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■TITLE INDEX
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ジャンルレスな作品だが、あえて言えばこれは文学アクション映画だ。
平手友梨奈演じる鮎喰響(あくいひびき)は、驚くべき小説の才能を持つ高校生。
突如として文学界に現れ、大センセーションを巻き起こした彼女は、誰に対しても自分の信じる道を決して譲らない。
常に本音だけで生きているから、この世界を牛耳るオヤジたちの「常識」や「建前」と必然的に衝突し、盛大に波紋を広げてゆく。
柳本光晴による同名漫画を「小野寺の弟・小野寺の姉」の西田征史が脚色し、監督はつい先日も「センセイ君主」で楽しませてくれた月川翔。
前作ではラブコメ、本作では文学という全く異なるモチーフを、共にリズミカルなアクション感覚で描き絶好調ぶりを見せつける。
※核心部分に触れています。
活字離れによる出版不況に陥った文学界。
新人賞を募集している文芸雑誌「木蓮」の編集部に、一編の小説が届く。
応募要項を一切無視していたため、破棄されるはずだったその小説を、編集者の花野ふみ(北川景子)が手に取ったことから事態が変わる。
「御伽の庭」と題されたその小説は、作者の天才を感じさせる傑作だったのだ。
作者の鮎喰響(平手友梨奈)が15歳の女子高校生であることを知ったふみは、彼女が文学界の未来を変える新世代のスターだと確信する。
しかし響は自分の信じる生き方に決して妥協せず、建前で生きている大人たちとぶつかりまくり。
友人の凛夏(アヤカ・ウィルソン)を侮辱した大御所作家の鬼島(北村有起哉)には回し蹴りを決め、新人賞の授賞式では、自分の小説を小馬鹿にした同時受賞者の田中康平(柳楽優弥)を殴って怪我を負わせてしまう。
一方、「御伽の庭」はセンセーションを巻き起こし、芥川賞と直木賞のダブルノミネートという歴史的な快挙を達成。
響は一躍時代の寵児として、世間の注目を浴びることになるのだが・・・・
タイトルロールの鮎喰響は、若干15歳の高校1年生にして小説の天才。
しかし妥協を知らず、やたらと喧嘩っ早いという危険人物だ。
世間のしがらみや常識にとらわれず一貫した行動原理の元に生きる響自身は、葛藤を持たず物語を通して全く変化しない狂言回し。
だから彼女自身についても、彼女が書いた傑作とされる小説「御伽の庭」の内容についても、映画の中ではほとんど描写されることは無く、破天荒な天才に振り回される周りの人々の方が慌てふためきながら変わってゆく。
基本凡人の集合体である「世間」は、時に恐怖しながらも圧倒的な力を持つ狂気の「怪物」の登場を求め続ける。
そして怪物に出会った人間たちは、好むと好まざるとに関わらず、影響を受けざるを得ない。
劇中で響を見出す北川景子演じる編集者・花井ふみは、言わば大衆・凡人の代表にして観客の視点となるキャラクターだ。
彼女同様、システムの中でなんとなく生きている我々にとって、建前が一切通用しない響の言動は痛快。
小柄な体でゲスなオヤジや傲慢なマスコミに問答無用で蹴りを入れる彼女に、戦々恐々としながらもついつい応援してしまう。
もちろん暴力に訴えるのがマズイことなのは確かだが、一応彼女が行動を起こすのは、先に喧嘩を売られたケースのみ。
それも自分自身のことよりも、自分にとって大切な人や価値観を蔑ろにされた時に激しく反応する。
この相当にエキセントリックなキャラクターを演じる平手友梨奈のことは、欅坂46のセンターを務めているタヌキ顔のアイドルという以外殆ど知らなかったが、はまり役と言っていい。
他の出演作を見ても、基本的にあまり表情が豊かな感じではないのだけど、終始仏頂面で表情が変わない響にはぴったり。
露骨に村上春樹的な大作家を父に持ち、自分も才能を持ちながらも親の七光りという評価に葛藤する祖父江凛夏を、天然一直線で悩み無き響の悩めるライバルに設定したのも良いバランス。
関係ないけど、凛夏役のアヤカ・ウィルソンは「パコと魔法の絵本」の「ゲロゲ~ロ」の娘か。
まああの映画ももう10年前なのだけど、いつの間にか大きくなっていてビックリした。
物語上で響と重点的に絡むのはふみと凛夏の二人だが、歩く台風の響にわずかに触れた人間たちは皆、その人生の軌道を強引に変えられてしまう。
人と響が邂逅する度に、彼女の名言・格言が飛び出す作品なのだが、そこには創作者のあり方、受け手のあり方に関して示唆に富む名台詞が多い。
特に小栗旬演じる万年芥川賞候補どまりの純文学作家・山本春平とのやり取りには、思わず膝を打った。
響は春平の作品を褒めるのだが、自暴自棄になった春平はいつまでたっても賞がとれない自分の小説を卑下する。
すると響は「人が面白いと思った小説に、作者の分際で何ケチつけてんのよ」言い放つのだ。
この言葉は同時に「人がつまんないと思ったことに、作者の分際で何ケチつけてんのよ」と言い換えることも可能で、あらゆる芸術は作り手だけでは成立せず、受け手がそれぞれの内面で消化することで初めて完結することを端的に表している。
近年SNS上で作り手が受け手の感想に感情的に反応し、相次いで炎上するのも、この原則的な関係性を理解していないからだ。
他にも、柳楽優弥が演じる新人作家の田中康平がぶん殴られるのも、読まないで響の小説を批判すると言うルール違反を犯したから。
これも同じ作り手・受け手の関係性の文脈で、炎上したくない人は本作を観て学んだ方がいい(笑
本作は「怪物」響が世の理不尽や常識という名の非常識を、その才覚だけでぶっ壊してゆく痛快な活劇なのだが、同時にメタ的な批評眼を持つ作品なのである。
それにしても「累-かさね-」「愛しのアイリーン」そして本作と、漫画原作の快作が続く。 どれも比較的小さな映画だが、大予算をかけた下手クソなコスプレショーよりずっと面白いよ。
今回はそのまんまサントリーの「響 ジャパニーズハーモニー」をチョイス。
近年やたらと高騰してしまっている国産ウィスキーだが、多彩な原酒から作られるジャパニーズハーモニーは比較的安価に手に入る。
ノンエイジもので熟成は浅いので、基本的には華のある軽やかさ。
とはいえ響の名を冠してるので、クオリティ的には十分に本格的な味わいを楽しめる。
私はオンザロックでチビチビやるのが一番好きだ。



2007年のOVA「茄子 スーツケースの渡り鳥」以来、高坂希太郎11年ぶりの監督作品、しかも脚本は「リズと青い鳥」の吉田玲子。
これだけで期待しない訳にいかないのだけど、出来上がった作品は予想を超える素晴らしさだ!
