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2018年12月30日 (日) | 編集 |
2018年の映画を一言で表すと、洋邦ともに「大怪作」だと思う。
SNSとネット配信の普及は、映画会社が企画を立てお金を集め作品を作り、配給会社が宣伝し劇場で公開し、それから円盤なり配信で二次利用するというプロセスが、もはや過去のものになりつつあり、映画そのものの定義も変化していることを如実に感じさせた。
従来型の映画のメインストリームがある一方で、一昔前なら「なんじゃこりゃ!」と言われてキワモノ扱いされるような作品や、今までの方法論に全くこだわらない作品が、ヒットするしないに関わらず続々と登場し、注目を浴びる。
去りゆく2018年とは、そのような年だった。
もっとも、観た時にはインパクト絶大だったが、一年を振り返るとそれほど印象に残っていない作品も多いので、その意味では多様性への過渡期ということなのだろう。
それでは、今年の「忘れられない映画たち」をブログでの紹介順に。
例によって、評価額の高さや作品の完成度は関係なく、あくまでも12月末の時点での“忘れられない度”が基準。
「リメンバー・ミー」メキシコの祭日「死者の日」に、ひょんなことから死者の国に迷い込んだミュージシャン志望の少年ミゲルの冒険譚。極彩色の死者の国の世界観が圧巻で、知られざる家族の絆を軸とした筋立ては、ミステリアスでドラマチック。音楽要素とビジュアルが密接に結びつき、驚くべき未見性に満ちた傑作。
「パディントン2」前作でロンドンに念願の家と家族を見つけたパディントンが、今度は泥棒の濡れ衣を着せられる。パディントンは難民の象徴であり、前作のテーマを踏まえつつ、定住したからこそ分かる新たな葛藤を盛り込む進化形。全ての伏線をパーフェクトに回収してゆく小気味よい展開は、まさに物語のカタルシス。
「リバーズ・エッジ」岡崎京子の傑作を鮮烈に映像化。閉塞した日常を送る6人の高校生。彼らが抱えるのは、同性愛、摂食障害、一方通行の愛、暴力衝動、妊娠。それぞれが抱える痛々しい青春の衝動が事件を起こし、生きるとはどういうことかを問いかけてくる。瀬戸山美咲による脚色が実に巧みで、行定勲の演出もまるで水を得た魚のようだ。
「スリー・ビルボード」ミズーリの片田舎で展開する、珠玉の人間ドラマ。娘を殺された母親が出した、警察批判の三枚のビルボードが小さな街に嵐を引き起こす。軸となる三人、フランシス・マクドーマンド、サム・ロックウェル、ウッディ・ハレルソンが素晴らしい。とことんまで怒らないと、解消出来ないこともあるし、犯した罪は背負って行くしかないのである。
「生きのびるために(The Breadwinner)」原題は「働き手」のこと。タリバン支配下のアフガニスタンを舞台とした異色のアニメーション映画。父が理不尽に逮捕され、女だけになってしまった家族を支えるため、少女パヴァーナは少年の姿で働きに出る。絶対的男性優位社会でしたたかに生きる少女の姿がたくましい。残念ながら日本ではNetflix直行となってしまった。
「悪女/AKUJO」キム・オクビンの、キム・オクビンによる、キム・オクビンのための華麗なる殺戮ショー。アクション映画の新たな地平を切り開く怪作で、冒頭8分に及ぶPOVのワンシーンワンカット風アクションシークエンスに度肝を抜かれる。もうこれ以上は無いだろうと思わせておいて、存分に期待に応えてくれるのだから凄い。
「ブラックパンサー」アフロアメリカン史をバックボーンに持ち、非常に政治的でユニークな視点で描かれるマーベル映画。登場人物の葛藤が長年に渡るアメリカ内部の分断と外交政策の対立のメタファーとなっていて、そのことが小さな王国の従兄弟同士のお家騒動というちっちゃな話に、壮大なスケール感を与えることに繋がっている。
「シェイプ・オブ・ウォーター」映画館の上のアパートに住む、声を失った孤独な女性が、研究所に囚われた大アマゾンの半魚人と恋をする。全編に暗喩が散りばめられ、その一つ一つが回収され意味を持ってくるストーリーテリングが心地よい。どこまでも残酷で優しく美しい、大人のためのメロウな童話は、ギレルモ・デル・トロの最高傑作。
「しあわせの絵の具 愛を描く人 モード・ルイス」カナダの画家モード・ルイスと、リウマチの持病を持つ彼女を支え続けた夫エベレットの物語。30年以上に渡る二人だけの暮らし。どんなに有名になっても、お金持ちになることに興味を持たず、素朴な生き方を変えない二人は、しあわせの本質を知っている。今年大活躍のサリー・ホーキンスとイーサン・ホークが素晴らしい。
「ちはやふる ー結びー」 三部作の有終の美。高校三年生になった瑞沢かるた部の面々が直面するのは、恋と進路という前二作では見え隠れしていた要素。登場人物の成長と共に、前回までの物語に新たな葛藤が加わり、まさしく青春全部入り豪華幕の内弁当の趣き。ここに描かれるのは一生で一度しか手に入ら無い宝物、青春の輝きだ。
「レディ・プレイヤー1」オタクの、オタクによる、オタクのための映画。VRワールド“オアシス”の創業者が、広大な電脳世界のどこかに隠した莫大な遺産を巡り、史上最大の争奪戦が繰り広げられる。キャラクター大集合はもちろん楽しいが、虚構と現実は対立するのではなく、現実を生きるために虚構が必要だという肯定的なジンテーゼに、クリエイターの矜持がにじみ出る。スピルバーグは、トランプの時代に警鐘を鳴らした「ペンダゴン・ペーパーズ 最高機密文書」も流石の仕上がりだった。
「リズと青い鳥」快活で誰とも友人になれる希美と、人付き合いが苦手で、希美以外の親友がいないみぞれ。吹奏楽部に属する二人の少女の心の成長を描く、ごく地味な話なんだけど、何気にもの凄く高度なことをサラッとやってしまっている。山田尚子監督の驚くべき進化に、私は日本アニメーション映画に継承されてゆく高畑イズムを見た。
「フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法」 ディズニー・ワールド近くの安モーテルを舞台に、貧困層の長期滞在者たちの人間模様を、6歳の少女の視点から捉えたヒューマンドラマ。何処へも行けず、未来の展望も無い大人たちの閉塞と、ひどい環境でもどこまでも元気に無邪気な子供たちの日常が作り出す、悲喜劇のコントラストが強烈なインパクト。
「レディ・バード」シアーシャ・ローナン演じるラジカルな女子高生、自称“レディ・バード”のこじらせ気味の青春を描く、グレタ・ガーウィグ監督の愛すべき佳作。どこにでもいる一人の少女が、ズッコケつつも大人への階段を一歩だけ上り、今までとは違った人生の景色を見られる様になるまでを描く、リリカルで味わい深い優れた青春映画だ。
「万引き家族」東京の下町で暮らす、ある大きな秘密を抱えた一家を描く異色作。貧しい生活を送る彼らは、家族ぐるみで万引きなどの軽犯罪を繰り返す。一貫して“家族”をモチーフとしてきた、是枝裕和監督の現時点での集大成と言える作品で、社会保障から抜け落ちた、あるいは社会保障制度そのものを知らない、「見えない人々」の存在が浮き彫りとなる。
「ブリグスビー・ベア」物心つく前に誘拐され、25年もの間地下のシェルターで育った青年、ジェームズ・ポープが主人公。救出され、外の世界への適応に戸惑う彼は、監禁中に唯一見ることを許されていたTVショー「ブリグスビーベア」の続編を自分で作り始める。人生の絶望と救済、現実と虚構に関するビターで美しく、詩的な寓話である。
「カメラを止めるな!」ある意味、今年の日本映画を代表する大怪作。ストーリーを楽しむ言うよりも、構造の仕掛けに驚かされる映画だが、周到に設定された人物描写が、この作品の面白さを単なる一発ネタのサプライズを超えたものにしている。願わくば、本作の様に予想外の大ヒットとなった時、関係者への利益還元が可能なロイヤリティ契約が普及する様になればいいのだが。
「菊とギロチン」かつて実在していたアナーキスト集団「ギロチン社」と、ワケありの女たちが集う女相撲の一座を描く青春群像劇。瀬々敬久監督がインディーズ体制で作り上げた3時間9分の大長編だが、ほぼ100年前の物語が鋭い現在性を持って語りかけて来る。果たして今のこの国の人々は、性差や民族、思想や哲学の違いを超えて、本当の意味で自由に生きているのだろうか。
「ミッション:インポッシブル/フォールアウト」シリーズ初の前作からの続き物は、過去作品のオマージュも満載のミッション:インポッシブル・フルコース。ホメロスの「オデュッセイア」を下敷きに、ストーリー、テリング、キャラクターが極めて高いレベルで三位一体となった、シリーズベスト、スーパーヘビー級の傑作だ。もしかして完結編になるのか?
「ペンギン・ハイウェイ」1988年生まれの新世代、石田祐康監督とスタジオ・コロリドの、見事な長編メジャーデビュー作。小四にしておっぱいを研究する、ちょっと自意識過剰なアオヤマ君と、彼の初恋の人である不思議な“お姉さん”を巡る一夏の冒険の物語は、思春期の恋心を隠し味に、世界の理に対する率直な興味が、夏休みという非日常の中でスパークする。
「プーと大人になった僕」 クリストファー・ロビンが100エーカーの森を去ってから数十年後を描く続編。ブラック企業勤めのくたびれたオヤジとなっていたクリストファーは、突然訪ねてきたプーさんとの冒険を通して子ども心を取り戻してゆく。子どもももちろん楽しめるが、ワーカホリックの日本人には特に響くであろう、大人のための寓話だ。
「若おかみは小学生!」これもSNSが生んだヒット作。事故で両親を失った小学生のおっこが、祖母の経営する温泉旅館で、彼女にしか見えない幽霊たちの助けを借りながら、若おかみとして力強く成長してゆく。一見子ども向けのビジュアルだが、ストーリー的には結構ハードで、終盤の残酷な展開とおっこの出す答えには思わず涙。
「教誨師」故・大杉漣が演じる教誨師が、6人の確定死刑囚と会話する。教誨師は、それぞれに個性的な死刑囚たちとの対話を通し、本当に神の言葉が伝わっているのか、彼らが安らかな死を迎えられるように導けているのか苦悩を深める。人が人を罰するとは、どういうことなのか。文盲の死刑囚が、つたない字で教誨師に送るヨハネによる福音書の言葉が心を打つ。
「ROMA/ローマ」劇場か配信か。こちらは映画のあり方巡って大きな議論を巻き起こした作品。メキシコの鬼才・アルフォンソ・キュアロンの自伝的傑作は、凝りに凝ったビジュアルと音響効果を持つ、どこからどう見ても劇場向けの作品。幸いなことに日本でも劇場で見られそうだが、映画を一つの商品と捉えた場合、観客がどのように受け取るのかの選択肢は可能な限り確保してほしい。
「ボヘミアン・ラプソディ」この秋を代表する大ヒット作にして、今年一番アガる映画。伝説のロックスター、フレディー・マーキュリーの生き様は、数々のヒット曲の歌詞とシンクロし、観る者の心に染み渡る。ラスト20分に渡るライブ・エイド完全再現が圧巻だ。本作とは色々な意味で対照的な、もう一つの音楽映画の快作「アリー/ スター誕生」と両方観るとより面白い。
「生きてるだけで、愛」時に過激で、繊細。ある時は幼く、次の瞬間には妖艶。映画女優・趣里を堪能する映画だ。主人公の寧子は鬱が招く過眠症のため、菅田将暉演じる恋人のアパートでずっとゴロゴロ。しかしある時、アルバイトを始めたことから、ドラマが動き出す。主人公に寄り添った詩的な心象劇であり、プロットは非常にシンプルだが、全く目が離せない。
「A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー」詩的で味わい深い、愛と時間と魂に関する哲学的な寓話である。事故死した夫が、幽霊になって妻を見守る・・というどこかで聞いたような導入部から、全く予想もつかない驚くべき展開を見せる。10万ドルという信じ難い低予算ながら、その時空的なスケールは1000倍の予算の作品でも太刀打ちできまい。ちょっと似たタイトルの、「シシリアン・ゴースト・ストーリー」も本作に通じる詩情がある。
「パッドマン 5億人の女性を救った男」女性の月経が“穢れ”としてタブー視され、生理用品がなかなか普及しないインドで、妻のために安価なナプキン製造機械を発明した男の物語。実話ベースだが、波乱万丈の物語に心を鷲掴みにされる。終盤に国連に招かれた主人公の、片言の英語のスピーチが素晴らしく、ここだけでも観る価値がある。
以上、28/333本。
怪作続出の日本映画はワンショット撮影の「アイスと雨音」、漫画原作の「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」「愛しのアイリーン」、細田守の新境地「未来のミライ」、故・樹木希林が素晴らしかった「日日是好日」、これもインディーズ体制の「斬、」などが印象に残った。
一方、劇場鑑賞で感銘を受けながら、「寝ても覚めても」や「君の鳥はうたえる」などはFilmarksでサボってしまい、ブログ記事にできず、反省。
外国映画は、瑞々しいファースト・ラブストーリー「君の名前で僕を呼んで」や、多民族国家レバノンを舞台とした「判決、ふたつの希望」、万人にお勧めできる寓話「ワンダー 君は太陽」なども迷った。
「ぼくの名前はズッキーニ」や「大人のためのグリム童話 手をなくした少女」といった独創的なアニメーションも素晴らしい。
私は、暗闇で“光”を見つめる神秘の共有体験こそ、原始の時代の洞窟壁画から続く、映画のイデアだと思っているので、映画は映画館で観たいし、このブログも原則的にスクリーンで鑑賞した作品を扱ってきた。
しかし、今はそんなことも言っていられない時代になったのかもしれない。
配信映画がどの国で劇場公開されて、どの国でされないのかは作品や業者によって異なるが、Netflix一つとっても、アレックス・ガーランド監督の「アナイアレイション -絶滅領域-」や、オーストラリア産の異色ゾンビ映画「カーゴ」、コーエン兄弟の西部劇アンソロジー「バスターのバラード」などは是非劇場で見たかった。
「ROMA/ローマ」は日本でも劇場公開される様だが、来年以降はこの「Unforgettable Movies」の記事にも配信映画のカテゴリを加える必要があるかもしれない。
まあ玉石混交でも、作品制作の自由度と選択肢が増えること自体は、歓迎すべきなのは間違いないのだけど。
それではみなさま、よいお年をお迎えください。
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SNSとネット配信の普及は、映画会社が企画を立てお金を集め作品を作り、配給会社が宣伝し劇場で公開し、それから円盤なり配信で二次利用するというプロセスが、もはや過去のものになりつつあり、映画そのものの定義も変化していることを如実に感じさせた。
従来型の映画のメインストリームがある一方で、一昔前なら「なんじゃこりゃ!」と言われてキワモノ扱いされるような作品や、今までの方法論に全くこだわらない作品が、ヒットするしないに関わらず続々と登場し、注目を浴びる。
去りゆく2018年とは、そのような年だった。
もっとも、観た時にはインパクト絶大だったが、一年を振り返るとそれほど印象に残っていない作品も多いので、その意味では多様性への過渡期ということなのだろう。
それでは、今年の「忘れられない映画たち」をブログでの紹介順に。
例によって、評価額の高さや作品の完成度は関係なく、あくまでも12月末の時点での“忘れられない度”が基準。
「リメンバー・ミー」メキシコの祭日「死者の日」に、ひょんなことから死者の国に迷い込んだミュージシャン志望の少年ミゲルの冒険譚。極彩色の死者の国の世界観が圧巻で、知られざる家族の絆を軸とした筋立ては、ミステリアスでドラマチック。音楽要素とビジュアルが密接に結びつき、驚くべき未見性に満ちた傑作。
「パディントン2」前作でロンドンに念願の家と家族を見つけたパディントンが、今度は泥棒の濡れ衣を着せられる。パディントンは難民の象徴であり、前作のテーマを踏まえつつ、定住したからこそ分かる新たな葛藤を盛り込む進化形。全ての伏線をパーフェクトに回収してゆく小気味よい展開は、まさに物語のカタルシス。
