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2019年02月27日 (水) | 編集 |
彼女たちの、知られざる戦争。
太平洋戦争も末期に差し掛かった昭和19年。
すでに日本の南部は空襲に晒され、危機感を募らせた20代を中心とした若い保母たちが、53人もの幼い子供たちを連れて東京から埼玉県の農村に避難し、「疎開保育園」を開設したという実話ベースの物語。
小学生以上の、いわゆる「学童疎開」を描いた作品は過去に何本もある。
しかし、保育園が丸ごと疎開したという話は初耳。
おそらく、劇映画で描かれたのは初めてではないだろうか。
保母のリーダー板倉楓に、キャリアベストの好演を見せる戸田恵梨香、本作の語り部ともなる新米保母の野々宮光枝を大原櫻子が演じる。
監督・脚本は、山田洋次のもとで長年にわたり助監督・共同脚本家として活動し、「ひまわりと子犬の七日間」で監督デビューした平松恵美子。
監督二作目にして、記憶に残る傑作をモノにした。
昭和19年11月。
戦局は次第に悪化し、東京でも米軍機に対する警戒警報が頻繁に鳴る様になっていた。
東京が戦場となるかもしれない。
品川の戸越保育所では、保母のリーダー板倉楓(戸田恵梨香)が園児の安全を確保するために、集団疎開を模索していた。
あまりにも幼い子供と別れたがらない親を説得しつつ、何十人もの子供たちが安心して暮らせる疎開先を探す。
ようやく受け入れ先として見つかったのは、埼玉の荒れ寺。
急ぎ片付けて疎開生活をスタートしたものの、53人もの園児たちを抱えた疎開保育園は圧倒的に人手不足。
新米の野々宮光枝(大原櫻子)や神田好子(佐久間由衣)ら若い保母たちは、子供たちのおねしょから不足する食料まで、毎日の様に噴出する問題に直面しながらも、互いに励ましあいながらなんとか日常を保ってゆくのだが・・・
どんなに戦争が激しくなっても、なんとかして日常を繋ぎとめようと抗う、銃後の女性たちの目線で描かれる物語。
軍都・呉に嫁いだ一人の少女を通して戦争の時代を見つめた、傑作アニメーション映画「この世界の片隅で」にも通じるスタンスだ。
ドラマの軸となるのは、戸田恵梨香演じる頼りになるリーダーの楓と、大原櫻子の失敗ばかりの新米保母の光枝の二人。
前半は語り部でもある光枝の視点で物語は進み、後半戦火の高まりと共に寡黙なリーダーの苦悩が前に出てくる構造だ。
作劇に奇をてらった部分は全くなく、じっくりとキャラクターを描きこんでゆくスタイルは、松竹大船の伝統を感じさせる鉄板の安定感。
台詞にプラスして感情を保管する様に細かくジェスチャーを入れる演技などは、自然さという意味ではちょっと古く感じなくもないが、分かりやすさに繋がっていることは間違いない。
アメリカによる日本本土空襲は、1942年4月18日のジミー・ドーリットル中佐率いる16機のB-25爆撃機によるものが最初。
だがこの時の作戦は本来陸上機のB-25を無理やり空母から発艦させ、日本各地を爆撃した後は、そのまま日本列島を突っ切って大陸に脱出し、中華民国支配地で機を捨ててパラシュート降下するというもの。
真珠湾以来連戦連勝の日本軍の鼻をへし折り、米国民の戦意高揚を呼び込むための捨て身の戦法で、継続できる様なものではなかった。
劇中で「空襲もずっと前にあったきりだし」という台詞があるが、これはドーリットル空襲のことなのである。
しかし1944年の6月に九州が初空襲にあったのを皮切りに、アメリカは着々と首都攻撃の準備を進め、遂に1944年11月29日に東京への無差別爆撃が始まる。
戸越保育所が疎開するのは、この直後のことだ。
疎開してからしばらくは、疎開保育園を成り立たせるための奮闘の毎日。
フィーチャーされるのは、大原櫻子演じる保母たちの中でも一番年少の光枝で、子供が子供の面倒を見ているという感じで、失敗ばかり。
何しろここでは、一日の終わりに子供たちを家に帰すことができないので、保母たちは24時間子供たちの世話に追われ、息つく暇もない。
もっとも、色々大変ではあるものの、戦争の影はまだ遠い。
天真爛漫な性格の光枝は、毎日の様に問題が発生する疎開保育園のムードメーカーとして、なくてはならない存在となってゆく。
保母としての経験もスキルも大してない彼女が、唯一得意なのが本作のタイトルともなっているオルガンを弾くこと。
オルガンは、生きていくことがやっとの時代に、疎開保育園の人々が「文化的な生活」を保つための最後の武器でもある。
だが、保母たちが必死に守る小さなサンクチュアリも、時代と社会から自由ではないのだ。
封建的で不寛容な風潮は、疎開保育園が地元のコミュニティに溶け込むことを許さない。
男性優位の軍国の社会では、どんなに理不尽な扱いを受けても、子供たちを抱えた圧倒的弱者である保母たちは、黙って男たちの横暴に従うしかないのである。
この辺りの抑圧的意識は「LGBTは生産性がない」と言い放った政治家の炎上騒動を見ると、残念ながら現在日本にも色濃く残っていると思わざるを得ない。
そして、遠くにあるものだった戦争は、静かに忍び寄ってくる。
東京の空襲は日を追うごとに激しくなり、遂に1945年3月10日の東京大空襲を迎える。
子供を預けた親たちや東京に戻っていた保母の死、関係者の予期せぬ出征など、田舎には来ないと思っていた戦争によって、疎開保育園は様々な形で影響を受けてゆく。
喪失は突然降りかかり、誰もがもう無邪気ではいられない。
親友の好子を亡くし悲しみに打ちひしがれる光枝が、両親が亡くなったことを子供に伝えるシーンは本作の白眉。
終盤になると、保母たちの頼りになるリーダーの楓にも変化が起こる。
全てを抱え込んでいた彼女は、疎開先にまで空襲の火の手が迫った時、遂に心が折れてしまうのだ。
先に東京大空襲を経験している彼女が語る「どこまで逃げても、戦争が追いかけてくる」恐ろしさが、実感を持って描かれている。
過酷な時代にあって、光枝の演奏する優しく懐かしいオルガンの音色と子供たちの元気な歌声に、平和への願いが切実に伝わってきて、思いっきり涙腺が決壊。
子供が子供であることを許されない様な時代には、決して後戻りしてはいけないのだ。
強気な仮面の下に揺れ動く心を隠した、“怒りの乙女”こと板倉楓を繊細に演じた戸田恵梨香が素晴らしく、間違いなく代表作になるだろう。
彼女を支える若き保母たちを演じた女優陣も大健闘だ。
食糧難の時代なのに、大原櫻子がプニプニしていて、終盤むしろ肉付きがよくなるのはちょっと気になった(可愛いんだけど)が、今年観た日本映画ではダントツの仕上がり。
ちびっこばっかり集めて、撮影も相当大変だったろうが、劇映画とはいえ保母たちの仕事っぷりは本当に凄い。
戦争という特殊な状況下の話ではあるが、基本やることは現在でも同じだろう。
保育士を目指す人は絶対観た方がいいし、子供を預ける側もこれを観たら頭が上がらなくなる。
教育性も高いので、生きた歴史の教材として小中学校などでも上映して欲しいし、疎開保育園の記憶と共に後世に受け継いでゆきたい秀作だ。
本作で疎開保育園があったのは、北東部にあった平野村(現・蓮田市)。
今回は平野村から少し北にある南陽醸造の「藍の郷 純米酒」をチョイス。
同蔵の「花陽浴」は全国的な人気で今ではなかなか手に入らなくなってしまったが、こちらはリーズナブルなこともあり比較的買いやすい。
酒米は彩のかがやき100パーセントを60パーセント精米。
流石に花陽浴ほどの深みはないが、それでもフルーティーな香り、米の甘み、あっさりしたのどごし、適度なコクすべてが調和する味わいは一流。
CPに対する満足度は非常に高い。
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太平洋戦争も末期に差し掛かった昭和19年。
すでに日本の南部は空襲に晒され、危機感を募らせた20代を中心とした若い保母たちが、53人もの幼い子供たちを連れて東京から埼玉県の農村に避難し、「疎開保育園」を開設したという実話ベースの物語。
小学生以上の、いわゆる「学童疎開」を描いた作品は過去に何本もある。
しかし、保育園が丸ごと疎開したという話は初耳。
おそらく、劇映画で描かれたのは初めてではないだろうか。
保母のリーダー板倉楓に、キャリアベストの好演を見せる戸田恵梨香、本作の語り部ともなる新米保母の野々宮光枝を大原櫻子が演じる。
監督・脚本は、山田洋次のもとで長年にわたり助監督・共同脚本家として活動し、「ひまわりと子犬の七日間」で監督デビューした平松恵美子。
監督二作目にして、記憶に残る傑作をモノにした。
昭和19年11月。
戦局は次第に悪化し、東京でも米軍機に対する警戒警報が頻繁に鳴る様になっていた。
東京が戦場となるかもしれない。
品川の戸越保育所では、保母のリーダー板倉楓(戸田恵梨香)が園児の安全を確保するために、集団疎開を模索していた。
あまりにも幼い子供と別れたがらない親を説得しつつ、何十人もの子供たちが安心して暮らせる疎開先を探す。
ようやく受け入れ先として見つかったのは、埼玉の荒れ寺。
急ぎ片付けて疎開生活をスタートしたものの、53人もの園児たちを抱えた疎開保育園は圧倒的に人手不足。
新米の野々宮光枝(大原櫻子)や神田好子(佐久間由衣)ら若い保母たちは、子供たちのおねしょから不足する食料まで、毎日の様に噴出する問題に直面しながらも、互いに励ましあいながらなんとか日常を保ってゆくのだが・・・
どんなに戦争が激しくなっても、なんとかして日常を繋ぎとめようと抗う、銃後の女性たちの目線で描かれる物語。
軍都・呉に嫁いだ一人の少女を通して戦争の時代を見つめた、傑作アニメーション映画「この世界の片隅で」にも通じるスタンスだ。
ドラマの軸となるのは、戸田恵梨香演じる頼りになるリーダーの楓と、大原櫻子の失敗ばかりの新米保母の光枝の二人。
前半は語り部でもある光枝の視点で物語は進み、後半戦火の高まりと共に寡黙なリーダーの苦悩が前に出てくる構造だ。
作劇に奇をてらった部分は全くなく、じっくりとキャラクターを描きこんでゆくスタイルは、松竹大船の伝統を感じさせる鉄板の安定感。
台詞にプラスして感情を保管する様に細かくジェスチャーを入れる演技などは、自然さという意味ではちょっと古く感じなくもないが、分かりやすさに繋がっていることは間違いない。
アメリカによる日本本土空襲は、1942年4月18日のジミー・ドーリットル中佐率いる16機のB-25爆撃機によるものが最初。
だがこの時の作戦は本来陸上機のB-25を無理やり空母から発艦させ、日本各地を爆撃した後は、そのまま日本列島を突っ切って大陸に脱出し、中華民国支配地で機を捨ててパラシュート降下するというもの。
真珠湾以来連戦連勝の日本軍の鼻をへし折り、米国民の戦意高揚を呼び込むための捨て身の戦法で、継続できる様なものではなかった。
劇中で「空襲もずっと前にあったきりだし」という台詞があるが、これはドーリットル空襲のことなのである。
しかし1944年の6月に九州が初空襲にあったのを皮切りに、アメリカは着々と首都攻撃の準備を進め、遂に1944年11月29日に東京への無差別爆撃が始まる。
戸越保育所が疎開するのは、この直後のことだ。
疎開してからしばらくは、疎開保育園を成り立たせるための奮闘の毎日。
フィーチャーされるのは、大原櫻子演じる保母たちの中でも一番年少の光枝で、子供が子供の面倒を見ているという感じで、失敗ばかり。
何しろここでは、一日の終わりに子供たちを家に帰すことができないので、保母たちは24時間子供たちの世話に追われ、息つく暇もない。
もっとも、色々大変ではあるものの、戦争の影はまだ遠い。
天真爛漫な性格の光枝は、毎日の様に問題が発生する疎開保育園のムードメーカーとして、なくてはならない存在となってゆく。
保母としての経験もスキルも大してない彼女が、唯一得意なのが本作のタイトルともなっているオルガンを弾くこと。
オルガンは、生きていくことがやっとの時代に、疎開保育園の人々が「文化的な生活」を保つための最後の武器でもある。
だが、保母たちが必死に守る小さなサンクチュアリも、時代と社会から自由ではないのだ。
封建的で不寛容な風潮は、疎開保育園が地元のコミュニティに溶け込むことを許さない。
男性優位の軍国の社会では、どんなに理不尽な扱いを受けても、子供たちを抱えた圧倒的弱者である保母たちは、黙って男たちの横暴に従うしかないのである。
この辺りの抑圧的意識は「LGBTは生産性がない」と言い放った政治家の炎上騒動を見ると、残念ながら現在日本にも色濃く残っていると思わざるを得ない。
そして、遠くにあるものだった戦争は、静かに忍び寄ってくる。
東京の空襲は日を追うごとに激しくなり、遂に1945年3月10日の東京大空襲を迎える。
子供を預けた親たちや東京に戻っていた保母の死、関係者の予期せぬ出征など、田舎には来ないと思っていた戦争によって、疎開保育園は様々な形で影響を受けてゆく。
喪失は突然降りかかり、誰もがもう無邪気ではいられない。
親友の好子を亡くし悲しみに打ちひしがれる光枝が、両親が亡くなったことを子供に伝えるシーンは本作の白眉。
終盤になると、保母たちの頼りになるリーダーの楓にも変化が起こる。
全てを抱え込んでいた彼女は、疎開先にまで空襲の火の手が迫った時、遂に心が折れてしまうのだ。
先に東京大空襲を経験している彼女が語る「どこまで逃げても、戦争が追いかけてくる」恐ろしさが、実感を持って描かれている。
過酷な時代にあって、光枝の演奏する優しく懐かしいオルガンの音色と子供たちの元気な歌声に、平和への願いが切実に伝わってきて、思いっきり涙腺が決壊。
子供が子供であることを許されない様な時代には、決して後戻りしてはいけないのだ。
強気な仮面の下に揺れ動く心を隠した、“怒りの乙女”こと板倉楓を繊細に演じた戸田恵梨香が素晴らしく、間違いなく代表作になるだろう。
彼女を支える若き保母たちを演じた女優陣も大健闘だ。
食糧難の時代なのに、大原櫻子がプニプニしていて、終盤むしろ肉付きがよくなるのはちょっと気になった(可愛いんだけど)が、今年観た日本映画ではダントツの仕上がり。
ちびっこばっかり集めて、撮影も相当大変だったろうが、劇映画とはいえ保母たちの仕事っぷりは本当に凄い。
戦争という特殊な状況下の話ではあるが、基本やることは現在でも同じだろう。
保育士を目指す人は絶対観た方がいいし、子供を預ける側もこれを観たら頭が上がらなくなる。
教育性も高いので、生きた歴史の教材として小中学校などでも上映して欲しいし、疎開保育園の記憶と共に後世に受け継いでゆきたい秀作だ。
本作で疎開保育園があったのは、北東部にあった平野村(現・蓮田市)。
今回は平野村から少し北にある南陽醸造の「藍の郷 純米酒」をチョイス。
同蔵の「花陽浴」は全国的な人気で今ではなかなか手に入らなくなってしまったが、こちらはリーズナブルなこともあり比較的買いやすい。
酒米は彩のかがやき100パーセントを60パーセント精米。
流石に花陽浴ほどの深みはないが、それでもフルーティーな香り、米の甘み、あっさりしたのどごし、適度なコクすべてが調和する味わいは一流。
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2019年02月22日 (金) | 編集 |
戦闘少女は、何のために蘇ったのか?
