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ショートレビュー「バハールの涙・・・・・評価額1650円」
2019年01月31日 (木) | 編集 |
女だから、戦う理由がある。

イラクのクルド人自治区で、街を支配するイスラミック・ステート(IS)との戦いに身を投じる、女性だけの戦闘部隊の物語。
突然襲ってきたISに家族の男性を皆殺しにされ、自らは性奴隷にされた過去を持つ隊長バハールと、彼女を取材するフランス人ジャーナリストのマチルドの視点で描かれている。
「彼女が消えた浜辺」のゴルシフテ・ファラハニがバハールを、演出家としても知られるエマニュエル・ベルコがマチルドを演じ、これが二作目の長編作品となるエヴァ・ユッソンが監督・脚本を務める。
原題の「Les Filles du Soleil(太陽の女たち)」はバハールが率いる女性部隊の名。
バハールと彼女の部隊は、実在する多くのクルド人女性兵士を、マチルドはシリア内戦で殺害された隻眼のジャーナリスト、メリー・コルヴィンをモデルにしている。

アブー・バクル・アル=バグダーディーが、武装組織だったISによる“国家”を建国することと、自らのカリフへの即位を宣言したのは2014年。
シリア内戦の混乱に乗じて、瞬く間に勢力を拡大し、シリアとイラクの広い地域を支配下に置いたが、映像で見てもなおにわかには信じがたい、凄まじく残虐な暴政を敷いたことは記憶に新しい。
本作は、ISの急拡大期に当たる2014年夏に、イラクのトルコ国境近くのヤズディ教徒の町・シンジャルが攻撃された事実を元にしている。
国を持たない世界最大の民族と言われるクルド人は、大半がイスラム教徒だが、本作の主人公のバハールは、少数派のヤズディ教徒。
クルド人の一部が信仰する、独自の民族宗教だ。
異教徒に激しい憎しみを燃やすISにとっては、人間扱いしないでいい相手である。
2014年8月3日に町は陥落。
50万人が脱出したが、逃げ遅れた人も多く、男たちは無慈悲に虐殺され、女たちはISの兵士たちの性奴隷となり、子供たちは少年兵とするために連行された。
しかし、脱出に成功した女性たちの中には、自ら志願して抵抗組織の兵士になる者も多かったという。

映画は、奪われた子供たちの奪還作戦を描く“現在”を起点に、元は弁護士として幸せな人生を送っていたバハールの身に何が起こったのか、いかにしてISの支配を脱して、自ら銃を取るようになったのかを時系列を行き来しながら紡いでゆく。
作品自体はフィクションだが、モチーフは現実の出来事。
今年のノーベル平和賞を受賞した、ナディア・ムラドもバハールと同じシンジャル出身のヤズディ教徒で、ISに性奴隷にされた後脱出し、性暴力被害者の救済に当たっている人物。
作中には、ダリア・サイードというISに誘拐された女性の救出活動をしている女性政治家が出てきて、彼女のテレビでの呼びかけを見たバハールが、救出を依頼したことになっている。
銃後にいて助けるのか、最前線に立って戦うのか、選択は人それぞれだが、とんでもなく邪悪な暴力に直面した時、どちらも必要なのだと思う。
現実のクルド人女性部隊の戦いをルポしたニュース番組や動画も何度か見たことがあるが、彼女らの動機は「愛する者を殺されたから」「性奴隷として辱められたから」と映画と同じだった。
「女に殺されたら、天国に行けない」と信じるISの狂信的な兵士にとっては、勇猛なクルド女性部隊は恐怖の的だったという。

だいぶ沈静化したとは言っても現在進行形の戦争の話であり、映画的に盛った描写は皆無。
市街戦の戦闘描写はバハールに同行取材するマチルドの視点で描かれ、徹底的にリアリズム重視に仕上がっていて、まるで自分もその場にいるかの様な臨場感。
現実にも、こんな凄惨なことがたくさんあったのだろうと感じさせる。
戦争映画ではあるが、これはアクション映画ではないのだ。
バタバタと倒れてゆく「太陽の女たち」の姿と、彼女たちが自らを鼓舞するスローガン、「命、女、自由の時代」が心に刺さる。
今、観るべき作品だ。

今回は、烈女の映画なので「ドラゴン・レディ」をチョイス。
ホワイト・ラム45ml、オレンジ・ジュース60ml、グレナデン・シロップ10ml、キュラソー適量をステアしてグラスに注ぎ、スライスしたオレンジを添える。
ドラゴン・レディとは、元々男を支配するような神秘的な魅力のあるアジア人女性を指す言葉だが、この酒は結構甘口でジュース感覚で飲める。
バハールの様な女性たちに、平和な生活が戻りますように。

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ショートレビュー「チワワちゃん・・・・・評価額1600円」
2019年01月28日 (月) | 編集 |
誰もチワワちゃんのことを知らない。

ある日、東京湾で見つかったバラバラ死体。
被害者は二十歳の看護学校生・千脇良子、通称“チワワちゃん”
モデル活動もしていた彼女は、東京の片隅で青春を謳歌する、ある若者グループのマスコット的存在だった。
門脇麦演じるミキが、本作のストーリーテラー。
マスコミが虚実のはっきりしない情報を垂れ流す中、ミキは本名も知らない“友だち”だったチワワちゃんが、本当はどういう女の子だったのか、彼女の実像をどうしても知りたくなる。