原作はTVアニメ化もされた令丈ヒロ子の児童小説。
不慮の交通事故で両親を亡くした小学校6年生のおっこが、小さな温泉旅館「春の屋」を経営する祖母のもとに引き取られ、なりゆきで旅館の若おかみとなる。
そして、彼女にだけ見える幽霊や訳ありの客たちとの交流を通して、力強く成長してゆく物語だ。
本年度のアヌシー国際アニメーション映画祭でもコンペティション部門に選出されていて、絵柄は子ども向けだが、ドラマは大人を唸らせ泣かせるのに十分な完成度。
制作を手掛けたのは、TVアニメ版と同じくDLEとマッドハウス。
美しいアニメーションで描かれるキャラクターは、とても魅力的に造形されていて、天真爛漫なおっこのクルクル変わる表情が可愛い。
舞台となる花の湯温泉の温泉街は有馬温泉がモデルだそうだが、なるほど山間の地形はよく似ているが、日本の美しい情景が詰まったある種の理想郷として描かれている。
ここでは生きた人間も幽霊も妖怪の類も共存しており、おっこが見るまるで生きているかのような両親の幻影も含めて、生と死が入り混じるリリカルな世界観は魅惑的だ。
春の屋は有馬でなく、京都の旅館がモデルになっているらしいが、「あんな旅館が本当にあるのなら、泊まってみたい」と思わせた時点で勝ち。
たぶん、値段もお高い設定だろうけど。
原作小説は一部しか読んだことがないのだが、吉田玲子は全20巻という膨大な文章から取捨選択し、突然の事故で人生が劇的に変わったおっこが、封印した心の傷に向き合い、両親の死という悲しい事実を受け入れられるまでのプロセスを軸に、1年間の物語として綺麗に再構成。
大き過ぎる喪失からの少女の再生と成長を結びつけた物語は奇をてらった部分は無いが、その分おっこの心を機微を丁寧に紡いでゆく。
一度死にかけたおっこにだけに見える幽霊のウリ坊と美陽、訳ありのお客さんを呼び寄せる妖怪の鈴鬼のチーム(?)が慣れない環境に飛び込んだ彼女のお助け役。
同時にこの世に想いを残した幽霊の二人も、おっことの絆によって浄化されてゆく。
宿にやってくるお客さんも、最初がおっこと同様に母を亡くした美少年あかね、次がおっこの年上の友だち兼アドバイザー役になる占い師のグローリー水領と、彼女の心の傷に対応した存在。
徐々に再生への難易度が上がって来る様に出来ていて、グローリーとドライブに出かけた先での事故の記憶のフラッシュバックを経て、クライマックスとなる“ある家族”とのドラマチックなエピソードには思わず涙腺が決壊。
人々の優しさとおっこの決意に、おじさん胸が熱くなったよ。
本来体を癒す温泉で、彼女は人との温かな絆を通じて心を癒されている。
おっこのライバル的存在の、ピンフリちゃんとの関係も良かった。
方やこじんまりとした旅館の若おかみ、方や温泉街を代表する巨大リゾートの後継者と、表面的な部分は何かと対照的だが、一番大切にしている価値観は同じで、なによりも二人とも花の湯温泉を愛している。
素晴らしい作品だが、唯一気になったのが余りにも毒が無いと言うか、おっこを含めて子どもたちが皆、温泉街の後継者として自分の運命を素直に受け入れていること。
まあこれはたぶん原作由来なのだろう。
おっこでなくてもいいが、誰か一人くらい「君の名は。」の三葉みたいに、「こんな田舎嫌!」とか「来世は東京のイケメン男子にしてくださーい!」って葛藤を抱えた子がいても良かったと思う。
今回は有馬温泉のある兵庫の地酒で1849年創業の老舗、西山酒造場の「小鼓 純米吟醸」をチョイス。
吟醸香は軽やかで、クセがなく非常に優しい味わい。
それでいてキレのある辛口で、どんな料理にも合う懐の広さがある。
温泉旅館で、季節の地のものと一緒に飲んだら最高だろう。



音に反応して人間を襲う、謎のクリーチャー群の大量出現によって崩壊寸前に追い込まれた世界で、生き残ったある家族のサバイバルを描いた全米大ヒット作。
人々は声によるコミュニケーションを封じられ、極力音を立てない様に四六時中怯えながら、ひっそりと日々を生きている。
しかし、エミリー・ブラント演じる主人公は、もはやそんな生活を続けることができない。
なぜならば彼女は妊娠しており、臨月を迎えようとしているのである。
サイレント映画オタクだというスコット・ベックとブライアン・ウッズによるオリジナル脚本を受けて、ブラントの夫で本作でも夫役で出演しているジョン・クラシンスキーがメガホンを取った。
「音を立てる=死」というシンプルなアイディアをとことん生かした、センス・オブ・ワンダーに溢れた正統派モンスター映画にして快作SFホラーだ。
※核心部分に触れています。
突如として全世界に出現した謎のクリーチャーによって、人類は僅か472日間で滅亡寸前に追い込まれた。
宇宙からやって来たらしいそれは全くの盲目であるものの、コウモリのような特殊な聴覚器官を持ち、わずかな音でも人間の動きを感知して捕食する。
イヴリン・アボット(エミリー・ブラント)は、夫でクリーチャーの研究をしているリー(ジョン・クラシンスキー)と耳の不自由な娘のリーガン(ミリセント・シモンズ)、息子のマーカス(ノア・ジュープ)と四人で、田舎の農場に隠れ住んでいる。
一家の末っ子だったビューは、1年前にクリーチャーによって殺されてしまい、そのことは今もわだかまりとなって、家族の関係に影を落としている。
妊娠中で、間も無く出産するイヴリンのために、一家はクリーチャーの耳を封じるために様々な準備を進めているのだが、ある日他の三人が外出している時に、産気づいたイヴリンが地下室に移ろうとして誤って音を立ててしまった。
皆が農場に戻ってきた時、そこはすでに何匹ものクリーチャーが跋扈する、狩場とかしていたのだが・・・
声を出せないホラーというと、貧困層の若者たちが、盲目の老人が大金を家に隠しているという噂を聞きつけ強盗に入るも、実は老人の正体は圧倒的な戦闘力をもつ元軍人だった!という「ドント・ブリーズ」が記憶に新しい。
あの映画では格差社会が物語の背景になっていて、単なる怖がらせを超えた深みがあったが、極限状態で暮らす家族を描いた本作もなかなかの力作だ。
説明要素は必要最小限。
声を立てられないという状況から、必然的に非常に寡黙な映画になっているので、ぼーっと見ていると、その最小限の要素すら見落としてしまうかも知れない。
ある程度の集中力を要求される作品である。
音に反応し、人間を捕食するクリーチャーに関しても説明はほとんどなく、2018年の10月頃に突然宇宙からやってきた(らしい)ということしか分からない。
彼らの肉体は人間より遥かに強靭で、漆黒の体表は鎧の様な皮膚に覆われていておおかたの攻撃は跳ね返されてしまうが、頭全体で音を感知する構造になっており、より細かい音を聞こうとする時だけ鎧が開き巨大な内耳の構造が露わになる。
音に非常に敏感な反面、視覚を全く持たないので、人間たちは“音を立てられない”こと以外は以前に近い生活を送っていて、平和な日常と死の恐怖が同居する世界観が非常にユニーク。
なるべく静かに、自給自足して生き残っている人々は、毎夜篝火によって自らの生存を周りに住んでいる人々に知らせているのだ。
アボット家に関しても、この事態が起こるまで彼らが何をしていたのか、背景説明は全く無い。
イヴリンは薬の知識や出産準備の描写からおそらくは医療関係、夫のリーはエンジニア的な知識を有していることがわかる程度。
キーとなる人物は、アボット家の長女のリーガンだ。
彼女は生まれつき耳が聞こえない設定で、演じるミリセント・シモンズも実際にろう者。
そのためにアボット家の人々は、手話によるコミュニケーションをとることが可能で、映画の中でもリーガンを描写するカットでは音が封じられている。
リーガンは、1年前にビューが殺された事件のきっかけを図らずも作ってしまっており、そのことで自分が家族、特に父親のリーに嫌われているのではないかと疑心暗鬼に陥っている。
耳が聞こえないことは、異常な聴覚を持つクリーチャーと対峙するのに、健常者よりも無防備なことを意味するので、リーはなんとか高性能の補聴器を作ろうとしているが、そんな父の努力も彼女にとっては疎ましく感じられてしまうのだ。
田舎の農場が宇宙から来たクリーチャーに襲われるという本作の設定は、スティーブン・スピルバーグの代表作、「E.T.」の初期企画と同じ。
最終的に完成した作品では、異星人の“友だち”との絆によって、両親の離婚に葛藤する内気な少年が成長を遂げる物語になっていたが、本来はモンスター・ホラーになるはずだったのだ。
そのスピルバーグの大ファンを公言するM・ナイト・シャマランが、ボツになった設定を拝借して作ったのが「サイン」であり、やはり宇宙からの脅威が家族の問題のメタファーとなっている。
そして本作もまた、問題を抱えた家族がクリーチャーの襲撃という試練を通して、大きく変化してゆく。
リーガンは自分がしてしまったことへの贖罪の念、長男のマーカスは目の前で弟が殺されたことによるトラウマを抱えているが、イヴリンとリーは恐怖が支配する終末の世界で、子供たちが生きてゆけるように育て上げようとしている。
リーが外に出たがらないマーカスを魚取りに連れ出すのも、何度失敗してもリーガンに補聴器を作り続けるのも、いつか自分たちがいなくなることが十分に想像できる世界だからだ。
映画の中盤、同じ日の同じ時刻にリーガンがビューの墓標に祈り、イヴリンは家で亡き我が子を想い、リーとマーカスが声の出せる滝つぼで本音を語り合い心を通わせる。
四者四様の形で問題と向き合うこのシークエンスは、本作が描こうとするものと、物語が向かう先を端的に暗示して秀逸。
家族のドラマとして非常によく考えられた作品だが、一方で突っ込みどころも満載だ。
アボット家の人々は生き残るために、涙ぐましい努力をしている。
例えば屋外の生活動線に砂をまいて、靴音を立てないよう裸足で生活しているし、油ハネの音を警戒してか料理は蒸し焼きにしているほど。
ところが、そんな彼らは1日の終わりに大きな篝火を焚くのである。
一度でも焚き火をしたことのある人は分かるだろうが、火はかなり大きな音を立てるのに。
クリーチャーも、人間の立てる音だけを聞き分けているのかと思ったら、アライグマの鳴き声にも反応していた。
自然界の音すべてがのべつまくなしに耳に入ってくるんじゃ煩くてたまらないだろうし、どうやって人間の音を判別しているのだろう。
結局、どこまでの音が危険でどこからがセーフなのか、基準がよく分からないのは気になった。
また、農場では結構贅沢に電気を使っているが、あれは一体どこから?
