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「ヘレディタリー 継承」と「イット・カムズ・アット・ナイト」”家”と”家族”にまつわる恐怖譚
2018年11月29日 (木) | 編集 |
ヘレディタリー 継承・・・・・評価額1650円
イット・カムズ・アット・ナイト・・・・・評価額1650円


「ヘレディタリー 継承」と「イット・カムズ・アット・ナイト」は、共に若い映画作家によるセンス・オブ・ワンダーに溢れた恐怖譚だが、それ以外にも特徴的な共通点がある。
それは、全くシチュエーションは違えど、”家”と”家族”にまつわる物語ということだ。
※ネタバレは避けてますが、なるべく観てから読んでください。

「ヘレディタリー(Hereditary)」とは、「遺伝的な」とか「親譲りの」などを意味する。
一家の祖母の死から始まる物語は、真綿で絞め殺される様な、精神的にジワジワくるオカルト・ホラーだ。
亡くなった祖母は、トニ・コレット演じる娘のアニーと長年に渡り折り合いが悪かった。
母の死にもあまり悲しむことが出来ない彼女は、葬儀の後に遺品の中から一通のメモを見つける。
そこには「私を憎まないで」という謎めいたメッセージが書かれていたのだが、以降これでもかというくらい、アニーの家族には不幸が降りかかるのだ。
まずは死んだ鳥の頭をハサミで切り取って持って帰るなど、奇行を繰り返していた長女のチャーリーが、長男のピーターが起こした交通事故により死亡。
娘の死に精神的に追い詰められたアニーは、降霊術によって死んだ家族と交信しているという女性に感化され、次第にスピリチュアルな世界へ救いを求める様になるのだが、不穏な影と目に見えない恐怖が屋敷を覆ってゆくのには気づかない。

アニーの職業がミニチュアハウス作家で、自分が経験したことを、娘の事故などの不幸も含めてミニチュアとして作っているのが面白い。
自分の人生を母にコントロールされてきたと感じているアニーは、現実を虚構に転化し自分の手で作り上げることで抵抗しているのだが、次第に虚実は溶け合って境界を失ってゆく。
何が本当で、何が嘘なのか。
アリ・アリスター監督は、全編にリード、ミスリード取り混ぜた伏線を緻密に配していて、不幸のスパイラルに落ちた一家の人々だけでなく、観客の予想を大いに惑わすのだ。
冒頭、ミニチュアの部屋にカメラが寄って行くと、そこがそのまま現実の屋敷の部屋となるトリックショットが、本作の構造を端的に表していると言えるだろう。
やがて明らかになる、家族と家族の歴史の中に仕掛けられた大いなる罠と、驚くべき結末。
一体、亡くなった祖母は何者だったのか。
ある意味で、タイトルそのものが一番ネタバレに近いかもしれない。

一方の「イット・カムズ・アット・ナイト」は、致死性の奇病が蔓延した、終末の世界を描く。
ジョエル・エドガートン演じる厳格な父親ポールと妻のサラ、17歳の息子トラヴィスが、山奥の大きな家に隠れる様に暮らしている。
情報は途絶え、世界がどうなったのかも分からないまま、三人だけの孤独な世界を生きているのだ。
ところがある日、水を求めた若者ウィルが家に侵入。
ポールらは彼が病気に感染していないことを確認すると、食料と引き換えに、やむなく彼の妻キムと幼い息子のアンドリューを含めた三人家族を、家に迎え入れることになる。
永遠とも思えた孤独は解消し、最初のうち二つの家族は上手くいく。
だがほんの小さな齟齬が積み重なり、彼らの間には目に見えない亀裂が出来てゆき、やがて思わぬところから病原菌の脅威が迫った時、本当の恐怖が姿を現わす。

開いているけど閉じている、森の緑に閉ざされた牢獄とも言える、独特の空間で展開する実質的な密室劇。
迷路の様な家の構造と、事件を呼び込む赤いドアの心理的な象徴性も効いている。
ドラマを引っ張るのはエドガートンの父親だが、実質的主人公をナイーブな17歳の息子に設定したのが上手い。
彼の抱える思春期の葛藤と、心の底にある不安が見せる悪夢が、物語を恐るべき結末へと導いてゆく。
人間を、本当に破滅させるのは何か。
病原菌という恐怖の象徴によって、目覚めてしまったもの。
トレイ・エドワード・シュルツ監督は、終始静かな緊張感が続く、優れた心理スリラーを作り上げた。

同じく”恐怖”を描くといっても、二本の作品はまるでタイプが違う。
詳細はネタバレなので自粛するが、例えば「ヘレディタリー 継承」の場合、とことん惑わせるという作品コンセプトから言っても、一番近いのは韓国製オカルト・ホラーの傑作「哭声/コクソン」かも知れない。
ただ怖いだけでなく、クライマックスになるととぼけたブラックジョークも顔を出す。
客観的に見ると、ものすごく悲惨な状況なのだけど、実はある人物の主観として考えると結局ハッピーエンド?というあたりも惑わされている。
個人的にはこの辺り、藤子・F・不二雄の短編「流血鬼」の不思議な読後感を思い出した。

逆に「イット・カムズ・アット・ナイト」は、超自然的な「ヘレディタリー 継承」よりも、リアリティ重視のスリラー色が強い。
確実に死をもたらす病原菌は決して絵空事とは言えないし、登場人物の感情の推移も十分に納得できる。
大切なものを守ろうとして、実は知らぬ間に破壊してしまうのは人間の悲しい性であり、物語にも「ヘレディタリー 継承」のような捻りはない。
突きつけられる残酷極まりない結末も、自業自得ゆえにストレートに受け止めなければならないものだ。

しかしアメリカから、”家”と”家族”をモチーフとした、優れた恐怖譚が連続して出てくる背景は興味深い。
どちらの作品にも共通するのは、主人公は「家族の本当の姿を知らない」ということである。
トランプ政権の誕生以来、アメリカ社会の分断は深まっているが、それは一般の家庭内も例外ではない。
「隠れトランプ」という言葉に象徴されるように、どちらかといえばリベラルだと思っていた自分の夫や親が、実はトランプに投票したことを知って、ショックを受けたりするケースは私の知っている人たちの中でも起こっている。
もちろん家族の政治信条が違うのは普通のことだが、あそこまで極端な人物ゆえに「まさか」と思ってしまうのだろう。
うがった見方かもしれないが、映画が時代を映す鏡だとすれば、これらの作品は世界を敵と味方に分け、恐怖を煽り立てるトランンプの時代に対して、「もう誰も信じられない」と絶望する人々の心の反映とも思える。
家族の間で大きなわだかまりを抱えているという点では、大ヒットした「クワイエット・プレイス」も、同じ社会的文脈から出てきた作品かもしれない。
まああの映画は、どちらかと言えばポジティブな「知らない」だったが。

今回は、どちらも悪夢が重要な役割を果たすので「ナイトメア・オブ・レッド」を。
ドライ・ジン30ml、カンパリ30ml、パイナップル・ジュース30ml、オレンジ・ビターズ2dashを氷で満たしたグラスに注ぎ、ステアする。
カンパリとビターズの苦みが、ドライ・ジンの清涼感とパイナップルのほのかな甘味によって引き立てられる。
辛口でスッキリした大人なアペリティフ、で実はあんまり悪夢的ではない。

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A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー・・・・・評価額1750円
2018年11月26日 (月) | 編集 |
永遠の愛は、永遠の呪い。

これは凄い。
久しぶりの本当のネタバレ禁止案件だ。
緑豊かな郊外の小さな家に、若い夫婦が仲睦まじく暮らしている。
だが、ある朝夫は事故死し、妻は病院に安置された彼の遺体に別れを告げて家に帰る。
ところが、夫は幽霊となって戻ってきて、妻を見守りはじめるのだ。
この設定だけ聞くと、嘗ての大ヒット作「ゴースト/ニューヨークの幻」みたいだが、これは物語のほんの発端に過ぎない。
わずか10万ドルという低予算で作られた、「A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー」の筋立ては正に未見性の塊で、たぶん誰も予測出来ない驚くべきものだ。
幽霊となる夫「C」をケイシー・アフレック、妻の「M」をルーニー・マーラーという旬な二人が演じ、監督・脚本は同じくアフレックとマーラーが主演した「セインツ -約束の果て-」や、ディズニーの実写版「ピートと秘密の友達」で知られるデヴィッド・ロウリーが務める。
詩的で味わい深い、愛と時間と魂に関する哲学的な寓話である。
※観る前には、絶対にこれ以上読まないこと!

ダラス郊外の小さな家に住む、若い夫婦のC(ケイシー・アフレック)とM(ルーニー・マーラー)は、慎ましくも幸せな日々を送っていた。
ある日の朝、Cが突然の交通事故で亡くなり、Mは病院で夫の遺体を確認するとシーツを被せて家に帰る。
ところがCはシーツを被ったままの姿で幽霊となり、そのままMのいる自宅まで戻って来るが、もはや肉体を持たない彼は、一人ぼっちで喪失の悲しみに打ちひしがれる妻を見守ことしかできない。
しかし歳月が過ぎたある時、Mは人生を前に進めるために、幸せな思い出のつまった家の売却を決意し、去って行く。
家に残されたCは、妻が隠した“ある物”を求めるのだが、それは時間を巡る遠大な旅のはじまりだった・・・・


Cという明確な主人公がいるにもかかわらず、なぜタイトルについているのが定冠詞の「The」ではなく不定冠詞の「A」なのか?
ここに本作の核心がある。
そもそも、幽霊ってなんだろう?
もちろん「死んだ人の魂がこの世に残っていること」なのは大前提だ。
おそらく幽霊のいない文化は世界のどこにも無く、幽霊大国イギリスではいわゆる幽霊屋敷の方が由緒ある家ということで、レントが高かったりするらしい。
では幽霊たちは、なぜ死んだ後もこの世にとどまり続けているのだろうか。
ホラー映画なら、例えば「呪怨」シリーズのように深い恨みを抱えて死んで悪霊化、あるいは「死霊館」シリーズのように幽霊というよりも悪魔的な存在のこともある。
だが現実の幽霊屋敷では、多くの場合幽霊はただそこに出没して、ごくたまにラップ音や物がちょっと動くなどの細やかな心霊現象を起こす程度。
特に明確な目的があるようには思えないが、この映画を観た人の多くは、「ああ、幽霊ってこういうものかもしれないな」と感じると思う。

