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※noraneko285でつぶやいてます。ブログで書いてない映画の話なども。
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2019年02月03日 (日) | 編集 |
「彼」は、何を焼いたのか。
現代韓国を代表する巨匠・イ・チャンドン監督は、京都造形芸術大学で教鞭をとったり、何かと日本にも縁深い人だが、「ポエトリー アグネスの詩」以来、8年ぶりの新作となる「バーニング 劇場版」は、村上春樹の短編小説「納屋を焼く」の映画化。
さらにNHKが資本参加していて、148分の劇場版の他に、95分のTVドラマ版が作られ、日本では映画の公開に先立つ12月29日に放送されている。
原作は突然失踪した「彼女」を巡る、「僕」と「彼」のミステリアスな物語。
映画化に当たって、舞台は80年代初頭の日本から現在の韓国へと移し替えられ、「僕」に当たる主人公のジョンスを「ベテラン」などで知られるユ・アイン、忽然と姿を消す「彼女」のヘミを新人チョン・ジョンソ、謎多き「彼」ベンを「ウォーキング・デッド」のスティーブン・ユァンが演じる。
イ・チャンドンは、「冬の小鳥」のウニー・ルコントや「私の少女」のチョン・ジュリなど、後進の育成でも大きな実績を上げているが、本作で共同脚本を務めるオ・ジョンミも、彼の教え子だという。
文学的なムードの向こうに、韓国社会の今を浮き彫りにする、味わい深い傑作である。
※核心部分に触れています。
小説家志望の青年イ・ジョンス(ユ・アイン)は、ある日幼馴染の女性シン・ヘミ(チョン・ジョンソ)と再会し、彼女がアフリカ旅行へ行っている間、アパートで買っている猫の餌をあげてほしいと頼まれる。
半月後、ジョンスが帰国するヘミを空港に迎えに行くと、彼女から旅行中に知り合ったという謎めいた青年ベン(スティーブン・ユァン)を紹介される。
何の仕事をしているのかはっきりしないが、高級マンションに住み、ポルシェを乗り回すベンは、ジョンスに「僕は時々ビニールハウスを燃やしています」と打ち明ける。
韓国には汚くて、無用で、誰も気にしないビニールハウスがたくさんあるので、それを燃やしているというのだ。
ところが、その日を境にヘミが失踪し、連絡が取れなくなってしまう。
彼女に強い恋心を抱いていたジョンスは、必死に行方を探すのだが、ある可能性に思い当たる・・・
同じタイトルの作品ながら、大きく尺の違う二つのバージョンが作られるのは、劇場公開版に対するディレクターズカット版などの形で過去にも度々作られているが、本作の場合はそういった作品とは位置付けが異なる。
本作の劇場版とTVドラマ版は、同じ原作で同じ脚本を使って撮影されているにも関わらず、編集というテリングの妙によって、全く異なるムードとテーマ持つ、別々の作品に仕上がっているのである。
劇場版を観るまでドラマ版を観ないという人もいるだろうが、鑑賞順はTVドラマ版→劇場版が好ましい。
なぜなら、劇場版はドラマ版を内包する作りになっているからで、年末放送、2月劇場公開と言うスケジュールも作者の計算通りだと思う。
村上春樹の原作の映像化としては、断然ドラマ版の方がしっくりくる。
原作では平凡な若者である「僕」が、付き合っている「彼女」から、謎めいた金持ちの「彼」を紹介される。
「彼」の趣味は、他人の納屋へガソリンをかけて焼いてしまうことで、近々また焼く予定だという。
「僕」は「彼」がいつ実行するのだろうと思い、辺りにある納屋を見て回るがどれも燃えた様子はない。
