言した。
本作のベースの部分に、昭和の実録映画群に対する強いノスタルジーがあることは確かだが、それ以外も様々な要素をバランスよく組み合わせて配置した、間口は広くて懐の深いとても良く出来た快作娯楽映画である。
日岡秀一を描くシリーズ第2作、「凶犬の眼」の映画化も決定したそうで、楽しみに待ちたい。
今回は、呉原こと呉市のお隣、東広島市に本拠を置く広島を代表する銘柄、賀茂鶴酒造の「賀茂鶴 上等酒」をチョイス。
比較的リーズナブルな本醸造酒だが、特に燗で飲むのに適したおっさん向けの酒になっている。
昭和のアウトローを気取って、場末の飲み屋などで、海の幸を肴にして一杯やりたい。

![]() 賀茂鶴 上等酒 1.8L清酒 1800ml |


「GODZILLA 決戦機動増殖都市・・・・・評価額1650円」
怪物vs神。
奇しくも日本では同時公開となった「ランペイジ 巨獣大乱闘」と「GODZILLA 決戦機動増殖都市」は、“怪獣”という同一モチーフを扱いながら、日米で異なる映画文化を究極まで純化したような、どこまでも対照的な二本となっている。
米国の“ジャイアント・モンスター”は、古くはサイレント時代の「ロスト・ワールド」、最近では「キングコング : 髑髏島の巨神」に至るまで、基本的には巨大な動物だ。
時として、人間や異星人によって作り出された人工的な存在なこともあリ、だからいくら強大で頑丈でも生物としての限界は超えられず、人の手で殺すことができる。
「ランペイジ」もその文脈に沿った一本で、もともと普通の動物だったアルビノのゴリラ、オオカミ、クロコダイルが、悪の企業によって宇宙ステーションで秘密裏に開発された、遺伝子を書き換える薬剤を吸い込んでしまい異常成長。
さらに様々な動物の遺伝子が混じりあい、ミューテーションして凶暴化する。
まあこの基本設定だけでも相当に強引だが、要するに嘗ての「巨大生物の島」をはじめ、何度も作られてきた動物巨大化のバリエーションで、思わず笑っちゃうくらいに御都合主義的かつ雑な映画だ。
主人公のドウェイン・ジョンソンは、動物学者なのになぜか元特殊部隊の軍人で、ヘリの操縦までできちゃう便利過ぎるキャラクターだし、悪の企業も宇宙ステーションまで持っているのに、関係者がほとんど経営者姉弟しか出てこないので、地方でこじんまりやっている中小企業にしか見えない(笑
しかも既に制御不能なのはわかっているのに、変な電波を出して怪獣たちを本拠地シカゴにおびき寄せてしまう意味不明さ。
でも、この手のハリウッド映画はそれでいい。
ファーストプライオリティは、怪獣たちに軍隊と都市を蹂躙させるスペクタクルな画を見せることであり、すべての要素はそのためのお膳立てに過ぎない。
PJ版「キング・コング」サイズのアルビノ・ゴリラから、初代ゴジラサイズのクロコダイルまで、大きさと形態の異なる3種の怪獣たちによる、都市破壊のカタルシス。
お約束のゴリラのビル登りをはじめ、怪獣映画オマージュもいっぱいだ。
クロコダイル怪獣は頭部がビオランテそっくりだし、ムササビとヤマアラシの遺伝子が融合したオオカミ怪獣は、滑空用の飛膜と背中の棘が特徴的で、元ネタはたぶんバランだと思う。
ドウェイン・ジョンソンの活躍により、ゴリラが正気を取り戻した後の三つ巴、いや四つ巴の怪獣プロレスも見応えたっぷりだ。
八面六臂のロック様は、まさに四匹目の巨獣で、おそらく怪獣相手に肉弾戦をやった、最初の人類なのではないか(笑
そして、そんな無茶な画に、説得力があるのが素晴らしい。
歴代のコングが興業のためにニューヨークに連れてこられた様に、ハリウッド映画における怪獣は、基本的に観客の未見性を満たすための見世物であり、その意味で「ランペイジ」は超正統派のアメリカン怪獣映画と言えよう。