「リバーズ・エッジ」岡崎京子の傑作を鮮烈に映像化。閉塞した日常を送る6人の高校生。彼らが抱えるのは、同性愛、摂食障害、一方通行の愛、暴力衝動、妊娠。それぞれが抱える痛々しい青春の衝動が事件を起こし、生きるとはどういうことかを問いかけてくる。瀬戸山美咲による脚色が実に巧みで、行定勲の演出もまるで水を得た魚のようだ。
「スリー・ビルボード」ミズーリの片田舎で展開する、珠玉の人間ドラマ。娘を殺された母親が出した、警察批判の三枚のビルボードが小さな街に嵐を引き起こす。軸となる三人、フランシス・マクドーマンド、サム・ロックウェル、ウッディ・ハレルソンが素晴らしい。とことんまで怒らないと、解消出来ないこともあるし、犯した罪は背負って行くしかないのである。
「生きのびるために(The Breadwinner)」原題は「働き手」のこと。タリバン支配下のアフガニスタンを舞台とした異色のアニメーション映画。父が理不尽に逮捕され、女だけになってしまった家族を支えるため、少女パヴァーナは少年の姿で働きに出る。絶対的男性優位社会でしたたかに生きる少女の姿がたくましい。残念ながら日本ではNetflix直行となってしまった。
「悪女/AKUJO」キム・オクビンの、キム・オクビンによる、キム・オクビンのための華麗なる殺戮ショー。アクション映画の新たな地平を切り開く怪作で、冒頭8分に及ぶPOVのワンシーンワンカット風アクションシークエンスに度肝を抜かれる。もうこれ以上は無いだろうと思わせておいて、存分に期待に応えてくれるのだから凄い。
「ブラックパンサー」アフロアメリカン史をバックボーンに持ち、非常に政治的でユニークな視点で描かれるマーベル映画。登場人物の葛藤が長年に渡るアメリカ内部の分断と外交政策の対立のメタファーとなっていて、そのことが小さな王国の従兄弟同士のお家騒動というちっちゃな話に、壮大なスケール感を与えることに繋がっている。
「シェイプ・オブ・ウォーター」映画館の上のアパートに住む、声を失った孤独な女性が、研究所に囚われた大アマゾンの半魚人と恋をする。全編に暗喩が散りばめられ、その一つ一つが回収され意味を持ってくるストーリーテリングが心地よい。どこまでも残酷で優しく美しい、大人のためのメロウな童話は、ギレルモ・デル・トロの最高傑作。
「しあわせの絵の具 愛を描く人 モード・ルイス」カナダの画家モード・ルイスと、リウマチの持病を持つ彼女を支え続けた夫エベレットの物語。30年以上に渡る二人だけの暮らし。どんなに有名になっても、お金持ちになることに興味を持たず、素朴な生き方を変えない二人は、しあわせの本質を知っている。今年大活躍のサリー・ホーキンスとイーサン・ホークが素晴らしい。
「ちはやふる ー結びー」 三部作の有終の美。高校三年生になった瑞沢かるた部の面々が直面するのは、恋と進路という前二作では見え隠れしていた要素。登場人物の成長と共に、前回までの物語に新たな葛藤が加わり、まさしく青春全部入り豪華幕の内弁当の趣き。ここに描かれるのは一生で一度しか手に入ら無い宝物、青春の輝きだ。
「レディ・プレイヤー1」オタクの、オタクによる、オタクのための映画。VRワールド“オアシス”の創業者が、広大な電脳世界のどこかに隠した莫大な遺産を巡り、史上最大の争奪戦が繰り広げられる。キャラクター大集合はもちろん楽しいが、虚構と現実は対立するのではなく、現実を生きるために虚構が必要だという肯定的なジンテーゼに、クリエイターの矜持がにじみ出る。スピルバーグは、トランプの時代に警鐘を鳴らした「ペンダゴン・ペーパーズ 最高機密文書」も流石の仕上がりだった。
「リズと青い鳥」快活で誰とも友人になれる希美と、人付き合いが苦手で、希美以外の親友がいないみぞれ。吹奏楽部に属する二人の少女の心の成長を描く、ごく地味な話なんだけど、何気にもの凄く高度なことをサラッとやってしまっている。山田尚子監督の驚くべき進化に、私は日本アニメーション映画に継承されてゆく高畑イズムを見た。
「フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法」 ディズニー・ワールド近くの安モーテルを舞台に、貧困層の長期滞在者たちの人間模様を、6歳の少女の視点から捉えたヒューマンドラマ。何処へも行けず、未来の展望も無い大人たちの閉塞と、ひどい環境でもどこまでも元気に無邪気な子供たちの日常が作り出す、悲喜劇のコントラストが強烈なインパクト。
「レディ・バード」シアーシャ・ローナン演じるラジカルな女子高生、自称“レディ・バード”のこじらせ気味の青春を描く、グレタ・ガーウィグ監督の愛すべき佳作。どこにでもいる一人の少女が、ズッコケつつも大人への階段を一歩だけ上り、今までとは違った人生の景色を見られる様になるまでを描く、リリカルで味わい深い優れた青春映画だ。
「万引き家族」東京の下町で暮らす、ある大きな秘密を抱えた一家を描く異色作。貧しい生活を送る彼らは、家族ぐるみで万引きなどの軽犯罪を繰り返す。一貫して“家族”をモチーフとしてきた、是枝裕和監督の現時点での集大成と言える作品で、社会保障から抜け落ちた、あるいは社会保障制度そのものを知らない、「見えない人々」の存在が浮き彫りとなる。
「ブリグスビー・ベア」物心つく前に誘拐され、25年もの間地下のシェルターで育った青年、ジェームズ・ポープが主人公。救出され、外の世界への適応に戸惑う彼は、監禁中に唯一見ることを許されていたTVショー「ブリグスビーベア」の続編を自分で作り始める。人生の絶望と救済、現実と虚構に関するビターで美しく、詩的な寓話である。
「カメラを止めるな!」ある意味、今年の日本映画を代表する大怪作。ストーリーを楽しむ言うよりも、構造の仕掛けに驚かされる映画だが、周到に設定された人物描写が、この作品の面白さを単なる一発ネタのサプライズを超えたものにしている。願わくば、本作の様に予想外の大ヒットとなった時、関係者への利益還元が可能なロイヤリティ契約が普及する様になればいいのだが。
「菊とギロチン」かつて実在していたアナーキスト集団「ギロチン社」と、ワケありの女たちが集う女相撲の一座を描く青春群像劇。瀬々敬久監督がインディーズ体制で作り上げた3時間9分の大長編だが、ほぼ100年前の物語が鋭い現在性を持って語りかけて来る。果たして今のこの国の人々は、性差や民族、思想や哲学の違いを超えて、本当の意味で自由に生きているのだろうか。
「ミッション:インポッシブル/フォールアウト」シリーズ初の前作からの続き物は、過去作品のオマージュも満載のミッション:インポッシブル・フルコース。ホメロスの「オデュッセイア」を下敷きに、ストーリー、テリング、キャラクターが極めて高いレベルで三位一体となった、シリーズベスト、スーパーヘビー級の傑作だ。もしかして完結編になるのか?
「ペンギン・ハイウェイ」1988年生まれの新世代、石田祐康監督とスタジオ・コロリドの、見事な長編メジャーデビュー作。小四にしておっぱいを研究する、ちょっと自意識過剰なアオヤマ君と、彼の初恋の人である不思議な“お姉さん”を巡る一夏の冒険の物語は、思春期の恋心を隠し味に、世界の理に対する率直な興味が、夏休みという非日常の中でスパークする。
「プーと大人になった僕」 クリストファー・ロビンが100エーカーの森を去ってから数十年後を描く続編。ブラック企業勤めのくたびれたオヤジとなっていたクリストファーは、突然訪ねてきたプーさんとの冒険を通して子ども心を取り戻してゆく。子どもももちろん楽しめるが、ワーカホリックの日本人には特に響くであろう、大人のための寓話だ。
「若おかみは小学生!」これもSNSが生んだヒット作。事故で両親を失った小学生のおっこが、祖母の経営する温泉旅館で、彼女にしか見えない幽霊たちの助けを借りながら、若おかみとして力強く成長してゆく。一見子ども向けのビジュアルだが、ストーリー的には結構ハードで、終盤の残酷な展開とおっこの出す答えには思わず涙。
「教誨師」故・大杉漣が演じる教誨師が、6人の確定死刑囚と会話する。教誨師は、それぞれに個性的な死刑囚たちとの対話を通し、本当に神の言葉が伝わっているのか、彼らが安らかな死を迎えられるように導けているのか苦悩を深める。人が人を罰するとは、どういうことなのか。文盲の死刑囚が、つたない字で教誨師に送るヨハネによる福音書の言葉が心を打つ。
「ROMA/ローマ」劇場か配信か。こちらは映画のあり方巡って大きな議論を巻き起こした作品。メキシコの鬼才・アルフォンソ・キュアロンの自伝的傑作は、凝りに凝ったビジュアルと音響効果を持つ、どこからどう見ても劇場向けの作品。幸いなことに日本でも劇場で見られそうだが、映画を一つの商品と捉えた場合、観客がどのように受け取るのかの選択肢は可能な限り確保してほしい。
「ボヘミアン・ラプソディ」この秋を代表する大ヒット作にして、今年一番アガる映画。伝説のロックスター、フレディー・マーキュリーの生き様は、数々のヒット曲の歌詞とシンクロし、観る者の心に染み渡る。ラスト20分に渡るライブ・エイド完全再現が圧巻だ。本作とは色々な意味で対照的な、もう一つの音楽映画の快作「アリー/ スター誕生」と両方観るとより面白い。
「生きてるだけで、愛」時に過激で、繊細。ある時は幼く、次の瞬間には妖艶。映画女優・趣里を堪能する映画だ。主人公の寧子は鬱が招く過眠症のため、菅田将暉演じる恋人のアパートでずっとゴロゴロ。しかしある時、アルバイトを始めたことから、ドラマが動き出す。主人公に寄り添った詩的な心象劇であり、プロットは非常にシンプルだが、全く目が離せない。
「A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー」詩的で味わい深い、愛と時間と魂に関する哲学的な寓話である。事故死した夫が、幽霊になって妻を見守る・・というどこかで聞いたような導入部から、全く予想もつかない驚くべき展開を見せる。10万ドルという信じ難い低予算ながら、その時空的なスケールは1000倍の予算の作品でも太刀打ちできまい。ちょっと似たタイトルの、「シシリアン・ゴースト・ストーリー」も本作に通じる詩情がある。
「パッドマン 5億人の女性を救った男」女性の月経が“穢れ”としてタブー視され、生理用品がなかなか普及しないインドで、妻のために安価なナプキン製造機械を発明した男の物語。実話ベースだが、波乱万丈の物語に心を鷲掴みにされる。終盤に国連に招かれた主人公の、片言の英語のスピーチが素晴らしく、ここだけでも観る価値がある。
以上、28/333本。
怪作続出の日本映画はワンショット撮影の「アイスと雨音」、漫画原作の「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」「愛しのアイリーン」、細田守の新境地「未来のミライ」、故・樹木希林が素晴らしかった「日日是好日」、これもインディーズ体制の「斬、」などが印象に残った。
一方、劇場鑑賞で感銘を受けながら、「寝ても覚めても」や「君の鳥はうたえる」などはFilmarksでサボってしまい、ブログ記事にできず、反省。
外国映画は、瑞々しいファースト・ラブストーリー「君の名前で僕を呼んで」や、多民族国家レバノンを舞台とした「判決、ふたつの希望」、万人にお勧めできる寓話「ワンダー 君は太陽」なども迷った。
「ぼくの名前はズッキーニ」や「大人のためのグリム童話 手をなくした少女」といった独創的なアニメーションも素晴らしい。
私は、暗闇で“光”を見つめる神秘の共有体験こそ、原始の時代の洞窟壁画から続く、映画のイデアだと思っているので、映画は映画館で観たいし、このブログも原則的にスクリーンで鑑賞した作品を扱ってきた。
しかし、今はそんなことも言っていられない時代になったのかもしれない。
配信映画がどの国で劇場公開されて、どの国でされないのかは作品や業者によって異なるが、Netflix一つとっても、アレックス・ガーランド監督の「アナイアレイション -絶滅領域-」や、オーストラリア産の異色ゾンビ映画「カーゴ」、コーエン兄弟の西部劇アンソロジー「バスターのバラード」などは是非劇場で見たかった。
「ROMA/ローマ」は日本でも劇場公開される様だが、来年以降はこの「Unforgettable Movies」の記事にも配信映画のカテゴリを加える必要があるかもしれない。
まあ玉石混交でも、作品制作の自由度と選択肢が増えること自体は、歓迎すべきなのは間違いないのだけど。
それではみなさま、よいお年をお迎えください。

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2018年12月29日 (土) | 編集 |
水が媒介するピュアな愛。
1993年、シチリア島。
当時13歳だったジュセッペ少年が、何者かに誘拐され行方不明となる。
彼の父・サンティーノ・ディ・マッテオは、マフィアの一員でありながら警察に寝返り、情報を漏らし続けており、組織はサンティーノを黙らせるため、ジュセッペを人質にとったのだ。
本作はこの実際に起こった誘拐事件をベースに、思いっきり想像力の翼を広げ、事件により離れ離れとなったジュセッペと彼を愛する少女・ルナの幼い恋の物語を組み合わせた、極めてユニークな幻想怪異譚となっている。
マフィアの揉めごとは、アンタッチャブル。
母親をはじめ、学校の教師たちや周りの大人たちが無関心を装う中、ルナは親友のロレダーナの協力を得て、ジュセッペを探し始める。
息子を奪われても、サンティーノは警察への協力を止めず、ジュセッペの消息は途絶えたまま。
映画は、愛するジュセッペとの再会を決して諦めないルナと、彼女にもらった情熱的なラブレターを唯一の希望に、絶望的な監禁生活を送るジュセッペを交互に描いてゆく。
ルナを少しずつ彼の元へ導くのが、現実とシームレスに描写される不思議な夢だ。
シチリア島は地中海の真っただ中にあり、島内には小さな湖が点在している。
海、湖、雨、そしてルナの家の洞窟状の地下室に少しずつ湧き出る水滴、至る所に描写され、個の様に見えて全てが繋がり合っているこの島の水が、ジュセッペの切なる想いを夢の形で彼女の意識に届ける。
隠れ家から別の隠れ家に移送される途中、ジュセッペが「海の匂いがする!」と叫んだり、ルナとロレダーナが船舶で使われる発光信号で夜に秘密の通信をしたり、水の存在がこの世界では心の媒介となっていることが強調される。
様々な障害を乗り越えながら、ルナは少しずつジュセッペへと迫ってゆく。
しかし私はこの事件の顛末を知らなかったので、犯罪を扱っているとは言え、このリリカルでジュブナイル的な物語がなぜ「R15+」の指定なんだろう?と思っていたら、最後まで見て納得。
いや、まあタイトルがタイトルだし、ジュセッペは最終的には死んでしまうのかもしれないと予想はしていたが、779日も劣悪な環境に監禁された結果、健康を害しミイラのように痩せこけて、最後には用済みとして絞殺され、死体は酸で溶かされて湖に捨てられるとか、あまりにも凄惨過ぎるだろう。
共にシシリアンであるファビオ・グラッサドニアとアントニオ・ピアッツァ両監督にとっても、この痛ましい事件の記憶は深く心に刻まれたという。
実際に起こっていることは物凄くエグいのだが、二人の映画作家は残酷な暴力によって汚され失われた魂を、美しいシチリアのランドスケープの中、少年少女のお互いを想う愛の力が紡ぐ、どこまでもピュアなファンタジーとして詩的に昇華した。
ラストで、ジュセッペが海に消えるのは、魂の浄化を意味しているのだろう。
面白いのは、タイトルの似た「A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー」にちょっと似た部分があること。
もちろん全然違う話なのだが、どちらにも共通するのが幽霊には時間を超える能力があり、「ア・ゴースト・ストーリー」ではケイシー・アフレック演じる幽霊が、過去へ戻って自分が生きていた時間を見守っているし、こちらではすでに幽霊となったジュセッペが、瀕死の自分を見つめている。