昨年の「リバーズ・エッジ」に続く、岡崎京子の漫画の映画化。
同作とほぼ同時期の1994年に発表された原作は、30ページほどの短編作品だ。
時代設定を含めて、原作に非常に忠実に作られていた「リバーズ・エッジ」とは対照的に、本作の舞台は現在。
映画の前半は、大人たちの“ヤバイ金”600万円を奪った若者グループが、その金を三日で使い果たす、ミキいわく“青春の自爆テロ”のエピソードが続く。
ハーモニー・コリンの「スプリング・ブレイカーズ」を思わせる、狂乱の一夏を描くパーティームービーのパートは、原作には存在しないオリジナル要素だ。
後半は、その後殺されるまでの約2年の間に、チワワちゃんに何が起こったのか、不思議な焦燥にかられたミキが、交流のあった仲間たちに聞いて回る。
この部分は基本原作に忠実なのだが、浅野忠信演じるカメラマンのサカタなど、原作では名前が出てくるだけのキャラクターの比重が大きくなっていて、チワワちゃんを巡る人物相関はより複雑化している。

赤や緑の原色たっぷりの、浮世離れした映像。
アンダーグラウンドな若者たちのカルチャーと、シームレスにつながる怪しげな芸能界。
27歳の新鋭・二宮健監督は、岡崎京子的モチーフをテンポ良く、スタイリッシュに描写する。
原作の発表から25年がたった現在が舞台ゆえ、当時は存在しなかったSNSが重要な要素になっているが、元の話が極めて普遍的だから、新しい要素は自然に作品世界に吸収されていて、違和感は全くない。
ここでの門脇麦は、「リバーズ・エッジ」の二階堂ふみ同様、十人十色のチワワちゃん像を入れる空っぽの器の役回り。
彼女自身は、さほど大きな葛藤もないし、強い個性もない。
だからこそ、“殺人”という究極の非日常によって、突然人生を断ち切られたチワワちゃんが気になって仕方がないのだ。
人生の最もビビッドな1ページの共犯者として、ミキはチワワちゃんと言う曖昧な偶像を、現実を一生懸命に生きて死んだ、一人の女性として捉えようとする。

気のおけない遊び仲間だったり、料理上手な恋人だったり、破天荒なセックスフレンドだったり、クスリに手を出して借金しまくってるヤバいやつだったり、語る人物によってチワワちゃん像は全く異なる。
結局チワワちゃんが何者だったのかは、最後までハッキリしない。
本人はもういないし、彼女の実像が分かったところで何かが変わる訳でもない。
でも104分の映画を観終わると、ミキだけでなく私たち観客もチワワちゃんがとても愛おしくなり、彼女にもう一度会いたくてたまらなくなる。
それは「羅生門」の様に、多面的に浮かび上がるチワワちゃんの断片が、誰の心にもある過ぎ去った青春の狂騒と閉塞のアイコンだからだ。
タイトルロールを演じる吉田志織が、役柄同様の鮮烈な印象を残す。
漫画の映画化という点では、ビジュアル的なキャラクターの再現性も素晴らしい。
作り手のセンス・オブ・ワンダーを感じさせる、愛すべき佳作である。

今回は燃えたぎる青春の熱情「サンブーカ・コン・モスカ」をチョイス。
度数の高いイタリアのリキュール、サンブーカを使った、文字通りに燃えるカクテル。
グラスに透明なサンブーカ30mlを注ぎ、焙煎済みのコーヒー豆を3、4粒浮かせる。
サンブーカに火をつけ、20秒ほど経ったらグラスの口を不燃性の蓋で覆って消火。
コーヒーの香りを楽しみつつ、少しグラスを冷ましてからいただく。
浮かべたコーヒー豆はポリポリかじってもいい。

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サスペリア・・・・・評価額1700円
2019年01月26日 (土) | 編集 |
邪悪なダンスに、陶酔せよ。

風光明媚な北イタリアを舞台としたファースト・ラブストーリー、「君の名前で僕を呼んで」で脚光を浴びた、ルカ・グァダニーノ監督の最新作は、背徳感全開の挑戦的な怪作だ。
母国イタリアの大先輩、ダリオ・アルジェントの世界的ヒット作にして、70年代を代表するオカルト・ホラー映画の金字塔「サスペリア」の41年ぶりのリメイクは、色々な意味で衝撃的。
ざっくりとしたあらすじと主要なキャラクターはオリジナルを踏襲しているのだが、モチーフは同じでも全くアプローチが違い、似てるのは思わせぶりなズームの使い方くらいだ。
良い意味で70年代のイタリアン・ホラーらしく、B級テイストの分かりやすい作品だったオリジナルに対し、こちらは凝りに凝った暗喩劇で尺も1時間近く長い152分。
素材は同じでも、もはや別ジャンルの作品で、映画のテーマや物語の結末も全く異なり、アルジェント信者にとってはある意味冒涜だろう。
むしろオリジナルを観ていない人の方が、素直に楽しめそうだ。
ヒロインのスージー・バニヨンは、ダコタ・ジョンソンが演じ、カリスマ振付け師のマダム・ブランにはティルダ・スウィントン。
オリジナルでスージー役だったジェシカ・ハーパーも、重要なキャラクターとして顔を出す。
※核心部分に触れています。