遥か未来、記憶を失ったサイボーグ少女ガリィが、数奇な運命に導かれ、多くの出会いと別れを繰り返しながら、失われたアイデンティティを求め戦い続ける。
90年代に人気を博した木城ゆきとの傑作SF漫画「銃夢」を、ジェームズ・キャメロンが映画化すると報道されたのは、もう20年近く前のこと。
しかし、実際の制作は遅々として進まず、幻の作品になるかと思われたのだが、原作の完結からほぼ四半世紀を経て、ついに映画作品「アリータ:バトル・エンジェル」として姿を現した。
ジェームズ・キャメロンはプロデュースと脚本にまわり、監督は「シン・シティ」のロバート・ロドリゲス。
主人公のガリィ改めアリータを、「メイズ・ランナー」シリーズのブレンダ役で知られるローサ・サラザールがパフォーマンス・キャプチャで演じ、クリストフ・ヴァルツ、マハーラシャ・アリ、ジェニファー・コネリーら、錚々たるオスカー俳優たちが脇を固める。
※核心部分に触れています。
文明が、天空に浮かぶ空中都市ザレムと、荒廃した地上に別たれた26世紀。
ザレムの真下にあるクズ鉄町で医師をしているイド(クリストフ・ヴァルツ)は、ある日使えるサイボーグのパーツを探しに出かけたゴミ捨て場で、ボロボロに壊れた少女の頭部を見つける。
奇跡的に脳が生き残っていたことから、イドは彼女に新しいボディを与えて蘇生させ、アリータ(ローラサ・サラザール)と名付ける。
彼女は完全に記憶を失っていたが、イドのところにパーツを売りに来るヒューゴ(キーアン・ジョンソン)と仲良くなり、街での生活にも馴染んでくる。
ところが、街で女性ばかりを狙う連続殺人が起こり、ふとしたきっかけでイドが犯人ではないかと疑ったアリータは、ある夜彼の後をつけ、偶然ホンモノの殺人犯と出くわしてしまう。
イドは犯人ではなく、副業で犯人を追う賞金稼ぎをやっていたのだ。
3人のサイボーグに取り囲まれ、絶体絶命のイドとアリータだが、突然アリータが恐るべき戦闘力を発揮して、瞬く間に敵を倒す。
実は彼女の正体は、300年前に起こった没落戦争で、ザレム攻略のために作られた火星連邦共和国の決戦兵器だったのだ・・・
喧嘩っ早くて惚れっぽい。
直情型最強バトルヒロイン、アリータたんに萌える映画だ。
ファーストビジュアルが出た当時、巨大な瞳を持つキャラクターデザインが物議を醸し、「不気味の谷の典型例」などとひどいことを言われていたが、全くの杞憂である。
CGキャラクターの彼女が、とにかく可愛くて魅力的で、惚れてしまいそうだ。
この映画の作り手は、日本漫画の核心がキャラクターの力であることをよく分かっている。
アニメーションとも実写とも違うアリータを、ここまで生き生きと描けたのは、デザインもさることながら、“中の人”ローサ・サラザールの好演と、彼女の演技を実際のキャラクターに移し替えたCGアーティストの緻密な仕事の、幸福なマリアージュの結果。
その意味で、本作の映画化が伸びにのびて2019年になったのは、必然だったのかもしれない。
おそらくゼロ年代初頭だった企画初期の段階では、キャメロンはアリータをフルCGで作ろうとは思っていなかったはず。
当時私もCGアニメーションの仕事をしていたが、本作の様なキャラクターは、ソフト的にもハード的にも、あの頃の表現力ではとてもじゃないが不可能だった。
長い歳月企画を寝かせているうちに、キャメロン自身の作品である「アバター」などを経て技術革新が飛躍的に進んだことと、本作の制作のタイミングは密接な関係があると思う。
またCGキャラクターの生かし方も、よく研究されている。
イドに新しいボディをもらって目覚めたアリータが、最初にやるのが物を食べることという脚色は上手い。
「食べる」という行為は非常に人間的なので、キャラクターのリアリティを高め、感情移入を誘う効果がある。
特に異世界や異なる時代を描いた作品、例えば宮崎駿のアニメーション作品なども、ジブリ飯などと言われる食事シーンが多いが、あれも“絵”に過ぎない非日常世界のキャラクターに、より人間性を感じさせるためなのだ。
本作でも美味しそうに初めてのオレンジを頬張るアリータの様子を見て、観客は彼女を「生きてる」人物だと感じたはず。
本来は本作を監督するはずだったキャメロンは、「アバター」シリーズとのバッティングのため、本作ではプロデュースと脚本の担当。
だが、そもそも彼は監督としては自分のオリジナル脚本の作品しか手がけていない人で、原作付きの作品は本作が初めて。
他の監督に脚本を提供するのも、テレビドラマの「ダーク・エンジェル」を除けば、元妻のキャスリン・ビグローの「ストレンジ・デイズ/1999年12月31日」以来24年ぶりで、極めて珍しい。
それだけ原作に惚れ込んだということだろう。
プロットは、原作の前半部分を中心に取捨選択。
原作では、地上で人体実験しまくっているマッドサイエンティストのノヴァ博士が、ザレムの独裁的支配者(誰かと思ったらエドワード・ノートンだ!)となっていたり、イドの過去設定が異なっていたり、ベースの部分にかなり重大な変更点がいくつかあるが、逆にディテールの描写は非常に忠実に再現されているので、印象としては確かに「銃夢」以外の何物でもない。
もっとも、早いスパンで怒涛の展開をする漫画の脚色は、堅実な構成を得意とするキャメロンにとってはやはり勝手が違ったのか、サブキャラクターの感情変化が唐突だったり、ややダイジェストを感じさせる。
まあ色々突然変わるのは原作もそうだったしな・・・と思わないでもないが、やはり脚色は上手くいっている部分がある一方で、そうでない部分もあるのは否めない。
米国の批評が分かれている理由も、この辺りで分かるのだが、全編に滲み出る原作へのリスペクトは、「銃夢」ファンとして大いに肯定したい。
私が最も好きな部分は、なによりもビジュアルを含めたアリータのキャラクターだ。
兵器として作られた彼女は、一度覚醒すると変わってゆく自分をどんどんと受け入れてゆく。
彼女に二度目の命を授けた擬似的な親であり、亡き娘の面影をアリータに見ているイドは当然戸惑うのだけど、子はいつか巣立つもの。
戦うことが自分のアイデンティの一部なら戦おう、目の前にいる悪を倒そう。
嘗てのサラ・コナー、エレン・リプリー、ローズ・ドーソンらと同様に、アリータも地に足をつけ、自らの力で運命を切り開く女性であり、このヒロイン像こそが、キャメロンが原作に惹かれた核心なのだと思う。
運命の相手とピュアな恋に落ちるのも、サラやローズと同様で、ヒューゴとのロマンスも過去の二人と同じ様な悲劇的結末を迎える。
ザレムを目指したヒューゴが、海ならぬ雲海に落ちて消えるのは、明らかに「タイタニック」のジャックの最期を意識した描写。
違いは、本作のカップルは圧倒的に女性主導で、アリータが自分の心臓をヒューゴに捧げるシーンに象徴されるように、常に彼女が推進力になり、問題を抱えた男が引っ張られていること。
アリータは、常にフェミニズム的傾向を持つキャメロンのヒロイン像の究極形と言える。
もちろん、映像の出来は文句無しの仕上がりで、なんでもアリのバトルゲーム、モーターボールのシークエンスの迫力は漫画を超えているし、アリータが使う火星の格闘技「機甲術」も説得力十分のカッコよさ。
クリストフ・ヴァルツはじめ、人間が演じているキャラクターの再現度も高い。
一部ではキャメロン色が強く、あんまりロドリゲス的でないという意見もある様だが、アリータが最初に戦いに覚醒するところから、すでに相手の首を捥いじゃったりしているので、実はやってることはいつもとそれほど変わってない。
今回はアンドロイドなので、血がドバッと出たり、内臓がはみ出したりしないだけで、それなりに個性を出していたのではないか。
まあダニー・トレホが出ていたら、そんなことも言われなかったと思うけど(笑
不満の残る部分もあるが、総じて「銃夢」の映像化として、てんこ盛りのエンターテイメントとして、満足できる作品になっている。
とりあえず今回の作品のボリュームだと、おそらくは二部作を前提としているはずなので、何とか回収してもらって完結編を期待したい。
アリータにボコられた後、ザパンの鼻がずっと曲がってるのが可笑しい(笑
今回は、戦いの天使のために「エンジェル・ウィング」をチョイス。
クレーム・ド・カカオ・ブラウン20ml、プルネル・ブランデー20ml、生クリーム適量(他の材料と同じ厚み)を、静かにビルトしてゆく。
下からブラウン、イエロー、ホワイトが三色の層となり、とても美しいカクテルだ。
一番上の生クリームの触感が、まるで天使の羽に優しく触れられている様な、不思議な感覚のカクテルだ。
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遥か未来、記憶を失ったサイボーグ少女ガリィが、数奇な運命に導かれ、多くの出会いと別れを繰り返しながら、失われたアイデンティティを求め戦い続ける。
90年代に人気を博した木城ゆきとの傑作SF漫画「銃夢」を、ジェームズ・キャメロンが映画化すると報道されたのは、もう20年近く前のこと。
しかし、実際の制作は遅々として進まず、幻の作品になるかと思われたのだが、原作の完結からほぼ四半世紀を経て、ついに映画作品「アリータ:バトル・エンジェル」として姿を現した。
ジェームズ・キャメロンはプロデュースと脚本にまわり、監督は「シン・シティ」のロバート・ロドリゲス。
主人公のガリィ改めアリータを、「メイズ・ランナー」シリーズのブレンダ役で知られるローサ・サラザールがパフォーマンス・キャプチャで演じ、クリストフ・ヴァルツ、マハーラシャ・アリ、ジェニファー・コネリーら、錚々たるオスカー俳優たちが脇を固める。
※核心部分に触れています。
文明が、天空に浮かぶ空中都市ザレムと、荒廃した地上に別たれた26世紀。
ザレムの真下にあるクズ鉄町で医師をしているイド(クリストフ・ヴァルツ)は、ある日使えるサイボーグのパーツを探しに出かけたゴミ捨て場で、ボロボロに壊れた少女の頭部を見つける。
奇跡的に脳が生き残っていたことから、イドは彼女に新しいボディを与えて蘇生させ、アリータ(ローラサ・サラザール)と名付ける。
彼女は完全に記憶を失っていたが、イドのところにパーツを売りに来るヒューゴ(キーアン・ジョンソン)と仲良くなり、街での生活にも馴染んでくる。
ところが、街で女性ばかりを狙う連続殺人が起こり、ふとしたきっかけでイドが犯人ではないかと疑ったアリータは、ある夜彼の後をつけ、偶然ホンモノの殺人犯と出くわしてしまう。
イドは犯人ではなく、副業で犯人を追う賞金稼ぎをやっていたのだ。
3人のサイボーグに取り囲まれ、絶体絶命のイドとアリータだが、突然アリータが恐るべき戦闘力を発揮して、瞬く間に敵を倒す。
実は彼女の正体は、300年前に起こった没落戦争で、ザレム攻略のために作られた火星連邦共和国の決戦兵器だったのだ・・・
喧嘩っ早くて惚れっぽい。
直情型最強バトルヒロイン、アリータたんに萌える映画だ。
ファーストビジュアルが出た当時、巨大な瞳を持つキャラクターデザインが物議を醸し、「不気味の谷の典型例」などとひどいことを言われていたが、全くの杞憂である。
CGキャラクターの彼女が、とにかく可愛くて魅力的で、惚れてしまいそうだ。
この映画の作り手は、日本漫画の核心がキャラクターの力であることをよく分かっている。
アニメーションとも実写とも違うアリータを、ここまで生き生きと描けたのは、デザインもさることながら、“中の人”ローサ・サラザールの好演と、彼女の演技を実際のキャラクターに移し替えたCGアーティストの緻密な仕事の、幸福なマリアージュの結果。
その意味で、本作の映画化が伸びにのびて2019年になったのは、必然だったのかもしれない。
おそらくゼロ年代初頭だった企画初期の段階では、キャメロンはアリータをフルCGで作ろうとは思っていなかったはず。
当時私もCGアニメーションの仕事をしていたが、本作の様なキャラクターは、ソフト的にもハード的にも、あの頃の表現力ではとてもじゃないが不可能だった。
長い歳月企画を寝かせているうちに、キャメロン自身の作品である「アバター」などを経て技術革新が飛躍的に進んだことと、本作の制作のタイミングは密接な関係があると思う。
またCGキャラクターの生かし方も、よく研究されている。
イドに新しいボディをもらって目覚めたアリータが、最初にやるのが物を食べることという脚色は上手い。
「食べる」という行為は非常に人間的なので、キャラクターのリアリティを高め、感情移入を誘う効果がある。
特に異世界や異なる時代を描いた作品、例えば宮崎駿のアニメーション作品なども、ジブリ飯などと言われる食事シーンが多いが、あれも“絵”に過ぎない非日常世界のキャラクターに、より人間性を感じさせるためなのだ。
本作でも美味しそうに初めてのオレンジを頬張るアリータの様子を見て、観客は彼女を「生きてる」人物だと感じたはず。
本来は本作を監督するはずだったキャメロンは、「アバター」シリーズとのバッティングのため、本作ではプロデュースと脚本の担当。
だが、そもそも彼は監督としては自分のオリジナル脚本の作品しか手がけていない人で、原作付きの作品は本作が初めて。