再び「彼」に会った時、「僕」はいつ納屋を焼くのかと聞くが、「彼」は「納屋はもう燃やした」と答えるのだ。
そしてそれ以来、「彼女」は「僕」の前から姿を消す。
このわずか30ページほどのシンプルな物語を、比較的忠実に映像化したのがドラマ版。
原作同様に、ヘミの行方は知れないままで、空っぽになった彼女の部屋で、ジョンスが「小説」を書き始めるところで終わる。
自らも作家として活躍しているだけあって、イ・チャンドンのスタイルはいつにも増して非常に文学的。
描き過ぎず、曖昧な部分を多く残し、観客の想像力を刺激するTVドラマ版は、短編小説の映像化のお手本のような構成だ。
対して劇場版は、脚色によって原作の後半部分を大幅に膨らませ、独自要素を多く組み込んだ結果、原作ともドラマ版とも、まるで別物に仕上がっている。
こちらでは、失踪したヘミに何が起こったのか、ジョンスの必死の捜索の結果、ほぼ全てが明らかになるのだ。
ベンの家に隠された大量の女物のアクセサリー、男の家には似つかわしくない化粧道具、ポルシェの向かった先、水のない井戸の謎、姿なき猫の名前など、TVドラマ版では触れられていないか、ぼんやりとした「ヒント」にとどまっていた描写が、こちらではジョンスの執念の行動によって、たどり着く真相の「証拠」として機能する。
知り合ってしばらく経った時、ベンはジョンスとヘミを自宅に食事に招き、「料理するのが好きだ」と語る。
それは、いつでも自分の好み通りに料理して、好きなように食べられるから。
都会で孤立し、経済的に困窮し、誰からも気にかけられていない、社会の低層にいる若い女性たちを“食材”として釣り上げ、自分にふさわしい体裁に仕立て上げてから、「焼く(殺す)」。
ジョンスは、ベンが温和な仮面の下に恐るべき嗜虐性を秘めた冷酷なシリアルキラーであり、おそらくヘミはもうこの世にいないことを確信するのである。
ここには、原作やTVドラマ版の曖昧さは無い。
何をしてるか分からないがやたらと金を持っていて、旅行に行ったり高級車を乗り回したり、毎夜遊び呆けているベンを、ジョンスはフィツジェラルドの小説、「グレート・ギャツビー」に例え「韓国にはギャツビーが沢山いる」とつぶやく。
閉塞して地べたを這いつくばる自分やヘミたちとは、別の世界に住む得体の知れない怪物たち。
面白いのは、この様に考えるジョンスのキャラクター造形に、もう一つの「納屋を焼く」が色濃い影響を与えていることだ。
劇中でジョンスが、自分の好きな作家として、ウィリアム・フォークナーの名を上げるが、彼の小説に「納屋を焼く」という本作の原作と同タイトルの作品がある。
これは19世紀末のアメリカを舞台に、異様にプライドの高い父親を持った少年の話で、少年の一家は父親が地主の納屋に放火したとして、町から追放される。
父親は新しい地主の元で小作人として働くことになるのだが、ここでも父親は地主とトラブルを起こし、怒りに任せて納屋に火をつけようとするのだ。
村上春樹自身は、両作の関連性を否定しているが、イ・チャンドンはフォークナーの小説の少年と父親を、本作のジョンスと父親のキャラクターに投影し、二つの「納屋を焼く」の融合を試みている。
これにより、原作の「僕」という名前すらないぼんやりとしたキャラクターが、世知辛い社会に生きるイ・ジョンスというリアルな若者としてクッキリした像を結ぶ。
ジョンスが生まれ育ったのは、日がな一日スピーカーから北朝鮮と韓国の宣伝放送が聞こえて来る国境の寒村で、畜産業に失敗した父親はフォークナーの小説と同じく、怒りに任せて事件を起こし裁判中。
彼自身も小説を書きたいと漠然と思ってはいるが、実際には何を書いたらいいのか分からない。
