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ショートレビュー「ジュラシック・ワールド/炎の王国・・・・・評価額1500円」
2018年07月29日 (日) | 編集 |
王国が、燃え尽きる。

2015年に14年ぶりにリブートされた、「ジュラシック・ワールド」に続く新三部作の第二作
映画史に革命をもたらした「ジュラシック・パーク」が、いわばオーランドにあるオリジナル・ディズニーランドだとすれば、前作はタイトル通りにフロリダのディズニー・ワールドだった。
第1作をベンチマークして、構成要素をトレースしながら、できるだけ派手に拡大改良したバージョンと言っていい。
その試みは、半分成功して半分失敗していたと思う。
現在の映像テクノロジーで蘇った恐竜の島は、人間・恐竜共に多様化したキャラクターと見せ場のつるべ打ちによって、夏休みのお祭り映画としてまことに相応しいものになっていた。
一方で監督・脚本を任されたコリン・トレボロウの手腕は、スティーヴン・スピルバーグ&マイケル・クライトンのコンビと比べてしまうとやはり数段落ちると言わざるを得ず。
色々な新機軸は良いとしても、いきなり現場責任者が職場放棄したり、プロットに荒っぽさが目立ち、マップの使い方が下手で、位置関係が全然描けていないものもサスペンスをスポイル。
売り物の恐竜の描写も、大きくパワフルにはなったものの、シリーズものの既視感を超えることは出来なかった。

今回、監督はトロボロウからJ・A・バヨナにバトンタッチしているが、トレボロウは三部作を通して脚本を担当しているのでテイスト的にはそれほど変わらない、というかディテールが荒っぽい欠点もそのままだ。
前作は第1作のリメイク的リブートだったが、今回は律儀に第2作「ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク」の焼き直しをやってきた。
噴火する島からの恐竜救出ミッションは、スリリングだが前半で早々に終わり、後半はパークの生みの親であるジョン・ハモンドの親友で、協力者だったベンジャミン・ロックウッドの秘密基地みたいな大邸宅を舞台としたアニマルパニック編。
前半と後半が全く異なるジャンルとなるのだが、バヨナの演出は悪くない。
島を脱出する船から、噴煙に包まれ消えてゆくブラキオサウルスの最期を見届ける悲痛な描写は本作の白眉だし、後半のロックウッドの孫娘を軸にしたサスペンスは、「永遠のこどもたち」や「怪物はささやく」など、ジュブナイルを得意とするバヨナの面目躍如。
全体に、アメリカでの酷評ほどには悪くなく、むしろテリングの下手さが目立った前作より、無邪気なB級感覚全開で楽しかった。

もっとも、物語にはやはり相当に無理がある。
ロックウッドの部下が恐竜を売りさばこうとするのは、現実の希少動物の密売などを比喩してるんだろうけど、さすがに恐竜は目立ちすぎてバレるだろう。
一作目から登場のマッドサイエンティスト、ウー博士の“生物兵器”インドミナス・ラプトル計画に至っては、いくらなんでも荒唐無稽すぎる上に、元々のコンセプトから離れすぎではないか。
前作のインドミナス・レックスもそうだったけれど、本作のボスキャラであるインドミナス・ラプトルも、純粋な恐竜じゃないという点で、もはやエイリアンでも怪物でも何に置き換えてもプロットは成立してしまう。
だから、もうこれはガワを似せているだけで、恐竜時代への冒険にワクワクしっぱなしだったオリジナルとは似て非なるものなのだ。
25年前「ジュラシック・パーク」を初日に米国の映画館で観た時、サム・ニールとローラ・ダーンが始めて恐竜を見るシーンで、劇場が「オー!」という歓声に包まれたのを昨日のことのように覚えている。
あの時は、まさに登場人物の驚きが完全に観客とシンクロしてたが、CGが当たり前の表現になった現在で、あの感覚を再び味わいたいというのは無い物ねだりだろうけど。

ジェフ・ゴールドブラム演じるマルコム博士の言う通り、これはテクノロジーというか、人間の欲望の暴走が“パーク”のレベルから“ワールド”に拡大する話。
その意味では、稀代のストーリーテラー、マイケル・クライトンの作り上げたテーマを引き継いではいるのだが、彼の作った世界観から出られないのがシリーズの宿命で限界か。
リブート版「猿の惑星」シリーズくらい振り切れば面白いのだけど、今回の恐竜たちが逃げ延びたとしても、たったあれだけでは最小存続可能個体数に遠く届かないので、再絶滅は確実。
隠し球的な裏設定がない限り、「恐竜の惑星」にはなりそうもない。
まあシチュエーションの自由度という意味では、次はなんでもアリになった訳で、「三部作の最後は一体どう収拾つけるのか?」という興味は尽きないけど。
エンドクレジット後の映像は、恐竜SFの元祖であるコナン・ドイルの「ロスト・ワールド」へのオマージュなのは明らかだが、世界のミニチュアともいうべき“あの街”に降り立ったのはなんだか意味深だな。

今回は火山の噴火から始まる話なので「ボルケーノ」をチョイス。
冷やしたラズベリー・リキュール25ml、ブルー・キュラソー25ml、シャンパン適量をフルート型シャンパングラスに注ぎ、オレンジピールを飾って完成。
ラズベリーの爽やかな香り、深海を思わせるダークブルーが美しい。
フルーティーで適度な甘みがあり、とても飲みやすいカクテルだ。

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ショートレビュー「私の人生なのに・・・・・評価額1600円」
2018年07月26日 (木) | 編集 |
ギターで紡ぐ、新しい私。

なかなか素敵な小品。
知英演じる将来を嘱望されている新体操のスター選手・瑞穂が、練習中に脊髄梗塞という病に倒れ下半身麻痺に。
青春の全てをかけた競技人生を絶たれ、一時は死を望むほど自暴自棄となった彼女の、再生の軌跡を描く物語だ。
実話ベースなのかな?と思わせる話だが、原作は清智英原作・東きゆう著のライトノベルだとか。
両親の愛情の支えもあり、大学への復学も果たし、競技自体には戻れないものの、トレーナーの誉田には指導者への転身を勧められている。
瑞穂もなんとか前を向こうとするのだが、やはり以前の自分とは違うという意識から、壁を作ってしまうのだ。

そんな彼女の前に、幼馴染でストリートミュージシャンの淳之介がふらりと現れる。
週刊誌の記事で彼女が倒れたことを知ったという彼は、数年ぶりに会った瑞穂を何の脈略もなく「一緒に歌おう!」と誘うのだ。
突然のことに戸惑う瑞穂に、淳之介は「だって楽しかっただろ?」と屈託なく笑う。
どうやら二人は中学の頃に一緒に歌ったことがあり、その時に彼女がとても楽しそうだったので、苦境から救うために誘いに来たらしい。
瑞穂からしたら、とっくに忘れていた思い出を引っ張り出す淳之介に反発しつつも、少しずつ心を動かされてゆく。

真っ直ぐな眼差しをした、二人のキャラクターがとても良い。
中学の頃に引っ越していった淳之介は、実は天涯孤独の身。
母親は出て行き、借金を抱えた父親も、息子に心中を迫った後にどこかへと失踪。
以来、ネットカフェに寝泊まりし日雇いの仕事をしながら、音楽を奏でることを生きがいに、ずっと一人で生きてきた。
一見対照的に見えて、その実心と体の違いはあれど、大き過ぎる傷を抱え、死を意識したことのある似た者同士。
「車椅子なのに『走れ、走れ』なんて歌えない」という瑞穂に、淳之介が子供やおばあちゃんたちの前で何度も彼女を走らせ、「あれ、何やってる?」と聞いてギャラリーから「走る」という言葉を引き出し、壁のブレイクスルーのきっかけになるところはとても映画的で素晴らしい。
台詞は必要最小限、可能な限り状況や心情を映像で語ろうとする原桂之介監督の意識は好印象だ。