対して、日本映画意における“怪獣”は、その祖であるオリジナル「ゴジラ」以来、象徴性を秘めたアイコンである。
特に日本型怪獣の保守本流である東宝作品では、それは時に戦争だったり、核だったり、あるいは公害だったり、人智を超えた何かのメタファーであり、いわば現在の祟り神だ。
神なのだから、人の手で怪獣を殺せることはほとんどない。
初代ゴジラを葬ったのは、オキシジェンデストロイヤーという架空の兵器だったが、劇中の描写通り、これも核兵器の裏返しであり、いわば核で核を殺すアイロニカルな物語だった。
近年では、「パシフィック・リム」が英語化した日本語という文脈で「カイジュウ」という言葉を使ったり、ギャレス・エドワーズ版「GODZILLA ゴジラ」が極めて日本版に近い怪獣の解釈をしていたり、日本とアメリカという二大怪獣大国は文化的に融合しつつあるが、依然としてイメージの差は大きいと思う。
「シン・ゴジラ」の大ヒットを追い風に作られたアニメーション版ゴジラは、ある意味メタファーとしての怪獣の究極系と言えるかもしれない。
本シリーズの怪獣たちは、人類の文明がレッドラインを超えて世界が飽和状態になると、地球そのもから生み出されたかのごとく、突如として出現したとされる。
怪獣関係のレビューで幾度か言及しているが、この設定は平成の日本型怪獣のルーツというべき巴啓祐の傑作漫画「神の獣」のバリエーションと言えるだろう。
あの漫画の怪獣オーガと同じく、ガイア生命としての地球にとって害となった人類文明を根絶やしにするために、無数に現れた怪獣たちを、最後にまとめて滅ぼすための究極の装置がゴジラであり、そこにはもはや核のくびきすら無いのである。
アニメーションという技法を選択することで、実写シリーズ様々な縛りから解放された本作は、私たちが長年に渡って親しんで来たいわゆる“ゴジラ映画”ではなく、ゴジラをモチーフにして、バリバリのハードSFをやった作品。
なにしろ散々メカゴジラの存在を煽って、まさかの自己増殖する都市“メカゴジラ・シティ”という、キャラクター性すら捨て去った新形態を持ってくるとはさすがに予想できなかった。
原理主義的ゴジラファンには受け入れられない作品かもしれないが、「魔法少女まどか☆マギカ」で、ジャンルのイメージを根底から破壊し、我々にトラウマを植え付けた虚淵玄の面目躍如たる作品だ。
ちなみに街が人間を取り込んで、全てが一つの金属生命のパーツとして機能するという設定の元ネタは、諸星大二郎の短編「生物都市」じゃないかと思うのだが、どうなんだろう。
怪物と戦う者は、自分が怪物にならぬよう。
300メートルの巨体に2万年を超える寿命、もはや神に等しいゴジラを倒すことが出来るのは、人間を超えたものだけなのか。
人と街が融合したメカゴジラ・シティがゴジラを倒したとしても、それは果たして人間の勝利と言えるのだろうか。
人類と同盟を組む超精神文明エクシフと超物質文明ビルサルドの狭間で、ゴジラに対する強烈な憎しみに突き動かされる主人公のハルオは、そもそも人とは何か、人類の進むべき道はどこか葛藤する。
地球そのものの象徴たるアニメーション版ゴジラが体現するのは、オリジナル「ゴジラ」の核戦争の恐怖でも、「シン・ゴジラ」の3・11への後悔でもなく、現代日本の、いや日本人から見た全人類が抱える閉塞感と、この星の未来への漠然とした絶望感なのかも知れない。
しかし、ここまで大風呂敷を広げると、あと一本でちゃんと畳めるのか心配になっちゃうが、体から鱗粉を出す謎の種族フツアが唱える玉子のなんちゃらとか、エンドクレジット後のメトフィエスの言葉とかからすると、次回はアレとアレが出てきて大団円なのか?