1977年、ベルリン。
アメリカ人のスージー・バニヨン(ダコタ・ジョンソン)は、世界的に有名な舞踊団「マルコス・ダンス・カンパニー」の入団オーディションを受けるために、ボストンからやって来た。
折しも、有力なダンサーで、ドイツ赤軍との関係が噂されていたパトリシア(クロエ・グレース・モレッツ)が謎の失踪を遂げたばかり。
スージーのダンスは、舞踊団のリーダーでカリスマ振付け師マダム・ブラン(ティルダ・スウィントン)の目に止まり、パトリシアの代わりに舞踊団の公演で披露される演目「民族」のメインダンサーに抜擢される。
マダム・ブランの指導でメキメキと実力をつけていくスージーだったが、パトリシアに続いて、ダンサーのオルガ(エレナ・フォキナ)が、次いで寮でスージーの隣室だったサラ(ミア・ゴス)が失踪。
心理療法士のクレンペラー博士は、患者だったパトリシアの行方を捜すうちに、妄想だと思っていた彼女の言葉が真実なのではと疑いだす。
それは、舞踊団が魔女の巣窟で、団員たちが狙われているというものだった・・・・


タイトルの「サスペリア(Suspiria)」は、魔女三部作の着想の元となったイギリスの評論家トマス・ド・クインシーの著作「深き淵よりの嘆息(Suspiria de Profundis)」から取られている。
「Suspiria」には「ため息」の他に「嘆き」という意味もあり、本作のボスキャラである魔女・嘆きの母(Mater Suspiriorum)を指す。
オリジナルでは、嘆きの母の正体に関してはほとんど触れられていないのだが、後に三部作となる「インフェルノ」では暗黒の母(Mater Tenebrarum)が、「サスペリア・テルザ最後の魔女」では涙の母(Mater Lachrymarum)が登場し、古から存在してきた魔女三姉妹であることが明かされる。
三位一体の彼女たちは、世界中の邪悪な出来事に1000年の長きに渡って関わってきた、とても古くて強力な悪なのだ。

舞踊団が魔女の巣窟であること、年老いて肉体が滅びつつある自称嘆きの母のヘレナ・マルコスの新たな“器”として、若い娘を探す魔女たちの思惑など、オリジナルでは徐々に明らかになる謎は早々に明かされ、ミステリ的要素は皆無。
本作で描かれるのは、魔女の結社に象徴される古から受け継がれ、決して絶えることのない恐怖と悪の系譜
人間の社会では善と悪は表裏一体で、希望や喜びがある分、必ず絶望や悲しみもある。
悪は閉じていて、純粋でなければならなず、ダンスは恐怖を呼び覚ますための儀式。
劇中でも指摘されるように、魔女の結社はナチスやドイツ赤軍などの過激派団体と共通点が色濃い。
だからこそ、オリジナルの男女共学制バレエ学校設定では世界観が成立せず、本作では経済的にも外部から独立し、一つのベクトルに純化された女性のみの舞踊団でなければならないのだ。

あえて舞台をオリジナルと同じ1977年に設定したことにも意味があり、物語のあらゆるところに過去からの対照性の歴史が配置されている。
冷戦の時代、世界は敵と味方、善と悪に分かれており、ベルリンではマルクス主義革命を目指し、アンドレアス・バーダーやウルリケ・マインホフらが率いたドイツ赤軍(RAF)が猛威を振るう、テロルの季節が最終章に突入。
魔女の企みに気づくクレンペラー博士が、新たな悪の“証人”に選ばれるのは、彼がホロコーストの罪と後悔の記憶を持つからであり、驚くべきことにこの男性キャラクターをティルダ・スウィントンが特殊メイクで演じているのも、計算された対照性の演出の一貫と言えるだろう(ちなみにマルコス役も彼女)。
同様に、ダンサーを目指すスージー・バニヨンが、アーミッシュの元になりドイツにルーツを持つ厳格なキリスト教集団のメノナイト出身であること、彼らのライフスタイルが極めて禁欲的なこと、そして死にゆくスージーの母親とクライマックスで出現する“死”が二役なのも、同じ文脈。
世界は常に表裏一体の対照でできており、脈々と続いてきた歴史を背負って生きている人間は、誰一人として恐怖と悪から逃れることは出来ないのである。
名作ホラー映画のリメイク版で、グッと暗喩劇としての比重が増えたのは、ヴァンパイアをモチーフに、80年代のアメリカを描写した「モールス」を思い出した。

終盤の展開はオリジナルからだいぶ離れるが、スージーの母親のある台詞で物語の帰結する先は予想はついてしまう。
それでも、予測可能は暗喩劇としての本作の魅力をスポイルはしていない。
見えざる手によってベルリンへと導かれたスージーの内面の覚醒、彼女を取り込もうとするマダム・ブランとの関係の変化は丁寧に描写される。
常に人間の罪と悲しみと共にあり、偽りの悪を容赦なく粛清する、残酷で慈悲深き真の嘆きの母の誕生譚として、映画的なテリングは十分に工夫が凝らされており完成度は非常に高い。
ショックシーンでは、オリジナルでは魔女が犠牲者を殺すのになぜかナイフを使っていたが、今回は超自然的な力を解放。
舞踊団設定が生きるダンスの振り付けを利用した遠隔処刑や、生死の狭間で朽ちてゆく犠牲者たちの描写なども未見性がある。
そして「君の名前で僕を呼んで」に続いて、撮影監督を務めるサヨムプー・ムックディプロームの仕事は見事なもの。
原色の照明が印象的だったオリジナルとは対照的に、色を落としたビジュアルは寒々しいムードが漂い、その分ピナ・バウシュを意識したという「民族」のパフォーマンスと、クライマックスの暗黒舞踏ばりの“儀式”での鮮烈な赤が際立つ。
レディオヘッドのトム・ヨークによる耳に残る音楽も、伝説的なゴブリンのテーマ曲に勝るとも劣らない。