露骨に瑞穂への恋心を隠さない誉田を含めて、基本的に良い人しか出てこないのだが、それぞれの善意のエクスプレッションは異なる。
それが瑞穂の心の中で咀嚼されて、彼女のリアクションとなりドラマを前に進める構造。
人生は色々失っていって苦しかったりするけれど、たまには楽しいこともある
優しく背中を押してくれる、気持ちの良い佳作だ。

しかし知英は竹中直人との入れ替わりコメディ「レオン」の時も素晴らしかったが、進化が止まらないな。
原監督はオムニバス映画、「全員、片思い」中の「片思いスパイラル」というエピソードで、心は男、体は女のトランスジェンダーの韓国人留学生役で彼女を起用していたが、今回は日本人設定だ。
日本語ネイティブでない外国出身で、ここまでナチュラルに日本語を使いこなした役者がいただろうか。
言葉の壁を乗り越えた先の演技者としてもとても端正で、海外移民経験者としては、この人にはリスペクトしかない。
淳之介役の稲葉友は、仮面ライダー以外で初めて見た気がするけど、この役は絶妙にフィットしていた。

この映画の二人は、音楽という人生を照らす新たな光に出会った訳だが、爽やかな映画に合わせてノンアル・カクテルの「サマー・ディライト」をチョイス。
ライム・ジュース30ml、グレナデン・シロップ15ml、シュガー・シロップ2tspをシェイクし、氷を入れたゴブレットに注ぎ、ソーダで満たす。
赤みがかったピンクは目に優しい乙女な雰囲気。
さっぱりとした喉ごしが、暑さを紛らわせてくれる。

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未来のミライ・・・・・評価額1700円
2018年07月21日 (土) | 編集 |
未来のために、過去と逢う。

予告編を何度見ても、どんな話なのかサッパリ分からなかったが、なるほどコレはネタバレせずに全体をイメージさせるのは難しい。
「サマーウォーズ」以来、“家族”をモチーフとしたアニメーション映画を作り続けてきた細田守監督の最新作は、甘えん坊の4歳児くんちゃんと未来からやってきた妹のミライちゃんが、秘められた家族の歴史を巡るファンタジー。
ただし、過去の細田作品のように、エンターテイメント性に富んだドラマチックな活劇を期待すると、思わぬ肩透かしを食らうかもしれない。
これは一軒の家の中庭で展開する、ある意味もの凄く私小説的な物語であり、4歳児の視点で見た小さくて大きな世界を、アニメーション手法を駆使して作ったクロニクル的細田家のホームビデオとも言える。
賛否両論ありそうだが、少なくとも他に似た作品を思いつかない、極めて独創的かつ冒険的な作品だ。
※核心部分に触れています。

4歳のくんちゃん(上白石萌歌)の家に、生まれたばかりの妹・ミライちゃんがやって来る。
おとうさん(星野源)とおかあさん(麻生久美子)は、ミライちゃんの世話にかかりっきりとなり、それまで二人の愛情を一身に受けていたくんちゃんは激しく嫉妬。
ミライちゃんをイジメる意地悪なお兄ちゃんになってしまう。
そんなある日、中庭で遊んでいたくんちゃんの前に、突然中学生になった未来のミライちゃん(黒木華)が現れる。
飼い犬のゆっこ(吉原光夫)もなぜか人間の姿となり、くんちゃんはミライちゃんに導かれるように、家族の過去と未来を巡る冒険の旅に出る・・・・


私の一番古い記憶は、1歳7ヶ月の時のもの。
ベビーベッドで天井のガラガラを眺めていると、父が私を抱き上げてベッドから出し、代わりに母が見たことのない赤ん坊をベッドに寝かせたのだ。
「え、そこは僕のベッドだよ。君はだれ??」
この記憶が本物かどうかは分からないが、妹が生まれて母と共に家に帰ってきた日の記憶だと思っている。

かように、新しい家族の出現というのは幼心には大事件なのだが、本作の主人公・くんちゃんは、私よりも少し年長の4歳で妹のミライちゃんと出会う。
「おおかみこどもの雨と雪」の時は細田監督にはまだ子供がおらず、「憧れで描いた」そうだが、あちらが多分に理想化された子育てだとすれば、こちらはリアリティたっぷりだ。
くんちゃんの元へ未来のミライちゃんがやって来るというアイディアは、監督の息子さんが「(夢の中で)大きくなった妹と逢ったよ」と語ったことから発想したそう。
私は細田守という映画作家は、本来職人的エンタメの人ではないと思っている。
出世作の「時をかける少女」は原作付きだったが、以降はずっとオリジナル。
自分が結婚して家族が増えると、大家族の奮闘を描く「サマーウォーズ」を、子供が欲しい時期になると「おおかみこどもの雨と雪」を、実際に子供ができたら、父性に葛藤する「バケモノの子」を作り、兄妹の父となり、ある程度実際の子育てを経験すると本作を発想する。
今、自分が感じていること、経験していることからのみ物語を紡ぎ出す、典型的な私小説作家だ。

ただ、圧倒的に高い演出力を持ち、職人的な仕事もできてしまうのと、「おおかみこどもの雨と雪」までは、名脚本家の奥寺佐渡子と組んでいたことで、世間からある程度作家性を誤解されているのではないかと思う。
ポスト宮崎なんて一部では言われているが、共通するのは演出力と物語の構成が不得手なところくらいだろう。
単独脚本の一本目となった「バケモノの子」では、後半複雑なプロットをまとめられず、ロジックが破綻してしまっていた。
今回は、ロジカルな説明要素をはじめから放棄し、くんちゃんに起こる“不思議”に明確な解を用意しなかったのは正解だと思う。
一応、未来のミライちゃんによれば、中庭の樫の木が家族の過去現在未来につながるタイムマシンのようなものらしいが、この映画のファンタジー部分は、そもそもくんちゃんを成長させるための装置に過ぎないので、ぶっちゃけこれが現実か幻想かはどうでもいいのである。

それにしても、4歳の男の子の視点で映画を丸ごと語るのは、かなり冒険だ。
一歳年上のクレヨンしんちゃんという先輩はいるが、あれは相当カリカチュアされた存在で、本作のようなリアリズムを前提としたキャラクターではない。
くんちゃんの視点で描いたため、映画の舞台は基本的には建築士のおとうさんが設計した、“世界”そのものであるユニークな構造の家の中と樫の木の中庭だけで、すべてのファンタジー・シークエンスはここを起点として描かれる。
細田監督の特徴的なスタイルに、引いた定点的同ポジの多用があるが、これも本作では幼児の見ている限定された世界を強調する。
登場人物の固有名詞も、劇中で命名される「ミライ(未来)ちゃん」と犬の「ゆっこ」以外は不明なまま。
家族は、一緒に暮している「おとうさん」「おかあさん」、たまにやってくる「ばあば」「じいじ」に、会話の中で登場する「ひいばあちゃん」「ひいじいちゃん」の四世代。
確かに自分が4歳の頃って、家族の正確な名前は知らなかった気がする。
もう少し大きくなって、幼稚園の年長組か小学校入学あたりで、親の名前を呼ばれたり、書いたりするようになり、ようやく親にも「おとうさん」「おかあさん」以外の名前があるんだということを認識するのだろう。