他の監督に脚本を提供するのも、テレビドラマの「ダーク・エンジェル」を除けば、元妻のキャスリン・ビグローの「ストレンジ・デイズ/1999年12月31日」以来24年ぶりで、極めて珍しい。
それだけ原作に惚れ込んだということだろう。
プロットは、原作の前半部分を中心に取捨選択。
原作では、地上で人体実験しまくっているマッドサイエンティストのノヴァ博士が、ザレムの独裁的支配者(誰かと思ったらエドワード・ノートンだ!)となっていたり、イドの過去設定が異なっていたり、ベースの部分にかなり重大な変更点がいくつかあるが、逆にディテールの描写は非常に忠実に再現されているので、印象としては確かに「銃夢」以外の何物でもない。
もっとも、早いスパンで怒涛の展開をする漫画の脚色は、堅実な構成を得意とするキャメロンにとってはやはり勝手が違ったのか、サブキャラクターの感情変化が唐突だったり、ややダイジェストを感じさせる。
まあ色々突然変わるのは原作もそうだったしな・・・と思わないでもないが、やはり脚色は上手くいっている部分がある一方で、そうでない部分もあるのは否めない。
米国の批評が分かれている理由も、この辺りで分かるのだが、全編に滲み出る原作へのリスペクトは、「銃夢」ファンとして大いに肯定したい。
私が最も好きな部分は、なによりもビジュアルを含めたアリータのキャラクターだ。
兵器として作られた彼女は、一度覚醒すると変わってゆく自分をどんどんと受け入れてゆく。
彼女に二度目の命を授けた擬似的な親であり、亡き娘の面影をアリータに見ているイドは当然戸惑うのだけど、子はいつか巣立つもの。
戦うことが自分のアイデンティの一部なら戦おう、目の前にいる悪を倒そう。
嘗てのサラ・コナー、エレン・リプリー、ローズ・ドーソンらと同様に、アリータも地に足をつけ、自らの力で運命を切り開く女性であり、このヒロイン像こそが、キャメロンが原作に惹かれた核心なのだと思う。
運命の相手とピュアな恋に落ちるのも、サラやローズと同様で、ヒューゴとのロマンスも過去の二人と同じ様な悲劇的結末を迎える。
ザレムを目指したヒューゴが、海ならぬ雲海に落ちて消えるのは、明らかに「タイタニック」のジャックの最期を意識した描写。
違いは、本作のカップルは圧倒的に女性主導で、アリータが自分の心臓をヒューゴに捧げるシーンに象徴されるように、常に彼女が推進力になり、問題を抱えた男が引っ張られていること。
アリータは、常にフェミニズム的傾向を持つキャメロンのヒロイン像の究極形と言える。
もちろん、映像の出来は文句無しの仕上がりで、なんでもアリのバトルゲーム、モーターボールのシークエンスの迫力は漫画を超えているし、アリータが使う火星の格闘技「機甲術」も説得力十分のカッコよさ。
クリストフ・ヴァルツはじめ、人間が演じているキャラクターの再現度も高い。
一部ではキャメロン色が強く、あんまりロドリゲス的でないという意見もある様だが、アリータが最初に戦いに覚醒するところから、すでに相手の首を捥いじゃったりしているので、実はやってることはいつもとそれほど変わってない。
今回はアンドロイドなので、血がドバッと出たり、内臓がはみ出したりしないだけで、それなりに個性を出していたのではないか。
まあダニー・トレホが出ていたら、そんなことも言われなかったと思うけど(笑
不満の残る部分もあるが、総じて「銃夢」の映像化として、てんこ盛りのエンターテイメントとして、満足できる作品になっている。
とりあえず今回の作品のボリュームだと、おそらくは二部作を前提としているはずなので、何とか回収してもらって完結編を期待したい。
アリータにボコられた後、ザパンの鼻がずっと曲がってるのが可笑しい(笑
今回は、戦いの天使のために「エンジェル・ウィング」をチョイス。
クレーム・ド・カカオ・ブラウン20ml、プルネル・ブランデー20ml、生クリーム適量(他の材料と同じ厚み)を、静かにビルトしてゆく。
下からブラウン、イエロー、ホワイトが三色の層となり、とても美しいカクテルだ。
一番上の生クリームの触感が、まるで天使の羽に優しく触れられている様な、不思議な感覚のカクテルだ。



2019年02月17日 (日) | 編集 |
帝国を揺るがした恋人たち。
大正期のアナーキストで、皇太子暗殺を謀ったとして大逆罪で起訴された、朴烈と金子文子の鮮烈な愛と闘いの物語。
1923年の東京で、二人は運命的に出会う。
きっかけは社会主義者たちが集うおでん屋、その名も「社会主義おでん」で働いていた文子が、朴烈の書いた「犬ころ」という詩を読んだこと。
朴烈は朝鮮半島の出身、文子は複雑な家庭環境に生まれ、9歳から16歳までの多感な時期を朝鮮半島で過ごした過去がある。
共に孤独な境遇で、思想に共感した二人は、同士であり恋人の関係となり、朝鮮人や日本人の仲間たちとアナーキスト結社「不逞社」を結成。
帝国の根幹である天皇制に衝撃を与えるため、爆弾の入手を模索する様になるのだが、1923年の9月3日に起こった関東大震災が、彼らの運命を大きく変える。
日本政府は、着の身着のままで宮城に押し寄せる民心の動揺を抑え、「国体」を守るためとして、アナーキストや社会主義者たちを次々と検挙。
デマによる朝鮮人虐殺をはけ口として放置し、事態が手に負えないほど拡大すると、今度は弾圧の口実を作るため、朴烈と文子をスケープゴートに選ぶのである。
震災後に、反体制派が政府によって激しく弾圧されたのは、同時代を背景とした瀬々敬久監督の大長編、「菊とギロチン」でも描かれた通り。
ただ、弾圧される側もする側も、徹底的に「個」に寄り添ったあの作品とは、本作はアプローチが大きく異なる。
「王の男」で知られるイ・ジュンイク監督ら本作の作り手は、当時の日本の権力構造を相当にしっかりと研究していて、権力者のファーストプライオリティが天皇の権威を中心とした「国体」の維持だということを明確化し、「個人vs国体」という対立構造を軸にしているのである。
凄まじい逆風の中にあって、より愛を深めてゆく朴烈と文子の側は、二人の仲間や支持者を含めてとてもリアルで魅力ある人物像に造形されている。
朴烈を演じるイ・ジェフンも良いのだが、文子役のチェ・ヒソが素晴らしい。
何者をも恐れず、破天荒でも凛とした佇まいで、朴烈が一目で惚れてしまうのも納得。
対して、朝鮮人にとっては英雄、日本人にとっては逆賊の二人を大逆罪で起訴し、見せしめにしようとする日本政府は、その悪意をキム・インウが怪演する内務大臣の水野錬太郎一人に集約し、極めて戯画的に、滑稽に描かれている。
面白いのは、実際に朴烈と文子に接する日本人は、政府そのものとは異なる描かれ方をしていることで、これは悪の日本と善のアナーキストという単純な善悪論に受け取られることを避けるためだろう。
予審で二人を取り調べる判事の立松懐清や拘置所の看守が、強い愛で結ばれ、ぶれない信念を持つ彼らに接しているうちに、徐々に影響を受けてくる展開は、ナチス政権下の抵抗運動を描く「白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々」を思わせる。
結果が決まっている裁判で、あえて権力の描いたシナリオに乗って処刑されることで、自分たちの主義・主張を貫こうとするストイックさは、彼らの思想に共鳴しなかったとしても感銘せざるを得ない。
もっともその思惑が、二人がなによりも倒したかった天皇の善意によって阻まれるのも皮肉。
本作で特筆すべきは、チェ・ヒソを初めとする日本人キャラを演じた韓国人キャストの日本語演技で、恐ろしくレベルが高い。
チェ・ヒソは、文子とは逆に日本で小学生時代を過ごした帰国子女で、キム・インウは在日コリアン、立松懐清を演じたキム・ジュンハンも日本で活動していたことがあるという。
可能な限りリアリティを損なわない様にということだろうが、こんなところも日韓併合時代を描いた過去の韓国映画と一線を画す。
現在にも十分に通じる世界観を持つ傑物、朴烈と文子の純粋すぎる愛と闘いの物語は、大正の昔から“個の自由の崇高さ”を観客の心に刻み付ける。
ちなみに、文子を亡くした後、朴烈の辿った流転の歴史が実に面白いのだけど、これもいつか映画化されないかな。
ユニークなアプローチが光る力作だ。
今回は朴烈の故郷、慶尚北道の焼酎「慶州法酒」をチョイス。
法酒は焼酎とは違い、米と麹から作られる伝統的な醸造酒の一種。
老舗の慶州法酒は、ほのかに米の甘味が感じられ、くせのないスッキリとした味わい。
社会主義おでんを肴に、不逞社の面々と語らってみたくなる。
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大正期のアナーキストで、皇太子暗殺を謀ったとして大逆罪で起訴された、朴烈と金子文子の鮮烈な愛と闘いの物語。
1923年の東京で、二人は運命的に出会う。
きっかけは社会主義者たちが集うおでん屋、その名も「社会主義おでん」で働いていた文子が、朴烈の書いた「犬ころ」という詩を読んだこと。
朴烈は朝鮮半島の出身、文子は複雑な家庭環境に生まれ、9歳から16歳までの多感な時期を朝鮮半島で過ごした過去がある。
共に孤独な境遇で、思想に共感した二人は、同士であり恋人の関係となり、朝鮮人や日本人の仲間たちとアナーキスト結社「不逞社」を結成。
帝国の根幹である天皇制に衝撃を与えるため、爆弾の入手を模索する様になるのだが、1923年の9月3日に起こった関東大震災が、彼らの運命を大きく変える。
日本政府は、着の身着のままで宮城に押し寄せる民心の動揺を抑え、「国体」を守るためとして、アナーキストや社会主義者たちを次々と検挙。
デマによる朝鮮人虐殺をはけ口として放置し、事態が手に負えないほど拡大すると、今度は弾圧の口実を作るため、朴烈と文子をスケープゴートに選ぶのである。
震災後に、反体制派が政府によって激しく弾圧されたのは、同時代を背景とした瀬々敬久監督の大長編、「菊とギロチン」でも描かれた通り。
ただ、弾圧される側もする側も、徹底的に「個」に寄り添ったあの作品とは、本作はアプローチが大きく異なる。
「王の男」で知られるイ・ジュンイク監督ら本作の作り手は、当時の日本の権力構造を相当にしっかりと研究していて、権力者のファーストプライオリティが天皇の権威を中心とした「国体」の維持だということを明確化し、「個人vs国体」という対立構造を軸にしているのである。
凄まじい逆風の中にあって、より愛を深めてゆく朴烈と文子の側は、二人の仲間や支持者を含めてとてもリアルで魅力ある人物像に造形されている。
朴烈を演じるイ・ジェフンも良いのだが、文子役のチェ・ヒソが素晴らしい。
何者をも恐れず、破天荒でも凛とした佇まいで、朴烈が一目で惚れてしまうのも納得。
対して、朝鮮人にとっては英雄、日本人にとっては逆賊の二人を大逆罪で起訴し、見せしめにしようとする日本政府は、その悪意をキム・インウが怪演する内務大臣の水野錬太郎一人に集約し、極めて戯画的に、滑稽に描かれている。
面白いのは、実際に朴烈と文子に接する日本人は、政府そのものとは異なる描かれ方をしていることで、これは悪の日本と善のアナーキストという単純な善悪論に受け取られることを避けるためだろう。
予審で二人を取り調べる判事の立松懐清や拘置所の看守が、強い愛で結ばれ、ぶれない信念を持つ彼らに接しているうちに、徐々に影響を受けてくる展開は、ナチス政権下の抵抗運動を描く「白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々」を思わせる。
結果が決まっている裁判で、あえて権力の描いたシナリオに乗って処刑されることで、自分たちの主義・主張を貫こうとするストイックさは、彼らの思想に共鳴しなかったとしても感銘せざるを得ない。
もっともその思惑が、二人がなによりも倒したかった天皇の善意によって阻まれるのも皮肉。
本作で特筆すべきは、チェ・ヒソを初めとする日本人キャラを演じた韓国人キャストの日本語演技で、恐ろしくレベルが高い。
チェ・ヒソは、文子とは逆に日本で小学生時代を過ごした帰国子女で、キム・インウは在日コリアン、立松懐清を演じたキム・ジュンハンも日本で活動していたことがあるという。
可能な限りリアリティを損なわない様にということだろうが、こんなところも日韓併合時代を描いた過去の韓国映画と一線を画す。
現在にも十分に通じる世界観を持つ傑物、朴烈と文子の純粋すぎる愛と闘いの物語は、大正の昔から“個の自由の崇高さ”を観客の心に刻み付ける。
ちなみに、文子を亡くした後、朴烈の辿った流転の歴史が実に面白いのだけど、これもいつか映画化されないかな。
ユニークなアプローチが光る力作だ。
今回は朴烈の故郷、慶尚北道の焼酎「慶州法酒」をチョイス。
法酒は焼酎とは違い、米と麹から作られる伝統的な醸造酒の一種。
老舗の慶州法酒は、ほのかに米の甘味が感じられ、くせのないスッキリとした味わい。
社会主義おでんを肴に、不逞社の面々と語らってみたくなる。



2019年02月16日 (土) | 編集 |
平凡な男は、いかにして“独裁者”となったのか?
