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2019年03月29日 (金) | 編集 |
笑いと怒りのアメリカ史。
これは強烈にアツイ映画だ。
1970年代のアメリカで、白人至上主義団体クー・クラックス・クラン(KKK)に潜入捜査する黒人刑事の物語。
もちろん、KKKのメンバーと顔を合わせたら黒人なのがバレちゃうので、電話で話すのはジョン・デヴィッド・ワシントンが怪演する黒人刑事のロン、実際に会いに行くのはアダム・ドライバー演じる相方のフリップ。
色々盛ってはあるものの、この二人一役のチームプレイが実際にあったことというのだから驚きだ。
シチュエーションコメディ的なライトな語り口から始まって、最終的に怒りが煮えたぎるヘビーなところに着地するのは、いかにもスパイク・リーらしいラジカルさ。
主人公のモデルであるロン・ストールワースの著作「BlacK Klansman」を元に、映画版ではスペースに「K」を一つ足して「BlacKkKlansman」とする遊び心。
本年度アカデミー賞で、スパイク・リーに初の栄冠(脚色賞)をもたらした話題作だ。
※核心部分に触れています。
1979年。
コロラドスプリングス警察に、初のアフリカ系警察官として採用されたロン・ストールワース(ジョン・デヴィッド・ワシントン)は、新聞に掲載されたKKK支部のメンバー募集広告を見て、白人になりすまして電話。
自分が、あらゆる有色人種やユダヤ人に憎悪を募らせる白人だと、KKKに信じ込ませることに成功する。
もっとも、ロンが実際に彼らに接触するわけにはいかないので、同僚のユダヤ人刑事のフリップ(アダム・ドライバー)が彼になりすまして組織に潜入することに。
二人のコンビネーションは予想外に上手くいき、支部長の信頼を得たばかりか、KKK全国組織の最高幹部デヴィッド・デューク(トファー・グレイス)へのコンタクトにも成功。
しかし、ロンへ疑いを抱く支部の過激派フェリックス(ヤスペル・ペーコネン)は、新会員の入会儀式の日、ある計画を決行することを決める・・・・
映画の冒頭、突然「風と共に去りぬ」の一シーンが映し出される。
スカーレット・オハラが、産気づいたメラニーのためにミード医師を探しに広場に行くが、カメラが引くとそこには数百、数千の負傷した南軍兵士が横たわり、ボロボロになったアメリカ連合国旗がはためいている。
南部連合国の運命が、必敗であることを象徴的に描写したシーンだ。
続いてアレック・ボールドウィン演じる、レイシストのDr.ケネビュー・ボーリガードが登場し、1957年にアーカンソーのリトルロック・セントラル高校への黒人学生の入校を実現させるために、連邦軍が投入された事件を引き合いに出して、戦いはまだ続いていると言う。
そして彼の背後のスクリーンに映し出されるのが、1915年に制作されたアメリカ最初の長編劇映画にして、KKKの勃興を描いたD・W・グリフィス監督の「國民の創生」なのである。
この「風と共に去りぬ」と「國民の創生」と言う、アメリア映画史に欠かすことのできない二本の超大作を、一見ドキュメンタリー風に現れるも、実は架空の人物であるDr.ボーリガードにブリッジさせると言う特異なオープニングが、本作のスタンスを端的に明示している。
二本の作品が映画史上屈指の名作であり、重要なマイルストーンなのは疑いようが無いが、南部の歴史を懐古的ロマンチシズムに包んで描き、結果的に現実と虚構の区別がつかない一部の人々の差別心を焚きつけたのもまた事実。
アメリカにおける差別の歴史には、映画が少なからず影響しており、ハリウッドもその過去史の責任から逃れることは出来ないのである。
とりわけ「國民の創生」は、トーマス・ディクスンの小説「クランズマン(The Clansman)」が原作なので、タイトル含めて全面対決の様相だ。
この作品に関しては、2016年にネイト・パーカー監督により同じタイトルで黒人視点で描かれた歴史ドラマ「バース・オブ・ネイション」が作られたが、パーカーの不祥事で興行的に失速し、日本公開が中止となってしまったのも記憶に新しい。
KKKの始まりは、南北戦争終戦直後の1860年代に遡る。
最初は南部の退役軍人の交流会のような存在として誕生したものの、勢力の拡大と共に過激化し、解放されたばかりの黒人を標的に、数々の暴力的なテロ事件を起こすようになる。
1870年代に入ると、見かねた連邦政府により相次いで摘発され、急速に衰退し忘れられてゆく。
ところが、それから40年も経った20世紀になって、前世紀の遺物であったKKKは突如復活する。
神のお告げを聞いたとする、伝道師のウイリアム・ジョセフ・シモンズによって「風と共に去りぬ」の舞台でもあるジョージア州で再結成されたKKKは、アングロサクソン系プロテスタントの白人のみが神に選ばれた民族だと主張。
有色人種、異教徒に対して非道な迫害を行ない、最盛期の20年代には実に600万人もの会員を擁する一大勢力となる。
その第二の隆盛の切っ掛けとなったのが、再結成と同じ年に封切られた「國民の創生」の大ヒットであり、本作ではKKKを蘇らせた「主犯」として名指している。
これほど明確にハリウッドに喧嘩売ってるのに、ちゃんと評価されてアカデミー賞とれるんだから、やはりアメリカは懐が深い。
20世紀のKKKは、黒人だけでなく、自分たちの属する集団(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)以外は全部敵!と言う考え方だから、本作には対黒人だけでなく、様々な差別が描かれる。
例えばユダヤ人に対する敵意を募らせるフェリックスは、潜入してきたフリップを疑い、彼の下半身を執拗に見ようとする。
彼がユダヤ人ならば割礼の痕跡があるはずだと言う訳だが、これはナチスがユダヤ人を見分けるためにやっていたことと同じ。
また女性も男性と同等とはみなしていなかった。
本作でもフェリックスの妻が夫たちに認められようと、過激な主張をしてドン引きされるシーンがある。
面白いのが、彼らの考える「白人の優位性」が、総じて根拠が薄いものだと言うこと。
象徴的に扱われているのが、今日ではイヴォニクスなどと呼ばれる黒人英語だ。
独特の黒人英語は方言の一種みたいなもので、白人でも練習すれば話せるし、全ての黒人が黒人英語の話者という訳でもないのだが、KKKの男たちはロンが白人的イントネーションで話しただけで、彼が白人だと信じ込んでしまう。
KKKが拠り所にしているのは、その程度の曖昧な概念なのである。
だが、それでも異様な思い込みから来る狂気は、いつの時代もなくならない。
ロンは警察官を志すくらいだから、社会の良心みたいなものをどこかで信じていて、公民権運動の活動家でガールフレンドのローラからも白人の上司からも、お前が考えている以上に社会は恐ろしいんだぞと警告される描写がある。
70年代のKKKは確かに弱体化していて、ロンに手玉に取られるくらいメンバーも間抜けだが、恐怖と暴力の遺伝子は受け継がれてゆく。