まあ狙ってハズシを仕掛けてるから、予想もしないような話に持って行く気もするが。
今回は怪獣映画二本なので、コンパスボックス社のスコッチウィスキー「ピートモンスター」をチョイス。
2000年創業の比較的新しいブランドだが、すでに酒好きの世界では広く知られている。
ラベルに描かれたモンスターは怪獣映画というより「ダーク・クリスタル」あたりに出てきそう。
名前の通りスモーキーな味わいで、フルーティさとスパイシーさのバランスも良く、ウィスキー好きには広く好まれる味わいだと思う。
ピートの怪物が作る美味しいお酒だ。

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全編をiPhone5s+アナモフィックレンズで撮影した怪作、「タンジェリン」で話題をさらったショーン・ベイカー監督の最新作は、フロリダのディズニー・ワールド近くの安モーテルを舞台に、貧困層の長期滞在者たちの人間模様を、6歳の少女の視点から捉えたヒューマンドラマ。
主人公のムーニー役に本作で数々の賞に輝いたブルックリン・プリンス、母親のヘイリーを演じるブリア・ビネイトは監督自らInstagramで発掘したという。
子供たちを見守る管理人ボビー役を、ウィレム・デフォーが好演。
カラフルな夢なき夢の街の片隅に、爪に火を灯す様にして暮らす大人たちと、それでも元気いっぱいな子供たち。
米国社会の今を垣間見る傑作である。
6歳の少女ムーニー(ブルックリン・プリンス)は、20歳の母親のヘイリー(ブリア・ビネイト)と共に、ディズニー・ワールド近くのモーテル“マジック・キャッスル”で暮らしている。
定住する家の無い二人は、ここに長く滞在しているのだ。
大人たちは生活の困難に直面しているが、ムーニーは周囲のモーテルの子供たちと共に、悪戯三昧の愉快な毎日を過ごしている。
そんな子供たちを時に優しく、時に厳しく見守っているのが、モーテルの管理人のボビー(ウィレム・デフォー)。
貧しくも、長期滞在者同士とスタッフがお互いに助け合い、なんとか生活を成り立たせる日々。
ところが、あることを切っ掛けにして、ムーニーたちの日常に、さらなる暗雲が立ち込めてくるのだが・・・
“プロジェクト”という単語からは、“計画”をイメージする人が多いだろうが、この場合のプロジェクトは、“低所得者向けの公営住宅”を意味する。
舞台となるのは、陽光降り注ぐフロリダ州オーランド近郊。
ここは言わばアメリカのテーマパークのメッカで、ウォルト・ディズニー・ワールド・リゾートを構成するマジック・キングダム、エプコット、アニマル・キングダム、ハリウッド・スタジオの4大テーマパークの他、ユニバーサル・スタジオ・フロリダやシーワールド・オーランドなど、いくつもの巨大テーマパークが軒を連ねる魔法の国だ。
全世界から人々がやって来るこの町には、富裕層向けの高級リゾート・ホテルだけでなく、安価なモーテルが無数に林立している。
しかしながら、モーテルに泊まっているのは観光客だけとは限らない。
2008年のリーマンショックの時、サブプライム・ローンの支払いが出来なくなり、家を失った多くの貧困層の人々が、つかの間の住処をモーテルに求めた。
アパートや借家と違って、モーテルは事前に納めるセキュリティ・ディポジットが必要なく、長期滞在なら割引も効いたからだ。
家は無くとも住む所はいる。
日本で言えば、ちょうど都市のネットカフェ難民が、アメリカではモーテル難民に当たると思えば良いだろう。
引っ越しの時期が合わず、次の家が空くまでの間、モーテルに滞在する人も珍しくない。
実際私も、アメリカに住んでいた時に、引っ越しの合間に一月ほど泊まっていたことがある。
本作の舞台となるのは、宿泊者の大半が長期滞在の隠れホームレスとなったモーテル、その名も“マジック・キャッスル”だ。
実在するこのモーテルは、ディズニー・ワールドへ向かう国道192号線沿いに建つ、L字形の3階建の建物で、全体がド派手なパープルに塗られている。
ここの3階に住んでいるのが、主人公の6歳の少女ムーニーと、若いシングルマザーのヘイリー。
父親に関しては劇中で言及がないが、少なくとも今は交流していない様だ。
泊まっているのは皆似たような事情を抱えた長期滞在者だから、普通のモーテルとは違って、ここには滞在者たちのコミュニティが存在する。
母親同士はお互いに子供を預けたり、預かったり。
子供たちはモーテルの垣根を超えて、隣近所の別のモーテルの子供たちとも遊び仲間に。
限りなくドキュメンタリー的な子供たちの捉え方を含め、なんとなく是枝裕和作品、特にモチーフからはネグレクトを扱った「誰も知らない」を連想するが、ヘイリーとムーニーの母娘の関係はあの映画とは真逆。