もっとも、それらの芸術的要素が素晴らしかったとしても、本作は万人向きの娯楽映画とは言い難い
ある意味でこれはホラーですら無いとも言えるし、このやたらと勿体ぶった語り口は、嫌いな人はとことん嫌いだろう。
それに、ある程度世界史を知らないと、物語を理解する糸口にすら辿り着けない可能性もある。
本作を観る前に予習すべきは、アルジェントのオリジナルではなく、20世紀のドイツ史なのかもしれない。
個人的にはオリジナルとは別の意味で大好物だったのだが、これは賛否両論別れるのが当然。
観客の中にある「サスペリア」的なるものに正面から挑戦状を叩きつける、ルカ・グァダニーノのラジカルな作家映画である。

今回は母は母でも慈愛の母、聖母マリアのシンボルカラーの青色のスパークリング「ラ・ヴァーグ・ブルー」をチョイス。
縁起物として、魔女の儀式ではなく、結婚式などのパーティでよく供されるブルゴーニュのブルースパークリング。
ソーヴィニヨン・ブランで作られ、やや辛口で口当たりも良く、柑橘系の爽やかな香りと適度な酸味を持ち、アペリティフとしても料理に合わせても美味しくいただける。
透明感のある美しいブルーは涼しげで、舌だけでなく目でも楽しめる。

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バジュランギおじさんと、小さな迷子・・・・・評価額1750円
2019年01月22日 (火) | 編集 |
愛が国境を越えてゆく。

願い事が叶うと噂の、インドにあるイスラム教の聖廟にお参りに来て、母親とはぐれてしまったパキスタンの女の子シャヒーダー。
生まれつき声を出せない彼女を保護したのは、インドの神話の中でも最強の戦士として知られるハヌマーン神を熱烈に信仰するパワン、あだ名もハヌマーンの別名である“バジュランギ”おじさん。
神に誓いを立てた経験な信者ゆえに、馬鹿正直で嘘がつけないパワンは、シャヒーダーをムンニ(お嬢ちゃん)と呼び、彼女の親を探してインドから国境を越えパキスタンへと、危険な冒険の旅に出る。
主人公のパワンをプロデューサーでもあるサルマン・カーンが演じ、迷子のシャヒーダー役にはオーディションで選ばれたハルシャーリー・マルホートラ。
「きっと、うまくいく」のカリーナ・カプール、ナワーズッディーン・シッディーキーらが脇を固める。
監督・脚本は「タイガー〜伝説のスパイ〜」のカービル・カーン。
これは全てが対照的な二人の、無私の愛に溢れた物語。

パキスタンの小さな村に住む6歳のシャヒーダー(ハルシャーリー・マルホートラ)は、声を出すことが出来ない。
このままでは学校にも行けないので、村の長老の勧めでインドにあるイスラム教の聖廟に、母親とお参りに行くことにする。
ところが、帰り道に迷子になったシャヒーダーは、たったで一人インドに取り残されてしまう。
そんな彼女と出会ったのが、クルクシェートラのハヌマーン祭りで情熱的なダンスを踊っていたパワン(サルマン・カーン)。
シャーヒーダーが迷子であることを知ると、これもハヌマーンの思し召しと考えたパワンは、彼女の親が見つかるまで保護することに。
しかしある時、てっきりヒンズー教のバラモン階級の娘だと思い込んでいたシャヒーダーが、パキスタンから来たイスラム教徒であることを知って動揺。
折しもインドとパキスタンの関係が悪化し、彼女を合法的に故郷に送る算段はことごとく頓挫してしまう。
フィアンセのラスィカー(カリーナ・カプール)から背中を押されたパワンは、シャヒーダーを連れて、パキスタンに密入国することを決意するのだが・・・・


インドを舞台に“迷子”を描いた作品といえば、実話ベースの「LION/ライオン 〜25年目のただいま〜」が記憶に新しい。
5歳の時に電車を乗り違え、迷子になってしまったサルー少年が、遠くオーストラリアに養子に出され、25年後にGoogle Earthを駆使し遂に故郷を探し当てる物語。
日本の約9倍の広大な国土に、ヒンディー語やベンガル語、ウルドゥー語など無数の言語が使われている多民族国家のインドでは、同じ国の中でも地域が違えば言葉は通じず、身元を照会する社会インフラも未発達のため、幼い子供にとっては自分が何者でどこから来たのかを伝えるだけでも難しい。
サルー少年の場合は、列車が着いた先が別の言語圏だったために、十分な意思疎通が出来なかった。

本作はフィクションだが、迷子の身元探しの条件はさらに悪い。
何しろ、シャヒーダーは喋れないのである。
しかも6歳児ゆえ、読み書きもまだ習っていないので、自分の名前や住んでいた町の名を伝えることも出来ない。
彼女がインド人だと思い込んでいるパワンは、とりあえずインドの主要な町の名前を片っ端から言ってみるのだが、当然シャヒーダーは首をかしげるばかり。
だがある時、偶然モスクの前に立ち止まった時、彼女がいつもやっているように自然にモスクに入り祈るのを見て、初めて彼女がパキスタン人だと知る。
映画の前半1時間は、パワンのそれまでの人生の軌跡と、情報が全く無い少女の正体が分かるまで。
後半1時間半は彼女をパキスタンの親元へ返すための、波乱万丈の壮大なロードムービー