終戦直前の1945年4月のこと。
敗色濃厚のドイツ軍を脱走したヴィリー・ヘロルト上等兵が、遺棄された車両に残された空軍将校の制服を見つける。
ひょんなことから、部隊から逸れた敗残兵たちと合流した彼は、嘘に嘘を重ね、ヒトラーから特殊任務を与えられた“ヘロルト大尉”を名乗る様になる。
出来過ぎな成りすまし詐欺のシチュエーションだけなら、軍隊コメディ。
だが、これは現実に起こった事件であり、偽将校のヘロルトはここから想像もつかない悪事を重ねてゆくのである。
「フライト・プラン」「RED/レッド」など、ハリウッド映画で知られるロベルト・シュヴェンケが監督・脚本を務め、母国ドイツの歴史に埋もれたダークサイドを描く。
何事もカタチから入る人はいるが、ヘロルトはその典型。
借り物の大尉の制服を纏った彼は、兵隊や市民たちが将校の権威に盲従する様子を見て調子にのり、瞬く間に冷酷なプチ独裁者となって、権力を振るい始める。
口八丁手八丁な世渡り術を駆使し、自分の頭文字をとった“特殊部隊H”をでっち上げ、秩序維持を口実にして、あろうことか脱走兵狩りを始めるのだ。
普通の人間が抑圧的役割を与えられることで、人格が変わって行くのは、オリヴァー・ヒルシュビーゲル監督の「es[エス]」として映画化もされた、有名なスタンフォード大学の監獄実験を思い出す。
特にヘロルトの場合は正体が脱走兵だけに、まるで心の負い目に蓋をするかの様に、かつての自分の分身でもある脱走兵たちを容赦なく抹殺してゆく。
脱走兵収容所での、対空機関砲を使ったキムジョンウンみたいな凄まじく暴力的な処刑とか、ビジュアル的にも相当にえげつないものだ。
映画の描写はそれでもだいぶマイルドになっていて、ヘロルトが実際に行った処刑はもっと残酷だったというから恐ろしい。
この作品、モノクロ版とカラー版の両バージョンが存在し、本国などではモノクロ作品(パートカラー)として公開されているが、日本では本国では円盤の特典となっているカラー版での上映。
おそらく共同配給がスターチャンネルの関係でカラー版が選ばれているのだと思うが、本国版がモノクロなのは、凄惨な処刑シーンなどバイオレンス描写を抑制し、全体を様式化する狙いもあるのだろう。
相当に彩度は落としてあるものの、日本公開版は色があるだけ余計にリアルでキツイ。
ホラーじゃないけど、人体破壊の描写は酸鼻を極めるもので、観客には相当なホラー耐性が要求される作品なので、血に弱い人は注意が必要だ。
なによりも衝撃的なのは、これが平凡な青年が実際に起こした事件であり、同じような状況に置かれれば、誰もがヘロルトになり得るという事実。
そして一度暴走を始めたら、間違っていることを頭では理解しながらも、自分ではもう止められない。
ヘロルトの“部下”たちも彼がホンモノの空軍大尉で無いことに薄々気付いているが、誰一人として逆らえない。
なぜなら将校の権威が宿っているのは、中身ではなく制服だからだ。
映画では数名だが、実際のヘロルトの部隊では最盛期には80人もの兵士たちが活動していたというから、正に事実は小説より、いや映画よりも奇なり。
一見すると、戦争という特殊な状況下で起こった特殊な事件にも思えるが、人間そのものではなく、その人のポジションや制服という見た目に服従してしまうのは、平時にも十分に起こり得ることで、いわゆるパワーハラスメントなども、構造的には同じだろう。
遠い昔に起こった歴史上の事件が、一気に普遍的寓話性を持つエンディングが秀逸だ。
今回は、劇中でもナチス将校たちが浴びるように飲んでいるドイツの蒸留酒、シュナップスを。
「オルデスローエ キュンメル」は、キャラウェイとスパイスでハーブのフレーバーをつけたもの。独特の香りが特徴で、ハーブ系のお酒が好きな人にはオススメだ。
シュナップスは消化を助ける効果があるとされ、食後酒としてよく飲まれる。
ヘロルトの場合は、飲んで不安を紛らわせていたのかもしれないな。
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終戦直前の1945年4月のこと。
敗色濃厚のドイツ軍を脱走したヴィリー・ヘロルト上等兵が、遺棄された車両に残された空軍将校の制服を見つける。
ひょんなことから、部隊から逸れた敗残兵たちと合流した彼は、嘘に嘘を重ね、ヒトラーから特殊任務を与えられた“ヘロルト大尉”を名乗る様になる。
出来過ぎな成りすまし詐欺のシチュエーションだけなら、軍隊コメディ。
だが、これは現実に起こった事件であり、偽将校のヘロルトはここから想像もつかない悪事を重ねてゆくのである。
「フライト・プラン」「RED/レッド」など、ハリウッド映画で知られるロベルト・シュヴェンケが監督・脚本を務め、母国ドイツの歴史に埋もれたダークサイドを描く。
何事もカタチから入る人はいるが、ヘロルトはその典型。
借り物の大尉の制服を纏った彼は、兵隊や市民たちが将校の権威に盲従する様子を見て調子にのり、瞬く間に冷酷なプチ独裁者となって、権力を振るい始める。
口八丁手八丁な世渡り術を駆使し、自分の頭文字をとった“特殊部隊H”をでっち上げ、秩序維持を口実にして、あろうことか脱走兵狩りを始めるのだ。
普通の人間が抑圧的役割を与えられることで、人格が変わって行くのは、オリヴァー・ヒルシュビーゲル監督の「es[エス]」として映画化もされた、有名なスタンフォード大学の監獄実験を思い出す。
特にヘロルトの場合は正体が脱走兵だけに、まるで心の負い目に蓋をするかの様に、かつての自分の分身でもある脱走兵たちを容赦なく抹殺してゆく。
脱走兵収容所での、対空機関砲を使ったキムジョンウンみたいな凄まじく暴力的な処刑とか、ビジュアル的にも相当にえげつないものだ。
映画の描写はそれでもだいぶマイルドになっていて、ヘロルトが実際に行った処刑はもっと残酷だったというから恐ろしい。
この作品、モノクロ版とカラー版の両バージョンが存在し、本国などではモノクロ作品(パートカラー)として公開されているが、日本では本国では円盤の特典となっているカラー版での上映。
おそらく共同配給がスターチャンネルの関係でカラー版が選ばれているのだと思うが、本国版がモノクロなのは、凄惨な処刑シーンなどバイオレンス描写を抑制し、全体を様式化する狙いもあるのだろう。
相当に彩度は落としてあるものの、日本公開版は色があるだけ余計にリアルでキツイ。
ホラーじゃないけど、人体破壊の描写は酸鼻を極めるもので、観客には相当なホラー耐性が要求される作品なので、血に弱い人は注意が必要だ。
なによりも衝撃的なのは、これが平凡な青年が実際に起こした事件であり、同じような状況に置かれれば、誰もがヘロルトになり得るという事実。
そして一度暴走を始めたら、間違っていることを頭では理解しながらも、自分ではもう止められない。
ヘロルトの“部下”たちも彼がホンモノの空軍大尉で無いことに薄々気付いているが、誰一人として逆らえない。
なぜなら将校の権威が宿っているのは、中身ではなく制服だからだ。
映画では数名だが、実際のヘロルトの部隊では最盛期には80人もの兵士たちが活動していたというから、正に事実は小説より、いや映画よりも奇なり。
一見すると、戦争という特殊な状況下で起こった特殊な事件にも思えるが、人間そのものではなく、その人のポジションや制服という見た目に服従してしまうのは、平時にも十分に起こり得ることで、いわゆるパワーハラスメントなども、構造的には同じだろう。
遠い昔に起こった歴史上の事件が、一気に普遍的寓話性を持つエンディングが秀逸だ。
今回は、劇中でもナチス将校たちが浴びるように飲んでいるドイツの蒸留酒、シュナップスを。
「オルデスローエ キュンメル」は、キャラウェイとスパイスでハーブのフレーバーをつけたもの。独特の香りが特徴で、ハーブ系のお酒が好きな人にはオススメだ。
シュナップスは消化を助ける効果があるとされ、食後酒としてよく飲まれる。
ヘロルトの場合は、飲んで不安を紛らわせていたのかもしれないな。



2019年02月11日 (月) | 編集 |
彼は、月で何を見たのか。
20世紀の神話となった、アポロ11号の月面着陸。
おそらく世界中のほとんど誰もがその顛末を知っていて、展開の意外性など作りようがない話を、若き鬼才デミアン・チャゼルはどう料理したのか。
アポロ11号船長であり、月面に人類最初の足跡を残したニール・アームストロングを、「ラ・ラ・ランド」に続いてチャゼルとタッグを組むライアン・ゴズリングが演じ、妻のジャネットをクレア・フォイが好演。
エグゼクティブ・プロデューサーをスティーブン・スピルバーグが務め、ジェイムズ・R・ハンセンの同名ノンフィクションを元に、「スポットライト 世紀のスクープ」「ペンダゴン・ペーパー/最高機密文書」など、実録物を得意とするジョシュ・シンガーが脚色を担当した。
原作はアームストロングの人生を少年時代から描いているのだが、映画はテストパイロット時代の1961年からアポロ11号の帰還までの9年間に絞られている。
※ラストに触れています。
国立航空諮問委員会(NACA)でテストパイロットを務めるニール・アームストロング(ライアン・ゴズリング)は、幼い娘のカレンを脳腫瘍で亡くし、悲しみを引きずったままNASAの宇宙飛行士選抜試験を受けることになる。
ジェミニ計画の宇宙飛行士に選抜されたアームストロングは、妻のジャネット(クレア・フォイ)と二人の息子と共にヒューストンへ赴任。
ジェミニ8号の船長に選ばれ、初の宇宙空間でのドッキングという大役を担うことに。
宇宙で予期せぬトラブルに襲われるも、冷静な判断で危機を脱し、無事帰還したアームストロングは、NASAの信頼を得て月を目指すアポロ計画にも携わることとなる。
巨大なサターンロケットの開発も着々と進み、最終地上試験を残すのみとなっていた頃、ワシントンでパーティに出席していたアームストロングは、NASAからの一本の電話を受ける。
それは、試験中のアポロ1号で火災が発生し、友人のエド・ホワイト(ジェイソン・クラーク)ら三人の宇宙飛行士が死亡したというものだった・・・
映画はNACAのテストパイロット時代、アームストロングが極超音速実験機ノースアメリカンX-15のテストに挑むシーンから幕を開ける。
X-15は最大速度マッハ6.7、到達高度は107キロという、友人機としては未だ破られていない記録を持つ、スペースプレーンのパイオニアである。
この時、母機のNB-52から発進したロケット機は、高度14万フィートで大気層に押し返されて機体を下げることが出来なくなるバルーニングという現象を起こし、目標地点を大幅に通り過ぎてなんとか着陸に成功する。
カメラはほぼアームストロングのアップと、彼の見ている視界、ごく僅かな機体のディテールしか描写しない。
要するに、観客が得られる情報もアームストロングと同じであり、テストパイロットの緊張感をそのまま体験。
一気に作品世界に引き込まれる。
この後、アームストロングはNASAの宇宙飛行士選抜に合格し、中盤ではジェミニ8号でのミッションが描かれるのだが、ここでも映し出されるのはアームストロングのアップと彼の視界、あとは「カメラがあってもおかしくない場所」からのディテール映像に限られ、引いた客観ショットは全く使われないのである。
その分、音楽映画で名を馳せたチャゼルだけあって、音響演出が凄い。
心臓に悪い宇宙船の軋み音、体を芯から揺さぶるロケットの爆音など、視覚情報が制限されている分、映像と音響の相乗効果で宇宙飛行士の感じている世界を存分に体感できる。
宇宙空間でのドッキング技術を確立するため、ターゲット衛星のアジェナとドッキングを成功させた後、ジェミニ宇宙船が突如として予期せぬスピンロール状態に陥る辺りでは、観客はもうアームストロングに感覚的に同化しているから、心底恐ろしい。
視界の狭さをこれほど生かしきった恐怖演出は、過去に観たことが無い。
チャゼルは、ライアン・ゴズリングが寡黙に演じる、アームストロングの人生にピタリと寄り添う。
冒頭のX-15、中盤のジェミニ8号、そして終盤のアポロ11号。
彼の人生における三つの大イベントの他にも、仕事に追われる日々と、ジャネットや子供たちとの家庭生活を交互に描いてゆく。
家庭の描写は、まるでアームストロング家の日常を覗き見るような、ハンディ風のカメラワークが印象的。
カメラは終始アームストロングの心象を追い、内に閉じているのである。
しかし、終盤に差し掛かりアポロ11号の冒険が始まると、チャゼルは一気に演出的なアプローチを変え、アームストロングの内面を神秘的な宇宙の光景へと開いてゆくのだ。
X-15のエピソードの後、アームストロングは幼い娘のカレンを脳腫瘍で失う。
心の傷を抱えたまま、彼は未知なる宇宙に挑戦することで自分と家族の環境を変え、悲しみを紛らわせようとするのである。
だが、ヒューストンへ移っても、死の影はアームストロングから離れない。