突然の死を迎えたCは、リアルなオバQ的な白いシーツ姿の幽霊になって家に戻ってくる。
この映画の世界では、幽霊はシーツを被っているものらしく、CとMの隣家にいる幽霊も花柄のシーツを被っている。
最初のうちは妻のその後を見守り、彼女に新しい恋の予感を感じとれば、動揺して嫉妬したりもする。
しかし、どうやら幽霊は一カ所に居つくとそこから動けないようで、新生活を始めるためにMが家を売って引っ越してもCはついて行くことができない。
彼が「この世にとどまる訳」はMを見守ることから、彼女が家のリフォーム中に壁板の隙間に隠したメモを読むことに変わるのである。
彼女は引越しの多かった子供時代にも同じことをしていたらしく、昔住んでいた家の隙間に、楽しかった思い出などをつづったメモを隠したというエピソードを生前のCに語っていた。
どうしてもその中身を知りたいCは、少しずつ少しずつ、心霊現象を起こせるわずかな力を使って、メモが埋め込まれた場所の塗料を削って行く。

その間にも時間は過ぎてゆくが、目的を遂げるまで永遠の死を生きる幽霊にとって、もはや時間の概念は無意味。
だから物語の中で流れる、時間の扱いもユニークだ。
Cを失ったMが、友人に差し入れられた不味そうなパイをやけ食いするのを数分間ワンショットの長回しで見せたと思えば、一瞬で数十年が過ぎたりする。
家に住む人々も次々に入れ替わり、遂には家そのものも隠されたメモごと壊されてしまうのだ。
郊外が新たな都心となり、元の家のあった場所が未来的な高層ビルとなっても、どこにも行けないCはさまよい続け、遂には“死”を選ぶ。
しかし、すでに幽霊なのだから、当然二度死ぬことはできず、Cの魂は遥か古の西部開拓時代の同じ場所に飛ばされてしまう。
彼はその土地に家が建ち、CとMが引っ越してきて、自らが死を迎えるのを延々と待ち続けなければならない。
ただ、彼女が隠したメモを読むためだけに。
ここがこの作品の最もユニークな点で、Cの魂は時のループから外れスパイラルへとまよいこむのである。

そう、この映画における幽霊とは、何か一つのことに囚われてしまって人間としての個を失い、その場所にさまよい続ける存在全てのことであり、だからこそ「The」ではなく「A」なのである。
幽霊にはそれぞれこの世にとどまる理由があり、Cの場合はメモを読むこと、隣家の幽霊の場合は「誰か」に会いたくて待ち続けているのだが、その「誰か」が誰なのかすら忘れてしまっている。
人間だった頃の記憶は薄れ、あいまいな時間と空間が醸しだす、まるで微睡みながら夢を見ているような独特の手触りは、私たちに「幽霊でいる感覚」を体験させるためなのだ。
真っ白なシーツに、二つの目の穴だけが空いているビジュアルは、宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」に登場する「カオナシ」からの発想だとか。
極限までにシンプルゆえに、私たちはそこに様々な表情を感じ取る。
夫婦の名前がCとMというアルファベットで設定され、劇中で本当の名前を呼ばれることがないのも、同じ文脈だろう。

ルーニー・マーラー演じるMは、前半で引っ越してしまい退場。
幽霊となったCは出ずっぱりなものの、ずっとシーツを被っていて一切喋らないので、ぶっちゃけ中身がケイシー・アフレックじゃなくても分からない(笑
いや、ジェスチャーも重要な演技だから、ちゃんと本人がやってるのだとは思うけど。
主演としてクレジットされている俳優が、その姿をほとんど見せないというのはある意味斬新だ。

私の知る限りだが、明確に「本作と似ている」と言える作品は同一ジャンルには思いつかない。
流れゆく遠大な時間の中の、変化しない主体を描いているという意味では、たとえば手塚治虫の「火の鳥」や、一脚のロッキングチェアがたどる歴史を描いた、フレデリック・バックの短編アニメーション「クラック!」、あるいは百数十年にわたる小さな家の歴史を描く、バージニア・リー・バートンの絵本「ちいさなおうち」などが近いかもしれない。
まるで覚めない夢の中にいる様な感覚は、ちょっとテレンス・マリック監督の「ツリー・オブ・ライフ」と、アシモフの「バイセンテニアル・マン」を映画化した、クリス・コロンバス監督の「アンドリューNDR114」を彷彿とさせる部分もある。

1.33:1の四隅が丸まった画面は、まるでスクリーンに開いたシーツの覗き穴
私たちは、Cが望みを遂げるまでの数百年間の時空を超えた旅を、幽霊という切ない存在へのシンパシーと共に見守ることとなる。
しかし、物語の展開によって、これほど新鮮に驚かされたのは本当に久しぶりだ。
本国公開は昨年の7月で、すぐに評判の良さは伝わってきたのだが、「シーツを被った幽霊が妻を見守る」以上の情報を一年もブロックして頑張った甲斐があった。
あと、デヴィッド・ロウリーの映画は、短めなのがいい
驚くべき世界観を持つ本作がわずか92分。
前々作の「セインツ」が98分で、次回作でこれまた評判の良い「The Old Man & the Gun」が93分。
ディズニーで撮った「ピートと秘密の友達」は100分を超えるが、あれはエンドクレジットが長いので、本編は90分ちょいだろう。
もちろん長い映画も、その長さが必然であれば全然問題ないのだが、たいていのことは90分もあれば描けるとも言える。
観る方としても真剣な鑑賞にはエネルギーを使うので、このくらいの上映時間が楽でいい。

今回は悠久の時の流れに思いを馳せながら、カリフォルニアはナパバレーから「ファーニエンテ シャルドネ ナパバレー」の2016をチョイス。
故・ギル・ニッケルの情熱によって蘇った、ナパを代表する高級銘柄。
フレッシュな酸味と、芳醇で複雑なフルーツのアロマが絶妙にバランス。
つけ合わせる料理を選ばない、非常に使い勝手の良いワインだ。
個人的にはオリーブ漬けとチーズを肴に、じっくりと味わいたい。

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東京フィルメックス2018 まとめのショートショートレビュー
2018年11月25日 (日) | 編集 |
東京フィルメックス2018が閉幕したのでつぶやきまとめ。
今回観ることができた6本のクオリティ・アベレージは、例年よりも低目だった。
一番面白かったのは、麻薬戦争下のフィリピンを描いた「アルファ、殺しの権利」で、これは正式公開を望みたい。

幻土・・・・・評価額1450円
シンガポールの埋立現場から中国人移民労働者が失踪し、不眠症の刑事が彼の消息を追う。
一方、失踪した労働者もまた、忽然と消えた友人のバングラデシュ人の行方を探していた。
刑事と労働者は、やがてお互いのことを夢に見て、二つの物語はシームレスに融合する。
島国の都市国家シンガポールは、国が出来た時から他国から土を輸入し、埋め立てることで形を変えてきた。
まさに永遠に完成しない、白日夢の様な幻の土地だ。
刑事も労働者も不眠症で、いつしか登場人物の意識はシンガポールという国と一体化し、メタファーとなる。
建国以来、国土面積が25%も増え、埋立労働者のほぼ全てを占める移民も、人口の25%だという。
これは主人公の刑事と過酷な労働環境を生きる移民労働者の“夢”を通して、逆説的に幻のシンガポールの現実を描こうとした意欲作だ。

ロングデイズ・ジャーニー、イントゥ・ナイト・・・・・評価額1350円
同一英題のユージン・オニールの戯曲とはあんま関係ない。
映画の前半はファムファタールを探す主人公の、中国版デヴィッド・リンチっぽい幻想ハードボイルド。
後半1時間が劇中劇(?)のワンショット撮影の3D映画という珍品。
ポルノ映画館に入った主人公が3Dメガネをかけるのが合図で、観客も一斉にメガネオン。
まるで迷宮を彷徨う様な後半は、前半出てきた様々なモチーフが虚構の夢として回収されてゆく。
かなり暗くて見難い部分もあるが、未見性もあり結構面白かった。
この後半こそ本作の核心で、要はこれがやってみたかった!って映画。
問題は1時間15分もある前半、というか前振り部分だ。
ぶっちゃけ、はなっから分からせようと作ってないのだが、時系列がぶった切られている上に、意味不明な映像が頻繁に挟まれる。
後半まで来ると、一応前半描かれたことには意味を持たせているし、前半もカメラアングルとかはユニークなことやってる。
こちらを混乱させる意図もあるのだろうが、ちょっと冗長で辛かった。
3D始まる前に退席しちゃったお客さんもいたし、バランス的にももう少し短くても良かったのでは。

華氏451・・・・・評価額1150円
2度目の映像化。
作ったのは「ドリームホーム 99%を操る男たち」の監督ラミン・バーラ二、脚本アミール・ナデリの師弟コンビ。
焚書が制度化された近未来が舞台で、本を取り締まり燃やす“焼火士”の主人公が、本の価値に目覚めるという基本的な流れは変わらない。
ブラッドベリの原作とトリュフォー版は、面白かったが、違和感が拭えなかった部分がある。
書かれた時代の影響が大きいのだろうが、至高の表現である小説が権力から禁止される一方、TVやコミックは低俗だからOKという、活字至上主義的な作者の世界観が「既に歪んでね?」と思ったのだ。
本作ではネットが原作のTVに取って代わり、小説だけでなく、映画も絵画も表現の殆どが禁止された世界。
ここまでは現代的になったものの、終盤に焚書体制を一気にひっくり返す、実にハリウッド的アイデアを脚色で加えている。
残念ながら、このアイデアと下手に隣国の存在を絡ませたことで、プロットが決定的に破綻してしまって、後半の展開は頭に「?」出まくり。
焚書が制度化されたそもそもの原因が、「◯◯の表現が気に入らない!」という正義感を振り回す民衆同士の対立がエスカレートして内戦が起こったから、というのは私がいつも言ってる「誰もが本当に自由な世界は、不快に満ちた世界」と通じるし、焚書を扱いながら表現手法に優劣を付けるという自己矛盾からは抜け出してる。
しかし、これじゃディテールが甘すぎだし、わざわざ「本の人々」を出してきた意味ないじゃん。
ケーブルTVのHBOによる映画館では観られない映画なのは、TVをディスった原作を考えるとアイロニーで、古典も今の時代には新しい意味を持つというコンセプトは良いと思うが、色々残念な出来だった。