単に宗教と国籍が違うというだけではない。
インドとパキスタンは、過去三度も戦火を交え、2001年にはパキスタンのイスラム過激派がインド国会を襲撃した事件を巡る対立から、核戦争ギリギリまでいった不倶戴天の敵国同士
それにシャヒーダーは、アジアのスイスと呼ばれるほど風光明媚な土地ながら、両国の戦争の舞台となり、現在も係争中のカシミールから来たのだ。
ハヌマーンを熱烈に信仰するパワンにとっても、シャヒーダーがパキスタン人のイスラム教徒だったことは心中穏やかではない。
彼自身は過激派とは距離を置いているようだが、武の神でもあるハヌマーンは、パキスタンを敵視するヒンズー至上主義者にとっても象徴的な存在。
劇中でも駐インドのパキスタン大使館が暴徒化したデモ隊に襲われ、閉鎖されてしまう描写があるが、民族義勇団(RSS)に代表されるヒンズー至上主義勢力の尖兵となっている過激派組織、バジュラング・ダルのシンボルは、名前からも分かるようにハヌマーンなのである。
ハヌマーン信仰には、愛と暴力が背中合わせで存在しているのが現実なのだ。
一見ぼーっとしたのび太系ながら、パワンがやるときはやる武闘派だったりするのも、あだ名だけでなく、彼自身もハヌマーンの二面性を併せ持つ人間だからだろう。

しかし、彼は基本的には愛の人であり、彼の中では無私の愛=寛容が暴力=不寛容を圧倒する。
「必ずシャヒーダーを親元に帰す」と、ハヌマーンへ誓いを立て、パキスタンに密入国すると、武闘派の顔は影を潜め、ひたすら愚直に彼女の親を探し続ける。
ここから、パワンが嘘をつけなかったことで、彼をインドのスパイと勘違いして追跡するパキスタンの治安機関と、彼の真意を知って取材ついでに手伝いを買って出るナワーズッディーン・シッディーキー演じるジャーナリストのナワーブが登場。
シャヒーダーの故郷を探しながらの逃避行はスリリングで、コミックリリーフとしてのナワーブの存在も効いており、彼の体現するメディアの功罪の描写もテーマを掘り下げる。
この旅を通じて、モスクに寝泊まりさせてもらったり、一般のパキスタン人たちと触れ合うことによって、パワンの意識も急速に変わってゆく。
もはや彼は国や宗教の軛を逃れ、一人の人間として無私の愛という行動原理に突き動かされている。
「ラーマーヤナ」で、ハヌマーンが最高神ヴィシュヌの権現であるラーマを助けたように、無垢なる存在であるシャヒーダーに献身することで、ごく平凡な男だったパワンは、人間の内面に眠っている神性を覚醒させ、自らが尊い存在となってゆくのだ。
インドとパキスタンの絡み合った憎しみの関係が、国境を越えてやってきた愛によって溶けてゆくプロセスは、ぶっちゃけ出来過ぎではあるのだけど、極上のストーリー・テリングのカタルシスを味わえる。

そしてパワンの尽力で親元にたどり着いたシャヒーダーが、両国の民衆が見守る中、ついに生まれて初めて声を出す時、彼女はなんと言ったのか!
一方で慈愛の、一方でヘイトの象徴に祭り上げられ、どちらにも転ぶ可能性があるハヌマーンをフィーチャーしながら、映画はここでボロボロになったパワンの姿に、より上位の存在を投影する。
危険を顧みず、無私の愛で自分を助けてくれたバジュランギおじさんは、彼女にとってもはや単なる人間を超えたスーパーヒーロー。
なるほど、一神教のイスラムに呼応するのはこれしかあるまい。
神は常に、人の中にいるのである。

おなじみミュージカルから、ジャッキー・チェンばりのアクションまでサービス精神満点。
159分の長尺も、あっという間に過ぎてゆく。
そして、小さな迷子を演じたハルシャーリー・マルホートラちゃんの天使っぷりったら!
本国では2015年公開と少し前の作品だが、劇場で観られて良かった。
少女とおじさんの逃避行、インド版「LOGAN ローガン」は溢れんばかりの愛に満ちた傑作だ!

今回は、インドを代表するビール「キングフィッシャー プレミアム」をチョイス。
インドのシリコンバレーとしても知られるバンガロールに本拠を置く、ユナイテッド・ブルワリーズの看板銘柄で、日本のインドレストランでも定番中の定番。
スッキリした喉越しと、適度なコク、強目の炭酸が特徴で、南国ビールらしいライトなテイスト。
とりあえずインド料理なら、スパイスたっぷりのベジタリアン料理でも、シャヒーダーが大好きな肉料理でもなんでも合う。

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ショートレビュー「クリード 炎の宿敵・・・・・評価額1700円」
2019年01月16日 (水) | 編集 |
虎の目を取り戻せ!