一応屋根にソーラーパネルが見えるのだが、発電量的にとても足りるとは思えない。
他にも、なぜ普段使いの場所に都合よく逆さにクギがはえてるのか?(洗濯ものが引っかかって立っちゃう描写はあるが、そもそも普通階段の板に逆さ釘は打たないよねえ)とか、クライマックスに唐突に“発見”されるソリューションも、一応伏線は張られているもののよくよく考えれば相当な御都合主義だ。
もっとも、そんなわざとらしい部分も含めて、ジャンル映画を存分に遊び倒す、そんな確信犯的なB級感覚が心地いい。
緊張感とスリルは全編にわたって続くが、ブラッディな残酷シーンはほとんど無いので、求められるホラー耐性は限りなく低く、この種の映画が苦手な人も楽しめるだろう。
末っ子の悲劇的な死から始まり新たな命の誕生と共に終わる本作は、受け継がれてゆく家族の愛を描くファミリー映画としても優れた作品である。
しかし、本当にこの映画のシチュエーションになったら、私はどんなに頑張ってもイビキと寝言のせいで寝てる間に殺される気がするなあ(苦
今回は色々痛い話なので、「刺す動物」とか「痛撃」あるいは「皮肉屋」の意味を持つカクテル「スティンガー」をチョイス。
ブランデー45ml、ペパーミント・ホワイト15mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
ブランデーの銘柄次第で味が大きく変わるが、濃厚なブランデーとスッキリとしたペパーミント・ホワイトのコンビネーションは、名前の通りに刺激的な大人なカクテル。
アブサンを2dash加えることで「スティンガー・ロイヤル」へと変化する。



強烈。
おそらく、日本映画史上最も放送禁止用語を連発した作品。
こりゃ地上波放送不可だな。
コミュニケーションの断絶がもたらす、寓話的な悲喜劇。
安田顕演じる寒村に暮らす中年男・岩男が、フィリピンから若い妻・アイリーンを金で買ってくる。
だが、そこは保守的な村社会。
岩男を溺愛する老いた母親は、決してアイリーンを“嫁”として認めようとしない。
「ザ・ワールド・イズ・マイン」など、不条理劇で知られる新井英樹の同名漫画を、「ヒメアノ~ル」の吉田恵輔が映画化。
暴走する愛に翻弄される岩男を安田顕が好演し、アイリーンをナッツ・シトイ、彼女に憎しみを募らせる岩男の母親・ツルを木野花が怪演している。
※核心部分に触れています。
宍戸岩男(安田顕)は認知症の父・源造(品川徹)と母のツル(木野花)と三人で、地方の寒村に暮らしている。
四十路に入っても結婚の当てはなく、毎夜自慰にふける息子に、ツルはしきりに見合いをすすめるが岩男は受け入れない。
パチンコ店に勤める岩男は、同僚の愛子(河井青葉)に恋心を抱いている。
だが、彼女がその清楚なイメージとは違って、かなり乱れた男関係をもっていることを知り、激しく動揺。
誰にも告げずに姿を消してしまう。
しばらく後、源蔵が亡くなり、その葬儀の最中に岩男がフィリピン人の若い女性・アイリーン(ナッツ・シトイ)を連れて突然戻ってくる。
実は愛子に振られた岩男は、なけなしの貯金300万円を払って国際結婚斡旋会社に申し込み、フィリピンに渡っていたのだ。
だが、岩男を“理想の嫁”と結婚させようと目論んでいたツルはこの結婚を認めず、猟銃を持ち出してアイリーンに突きつけるのだが・・・
タイトルロールのアイリーン自身は、強いドラマを持っていない。
まだ十代の若い彼女は、ある程度したたかではあるものの、基本はただ幸せになりたくて、他人も幸せにしたいシンプルな人物だからだ。
実質金で買われる形で日本に嫁いでも、愛する人と結ばれたいと、簡単には岩男に体を許さない。
少しずつ日本語を勉強し、何も知らない岩男のことを好きになって、いつか本当の夫婦になろうと努力している。
彼女の問題は、周りが皆「ドラマを持っている」人々、即ち煩悩と葛藤の塊の様な人間たちばかりだということなのだ。
夫の岩男は相当鬱屈しているが、それでもまだ彼女を愛そうとするし少しずつだが心を通わせる。
ところが、どうしても息子に“理想の嫁”をとらせたい姑のツルが、伊勢谷友介演じるアイリーンを狙う女衒の塩崎にそそのかされて、要らん策略を巡らせたことで全てが壊れてゆく。
ツルに売り飛ばされたアイリーンを奪還するために図らずも塩崎を殺した岩男は、共犯者となったアイリーンとその高揚感の中で遂に結ばれるが、もともと女を口説くことも出来ない気弱な中年男。
時がたつに連れて殺人の記憶は彼の心にのしかかり、塩崎の仲間たちの脅迫めいた追及もあって、遂にはぶっ壊れてしまう。
彼の場合、不安と恐怖のはけ口は死の対照としてのセックスに向かい、アイリーンだけでなく、愛子やツルが見合いをさせようとしていた“理想の嫁”候補の琴美にまで誰彼かまわず手を出し、せっかく作り上げようとしていた幸せを自ら崩してしまうのだ。
実の母に障子の穴から自慰やセックスを覗かれてしまうプライバシーゼロの住環境、そんな家で子離れ出来ない親に親離れ出来ない子、根拠のない思い込みからくる人種差別に昔ながらの女性蔑視、有ること無いことゴシップがたちまち広まるコミュニティ、家族になろうとする相手の言葉すら学ぼうとしない傲慢さ、全ての要因がコミュニケーションを阻み「幸せになりたい」というごく単純な目標を遠ざける。
言わば日本の田舎の不条理で嫌な部分が全て顕在化する様な物語で、この居心地の悪さはニューシネマ系ホラーで描かれるアメリカ南部に匹敵する。
映画は現在設定だし、全く違和感ないのだが、実はビックコミックスピリッツ誌に本作の原作の連載が始まったのは四半世紀近く昔の1995年。
バブル期の80年代から90年代にかけて、「金はあるけど嫁は来ない」農村部の日本人男性がフィリピンに行って見合いをし、国際結婚するのがある種のブームとなった。
お金のために嫁ぐ女性は、日本に出稼ぎに来る女性と合わせて「ジャパゆきさん」と呼ばれ、映画やドラマでもモチーフになったりしたが、当然うまくいかないケースも多発し、金にモノを言わせた人身売買ではないかと批判されて社会問題となったのはよく覚えている。
もちろん幸せになった人もたくさんいたのだろうが、言葉も通じず文化も違う、自分よりもずっと年上の男性と家庭を持つことがイージーな訳がない。
新井英樹はそんな社会情勢に影響を受けて、当時の日本社会の問題点を赤裸々に描き出した訳だが、原作に比較的忠実に映像化された本作が、23年経った今も一定の現在性を保ち続けているのは、それだけの間社会が停滞しているということか。