ジェミニ9号の船長を務めるはずだった同僚のエリオット・シーが事故死し、彼の葬儀の場でアームストロングは娘の幻影を見る。
直後のジェミニ8号のミッションでは、自らが命を落としそうになり、次いでアメリカ宇宙開発史上で最悪の悲劇となるアポロ1号の火災事故で、一度に三人の仲間を失う。
家族のドラマとしてのクライマックスは、打ち上げの直前になって、アームストロングが二人の息子をダイニングに呼び「月へ行く」と告げるシーンだろう。
彼はこの時代の多くの男たちと同じように、仕事に打ち込むことで、「最も嫌なイメージ=死」に背を向けているのだが、ジャネットに「息子たちに、父親が帰らない時の覚悟をさせて」と言われ、ようやく自分が死ぬ可能性を吐露するのである。
多くの喪失の記憶を引きずりながらも、自ら死に向き合うことで、アームストロングの心はようやく解放されるのだ。
月面のシークエンスは、一瞬ロケかと錯覚するくらいリアリティ満点。
未知の星に、第一歩を踏み出したアームストロングは、生死の境界を越えて、荘厳なる無音の世界に亡きカレンを感じる。
そして、イーグル着陸船から少し離れたクレーターに歩み寄った彼は、「ある物」を月に置いてくるのだ。
時系列の前後はあれど基本的に史実に沿った本作で、アームストロングがクレーターの縁に立つまでは事実だが、この「ある物」の描写だけはフィクション。
宇宙飛行士は、プライベートな記念品を一定重量以下なら月に持ってゆくことが許されていて、アームストロングは実際に何を持っていたのか、詳細は目録が残っていないとして、記憶以上のことは語らなかったという。
ただ、それはあくまでも記念品に「一緒に月へ行った」という付加価値を付けるためなので、置いてくるのはまた別の話。
極めて映画的な「ある物」の描写は、娘の死を起点として、伝説的な宇宙飛行士の心の内を描いたデミアン・チャゼルならではの、心象的な解釈なのだろう。
月面を歩いた二人は、当然帰還後にスーパースターとなるのだが、映画はそこまでは描かない。
検疫のために隔離中のアームストロングが、ジャネットとガラス越しの再会を果たすラストは、本作のスタンス、描きたいことを象徴する、味わい深い名シーン。
アームストロングは月からの帰還以降は、職務以外であまり人前に出ることもなく、2年後にはNASAを退官し、ビジネスマンとして活動した後、晩年はファンからのサインの求めも断り半隠遁生活を送っていたという。
アポロ計画以来半世紀、宇宙開発が次第に商業的になってゆく中で、人類に新たなフロンティアを開いたアームストロングは、メディアによって偶像化されてゆき、逆にその実像は歴史の霧の中でぼやけていった。
これは、アメリカの世紀の栄光の神話に、「英雄」として閉じ込められていたアームストロングを、心に深い悲しみを抱えた一人の父親、一人の夫、一人の人間として解き放った作品かもしれない。
アメリカ宇宙開発史をモチーフとした、新たな傑作である。
今回は「ブルー・ムーン」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、クレーム・ド・バイオレット(パルフェ・タムール)15ml、レモンジュース15mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
幻想的な紫が美しいカクテル。
ビターなジンにレモンの酸味の組み合わせが、サッパリとしたクールさを演出する。
ブルー・ムーン本来の意味は、暦の関係で3ヶ月間に4度の満月がある場合の、3番目の満月の事。
歴史的には凶兆の月とされてきたが、珍しいことなので、現在では見ると幸せになれる吉兆の月とされているのだそうな。
ところでアポロ11号のシークエンスは、演出アプローチが違うので、結構客観ショットがあるのだけど、ヒコーキ好きとしては、X-15の飛んでる姿も見たかったな・・・。
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20世紀の神話となった、アポロ11号の月面着陸。
おそらく世界中のほとんど誰もがその顛末を知っていて、展開の意外性など作りようがない話を、若き鬼才デミアン・チャゼルはどう料理したのか。
アポロ11号船長であり、月面に人類最初の足跡を残したニール・アームストロングを、「ラ・ラ・ランド」に続いてチャゼルとタッグを組むライアン・ゴズリングが演じ、妻のジャネットをクレア・フォイが好演。
エグゼクティブ・プロデューサーをスティーブン・スピルバーグが務め、ジェイムズ・R・ハンセンの同名ノンフィクションを元に、「スポットライト 世紀のスクープ」「ペンダゴン・ペーパー/最高機密文書」など、実録物を得意とするジョシュ・シンガーが脚色を担当した。
原作はアームストロングの人生を少年時代から描いているのだが、映画はテストパイロット時代の1961年からアポロ11号の帰還までの9年間に絞られている。
※ラストに触れています。
国立航空諮問委員会(NACA)でテストパイロットを務めるニール・アームストロング(ライアン・ゴズリング)は、幼い娘のカレンを脳腫瘍で亡くし、悲しみを引きずったままNASAの宇宙飛行士選抜試験を受けることになる。
ジェミニ計画の宇宙飛行士に選抜されたアームストロングは、妻のジャネット(クレア・フォイ)と二人の息子と共にヒューストンへ赴任。
ジェミニ8号の船長に選ばれ、初の宇宙空間でのドッキングという大役を担うことに。
宇宙で予期せぬトラブルに襲われるも、冷静な判断で危機を脱し、無事帰還したアームストロングは、NASAの信頼を得て月を目指すアポロ計画にも携わることとなる。
巨大なサターンロケットの開発も着々と進み、最終地上試験を残すのみとなっていた頃、ワシントンでパーティに出席していたアームストロングは、NASAからの一本の電話を受ける。
それは、試験中のアポロ1号で火災が発生し、友人のエド・ホワイト(ジェイソン・クラーク)ら三人の宇宙飛行士が死亡したというものだった・・・
映画はNACAのテストパイロット時代、アームストロングが極超音速実験機ノースアメリカンX-15のテストに挑むシーンから幕を開ける。
X-15は最大速度マッハ6.7、到達高度は107キロという、友人機としては未だ破られていない記録を持つ、スペースプレーンのパイオニアである。
この時、母機のNB-52から発進したロケット機は、高度14万フィートで大気層に押し返されて機体を下げることが出来なくなるバルーニングという現象を起こし、目標地点を大幅に通り過ぎてなんとか着陸に成功する。
カメラはほぼアームストロングのアップと、彼の見ている視界、ごく僅かな機体のディテールしか描写しない。
要するに、観客が得られる情報もアームストロングと同じであり、テストパイロットの緊張感をそのまま体験。
一気に作品世界に引き込まれる。
この後、アームストロングはNASAの宇宙飛行士選抜に合格し、中盤ではジェミニ8号でのミッションが描かれるのだが、ここでも映し出されるのはアームストロングのアップと彼の視界、あとは「カメラがあってもおかしくない場所」からのディテール映像に限られ、引いた客観ショットは全く使われないのである。
その分、音楽映画で名を馳せたチャゼルだけあって、音響演出が凄い。
心臓に悪い宇宙船の軋み音、体を芯から揺さぶるロケットの爆音など、視覚情報が制限されている分、映像と音響の相乗効果で宇宙飛行士の感じている世界を存分に体感できる。
宇宙空間でのドッキング技術を確立するため、ターゲット衛星のアジェナとドッキングを成功させた後、ジェミニ宇宙船が突如として予期せぬスピンロール状態に陥る辺りでは、観客はもうアームストロングに感覚的に同化しているから、心底恐ろしい。
視界の狭さをこれほど生かしきった恐怖演出は、過去に観たことが無い。
チャゼルは、ライアン・ゴズリングが寡黙に演じる、アームストロングの人生にピタリと寄り添う。
冒頭のX-15、中盤のジェミニ8号、そして終盤のアポロ11号。
彼の人生における三つの大イベントの他にも、仕事に追われる日々と、ジャネットや子供たちとの家庭生活を交互に描いてゆく。
家庭の描写は、まるでアームストロング家の日常を覗き見るような、ハンディ風のカメラワークが印象的。
カメラは終始アームストロングの心象を追い、内に閉じているのである。
しかし、終盤に差し掛かりアポロ11号の冒険が始まると、チャゼルは一気に演出的なアプローチを変え、アームストロングの内面を神秘的な宇宙の光景へと開いてゆくのだ。
X-15のエピソードの後、アームストロングは幼い娘のカレンを脳腫瘍で失う。
心の傷を抱えたまま、彼は未知なる宇宙に挑戦することで自分と家族の環境を変え、悲しみを紛らわせようとするのである。
だが、ヒューストンへ移っても、死の影はアームストロングから離れない。
ジェミニ9号の船長を務めるはずだった同僚のエリオット・シーが事故死し、彼の葬儀の場でアームストロングは娘の幻影を見る。
直後のジェミニ8号のミッションでは、自らが命を落としそうになり、次いでアメリカ宇宙開発史上で最悪の悲劇となるアポロ1号の火災事故で、一度に三人の仲間を失う。
家族のドラマとしてのクライマックスは、打ち上げの直前になって、アームストロングが二人の息子をダイニングに呼び「月へ行く」と告げるシーンだろう。
彼はこの時代の多くの男たちと同じように、仕事に打ち込むことで、「最も嫌なイメージ=死」に背を向けているのだが、ジャネットに「息子たちに、父親が帰らない時の覚悟をさせて」と言われ、ようやく自分が死ぬ可能性を吐露するのである。
多くの喪失の記憶を引きずりながらも、自ら死に向き合うことで、アームストロングの心はようやく解放されるのだ。
月面のシークエンスは、一瞬ロケかと錯覚するくらいリアリティ満点。
未知の星に、第一歩を踏み出したアームストロングは、生死の境界を越えて、荘厳なる無音の世界に亡きカレンを感じる。
そして、イーグル着陸船から少し離れたクレーターに歩み寄った彼は、「ある物」を月に置いてくるのだ。
時系列の前後はあれど基本的に史実に沿った本作で、アームストロングがクレーターの縁に立つまでは事実だが、この「ある物」の描写だけはフィクション。
宇宙飛行士は、プライベートな記念品を一定重量以下なら月に持ってゆくことが許されていて、アームストロングは実際に何を持っていたのか、詳細は目録が残っていないとして、記憶以上のことは語らなかったという。
ただ、それはあくまでも記念品に「一緒に月へ行った」という付加価値を付けるためなので、置いてくるのはまた別の話。
極めて映画的な「ある物」の描写は、娘の死を起点として、伝説的な宇宙飛行士の心の内を描いたデミアン・チャゼルならではの、心象的な解釈なのだろう。
月面を歩いた二人は、当然帰還後にスーパースターとなるのだが、映画はそこまでは描かない。
検疫のために隔離中のアームストロングが、ジャネットとガラス越しの再会を果たすラストは、本作のスタンス、描きたいことを象徴する、味わい深い名シーン。
アームストロングは月からの帰還以降は、職務以外であまり人前に出ることもなく、2年後にはNASAを退官し、ビジネスマンとして活動した後、晩年はファンからのサインの求めも断り半隠遁生活を送っていたという。
アポロ計画以来半世紀、宇宙開発が次第に商業的になってゆく中で、人類に新たなフロンティアを開いたアームストロングは、メディアによって偶像化されてゆき、逆にその実像は歴史の霧の中でぼやけていった。
これは、アメリカの世紀の栄光の神話に、「英雄」として閉じ込められていたアームストロングを、心に深い悲しみを抱えた一人の父親、一人の夫、一人の人間として解き放った作品かもしれない。
アメリカ宇宙開発史をモチーフとした、新たな傑作である。
今回は「ブルー・ムーン」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、クレーム・ド・バイオレット(パルフェ・タムール)15ml、レモンジュース15mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
幻想的な紫が美しいカクテル。
ビターなジンにレモンの酸味の組み合わせが、サッパリとしたクールさを演出する。
ブルー・ムーン本来の意味は、暦の関係で3ヶ月間に4度の満月がある場合の、3番目の満月の事。
歴史的には凶兆の月とされてきたが、珍しいことなので、現在では見ると幸せになれる吉兆の月とされているのだそうな。
ところでアポロ11号のシークエンスは、演出アプローチが違うので、結構客観ショットがあるのだけど、ヒコーキ好きとしては、X-15の飛んでる姿も見たかったな・・・。



2019年02月09日 (土) | 編集 |
アーサー王の帰還。
いやー評判通りの面白さ!