エルサレムの路面電車・・・・・評価額1450円
多民族都市エルサレムを走るトラムを舞台に、乗り込んでくる様々なバックグラウンドを持つ人々の、人生の断片を捉えたユニークな作品。
場面・時間は数分ごとにランダム入れ替わり、どの話も特にオチがつくこともなく、主人公がいるわけでもない。
息子に説教を始める老女、本気の喧嘩を始める夫婦、フランスからの子連れの旅行者、福音書をつぶやきはじめる牧師、差別意識丸出しの警備員、ヨーロッパから来たサッカーチーム監督、etc。
ユーモラスなものからシリアスなものまで、エルサレムの今を映し出す。
アモス・ギタイは同時上映の「ガザの友人への手紙」もそうだが、朗読したり詩を吟じたりするのが好きなんだな。
しかし、結構みんな車内で歌ったり演奏したりしてたが、アレはリアルなんだろうか。
パレスチナのラッパーが最高だが、サッカー監督は辞任しそうw

ガザの友人への手紙・・・・・評価額1300円
「エルサレムの路面電車」と併映された、アモス・ギタイの短編。
パレスチナ人とユダヤ人、四人の俳優がお互いに朗読を繰り返し、最終的にカミュの「ドイツ人の友への手紙」に帰結する。
それぞれの朗読内容がパレスチナ・イスラエルの今昔を暗喩。ただ読んで聞いているだけなのに、やっぱ俳優の表現力ってすごい。

アルファ、殺しの権利・・・・・評価額1650円
「ローサは密告された」に続いて、麻薬戦争下のフィリピンを描く、ブリランテ・メンドーサ監督作品。
モチーフは同じだが、アプローチは異なる。
今回描かれるのは、密売所のガサ入れでクスリを盗んだ悪徳刑事と、彼の“駒”として使われる密告者の若者。
登場人物をハンディカメラで背後からフォローするドキュメントスタイルが、リアリティと臨場感を高める。
まるでスラムのニオイまでも漂ってきそう。
刑事は密告者にクスリを売らせ、その上がりの大半を奪い取り私服を肥やす一方、危険を冒す密告者はスラム暮らし。
とことんまで腐ったクソ野郎だが、豊かな生活を送る刑事と、犯罪者だが、娘のミルクにもこと欠く密告者の生活のコントラストが強調され、麻薬問題は結局は経済問題だということが浮かび上がる。
そら生きる糧だから、力で抑えるだけでは最終的には解決しないよな。
街の至る所に自警団が立ち、道行く人を検問する状況で、密告者がどうやってクスリを売りさばくのか、そのプロセスもサスペンスフル。
しかし悪徳刑事を描く警察批判映画なのに、ちゃっかり警察の協力を得てるのがフィリピンの不思議なところ。
見応えある力作だ。

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ショートレビュー「生きてるだけで、愛。・・・・・評価額1700円」
2018年11月24日 (土) | 編集 |
心が触れ合うのは、一瞬。

これは映画女優・趣里を堪能するための作品だ。
本谷有希子の同名小説を、広告ジャンルやドキュメンタリーで知られ、これが初の長編劇映画となる関根光才が映画化。
主人公の寧子は鬱が招く過眠症のため、菅田将暉演じる週刊誌ライターの恋人・津奈木のアパートでずっとゴロゴロ。
ところがある時、別の意味で病んでる津奈木の元カノに強制され、レストランで緩いバイトを始める。
元カノは未練のある津奈木とよりを戻したいのだが、彼の性格的に寧子が依存しっぱなしだと別れられない。
ゆえに、「寝てばかりいないで働け!」というワケ。
まあ相当に強引な理屈だが、とりあえずは流されやすい寧子が外に出るキッカケとなり、閉塞した日常が少しずつ動き出す。

時に過激で、繊細。
またある時は幼く、次の瞬間には妖艶。
罅が入って今にも砕けそうな心に閉じこもりながら、いくつもの表情を見せる趣里が圧倒的に素晴らしい。
よく犬顔、猫顔とか言うが、この人は本当に前世が猫だったんじゃないかと思う。
大きな瞳は猫の目のように映し出す感情がコロコロ変わるし、何より水谷豊より、伊藤蘭よりも猫に似てるじゃないか。
今までも幾つものテレビドラマで印象的なキャラクターを演じてきたが、正直本作での表現力の豊かさには驚かされた。

そして受け身の役柄ながら、「ああこの役には彼しかいない」と思わせる菅田将暉もいい。
「津奈木=繋ぎ」と言う訳か。
寧子は「生きてるだけでほんと疲れる」と言う。
自らも心に鬱屈とした葛藤を抱えながら、危ういまでに繊細な彼女を、こちらの世界になんとか繋ぎとめているのが彼。

しかし、殻に閉じこもって、本当の心を隠しているつもりでも、実はすでに殻が砕け散ってしまっていることに気づく夜がやってくる。
鬱病の人は、躁鬱のループを繰り返す場合が多いと言うが、鬱状態が終わりを告げた寧子は、夜の街を全力疾走しながら、着衣を一枚一枚脱ぎ捨てて、追いかける津奈木がそれを拾い集めて追ってゆく。
ここは序盤の寧子と津奈木の強烈な出会いと対をなすミラーイメージであり、他人にはうかがい知れない二人の不思議な関係の本質を、極めて映像的に表現した名シーン。
女と男が一緒に暮らしていても、生きている世界は違うし、本当に分かり合えるのは一瞬。
でもだからこそ、二人が共に感情を爆発させ、命と心が共鳴し合う一夜は、劇的にエモーショナルだ。

主人公に寄り添った詩的な心象劇であり、プロットは非常にシンプルだが、全く目が離せない。
関根光才の演出は、さすが広告畑の人らしくセンスが抜群で、映像言語でこちらの心の深い部分を鷲掴みにしてガンガン揺さぶってくる。
その技術は老練さすら感じさせ、これがデビュー作とはとても思えないクオリティだ。
しかし、今年の日本映画賞レースの主演女優部門は大激戦になるな。

今回は私的主演女優賞として趣里さんに贈りたいオシャレな日本酒、新潟県の今代司酒造の「錦鯉 KOI」をチョイス。
この酒の最大の特徴は、威風堂々とした錦鯉を模した磁器のボトルデザイン。
もちろん中身も、北陸の酒らしい淡麗でキレのある上品なもの。
高いデザイン性と酒としての本質を両立させた、祝いのための酒だ。

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「GODZILLA 星を喰う者」と「アニゴジ」三部作総括
2018年11月19日 (月) | 編集 |
「GODZILLA 星を喰う者・・・・・評価額1550円」

人類は生きるべきか、滅ぶべきか。

ゴジラが支配する地球へ、嘗てエクシフの故郷を滅ぼした最強の怪獣「ギドラ」がやって来る。
2017年の11月に第1作が公開された、挑戦的な「アニゴジ」三部作完結編。
同時にこれは、平成最後のゴジラ映画でもある。
脚本に「魔法少女まどか☆マギカ」で知られる虚淵玄を起用し、ゴジラというキャラクターの存在といわゆるギャレゴジを思わせる基本デザイン意外、過去の実写シリーズとは全く異なるアプローチをした異色の三部作は、どの様な結末に辿り着いたのだろうか。

第1作「GODZILLA 怪獣惑星」では、いきなりの未来SF設定に驚かされた。
20世紀末、突如として出現した怪獣たちの猛威によって、人類の文明は崩壊。
中でも最後に現れ、他の怪獣たちをも滅ぼしてゆく「ゴジラ」の破壊力は凄まじく、人類は加勢を申し出てきた異星人種「エクシフ」と「ビルサルド」と共に宇宙に逃れ、別の恒星系の惑星へと新天地を求めて旅立つ。
三部作の主人公となるハルオ・サカキ大尉は、この時の混乱により両親を亡くし、ゴジラに対して強い憎しみを抱くようになった青年だ。
しかし、たどり着いた惑星は結局居住に適さず、人類はやむなく地球へと帰還するも、そこはウラシマ効果により2万年もの歳月が過ぎた未来の地球。
「もしかしたら、ゴジラも死滅しているのでは?」という儚い希望は、より強大になったゴジラ発見によって潰え、地球に降り立った戦闘部隊はハルオの指揮のもと、ゴジラ殲滅作戦に打って出るも惜敗。

続く第2作「GODZILLA 決戦機動増殖都市」では、追い詰められたハルオたちが、かつて対ゴジラ決戦兵器として造られた「メカゴジラ」の構成素材、ナノメタルが二万年の間自己増殖し続けたことで出来た生きている都市、その名も「メカゴジラシティ」を発見。
ハルオたちはメカゴジラシティを拠点に、ナノメタルの存在を作戦に組み込み、改めてゴジラに挑もうとする。
だがゴジラを倒すためには、ゴジラを超えるものになるしかないと考えるビルサルドは、勝利を確実にするために、自分たちの肉体をナノメタルに感染させ、メカゴジラシティと同化することを強要。
拒否する人類とエクシフは、ビルサルドと仲間割れを起こし作戦は失敗、ゴジラの熱線攻撃により、メカゴジラシティはあえなく死滅する。