20歳にして6歳の娘の母親、ヘイリーはどこからどう見ても良家のお嬢さんには見えない。
全身には幾つものバカでかいタトゥーが入り、口を開けば四文字言葉、当然学歴もなくまともな仕事に就けないので、同宿の友達に金を借りたり、高級リゾートの敷地で安物の香水を客に売りつけたりして日銭を稼ぐ。
そんな環境ゆえに、ムーニーもむっちゃ口の悪い、お世辞にも品が良いとは言えない子供に育ってしまっているのだが、ヘイリーはちゃんと娘に愛情を注いでいる。
明日をも知れない極貧生活のなか、子供たちの存在はたった一つ残された未来への希望。
それゆえに、このモーテルのシングルマザーたちが一番恐れているのは、児童保護局に目をつけられて、子供と引き離されることなのだ。
ショーン・ベイカーは、主にムーニーの視点から、マジック・キャッスルでの日常を淡々と描く。
この映画、主人公母娘を含めて、登場人物の背景が全く描かれないのが特徴で、観客もモーテルの一宿泊者となった感覚で、体験を共有する。
前半は特に、ドラマチックなことはほとんど起こらない。
しかし、ヘイリーとムーニーの置かれた状況は少しずつ、しかし確実に悪化してゆくのである。
先ずはヘイリーの知らないうちに起こったある事件を切っ掛けに、頼りにしていた友達との関係を切られる。
香水販売はリゾートの警備に見つかってしまい、生活保護は頼りにならない。
収入を絶たれたヘイリーは、ある日突然水着に着替え、キメキメの写真を何枚も撮る。
そして映画の後半になると、ムーニーが一人でお風呂に入っている描写が急に増えるのだ。
娘が一人でいる間、母親は一体何をしているのか。
貧しくても何とかなる、ずっと変わらないと思っていた日常は、実は人知れず崩壊に向かって進んでいる。
親がどんどんと追い詰められているのを、子供が知らないのが切ない。
まだ6歳のムーニーにとっては、モーテルの暮らしは全然辛いものではない。
友達も沢山いるし、お腹が空いたらボランティア組織が配給するパンを貰えばいい。
周りにはカラフルなお店や牧場だってあるし、打ち捨てられた廃墟を探検することだってできる。
子供目線では、この世界は楽しいことでいっぱいなのだ。
破滅が迫っているのに、大人の世界を知らないがゆえの無邪気さが生み出す、なんとも言えないもどかしさは、ちょっと「火垂るの墓」を思わせる。
そんな親子を見守る、管理人ボビーを演じるウィレム・デフォーが素晴らしい。
彼自身もモーテルの101号室に住み込みで働いているのだが、ムーニーたちの大人いじりに対応しつつも、過剰ないたずらにはきちんと怒り、モーテル内に不審者が侵入した時には子供たちを守るために毅然と行動する。
登場人物の中で、最も普通の生活を送っている人であり、子供たちに一定の愛情を注いでいるからこそ、ヘイリーの苦境を知りながら、何もできないでいる彼の感じるいらだたしさは、そのまま観客の感情でもある。
何処へも行けず、未来の展望も無い大人たちの閉塞と、ひどい環境でもどこまでも元気に無邪気な子供たちの日常が作り出す、悲喜劇のコントラスト。
すぐ近くに住んでいるのに、夢と魔法の国と現実世界との間には、限りなく高い塀があって、せめて境界のない空に打ち上げられる花火を眺めるしかない。
舞台となるモーテルをはじめ、国道192号線沿いに建つ、非現実的で安っぽい建物群が実にいいムードを醸し出す。
極彩色のパステルカラーで美しくも儚い世界を詩情豊かに写し撮った、アレクシス・サベのカメラが本作の白眉だ。
iPhone5sで撮影された「タンジェリン」のキーカラーは粒子の荒いオレンジだったが、35ミリで撮られた本作は深い奥行きのあるパープル。
だが、物語の終わりに、大人たちの現実が遂に子供たちの世界をも侵食しようとする時、子供たちのささやかな逃避行のシークエンスだけは再びのiPhone撮影。
現実ではありえない、しかし現実であってほしい。
そんな切なる願いを驚くべき形で具現化し、強烈なインパクトのある素晴らしいラストシークエンスだった。
今回は映画のイメージ同様パープルのカクテル「パープルタウン」をチョイス。
もともと八神純子の同名曲から生まれた一杯で、元の歌詞ではフロリダではなくニューヨーク。
氷を入れたグラスに、クレーム・ド・キョホウを30ml、カルピス15ml、適量の冷やしたソーダを注ぎビルドする。
フルーツとカルピスの酸味と甘みがバランスし、飲みやすい。
美しいパープルカラーで、目でも楽しめるカクテルだ。

![]() クレームド キョホウ (巨峰紫) 16度 700ml |


