2018年10月18日 (木) | 編集 |
“罪”と“罰”の密室。
これは心に染み入る珠玉の作品だ。
今年二月に死去した大杉漣が演じる拘置所の教誨師が、六人の確定死刑囚と対話する。
稀代の名優の最後の主演作だが、エグゼグティブ・プロデューサーも兼務し、最初で最後のプロデュース作品ともなった。
教誨師は、それぞれに個性的な死刑囚たちとの対話を通し、本当に神の言葉が伝わっているのか、彼らが安らかな死を迎えられるように導けているのか苦悩を深める。
そしていつしか、教誨師自身が心に封印してきた“罪”も見えてくるのである。
人が人を罰するとは、どういうことなのか。
生と死の淵にある教誨室で、深く考えさせられる濃密なる114分。
監督・脚本は、死刑に立ち会う刑務官を描いた「休暇」の脚本で知られる佐古大が務める。
プロテスタント教会の牧師・佐伯保(大杉漣)は拘置所の教誨師として、月に二回確定死刑囚たちと向き合っている。
佐伯の問いかけに一切言葉を返さない鈴木貴裕(古舘寛治)、人のいいヤクザの組長・吉田睦夫(光石研)、関西出身のおしゃべりな中年女性・野口今日子(烏丸せつこ)、年老いた文盲のホームレス・進藤正一(五頭岳夫)、会えない家族を思いやりぼそぼそと喋る小川一(小川登)、そして十七人もの人を殺めた高宮真司(玉置玲央)。
佐伯は、彼らが自らの罪と向き合い、しっかりと悔い改めて残された生を充実したものにできるよう、そして安らかなる死を迎えられるように、親身に彼らと対話し、神の言葉を伝える。
しかし、一癖も二癖もある死刑囚たちとの対話は、困難の連続。
空回りしたり、相手を怒らせたりしながらも、佐伯は少しずつ彼らの心を開いてゆくのだが、ただ一人、高宮だけは佐伯と社会に対する不満と攻撃性を隠そうとしない。
彼らとの対話を通して、佐伯自身もずっと心の中に秘めてきた自らの“罪”に向き合ってゆく。
だがクリスマスも近いある日、ついに死刑囚の一人に執行命令が出される・・・
恥ずかしながら、ずっと「教戒師」だと思っていた。
以前は「教戒」と「教誨」はごっちゃになっていたという。
だが、発音は同じでも、本来「教戒」は「戒める」で「教誨」は「(知らない者に)教え、諭す」と全く違う意味。
刑務所や拘置所での活動は「教誨」であるとして、当事者団体の全国教誨師連盟からの要望もあり、10年ほど前からマスコミなどでも「教誨師」で統一されているそうだ。
全国で約二千人の教誨師が刑務所や拘置所、少年院などで活動していて、そのうちの14パーセントがキリスト教系。
日本のキリスト教徒人口がわずかに1パーセント程度なのを考えると、意外と多いなと思うが、「人間はみな原罪を抱えた罪人である」というキリスト教の考え方は、実際に罪を犯して矯正施設に収容されている人たちにとって、受け入れやすいのかもしれない。
114分の間、教誨の一環として歌われる讃美歌を別として劇盤は全く無く、中盤と終盤の数シーンを除いて、舞台はほぼ全て拘置所の教誨室という演劇的な構造。
殺風景な教誨室は、スタンダードの狭い画面によってさらに切り取られる。
アスペクト比を生かした演出は「リバーズ・エッジ」が同じことをやっていたが、あちらは精神的に、こちらは物理的にも閉塞していて、その分会話劇の密度は物語の進行と共に高まってゆく。
密室で展開する映画だが、カメラとカッティングの妙によって単調には陥らず、観客は時には教誨師側から、時には死刑囚側から物語にグイグイと引き込まれる。
六人の死刑囚の起こした事件は、最初のうちはフォーカスされない。
それぞれに個性的ではあるが、どこにでもいそうな彼らとの対話は、まるで近所の誰々さんとの世間話を聞いているよう。
彼らの事件はそれぞれに実際に起こった事件を思わせるもので、佐伯との対話を通して徐々に「ああ、あの事件か」と記憶を呼び起こされる。
死刑囚としてではなく、あくまでも一人の“人間”としての印象を先行させ、徐々に彼らの罪を露見させてゆくことで、「凶悪殺人犯」という記号化されたキャラクターを生身の人間に戻してゆく。
