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2018年10月30日 (火) | 編集 |
雨音が心に染み入る。
エッセイストの森下典子が長年通っていた茶道教室での出来事を綴った、「日日是好日 『お茶』が教えてくれた15のしあわせ」を大森立嗣監督が映画化。
タイトルの「日日是好日(にちにちこれこうじつ)」は、教室に掲げられている書の言葉で、そのまま捉えれば「毎日がよき日」となるが、本当はどういう意味が込められているのか。
黒木華演じる主人公の典子は、まじめな性格だが特に人生の目標があるわけでもなく、なんとなく毎日を生きている大学生。
そんな彼女が、ひょんなことから茶道教室に通うこととなり、茶の湯の哲学を通してこの言葉に秘められたディープな意味を知る、四半世紀に渡る物語だ。
典子を、無限に広がる茶の湯の宇宙へと誘う武田先生を、つい先日死去した樹木希林が演じ、圧巻の存在感。
大学生の典子(黒木華)は、情熱をそそぐ何かを見つけたいと願っているが、学生時代は瞬く間に過ぎてゆく。
二十歳の春、母(郡山冬果)に勧められたこともあって、典子はいとこの美智子(多部美華子)と共に近所の武田先生(樹木希林)のもとで茶道を習うことに。
二人が憶えなければならないのは、お茶のたて方だけでなく、歩き方から道具の選び方、飲み方に至る膨大な作法。
「お茶はまず『形』から。先に『形』を作っておいて、その入れ物に後から『心』が入るものなのよ」と言う先生に、「それって形式主義では?」と反論しつつも、二人はなんとか茶の湯の世界に馴染んでゆく。
やがて卒業の季節を迎え、貿易商社に就職した美智子は教室をやめてしまったが、就職におちた典子は出版社でアルバイトをしながらお茶の稽古を続けている。
年齢を重ねる毎に、少しずつ茶の湯の世界の奥深さを理解してゆく典子だったが、同時に茶人としての限界も感じるようになっていた。
そんな時、典子の人生に大きな転機が訪れる・・・・
「お茶の作法なんて決まっているのだから、なんで皆何年も稽古を続けるのだろう?」
以前はこう思っていたのだが、実際に長年教室に通っている人に聞くとそう簡単ではないらしい。
劇中にも描かれている通り、季節によってどんどん作法が変わってゆくので、覚えなければならないことは膨大にある。
一つの作法をマスターしても次は違うことをするので、一年が巡ってくるころにはすっかり忘れて、結局毎年学び直しながら、完成度を高めていくしかないのだという。
流されるままに武田先生の教室に通い始めた典子も、最初のうちは作法を覚えるだけで精いっぱい。
もちろん教室の外では普段の生活もあるわけだが、何が特別なことが起こる訳でもなく、映画は茶の湯の二十四節気を巡ってゆく。
そして、毎年同じことを繰り返しているうちに典子は徐々に理解する。
茶道の世界では、なぜ「形」を重要視するのか。
稽古を始めて何年かたったある日、彼女は季節によって雨音が違うことに気づく。
さらに、お茶をたてる時のお湯の音は「とろとろ」、水の音は「きらきら」と水温の違いも聞き分けられるように。
良さが分からなかった茶室の掛け軸も、文字に動きを与えた遊び心ある「絵」として楽しめばよいのだと悟る。
同じことを忠実に繰り返しても、天気は違うし歳もとる。
厳格で変わらない茶の作法と相対化されることで、世界はどんどん移ろってゆく。
一人暮らしを始めた典子と、鶴見辰吾演じる父親との、印象的なやり取りがある。
娘の暮らす街へとやってきた彼は、久しぶりに娘と会いたいというのだが、典子は自分の都合を優先して断ってしまう。
「会おうと思えば何時でも会えるから」と思っている典子は、なかなか父親との時間を作ろうとしない。
そうこうしているうちに、彼は突然この世を去ってしまうのだ。
マーク・フォスター監督の「プーと大人になった僕」のラストで、クリストファー・ロビンとプーさんがこんな会話をする。
プーさん「What day is it?(今日はいつだっけ?)」
クリストファー 「It's today.(今日だよ)」
プーさん 「My favorite day.(僕の大好きな日だ)」
この映画も茶の湯に通じる侘び寂びの哲学を感じる作品なのだが、プーさんが感じている日々の幸せも、つまりは「日日是好日」と同じこと。
茶道を始める前は、なんとなく毎日を過ごしてきた典子は、長い時間を費やして遂にこの言葉の神髄に行き当たる。
たとえ同じような毎日の繰り返しだとしても、今日と同じ日は二度とやってこない。
毎日が一期一会だからこそ、この世界は素晴らしく、生きるに値する。
原作エッセイで描かれているのは70年代半ばからの四半世紀だが、映画の時間軸は現在を終点とする過去四半世紀。
現在の観客にとっては、より作品世界へ入りやすくなっただけでなく、バブル崩壊後の就職氷河期などが背景となり、主人公の閉塞感が強化された。
なかなか見えてこない茶の湯の神髄への旅を、フェリーニの「道」の理解に例えるのも面白い。
私もこの映画を中学生の時に初めて観て、いまひとつ面白さが分からなかったが、大人になって再び出会った時は、旅芸人の孤独と絶望に泣いた。
心を震わす芸術も、人生の道程の何時出会うかによって印象はまるで違ってくる。
この映画は典子の二十歳から四十五歳までを描いている訳だが、その間に彼女は就活に卒業、失恋、喪失などを経験して来ている。
それぞれのエピソードも、例えば大学生の観客と、四十代の観客ではだいぶ受け止め方が変わってくるはずだ。
お茶と人生というモチーフを通して、見えてくるのは世界の感じ方なのである。
そして、数百年継承されて来た茶の湯の歴史は、この作品において、日本映画の継承のメタファーとなった。
樹木希林という唯一無二の名優が亡くなったことは哀しいけど、演技派女優の系譜は、本作でも素晴らしい好演を見せる、黒木華や多部未華子に受け継がれてゆくだろう。
俳優たちの演技を、四季の移ろいの中でじっくりと見せ、大森立嗣監督作品としても、ベストな仕上がり。
しかし大杉漣と樹木希林がもう見られないなんて、ホント寂しいなあ。
今回は雅なる京都の地酒、木下酒造の「玉川山廃純米雄町無濾過生原酒」をチョイス。
2015年に公開された、ドキュメンタリー映画「カンパイ!世界が恋する日本酒」にも登場した英国人杜氏のフィリップ・パーカーが手掛けた酒。
オックスフォード大学出身で、英語教師として来日し日本酒に魅せられ、酒蔵に転職して南部杜氏の資格をとり、京都府京丹後市の木下酒造の杜氏となった。
濃厚な旨味と適度な酸味、日本酒らしさの詰まったフルボディ。
冷でも燗でも美味しくいただける懐の深さがあり、CPもすこぶる高い。
日本酒の世界も変わらないようで、少しずつ進化している。
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エッセイストの森下典子が長年通っていた茶道教室での出来事を綴った、「日日是好日 『お茶』が教えてくれた15のしあわせ」を大森立嗣監督が映画化。
タイトルの「日日是好日(にちにちこれこうじつ)」は、教室に掲げられている書の言葉で、そのまま捉えれば「毎日がよき日」となるが、本当はどういう意味が込められているのか。
黒木華演じる主人公の典子は、まじめな性格だが特に人生の目標があるわけでもなく、なんとなく毎日を生きている大学生。
そんな彼女が、ひょんなことから茶道教室に通うこととなり、茶の湯の哲学を通してこの言葉に秘められたディープな意味を知る、四半世紀に渡る物語だ。
典子を、無限に広がる茶の湯の宇宙へと誘う武田先生を、つい先日死去した樹木希林が演じ、圧巻の存在感。
大学生の典子(黒木華)は、情熱をそそぐ何かを見つけたいと願っているが、学生時代は瞬く間に過ぎてゆく。
二十歳の春、母(郡山冬果)に勧められたこともあって、典子はいとこの美智子(多部美華子)と共に近所の武田先生(樹木希林)のもとで茶道を習うことに。
二人が憶えなければならないのは、お茶のたて方だけでなく、歩き方から道具の選び方、飲み方に至る膨大な作法。
「お茶はまず『形』から。先に『形』を作っておいて、その入れ物に後から『心』が入るものなのよ」と言う先生に、「それって形式主義では?」と反論しつつも、二人はなんとか茶の湯の世界に馴染んでゆく。
やがて卒業の季節を迎え、貿易商社に就職した美智子は教室をやめてしまったが、就職におちた典子は出版社でアルバイトをしながらお茶の稽古を続けている。
年齢を重ねる毎に、少しずつ茶の湯の世界の奥深さを理解してゆく典子だったが、同時に茶人としての限界も感じるようになっていた。
そんな時、典子の人生に大きな転機が訪れる・・・・
「お茶の作法なんて決まっているのだから、なんで皆何年も稽古を続けるのだろう?」
以前はこう思っていたのだが、実際に長年教室に通っている人に聞くとそう簡単ではないらしい。
劇中にも描かれている通り、季節によってどんどん作法が変わってゆくので、覚えなければならないことは膨大にある。
一つの作法をマスターしても次は違うことをするので、一年が巡ってくるころにはすっかり忘れて、結局毎年学び直しながら、完成度を高めていくしかないのだという。
流されるままに武田先生の教室に通い始めた典子も、最初のうちは作法を覚えるだけで精いっぱい。
もちろん教室の外では普段の生活もあるわけだが、何が特別なことが起こる訳でもなく、映画は茶の湯の二十四節気を巡ってゆく。
そして、毎年同じことを繰り返しているうちに典子は徐々に理解する。
茶道の世界では、なぜ「形」を重要視するのか。
稽古を始めて何年かたったある日、彼女は季節によって雨音が違うことに気づく。
さらに、お茶をたてる時のお湯の音は「とろとろ」、水の音は「きらきら」と水温の違いも聞き分けられるように。
良さが分からなかった茶室の掛け軸も、文字に動きを与えた遊び心ある「絵」として楽しめばよいのだと悟る。
同じことを忠実に繰り返しても、天気は違うし歳もとる。
厳格で変わらない茶の作法と相対化されることで、世界はどんどん移ろってゆく。
一人暮らしを始めた典子と、鶴見辰吾演じる父親との、印象的なやり取りがある。
娘の暮らす街へとやってきた彼は、久しぶりに娘と会いたいというのだが、典子は自分の都合を優先して断ってしまう。
「会おうと思えば何時でも会えるから」と思っている典子は、なかなか父親との時間を作ろうとしない。
そうこうしているうちに、彼は突然この世を去ってしまうのだ。
マーク・フォスター監督の「プーと大人になった僕」のラストで、クリストファー・ロビンとプーさんがこんな会話をする。
プーさん「What day is it?(今日はいつだっけ?)」
クリストファー 「It's today.(今日だよ)」
プーさん 「My favorite day.(僕の大好きな日だ)」
この映画も茶の湯に通じる侘び寂びの哲学を感じる作品なのだが、プーさんが感じている日々の幸せも、つまりは「日日是好日」と同じこと。
茶道を始める前は、なんとなく毎日を過ごしてきた典子は、長い時間を費やして遂にこの言葉の神髄に行き当たる。
たとえ同じような毎日の繰り返しだとしても、今日と同じ日は二度とやってこない。
毎日が一期一会だからこそ、この世界は素晴らしく、生きるに値する。
原作エッセイで描かれているのは70年代半ばからの四半世紀だが、映画の時間軸は現在を終点とする過去四半世紀。
現在の観客にとっては、より作品世界へ入りやすくなっただけでなく、バブル崩壊後の就職氷河期などが背景となり、主人公の閉塞感が強化された。
なかなか見えてこない茶の湯の神髄への旅を、フェリーニの「道」の理解に例えるのも面白い。
私もこの映画を中学生の時に初めて観て、いまひとつ面白さが分からなかったが、大人になって再び出会った時は、旅芸人の孤独と絶望に泣いた。
心を震わす芸術も、人生の道程の何時出会うかによって印象はまるで違ってくる。
この映画は典子の二十歳から四十五歳までを描いている訳だが、その間に彼女は就活に卒業、失恋、喪失などを経験して来ている。
それぞれのエピソードも、例えば大学生の観客と、四十代の観客ではだいぶ受け止め方が変わってくるはずだ。
お茶と人生というモチーフを通して、見えてくるのは世界の感じ方なのである。
そして、数百年継承されて来た茶の湯の歴史は、この作品において、日本映画の継承のメタファーとなった。
樹木希林という唯一無二の名優が亡くなったことは哀しいけど、演技派女優の系譜は、本作でも素晴らしい好演を見せる、黒木華や多部未華子に受け継がれてゆくだろう。
俳優たちの演技を、四季の移ろいの中でじっくりと見せ、大森立嗣監督作品としても、ベストな仕上がり。
しかし大杉漣と樹木希林がもう見られないなんて、ホント寂しいなあ。
今回は雅なる京都の地酒、木下酒造の「玉川山廃純米雄町無濾過生原酒」をチョイス。
2015年に公開された、ドキュメンタリー映画「カンパイ!世界が恋する日本酒」にも登場した英国人杜氏のフィリップ・パーカーが手掛けた酒。
オックスフォード大学出身で、英語教師として来日し日本酒に魅せられ、酒蔵に転職して南部杜氏の資格をとり、京都府京丹後市の木下酒造の杜氏となった。
濃厚な旨味と適度な酸味、日本酒らしさの詰まったフルボディ。
冷でも燗でも美味しくいただける懐の深さがあり、CPもすこぶる高い。
日本酒の世界も変わらないようで、少しずつ進化している。

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2018年10月25日 (木) | 編集 |
本当の“怪物”は誰か?
