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これは創作の熱がほとばしる、驚くべき映画だ。
アヌシー国際アニメーション映画祭ノミネートの「Des câlins dans les cuisines」や「Regarder Oana」などの短編で知られるフランスのアニメーション作家、セバスチャン・ローデンバックがグリム童話の「手なしむすめ」をベースに、ほぼ一人で作画し長編アニメーション化した大労作。
2016年のアヌシーで審査員名誉賞、2017年の東京アニメアワード・長編コンペティション部門グランプリなど、各国で数々の映画賞を受賞している。
貧しい粉ひきの父親は、悪魔の誘いにのり”水車の裏にあるもの”を黄金と交換する約束をする。
父親はそれが庭の林檎の木だと思っていたのだが、実はその時娘が木に登っていたのだ。
悪魔は娘を要求するが、彼女の手が涙で常に清められてるため連れ去ることができず、父親に手を切り落とすことを命令。
父親は悪魔こわさに娘の手を切り落とすのだが、やはり悪魔は娘の清らかな涙に阻まれ手を出せない。
娘は命からがら逃げるのだが、悪魔は娘の人生を奪うためにどこまでも執拗に追ってくる。
川の女神に導かれた娘は、果樹園で梨を食べていた時に領主に見初められ、結婚して息子を設けるのだが、狡猾な悪魔は戦場に赴いた領主に偽の手紙を送り二人の仲を裂く。
乳飲み子を抱え、再び流浪の生活を送る娘は山奥の川の源流にようやく安息の地を見つける。
簡単に悪魔に誘惑されてしまう人間の心の弱さ、その一方で邪悪な企みを退ける勇気と真実の愛の強さを描く寓話である。
もともとこの作品の企画は、劇作家のオリビエ・ピィが原作をもとに上演したした戯曲「The Girl、the Devil and the Mill」を映像化するというプロジェクトとして2001年に始まったという。
ローデンバックをはじめフランスの芸術界で活躍する実力者が集められたが、資金難で2008年に中止になっている。
その後、諦めきれなかったローデンバックが、2013年に単独でプロジェクトを引き継ぐ形で再開し、3年がかりで完成させた。
実に15年間にわたってプロジェクトと関わったローデンバックは、一度とん挫して再び立ち上がったこの作品の制作プロセスそのものを、手を切られても悪魔に屈せず、生きるために奮闘する少女の物語になぞらえている。
この世界は誘惑に満ちて、しばしば残酷な仕打ちをするが、邪悪なものは真に純粋なものには触れられず、諦めなければ美しい世界へとたどり着くという訳だ。
グリム兄弟の原作では、娘は天使によって助けられ、領主の果樹園の梨を食べるのだが、本作で彼女を助けるのは川の女神になっていて、全体にキリスト教色が取り除かれ、よりアニミズム的、普遍的な世界観となっているのが特徴。
さらに、娘が領主の屋敷を出立するときに、庭師から餞別として新大陸からもたらされた種を送られるのである。
娘は自分を救ってくれた川をさかのぼり、ついに源流の地に定住し、種をまいて畑を作る。
最初は元々自宅にあった林檎、次に領主に与えられた果樹園の梨、そして自らの力で切り開いた畑。
ただ清らかな存在だった娘が、妻となり、母となり、一人の女性として自立してゆく姿が、果実と川を巡る冒険として結実する。
作者が「クリプトキノグラフィー」 と呼ぶ映像技法は、過去の短編作品の延長線上にあるのだが、水墨画を思わせる荒々しいタッチにミニマムな線と色が特徴。
極限まで簡略化された映像は、たった一人でなるべく早く仕上げなければならないという状況が生んだ必然でもあったそうだが、線が単純だからこそ動きの美しさが強調され、驚くほど豊かなイメージが見えてくるのである。
あるシーンなどはキャラクターが殆ど「点」でしか表現されてないのだが、躍動感とともに感情が波となって押し寄せてくるのだ。
純化された映像表現が、悪魔の脅しにも屈しない娘の心の強さに重なり、実に雄弁。
作り手が観客を信じているから出来るスタイルだが、情報が少ないからこそ、観るものの脳内で世界が補完され、作品への没入感は格別だ。
父親が娘の手を切り落とすというショッキングな展開からはじまって、娘の授乳や放尿する描写があるからか、邦題では「大人のための・・・」とあるが、これは本来童話であって、子どもこそ多くの気づきを得られると思う。
素晴らしいアートアニメーションであり、エンターテイメントとしても一級品。
各都市単館で字幕上映なのがネックだが、出来れば子どもたちにも観せてあげたい作品だ。
本作は林檎の木から始まる物語なので、フランスのノルマンディー地方にルーツを持つアップル・ブランデー、カルヴァドスを日本で製造した「ニッカ アップル・ブランデー弘前」をチョイス。
もともとニッカは「大日本果汁株式会社」という林檎ジュースを製造していた会社で、社名のニッカも「日果」をカタカナ読みにしたもの。
今でもアップル・ワインをラインナップに持ち、アップル・ブランデーの蒸留はごく自然な流れ。
香りと味わいのバランスがとてもよく、本場フランスのものと比べても洗練された仕上がり。
ストレートかロックがオススメだが、ソーダで割ってもとても美味しい。

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クリストファー・ロビンが、100エーカーの森から去って数十年後。
英国伝統の寄宿学校・ボーディング・スクールで学び、戦争や結婚、子育てを経験し、ブラック企業勤めのくたびれたおっさんとなったクリストファーが、なぜか故郷から遠く離れたロンドンの公園で、幼い頃の親友・くまのプーさんと再開する。
英国の児童文学作家A・A・ミルンが、息子のクリストファー・ロビン・ミルンのために、彼が持っていた動物のぬいぐるみが活躍する「くまのプーさん」を発表したのは1926年のこと。
やがてディズニーによってアニメーション化され、同社のキャラクター・ラインナップに組み込まれたことで、その知名度は広がり続けて今に至る。
近年、「美女と野獣」や「シンデレラ」など、成功したアニメーション映画の実写化を進めているディズニーだが、本作は原作や過去のアニメーション作品で育った、かつて子供だった大人たちに向けた続編となっているのが大きな特徴。
もちろん、大きいお友だちたちが子連れで観に来ることは前提で、ある種のリブートになっているのも賢い。
大人になったクリストファー・ロビンをユアン・マクレガーが好演し、ノスタルジックな世界をマーク・フォスター監督が味わい深く描く。
大人から子供まで、誰もが泣いて笑って夢中になれる傑作である。
※核心部分に触れています。
イギリスの片田舎、100エーカーの森でぬいぐるみのプー(ジム・カミングス)たちと暮らしていたクリストファー・ロビン(ユアン・マクレガー)は、ロンドンのボーディング・スクールに入学することになる。
別れ際「君たちのことを絶対忘れない」と言ったクリストファーだが、忙しい学校生活の中で記憶は次第に薄れ、戦争や結婚と言った人生の大事件を経験し、やがて中年に足を踏み入れる年齢となっていった。
クリストファーは娘のマデリン(ブロンテ・カーマイケル)を自分と同じボーディング・スクールに入れようとしているが、妻のイヴリン(ヘイリー・アトウェル)は反対している。
ある日、業績不振にあえぐ会社から、リストラ担当に任命されたクリスファーは、任務を遂行するために週末に予定していた家族旅行にも行けなくなってしまう。
どうすれば会社を救いつつリストラを避けられるのか、一人ロンドンに残り公園のベンチで頭を抱えるクリストファーに、自分を呼ぶ懐かしい声が届く。
振り返ると、そこには昔のままの姿のプーがいた・・・・
予告編がかなりのデジャヴだったが、物語の導入は藤子・F・不二雄の伝説的な「劇画オバQ」と完全に一致。
「劇画オバQ」は、オバケのQ太郎が15年ぶりに人間界にやって来て、今は結婚しサラリーマンとなった正ちゃんと再会。
ゴジラが音頭をとって、よっちゃんやキザオらかつての仲間たちとの同窓会が開かれる。