スキーリゾートを訪れたスウェーデン人家族の崩壊劇、「フレンチアルプスで起きたこと」で脚光を浴びた若き鬼才、リューベン・オストルンドの最新作は、第70回カンヌ国際映画祭で最高賞のパルム・ドールを受賞した異色の風刺劇だ。
クレス・バング演じる主人公のクリスティアンは、ストックホルムの現代美術館の主任キュレーター。
バツイチだが二人の娘がおり、社会性のある仕事をし、環境に優しい電気自動車に乗り、地位も名誉もあるダンディなミドルエイジ。
ある朝彼はスリに財布と携帯を取られるのだが、携帯の位置追跡機能を使って場所を特定。
ところが、そこは移民や低所得層の多い高層住宅で、どの部屋にあるのかまでは分からない。
そこでクリスティアンはお調子者の部下のアドバイスに従って、各戸に“脅迫状”を送ることにするのだ。
その甲斐があって、盗まれたものは戻ってくるのだが、脅迫状のせいで大迷惑を被った人物がいることを彼は知らない。
実は、クリスティアンの勤務する美術館は、次の展覧会で「ザ・スクエア」という作品を展示する計画を発表したばかり。
地面に描かれた正方形の中では「すべての人が平等の権利を持ち、公平に扱われる」という参加型の現在アートで、社会に蔓延る利己主義や富の格差に対して、問題意識を持って考えてもらおうと作品だ。
地味な現代アートの展覧会をPRするために、広告会社はあるアイディアを提示。
それは、あえて展示作品のテーマと正反対の内容の動画を流し、人々の関心を得ようとするある種の炎上商法。
クリスティアンは、さほど考えることなくOKしてしまうのだが、実際に流されたあまりに過激な動画は、炎上どころか文字通りの大爆発となってしまい、世論の沸騰はクリスティアンを追い込んでゆく。
マーフィーの法則通り、悪いことは続くもの。
脅迫状の“被害者”からの執拗な抗議を受け、展覧会のために開催したレセプションでは、サルのパフォーマンスをする“エイプマン”の男が暴走し、メチャクチャになってしまう。
仕事からプライベートまで、クリスティアンには様々な災難が降りかかるが、それらの間に直接的な関連はない。
しかし物語を通して、彼は自分自身が何者なのかを知ってゆく。
「すべての人が平等の権利を持ち、公平に扱われる」というザ・スクエアのテーマは、ある意味社会の一般常識で、ほとんど人が「そんなのは当たり前」だと感じ、自らもその常識を実践していると思うだろう。
だがしかし、本当にそうだろうか?
社会的弱者との連携をうたいながら、クリスティアンは移民や低所得に無意識の嫌悪と差別感情を抱いている。
だからこそ、全員を泥棒扱いして脅迫状を送るという、冷静に考えればありえない行動を実行に移してしまうのである。
自他共に認める常識人であり、良心的な人物。
それで、その内に隠された本性は?というのはオストルンド監督の前作、「フレンチアルプスで起きたこと」と基本的には同じだ。
けれど、スキー場の雪崩という非日常から始まるあの作品より、日常的なシチュエーションからのアプローチになっている分、エクスキューズできる余地が少ない。
“どこにでもいる良い人”が、認めたくない自分に気付いてゆくプロセスは、クリスティアンと同じように、無意識に本音と建前を使い分けながら現代社会を生きている私たちにとって、少なからず身に覚えのある話だろう。
彼の身に降りかかる青天の霹靂ともいうべき困難は、人はどこまで寛容になれるのか?いや、どこまで寛容であるべきなのか?という観客への問いかけであり、私たちもまた試されているのである。
それゆえに、私たちはいつの間にかクリスティアンに対しどっぷりと感情移入し、まるで自分自身に起こったことのように、身につまされた気分になる。
相変わらず、どこまでが真面目でどこからがジョークだかよく分からない、北欧流ブラックユーモアが良いスパイスだ。
今回は、いろんな意味でもの凄くサムイ話なので、スウェーデンが生んだ代表的なウォッカの銘柄、「アブソルート」をチョイス。
シャープでクリア、それでいてマイルドな味わいは、ラルス・オルソン・スミスが19世紀末に創業して以来、改良を繰り返して作り上げられた。
シャーベット状になるまで冷凍庫でキンキンに冷やし、ショットグラスでクイッと一気に。
冷たいのだけど、しばらくすると今度は腹の底から火照ってくる。
関係ないけど、カンヌでパルム・ドール取った時の監督の絶叫っぷりが、エイプマンっぽくて噴いた。

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一生忘れられない、青春のイニシエーションとしてのファースト・ラブストーリー。
ネットもスマホも無い、1983年の北イタリア。