「アニゴジ」三部作の出発点は、「シン・ゴジラ」を含む平成日本型怪獣のオリジンである、巴啓祐の漫画「神の獣」と言っていいだろう。
漫画に登場する大怪獣オーガは、地球という巨大な生命にとって有害要素となった人類を滅亡させるために、地球そのものが作り出した怪獣で、その体は地球と全く同じ構造を持つ。
本作のゴジラも、核実験を繰り返し、地球環境を破壊する人類を滅ぼすために生まれた存在で、さらに人類が地球を留守にしていた2万年の間に、地球そのものと一体化した「ゴジラ・アース」となっていて、オーガの設定とかなり近い。
しかし、この三部作のユニークさは、「怪獣=人類の破壊装置」という設定ににとどまらず、超宇宙規模の生態系を構築していることにある。
劇中、環境生物学者のマーティンは、ゴジラが地球型生物の完成系だとすると、ゴジラを誕生させることこそが、人類そのものの存在意義だったのではないかという考察を口にする。
つまり人類は、地球という子宮がゴジラを生み出すための、栄養素に過ぎないというのだ。

ここで三部作に登場する、地球と宇宙の三つの人型種族の役割が明確に見えてくる。
自らを進化の頂点をゆく者と信じ、怪獣を超えるためには自らをナノメタルと同化して変質させることをも厭わないビルサルドは、究極の唯物論者
対して、次元を超越するほどの超科学文明をもちながら、「神」への信仰に全てを委ねるエクシフは、ゴジラを含めたこの世の全てを高次元の神への供物だと考え、肉体に意味はないと説く観念論者
ハルオに代表される地球人類は、二つの種族のテーゼとアンチテーゼの間で迷い、葛藤し、ジンテーゼを見つけ出す役割だ。
真逆の思想の板挟みとなるハルオは、科学を持ってゴジラの脅威を支配しようとするビルサルドの技術者ガルグと、自らの理解者となり、時に彼を導くエクシフの神官メトフィエスに影響を受け、ゴジラとの戦いを通して人間が人間として生きるとはどういうことかを自問してゆく。

この第3作「GODZILLA 星を喰う者」において、エクシフは彼らの考える神そのものである破壊の使者「ギドラ」を地球へと呼び寄せ、すべてを終わらせようとするのだが、ギドラは球状の「特異点」を作り出しそこから出現する。
つまり、ギドラはワームホールから出現する高次元宇宙の存在であり、二次元の存在が三次元の我々を認識することが出来ないように、こちらからは攻撃はおろか触れることすら出来ない。
ちなみにワームホールは「穴」として描かれることが多かったが、最近の研究では「球」として表現するのが正解の様で、クリストファー・ノーランの「インターステラ―」や、この夏に公開された「ペンギン・ハイウェイ」でも球状のワームホールが登場する。
また地球そのものであるゴジラを捕食するギドラは、「星を喰う者=怪獣の姿をしたブラックホール」と捉えることも出来、地球もまた途轍もなく巨大な超宇宙規模の生態系の一部に過ぎないことが示唆される。

これほどに壮大な世界観を見せつけられ、なおも人類というちっぽけな存在にどのような意味を見つけ出すのか、人間はどうあるべきなのか、どう生きるべきなのかがこの三部作の核心だ。
人類はあまりにも弱い。
しかし、ハルオの葛藤の末の行動によって、地球をギドラの供物とするエクシフの計画は失敗し、彼らの言う宇宙の理は絶対ではないことが露わとなる。
ここでハルオが体現するのは、どんなに絶望的な状況でも、生きようと足掻く人間本来の姿であり、多次元宇宙の生態系というマクロの仕組みを逸脱する、人類というミクロの反乱だ。
そしてそれは、アニメーションという手法だからこそ、従来のゴジラ映画の枠組みに果敢に挑戦出来た、この三部作の立ち位置にも通じるのではあるまいか。

難解な物理用語が飛び交う、ゴジラ映画のファンを戸惑わせるハードSFとしての三部作は、64年のゴジラ映画の歴史に新たな爪痕を残したと言って良いと思う。
だが、「GODZILLA 星を喰う者」を一本の映画として捉えると、完全に「話畳みます」モードで、ほぼここまで積み上げてきた葛藤の帰結する先を巡る会話劇。
ハルオとメトフィエスの禅問答は、これしか無かったと思うが、前2作の様な対怪獣バトルアクションは全く無い。
人間が人間たるが故、ゴジラとの戦いに絶対に勝てないとしたら、人類にとって一番の救済とは何か。
自らをギドラの供物として、ゴジラと共に滅びることを望むのか。
それともどんなに惨めだとしても、運命に抗い生き続けるのか。
恐怖と絶望の終わらせ方を巡る、ハルオの内的葛藤がほぼ全てで、活劇としての魅力は三部作で一番弱いと言わざるを得ない。
非常にユニークな作品だと思うが、三本並べてみると、一番映画的で面白かったのはやはり第2作だ。

ところで、ハルオの葛藤の「解」としては、実は最初からゴジラとの共存を果たしているフツアの民がいるのだが、彼らの神として登場する「卵」の描写はちょっと中途半端。
おそらく、この三部作に続く新たなシリーズが構想されていて、そちらで描くつもりなのだと想像するが、「卵が呼ぶ者=モスラ」も別の宇宙の存在ということなのか、それとも地球がゴジラの反作用として生み出したものなのか、せめて本作で考察のためのヒントくらいは提示してほしかった。
あとハルオの最後の決断は、心情としては分かるのだけど、それまでの彼の行動原理と突然180度逆になってしまうのが違和感。
ある人物のアイディアを葬れば良いのだから、別の方法もあったのでは。
というか、別の方法の方が良かったのではと思った。

今回は、そのまんま「ゴジラ」をチョイス。
何かと評判の悪いローランド・エメリッヒ版の「GODZILLA」公開時に、アメリカで考案された濃い緑が印象的なカクテル。
氷を入れたロックグラスに、ジン20ml、アップル・リキュール20ml、メロン・リキュール20ml、ブルー・キュラソー20ml、レモンジュース1tspを注ぎ、ステアする。
なんでこれがゴジラなの?と思うだろうが、何故か昔からアメリカではゴジラのイラストは緑色に描かれることが多いので、ゴジラをイメージすると緑のカクテルになると言うことだろう。
恐ろしげな名前の割に、甘口でフルーティ。
スッキリしていてとても飲みやすい。

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華氏119・・・・・評価額1700円
2018年11月16日 (金) | 編集 |
トランプ政権はなぜ生まれたのか?

相変わらずマシンガンのように情報をはき出すテリングのテンポが心地よく、無茶苦茶面白い。
史上最も嫌われている大統領ながら、なぜだか一定の支持は受けている・・・というと一昔前ならジョージ・W・ブッシュのことだった。
嘗てマイケル・ムーア監督は、イラク戦争下のアカデミー賞の授賞式で「shame on you!(恥を知れ)」と叫び、当時のブッシュ政権を激しく非難したが、本作のタイトルはその時の受賞作「華氏911 (Fahrenheit 9/11)」をひっくり返した「華氏119 (Fahrenheit 11/9)」
これはトランプ陣営が勝利宣言を出した11月9日と緊急ダイヤルの119をかけたもの。

世界が驚いた大統領選のドタバタから始まり、トランプ以前にプチ・トランプ的州知事が誕生していたミシガン州で起こったこと、フロリダの学校乱射事件の生き残り生徒たちの行動、今回の中間選挙を盛り上げたマイノリティ候補たちの活動と、トランプという強烈なキャラクターを軸にして、この数年間の出来ごとを追ってゆく。
悪い意味で型破りで、息子ブッシュが可愛く見えてくる第45代アメリカ合衆国大統領ドナルド・トランプとその時代への、アンチサイドからの強烈なプロパガンダ・ムービーだが、単純なトランプ批判ではなく、トランプ政権を誕生させたアメリカの抱える歴史的・社会的な様々な問題を網羅した内容になっている。

映画の主張するトランプ政権誕生のポイントは二つ。
一つ目は毎回物議をかもす、アメリカ大統領選挙の独特の仕組みだ。
大統領候補への直接投票ではなく、大統領選挙人への間接投票、しかも州によっては勝者が選挙人の票をすべて自分のものにできるという制度によって、得票数で上回った候補が選挙では敗れるという奇妙な現象がたびたび起こってきた。
2000年の選挙ではアル・ゴアがブッシュに54万票の差をつけながら、当選したのはブッシュだったし、2016年にはヒラリーがトランプを実に200万票以上も上回っていた。
もちろん今の時代に合わないものでも、変えない限りルールはルールで、単純にヒラリー陣営の選挙戦略の失敗という見方も強い。

興味深いのは、本作が提示するもう一つの理由。
ムーアは嘗ては自分も支持していたオバマ前大統領を含む民衆党旧世代をも断罪し、トランプを後押ししたのは民主党自身の体質だというのである。
公民権運動が吹き荒れた1960年代以降、保守的で大企業や富裕層を支持層に持つ共和党、リベラル派やマイノリティの支持を受ける民主党というイメージが固定化しているが、実際には民主党は豊富な資金を持つ共和党と戦うために、自らが徐々に共和党化していったという。
党内の民主的な手続きはおざなりにされ、民意が反映されなくなり、結果的に支持層の離反を招いた。
2016年の民主党大統領候補予備選では、ヒラリーとバーニー・サンダースが競い合っていたが、民主党上層部の意向によって、よりラジカルなバーニーの票が奪われ、出来レースでヒラリーが勝ったという主張が事実であれば、病巣は相当に深い。

映画の中で印象的なのが、プチ・トランプ的なリック・スナイダー州知事による失政(と言うか陰謀)で、飲み水が汚染され、健康被害が出たミシガン州フリントのエピソード。
デトロイトからもほど近いこの街は、ゼネラルモーターズの組立工の子として生まれた、マイケル・ムーアの故郷でもあった。
人々が何年も水質改善を訴えても無視されてきたフリントへ、ついにオバマ大統領がやって来る。
住民たちはオバマが問題を解決してくれると希望を託すが、なんとオバマはスナイダーの政策を擁護して、実際に苦しんでいる住民を見捨てるのである。