映画の前半、物語のキーとなるシーンで、ルナを覗き見るようなショットが幾つか挟まれるが、これも未来に幽霊になったジュセッペの視線ということだろう。
もっとも本作の場合、登場人物が生きているのか死んでいるのか、はたまたその境界なのかが曖昧にされていることもあり、幽霊の解釈自体が違うのかもしれないが。
モチーフに対して独創的なアプローチをとった、非常に攻めた作品であり、洋邦共に怪作揃いの今年の映画納めに相応しい作品だった。
今回は、シチリア島の名産マルサラワインから、「スーペリオーレ ガリバルディ ドルチェ NV ペッレグリーノ」をチョイス。
マルサラはポルトガルのポートワインなどと同じく、ワインにアルコールを添加して度数を高めたいわゆる酒精強化ワイン。
地中海の高温多湿の気候下で、長距離輸送に耐えるように作られている。
ティラミスの材料にも使われるように、フルーティーで甘口。
熟成に使われるオーク樽香のほか、ドライフルーツやスパイス系のアロマも楽しめる。
そのまま飲んでも美味しいし、ソース感覚でスイーツにちよっとかけてもいい。
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1993年、シチリア島。
当時13歳だったジュセッペ少年が、何者かに誘拐され行方不明となる。
彼の父・サンティーノ・ディ・マッテオは、マフィアの一員でありながら警察に寝返り、情報を漏らし続けており、組織はサンティーノを黙らせるため、ジュセッペを人質にとったのだ。
本作はこの実際に起こった誘拐事件をベースに、思いっきり想像力の翼を広げ、事件により離れ離れとなったジュセッペと彼を愛する少女・ルナの幼い恋の物語を組み合わせた、極めてユニークな幻想怪異譚となっている。
マフィアの揉めごとは、アンタッチャブル。
母親をはじめ、学校の教師たちや周りの大人たちが無関心を装う中、ルナは親友のロレダーナの協力を得て、ジュセッペを探し始める。
息子を奪われても、サンティーノは警察への協力を止めず、ジュセッペの消息は途絶えたまま。
映画は、愛するジュセッペとの再会を決して諦めないルナと、彼女にもらった情熱的なラブレターを唯一の希望に、絶望的な監禁生活を送るジュセッペを交互に描いてゆく。
ルナを少しずつ彼の元へ導くのが、現実とシームレスに描写される不思議な夢だ。
シチリア島は地中海の真っただ中にあり、島内には小さな湖が点在している。
海、湖、雨、そしてルナの家の洞窟状の地下室に少しずつ湧き出る水滴、至る所に描写され、個の様に見えて全てが繋がり合っているこの島の水が、ジュセッペの切なる想いを夢の形で彼女の意識に届ける。
隠れ家から別の隠れ家に移送される途中、ジュセッペが「海の匂いがする!」と叫んだり、ルナとロレダーナが船舶で使われる発光信号で夜に秘密の通信をしたり、水の存在がこの世界では心の媒介となっていることが強調される。
様々な障害を乗り越えながら、ルナは少しずつジュセッペへと迫ってゆく。
しかし私はこの事件の顛末を知らなかったので、犯罪を扱っているとは言え、このリリカルでジュブナイル的な物語がなぜ「R15+」の指定なんだろう?と思っていたら、最後まで見て納得。
いや、まあタイトルがタイトルだし、ジュセッペは最終的には死んでしまうのかもしれないと予想はしていたが、779日も劣悪な環境に監禁された結果、健康を害しミイラのように痩せこけて、最後には用済みとして絞殺され、死体は酸で溶かされて湖に捨てられるとか、あまりにも凄惨過ぎるだろう。
共にシシリアンであるファビオ・グラッサドニアとアントニオ・ピアッツァ両監督にとっても、この痛ましい事件の記憶は深く心に刻まれたという。
実際に起こっていることは物凄くエグいのだが、二人の映画作家は残酷な暴力によって汚され失われた魂を、美しいシチリアのランドスケープの中、少年少女のお互いを想う愛の力が紡ぐ、どこまでもピュアなファンタジーとして詩的に昇華した。
ラストで、ジュセッペが海に消えるのは、魂の浄化を意味しているのだろう。
面白いのは、タイトルの似た「A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー」にちょっと似た部分があること。
もちろん全然違う話なのだが、どちらにも共通するのが幽霊には時間を超える能力があり、「ア・ゴースト・ストーリー」ではケイシー・アフレック演じる幽霊が、過去へ戻って自分が生きていた時間を見守っているし、こちらではすでに幽霊となったジュセッペが、瀕死の自分を見つめている。
映画の前半、物語のキーとなるシーンで、ルナを覗き見るようなショットが幾つか挟まれるが、これも未来に幽霊になったジュセッペの視線ということだろう。
もっとも本作の場合、登場人物が生きているのか死んでいるのか、はたまたその境界なのかが曖昧にされていることもあり、幽霊の解釈自体が違うのかもしれないが。
モチーフに対して独創的なアプローチをとった、非常に攻めた作品であり、洋邦共に怪作揃いの今年の映画納めに相応しい作品だった。
今回は、シチリア島の名産マルサラワインから、「スーペリオーレ ガリバルディ ドルチェ NV ペッレグリーノ」をチョイス。
マルサラはポルトガルのポートワインなどと同じく、ワインにアルコールを添加して度数を高めたいわゆる酒精強化ワイン。
地中海の高温多湿の気候下で、長距離輸送に耐えるように作られている。
ティラミスの材料にも使われるように、フルーティーで甘口。
熟成に使われるオーク樽香のほか、ドライフルーツやスパイス系のアロマも楽しめる。
そのまま飲んでも美味しいし、ソース感覚でスイーツにちよっとかけてもいい。



2018年12月28日 (金) | 編集 |
人生を永遠に変える、歌がある。
評判通り、素晴らしい仕上がりだ。
1937年に公開された、ウィリアム・A・ウィルソン監督、ジャネット・ゲイナー主演の「スタア誕生」の、三度目となるリメイク。
オリジナルはハリウッドの映画界の話だが、本作は音楽業界が舞台だし、レディー・ガガ演じるアリーが鼻の大きい女性という辺りも、バーブラ・ストライサンド主演のフランク・ピアソン版「スター誕生」を継承した作品という印象が強い。
しかし、ブラッドリー・クーパー演じるジャクソンのファミリーネームが、オリジナルと同じメインだったり、レディー・ガガが二度目の映画化に主演したジュディー・ガーランドの代表曲「Over the Rainbow」を口ずさんだり、過去の三作品に対するリスペクトとオマージュは欠かさない。
何しろオリジナルを含めて4度も映画化されてる訳だし、オスカーを受賞したフランス映画の「アーティスト」など、ほぼ同一の話型を使った作品も無数にある。
エンターテイメント業界の実力者の男が、才能ある若い女性を見初め、彼女をデビューさせるが、一気にスターダムを駆け上がる女性とは対照的に、男の方はアルコールに溺れて没落してゆく。
多少のディテールの違いはあれど、基本はどれも同じ話の流れ。
ある意味面白さが検証し尽くされた超王道とも言えるが、予期せぬ展開は期待できず物語の新鮮さは限りなくゼロだ。
にもかかわらず、本作を極めて魅力的な作品にしているのは、やはり二人のメインキャラクター、アリーとジャクソンの造形と文句なしに高い音楽性だろう。
実話ベースと完全創作の違いはあれど、似たジャンルで大ヒット中の「ボヘミアン・ラプソディ」が、クライマックスとなるライブ・エイドに全てを絞った作りだったのに対して、こちらは全編に歌がキラキラと散りばめられていて、聞き応えたっぷりの「ザ・音楽映画」だ。
また「ボヘミアン・ラプソディ」が、生前のフレディの声を使い、VFXを駆使して今は建て替えられてしまったウェンブリー・スタジアムでのライブを再現していたのに対し、本作では実際にコンサートが行なわれている会場に、キャストがサプライズ参加する形で撮影されたという。
つまり本作のコンサートシーンは、観客の反応を含めてドキュメンタリー手法の一発勝負で撮られた、完全にリアルな本物のライブなのだ。
歌い慣れているレディー・ガガはともかく、そんな状況下でブラッドリー・クーパーがこんな歌える人だったとは。
やっぱ役者ってすごいわ。
音楽劇としてはもちろん、人間ドラマとしても良くできている。
互いの才能に惹かれ愛し合うアリーとジャクソンの背景に、対照的な家族像があって、それが二人の現在のキャラクターと、歌詞にも強い説得力を与えているのだ。
いぶし銀のサム・エリオットが演じるジャクソンの年の離れた兄、アンソニー・ダイス・クレイの味わい深い演技が印象的なアリーの父親、ロレンツォのキャラクターも素晴らしい。
ジャクソンが耳の障害を抱え、徐々に悪化しているという新設定も、彼のアルコール依存と転落人生の理由を強化している。
アリーを含めて、それぞれのキャラクターに俳優本人の人生がさりげなく投影されていたり、音楽シーンのドキュメンタリー的アプローチは、おそらくクーパーと「アメリカン・スナイパー」で組んだクリント・イーストウッドの影響があるのではないだろうか。
実際、本作の企画は元々イーストウッドがメガホンを取る前提で進められていたという。
ハリウッド大作的にモリモリに盛るのではなく、あくまでも自然に、その人物たちが本当にいるかのようなリアリティとナチュラルさ。
だからこそ、私たちはアリーやジャクソンの魂の歌に涙し、136分の間二人の人生に寄り添える。
新米監督クーパーの演出も、ややぎこちないところもあるが大健闘じゃないだろうか。
むしろ、荒削りな部分があるからこそ、ダイヤの原石が磨き上げられてゆく話には合っていたと思う。
そしてやはりこの作品の成功は、レディー・ガガの存在があってのこと。
歌はもちろんパワフルだし、これは本当にオスカー主演女優賞ノミネートあるかも。
ラストカットの表情は、まさに新たな映画スター誕生を告げる、堂々たるものだった。
今回は、華やかなエンターテイメント業界の話ということで、映画界の名物ファミリー、コッポラ家のワイナリーから「ソフィア ブラン・ド・ブラン スパークリングワイン」をチョイス。
宝石のようなきめ細かな泡が美しく、コストパフォーマンスにも優れる、フルーティで軽やかなスパークリングワイン。
ソフィア・コッポラがスパイク・ジョーンズと結婚した時に、父フランシスが愛娘の名をつけて贈ったという一本。
残念ながら、映画のアリーとジャクソンとは違って、あっさり別れちゃったけどね。
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評判通り、素晴らしい仕上がりだ。
1937年に公開された、ウィリアム・A・ウィルソン監督、ジャネット・ゲイナー主演の「スタア誕生」の、三度目となるリメイク。
オリジナルはハリウッドの映画界の話だが、本作は音楽業界が舞台だし、レディー・ガガ演じるアリーが鼻の大きい女性という辺りも、バーブラ・ストライサンド主演のフランク・ピアソン版「スター誕生」を継承した作品という印象が強い。
しかし、ブラッドリー・クーパー演じるジャクソンのファミリーネームが、オリジナルと同じメインだったり、レディー・ガガが二度目の映画化に主演したジュディー・ガーランドの代表曲「Over the Rainbow」を口ずさんだり、過去の三作品に対するリスペクトとオマージュは欠かさない。
何しろオリジナルを含めて4度も映画化されてる訳だし、オスカーを受賞したフランス映画の「アーティスト」など、ほぼ同一の話型を使った作品も無数にある。
エンターテイメント業界の実力者の男が、才能ある若い女性を見初め、彼女をデビューさせるが、一気にスターダムを駆け上がる女性とは対照的に、男の方はアルコールに溺れて没落してゆく。
多少のディテールの違いはあれど、基本はどれも同じ話の流れ。
ある意味面白さが検証し尽くされた超王道とも言えるが、予期せぬ展開は期待できず物語の新鮮さは限りなくゼロだ。
にもかかわらず、本作を極めて魅力的な作品にしているのは、やはり二人のメインキャラクター、アリーとジャクソンの造形と文句なしに高い音楽性だろう。
実話ベースと完全創作の違いはあれど、似たジャンルで大ヒット中の「ボヘミアン・ラプソディ」が、クライマックスとなるライブ・エイドに全てを絞った作りだったのに対して、こちらは全編に歌がキラキラと散りばめられていて、聞き応えたっぷりの「ザ・音楽映画」だ。
また「ボヘミアン・ラプソディ」が、生前のフレディの声を使い、VFXを駆使して今は建て替えられてしまったウェンブリー・スタジアムでのライブを再現していたのに対し、本作では実際にコンサートが行なわれている会場に、キャストがサプライズ参加する形で撮影されたという。
つまり本作のコンサートシーンは、観客の反応を含めてドキュメンタリー手法の一発勝負で撮られた、完全にリアルな本物のライブなのだ。
歌い慣れているレディー・ガガはともかく、そんな状況下でブラッドリー・クーパーがこんな歌える人だったとは。
やっぱ役者ってすごいわ。
音楽劇としてはもちろん、人間ドラマとしても良くできている。
互いの才能に惹かれ愛し合うアリーとジャクソンの背景に、対照的な家族像があって、それが二人の現在のキャラクターと、歌詞にも強い説得力を与えているのだ。
いぶし銀のサム・エリオットが演じるジャクソンの年の離れた兄、アンソニー・ダイス・クレイの味わい深い演技が印象的なアリーの父親、ロレンツォのキャラクターも素晴らしい。
ジャクソンが耳の障害を抱え、徐々に悪化しているという新設定も、彼のアルコール依存と転落人生の理由を強化している。
アリーを含めて、それぞれのキャラクターに俳優本人の人生がさりげなく投影されていたり、音楽シーンのドキュメンタリー的アプローチは、おそらくクーパーと「アメリカン・スナイパー」で組んだクリント・イーストウッドの影響があるのではないだろうか。
実際、本作の企画は元々イーストウッドがメガホンを取る前提で進められていたという。
ハリウッド大作的にモリモリに盛るのではなく、あくまでも自然に、その人物たちが本当にいるかのようなリアリティとナチュラルさ。
だからこそ、私たちはアリーやジャクソンの魂の歌に涙し、136分の間二人の人生に寄り添える。
新米監督クーパーの演出も、ややぎこちないところもあるが大健闘じゃないだろうか。
むしろ、荒削りな部分があるからこそ、ダイヤの原石が磨き上げられてゆく話には合っていたと思う。
そしてやはりこの作品の成功は、レディー・ガガの存在があってのこと。
歌はもちろんパワフルだし、これは本当にオスカー主演女優賞ノミネートあるかも。
ラストカットの表情は、まさに新たな映画スター誕生を告げる、堂々たるものだった。
今回は、華やかなエンターテイメント業界の話ということで、映画界の名物ファミリー、コッポラ家のワイナリーから「ソフィア ブラン・ド・ブラン スパークリングワイン」をチョイス。
宝石のようなきめ細かな泡が美しく、コストパフォーマンスにも優れる、フルーティで軽やかなスパークリングワイン。
ソフィア・コッポラがスパイク・ジョーンズと結婚した時に、父フランシスが愛娘の名をつけて贈ったという一本。
残念ながら、映画のアリーとジャクソンとは違って、あっさり別れちゃったけどね。



2018年12月27日 (木) | 編集 |
ラルフ、ぶっ壊しすぎて大暴走。
ゲームの世界を舞台とした痛快なCGアニメーション映画、シリーズ第二弾。
前作で悪役稼業に嫌気がさした主人公のラルフは、レースゲームの「シュガー・ラッシュ」のキャラクターで不良プログラムとしていじめられているヴァネロペと出会い、ゲームの世界を救う冒険を通して、初めての親友を得る。
本作では二人の暮らす場末のゲームセンターにWi-Fiが導入され、20世紀風のクローズドな世界から、一気に無限のインターネットへと世界観が拡大。
壊れてしまったシュガー・ラッシュのゲーム機を修理するため、ラルフとヴァネロペの凹凸コンビが、絶版になっているパーツを手に入れようと、ありとあらゆる情報とモノが集まるオンラインワールドへと遠征する。