それと共に、たとえば一見すると豪放に見えるヤクザの吉田が、刑の執行を心底から恐れていること、ストーカー殺人を犯した鈴木が、被害者の幽霊と対話していること、おしゃべりが止まらない野口が、もはや妄想の世界にいて、リストカットを繰り返していることなど、いつ命が終わるとも知れない死刑囚としての毎日で、生きながら人間が壊れていっているのが見えてくるのだ。
また気弱な小川の告白によって、犯した罪の意味合いが変わっていく事例も描かれる。
教誨毎に徐々に印象が異なってゆく彼らに対して、玉置玲央が演じる高宮は、最初から2016年に相模原で起こった大量殺傷事件の被告人をモデルとしているのが明白。
それは彼が他の死刑囚と異なり、ある種の思想犯でもあり、凡ゆる点で佐伯のアンチテーゼだからだ。
佐伯は、独りよがりな“正義”を振りかざし、一切の贖罪の姿勢を見せないこの男と会話することで、彼の心にぽっかりと空いた決して埋められない“穴”を見つめる。
それは同時に、佐伯が自らの心に封印してきた彼自身の“罪”と向き合う時間でもあり、彼の目を通して、私たち観客自身が生命倫理や死刑制度の在り方について考える時間でもあるのだ。
高宮のほかにもう一人、ほかの死刑囚と異なる描かれ方をしている人物がいる。
それは文盲のホームレスの進藤だ。
彼に関しては、教誨の大半が文字を教えることに費やされ、具体的に彼が何をして死刑判決を受けたのかは語られない。
このような描き方をするのは、彼に対して観客が先入観を持つことを避けるためだろう。
教誨中に倒れ言葉を失った進藤が佐伯に渡す、拙いひらがなで書かれた聖書の一節が心に刺さって忘れられない。
「あなたがたのうち だれがわたしにつみがあると せめうるのか」
これはヨハネによる福音書の第八章四十六節の前半部分だが、パリサイの民(ユダヤ教の一派)との対話の中で発されたイエスの言葉だ。
神から使わされたというイエスのあかしをパリサイの民は信じようとしないが、「わたしは真理を語っているのに、なぜあなたがたは、わたしを信じないのか」とイエスは言う。
またこの章の初めで、姦淫の罪で捕まって人々の前に引き出された女を見たイエスは、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と語る。
その結果、誰一人として石を投げることができなかった。
人間がみな罪人だとしたら、はたして罪人が罪人を罰することができるのか?私たちはパリサイの民や姦淫していた女を捕えた人々と同じなのではないか?
初めての死刑執行に立ち会った上で、ニュートラルな存在である進藤から、この根源的な葛藤が込められた一節を突き付けられた佐伯は、真理を求めて罪と罰の混沌に彷徨うしかないのである。
タイトルロールを演じる大杉漣は、全てを包み込むような懐の深い見事な演技を見せ、代表作の一つとなるのは間違いない。
佐古大監督によると、これを「遺作にするから」と冗談で言うほど惚れ込んでいた彼は、「教誨師」を三部作とする構想を抱いていたそうだ。
だからこそ、本作は佐伯の迷いのうちに幕を閉じるのだろう。
教誨師は、私たちの心に決して解くことのできない重い問いを残して、永遠に去ってしまった。
しかし、最後の主演作品が生と死を巡る本作だなんて、まるで映画の神が演出したかの様。
秀作揃いの今年の邦画の中でも、是非とも口コミで広がっていって欲しい作品だ。
それでこそ多くの作品で楽しませてくれた名優・大杉漣への、映画ファンからの恩返しにもなるのではないだろうか。
今回は、キリスト教の儀式には欠かせない赤ワイン、ココファーム・ワイナリーの「農民ロッソ」をチョイス。
ここは嘗て、知的障害を持つ「こころみ学園」の生徒と教師たちが、社会とかかわれるようにと、自ら山を切り開いて58年前に開設したワイナリー。
「農民ロッソ」はその名の通り、“ザ・葡萄酒”いう感じの素朴で柔らかな味わいで、コストパフォーマンスにも優れ、収穫の喜びに満ちた一本だ。

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これは心に染み入る珠玉の作品だ。