民主党への絶望が、超保守陣営の躍進を煽ったって、なんかどこかの国でも同じこと聞いた様な。

しかしやっぱり、アメリカ社会は良くも悪くもダイナミックだ。

リベラルの守護者としての民主党の組織が経年劣化すれば、草の根レベルの変革者が次々にでてくる。
フロリダ州パークランド高校の無差別乱射事件を生き残った生徒たちは、自ら行動を起こし、トランプ支持派のバッシングをものともせず、銃規制の声を世界規模の運動に拡大した。
女性、マイノリティ、バーニー・サンダースに共鳴する若者たちは、次々と選挙に打って出ている。
リック・スナイダーの退任に伴うミシガン州知事選でも、民主党の女性候補グレッチャン・ホウィットマーが勝った。
小さな声は結集しつつあり、中間選挙でトランプの勢いには一定の歯止めがかかったと言っていいだろう。


ドキュメンタリー映画「私はあなたのニグロではない」で作家のジェームズ・ボールドウィンが語っているのだけど、人間を突き動かす感情には二種類あって、被差別階層が抱くのが理不尽な境遇への「怒り」で、差別階層は地位を奪われる「恐怖」

マイケル・ムーアは、これまで一貫してユーモアをスパイスに「怒り」の映画を作ってきたが、今回はトランプをヒトラーに重ね合わせて、露骨に民主社会を奪われる「恐怖」を煽ってきた。

しかもそれは作中でムーア自身が「危険」であると言っているアイロニー。
これまでの作品では少なからず反対の意見も描いてきたが、本作ではトランプ支持派の声がほとんど描写されないのも同じ文脈。

要するに、今回は徹底的にトランプ潰しに行かないと「マジでヤバイ」と思っているのだろう。

まあトランプ支持派も意固地になって、余計に過激化しそうな気もするけど。

ブレグジットを巡る英国の国民投票もそうだが、トランプなんて本人も含めてネタだと思ってたのが大統領になっちゃうんだから、有権者としては選挙の類は常に真剣勝負と思わないと、結局自分の首を締めるということを肝に銘じないといけない。
結局のところ、トランプを当選させたのは彼に投票した支持者では無く、政治に絶望するあまり誰にも投票しなかった人々なのだ。

今回はトランプの金ピカ趣味から「ゴールデン・ドリーム」をチョイス。
黄金色のリキュール、ガリアーノ15ml、ホワイト・キュラソー15ml、オレンジ・ジュース15ml、生クリーム10mlをよくシェイクして、冷やしたグラスに注ぐ。
出来上がった状態だとゴールデンというよりは玉子豆腐っぽい色なのだが、甘くてクリーミーで、アフターディナー・ドリンクやナイトキャップにぴったり。
トランプは食えない男だが、こちらはとても美味しい。

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ボヘミアン・ラプソディ・・・・・評価額1750円
2018年11月13日 (火) | 編集 |
魂の歌を聴け!

冒頭のロックな20世紀フォックス・ファンファーレからテンションMAX、今年一番のアガる映画だ。
20世紀の音楽シーンを代表する、数々の大ヒット曲で知られるイギリスのロックバンド、クイーンのリードボーカルで、45歳の若さでこの世を去ったフレディ・マーキュリーをフィーチャーした音楽伝記映画。

1970年にブライアン・メイとロジャー・テイラーのバンド、スマイルにフレディが加入し、新たにクイーンとなった時点から、十数年に渡るドラマを描く。

既成概念にとらわれない若者たちはやがて栄光を掴むが、その性的指向故に“家族”を持てないフレディは、次第に孤独を募らせる。
ラミ・マレックがまるでフレディが憑依したかのごとく名演を見せ、彼と不思議な絆で結ばれる恋人メアリー・オースティンを「シング・ストリート 未来へのうた」のルーシー・ボーイントンが演じる。
表題曲となっている「ボヘミアン・ラプソディ」を「こんな曲じゃ、車で頭振れないだろ!」とこき下ろす音楽プロデューサーを、嘗て「ウェインズ・ワールド」でノリノリで頭振っていたマイク・マイヤーズに演じさせるなど遊び心も楽しい。
脚本は「ウィンストン・チャーチル /ヒトラーから世界を救った男」のアンソニー・マクカーテンが担当し、後述するようにトラブルに見舞われて途中降板しているものの、一応監督クレジットはブライアン・シンガー。

空港の荷物係として働くフレディ・バルサラ(ラミ・マレック)は、地元のクラブに出演しているロックバンド、スマイルのブライアン・メイ(グウィリム・リー)とロジャー・テイラー(ベン・ハーディ)に美声を認められ、新バンド「クイーン」のリードボーカルとなる。
殖民地出身の厳格な父親との確執を抱えたフレディは、ファミリーネームも「マーキュリー」と改名。
ベースとしてジョン・ディーコン(ジョセフ・マッゼロ)も加入し、斬新なサウンドを連発するクイーンは次第に人気を博し、ついにはアメリカツアーを成功させると世界的なスーパースターへと駆け上がってゆく。
しかし、裕福となったメンバーたちが家族を持ってゆく中、フレディは一人疎外感を募らせる。
彼には長年付き合っている恋人、メアリー・オースティン(ルーシー・ボーイントン)がいるが、彼女を深く愛する気持ちとは別に、同性に対する性的指向が抑えられなくなっていたのだ。
メアリーと別れたフレディは、スタッフだったポール・プレンター(アレン・リーチ)と交際を始め、それはやがてメンバー間の不仲に繋がってゆく。
そして人気絶頂の80年代、フレディにソロ活動のオファーが届くのだが・・・


おそらく今の日本人で、クイーンの楽曲を全く聴いたことがないという人はいないのではないか。
フレディの没後27年がたつ現在でも、彼のパワフルな歌声はテレビCMやドラマなどで流れ続けている。
数年前のポカリスエットのCMで、オッさんたちがいきなりの「We Will Rock You」を歌い出したのはインパクト絶大だったし、去年もトヨタのミニバンのCMで「We Are The Champions」が、カムリのCMで「Flash」が使われていた。
たとえタイトルを知らなかったとしても、聴けば「ああ、あの曲ね」となるはずで、クイーンのサウンドは世代を問わず、私たちの記憶に自然に刷り込まれているのである。
これは日本だけの現象ではなく、音楽性が高く、とにかくテンションのアガる彼らの楽曲はハリウッドでもよく使われるし、レディー・ガガが「Radio Ga Ga」から自らの芸名をもじったように、クイーンに大きな影響を受けたという人物は枚挙に遑がない。
それほど大きな存在だった伝説のバンドを、時系列に沿ってエピソードをくまなく描こうとすると、とても135分では足りないだろう。

そこで本作は、アフリカ、ザンジバルで生まれたインド系ゾロアスター教徒の青年ファルーク・バルサラが、英国人のロックスター、フレディ・マーキュリーとなり、紆余曲折の末についに”本当の家族”を手に入れるまでの物語に絞った。
ザンジバルの政変を逃れ、イギリス本土に渡った旧植民地からの移民の子であるフレディは、幾つもの葛藤を抱えている。
まずは自らのアイデンティでもある、インド系の血統に関するもの。
「パキスタン人」と蔑まされながら、何者かになりたくて、その才能でチャンスをつかんだフレディは、ファーストネームだけでなく、家族の名をも捨てフレディ・マーキュリーを名乗るのである。
そしてミュージシャンとして成功してからは、抑えてきたバイセクシャルとしての葛藤
劇中で性的指向を告白したフレディに対して、メアリー・オースティンは「あなたはゲイよ」と断言していたが、実際に女性とも付き合っているのだから、やはりバイセクシャルだったのだと思う。
ただ、同性愛は公然の秘密だったが、彼自身は今で言うカミングアウトをすることは無かった。
最後は、苦楽を共にするバンドのメンバーとの音楽的な軋轢だ。
もっとも、メンバーの間で揉めると、誰かが新しい曲のアイディアを出し、それを試している間に皆ノリノリになって仲良しに戻るというパターンが何度も繰り返されるので、基本的には音楽バカたちが仲良くいがみ合っているだけ。
フレディと他のメンバーの間に決定的な亀裂が出来る原因も、音楽性の違いなどが原因ではなく、むしろ彼自身が心を閉ざしたことにある。

野望を抱いた若者たちが成功者となり、やがて異なる道を歩みだすのは王道。
そして一度は袂を分かったメンバーが再び結集するまでの展開も、物語的にも演出的にも特筆するほどの何かがある訳ではない。
もちろん、俳優たちの好演はみものだし、物質的には恵まれながらも孤独に苛まれるフレディの苦悩は感情移入を誘う。
心の底ではしっかりと繋がりながらも、結ばれることのないメアリーとのラブストーリーも切ない。
丁寧に作られていて決して退屈する訳ではないが、どれもよく知られたエピソードでもあり、人間ドラマとして数ある音楽バンドものの予定調和を超えるものではないのだ。
だが、全体の構造を考えるとこれは狙いだろう。
本作の凄さは、二時間近く費やして描いた物語の全ての要素、全ての葛藤をラスト20分に集束させ、クイーンという“家族”の最高のパフォーマンスと共にステージで昇華したことにある。

クライマックスとなるのは、当時世界的な関心事となっていたアフリカ難民の救済を目的に、1985年に開催された伝説のチャリティコンサート、「ライブ・エイド」だ。
イギリスのウェンブリー・スタジアムとアメリカのJFKスタジアムをメイン会場に、綺羅星のごとくスターたちが共演、録画を含めて世界150ヵ国で放送され、数億人が視聴したと言われる、まさに史上最大のショウである。
当時10代だった私は、このコンサートをTVで観た。
次々に現れるスーパースターたちに、ワクワクする高揚感はあったが、やはり遠い国のイベントという感じだった。
ところが、この映画のラスト20分、私は1985年にタイムスリップして、確かにウェンブリー・スタジアムでクイーンのパフォーマンスを“体験”したのだ!
会場を埋め尽くした観衆の上を、カメラがグーッとステージに迫ってゆくダイナミックなショットから、ライブ・エイドを完全再現。
声に関してはさすがにフレディ本人のものを使っているそうだが、ラミ・マレックの成りきりっぷりも見事だ。
よく見ると顔はそんなに似ていないものの、一挙手一投足がどんどんと本人に見えてくる。
「ボヘミアン・ラプソディ」から始まって、「Radio Ga Ga」「ハマー・トゥ・フォール」「伝説のチャンピオン」、現在の映像技術によって再現された33年前のステージは、当時のアナログ放送のクオリティをはるかに超えて、観客を熱狂の渦に迎え入れる。
ぶっちゃけこの20分だけで、十分観る価値はあると思うが、もちろんこの盛り上がりはそこに至るまでの15年分のドラマが”前座”として十分に機能しているがこそ。
それまでのフレディの心の軌跡が歌詞にシンクロして、こちらの感情をガンガンに揺さぶってくる。
聞くところによると、撮影フッテージは実際のライブ・エイドの時と同じ6曲分あるというから、是非円盤の特典にしてもらいたい。