4歳児の世界は、名前一つとっても極めて小さくて限定的だが、本作は中庭で起こる不思議な現象によって、現実のくびきを超え現在過去未来を駆け巡るという壮大な世界観を構築している。
先ずはミライちゃんが生まれることによって、くんちゃんの知っている世界が変化すると、彼が生まれる前におとうさんとおかあさんの愛を独占していた犬のゆっこが人間の姿になり、くんちゃんの感じている感情が「嫉妬」であることを教える。
そして未来のミライちゃんが登場すると、そこからおかあさんが4歳児だった過去の時代へ、さらに戦争を生き抜いたひいじいちゃんの青春時代へ。
一人の人間の中には、それまで延々と受け継がれてきた家族の歴史がある。
いつもくんちゃんを叱るしっかり者のおかあさんにも、実はくんちゃんととても似たところがあり、ひいじいちゃんとひいばあちゃんは困難な時代に必死に命をつないでくれた。
まだ自我が固まっていないくんちゃんは、自分がひいじいちゃん、ひいばあちゃん、ばあば、じいじ、そしておとうさんとおかあさんの様々な選択の結果、存在していることを、ぼんやりとだが初めて理解する。
そして、自分が何者なのかを知るために未来へ。

当然ながら視点が4歳児だからと言って、子供向けという訳ではなく、むしろ実際の4歳児あるあるをよく知る子育て中、あるいは子育て後の親世代が一番楽しめる客層だと思う。
また子供がいなくても、誰もが一度は4歳児だったことがある訳で、ある程度自分の幼少期の記憶を持つ者、親の子育てを見てきた者なら誰もが感情移入できるようになっている。
ビビリなもので、さすがに新幹線でぶったりはしなかったが、くんちゃんのミライちゃんへの意地悪の数々は完全に身に覚えがあるので、今更ながらちょっと反省。
独り者の私が観ても、「ちょっと子供欲しいなあ」と思うくらいだから、若い夫婦やカップルが観ると、少子高齢化対策にもなったりするのかもしれない?

これは妹の誕生という未知の体験をきっかけに、自分が何者なのかを始めて意識する、くんちゃんの成長物語であると同時に、作者の反映であるおとうさん、おかあさんの“気づき”の物語。
さらには、「デジモンアドベンチャー」から「バケモノの子」までの、アニメーション作家・細田守の歴史も内包する集大成だ。
今回は職人的に“上手い”映画じゃないし、過去の細田作品と比べると娯楽性も高いとは言えない。
しかし、今現在作者が何を想い、何を描きたいのかはすごく伝わってくる、最高の作家映画だ。
細田監督には、彼にしか作れないこの路線を突き詰めて欲しい。
もちろん、再び相性抜群の奥寺佐渡子と組んで、エンタメ大作を作っても良いと思うけど。

今回は細田監督の故郷で、「おおかみこどもの雨と雪」の舞台となった富山の地酒、清都酒造場の「勝駒 純米」をチョイス。
ふくよかで上品な口当たりに、やや辛口でスッキリとした喉越し、適度な酸味のバランスが良いフルボディの酒。
蔵の規模が小さいこともあり、名声が高まる近年ではだんだん入手困難になりつつある。
映画同様に作り手の作家性が非常に強い酒だ。

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ショートレビュー「REVENGE リベンジ・・・・・評価額1600円」
2018年07月20日 (金) | 編集 |
皆殺しのエンジェル。

ドストレートなタイトルのまんま
砂漠の真ん中にある別荘で彼氏の友達のおっさんにレイプされた挙句、彼氏にも裏切られて殺されそうになった、マチルダ・ルッツ演じる主人公・ジェニファーの復讐劇。
荒涼としたロケーションから、てっきりアメリカ映画かと思っていたら、フランス映画だった。
ただし、セレブな彼氏のリチャードと二人の狩猟友達はフランス語話者で、彼女との会話は英語という設定。


自らをジャンル映画好きと語る新人の女性監督コラリー・ファルジャは、 最大限の屈辱と身体的な傷を負った主人公の復讐を、外連味たっぷりのビジュアルで描く。
ぶっちゃけプロットはありきたりだが、テリングのスタイルにすごく特徴的なクセがあるのだ。
安っぽい音楽に、レイプ男を爬虫類に見立てる様なシャレード表現も、どこか70年代プログラムピクチュア風で、血糊の量も半端ない。
明らかに狙ってB級テイストで作っているから、もろもろぶっ飛んだディテールも突っ込みは無しで。

野獣と化した三人の男たちに追われたジェニファーは、口封じのために崖から突き落とされ、あろうことか枯れ木に突き刺さってしまう。
これで生きているのも相当に無理があるが、一応刺さったおかげで地面への直撃は避けられ、うまい具合に重要な臓器にはダメージを受けなかったと考えればまあ何とか納得はできる。
その状況から、これまた強引な方法で脱出すると、いよいよとどめを刺そうとする男たちとのバトルシークエンスが始まるのである。

最初はチュッパチャプス舐めながら、いかにもバカっぽく登場するマチルダ・ルッツが、極限状態の中戦闘モードに覚醒し、女ランボーと化するとむっちゃカッコいい。
この種の映画には、キャラクターのギャップが大切ということを良く分かった演出だ。
ド素人のはずなのにジェニファーの戦闘適性が凄過ぎるとか、ナゼか応急処置の知識を授けてくれる幻覚が便利この上ないとか、あの処置じゃ外傷はともかく内出血が止まらないとか、そもそも岩砂漠を裸足で歩けるワケが無いとか、いろいろとご都合主義連発なのだけど、この種の映画とはそういうものだから気にしない。
いやもう彼女は、男たちを懲罰するために超自然的な力で蘇った死の天使と思っても良いだろう。


とことん卑劣なクズたちの、情けない死にっぷりも容赦無し。

瀕死の重傷を負った女に、とどめを刺す。

イージーな人間狩りのつもりが、いつの間にか逆に狩られていることに気付いた男たちの絶望感を強調するのは新鮮。
日本では残念ながらボカシが入ってしまうが、フルチンを晒してぶっ殺されるとか、男目線では悲惨すぎる。

ファルジャ監督は、男全般に恨みでもあるのだろうか(笑

回廊の様な家の構造を生かした、スプラッタなクライマックスもなかなか良くできていて、下手なホラー映画より多い流血までを効果的な伏線として生かすのは素晴らしい。
レイプリベンジものは数あれど、ジャンル映画好きは観逃せない快作だ。

今回は背中ならぬお腹に羽を生やしたジェニファーのイメージで、「エンジェル・フェイス」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、アプリコット・ブランデー15ml、カルヴァドス15mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
フルーツの甘い香りと柔らかな味わいが特徴的なスタンダードなカクテル。
スッキリしていて飲みやすいのだが、強めの蒸留酒ばかりをミックスした一杯で、当然ながら度数は非常に高い。
飲み過ぎると死の天使の顔を覗き見てしまうかも。

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菊とギロチン・・・・・評価額1750円
2018年07月18日 (水) | 編集 |
ただ、自由に生きたかった。

かつて実在していたアナーキスト集団「ギロチン社」と、ワケありの女たちが集う女相撲の一座を描く青春群像劇。
瀬々敬久監督が「ヘヴンズ ストーリー」同様のインディーズ体制で作り上げた、上映時間実に3時間9分という大長編だ。
関東大震災直後の不穏な時代を舞台とした物語は、閉塞感にあえぐ人々の生々しい感情を乗せて疾走する。
新人の力士・花菊を演じる木竜麻生をはじめ、韓英恵、東出昌大、寛一郎らが時代に翻弄される若者たちを熱演し、渋川清彦、大西信満、井浦新らベテランが脇を固める。
共同脚本は「サウダーヂ」の相澤虎之助。
まるで昭和のATG作品を観ているかの如く、圧倒的な熱量を持つ大怪作である。