ギデンズ・コーのヨン・サンホ化。
昨年の東京国際映画祭でも上映された「怪怪怪怪物!」は、いわば「あの頃、君を追いかけた」で描かれた爽やかな青春ストーリーの裏側にあるもの。
思春期の少年少女の心のダークサイドを、増幅・具現化した作品だ。
とぼけたタイトルからコメディと勘違いしそうだけど、中身はある意味「不快の塊」で相当にハード。
学園生活のリアリティはこの人らしいが、登場人物が殆ど全員徹底的な非共感キャラに造形され、情け容赦無い戦慄の学園ホラーに仕上がっている。
トン・ユィカイ演じる主人公のリン・シューウェイは、気の弱いイジメられっ子。
彼は教師から、イジメ大好きのムナクソ悪い不良三人と共に、奉仕活動として独居老人の手伝いを命じられる。
そして訪れた老人宅で、人を喰う二匹の鬼と遭遇した彼らは、小さいほうの鬼を捕まえ、誰も足を踏み入れない学校のイジメ部屋に監禁するのである。
イジメっ子たちは、最初は小鬼にビビっていたのが、日光という弱点を見つけると、「調査」と「実験」と称して執拗にいたぶりだす。
ところが、小鬼には遥かに強い姉ちゃんがいて、消えた妹を探しにやってくる・・・という話。
この映画の人喰い鬼はそれ自体が恐怖の対象ではなく、人間の心の中に隠れている悪を浮かび上がらせ、相対化するための存在。
かつては人間だったが、鬼と化してしまった彼女らは人を食うが、それは生きるための手段でしかなく、一生物として不可避の行為である。
対して、イジメっ子のクソガキたちは、「楽しいから」躊躇なく人を傷つける。
しかも彼らの嗜虐性は、「人の様だけど人でない」小鬼の存在によってエスカレートしてしまうのだ。
日本でも昔、女子高生コンクリ詰め殺人事件という凄惨な事件が起こったが、この手のクソガキは一度箍が外れてしまうと、精神的な幼さゆえにとことん暴走してしまうことがある。
しかも相手が小鬼なら、いくらイジメても、傷つけても、殺してしまったとしても、法で罰せられることはない。
イジメの快感に捕らわれた彼らは、もはや人の姿をした怪物と化してゆく。
ダークサイドに堕ちているのは子供たちだけでなく、大人も同じ。
生徒と正面から向き合わず、宗教に逃げる女教師など、ハリウッド映画では結構見るタイプのキャラクターだが、あまり宗教的とは言えない東アジアの映画では珍しく、仏教徒なのが面白い。
主人公を一番中途半端で、悪にも善にもなりきれない優柔不断な乳揉み男にしたのも上手い。
自分から積極的に悪は行わない(行えない)が、かといって止める勇気もないノンポリの傍観者こそ、人間社会の圧倒的多数だからだ。
観客はシューウェイの臆病さに心底イライラしながら、同時に彼の立場なら自分も同じことをするかも?ということを否定できない。
全く同情できないクソガキ共に鉄槌をと、血の雨を降らせながら妹を探す姉ちゃん鬼を応援したくなるが、そうなるとシューウェイも無罪放免とはいかないのである。
主人公の”不作為の罪”をいかにして償わせるのか?
これはネタバレになるので、是非劇場で確認してほしいのだが、物語の幕引きはこれ以上ない見事なものだった。
キョンシーの血統というか、ゾクッとするユーモアがいいアクセントになっている。
今回は台湾を代表するビール「台灣啤酒 金牌(台湾ビール 金牌)」をチョイス。 台灣啤酒 は日本統治時代の1919年に創業した高砂麦酒が前身で、一世紀の歴史を持つ老舗。
同社の「經典( クラッシック)」が、高砂麦酒の製法を受け継ぎ、日本のビールに近い印象なのに対し、2003年に発売されたラガービールの「金牌」は、かなりライトで南国らしい味わい。
苦味は弱く、水のように飲みやすい。 亜熱帯気候の台湾で、夜風に当たりながら飲んだらさぞ美味しいだろう。
記事が気に入ったらクリックしてね
ギデンズ・コーのヨン・サンホ化。
昨年の東京国際映画祭でも上映された「怪怪怪怪物!」は、いわば「あの頃、君を追いかけた」で描かれた爽やかな青春ストーリーの裏側にあるもの。
思春期の少年少女の心のダークサイドを、増幅・具現化した作品だ。
とぼけたタイトルからコメディと勘違いしそうだけど、中身はある意味「不快の塊」で相当にハード。
学園生活のリアリティはこの人らしいが、登場人物が殆ど全員徹底的な非共感キャラに造形され、情け容赦無い戦慄の学園ホラーに仕上がっている。
トン・ユィカイ演じる主人公のリン・シューウェイは、気の弱いイジメられっ子。
彼は教師から、イジメ大好きのムナクソ悪い不良三人と共に、奉仕活動として独居老人の手伝いを命じられる。
そして訪れた老人宅で、人を喰う二匹の鬼と遭遇した彼らは、小さいほうの鬼を捕まえ、誰も足を踏み入れない学校のイジメ部屋に監禁するのである。
イジメっ子たちは、最初は小鬼にビビっていたのが、日光という弱点を見つけると、「調査」と「実験」と称して執拗にいたぶりだす。
ところが、小鬼には遥かに強い姉ちゃんがいて、消えた妹を探しにやってくる・・・という話。
この映画の人喰い鬼はそれ自体が恐怖の対象ではなく、人間の心の中に隠れている悪を浮かび上がらせ、相対化するための存在。
かつては人間だったが、鬼と化してしまった彼女らは人を食うが、それは生きるための手段でしかなく、一生物として不可避の行為である。
対して、イジメっ子のクソガキたちは、「楽しいから」躊躇なく人を傷つける。
しかも彼らの嗜虐性は、「人の様だけど人でない」小鬼の存在によってエスカレートしてしまうのだ。
日本でも昔、女子高生コンクリ詰め殺人事件という凄惨な事件が起こったが、この手のクソガキは一度箍が外れてしまうと、精神的な幼さゆえにとことん暴走してしまうことがある。
しかも相手が小鬼なら、いくらイジメても、傷つけても、殺してしまったとしても、法で罰せられることはない。
イジメの快感に捕らわれた彼らは、もはや人の姿をした怪物と化してゆく。
ダークサイドに堕ちているのは子供たちだけでなく、大人も同じ。
生徒と正面から向き合わず、宗教に逃げる女教師など、ハリウッド映画では結構見るタイプのキャラクターだが、あまり宗教的とは言えない東アジアの映画では珍しく、仏教徒なのが面白い。
主人公を一番中途半端で、悪にも善にもなりきれない優柔不断な乳揉み男にしたのも上手い。
自分から積極的に悪は行わない(行えない)が、かといって止める勇気もないノンポリの傍観者こそ、人間社会の圧倒的多数だからだ。
観客はシューウェイの臆病さに心底イライラしながら、同時に彼の立場なら自分も同じことをするかも?ということを否定できない。
全く同情できないクソガキ共に鉄槌をと、血の雨を降らせながら妹を探す姉ちゃん鬼を応援したくなるが、そうなるとシューウェイも無罪放免とはいかないのである。
主人公の”不作為の罪”をいかにして償わせるのか?
これはネタバレになるので、是非劇場で確認してほしいのだが、物語の幕引きはこれ以上ない見事なものだった。
キョンシーの血統というか、ゾクッとするユーモアがいいアクセントになっている。
今回は台湾を代表するビール「台灣啤酒 金牌(台湾ビール 金牌)」をチョイス。 台灣啤酒 は日本統治時代の1919年に創業した高砂麦酒が前身で、一世紀の歴史を持つ老舗。
同社の「經典( クラッシック)」が、高砂麦酒の製法を受け継ぎ、日本のビールに近い印象なのに対し、2003年に発売されたラガービールの「金牌」は、かなりライトで南国らしい味わい。
苦味は弱く、水のように飲みやすい。 亜熱帯気候の台湾で、夜風に当たりながら飲んだらさぞ美味しいだろう。



2018年10月24日 (水) | 編集 |
“掟”はなぜ作られる?
これはテーマ的に非常にエッジーで、深みのある作品だ。
雲海から突き出すように、天空高くそびえる雪と氷の山にあるイエティの村では、古から伝わる「石の掟」によって全てが決まる。
歴史認識から生活の細々とした点まで、石に刻まれた無数の掟をまるで鎧のようにして身に着ける長老は“ストーンキーパー”と呼ばれ、族長的な役割を担っている。
だが本作の主人公である若者・ミーゴが、掟では存在しないことになっている伝説のUMA、スモールフット(人間)と遭遇したことで、掟の信憑性に綻びが生じる。
掟の権威を守りたいストーンキーパーは、ミーゴを村から追放することで事態を収拾しようとするのだが、保守的な大人たちに反発を募らせるミーゴとナードな仲間たちは、スモールフットを捕まえて掟の矛盾を暴こうとし、「何も存在しない」と教えられてきた雲海の下の世界へと旅立つ。
そこでイエティを探しに来ていたユーチューバーと出会ったことから、異文化交流が始まるというわけ。
※核心部分に触れています。
しかし、そもそもなぜ嘘の掟が作られたのか?
なぜストーンキーパーは、間違いなのが分かってもなお頑なに掟を守ろうとするのか?
そこに秘められていたのは、イエティとスモールフットの間の悲しい歴史。
お互いを“怪物”と思い、恐れていた二つの種族は、やがて殺し合うようになる。
戦いに敗れたイエティは、スモールフットが生きられない極寒の高山に逃れ、嘘の掟を作って下界の記憶を封印することで細々と生き残ってきたのだ。
もしスモールフットが、イエティが生き残っていることに気づけば、悲劇は再び繰り返されるかも知れず、だから二つの種族は再び出会ってはならないのである。
思いもよらない掟の真実を知ったミーゴは、ことの重大さに葛藤を深めざるを得ない。
人(イエティ)は無知な方が幸せなのか?
それとも、真実を知った上で困難に向き合うべきなのか?
イエティの村は現実の世界のメタファーであり、ここで起こっていることは情報操作と愚民化政策に他ならない。
宗教や政党、あるいは偶像化された個人など、人々が絶対的な権威に従順であれば、為政者にとってはそれが一番都合がいい。
為政者が基本的には善意の人なのもポイントだ。
でもそれは、真実を知ってしまった者にとっては、壁のない監獄、偽りの世界に生きるのと同じこと。
キャラクターデザインをはじめ、ビジュアルは緩いが、この映画が描いている内容は政治的で極めて高度。
理不尽な掟に反発し、変化を求める若者たちと、掟を絶対のものと信じ、秩序の崩壊を恐れる大人たちの対立構図もリアルだ。
監督・脚本のキャリー・カークパトリックは、「ジャイアント・ピーチ」や「シャーロットのおくりもの」、「チキンラン」など多くの名作児童映画の脚本家として知られる人物。
本作も心に残る名台詞のオンパレードで、高いエンターテイメント性と、子供でも十分に理解出来る社会性のバランスは見事。
掟の嘘が破綻した後も、白を黒と言い続けるストーンキーパーの姿には、世界中の観客がそれぞれの社会の「誰かさん」を思い浮かべるだろう。
イエティとスモールフットが、互いに鏡像となる構造は誠に秀逸で、真実を知ったイエティたちが最後に下す勇気ある決断はとても感動的。
上映館が極端に少ないのが残念だが、これは老若男女誰にでもお勧めしたい秀作だ。
今回はイエティの村同様にクールなカクテル「スノーボール」をチョイス。
ボルス アドヴォカート30ml、ライムジュース5mlを軽くシェイクし、氷を入れたタンブラーに注ぎ、ジンジャーエール105mlを加えて満たす。
最後にスライスしたライムを添えて完成。
アドヴォカートはオランダ生まれの卵のリキュールで、乳白色の美しいカクテル。
もともとはジンジャーエールではなくレモネードが使われていたのだが、利便性のよさからか、最近ではジンジャーエールが定着している。
口当たり良く甘口で、ライムの酸味とジンジャーの仄かな辛味がアクセント。
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これはテーマ的に非常にエッジーで、深みのある作品だ。
雲海から突き出すように、天空高くそびえる雪と氷の山にあるイエティの村では、古から伝わる「石の掟」によって全てが決まる。
歴史認識から生活の細々とした点まで、石に刻まれた無数の掟をまるで鎧のようにして身に着ける長老は“ストーンキーパー”と呼ばれ、族長的な役割を担っている。
だが本作の主人公である若者・ミーゴが、掟では存在しないことになっている伝説のUMA、スモールフット(人間)と遭遇したことで、掟の信憑性に綻びが生じる。
掟の権威を守りたいストーンキーパーは、ミーゴを村から追放することで事態を収拾しようとするのだが、保守的な大人たちに反発を募らせるミーゴとナードな仲間たちは、スモールフットを捕まえて掟の矛盾を暴こうとし、「何も存在しない」と教えられてきた雲海の下の世界へと旅立つ。
そこでイエティを探しに来ていたユーチューバーと出会ったことから、異文化交流が始まるというわけ。
※核心部分に触れています。
しかし、そもそもなぜ嘘の掟が作られたのか?
なぜストーンキーパーは、間違いなのが分かってもなお頑なに掟を守ろうとするのか?
そこに秘められていたのは、イエティとスモールフットの間の悲しい歴史。
お互いを“怪物”と思い、恐れていた二つの種族は、やがて殺し合うようになる。
戦いに敗れたイエティは、スモールフットが生きられない極寒の高山に逃れ、嘘の掟を作って下界の記憶を封印することで細々と生き残ってきたのだ。
もしスモールフットが、イエティが生き残っていることに気づけば、悲劇は再び繰り返されるかも知れず、だから二つの種族は再び出会ってはならないのである。
思いもよらない掟の真実を知ったミーゴは、ことの重大さに葛藤を深めざるを得ない。
人(イエティ)は無知な方が幸せなのか?
それとも、真実を知った上で困難に向き合うべきなのか?
イエティの村は現実の世界のメタファーであり、ここで起こっていることは情報操作と愚民化政策に他ならない。
宗教や政党、あるいは偶像化された個人など、人々が絶対的な権威に従順であれば、為政者にとってはそれが一番都合がいい。
為政者が基本的には善意の人なのもポイントだ。
でもそれは、真実を知ってしまった者にとっては、壁のない監獄、偽りの世界に生きるのと同じこと。
キャラクターデザインをはじめ、ビジュアルは緩いが、この映画が描いている内容は政治的で極めて高度。
理不尽な掟に反発し、変化を求める若者たちと、掟を絶対のものと信じ、秩序の崩壊を恐れる大人たちの対立構図もリアルだ。
監督・脚本のキャリー・カークパトリックは、「ジャイアント・ピーチ」や「シャーロットのおくりもの」、「チキンラン」など多くの名作児童映画の脚本家として知られる人物。
本作も心に残る名台詞のオンパレードで、高いエンターテイメント性と、子供でも十分に理解出来る社会性のバランスは見事。
掟の嘘が破綻した後も、白を黒と言い続けるストーンキーパーの姿には、世界中の観客がそれぞれの社会の「誰かさん」を思い浮かべるだろう。
イエティとスモールフットが、互いに鏡像となる構造は誠に秀逸で、真実を知ったイエティたちが最後に下す勇気ある決断はとても感動的。
上映館が極端に少ないのが残念だが、これは老若男女誰にでもお勧めしたい秀作だ。
今回はイエティの村同様にクールなカクテル「スノーボール」をチョイス。
ボルス アドヴォカート30ml、ライムジュース5mlを軽くシェイクし、氷を入れたタンブラーに注ぎ、ジンジャーエール105mlを加えて満たす。
最後にスライスしたライムを添えて完成。
アドヴォカートはオランダ生まれの卵のリキュールで、乳白色の美しいカクテル。
もともとはジンジャーエールではなくレモネードが使われていたのだが、利便性のよさからか、最近ではジンジャーエールが定着している。
口当たり良く甘口で、ライムの酸味とジンジャーの仄かな辛味がアクセント。



2018年10月22日 (月) | 編集 |
ポップカルチャーの迷宮に溺れる。
人の姿をしているが、正体不明の“それ”が延々と追いかけてくるホラー映画、「イット・フォローズ」で注目を集めた俊英、デヴィッド・ロバート・ミッチェルによる、何とも形容しがたい大怪作。
ロサンゼルス、シルバーレイクに住むプータローのサムが、忽然と失踪した隣人の美女を探し、虚構の魔都を彷徨う。
手掛かりになるのは、映画や音楽をはじめとした、様々なポップカルチャーに仕込まれた暗号。
シンクロニシティにサブリミナル、陰謀論に都市伝説のモンスター、更にはヒッチコックからデヴィッド・リンチ、P・T・アンダーソンに至るまでの映画的記憶。
これはまるで、作者の好きなものを節操なく全部ぶち込んだ、闇鍋みたいな映画だ。
「アンダー・ザ・シルバーレイク」には一体何が隠されているのか?