しかし、実際に解散寸前だったクイーンを救ったライブ・エイドをクライマックスにした構成の結果、時系列的に史実と異なる部分が生まれてしまった。
それほど詳しくない私でもロジャー・テイラーの「何年も人前で演奏してない」のセリフには「???(いや、あんたら別に活動休止してなかったやん?)」と思ったし、あの時点ではフレディはAIDSとは診断されていなかったはず。
クイーンの活動を長年追い続けてきたようなファンが観たら、もっといろいろとおかしな部分があるのだろう。
だが、フレディ・マーキュリーという人物の苦悩と解放を真摯に描くというコンセプトに嘘はないし、「史実を元にした映画」は史実そのものではない。
例えばベネット・ミラー監督の「マネーボール」は傑作だが、数十年間の話を一年に凝縮した上に、実在しないキャラクターを作っちゃていて、あれに比べれば本作の改編など可愛いものだ。
やはりアンソニー・マクカーテンが執筆した、「ウィンストン・チャーチル /ヒトラーから世界を救った男」も、核心的な部分の脚色にはかなり創作が入っている。
そもそも「映画一回観て感動して終わり」の人には、それが史実かどうかなんてあまり意味はない。
映画で史実に興味を持った人は、そこから史実のネガティブな部分を含め自分で調べれば良い話で、その意味からも「ボヘミアン・ラプソディ」は最高の入門編だと思う。
本作には音楽プロデューサーとして、ブライアン・メイとロジャー・テイラーも参加しているので、精神性についてはお墨付きということだろう。

ところでこの映画、前述したように監督としてクレジットされているのはブライアン・シンガーなのだが、彼は映画のクランクアップ二週間前に解雇されている。
どうもスタッフ・キャストとの衝突があったようで、スタジオはクローザーとしてデクスター・フレッチャーを雇い、なんとか完成させた。
この様な経緯をたどった作品は、往々にしてどこかがぶっ壊れているものだが、完成した作品を観る限りでは、ドラマ部分の仕上がりがやや緩いものの、トラブルの影はほとんど感じられない
もともとモチーフそのものが、シンガーがこれまで描いてきた作品と符合するし、普通にシンガーっぽいのである。

まあ解雇される前に、かなりの部分は撮り終えていたそうだが、当然彼はポスプロには関わっていない訳で、この完成度の高さは奇跡だ。

今回はボヘミアン繋がりで「ボヘミアン・ドリーム」をチョイス。
アプリコット・ブランデー20ml、グレナデン・シロップ20ml、オレンジ・ジュース10ml、レモン・ジュース1tspをシェイクし、氷入りのタンブラーに注ぐ。
キンキンに冷やしたソーダで満たし、軽くステアして最後にスライスしたオレンジを飾って完成。
甘口のロングカクテルで、ボヘミアン=自由奔放な放浪者のパッションを感じさせる赤が美しい。
 
ちなみに私がクイーンの洗礼を受けたのは、本作では華麗にスルーされていた映画「フラッシュ・ゴードン」を鑑賞した時。

映画は子供心にアホらしかったけど、「曲はカッコいいじゃん!」とレコード買ったのだ(笑

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ROMA/ローマ・・・・・評価額1750円(暫定)
2018年11月10日 (土) | 編集 |
ああ、郷愁のローマよ。

メキシコ黄金世代の鬼才、アルフォンソ・キュアロン監督の最新作は、1970年から71年のメキシコを舞台に、ある裕福な医師の家に住み込みで働く、先住民系の家政婦クレオの物語。

タイトルの「ROMA/ローマ」はイタリアの首都ではなく、メキシコシティの地名だそう。
エリートの両親に一姫三太郎の子供たち、中庭のある家には二人の家政婦とペットの犬もいる。
キュアロン自身の子供時代がモチーフになっていて、年齢的には一家の長男が彼なのだろうが、精神的には前世の記憶を語る三男に自分を重ねている様に思う。
しかし、はじめは満ち足りていて幸せそうな家族に、徐々に暗雲がたち込める。

それと共にクレオ自身にも大きな問題が起こり、彼女と医師家族の葛藤は平行して絡み合ってゆき、その背景に制度的革命党(PRI)一党独裁時代のメキシコ現代史の出来事が配されるという構造だ。
65㎜フィルム撮影、アスペクト比1:2.35のモノクロ映画という、どこから見ても劇場の大スクリーンを想定した作品ながら、原則的にNetflixによるストリーミング配信のみの公開となることも物議を醸した。

1970年のメキシコシティ。
地方出身のクレオ(ヤリャッツァ・アパリシオ)は、裕福な医師のアントニオの家で住み込みの家政婦をしている。
この家に住むのは、アントニオと元大学の生物学教授の妻ソフィア(マリーナ・デ・タビラ)、ソフィアの母のテレサ、三人の男の子と一人の女の子、そして同僚の家政婦アデラ(ナンシー・ガルシア・ガルシア)。
雇い主のアントニオは留守がちだが、クレオは四人の子供たちに慕われて、家事やソフィアの手伝いをしながら平穏無事な毎日が過ぎてゆく。
休日にはアデラと共に遊びに出かけ、アデラの彼氏のいとこだという武道家のフェルミン(ホルヘ・アントニオ・ゲレロ)と出会い、恋に落ちる。
しかしある時、海外出張に行ったはずのアントニオが、実は愛人の家に入り浸っていることが発覚。
幸せだった一家は、大きな転機を迎える。
同じころ、クレオもフェルミンの子供を授かるが、そのことを告げると彼は姿を消してしまう。
取り残されたソフィアとクレオは、共に苦悩を分かち合い、人生の荒波に立ち向かおうとするのだが・・・


70年代、子供の頃メキシコに短期間だが滞在したことがある。
本作を観ながら、街中に犬のウンコがやたらと落ちていたこと、メキシコで生産していたVWビートルがたくさん走っていたこと、スモッグ公害がひどかったこと、ビーチで地元民が大きなウミガメを解体していて、ウミガメ料理をふるまってくれたことなど、懐かしい思い出が蘇ってきた。

アルフォンソ・キュアロンは、少年時代の自分を愛してくれた一人の女性の心象劇を、映画言語を駆使して描く。

渋い人間ドラマなので、「ゼロ・グラビティ」「トゥモロー・ワールド」の様なこれ見よがしなものではないが、冒頭から凝りに凝った映像・音響演出に、もう全く目が離せない。

舞台となる家の、空間設計が秀逸だ。
通りに面した入り口からは細長いトンネル状のガレージとなっていて、そのまま建物に囲まれた中庭に繋がっている。
ガレージと中庭は開けたリビングを中心とした生活空間に面し、二階には家族それぞれの個室。
クレオとアデラの部屋は中庭を挟んだ離れのような二階にある。
キュアロンは、この大きく特徴ある家の構造を演出に巧みに利用。

ファーストカットは敷き詰められたタイルが映し出され、ブラッシングの音から掃除中なのが示唆される。
カメラは真俯瞰で、タイルに大量の水が流されると、水面に四角く切り取られた空が映り、そこに飛行機が飛んでいることで、場所が中庭だと分かるのである。
このビジュアルは、多くのインフォメーションが含まれているだけでなく、ラストカットの中庭から煽り見る空のミラーイメージとなっており、対照的なカメラの向きによって登場人物の心象の変化を見事に表現している。
またキュアロンは、横長のスコープサイズを生かし、全編に渡ってキャラクターの動きに合わせたパン、ドリーを多用。
例えば家の一階のリビングに置かれたカメラがグルッと一回転する間に、家のあちこちから登場人物たちが次々と現れる。
あるいは、街の中を歩く登場人物をフォローすると、カメラの動いてゆく先で思いがけない場面に遭遇する。
ここでは流麗なカメラワークは登場人物のアクションと一体化し、まるで一連の絵巻物を観ているかのごとく。

映像だけでなく、音響演出も素晴らしい。
ものすごく細やかに作り込まれた環境音は、まるで自分が映画の世界に入り込んだからのような臨場感
生活音に満ちた猥雑な街の喧騒、田舎の農場の新年の宴、強風吹きすさぶ寒々しいビーチ。
40年以上前の、私のメキシコでの記憶を呼び起こしたのは、おそらく映像よりもこの音響だと思う。

物語的にはクレオとソフィアの葛藤を軸としたごくパーソナルなものだが、彼女らの日常のドラマの背景として、当時の世相をさりげなく映し出すことで、本作はキュアロンと家族にとってのメキシコ現代史の一ページを描くクロニクルとしての側面を持つ。
印象的なのは生まれてくる赤ん坊のために、テレサと共に家具店を訪れたクレオが、街の騒乱に巻き込まれるシークエンス。
これは1971年に起こった、学生団体のデモを実質的にPRI政権の意を受けた民兵組織が襲撃し、25人が殺された弾圧事件。
この時、クレオは最悪の形でフェルミンと再会するのだが、結果としてこの事件はそれまでの彼女の世界を終わらせ、人生の次なるステップに踏み出せさせることとなる。
そして彼女の物語は、ビーチでの出来事を通して、ソフィアと家族の物語と一体となり、共に愛する者に裏切られ、閉塞した二人の女性の人生には、小さな小さな光が灯る。