キャスト陣はみな素晴らしいが、特に歪んだ愛に突き動かされるツル役の木野花の怪演が怖い。
普段は映画やドラマで気立てのいいおばちゃん役で目にすることが多い人だけに、そのギャップに圧倒される。
しかしアイリーンを執拗にいたぶる彼女自身も、かつて嫁いだ宍戸家で“子を産む機械”としての役割を果たせず、不条理な圧力にさらされて、その結果として一粒種の岩男を盲目的に溺愛するようになってしまったのが切ない。
映画のツルほど極端な人は珍しいだろうが、ああいうメンタルの人はまだまだ実際に沢山いそうだ。
どんどん自分の中の小さな世界に入り込み、コミュニケーションを拒否する彼女が、最終的に“声”を失うのは非常に象徴的。
古谷実原作の「ヒメアノ~ル」に続いて、漫画原作の不条理劇を見事なクオリティで映像化した吉田惠輔の演出は、土着的でねちっこく、まるでエキセントリックな平成版の今村昌平の様。
今村昌平の代表作の一つが姥捨の風習のある村を描き、カンヌ映画祭のパルム・ドール(グランプリ)に輝いた「楢山節考」だが、本作でも姥捨が重要な要素になっているのは面白い。
あの映画の村は長男しか結婚を許されず、老いた親は齢70歳になると山へ捨てられる。
村人の関心はもっぱら食べることとセックスに向いていたが、飽食の時代となった現在では食べ物に葛藤は無くなった。
しかしセックスに関しては別で、本作では実の親によって長男であっても「楢山節考」の奴(やっこ)の様に結婚を阻まれるのだ。
本作の村が「楢山節考」の村の現在の姿と考えると、ある意味精神的な続編とも捉えられる。
「楢山節考」の姥捨は子を幸せにするための母の自己犠牲だったが、本作の姥捨は子を不幸にしてしまったことへの自己懲罰だ。
共通するのは、どちらの母も新たな子孫の誕生を予感しながら死を迎えるということである。
本作でツルが体現しているのは、姥捨の風習があった時代から続く、日本の田舎の“原罪”なのかも知れない。
今回はアイリーンと飲みたいフィリピンのビール、「サン・ミゲル ピルセン」をチョイス。
サン・ミゲルは本国で9割という圧倒的なシェアを持つ、フィリピン国産ビールの代表格。
いくつかのタイプがあるのだが、暑い国のビールらしく基本的にはどれもライトな方向性。
典型的なピスルナーのピルセンが、喉越しスッキリで適度なコクもあり、日本人のビール好きには一番しっくりくる味わいだろう。
東南アジアのビール文化の例にもれず、緩くなって来たらビアジョッキにガンガン氷を入れちゃうのが現地流。
ところで、内容には関係ないけど、ラブホのシーンで自動ピストン椅子的な昭和SFチックな謎マシンが出てきたんだけど、アレは実在するのか(笑



スピンオフの「AVP」2部作を除いて、「プレデター」「プレデター2」「プレデターズ」と過去に3作が作られている「プレデター」シリーズの第4作。
ただし、プレデターの惑星を舞台とした3作目で起こったことは、地球には知られていない設定で、ロサンゼルスでプレデターと警官たちが戦った2作目の直接の続編となっている。
人類サイドとしても、ブサイクな宇宙人が地球に侵入して人間狩りをしているのは把握していて、それなりに対策を講じている設定だ。
日本での公開初日から、まるで二本の別の映画を観てきたかのように賛否が真逆の感想ツイートが流れてきていたが、なるほどコレは監督のシェーン・ブラックと共同脚本を務める盟友フレッド・デッカー、この二人の作家映画。
特に今となっては「あの人は今」的に懐かしい名前となった、デッカーの色が妙に強いのだ。
今までの3作は、どれもより強い敵を求めるプレデターと、軍人や警察や犯罪者といった地球人の戦闘プロフェッショナルのバトルアクション。
それに対して、シリーズの定石は打っているものの、少年がキーパーソンとなり、ジャングルでも大都会でもなく、アメリカのサバーブが舞台となる本作のテイストは、過去のシリーズというよりも思いっきり80年代ジュブナイルSFの香りに満ちているんだな。
それもスピルバーグとかの“A”グレードのやつじゃ無く、笑っちゃうほどのプロットのアバウトさとかも含めて、デッカーが監督してた「ドラキュリアン」とか「クリープス」とか“B”グレードのヤツだ(笑
J・J・エイブラムスを筆頭に、ルーカス/スピルバーグで育った世代が今のハリウッドの主流になったこともあって、彼の「SUPER8/スーパーエイト」など、この時代にオマージュを捧げた作品も増えた。
しかし、後年の作家の作品には多分にノスタルジーとリスペクトが入っているのに対し、ブラックとデッカーは80年代にバリバリ現役だった人たちだ。
本作に描かれる世界は、あの頃を懐かしんで作っているのではなく、ガチに全然進化してないのである。
ギークな天才少年、パパがいない家庭、なぜか街外れに落ちる宇宙船にゲームスタイルのSFガジェット、内臓ドバーの無邪気なスプラッターシーン、これらはどれも80年代のB級SFやホラー映画の定番要素。
あの頃のSFのノリが好きなら本作は絶対楽しめるし、逆にズレを感じてしまえばショボすぎてダメと思うだろう。
私は第1作の出演者でもあり、劇中でプレデターに血祭りにあげられた第一号となったブラックのセルフオマージュ的な描写や、人間を殺すだけで食わないんだから「“プレデター”じゃないじゃん」とネーミングそのものにイチャモンつけたりする悪ノリ気味のギャグ部分も含めて結構楽しんだ。
プレデター対策に当たる軍の部隊が、なぜだかやたらと味方を殺したがるのは引っかかったが、ある程度整合性に目を瞑っても、やりたいことをごった煮的にブチ込んでくる猥雑なサービス精神には喝采。
プレデターのペットの宇宙犬が、いい感じに感情移入キャラになって、最後には可愛く思えてくるのも良かった。
お世辞にも洗練されているとは言い難いし、全然今風じゃないので万人向けとも言い難いが、心の内の厨二病を刺激される楽しい娯楽映画だ。
だけど、よくこの脚本でOK出たなと思ったが、プロデュース陣もみんなあの頃のお仲間たちなのね。
これには水みたいな王道のアメリカンビール、「ミラードラフト」をチョイス。
典型的なのど越し重視のライトな味わいだが、週末の夜にB級映画を観ながら飲むのにはちょうどいい。
おつまみは脂っこいピザかフライドチキン。
因みに「プレデター」シリーズでは、あんまり皆んな語ってくれないスティーヴン・ホプキンス監督の2作目が一番好きだな。



いや~コレは面白い!