サムの小さな冒険はどこに行きつくのか?
最後まで観ると、ようやくこの意味深なタイトルの意味が分かる。
※核心部分に触れています。
‟犬殺し”の不穏な噂が広まるロサンゼルス、シルバーレイク地区。
ハリウッドでの成功を夢見て、ロサンゼルスへ出て来たものの、結局なにもかも上手くいかず、家賃滞納で部屋も追い出されそうなサム(アンドリュー・ガーフィールド)は、ある日同じコンドミニアムに住む美女サラ(ライリー・キーオー)に部屋へと誘われる。
しかし、懇ろになろうとした時、彼女のルームメイトが帰ってきて、「また明日ね」と追い出されてしまう。
ところが、翌日サムが尋ねると、そこは既に空き部屋。
壁に残されていた暗号と、サラのものを取りに来た謎の女に事件の匂いを感じ取ったサムは、彼女の行方を探し始める。
そんな時、疾走していたハリウッドのセレブ、ジェファソン・セヴンスの焼けた車の中から、セヴンスと三人の女性の遺体も見つかったというニュースが流れる。
その中の一人がサラだと確信したサムは、同人誌「シルバーレイクの下で」の作者に会いに行く。
陰謀論や都市伝説の膨大な知識を持つ彼は、サラの部屋にあった暗号は大恐慌時代に各地を放浪していた集団“ホーボー”の暗号だと解き明かすのだが、それはさらなる謎の始まりに過ぎなかった・・・・
アンドリュー・ガーフィールドの、“ロスト・イン・ロサンゼルス”。
テイスト的には「マルホランド・ドライブ」に「インヒアレント・ヴァイス」を混ぜて、ヒッチコック映画のスパイスを全体に振りかけた様だが、ある意味本作のカオスっぷりはもっとディープ。
舞台となるシルバーレイクは、ハリウッド大通りの東側に位置する、大きな貯水池を中心とした住宅地だ。
近年は家賃が高騰して事情が変わってきているが、伝統的に住人にはビバリーヒルズなどには住めないクラスの芸能関係者が多い。
本作の主人公のサムも、そんな夢追い人の一人だが、ハリウッドの片隅に生きているということ以外、役者などの表方なのか裏方なのかを含め、何をやっている人なのか全く描かれない。
とりあえず30代になっても成功をつかむことはできず、家賃も払えないプータロー状態で、つまりは“何者でもない”存在だ。
ホームレス目前の生活状態でも、車は派手なマスタングGTというのが、いかにも虚栄に生きるこの街の住人らしい。
サムが住んでいるのは、広い中庭をもつコンドミニアムの一室で、彼は「裏窓」のジェームズ・スチュアートよろしく、部屋のバルコニーから双眼鏡で近所の女性を覗き見ている。
彼の目に留まるのは、いつも上半身トップレスで過ごしているオウム飼いの年増の女性と、愛犬と散歩する美女サラ。
サラは自分が覗かれているのを知っていて、あえてサムに声をかけて自室に招き入れるのだ。
ところが、もう少しでベッドインというところで追い出されたサラの部屋は、翌日にはもぬけの殻になっており、諦めきれないサムは彼女の行方を捜し始める。
いったいサラは何者だったのか?どこへ消えたのか?
ここから、にわか探偵となってシルバーレイクを彷徨い始めるサムは、同じジェームズ・スチュアートでも死んだはずのキム・ノヴァクの影を追って、次第に正気を失ってゆく「めまい」のキャラクターへのオマージュだ。
運命の女、サラを演じるのはライリー・キーオー。
この人、実はあのエルビス・プレスリーの孫娘で、彼女のキャスティング自体が最初からポップカルチャーのアイコンのメタファー。
デヴィッド・ロバート・ミッチェルは、この映画のカオスのロサンゼルスに、生と死の混乱をイメージさせる多くのモチーフを散りばめる。
冒頭の店の窓に落書きされた、「犬殺しに気をつけろ」の文字を消している店員が着ているのは、ドアーズのヴォーカリストで謎多き死を遂げたジム・モリソンのTシャツ。
サラを探すサムは、ヒッチコックの墓が鎮座するハリウッド・フォーエヴァー霊園で行なわれている野外上映会に迷い込むが、上映されているいるのはミッチェルの長編デビュー作「アメリカン・スリープオーバー」。
ただしオリジナルではなく、一場面を本作のキャストで再現したもので、もはや現実と虚構、生と死は境界を失い溶け合ってゆく。
ちなみにミッチェル自身の青春時代を反映したこの映画には、「モスラ」のパチモンの「モスキータ」なる怪獣映画が劇中劇として登場していたり、とぼけたポップカルチャー好きの嗜好は既に現れていて、本作や「イット・フォローズ」の原点的な部分もある。
失踪したサラは、ハリウッドのセレブ、ジェファソン・セヴンスの死に巻き込まれたらしいが、セヴンスの娘はサムの持っている雑誌のヌード写真と同じ姿となって、シルバーレイクで何者かに殺される。
チャールズ・マンソン一味っぽい、ロックバンドの「イエスとドラキュラの花嫁」の歌詞に隠された暗号に気づいたサムは、全ての世代のヒット曲を作ったと豪語する“ソングライター”に会いに行くが、彼の住む豪邸は、まるで「市民ケーン」の“ザナドウ”のようだ。
このように、一見すると全く関係のないモチーフがごちゃまぜにプロットにぶち込まれ、いつまでたっても全く映画の輪郭が見えてこない。
アンドリュー・ガーフィールドの手に、ガムで「アメイジング・スパイダーマン」のコミックがくっ付いて離れない描写など、どこまでがシリアスで、どこからがジョークなのかもよく分からなくなってくる。
それでも、なぜだか観ていて面白いのは、作者がこのドラッグでラリったようなイカれた世界を大いに愛しているからだろう。
暇にまかせて探偵を気取り、フラフラとサラを探し求めるダメ人間のサムは、成功できなかったバージョンのミッチェルであり、これは自らの心の迷宮に迷う作者自身によるRPG的冒険譚なのだ。
そして闇鍋の底に残ったもの、サムがたどり着く全ての謎の真相、シルバーレイクの下にあるものは何か。
このクソみたいな世界から脱出するために、人類の上位存在となるという名目で死を願うセレブ達もまた、チャールズ・マンソン一味のマイルド版と見ることができる。
ここで対比されるのが、サムの母親がこよなく愛するジャネット・ゲイナーの主演作、フランク・ボーゼイジ監督の「第七天国」だ。
第一回アカデミー賞三冠、昭和二年のキネ旬ベストワンの名作では、チャールズ・ファレル演じる無神論者の下水掃除人・チコが、虐げられた少女と出逢い、自らの手が届く最も空に近い場所、アパートの七階屋根裏部屋に、彼女と共に“第七天国”を作り上げる。
全てを持ちながら、地下=死を願うハリウッドのセレブたちに対して、この映画の主人公は地下の下水道にいながらも天=生を求めている。
「第七天国」の発したメッセージは、やがて海を越えて永六輔にインスパイアを与え大ヒット曲「上を向いて歩こう」となり、この歌は再び太平洋を渡り「スキヤキ」として、多くのアーティストにカバーされることで、アメリカのポップカルチャーの一部となったのも面白い偶然。
真相にたどり着いたサムは、自らの生を確認するように、覗き見していたもう一人の年増の女性と寝るが、退去させられた彼の部屋にはいつのまにかホーボーの暗号が残されている。
現実と虚構が入り混じる魔都では、すべてが生きながら死んでいるのである。
もの凄く雑多なジャンルからの引用を、紐解いてゆくだけでも嬉しくなっちゃうのだが、ぶっちゃけこれは作者の超マニアックなオタク脳を垣間見る様な悪夢的な作品で、個人的には大好きで満足度も高かったものの、間違っても万人向けの映画ではない。
アングラなミニシアターで、ほくそ笑みながら一人で作品世界に浸るのが相応しい作品だ。
しかし長編三本目でこんなヘンテコな映画撮っちゃって、キャリア的に大丈夫なのだろうか。
今回は悪夢的冒険譚なので「ナイトメア」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、デュボネ30ml、チェリー・ブランデー15ml、オレンジジュース15mlを氷と共にシェイクし、グラスに注ぐ。
最後にマラスキーノチェリーを飾って完成。
名前は怖そうだは、デュボネとチェリー・ブランデーの甘みとオレンジの酸味がバランスよく、飲みやすい。
しかしアルコール度数は相当に高いので、油断するとすぐに悪夢に落ちてしまう危険なカクテルだ。
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人の姿をしているが、正体不明の“それ”が延々と追いかけてくるホラー映画、「イット・フォローズ」で注目を集めた俊英、デヴィッド・ロバート・ミッチェルによる、何とも形容しがたい大怪作。
ロサンゼルス、シルバーレイクに住むプータローのサムが、忽然と失踪した隣人の美女を探し、虚構の魔都を彷徨う。
手掛かりになるのは、映画や音楽をはじめとした、様々なポップカルチャーに仕込まれた暗号。
シンクロニシティにサブリミナル、陰謀論に都市伝説のモンスター、更にはヒッチコックからデヴィッド・リンチ、P・T・アンダーソンに至るまでの映画的記憶。
これはまるで、作者の好きなものを節操なく全部ぶち込んだ、闇鍋みたいな映画だ。
「アンダー・ザ・シルバーレイク」には一体何が隠されているのか?
サムの小さな冒険はどこに行きつくのか?
最後まで観ると、ようやくこの意味深なタイトルの意味が分かる。
※核心部分に触れています。
‟犬殺し”の不穏な噂が広まるロサンゼルス、シルバーレイク地区。
ハリウッドでの成功を夢見て、ロサンゼルスへ出て来たものの、結局なにもかも上手くいかず、家賃滞納で部屋も追い出されそうなサム(アンドリュー・ガーフィールド)は、ある日同じコンドミニアムに住む美女サラ(ライリー・キーオー)に部屋へと誘われる。
しかし、懇ろになろうとした時、彼女のルームメイトが帰ってきて、「また明日ね」と追い出されてしまう。
ところが、翌日サムが尋ねると、そこは既に空き部屋。
壁に残されていた暗号と、サラのものを取りに来た謎の女に事件の匂いを感じ取ったサムは、彼女の行方を探し始める。
そんな時、疾走していたハリウッドのセレブ、ジェファソン・セヴンスの焼けた車の中から、セヴンスと三人の女性の遺体も見つかったというニュースが流れる。
その中の一人がサラだと確信したサムは、同人誌「シルバーレイクの下で」の作者に会いに行く。
陰謀論や都市伝説の膨大な知識を持つ彼は、サラの部屋にあった暗号は大恐慌時代に各地を放浪していた集団“ホーボー”の暗号だと解き明かすのだが、それはさらなる謎の始まりに過ぎなかった・・・・
アンドリュー・ガーフィールドの、“ロスト・イン・ロサンゼルス”。
テイスト的には「マルホランド・ドライブ」に「インヒアレント・ヴァイス」を混ぜて、ヒッチコック映画のスパイスを全体に振りかけた様だが、ある意味本作のカオスっぷりはもっとディープ。
舞台となるシルバーレイクは、ハリウッド大通りの東側に位置する、大きな貯水池を中心とした住宅地だ。
近年は家賃が高騰して事情が変わってきているが、伝統的に住人にはビバリーヒルズなどには住めないクラスの芸能関係者が多い。
本作の主人公のサムも、そんな夢追い人の一人だが、ハリウッドの片隅に生きているということ以外、役者などの表方なのか裏方なのかを含め、何をやっている人なのか全く描かれない。
とりあえず30代になっても成功をつかむことはできず、家賃も払えないプータロー状態で、つまりは“何者でもない”存在だ。
ホームレス目前の生活状態でも、車は派手なマスタングGTというのが、いかにも虚栄に生きるこの街の住人らしい。
サムが住んでいるのは、広い中庭をもつコンドミニアムの一室で、彼は「裏窓」のジェームズ・スチュアートよろしく、部屋のバルコニーから双眼鏡で近所の女性を覗き見ている。
彼の目に留まるのは、いつも上半身トップレスで過ごしているオウム飼いの年増の女性と、愛犬と散歩する美女サラ。
サラは自分が覗かれているのを知っていて、あえてサムに声をかけて自室に招き入れるのだ。
ところが、もう少しでベッドインというところで追い出されたサラの部屋は、翌日にはもぬけの殻になっており、諦めきれないサムは彼女の行方を捜し始める。
いったいサラは何者だったのか?どこへ消えたのか?