映画ファンとして興味深いのは、本作に引用されている映画のチョイスだ。
クレオがフェルミンと観に行くジェラール・ウーリー監督の「大進撃」は、大ヒットしたフランスのコメディ映画。
ナチス占領下のパリ上空で撃墜され、パラシュートで脱出した三人のイギリス兵が、それぞれフランス人たちの助けを借りながらブルゴーニュへと向かい、グライダーで脱出するという話。
ところが、クオレの妊娠を聞いたフェルミンは、そのクライマックスの間に、トイレに行くと偽って彼女の前から“脱出”してしまうというブラック・ジョーク。
また一家の長男が観たがり、アントニオの不貞発覚の一因になるのがジョン・スタージェス監督の「宇宙からの脱出」だ。
これは宇宙ステーション建設のために作業中、故障して帰還不能となった宇宙船アイアンマン1号を、なんとかして救出しようとする物語で、キュアロンの大ヒット作である「ゼロ・グラビティ」の原型とも思える作品。
実際、他のクルーを生き延びさせるための船長の自己犠牲など、似たようなシチュエーションもある。
「大進撃」「宇宙からの脱出」どちらの映画も、非日常からの脱出をモチーフとしているのが面白い。
戦争や宇宙ほど極端ではないが、クオレもソフィア一家も、悪夢的な非日常からささやかな日常への回帰を目指しているのである。

私はこの映画を東京国際映画祭(TIFF)で鑑賞したのだが、何かと評判が悪い映画祭のチケットシステムに、ダメもとでアクセスしてみたらたまたま繋がって、奇跡的にベストシートで観ることができたのは幸運だった。

まだ劇場公開の可能性はゼロではないようだが、これが配信オンリーになってしまうのはあまりにも勿体無い。

凝った環境音など、TVのスピーカーでは半分も再現できないだろうし、横長のアスペクト比を生かしきった動線の演出も、明らかに大画面を前提としたものだ。

しかし現在のシネコンでも、本作を真に楽しめる環境は実は多くないのかもしれない。
TIFFでの上映は、全9スクリーン中5番目のキャパシティのスクリーン3。
人気から言えば最大のスクリーン7でも十分に埋まっただろうが、実際にはスクリーン3での連続上映となったのはなぜか。
現在のシネコンの大型スクリーンは、パッシブ3D上映に対応するためにシルバースクリーンが主流となっているが、これは従来のマットスクリーンなどと比べると画質が落ちる。
2D上映ではメリットはなく、素材特性上どうしてもギラついた印象となるので、本作のような落ち着いたモノクロ映像の再現性は低い。
実際にNetflix側から、シルバースクリーンは不可とのお達しがあったそうで、最大のスクリーン7では上映できなかったのだ。
だから劇場公開しても、本来の意図通りの映像を観客に見せようとすると、上映できるスクリーン自体がかなり限られてしまう。

それでも、ある程度の規模のシネコンなら非シルバースクリーンの箱もあるだろうし、アートシアターの多くもマットタイプのスクリーン。

本作は確かに地味な話で大スターもいないが、既にベネチアの金獅子賞に輝き、これからも世界中の映画祭で賞を取るだろう(もしかしたらアカデミー外国語映画賞も)。

各国でスクリーン数絞って公開したら、それなりにお客は来るのではないか。

まあ監督本人が商業的な憂慮からNetflixに売ったという事実はあるが、これだけの傑作が、本来想定した大スクリーンで観られないのは残念過ぎる。 

Netflixには、文化の担い手として英断を期待したい。
ゆえに本作の評価額は暫定。
日本で劇場公開されたら満点にします。

今回はメキシコの代表的な酒「グサーノ・ロホ メスカル」をチョイス。
メスカルはテキーラと同じリュウゼツラン科の植物から作られる蒸留酒で、テキーラは特定地域で生産されるメスカルの一種。
メキシコ中で作られていて、多くの銘柄でボトルに芋虫が入っているので有名だ。
この芋虫はリュウゼツランに住んでいるもので、もちろん食用。
一説によると芋虫が入っていることで、味が良くなるというが、本当かなあ。
ベーシックな飲み方は、オレンジのスライスにかじりつき、ショットグラスで少しずつメスカルを口に含み味わう。
ちなみにメスカルをグラスに注ぐ時、芋虫が出てくると幸運が訪れるのだそう。
ちょっとヤダけど。

本作とは関係ない話だけど、劇中の「宇宙からの脱出」でちょっと驚いたシーンがあった。
ぶっちゃけ30年くらい前に観たっきりだったので、すっかり忘れていたのだが、宇宙空間で宇宙飛行士がスペースシャトル計画の機動ユニット(MMU)に似た装置を身につけているのだ。
1968年に公開された「2001年宇宙の旅」では、宇宙飛行士が命綱も機動装置も使わずに宇宙遊泳するという、現在から見るとかなり無茶な描写があるのだが、当時の考証としてはこれが精一杯なのかと思っていた。
しかし翌年公開の「宇宙からの脱出」では、ちゃんとMMUが出てくる!と思って調べたらMMUの原型は1966年に完成しているじゃないか。
ということは、やっぱり「2001年宇宙の旅」の描写は考証不足ということになる。
いやもちろん、そうだとしても傑作なんだけどさ・・・。

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ショートレビュー「ヴェノム・・・・・評価額1600円」
2018年11月04日 (日) | 編集 |
ニンゲン、喰いたい。

嘗てサム・ライミ版「スパイダーマン3」にも、ヴィランの一人として登場した人気キャラクター「ヴェノム」の単独作品。
米国での批評はボロボロだが、これはこれで面白いじゃないか。
ディズニー主導のアベンジャーズ系MCUとは異なり、ソニーピクチャーズが権利を持つスパイダーマン系、しかし今回は本編にスパイディが出てこないので、完全に独立した作りになっているのが特徴だ。
原作ではスパイダーマンが異世界で手に入れた黒いコスチュームに由来するキャラクターだったが、今回はリズ・アーメット演じる、ちょっとイーロン・マスクっぽいマッドサイエンティスト、カールトン・ドレイクによって、彗星から持ち帰られた謎生命体“シンビオート”の一体となっている。

ドレイクは人類を他惑星に移住させるために、人間とシンビオートを融合させようとしていて、違法な人体実験を繰り返しているのだが、なかなか適合者がいない。
ところがトム・ハーディ演じる、正義感は強いが猪突猛進型のダメ記者、エディ・ブロックが人体実験を告発するために研究所に侵入したところ、図らずも“ヴェノム”に寄生されて適合してしまう。
無敵の存在となったブロック=ヴェノムは、彼を捕らえようとするドレイクと、サンフランシスコの街で壮絶な大バトルを繰り広げる。

監督が「ゾンビランド」のルーベン・フライシャーだけに、全体にとぼけたユーモアがあるのがいい。
ヴェノムのキャラクターもお茶目で、自分がシンビオートの中では弱小な存在ゆえに、どん底のエディに感情移入。
だんだんと友達みたいになってきて、恋の人生相談まで(笑
あのスライムみたいな生物の世界でも「負け犬」の概念があるのが可笑しいが、種を超えた似た者同士によるバディものの構造になっているのだ。

坂の街サンフランシスコを生かしたバイクチェイスや、複数あるバトルシーンも迫力がある。
反面、ブロックとヴェノムが融合するまでの前半部分は少し冗長で、本来人間を捕食するために地球にやって来たヴェノムが心変わりする動機だとか、宿主に適合する基準なんかもムッチャ適当
特に前半あれだけ適合性云々を言っておいて、終盤ブロックと離れ離れになってしまったヴェノムが、何の問題もなくある人物と融合して、再会を果たすのはあまりにもご都合主義で、SF考証も含めて突っ込みどころは満載。
クライマックスのヴェノムvsドレイクと融合した最強のシンビオート、ライオットとの戦いもちょっとカット割過ぎで見辛い。
批評家的には、一応は批判せざるを得ない部分が多いのは確かだろう。
まあご都合主義に関しては、個人的には元々アメコミってそんなもんだと思うし、緩い部分も嫌いじゃないけど。

しかし、ディテールは予想以上に「寄生獣」な映画だったな。
キャラクターとしてのルーツはヴェノムの方が古いんだけど(原型の黒いコスチュームの登場は1984年、ヴェノムとしての初出は1988年でミギーと同じ年)、バトルシーンの演出やブロックとの共生関係などのテリングは相当に影響を受けていそうだ。
因みに今回は、エンドロールもおまけもやたらと長い。
全部で20分近くあったんじゃないかなあ。
スパイダーマンのキャラクターだということを知らないと、あのおまけは意味不明だろうけど。

今回はヴェノムと同じく黒いカクテル「ブラック・レイン」をチョイス。
リドリー・スコット監督の同名映画から命名されたカクテルで、その名の通り美しい漆黒。
フルート型グラスにスパークリングワインまたはシャンパンを80ml注ぎ、ブラック・サンブーカを20ml静かに加えてごく軽くステアする。
定番の比率は無く、グラスのサイズと好みによって変化する。
サンブーカは香りが強いので、それなりにクセがあるが、香草系が好きな人にはハマる味わいだろう。

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東京国際映画祭2018 まとめのショートショートレビュー
2018年11月03日 (土) | 編集 |
第31回東京国際映画祭の鑑賞作品つぶやきまとめ。
相変わらずのチケットシステムの最悪さには、もはや苦言を言う気も失せた。
だがチケット販売が終わってから、Netflixにより配信オンリーになることが判明したアルフォンソ・キュアロン監督の「ROMA/ローマ」をスクリーンで観られたのは良かった。
この作品に関しては、改めて劇場とネット配信の関係を考えさせられたが、大スクリーンを前提に作られているのは明らかなので、可能であれば是非劇場公開して欲しい。