映画の終盤、KKKの仰々しい入団式の様子と、ハリー・ベラフォンテ演じる老人が、昔話を若者たちに語って聞かせるのを、クロスカッティングで描いたシークエンスは本作の白眉。
ベラフォンテが語っているのは、1916年にテキサス州ウェイコで起こった、ジェシー・ワシントンの凄惨なリンチ殺人事件である。
殺人の嫌疑をかけられた17歳の哀れな少年は、白人の群衆によって生きたまま焼かれ、体のあちこちを切り取られ、無残な死体の写真はポストカードになった。
これがまさにKKKが復活し、「國民の創生」が大ヒットした翌年に起こったことなのだ。
スパイク・リーは、「黒いジャガー」などの、購買力を増した黒人層を狙った当時のブラックスプロイテーションを引き合いに出し、虚構と現実を対比させながら、映画より嘘くさい物語を時に軽妙に、時に重厚に紡いでゆく。
そして、フィクションの爆弾事件で物語にケリがつくと、映画は突然21世紀の現実を映し出す。
トランプ政権一年目の2017年、ヴァージニア州シャーロッツビルで、南部連合国のロバート・E・リー将軍の像の撤去計画に反対する、KKKをはじめとする白人至上主義者の集会が開かれた。
集会に抗議する人々の中に、白人至上主義者が暴走させた車が突っ込み、参加者のヘザー・D・ハイヤーさんを轢き殺したのだ。
誰が暴力を振るったのかは明確にも関わらず、あろうことかトランプ大統領はどちらの側にも非があるとするコメントを出して、大いに非難を浴びた。
この日の集会には、デヴィッド・デュークも参加していたのだが、一見物腰柔らかいKKKの若きボスのスローガンが、後々トランプ陣営の選挙公約となる「アメリカ・ファースト」だったり、スパイク・リーは過去を笑い、現在に怒り、二つの時代を完全に地続きとして強烈な批判を叩きつける。
彼の表現者としてのエネルギーは、若い頃よりも増しているではないか。
しかし、本作がアカデミー作品賞を取れなかったのは、劇映画の枠組みから逸脱してまで徹底的に言いたいことを言う、プロパガンダと捉えられることも厭わない、熱血なスタイルも影響したのだろう。
同じく人種差別と社会分断を扱っても、あくまでも上品にフォーマットを崩さない「グリーン・ブック」とは色々な意味で対照的。
どちらも素晴らしい作品で、甲乙はつけ難く、両方観て考えるのが正解だ。
今回は黒人刑事の潜入捜査の物語なので、黒いカクテル「トロイの木馬」をチョイス。
よく冷やしたギネスビールに、同じく冷やしたコカコーラをそれぞれ1:1で静かに割り入れる。
ギネスもコーラも同じ黒で、一見すると混じり合っているのは分からないことから、ギネス社が「トロイの木馬」と命名したギネス公式ビアカクテル。
素材と器を冷やしておくことが大切で、これを怠ると過度に泡立ってしまう。
ギネスのコクと香りに、コーラの甘みがうまくバランスして、とても美味しいカクテルだ。
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これは強烈にアツイ映画だ。
1970年代のアメリカで、白人至上主義団体クー・クラックス・クラン(KKK)に潜入捜査する黒人刑事の物語。
もちろん、KKKのメンバーと顔を合わせたら黒人なのがバレちゃうので、電話で話すのはジョン・デヴィッド・ワシントンが怪演する黒人刑事のロン、実際に会いに行くのはアダム・ドライバー演じる相方のフリップ。
色々盛ってはあるものの、この二人一役のチームプレイが実際にあったことというのだから驚きだ。
シチュエーションコメディ的なライトな語り口から始まって、最終的に怒りが煮えたぎるヘビーなところに着地するのは、いかにもスパイク・リーらしいラジカルさ。
主人公のモデルであるロン・ストールワースの著作「BlacK Klansman」を元に、映画版ではスペースに「K」を一つ足して「BlacKkKlansman」とする遊び心。
本年度アカデミー賞で、スパイク・リーに初の栄冠(脚色賞)をもたらした話題作だ。
※核心部分に触れています。
1979年。
コロラドスプリングス警察に、初のアフリカ系警察官として採用されたロン・ストールワース(ジョン・デヴィッド・ワシントン)は、新聞に掲載されたKKK支部のメンバー募集広告を見て、白人になりすまして電話。
自分が、あらゆる有色人種やユダヤ人に憎悪を募らせる白人だと、KKKに信じ込ませることに成功する。
もっとも、ロンが実際に彼らに接触するわけにはいかないので、同僚のユダヤ人刑事のフリップ(アダム・ドライバー)が彼になりすまして組織に潜入することに。
二人のコンビネーションは予想外に上手くいき、支部長の信頼を得たばかりか、KKK全国組織の最高幹部デヴィッド・デューク(トファー・グレイス)へのコンタクトにも成功。
しかし、ロンへ疑いを抱く支部の過激派フェリックス(ヤスペル・ペーコネン)は、新会員の入会儀式の日、ある計画を決行することを決める・・・・
映画の冒頭、突然「風と共に去りぬ」の一シーンが映し出される。
スカーレット・オハラが、産気づいたメラニーのためにミード医師を探しに広場に行くが、カメラが引くとそこには数百、数千の負傷した南軍兵士が横たわり、ボロボロになったアメリカ連合国旗がはためいている。
南部連合国の運命が、必敗であることを象徴的に描写したシーンだ。
続いてアレック・ボールドウィン演じる、レイシストのDr.ケネビュー・ボーリガードが登場し、1957年にアーカンソーのリトルロック・セントラル高校への黒人学生の入校を実現させるために、連邦軍が投入された事件を引き合いに出して、戦いはまだ続いていると言う。
そして彼の背後のスクリーンに映し出されるのが、1915年に制作されたアメリカ最初の長編劇映画にして、KKKの勃興を描いたD・W・グリフィス監督の「國民の創生」なのである。
この「風と共に去りぬ」と「國民の創生」と言う、アメリア映画史に欠かすことのできない二本の超大作を、一見ドキュメンタリー風に現れるも、実は架空の人物であるDr.ボーリガードにブリッジさせると言う特異なオープニングが、本作のスタンスを端的に明示している。
二本の作品が映画史上屈指の名作であり、重要なマイルストーンなのは疑いようが無いが、南部の歴史を懐古的ロマンチシズムに包んで描き、結果的に現実と虚構の区別がつかない一部の人々の差別心を焚きつけたのもまた事実。
アメリカにおける差別の歴史には、映画が少なからず影響しており、ハリウッドもその過去史の責任から逃れることは出来ないのである。
とりわけ「國民の創生」は、トーマス・ディクスンの小説「クランズマン(The Clansman)」が原作なので、タイトル含めて全面対決の様相だ。
この作品に関しては、2016年にネイト・パーカー監督により同じタイトルで黒人視点で描かれた歴史ドラマ「バース・オブ・ネイション」が作られたが、パーカーの不祥事で興行的に失速し、日本公開が中止となってしまったのも記憶に新しい。
KKKの始まりは、南北戦争終戦直後の1860年代に遡る。
最初は南部の退役軍人の交流会のような存在として誕生したものの、勢力の拡大と共に過激化し、解放されたばかりの黒人を標的に、数々の暴力的なテロ事件を起こすようになる。