映画が映し出すのは、高止まりの失業率、開き続ける格差社会、カード破産などに直面し、どこにも行けず、何者にもなれない若者たちの閉塞と絶望。
ヘミの言葉を借りれば、彼らは精神的にも物理的にも大いなる飢えを抱えた、「グレート・ハンガー」なのだ。
さらに、変更されたラストによって、「焼く」という言葉にも、新たな意味が生まれている。
「グレート・ギャツビー」と「グレート・ハンガー」、一見すると真逆の立場で、似ても似つかぬ境遇にいるベンとジョンスは、どちらも「自分が生きている」という強烈な「実感」を欲しているという点では似た者同士。
だからこそ水と油はラストに融合し、薄ぼんやりとした霧の中、激しい炎となって燃え上がる。
原作の「焼く」のイメージは、心の中で不気味に静かに燃える感じだったが、本作の「焼く」はまさに生と死の証であり、お互いの身も心も焼き尽くす熱量だ。
ベンは韓国のどこにでも「自分の同時存在がいる」と語るが、ジョンスやヘミにも無数の同時存在がいるのだろう。
その意味でこれは、小説の設定を借りて、韓国社会のカリカチュアを試みた作品と言えるかもしれない。
「バーニング 劇場版」は、原作やTVドラマ版より具体的で社会派の色彩が強く、村上春樹の色は限りなく薄い。
滲み出る人間の哀しみと痛みのリアリティは、いかにもイ・チャンドンらしい作家映画だ。
映画を勉強している若い人は、是非とも劇場版とTVドラマ版を鑑賞し、両作品の狙いの違いを分析してみるといい。
物語とテーマの関係、編集の力を知る最高の教材だと思う。
今回はボイラー室で見つかったという猫ちゃんが可愛かったので、「ボイラー・メイカー」をチョイス。
適量のビールを入れたグラスの中に、ショットグラスに注いだバーボンを落として完成。
元々はボイラー工場の労働者が、手っ取り早く酔っ払うために、ビールにバーボンを入れたのが発祥とされる。
これのバーボンを韓国焼酎に変えると、韓国名物の「爆弾酒」となる。
まー世の中飲まなきゃやってられないことも多いけど、二日酔い必至のデンジャラスな酒である。
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現代韓国を代表する巨匠・イ・チャンドン監督は、京都造形芸術大学で教鞭をとったり、何かと日本にも縁深い人だが、「ポエトリー アグネスの詩」以来、8年ぶりの新作となる「バーニング 劇場版」は、村上春樹の短編小説「納屋を焼く」の映画化。
さらにNHKが資本参加していて、148分の劇場版の他に、95分のTVドラマ版が作られ、日本では映画の公開に先立つ12月29日に放送されている。
原作は突然失踪した「彼女」を巡る、「僕」と「彼」のミステリアスな物語。
映画化に当たって、舞台は80年代初頭の日本から現在の韓国へと移し替えられ、「僕」に当たる主人公のジョンスを「ベテラン」などで知られるユ・アイン、忽然と姿を消す「彼女」のヘミを新人チョン・ジョンソ、謎多き「彼」ベンを「ウォーキング・デッド」のスティーブン・ユァンが演じる。
イ・チャンドンは、「冬の小鳥」のウニー・ルコントや「私の少女」のチョン・ジュリなど、後進の育成でも大きな実績を上げているが、本作で共同脚本を務めるオ・ジョンミも、彼の教え子だという。
文学的なムードの向こうに、韓国社会の今を浮き彫りにする、味わい深い傑作である。
※核心部分に触れています。
小説家志望の青年イ・ジョンス(ユ・アイン)は、ある日幼馴染の女性シン・ヘミ(チョン・ジョンソ)と再会し、彼女がアフリカ旅行へ行っている間、アパートで買っている猫の餌をあげてほしいと頼まれる。
半月後、ジョンスが帰国するヘミを空港に迎えに行くと、彼女から旅行中に知り合ったという謎めいた青年ベン(スティーブン・ユァン)を紹介される。