間違いなく、「マン・オブ・スティール」から始まったDCエクステンディッド・ユニバース(DCEU)のベストだ。
色々トラブった挙句に興行的失敗作となってしまった、DCヒーロー大集合映画「ジャスティス・リーグ」でデビューを飾った海のヒーロー、「アクアマン」の単体作品。
人間の灯台守と海底王国アトランティス人の王女の間に生まれた、アクアマンことアーサー・カリーが、地上征服を餌に海底世界の覇者“オーシャン・マスター”の座を狙う異父弟、オームの野望を阻止する。
陽性の神話系統のヒーローという意味では、マーベルの「ソー」に近いキャラクターなのだが、なんでもアリの破天荒な内容とジェームズ・ワン監督の相性が抜群で、ムチャクチャ楽しい娯楽大作に仕上がっている。
ハワイ先住民の血をひくジェイソン・モモアが、お茶目カッコいいアクアマンを好演し、相方のおてんば王女メラにはアンバー・ハード。
ニコール・キッドマン、ウィレム・デフォー、ドルフ・ラングレンといったベテランの大物たちが脇を固める重厚なキャスティング。
今更だけど、やっぱこれを作ってから、「ジャスティス・リーグ」やれば良かったのにねえ。
アーサー・カリー(ジェイソン・モモア)は、アトランティスの王女アトランナ(ニコール・キッドマン)と、人間の灯台守トーマス・カリー(テムエラ・モリソン)の息子として生まれ、その特殊能力を生かし“アクアマン”として世界の海で起こる事件で活躍中。
ある時、巨大な津波が沿岸を襲う事件が起こり、メラ(アンバー・ハード)からこれがアーサーの異父弟でアトランティス王オーム(パトリック・ウィルソン)による地上攻撃の前兆だと知らされる。
オームは海を汚し続ける地上人への海底人の反感を利用し、地上人によるアトランティス攻撃をでっち上げ、海中の七王国全てを支配するオーシャン・マスターとなることを狙っていた。
阻止するには、アーサー自らがアトランティスへ赴き、自分の方が王にふさわしいことを全ての海底人の前で証明しなければならない。
準備不足のままオームと戦うことになったアーサーだったが、メラの機転で一旦退き、アトランティス王権の象徴でありながら、初代国王の遺体とともに行方不明になっている黄金のトライデント(三叉槍)を探す旅に出る。
しかし、その間にもオームによる七王国の支配は着々と進んでいた・・・・
本作を端的に言い表すならば、DCEUの世界観の中での神話の再構築だ。
物語の骨格となっているのは、「スター・ウォーズ:エピソードⅣ」に大きな影響を与えたことでも有名な、ジョセフ・キャンベルの名著「千の顔をもつ英雄」に著された、いわゆる「ヒーローズ・ジャーニー」である。
これは世界の英雄神話を分析すると、共通した構造があることを明らかにしたもので、「エピソードⅣ」の大成を受けて、研究が盛んになったハリウッドの脚本術のベースともなった。
もっとも、「ヒーローズ・ジャーニー」自体は、現在の脚本構造としてはもはや時代遅れなので、要素を忠実にトレースしつつ、順番はより効果的に構成されているのだけど、基本的に特殊な血を受け継いだ“運命の子”が、冒険を通して成長し、真の英雄となるまでを描く、定番の「ザ・貴種流離譚」だ。
それぞれの要素に関しては、過去に「ヒーローズ・ジャーニー」を元に作られた映画の中でも特に忠実に作られている。
基本構造は「セパレーション」「イニシエーション」「リターン」の三幕なのだが、このうち第一幕の終わりの部分は「闇への航海」と定義され、しばしば冒険への導入描写として、主人公は巨大な魚に飲み込まれてしまう。
映画にこの構造を当てはめるときは、普通別のシチュエーションに置き換えるのだが、本作は海中が舞台なのをいいことに、本当に巨大魚(クジラ)の口に入ってみせる。
ちなみに「ピノキオ」のクジラのエピソードが、神話にインスパイアされていることも、作中でメンションされている通り。
さらに、「リターン」の終わりに至って、主人公はそれまで纏っていた仮の姿を捨て、真の英雄(神的な存在)となることで、以前の自分が属していた世界と、新たに統べることになった世界の境界を取り払い、「二つの世界を導く者」となる。
本作では人間とアトランティスの血を受け継いだアクアマンは、七つの王国の王・オーシャン・マスターとなり、地上と海との架け橋となる。
彼の名前の由来であるアーサー王伝説も、「ヒーローズ・ジャーニー」の典型例であり、ウィレム・デフォーが演じるバルコは、いわば海の世界の魔術師マーリンか。
真の王の証として、アーサーが黄金のトライデントを引き抜くのは、もちろん宝剣エクスカリバーに符合する。
面白いのは、この古典的な構造を使いながら、テーマ的なモダナイズはあえて行わず、なんでもアリのファンタジー映画としてそのまま昇華していることだ。
一応、オームがオーシャン・マスターの座を求める理由は、統一軍を率いて「海を汚し続ける地上に懲罰を加えるため」ということになっているのだが、それは建前であって映画は異父兄弟の王権をめぐる争いに終始し、“地上の罪”がフォーカスされることは結局ない。
これがマーベルだったら、やっぱり王家のお家騒動の話だった「ブラックパンサー」が、アフロアメリカン史を内包する極めて政治的な映画だったように、環境汚染の問題と絡めるなど、少なからず現実とのリンクを作って来そうだが、本作の場合はエンターテイメントとしての割り切りがものすごく潔い。
テーマ性の追求は分断の解消という普遍的なものに留め、リアリティラインを含め、過去のDCEUからの縛りもほとんど無くしているがゆえ、ジェームズ・ワンの演出もやりたい放題、まさにフリーダムなアメコミ映画の楽しさに満ちているのである。
クジラの腹からの冒険の大半が、黄金のトライデントを探すトレジャーハンティングの旅に割かれていて、ブラックマンタら追っ手のヴィランズと戦いながら、陸海空を駆け抜ける冒険は、ちょっと「インディ・ジョーンズ」的な風味も。
そういえばジェームズ・ワンて、完全にルーカス、スピルバーグ世代で、元から彼らの大ファンを公言していたような。
なるほど、「スター・ウォーズ」+「インディ・ジョーンズ」のノリも納得だ。
砂漠の砂海王国とか、あれを海の王国に含めるのは相当に無理があるのだけど、海の中ばっかりだと画的なメリハリに欠けるので、シチリアでの市街戦を含めて、陸のエピソードが良いアクセントになっていたのではないか。
海溝の国の怪物たちの恐ろしさは、さすがホラーで名を馳せた監督だし、トライデントを守る巨大怪獣は「パシフィック・リム」まで入ってるてんこ盛り。
それまで出てきたほぼ全てのキャラクターが勢ぞろいして激突する、クライマックスのバトルシークエンスに至っては、もうボリュームありすぎてお腹いっぱい。
アメコミの世界は、ハリウッドよりもずっと以前から、積極的に神話のキャラクターや物語構造を取り入れてきた歴史がある。
その意味では海の神話の再構築である本作は、まさに鉄板の安定感で調理され、刺激的なスパイスで味付けされた豪華フルコース。
「ワイルド・スピード SKY MISSION」に続く本作で、ジェームズ・ワンは決してホラー映画だけではない、エンターテイナーとしての豊かな才能を存分に証明してみせた。
例によってエンドクレジット中のおまけもあり、続編も作る気満々。
それが「アクアマン2」になるのか、仕切り直しの「ジャスティス・リーグ2」になるのかは分からないが、これだけ楽しませてくれたのだから、やっぱり期待しない訳にはいかないだろう!
今回は主演のジェイソン・モモアのルーツ、ハワイのクラフトビール「コナ ハナレイ・アイランドIPA」をチョイス。
パッションフルーツ、オレンジ、グアバを使用したフルーツIPA。
IPAとは、インディアン・ペール・エールのことで、強いホップ感が特徴。
ホップの苦味とフルーティな香りのハーモニーを楽しめる、コナならではの強かわいいビールは、ワイルドでチャーミングなアクアマンにぴったり。
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いやー評判通りの面白さ!
間違いなく、「マン・オブ・スティール」から始まったDCエクステンディッド・ユニバース(DCEU)のベストだ。
色々トラブった挙句に興行的失敗作となってしまった、DCヒーロー大集合映画「ジャスティス・リーグ」でデビューを飾った海のヒーロー、「アクアマン」の単体作品。
人間の灯台守と海底王国アトランティス人の王女の間に生まれた、アクアマンことアーサー・カリーが、地上征服を餌に海底世界の覇者“オーシャン・マスター”の座を狙う異父弟、オームの野望を阻止する。
陽性の神話系統のヒーローという意味では、マーベルの「ソー」に近いキャラクターなのだが、なんでもアリの破天荒な内容とジェームズ・ワン監督の相性が抜群で、ムチャクチャ楽しい娯楽大作に仕上がっている。
ハワイ先住民の血をひくジェイソン・モモアが、お茶目カッコいいアクアマンを好演し、相方のおてんば王女メラにはアンバー・ハード。
ニコール・キッドマン、ウィレム・デフォー、ドルフ・ラングレンといったベテランの大物たちが脇を固める重厚なキャスティング。
今更だけど、やっぱこれを作ってから、「ジャスティス・リーグ」やれば良かったのにねえ。
アーサー・カリー(ジェイソン・モモア)は、アトランティスの王女アトランナ(ニコール・キッドマン)と、人間の灯台守トーマス・カリー(テムエラ・モリソン)の息子として生まれ、その特殊能力を生かし“アクアマン”として世界の海で起こる事件で活躍中。
ある時、巨大な津波が沿岸を襲う事件が起こり、メラ(アンバー・ハード)からこれがアーサーの異父弟でアトランティス王オーム(パトリック・ウィルソン)による地上攻撃の前兆だと知らされる。
オームは海を汚し続ける地上人への海底人の反感を利用し、地上人によるアトランティス攻撃をでっち上げ、海中の七王国全てを支配するオーシャン・マスターとなることを狙っていた。
阻止するには、アーサー自らがアトランティスへ赴き、自分の方が王にふさわしいことを全ての海底人の前で証明しなければならない。
準備不足のままオームと戦うことになったアーサーだったが、メラの機転で一旦退き、アトランティス王権の象徴でありながら、初代国王の遺体とともに行方不明になっている黄金のトライデント(三叉槍)を探す旅に出る。
しかし、その間にもオームによる七王国の支配は着々と進んでいた・・・・
本作を端的に言い表すならば、DCEUの世界観の中での神話の再構築だ。
物語の骨格となっているのは、「スター・ウォーズ:エピソードⅣ」に大きな影響を与えたことでも有名な、ジョセフ・キャンベルの名著「千の顔をもつ英雄」に著された、いわゆる「ヒーローズ・ジャーニー」である。
これは世界の英雄神話を分析すると、共通した構造があることを明らかにしたもので、「エピソードⅣ」の大成を受けて、研究が盛んになったハリウッドの脚本術のベースともなった。
もっとも、「ヒーローズ・ジャーニー」自体は、現在の脚本構造としてはもはや時代遅れなので、要素を忠実にトレースしつつ、順番はより効果的に構成されているのだけど、基本的に特殊な血を受け継いだ“運命の子”が、冒険を通して成長し、真の英雄となるまでを描く、定番の「ザ・貴種流離譚」だ。
それぞれの要素に関しては、過去に「ヒーローズ・ジャーニー」を元に作られた映画の中でも特に忠実に作られている。
基本構造は「セパレーション」「イニシエーション」「リターン」の三幕なのだが、このうち第一幕の終わりの部分は「闇への航海」と定義され、しばしば冒険への導入描写として、主人公は巨大な魚に飲み込まれてしまう。
映画にこの構造を当てはめるときは、普通別のシチュエーションに置き換えるのだが、本作は海中が舞台なのをいいことに、本当に巨大魚(クジラ)の口に入ってみせる。
ちなみに「ピノキオ」のクジラのエピソードが、神話にインスパイアされていることも、作中でメンションされている通り。
さらに、「リターン」の終わりに至って、主人公はそれまで纏っていた仮の姿を捨て、真の英雄(神的な存在)となることで、以前の自分が属していた世界と、新たに統べることになった世界の境界を取り払い、「二つの世界を導く者」となる。
本作では人間とアトランティスの血を受け継いだアクアマンは、七つの王国の王・オーシャン・マスターとなり、地上と海との架け橋となる。
彼の名前の由来であるアーサー王伝説も、「ヒーローズ・ジャーニー」の典型例であり、ウィレム・デフォーが演じるバルコは、いわば海の世界の魔術師マーリンか。
真の王の証として、アーサーが黄金のトライデントを引き抜くのは、もちろん宝剣エクスカリバーに符合する。
面白いのは、この古典的な構造を使いながら、テーマ的なモダナイズはあえて行わず、なんでもアリのファンタジー映画としてそのまま昇華していることだ。
一応、オームがオーシャン・マスターの座を求める理由は、統一軍を率いて「海を汚し続ける地上に懲罰を加えるため」ということになっているのだが、それは建前であって映画は異父兄弟の王権をめぐる争いに終始し、“地上の罪”がフォーカスされることは結局ない。
これがマーベルだったら、やっぱり王家のお家騒動の話だった「ブラックパンサー」が、アフロアメリカン史を内包する極めて政治的な映画だったように、環境汚染の問題と絡めるなど、少なからず現実とのリンクを作って来そうだが、本作の場合はエンターテイメントとしての割り切りがものすごく潔い。
テーマ性の追求は分断の解消という普遍的なものに留め、リアリティラインを含め、過去のDCEUからの縛りもほとんど無くしているがゆえ、ジェームズ・ワンの演出もやりたい放題、まさにフリーダムなアメコミ映画の楽しさに満ちているのである。
クジラの腹からの冒険の大半が、黄金のトライデントを探すトレジャーハンティングの旅に割かれていて、ブラックマンタら追っ手のヴィランズと戦いながら、陸海空を駆け抜ける冒険は、ちょっと「インディ・ジョーンズ」的な風味も。
そういえばジェームズ・ワンて、完全にルーカス、スピルバーグ世代で、元から彼らの大ファンを公言していたような。
なるほど、「スター・ウォーズ」+「インディ・ジョーンズ」のノリも納得だ。
砂漠の砂海王国とか、あれを海の王国に含めるのは相当に無理があるのだけど、海の中ばっかりだと画的なメリハリに欠けるので、シチリアでの市街戦を含めて、陸のエピソードが良いアクセントになっていたのではないか。
海溝の国の怪物たちの恐ろしさは、さすがホラーで名を馳せた監督だし、トライデントを守る巨大怪獣は「パシフィック・リム」まで入ってるてんこ盛り。
それまで出てきたほぼ全てのキャラクターが勢ぞろいして激突する、クライマックスのバトルシークエンスに至っては、もうボリュームありすぎてお腹いっぱい。
アメコミの世界は、ハリウッドよりもずっと以前から、積極的に神話のキャラクターや物語構造を取り入れてきた歴史がある。
その意味では海の神話の再構築である本作は、まさに鉄板の安定感で調理され、刺激的なスパイスで味付けされた豪華フルコース。
「ワイルド・スピード SKY MISSION」に続く本作で、ジェームズ・ワンは決してホラー映画だけではない、エンターテイナーとしての豊かな才能を存分に証明してみせた。
例によってエンドクレジット中のおまけもあり、続編も作る気満々。
それが「アクアマン2」になるのか、仕切り直しの「ジャスティス・リーグ2」になるのかは分からないが、これだけ楽しませてくれたのだから、やっぱり期待しない訳にはいかないだろう!