1870年代に入ると、見かねた連邦政府により相次いで摘発され、急速に衰退し忘れられてゆく。
ところが、それから40年も経った20世紀になって、前世紀の遺物であったKKKは突如復活する。
神のお告げを聞いたとする、伝道師のウイリアム・ジョセフ・シモンズによって「風と共に去りぬ」の舞台でもあるジョージア州で再結成されたKKKは、アングロサクソン系プロテスタントの白人のみが神に選ばれた民族だと主張。
有色人種、異教徒に対して非道な迫害を行ない、最盛期の20年代には実に600万人もの会員を擁する一大勢力となる。
その第二の隆盛の切っ掛けとなったのが、再結成と同じ年に封切られた「國民の創生」の大ヒットであり、本作ではKKKを蘇らせた「主犯」として名指している。
これほど明確にハリウッドに喧嘩売ってるのに、ちゃんと評価されてアカデミー賞とれるんだから、やはりアメリカは懐が深い。
20世紀のKKKは、黒人だけでなく、自分たちの属する集団(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)以外は全部敵!と言う考え方だから、本作には対黒人だけでなく、様々な差別が描かれる。
例えばユダヤ人に対する敵意を募らせるフェリックスは、潜入してきたフリップを疑い、彼の下半身を執拗に見ようとする。
彼がユダヤ人ならば割礼の痕跡があるはずだと言う訳だが、これはナチスがユダヤ人を見分けるためにやっていたことと同じ。
また女性も男性と同等とはみなしていなかった。
本作でもフェリックスの妻が夫たちに認められようと、過激な主張をしてドン引きされるシーンがある。
面白いのが、彼らの考える「白人の優位性」が、総じて根拠が薄いものだと言うこと。
象徴的に扱われているのが、今日ではイヴォニクスなどと呼ばれる黒人英語だ。
独特の黒人英語は方言の一種みたいなもので、白人でも練習すれば話せるし、全ての黒人が黒人英語の話者という訳でもないのだが、KKKの男たちはロンが白人的イントネーションで話しただけで、彼が白人だと信じ込んでしまう。
KKKが拠り所にしているのは、その程度の曖昧な概念なのである。
だが、それでも異様な思い込みから来る狂気は、いつの時代もなくならない。
ロンは警察官を志すくらいだから、社会の良心みたいなものをどこかで信じていて、公民権運動の活動家でガールフレンドのローラからも白人の上司からも、お前が考えている以上に社会は恐ろしいんだぞと警告される描写がある。
70年代のKKKは確かに弱体化していて、ロンに手玉に取られるくらいメンバーも間抜けだが、恐怖と暴力の遺伝子は受け継がれてゆく。
映画の終盤、KKKの仰々しい入団式の様子と、ハリー・ベラフォンテ演じる老人が、昔話を若者たちに語って聞かせるのを、クロスカッティングで描いたシークエンスは本作の白眉。
ベラフォンテが語っているのは、1916年にテキサス州ウェイコで起こった、ジェシー・ワシントンの凄惨なリンチ殺人事件である。
殺人の嫌疑をかけられた17歳の哀れな少年は、白人の群衆によって生きたまま焼かれ、体のあちこちを切り取られ、無残な死体の写真はポストカードになった。
これがまさにKKKが復活し、「國民の創生」が大ヒットした翌年に起こったことなのだ。
スパイク・リーは、「黒いジャガー」などの、購買力を増した黒人層を狙った当時のブラックスプロイテーションを引き合いに出し、虚構と現実を対比させながら、映画より嘘くさい物語を時に軽妙に、時に重厚に紡いでゆく。
そして、フィクションの爆弾事件で物語にケリがつくと、映画は突然21世紀の現実を映し出す。
トランプ政権一年目の2017年、ヴァージニア州シャーロッツビルで、南部連合国のロバート・E・リー将軍の像の撤去計画に反対する、KKKをはじめとする白人至上主義者の集会が開かれた。
集会に抗議する人々の中に、白人至上主義者が暴走させた車が突っ込み、参加者のヘザー・D・ハイヤーさんを轢き殺したのだ。
誰が暴力を振るったのかは明確にも関わらず、あろうことかトランプ大統領はどちらの側にも非があるとするコメントを出して、大いに非難を浴びた。
この日の集会には、デヴィッド・デュークも参加していたのだが、一見物腰柔らかいKKKの若きボスのスローガンが、後々トランプ陣営の選挙公約となる「アメリカ・ファースト」だったり、スパイク・リーは過去を笑い、現在に怒り、二つの時代を完全に地続きとして強烈な批判を叩きつける。
彼の表現者としてのエネルギーは、若い頃よりも増しているではないか。
しかし、本作がアカデミー作品賞を取れなかったのは、劇映画の枠組みから逸脱してまで徹底的に言いたいことを言う、プロパガンダと捉えられることも厭わない、熱血なスタイルも影響したのだろう。
同じく人種差別と社会分断を扱っても、あくまでも上品にフォーマットを崩さない「グリーン・ブック」とは色々な意味で対照的。
どちらも素晴らしい作品で、甲乙はつけ難く、両方観て考えるのが正解だ。
今回は黒人刑事の潜入捜査の物語なので、黒いカクテル「トロイの木馬」をチョイス。
よく冷やしたギネスビールに、同じく冷やしたコカコーラをそれぞれ1:1で静かに割り入れる。
ギネスもコーラも同じ黒で、一見すると混じり合っているのは分からないことから、ギネス社が「トロイの木馬」と命名したギネス公式ビアカクテル。
素材と器を冷やしておくことが大切で、これを怠ると過度に泡立ってしまう。
ギネスのコクと香りに、コーラの甘みがうまくバランスして、とても美味しいカクテルだ。

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2019年03月25日 (月) | 編集 |
宇宙から来た、秘密の友だち。
記憶を失ったトランスフォーマーと、最愛の父を亡くした孤独な少女の、出会いと別れの物語。
マイケル・ベイ監督により、2007年からの10年間で5作が作られた「トランスフォーマー」シリーズ最新作。
しかし本作は続き物ではなく、金属生命体オートボッツとディセプティコンの戦争に地球が巻き込まれる以前、1980年代を舞台とした前日譚だ。
最初に地球にやって来るのは、オートボッツ軍団の三枚目、バンブルビーだが、ディセプティコンとの戦いで声と記憶を失ってしまう。
ひょんなことから彼と巡り合い、種族を超えた“友だち”となってゆく少女チャーリーに、若き演技派ヘイリー・スタインフェルド。
メガホンを受け継いだのは、世界最高峰のストップモーション・アニメーション・スタジオ、ライカのアニメーター兼CEOであり、「KUBO/クボ 二本の弦の秘密」の監督として知られるトラヴィス・ナイトで、本作が実写デビュー作となった。
いい意味でシンプルな優しい物語なので、間口が低くて広く年少の観客や一見さんでも十分楽しめる。
1987年の夏、サンフランシスコ近郊のブライトン・フォールズ。
高校生のチャーリー(ヘイリー・スタインフェルド)は、最愛の父を亡くし、形見であるC1型シボレー・コルベットのレストアを自分で完成させようと悪戦苦闘中。