ここから、にわか探偵となってシルバーレイクを彷徨い始めるサムは、同じジェームズ・スチュアートでも死んだはずのキム・ノヴァクの影を追って、次第に正気を失ってゆく「めまい」のキャラクターへのオマージュだ。
運命の女、サラを演じるのはライリー・キーオー。
この人、実はあのエルビス・プレスリーの孫娘で、彼女のキャスティング自体が最初からポップカルチャーのアイコンのメタファー。
デヴィッド・ロバート・ミッチェルは、この映画のカオスのロサンゼルスに、生と死の混乱をイメージさせる多くのモチーフを散りばめる。
冒頭の店の窓に落書きされた、「犬殺しに気をつけろ」の文字を消している店員が着ているのは、ドアーズのヴォーカリストで謎多き死を遂げたジム・モリソンのTシャツ。
サラを探すサムは、ヒッチコックの墓が鎮座するハリウッド・フォーエヴァー霊園で行なわれている野外上映会に迷い込むが、上映されているいるのはミッチェルの長編デビュー作「アメリカン・スリープオーバー」。
ただしオリジナルではなく、一場面を本作のキャストで再現したもので、もはや現実と虚構、生と死は境界を失い溶け合ってゆく。
ちなみにミッチェル自身の青春時代を反映したこの映画には、「モスラ」のパチモンの「モスキータ」なる怪獣映画が劇中劇として登場していたり、とぼけたポップカルチャー好きの嗜好は既に現れていて、本作や「イット・フォローズ」の原点的な部分もある。
失踪したサラは、ハリウッドのセレブ、ジェファソン・セヴンスの死に巻き込まれたらしいが、セヴンスの娘はサムの持っている雑誌のヌード写真と同じ姿となって、シルバーレイクで何者かに殺される。
チャールズ・マンソン一味っぽい、ロックバンドの「イエスとドラキュラの花嫁」の歌詞に隠された暗号に気づいたサムは、全ての世代のヒット曲を作ったと豪語する“ソングライター”に会いに行くが、彼の住む豪邸は、まるで「市民ケーン」の“ザナドウ”のようだ。
このように、一見すると全く関係のないモチーフがごちゃまぜにプロットにぶち込まれ、いつまでたっても全く映画の輪郭が見えてこない。
アンドリュー・ガーフィールドの手に、ガムで「アメイジング・スパイダーマン」のコミックがくっ付いて離れない描写など、どこまでがシリアスで、どこからがジョークなのかもよく分からなくなってくる。
それでも、なぜだか観ていて面白いのは、作者がこのドラッグでラリったようなイカれた世界を大いに愛しているからだろう。
暇にまかせて探偵を気取り、フラフラとサラを探し求めるダメ人間のサムは、成功できなかったバージョンのミッチェルであり、これは自らの心の迷宮に迷う作者自身によるRPG的冒険譚なのだ。
そして闇鍋の底に残ったもの、サムがたどり着く全ての謎の真相、シルバーレイクの下にあるものは何か。
このクソみたいな世界から脱出するために、人類の上位存在となるという名目で死を願うセレブ達もまた、チャールズ・マンソン一味のマイルド版と見ることができる。
ここで対比されるのが、サムの母親がこよなく愛するジャネット・ゲイナーの主演作、フランク・ボーゼイジ監督の「第七天国」だ。
第一回アカデミー賞三冠、昭和二年のキネ旬ベストワンの名作では、チャールズ・ファレル演じる無神論者の下水掃除人・チコが、虐げられた少女と出逢い、自らの手が届く最も空に近い場所、アパートの七階屋根裏部屋に、彼女と共に“第七天国”を作り上げる。
全てを持ちながら、地下=死を願うハリウッドのセレブたちに対して、この映画の主人公は地下の下水道にいながらも天=生を求めている。
「第七天国」の発したメッセージは、やがて海を越えて永六輔にインスパイアを与え大ヒット曲「上を向いて歩こう」となり、この歌は再び太平洋を渡り「スキヤキ」として、多くのアーティストにカバーされることで、アメリカのポップカルチャーの一部となったのも面白い偶然。
真相にたどり着いたサムは、自らの生を確認するように、覗き見していたもう一人の年増の女性と寝るが、退去させられた彼の部屋にはいつのまにかホーボーの暗号が残されている。
現実と虚構が入り混じる魔都では、すべてが生きながら死んでいるのである。
もの凄く雑多なジャンルからの引用を、紐解いてゆくだけでも嬉しくなっちゃうのだが、ぶっちゃけこれは作者の超マニアックなオタク脳を垣間見る様な悪夢的な作品で、個人的には大好きで満足度も高かったものの、間違っても万人向けの映画ではない。
アングラなミニシアターで、ほくそ笑みながら一人で作品世界に浸るのが相応しい作品だ。
しかし長編三本目でこんなヘンテコな映画撮っちゃって、キャリア的に大丈夫なのだろうか。
今回は悪夢的冒険譚なので「ナイトメア」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、デュボネ30ml、チェリー・ブランデー15ml、オレンジジュース15mlを氷と共にシェイクし、グラスに注ぐ。
最後にマラスキーノチェリーを飾って完成。
名前は怖そうだは、デュボネとチェリー・ブランデーの甘みとオレンジの酸味がバランスよく、飲みやすい。
しかしアルコール度数は相当に高いので、油断するとすぐに悪夢に落ちてしまう危険なカクテルだ。



2018年10月18日 (木) | 編集 |
“罪”と“罰”の密室。
これは心に染み入る珠玉の作品だ。
今年二月に死去した大杉漣が演じる拘置所の教誨師が、六人の確定死刑囚と対話する。
稀代の名優の最後の主演作だが、エグゼグティブ・プロデューサーも兼務し、最初で最後のプロデュース作品ともなった。
教誨師は、それぞれに個性的な死刑囚たちとの対話を通し、本当に神の言葉が伝わっているのか、彼らが安らかな死を迎えられるように導けているのか苦悩を深める。
そしていつしか、教誨師自身が心に封印してきた“罪”も見えてくるのである。
人が人を罰するとは、どういうことなのか。
生と死の淵にある教誨室で、深く考えさせられる濃密なる114分。
監督・脚本は、死刑に立ち会う刑務官を描いた「休暇」の脚本で知られる佐古大が務める。
プロテスタント教会の牧師・佐伯保(大杉漣)は拘置所の教誨師として、月に二回確定死刑囚たちと向き合っている。
佐伯の問いかけに一切言葉を返さない鈴木貴裕(古舘寛治)、人のいいヤクザの組長・吉田睦夫(光石研)、関西出身のおしゃべりな中年女性・野口今日子(烏丸せつこ)、年老いた文盲のホームレス・進藤正一(五頭岳夫)、会えない家族を思いやりぼそぼそと喋る小川一(小川登)、そして十七人もの人を殺めた高宮真司(玉置玲央)。
佐伯は、彼らが自らの罪と向き合い、しっかりと悔い改めて残された生を充実したものにできるよう、そして安らかなる死を迎えられるように、親身に彼らと対話し、神の言葉を伝える。
しかし、一癖も二癖もある死刑囚たちとの対話は、困難の連続。
空回りしたり、相手を怒らせたりしながらも、佐伯は少しずつ彼らの心を開いてゆくのだが、ただ一人、高宮だけは佐伯と社会に対する不満と攻撃性を隠そうとしない。
彼らとの対話を通して、佐伯自身もずっと心の中に秘めてきた自らの“罪”に向き合ってゆく。
だがクリスマスも近いある日、ついに死刑囚の一人に執行命令が出される・・・
恥ずかしながら、ずっと「教戒師」だと思っていた。
以前は「教戒」と「教誨」はごっちゃになっていたという。
だが、発音は同じでも、本来「教戒」は「戒める」で「教誨」は「(知らない者に)教え、諭す」と全く違う意味。
刑務所や拘置所での活動は「教誨」であるとして、当事者団体の全国教誨師連盟からの要望もあり、10年ほど前からマスコミなどでも「教誨師」で統一されているそうだ。
全国で約二千人の教誨師が刑務所や拘置所、少年院などで活動していて、そのうちの14パーセントがキリスト教系。
日本のキリスト教徒人口がわずかに1パーセント程度なのを考えると、意外と多いなと思うが、「人間はみな原罪を抱えた罪人である」というキリスト教の考え方は、実際に罪を犯して矯正施設に収容されている人たちにとって、受け入れやすいのかもしれない。
114分の間、教誨の一環として歌われる讃美歌を別として劇盤は全く無く、中盤と終盤の数シーンを除いて、舞台はほぼ全て拘置所の教誨室という演劇的な構造。
殺風景な教誨室は、スタンダードの狭い画面によってさらに切り取られる。
アスペクト比を生かした演出は「リバーズ・エッジ」が同じことをやっていたが、あちらは精神的に、こちらは物理的にも閉塞していて、その分会話劇の密度は物語の進行と共に高まってゆく。
密室で展開する映画だが、カメラとカッティングの妙によって単調には陥らず、観客は時には教誨師側から、時には死刑囚側から物語にグイグイと引き込まれる。
六人の死刑囚の起こした事件は、最初のうちはフォーカスされない。
それぞれに個性的ではあるが、どこにでもいそうな彼らとの対話は、まるで近所の誰々さんとの世間話を聞いているよう。
彼らの事件はそれぞれに実際に起こった事件を思わせるもので、佐伯との対話を通して徐々に「ああ、あの事件か」と記憶を呼び起こされる。
死刑囚としてではなく、あくまでも一人の“人間”としての印象を先行させ、徐々に彼らの罪を露見させてゆくことで、「凶悪殺人犯」という記号化されたキャラクターを生身の人間に戻してゆく。
それと共に、たとえば一見すると豪放に見えるヤクザの吉田が、刑の執行を心底から恐れていること、ストーカー殺人を犯した鈴木が、被害者の幽霊と対話していること、おしゃべりが止まらない野口が、もはや妄想の世界にいて、リストカットを繰り返していることなど、いつ命が終わるとも知れない死刑囚としての毎日で、生きながら人間が壊れていっているのが見えてくるのだ。
また気弱な小川の告白によって、犯した罪の意味合いが変わっていく事例も描かれる。
教誨毎に徐々に印象が異なってゆく彼らに対して、玉置玲央が演じる高宮は、最初から2016年に相模原で起こった大量殺傷事件の被告人をモデルとしているのが明白。
それは彼が他の死刑囚と異なり、ある種の思想犯でもあり、凡ゆる点で佐伯のアンチテーゼだからだ。
佐伯は、独りよがりな“正義”を振りかざし、一切の贖罪の姿勢を見せないこの男と会話することで、彼の心にぽっかりと空いた決して埋められない“穴”を見つめる。
それは同時に、佐伯が自らの心に封印してきた彼自身の“罪”と向き合う時間でもあり、彼の目を通して、私たち観客自身が生命倫理や死刑制度の在り方について考える時間でもあるのだ。
高宮のほかにもう一人、ほかの死刑囚と異なる描かれ方をしている人物がいる。
それは文盲のホームレスの進藤だ。
彼に関しては、教誨の大半が文字を教えることに費やされ、具体的に彼が何をして死刑判決を受けたのかは語られない。
このような描き方をするのは、彼に対して観客が先入観を持つことを避けるためだろう。
教誨中に倒れ言葉を失った進藤が佐伯に渡す、拙いひらがなで書かれた聖書の一節が心に刺さって忘れられない。
「あなたがたのうち だれがわたしにつみがあると せめうるのか」
これはヨハネによる福音書の第八章四十六節の前半部分だが、パリサイの民(ユダヤ教の一派)との対話の中で発されたイエスの言葉だ。
神から使わされたというイエスのあかしをパリサイの民は信じようとしないが、「わたしは真理を語っているのに、なぜあなたがたは、わたしを信じないのか」とイエスは言う。
またこの章の初めで、姦淫の罪で捕まって人々の前に引き出された女を見たイエスは、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と語る。
その結果、誰一人として石を投げることができなかった。
人間がみな罪人だとしたら、はたして罪人が罪人を罰することができるのか?私たちはパリサイの民や姦淫していた女を捕えた人々と同じなのではないか?