大正時代の終わり。
関東大震災後の日本は、不況に見舞われ社会不安が高まる中で次第に軍部の力が強まり、自由で煌びやかな時代の気風は失われつつあった。
そんなある日、東京近郊の村に女相撲「玉岩興行」がやって来る。
この一座には、夫の暴力に耐えかね家出して入門した新人力士の花菊(木竜麻生)や、朝鮮出身の十勝川(韓英恵)ら、様々な過去を持つ訳ありの女力士たちが集まっていた。
同じ頃、中濱鐵(東出昌大)、古田大次郎(寛一郎)らアナーキスト集団ギロチン社の面々も、近くの漁師小屋に潜伏していた。
彼らは大杉栄(小木戸利光)たちが、震災のドサクサに紛れて甘粕正彦憲兵大尉に殺害された甘粕事件の報復テロに失敗し、官憲から追われていたのだ。
気晴らしに女相撲を見に出かけた中濱は、彼女たちのひたむきな相撲に心を打たれ、取材と称して花菊と十勝川に接触し、次第に打ち解けてゆくのだが・・・・


瀬々敬久監督は、公式ホームページで本作を企画した意図をこう綴っている。
『十代の頃、自主映画や当時登場したばかりの若い監督たちが世界を新しく変えていくのだと思い、映画を志した。僕自身が「ギロチン社」的だった。数十年経ち、そうはならなかった現実を前にもう一度「自主自立」「自由」という、お題目を立てて映画を作りたかった。』
なるほど、ギロチン社は実在した集団、女相撲そのものは実在だが映画に登場する一座はフィクション。
前者は作り手そのもの、彼らに力を与える後者は「自由」を象徴する創作という訳か。

物語は大正12年、女相撲の興行中に関東大震災が起こるところから始まる。
嫁いだ姉が乳飲み子を残して死に、やむなく姉の代わりに再婚させられた花菊は、粗野な夫の暴力に悩み、土俵で躍動する女力士たちを見て、「強くなりたい」と家出して入門する。
女相撲の存在は聞いたことがあったが、江戸時代から昭和30年代まで存続していたこと、なぜか山形にルーツをもつ団体が多かったのは知らなかった。
昭和30年代というと、プロレスブームの時代だが、女相撲の消滅と女子プロレスの勃興が重なるのは偶然なのだろうか。
本作の女相撲一座「玉岩興行」には、様々なバックグランドを持つ女たちが集う。
花菊と同じように夫から逃れて家出してきた小桜、朝鮮出身で元遊女の十勝川、沖縄出身の与那国や一座の親方の姪の勝虎。
女が自由に生きられない時代、出自を問わず、各地を巡る女相撲の一座は、ある種の駆け込み寺の様な役割を果たしていたのかもしれない。

一方、中濱鐵をはじめとするアナーキスト集団、ギロチン社の面々は、口では「革命」を叫んではいるものの、企業恫喝をしては金をせしめ、酒と女に使い果たす自堕落な日々を送っている。
大物アナーキストの大杉栄が甘粕正彦に殺害されると、一応報復を企てるものの、本人は逮捕されて塀の中なので、代わりにまだ高校生の弟を狙うという情けなさ。
さらに銀行からの資金強奪を狙って失敗、古田大次郎が誤って行員を刺殺してしまい、揃って逃亡者となってしまう。
彼らが潜伏し女相撲と出会う大正時代の船橋が、片田舎の漁村にしか見えないのが面白いが、当時の写真を見ると本当にあんな感じだから、現代のゴミゴミした風景しか知らないと新鮮だ。
理想はあるが行動が伴わないアナーキストの男たちは、地に足をつけ懸命に戦って生きている女相撲の力士たちと出会って変わってゆく。

物語の軸となるのは女相撲の花菊と十勝川、ギロチン社から中濱鐵と古田大次郎の四人。
だが、彼らが明確な主人公という訳ではなく、例えば朝鮮人を敵視する在郷軍人会だとか、勝虎と一座の行司を務める三治の恋だとか、花菊を取り戻しにくる夫の話だとか、様々な人物のサブプロットが複雑にからみあう。
3時間を超える上映時間に、凄まじい情報量が詰め込まれた物語は、教科書的な意味では構造と展開がかなり歪。
時系列がすっ飛ばされ、「えっ?そこ描かないの?」とか「あれはどうなったの?」的に落とされている部分、逆にそこだけ異様に密度の濃い部分があるのだが、これはおそらく狙いだろう。
人物描写をある程度表層にとどめ、言いたいことはとことん言う荒々しい作りが、より物語の生っぽさを強調し、リアリティを与えている。

震災の後は、キナ臭い時代が来る。
この映画の描き出す情景が、3.11後の右傾化する現在の日本の合わせ鏡なのは明らかだ。
女力士たちとギロチン社の青年たちが感じている閉塞は直接的には違うものだが、「自由に生きたい」という両者の渇望は共通。
しかし、正体のよく分からない、この国の“国体”なるものがそれを許さない。
「誰もが誰かに仕えてるのよ」とは「ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー」の名台詞だが、この映画の登場人物たちも同じ。
国体の頂点たる大正天皇、摂政の皇太子を含めて、この国に真に自由な人間はどこにもいない。

もっとも、その現状に対するスタンス、抗い方は異なる。
女に生まれたというだけで、男性優位社会で理不尽な仕打ちを受けてきた女たちは、「強くなりたい」と願い、自らの肉体を鍛え上げ、女相撲という居場所を守ろうとする。
一方、「社会を変革し、より良き世界に導きたい」と願うが、その術をしらない男たちは、風車に立ち向かうドン・キホーテの様にジタバタと暴れ、自滅してゆく。
女力士たちと男たちが、内面に沸々と煮えたぎるエネルギーを爆発させるように海岸で踊り狂う中盤のシーン、文字通りに権力とぶつかり合うラストの対比は本作の白眉と言える。

物語の中の立ち位置が、ある瞬間に入れ替わる工夫もいい。
特に、在郷軍人会のエピソードは極めて象徴的だ。
彼らは1918年から22年までの間、ロシア革命に干渉するためにシベリアに日本軍を展開させたものの、結局三千人以上と言われる甚大な犠牲者を出しただけで、何も得られなかったと評される“シベリア出兵”の帰還兵。
無意味な戦争に駆り出された挙句、今度は震災後のデマに踊らされて自警団として無実の朝鮮人を虐殺する。
一見すると残虐な抑圧者に見える彼らは、国体全体から見ると末端の捨て駒に過ぎない。
大西信満演じる在郷軍人会の指揮官は激しい反共・反朝鮮の思想を持ち、朝鮮出身の十勝川を捕えて拷問するのだが、それは自らのやってきたことの無意味と、罪悪感の哀しい裏返しなのである。

「菊とギロチン」は、女相撲の力士とアナーキストの青年たちの激しく刹那的青春を通して、現在の日本に“自由”を問う。
果たして今のこの国は、人々が性差や民族、思想や哲学の違いを超えて、本当の意味で自由に生きることが出来るのか。
もちろん、全体を見ればこの映画の時代からは大きく前進しただろうが、逆に硬直してしまっている部分もあるまいか。
奇しくも大相撲の時代錯誤な女人禁制が大きな批判を浴びた2018年に、この作品が生まれたのも面白い偶然。
ひとつだけ確実に言えるのは、ほぼ100年前の物語が、鋭い現在性を持って語りかけて来るという事実は、どう考えても憂うべきということだろう。

それにしても、今年は“怪作”としか形容できない邦画が異様に多い。
本作では永瀬正敏がナレーションを担当していることもあり、石井岳龍監督のアナーキー時代劇大怪作「パンク侍、斬られて候」とちょっと印象が被る。
この狂った熱量を持つ2本が同時期に公開されてるのも、よく考えると凄いことだ。
ちなみに3時間9分はの上映時間は全然長くはなく、むしろ魅力的な登場人物の物語を持っと観ていたかった。

今回は女相撲発祥の地と言われる山形から、寿虎屋酒造の「三百年の掟破り 純米大吟醸無濾過槽前原酒」をチョイス。
搾り出された酒に、一切何も手を加えないそのままの味わい。
奇妙な名の由来は、江戸時代の享保年間の創業以来、必ず火入れ殺菌してから出荷という300年間不変だった掟を破って作ったお酒だからだそう。
洋梨を思わせるフワリとした吟醸香と、微発泡のまろやかな口当たり。
ボディが強くて、それでいてスッキリしたキレもある。
やっぱ時には300年の家訓を破るくらいしないと、新しいものは生まれないな。
アナーキズム万歳!