ある日、整備工場でパーツを探していた彼女は、放置されたボロボロの黄色のビートルを見つけ、当面の足にしようとするのだが、ガレージの中でビートルは突然ロボットの姿にトランスフォーム。
驚くチャーリーの前で怯えた仕草をするロボットは、自分の記憶をすっかり無くしていた。
呻り声が蜂の羽音に似ていたことから、ロボットに「バンブルビー(マルハナバチ)」と名をつけたチャーリーは、彼を周囲から匿うことにする。
だが、バンブルビーの発した僅かな信号を、敵対するディセプティコンが感知。
彼らはオートボッツの司令官オプティマスプライムの居場所を探すために、部下のバンブルビーを追っていたのだ。
何も知らないチャーリーとバンブルビーに危機が迫っていた・・・
一連のマイケル・ベイ作品は、最初の三部作はまずまず楽しめたものの、その後の二本はぶっちゃけ出涸らしみたいな話で、マンネリ化が激しかった。
最後の「トランスフォーマー/最後の騎士王」ではアーサー王伝説まで引っ張り出して来たが、話が無駄に複雑化しただけで、やっていることは変わらず。
観てから2年しか経っていないのに、もう殆ど内容を覚えていない。
賞味期限切れのシリーズを、大胆にリニューアルしたのが本作なのだが、ここまでテイストを変えてくるとは思わなかった。
世界観とキャラクターは受け継いでいるが、これはもう全くの別物と言っていい。
日本発のロボット玩具に、アメリカのハズブロ社が新たに設定を加え「トランスフォーマー」として売り出したのが1984年。
同年にはマーベルからコミック化、TVアニメーション版も作られ、86年にはその劇場版も作られた。
本作の舞台となる1987年は、現在に続く大ヒット玩具となった「トランスフォーマー」の第一次ブームの時代であり、原点なのである。
そして1973年生まれのトラヴィス・ナイト監督にとって、1987年はまさに感受性MAXの「厨二」の時だ。
この時代の映画といえば、本作のエグゼクティブ・プロデューサーにも名を連ねる、スティーブン・スピルバーグの全盛期。
サバーブに暮らす心に傷を負った少年少女たちが、異世界からやって来た“友だち”との冒険によって成長するのは、もろに由緒正しいスピルバーグ映画のスタイル。
エンドクレジットでチャーリーとバンブルビーの指先が触れ合うのは「E.T.」オマージュだし、「未知との遭遇」「グーニーズ」「グレムリン」など、数多の作品のイメージが頭を過る。
また、ちょっと甘酸っぱい青春映画の側面も持つ本作は、この時代に大人気だったブラット ・パック映画の名手、ジョン・ヒューズの「ブレックファスト・クラブ」へのリスペクトも熱い。
そう言えばこの映画は「パワー・レンジャー」や「スパイダーマン:ホーム・カミング」でもオマージュを捧げられていたが、スクールカーストでジョッグとクイーン・ビーの対極にいると思われるナードなSF系監督たちには、特に思い入れの強い作品なのかも。
チャーリーの相方で「僕はナードじゃない。ナードじゃない」と自分で言い聞かせるメモは、作り手の自己投影キャラクターだろう。
バンブルビーと言えば、声を持たず、ラジオの音声で意思を伝えるキャラクターだが、今回はなぜそうなったのかの秘密も明かされ、ラジオとカセットから流れる80’sの名曲も聞きどころ。
チャーリーはモータヘッドのTシャツを着てるロック少女だし、ザ・スミスの「Bigmouth Strikes Again」から始まって、ティアーズ・フォー・フィアーズの「Everybody Wants To Rule The World 」や「ブレックファスト・クラブ」の主題歌でもあるシンプル・マイズの「Don't You (Forget About Me)」などのヒット曲の数々が時代色たっぷりに映画を彩る。
当時のアニメーション映画版の挿入歌、「The Touch」をうまい所で使う遊び心も楽しい。
バンブルビーが、チャーリー推薦の楽曲のカセットを、気に入らないとばかりに吹っ飛ばすのには大笑いした。
これはナイトの思い出の詰まったオモチャ箱、愛すべき作家映画であり、あの頃のノスタルジー満載なんだから、おじさん嬉しくなっちゃうよ。
ちなみに劇中でチャーリーがバイトしている遊園地は、サンフランシスコから1時間半ほど南にあるサンタ・クルーズ・ビーチ・ボードウォーク。
ここは今でも当時と変わらないレトロなムードを保っているので、ベイエリアに旅行した際はちょっと足を延ばすのに良いスポットだ。
本作でナイトが見せた非凡さは、やはり本職がアニメーターならではの非人間キャラクターの巧みな表現。
例によってバンブルビーは声を出せず、チャーリーにラジオを修理してもらうまで、いつものザッピングによる表現もできない。
しかし、クルクルと変わる表情変化や、まるで人間の子供や犬を思わせる繊細な演技によって、感情の機微が伝わってきて非常に愛らしい。
ちょっとデカすぎるけど、車にもなって便利だし、ペットに欲しくなる。
マイケル・ベイ版の「トランスフォーマー」が目指したのが“クールでカッコイイ”だったのに対し、こちらは“可愛くてカッコイイ”になっていて、その分より感情移入を誘う。
主人公が少女であることでも分かるように、基本“男の子のもの”であったキャラクターの訴求力を高め、間口をグッと広げようとしているのは明らかだ。
チャーリーとバンブルビー、両者の友情と成長に的を絞ったプロットも、このシリーズにおいては新しい試みとして成功していると思う。
両者の関係は「E.T.」的でもあり、人間と機械(兵器)の関係性にはブラッド・バード監督の「アイアン・ジャイアント」を思わせる部分もある。
もちろん「トランスフォーマー」のシリーズでもあるので、対ディセプティコンとの激しい戦闘が見せ場になるのは変わらないが、アクション演出もベイほどにはワチャワチャしてない、オーソドックスなスタイルなので、何がどうなってるのかちゃんと見えるのも動体視力が衰えた身にはホッとする。
一方で、チャーリー以外の脇のキャラクター造形が揃ってステロタイプだったり、物語を展開させる役割の軍人や科学者の感情変化の理由が単純過ぎるのもある意味アニメーション的で、実写作品だとご都合主義になりがちな部分。
しかし本作の場合は、その辺りの緩い部分も味わいとばかりに、80年代調のテイストに吸収されているので、作品世界に違和感はほとんど無い。
これは、回を重ねる毎にスケールが巨大化、プロットが複雑化したことで、感情移入を妨げていたベイ版の虚飾を取り払い、あえてダウンサイジングした、少女とロボットによるノスタルジックでエモーショナルなSFアドベンチャー。
等身大のドラマは、過去の「トランスフォーマー」シリーズにはいい加減食傷気味の人や、ライカのアニメーション映画のファンに強くおススメできる秀作に仕上がっている。
本作は単体できちんと完結しているが、2007年に始まったベイ版の一作目の間には20年の間があるから、「X-MEN」方式でここからまた過去を舞台としたシリーズが始まるんだろうか。
今回は、バンブルビーが犬のように可愛いので、ラベルに犬が入った「ラグニタス IPA」をチョイス。
サンフランシスコ近郊で、カリフォルニアワインの産地として知られるソノマ地区でスタートし、近年急成長しているクラフトビール。