その席で、事業を立ち上げては失敗ばかりしているが、ただ一人熱く夢を語るハカセの言葉に皆心打たれ、酒の勢いもあって事業に参加することを宣言。
ところが「俺たちは永遠の子どもだ!」と童心を蘇らせたはずの正ちゃんたちは、翌朝にはあっさり普段の生活に戻ってしまい、ここにもはや自分の居場所はないことを悟ったオバQは、誰にも告げずに寂しくオバケの世界へと帰ってゆく。
藤子・F先生がこの作品を発表したのは、劇画ブーム真っ只の1973年で、それまでの牧歌的な少年漫画が否定され、社会性や批評性、アウトロー的な価値観が取り入れられた劇画が少年誌を席巻していた時代。
時代の変化に悩んだ作者による、シニカルで自虐的なセルフパロディだった。
しかし、純粋に大人向け、子どもの頃に読んだ私的にはトラウマ以外の何物でもなかった「劇画オバQ」に対して、本作は大人も子どもも楽しめるディズニー映画。
導入のアイディア以外、物語のベクトルは全く違うのでご心配なく。
原作の「くまのプーさん」の続編「プー横丁にたった家」のラストで、クリストファー・ロビンの子ども時代は終わりに近づいていることが示唆されていた。
本作では、彼が100エーカーの森を去った後も、プーさんら森の仲間たちは変わらぬ生活を続け、クリストファーの帰りを待ち続けている。
厳格なボーディング・スクールへと送られ、忙しい毎日を送るクリストファーの中で、プーさんたちとの楽しい記憶は徐々に顧みられなくなり、やがて愛する女性と出会って結婚、第二次世界大戦では兵士として死地を駆けずり回り、復員すると家族を守る父親として奮闘し、今ではロンドンの旅行用カバンの会社でそれなりの地位のサラリーマンに。
人々のライフスタイルの変化による経営難から、ブラック化しつつある会社の中間管理職として、子ども時代とは正反対のストレスフルな毎日を送っているのである。
プーさんとの別れから始まり、ここまでのクリストファーの半生を、オープニング・タイトルバックに、本の各章として端的に表現するテリングが絶妙。
これは現実社会のしがらみで、ガチガチの仕事人間になってしまったクリストファーの、心の再生と人生の再発見の物語。
言わば「劇画オバQ」の設定で、「メリー・ポピンズ」のテーマをやった作品だ。
クリストファーは、無能な上司から支出の20パーセントをカットするという無理難題を押し付けられ、週末を家族と過ごすことすら諦めねばならなくなる。
改善策が見つからなければ、ずっと一緒に働いてきた仲間を自分が選んで解雇するしかない。
仕事を頑張るのは家族のためと考えつつも、同時に量的にも精神的にもキツ過ぎる仕事が家族との関係を毀損していることも分かっている。
人生のプライオリティに迷ったかつての親友を救うため、100エーカーの森の魔法はプーさんをロンドンへと導くのである。
クリストファーと再会したプーさんは、昔と変わらぬ天真爛漫さと、原作由来のまるで禅問答の様な名台詞の数々で仕事人間の硬直した心を少しずつ溶かしてゆく。
プーさん「What day is it?(今日はいつだっけ?)」
クリストファー 「It's today.(今日だよ)」
プーさん 「My favorite day.(僕の大好きな日だ)」
(プーさんにとってはいつだって大好きな日!)
今までの作品にも、プーさんのトレードマークとして登場していた赤い風船が、いわば童心の象徴として使われているのも印象的。
クリストファーは、プーさんとの思わぬ再会と旅を通して、「大人の常識」という意識の下に押し殺してきた童心と対話し、人生をベターなものにするための気付きを得てゆくのだが、同時にこの作品はクリストファーとマデリン父娘の継承の物語でもある。
ボーディング・スクールで育ったクリストファーは、娘を同じ学校に入れようとしていて、それが家族の確執になっているのがポイント。
大人の作った枠組みの中で、早く大人になることを即すのがボーディング・スクール、それに対してマデリンと母親のイヴリンは、自分のペースで大人になる自由な道を選ぼうとしているのである。
プーさんとクリストファーの再会、そしてマデリンとプーさんとの出会いによって、彼女は100エーカーの森の継承者となり、かつてのクリストファーが諦めなければならなかった、“ifの子ども時代”を過ごす権利を得る。
主に前半はクリストファー、後半はマデリン、この二人の視点を巧みに交錯させることで、大人も子どもも物語の人物に自然に感情移入できるのが上手い。
物語の舞台はロンドンから100エーカーの森があるサセックスへ、そしてマデリンがクリストファーに大切な書類を届けるため再びロンドンへ。
大人なら頑張り過ぎてしまっているクリストファーを自分の鏡像として、子どもなら大人の辛さを学びつつ、マデリンとプーさんたちのパパを救うための大冒険にワクワク。
100エーカーの森と、生きているぬいぐるみたちのビジュアルも素晴らしい。
この森は、ミルン一家が夏を過ごしたサセックスのアッシュダウン・フォレストがモデルになっており、森自体は今もそのまま実在しているのだが、映画のロケーションが行われたのはロンドン郊外のウィンザー・グレート・パーク。
ディズニーの「イントゥ・ザ・ウッズ」や最近では「アナイアレイション -絶滅領域-」のロケが行われた場所だ。
もちろん様々な効果がつけられてはいるが、こんな森で子ども時代を過ごしたかったと思わせる美しさと説得力。
プーさんやピグレットたちの、クラッシックなぬいぐるみ造形も世界観にマッチし、とても可愛らしい。
子ども時代との予期せぬ再会は、知らぬうちに仕事人間になっていたクリストファーに、人生で本当に大切なことは何かを思い出させる。
働くということがどうあるべきなのかという点で、日本人には特に琴線に触れる映画だと思うし、これは今の仕事に疑問を持っている人ほど観るべき作品。
全ての世代が笑って泣いて、人によっては自分の生き方を考えることに繋がり、最後には気持ちの良い余韻に浸れる。
プーさん好きにはもちろん、オリジナルを知らない人でも十分楽しめる傑作娯楽映画だ。
今回は、日本にも同名パブチェーンがある「ホブゴブリン」をチョイス。
チョコレートモルトの甘い香りが特徴のダークエールは、フルボディだが強いクセがなく飲みやすい。
オックスフォード州ウィットニーの森の中にあるウィッチウッド・ブリュワリーは、銘柄が全てファンタジー繋がりで、ホブゴブリンの他にもブラックウィッチやゴライアスなどがある。
ホブゴブリンとは森に住むいたずら好きの妖精の類だが、もしかしたら魂を宿したプーさんたちもその一種なのかも知れない。

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小四にしておっぱいを研究する、ちょっと自意識過剰なアオヤマ君と、彼の初恋の人である不思議な“お姉さん”を巡る一夏の冒険の物語。
ある日突然、街中に謎のペンギンたちが現れ、以降ヘンテコなことが次々起こる様になる。
アオヤマ君は同級生のハマモトさんとウチダ君と三人でヘンテコ現象を研究し、原因を突き止めようとするのだ。
思春期の恋心を刺激的なスパイスに、子どもならではの世界の理に対する率直な興味が、夏休みの冒険という非日常の中でスパーク。
「フミコの告白」「陽なたのアオシグレ」などの短編で注目を集めた、石田祐康監督の驚くべき長編デビュー作であり、原作・森見登美彦と脚色・上田誠の「夜は短し歩けよ乙女」コンビは、再び絶妙なマリアージュを見せる。
物語のキーパーソンとなる、“お姉さん”を演じる蒼井優が最高に素晴らしい。
※核心部分に触れています。
緑豊かな郊外の街にすむ利発な小学校四年生・アオヤマ君(北香那)は、毎日“研究”の成果をノートに記録し、偉い大人になるべく努力している。
研究の内容は、近くを流れる川の水源探しから、歯科医院の“お姉さん”(蒼井優)のおっぱいまで様々だ。
“お姉さん”は背伸びしたいアオヤマ君のチェスの先生でもあり、何かにつけてかわいがってくれる。
夏休みも近いある日、アオヤマ君の住む街に突然たくさんのペンギンが出現。
海のない街の住宅地に現れたペンギンたちは、あちこちで騒動を引き起こして忽然と消えてしまった。
ペンギンたちはどこから来たのか?そもそも本物のペンギンなのか?