今回は主演のジェイソン・モモアのルーツ、ハワイのクラフトビール「コナ ハナレイ・アイランドIPA」をチョイス。
パッションフルーツ、オレンジ、グアバを使用したフルーツIPA。
IPAとは、インディアン・ペール・エールのことで、強いホップ感が特徴。
ホップの苦味とフルーティな香りのハーモニーを楽しめる、コナならではの強かわいいビールは、ワイルドでチャーミングなアクアマンにぴったり。



2019年02月09日 (土) | 編集 |
メリーは、今回もMr.バンクスを救いにやって来る。
P・L・トラヴァースの児童小説を原作とする、ミュージカル映画の金字塔「メリー・ポピンズ」の、実に54年ぶりとなるオフィシャルな続編。
物語の中では前作から25年が経過し、主人公はバンクス家の長男だったマイケルへと代替わり。
かつて子供だったキャラクターが大人になって、社会のしがらみを絡めた問題を抱えているのは昨年の「プーと大人になった僕」と同じ構図だ。
一家の大黒柱となったマイケルは、最愛の妻を亡くしたばかりで、三人の子供たちをどう育てていいのか分からず、姉のジェーンのサポートを受けてもなおテンパり気味。
しかも背景となるのは大恐慌時代。
バンクス家は、借金の焦げ付きで家を失う危機に瀕しているのである。
八方塞がりの状況のマイケルの元へ、魔法使いのナニー、メリー・ポピンズが25年ぶりに現れる。
「メリー・ポピンズ」制作のビハインド・ザ・シーンを描いた「ウォルト・ディズニーの約束」では、ディズニー側が作品のテーマを理解していないと思った原作者のトラヴァースがこう言い放つ。
「メリー・ポピンズが子供たちを救いにやって来たですって?あきれた!」
現在日本でも虐待やネグレクトに苦しむ子供は後をたたないが、そこまで極端でなくても子供たちが抱えている問題の原因は往々にして親。
親が幸せでないのに、子供が幸せになれる可能性は低い。
救われるべきは子供たちではなく、社会という牢獄に閉じ込められ、信頼できる友だちもおらず、ただ厳格で利己的なふりをして自分を保っているかわいそうな父親、Mr.バンクスなのである。
メリー・ポピンズが子供たちとの愉快な冒険を通して、二代目Mr.バンクス、マイケルの硬直した心を間接的に溶かし、一家の危機を救う流れは、本作でも踏襲されている。
しかし、前作で子供たちが作った理想のナニーを求めるチラシのような、メリーが再びやって来る「動機」の部分が無かったり、マイケルの抱えている葛藤が第一義的には「家を失う」という極めて物理的なもので、どちらかといえば精神的な救いをもたらすメリーの存在とのマッチングが今ひとつだったりといった問題点もちらほら。
クライマックスの流れは、前作というよりも「プーと大人になった僕」を思わせ、メリーの行動などはちょいご都合主義を感じさせてしまうのだが、まあギリギリ良しとしよう。
前作の凧揚げのシーンつながりだからか、今回メリー・ポピンズは凧を手にして空から現れる。
Mrs.バンクスが婦人参政権運動をしていた流れで、娘のジェーンも労働運動をしていたり、悪役の銀行の頭取ミスター・ドース・シニアを演じたディック・ヴァン・ダイクが、歳をとったドース・ジュニア役で再登場したり、意外と前作とのつながり要素が多いので、知っていた方が楽しめるだろうが、単体で観ても問題ない作り。
ディック・ヴァン・ダイクのルックスが全く変わってないので、一瞬CGかと思った。
まあよく考えたら、前作の彼は本作のジャックに当たるメリーの友だちのバートと二役だったから、ドース・シニア役は老けメイクだった訳だが、それにしても93歳にして現役とは!
バルーン・レディ役で登場のアンジェラ・ランズベリーといい、90代元気すぎ。
そういえば、赤い風船が童心の象徴となっているのも、「プーと大人になった僕」と共通している。
シャーマン兄弟による前作の歌はそのままは使われておらず、全てマーク・シャイマンが書き下ろしたニューナンバーなのだが、カラフルなミュージカルシークエンスのビジュアルは素晴らしく、ボリュームも満点でお腹いっぱい。
陶器の世界の手描きアニメーション表現は、前作への熱いオマージュを感じさせ、嬉しくなってしまった。
やはり餅は餅屋で、ロブ・マーシャル監督の演出は、ミュージカル作品では水を得た魚の如く生き生きしてる。
惜しむらくは、楽曲のクオリティは総じてハイレベルなものの、前作の「チム・チム・チェリー」の様な、決定的にインパクトのある歌が無いこと。
これがあるか無いかでは、作品の最終的な印象の強さがだいぶ違ってきてしまう。
特筆すべきはタイトルロールを演じるエミリー・ブラントで、伝説的なジュリー・アンドリュースに勝るとも劣らない名演をみせ、歌やダンスも見事な仕上がり。
アカデミー主演女優賞にノミネートされなかったのが、ちょっと信じられないくらいだ。
今回はまんま「メリー・ポピンズ」をチョイス。
ドライ・ジン60mlとクレーム・ド・カカオ(カカオ・リキュール)10mlを、氷で満たしたミキシング・グラスに入れ、ステアし、カクテルグラスに注ぐ。
チョコレート色の大人なカクテル。
カカオの香りとジンの清涼感のマッチングは、以外と悪くない。
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P・L・トラヴァースの児童小説を原作とする、ミュージカル映画の金字塔「メリー・ポピンズ」の、実に54年ぶりとなるオフィシャルな続編。
物語の中では前作から25年が経過し、主人公はバンクス家の長男だったマイケルへと代替わり。
かつて子供だったキャラクターが大人になって、社会のしがらみを絡めた問題を抱えているのは昨年の「プーと大人になった僕」と同じ構図だ。
一家の大黒柱となったマイケルは、最愛の妻を亡くしたばかりで、三人の子供たちをどう育てていいのか分からず、姉のジェーンのサポートを受けてもなおテンパり気味。
しかも背景となるのは大恐慌時代。
バンクス家は、借金の焦げ付きで家を失う危機に瀕しているのである。
八方塞がりの状況のマイケルの元へ、魔法使いのナニー、メリー・ポピンズが25年ぶりに現れる。
「メリー・ポピンズ」制作のビハインド・ザ・シーンを描いた「ウォルト・ディズニーの約束」では、ディズニー側が作品のテーマを理解していないと思った原作者のトラヴァースがこう言い放つ。
「メリー・ポピンズが子供たちを救いにやって来たですって?あきれた!」
現在日本でも虐待やネグレクトに苦しむ子供は後をたたないが、そこまで極端でなくても子供たちが抱えている問題の原因は往々にして親。
親が幸せでないのに、子供が幸せになれる可能性は低い。
救われるべきは子供たちではなく、社会という牢獄に閉じ込められ、信頼できる友だちもおらず、ただ厳格で利己的なふりをして自分を保っているかわいそうな父親、Mr.バンクスなのである。
メリー・ポピンズが子供たちとの愉快な冒険を通して、二代目Mr.バンクス、マイケルの硬直した心を間接的に溶かし、一家の危機を救う流れは、本作でも踏襲されている。
しかし、前作で子供たちが作った理想のナニーを求めるチラシのような、メリーが再びやって来る「動機」の部分が無かったり、マイケルの抱えている葛藤が第一義的には「家を失う」という極めて物理的なもので、どちらかといえば精神的な救いをもたらすメリーの存在とのマッチングが今ひとつだったりといった問題点もちらほら。
クライマックスの流れは、前作というよりも「プーと大人になった僕」を思わせ、メリーの行動などはちょいご都合主義を感じさせてしまうのだが、まあギリギリ良しとしよう。
前作の凧揚げのシーンつながりだからか、今回メリー・ポピンズは凧を手にして空から現れる。
Mrs.バンクスが婦人参政権運動をしていた流れで、娘のジェーンも労働運動をしていたり、悪役の銀行の頭取ミスター・ドース・シニアを演じたディック・ヴァン・ダイクが、歳をとったドース・ジュニア役で再登場したり、意外と前作とのつながり要素が多いので、知っていた方が楽しめるだろうが、単体で観ても問題ない作り。
ディック・ヴァン・ダイクのルックスが全く変わってないので、一瞬CGかと思った。
まあよく考えたら、前作の彼は本作のジャックに当たるメリーの友だちのバートと二役だったから、ドース・シニア役は老けメイクだった訳だが、それにしても93歳にして現役とは!
バルーン・レディ役で登場のアンジェラ・ランズベリーといい、90代元気すぎ。
そういえば、赤い風船が童心の象徴となっているのも、「プーと大人になった僕」と共通している。
シャーマン兄弟による前作の歌はそのままは使われておらず、全てマーク・シャイマンが書き下ろしたニューナンバーなのだが、カラフルなミュージカルシークエンスのビジュアルは素晴らしく、ボリュームも満点でお腹いっぱい。
陶器の世界の手描きアニメーション表現は、前作への熱いオマージュを感じさせ、嬉しくなってしまった。
やはり餅は餅屋で、ロブ・マーシャル監督の演出は、ミュージカル作品では水を得た魚の如く生き生きしてる。
惜しむらくは、楽曲のクオリティは総じてハイレベルなものの、前作の「チム・チム・チェリー」の様な、決定的にインパクトのある歌が無いこと。
これがあるか無いかでは、作品の最終的な印象の強さがだいぶ違ってきてしまう。
特筆すべきはタイトルロールを演じるエミリー・ブラントで、伝説的なジュリー・アンドリュースに勝るとも劣らない名演をみせ、歌やダンスも見事な仕上がり。
アカデミー主演女優賞にノミネートされなかったのが、ちょっと信じられないくらいだ。
今回はまんま「メリー・ポピンズ」をチョイス。
ドライ・ジン60mlとクレーム・ド・カカオ(カカオ・リキュール)10mlを、氷で満たしたミキシング・グラスに入れ、ステアし、カクテルグラスに注ぐ。
チョコレート色の大人なカクテル。
カカオの香りとジンの清涼感のマッチングは、以外と悪くない。



2019年02月03日 (日) | 編集 |
「彼」は、何を焼いたのか。
現代韓国を代表する巨匠・イ・チャンドン監督は、京都造形芸術大学で教鞭をとったり、何かと日本にも縁深い人だが、「ポエトリー アグネスの詩」以来、8年ぶりの新作となる「バーニング 劇場版」は、村上春樹の短編小説「納屋を焼く」の映画化。
さらにNHKが資本参加していて、148分の劇場版の他に、95分のTVドラマ版が作られ、日本では映画の公開に先立つ12月29日に放送されている。
原作は突然失踪した「彼女」を巡る、「僕」と「彼」のミステリアスな物語。
映画化に当たって、舞台は80年代初頭の日本から現在の韓国へと移し替えられ、「僕」に当たる主人公のジョンスを「ベテラン」などで知られるユ・アイン、忽然と姿を消す「彼女」のヘミを新人チョン・ジョンソ、謎多き「彼」ベンを「ウォーキング・デッド」のスティーブン・ユァンが演じる。
イ・チャンドンは、「冬の小鳥」のウニー・ルコントや「私の少女」のチョン・ジュリなど、後進の育成でも大きな実績を上げているが、本作で共同脚本を務めるオ・ジョンミも、彼の教え子だという。
文学的なムードの向こうに、韓国社会の今を浮き彫りにする、味わい深い傑作である。
※核心部分に触れています。
小説家志望の青年イ・ジョンス(ユ・アイン)は、ある日幼馴染の女性シン・ヘミ(チョン・ジョンソ)と再会し、彼女がアフリカ旅行へ行っている間、アパートで買っている猫の餌をあげてほしいと頼まれる。
半月後、ジョンスが帰国するヘミを空港に迎えに行くと、彼女から旅行中に知り合ったという謎めいた青年ベン(スティーブン・ユァン)を紹介される。
何の仕事をしているのかはっきりしないが、高級マンションに住み、ポルシェを乗り回すベンは、ジョンスに「僕は時々ビニールハウスを燃やしています」と打ち明ける。
韓国には汚くて、無用で、誰も気にしないビニールハウスがたくさんあるので、それを燃やしているというのだ。
ところが、その日を境にヘミが失踪し、連絡が取れなくなってしまう。
彼女に強い恋心を抱いていたジョンスは、必死に行方を探すのだが、ある可能性に思い当たる・・・
同じタイトルの作品ながら、大きく尺の違う二つのバージョンが作られるのは、劇場公開版に対するディレクターズカット版などの形で過去にも度々作られているが、本作の場合はそういった作品とは位置付けが異なる。
本作の劇場版とTVドラマ版は、同じ原作で同じ脚本を使って撮影されているにも関わらず、編集というテリングの妙によって、全く異なるムードとテーマ持つ、別々の作品に仕上がっているのである。
劇場版を観るまでドラマ版を観ないという人もいるだろうが、鑑賞順はTVドラマ版→劇場版が好ましい。
なぜなら、劇場版はドラマ版を内包する作りになっているからで、年末放送、2月劇場公開と言うスケジュールも作者の計算通りだと思う。
村上春樹の原作の映像化としては、断然ドラマ版の方がしっくりくる。
原作では平凡な若者である「僕」が、付き合っている「彼女」から、謎めいた金持ちの「彼」を紹介される。
「彼」の趣味は、他人の納屋へガソリンをかけて焼いてしまうことで、近々また焼く予定だという。
「僕」は「彼」がいつ実行するのだろうと思い、辺りにある納屋を見て回るがどれも燃えた様子はない。
再び「彼」に会った時、「僕」はいつ納屋を焼くのかと聞くが、「彼」は「納屋はもう燃やした」と答えるのだ。
そしてそれ以来、「彼女」は「僕」の前から姿を消す。
このわずか30ページほどのシンプルな物語を、比較的忠実に映像化したのがドラマ版。
原作同様に、ヘミの行方は知れないままで、空っぽになった彼女の部屋で、ジョンスが「小説」を書き始めるところで終わる。
自らも作家として活躍しているだけあって、イ・チャンドンのスタイルはいつにも増して非常に文学的。
描き過ぎず、曖昧な部分を多く残し、観客の想像力を刺激するTVドラマ版は、短編小説の映像化のお手本のような構成だ。
対して劇場版は、脚色によって原作の後半部分を大幅に膨らませ、独自要素を多く組み込んだ結果、原作ともドラマ版とも、まるで別物に仕上がっている。