今年二月に死去した大杉漣が演じる拘置所の教誨師が、六人の確定死刑囚と対話する。
稀代の名優の最後の主演作だが、エグゼグティブ・プロデューサーも兼務し、最初で最後のプロデュース作品ともなった。
教誨師は、それぞれに個性的な死刑囚たちとの対話を通し、本当に神の言葉が伝わっているのか、彼らが安らかな死を迎えられるように導けているのか苦悩を深める。
そしていつしか、教誨師自身が心に封印してきた“罪”も見えてくるのである。
人が人を罰するとは、どういうことなのか。
生と死の淵にある教誨室で、深く考えさせられる濃密なる114分。
監督・脚本は、死刑に立ち会う刑務官を描いた「休暇」の脚本で知られる佐古大が務める。
プロテスタント教会の牧師・佐伯保(大杉漣)は拘置所の教誨師として、月に二回確定死刑囚たちと向き合っている。
佐伯の問いかけに一切言葉を返さない鈴木貴裕(古舘寛治)、人のいいヤクザの組長・吉田睦夫(光石研)、関西出身のおしゃべりな中年女性・野口今日子(烏丸せつこ)、年老いた文盲のホームレス・進藤正一(五頭岳夫)、会えない家族を思いやりぼそぼそと喋る小川一(小川登)、そして十七人もの人を殺めた高宮真司(玉置玲央)。
佐伯は、彼らが自らの罪と向き合い、しっかりと悔い改めて残された生を充実したものにできるよう、そして安らかなる死を迎えられるように、親身に彼らと対話し、神の言葉を伝える。
しかし、一癖も二癖もある死刑囚たちとの対話は、困難の連続。
空回りしたり、相手を怒らせたりしながらも、佐伯は少しずつ彼らの心を開いてゆくのだが、ただ一人、高宮だけは佐伯と社会に対する不満と攻撃性を隠そうとしない。
彼らとの対話を通して、佐伯自身もずっと心の中に秘めてきた自らの“罪”に向き合ってゆく。
だがクリスマスも近いある日、ついに死刑囚の一人に執行命令が出される・・・
恥ずかしながら、ずっと「教戒師」だと思っていた。
以前は「教戒」と「教誨」はごっちゃになっていたという。
だが、発音は同じでも、本来「教戒」は「戒める」で「教誨」は「(知らない者に)教え、諭す」と全く違う意味。
刑務所や拘置所での活動は「教誨」であるとして、当事者団体の全国教誨師連盟からの要望もあり、10年ほど前からマスコミなどでも「教誨師」で統一されているそうだ。
全国で約二千人の教誨師が刑務所や拘置所、少年院などで活動していて、そのうちの14パーセントがキリスト教系。
日本のキリスト教徒人口がわずかに1パーセント程度なのを考えると、意外と多いなと思うが、「人間はみな原罪を抱えた罪人である」というキリスト教の考え方は、実際に罪を犯して矯正施設に収容されている人たちにとって、受け入れやすいのかもしれない。
114分の間、教誨の一環として歌われる讃美歌を別として劇盤は全く無く、中盤と終盤の数シーンを除いて、舞台はほぼ全て拘置所の教誨室という演劇的な構造。
殺風景な教誨室は、スタンダードの狭い画面によってさらに切り取られる。
アスペクト比を生かした演出は「リバーズ・エッジ」が同じことをやっていたが、あちらは精神的に、こちらは物理的にも閉塞していて、その分会話劇の密度は物語の進行と共に高まってゆく。
密室で展開する映画だが、カメラとカッティングの妙によって単調には陥らず、観客は時には教誨師側から、時には死刑囚側から物語にグイグイと引き込まれる。
六人の死刑囚の起こした事件は、最初のうちはフォーカスされない。
それぞれに個性的ではあるが、どこにでもいそうな彼らとの対話は、まるで近所の誰々さんとの世間話を聞いているよう。
彼らの事件はそれぞれに実際に起こった事件を思わせるもので、佐伯との対話を通して徐々に「ああ、あの事件か」と記憶を呼び起こされる。
死刑囚としてではなく、あくまでも一人の“人間”としての印象を先行させ、徐々に彼らの罪を露見させてゆくことで、「凶悪殺人犯」という記号化されたキャラクターを生身の人間に戻してゆく。