好奇心にかられたアオヤマ君は、友達のウチダ君(釘宮理恵)とペンギンの研究を始めるのだが、手がかりは少ない。
そんな時、アオヤマ君は“お姉さん”の投げたコーラの缶が、ペンギンに変身するのを目撃する。
“お姉さん”はいったい何者?ペンギンとの関係は?
呆然とするアオヤマ君に、“お姉さん”は言う。
「この謎を解いてごらん。どうだ、君にはできるか?」
人生を変える、特別な夏が始まる・・・・
これは言わばジュブナイル仕立てのハードSF。
原作は未読のまま観て、びっくりして本屋に直行し購入、読み終わってからもう一度鑑賞しなおした。
上田誠は、物語の中で起こることの時系列を少し組み変える工夫により、原作の内容を殆ど削ることなく2時間の長さに収め直すという見事な仕事をしている。
住宅地に忽然と現れたペンギンたちという“怪異”から始まる物語は、ペンギンとその捕食者であるジャバウォックら不思議な生き物たちを生み出す“お姉さん”の秘密、森の奥の草原に出現した、まるで生きているかのように変異する透明の球体〈海〉の謎へと急速に広がってゆく。
アオヤマ君たち、やわらか頭を持つ小学生たちの探究心は、この幾つもの折り重なった現象に挑み、やがて驚くべき解を導き出す。
一見するとバラバラに見えるヘンテコ現象は、実は全て一つ。
球体に見える〈海〉はこの世界に開いてしまった異世界の穴、ある種のワームホールであり、“お姉さん”んは人間ではなく、この事態を修復するために〈海〉と同時に生まれた存在。
ペンギンたちは、あってはならない穴である〈海〉を壊すために、ジャバウォックは〈海〉と“お姉さん”自身の自我を守るために、彼女が無意識に作り出す均衡装置なのである。
これだけでも、本作がベースの部分に本格的なハードSFの要素を持っているのが分かるのだが、ユニークなのは、ここに少年少女の成長の場としてのジュブナイルの要素が組み込まれていることだ。
アオヤマ君が、目標とする偉い大人になるまで、あと3800日あまり。
もうすぐ10歳になる夏の冒険は、彼が生と性、そして死と喪失を初めて感じるためのステージでもある。
この構造を成立させるために、作者は二つの作品を引用する。
一つ目は、意識を持つ惑星の〈海〉が様々な現象を引き起こすスタニスワフ・レムの「ソラリスの陽のもとに」だ。
知的生命であるソラリスの〈海〉は、訪れた人間の記憶からすでに死んだ人間のコピーを作り出す。
本作の〈海〉は、生と死が交錯するソラリスの〈海〉のミニチュア版だ。
もう一つは、ジャバウォックの元ネタでもあるルイス・キャロルの「鏡の国のアリス」である。
前作の「不思議の国のアリス」とともに、ジュブナイル文学の源流の一つであるこのシリーズは、思春期の少女の心象風景として異世界が構成されていて、「不思議の国」ではトランプ、「鏡の国」ではチェスが世界観に取り入れられているのはよく知られている。
「鏡の国のアリス」では丘を登ったアリスが、世界がチェスボードであることに気づくのだが、本作では街を見下ろしたアオヤマ君が、幾つもの丘陵を“お姉さん”のおっぱいの様だと思う。
つまり、アオヤマ君にとってこの世界は“お姉さん”であり、“お姉さん”自身がゲームなのである。
“お姉さん”は、アオヤマ君のことを「背伸びしたペンギンみたい」という。
ならばアオヤマ君である無数のペンギンが、丘陵の街を踏み超え巨大に膨張した“お姉さん”の分身である〈海〉に飛び込むのは受精のイメージ。
しかし、それはアオヤマ君にとって新しい世界が生まれることに繋がるが、同時に初恋の象徴である“お姉さん”は永遠に失われてしまう。
ここでは生は性の結果であり、誕生は喪失と裏表。
壮大すぎる夏休みの研究と、“お姉さん”との未知の冒険の結果として、アオヤマ君は今まで知らなかったこの世界の、この宇宙の理を学ぶのだ。
イマドキの小学生の話にも関わらず、スマホなど電子ディバイスの類が一切登場せず、彼らがノートをとることに拘りを持っているのも良い。
お手軽だが記憶に留まらないデジタルではなく、自らの手で起こったこと、感じたことを記録することで、それは確かな実感として残り続ける。
最近ではドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の「メッセージ」や「ブレードランナー2049」、あるいはクリストファー・ノーラン監督の「インターステラー」がそうであったように、全ての優れたハードSFは、特異で科学的な事象と人間の精神が組み合わさって紡ぎ出される美しい詩である。
本作でもSF的でミステリアスなシチュエーションに、アオヤマ君の静かに激しい初恋の熱が混じり合い、予想もしない化学反応が広がってゆく。
例によって魅力を言葉で表すのが非常に難しい作品だが、これはいわばハードSFの枠組みに「SUPER8/スーパーエイト」のワクワクするジュブナイル的冒険の甘酸っぱさと、「夜は短し歩けよ乙女」の心象世界のパワフルな混沌を掛け合わせたような独創の作品だ。
石田祐康監督がこの作品を撮ったのも、なんだか運命に導かれている様に感じる。
彼は短編で初恋のイメージをずっと描き続けてきた人で、京都精華大在学中に発表し、一躍脚光を浴びることになる「フミコの告白」では、野球部の彼への告白に失敗したフミコの暴走を怒涛のアニメーション活劇として昇華し、続く「rain town」では忘れられた雨の街で、かつて去っていった少女を待ち続けるロボットの物語を一転して静的に描いた。
「陽なたのアオシグレ」では、鳥マニアの日向君が、愛する時雨ちゃんに想いを伝えるため街を疾走するのだが、二人のキャラクター造形に本作のウチダ君とハマモトさんの原型が見え隠れ。
恋敗れたフミコが坂の街を暴走するシークエンス、鳥たちが雨空を切り裂き、日向君が幻想の街を飛び抜けるビジュアルは、おそらくこの人の原点的イメージなのだろうが、グッと洗練されて本作のクライマックスのペンギン・ハイウェイならぬペンギン・ジェットコースターとして、再創造されている。
森見登美彦と上田誠の優れたストーリーを得て、1988年生まれの新世代、石田監督とスタジオ・コロリドは、見事なテリングによって鮮やかな長編メジャーデビューを飾ったと言って良いだろう。
ところで、近年夏休みの終わりにTOHOアニメーションが公開する青春ものは、どれも死の香りが色濃い。
「君の名は。」に「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」、そして本作「ペンギン・ハイウェイ」まで、全て少年少女が生の裏返しとして死を意識する話でもあるのは偶然なのだろうか。
ちょうどお盆の季節でもあるし、命が燃え上がる夏の終わりが死に繋がるのは、「銀河鉄道の夜」からの日本の伝統なのかもしれない。