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バトル・オブ・ザ・セクシーズ・・・・・評価額1700円
2018年07月14日 (土) | 編集 |
絶対に負けられない戦いがある。

今から45年前、全世界の注目を集めたテニスの試合があった。
前年に四大大会三冠を獲得した女子テニスのトップ選手ビリー・ジーン・キングと、元男子チャンピオンのボビー・リッグスの性差を超えた戦いだ。
あらゆる分野で男女の格差が今よりも遥かに大きく、社会の寛容性も低かった時代。
男女同権運動の賛同者だったビリーは、なんとかテニス界の男女格差をなくそうと尽力しているのだが、ウーマンリブへ反発する男たちの不満に目を付けたボビーが、“男性至上主義のブタ”を自称して挑戦状を叩きつけたのだ。
当時ビリーは選手として全盛期の29歳、対するボビーは55歳。
いくら年齢差があるとは言え、元男子トップのパワーとスピードにビリーは対抗できるのか。
男女のプライドを賭けた戦いの顛末をもとに、「スラムドッグ$ミリオネア」で知られるサイモン・ビューフォイが脚本を執筆、「リトル・ミス・サンシャイン」のジョナサン・デイトンとヴァレリー・ハリス夫妻が監督を務める。 

1972年、女子テニスのトップ選手ビリー・ジーン・キング(エマ・ストーン)は、遂にキャリア・グランドスラムを達成。
しかし、当時の女子選手の賞金は男子に比べ極端に低く、ビリーたちの抗議にも男子主導のテニス協会は聞く耳を持たず、格差は広がり続けていた。
60年代から始まった男女同権運動の賛同者だったキングは、改革に背を向ける男子ツアーと袂を分かち、仲間の女子選手たちと女子テニス協会を設立する。
翌73年、彼女たちの活躍を見た往年の男子トップ選手ボビー・リッグス(スティーブ・カレル)は、一攫千金を画策し「男子の優位を証明するため」と称し、ビリーへの挑戦を表明。
ビリーは拒否するが、代わりにこの年絶好調だったマーガレット・コート(ジャシカ・マクナミー)と対戦し圧勝する。
業を煮やしたビリーは挑戦を受け入れ、男女の戦いは“Battle of the Sexes”と銘打たれ、全米の注目を集め大いに盛り上がる。
そして1973年9月20日、ヒューストン・アストロドーム。
3万人の観衆と、9000万人のテレビ視聴者が見守る中で、決戦の火蓋が切られた・・・


とても趣深い、良質の映画である。

ウーマンリブの女性が、男性至上主義者をやっつける話かと思いきや、ことはそう単純ではない。

ここに描かれているのは、単に一つの試合ではなく、従来の価値観が覆り時代が動く瞬間だ。


この映画のビリー・ジーン・キングは、同時に二つのものと戦っている。

一つは、プロテニス・プレイヤーとして男子との格差
男が主導するテニス協会のツアーでは、女子の賞金は男子のわずか1/8に過ぎない。
観客動員数やチケットの売り上げに、それほど大きな差はないのにだ。
いくら働きかけても、一向に改善しようとしないテニス協会に対して、ビリーと仲間たちは自ら女子テニス協会(WTA)を設立し、たった1ドルで契約する覚悟を見せる。
タバコ銘柄のヴァージニア・スリムが冠スポンサーとなり、ツアーの賞金もテニス協会が提示した1500ドルから7000ドルと一気に増えたものの、生まれたばかりの女子テニス協会はまだまだ不安定。
彼女らは男性優位社会の厳しい偏見に、立ち向かっていかねばならないのだ。

そんな時に、既婚者だったビリーは、運命を変えるファムファタールと出会ってしまう。
アンドレア・ライズボローが演じる美容師のマリリン・バーネットに、初めて髪をセットしてもらうシーンのなんとも艶っぽいこと。
保守的なメソジストの家庭に育ったビリー自身も、同性愛には葛藤がある。
女子テニス協会の顔である彼女が女性と浮気していることが公になれば、スキャンダル化は免れない。
ビリーは、ありのままに人を愛するというもう一つの戦いにも、人知れず身を投じてゆくことになるのだ。
彼女の夫のラリー・キングが、出来すぎなくらい良い人で、ちょっと可哀そうではあったが、恋する心は止められない。
感情の振れ幅が大きいビリーの恋の情景も、本作が描き出す重要な要素となっている。

一方、対戦相手のボビー・リッグスも大きな問題を抱えている。
40年代を代表する名選手だったが、過度のギャンブル依存のせいで金銭的にも困窮し、裕福な名家の出身である妻のプリシラから別れを切り出されている。
妻の尻に敷かれているくらいだから、“男性至上主義のブタ”は世間の注目を集めるためのパフォーマンス。
テニス界でもシニアの大会では大した金は稼げない。
崖っぷちに追い込まれたボビーは、ビリーとの試合に人生の起死回生を賭けているのである。
まあ性格に問題はあるものの、同じおっさんとしては、中年の悲哀を絵に描いたようなボビーに感情移入せざるを得なかった。

いくら往年の名選手と言えど、娘みたいな年齢の、今まさに全盛期を迎えてる選手とあれだけ戦えるんだから、正直それだけでも大したものだと思う。

この映画の作り手は、それぞれに葛藤を抱えたビリーとボビーの対立を軸に、その時代の空気を丁寧に描写する。
ボビーの問題が多分に自ら招いたものであるのに対し、ビリーの葛藤は男性優位社会を変えようとする女であること、同性を愛することに根ざしたもので、社会の不寛容が要因ゆえにより深刻。
宣伝では“性の戦い”を前面に出してたが、それはほんの表層に過ぎない。
“Battle of the Sexes”は大いに盛り上がり、その後の女子テニスの興行が盛り上がる切っ掛けにもなったが、イベントは所詮一過性。
本作のように、その裏側で起こっていたこと、当事者たちが何を抱え、何を考え、何のために戦ったのかじっくりと見せてくれる劇映画は、この種の歴史的イベントの意味を未来から考える際に、大きな広がりと深みを感じさせてくれる。
だからこそ肝心の試合は当時のTV放送と同じ定点カメラのみで、過剰に劇的な演出は控えられている。
もちろん脚色された劇映画である以上、そのまま事実ではないのだが、ある視点を与えてくれるだけでもこの種の映画の存在する意味があるだろう。
実際に映画の企画が始まったのは、♯MeTooのムーブメントよりも前だが、これはやはり時代に呼ばれた作品。
良い意味で予測を裏切られる深みのあるドラマで、人物の感情の機微が丁寧に紡がれ、鑑賞後の余韻が実に爽やか。

ビリーの周りにいる多くのキャラクターも、それぞれの想いを胸にこの時代を生きた人々だが、中でもで面白いのが、アラン・カミングが演じるテッド・ティンリングという人物だ。
彼自身も元テニス選手にして、女子テニス協会の衣装デザイナー兼リエゾン・オフィサー。
映画の中では、それまで白一色だった選手のユニフォームに色の革命を起こすのだが、ゲイであることを隠しておらず、だからこそこの時代にLGBTとして生きることの辛さも熟知していて、陰ながらビリーの新しい恋を応援している。
物語の終盤、彼がビリーにかけるある言葉は、この映画のテーマと直結し、観る者の心を打つ。

ちなみにこの人、映画の中では印象的な脇役という以上ではないのだが、ちょっと興味をもってプロフィールを調べてみると、もの凄くユニークな人生を送っている。
1920年代にはウィンブルドンに出場したテニス選手で、第二次世界大戦中は英国情報部のスパイとして活動、戦後はデザイナーに転身し大成功し、晩年はテニス界を題材とした本も書いていたというマルチタレント。
この人を主人公にした映画を作っても面白そうだ。