IPAの強いホップ感、喉ごし爽やかながらしっかりしたコクがある。
同社のラインナップ特有の、フルーティな香りが華やかだ。
ちなみラグニタスはラベルの通り愛犬家御用達の銘柄として知られ、醸造所にはたくさんの犬たちが飼われているそうな。
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記憶を失ったトランスフォーマーと、最愛の父を亡くした孤独な少女の、出会いと別れの物語。
マイケル・ベイ監督により、2007年からの10年間で5作が作られた「トランスフォーマー」シリーズ最新作。
しかし本作は続き物ではなく、金属生命体オートボッツとディセプティコンの戦争に地球が巻き込まれる以前、1980年代を舞台とした前日譚だ。
最初に地球にやって来るのは、オートボッツ軍団の三枚目、バンブルビーだが、ディセプティコンとの戦いで声と記憶を失ってしまう。
ひょんなことから彼と巡り合い、種族を超えた“友だち”となってゆく少女チャーリーに、若き演技派ヘイリー・スタインフェルド。
メガホンを受け継いだのは、世界最高峰のストップモーション・アニメーション・スタジオ、ライカのアニメーター兼CEOであり、「KUBO/クボ 二本の弦の秘密」の監督として知られるトラヴィス・ナイトで、本作が実写デビュー作となった。
いい意味でシンプルな優しい物語なので、間口が低くて広く年少の観客や一見さんでも十分楽しめる。
1987年の夏、サンフランシスコ近郊のブライトン・フォールズ。
高校生のチャーリー(ヘイリー・スタインフェルド)は、最愛の父を亡くし、形見であるC1型シボレー・コルベットのレストアを自分で完成させようと悪戦苦闘中。
ある日、整備工場でパーツを探していた彼女は、放置されたボロボロの黄色のビートルを見つけ、当面の足にしようとするのだが、ガレージの中でビートルは突然ロボットの姿にトランスフォーム。
驚くチャーリーの前で怯えた仕草をするロボットは、自分の記憶をすっかり無くしていた。
呻り声が蜂の羽音に似ていたことから、ロボットに「バンブルビー(マルハナバチ)」と名をつけたチャーリーは、彼を周囲から匿うことにする。
だが、バンブルビーの発した僅かな信号を、敵対するディセプティコンが感知。
彼らはオートボッツの司令官オプティマスプライムの居場所を探すために、部下のバンブルビーを追っていたのだ。
何も知らないチャーリーとバンブルビーに危機が迫っていた・・・
一連のマイケル・ベイ作品は、最初の三部作はまずまず楽しめたものの、その後の二本はぶっちゃけ出涸らしみたいな話で、マンネリ化が激しかった。
最後の「トランスフォーマー/最後の騎士王」ではアーサー王伝説まで引っ張り出して来たが、話が無駄に複雑化しただけで、やっていることは変わらず。
観てから2年しか経っていないのに、もう殆ど内容を覚えていない。
賞味期限切れのシリーズを、大胆にリニューアルしたのが本作なのだが、ここまでテイストを変えてくるとは思わなかった。
世界観とキャラクターは受け継いでいるが、これはもう全くの別物と言っていい。
日本発のロボット玩具に、アメリカのハズブロ社が新たに設定を加え「トランスフォーマー」として売り出したのが1984年。
同年にはマーベルからコミック化、TVアニメーション版も作られ、86年にはその劇場版も作られた。
本作の舞台となる1987年は、現在に続く大ヒット玩具となった「トランスフォーマー」の第一次ブームの時代であり、原点なのである。
そして1973年生まれのトラヴィス・ナイト監督にとって、1987年はまさに感受性MAXの「厨二」の時だ。
この時代の映画といえば、本作のエグゼクティブ・プロデューサーにも名を連ねる、スティーブン・スピルバーグの全盛期。
サバーブに暮らす心に傷を負った少年少女たちが、異世界からやって来た“友だち”との冒険によって成長するのは、もろに由緒正しいスピルバーグ映画のスタイル。
エンドクレジットでチャーリーとバンブルビーの指先が触れ合うのは「E.T.」オマージュだし、「未知との遭遇」「グーニーズ」「グレムリン」など、数多の作品のイメージが頭を過る。
また、ちょっと甘酸っぱい青春映画の側面も持つ本作は、この時代に大人気だったブラット ・パック映画の名手、ジョン・ヒューズの「ブレックファスト・クラブ」へのリスペクトも熱い。
そう言えばこの映画は「パワー・レンジャー」や「スパイダーマン:ホーム・カミング」でもオマージュを捧げられていたが、スクールカーストでジョッグとクイーン・ビーの対極にいると思われるナードなSF系監督たちには、特に思い入れの強い作品なのかも。
チャーリーの相方で「僕はナードじゃない。ナードじゃない」と自分で言い聞かせるメモは、作り手の自己投影キャラクターだろう。
バンブルビーと言えば、声を持たず、ラジオの音声で意思を伝えるキャラクターだが、今回はなぜそうなったのかの秘密も明かされ、ラジオとカセットから流れる80’sの名曲も聞きどころ。
チャーリーはモータヘッドのTシャツを着てるロック少女だし、ザ・スミスの「Bigmouth Strikes Again」から始まって、ティアーズ・フォー・フィアーズの「Everybody Wants To Rule The World 」や「ブレックファスト・クラブ」の主題歌でもあるシンプル・マイズの「Don't You (Forget About Me)」などのヒット曲の数々が時代色たっぷりに映画を彩る。
当時のアニメーション映画版の挿入歌、「The Touch」をうまい所で使う遊び心も楽しい。
バンブルビーが、チャーリー推薦の楽曲のカセットを、気に入らないとばかりに吹っ飛ばすのには大笑いした。
これはナイトの思い出の詰まったオモチャ箱、愛すべき作家映画であり、あの頃のノスタルジー満載なんだから、おじさん嬉しくなっちゃうよ。
ちなみに劇中でチャーリーがバイトしている遊園地は、サンフランシスコから1時間半ほど南にあるサンタ・クルーズ・ビーチ・ボードウォーク。
ここは今でも当時と変わらないレトロなムードを保っているので、ベイエリアに旅行した際はちょっと足を延ばすのに良いスポットだ。
本作でナイトが見せた非凡さは、やはり本職がアニメーターならではの非人間キャラクターの巧みな表現。
例によってバンブルビーは声を出せず、チャーリーにラジオを修理してもらうまで、いつものザッピングによる表現もできない。
しかし、クルクルと変わる表情変化や、まるで人間の子供や犬を思わせる繊細な演技によって、感情の機微が伝わってきて非常に愛らしい。
ちょっとデカすぎるけど、車にもなって便利だし、ペットに欲しくなる。
マイケル・ベイ版の「トランスフォーマー」が目指したのが“クールでカッコイイ”だったのに対し、こちらは“可愛くてカッコイイ”になっていて、その分より感情移入を誘う。
主人公が少女であることでも分かるように、基本“男の子のもの”であったキャラクターの訴求力を高め、間口をグッと広げようとしているのは明らかだ。