そういえばこの3作は、全て鉄道が重要な役割を果たす。
特に「打ち上げ花火」は、そのものズバリ「銀河鉄道の夜」をモチーフにしている話だし。
この辺りの象徴性は、アオヤマ君みたいに研究してみても面白いかもしれない。
今回は、“お姉さん”のコーラから謎がブレイクスルーされる話だったので、「コークハイ」をチョイス。
氷で満たしたタンブラーに、お好みでウィスキーを1/4から1/3注ぎ、次にコーラで満たしながら、マドラーでウィスキーをすくい上げるように優しく混ぜ、カットしたレモンを添えて完成。
ウィスキーの味が苦手という人でも、コーラの甘さが中和してくれて抵抗なく飲めるだろう。
それでもクセが嫌な場合は、甲種焼酎で作ればもっと飲みやすくなる。
スッキリ爽やか、日本の夏の定番の一杯だ。

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ディアブロ・コディ脚本、ジェイソン・ライトマン監督の名コンビ三度。
シャーリーズ・セロン演じるマーロは、三人の子を持つ母。
ゲーム中毒で出張の多い夫は、人は良いがほとんど役に立たない。
マーロ自身も仕事を持ちながら、自分に厳しく完璧な母でありたいと奮闘するも、発達障害で時に癇癪を爆発させる長男を抱え、三人目となる次女の出産・育児の激務に遂にギブアップ。
裕福な兄夫婦に勧められて、夜間ベビーシッターのタリーを雇う。
決まって毎夜10時半にやって来て、夜明けと共に姿を消すタリーの助けによって、マーロは少しずつ心の余裕を取り戻してゆく。
トライベッカ映画祭でライトマンが語ったところによると、コディと組んだ三本の映画「JUNO/ジュノ」「ヤング≒アダルト」そして本作には明確な関連性があり、それぞれ「人生のタイムラインの、どの場所にいるのか混乱をきたしている人物の話」だと言う。
「JUNO/ジュノ」の16歳の妊婦はあまりにも早く成長しなければならず、逆に「ヤング≒アダルト」の主人公は成長が遅すぎる。
本作のマーロは、親になったことで自らをもう一段成長させねばならないのだが、恵まれない子供時代を過ごし親をベンチマークできなかった彼女は、自分をどういう風に成長させていいのか分からないのだ。
そんな時に現れるのが、コディが創造した21世紀版のロックなメリー・ポピンズ、タリーという訳だ。
一見すると、赤ちゃんを任せるのが心配になるほど奔放なイマドキの若者。
しかし、夜の間にバッチリと仕事をこなし、子供たちとの関係から夫との夜の営みに至るまで、マーロの悩み相談にも乗ってくれるが、自分のことはほとんど話さない。
完璧すぎるタリーは、一体何者なのか?というミステリが興味を引く。
彼女の正体に関しては、中盤辺りから徐々にヒントが出てくるのだが、ある種のバディものとして二人の女性が絆を深め、マーロが再生されてゆくプロセスを物語の推進力としつつ、必然の別れを物語のソリューションとする秀逸な作劇ロジック。
疲れ切った母ちゃんに成り切るために、三ヶ月半かけて50ポンド近く増量したというシャーリーズ・セロンが相変わらず素晴らしいのだが、ここまでデブになっても美しさは隠せない。
頑張り過ぎて自分を追い込んでしまう女性をリアリティたっぷりに演じて、大いに共感できるキャラクターだ。
ちなみに増やした体重を元に戻すのには、1年半の歳月と地獄のようなダイエットが必要だったというから、デニーロ・アプローチの役者さんは大変だ。
彼女を救うタリー役は、「オデッセイ」でNASAのエンジニアを演じたマッケンジー・ディヴィスが好演しているが、この二人の身長がほとんど同じなのも実は重要なヒント。
終盤に起こる、あるサプライズな事件によって、欠けていたミッシングパーツが現れ、パズルの全体像がバシッと浮かび上がるストーリーテリングのカタルシス。
子育て中の女性に、「自分を追い込み過ぎないでいいんだよ」と言う優しいエールを送るだけでなく、色々と分かってない男も含めて、誰にもなんらかの“気付き”を与えてくれる、詩的で優れた寓話だ。
しかしこの夏は「未来のミライ」「インクレディブル・ファミリー」と、やたらと子育てモチーフの映画が多いのは面白い現象。
邦画と洋画、アニメーションに実写というフォーマットだけでなく、それぞれの物語的アプローチの違いが面白い。
どの作品にも共通するのは、「とりあえず、お父さんはもうちょっと頑張ろう」ということだろうか。
今回は、謎めいたタリーのイメージでジン・ベースのカクテル、「ピンク・レディー」をチョイス。
ドライ・ジン45ml、グレナデン・シロップ20ml、レモン・ジュース1tsp、卵白1/2個をよくシェイクして、グラスに注ぐ。
その名の通り、パステルなピンクが美しいカクテルで、グレナデン・シロップの甘みと卵白の口当たりがジンを優しく包み込む。
名前は1912年に初演された、イギリスの同名ミュージカル・コメディーの舞台にちなむ。

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北京・広州・上海、現代中国の三都市を舞台に、今時の若者たちを描く日中合作オムニバス。
アニメーション制作がコミック・ウェーブ・フィルムというだけでなく、中国人監督たちのリスペクトがビンビンに感じられ、世界観とテリングのスタイルが凄く新海誠っぽい。
共同製作先のHaolinersのリ・ハオリン代表が第3話監督兼総監督を務め、「ストームブレイカーズ 妖魔大戦」のジョシュア・イ・シャオシン監督が第1話を担当、第2話は「君の名は。」の3DCGチーフを務めた竹内良貴が監督デビューを飾った。
新海作品を肌で知る日本人監督の第2話が、一番新海スタイルから離れようとしてるのが面白い。
第1話「陽だまりの朝食」
今は北京で働く主人公・シャオミンが、少年時代を過ごした湖南省で毎日朝食に食べていたソウルフード、ビーフンについて語る。
とりあえず湖南人のイ・シャオシン監督が、死ぬほどビーフン好きなのが伝わってくる。
一応、共働きの両親に代わって育ててくれたおばあちゃんとの思い出とか、毎朝ビーフンを食べながら眺めていた初恋の彼女の話とかも出てくるのだけど、飯テロレベルのビーフンの描写が強烈すぎて、ほとんど「ビーフンうまそう」しか感想が出てこない(笑
この味覚と郷愁が合体した感覚、香川県人のうどん愛に近いものがある。
「これ、日本を舞台にリメイクするなら香川しかないだろうなあ」なんて考えながら観た。
東京都内にも湖南の汁ビーフンの店があるので、観終わってそのまま食べに行ってしまったよ。
第2話「小さなファッションショー」
他の二編が多分に監督の人生を反映した少年の物語なのに対して、これはファッション業界に生きる姉妹の話で、ちょっと毛色が違う。