何の仕事をしているのかはっきりしないが、高級マンションに住み、ポルシェを乗り回すベンは、ジョンスに「僕は時々ビニールハウスを燃やしています」と打ち明ける。
韓国には汚くて、無用で、誰も気にしないビニールハウスがたくさんあるので、それを燃やしているというのだ。
ところが、その日を境にヘミが失踪し、連絡が取れなくなってしまう。
彼女に強い恋心を抱いていたジョンスは、必死に行方を探すのだが、ある可能性に思い当たる・・・
同じタイトルの作品ながら、大きく尺の違う二つのバージョンが作られるのは、劇場公開版に対するディレクターズカット版などの形で過去にも度々作られているが、本作の場合はそういった作品とは位置付けが異なる。
本作の劇場版とTVドラマ版は、同じ原作で同じ脚本を使って撮影されているにも関わらず、編集というテリングの妙によって、全く異なるムードとテーマ持つ、別々の作品に仕上がっているのである。
劇場版を観るまでドラマ版を観ないという人もいるだろうが、鑑賞順はTVドラマ版→劇場版が好ましい。
なぜなら、劇場版はドラマ版を内包する作りになっているからで、年末放送、2月劇場公開と言うスケジュールも作者の計算通りだと思う。
村上春樹の原作の映像化としては、断然ドラマ版の方がしっくりくる。
原作では平凡な若者である「僕」が、付き合っている「彼女」から、謎めいた金持ちの「彼」を紹介される。
「彼」の趣味は、他人の納屋へガソリンをかけて焼いてしまうことで、近々また焼く予定だという。
「僕」は「彼」がいつ実行するのだろうと思い、辺りにある納屋を見て回るがどれも燃えた様子はない。
再び「彼」に会った時、「僕」はいつ納屋を焼くのかと聞くが、「彼」は「納屋はもう燃やした」と答えるのだ。
そしてそれ以来、「彼女」は「僕」の前から姿を消す。
このわずか30ページほどのシンプルな物語を、比較的忠実に映像化したのがドラマ版。
原作同様に、ヘミの行方は知れないままで、空っぽになった彼女の部屋で、ジョンスが「小説」を書き始めるところで終わる。
自らも作家として活躍しているだけあって、イ・チャンドンのスタイルはいつにも増して非常に文学的。
描き過ぎず、曖昧な部分を多く残し、観客の想像力を刺激するTVドラマ版は、短編小説の映像化のお手本のような構成だ。
対して劇場版は、脚色によって原作の後半部分を大幅に膨らませ、独自要素を多く組み込んだ結果、原作ともドラマ版とも、まるで別物に仕上がっている。
こちらでは、失踪したヘミに何が起こったのか、ジョンスの必死の捜索の結果、ほぼ全てが明らかになるのだ。
ベンの家に隠された大量の女物のアクセサリー、男の家には似つかわしくない化粧道具、ポルシェの向かった先、水のない井戸の謎、姿なき猫の名前など、TVドラマ版では触れられていないか、ぼんやりとした「ヒント」にとどまっていた描写が、こちらではジョンスの執念の行動によって、たどり着く真相の「証拠」として機能する。
知り合ってしばらく経った時、ベンはジョンスとヘミを自宅に食事に招き、「料理するのが好きだ」と語る。
それは、いつでも自分の好み通りに料理して、好きなように食べられるから。
都会で孤立し、経済的に困窮し、誰からも気にかけられていない、社会の低層にいる若い女性たちを“食材”として釣り上げ、自分にふさわしい体裁に仕立て上げてから、「焼く(殺す)」。
ジョンスは、ベンが温和な仮面の下に恐るべき嗜虐性を秘めた冷酷なシリアルキラーであり、おそらくヘミはもうこの世にいないことを確信するのである。
ここには、原作やTVドラマ版の曖昧さは無い。