初めての死刑執行に立ち会った上で、ニュートラルな存在である進藤から、この根源的な葛藤が込められた一節を突き付けられた佐伯は、真理を求めて罪と罰の混沌に彷徨うしかないのである。
タイトルロールを演じる大杉漣は、全てを包み込むような懐の深い見事な演技を見せ、代表作の一つとなるのは間違いない。
佐古大監督によると、これを「遺作にするから」と冗談で言うほど惚れ込んでいた彼は、「教誨師」を三部作とする構想を抱いていたそうだ。
だからこそ、本作は佐伯の迷いのうちに幕を閉じるのだろう。
教誨師は、私たちの心に決して解くことのできない重い問いを残して、永遠に去ってしまった。
しかし、最後の主演作品が生と死を巡る本作だなんて、まるで映画の神が演出したかの様。
秀作揃いの今年の邦画の中でも、是非とも口コミで広がっていって欲しい作品だ。
それでこそ多くの作品で楽しませてくれた名優・大杉漣への、映画ファンからの恩返しにもなるのではないだろうか。
今回は、キリスト教の儀式には欠かせない赤ワイン、ココファーム・ワイナリーの「農民ロッソ」をチョイス。
ここは嘗て、知的障害を持つ「こころみ学園」の生徒と教師たちが、社会とかかわれるようにと、自ら山を切り開いて58年前に開設したワイナリー。
「農民ロッソ」はその名の通り、“ザ・葡萄酒”いう感じの素朴で柔らかな味わいで、コストパフォーマンスにも優れ、収穫の喜びに満ちた一本だ。

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これは心に染み入る珠玉の作品だ。
今年二月に死去した大杉漣が演じる拘置所の教誨師が、六人の確定死刑囚と対話する。
稀代の名優の最後の主演作だが、エグゼグティブ・プロデューサーも兼務し、最初で最後のプロデュース作品ともなった。
教誨師は、それぞれに個性的な死刑囚たちとの対話を通し、本当に神の言葉が伝わっているのか、彼らが安らかな死を迎えられるように導けているのか苦悩を深める。
そしていつしか、教誨師自身が心に封印してきた“罪”も見えてくるのである。
人が人を罰するとは、どういうことなのか。
生と死の淵にある教誨室で、深く考えさせられる濃密なる114分。
監督・脚本は、死刑に立ち会う刑務官を描いた「休暇」の脚本で知られる佐古大が務める。
プロテスタント教会の牧師・佐伯保(大杉漣)は拘置所の教誨師として、月に二回確定死刑囚たちと向き合っている。
佐伯の問いかけに一切言葉を返さない鈴木貴裕(古舘寛治)、人のいいヤクザの組長・吉田睦夫(光石研)、関西出身のおしゃべりな中年女性・野口今日子(烏丸せつこ)、年老いた文盲のホームレス・進藤正一(五頭岳夫)、会えない家族を思いやりぼそぼそと喋る小川一(小川登)、そして十七人もの人を殺めた高宮真司(玉置玲央)。
佐伯は、彼らが自らの罪と向き合い、しっかりと悔い改めて残された生を充実したものにできるよう、そして安らかなる死を迎えられるように、親身に彼らと対話し、神の言葉を伝える。
しかし、一癖も二癖もある死刑囚たちとの対話は、困難の連続。
空回りしたり、相手を怒らせたりしながらも、佐伯は少しずつ彼らの心を開いてゆくのだが、ただ一人、高宮だけは佐伯と社会に対する不満と攻撃性を隠そうとしない。
彼らとの対話を通して、佐伯自身もずっと心の中に秘めてきた自らの“罪”に向き合ってゆく。
だがクリスマスも近いある日、ついに死刑囚の一人に執行命令が出される・・・
恥ずかしながら、ずっと「教戒師」だと思っていた。
以前は「教戒」と「教誨」はごっちゃになっていたという。
だが、発音は同じでも、本来「教戒」は「戒める」で「教誨」は「(知らない者に)教え、諭す」と全く違う意味。
刑務所や拘置所での活動は「教誨」であるとして、当事者団体の全国教誨師連盟からの要望もあり、10年ほど前からマスコミなどでも「教誨師」で統一されているそうだ。
全国で約二千人の教誨師が刑務所や拘置所、少年院などで活動していて、そのうちの14パーセントがキリスト教系。
日本のキリスト教徒人口がわずかに1パーセント程度なのを考えると、意外と多いなと思うが、「人間はみな原罪を抱えた罪人である」というキリスト教の考え方は、実際に罪を犯して矯正施設に収容されている人たちにとって、受け入れやすいのかもしれない。
114分の間、教誨の一環として歌われる讃美歌を別として劇盤は全く無く、中盤と終盤の数シーンを除いて、舞台はほぼ全て拘置所の教誨室という演劇的な構造。
殺風景な教誨室は、スタンダードの狭い画面によってさらに切り取られる。
アスペクト比を生かした演出は「リバーズ・エッジ」が同じことをやっていたが、あちらは精神的に、こちらは物理的にも閉塞していて、その分会話劇の密度は物語の進行と共に高まってゆく。
密室で展開する映画だが、カメラとカッティングの妙によって単調には陥らず、観客は時には教誨師側から、時には死刑囚側から物語にグイグイと引き込まれる。
六人の死刑囚の起こした事件は、最初のうちはフォーカスされない。
それぞれに個性的ではあるが、どこにでもいそうな彼らとの対話は、まるで近所の誰々さんとの世間話を聞いているよう。
彼らの事件はそれぞれに実際に起こった事件を思わせるもので、佐伯との対話を通して徐々に「ああ、あの事件か」と記憶を呼び起こされる。
死刑囚としてではなく、あくまでも一人の“人間”としての印象を先行させ、徐々に彼らの罪を露見させてゆくことで、「凶悪殺人犯」という記号化されたキャラクターを生身の人間に戻してゆく。
それと共に、たとえば一見すると豪放に見えるヤクザの吉田が、刑の執行を心底から恐れていること、ストーカー殺人を犯した鈴木が、被害者の幽霊と対話していること、おしゃべりが止まらない野口が、もはや妄想の世界にいて、リストカットを繰り返していることなど、いつ命が終わるとも知れない死刑囚としての毎日で、生きながら人間が壊れていっているのが見えてくるのだ。
また気弱な小川の告白によって、犯した罪の意味合いが変わっていく事例も描かれる。
教誨毎に徐々に印象が異なってゆく彼らに対して、玉置玲央が演じる高宮は、最初から2016年に相模原で起こった大量殺傷事件の被告人をモデルとしているのが明白。
それは彼が他の死刑囚と異なり、ある種の思想犯でもあり、凡ゆる点で佐伯のアンチテーゼだからだ。
佐伯は、独りよがりな“正義”を振りかざし、一切の贖罪の姿勢を見せないこの男と会話することで、彼の心にぽっかりと空いた決して埋められない“穴”を見つめる。
それは同時に、佐伯が自らの心に封印してきた彼自身の“罪”と向き合う時間でもあり、彼の目を通して、私たち観客自身が生命倫理や死刑制度の在り方について考える時間でもあるのだ。
高宮のほかにもう一人、ほかの死刑囚と異なる描かれ方をしている人物がいる。
それは文盲のホームレスの進藤だ。
彼に関しては、教誨の大半が文字を教えることに費やされ、具体的に彼が何をして死刑判決を受けたのかは語られない。
このような描き方をするのは、彼に対して観客が先入観を持つことを避けるためだろう。
教誨中に倒れ言葉を失った進藤が佐伯に渡す、拙いひらがなで書かれた聖書の一節が心に刺さって忘れられない。
「あなたがたのうち だれがわたしにつみがあると せめうるのか」
これはヨハネによる福音書の第八章四十六節の前半部分だが、パリサイの民(ユダヤ教の一派)との対話の中で発されたイエスの言葉だ。
神から使わされたというイエスのあかしをパリサイの民は信じようとしないが、「わたしは真理を語っているのに、なぜあなたがたは、わたしを信じないのか」とイエスは言う。
またこの章の初めで、姦淫の罪で捕まって人々の前に引き出された女を見たイエスは、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と語る。
その結果、誰一人として石を投げることができなかった。
人間がみな罪人だとしたら、はたして罪人が罪人を罰することができるのか?私たちはパリサイの民や姦淫していた女を捕えた人々と同じなのではないか?
初めての死刑執行に立ち会った上で、ニュートラルな存在である進藤から、この根源的な葛藤が込められた一節を突き付けられた佐伯は、真理を求めて罪と罰の混沌に彷徨うしかないのである。
タイトルロールを演じる大杉漣は、全てを包み込むような懐の深い見事な演技を見せ、代表作の一つとなるのは間違いない。
佐古大監督によると、これを「遺作にするから」と冗談で言うほど惚れ込んでいた彼は、「教誨師」を三部作とする構想を抱いていたそうだ。
だからこそ、本作は佐伯の迷いのうちに幕を閉じるのだろう。
教誨師は、私たちの心に決して解くことのできない重い問いを残して、永遠に去ってしまった。
しかし、最後の主演作品が生と死を巡る本作だなんて、まるで映画の神が演出したかの様。
秀作揃いの今年の邦画の中でも、是非とも口コミで広がっていって欲しい作品だ。
それでこそ多くの作品で楽しませてくれた名優・大杉漣への、映画ファンからの恩返しにもなるのではないだろうか。
今回は、キリスト教の儀式には欠かせない赤ワイン、ココファーム・ワイナリーの「農民ロッソ」をチョイス。
ここは嘗て、知的障害を持つ「こころみ学園」の生徒と教師たちが、社会とかかわれるようにと、自ら山を切り開いて58年前に開設したワイナリー。
「農民ロッソ」はその名の通り、“ザ・葡萄酒”いう感じの素朴で柔らかな味わいで、コストパフォーマンスにも優れ、収穫の喜びに満ちた一本だ。

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2018年10月14日 (日) | 編集 |
天才少女の危険なビジネス。
実際に起こった組織的なカンニング事件をモチーフとして、タイで作られた異色のクライム・サスペンス。
裕福とは言えない父子家庭で育った頭脳明晰な少女・リンが、父親が無理をして入学させた名門校で、“カンニング・ビジネス”に手を染めてゆく。
最初は友達を救うための、誰もが身に覚えのあるちょっとしたカンニング。
しかし、リンの頭の良さが校内に知れ渡ると、金と引き換えにその恩恵に与ろうとする輩が大量発生。
彼女は、自らの頭脳と協力者のネットワークを駆使すると、驚くほどの大金を手に出来ることを知ってしまう。
もはや止まらなくなったカンニング・ビジネスは、校内どころか国境をも超え、大規模な犯罪に発展してゆく。
監督はナタウット・プーンピリヤ、ファッション・モデル出身のチュティモン・ジョンジャルーンスックジンが天才少女・リンを演じる。
※核心部分に触れています。
成績優秀な少女・リン(チュティモン・ジョンジャルーンスックジン)は、教師をしている父親と二人暮らし。
奨学金を得た彼女は名門校に入学し、人はいいが成績はイマイチのグレース(イッサヤー・ホースワン)と友達になる。
ある時、グレースの数学の点数が規定に足りず、演劇部の活動が禁じられることを知ったリンは、テストでカンニングをさせて彼女を救う。
ところが、グレースがリンのことをボーイフレンドのパット(ティーラドン・スパパンピンヨー)に話したことから、事態は急展開。
金持ちの御曹司であるパットは、大金と引き換えに彼と彼の友人たちにカンニングをさせることを持ち掛けてくる。
リンは、試験会場にいる多数の依頼人に同時に答えを伝えるために、ピアノの手の動きからハンドシグナルを考案するのだが、そこには予想外の落とし穴があった・・・・
“カンニング”をモチーフとした映画といえば、クロード・ジディ監督の「ザ・カンニング[IQ=0]」というかなりおバカなフランスのコメディ映画があって、日本でもヒットして続編も作られた。
ぶっちゃけ、本作はあれのタイ版みたいのかと思ってたのだが、ユーモアはあるもののだいぶシリアスな映画だ。
切っ掛けは、友人のグレースのためにやった、消しゴムにマークシートの答えを書いてカバーで隠して後ろの席に渡すという、古典的で他愛ないカンニング。
消しゴム作戦は私の通っていた中学校でも流行って、試験中は消しゴムカバーが禁止されたのを思い出した。
ともあれ、どんな悪事も一回やってしまうと歯止めが利かなくなるもので、グレースがボーイフレンドで悪知恵の働く金持ちのボンボン、パットに話したことで”カンニング・ビジネス”が始動する。
一対一ではなく、多くの“顧客”に同時に答えを伝えるために、リンが編み出すのがピアノを演奏する手の動きをパターン化して、マークシートの番号に当てはめるハンドシグナル。
これならば、手の動きをリレーすることで、遠く離れた席にも伝えられ、彼女の顧客は順調に増えて実入りも増大してゆく。
だが敵もさるもの引っ掻くもの。
二種類の問題をランダムに配るという学校側の対策に焦り、ミスを犯したリンのカンニングは、別の奨学生であるバンクの告発によって発覚。
彼女は娘を信じていた父からも、学校からも叱責され、奨学金もはく奪、シンガポールへの留学の夢も潰える。
失敗を改心に繋げれば良いものの、ギャンブルの損はギャンブルで取り戻すとばかりに、リンはパットのさらなる誘いにのってしまう。
映画ではSTICという架空の国際学力テストがクライマックスとなるが、外国人が米国の大学に留学しようとすると、大学進学適正テストのSAT か ACT、大学院の場合はGREの点数の提出が義務付けられていいる。
本作の直接の元ネタになっているのは、2014年に中国と韓国でSATテストの大規模な不正が発覚した事件だが、アジアではこの種の不正が繰り返されていて、過去に起こったいくつもの事件を組み合わせて構成している感じだ。
時差のあるオーストラリアのシドニーで試験を受けて、タイで試験が始まる前に答えを伝えるという“時間差カンニング”は、2007年に摘発された事件が元ネタだろう。
この時は、タイで試験を受けて答えが韓国に伝えられ、実に900人もの韓国人学生が成績取り消しの処分を受けている。
このスケールの大きな作戦を成立させるため、リンが自らのカンニングを告発したバンクを仲間に引きれようとし、止むに止まれぬ理由からバンクも誘いを受けたことで、格差社会を背景とした「倫理」という明確なテーマが浮かび上がる仕組みだ。
物語の軸となる四人のキャラクターが良い。
とことん真面目で清貧を絵に描いたような父に育てられたリン、親が印刷工場を経営していて容姿にも恵まれたものの勉強は苦手なグレース、金持ちの御曹司でリンにカンニング・ビジネスを持ちかけるパット、そしてリンと同じ様に方親のもとに育った苦学生のバンク。
リンとバンク、グレースとパットの家庭環境の差は、経済発展著しいタイの格差社会の縮図であり、それぞれ父子家庭と母子家庭で育った秀才のリンとバンクの対比は、倫理観の対照を形作る。
リンとグレースの普通の友だち関係から始まった繋がりは、カンニング・ビジネスが始まってからは、利害関係のセンシティブなバランスで保たれる運命共同体のプチ犯罪組織となってゆく。
リンは自分のカンニングビジネスを、学校が金持ちの親から授業料以外に寄付(ワイロ)で儲けているのと同じだと言う。
親から金を受け取った学校は、その子供たちに便宜を図る。
ならば自分がカンニングをさせて、勉強が苦手な生徒に高得点を与えても同じではないかと言うのだ。
素直に肯定は出来ないが、主人公の行動に一定の理屈は通る、ピカレスク・ロマンの構造を持つ。
クライマックスの国境を超えた壮大なカンニング作戦は、いわば点数を獲物とした学生版「オーシャンズ」シリーズであり、典型的なケイパームービー。
シドニーに飛んだ現場担当のリンとバンク、タイでバックアップするグレースとパット、それぞれがその能力や特技を生かして、厳格なテスト管理の裏をかき、リスキーな作戦を遂行するプロセスは極めてスリリング。
プーンピリヤ監督は、臨場感を最大限に高める凝ったカメラワークと、細かくリズミカルなカッティングによって、観客をまるで自分がテスト会場にいてリンと行動を共にしているがごとく錯覚させる。
冒頭から映画の進行に四人が取り調べを受けるシーンを取り混ぜ、失敗を予見させる伏線を生かしたのも上手く、非常によく考えられたプロットだ。
そして、予想外のトラブルがリンとバンクの運命を交錯させる波乱によって、物語は単純な善悪の二元論に陥らない、絶妙な着地点を見いだすのである。
観る前はてっきりライトなコメディだと思っていたので、ビターでハードな展開は予想外だったが、これは単なるケイパームービーの枠を超えた、優れた社会派エンターテイメントだ。