主人公は広州で活躍するベテランのトップモデル・イリンと、服飾学校に通う妹のルル。
大きな成功を掴んだものの、イリンは次第に人気が旬を過ぎつつあるのを自覚し、焦りからルルに八つ当たりしてしまう。
奔放なお姉ちゃんとしっかり者の妹の、雨降って地固まる的な王道の姉妹成長物語。
よく出来た作品だが外国人監督のためか、他の二編と違って“郷愁”の要素がないので、あまりローカル色は強くない。
舞台になる広州市がまるでSFの未来都市のようで、生活感がないのもその印象を強化する。
ファッション業界の男性がオネエっぽいのは、世界中共通なんだろうか?
第3話「上海恋」
掛け違えてしまったボタンを巡る、切ない初恋物語。
もともとこの企画は、「秒速5センチメートル」に感動したリ・ハオリン監督がコミック・ウェーブ・フィルムにオファーを出したことから始まったという。
その原点となった作品にオマージュを捧げたリリカルな一編だが、きちんと本歌取りして独自の味わいに仕上げている。
1999年、上海の旧市街・石庫門に暮らす中学生・リモとシャオユの幼い恋。
両思いだった二人は、進路を巡る誤解から離れ離れになってしまうのだが、遠い未来に一本のカセットテープが真実を明らかにする。
誰もが身に覚えのある甘酸っぱい初恋の記憶、物語上の現在と過去の時間の差異が、新しい街と古い街が存在する上海の独特の空間とリンク。
高い普遍性を持ちながら、この街ならではの作品になっている。
主人公が建築家設定なのが象徴的だが、これも新海作品へのオマージュかもしれない。
どの話も、登場人物が中国名じゃなければ、絵柄的には日本の作品と見分けがつかないが、これはやはりダイナミックに変貌する現代中国以外では成立しない作品。
主人公たちはどの話も大体30歳くらいなのだけど、彼らが10代の頃と現在とではもう街の風景がガラッと違うのだ。
第3話ではカセットテープが過去と現在をつなぐキーアイテムとなるのだが、2000年頃の日本ではもうCDプレイヤーを通り越してMP3が主流になりつつあったと思う。
高校生たちがラジオを録音したりして、一生懸命オリジナルテープを作ってたのは、80年代頃だった。
2000年頃の時点で、日本と中国には10年以上のタイムラグがあったのが、今ではむしろ中国の方が未来を感じさせる部分が多い。
過去20年の社会の移り変わりが激しく、そのことがうまく作品に取り込まれているのが本作の特徴と言えるだろう。
Netflix案件ですぐ配信始まるが、美しい映像は劇場で観る価値がある。
今回は、最終第3話の舞台から魔都「シャンハイ」の名を持つカクテルをチョイス。
ダーク・ラム30ml、アニゼット10ml、レモン・ジュース20ml、グレナデン・シロップ2dashをシェイクしてグラスに注ぐ。
濃厚なダーク・ラムにアニゼットの香り、レモンの酸味が絶妙にバランスする。
このカクテルの由来には、上海の租界で生まれたものとか、イギリスで考案されエキゾチックな名前としてシャンハイと付けられたとか諸説あるが、ほぼ100年前から存在する歴史あるカクテルである。

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ピクサー映画史上初めて、人間が主人公となった作品としても知られる、ブラッド・バード監督の大ヒット作、「Mr.インクレディブル」の14年ぶりとなる続編。
政府によるスーパーヒーロー禁止法を撤回させるため、母ヘレンがイラスティガールとして活動を開始。
変わって一家の主夫となったMr.インクレディブルことボブが、無限の能力を秘めたジャック=ジャックの世話に、恋する長女ヴァイオレットの扱いに、悪戦苦闘の毎日を送る羽目に。
そこに目的不明の謎のヴィラン、スクリーンスレイヴァーが現れ、街を混乱に陥れる。
2007年の「レミーのおいしいレストラン」以来、11年ぶりにブラッド・バード監督がアニメーションの世界に帰還。
主人公夫妻を演じるグレイ・T・ネルソン、ホリー・ハンター、氷を操るヒーローのフロゾン役のサミュエル・L・ジャクソンなど、主要キャストも続投。
夏休みらしい、パワフルでゴージャスな“ファミリー映画”だ。
シンドロームとの戦いから3ヶ月後。
Mr.インクレディブルことボブ(グレイ・T・ネルソン)とイラスティガールことヘレン(ホリー・ハンター)のパー夫妻は、特殊能力を持つ長女ヴァイオレット(サラ・ヴォーウェル)、長男ダッシュ(ハック・ミルナー)と力を合わせ、街を襲ったアンダーマイナーを阻止。
しかし、例によって街を破壊したため政府の保護を失う。
彼らの活躍を見た実業家のウィンストン・ディヴァー(ボブ・オデンカーク)は、ヒーロー活動を政府に再び認めさせるため、パー夫妻を支援すことを申し出る。
だが、Mr.インクレディブルでは破壊の規模が大きすぎるため、当面の活動はイラスティガールが担うことになり、ボブはヘレンのかわりに一家の主夫に。
ボブが家事に育児に苦闘する間、ヘレンは着実に実績を重ねて、いよいよ政府がヒーロー活動禁止法を撤回することになる。
ところが、テレビ画面やモニターをジャックして、人々をマインドコントロールする謎のヴィラン、スクリーンスレイヴァーが出現し、ヘレンはピンチに陥るのだが・・・
14年ぶりの続編は、前作のラストから直接繋がっていて、まるで前後篇二部作の様な作り。
単体でも分かる様にはなっているが、やはり前作を観てることが前提の作品だ。
2004年に公開された「Mr.インクレディブル」は、ヒーローが戦うことによる被害の増大で、政府がヒーロー活動を禁止し、行き場を失った彼らに新たな身分を与える「スーパーヒーロー保護プログラム」を発動した世界の話。
日本でも「ウルトラマンが怪獣と戦うことで、かえって被害が拡大するんじゃ?」という話は古くからあったが、この疑問をフィーチャーして実際に作品にしたのが、アラン・ムーアとディヴ・ギボンズが1986年に発表したグラフィックノベル「ウォッチメン」だ。
嘗て実在したスーパーヒーローたちが、活動を禁止されたもう一つの1985年を舞台に、元ヒーローの殺人事件から始まる物語。
ザック・スナイダー監督で映画化もされたこの作品が、本作の世界観に強い影響を与えていることは間違いなかろう。
もっとも、ブラッド・バードが作り出した世界は、冷戦時代を背景に歴史から哲学までをも網羅する「ウォッチマン」ほど複雑ではない。
強制引退から15年後、ヘレンと結婚して3人の子宝にも恵まれたボブは、ヒーローとして世界から脚光を浴びていた時代が忘れられず、夜な夜な親友のフロゾンと共に警察無線を盗聴してはこっそり人助けをしている。