演技の天才ながら顔に大きな傷を持ち、コンプレックスの塊の累(かさね)と、美貌を誇りながら役者として致命的な病気を抱え、スランプに陥ったニナ。
この二人がキスで12時間だけ顔が入れ替わる不思議な口紅を使い、“相互保管”の関係になる。
顔はニナで中身は累、二人で一人となった彼女は瞬く間にスターダムを駆け上がるのだが、当然ながら当人たちの間には亀裂が生まれてゆく。
芳根京子と土屋太鳳という旬な二人の若手女優が、お互いがお互いを演じるという絶妙な演技のコンビネーションで魅せる。
松浦だるまの同名漫画を、「ONE PIECE FILM GOLD」の黒岩勉が脚色、監督は「シムソンズ」「脳内ポイズンベリー」などを手がけた佐藤祐市。
佐藤監督としても、キャリアベストの仕上がりとなった。
今は亡き伝説的な大女優・淵透世(檀れい)を母に持つ淵累(芳根京子)は天性の演技力を持ちながらも、顔の大きな傷にコンプレックスを感じ、人目を避けて暮らしている。
そんな彼女に母が残したのが口紅一本。
この口紅は不思議な力があり、口紅をつけてキスをすると、相手と顔が12時間だけ入れ替わる。
ある時、累は透世の関係者だったという羽生田(浅野忠信)という男に出会う。
羽生田は売り出し中の女優・丹沢ニナ(土屋太鳳)のマネージメントをしているのだが、彼女はクライン・レビン症候群という一度眠りに落ちると長期間覚醒しないという難病を抱えて、ひどいスランプの状態。
ニナが回復するまでの間、身代わりとして顔を入れ替えて舞台に立つという羽生田の提案を受け入れた累は、オーディションで演出家の烏合(横山裕)を魅了し、見事に「かもめ」の役を勝ち取る。
しかし、累が烏合に恋心を抱いたことで、ニナとの関係が徐々に変化してゆく。
舞台の上演が間近に迫ったある日、ニナを突然の発作が襲い意識を失って昏睡に陥ってしまうのだが・・・
中の人・累と外の人・ニナが顔を入れ替える物語は、ジョン・ウー監督のハリウッドでの出世作「フェイス/オフ」を思わせる。
あの映画ではジョン・トラボルタ演じるFBI捜査官が、テロリストのニコラス・ケイジの顔に整形し、仕掛けられた細菌爆弾のを巡って潜入捜査をするのだが、テロリストは逆にトラボルタの顔に整形し、彼の人生を奪おうとする。
もちろん本作はあんな銃撃戦満載のアクション映画ではないが、“顔”というアイデンティティを一番分かりやすく象徴するものを奪い合うというコンセプトは共通する。
さらに「シンデレラ」的な魔法の終わる12時間のタイムリミットを設けることによって、中味バレのサスペンスが非常にうまく機能している。
口紅がなぜ顔を入れ替えるのかという説明は全くないが、作品世界における唯一の“人智を超えた不可思議なもの”という位置付けで、これはこれで良いと思う。
二人のハイブリッドは舞台の上で開花して行くのだが、彼女らの存在そのものが、虚構が現実を超えるてゆくあらゆるナラティブ芸術・創造のメタファー。
作品中でニナと契約し、彼女の顔を借りた累が演じる二本の劇中劇が、本作のストーリーのモチーフでありながら、本作の展開によって新たな意味を与えられる双方向性の構造になっているのが面白い。
彼女が最初に挑むのが、チェーホフの「かもめ」だ。
この戯曲は新しい形式の演劇を生み出そうとする若き劇作家のコスチャと、彼が想いを寄せる女優志望のニーナ、コスチャと確執を抱える母親で大女優のアルカージナ、彼女の愛人の人気作家トリゴーリンらの物語。
女優を夢見てコスチャを裏切る劇中のニーナは、名前を見れば分かる通りニナのモチーフであり、最終幕で全てを失いながら忍耐を重ねて生きてゆく姿は、その後のニナ=累の向かう道を示唆する。
またカモメを撃ってニーナに捧げるコスチャの行動は生贄を求める羽生田の、ニーナとトリゴーリンはニナと烏合の、コスチャとアルカジーナの親子は累と透世の関係に繋がりを見ることができる。
本作の前半部分では累は巻き込まれ型のキャラクターで、「ニナが累の演技力を借りている」状況だったのが、彼女が演じ、喝采を浴びる快感に目覚めると、次第に「累がニナの外見を借りている」構図に変わってゆく。
そして終盤になって彼女が演じることになり、本作のクライマックスとなるのが、オスカー・ワイルドが新約聖書を元に書き下ろした戯曲「サロメ」だ。
ユダヤの王女サロメは、実の兄弟だった前王から妻ヘロディアを略奪したヘロデ王の義理の娘。
彼女は預言者ヨカナーンに一目惚れするのだが、彼は神の言葉を聞くことに夢中で全く相手をしてくれない。
失恋したサロメは、絶対にヨカナーンにキスすることを誓う。
そんな時、ヘロデから宴席で踊れば、望むものを何でも与えるといわれたサロメは、七つのヴェールの踊りを披露し、その褒美としてヨカナーンの首を所望する。
望み通りヨカナーンの生首を手にしたサロメは、彼の唇にキスをし、その様子を見たヘロデは恐れ戦いてサロメを殺させる。
この戯曲に関しては、過去1世紀以上にわたって様々な解釈がなされてきたが、ここでは望みを遂げるために愛するものの命を所望する狂気のサロメに累の欲望と覚悟が、彼女のために犠牲となるヨカナーンにニナが投影されている。
劇中劇のシーンでは、累のイメージとしてヨハナーンの首がニナの首に見えているという描写もあり、よく知られた戯曲とのシナジー効果によって、物語のテーマが分かりやすく浮かび上がるという凝った仕掛け。
引用される二つの戯曲の両方で“キス”が重要な要素となっていて、それが現実のキスとリンクしているのも象徴的だ。
累とニナという同じ顔にそれぞれ二つの人格を宿すキャラクターを、お互いに演じ分けた芳根京子と土屋太鳳の役作りの仕上がりは圧巻の説得力。
このコンセプトは役者に互角の実力がないと成立しないが、二人とも演技賞ものの素晴らしさ。
芳根京子が非常に上手い役者なのはもはや言うまでもないが、今回は彼女と対になることで土屋太鳳という才能がいかに無駄使いされているのかもよく分かった。
これだけの演技の振り幅を持っているのだから、毎年の様に似たような役柄を演じているのはやっぱり勿体ないだろう。
外連味たっぷりの佐藤祐市のテリングのスタイルも、ストーリーとピッタリとマッチ。
いい意味でマンガチックな部分も含めて、邦画離れした華やかさとデカダンスを併せ持つ、秀逸なピカレスクドラマだ。
しかし、芳根京子は頬に大きな傷をつけても、やっぱりかなりキレイなのである。
原作の累はもともと醜い容姿にさらに傷があるという設定だが、映画の累はあれならわざわざ入れ替わらなくても、舞台ならメイクでなんとかなる様な気がしてしまった。
役者さんがキレイ過ぎるのが映画版の欠点と言えば欠点かな。
本作はこれ単体で綺麗に完結しているが、基本的に女優・累の物語のビギニングとしての構造を持つ。
コンプレックスの塊だった彼女が、いつか借り物の外見ではなく、本当の自分自身に向き合うのか、是非続編を期待したい。
今回は累とニナの二人から、白と黒のカクテル「ブラック・ベルベット」をチョイス。
スタウトビールとキンキンに冷やした辛口のシャンパン、もしくはスパークリング・ワインを、1:1の割合で静かにゴブレットに注ぐと、スタウトの黒と明るいシャンパンのグラディエーションに乗った白い泡という綺麗なモノトーンのカクテルが出来上がる。
スタウトのコクとシャンパンの辛口の爽やかさを併せ持ち、その泡は名前の通りベルベットの様にきめ細かく、舌触りを楽しめる。

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これはオタク心を擽られてキュンとくる。
主人公は「スター・トレック」の大ファンで、その知識ではどんなマニアにも負けないウェンディ。
彼女は自閉症スペクトラムを抱え、唯一の肉親である姉一家とも離れて、サンフランシスコのケアハウスで暮らしている。
ある時、「スター・トレック」の50周年記念脚本コンテストが開かれることを知ったウェンディは、エンタープライズを失い、たった二人で未知の惑星に取り残されたカークとスポックの冒険を描く、427ページに及ぶ大長編を書き上げる。