監督は前作に引き続き続投のリッチ・ムーアに、新たにシリーズの脚本家でもあるフィル・ジョンストンが加わり共同監督を務める。
いかにもお正月映画らしい華やかさに満ちた、老若男女誰にでもオススメできる娯楽大作だ。
※核心部分に触れています。
古典アーケードゲーム「フィックス・イット・フェリックス」の悪役キャラ、壊し屋のラルフ(ジョン・C・ライリー)はレース・ゲーム「シュガー・ラッシュ」のレーサーにしてプリンセス、ヴァネロペ(サラ・シルバーマン)と大親友。
一度は嫌になった悪役稼業も、自分のことをヒーローと思ってくれる彼女がいるから受け入れられる。
ところが、ヴァネロペの退屈を紛らわそうと、調子にのってシュガー・ラッシュのコースに細工をしたことで、現実世界のプレイヤーが力を入れすぎてゲーム機のハンドルを壊してしまう。
修理しようにも、遠い昔に生産中止になったゲーム機のパーツなど、ebayで高値で取引されているものを買うしかない。
店主のリトワクさんは、修理をあきらめてシュガー・ラッシュを廃棄処分にすることを決める。
ラルフとヴァネロペは、なんとか廃棄業者が来る前にハンドルを手に入れようと、最近店に設置されたWi-Fiを通って、広大なインターネットの世界へと足を踏み入れるのだが・・・・
ゲームセンターが閉まっている夜の間、懐かしのゲームのキャラクターたちが、電子世界で気ままに動き回り、一つの社会を形作っているのは、要するに「トイ・ストーリー」のバリエーション。
違いは、おもちゃたちが現実世界に存在しているのに対して、こちらのゲームキャラクターはあくまでも電子的な存在ということ。
人間とゲームのキャラクターの間にはある種の“世界の壁”が存在して、決してお互いに行き来することはできなかった。
ところが、「シュガー・ラッシュ:オンライン」という邦題通り、今回二つの世界はインターネットという新たな地平で融合を見るのである。
ここでは、ゲームキャラクターはそのままの姿だが、人間もまたアバターとして同じ空間に存在しているのだ。
ガラパゴス・ジャパンでは、いまだに大手資本のゲームセンターがしっかり生き残っているが、米国ではレンタルビデオ店やCD店などと同様に、ほぼ絶滅状態。
シュガー・ラッシュのハンドルがebayで200ドルで売られているのを見た店主のリトワクさんが、「このゲームの一年間の売り上げより高い!」と言って諦めるのが、細々と生き残っている個人経営のゲームセンターのリアルな実情だろう。
彼の店にあるのは80年代、90年代の古典的なゲームがほとんどだが、使っているパソコンまでスケルトンの初代iMacなのがおかしい。
まあ、メールとワープロにネット閲覧くらいなら、今でも使えるのだろうけど。
シュラー・ラッシュのハンドルが、インターネットという所にあるebayという店で買えることを知ったラルフとヴァネロペは、Wi-Fiを通って未知の世界へと足を踏み入れる。
ネットの世界をカリカチュアした作品は、例えば「絵文字の国のジーン」など、今までも幾つかあったが、本作の世界観はさすが素晴らしい仕上がりで、見ているだけでワクワクする。
GoogleやTwitterなどの企業が、いかにもという形で表現されていて、検索エンジンのノウズモアや、ポップアップ広告屋のJP・スパムリーなど、ネットの世界の様々な機能が絶妙に擬人化されているのも楽しい。
ヴァネロペが、デンジャラスなレースゲーム「スローターレース」に出場して高値で売れるアイテムを奪おうとしたり、ラルフがYouTubeみたいな動画SNS「バズチューブ」に動画をアップして、ハートをもらって広告費を稼ごうとしたり、ネット世界のあるあるネタが満載だ。
この辺りは前作のマニアックなゲームへの拘りを、うまい具合にネットの世界のカリカチュアに移し変えているのだが、エンターテイメントとしての間口は確実に広がっている。
しかし、パーツを買うための冒険はまだ序の口。
本作の核心は、広大なネットの世界に触れたヴァネロペが、元のゲーセンに戻りたくなくなってしまい、そのことにショックを受けて色々こじらせたラルフが、いかにして葛藤を乗り越えるかというプロセスだ。
前作のラルフは、それぞれのキャラクターの役割が明確に決められたゲームの世界で、ヴァネロペのヒーローとなったことで、“悪役”という決して壊せない社会的な縛りを精神的にブレイクスルーし、内面の自由を得る。
ところが今回は、毎回同じことしか出来ない閉ざされたゲームの世界に閉塞していたヴァネロペが、常に新しい刺激を味わえるオンラインのレースゲームに参戦し、自分の未来に無限の選択肢があることを知ってしまうのだ。
ラルフは、孤独なキャラクター生に、やっと出来た“親友”を失う危機に直面するのである。
これ実は、今年公開された山田尚子監督の青春アニメーションの傑作、「リズと青い鳥」に非常によく似た構造だ。
高校の吹奏楽部を描くあの映画では、人付き合いが苦手なオーボエ奏者のみぞれが、唯一の親友でフルート奏者の希望を卒業によって失うことを恐れるあまり、うまく演奏できなくなってしまう。
非リア充で寂しがり屋の主人公が、社交的で新しいもの好き、誰とでも友だちになれる相方に執着すると、どうなるのか。
ラルフの誇りであり、希望である“ヒーローのメダル”が本作でも重要なキーアイテムだ。
ヴァネロペを失いたくないラルフは、あろうことか彼女が夢中になっているスローターレースにウィルスを仕込んでつまらなくすることで、彼女の関心を無くそうとするのだが、親友の未来を閉ざすことでつなぎ止めようとする卑劣な行為により、大切なヒーローのメダルは割れてしまう。
そして、ラルフの心の歪みを映し出すかのように、実体化したウィルスは巨大なラルフ自身の姿となって、インターネットの世界を襲うのである。
そう、本作には悪役はおらず、ラルフがぶっ壊さなければならないのは、自分自身の悪しき心なのだ。
ディズニーのアニメーション映画でもおっさんは保守的で、若い子は新しい冒険を好むのは、おっさんとしてはステロタイプを感じるが、まあ否定は出来まい。
この二人の見た目の年齢差は、固定された筐体から決して出られない嘗てのビデオゲームから、常に最新版に更新され続け、世界中から接続できるオンラインゲームへの進化を象徴していていて面白い。
そして、ようやく自らの過ちに気づき、未来へと向かうヴァネロペの背中を押すラルフもまた、別れていてもいつでもどこでもつながれるというインターネットのユビキタス性によって救われ、二つに割れたヒーローのメダルはラルフとヴァネロペが半分ずつ持つことで、新たな意味を獲得するのだ。
「シュガー・ラッシュ:オンライン」は、前作で描かれた過去のゲーム史観から、オンラインゲームという現在、そして未来への展開を、ラルフとヴァネロペのそれぞれの選択のドラマとして、見事に昇華した。
故スタン・リーの登場は嬉しい偶然なのだろうけど、マーベルからルーカスフィルまで、なんでも持っているエンタメ帝国ディズニーならではのビジュアルも楽しく、プリンセス軍団も予告編の通り、いやそれ以上に大活躍だ。
ところで「予告編にあったシーンが本編に無いと悲しい」はその通りだと思うけど、あのオマケは下手したらトラウマもんだろう。
「ズートピア」とかで最近は道徳的なイメージがあるが、リッチ・ムーアが「ザ・シンプソンズ」の監督だったのをいきなり思い出したわ(笑
ちゅうかあのラルフ、完全にウィルス化したままになってない?
今回はシュガー・ラッシュのお菓子より甘い、イタリアはトスカーナから「カンピ ヌオーヴィ ソリエ」をチョイス。
完熟後に糖度が上がった有機陰干し葡萄を使った、美しいゴールドのデザートワイン。
様々なフルーツにチョコレートのような香り、ナチュラルなキャラメルのような甘みが長く続く。2000年に設立された比較的新しい銘柄だが、近年世界的に高い評価を得ている。
記事が気に入ったらクリックしてね
ゲームの世界を舞台とした痛快なCGアニメーション映画、シリーズ第二弾。
前作で悪役稼業に嫌気がさした主人公のラルフは、レースゲームの「シュガー・ラッシュ」のキャラクターで不良プログラムとしていじめられているヴァネロペと出会い、ゲームの世界を救う冒険を通して、初めての親友を得る。
本作では二人の暮らす場末のゲームセンターにWi-Fiが導入され、20世紀風のクローズドな世界から、一気に無限のインターネットへと世界観が拡大。
壊れてしまったシュガー・ラッシュのゲーム機を修理するため、ラルフとヴァネロペの凹凸コンビが、絶版になっているパーツを手に入れようと、ありとあらゆる情報とモノが集まるオンラインワールドへと遠征する。
監督は前作に引き続き続投のリッチ・ムーアに、新たにシリーズの脚本家でもあるフィル・ジョンストンが加わり共同監督を務める。
いかにもお正月映画らしい華やかさに満ちた、老若男女誰にでもオススメできる娯楽大作だ。
※核心部分に触れています。
古典アーケードゲーム「フィックス・イット・フェリックス」の悪役キャラ、壊し屋のラルフ(ジョン・C・ライリー)はレース・ゲーム「シュガー・ラッシュ」のレーサーにしてプリンセス、ヴァネロペ(サラ・シルバーマン)と大親友。
一度は嫌になった悪役稼業も、自分のことをヒーローと思ってくれる彼女がいるから受け入れられる。
ところが、ヴァネロペの退屈を紛らわそうと、調子にのってシュガー・ラッシュのコースに細工をしたことで、現実世界のプレイヤーが力を入れすぎてゲーム機のハンドルを壊してしまう。
修理しようにも、遠い昔に生産中止になったゲーム機のパーツなど、ebayで高値で取引されているものを買うしかない。
店主のリトワクさんは、修理をあきらめてシュガー・ラッシュを廃棄処分にすることを決める。
ラルフとヴァネロペは、なんとか廃棄業者が来る前にハンドルを手に入れようと、最近店に設置されたWi-Fiを通って、広大なインターネットの世界へと足を踏み入れるのだが・・・・
ゲームセンターが閉まっている夜の間、懐かしのゲームのキャラクターたちが、電子世界で気ままに動き回り、一つの社会を形作っているのは、要するに「トイ・ストーリー」のバリエーション。
違いは、おもちゃたちが現実世界に存在しているのに対して、こちらのゲームキャラクターはあくまでも電子的な存在ということ。
人間とゲームのキャラクターの間にはある種の“世界の壁”が存在して、決してお互いに行き来することはできなかった。
ところが、「シュガー・ラッシュ:オンライン」という邦題通り、今回二つの世界はインターネットという新たな地平で融合を見るのである。
ここでは、ゲームキャラクターはそのままの姿だが、人間もまたアバターとして同じ空間に存在しているのだ。
ガラパゴス・ジャパンでは、いまだに大手資本のゲームセンターがしっかり生き残っているが、米国ではレンタルビデオ店やCD店などと同様に、ほぼ絶滅状態。
シュガー・ラッシュのハンドルがebayで200ドルで売られているのを見た店主のリトワクさんが、「このゲームの一年間の売り上げより高い!」と言って諦めるのが、細々と生き残っている個人経営のゲームセンターのリアルな実情だろう。
彼の店にあるのは80年代、90年代の古典的なゲームがほとんどだが、使っているパソコンまでスケルトンの初代iMacなのがおかしい。
まあ、メールとワープロにネット閲覧くらいなら、今でも使えるのだろうけど。
シュラー・ラッシュのハンドルが、インターネットという所にあるebayという店で買えることを知ったラルフとヴァネロペは、Wi-Fiを通って未知の世界へと足を踏み入れる。
ネットの世界をカリカチュアした作品は、例えば「絵文字の国のジーン」など、今までも幾つかあったが、本作の世界観はさすが素晴らしい仕上がりで、見ているだけでワクワクする。
GoogleやTwitterなどの企業が、いかにもという形で表現されていて、検索エンジンのノウズモアや、ポップアップ広告屋のJP・スパムリーなど、ネットの世界の様々な機能が絶妙に擬人化されているのも楽しい。
ヴァネロペが、デンジャラスなレースゲーム「スローターレース」に出場して高値で売れるアイテムを奪おうとしたり、ラルフがYouTubeみたいな動画SNS「バズチューブ」に動画をアップして、ハートをもらって広告費を稼ごうとしたり、ネット世界のあるあるネタが満載だ。
この辺りは前作のマニアックなゲームへの拘りを、うまい具合にネットの世界のカリカチュアに移し変えているのだが、エンターテイメントとしての間口は確実に広がっている。
しかし、パーツを買うための冒険はまだ序の口。
本作の核心は、広大なネットの世界に触れたヴァネロペが、元のゲーセンに戻りたくなくなってしまい、そのことにショックを受けて色々こじらせたラルフが、いかにして葛藤を乗り越えるかというプロセスだ。
前作のラルフは、それぞれのキャラクターの役割が明確に決められたゲームの世界で、ヴァネロペのヒーローとなったことで、“悪役”という決して壊せない社会的な縛りを精神的にブレイクスルーし、内面の自由を得る。
ところが今回は、毎回同じことしか出来ない閉ざされたゲームの世界に閉塞していたヴァネロペが、常に新しい刺激を味わえるオンラインのレースゲームに参戦し、自分の未来に無限の選択肢があることを知ってしまうのだ。
ラルフは、孤独なキャラクター生に、やっと出来た“親友”を失う危機に直面するのである。
これ実は、今年公開された山田尚子監督の青春アニメーションの傑作、「リズと青い鳥」に非常によく似た構造だ。
高校の吹奏楽部を描くあの映画では、人付き合いが苦手なオーボエ奏者のみぞれが、唯一の親友でフルート奏者の希望を卒業によって失うことを恐れるあまり、うまく演奏できなくなってしまう。
非リア充で寂しがり屋の主人公が、社交的で新しいもの好き、誰とでも友だちになれる相方に執着すると、どうなるのか。
ラルフの誇りであり、希望である“ヒーローのメダル”が本作でも重要なキーアイテムだ。
ヴァネロペを失いたくないラルフは、あろうことか彼女が夢中になっているスローターレースにウィルスを仕込んでつまらなくすることで、彼女の関心を無くそうとするのだが、親友の未来を閉ざすことでつなぎ止めようとする卑劣な行為により、大切なヒーローのメダルは割れてしまう。
そして、ラルフの心の歪みを映し出すかのように、実体化したウィルスは巨大なラルフ自身の姿となって、インターネットの世界を襲うのである。
そう、本作には悪役はおらず、ラルフがぶっ壊さなければならないのは、自分自身の悪しき心なのだ。
ディズニーのアニメーション映画でもおっさんは保守的で、若い子は新しい冒険を好むのは、おっさんとしてはステロタイプを感じるが、まあ否定は出来まい。
この二人の見た目の年齢差は、固定された筐体から決して出られない嘗てのビデオゲームから、常に最新版に更新され続け、世界中から接続できるオンラインゲームへの進化を象徴していていて面白い。
そして、ようやく自らの過ちに気づき、未来へと向かうヴァネロペの背中を押すラルフもまた、別れていてもいつでもどこでもつながれるというインターネットのユビキタス性によって救われ、二つに割れたヒーローのメダルはラルフとヴァネロペが半分ずつ持つことで、新たな意味を獲得するのだ。
「シュガー・ラッシュ:オンライン」は、前作で描かれた過去のゲーム史観から、オンラインゲームという現在、そして未来への展開を、ラルフとヴァネロペのそれぞれの選択のドラマとして、見事に昇華した。
故スタン・リーの登場は嬉しい偶然なのだろうけど、マーベルからルーカスフィルまで、なんでも持っているエンタメ帝国ディズニーならではのビジュアルも楽しく、プリンセス軍団も予告編の通り、いやそれ以上に大活躍だ。
ところで「予告編にあったシーンが本編に無いと悲しい」はその通りだと思うけど、あのオマケは下手したらトラウマもんだろう。
「ズートピア」とかで最近は道徳的なイメージがあるが、リッチ・ムーアが「ザ・シンプソンズ」の監督だったのをいきなり思い出したわ(笑
ちゅうかあのラルフ、完全にウィルス化したままになってない?