夏の間この地の別荘で過ごす、17歳の少年エリオ・パールマンは、大学教授の父が招いたアメリカ人大学院生、オリヴァーと出会い、恋に落ちる。
原作はアンドレ・アシマンの同名小説。
「胸騒ぎのシチリア」などで知られるイタリアのルカ・グァダニーノが監督を務め、2009年の「最終目的地」以来、久びさに表舞台に登場した巨匠ジェームズ・アイヴォリーが脚色を担当し、本年度アカデミー脚色賞を受賞している。
エリオはアメリカの大学でギリシャ・ローマ考古学を教える父と、マルチリンガルの母の元に育ち、自らも複数の言語を流暢に話す。
ピアノを弾きこなし、読書と音楽の編曲が趣味という、年齢の割に知性豊かで成熟した少年だ。
父は毎年、教え子の中から一人をアシスタントとして別荘に招待していて、今年やって来たのがハンサムで逞しい肉体と優秀な頭脳を持つオリヴァー。
物語は淡々と進み、何か決定的にドラマチックなことが起こるわけではない。
出会ってすぐの頃は、あまりにも完全無欠なエリート然としたオリヴァーを、むしろ疎ましく思っていたエリオは、彼との時間を長く過ごすうちになんとなく惹かれあう。
そして、だんだんと距離を縮めた二人は、ある時点ではっきりとロマンスが始まってることを自覚するのである。
なぜ?という野暮な説明は要らない。
恋とはそういうものだし、これはナチュラルな感情を描く直感的な映画なのだ。
しかもこれは、エリオにとって本当の意味での初めてのロマンス。
エリオもオリヴァーも、基本的にはバイセクシャル。
オリヴァーへの想いと、初体験の相手となる幼馴染の女の子との間で揺れ動いたり、思春期の葛藤と未知の経験への好奇心と動揺がエリオを突き動かす。
陽光降り注ぐ北イタリアの別荘という、美しく非日常性のあるロケーションがいい。
石畳とレンガの町、薄日が差し込む古い屋敷の屋根裏、二人だけが知る秘密の川岸、まるでヨーロッパの古典映画のような空気感が、少年の恋の冒険をムーディーに演出する。
マーケットの要求でもあったようだが、グァダニーノは、男性同士のセックスシーンを直接的に描写することは極力避け、その分二人の恋のときめきと痛みを繊細に描き出す。
それはまるで、遠い昔の霞みがかった記憶の中の、初恋のアルバムをめくるような気恥ずかしさを感じさせ、観客のノスタルジーを刺激する。
初めて結ばれた時、オリヴァーはエリオに「君の名前で僕を呼んで」と言う。
恋の溶鉱炉の中で肉体と心が溶け合い、エリオはオリヴァーであり、オリヴァーはエリオの一部になるが、夏の終わりと共にそんな奇跡の時は過去へと過ぎ去り、エリオは自らの一部であったオリヴァーを失う。
まだ若い二人は、もしかしたら再会するのかもしれないし、また愛し合うのかもしれない。
しかし、人生を変える1983年の鮮烈な夏の日々は、永遠に戻らないのである。
主人公エリオの大胆かつナイーブな内面を、ティモシー・シャラメが丁寧に演じて圧巻の素晴らしさ。
劇中にエリオが果物を使ってマスターベーションするシーンがあるが、彼は今まさに熟さんとしている美しい果実だ。
少年から大人の男へと変貌し始める17歳という季節を、時にゾクッとするほど艶っぽく表現した。
そして、彼の気持ちを受け止めるオリヴァーを演じるアーミー・ハマーは、実際に米国エスタブリッシュメントの生まれ。
エリートキャラクターが出来過ぎていて、主役よりむしろ二番手での好演が多い人だが、今回は従来のイメージの“裏側”を上手く使って新境地を開拓したと思う。
基本的に本作は、思春期のエリオの静かに燃え上がる恋を描いたファースト・ラブストーリーだが、息子の成長を陰ながら見守る両親、特に父のパールマン教授との関係もユニークだ。
オリヴァーとの旅から戻ったエリオと、彼の一夏の経験の尊さを語るシーンは本編の白眉と言える。
マイケル・スタールバーグは、80年代の時点で同性愛を特別視せず、性別を問わない愛の本質を尊重するという、なかなかいないタイプの父親像を、説得力たっぷりに表現していた。
深みのある多面性を持つ、青春映画の秀作だ。
今回は甘酸っぱい初恋の味、イタリアを代表するレモンリキュール「リモンチェッロ」をチョイス。
北部ではなく、レモンの産地として知られるカンパーニア州を中心に広まった。
もともとは各家庭で作られていたもので、レモンの果皮を蒸留酒に漬け込み、砂糖と水を加えて一ヶ月程度置く。
腸の運動を促す作用があるので、主に食後酒として飲まれてきたもの。
キンキンに冷やして、キュッとストレートで飲むのがおススメ。

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5億人の友だちを持つ世界最大のSNSの創業者、メジャーリーグにセイバーメトリックスを定着させた名GM、魅惑的なコンピュータとスマートフォンによって世界を永遠に変えた男。