ビリー・ジーン・キングvsボビー・リッグスから19年後の1992年、“Battle of the Sexes”の第3ラウンドとして当時35歳のマルチナ・ナブラチロワvs40歳のジミー・コナーズ戦が行われ、コナーズが7-5、6-2で勝っている。
もっとも、この時はすでに女子テニスは十分に発展を遂げていて、ナブラチロワもビリーもバイセクシャルであることをカミングアウトした後。
当然、試合の雰囲気や両者が背負うものも、ビリーの時代とはだいぶ違っていた様だが、だからと言って格差や不寛容が無くなったわけでは決してない。
はたして、♯MeTooの時代に“Battle of the Sexes”第4ラウンドが行われることはあるのだろうか。

今回は、ビリーたちの平等の夢にかけて、カクテルの「ドリーム」をチョイス。
ブランデー40ml、オレンジ・キュラソー20ml、ぺルノ1dashを、氷と共にシェイクしてグラスに注ぐ。
コクのある甘味のブランデーとオレンジの風味が組み合わさり、ぺルノが両方を引き立てる。
思わず心が華やぐ甘口のカクテルだが、度数はかなり高いので油断していると本当の夢に誘われてしまう。

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ショートレビュー「V.I.P. 修羅の獣たち・・・・・評価額1650円」
2018年07月11日 (水) | 編集 |
怪物と戦う者は、自分も怪物に成らねばならぬ。

猟奇殺人ものと言えば韓国映画、韓国映画といえば猟奇殺人ものというくらい、かの国ではおなじみのジャンル映画だが、これはその中でも異彩を放つ。
日常のルーティンのように女を誘拐し、快楽のために徹底的にいたぶって殺す。
場合によっては女の家族まで皆殺し。
恐るべき嗜虐性を秘めたシリアルキラーは、なんと北朝鮮から韓国へと亡命して来たV.I.P.なのである。
これはまさに、現代韓国でしか作り得ない作品だ。

北朝鮮の秘密資金の情報を握り、自分が“守られるべき存在”であることを知っている人間のクズ、キム・グァンイルを巡り、キム・ミョンミンが熱演する暴力刑事チェ・イド、チャン・ドンゴン演じる国家情報院のパク・ジェヒョク、韓国内部の混乱に乗じて漁夫の利を狙うCIA、更にはパク・ヒスン演じる北の工作員リ・デボムが四つ巴の争奪戦を繰り広げる。

警察はその威信にかけても犯人を検挙したいが、亡命させたのが殺人鬼だったという失態が明るみにでるのを防ぎたい国情院は、警察よりも先にグァンイルを確保し、CIAに身柄を渡して幕引きにしたい。
一方、デボムはグァンイルを捕え、北に連れ戻すために、イドに共闘を持ちかける。

映画は、「プロローグ」「容疑者」「攻防」「北から来たV.I.P.」「エピローグ」の五章構成。
2013年の香港から始まる物語は、続く「容疑者」で北朝鮮時代のグァンイルの鬼畜っぷりを容赦なく描写した上で、彼を巡る争奪戦に移行する。
観客心理としては、グァンイルには殺人犯として法の裁きを受けさせるか、登場人物の誰かにぶっ殺してもらいたい。

しかし、彼の握る情報ゆえに、理不尽に守られて身柄をたらい回しされるだけ。
登場人物たちの苦悩が観客の憤りの心理と一体化し、もどかしさに苛立ちを深めてゆくドラマの組み立ては、「殺人の追憶」から「殺人の告白」に連なる系譜を思わせる。

警察がグァンイルの身柄を抑えたと思ったら、国情院がCIAを介入させて奪還し、今度はデボムの助けを借りて警察が巻き返す。
グァンイルを巡る物語は二転三転して全く先を読ませず、終始スリリング展開する。

死の匂いをまとった男臭い情念のドラマの濃密さは、さすが「新しき世界」で「インファナル・アフェア」+「ゴッドファーザー」とも言うべきノワールの傑作を作り上げたパク・フンジョンだ。

最凶のお坊ちゃま殺人鬼を怪演するイ・ジョンソク、久々登場のチャン・ドンゴンを始め、キャストは善玉悪玉入り乱れ、全員が強烈にキャラ立ちしている。


サスペンス・スリラーとして一級品だが、更に特筆すべきは朝鮮半島ならではの時事性が、物語に巧みに織り込まれていること。

2017年の作品なのに、物語の起点となる“現在”が2013年に設定されているのはなぜか。
そもそも北朝鮮では特権階級で、何人殺そうが罪に問われないはずのグァンイルが、わざわざ亡命したのはどうしてなのか。
時系列の秘密が明らかになる終盤のある描写は、絶望のあまり鳥肌がたった。
このあたりの事情は観客が知っていることを前提として作られているので、ここ十年ばかりの北朝鮮金氏王朝の権力闘争史を予習しておくのが吉。
ダイナミックに動く朝鮮半島の現代史という社会性を背景に、権力の都合に翻弄される男たちの姿は、一歩引いて見るともの哀しい。

いかにもこの作家らしい、壮絶なる滅びの映像詩。
トラウマになるくらいの残酷描写はかなりの流血耐性が必要だが、韓国映画の底力を感じさせる秀作だ。

今回は、悪魔のような殺人鬼の話だから、ベルギー生まれの“悪魔のビール”「デュベル」をチョイス。

完成した時は第一次世界大戦の戦勝を記念して「ビクトリー・エール」と名付けられていたのだが、試飲会で飲んだ一人が「このビールはまさに悪魔だ」と言ったことから、悪魔を意味する「Duvel」に銘柄が変更されたとか。
名前は恐ろし気だが、泡立ち良く、スムーズなのど越しが特徴の美味しいビールだ。

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ショートレビュー「死の谷間・・・・・評価額1600円」
2018年07月10日 (火) | 編集 |
「Z」の男は誰なのか?

核戦争か、それとも重大な事故が起こったのか。
詳細は語られないが、文明社会は滅び、放射性物質によって大半が汚染された世界
外界から隔絶され、奇跡的に清浄が保たれた山奥の谷に、マーゴット・ロビー演じるアン・バーデンがただ一人住んでいる。
他の住民は生存者を探しに旅に出て、誰も戻らない。
もしかしたら、自分がこの世界唯一の生き残りなのではないか?
彼女は犬のファロを相棒に、父が建てた小さな教会を心のよりどころに、自給自足しながら永遠にも思える孤独に耐えている。

そんな秘密境に、ある日たどり着いたのが、キウェテル・イジョフォー演じるジョン・ルーミス。
科学者の彼は、信仰心の強いアンとは対照的に、合理的な思考の持ち主だ。
安全な場所を探して防護服のままワゴンを引き、長く放浪してきたジョンは、この谷が汚染されていないことを確認すると、アンの家にとどまることになる。
人種も思想も異なる二人だが、アンは孤独という恐怖から、ジョンは防護服の地獄から解放され、前向きな気持ちを取り戻す。
谷での日々の暮らしの改良にも着手し、お互いに適度な距離を保ちながらも、徐々に密接な関係を作ってゆくのだ。
ところが、そこに二人目の男、クリス・パイン演じるケイレブが現れる。
彼はアンと同様に信仰心を持った、美しい若者だ。
予期せぬケイレブの出現によって、谷の暮らしに静かな波紋が生じてゆく。