今回はタイを代表する国民的ビール、ブーンロード・ブルワリーの「シンハー」をチョイス。
1933年にドイツとの技術提携により、ジャーマンビールをベンチマークして生まれた。
東南アジアのビールの例に漏れず、すっきり爽やか系のキレのある味わいで、スパイシーなタイ料理にとてもよく合う。
ビールはその土地で飲むのが一番美味しく感じる物だが、日本も熱帯の気候に近づいているので、案外丁度よく感じられる。
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実際に起こった組織的なカンニング事件をモチーフとして、タイで作られた異色のクライム・サスペンス。
裕福とは言えない父子家庭で育った頭脳明晰な少女・リンが、父親が無理をして入学させた名門校で、“カンニング・ビジネス”に手を染めてゆく。
最初は友達を救うための、誰もが身に覚えのあるちょっとしたカンニング。
しかし、リンの頭の良さが校内に知れ渡ると、金と引き換えにその恩恵に与ろうとする輩が大量発生。
彼女は、自らの頭脳と協力者のネットワークを駆使すると、驚くほどの大金を手に出来ることを知ってしまう。
もはや止まらなくなったカンニング・ビジネスは、校内どころか国境をも超え、大規模な犯罪に発展してゆく。
監督はナタウット・プーンピリヤ、ファッション・モデル出身のチュティモン・ジョンジャルーンスックジンが天才少女・リンを演じる。
※核心部分に触れています。
成績優秀な少女・リン(チュティモン・ジョンジャルーンスックジン)は、教師をしている父親と二人暮らし。
奨学金を得た彼女は名門校に入学し、人はいいが成績はイマイチのグレース(イッサヤー・ホースワン)と友達になる。
ある時、グレースの数学の点数が規定に足りず、演劇部の活動が禁じられることを知ったリンは、テストでカンニングをさせて彼女を救う。
ところが、グレースがリンのことをボーイフレンドのパット(ティーラドン・スパパンピンヨー)に話したことから、事態は急展開。
金持ちの御曹司であるパットは、大金と引き換えに彼と彼の友人たちにカンニングをさせることを持ち掛けてくる。
リンは、試験会場にいる多数の依頼人に同時に答えを伝えるために、ピアノの手の動きからハンドシグナルを考案するのだが、そこには予想外の落とし穴があった・・・・
“カンニング”をモチーフとした映画といえば、クロード・ジディ監督の「ザ・カンニング[IQ=0]」というかなりおバカなフランスのコメディ映画があって、日本でもヒットして続編も作られた。
ぶっちゃけ、本作はあれのタイ版みたいのかと思ってたのだが、ユーモアはあるもののだいぶシリアスな映画だ。
切っ掛けは、友人のグレースのためにやった、消しゴムにマークシートの答えを書いてカバーで隠して後ろの席に渡すという、古典的で他愛ないカンニング。
消しゴム作戦は私の通っていた中学校でも流行って、試験中は消しゴムカバーが禁止されたのを思い出した。
ともあれ、どんな悪事も一回やってしまうと歯止めが利かなくなるもので、グレースがボーイフレンドで悪知恵の働く金持ちのボンボン、パットに話したことで”カンニング・ビジネス”が始動する。
一対一ではなく、多くの“顧客”に同時に答えを伝えるために、リンが編み出すのがピアノを演奏する手の動きをパターン化して、マークシートの番号に当てはめるハンドシグナル。
これならば、手の動きをリレーすることで、遠く離れた席にも伝えられ、彼女の顧客は順調に増えて実入りも増大してゆく。
だが敵もさるもの引っ掻くもの。
二種類の問題をランダムに配るという学校側の対策に焦り、ミスを犯したリンのカンニングは、別の奨学生であるバンクの告発によって発覚。
彼女は娘を信じていた父からも、学校からも叱責され、奨学金もはく奪、シンガポールへの留学の夢も潰える。
失敗を改心に繋げれば良いものの、ギャンブルの損はギャンブルで取り戻すとばかりに、リンはパットのさらなる誘いにのってしまう。
映画ではSTICという架空の国際学力テストがクライマックスとなるが、外国人が米国の大学に留学しようとすると、大学進学適正テストのSAT か ACT、大学院の場合はGREの点数の提出が義務付けられていいる。
本作の直接の元ネタになっているのは、2014年に中国と韓国でSATテストの大規模な不正が発覚した事件だが、アジアではこの種の不正が繰り返されていて、過去に起こったいくつもの事件を組み合わせて構成している感じだ。
時差のあるオーストラリアのシドニーで試験を受けて、タイで試験が始まる前に答えを伝えるという“時間差カンニング”は、2007年に摘発された事件が元ネタだろう。
この時は、タイで試験を受けて答えが韓国に伝えられ、実に900人もの韓国人学生が成績取り消しの処分を受けている。
このスケールの大きな作戦を成立させるため、リンが自らのカンニングを告発したバンクを仲間に引きれようとし、止むに止まれぬ理由からバンクも誘いを受けたことで、格差社会を背景とした「倫理」という明確なテーマが浮かび上がる仕組みだ。
物語の軸となる四人のキャラクターが良い。
とことん真面目で清貧を絵に描いたような父に育てられたリン、親が印刷工場を経営していて容姿にも恵まれたものの勉強は苦手なグレース、金持ちの御曹司でリンにカンニング・ビジネスを持ちかけるパット、そしてリンと同じ様に方親のもとに育った苦学生のバンク。
リンとバンク、グレースとパットの家庭環境の差は、経済発展著しいタイの格差社会の縮図であり、それぞれ父子家庭と母子家庭で育った秀才のリンとバンクの対比は、倫理観の対照を形作る。
リンとグレースの普通の友だち関係から始まった繋がりは、カンニング・ビジネスが始まってからは、利害関係のセンシティブなバランスで保たれる運命共同体のプチ犯罪組織となってゆく。
リンは自分のカンニングビジネスを、学校が金持ちの親から授業料以外に寄付(ワイロ)で儲けているのと同じだと言う。
親から金を受け取った学校は、その子供たちに便宜を図る。
ならば自分がカンニングをさせて、勉強が苦手な生徒に高得点を与えても同じではないかと言うのだ。
素直に肯定は出来ないが、主人公の行動に一定の理屈は通る、ピカレスク・ロマンの構造を持つ。
クライマックスの国境を超えた壮大なカンニング作戦は、いわば点数を獲物とした学生版「オーシャンズ」シリーズであり、典型的なケイパームービー。
シドニーに飛んだ現場担当のリンとバンク、タイでバックアップするグレースとパット、それぞれがその能力や特技を生かして、厳格なテスト管理の裏をかき、リスキーな作戦を遂行するプロセスは極めてスリリング。
プーンピリヤ監督は、臨場感を最大限に高める凝ったカメラワークと、細かくリズミカルなカッティングによって、観客をまるで自分がテスト会場にいてリンと行動を共にしているがごとく錯覚させる。
冒頭から映画の進行に四人が取り調べを受けるシーンを取り混ぜ、失敗を予見させる伏線を生かしたのも上手く、非常によく考えられたプロットだ。
そして、予想外のトラブルがリンとバンクの運命を交錯させる波乱によって、物語は単純な善悪の二元論に陥らない、絶妙な着地点を見いだすのである。
観る前はてっきりライトなコメディだと思っていたので、ビターでハードな展開は予想外だったが、これは単なるケイパームービーの枠を超えた、優れた社会派エンターテイメントだ。
今回はタイを代表する国民的ビール、ブーンロード・ブルワリーの「シンハー」をチョイス。
1933年にドイツとの技術提携により、ジャーマンビールをベンチマークして生まれた。
東南アジアのビールの例に漏れず、すっきり爽やか系のキレのある味わいで、スパイシーなタイ料理にとてもよく合う。
ビールはその土地で飲むのが一番美味しく感じる物だが、日本も熱帯の気候に近づいているので、案外丁度よく感じられる。



2018年10月10日 (水) | 編集 |
見えざる力のマリオネット。
テルアビブに暮らす建築家のミハエルとダフナ夫婦が、軍の役人から息子ヨナタンの戦死報告を受け取るところから始まる物語。
監督・脚本は、自らの体験をもとに一台の戦車の中から見た“戦争”を描いた異色作「レバノン」で、ベネチア国際映画祭金獅子賞に輝いた、イスラエルの異才サミュエル・マオズ。
前作も非常にユニークな作品だったが、今回もモチーフの切り口がとても面白く、ベネチアで二作品連続受賞となる銀獅子賞を獲得している。
息子の戦死の話は、やがて軍が同姓同名の兵士と間違えたと分かるものの、誤報に振り回されたミハエルは激昂し、「今すぐ息子を連れ戻せ!」と連絡役の軍人を怒鳴りつけるのだ。
※核心部分に触れています。
一方その頃、息子のヨナタンは戦う相手がいない無人の“戦場”で、シュールな日常を過ごしている。
湿地に沈みつつあるコンテナの兵舎に暮らし、荒野の一本道に作られた検問所で日がな一日中見張りを続け、暇を持て余せば小銃を相手に情熱的にダンスを踊る。
通りかかるのは、野良ラクダと僅かな数の車のみ。
ヨナタンらの部隊は、車が通りかかる度に停止を求め、「未来世紀ブラジル」あたりに出てきそうな年代物の照合機で乗っている人々のI.D.をチェックする。
彼ら自身も、自分たちが何と戦っているのか、何のために駐留しているのか分からない、まるで白日夢を見ている様な象徴的な虚無の戦場だ。
しかし、ある事件によって夢うつつな世界の静寂が破られ、ヨナタンが不可抗力とはいえ大きな罪を犯すと、彼の運命も世界の理によって変わってゆく。
英題の「Foxtrot」は、ダンスのステップの名前。
前へ、前へ、右へ、後ろへ、後ろへ、左へ。
四角形を形作るステップは、どこまで踊っても必ず元に戻ってくる。
分かりやすい三幕構成に分かれた映画には、Foxtrotのステップの様に見えざる手に導かれたいくつもの運命のループが組み込まれていて、それが家族の歴史と絡み合い、三幕それぞれの“今”を形作る構造。
監督は古典的なギリシャ悲劇が作りたかったそうだが、自らは与り知らない運命に翻弄され、どこかに行こうとして結局どこにも行けない人間たちの織りなすドラマは、たしかに悲劇的でなおかつ滑稽だ。
第一幕の舞台となるミハエルとダフナの家は、成功した建築家の自宅らしく、極めて機能的で無機質。
すべてに均等と完璧さを感じさせる舞台だが、そこへ齎された息子の戦死の報は、両親が作り上げた揺るぎなき日常に予期せぬ衝撃を与える。
そして、亀裂が入った世界を修復すべく、ミハエルが第二幕で非日常の世界にいたヨナタンを強引に呼び戻したことによって、図らずも世界は再び崩壊してしまう。
ミハエルは、息子の死は間違いだったという事実を認めるだけでは飽き足らず、本来運命を正す役割の連絡係の軍人の頭越しに、無理やり息子を帰還させようとする。
ダフナはミハエルを止めようとするが、同時に息子と同姓同名の誰かの死を喜びと考えたことに気づいていない。
二人の犯した小さな罪は、結果的に息子を二度殺して事態を振り出しに戻すことになるのだが、虚構を紡ぐコミックアーティストでもあるヨナタンによって、映画は第三幕で歴史に秘められた家族の運命の円環をエモーショナルに描き出すのである。
新約聖書の「ヨハネの黙示録」には、主の言葉として「私はアルファであり、オメガである」と綴られている。
始めを知り、今を知り、終わりを知る。
本作ではギリシャ悲劇の導入のプロロゴスが終章のエクソダスとのループを作り出すが、時の輪を超越し、全てを知るのは全知全能の神のみ。
これは一つの家族の悲劇を通して、理由のある偶然が作り出す人間の運命の不条理と、その偶然を演出する見えざる手への畏怖の念を感じさせる優れた寓話である。
今回は、イスラエルを代表する銘柄の一つ、ゴラン・ハイツ・ワイナリーの「ヤルデン シャルドネ」の2016をチョイス。
フルボディのドライな白で、洋梨やレモンの果実香が広がる。
コストパフォーマンスも高く、普段使いには丁度いいが、まだ若いのでもう2、3年くらい寝かせると深みが出てくるだろう。
関係ないけど、イスラエル軍のレーションてあんな不味そうな缶詰だけなの?
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テルアビブに暮らす建築家のミハエルとダフナ夫婦が、軍の役人から息子ヨナタンの戦死報告を受け取るところから始まる物語。
監督・脚本は、自らの体験をもとに一台の戦車の中から見た“戦争”を描いた異色作「レバノン」で、ベネチア国際映画祭金獅子賞に輝いた、イスラエルの異才サミュエル・マオズ。
前作も非常にユニークな作品だったが、今回もモチーフの切り口がとても面白く、ベネチアで二作品連続受賞となる銀獅子賞を獲得している。
息子の戦死の話は、やがて軍が同姓同名の兵士と間違えたと分かるものの、誤報に振り回されたミハエルは激昂し、「今すぐ息子を連れ戻せ!」と連絡役の軍人を怒鳴りつけるのだ。
※核心部分に触れています。
一方その頃、息子のヨナタンは戦う相手がいない無人の“戦場”で、シュールな日常を過ごしている。
湿地に沈みつつあるコンテナの兵舎に暮らし、荒野の一本道に作られた検問所で日がな一日中見張りを続け、暇を持て余せば小銃を相手に情熱的にダンスを踊る。
通りかかるのは、野良ラクダと僅かな数の車のみ。
ヨナタンらの部隊は、車が通りかかる度に停止を求め、「未来世紀ブラジル」あたりに出てきそうな年代物の照合機で乗っている人々のI.D.をチェックする。
彼ら自身も、自分たちが何と戦っているのか、何のために駐留しているのか分からない、まるで白日夢を見ている様な象徴的な虚無の戦場だ。
しかし、ある事件によって夢うつつな世界の静寂が破られ、ヨナタンが不可抗力とはいえ大きな罪を犯すと、彼の運命も世界の理によって変わってゆく。
英題の「Foxtrot」は、ダンスのステップの名前。
前へ、前へ、右へ、後ろへ、後ろへ、左へ。
四角形を形作るステップは、どこまで踊っても必ず元に戻ってくる。
分かりやすい三幕構成に分かれた映画には、Foxtrotのステップの様に見えざる手に導かれたいくつもの運命のループが組み込まれていて、それが家族の歴史と絡み合い、三幕それぞれの“今”を形作る構造。
監督は古典的なギリシャ悲劇が作りたかったそうだが、自らは与り知らない運命に翻弄され、どこかに行こうとして結局どこにも行けない人間たちの織りなすドラマは、たしかに悲劇的でなおかつ滑稽だ。
第一幕の舞台となるミハエルとダフナの家は、成功した建築家の自宅らしく、極めて機能的で無機質。
すべてに均等と完璧さを感じさせる舞台だが、そこへ齎された息子の戦死の報は、両親が作り上げた揺るぎなき日常に予期せぬ衝撃を与える。
そして、亀裂が入った世界を修復すべく、ミハエルが第二幕で非日常の世界にいたヨナタンを強引に呼び戻したことによって、図らずも世界は再び崩壊してしまう。
ミハエルは、息子の死は間違いだったという事実を認めるだけでは飽き足らず、本来運命を正す役割の連絡係の軍人の頭越しに、無理やり息子を帰還させようとする。
ダフナはミハエルを止めようとするが、同時に息子と同姓同名の誰かの死を喜びと考えたことに気づいていない。
二人の犯した小さな罪は、結果的に息子を二度殺して事態を振り出しに戻すことになるのだが、虚構を紡ぐコミックアーティストでもあるヨナタンによって、映画は第三幕で歴史に秘められた家族の運命の円環をエモーショナルに描き出すのである。
新約聖書の「ヨハネの黙示録」には、主の言葉として「私はアルファであり、オメガである」と綴られている。
始めを知り、今を知り、終わりを知る。
本作ではギリシャ悲劇の導入のプロロゴスが終章のエクソダスとのループを作り出すが、時の輪を超越し、全てを知るのは全知全能の神のみ。
これは一つの家族の悲劇を通して、理由のある偶然が作り出す人間の運命の不条理と、その偶然を演出する見えざる手への畏怖の念を感じさせる優れた寓話である。
今回は、イスラエルを代表する銘柄の一つ、ゴラン・ハイツ・ワイナリーの「ヤルデン シャルドネ」の2016をチョイス。
フルボディのドライな白で、洋梨やレモンの果実香が広がる。
コストパフォーマンスも高く、普段使いには丁度いいが、まだ若いのでもう2、3年くらい寝かせると深みが出てくるだろう。
関係ないけど、イスラエル軍のレーションてあんな不味そうな缶詰だけなの?