そんな懐古願望をヴィランのシンドロームに利用され、彼の暴走を止めるために家族で立ち上がるというのが前作の流れ。
シンドロームは止めたものの、ヒーロー活動の禁止はそのままなので、今回は再び活動できるようヒーローの良いところをアピールする。
街への被害を抑えるため、ゴム人間のヘレンが前面に立ち、その間ボブが家事・子育てを担当することに。
プロットはイラスティガールとして活躍するヘレンと、主夫として苦闘するボブのツートラック。
ヒーローは本当に不要なのか?という前作から引き継いだ葛藤に加え、夫婦の役割を逆転させることで、時代の変化を反映した内容になってるのはさすが。
アメリカ版「未来のミライ」よろしく、子育て篇にかなりの重きが置かれてるのが特徴で、誰よりもヒーロー活動への渇望が強いボブのイライラと、家事から解放されて精一杯羽を伸ばして活躍するヘレンのコントラストが効果的。
ティーンエイジャーから赤ちゃんまで、世代の違う子どもたちに振り回されるおじさんヒーローは、生活感があってかなり可笑しい。
だが、「未来のミライ」と決定的に違うのは、ボブにとって主夫業は結局最後まで「イヤイヤやらされること」で、家事や育児の面白さや深さに目覚めたり、彼自身を成長させることはないということ。
これはおそらく、遅い結婚をして今まさに子育て真っ最中の50歳の細田守と、子育てはとっくに終えている60歳のブラッド・バードの、世代的な経験と環境の差が影響しているのかなという気がしている。
細田守にとっては、今まさに様々な気づきを経験して成長している時なのだろうが、バードにとっては全てはもう思い出なのだろう。
ちなみにバード家の三男マイケルは、ヴァイオレットが恋心を寄せるトニー役で出演している(30歳だけど)。
もちろん主にイラスティガール担当のアクション活劇も、素晴らしい仕上がりだ。
この11年の間に「ミッション:インポッシブル/ゴーストプロトコル」など、実写作品を経験したバードの演出は前作以上にキレキレ。
バイクで暴走列車を追跡するプロセスは、前作ではMr.インクレディブルの見せ場だった列車アクションを再現し、今度はイラスティガールならではの描写で盛り上げるセルフオマージュ。
スクリーンスレイヴァーを追跡するシークエンスは、どこか「ミッション:インポッシブル」テイストだ。
そして二つのメインプロットが終盤見事に融合し、海と空を駆け巡るスペクタクルなクライマックスに展開する。
今回は、前作でその能力が垣間見られたジャック=ジャックも大活躍。
パー家とフロゾン以外の、その他ヒーローたちの特殊能力も上手く生かされていた。
ヴィランに関して、背景が前作のシンドロームと被る部分があり、一見いい人だが実は裏があるという、最近のディズニーヴィランのパターン通りで意外性が無いのがちょっと残念だが、安直に殺して終わりにしなかったのは良かったと思う。
前作のシンドロームがジェット機のエンジンに巻き込まれて死ぬのは、マントを付けていたための自滅だったとはいえ、その後のディズニー/ピクサーヴィランの生々し過ぎる最期の先駆けでもあった。
キャラクターの背景がきちんと描かれ、単純悪ではなかったゆえに、彼の最後は当時結構引っかかったのを覚えている。
あの頃のアメリカ映画は、とりあえず悪者は殺すという不文律でもあったかのように、ヴィランが死にまくっていた時代。
ピクサーの「カールじいさんの空飛ぶ家」や「トイ・ストーリー3」でも、ヴィランが悲惨な最期をとげるのは、ディズニーブランドとの差別化の意味もあって、「人生そんな優しいオチばかりにはならない」ということを強調する意図があったと聞くが、その後ディズニーの「塔の上のラプンツェル」でも同じパターンが繰り返された。
それが変わったのは、やはり「アナと雪の女王」で、御伽噺の魔女を主役のポジションにしたあたりからだろう。
その後「ヴィランにも色々事情はある」という考え方は、ディズニーブランドの「ベイマックス」や「ズートピア」、「モアナと伝説の海」でも作劇に大きな影響を及ぼしており、今回その流れがピクサーにも波及した。
スーパーヒーローを描くアニメーションの世界でも、二元論が通用しない時代になったということか。
ブラッド・バードの次回作は、以前から取り組んでいる1906年のサンフランシスコ大地震を描く「1906」になる可能性が高そうだが、もし「インクレディブル3」があるとしたら、今度は子供世代を主役にしても面白そうだ。
ヴァイオレットが恋とヒーロー活動の両立に悩んだり、ダッシュがMr.インクレディブルをライバル視するようになったり、ジャック=ジャックがダークサイドに落ちそうになったり、少し子供たちの年齢を上げるだけで色々なドラマが作れそう。
同時上映の「BAO」は、なんと生きている“肉まん”と人間のお母さんの絆を描く。
息子が成長して家を出て、寂しさを募らせるお母さんが作った肉まんに、不思議な命が宿る。
彼女は、肉まんを息子だと思って育てるのだけど、やがて肉まん息子も人間の息子同様に、成長して親離れしてゆく。
文字どおりに、食べちゃいたいくらいに息子を溺愛するお母さんの葛藤が切ない。
トロントの中国人コミュニティーで一人っ子として育ったドミー・シー監督の、母への想いが詰まったユニークな短編だ。
今回はMr.インクレディブルと飲みたい、スカッとするビールを。
以前ピクサーの近くにPyramid Brewery & Alehouseという地ビールの店があって、ピクサーのスタッフもよく来ていたのだが、残念ながら3年前に閉店してしまった。
今回は対岸のサンフランシスコを代表する地ビール、「アンカー・スチーム」をチョイス。
ラガー酵母をエールの様に常温醗酵させる事で、適度なコクと苦味が華やかな香りと同居する、ラガーとエールの良いとこどり。
ベイエリアの老舗クラフトビールで、ゴールドラッシュ時代の開拓民に愛されたスチームビールの復刻版だ。

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不可能を可能にするスーパースパイ、イーサン・ハントと仲間たちの活躍を描く、シリーズ第6弾は、前作「ローグ・ネイション」からの続きもの。
死んだり行方不明になったはずの各国スパイによって構成された秘密組織「シンジケート」の存在は、イーサン率いるIMF(Impossible Mission Force)の活躍によって暴かれ、ボスのソロモン・レーンは捕らえられた。
しかし、シンジケートの残党は、既存の世界をリセットし新たな時代を作ろうと考える、より過激な分派「アポストル」として今も暗躍している。
ロシアから盗み出された三つのプルトニウム・カプセルとレーンの身柄を巡る物語は、IMF、CIA、アポストル、さらに前作の最強ヒロイン、イルサも加わり四つ巴の争奪戦へと展開。