実在の社会的成功者の“ビハインド・ザ・シーン”を味わい深く描いてきた名脚本家、アーロン・ソーキンの監督デビュー作は、モリー・ブルームの半生を描くスリリングな人間ドラマ。
殆どの人は「モリー・ブルームって誰?」と思うだろう。
ソーキンが描いてきた傑物たちに比べると知名度は低いが、ジェシカ・チャステインが演じるタイトルロールがすごく魅力的。
全米3位のモーグル選手、オリンピック候補のトップアスリートから、ハリウッドスターや各界の著名人が集うポーカー・ルームのカリスマ経営者へと華麗なる転身。
そして突然の逮捕と裁判。
その時、彼女は何を求め、何を守っていたのだろうか。
ソーキン先生、56歳にして初メガホンを取った渾身の作は、さすがの面白さだ。
✳︎核心部分に触れています。
ソルトレイク五輪を目指すモーグル選手、モリー・ブルーム(ジェシカ・チャステイン)のアスリート人生は、コースに突き出していた凍った松の小枝によって終わった。
ロースクールを目指していた彼女は、入学前に一年の休養をとり、カリフォルニアを訪れる。
ハリウッドのクラブで働き始めたモリーは、店の常連客のディーン・キース(ジェレミー・ストロング)にスカウトされ、彼が主宰するポーカー・ルームのアシスタントの仕事を始める。
毎週火曜日、コブラという店で開催されるゲームは、参加費一人1万ドル。
ポーカーの名手にしてハリウッドスター、プレイヤーX(マイケル・セラ)に主導されたゲームに参加するのは、映画監督、プロボクサー、大物実業家などで、巨額の掛け金が動く。
数年後、ディーンと対立し、クビを言い渡されたモリーは、密かに練っていた計画を実行に移す。
その日、モリーは顧客リストに一斉にメールを送る。
「今夜から、フォーシーズンズホテル1401号室に変更」
彼女は、ディーンの顧客を全員奪って、「モリーズ・ルーム」のオープンを告げたのだった・・・
若き女傑モリー・ブルーム、この人とにかく打たれ強く不屈。
ソーキンは、彼女がアスリート生命を絶たれた事故を起点に、現在と過去を交錯させ人物像に迫ってゆく。
彼女は、オリンピックの代表選考レースでの怪我から回復すると、2002年に休養のためにロサンゼルスへと移り、ひょんなことからギャンブルの世界に足を踏み入れ、ポーカー・ルームのノウハウを学ぶと、2005年にはボスを出し抜いて自身の店をオープンする。
ここまでは、典型的なサクセスストーリー。
ところが、2014年の現在では、彼女はFBIに逮捕され、裁判を控えている。
イドリス・エルバ演じるヤメ検敏腕弁護士チャーリー・ジャフィーに弁護を依頼するも、潔癖な倫理観を持つジャフィーは、裏社会との繋がりが噂されるモリーの頼みを、そう簡単には受けてくれない。
映画は、2014年の裁判劇を物語の基軸とし、2002年から現在に至るモリーの過去との間を頻繁に行き来し、この頭脳明晰にして野心家、とてもユニークな彼女の内面にあるものを、少しずつ明らかにしてゆく。
この物語の構造は、ソーキンがアカデミー脚色賞を得た「ソーシャル・ネットワーク」と基本的には同じだ。
あの作品では、フェイスブックが大成功を遂げた後に起こされた二件の訴訟の顛末と、マーク・ザッカーバーグが、ハーバードの学生寮で“ザ・フェイススブック”を起業してから、どの様に成功して行ったのかという物語が、時系列を行きつ戻りつしながら並行して語られてゆく。
その過程で、天才ザッカーバーグの孤独な内面がクローズアップされ、彼が“本当に欲しかったもの”が明らかになってくる。
モリーは本作の冒頭時点で、ソルトレイク五輪で金メダルを取り、ロースクールを卒業して起業するという人生の青写真を描いている。
この夢はたった一本の小枝によって阻まれる訳だが、だからと言って彼女の並外れた能力が失われた訳ではない。
鍛え抜かれた肉体に優秀な頭脳を持ち、望めば何者にもなれたはずのモリーは、なぜ最初の志望とは正反対の道に進み、逮捕されたのか。
ポーカー・ルームが利益を生む仕組みはこうだ。
選び抜かれた顧客の一人1万ドルという高額の参加費に加えて、勝負に負けた参加者へ店が当面の金を貸す。
大金持ちばかりのゲームゆえに、掛け金も巨額となり、負けが続くとあっという間に数十万、数百万ドルの債権となる。
ポイントは、ポーカー・ルームを主催すること自体には、違法性が無いということ。
では、FBIがモリーを逮捕した理由は何か。
貸出し金額が大きくなると、当然中には返せない客も出てくる訳で、不良債権化する可能性が大きくなる。
そこでモリーはリスクを軽減するために、手数料を取ることにするのだが、この手数料が違法だったのだ。