2018年10月06日 (土) | 編集 |
恋とセックスと美味いご飯。
小泉今日子演じる文筆家・餅月敦子(トン子)が営むレトロな古書店を中心に、直接的あるいは間接的に関わりを持つことになる、小学生から五十路までの10人の女たちの日常を描く群像劇。
筒井ともみの同名小説を本人が作品企画兼任で脚色し、「手紙」の生野慈朗が監督を務める。
登場人物は、トン子の親友で店の従業員の若い男を“食べちゃう”、肉食系小料理屋店主の鴨舌美冬(鈴木京香)、惰性で付き合っているイマカレとの関係に悩む白子多実子(前田敦子)、ユースケ・サンタマリア演じる出張料理人と、恋人でもなく友人でもない不思議な関係になる小麦田圭子(沢尻エリカ)。
料理下手過ぎて結婚が破綻してしまい、トン子の元へと転がり込む豆乃・リサ・マチルダはシャーロット・ケイト・フォックスが好演。
本津あかり(広瀬アリス)は付き合った男に、必ずお手軽なひき肉料理を食べさせ、別れた夫の子を産もうとしている茄子田珠美(山田優)のバーに入り浸る。
そして、ひょんなことからトン子の“友だち”となるのが、近所に住む小学生の桃井由香羅(宇田琴音)と米坂ミドリ(鈴木優菜)で、ミドリの母が別れた夫への未練を断ち切れない米坂ツヤコ(壇蜜)。
食材の名を持つ10人(本津あかりだけ違うのは何でだろう?)それぞれに独自の考えがあり、行動にも説得力もあるので、キャラクターとして全員が面白い。
小学生の二人は別として、8人の大人の女たちの食=生=性=愛の連環は、同じ女でも全く違った情景となって描かれている。
豊富な人生経験に裏打ちされた、作家の多角的な人間観察眼が際立つユニークな作品だ。
何しろ10人分のエピソードが描かれているので、明確な三幕構造は持たない、というか持たせられない。
作者の分身であるトン子が映画のホストになって、それぞれのキャラクターの人生の1シーンを垣間見るようなテイストだ。
唯一シャーロット・ケイト・フォックスのエピソードは、「原因・葛藤・結果」がハッキリとした分かりやすい作りになっている。
料理が出来ないコンプレックスを抱えた彼女が、映画のホストにして狂言回しのトン子の所に下宿しながら美冬の店で働いて成長し、自立するまでの物語は「美味しんぼ」あたりにありそうな話で、残りのエピソードをつなぎとめる軸として機能する仕組み。
群像劇でこのまとまりの良さは、やっぱりベテランの作り手の円熟した味わい。
女たちを描く作品なので、彼女たちの糧となっちゃう男たちは完全にサブなのだけど、こちらもそれぞれが役割を持ってしっかり造形されているのはさすが。
彼らのキャラクターがステロタイプ気味なのは、おそらくは狙いなのだろう。
ユースケの変な言葉責めとか、地味に気持ち悪くて可笑しい。
緩い共感と共に、ゆったりと彼女たちの人間模様を楽しむ作品で、観ているうちにやっぱり腹が減る。
男たちを食べて、命を生み育てる女たちが、最後にそろって卵かけご飯を食べるのは象徴的。
人生に何が起こったとしても、美味いご飯は絶対の正義なのだ。
今回は、東京の地酒「屋守 純米 荒走り」をチョイス。 「金婚」で知られる東村山市久米川町の豊島屋酒造の四代目が、「東京の旨い酒を全国に発信したい」と15年ほど前に立ち上げた銘柄。
「荒走り」は、日本酒の最初の搾り部分を瓶詰めしたもの。
軽快だが、いわゆる端麗辛口系とは異なり、米の香りと仄かな甘味、豊潤な旨味が特徴。
鈴木京香のお店で、秋の味覚と共に楽しみたい一本だ。
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小泉今日子演じる文筆家・餅月敦子(トン子)が営むレトロな古書店を中心に、直接的あるいは間接的に関わりを持つことになる、小学生から五十路までの10人の女たちの日常を描く群像劇。
筒井ともみの同名小説を本人が作品企画兼任で脚色し、「手紙」の生野慈朗が監督を務める。
登場人物は、トン子の親友で店の従業員の若い男を“食べちゃう”、肉食系小料理屋店主の鴨舌美冬(鈴木京香)、惰性で付き合っているイマカレとの関係に悩む白子多実子(前田敦子)、ユースケ・サンタマリア演じる出張料理人と、恋人でもなく友人でもない不思議な関係になる小麦田圭子(沢尻エリカ)。
料理下手過ぎて結婚が破綻してしまい、トン子の元へと転がり込む豆乃・リサ・マチルダはシャーロット・ケイト・フォックスが好演。
本津あかり(広瀬アリス)は付き合った男に、必ずお手軽なひき肉料理を食べさせ、別れた夫の子を産もうとしている茄子田珠美(山田優)のバーに入り浸る。
そして、ひょんなことからトン子の“友だち”となるのが、近所に住む小学生の桃井由香羅(宇田琴音)と米坂ミドリ(鈴木優菜)で、ミドリの母が別れた夫への未練を断ち切れない米坂ツヤコ(壇蜜)。
食材の名を持つ10人(本津あかりだけ違うのは何でだろう?)それぞれに独自の考えがあり、行動にも説得力もあるので、キャラクターとして全員が面白い。
小学生の二人は別として、8人の大人の女たちの食=生=性=愛の連環は、同じ女でも全く違った情景となって描かれている。
豊富な人生経験に裏打ちされた、作家の多角的な人間観察眼が際立つユニークな作品だ。
何しろ10人分のエピソードが描かれているので、明確な三幕構造は持たない、というか持たせられない。
作者の分身であるトン子が映画のホストになって、それぞれのキャラクターの人生の1シーンを垣間見るようなテイストだ。
唯一シャーロット・ケイト・フォックスのエピソードは、「原因・葛藤・結果」がハッキリとした分かりやすい作りになっている。
料理が出来ないコンプレックスを抱えた彼女が、映画のホストにして狂言回しのトン子の所に下宿しながら美冬の店で働いて成長し、自立するまでの物語は「美味しんぼ」あたりにありそうな話で、残りのエピソードをつなぎとめる軸として機能する仕組み。
群像劇でこのまとまりの良さは、やっぱりベテランの作り手の円熟した味わい。
女たちを描く作品なので、彼女たちの糧となっちゃう男たちは完全にサブなのだけど、こちらもそれぞれが役割を持ってしっかり造形されているのはさすが。
彼らのキャラクターがステロタイプ気味なのは、おそらくは狙いなのだろう。
ユースケの変な言葉責めとか、地味に気持ち悪くて可笑しい。
緩い共感と共に、ゆったりと彼女たちの人間模様を楽しむ作品で、観ているうちにやっぱり腹が減る。
男たちを食べて、命を生み育てる女たちが、最後にそろって卵かけご飯を食べるのは象徴的。
人生に何が起こったとしても、美味いご飯は絶対の正義なのだ。
今回は、東京の地酒「屋守 純米 荒走り」をチョイス。 「金婚」で知られる東村山市久米川町の豊島屋酒造の四代目が、「東京の旨い酒を全国に発信したい」と15年ほど前に立ち上げた銘柄。
「荒走り」は、日本酒の最初の搾り部分を瓶詰めしたもの。
軽快だが、いわゆる端麗辛口系とは異なり、米の香りと仄かな甘味、豊潤な旨味が特徴。
鈴木京香のお店で、秋の味覚と共に楽しみたい一本だ。



2018年10月03日 (水) | 編集 |
彼のママの落とし方。
この秋最高のデートムービー。
ニューヨーク大学で経済学の教授をしている中国系米国人のレイチェルが、付き合っている彼氏のシンガポールの実家へ行ってみたら、ウルトラスーパー大金持ちだった!という、どストレートなシンデレラ・ストーリー。
だが彼氏の最愛のママは“アメリカ的価値観”に反感を持ち、最初からレイチェルに対して臨戦態勢で、ついでに“王子”を奪われた周りの女たちの嫉妬爆弾も炸裂。
はたして二人は様々な障害を乗り越えて、幸せなゴールにたどり着けるのか?という物語は、いわば21世紀版の「プリティ・ウーマン」だ。
監督のジョン・M・チュウをはじめ、主演のコンスタンス・ウー、ヘンリー・ゴールディングらキャストのほとんどがアジア系で占められた異色のハリウッド映画。
米国ボックスオフィスで2週連続1位の快挙を成し遂げ、全世界で現在までに2億2千万ドルを稼ぎ出している大ヒット作だ。
カリフォルニア州クパティーノ生まれのレイチェル・チュー(コンスタンス・ウー)は、若くしてニューヨーク大学で教鞭をふるう中国系アメリカ人女性。
ある時、恋人のニック・ヤング(ヘンリー・ゴールディング)に誘われて、彼の親友のコリン・コー(クリス・パン)とアミランタ・リー(ソノヤ・ミズノ)の結婚式に出席するために、実家のあるシンガポールへと旅行する。
ところがニックのファミリーは、シンガポールどころか世界にその名を知られる桁違いの大富豪であることが判明。
レイチェルは、巨額の資産を受け継ぐニックを狙う女たちから羨望と嫉妬の入り混じった目で見られ、さらに宮殿の様な大邸宅でレイチェルを迎えたニックの母親のエレノア(ミシェル・ヨー)は、露骨に彼女を見下した態度をとる。
クレイジー・リッチなスーパーセレブ達の世界を目の当たりにしたレイチェルも動揺し、ニックとこれからも上手くやっていけるのか、自信が持てなくなってゆくのだが・・・・
1993年に作られた「ジョイ・ラック・クラブ」は中国からアメリカにやってきた四人の母親と、アメリカ人として育った彼女らの四人の娘を描いた物語。
エイミー・タンのベストセラー小説を、オリバー・ストーン製作総指揮、ウェイン・ワン監督で映画化し、主要キャストのほとんどをアジア系が占め、批評的・興行的にまずまずの成績を収めた。
しかしその後同様の作品が出現することはなく、本作は「ジョイ・ラック・クラブ」から実に四半世紀ぶりにハリウッドで作られた、監督と主要キャストがオールアジアンズの映画なのである。
真面目な文芸作品とド派手なパーティームービーと言う違いはあるが、本作の予想外の大ヒットはアメリカでのアジア系の人口増加や社会的な地位の向上、国際社会での中国の勃興、インド映画のアメリカ市場への浸透など、いろいろな要素が重なった結果だろう。
いずれにしても、大きな壁がブレイクスルーされた、記念碑的作品なのは間違いない。
名門ニューヨーク大学の最年少教授というレイチェルだって、本当に何の才覚もない一般人から見たら相当な人物。
だが、彼女の前に立ちはだかるニックの家族や関係者は、どいつもこいつも大金持ちで、学歴だってケンブリッジだのオックスフォードだのトップクラスばかり。
そのセレブ軍団の頂点に君臨するのが、ミシェル・ヨー姐さん演じるニックの最愛のママ、エレノアだ。
ミシェル自身が、ジャッキー映画から007まで、世界を又にかけた中国語圏最高のアクション女優にして、現国際自動車連盟会長のジャン・トッド夫人という文字通りのスーパーセレブで、立っているだけで威圧感半端無い(笑
ホンモノが醸し出すオーラに、普通の人のレイチェルはタジタジになりながらも、勇気を奮い立たせて立ち向かってゆく。
結婚式までの約一週間の物語は、月下美人の鑑賞パーティーだとか、バチュラーパーティーだとか、基本ずーっと続く各種パーティーが舞台で華やか。
その裏側で、ワチャワチャドロドロしたドラマが展開する。
レイチェルが割と真面目なキャラクターで見た目も地味な分、他のキャラクターは漫画チックなくらい個性的に造形されており、その中でもむっちゃ目立ってるのが、レイチェルの友人でシンガポールの小金持ちの娘、ペク・リン。
演じるオークワフィナは、元々女性器をモチーフにした曲で大いに物議をかもしたラジカルなラッパーで、最近では「オーシャンズ8」でも存在感を放っていたが、今回も強烈なキャラクター。
シンガポール事情を知らないレイチェルを助けつつ、自分もゴシップ的にセレブ達の世界を楽しんじゃう。
ちなみに彼女のパパ役は「ハング・オーバー!」シリーズのレスリー役で知られるケン・チョンで、父娘ともども悪ノリ気味にお下品パワーを見せつける。
主人公カップルの話の他にも、ニックのいとこ夫婦の格差婚の悲哀のサブストーリーなども配されて、物語が一本調子に陥らないよう工夫されているが、ドラマのゴールは当然ながらいかにして頑固なママに結婚を認めさせるか。
エレノアはシンガポールがまだ一面のジャングルだった時代に土地を切り開き、世界的な大都市を作り上げた一族を支えることに誇りを感じ、自分の幸せよりも家族の幸せを願う利他の愛を信じていて、見た目は中国人でも生まれも育ちも“アメリカ人”であるレイチェルの愛を利己的なものと考えている。
レイチェルはそれが間違いであるということを、エレノアに知らしめなければならないのだが、伏線をうまく生かしたクライマックスは、それまでの派手なビジュアルから一転の心理戦でなかなか見事。
対峙するレイチェルとエレノアは、共に中国にルーツを持つ“移民の子孫”であり、今は全く違った境遇にいても、二人の女の矜持には利他を重んじる明確な共通点を持たせてある。
そのことにエレノアが気づかされるアイテムが麻雀なのだけど、前記した「ジョイ・ラック・クラブ」でも麻雀が重要なアイテムだったのはおそらく偶然ではないだろう。
アメリカの息子は父とキャッチボールをすることで多くを学ぶという話があるが、中国の母と娘は麻雀を通じてお互いの心を知るのかもしれない。
本作は王道のシンデレラストーリーで物語的には新しくは無いけど、視覚的未見性に富み、愛に関する寓話として一本筋が通っている。
まあ、かりにも経済学の先生が世界有数の財閥一族のことを知らない訳がないとか、細かいツッコミどころはあるのだけど、それ言うのは野暮。
ニュートン・フードセンターからラッフルズ・ホテル、マリーナベイ・サンズなどのシンガポールの観光地巡り、まるでテーマパークのアトラクションみたいな凝った結婚式とか、タイトル通りにクレイジー・リッチなアジアンテイストがゴージャスで、実に楽しい映画だ。
多分にアメリカ視点で色々盛ってはあるものの、ハリウッドがアジアの文化をエキゾチズム優先で魔改造することなく、そのまま内包した作品としても画期的だろう。
既に続編の企画も動き出しているようで、楽しみだ。
オール世代のカップルにオススメできる、心がアガる娯楽映画である!