今回はシュガー・ラッシュのお菓子より甘い、イタリアはトスカーナから「カンピ ヌオーヴィ ソリエ」をチョイス。
完熟後に糖度が上がった有機陰干し葡萄を使った、美しいゴールドのデザートワイン。
様々なフルーツにチョコレートのような香り、ナチュラルなキャラメルのような甘みが長く続く。2000年に設立された比較的新しい銘柄だが、近年世界的に高い評価を得ている。



2018年12月22日 (土) | 編集 |
彼女が、本当に描きたかったこと。
19世紀ゴシック小説の傑作「フランケンシュタイン」はなぜ生まれたのか。
作家を志す16歳の才媛メアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィンが、後の夫となる若き詩人パーシー・シェリーと出会い、伝説となる小説を世に出すまでの2年間の物語。
たった2年だが、普通の人の一生分が濃縮された様な波乱万丈の青春だ。
「フランケンシュタイン」誕生に纏わる話は、19世紀イギリスを代表する詩人、バイロン卿の屋敷で、メアリーを含む五人の才人がお互いに怪奇譚を披露しあった、いわゆる「ディオダディ荘の怪奇談義」をモチーフとした、ケン・ラッセル監督の「ゴシック」が有名。
本作にもこのエピソードは出てくるが、全くアプローチが異なる。
「少女は自転車にのって」が記憶に新しいハイファ・アル=マンスール監督と脚本のエマ・ジェンセンは、女性解放史の視点からメアリーの特異な人生を描く。
メアリーの父、ウィリアム・ゴドウィンは著名な政治評論家で、母のメアリー・ウルストンクラフトは社会思想家にして、フェミニズムの先駆者。
共にそれぞれのフィールドで重要な著作を残した文筆家でもあり、経済的には恵まれていなかったが、当時の最も進歩的な知識人だろう。
母メアリーは早くに亡くなってしまうが、二人の血を受け継いだメアリーもまた、時代を考えれば相当にラジカルな思想の持ち主だったようだ。
両親の教え通り独立独歩、16歳で既婚者のパーシーと駆け落ちしたメアリーを待ち受けるのは、とてもじゃないが、順風満帆とは言えない現実。
信じていたパーシーは、詩人としての才能はあるものの、女ったらしのダメ男なのだ。
二人の間に子供ができても、経済観念はまるでなく、毎日を楽しく過ごした挙句に夜逃げを余儀なくされ、自由恋愛を口実に浮気を肯定。
裏切りと貧困は愛する最初の子の死をもたらし、失意のメアリーは、死体の蘇生という当時最新の“科学”に惹かれてゆく。
そして、彼女の中に「人真似ではなく、自分の言葉で書きたいもの」が徐々に形を表してゆくのである。
この映画は、男性優位社会の中で抑圧され、人生を思い通りに生きられない女性の魂の叫びとして、メアリーの創造した小説を捉える。
小説の中で、自らの理想を叶えるべく死体をつなぎ合わせて怪物を作り上げながら、そのおぞましい姿に絶望し、無責任に捨てるフランケンシュタイン博士は、女性に理想を押し付けて、自分は好き勝手に生きているパーシーを始めとする男性たち。
創造主を追い続け、ついに彼の人生を破滅させる悲劇の怪物こそ、メアリー自身なのである。
映画の終盤、メアリーの書いた原稿を読んだパーシーは、作品そのものは賞賛しながらも、そのあまりにも救いのない内容を、希望を持てるものに修正したらどうかと提案するのだが、メアリーは激しく拒絶する。
なぜなら、これは彼女の人生の絶望をこそを描いた物語だからだ。
しかも作品が完成しても、メアリーの苦闘は終わらない。
今度は「若い女が書いた怪奇小説なんて」と、大手出版社から取り合ってもらえず、ようやく版元が見つかっても、作者の匿名が条件とされ、名前を奪われた挙句に、パーシーに序文を依頼せざるを得なくなる屈辱を味わう。
タイトルロールを演じるエル・ファニングが素晴らしく、緻密に作りこまれた200年前の世界観の中で、映画は非常に丁寧に彼女の感情を紡いでゆき、それはそのまま小説の読み解きとなる構造。
正直「フランケンシュタイン」という作品に対する、この作品の視点は考えたことすら無かったのでとても新鮮。
もっとも、映画ではメアリーが悶々とした感情をぶつけ、一人で小説を書き上げたことになっているが、実際には彼女はパーシーの細かなアドバイスを受けながら書いている。
彼が女ったらしのダメ男だったのは事実の様だし、すれ違っていた二人が最後の最後で男女として創作者として分かり合える、という展開にしたかったのだろうが、男目線で見るとちょっと下げられすぎて可哀想だったな(苦
しかし「メアリーの総て」とは、とても良い邦題だ。
「フランケンシュタイン」という作品には、たしかにメアリーの想いの総てが描かれているのだから。
今回は、メアリーの書いた怪奇小説の話なので「ブラッディ・メアリー」をチョイス。
もちろんメアリー・シェリーのことではなく、プロテスタントを弾圧し、数百人の宗教指導者を処刑した事で知られる英国の女王メアリー一世の名にちなんでいる。
氷を入れたタンブラーにウオッカ40mlと冷やしたトマトジュース160mlを注ぐ。
好みでタバスコや塩を添えたり、トマトソース感覚でセロリを入れたりしても楽しい。
血の様な見た目とは違って、さっぱりして飲みやすい。
記事が気に入ったらクリックしてね
19世紀ゴシック小説の傑作「フランケンシュタイン」はなぜ生まれたのか。
作家を志す16歳の才媛メアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィンが、後の夫となる若き詩人パーシー・シェリーと出会い、伝説となる小説を世に出すまでの2年間の物語。
たった2年だが、普通の人の一生分が濃縮された様な波乱万丈の青春だ。
「フランケンシュタイン」誕生に纏わる話は、19世紀イギリスを代表する詩人、バイロン卿の屋敷で、メアリーを含む五人の才人がお互いに怪奇譚を披露しあった、いわゆる「ディオダディ荘の怪奇談義」をモチーフとした、ケン・ラッセル監督の「ゴシック」が有名。
本作にもこのエピソードは出てくるが、全くアプローチが異なる。
「少女は自転車にのって」が記憶に新しいハイファ・アル=マンスール監督と脚本のエマ・ジェンセンは、女性解放史の視点からメアリーの特異な人生を描く。
メアリーの父、ウィリアム・ゴドウィンは著名な政治評論家で、母のメアリー・ウルストンクラフトは社会思想家にして、フェミニズムの先駆者。
共にそれぞれのフィールドで重要な著作を残した文筆家でもあり、経済的には恵まれていなかったが、当時の最も進歩的な知識人だろう。
母メアリーは早くに亡くなってしまうが、二人の血を受け継いだメアリーもまた、時代を考えれば相当にラジカルな思想の持ち主だったようだ。
両親の教え通り独立独歩、16歳で既婚者のパーシーと駆け落ちしたメアリーを待ち受けるのは、とてもじゃないが、順風満帆とは言えない現実。
信じていたパーシーは、詩人としての才能はあるものの、女ったらしのダメ男なのだ。
二人の間に子供ができても、経済観念はまるでなく、毎日を楽しく過ごした挙句に夜逃げを余儀なくされ、自由恋愛を口実に浮気を肯定。
裏切りと貧困は愛する最初の子の死をもたらし、失意のメアリーは、死体の蘇生という当時最新の“科学”に惹かれてゆく。
そして、彼女の中に「人真似ではなく、自分の言葉で書きたいもの」が徐々に形を表してゆくのである。
この映画は、男性優位社会の中で抑圧され、人生を思い通りに生きられない女性の魂の叫びとして、メアリーの創造した小説を捉える。
小説の中で、自らの理想を叶えるべく死体をつなぎ合わせて怪物を作り上げながら、そのおぞましい姿に絶望し、無責任に捨てるフランケンシュタイン博士は、女性に理想を押し付けて、自分は好き勝手に生きているパーシーを始めとする男性たち。
創造主を追い続け、ついに彼の人生を破滅させる悲劇の怪物こそ、メアリー自身なのである。
映画の終盤、メアリーの書いた原稿を読んだパーシーは、作品そのものは賞賛しながらも、そのあまりにも救いのない内容を、希望を持てるものに修正したらどうかと提案するのだが、メアリーは激しく拒絶する。
なぜなら、これは彼女の人生の絶望をこそを描いた物語だからだ。
しかも作品が完成しても、メアリーの苦闘は終わらない。
今度は「若い女が書いた怪奇小説なんて」と、大手出版社から取り合ってもらえず、ようやく版元が見つかっても、作者の匿名が条件とされ、名前を奪われた挙句に、パーシーに序文を依頼せざるを得なくなる屈辱を味わう。
タイトルロールを演じるエル・ファニングが素晴らしく、緻密に作りこまれた200年前の世界観の中で、映画は非常に丁寧に彼女の感情を紡いでゆき、それはそのまま小説の読み解きとなる構造。
正直「フランケンシュタイン」という作品に対する、この作品の視点は考えたことすら無かったのでとても新鮮。
もっとも、映画ではメアリーが悶々とした感情をぶつけ、一人で小説を書き上げたことになっているが、実際には彼女はパーシーの細かなアドバイスを受けながら書いている。
彼が女ったらしのダメ男だったのは事実の様だし、すれ違っていた二人が最後の最後で男女として創作者として分かり合える、という展開にしたかったのだろうが、男目線で見るとちょっと下げられすぎて可哀想だったな(苦
しかし「メアリーの総て」とは、とても良い邦題だ。
「フランケンシュタイン」という作品には、たしかにメアリーの想いの総てが描かれているのだから。
今回は、メアリーの書いた怪奇小説の話なので「ブラッディ・メアリー」をチョイス。
もちろんメアリー・シェリーのことではなく、プロテスタントを弾圧し、数百人の宗教指導者を処刑した事で知られる英国の女王メアリー一世の名にちなんでいる。
氷を入れたタンブラーにウオッカ40mlと冷やしたトマトジュース160mlを注ぐ。
好みでタバスコや塩を添えたり、トマトソース感覚でセロリを入れたりしても楽しい。
血の様な見た目とは違って、さっぱりして飲みやすい。



2018年12月18日 (火) | 編集 |
愛する彼女の危機を救え!
アメリカにはスーパーマン、スパイダーマンが、しかしインドにはその名も「パッドマン」がいる!
女性の月経が“穢れ”としてタブー視され、生理用品がなかなか普及しないインドで、妻のために安価なナプキン製造機械を発明した男の物語。
この人とにかく愛妻家で、彼女が生理のたびに不衛生な布を使ってしのいでいるのが心配でならない。
もともと日用品を作る町工場に勤務していて、手先が器用。
市販のナプキンは庶民には高すぎて買えないので、なら自分で作ろうとするのだが、モノがモノだけに気持ち悪がられ、愛妻を含めた女性たちから総スカン。
助けたいと思う相手からの拒絶にも、正しいことをしたいという信念はブレないが、猪突猛進気味の主人公は、やり過ぎて遂に全てを失ってしまうのだ。
実際に安価なナプキン製造機械を発明し、普及させたアルナーチャラム・ムルガナンダム氏の実話をベースに、R・バールキが監督・脚本を務め、アクシャイ・クマールがパッドマンを演じる。
女性の生理現象をタブー視するのはインドに限ったことではなく、広い普遍性と高度な娯楽性を兼ね備えた傑作だ。
インドの小さな村で愛妻ガヤトリ(ラーディカー・アープテー)と新婚生活を送るラクシュミ(アクシャイ・クマール)は、妻や妹たちが毎月の生理に不衛生な布を使っているのを見て、感染症などの病気にかからないか心配になる。
思い切って市販のナプキンを買って妻に贈ったものの、あまりにも高価なので「家計を破綻させる気か」と突き返されてしまう。
ならば、とナプキンを分解し、その構造を研究したラクシュミは、ナプキンを手作りするのだが、経血が漏れてしまい使い物にならない。
それでも諦めることなく、日々研究に打ち込み仕事にも行かなくなったラクシュミは、街の人々はもちろん、家族からも変人扱いされるようになる。
妻を含めた女性たちから、ことごとくナプキンの試用を拒否されたラクシュミは、自分で実験装置を装着して、最終試験を行うのだが、見事に失敗。
呆れたガヤトリは実家に帰り、ラクシュミは追われるように村を出る。
デリーへやって来たラクシュミは、努力を重ねてナプキンの本当の原料と製法を調べあげ、遂に誰にでも安価でナプキンを作れる機械を発明するのだが、それは更なる苦難の日々の始まりにすぎなかった・・・
生理用ナプキンが、元々軍用品として生まれたとは知らなかった。
確かに、衛生的に出血を抑えればいいのだから、戦傷でも生理でも原理的には同じこと。
学のないラクシュミは、市販のナプキンをバラバラにして、その原料が綿と布と考えるのだが、これが彼が最初に陥る大きな罠。
そもそもの原材料が間違っていたら、漏れないようにどんな工夫をしてもナプキンとしては機能不足。
素朴な生活を送るラクシュミは、化学繊維の存在など考えもしないのだ。
それでも彼は、愛する妻たちを不衛生な環境から解放したいと願い、失敗しても失敗しても研究開発を続けて、何とか使えるナプキンを作ろうとする。
だが、保守的なインドの田舎では、女性の生理は男性が決して関わってはいけないタブー。
目的が正しければ、因習も何も気にしないラクシュミは、自分が女性たちの禁断の領域に土足で踏み込んでいることに気づかない。
抑圧された女性たちは、しばしが男性よりも保守的になる。
自分の夫がナプキンに夢中になっていることを恥じたガヤトリは実家に戻り、妹たちも姉の家へと移り、ラクシュミはようやく自分の居場所を失ってしまったことに気づくのだ。
普通の映画なら、これがどん底。
この状況から復活で終わるのだが、本作はここから波乱万丈山あり谷ありが何度も繰り返される。
自分の作ったナプキンの、何が問題だったのかと悩んだラクシュミは、デリーの大学教授の家で働きながらリサーチし、ついに根本の原料問題を突き止める。
原料を入手しても、今度はそれをナプキンにするための機械が高価すぎて、とても買えるものではないし、仮に買えたとしても、投資を回収するためにナプキンが高価になってしまえば本末転倒。
そこでラクシュミは、ナプキンの製造過程を研究し、大きな機械ではなくそれぞれの工程ごとのシンプルな機械を発明するのだ。
この時点で、彼の新たな理解者となる、ソーナム・カプール演じる都会的で洗練された第二のヒロイン、パリーが登場し、彼女の後押しもあってラクシュミの機械は発明コンテストで大賞を受賞する。
しかし、これでハッピーエンドへ向かうかというとさにあらず。
人々はラクシュミがコンテストで受賞したことには興味を示すが、それが生理用ナプキンの製造機械であることを知ると、一転して嫌悪の表情を浮かべるのである。
それだけ、インド社会で女性の生理に対するタブー意識が深刻ということだろう。
映画の舞台となるのはつい最近の2001年だが、この時点でナプキンの普及率はたったの12%でしかない。
生理中の女性は不浄な存在とされ、家に入ることを許されず、吹きさらしの外廊下に寝床をしつらえて隔離されている。
女性たちは声を上げることが面倒を引き起こすということを分かっていて、あえて現状を変えることを望まない人も多い。
遠い国の遠い話に思えるが、日本でも生理をタブーとする考えが根強いのは同じだ。
近いところでは、相撲の土俵に女性を上げないという時代錯誤な規制も、神道で血を穢れと考え、生理で血を流す女性を禁忌としたことがはじまりとされる。
これは程度の差はあれ、世界の多くに共通するイシューなのだ。
ラクシュミが戦わなければならない相手は、単に品質の高いナプキンを安く作るという技術論だけではなく、社会の隅々にまで蔓延する因習と人々の事なかれ主義、無知、無理解。
女子レスリングを描く「ダンガル きっと、つよくなる」の熱血レスリング親父もそうだったが、インドではこういう古き因習を打破する“変人”こそがヒーローなんだろうな。
映画の中でラクシュミは、何度も女性や社会の拒絶に直面し、その度に「なんでダメなんだ!」と叫ぶ。
非常に合理的な思考回路を持つ彼の中では、世間体を第一に、因習や迷信にとらわれる人々が理解できない。
彼はいい人だけど、わりと独善的な性格に造形されていて、相手の立場に立って物事を考えることが苦手なのだ。
モデルとなった現実のパッドマン、ムルガナンダム氏の話を調べると、主人公がパッドマンになった顛末はだいたい事実通りの様。
おそらくは、愛妻のガヤトリといったん別居し、その後に妻とは対照的な進歩的で聡明な女性、パリーと出会い、微妙な三角関係になるあたりはフィクションだと思うのだけど、映画ではパリーが事態を急展開させる役割を果たす。
本当は多くの女性がナプキンを使いたいと思ってるが、ラクシュミが拒絶されるのは、彼が男性だから。
そこでパリーがラクシュミのビジネスパートナーとして前面に立ち、女同士の話で女性たちを説得してビジネスモデルを作り上げる。
フィクションも現実も、パッドマンの功績の半分は、ナプキンの製造機械を発明したこと。
そして残りの半分は、このビジネスモデルを作り上げたことだ。
インドの女性の問題の根本は、女性の社会的な地位の低さと、経済的な男性依存。
パリーと組んだラクシュミは、マイクロクレジットの融資を活用し、自分の機械をインド中の貧しい村々の女性たちに販売。
彼女たちはナプキンを製造して、それぞれの地域で売り歩くことで、現金収入を得る。
機械の代金の返済が終われば、全てが彼女たちのものとなり、経済的な自立を図れるのである。
実際に、パッドマンの機械を使ったお手頃価格のナプキンのミニ工場は、インドのあちこちに出来ていて、ナプキンの普及率もだんだんと上がっているというから素晴らしい。
終盤に、国連に招かれたラクシュミが、片言の英語“リングリッシュ”で語りかける、9分間にわたるスピーチが心を打つ。
ビジネスが成功しても、なぜ利益を追求しないのか?