前作に勝るとも劣らない、素晴らしい仕上がりだ。
とは言っても、作品のベクトルとテイストはかなり異なるのだが、これは前作で監督・脚本を担当したライアン・クーグラーがエグゼクティブ・プロデューサーに退き、作り手の顔ぶれがガラリと変わったのが大きい。
監督は本作が長編2作目となるスティーヴン・ケープル・Jr.にバトンタッチし、チェオ・ホダリ・コーカーと共同で脚本を担当しているのはスタローン自身なのである。
ぶっちゃけ、遂にチャンプになって父と並んだアドニス(ドニー)とロッキーが、因縁のドラゴ親子の挑戦を受ける物語は、セオリー通りの展開で新鮮味はなく、人間ドラマの面白さは前作に及ばない。
しかし、クーグラー色の強かった前作より、ずっと「ロッキー」している本作は、外連味たっぷりのボクシング映画の魅力としてはむしろ上回っているのだ。
何より、ロッキーに負けたことで人生そのものが狂ってしまった、ドラゴ親子のエキセントリックさがいい。
復讐のために息子に重荷を背負わせるとか、「ドラゴンボール超 ブロリー」のベジータへの怨みに囚われたブロリー親父にデジャヴ。

だが、実はこのコンセプトは、オリジナルシリーズの一作目と、二作目以降の関係と同じ。
一作目の「ロッキー」でアポロ・クリードに敗れるも、その善戦によって時の人となったロッキーが「ロッキー2」でチャンピオンとなると、シリーズは良くも悪くも見世物としての色彩を強め、第3作「ロッキー3」では当時人気絶頂のプロレスラー、ハルク・ホーガンと異種格闘技戦を行い、冷戦末期に作られた本作の前日譚でもある「ロッキー4/ 炎の友情」では、アメリカの威信をかけてソ連代表のドラゴと戦った。
要するに今回は、冒頭で「ロッキー2」をやって、「3」のプロットを踏襲しつつ、「4」に繋げたようなもの。
実際のヘビー級ボクサーだという、フローリアン・ムンテアヌ演じるドラゴの息子ヴィクターが、ドニーよりもずっと大きくて、もう見た目で全然勝てそうもないのも嘗てのvsドラゴ戦と同じ(スタローンとドルフ・ラングレンの身長差は実に20㎝以上!)。
肉体改造のための地面をひたすらぶっ叩く効果のよく分からない練習法とか、砂漠の真ん中にあるマッドマックスな“虎の穴”とか、ヒロインのテッサ・トンプソンの歌手設定を生かしたクライマックスのド派手な入場とか、サービス精神マックスの展開に観ていて嬉しくなってしまった。

中盤とクライマックスに配されたボクシングシークエンスは、それほど長くはないのだけど、展開はスリリングで結末が分かっていてもなんだか凄い試合を観た気にさせる。
やっぱオリジナル世代としては、実にいいところでロッキーのテーマがかかるだけで無条件にアガってしまうのだ。
そして過去40年にわたるシリーズの積み重ねが、画面に映らない部分からドラマに深みを与えている。
30年前のアポロとの戦いの顛末があるからこそ、クライマックスの最後にドラゴ父がとるある行動には、色々な感情が動かされてグッとくるものがあった。
劇中何度も繰り返されるのが「なぜ戦うのか?」という問い。
キャリアを重ねるに従って、ドニーの中でもその意味は変化している。
前作が「何者でもない若者が何者かになる」までの話だとしたら、これは「何者かであり続ける」ことの意味を描いた作品。
セオリー通りでも作劇と人物描写は非常に丁寧で、説得力は十分。
終幕である決断をするロッキー、未来を向くドニー家族、再起をかけるドラゴ親子のその後にも余韻が広がる。

しかし、ドルフ・ラングレンはともかく、色んな意味でスタローンにも因縁深い、“あの人”まで出て来るとは思わなかった。
ドラゴ親子の台詞の、“あの人”への恨み節は、変な意味で実感こもってたな(苦

今回の決戦の舞台はモスクワ。
というわけで「モスクワのラバ」こと「モスコ・ミュール」をチョイス。
氷を入れたグラスに冷やしたライム・ジュース15ml、ウォッカ45ml、適量のジンジャーエールを注ぎ、ステアする。
本来のレシピはジンジャービアなので、それでもよい。
最後にスライスしたライムを入れて完成。
名前の由来は「ラバに蹴飛ばされるほど強い」という意味で、まさにヴィクター・ドラゴのパンチのような酒だ。

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こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話・・・・・評価額1650円
2019年01月13日 (日) | 編集 |
ワガママ言ってはダメなのか?

喜怒哀楽、人間の色々な感情が詰まった、いい映画だった。
全身の筋肉が徐々に衰える進行性の病、筋ジストロフィーを患いながら、在宅で生活することに拘り続けた、鹿野靖明と彼の生活を支えたボランティアたちを描く、実話ベースの物語。
とにかく登場人物たちが魅力的。
軸となるのは鹿野とボランティアの医学生・田中、ひょんなことから巻き込まれる、田中の彼女の美咲の3人。
初対面からあまりにもワガママな要求を連発する鹿野に反発する美咲は、やがて彼の人柄に魅せられてボランティアの中心メンバーに。
一方の田中は、ボランティアとしても、彼氏としても色々自信を失ってゆく。
晩年の鹿野靖明に取材した渡辺一史の名著、「こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち」を、「ビリギャル」の橋本裕志が脚色、食育をモチーフにしたやはり実話ベースの問題作「ブタがいた教室」の前田哲監督がメガホンを取った。