だが、もう郵送では間に合わないことがわかり、彼女は愛犬ピートとともにロサンゼルスのパラマウント・ピクチャーズへ直接届けることを決意するのだ。
自閉症スペクトラムには、日々のルーティンを変えることを嫌うという症状がある。
毎日のスケジュールから着るものまで、厳格にルールを決めて生活しているウェンディにとって、ルーティンを全て無視して400マイル先のロサンゼルスを目指す旅は、まさに人生を変える大冒険。
そしてその旅路は、「スター・トレック」の劇中で宇宙艦隊本部があるサンフランシスコから、実際に作品が作られている場所への、虚構から現実への旅でもある。
普段の生活では決して超えることのない大通りを渡り、なんとか長距離バスに乗ったものの、犬を連れていることがバレてど田舎の街道に放り出されてしまう。
さらに心無い人にお金を盗まれ、わずかに残ったコインもぼられそうになったり、図らずもウェンディは自分の描いた脚本と同じように絶体絶命の危機に陥ってしまうのだ。
“感情”という得体のしれないものに手こずるスポックは、自閉症スペクトラムで他者とのコミュニケーションが極めて苦手なウェンディにとって、物語の中のもう一人の自分。
現実と脚本の二重構造によって、ロサンゼルスへの困難な旅が未知の惑星での冒険の、親友カークへの友情が離れて暮らす姉への想いのメタファーとなる。
一方、ウェンディの失踪に気づいたケアハウス側でも大騒ぎになるのだが、トニ・コレット演じるこの施設の責任者が”スコッティ”で、しかも「スタートレック」のことを全く知らないのが面白い。
彼女は彼女で思春期の息子との間に問題を抱えていて、ウェンディの事件がきっかけとなり「スター・トレック」が親子の仲を取り持つサブストーリーもいい感じ。
創作への情熱が困難な現実を変えて行くという点で、本作は幼少期に誘拐され25年間外の世界を知らずに育った青年を描いた「ブリグズビー・ベア」に通じるものがある。
あの映画は、心のよりどころだった子供向け番組「ブリグズビー・ベア」という虚構を自ら作ることによって、主人公が過去と未来の現実に向き合い消化する、いわば内的な旅だった。
こちらでは、誰かに本当の自分のことを知ってもらいたい、伝えたいという外向きの気持ちがウェンディのロードムービーを通してストレートに描かれている。
現実のビターさも、そっと創作者としての彼女の背中を押す優しさがあって、寓話としてちょうどいい塩梅。
まあ米国スタイルの脚本はレターサイズ1ページを1分で数えるので、427ページ分だと7時間越えの超大作になっちゃうから、どんなに出来が良くても実際に作るのは難しいわな。
彼女を保護しようとするお巡りさんとのグリンゴン語のやりとりとか、とても微笑ましいんだけどこれもアメリカ文化の中の「スター・トレック」の重みあっての描写。
もし日本で作ったら、この話は成立するのだろうか?するとしたら何の作品で?とちょっと考えてしまった。
天才子役から、すっかり演技派のポジションに定着したダコタ・ファニングの繊細な演技が素晴らしく、ピート役の犬ちゃんがとんでもなく可愛くて、いいアクセントになっている。
しかし、これは作品のコンセプト上致し方ないことだと思うのだけど、「ブリグズビー・ベア」の「スター・ウォーズ」オマージュが上手い具合に架空の子供向け番組に吸収されて普遍性を獲得していたのに対し、こちらはモロに「スタート・レック」縛り。
これが劇中の“スコッティ”みたいに、元ネタを知らない人にとっては作品への入りづらさに繋がってる部分はあると思う。
今回は、本家「スター・トレック」でも合わせた、サンフランシスコを代表する地ビール「アンカースチーム」をチョイス。
華やかな香りとコク、適度な苦味をもつ高温醗酵のスチームビール。
ラベルに描かれたアンカー(碇)マークは、港町サンフランシスコの歴史を象徴する。
23世紀にはエンタープライズのクルーも、このビールで一杯やっているかもしれない。



二人の男の些細な喧嘩から始まる裁判劇。
きっかけはアパート2階のバルコニーに撒いた水が、下の工事現場の現場監督にかかったトラブルだが「謝れ!」「いやだ!」の繰り返しが暴力沙汰を呼び裁判に。
原告のアパートの住民は右派政党を支持するキリスト教徒のレバノン市民、被告の現場監督はパレスチナ難民。
単純な事件を裁くだけの小さな裁判は、文字通りの水掛け論から、やがて国を二分する大騒動になってゆく。
本作は第90回アカデミー賞の外国語映画部門にレバノンの作品として初めてノミネートを果たし、ベネチア国際映画祭では、被告のパレスチナ難民を演じたカメル・エル・バシャが最優秀男優賞に輝いた。
ジアド・ドゥエイリ監督はベイルートに生まれ、内戦を逃れて映画を学ぶために渡米、タランティーノ作品の撮影部などハリウッドで活動した後に帰国。
四作目の長編監督作品となる本作が、初めての日本公開作品となった。
ベイルートで自動車修理工場を営むキリスト教徒のトニー(アデル・カラム)は、間もなく臨月を迎える妻のシリーン(リタ・ハーエク)と職場近くのアパートに暮らしている。
ある日、バルコニーの植物に水を撒いていると、その排水が壊れた樋から道路で工事をしていたパレスチナ難民の現場監督のヤーセル(カメル・エル・バシャ)に降りかかり、口論となる。
ヤーセルから「クズ野郎!」と罵られたトニーは、工事会社に謝罪を求めて抗議。
住人とのトラブルを恐れる上司にとりなされ、ヤーセルも一度は謝罪に同意するのだが、パレスチナ難民排斥を主張するキリスト教右派政党「レバノン軍団」を支持するトニーから「シャロンに抹殺されていればな!」と罵声を浴びせられ、こらえ切れずに暴力を振るってしまう。
トニーは「謝罪」を求めてヤーセルを提訴。
裁判では、なぜヤーセルがトニーを殴ったのか、その動機が争点となるのだが、やがて裁判は世間の注目を集め、双方の支援者を巻き込む形で、キリスト教徒とパレスチナ難民を含むスンニ派イスラム教徒の対立へと発展してゆく・・・
イスラエル建国に伴い、1948年に勃発した第一次中東戦争によって発生したパレスチナ難民の数は、おおよそ70万人。
その後のイスラエルの占領と、度重なる戦争によって、自治政府のあるヨルダン川西岸地区、ハマスが支配するガザ地区の他にも、レバノンをはじめとする周辺国に難民が移り住み、自治区外に暮らすパレスチナ人は現在では500万人以上と言われる。
難民キャンプは自治され、事実上の治外法権で、劇中に描かれたようにレバノンの治安機関も原則として手が出せない。
いわば国の中に別の国がある状態ながら、難民は経済的にはレバノン社会に依存しており、不満を募らせるレバノン市民との慢性的な対立構造が形作られている。
ジアド・ドゥエイリ監督は、自分がパレスチナ難民の配管工とトラブルになった体験からこの映画を着想したというが、直接のきっかけはそうだったとしても、この映画全体が内戦の時代に多感な十代を送り、事実上の難民として国外に出ざるを得なかった自らの人生を、色濃く反映させていることは間違いないだろう。
映画の序盤は、パレスチナ人への憎しみを募らせる原告トニーの傲慢さが強調され、より弱い立場の被告に感情移入。
何しろこの人、ヤーセルに水をかけて謝りもしないだけでなく、せっかく彼が取り付けてくれた新品の雨樋までバッキバキに叩き壊してしまうのだ。
そりゃヤーセルでなくても「クズ野郎!」と言いたくなるし、お前が先に謝れと思ってしまう。
しかし、二人の極めてパーソナルな争いは、裁判となったことでレバノン社会の内部分断の象徴となってくる。
レバノン人キリスト教徒、パレスチナ人の多くが属するスンニ派イスラム教徒、双方の支援者による対立が過熱し、遂には大統領までもが仲裁に入る事態に発展しても、二人は戸惑いながらも和解を拒否し、最後まで裁判を戦い抜く。
大統領府に呼び出された後、故障したヤーセルの車をトニーが無言で直す描写がある。
この時点で二人とも内心ではお互いを許しても良いと思っているのだが、それぞれが背負っている歴史とメンツが邪魔をする。
なぜトニーは、ここまで執拗にパレスチナ人を憎むのか。