女性が自立することの大切さと、そのためになぜナプキンが必要なのか?
モデルになったムルガナンダム氏が語ったことがベースになっているのだが、ウィットに富んだ内容はジェンダーの問題を超えて、人の生き方として全てに説得力のある名言だらけで、ここだけでも観る価値があると思う。
しかし、ガヤトリが本当にラクシュミのやりとげたことの価値を理解したのか?というあたりを含め、完全なハッピーエンドにしなかったのもいい。
振り返って日本を眺めれば分かるように、社会は一朝一夕には変わらない。
パッドマンが始めた小さな革命は、これからもずっと続いていくのだ。
もちろんこの映画も、特に男性への啓蒙という点で、その一助となるだろう。
今回は、北インドの代表的なビールの一つデヴァンス醸造所の「ゴッドファーザー スーパーストロング」をチョイス。
名前の通りアルコール度がちょっと高め。
独特の香り、すっきり爽やかだが甘味を強く感じるのがインドのビールの特徴かもしれない。
シェア一位のキングフィッシャーもこの傾向は変わらない。
当然ながら、スパイシーなインド料理との相性は抜群だ。
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アメリカにはスーパーマン、スパイダーマンが、しかしインドにはその名も「パッドマン」がいる!
女性の月経が“穢れ”としてタブー視され、生理用品がなかなか普及しないインドで、妻のために安価なナプキン製造機械を発明した男の物語。
この人とにかく愛妻家で、彼女が生理のたびに不衛生な布を使ってしのいでいるのが心配でならない。
もともと日用品を作る町工場に勤務していて、手先が器用。
市販のナプキンは庶民には高すぎて買えないので、なら自分で作ろうとするのだが、モノがモノだけに気持ち悪がられ、愛妻を含めた女性たちから総スカン。
助けたいと思う相手からの拒絶にも、正しいことをしたいという信念はブレないが、猪突猛進気味の主人公は、やり過ぎて遂に全てを失ってしまうのだ。
実際に安価なナプキン製造機械を発明し、普及させたアルナーチャラム・ムルガナンダム氏の実話をベースに、R・バールキが監督・脚本を務め、アクシャイ・クマールがパッドマンを演じる。
女性の生理現象をタブー視するのはインドに限ったことではなく、広い普遍性と高度な娯楽性を兼ね備えた傑作だ。
インドの小さな村で愛妻ガヤトリ(ラーディカー・アープテー)と新婚生活を送るラクシュミ(アクシャイ・クマール)は、妻や妹たちが毎月の生理に不衛生な布を使っているのを見て、感染症などの病気にかからないか心配になる。
思い切って市販のナプキンを買って妻に贈ったものの、あまりにも高価なので「家計を破綻させる気か」と突き返されてしまう。
ならば、とナプキンを分解し、その構造を研究したラクシュミは、ナプキンを手作りするのだが、経血が漏れてしまい使い物にならない。
それでも諦めることなく、日々研究に打ち込み仕事にも行かなくなったラクシュミは、街の人々はもちろん、家族からも変人扱いされるようになる。
妻を含めた女性たちから、ことごとくナプキンの試用を拒否されたラクシュミは、自分で実験装置を装着して、最終試験を行うのだが、見事に失敗。
呆れたガヤトリは実家に帰り、ラクシュミは追われるように村を出る。
デリーへやって来たラクシュミは、努力を重ねてナプキンの本当の原料と製法を調べあげ、遂に誰にでも安価でナプキンを作れる機械を発明するのだが、それは更なる苦難の日々の始まりにすぎなかった・・・
生理用ナプキンが、元々軍用品として生まれたとは知らなかった。
確かに、衛生的に出血を抑えればいいのだから、戦傷でも生理でも原理的には同じこと。
学のないラクシュミは、市販のナプキンをバラバラにして、その原料が綿と布と考えるのだが、これが彼が最初に陥る大きな罠。
そもそもの原材料が間違っていたら、漏れないようにどんな工夫をしてもナプキンとしては機能不足。
素朴な生活を送るラクシュミは、化学繊維の存在など考えもしないのだ。
それでも彼は、愛する妻たちを不衛生な環境から解放したいと願い、失敗しても失敗しても研究開発を続けて、何とか使えるナプキンを作ろうとする。
だが、保守的なインドの田舎では、女性の生理は男性が決して関わってはいけないタブー。
目的が正しければ、因習も何も気にしないラクシュミは、自分が女性たちの禁断の領域に土足で踏み込んでいることに気づかない。
抑圧された女性たちは、しばしが男性よりも保守的になる。
自分の夫がナプキンに夢中になっていることを恥じたガヤトリは実家に戻り、妹たちも姉の家へと移り、ラクシュミはようやく自分の居場所を失ってしまったことに気づくのだ。
普通の映画なら、これがどん底。
この状況から復活で終わるのだが、本作はここから波乱万丈山あり谷ありが何度も繰り返される。
自分の作ったナプキンの、何が問題だったのかと悩んだラクシュミは、デリーの大学教授の家で働きながらリサーチし、ついに根本の原料問題を突き止める。
原料を入手しても、今度はそれをナプキンにするための機械が高価すぎて、とても買えるものではないし、仮に買えたとしても、投資を回収するためにナプキンが高価になってしまえば本末転倒。
そこでラクシュミは、ナプキンの製造過程を研究し、大きな機械ではなくそれぞれの工程ごとのシンプルな機械を発明するのだ。
この時点で、彼の新たな理解者となる、ソーナム・カプール演じる都会的で洗練された第二のヒロイン、パリーが登場し、彼女の後押しもあってラクシュミの機械は発明コンテストで大賞を受賞する。
しかし、これでハッピーエンドへ向かうかというとさにあらず。
人々はラクシュミがコンテストで受賞したことには興味を示すが、それが生理用ナプキンの製造機械であることを知ると、一転して嫌悪の表情を浮かべるのである。
それだけ、インド社会で女性の生理に対するタブー意識が深刻ということだろう。
映画の舞台となるのはつい最近の2001年だが、この時点でナプキンの普及率はたったの12%でしかない。
生理中の女性は不浄な存在とされ、家に入ることを許されず、吹きさらしの外廊下に寝床をしつらえて隔離されている。
女性たちは声を上げることが面倒を引き起こすということを分かっていて、あえて現状を変えることを望まない人も多い。
遠い国の遠い話に思えるが、日本でも生理をタブーとする考えが根強いのは同じだ。
近いところでは、相撲の土俵に女性を上げないという時代錯誤な規制も、神道で血を穢れと考え、生理で血を流す女性を禁忌としたことがはじまりとされる。
これは程度の差はあれ、世界の多くに共通するイシューなのだ。
ラクシュミが戦わなければならない相手は、単に品質の高いナプキンを安く作るという技術論だけではなく、社会の隅々にまで蔓延する因習と人々の事なかれ主義、無知、無理解。
女子レスリングを描く「ダンガル きっと、つよくなる」の熱血レスリング親父もそうだったが、インドではこういう古き因習を打破する“変人”こそがヒーローなんだろうな。
映画の中でラクシュミは、何度も女性や社会の拒絶に直面し、その度に「なんでダメなんだ!」と叫ぶ。
非常に合理的な思考回路を持つ彼の中では、世間体を第一に、因習や迷信にとらわれる人々が理解できない。
彼はいい人だけど、わりと独善的な性格に造形されていて、相手の立場に立って物事を考えることが苦手なのだ。
モデルとなった現実のパッドマン、ムルガナンダム氏の話を調べると、主人公がパッドマンになった顛末はだいたい事実通りの様。
おそらくは、愛妻のガヤトリといったん別居し、その後に妻とは対照的な進歩的で聡明な女性、パリーと出会い、微妙な三角関係になるあたりはフィクションだと思うのだけど、映画ではパリーが事態を急展開させる役割を果たす。
本当は多くの女性がナプキンを使いたいと思ってるが、ラクシュミが拒絶されるのは、彼が男性だから。
そこでパリーがラクシュミのビジネスパートナーとして前面に立ち、女同士の話で女性たちを説得してビジネスモデルを作り上げる。
フィクションも現実も、パッドマンの功績の半分は、ナプキンの製造機械を発明したこと。
そして残りの半分は、このビジネスモデルを作り上げたことだ。
インドの女性の問題の根本は、女性の社会的な地位の低さと、経済的な男性依存。
パリーと組んだラクシュミは、マイクロクレジットの融資を活用し、自分の機械をインド中の貧しい村々の女性たちに販売。
彼女たちはナプキンを製造して、それぞれの地域で売り歩くことで、現金収入を得る。
機械の代金の返済が終われば、全てが彼女たちのものとなり、経済的な自立を図れるのである。
実際に、パッドマンの機械を使ったお手頃価格のナプキンのミニ工場は、インドのあちこちに出来ていて、ナプキンの普及率もだんだんと上がっているというから素晴らしい。
終盤に、国連に招かれたラクシュミが、片言の英語“リングリッシュ”で語りかける、9分間にわたるスピーチが心を打つ。
ビジネスが成功しても、なぜ利益を追求しないのか?
女性が自立することの大切さと、そのためになぜナプキンが必要なのか?