輝ける日々に・・・・・評価額1600円
「サニー 永遠の仲間たち」のベトナム版リメイク。
日本版同様にプロットはオリジナルに忠実で、テーマ的にも差異は無し。
面白いのは、やはり時代と社会設定のローカライズだ。
韓国版は2011年から民主化前夜の80年代を、日本版は2018年から平成不況の90年代を描いた。
それぞれが社会の転換期だった訳だが、ベトナム版の現在は2000年、過去は1975年で、舞台は南ベトナムの都市ダラット。
2000年はビル・クリントンが米国大統領として戦後初のベトナム訪問をした米越和解の年で、1975年は言うまでもなくベトナム戦争が終結した年。
少女たちの青春の終わりが、そのまま南ベトナムという国の終わりに重なる構図だ。
韓国、日本版と同じく二つの時代の間は描かれないのだけど、国が滅びたのだからその後の彼女らが体験した変化が最も大きいのは本作だろう。
例えばキム・ソンギョンとともさかりえが演じたキャラクターの実家は、本作だと映画スタジオ経営者のブルジョワで、赤化統一後に辿った人生は相当に困難だったのは想像に難くない。
同じCJエンターテイメント製作で、日本とベトナムでリメイクされた「怪しい彼女」も時代性のローカライズが絶妙だったが、これも意味あるリメイクになってる。
やっぱり「歴史のある時点」をモチーフにした映画は、お国事情が出て面白い。
そこに永遠の友情という普遍性がある訳だからね。
監督と主演女優さんも実は幼馴染で、この映画はリアル同窓会だったそう。
雨に唄えばへのオマージュなど、遊び心も楽しい。
2000年を現在にした理由を、監督は「この頃ベトナム人はようやく将来の夢を持てるようになった」と言ってたのが印象的。
この五年前の米国との国交正常化と経済制裁解除で国が豊かになり、実際映画でも結構良い暮らししてる様に見える。
しかしそれでも、日本では「ザ・庶民のクルマ」のトヨタ・カローラが、まさかのショーファードリブンで使われてて、ステータスシンボルなのにはビックリ。
まあ18年経った今はもう変わってるんだろうけど。
こんな異文化ギャップも、外国映画の面白さ。

アジア三面鏡2018:JOURNEY・・・・・評価額1450円
アジアの三監督によるオムニバス、今回のモチーフは「旅」。
中国、ミャンマー、日本を舞台に、三つの小さな旅が描かれる。
デグナー監督による第1話「海」は夫を亡くした妻と、全く性格の違う娘との弔いの旅。
二人はぶつかり合いながらも、喪失を共有してゆく。
ジワリと余韻が広がる佳作。
松永大司監督の第2話「碧朱(へきしゅ)」は鉄道の速度向上のため、ミャンマーに派遣された長谷川博己がヤンゴンの下町を彷徨う。
効率化は本当に必要か?
しかし急激な変化は要らないという人たちも、iPhoneの翻訳を使いこなし、仏像は派手なLED照明で彩られている現実。
変化は常に起こっている。
タイトルは劇中出てくる布の色と同時に、異なるベクトルの心情の象徴だろう。
エドウィン監督の第3話「第三の変数」は、一番の珍品。
問題を抱えたインドネシア人の夫婦が、なぜか雪の東京の民泊で、宿のマネージャーからセックス指南を受ける。
なんだか色々よく分からない話なんだけど、妙なおかしさがあって見入ってしまう。
マネージャー役のニコラス・サプトラだけが、3本全部に出演しているのも謎w
3本とも、ある状態から別の状態への変化を、旅に投影しているのが興味深い。

翳りゆく父・・・・・評価額1450円
まさかの着地点。
ガブリエラ・アマラウ・アウメイダ監督のホラー偏愛が生んだ、不可思議なるスピリチュアルドラマ。
妻が亡くなり孤独に苛まれる父親は、職場の友人の死も重なり、次第に心を病んでしまう。
一方、ネグレクト気味の幼い一人娘ダルヴァは、黒魔術のまじないに夢中。
彼女は、自分なりの方法で家族を再び幸せにしようとする。
物語のベースはブラジルならではの死生観だったり、女たちに流行ってる怪しげなまじないだったりするのだが、劇中でダルヴァが深夜のホラー映画ばっかり観てる様に、ハリウッド系のホラーテイストが奇妙に融合している。
結果として、非常にラテンアメリカ的な土着な要素とジャンル映画的な外連味が融合した、なんとも形容し難い独特の手触りの怪作が出来上がった。
監督によると「死」を語るのはブラジル社会ではタブーだそうだが、描き方が基本陽性なのが面白い。
ハッピーかつブラックなラストも味がある。

テルアビブ・オン・ファイア・・・・・評価額1650円
これ面白い!
アラブ系TV局の放送する、パレスチナの女スパイとイスラエル軍の将軍が恋に落ちるメロドラマが、イスラエル・パレスチナで大ヒット中。
コネでドラマの現場に入ったダメ人間のパレスチナ人青年サラムが、ひょんなことから脚本チームに抜擢される。
しかし、当然ど素人に脚本は書けず、サラムはあろうことか検問所のイスラエル軍将校アッシにアイディアを求めて、なぜかそれが採用されてしまう。
サラムと“ゴーストライター”のアッシは、最初のうちは協力し合うのだが、やがてドラマの結末を巡って対立する。
しかもサラムもだんだんと成長し、自分で書ける様になったことで、二人の間の溝は決定的となってしまう。
これは自分自身の語るべき言葉を持っていない、ダメダメな主人公の王道的な成長物語であるのと同時に、イスラエルとパレスチナの歴史と現状のメタファー。
序盤はコメディ要素が前面に出ていて色々緩いのだが、徐々にサラムの置かれている抑圧的な現状が見えてきて、1967年の第三次中東戦争前夜を描く劇中劇と現代を描く現実パートが、最終的にはテーマ的に融合してくる凝った仕組み。
永遠に終わらない白日夢の様なメロドラマが、イコール永遠の非日常たるイスラエル・パレスチナの紛争に重なる工夫は誠に秀逸だ。
サラムとアッシが揉めたラストも含めて、落とし所が読めないので最後までスリリング。
これは正式公開を望みたい快作。

冷たい汗・・・・・評価額1600円
女子フットサルのイラン代表主将のアフルーズは、国際大会決勝へと向かう空港で、離婚を前提に別居中の夫から出国を禁止されていることを知る。
試合開始まで4日間の夫婦バトルは、監督が実際にある女性アスリートが出国を許されなかったというニュースから着想したそう。
主人公のアズフールも相当勝気で自分から敵を作る性格なんだけど、TVタレントでナルシストの夫がむっちゃワガママでクソ野郎に造形されている。
支配欲の塊で、妻の成功に嫉妬するちっちゃい男。
水と油みたいな二人が結婚したのが不思議なんだけど、人は歳と共に変わるということか。
そもそも夫が妻の出国を拒否できるという理不尽な法律があるのが問題なんだが、悪法でも法。
SNSでは同情を買うが、フットサル連盟や裁判所も含め狡猾な夫に丸め込まれ誰も決定的なことは出来ない。
女の足を引っ張るのが、主人公より地位のある女だったりするのもリアル。
ファルハディ系心理劇とはちょっと違う、かなり物理的にぶつかり合う夫婦喧嘩映画。
タイトルは文字通り日本語の「冷や汗」のこと。
妻と夫、冷や汗をかかされるのは誰なのか。
息詰まる展開に最後まで眼が離せない。
本国では女性の支持を集めて大ヒットしてるそう。

ハード・コア・・・・・評価額1650円
怪作揃いの今年の邦画にまた一本。
狩撫麻礼+いましろたかしのカルトコミック、まさかの映画化。
政治結社の下っ端で、なぜか山で埋蔵金探しをさせられている山田孝之の主人公と荒川良々が、遺棄された謎のロボットを見つける。
人間二人とロボット、ぼっち三人(?)組の奇妙な日常の物語。
しかし佐藤健演じる主人公のエリートの弟が、ロボットの存在を知ったことからドラマが大きく動き出す。
ロボットの造形を含めてかなり原作に忠実で、メインキャストは皆イメージがぴったり。
山田孝之はピュアで真っ直ぐ過ぎるが故に、「間違った世界」に馴染めない。
彼は葛藤を暴力に転化し、廃工場に隠れる様に暮らす荒川良々は、厳格な家庭のプレッシャーから心を病み声を失ってしまった。
そしてロボオと名付けられた不細工なロボットは、人間の腹黒さからは無縁のAIだ。
彼ら三人は裏表がない故に、このドロドロした社会に居場所がない。
希望が潰えたとき、この社会に生きるにはあまりにも無防備で孤独な三人に残された道は何か。
R-15の猥雑な描写の裏側に切ない詩情が流れる、いかにも山下敦弘らしいアングラな手触りでオフビートな寓話。
今回はかなり攻めている。

ROMA/ローマ・・・・・評価額1750円
1970年のメキシコを舞台に、ある裕福な医師の家に住み込みで働く、家政婦のクレオの物語。
タイトルのローマはイタリアではなく、メキシコシティの地名。
アルフォンソ・キュアロンの子供時代がモチーフになっていて、初め幸せそうな家族に徐々に暗雲が立ち込める。
それと共にクレオ自身にも大きな問題が起こり、彼女と医師家族の葛藤は平行して絡み合ってゆき、その背景にPRI一党独裁時代のメキシコ現代史の出来事が配されるという構造。
キュアロンは、子供時代の自分を愛してくれた一人の女性の心象劇を、流麗なカメラワークで活写。
渋い人間ドラマなので、「ゼログラ」や「トゥモロー・ワールド」の様なこれ見よがしなものではないが、ファーストカットからシャレード全開の映像演出に、もう全く目が離せない。
まだ流動的な様ではあるが、これが配信オンリーになってしまうのはあまりにも勿体無い。
凝りに凝った環境音など、TVのスピーカーでは半分も再現できないだろうし、スコープサイズを生かしきった動線の演出も明らかに大画面を前提としたものだ。
確かに地味な話で大スターもいないが、世界中の映画祭で賞を取るだろう(もしかしたらアカデミー外国語映画賞も)。
各国でスクリーン数絞って公開したら、それなりにお客は来るのではないか。
まあ監督本人が売ったという事実はあるが、これだけの傑作が作り手が本来想定したスクリーンで観られないのは残念過ぎる。
Netflixには、文化の担い手として英断を期待したい。
劇場公開されたら満点にします。

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