シリーズ史上初、二作連続で脚本と監督を務めるのクリストファー・マッカリーが作り上げたのは、シリーズ22年間の集大成で、いわば「ミッション:インポッシブル全部入り」の豪華フルコース。
ストーリー、テリング、キャラクターが極めて高いレベルで三位一体となった、平成最後の夏の真打に相応しいシリーズベスト、スーパーヘビー級の傑作だ。
※核心部分に触れています。
盗まれたプルトニウムを奪還せよという指令を受けたイーサン・ハント(トム・クルーズ)は、一度は回収に成功するも、不意を突かれ何者かによって横取りされてしまう。
事件に秘密組織「シンジケート」の過激派「アポストル」が関与していており、ジョン・ラークという謎の男が、プルトニウム取引のため武器商人のホワイト・ウィドウ(バネッサ・カービー)と接触するという情報を得たイーサンは、ホワイト・ウィドウに近づく作戦を立てる。
しかし、毎回IMFに煮え湯を飲まされているCIAが、お目付役として敏腕エージェントのオーガスト・ウォーカー(ヘンリー・カヴィル)を送り込み、二人はお互いに不信の目を向けながら行動を共にすることに。
ラークの身柄を押さえて、彼に変装してホワイト・ウィドウに会うというイーサンの計画は、ラークと思しき男の予想外の戦闘スキルによって失敗。
返り討ちされそうになった時、一発の銃弾が男の眉間を撃ち抜く。
イーサンの危機を救ったのは、この世界から足を洗ったはずの元MI6のイルサ(レベッカ・ファーガソン)だった・・・
前作「ローグ・ネイション」は、クリストファー・マッカリー監督のストーリーテラーとしての特質が十二分に発揮された秀作だった。
脚本家出身のマッカリーは、劇中に登場するプッチーニの古典オペラ「トゥーランドット」を換骨奪胎し、プロット全体の下敷きにするという、なんとも凝った仕掛けを作劇に組み込んできたのだ。
「トゥーランドット」は古の中国を舞台に、絶世の美女トゥーランドット姫と国を追われたカラフ王子のロマンスを描く作品だが、トゥーランドットに求婚する男は、彼女の出す三つの謎かけに答えなければならず、もしも間違えたら処刑されてしまう。
映画では、二重スパイとしてMI6からシンジケートへ送り込まれ、二つの組織のそれぞれのボスの身勝手な思惑によって、偽りの人生に縛り付けられてしまったイルサがトゥーランドットで、イーサンが彼女の凍りついた心を溶かし、解き放つカラフ王子の役割を担う。
実質的な物語の主人公はイルサで、イーサンは一歩引いた受け身の役だった。
本作ではイーサンが主役のポジションに戻り、彼の「世界を救いたい」と「たった一人でも守りたい」という、両立が難しい二つの行動原理の間の根源的な葛藤を前面に出し、過去シリーズ全てを内包した作り。
今回、彼の元に届くミッションの指令は、ホメロスの叙事詩「オデュッセイア」の本に隠されている。
このことが示唆する様に、マッカリーがやろうとしているのは、トロイア戦争を大勝利に導きながら、その後いつ終わるとも知れぬ故郷への遠大な旅を強いられた古代ギリシャの英雄に、イーサンを見立てることなのである。
言ってみれば「ローグ・ネイション」はマッカリー二部作のイルサ編で、「フォールアウト」がイーサン編という構造だ。
イーサンが最後に母国アメリカにいたのは、奇しくもこの夏「インクレディブル・ファミリー」が公開されているブラッド・バード監督の「ゴースト・プロトコル」のラスト。
平和に暮らしている元妻のジュリアを、遠くから見守っている切ないシーンだった。
あれ以来、彼はオデュッセウスと同じ様に、ずっと世界を転々とする流浪の日々を送っているのである。
驚くべきことに、本作がクランクインした時点では、マッカリーの脚本はほとんど完成していなかったそうだ。
映画を撮影しながらキャラクターと対話し、並行して脚本を作ってゆく。
まさに制作現場そのものが行先不明の貴種流離譚さながらで、システマチックなハリウッドのメジャー作品において、このようなスタイルが許されるのはかなり珍しい。
シリーズのプロデューサーも兼ねるトム・クルーズが、それだけマッカリーに対して全幅の信頼を置いているということだろう。
おそらくこの独特の制作プロセスのためか、よくよく見て行くと整合性が微妙な部分もあるのだが、本作のプロットはロジカルでありながら、登場人物のエモーションによって推進力を得て、極めて有機的に展開する。
冒頭の夢のシーンが、本作のコンセプトを端的に表している。
イーサンとジュリアとの幸せな結婚式に、なぜか立会人としてレーンが現れ、ジュリアにできもしない約束をするイーサンを責めるのだ。
好き勝手に暴れまわるので“Rogue organization(ならず者組織)”と煙たがられ、毎回孤立するIMFにとって、シンジケートは合わせ鏡であり、レーンはいわばイーサンのダークサイド的存在。
劇中でイーサンが実はラークなのではないかと疑われるのも、彼らが常に淵に立っている存在で、ジェダイの騎士以上に“落ちやすい”からに他ならない。
実際第一作の「ミッション:インポッシブル」では、TVシリーズ「スパイ大作戦」でIMFのリーダーだったジム・フェルプスが裏切り者となる。
権力から捨て駒として扱われ、大義を果たすために犠牲を強いられるのなら、そんな世界そのものをぶっ壊してしまえというのがシンジケートやアポストルの考え。
対して、既存の権力の指令を受けながらも時には抗い、愛や信頼といったパーソナルな繋がりによって、ライトサイドに留まっているのがIMFの面々と言える。
これはスーパースパイ、イーサンが世界を救う英雄としての自分と、誰かを愛する一人の人間としての自分の間で、矛盾する姿を改めて突きつけられ、自分の戻るべき場所、いるべき場所はどこなのか葛藤する物語なのである。
ここでポイントになるのが、ヘンリー・カヴィルの存在だ。
それほどミスリードもされておらず、話の途中で割とあっさりと明かされるのだが、彼こそ本作のキーパーソンである謎の男ラークの正体。
前作のボスキャラであるレーンも登場するが、イーサンの分身としてのレーンは、すでに前作で彼自身によって倒されている。
本作で解き放たれたレーンと対決しなかればならないのは、彼の存在によって過去に縛られているイルサなので、レーン以外にもう一人、イーサンと対決する同格のボスキャラが必要となり、それがラークというわけだ。
カヴィルは以前「コードネーム U.N.C.L.E.」でナポレオン・ソロを演じていて、ある意味共に60年代のテレビにルーツを持つ、「スパイ大作戦」と「ナポレオン・ソロ」の共演という遊び心が楽しい。