今回は、舞台となるシンガポール生まれの名カクテル「シンガポール・スリング」をチョイス。
ラッフルズ・ホテルのバーテンダー、厳崇文によって1915年に考案された。
ドライ・ジン45ml、レモンジュース20ml、砂糖1tsをシェイク、氷を入れたタンブラーに注ぎ、ソーダでわってステアする。 そこにチェリー・ブランデー15mlを静かに加えて、お好みでチェリーやパインといったフルーツを添えて完成。
美しくて華やか、まさに繁栄するアジアを象徴するなエキゾチックなカクテルである。
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この秋最高のデートムービー。
ニューヨーク大学で経済学の教授をしている中国系米国人のレイチェルが、付き合っている彼氏のシンガポールの実家へ行ってみたら、ウルトラスーパー大金持ちだった!という、どストレートなシンデレラ・ストーリー。
だが彼氏の最愛のママは“アメリカ的価値観”に反感を持ち、最初からレイチェルに対して臨戦態勢で、ついでに“王子”を奪われた周りの女たちの嫉妬爆弾も炸裂。
はたして二人は様々な障害を乗り越えて、幸せなゴールにたどり着けるのか?という物語は、いわば21世紀版の「プリティ・ウーマン」だ。
監督のジョン・M・チュウをはじめ、主演のコンスタンス・ウー、ヘンリー・ゴールディングらキャストのほとんどがアジア系で占められた異色のハリウッド映画。
米国ボックスオフィスで2週連続1位の快挙を成し遂げ、全世界で現在までに2億2千万ドルを稼ぎ出している大ヒット作だ。
カリフォルニア州クパティーノ生まれのレイチェル・チュー(コンスタンス・ウー)は、若くしてニューヨーク大学で教鞭をふるう中国系アメリカ人女性。
ある時、恋人のニック・ヤング(ヘンリー・ゴールディング)に誘われて、彼の親友のコリン・コー(クリス・パン)とアミランタ・リー(ソノヤ・ミズノ)の結婚式に出席するために、実家のあるシンガポールへと旅行する。
ところがニックのファミリーは、シンガポールどころか世界にその名を知られる桁違いの大富豪であることが判明。
レイチェルは、巨額の資産を受け継ぐニックを狙う女たちから羨望と嫉妬の入り混じった目で見られ、さらに宮殿の様な大邸宅でレイチェルを迎えたニックの母親のエレノア(ミシェル・ヨー)は、露骨に彼女を見下した態度をとる。
クレイジー・リッチなスーパーセレブ達の世界を目の当たりにしたレイチェルも動揺し、ニックとこれからも上手くやっていけるのか、自信が持てなくなってゆくのだが・・・・
1993年に作られた「ジョイ・ラック・クラブ」は中国からアメリカにやってきた四人の母親と、アメリカ人として育った彼女らの四人の娘を描いた物語。
エイミー・タンのベストセラー小説を、オリバー・ストーン製作総指揮、ウェイン・ワン監督で映画化し、主要キャストのほとんどをアジア系が占め、批評的・興行的にまずまずの成績を収めた。
しかしその後同様の作品が出現することはなく、本作は「ジョイ・ラック・クラブ」から実に四半世紀ぶりにハリウッドで作られた、監督と主要キャストがオールアジアンズの映画なのである。
真面目な文芸作品とド派手なパーティームービーと言う違いはあるが、本作の予想外の大ヒットはアメリカでのアジア系の人口増加や社会的な地位の向上、国際社会での中国の勃興、インド映画のアメリカ市場への浸透など、いろいろな要素が重なった結果だろう。
いずれにしても、大きな壁がブレイクスルーされた、記念碑的作品なのは間違いない。
名門ニューヨーク大学の最年少教授というレイチェルだって、本当に何の才覚もない一般人から見たら相当な人物。
だが、彼女の前に立ちはだかるニックの家族や関係者は、どいつもこいつも大金持ちで、学歴だってケンブリッジだのオックスフォードだのトップクラスばかり。
そのセレブ軍団の頂点に君臨するのが、ミシェル・ヨー姐さん演じるニックの最愛のママ、エレノアだ。
ミシェル自身が、ジャッキー映画から007まで、世界を又にかけた中国語圏最高のアクション女優にして、現国際自動車連盟会長のジャン・トッド夫人という文字通りのスーパーセレブで、立っているだけで威圧感半端無い(笑
ホンモノが醸し出すオーラに、普通の人のレイチェルはタジタジになりながらも、勇気を奮い立たせて立ち向かってゆく。
結婚式までの約一週間の物語は、月下美人の鑑賞パーティーだとか、バチュラーパーティーだとか、基本ずーっと続く各種パーティーが舞台で華やか。
その裏側で、ワチャワチャドロドロしたドラマが展開する。
レイチェルが割と真面目なキャラクターで見た目も地味な分、他のキャラクターは漫画チックなくらい個性的に造形されており、その中でもむっちゃ目立ってるのが、レイチェルの友人でシンガポールの小金持ちの娘、ペク・リン。
演じるオークワフィナは、元々女性器をモチーフにした曲で大いに物議をかもしたラジカルなラッパーで、最近では「オーシャンズ8」でも存在感を放っていたが、今回も強烈なキャラクター。
シンガポール事情を知らないレイチェルを助けつつ、自分もゴシップ的にセレブ達の世界を楽しんじゃう。
ちなみに彼女のパパ役は「ハング・オーバー!」シリーズのレスリー役で知られるケン・チョンで、父娘ともども悪ノリ気味にお下品パワーを見せつける。
主人公カップルの話の他にも、ニックのいとこ夫婦の格差婚の悲哀のサブストーリーなども配されて、物語が一本調子に陥らないよう工夫されているが、ドラマのゴールは当然ながらいかにして頑固なママに結婚を認めさせるか。
エレノアはシンガポールがまだ一面のジャングルだった時代に土地を切り開き、世界的な大都市を作り上げた一族を支えることに誇りを感じ、自分の幸せよりも家族の幸せを願う利他の愛を信じていて、見た目は中国人でも生まれも育ちも“アメリカ人”であるレイチェルの愛を利己的なものと考えている。
レイチェルはそれが間違いであるということを、エレノアに知らしめなければならないのだが、伏線をうまく生かしたクライマックスは、それまでの派手なビジュアルから一転の心理戦でなかなか見事。
対峙するレイチェルとエレノアは、共に中国にルーツを持つ“移民の子孫”であり、今は全く違った境遇にいても、二人の女の矜持には利他を重んじる明確な共通点を持たせてある。
そのことにエレノアが気づかされるアイテムが麻雀なのだけど、前記した「ジョイ・ラック・クラブ」でも麻雀が重要なアイテムだったのはおそらく偶然ではないだろう。
アメリカの息子は父とキャッチボールをすることで多くを学ぶという話があるが、中国の母と娘は麻雀を通じてお互いの心を知るのかもしれない。
本作は王道のシンデレラストーリーで物語的には新しくは無いけど、視覚的未見性に富み、愛に関する寓話として一本筋が通っている。
まあ、かりにも経済学の先生が世界有数の財閥一族のことを知らない訳がないとか、細かいツッコミどころはあるのだけど、それ言うのは野暮。
ニュートン・フードセンターからラッフルズ・ホテル、マリーナベイ・サンズなどのシンガポールの観光地巡り、まるでテーマパークのアトラクションみたいな凝った結婚式とか、タイトル通りにクレイジー・リッチなアジアンテイストがゴージャスで、実に楽しい映画だ。
多分にアメリカ視点で色々盛ってはあるものの、ハリウッドがアジアの文化をエキゾチズム優先で魔改造することなく、そのまま内包した作品としても画期的だろう。
既に続編の企画も動き出しているようで、楽しみだ。
オール世代のカップルにオススメできる、心がアガる娯楽映画である!
今回は、舞台となるシンガポール生まれの名カクテル「シンガポール・スリング」をチョイス。
ラッフルズ・ホテルのバーテンダー、厳崇文によって1915年に考案された。
ドライ・ジン45ml、レモンジュース20ml、砂糖1tsをシェイク、氷を入れたタンブラーに注ぎ、ソーダでわってステアする。 そこにチェリー・ブランデー15mlを静かに加えて、お好みでチェリーやパインといったフルーツを添えて完成。
美しくて華やか、まさに繁栄するアジアを象徴するなエキゾチックなカクテルである。



2018年10月01日 (月) | 編集 |
私たちの“獲物”について。
SNS上のデマを切っ掛けに、松林うらら演じる平凡な女子高校生・杉本瞳の人生が、徹底的に消費し尽くされる物語。
本人は全くあずかり知らないところで、フェイク情報は拡散し続け、気づいた時にはもはや制御不能。
かなり自虐的なラストに至るまで、相当に精神的に痛く、なおかつ心底不快でムカつく映画である。
緒方貴臣監督は現在日本のダークサイドを濃縮した、恐ろしい作品を作り上げた。
これはある意味、最もリアルなホラー映画だ。
映画は、ある朝のホームルームの時間、瞳の担任教師が児童ポルノ禁止法違反の容疑で警察に連行されるところから始まる。
そして、担任の所持していた動画がどこからか流出し、そこに写っていた女が瞳に“似ていた”ことから彼女が担任の愛人だったというデマが流れる。
最初はすぐに誤解が晴れると考えていた瞳だったが、デマは全く終息せずにSNS上で事実かの様に広まってゆき、やがてそれは現実世界の瞳にも深刻なイジメという形で影響を与えてゆく。
学校でも家庭でも、皆心配の声はかけるものの、誰一人としてことの深刻さを理解しておらず、事態に対処する術を教えてはくれない。
やがて瞳の周りには、デマを真に受けた愚かで卑劣な男たちがハイエナの様に群がってくる。
定点の引き画を多用しているのが印象的だが、多くのショットで瞳は背を向けていて、その表情をうかがい知ることは出来ない。
情報の欠落が想像力を刺激し、「もっと見たい」と思わせる演出ロジックが、劇中で彼女の身に起こっていることに符合する秀逸な仕組み。
学校と家庭を中心に、瞳の日常をとらえたシーンの連続は、短いスパンでカットアウトにより暗転するが、これにより有機的な物語の連続性が否定され、事象の断片となってゆく。
何度も同じ構図で写しだされる毎に瞳の状況は悪化していて、まるで着実に絶望へと向かう彼女の生活を隠しカメラで覗き見る様だ。
だが、この映画が本当に恐ろしいのは、瞳が悲劇的に退場した後。
SNSから始まった騒動は、現実の“事件”となったことによって、今度はマスコミの格好の餌食となって、本人不在のまま周りの人間を巻き込みながら拡大の一途を辿るのである。
拡散し続ける情報によって、一度でも飢えた大衆の餌となった人間は、現実と虚構が混じりあった“虚像”というアイコンに祭り上げられ、永遠にしゃぶり尽くされる。
リアリティたっぷりに描写される“現代社会”の姿は非常に不快なのだが、心の中のムカつきがピークに達した瞬間、この映画を観ている「お前も消費している一人だろ」という否定し難い現実と、自らの中にも蠢く嗜虐的な欲望に気付かされる虚無感。参った。
今回は口直しに「デビルズ」をチョイス。
酔っ払うのは悪魔の誘い。
ポートワイン30ml、ドライ・ベルモット30ml、レモン・ジュース2dashをステアして、グラスに注ぐ。
名前は怖いが、実はまろやかで優しい味わいのカクテル。
ポートワインの甘さと、レモンの爽やかさが絶妙なバランスをもたらしている。
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SNS上のデマを切っ掛けに、松林うらら演じる平凡な女子高校生・杉本瞳の人生が、徹底的に消費し尽くされる物語。
本人は全くあずかり知らないところで、フェイク情報は拡散し続け、気づいた時にはもはや制御不能。
かなり自虐的なラストに至るまで、相当に精神的に痛く、なおかつ心底不快でムカつく映画である。
緒方貴臣監督は現在日本のダークサイドを濃縮した、恐ろしい作品を作り上げた。
これはある意味、最もリアルなホラー映画だ。
映画は、ある朝のホームルームの時間、瞳の担任教師が児童ポルノ禁止法違反の容疑で警察に連行されるところから始まる。
そして、担任の所持していた動画がどこからか流出し、そこに写っていた女が瞳に“似ていた”ことから彼女が担任の愛人だったというデマが流れる。
最初はすぐに誤解が晴れると考えていた瞳だったが、デマは全く終息せずにSNS上で事実かの様に広まってゆき、やがてそれは現実世界の瞳にも深刻なイジメという形で影響を与えてゆく。
学校でも家庭でも、皆心配の声はかけるものの、誰一人としてことの深刻さを理解しておらず、事態に対処する術を教えてはくれない。
やがて瞳の周りには、デマを真に受けた愚かで卑劣な男たちがハイエナの様に群がってくる。
定点の引き画を多用しているのが印象的だが、多くのショットで瞳は背を向けていて、その表情をうかがい知ることは出来ない。
情報の欠落が想像力を刺激し、「もっと見たい」と思わせる演出ロジックが、劇中で彼女の身に起こっていることに符合する秀逸な仕組み。
学校と家庭を中心に、瞳の日常をとらえたシーンの連続は、短いスパンでカットアウトにより暗転するが、これにより有機的な物語の連続性が否定され、事象の断片となってゆく。
何度も同じ構図で写しだされる毎に瞳の状況は悪化していて、まるで着実に絶望へと向かう彼女の生活を隠しカメラで覗き見る様だ。
だが、この映画が本当に恐ろしいのは、瞳が悲劇的に退場した後。
SNSから始まった騒動は、現実の“事件”となったことによって、今度はマスコミの格好の餌食となって、本人不在のまま周りの人間を巻き込みながら拡大の一途を辿るのである。
拡散し続ける情報によって、一度でも飢えた大衆の餌となった人間は、現実と虚構が混じりあった“虚像”というアイコンに祭り上げられ、永遠にしゃぶり尽くされる。
リアリティたっぷりに描写される“現代社会”の姿は非常に不快なのだが、心の中のムカつきがピークに達した瞬間、この映画を観ている「お前も消費している一人だろ」という否定し難い現実と、自らの中にも蠢く嗜虐的な欲望に気付かされる虚無感。参った。
今回は口直しに「デビルズ」をチョイス。
酔っ払うのは悪魔の誘い。
ポートワイン30ml、ドライ・ベルモット30ml、レモン・ジュース2dashをステアして、グラスに注ぐ。
名前は怖いが、実はまろやかで優しい味わいのカクテル。
ポートワインの甘さと、レモンの爽やかさが絶妙なバランスをもたらしている。

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