しかし、FBIの真の目的は、ポーカー・ルームの僅かな手数料ではない。
現在において、真に金を生み出す資産は情報。
彼らの真の狙いは、ハリウッドスターからロシアマフィアまで、モリーの握る膨大な顧客情報なのである。
著名人の秘密を握るモリーは、この時点で宝くじの当り券を握っているようなもので、誰もがそれを欲しがっている。
このためにFBIは彼女を微罪で逮捕し、全財産を没収して追い込み、司法取引しようと画策するのだ。
しかし、彼女は決して当たり券を換金しようとしない。
モリーの弁護を受けることを躊躇するジャフィーは、ある疑問を彼女にぶつける。
それは「なぜ最初に逮捕された時に、客の債権を売らなかったのか?」ということ。
彼女は、「客たちが暴力的な取り立てにあうことを恐れた」と答える。
自分の不利益を承知で、客を守ろうとするモリーの優しさと心意気に打たれたジャフィーは、彼女の弁護を引き受けるのだが、このエピソードが象徴する様に、モリーの客に対するスタンスが彼女の内面を紐解く鍵となる。
ポーカー・ルームの客たちは、モリーにとってネギを背負ってやって来るカモなのだが、彼女は同時に親身に彼らの悩みを聞き、時には人生を決定的破滅から救う。
悪魔のように金を使わせ、母のように庇護する。
一見矛盾するモリーのメンタルの根底には、彼女を育て上げた父親との確執がある。
ケヴィン・コスナーが好演する、星一徹タイプの父親に幼い頃から愛情と反発を感じていた彼女は、金と力を持つ男たちをポーカー・ルームで支配することで、父親との関係を反転させていたのである。
この辺り「スティーブ・ジョブズ」「マネーボール」両作品の主人公と娘、「ソーシャル・ネットワーク」のザッカーバーグと元カノの関係を思わせる。
僅かな違法行為はあったものの、コツコツ作った財産を一瞬で失い、国家権力からの理不尽な圧力に翻弄されるモリーを見ていると、だんだん感情移入して応援したくなって来る。
過去の物語を通して、彼女の人となりを知り、決して順風満帆とは言えない人生の苦楽を見たからこそ、圧倒的に不利な裁判劇はスリリング。
劇中でも、ジャフィーの娘がモリーの本を読んで彼女のファンになる描写があるが、何度も打たれても、失敗しても、奪われても、決して諦めずに再起を図るモリーの姿は、ガラスの天井に挑む無数の女性たちへの力強いエールだ。
これはいかにもアーロン・ソーキンらしい、何かを成し遂げて何かを失った傑物を描く、一連の作品に連なる骨太のヒューマンドラマ。
過去の作品で描かれた男たちは、映画になった時点で既に最大の成功を掴んでいたが、モリー・ブルームの人生は、今はどん底。
彼女が、これからどうなってゆくのか、現実のドラマを追いかけたくなる。
ただし、凡百の新人監督の水準を遥かに上回り、老練さすら感じさせるものの、映画監督としてのソーキンは、デヴィッド・フィンチャーやダニー・ボイル、ベネット・ミラーといった、自作を映像化した名匠たちのレベルにはさすがに達していない。
本作では「ソーシャル・ネットワーク」の構造を踏襲していることを見ても、あえて冒険は避けて無難にまとめようとしている感は否めないのだ。
十分に面白い物語を語ってはいるが、独自の映像言語で行間の詩を紡ぐまでは出来ていないのである。
逆に言えば、ソーキンが監督業を続けて、自分のカラーを生み出した時はとんでもない傑作が生まれる予感がしているのだが。
ちなみに、本作はポーカーを知らなくても楽しめるが、劇中に幾度か白熱するゲームの描写があるので、基本的なルールや用語をざっくりと予習しておくとベターだと思う。
今回は、映画を観た人には分かる「アップルティーニ」をチョイス。
定番化したレシピはなく、一般的にはウォッカかジンとアップ系のジュース、ソーダ、リキュールなどを材料によってステア、またはシェイクしてグラスに注ぐ。
マイレシピは、ウォッカ45ml、アップルリキュール20ml、アップルジュース20ml、レモンジュース10mlを氷と共にシェイク。
90年代後半から人気を博したフルール系マティーニの一種で、「ソーシャル・ネットワーク」でも、Napster創業者のショーン・パーカーとザッカーバーグ、エドアルド・サベリンとその彼女との会合シーンに登場している。
セレブを気取って飲むカクテルみたいな位置付けだったので、今回のアップルティーニはソーキンのセルフパロディっぽい。
現実のザッカーバーグは、「映画を観る前にはアップルティーニなんて聞いたことがなかった」そうだけど。

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