1994年、札幌。
34歳の鹿野靖明(大泉洋)は、子供の頃に筋ジストロフィーと診断され、以来ずっと闘病生活を送っている。
今では首から下は手がわずかに動かせる以外ほぼ麻痺し、呼吸器の筋肉も衰えてきているので、主治医の野原先生(原田美枝子)には、入院して人工呼吸器をつけることを勧められている。
だが、あくまでも自立した生活を送りたい鹿野は入院を拒否。
多くのボランティアに支えられて、今も自宅に暮らしている。
北海道大学の医学生・田中(三浦春馬)はそんなボランティアの一人だが、ある日彼女の美咲(高畑充希)が鹿野の自宅に様子を見に来る。
すると、鹿野に気に入られた美咲も、よくわからないうちにボランティアの一員として扱われることになるのだが、真夜中に「バナナを買ってこい」など、鹿野のワガママな要求にキレた美咲は早々にボランティアを辞めることを宣言。
しかし、しばらくすると田中経由で鹿野が謝りたがっているという話を聞き、再び会うことになるのだが・・・


1959年に生まれた鹿野靖明は、病気が明らかになった時、二十歳まで生きられないと宣告されたが、実際には倍以上の時を生きて2002年に42歳で逝去。
渡辺一史の原作は2000年代に入ってからの鹿野へのインタビューを中心としたノンフィクションで、映画化にあたってはかなり脚色されている。
濃密な人生のうち、映画に描かれているのは、とことん運命に抗っていた鹿野が遂に人工呼吸器をつけることになり、それでも自立した生活を成立させるまでの1994年からの一年間。
絶対的な中心に鹿野がいるのは変わらないが、シーソーの両端でドラマを動かしてゆく田中と美咲のキャラクターは、本に登場する多くのボランティアをモデルに創作された人物だ。
筋ジストロフィーの肉体を表現するため、体重を大幅に落とすデ・ニーロ・アプローチで挑んだ大泉洋が素晴らしく、三浦春馬と高畑充希が演じる、田中と美咲というそれぞれに対照的な境遇に育ち、異なる背景を抱えた若者の造形もいい。
彼らの青春の苦悩が、ボランティアとしての葛藤と絡み合い、軸をぶらすことなく見事な青春ストーリーともなっているのである。
もちろん、第一義的には実在した人物を描くのだから、映画作りのスタンスは極めて真摯。
介護生活の作り込みは説得力十分なもので、例えば人工呼吸器を付けた後の鹿野の台詞の出方が、呼吸器の作動の影響を受けるといった、ディテール描写への拘りもリアリティを高めている。

それにしても、四半世紀前の1994年の社会は今とは全然違う。
インターネットは普及前、SNSなんて概念すら存在せず、携帯電話は一応はあったものの、一般化はまだまだ先のポケベルの全盛期で、それすら持ってない人も多かった。
誰かと連絡を取りたかったとしても、相手が家にいなければ留守電を入れて返事を待つしかなかったのである。
コミュニケーションの手段が現在よりもはるかに脆弱だった時代に、24時間要介護なのだから、ボランティアの数合わせだけでも大変な苦労だ。
電話をかけるのすら、もう筋力が衰えて受話器を持ち上げられないので、誰かの手を借りなければならない。
鹿野はまだ体が動いた時代から、自ら街に出てボランティアを募集し、集まったボランティアからまた別のボランティアを集めるネットワークを構築。
彼の家に集ったボランティアの総数は、延べ500人以上にのぼったという。
もちろん、入院するなり施設に入りなりすれば、そんな心配は無用なのだが、なぜ彼は大変なことを分かっていて、あえて入院を拒否して在宅の自立生活にこだわったのか。

彼の生き方への理解が、最初は鹿野に反発していた美咲が、一転して彼に魅せられる理由であって、本作が私たちに伝えたいことなのだ。
病院にいるということは、それは鹿野という人間が「一方的にお世話される存在」になってしまうこと。
それは楽かもしれないけど、鹿野はそんな消極的な人生を拒否する。
みんなが普通にやってることを、自分もやりたい。恋もしたいし、旅行へも行きたい。人生を謳歌し、楽しみたい。
病気になったのは、別に誰のせいでもないし、仕方のないこと。
でも、それで体が動かないからといって、全てを諦める必要はどこにもない。
鹿野は、在宅で自立した生活にこだわり、自らボランティアを集めるという「仕事」をすることで、常にアクティブに人生を送り、そんな彼のボランティアをする事で、周りの人たちの生き方も変わってゆく。
本作では、医者になる自信を失いかける田中のキャラクターに代表されているが、特に多かったという医療系の学生ボランティアにとっては、厳しい現場を経験できる又とないチャンスでもあり、鹿野は彼らにとっては介護対象者である以上に「先生」でもあるのだ。
彼は確かにストレートな物言いをするんだけど、何かを出来ない人が出来る人に助けを求めるのは、ある意味当然のことで、それはワガママではあっても「迷惑」とは違うと実感させられる。