1990年代から10年近くに渡って、70件近くの被害を出した“ストリップサーチ悪戯電話詐欺”を描いた心理サスペンス、「コンプライアンス〜服従の心理〜」で注目されたクレイグ・ゾベル監督は、今回もシンプルな設定を活かした、ユニークな暗喩劇を構築している。
ロバート・C・オブライエンの小説に基づく本作の原題は、「Z for Zachariah」という奇妙なもの。
ザカリアは、聖書の登場人物で洗礼者ヨハネの父。
アンは聖書のアルファベットの本を持っていて、最初の「A」はアダムで最後の「Z」がザカリア。
つまりこのタイトルは、人類最後の男を指しているのである。


神が作りし第二のエデンの園を守るイヴの元に、遣わされたのはアダムならぬザカリアが二人。

しかも信仰を持たない者と持つ者、黒人と白人だ。

何か大きなことが起こるわけではないが、ちょっとしたやり取りや行動によって、穏やかでない心が伝わってくる。
そんな中、三人の合意で行われる教会の解体と文明の享受は、極めて象徴的だ。
表向きは仲良く日常を送りつつも、谷には徐々に不穏な空気が高まり、静かな葛藤の帰結する先に目が離せない。
実質的主人公はキウェテル・イジョフォーのジョンだが、最後の彼の行動をどう解釈するかで物語の意味が180度変わる
はたして、彼は本当にザカリアだったのか、神は今も谷にいるのか。

観る者の心を揺さぶりジャッジする、異色のポストアポカリプトSF。

文明が滅びた世界で、女一人と男二人の三角関係の話・・・というとロジャー・コーマン監督が、「呪われた海の怪物」と2本同時撮影したという「地球最後の女」というB級作品があり、ぶっちゃけ全然面白くはないが、もしかしたら原作の元ネタになっている可能性がある。

しかし絡み合う三人のドラマに、私はむしろフレッド・ジンネマンの「氷壁の女」を思い出した。
あれほどメロドラマチックではないけどね。

今回は「ドメーヌ・エデン シャルドネ サンタクルーズマウンテン」の2013をチョイス。
ドメーヌ・エデンはマウント・エデンがプロデュースする弟分銘柄で、スタンダードのおよそ半分というCPのよさ。
それでいて作りには決して妥協がないのだから嬉しい。
フルーティなアロマに柑橘系の酸味、やわらかな甘さが舌に残る。
フレッシュな葡萄本来の風味が前面に出た、瑞々しい味わい。

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ショートレビュー「カメラを止めるな!・・・・・評価額1650円」
2018年07月06日 (金) | 編集 |
モノゴトは“ウラ”ほど面白い。

映画の専門学校「ENBUゼミナール」のプロジェクトとして作られた作品で、監督・脚本の上田慎一郎はこれが劇場用長編デビュー作いう以外、全く情報を入れずに観たが、今年最高のアイディア賞だ。
映画が始まってしばらくはB級、いやC級然としたテイスト。
自主映画の撮影隊が廃墟でゾンビ映画を撮っていると、なぜか本物のゾンビが出現しサバイバルに・・・という平凡な出だし。
ワンショット撮影は頑張っているが、ホラーじゃないけど同じ手で最近「アイスと雨音」という大力作があったしな・・・それに比べれば、こっちは相当素人臭いし、なんだか変な間や意味のない芝居がたくさんで、ぶっちゃけあんま面白くない・・・。
そんなことを思っているうちに、映画はわずか37分で唐突に幕を閉じてしまうのである。
※ここからは1度観てから読むことをオススメします。

「???これで終わり??」
と戸惑っていると、映画はここから再び幕を開けると、想像の斜め上どころか、異次元の壁を突き破って暴走する。
「最後まで席を立つな。この映画は二度はじまる」は、本作のキャッチコピー。
実は今まで観てきたのは、生放送の一発撮りホラードラマ(という設定)で、二度目に始まるのはそのビハインド・ザ・シーン。
普通のドラマならいざ知らず、様々なギミックを必要とするホラーを、ノーカットの生放送で制作するという無茶振りを任されたのが、普段妥協ばっかりしている再現ドラマの監督。
ここに元女優の妻や、父とは対照的に妥協知らずでトラブルメーカーの娘ADも絡み、怒涛のメイキング・ドラマが始まるのである。
生放送という特異性ゆえに、計算尽くの妥協などできず、どんなトラブルが起こっても、今そこにあるものでなんとかするしかない。
否が応でも本気にならざるを得ない状況が、現場の人間全員を変えてゆく。

ストーリーを楽しむ言うよりも、構造の仕掛けに驚かされる映画だが、周到に設定された人物描写が、この作品の面白さを単なる一発ネタのサプライズを超えたものにしている。
前半と後半で、ガラッと作りが変わる映画は他にもある。
だが本作はそのどれとも違う唯一無二、マジでこんなの観たこと無い。
最初に観るときには、絶対に情報を入れない方がいいが、一度観てしまうと今度はディテールが楽しい。
前半のドラマで引っかかった不自然な芝居や間の違和感の“ナゼ”を、後半明かしてゆく仕掛けがものすごく凝っていて、二度三度観ても面白い。
実際平日も満席が続く劇場では、リピーター客がとても多いという。

今年は「レディ・プレイヤー1」「ブリグズビー・ベア」など、作り手にとっての虚構と現実をモチーフとした映画が目立つが、モノ作りの情熱と狂気にフィーチャーした本作もその一つ。
創作を生業にしている人は必ずこの作品に嫉妬し、強い刺激を受けるだろうし、作り手も観客も溢れんばかりの映画愛に、大いに笑って涙するだろう。
しかし、ゾンビ映画って本当に汎用性が高い。
ロメロ映画的な社会性の象徴としても、「桐島」のように青春の熱情の具現化としても、本作みたいに創造の葛藤のメタファーとしても使えるのだから、そりゃ世界中のフィルム・メーカーがゾンビ映画を作り続けるわけだ。
次は誰が、どんな新しいゾンビ映画を作り出すのだろうか。

今回は、そのまんま「ゾンビ」をチョイス。
ホワイトラム30ml、ゴールドラム30ml、ダークラム30ml、アプリコットブランデー15ml、オレンジジュース 20ml、パイナップルジュース 20ml、レモンジュース 10ml、グレナデンシロップ 10mlをシェイクして、このカクテルが名前の元になった氷を入れたゾンビグラス、別名コリンズグラスに注ぐ。
複数のラムをチャンポンしているのは酔いを深めるためで、もともとは5種類ものラムを混ぜていたという。
非常に強いのでいつの間にか酩酊し、ゾンビ化する恐ろしいカクテルだ。

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ブリグズビー・ベア・・・・・評価額1750円
2018年07月05日 (木) | 編集 |
彼が“世界”を教えてくれたから。

創作の夢と情熱の詰まった、愛すべき小品。
物心つく前に誘拐され、25年もの間地下のシェルターで育った青年、ジェームズ・ポープが主人公。

救出されて本当の親元へ帰るものの、外の世界を知らず、偽の両親以外の人間と接したことも無いのでコミュ力は限りなくゼロ。

新しい人生の展開に戸惑う彼の心の支えが、シェルターで唯一鑑賞を許されていた、ちょっと不気味な宇宙クマのブリグズビーが活躍する子供向け教育番組、「ブリグズビー・ベア」だ。
どうしてもブリグズビーの新作が観たいジェームズは、番組の続きを自分で映画として作って自主上映しようとする。
ジェームズにとって、ブリグズビーとは何者だったのか?なぜ彼は映画を作らねばならないのか?
ここに描かれるのは、人生の絶望と救済、現実と虚構に関するビターで美しく、詩的な寓話である。