チャーリーとバンブルビー、両者の友情と成長に的を絞ったプロットも、このシリーズにおいては新しい試みとして成功していると思う。
両者の関係は「E.T.」的でもあり、人間と機械(兵器)の関係性にはブラッド・バード監督の「アイアン・ジャイアント」を思わせる部分もある。
もちろん「トランスフォーマー」のシリーズでもあるので、対ディセプティコンとの激しい戦闘が見せ場になるのは変わらないが、アクション演出もベイほどにはワチャワチャしてない、オーソドックスなスタイルなので、何がどうなってるのかちゃんと見えるのも動体視力が衰えた身にはホッとする。
一方で、チャーリー以外の脇のキャラクター造形が揃ってステロタイプだったり、物語を展開させる役割の軍人や科学者の感情変化の理由が単純過ぎるのもある意味アニメーション的で、実写作品だとご都合主義になりがちな部分。
しかし本作の場合は、その辺りの緩い部分も味わいとばかりに、80年代調のテイストに吸収されているので、作品世界に違和感はほとんど無い。
これは、回を重ねる毎にスケールが巨大化、プロットが複雑化したことで、感情移入を妨げていたベイ版の虚飾を取り払い、あえてダウンサイジングした、少女とロボットによるノスタルジックでエモーショナルなSFアドベンチャー。
等身大のドラマは、過去の「トランスフォーマー」シリーズにはいい加減食傷気味の人や、ライカのアニメーション映画のファンに強くおススメできる秀作に仕上がっている。
本作は単体できちんと完結しているが、2007年に始まったベイ版の一作目の間には20年の間があるから、「X-MEN」方式でここからまた過去を舞台としたシリーズが始まるんだろうか。
今回は、バンブルビーが犬のように可愛いので、ラベルに犬が入った「ラグニタス IPA」をチョイス。
サンフランシスコ近郊で、カリフォルニアワインの産地として知られるソノマ地区でスタートし、近年急成長しているクラフトビール。
IPAの強いホップ感、喉ごし爽やかながらしっかりしたコクがある。
同社のラインナップ特有の、フルーティな香りが華やかだ。
ちなみラグニタスはラベルの通り愛犬家御用達の銘柄として知られ、醸造所にはたくさんの犬たちが飼われているそうな。



2019年03月22日 (金) | 編集 |
迷宮のブダペスト。
ナチスの絶滅収容所で、ユダヤ人でありながら収容所の労務作業を担う“ゾンダーコマンド”を描いた異色作、「サウルの息子」で脚光を浴びたハンガリーの異才、ネメシュ・ラースロー監督による大怪作。
舞台となるのは、第一次世界大戦直前のオーストリア・ハンガリー帝国の都市ブダペスト。
二歳の時に両親を亡くし孤児として育てられたイリス・レイターは、嘗て両親が経営していた高級帽子店に職を求めてやって来る。
王侯貴族が出入りする帽子店は、開店30周年記念行事と、皇太子夫妻の来訪の準備で忙しい。
現オーナーのブリルにとって招かれざる客であるイリスは、正式に雇われることはないものの、帽子職人の技術を持っていたため、成り行きで店の手伝いをすることになる。
そこで彼女は、会ったことのない生き別れの兄、カルマンの存在を知り、探し始めるのだ。
ここからの展開は、ラースロー版の「マルホランド・ドライブ」か「アンダー・ザ・シルバーレイク」かという、混沌としたミステリ。
オーストリア・ハンガリー帝国は、もともと多民族の寄り合い所帯。
ブダペストは二重帝国の一方の首都ではあったものの、マジャール人のドイツ系ハプスブルグ家支配に対する反発は根強く、政情不安とともに貴族たちを狙った暴動が頻発。
兄のカルマンも、伯爵を殺したとして逃亡中の身だ。
イリスの前には、ブリルをはじめ、殺された伯爵の未亡人、謎めいたユダヤ人のグループなど、次々と兄と繋がる人たちが現れるが、誰もが何かを隠していて核心はずっとぼやけたまま。
まるで取り憑かれたように、時には危険で無謀な行動をしてまでカルマンを探し求めるイリスは、知らず知らずのうちに、魔都ブダペストのダークサイドに入り込んでしまうのだ。
特徴的なテリングのスタイルは、「サウルの息子」と同じ。
狭いスタンダードサイズだったあの作品ほど極端ではないが、基本的にカメラは終始イリスに張り付いたまま、クローズアップから彼女が見ている対象物を描写する、長回しショットの連続で展開する。
観客の視点は、前作は絶滅収容所に生きるゾンダーコマンド、今回はブダペストに彷徨うイリスと同化し、カメラが捉える視界の外、映らないものへの渇望を募らせる。
この渇望こそが、彼女が兄を求め続ける理由だろう。
高級帽子店は、支配層である貴族階級という虚飾と、庶民である職人や売り子の女性たちという現実が交わる、いわば分断された社会の接点だ。
この店そのものも、深い闇を抱えているのだが、この世界は混沌として、イリスには何が本当なのか、自分は何者なのかも含めて分からない。
世界の縮図としてのブダペスト、そのさらに縮図としての帽子店は、一体どこに繋がっているのか。
21世紀に生きている我々は、映画に登場する帝国の皇太子、フランツ・フェルディナント大公と妻のゾフィーが、まもなくセルビア民族主義者の青年によって暗殺され、ヨーロッパ全体が破滅的な戦争に突入することを知っている。
イリスが感じている漠然とした不安と閉塞の正体は、開かずの扉の向こうにあるまだ見ぬ未来であり、その鍵こそが兄のカルマンなのである。
この兄の存在が、「サウルの息子」の“息子”と重なる。
ゾンダーコマンドのサウルは、ある日死んだ少年の遺体を見て、自分の息子だと確信。
なんとか正式の葬儀をするために、収容所の中を駆けずり回る。
サウルの精神は、異常な日常によって既に崩壊していて、少年の死体は彼の贖罪意識の触媒となる、作劇用語で言う所謂マクガフィン。
その死体が本当に彼の息子だったのか、他の死体を錯覚しただけだったのか、そもそも息子など最初からいなかったのかも知れない。
崩壊してゆく世界を描く本作においても、はたして兄はほんとうに存在していたのだろうか。
最終的にイリスが見出したのが、自らの血の中に巣食う暗黒であり、映画の帰結する先がカオスの戦場で細胞の様に無限に増殖する“塹壕”というのが皮肉。
結論をきちんと明示してくれる、分かりやすい映画では無いが、作り手との心理戦を楽しむ様な挑戦的な力作である。
今回はヘビーな142分だったので、スッキリしたピルスナー「ゲッサー」をチョイス。
苦味は適度で、ドライで喉越し爽やか。
こちらは二重帝国のオーストリア産で、500年以上の歴史を持ち、同国でのシェアはNo. 1。
オーストリアはナチス・ドイツに併合され、第二次世界大戦後には米英仏ソの戦勝四カ国に分割統治されたが、1955年に独立を回復した時の祝宴でも飲まれたという。
苦味と酸味、キレのいい喉ごしのバランスが絶妙で、欠点らしい欠点の無い上品な味わいの一本だ。
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ナチスの絶滅収容所で、ユダヤ人でありながら収容所の労務作業を担う“ゾンダーコマンド”を描いた異色作、「サウルの息子」で脚光を浴びたハンガリーの異才、ネメシュ・ラースロー監督による大怪作。