こちらでは、失踪したヘミに何が起こったのか、ジョンスの必死の捜索の結果、ほぼ全てが明らかになるのだ。
ベンの家に隠された大量の女物のアクセサリー、男の家には似つかわしくない化粧道具、ポルシェの向かった先、水のない井戸の謎、姿なき猫の名前など、TVドラマ版では触れられていないか、ぼんやりとした「ヒント」にとどまっていた描写が、こちらではジョンスの執念の行動によって、たどり着く真相の「証拠」として機能する。
知り合ってしばらく経った時、ベンはジョンスとヘミを自宅に食事に招き、「料理するのが好きだ」と語る。
それは、いつでも自分の好み通りに料理して、好きなように食べられるから。
都会で孤立し、経済的に困窮し、誰からも気にかけられていない、社会の低層にいる若い女性たちを“食材”として釣り上げ、自分にふさわしい体裁に仕立て上げてから、「焼く(殺す)」。
ジョンスは、ベンが温和な仮面の下に恐るべき嗜虐性を秘めた冷酷なシリアルキラーであり、おそらくヘミはもうこの世にいないことを確信するのである。
ここには、原作やTVドラマ版の曖昧さは無い。
何をしてるか分からないがやたらと金を持っていて、旅行に行ったり高級車を乗り回したり、毎夜遊び呆けているベンを、ジョンスはフィツジェラルドの小説、「グレート・ギャツビー」に例え「韓国にはギャツビーが沢山いる」とつぶやく。
閉塞して地べたを這いつくばる自分やヘミたちとは、別の世界に住む得体の知れない怪物たち。
面白いのは、この様に考えるジョンスのキャラクター造形に、もう一つの「納屋を焼く」が色濃い影響を与えていることだ。
劇中でジョンスが、自分の好きな作家として、ウィリアム・フォークナーの名を上げるが、彼の小説に「納屋を焼く」という本作の原作と同タイトルの作品がある。
これは19世紀末のアメリカを舞台に、異様にプライドの高い父親を持った少年の話で、少年の一家は父親が地主の納屋に放火したとして、町から追放される。
父親は新しい地主の元で小作人として働くことになるのだが、ここでも父親は地主とトラブルを起こし、怒りに任せて納屋に火をつけようとするのだ。
村上春樹自身は、両作の関連性を否定しているが、イ・チャンドンはフォークナーの小説の少年と父親を、本作のジョンスと父親のキャラクターに投影し、二つの「納屋を焼く」の融合を試みている。
これにより、原作の「僕」という名前すらないぼんやりとしたキャラクターが、世知辛い社会に生きるイ・ジョンスというリアルな若者としてクッキリした像を結ぶ。
ジョンスが生まれ育ったのは、日がな一日スピーカーから北朝鮮と韓国の宣伝放送が聞こえて来る国境の寒村で、畜産業に失敗した父親はフォークナーの小説と同じく、怒りに任せて事件を起こし裁判中。
彼自身も小説を書きたいと漠然と思ってはいるが、実際には何を書いたらいいのか分からない。
映画が映し出すのは、高止まりの失業率、開き続ける格差社会、カード破産などに直面し、どこにも行けず、何者にもなれない若者たちの閉塞と絶望。
ヘミの言葉を借りれば、彼らは精神的にも物理的にも大いなる飢えを抱えた、「グレート・ハンガー」なのだ。
さらに、変更されたラストによって、「焼く」という言葉にも、新たな意味が生まれている。
「グレート・ギャツビー」と「グレート・ハンガー」、一見すると真逆の立場で、似ても似つかぬ境遇にいるベンとジョンスは、どちらも「自分が生きている」という強烈な「実感」を欲しているという点では似た者同士。
だからこそ水と油はラストに融合し、薄ぼんやりとした霧の中、激しい炎となって燃え上がる。
原作の「焼く」のイメージは、心の中で不気味に静かに燃える感じだったが、本作の「焼く」はまさに生と死の証であり、お互いの身も心も焼き尽くす熱量だ。
ベンは韓国のどこにでも「自分の同時存在がいる」と語るが、ジョンスやヘミにも無数の同時存在がいるのだろう。
その意味でこれは、小説の設定を借りて、韓国社会のカリカチュアを試みた作品と言えるかもしれない。
「バーニング 劇場版」は、原作やTVドラマ版より具体的で社会派の色彩が強く、村上春樹の色は限りなく薄い。
滲み出る人間の哀しみと痛みのリアリティは、いかにもイ・チャンドンらしい作家映画だ。
映画を勉強している若い人は、是非とも劇場版とTVドラマ版を鑑賞し、両作品の狙いの違いを分析してみるといい。
物語とテーマの関係、編集の力を知る最高の教材だと思う。
今回はボイラー室で見つかったという猫ちゃんが可愛かったので、「ボイラー・メイカー」をチョイス。
適量のビールを入れたグラスの中に、ショットグラスに注いだバーボンを落として完成。
元々はボイラー工場の労働者が、手っ取り早く酔っ払うために、ビールにバーボンを入れたのが発祥とされる。
これのバーボンを韓国焼酎に変えると、韓国名物の「爆弾酒」となる。
まー世の中飲まなきゃやってられないことも多いけど、二日酔い必至のデンジャラスな酒である。
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現代韓国を代表する巨匠・イ・チャンドン監督は、京都造形芸術大学で教鞭をとったり、何かと日本にも縁深い人だが、「ポエトリー アグネスの詩」以来、8年ぶりの新作となる「バーニング 劇場版」は、村上春樹の短編小説「納屋を焼く」の映画化。
さらにNHKが資本参加していて、148分の劇場版の他に、95分のTVドラマ版が作られ、日本では映画の公開に先立つ12月29日に放送されている。
原作は突然失踪した「彼女」を巡る、「僕」と「彼」のミステリアスな物語。
映画化に当たって、舞台は80年代初頭の日本から現在の韓国へと移し替えられ、「僕」に当たる主人公のジョンスを「ベテラン」などで知られるユ・アイン、忽然と姿を消す「彼女」のヘミを新人チョン・ジョンソ、謎多き「彼」ベンを「ウォーキング・デッド」のスティーブン・ユァンが演じる。
イ・チャンドンは、「冬の小鳥」のウニー・ルコントや「私の少女」のチョン・ジュリなど、後進の育成でも大きな実績を上げているが、本作で共同脚本を務めるオ・ジョンミも、彼の教え子だという。
文学的なムードの向こうに、韓国社会の今を浮き彫りにする、味わい深い傑作である。
※核心部分に触れています。
小説家志望の青年イ・ジョンス(ユ・アイン)は、ある日幼馴染の女性シン・ヘミ(チョン・ジョンソ)と再会し、彼女がアフリカ旅行へ行っている間、アパートで買っている猫の餌をあげてほしいと頼まれる。
半月後、ジョンスが帰国するヘミを空港に迎えに行くと、彼女から旅行中に知り合ったという謎めいた青年ベン(スティーブン・ユァン)を紹介される。
何の仕事をしているのかはっきりしないが、高級マンションに住み、ポルシェを乗り回すベンは、ジョンスに「僕は時々ビニールハウスを燃やしています」と打ち明ける。
韓国には汚くて、無用で、誰も気にしないビニールハウスがたくさんあるので、それを燃やしているというのだ。
ところが、その日を境にヘミが失踪し、連絡が取れなくなってしまう。
彼女に強い恋心を抱いていたジョンスは、必死に行方を探すのだが、ある可能性に思い当たる・・・
同じタイトルの作品ながら、大きく尺の違う二つのバージョンが作られるのは、劇場公開版に対するディレクターズカット版などの形で過去にも度々作られているが、本作の場合はそういった作品とは位置付けが異なる。
本作の劇場版とTVドラマ版は、同じ原作で同じ脚本を使って撮影されているにも関わらず、編集というテリングの妙によって、全く異なるムードとテーマ持つ、別々の作品に仕上がっているのである。
劇場版を観るまでドラマ版を観ないという人もいるだろうが、鑑賞順はTVドラマ版→劇場版が好ましい。
なぜなら、劇場版はドラマ版を内包する作りになっているからで、年末放送、2月劇場公開と言うスケジュールも作者の計算通りだと思う。
村上春樹の原作の映像化としては、断然ドラマ版の方がしっくりくる。
原作では平凡な若者である「僕」が、付き合っている「彼女」から、謎めいた金持ちの「彼」を紹介される。
「彼」の趣味は、他人の納屋へガソリンをかけて焼いてしまうことで、近々また焼く予定だという。
「僕」は「彼」がいつ実行するのだろうと思い、辺りにある納屋を見て回るがどれも燃えた様子はない。
再び「彼」に会った時、「僕」はいつ納屋を焼くのかと聞くが、「彼」は「納屋はもう燃やした」と答えるのだ。
そしてそれ以来、「彼女」は「僕」の前から姿を消す。
このわずか30ページほどのシンプルな物語を、比較的忠実に映像化したのがドラマ版。
原作同様に、ヘミの行方は知れないままで、空っぽになった彼女の部屋で、ジョンスが「小説」を書き始めるところで終わる。
自らも作家として活躍しているだけあって、イ・チャンドンのスタイルはいつにも増して非常に文学的。
描き過ぎず、曖昧な部分を多く残し、観客の想像力を刺激するTVドラマ版は、短編小説の映像化のお手本のような構成だ。
対して劇場版は、脚色によって原作の後半部分を大幅に膨らませ、独自要素を多く組み込んだ結果、原作ともドラマ版とも、まるで別物に仕上がっている。
こちらでは、失踪したヘミに何が起こったのか、ジョンスの必死の捜索の結果、ほぼ全てが明らかになるのだ。
ベンの家に隠された大量の女物のアクセサリー、男の家には似つかわしくない化粧道具、ポルシェの向かった先、水のない井戸の謎、姿なき猫の名前など、TVドラマ版では触れられていないか、ぼんやりとした「ヒント」にとどまっていた描写が、こちらではジョンスの執念の行動によって、たどり着く真相の「証拠」として機能する。
知り合ってしばらく経った時、ベンはジョンスとヘミを自宅に食事に招き、「料理するのが好きだ」と語る。
それは、いつでも自分の好み通りに料理して、好きなように食べられるから。
都会で孤立し、経済的に困窮し、誰からも気にかけられていない、社会の低層にいる若い女性たちを“食材”として釣り上げ、自分にふさわしい体裁に仕立て上げてから、「焼く(殺す)」。
ジョンスは、ベンが温和な仮面の下に恐るべき嗜虐性を秘めた冷酷なシリアルキラーであり、おそらくヘミはもうこの世にいないことを確信するのである。
ここには、原作やTVドラマ版の曖昧さは無い。
何をしてるか分からないがやたらと金を持っていて、旅行に行ったり高級車を乗り回したり、毎夜遊び呆けているベンを、ジョンスはフィツジェラルドの小説、「グレート・ギャツビー」に例え「韓国にはギャツビーが沢山いる」とつぶやく。
閉塞して地べたを這いつくばる自分やヘミたちとは、別の世界に住む得体の知れない怪物たち。
面白いのは、この様に考えるジョンスのキャラクター造形に、もう一つの「納屋を焼く」が色濃い影響を与えていることだ。
劇中でジョンスが、自分の好きな作家として、ウィリアム・フォークナーの名を上げるが、彼の小説に「納屋を焼く」という本作の原作と同タイトルの作品がある。
これは19世紀末のアメリカを舞台に、異様にプライドの高い父親を持った少年の話で、少年の一家は父親が地主の納屋に放火したとして、町から追放される。
父親は新しい地主の元で小作人として働くことになるのだが、ここでも父親は地主とトラブルを起こし、怒りに任せて納屋に火をつけようとするのだ。
村上春樹自身は、両作の関連性を否定しているが、イ・チャンドンはフォークナーの小説の少年と父親を、本作のジョンスと父親のキャラクターに投影し、二つの「納屋を焼く」の融合を試みている。
これにより、原作の「僕」という名前すらないぼんやりとしたキャラクターが、世知辛い社会に生きるイ・ジョンスというリアルな若者としてクッキリした像を結ぶ。
ジョンスが生まれ育ったのは、日がな一日スピーカーから北朝鮮と韓国の宣伝放送が聞こえて来る国境の寒村で、畜産業に失敗した父親はフォークナーの小説と同じく、怒りに任せて事件を起こし裁判中。
彼自身も小説を書きたいと漠然と思ってはいるが、実際には何を書いたらいいのか分からない。
映画が映し出すのは、高止まりの失業率、開き続ける格差社会、カード破産などに直面し、どこにも行けず、何者にもなれない若者たちの閉塞と絶望。
ヘミの言葉を借りれば、彼らは精神的にも物理的にも大いなる飢えを抱えた、「グレート・ハンガー」なのだ。
さらに、変更されたラストによって、「焼く」という言葉にも、新たな意味が生まれている。
「グレート・ギャツビー」と「グレート・ハンガー」、一見すると真逆の立場で、似ても似つかぬ境遇にいるベンとジョンスは、どちらも「自分が生きている」という強烈な「実感」を欲しているという点では似た者同士。
だからこそ水と油はラストに融合し、薄ぼんやりとした霧の中、激しい炎となって燃え上がる。
原作の「焼く」のイメージは、心の中で不気味に静かに燃える感じだったが、本作の「焼く」はまさに生と死の証であり、お互いの身も心も焼き尽くす熱量だ。
ベンは韓国のどこにでも「自分の同時存在がいる」と語るが、ジョンスやヘミにも無数の同時存在がいるのだろう。
その意味でこれは、小説の設定を借りて、韓国社会のカリカチュアを試みた作品と言えるかもしれない。
「バーニング 劇場版」は、原作やTVドラマ版より具体的で社会派の色彩が強く、村上春樹の色は限りなく薄い。
滲み出る人間の哀しみと痛みのリアリティは、いかにもイ・チャンドンらしい作家映画だ。
映画を勉強している若い人は、是非とも劇場版とTVドラマ版を鑑賞し、両作品の狙いの違いを分析してみるといい。
物語とテーマの関係、編集の力を知る最高の教材だと思う。
今回はボイラー室で見つかったという猫ちゃんが可愛かったので、「ボイラー・メイカー」をチョイス。
適量のビールを入れたグラスの中に、ショットグラスに注いだバーボンを落として完成。
元々はボイラー工場の労働者が、手っ取り早く酔っ払うために、ビールにバーボンを入れたのが発祥とされる。
これのバーボンを韓国焼酎に変えると、韓国名物の「爆弾酒」となる。
まー世の中飲まなきゃやってられないことも多いけど、二日酔い必至のデンジャラスな酒である。

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