モデルになったムルガナンダム氏が語ったことがベースになっているのだが、ウィットに富んだ内容はジェンダーの問題を超えて、人の生き方として全てに説得力のある名言だらけで、ここだけでも観る価値があると思う。
しかし、ガヤトリが本当にラクシュミのやりとげたことの価値を理解したのか?というあたりを含め、完全なハッピーエンドにしなかったのもいい。
振り返って日本を眺めれば分かるように、社会は一朝一夕には変わらない。
パッドマンが始めた小さな革命は、これからもずっと続いていくのだ。
もちろんこの映画も、特に男性への啓蒙という点で、その一助となるだろう。
今回は、北インドの代表的なビールの一つデヴァンス醸造所の「ゴッドファーザー スーパーストロング」をチョイス。
名前の通りアルコール度がちょっと高め。
独特の香り、すっきり爽やかだが甘味を強く感じるのがインドのビールの特徴かもしれない。
シェア一位のキングフィッシャーもこの傾向は変わらない。
当然ながら、スパイシーなインド料理との相性は抜群だ。



2018年12月13日 (木) | 編集 |
この世の地獄を、生き抜く。
流れ着いたタイで逮捕され、収監された刑務所で再起を賭けてムエタイの選手になった実在の英国人ボクサー、ビリー・ムーアの物語。
2014年に出版され、ベストセラーとなったビリーの自伝「A Prayer Before Dawn: My Nightmare in Thailand's Prisons」を原作に、ジャン=ステファーヌ・ソヴェールが監督を務める。
とにかく刑務所の描写が怖すぎる。
全員凶悪、力なき者は生き残れない修羅の国。
不衛生な監房に、体を伸ばして寝ることもできないほどの人数が詰め込まれ、喧嘩や虐待、レイプも日常茶飯事。
誰かが死んでもそのまま一晩放置され、看守も賄賂を取り放題の無法地帯だ。
言葉も分からず、奴隷船並みのタコ部屋で、あんな全身刺青のオッさんたちに凄まれたら、私なら初日で精神崩壊するわ。
そんな劣悪な刑務所で、ビリーが頼るのがクスリだ。
元々ビリーはジャンキーのダメ人間で、試合の前にも精神を高揚させるためにクスリを決めるほど。
当然そんな状態で勝てる訳もなく、負けてはまたクスリに頼る悪循環。
これが刑務所の中でも続く。
自分でもダメダメな状況なのは分かっていて、故郷の家族には異国で服役していることも隠している。
だがそんなある日、彼は囚人たちのムエタイチームがあることを知り、眠っていた闘争本能を刺激されるのだ。
これは心弱きファイターが、何度も挫折しながら、ようやく何かをやり遂げて、小さな一歩を踏み出すまでの話。
ムエタイは再起のための重要なモチーフではあるものの、いわゆるスポーツ映画とは違う。
全体に、クローズアップを多用したカメラワークが印象的で、観客を徹底的に主人公に寄り添わせるのだが、方法論としては主人公に張り付いたカメラによってホロコーストを疑似体験させた、「サウルの息子」に近い。
もちろん、表現としてはあれほど極端ではないけれど、我々はビリーとの刑務所暮らしを通して、彼の後悔とどうにもならない未来への閉塞、究極の自己嫌悪を共有する。
タイ語の台詞に字幕が無いのも、ムエタイの試合で何が起こっているのか分からないくらいに極端に寄ったショットが多く、引いた画が意図的に避けられているのも同じ演出意図だろう。
ここに格闘スポーツのカタルシスは無く、命がけの試合の勝利にも、もしかしてこれで負のスパイラルから逃れられるかもしれないという、細やかな希望が見えるのみ。
この映画の魅力は、やはり圧巻の臨場感だ。
ロケが行われたのは実際の元刑務所で、エキストラを務めたのも元囚人たち。
あの恐ろし気な全身刺青もホンモノだというのだから、これは半ドキュメンタリーといっても過言ではないだろう。
“実話の映画化”にありがちな盛った描写は皆無で、物語をドラマチックに盛り上げようという意図も感じられない。
細かな事件はたくさん起こるが、普通の映画のように有機的に結合していかず、それが逆にリアリティを高めているのだ。
ジャン=ステファーヌ・ソヴェールは、リベリア内戦を舞台に過酷な運命を生きる、少年兵たちの日常を描いた「ジョニー・マッド・ドッグ」でも、実際の元少年兵たちを起用して、凄まじいリアリティを醸し出していたが、本作も彼の作家性と実録物の題材がうまくマッチした。
自分に鞭打ち再起を誓っても、簡単には決別できないクスリの恐ろしさも、ヘビーに伝わってくる。
終盤、ビリー・ムーア本人もある役でちょこっと出てくるが、この出演の象徴性も納得。
この世の地獄から這い上がろうと足掻き続ける人間の、静かに熱く燃えたぎる情念の物語だ。
猛烈に疲れる映画の後は、獅子のラベルでおなじみのタイのビール、「シンハー」で喉の渇きを癒したい。
爽やかな口当たりのライトなビールで、タイ料理との相性は抜群。
ビアグラスに氷を入れて注ぐのが南国流。
タイ国内でのシェアは、同じブンロート・ブリュワリーが製造する低価格銘柄、豹のラベルのレオビールに奪われているようだが、やはり味わいはこちらの方が好みだ。
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流れ着いたタイで逮捕され、収監された刑務所で再起を賭けてムエタイの選手になった実在の英国人ボクサー、ビリー・ムーアの物語。
2014年に出版され、ベストセラーとなったビリーの自伝「A Prayer Before Dawn: My Nightmare in Thailand's Prisons」を原作に、ジャン=ステファーヌ・ソヴェールが監督を務める。
とにかく刑務所の描写が怖すぎる。
全員凶悪、力なき者は生き残れない修羅の国。
不衛生な監房に、体を伸ばして寝ることもできないほどの人数が詰め込まれ、喧嘩や虐待、レイプも日常茶飯事。
誰かが死んでもそのまま一晩放置され、看守も賄賂を取り放題の無法地帯だ。
言葉も分からず、奴隷船並みのタコ部屋で、あんな全身刺青のオッさんたちに凄まれたら、私なら初日で精神崩壊するわ。
そんな劣悪な刑務所で、ビリーが頼るのがクスリだ。
元々ビリーはジャンキーのダメ人間で、試合の前にも精神を高揚させるためにクスリを決めるほど。
当然そんな状態で勝てる訳もなく、負けてはまたクスリに頼る悪循環。
これが刑務所の中でも続く。
自分でもダメダメな状況なのは分かっていて、故郷の家族には異国で服役していることも隠している。
だがそんなある日、彼は囚人たちのムエタイチームがあることを知り、眠っていた闘争本能を刺激されるのだ。
これは心弱きファイターが、何度も挫折しながら、ようやく何かをやり遂げて、小さな一歩を踏み出すまでの話。
ムエタイは再起のための重要なモチーフではあるものの、いわゆるスポーツ映画とは違う。
全体に、クローズアップを多用したカメラワークが印象的で、観客を徹底的に主人公に寄り添わせるのだが、方法論としては主人公に張り付いたカメラによってホロコーストを疑似体験させた、「サウルの息子」に近い。
もちろん、表現としてはあれほど極端ではないけれど、我々はビリーとの刑務所暮らしを通して、彼の後悔とどうにもならない未来への閉塞、究極の自己嫌悪を共有する。
タイ語の台詞に字幕が無いのも、ムエタイの試合で何が起こっているのか分からないくらいに極端に寄ったショットが多く、引いた画が意図的に避けられているのも同じ演出意図だろう。
ここに格闘スポーツのカタルシスは無く、命がけの試合の勝利にも、もしかしてこれで負のスパイラルから逃れられるかもしれないという、細やかな希望が見えるのみ。
この映画の魅力は、やはり圧巻の臨場感だ。
ロケが行われたのは実際の元刑務所で、エキストラを務めたのも元囚人たち。
あの恐ろし気な全身刺青もホンモノだというのだから、これは半ドキュメンタリーといっても過言ではないだろう。
“実話の映画化”にありがちな盛った描写は皆無で、物語をドラマチックに盛り上げようという意図も感じられない。
細かな事件はたくさん起こるが、普通の映画のように有機的に結合していかず、それが逆にリアリティを高めているのだ。
ジャン=ステファーヌ・ソヴェールは、リベリア内戦を舞台に過酷な運命を生きる、少年兵たちの日常を描いた「ジョニー・マッド・ドッグ」でも、実際の元少年兵たちを起用して、凄まじいリアリティを醸し出していたが、本作も彼の作家性と実録物の題材がうまくマッチした。
自分に鞭打ち再起を誓っても、簡単には決別できないクスリの恐ろしさも、ヘビーに伝わってくる。
終盤、ビリー・ムーア本人もある役でちょこっと出てくるが、この出演の象徴性も納得。
この世の地獄から這い上がろうと足掻き続ける人間の、静かに熱く燃えたぎる情念の物語だ。
猛烈に疲れる映画の後は、獅子のラベルでおなじみのタイのビール、「シンハー」で喉の渇きを癒したい。
爽やかな口当たりのライトなビールで、タイ料理との相性は抜群。
ビアグラスに氷を入れて注ぐのが南国流。
タイ国内でのシェアは、同じブンロート・ブリュワリーが製造する低価格銘柄、豹のラベルのレオビールに奪われているようだが、やはり味わいはこちらの方が好みだ。



2018年12月08日 (土) | 編集 |
霊媒大戦争(笑
異才・中島哲也の最新作は、日本ホラー小説大賞受賞作、澤村伊智の「ぼぎわんが、来る」を原作としたオカルトホラー。
ただし、小説と映画は全くの別モノだ。
平凡な親子三人家族に怪異が迫る第1章は、かなり忠実。
しかし第2章以降が全く異なっていて、怪異の正体も、そもそもなぜ怪異が来たのか、その原因となった人物も、物語の視点もテーマそのものも全く違うのだけど、これはこれで面白い。
小説は3章構成で、それぞれに主人公が異なる。
第1章では、映画版で妻夫木聡が演じる新婚のイクメンパパ、田原秀樹の視点でも物語が進む。
最初は小さな怪異が田原家に忍び寄り、それが幼い頃に聞かされた「ぼぎわん」という子供をさらう妖怪なのではないかと疑いだす。
彼は同窓の民俗学者からオカルトライターの野崎を紹介され、彼の恋人でもある霊媒の真琴と共に怪異に立ち向かうのだが、ぼぎわんは思っていたよりも遥かに凶悪な存在だったこと明らかになるのだ。
そして第2章では、第1章と同じ時系列が秀樹の妻の香奈の回想という形で描かれる。
理想のパパを自認していたはずの秀樹は、実は表面だけ取り繕っているだけの傲慢なダメ夫でダメパパ。
一人娘の知紗を抱えて、実質ワンオペ育児を強いられている香奈をほったらかしにして、遊び呆けているという、第1章の裏側が描かれ、世界が逆転。
第3章では、異界へとさらわれた知紗を奪還するために、野崎が真琴の姉で最強の霊媒、比嘉琴子と組んでぼぎわんの正体を探り、対決する。
原作のぼぎわんは、虐げられ、子供を殺された女性の恨み辛みが呼ぶ怪異で、ぼぎわんという名前の由来、その姿形、歴史的な背景もきっちりと意味付けされていて、いわば日本の歴史的な男性優位社会の歪みによって生まれた妖怪。
小説の登場人物は、秀樹が実はダメダメなのに対して、妻の香奈は良妻賢母として描かれてるのも、ある種フェミニズム的な怪異譚であることを際立たせる。
ところが、映画版ではこの辺りが大幅に脚色されているのだ。
中盤から、それまで描かれていた秀樹視点の物語がひっくり返されるのは同じだが、そこから描かれるのは、夫に劣らず問題を抱えた香奈の物語。
要するに、映画版では男も女も等しく心罪深く、人間のネガティブな面をさらけ出しているのだ。
虐げられた女性の情念と、失われた子供たちへの思慕の念もほぼ消えて、どいつもこいつもダメ人間ばかりなのは、いかにも中島哲也的な「人間なんてそんなもんでしょ」という悪意たっぷりの世界観。
小説的に筋道を立て、時間をかけて語って行くのではなく、行動やセリフといった映像言語で直感的にイヤーな気分を積み上げてゆくのもこの人らしい。
タイトルから「ぼぎわん」が外れた訳も、よく分かる。
本作では、ぼぎわんの正体が何かとか、怪異の民俗学的背景や歴史とか、原作が相当のページ数を使って描いていた辺りはどうでもいいのだ。
ここでは人間は皆壊れかけていて、悪いモノが入り込む隙間だらけ。
だからやって来るのも、ぼぎわんの様な目的が明確な妖怪的存在ではなく、名前も持たず、姿も見えず、ただただ邪悪さだけに純化された“意志”。
主要登場人物間の相関関係も強化され、内面に皆どこか似た葛藤を抱えて、お互いに鏡像を見るような構造になっている。
このこんがらがった関係を使って、本来狂言回しの岡田准一演じる野崎にも具体的な葛藤を与え、うまい具合に全体の主人公のポジションに配置。
一連の恐ろしい事件を通して、彼が何を見出すのか?という物語になっている。
さらに怪異が呼ばれた映画オリジナルの動機が導き出されるのだが、ここは残念ながら原因となる人物の描写不足でちょっと弱いのが残念だ。
その分、クライマックスは中島作品らしく、サービス精神全開のド派手なもの。
松たか子がクールに演じる琴子の祓の儀式をサポートするために、彼女のルーツでもある沖縄のユタから、坊主に神職に巫女さんに、果ては韓国のムーダンまで、各界の霊媒たちがワラワラ集まってくる。
まあ、彼らはヤラレ役というか、雑魚キャラで大した見せ場もなく終わっちゃうのだが、どうせならキリスト教のエクソシストも出して、さらに悪ノリの限りを尽くして欲しかったな。
琴子の待ち受ける結界に、アレが迫りながら、時には妖怪に、時には悪魔に変化しながら、世界の霊媒を一人ひとり倒して行くなんて最高じゃないか。
別の映画になっちゃうけど(笑
個人的には、原作で禍々しく描写されるぼぎわんの姿も見てみたかったが、日本映画には珍しい、ごった煮のテイストのスペクタクルホラーで、なかなか楽しめる。
今回は、ぼぎわんならぬ悪魔の名を持つカクテル、「ディアブロ」でお祓い。
ホワイト・ポートワイン40ml、ドライ・ベルモット20ml、レモンジュース1dashをシェイクしてブラスに注ぐ。
名前は禍々しいのだけど、味はアペリティフにぴったりの、爽やかで気持ちの良いカクテルだ。
記事が気に入ったらクリックしてね
異才・中島哲也の最新作は、日本ホラー小説大賞受賞作、澤村伊智の「ぼぎわんが、来る」を原作としたオカルトホラー。
ただし、小説と映画は全くの別モノだ。
平凡な親子三人家族に怪異が迫る第1章は、かなり忠実。
しかし第2章以降が全く異なっていて、怪異の正体も、そもそもなぜ怪異が来たのか、その原因となった人物も、物語の視点もテーマそのものも全く違うのだけど、これはこれで面白い。
小説は3章構成で、それぞれに主人公が異なる。
第1章では、映画版で妻夫木聡が演じる新婚のイクメンパパ、田原秀樹の視点でも物語が進む。
最初は小さな怪異が田原家に忍び寄り、それが幼い頃に聞かされた「ぼぎわん」という子供をさらう妖怪なのではないかと疑いだす。
彼は同窓の民俗学者からオカルトライターの野崎を紹介され、彼の恋人でもある霊媒の真琴と共に怪異に立ち向かうのだが、ぼぎわんは思っていたよりも遥かに凶悪な存在だったこと明らかになるのだ。
そして第2章では、第1章と同じ時系列が秀樹の妻の香奈の回想という形で描かれる。
理想のパパを自認していたはずの秀樹は、実は表面だけ取り繕っているだけの傲慢なダメ夫でダメパパ。
一人娘の知紗を抱えて、実質ワンオペ育児を強いられている香奈をほったらかしにして、遊び呆けているという、第1章の裏側が描かれ、世界が逆転。
第3章では、異界へとさらわれた知紗を奪還するために、野崎が真琴の姉で最強の霊媒、比嘉琴子と組んでぼぎわんの正体を探り、対決する。
原作のぼぎわんは、虐げられ、子供を殺された女性の恨み辛みが呼ぶ怪異で、ぼぎわんという名前の由来、その姿形、歴史的な背景もきっちりと意味付けされていて、いわば日本の歴史的な男性優位社会の歪みによって生まれた妖怪。
小説の登場人物は、秀樹が実はダメダメなのに対して、妻の香奈は良妻賢母として描かれてるのも、ある種フェミニズム的な怪異譚であることを際立たせる。
ところが、映画版ではこの辺りが大幅に脚色されているのだ。
中盤から、それまで描かれていた秀樹視点の物語がひっくり返されるのは同じだが、そこから描かれるのは、夫に劣らず問題を抱えた香奈の物語。
要するに、映画版では男も女も等しく心罪深く、人間のネガティブな面をさらけ出しているのだ。
虐げられた女性の情念と、失われた子供たちへの思慕の念もほぼ消えて、どいつもこいつもダメ人間ばかりなのは、いかにも中島哲也的な「人間なんてそんなもんでしょ」という悪意たっぷりの世界観。
小説的に筋道を立て、時間をかけて語って行くのではなく、行動やセリフといった映像言語で直感的にイヤーな気分を積み上げてゆくのもこの人らしい。
タイトルから「ぼぎわん」が外れた訳も、よく分かる。
本作では、ぼぎわんの正体が何かとか、怪異の民俗学的背景や歴史とか、原作が相当のページ数を使って描いていた辺りはどうでもいいのだ。
ここでは人間は皆壊れかけていて、悪いモノが入り込む隙間だらけ。