舞台となるのは、第一次世界大戦直前のオーストリア・ハンガリー帝国の都市ブダペスト。
二歳の時に両親を亡くし孤児として育てられたイリス・レイターは、嘗て両親が経営していた高級帽子店に職を求めてやって来る。
王侯貴族が出入りする帽子店は、開店30周年記念行事と、皇太子夫妻の来訪の準備で忙しい。
現オーナーのブリルにとって招かれざる客であるイリスは、正式に雇われることはないものの、帽子職人の技術を持っていたため、成り行きで店の手伝いをすることになる。
そこで彼女は、会ったことのない生き別れの兄、カルマンの存在を知り、探し始めるのだ。
ここからの展開は、ラースロー版の「マルホランド・ドライブ」か「アンダー・ザ・シルバーレイク」かという、混沌としたミステリ。
オーストリア・ハンガリー帝国は、もともと多民族の寄り合い所帯。
ブダペストは二重帝国の一方の首都ではあったものの、マジャール人のドイツ系ハプスブルグ家支配に対する反発は根強く、政情不安とともに貴族たちを狙った暴動が頻発。
兄のカルマンも、伯爵を殺したとして逃亡中の身だ。
イリスの前には、ブリルをはじめ、殺された伯爵の未亡人、謎めいたユダヤ人のグループなど、次々と兄と繋がる人たちが現れるが、誰もが何かを隠していて核心はずっとぼやけたまま。
まるで取り憑かれたように、時には危険で無謀な行動をしてまでカルマンを探し求めるイリスは、知らず知らずのうちに、魔都ブダペストのダークサイドに入り込んでしまうのだ。
特徴的なテリングのスタイルは、「サウルの息子」と同じ。
狭いスタンダードサイズだったあの作品ほど極端ではないが、基本的にカメラは終始イリスに張り付いたまま、クローズアップから彼女が見ている対象物を描写する、長回しショットの連続で展開する。
観客の視点は、前作は絶滅収容所に生きるゾンダーコマンド、今回はブダペストに彷徨うイリスと同化し、カメラが捉える視界の外、映らないものへの渇望を募らせる。
この渇望こそが、彼女が兄を求め続ける理由だろう。
高級帽子店は、支配層である貴族階級という虚飾と、庶民である職人や売り子の女性たちという現実が交わる、いわば分断された社会の接点だ。
この店そのものも、深い闇を抱えているのだが、この世界は混沌として、イリスには何が本当なのか、自分は何者なのかも含めて分からない。
世界の縮図としてのブダペスト、そのさらに縮図としての帽子店は、一体どこに繋がっているのか。
21世紀に生きている我々は、映画に登場する帝国の皇太子、フランツ・フェルディナント大公と妻のゾフィーが、まもなくセルビア民族主義者の青年によって暗殺され、ヨーロッパ全体が破滅的な戦争に突入することを知っている。
イリスが感じている漠然とした不安と閉塞の正体は、開かずの扉の向こうにあるまだ見ぬ未来であり、その鍵こそが兄のカルマンなのである。
この兄の存在が、「サウルの息子」の“息子”と重なる。
ゾンダーコマンドのサウルは、ある日死んだ少年の遺体を見て、自分の息子だと確信。
なんとか正式の葬儀をするために、収容所の中を駆けずり回る。
サウルの精神は、異常な日常によって既に崩壊していて、少年の死体は彼の贖罪意識の触媒となる、作劇用語で言う所謂マクガフィン。
その死体が本当に彼の息子だったのか、他の死体を錯覚しただけだったのか、そもそも息子など最初からいなかったのかも知れない。
崩壊してゆく世界を描く本作においても、はたして兄はほんとうに存在していたのだろうか。
最終的にイリスが見出したのが、自らの血の中に巣食う暗黒であり、映画の帰結する先がカオスの戦場で細胞の様に無限に増殖する“塹壕”というのが皮肉。
結論をきちんと明示してくれる、分かりやすい映画では無いが、作り手との心理戦を楽しむ様な挑戦的な力作である。
今回はヘビーな142分だったので、スッキリしたピルスナー「ゲッサー」をチョイス。
苦味は適度で、ドライで喉越し爽やか。
こちらは二重帝国のオーストリア産で、500年以上の歴史を持ち、同国でのシェアはNo. 1。
オーストリアはナチス・ドイツに併合され、第二次世界大戦後には米英仏ソの戦勝四カ国に分割統治されたが、1955年に独立を回復した時の祝宴でも飲まれたという。
苦味と酸味、キレのいい喉ごしのバランスが絶妙で、欠点らしい欠点の無い上品な味わいの一本だ。



2019年03月17日 (日) | 編集 |
最強のクローザー登場。
2008年から始まった、マーベル・コミックのヒーローたちが勢ぞろいする壮大なプロジェクト、「マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)」の第21作目。
MCU作品としては初の女性ヒーローの単独主演作であるのと同時に、今までの全作品の前日譚であり、同時にアイアンマンからキャプテン・アメリカに至る初期のメンバーで結成された「アベンジャーズ」シリーズの一応の完結編「アベンジャーズ/エンドゲーム」の前哨戦ともなる、極めて重要な作品である。
舞台となるのは、MCUが始まる10年以上前の1990年代半ば。
懐かしのブロックバスターの屋根をぶち破り、空から降ってきた“ヴァース”と呼ばれる記憶を失った戦士による宇宙スケールの自分探しの旅は、若きニック・フューリーを巻き込んで、後のMCU作品への道筋をつけてゆく。
オスカー女優の貫禄たっぷり、ブリー・ラーソンがムッチャカッコいい。
本当の自分を見つけることは、信じていた世界が変わっていくこと。
彼女はその試練を受け入れ、MCU最初のスーパーヒーローとして覚醒してゆくのである。
※核心部分に触れています。
クリー帝国の特殊部隊“スターフォース”に所属するヴァース(ブリー・ラーソン)は、毎夜奇妙な夢を見る。
夢の中の彼女は、全く違った惑星で、違った人生を生きているのだ。
ある時ヴァースは、敵対するスクラル人からクリーのスパイを救出する作戦に参加するも罠に嵌り、捕虜として捉えられる。
スクラル人の指揮官タロス(ベン・メンデルスゾーン)は、彼女の夢から情報を引き出し、地球へと向かうが、逃亡したヴァースにより宇宙船は破壊されてしまう。
1995年のロサンゼルスへと落下したヴァースは、S.H.I.E.L.D.のエージェントのニック・フューリー(サミュエル・L・ジャクソン)に出会い、夢で見ていたこの星が自分の故郷で、本当の名前はキャロル・ダンヴァースだと知る。
そして、彼女の記憶に秘められたあるテクノロジーの隠し場所を巡り、スクラルとクリー、二つの種族の戦争に地球が巻き込まれることになる・・・
まさかのネコ映画だった。
いやポスターにはさりげなくネコが描かれてたし、予告編にも出てきたけど、あんな重要な役割だったとは。
便利なキャラだし、もしかすると今後グースちゃんの再登場あるぞ(笑
何はともあれ、一ヶ月後に迫った「アベンジャーズ/エンドゲーム」への期待を盛り上げる前哨戦として、内容的にもテーマ的にも最良の作品になっていたのではないか。
まずは冒頭、故スタン・リーに対するリスペクトがほとばしる、マーベル・スタジオのロゴ・アニメーションが胸アツ過ぎて涙。
ギリギリで入場した人は、絶対ここで前横切るなよ!