何をしてるか分からないがやたらと金を持っていて、旅行に行ったり高級車を乗り回したり、毎夜遊び呆けているベンを、ジョンスはフィツジェラルドの小説、「グレート・ギャツビー」に例え「韓国にはギャツビーが沢山いる」とつぶやく。
閉塞して地べたを這いつくばる自分やヘミたちとは、別の世界に住む得体の知れない怪物たち。
面白いのは、この様に考えるジョンスのキャラクター造形に、もう一つの「納屋を焼く」が色濃い影響を与えていることだ。
劇中でジョンスが、自分の好きな作家として、ウィリアム・フォークナーの名を上げるが、彼の小説に「納屋を焼く」という本作の原作と同タイトルの作品がある。
これは19世紀末のアメリカを舞台に、異様にプライドの高い父親を持った少年の話で、少年の一家は父親が地主の納屋に放火したとして、町から追放される。
父親は新しい地主の元で小作人として働くことになるのだが、ここでも父親は地主とトラブルを起こし、怒りに任せて納屋に火をつけようとするのだ。
村上春樹自身は、両作の関連性を否定しているが、イ・チャンドンはフォークナーの小説の少年と父親を、本作のジョンスと父親のキャラクターに投影し、二つの「納屋を焼く」の融合を試みている。
これにより、原作の「僕」という名前すらないぼんやりとしたキャラクターが、世知辛い社会に生きるイ・ジョンスというリアルな若者としてクッキリした像を結ぶ。
ジョンスが生まれ育ったのは、日がな一日スピーカーから北朝鮮と韓国の宣伝放送が聞こえて来る国境の寒村で、畜産業に失敗した父親はフォークナーの小説と同じく、怒りに任せて事件を起こし裁判中。
彼自身も小説を書きたいと漠然と思ってはいるが、実際には何を書いたらいいのか分からない。
映画が映し出すのは、高止まりの失業率、開き続ける格差社会、カード破産などに直面し、どこにも行けず、何者にもなれない若者たちの閉塞と絶望。
ヘミの言葉を借りれば、彼らは精神的にも物理的にも大いなる飢えを抱えた、「グレート・ハンガー」なのだ。
さらに、変更されたラストによって、「焼く」という言葉にも、新たな意味が生まれている。
「グレート・ギャツビー」と「グレート・ハンガー」、一見すると真逆の立場で、似ても似つかぬ境遇にいるベンとジョンスは、どちらも「自分が生きている」という強烈な「実感」を欲しているという点では似た者同士。
だからこそ水と油はラストに融合し、薄ぼんやりとした霧の中、激しい炎となって燃え上がる。
原作の「焼く」のイメージは、心の中で不気味に静かに燃える感じだったが、本作の「焼く」はまさに生と死の証であり、お互いの身も心も焼き尽くす熱量だ。
ベンは韓国のどこにでも「自分の同時存在がいる」と語るが、ジョンスやヘミにも無数の同時存在がいるのだろう。
その意味でこれは、小説の設定を借りて、韓国社会のカリカチュアを試みた作品と言えるかもしれない。
「バーニング 劇場版」は、原作やTVドラマ版より具体的で社会派の色彩が強く、村上春樹の色は限りなく薄い。
滲み出る人間の哀しみと痛みのリアリティは、いかにもイ・チャンドンらしい作家映画だ。
映画を勉強している若い人は、是非とも劇場版とTVドラマ版を鑑賞し、両作品の狙いの違いを分析してみるといい。
物語とテーマの関係、編集の力を知る最高の教材だと思う。
今回はボイラー室で見つかったという猫ちゃんが可愛かったので、「ボイラー・メイカー」をチョイス。
適量のビールを入れたグラスの中に、ショットグラスに注いだバーボンを落として完成。
元々はボイラー工場の労働者が、手っ取り早く酔っ払うために、ビールにバーボンを入れたのが発祥とされる。
これのバーボンを韓国焼酎に変えると、韓国名物の「爆弾酒」となる。
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