ジェームズ(カイル・ムーニー)は、両親のテッド(マーク・ハミル)とエイプリル(ジェーン・アダムズ)と共に、外界から隔絶された砂漠の中のシェルターに、25年もの間暮らしている。
シェルターの外は汚染されていて、人間は防毒マスクなしで生きられないと教えられ、外界との唯一の接点は毎週どこからか送られてくる子供向け教育番組「ブリグズビー・ベア」のビデオテープ。
銀河を冒険するクマのブリグズビーに全てを教えられて育ったジェームズは、今では「ブリグズビー・ベア」の世界を研究し、チャットのフォーラムで発表するようになっていた。
ところがある日、突然シェルターに警察が突入し、彼を連れ去る。
警察署で面談したヴォーゲル刑事(グレッグ・キニア)は、ジェームズがずっと両親だと思っていたテッドとエイプリルは誘拐犯で、本当の両親は別にいると告げる。
「ブリグズビー・ベア」も、テッドが作っていた偽の番組だった。
戸惑いながら実の両親と妹のオーブリー(ライアン・シンプキンズ)が待つ家へと帰り、新しい生活を始めるジェームズだったが、「ブリグズビー・ベア」の無い生活をどうしても受け入れることができなかった・・・


監督のデイヴ・マッカリーと脚本・主演のカイル・ムーニー、共同脚本のケヴィン・コステロは、共にカリフォルニア州サンディエゴで育った幼馴染。
マッカリーとムーニーは、本作にもバンダー刑事役で出演しているベック・ベネットと、ニック・ラザフォードと共に2007年に映像制作ユニットGoodNeighborを結成し、GoodNeighborStuffのアカウントで数々の動画を投稿しているYouTuberだ。
どの動画も1分~5分程度と短いのだけど、センス抜群で可笑しくてたまらない。
ネットで人気を博すと、彼らは揃ってテレビの老舗コメディ番組「サタデー・ナイト・ライブ」に進出、そして動画投稿開始から10年目に本作を撮影し、見事な長編劇場用作品デビューを飾った。

誘拐され、長年監禁されていた被害者の帰還を描いた作品というと、ブリー・ラーソンがアカデミー主演女優賞に輝いた「ルーム ROOM」が記憶に新しい。
ラーソン演じる主人公は、17歳で誘拐されてから7年の間、犯人との間にできた息子と小さな部屋に閉じ込められている。
外の世界を知らない息子を不憫に思った彼女は、“世界”とはこの部屋のことで、テレビに映っているものは全てニセモノ、扉の外には宇宙空間が広がっていると嘘をついているのだが、救出された後はむしろ柔らか頭の子供の方が、新しい世界に素早く順応してゆくのが印象的だった。
母親は世間の好奇の目に晒され、“誘拐犯の子”でもある息子を受け入れない親との関係にも悩み、人生を取り戻すのに苦戦するのである。

本作の場合、物心つく前に誘拐されたジェームズの監禁期間は実に25年。
肉体的には立派な大人でも、なにしろ偽の両親のテッドとエイプリル以外の人間を全く知らない。
二人が周到にSFチョックな世界観を構築し、信じ込ませていたこともあり、現実は完全に未知のもの。
人間の人格は思春期に形作られるというが、ジェームズにとっての“世界”は、父だと思っていたテッドが、彼のために作っていた「ブリグズビー・ベア」から教えられたことが全てなのである。
突然シェルターから連れ出されて、本当の両親の元に戻されて、これが本当の世界だと言われても、ずっと虚構の中で育ったジェームズは実感が持てない。
心の拠り所だったブリグズビーはどこ?僕を救ってくれるあのスーパーヒーローは?

しかし、ある時彼はふと気づく。
「ブリグズビー・ベア」の新作がもう送られてこないのなら、自分で作ればいい
このアイディアを思いついて、ジェームズの生活は急激に変わってゆく。
もともと彼は、番組の内容を詳細に分析研究していて、ある種の評論的な視点をすでに持っていた。
さらに独学で映画の作り方を学び、未完の物語がどう続いてゆくのか、何を描くべきなのか、具体的な内容を導き出す。
最初は突然現れた兄に戸惑っていた妹のオーブリー、彼女の紹介で新しくできたギーグな友だちのスペンサー、事件を通して親しくなったヴォーゲル刑事らも、いつしかジェームズの強烈な創作への欲求に巻き込まれて、彼の共犯者となってゆく。
この制作過程の波乱万丈が、彼にとっては過去と向き合い、現実世界に適合するための“リハビリ”となるのである。
彼は現実を受け入れるために、虚構を今一度自らの手で作り出す必要があったのだ。


私はこの映画を観ていて、ジェームズのキャラクターに強い既視感を覚えた。
モジャモジャ頭に黒ぶち眼鏡、人とのコミュニケーションが苦手で創作を愛するこのキャラクターが、スピルバーグの「レディ・プレイヤー1」で、サブカル愛が溢れ出す究極のVRワールド、“オアシス”を創造した天才、ジェームズ・ハリデーに見えてきたのだ。
共通のファーストネームだけでなく、この映画でジェームズがやっていることは、規模は違えどハリデーと同じである。
コミュニケーション下手にとって、現実世界は生き難くて厳しいけれど、創作の世界があるから救われる。
現実と虚構は対立するものではなく、相互保管の関係にあって、現実が虚構を作り出すように、虚構が現実に影響を与えることもある。
ハリデーがオアシスを作ることで救い救われたように、突然虚構から現実に投げ込まれたジェームズは、「ブリグズビー・ベア」の新作を撮り、自ら演じることによって現実を生きてゆく力を得て、その過程で新しい人間関係をも作ってゆく。
実はスピルバーグは、GoodNeighborのファンで、以前から彼らとは交流があったとのこと。
もしかしたら、二人のジェームズが中身からルックスまで似ているのは、偶然ではないのかもしれない。

作り手のサブカルへの愛とオマージュを象徴するのが、誘拐犯のテッドにマーク・ハミルを起用していることだろう。
どこかで聞いたような“May our minds be stronger tomorrow.” の合言葉。
シェルターを抜けだしたジェームズが、入り口の上で防毒マスク越しに遠く地平線を見つめるシーンは、「新たなる希望」でタトゥイーンの二つの太陽を見つめるルーク・スカイウォーカーの姿にかぶるし、三人の暮らす地下シェルターの描写は叔父夫婦と暮らすルークの家を思わせる。
そういえばあの映画で彼らが住んでいたのは、チェニジアの伝統的な地下式住居を利用したロケセットだった。
「ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー」を首になったフィル・ロードとクリス・ミラーがプロデュースで参加しているのも不思議な縁か。
カイル・ムーニーによると、ブリグズビーのキャラクターはキリスト教の布教用に作られた子供向けキャラクターPrayer Bearからインスパイアされたそうだが、番組は70、80年代タッチのチープな「スター・ウォーズ」的な内容で、ジェームズが作る新作映画もあちこちそれっぽい。

ジェームズにとって、テッドとエイプリルはある意味で人生をメチャクチャにした悪しき存在だが、実際に彼という人間を形成したのも彼ら二人。
彼らの作品である「ブリグズビー・ベア」の続編を作るということは、25年間ジェームズを育てた二人を理解し、行為はともかくとして彼らの愛は偽物ではなかったことの証明ともなるのである。
物語のキーパーソンにして、かつて自分が演じた役柄の反転とも言える人物を、味わい深く演じるマーク・ハミルがこの映画に込められた精神性をグッと高める。
これは、あまりにも好きなものにのめり込み過ぎた主人公が、虚構を虚構として自らの手で作り上げることで、魂の救済を受ける物語。
虚構を愛し、モノ作りに取り憑かれた全ての人たちに、自分の創作の原点を思い出させてくれる、小さな宝石の様な傑作である。

今回はGoodNeighborの地元、サンディエゴのクラフトビール、ストーン・ブリューイングの「アロガント・バスタードエール」をチョイス。
“横柄な奴”という名の通り、非常に攻撃的でメリハリの効いた味わい。
幾つものフルーティな香りとフレーバーが口の中で暴れまわる。
ユニークな銘柄を次々と世に出しているストーンらしい作品だ。
サンディエゴのお店も素敵なので、訪れる機会があれば是非味わってほしい。

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