隠していた彼の過去を知った弁護人は、法廷である映像を見せる。
それは1976年に、トニーの故郷であるダムールで起こった虐殺の記録。
レバノン社会では人口の40%を占める多数派キリスト教徒とイスラム教徒、イスラム教徒間でもスンニ派とシーア派の対立があり、さらに影響力を行使しようとするイスラエルやイラン、シリアといった周辺国の思惑も絡み対立構造が非常に複雑でセンシティブ。
70年代には宗教間の衝突から報復の連鎖が起こり、ダムールではパレスチナ人を含むイスラム系民兵によってキリスト教徒の住民が虐殺され、当時6歳のトニーは虐殺の数少ない生き残りだったのだ。
レバノン・フランス合作作品である本作の仏語タイトルは「L'insulte(侮辱)」。
「中東こそ“侮辱"という言葉の故郷です」とトニーの弁護士は言う。
対立する人種・宗教が拮抗するこの国では、立場はある日突然変わる。
“侮辱"されたからと、昨日平和な暮らしを送っていた市民が今日には命からがら難民となり、今日笑いあっていた隣人が明日には自分の命を奪いにくる。
見えてくるのは、不安定な中東情勢に翻弄され、長年にわたり内戦が続いた多民族国家レバノンの悲しい歴史だ。
トニーにはパレスチナ難民を憎む理由があるが、一方でイスラエルの軍人・政治家としてパレスチナ抑圧を進めたシャロンを引き合いに出して罵声を浴びせるのは、ユダヤ人に「ヒトラーに抹殺されてればな!」と言うのと同じくらいの侮辱行為。
観客はスクリーンを通して裁判を傍聴しているうちに、双方の背負っているもの、何が彼らにとっての“侮辱"なのかを知り、自分だったらこの危険で難しい裁判をどうジャッジするかを考える。
実際に映画が導き出す判決は、日本の常識からはちょっと違ったもの。
これはあくまでもフィクションのドラマだが、微妙な均衡のもとに成り立っているレバノン社会では、言葉の暴力もまた物理的暴力と同じくらい危険なもので、見過ごすことは出来ないということだろう。
血で血を洗う内戦状態を脱してから、まだたったの四半世紀。
不安定な安保状況は今も続く。
ちょっとした火種も大きな悲劇に繋がりかねない特殊性故の結論ではあるものの、多様性の社会に必要なのは他者への尊重とリスペクトで、基準の線引きが難しいが何よりも他人を侮辱しないことというのは、基本的には世界のどこでも当てはまる得る普遍的な教訓だ。
感情に突き動かされ、理念に凝り固まった男たちに対し、女たちが総じて柔軟なのが印象深い。
とことんまで謝罪にこだわるトニーを諌める妻シリーン、難民の権利を守るためにヤーセルの弁護を買って出るナディーンは、それぞれのペアとなる男性との対比で、より理知的なキャラクターが強調されている。
レバノン市民、パレスチナ難民、男と女、色々な立場で考えたくなる知的な秀作だ。
中東にあってキリスト教徒の多いレバノンは、古代からのワインどころ。
今回は1857年創立の現存するレバノン最古のワイナリー、シャトー・クサラから「ブラン・ド・ロブセルヴァトワール」をチョイス。
フルーティで辛口、クセのないニュートラルな一本。
ロブセルヴァトワールとは仏語で「天文台」の意味。
天空に広がる星空を見上げながらワインを共に飲めば、地上のちっぽけな争いなどどうでもよくなってくる。

![]() 【星空を眺めながら飲みたい辛口白~レバノンワイン】ブラン・ド・ロブセルヴァトワール ”天文台” (白・辛口)レバノン シャトー・クサラBlanc de l'Observatoire (Chateau Ksara, White wine, Dry, Lebanon) |


身長わずか1.5センチ、マーベル・シネマッティック・ユニバース(MCU)最小の虫愛づるヒーロー、アントマンの単体シリーズ第二弾。
まあ今回はタイトル通り相方ワスプも大活躍で、単体とは言い難いのだけど。
監督のペイトン・リードを始め、続投の主要スタッフ・キャストは息のあったチームワークを見せ、安定の面白さだ。
主人公のサイズだけじゃなく、相変わらず話のスケールもいい意味でちっちゃい。
前作はひょんなことからアントマンスーツの開発者、ハンク・ピム博士に選ばれてアントマンになったダメ父さんスコット・ラングと、離れて暮らす幼い娘との親子関係の再生の話だった。
今回はワスプことホープ・ヴァン・ダインの母親でピム博士の妻、30年前に量子世界へ消えた初代ワスプ、ジャネット・ヴァン・ダインのレスキューミッションだ。
時系列的には「アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー」の直前で、「シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ」の結果、罪に問われたスコットは司法取引に応じ、自宅軟禁状態にある。
そんな時、ジャネットが量子世界で今も生きているかも知れないことが分かり、レスキューミッションが開始されるのだが、スコットは自宅から出られないので、いかにしてFBIの目を欺むくのかが第一の見もの。
さらにピム博士の研究を狙いゴーストという壁をすり抜ける謎の存在が現れ、やはり博士の量子テクノロジーを狙う武器商人たちと、三つ巴の争奪戦になる。
だからこの映画では、誰もが自分の目的のために動いてはいるものの、別に世界を滅ぼそうとしていたり、明確な目的を持って恐ろしいことをしようとしている訳ではないので、基本アントマンとワスプはレスキューミッションの妨害に抗っているだけ。
ゴーストはアントマンたちと対立はするが、それは止むに止まれぬ事情によるもので、いわゆるヴィランとは違うし、FBIもアントマンを自宅から出さないという自分たちの仕事を頑張るのみ。
敵と言えるのは武器商人たちくらいだが、弱すぎるのでぶっちゃけお笑い要員以上のものではない。
ただ二作目となり表現がこなれた分、アクションシークエンスのスピード感と爽快感はサクッと前作を超えてきた。
坂の街サンフランシスコの地形を生かしたカーチェイスは、大きくなったり小さくなったりの変幻自在のリズムが絶妙でむっちゃ楽しい。
「シビル・ウォー」でもあった巨大化は、前作のクライマックスの極小化と対をなす形になっていて、思わずニヤリ。
妻を探すため量子世界へと赴いたピム博士と愛しのジャネットとの再会劇は、演じるマイケル・ダグラスとミッシェル・ファイファーのデジタル処理された若き日の姿と、老いた現在とのギャップも相まって歳月の流れを感じさせ、グッとくるものがある。
マイケル・ペーニャの自白剤のくだりとかも爆笑モノ。
あえてこの映画に一番近いマーベル作品を上げるとすれば、MCUの作品よりもむしろディズニーブランドでアニメーション映画化された「ベイマックス」だろう。
「ベイマックス」ではキャラハン博士の開発した物質転送装置が強引な実験の結果暴走し、パイロットを務めた博士の愛娘が異次元世界で行方不明になってしまう。
怒りに燃えるキャラハン博士はダークサイドに落ち、実験を強行させた関係者に復讐しようとするが、主人公ヒロとベイマックスたちの活躍で阻止され、博士の愛娘も異次元世界から救出される。
同じような超常の世界からの救出劇であるだけでなく、「ベイマックス」の舞台はサンフランシスコに東京をプラスした架空都市サンフランソウキョウであり、本作とは設定も舞台も被っているので、一定のインスパイアを受けているのは間違いないと思う。
世界を救うヒーローはMCUだけでも沢山いるが、中にはスーパーパワーで自分の一番大切な人を救うことに手一杯な癒し系・お笑い系の奴らがいてもいい。
どんどん巨大化し、シリアス度を高めてゆくMCUで、ある意味フェイズ1の頃の初期作品を思わせるこの陽性なミニマム感は貴重。
前作では幼女だったスコットの愛娘・キャシー役の子が随分大きくなって、早くも三代目ワスプに立候補してたりいろいろ微笑ましい。
本作ではあまり他のMCU作品との絡みはないが、指パッチンの余波は意外な形で現れ、スコットは絶体絶命の危機に落ちるのだが、あの状態からいったいどうやって脱出するんだろう???