それと共に、たとえば一見すると豪放に見えるヤクザの吉田が、刑の執行を心底から恐れていること、ストーカー殺人を犯した鈴木が、被害者の幽霊と対話していること、おしゃべりが止まらない野口が、もはや妄想の世界にいて、リストカットを繰り返していることなど、いつ命が終わるとも知れない死刑囚としての毎日で、生きながら人間が壊れていっているのが見えてくるのだ。
また気弱な小川の告白によって、犯した罪の意味合いが変わっていく事例も描かれる。
教誨毎に徐々に印象が異なってゆく彼らに対して、玉置玲央が演じる高宮は、最初から2016年に相模原で起こった大量殺傷事件の被告人をモデルとしているのが明白。
それは彼が他の死刑囚と異なり、ある種の思想犯でもあり、凡ゆる点で佐伯のアンチテーゼだからだ。
佐伯は、独りよがりな“正義”を振りかざし、一切の贖罪の姿勢を見せないこの男と会話することで、彼の心にぽっかりと空いた決して埋められない“穴”を見つめる。
それは同時に、佐伯が自らの心に封印してきた彼自身の“罪”と向き合う時間でもあり、彼の目を通して、私たち観客自身が生命倫理や死刑制度の在り方について考える時間でもあるのだ。
高宮のほかにもう一人、ほかの死刑囚と異なる描かれ方をしている人物がいる。
それは文盲のホームレスの進藤だ。
彼に関しては、教誨の大半が文字を教えることに費やされ、具体的に彼が何をして死刑判決を受けたのかは語られない。
このような描き方をするのは、彼に対して観客が先入観を持つことを避けるためだろう。
教誨中に倒れ言葉を失った進藤が佐伯に渡す、拙いひらがなで書かれた聖書の一節が心に刺さって忘れられない。
「あなたがたのうち だれがわたしにつみがあると せめうるのか」
これはヨハネによる福音書の第八章四十六節の前半部分だが、パリサイの民(ユダヤ教の一派)との対話の中で発されたイエスの言葉だ。
神から使わされたというイエスのあかしをパリサイの民は信じようとしないが、「わたしは真理を語っているのに、なぜあなたがたは、わたしを信じないのか」とイエスは言う。
またこの章の初めで、姦淫の罪で捕まって人々の前に引き出された女を見たイエスは、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と語る。
その結果、誰一人として石を投げることができなかった。
人間がみな罪人だとしたら、はたして罪人が罪人を罰することができるのか?私たちはパリサイの民や姦淫していた女を捕えた人々と同じなのではないか?
初めての死刑執行に立ち会った上で、ニュートラルな存在である進藤から、この根源的な葛藤が込められた一節を突き付けられた佐伯は、真理を求めて罪と罰の混沌に彷徨うしかないのである。
タイトルロールを演じる大杉漣は、全てを包み込むような懐の深い見事な演技を見せ、代表作の一つとなるのは間違いない。
佐古大監督によると、これを「遺作にするから」と冗談で言うほど惚れ込んでいた彼は、「教誨師」を三部作とする構想を抱いていたそうだ。
だからこそ、本作は佐伯の迷いのうちに幕を閉じるのだろう。
教誨師は、私たちの心に決して解くことのできない重い問いを残して、永遠に去ってしまった。
しかし、最後の主演作品が生と死を巡る本作だなんて、まるで映画の神が演出したかの様。
秀作揃いの今年の邦画の中でも、是非とも口コミで広がっていって欲しい作品だ。
それでこそ多くの作品で楽しませてくれた名優・大杉漣への、映画ファンからの恩返しにもなるのではないだろうか。
今回は、キリスト教の儀式には欠かせない赤ワイン、ココファーム・ワイナリーの「農民ロッソ」をチョイス。
ここは嘗て、知的障害を持つ「こころみ学園」の生徒と教師たちが、社会とかかわれるようにと、自ら山を切り開いて58年前に開設したワイナリー。
「農民ロッソ」はその名の通り、“ザ・葡萄酒”いう感じの素朴で柔らかな味わいで、コストパフォーマンスにも優れ、収穫の喜びに満ちた一本だ。

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