シリーズ最長の147分は頭脳戦から肉弾戦、空と陸を駆け抜ける怒涛の見せ場の連続だが、アクションの一つひとつにも過去シリーズへのオマージュが見える。
クライマックスのヘリコプターバトルは第一作を思わせるし、断崖絶壁に宙吊りになりながら戦うシーンでは、第二作のアヴァンタイトルで、イーサンの趣味がフリークライミングだったのを思い出して思わずニヤリ。
例によってバイクと車が入り乱れてのカーアクションの凄まじさは言わずもがなだし、シリーズ伝統の垂直方向のアクションは、高度25000フィートを飛ぶ輸送機からのダイビングとして受け継がれている。
これだけド派手な見せ場を繋ぎながらも、シリーズでは隠し味的に組み込まれていたロマンスの部分を感情のドラマのコアに置き、イーサン・ハントの貴種流離譚の行き着く先をきっちりと明示してくるのだから見事だ。
マッカリーのセンスは、本当に艶っぽい。
もしかして、本作をもってイーサン・ハントと仲間たちのシリーズは完結なのではないか。
いや、もちろんいくらでも続きは作れるのだけど、素晴らしく出来の良いこの映画でスパッと終わらせるなら、有終の美として映画史に残るだろう。
そのくらいの「やり切った感」がある。
ちなみに今回は、ジェレミー・レナーが演じるブラントが出て来なかったのは、前記したような独特の制作プロセスゆえに「アベンジャーズ」シリーズとのスケジュール調整ができなかったため。
マッカリーは短期間で撮影を終わらせるために、冒頭でブラントが死んでしまう案を持ちかけたそうだが、それは「嫌だ」と断られたらしい。
まあ、このままだとブラント的にも中途半端なので、トム・クルーズとマッカリーには、是非ともブラントを加えたIMFの全員が大活躍する、本当の完結編を作ってもらいたいものだ。
とりあえず観終わった瞬間に、最初からもう一回観たくなる、この夏を代表する傑作だ!
世界を駆け巡るこのシリーズ、今回は重要な舞台となる街から「パリジャン」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、ドライ・ベルモット20ml、クレーム・ド・カシス10mlをステアして、グラスに注ぐ。
ジンの清涼感を、ドライ・ベルモットとクレーム・ド・カシスの風味が包み込む。
やや甘口で、アペリティフ向きのショートカクテル。
ルビー色が美しい、オシャレな一杯だ。

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凍てついたワイオミングの雪原で、少女の遺体が見つかる。
何者かから激しい暴行を受けた後、裸足で−30度の極寒の中を逃げて、力尽き血を吐いて倒れていた。
第一発見者はジェレミー・レナー演じる魚類野生生物局(FWS)のハンター、コリー・ランバート。
家畜を殺したピューマを追っていて、偶然に遺体を発見したのだ。
死因がはっきりしない中、FBIは出張中だった若手捜査官のジェーン・バナーを送り込んでくるも、彼女は土地勘も雪中捜査も経験がない。
やむなくコリーがガイド役となり、捜査に協力することになる。
麻薬戦争を描いたドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の「ボーダーライン」の脚本家として知られるテイラー・シェリダンによる、ヘビーなクライム・スリラー。
Netflixのオリジナル映画として発表された「最後の追跡」と合わせて、“現代のフロンティア3部作”の最終作に当たる。
タイトルはワイオミング州の中にある、ウィンド・リバー先住民居留地のこと。
北アラパホ族と東ショショーニ族の共同居留地という物語の背景が、物語をぐっとディープなものにしている。
コリーは白人だが、アラパホの女性と結婚していた設定で、彼の過去の傷も事件とリンクしてくる凝った構造。
居留地の西隣りにはイエロー・ストーン、グランド・ティトンの両国立公園があり、世界中から訪れる観光客で賑わっている反面、居留地にはカジノくらいしか産業がなく、慢性的な貧困状態に置かれている。
作中でもコリーの元妻が、グランド・ティトンの玄関口であるジャクソン・ホールの街で求職している設定だ。
薬物・アルコールの乱用が問題視され、若年層の犯罪率が極めて高いが、兵庫県ほどの広さを管轄する部族警察はわずかに6人。
何か事件が起これば、解決されることすら奇跡のような劣悪な環境なのである。
アラパホはかつてのインディアン戦争で、他の平原部族と共にフロンティアの東進に抗い、リトルビックホーンの戦いではカスター中佐の第七騎兵連隊を全滅させた勇猛な部族。
その代償として本来の領域を失い、現在では不毛の荒野に押し込められている。
合衆国であって、合衆国ではない。
この見捨てられた土地は過疎化が進み、わずか10年の間に3割もの人口が流失。
しかし、自らの意思で留まることを選んだ者は、誰もが戦士となり生き抜くために戦わなければならないのだ。
それは元々の住人であるアラパホとショショーニの人々だけでなく、白人のコリーも同じこと。
同じような事件で娘を失った過去を持つ彼にとって、この事件はある意味で葬いであり、自分の心の傷の正体と向き合うことなのである。
そして、この地で罪を犯した者もまた、荒野を支配する血と鉄の掟によって罰せられなければならない。
テイラー・シェリダンは、自身の持ち味を生かして、絶望の淵に生きる人間たちを描く、味わい深い秀作を作り上げた。
ミステリとしてはそれほど捻った作りではないが、キャラクター心理の織りなすビターな人間ドラマで魅せる。
娘を救えなかった父親としてのコリーの苦悩と、未知のシチュエーションで苦闘するエリザベス・オルセン演じるFBI新米捜査官のドラマがきっちりとかみ合い、ワイオミングの雄大な自然の中、綿密に描写される世界の闇が容赦なく感情をえぐる。
俳優出身の監督だけあって、役者は皆素晴らしいが、特にジェレミー・レナーはキャリア・ベストの好演と言っていい。
クライマックスの敵味方入り乱れての集団銃撃戦での彼は、弓をライフルに持ち替えたホークアイのような燻し銀のカッコよさだった。
現代劇だが、このプロットをそのまま過去に置き換えれば西部劇として成立してしまうのが、いかにもアメリカ映画だ。
今回はハンターつながりで「イエーガー・トニック」をチョイス。
ドイツのリキュールイエーガー・マイスター45mlを氷を入れたタンブラーに注ぎ、適量のトニックウォーターで割り、スライスレモンを添えて完成。
イエーガー・マイスターは甘めで香草の風味が強く、香草は食欲を刺激するので、アペリティフとして最適だ。
トニック・ウォーターの清涼感が、飲みやすくしてくれる。

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