だからやって来るのも、ぼぎわんの様な目的が明確な妖怪的存在ではなく、名前も持たず、姿も見えず、ただただ邪悪さだけに純化された“意志”。
主要登場人物間の相関関係も強化され、内面に皆どこか似た葛藤を抱えて、お互いに鏡像を見るような構造になっている。
このこんがらがった関係を使って、本来狂言回しの岡田准一演じる野崎にも具体的な葛藤を与え、うまい具合に全体の主人公のポジションに配置。
一連の恐ろしい事件を通して、彼が何を見出すのか?という物語になっている。
さらに怪異が呼ばれた映画オリジナルの動機が導き出されるのだが、ここは残念ながら原因となる人物の描写不足でちょっと弱いのが残念だ。
その分、クライマックスは中島作品らしく、サービス精神全開のド派手なもの。
松たか子がクールに演じる琴子の祓の儀式をサポートするために、彼女のルーツでもある沖縄のユタから、坊主に神職に巫女さんに、果ては韓国のムーダンまで、各界の霊媒たちがワラワラ集まってくる。
まあ、彼らはヤラレ役というか、雑魚キャラで大した見せ場もなく終わっちゃうのだが、どうせならキリスト教のエクソシストも出して、さらに悪ノリの限りを尽くして欲しかったな。
琴子の待ち受ける結界に、アレが迫りながら、時には妖怪に、時には悪魔に変化しながら、世界の霊媒を一人ひとり倒して行くなんて最高じゃないか。
別の映画になっちゃうけど(笑
個人的には、原作で禍々しく描写されるぼぎわんの姿も見てみたかったが、日本映画には珍しい、ごった煮のテイストのスペクタクルホラーで、なかなか楽しめる。
今回は、ぼぎわんならぬ悪魔の名を持つカクテル、「ディアブロ」でお祓い。
ホワイト・ポートワイン40ml、ドライ・ベルモット20ml、レモンジュース1dashをシェイクしてブラスに注ぐ。
名前は禍々しいのだけど、味はアペリティフにぴったりの、爽やかで気持ちの良いカクテルだ。



2018年12月04日 (火) | 編集 |
人を斬るとは、どういうことか。
殺戮の緑の海は、「野火」のフィリピンのジャングルから、19世紀の日本の森林へ。
250年にわたる太平の世が、終わりを告げようとしている幕末。
この国を支配する新旧の勢力が衝突する乱世を見て、戦いに馳せ参じようとしている、池松壮亮演じる若い浪人・都築杢之進の物語だ。
手練れだが、未だ人を斬ったことのない杢之進は、江戸近郊の農村に逗留中に、塚本晋也監督が自ら演じる無情な壮年の人斬り・澤村次郎左衛門と出会い、改めて刀を持って人を斬り殺すことの意味を突きつけられ葛藤する。
杢之進に想いを寄せる農家の娘・ゆうに蒼井優、杢之進から剣術を学び、自分も江戸行きを決意するゆうの弟・市助にオーディションで選抜された前田隆成。
彼らの前に立ちはだかる、無頼者たちの頭目を中村達也が演じる。
塚本作品らしく上映時間は80分と短めだが、その密度は驚くべきものだ。
風雲急を告げる時代。
貧窮して藩を離れた浪人・都築杢之進(池松壮亮)は、江戸近郊の農村に逗留し、世話になっている農家の娘・ゆう(蒼井優)と共に農作業に汗を流す傍ら、ゆうの弟の市助(前田隆成)に剣術指南をする毎日。
ある日、村の神社で果たし合いがあり、杢之進は壮年の剣士が相手の戦闘力を一撃で奪うのを目撃する。
澤村次郎左衛門(塚本晋也)と名乗ったその男は、杢之進の腕を見込んで、共に江戸へ向かい、そこから京都の動乱へ参戦しようと持ちかける。
もとより江戸行きを決意していた杢之進は快諾し、市助も同行することになるのだが、三人の出立が迫ったある日、平和だった村に無頼者たちの集団が流れてくる。
村人たちと無頼者たちの間に不穏な空気が流れる中、市助が無頼者たちと揉めて、大怪我を負わされる事件が起こってしまう・・・
これはある意味、戦いの結果としてのこの世の地獄を描いた「野火」の精神的続編、いや前編とも言える物語だ。
遠く、江戸から京都で起こっている、薩長連合を中心とした新政府軍と旧幕府軍の戦争は、最初ぼんやりとしたイメージで語られている。
杢之進と澤村は、とりあえず幕府側につくつもりのようだが、彼らの政治信条などが語られることはなく、鎌倉時代以来の御恩と奉公の主従関係に基づく、「いざ鎌倉(江戸)の時は、御公儀のもとに馳せ参じる」という武士の矜持以上の理由は見えない。
農民ながら杢之進に剣術を習い、共に戦いに行こうとする市助に至っては、誰と誰が戦っているのかも、何をイシューとした戦争なのかも知らないのだ。
元来兵士でありながら、250年もの間戦うことを禁じられていた侍にとっては、これは千載一遇のチャンスであり、そこに深い理由は不要なのである。
しかし身近に無頼者たちとの争いが起こると、”人が人を斬り殺すこと”は、急速にリアリティを持って、登場人物たちの人生を絡め取ってゆくのだ。
冒頭、一振りの刀が精錬されてゆく過程が映し出されるが、誰もが裸で生まれてくる無力な人間は、玉鋼でできた刀を手にすることで、そのものが強力な武器となる。
この人間と武器、生物と鉄の関係は、塚本晋也にとっては出世作となった「鉄男」以来、度々描いているモチーフだ。
実際、本作の構造には「鉄男」との類似点がある。
主人公の杢之進は、塚本晋也演じる人斬りの澤村と出会ったことで、彼の体現する非日常の世界へと向かうが、「鉄男」で田口トモロヲ演じる「男」を金属人間にするのも、やはり塚本晋也なのである。
「男」の運転する車に轢かれ、頭に鉄の棒が突き刺さってしまったことで、金属と肉体を融合させる謎の力を手に入れた塚本晋也演じる「ヤツ」は、復讐として「男」を金属人間に変えてしまう。
鉄の棒を刀に置き換えれば、そのまま本作の澤村と杢之進だ。
また「バレット・バレエ」の拳銃に惹かれてゆく男や、「東京フィスト」のボクシングにのめり込む主人公(演じるのは共に塚本晋也)にも、本作に流れるこの作家の一貫した世界観を感じ取ることができる。
一件温和そうに見えて、実は人斬り大好きサイコな剣の達人である澤村は、「野火」で描かれた緑の地獄を彷徨い、心も体もぶっ壊れてしまった日本軍兵士たちの延長線上にある。
もはや刀と一体化し、殺すために殺す人間兵器の姿は、一線を超えてしまった者の行き着く先だ。
澤村は杢之進に対して、侍として戦いを求めるなら覚悟を決めろ、お前も刀と一体化して自分と同質の存在となれと迫る。
杢之進はいざその時になって、初めて自分には人を殺める覚悟がなく、それを欲してもいないことに気づき、無頼者たちと真剣ではなく木の棒で戦おうとするのだ。
しかし、素人ならともかく、手練れ揃いの無頼者たち相手では、当たり前だが全く勝負にならず、結果的に無頼者たちは澤村の手によって斬殺され、杢之進はその場を逃げ出すしかないのだが、澤村は執拗に追ってくる。
もはや金属=刀との同化と殺戮こそが存在理由となっている人間兵器は、杢之進に自らを殺させることで、彼をも精神的に取り込もうとしているのである。
そして彼らを包み込むように存在しているのが、どこまでも深い緑の樹海。
悠久の歴史を見てきた、物言わぬ巨木の根元に這いつくばり、殺し合わねばならない人間たちが哀しい。
刀とは何か、人が刀と一体となった時に、何が起こるのかを描く本作の表現で、非常に特徴的なのが日本刀の音響効果だ。
杢之進が刀を握りしめたビジュアルが、フラッシュバック的に何度も出てくるのだが、斬り合うのではなく、ただ握っている時にも「ギリギリギリ」という金属が軋むような音が入り、それが命の淵に立つ登場人物の、張り詰めた緊張感をうまく表現している。
サウンド担当の北田雅也のツイートによると、「音響効果刀」なる効果音専用の特殊な刀を開発して使っているそうだが、これは新鮮で耳に新しい体験だった。
登場人物中で面白いのが蒼井優が演じるゆうで、単純な男たちと違ってころころと言うことが変わる、一番人間らしい矛盾したキャラクターだ。
気立てのいい村娘は、恋心を抱く杢之進に「戦場に行くな」と言っていたのに、無頼者たちに家族を殺されると、今度は一転して「仇を討て」と言う。
彼に惚れているのに、澤村が圧倒的な強さで無頼者たちをやっつけると、「あらやだ、こっちもちょっとイイわ」とばかりになびきそうになったりする。
移ろい気味で艶っぽい彼女の言動が、杢之進と澤村の運命を無意識に動かしてゆくのである。
明治維新から70年後、侍の末裔たちは刀を銃に持ち替えて、有無を言わさぬ強大な権力によって数百万の人間兵器となって、アジア各地に散っていった。
そして大陸の奥地で、太平洋のジャングルで、それぞれに地獄を彷徨うことになる。
塚本晋也は、戦後70年の節目の年に、「野火」を発表した動機を「日本が再び戦争に向かっているのではないかという懸念」だと語っている。
あれから3年、再びの自主制作体制で本作を作った理由もまた、「その懸念がずっと消えない」からだと言う。
幕末から70年、10年の戦争の時代を挟んで戦後70年。
今年2018年は、明治維新から150年目である。
二本の映画を作らせた作家の深い懸念は、いつの日か現実となってしまうのだろうか。
物語を通して独特の歴史観が見えてくる、作家性豊かな凄みのある力作である。
今回は華やいだ未来への願いを込めて、埼玉を代表する日本酒銘柄・南陽醸造の「花陽浴 純米大吟醸 越後五百万石 無濾過生原酒」をチョイス。
大吟醸ならではの芳醇な吟醸香、フルーティーな甘み、キレ、スッキリとしたのどごし、すべてが絶妙に調和する。
これだけバランスの良い日本酒もなかなかない。
おせちを肴に、正月に飲みたい一本だ。
記事が気に入ったらクリックしてね
殺戮の緑の海は、「野火」のフィリピンのジャングルから、19世紀の日本の森林へ。
250年にわたる太平の世が、終わりを告げようとしている幕末。
この国を支配する新旧の勢力が衝突する乱世を見て、戦いに馳せ参じようとしている、池松壮亮演じる若い浪人・都築杢之進の物語だ。
手練れだが、未だ人を斬ったことのない杢之進は、江戸近郊の農村に逗留中に、塚本晋也監督が自ら演じる無情な壮年の人斬り・澤村次郎左衛門と出会い、改めて刀を持って人を斬り殺すことの意味を突きつけられ葛藤する。
杢之進に想いを寄せる農家の娘・ゆうに蒼井優、杢之進から剣術を学び、自分も江戸行きを決意するゆうの弟・市助にオーディションで選抜された前田隆成。
彼らの前に立ちはだかる、無頼者たちの頭目を中村達也が演じる。
塚本作品らしく上映時間は80分と短めだが、その密度は驚くべきものだ。
風雲急を告げる時代。
貧窮して藩を離れた浪人・都築杢之進(池松壮亮)は、江戸近郊の農村に逗留し、世話になっている農家の娘・ゆう(蒼井優)と共に農作業に汗を流す傍ら、ゆうの弟の市助(前田隆成)に剣術指南をする毎日。
ある日、村の神社で果たし合いがあり、杢之進は壮年の剣士が相手の戦闘力を一撃で奪うのを目撃する。
澤村次郎左衛門(塚本晋也)と名乗ったその男は、杢之進の腕を見込んで、共に江戸へ向かい、そこから京都の動乱へ参戦しようと持ちかける。
もとより江戸行きを決意していた杢之進は快諾し、市助も同行することになるのだが、三人の出立が迫ったある日、平和だった村に無頼者たちの集団が流れてくる。
村人たちと無頼者たちの間に不穏な空気が流れる中、市助が無頼者たちと揉めて、大怪我を負わされる事件が起こってしまう・・・
これはある意味、戦いの結果としてのこの世の地獄を描いた「野火」の精神的続編、いや前編とも言える物語だ。
遠く、江戸から京都で起こっている、薩長連合を中心とした新政府軍と旧幕府軍の戦争は、最初ぼんやりとしたイメージで語られている。
杢之進と澤村は、とりあえず幕府側につくつもりのようだが、彼らの政治信条などが語られることはなく、鎌倉時代以来の御恩と奉公の主従関係に基づく、「いざ鎌倉(江戸)の時は、御公儀のもとに馳せ参じる」という武士の矜持以上の理由は見えない。
農民ながら杢之進に剣術を習い、共に戦いに行こうとする市助に至っては、誰と誰が戦っているのかも、何をイシューとした戦争なのかも知らないのだ。
元来兵士でありながら、250年もの間戦うことを禁じられていた侍にとっては、これは千載一遇のチャンスであり、そこに深い理由は不要なのである。
しかし身近に無頼者たちとの争いが起こると、”人が人を斬り殺すこと”は、急速にリアリティを持って、登場人物たちの人生を絡め取ってゆくのだ。
冒頭、一振りの刀が精錬されてゆく過程が映し出されるが、誰もが裸で生まれてくる無力な人間は、玉鋼でできた刀を手にすることで、そのものが強力な武器となる。
この人間と武器、生物と鉄の関係は、塚本晋也にとっては出世作となった「鉄男」以来、度々描いているモチーフだ。
実際、本作の構造には「鉄男」との類似点がある。
主人公の杢之進は、塚本晋也演じる人斬りの澤村と出会ったことで、彼の体現する非日常の世界へと向かうが、「鉄男」で田口トモロヲ演じる「男」を金属人間にするのも、やはり塚本晋也なのである。
「男」の運転する車に轢かれ、頭に鉄の棒が突き刺さってしまったことで、金属と肉体を融合させる謎の力を手に入れた塚本晋也演じる「ヤツ」は、復讐として「男」を金属人間に変えてしまう。
鉄の棒を刀に置き換えれば、そのまま本作の澤村と杢之進だ。
また「バレット・バレエ」の拳銃に惹かれてゆく男や、「東京フィスト」のボクシングにのめり込む主人公(演じるのは共に塚本晋也)にも、本作に流れるこの作家の一貫した世界観を感じ取ることができる。
一件温和そうに見えて、実は人斬り大好きサイコな剣の達人である澤村は、「野火」で描かれた緑の地獄を彷徨い、心も体もぶっ壊れてしまった日本軍兵士たちの延長線上にある。
もはや刀と一体化し、殺すために殺す人間兵器の姿は、一線を超えてしまった者の行き着く先だ。
澤村は杢之進に対して、侍として戦いを求めるなら覚悟を決めろ、お前も刀と一体化して自分と同質の存在となれと迫る。
杢之進はいざその時になって、初めて自分には人を殺める覚悟がなく、それを欲してもいないことに気づき、無頼者たちと真剣ではなく木の棒で戦おうとするのだ。
しかし、素人ならともかく、手練れ揃いの無頼者たち相手では、当たり前だが全く勝負にならず、結果的に無頼者たちは澤村の手によって斬殺され、杢之進はその場を逃げ出すしかないのだが、澤村は執拗に追ってくる。
もはや金属=刀との同化と殺戮こそが存在理由となっている人間兵器は、杢之進に自らを殺させることで、彼をも精神的に取り込もうとしているのである。
そして彼らを包み込むように存在しているのが、どこまでも深い緑の樹海。
悠久の歴史を見てきた、物言わぬ巨木の根元に這いつくばり、殺し合わねばならない人間たちが哀しい。
刀とは何か、人が刀と一体となった時に、何が起こるのかを描く本作の表現で、非常に特徴的なのが日本刀の音響効果だ。
杢之進が刀を握りしめたビジュアルが、フラッシュバック的に何度も出てくるのだが、斬り合うのではなく、ただ握っている時にも「ギリギリギリ」という金属が軋むような音が入り、それが命の淵に立つ登場人物の、張り詰めた緊張感をうまく表現している。
サウンド担当の北田雅也のツイートによると、「音響効果刀」なる効果音専用の特殊な刀を開発して使っているそうだが、これは新鮮で耳に新しい体験だった。
登場人物中で面白いのが蒼井優が演じるゆうで、単純な男たちと違ってころころと言うことが変わる、一番人間らしい矛盾したキャラクターだ。
気立てのいい村娘は、恋心を抱く杢之進に「戦場に行くな」と言っていたのに、無頼者たちに家族を殺されると、今度は一転して「仇を討て」と言う。
彼に惚れているのに、澤村が圧倒的な強さで無頼者たちをやっつけると、「あらやだ、こっちもちょっとイイわ」とばかりになびきそうになったりする。
移ろい気味で艶っぽい彼女の言動が、杢之進と澤村の運命を無意識に動かしてゆくのである。
明治維新から70年後、侍の末裔たちは刀を銃に持ち替えて、有無を言わさぬ強大な権力によって数百万の人間兵器となって、アジア各地に散っていった。
そして大陸の奥地で、太平洋のジャングルで、それぞれに地獄を彷徨うことになる。
塚本晋也は、戦後70年の節目の年に、「野火」を発表した動機を「日本が再び戦争に向かっているのではないかという懸念」だと語っている。
あれから3年、再びの自主制作体制で本作を作った理由もまた、「その懸念がずっと消えない」からだと言う。
幕末から70年、10年の戦争の時代を挟んで戦後70年。
今年2018年は、明治維新から150年目である。
二本の映画を作らせた作家の深い懸念は、いつの日か現実となってしまうのだろうか。
物語を通して独特の歴史観が見えてくる、作家性豊かな凄みのある力作である。
今回は華やいだ未来への願いを込めて、埼玉を代表する日本酒銘柄・南陽醸造の「花陽浴 純米大吟醸 越後五百万石 無濾過生原酒」をチョイス。
大吟醸ならではの芳醇な吟醸香、フルーティーな甘み、キレ、スッキリとしたのどごし、すべてが絶妙に調和する。
これだけバランスの良い日本酒もなかなかない。
おせちを肴に、正月に飲みたい一本だ。

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