鹿野靖明という、かつて確かに実在した男の生き様を描き、若者たちの成長を描くフィクションの青春ドラマとナチュラルに融合させて、とても面白い劇映画に昇華した本作の作り手たちは、本当にいい仕事をしていると思う。
しかし、500人ものボランティアが途切れることなく集い、亡くなるまで支え続けたって、本人の人柄が大きいのだろうけど本当に凄い話だ。
お涙ちょうだいにならず、ユーモアが前面に出て、考えさせつつ楽しい映画になっているのもこのユニークな傑物あってのこと。
鹿野をはじめ、端役に至るまでキャラ立ちした登場人物たちに大い感情移入し、時には笑って、ちょっとウルっときて、楽しみながらも誰もが生きている限り無関係ではいられない、「福祉」のあり方や要介助者にとっての「自立」の意味など、観終わってからも色々な問いが頭に広がり、じっくりと考えさせられる。
エンターテイメントとして間口が広く良く出来ているだけでなく、高い寓意性と教育性を併せ持つ秀作である。

今回は、北海道の話なので、鹿野靖明と飲み交わしたかった「サッポロ生ビール 黒ラベル」をチョイス。
1876年に設立された、札幌麦酒醸造所がルーツ。
金色の北極星が特徴の黒ラベルは、軽すぎず、重すぎず、麦の旨味とスッキリした喉越し、クリーミーな泡のバランスは、「ザ・日本のビール」と言うべきスタンダードなもの。
今の季節は新年会でも飲む機会が多いが、とりあえず何を肴にしても美味しい、オールマイティで使い勝手のいいビールだ。

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ショートレビュー「マチルド、翼を広げ・・・・・評価額1600円」
2019年01月06日 (日) | 編集 |
大きすぎる愛は、ちょっと辛い。

「カミーユ、恋はふたたび」などで知られるノエミ・ルヴォウスキーが、自らの子供時代をモチーフに、監督・脚本・出演を兼務して描いたユニークなジュヴナイル・ファンタジー。
舞台はフランス、パリ。
新星リュス・ロドリゲス演じるマチルドは、ちょっと心を病んだお母さんと二人、アパルトマンに暮らししている9歳の少女。
医者のお父さんは、離婚して離れて暮らしている。
学校の面談での、マチルドの先生とお母さんの全く噛み合わない会話、突如としてウエディングドレスを購入し、そのままの姿で街を歩くなどの奇行。
マチルドがどんなに気を付けても、お母さんは毎回やらかしてしまうのだ。
そんなある日、彼女はお母さんからプレゼントをもらう。
大きな包みに入っていたのは、小さなフクロウ。
なぜかマチルドにだけ人間の言葉で語りかけるフクロウは、彼女に様々な助言を与え、孤独な少女の導き手となってゆく。

しっかり者に見えても、どんどん壊れてゆくお母さんとの生活は、本人も意識しないうちにマチルドの幼い心に大きな葛藤をもたらしている。
お母さんに振り回されてばかりなので学校で友だちを作れず、スカイプで繋がっているお父さんにも、心配させまいと心の内全ては開かせない。
9歳の少女にとって、このままお母さんの症状が悪化し続ける未来に見えるものは何か。
全編を通じて映画のバックボーンとして仕掛けられているのが、マチルドが心に持つ「母との別れ=死」のイメージ。
彼女の一族の「先祖の話」として、娘を水の事故で失ってしまった母親の物語がむかし話的に語られ、沈んだ娘の姿が「ハムレット」の溺死シーンをモチーフにしたミレーの絵画「オフィーリア」を思わせるイメージで描写されるが、その娘の顔はマチルドなのである。

先日公開された、「シシリアン・ゴースト・ストーリー」でも重要なメタファーとなっていたフクロウは、夜の鳥であり、ギリシャ神話では知の女神アテナの従者であり、多くの文化で生と死、現世と常世を取り持つ存在とされている。
お母さんに常に死の影を感じているマチルドは、フクロウの助言を受けて学校の理科室にある標本のガイコツを盗み出し、埋葬するという実に子供らしいやり方で、彼女を苦しめる“死”の予感を能動的に払拭し、溜め込んだストレスを発散する。

しかし、それでマチルドの心が多少救われたとしても、現実の破綻はいつかやってくるのだ。
いくら努力しても、自分の精神がもうボロボロの状態で、二人の生活が立ち行かなくなっているのは、娘以上にお母さん自身が自覚している。
それでも、いつか限界がくるまで一緒にいたい。
心の病という、自分ではどうにもならない問題を抱えたお母さんと、お母さんを守りたいのに、まだ幼くあまりにも無力な娘。
お母さん役でもあるノエミ・ルヴォウスキーの、嘗ての自分でもあるマチルドを見つめる、優しく繊細な演出が光る。
お互いを想う大きく深い愛が切なく、心を打つ。

現実は残酷だけど、お母さんはあくまでもマチルドのことを一番大切に思っていて、同じくらい彼女を愛しているお父さんもいるし、フクロウも見守っている。
マチルドが周りの愛を受け入れて成長し、人生には別れが必要な時もあること、それは必ずしも死の様に永遠のものとは限らないことを理解した時、水中に沈んだオフィーリアは遂に解放されるのである。
フォークロア的なアプローチもなかなかセンス良く、ちょっとビタースイートで詩的な寓話だ。

今回は、翼を広げたマチルドのイメージで「エンジェル・フェイス」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、カルバドス15ml、アプリコット・ブランデー15mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
フランスのノルマンディー地方の名産品、リンゴのブランデー、カルヴァドスと、アプリコット・ブランデーを、ドライ・ジンの清涼さがスッキリとまとめ上げる。
甘口で優しい味わいの飲みやすいカクテルだが、マチルド同様に芯は結構強いのだ。

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