今回も前作でも合わせたイヌのラベルが目印の「ラグニタス デイタイムIPA」をチョイス。
サンフランシスコ近郊で、ワインで有名なソノマ地区のクラフトビール。
IPAのホップ感はしっかりあるが、比較的アルコール度数は低めですっきり爽やかなテイスト。
カリフォルニアオレンジを思わせる、フルーティな香りが華やかだ。
「デイ・タイム」の名の通り、ランチにいただきたいライトな味わいだ。

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タイトル通り、極度の吃音症で他人とうまく話すことが出来ない志乃ちゃんと、音楽が大好きなのに半端なく音痴な加代ちゃんの物語。
高校一年生の春、クラスメイトとして出会った二人は、ひょんなことからバンド活動をはじめることになり、お互いに影響し合って少しずつ変わってゆく。
しかし、あまりにも繊細な十代のガラスのハートは、ほんの少しの衝撃で砕け散ってしまうのである。
原作は「惡の華」など、思春期の心理劇で知られる押見修造の同名漫画。
「百円の恋」の足立紳が脚色し、実写版「THE NEXT GENERATION パトレイバー」や「ワカコ酒」などのテレビドラマを手がけてきた湯浅弘章が、見事な長編商業映画デビューを飾った。
青春音楽映画としても一級品だ。
大島志乃(南 沙良)は、人と話すのが大の苦手。
家族とは普通に話せるのだが、他人を相手にすると吃音が出て、うまく言葉が喋れなくなってしまうのだ。
高校に入学してすぐのクラスの自己紹介も全く上手くいかず、学園生活は最初から躓いてしまう。
そんなある日、志乃はクラスメイトであまり人と接しない加代(蒔田 彩珠)とかかわりを持ち、勇気を出して彼女と親しくなる。
音楽が好きだが、歌うのが苦手な加代から「志乃は歌えるの?」と聞かれた志乃は、カラオケで歌を披露する。
普段の吃音からは想像もつかない歌声に驚いた加代は、自分がギターを演奏して、志乃が歌うバンドの結成を提案。
二人のバンド「しのかよ」は、学校から遠い誰も知らない街の片隅で、路上ライブをはじめる。
はじめはおっかなびっくりだった志乃も、徐々に慣れて歌う楽しさに目覚めてゆくのだが・・・
人に出来ることが自分だけ出来ないコンプレックスはもどかしく、とても苦しい。
特に志乃ちゃんの場合、“会話”という人間関係の根本に関わる問題ゆえに、悩みはとてつもなく大きくなる。
一人でいるときには淀みなく話せるし、家族との会話も問題ないのに、他人と話す時だけひどい吃音が出てしまう。
吃音のコンプレックスを描いた映画というと、「英国王のスピーチ」が記憶に新しいが、あの映画のジョージ六世は志乃ちゃんの症状に比べると遥かにマシ。
彼女は特に母音から始まる言葉が苦手で、「大島志乃」という自分の名前すら言えないのである。
当然、クラスメイトともコミュニケーションが取れないので、友達もできず、いつも人目につかないところで一人飯。
担任の先生は「頑張ろう」と励ますのだが、努力で解決する問題ではないのは、自分が一番よく分かっている。
孤立した学校生活を送っているある日、志乃ちゃんはクラスの中でもクールな雰囲気を漂わせている加代ちゃんと、偶然の出来ごとから接点を持つ。
「喋れないなら、書けばいいじゃん」と言う加代ちゃんのコンプレックスは、ミュージシャン志望でギターも弾けて作詞作曲もするのに、歌えないというもの。
歌うとなぜか音程が外れていってしまう、天性の音痴なのだ。
ところが志乃ちゃんは喋れないけど歌えて、しかも相当な美声の持ち主だと分かり、お互いに足りない部分を補うように二人は急速に接近、ガールズバンド「しのかよ」を結成することになる。
映画の序盤、胃がキリキリするほどの焦燥感を感じた青春映画は「聲の形」以来。
それぞれに人に言えない、人から理解されないコンプレックスを抱えた二人の少女の痛みが、観客の心を容赦なく抉ってくる。
そんな絶望的な状況から、音楽がフワリと救い出す心地よさ。
加代ちゃんがギターを弾き、志乃ちゃんが歌う。
一人ではいびつな形の二人が、組み合わさることで美しいハーモニーが紡ぎだされる。
音楽を通じて、二人の間に強い信頼が生まれると、加代ちゃんと話す時は吃音もだんだんと出なくなってゆく。
しかし、より大きな葛藤を抱えた志乃ちゃんにとって、やっと見つけた“居場所”はまだ砂上の楼閣の様なもの。
ある事件の発生によって、それは脆くも崩れ落ちてしまう。
ここで絡んでくるのが、これまた問題のある男子・菊池だ。
菊池はいわゆる“空気読めない奴”で、超ハイテンションでクラスメイトにいじってもらおうとしては空回り。
他人の心にずかずかと踏み込んでは、嫌われてしまうタイプだ。
志乃ちゃんとは別の意味でコミュニケーション障害気味の菊池が「しのかよ」の二人の仲間になろうとしたことで、ただでさえデリケートな志乃ちゃんの心は激しい拒絶反応を起こし、せっかく作った居場所を自ら壊してしまうのである。
殆どのエピソードが軸となる三人を起点として展開し、登場人物は非常に少ないながらも、巧みなプロット構成によって重層的な人間ドラマが構成されている。
原作者の押見修造は中学生のころから吃音症を患っており、この物語は作者の実体験に基づいているという。
秀逸なのは、吃音症という特定の症状に限定した話ではなく、吃音を起点として人と人とのコミュニケーションという非常に普遍的なイッシューを描いていること。
誰かと友達になりたい、体験を共有したい、愛し愛されたいという誰もが経験のある青春の葛藤へと、無理なく落とし込んでいる。
ここにあるのは少しずつ何かが足りず、時に感情を爆発させながらも、そんな自分に必死に抗う若者たちのビターで瑞々しい青春。
人は皆どこか他人と違うところがあり、それは時にコンプレックスとなったり、イジメや差別の原因となってしまうが、いかにしてそんな不完全な自分たちと向き合ってゆくのか。
クライマックスの学園祭での加代ちゃんの必死の熱唱、それに応える志乃ちゃん魂の慟哭まで、非常に丁寧に描写されている。
様々な表情を持つ実に映画的な海辺の町、静岡県沼津市のロケーションも登場人物の心象として機能しており、まつきあゆむが手がけた音楽と共に若者たちの心理をぐっと掘り下げる。
志乃ちゃん役の南沙良、加代ちゃん役の蒔田彩珠、さらに菊池役の萩原利久まで、三人の若者の大熱演が光り、特に南沙良の鼻水顔は強烈なインパクトを残す。
実に楽しみな役者さんたちが出てきたものだ。
作り手の魂のこもった、味わい深い秀作である。
今回は少しずつ違う個性をイメージして、層になったカクテル「エンジェルズ・デイライト」をチョイス。
グラスにグレナデン・シロップ、パルフェ・タムール、ホワイト・キュラソー、生クリームの順番で、15mlづつ静かに重ねてゆく。
液体の比重の違いで、四色の層が混じり合わないのだが、スプーンの背をグラスに沿わせて、そこから注ぐようにすれば崩れにくい。
カラフルで美しく、幾つもの味が舌の上で溶け合う感覚を楽しめる一杯だ。

![]() ヘルメス バイオレット 720ml (26-3) (30013) |