記憶を失ったヴァースの夢の中で、フラッシュバックする記憶の断片から始まり、やがて全体像が見えてきて、夢の中の女性がキーとなるのはちょっと「アリータ:バトル・エンジェル」を思わせる。
この構造が「自分は何者か?」というヴァース改めキャロル・ダンヴァースのアイデンティティの追求につながり、彼女の能力が目覚めてゆくと共に、「はたしてヒーローとは何か」というテーマへと展開してゆく。
望むと望まざるとに関わらず、大きな力を持ってしまった者は、常に何が正しくて、何をすべきなのかと葛藤し、自分の信じる最良の道を選ばなければならない。
「正しいこと=正義」とは相対的なもので、答えはいくつもある。
誰かにとっての「正義」は他の誰かにとっては「悪」になり得るし、ある状況下において「正しいこと」が常にそうだとは限らない。
「シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ」で、アベンジャーズが二つに割れた様に、ヒーローたちは自分のしていることが本当に正しいのか、常に葛藤せざるを得ないのだ。
これこそ11年に渡るMCUの歴史の中で積み重ねてきた、一番大切なテーマ。
また正しくあろうとする限りにおいて、人種も性別も関係なく、誰でもヒーローになれるということも、MCUが少しずつ、しかし着実に発信してきた価値観だ。
MCUの系統ではないが、同じマーベルの「スパイダーマン:スパイダーバース」でも、6人のスパイダーマンによって体現されていた要素が、本作では前面に出る。
MCUの最初期にあたるフェイズ1、「アイアンマン」から「アベンジャーズ」までの6作品の主人公は全て白人男性だった。
女性はブラックウィドウ、黒人はニック・フューリーと「アイアンマン2」のウォーマシンが登場するが、基本は脇の存在。
「アイアンマン3」から始まるフェイズ2では、「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー」でファルコンが、「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」では個性的なヒーローチームが誕生。
そして2016年の「シビル・ウォー」で幕を開けたフェイズ3において、MCUの多様性は一気に大爆発する。
「マイティ・ソー バトルロイヤル」では最強のヴィランとしてケイト・ブランシェットが怪演するヘラと、ソーと共闘するタフな女戦士のヴァルキリーが登場。
ここまで、徐々にマイノリティのキャタクターを馴染ませてきた成果は、MCU作品として初のアカデミー作品賞候補となった「ブラックパンサー」に結実する。
アフロアメリカン闘争史を内包するこの作品で、アフリカ出身のヒーローは、女性たちとチームを組み、「正義」の持つ多面的な意味について苦悩する。
「ブラックパンサー」とライバルDCエクステンデッド・ユニバースの「ワンダーウーマン」の爆発的大ヒットは、もはやヒーロー映画において、「白人男性が世界を救う」と言った従来のステロタイプが意味を失ったことを示しており、フェイズ3最終作となる「エンドゲーム」の直前に、本作が組み込まれたのは必然と言える。
もちろん、映画だけでなく、本来男性だったキャプテン・マーベルをリブートと共に女性化するなど、コミックサイドでも着々と変化の布石を打ってきたことも大きいと思う。
テーマ的な部分はこのように、シリーズ集大成へ向けて非常に象徴的で分かりやすく、よく出来ているのだが、物語的に本作の一番の面白さは、前日譚ならではの後のMCUへの物語のリンクと、「エンドゲーム」へのヒントだ。
キャラクターや種族関係、アイテムまで、欠けていたピースがピタリとパズルにハマってゆくカタルシスは、シリーズを欠かさずに追ってきた忠実なファンへのご褒美。
MCU初の女性監督となったアンナ・ボーデンと相方ライアン・フレックのコンビは、もともとドラマ畑の人だけに、しっかりとキャラクターを掘り下げ、物語の展開と共にキャロルの感情の変化を紡いで説得力十分。
アクション演出にはやや不慣れな感が残るが、スペクタクルな見せ場の連続にはお腹いっぱい。
その能力を100%覚醒させ、キャプテン・マーベルとなったキャロル姐さんの強さたるや、コズミックキューブ由来の力で手からビームを出し、空どころか宇宙を飛び、ほとんどスーパーマン級で、さすがのサノスも苦戦しそうだ。
デジタル技術によって若返ったフューリーやコールソンも良いのだけど、ネコのグースとタロスの中の人ベン・メンデルスゾーンが一番美味しいところをさらってゆく。
しかしフューリーが隻眼になった理由がアレとは(笑
まあネコ好きにはありがちっちゃあありがちだけど、以前の作品でもっともらしいこと言ってなかったっけ?
ところで、本作にはロマンス要素は全くないのだが、最近のディズニー・プリンセス映画の「一見イケメンの優男は、実は中身クソ野郎の法則」が、こちらにも見られるのは興味深い。
あの痛快な一撃には爆笑したわ。
今回は空から降ってきた主人公の話なので、「スカイ・ダイビング」をチョイス。
ホワイト・ラム30ml、ブルー・キュラソー20ml、ライム・ジュース10mlをシェイクし、グラスに注ぐ。
1967年のカクテルコンペティションで1位になった作品で、大阪の渡辺義之氏の作。
その名の通り澄み切った青空を思わせる美しいカクテルで、甘味と酸味が絶妙にバランスする。
目と舌で楽しめる名作カクテルだ。
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2008年から始まった、マーベル・コミックのヒーローたちが勢ぞろいする壮大なプロジェクト、「マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)」の第21作目。
MCU作品としては初の女性ヒーローの単独主演作であるのと同時に、今までの全作品の前日譚であり、同時にアイアンマンからキャプテン・アメリカに至る初期のメンバーで結成された「アベンジャーズ」シリーズの一応の完結編「アベンジャーズ/エンドゲーム」の前哨戦ともなる、極めて重要な作品である。
舞台となるのは、MCUが始まる10年以上前の1990年代半ば。
懐かしのブロックバスターの屋根をぶち破り、空から降ってきた“ヴァース”と呼ばれる記憶を失った戦士による宇宙スケールの自分探しの旅は、若きニック・フューリーを巻き込んで、後のMCU作品への道筋をつけてゆく。
オスカー女優の貫禄たっぷり、ブリー・ラーソンがムッチャカッコいい。
本当の自分を見つけることは、信じていた世界が変わっていくこと。
彼女はその試練を受け入れ、MCU最初のスーパーヒーローとして覚醒してゆくのである。
※核心部分に触れています。
クリー帝国の特殊部隊“スターフォース”に所属するヴァース(ブリー・ラーソン)は、毎夜奇妙な夢を見る。
夢の中の彼女は、全く違った惑星で、違った人生を生きているのだ。
ある時ヴァースは、敵対するスクラル人からクリーのスパイを救出する作戦に参加するも罠に嵌り、捕虜として捉えられる。
スクラル人の指揮官タロス(ベン・メンデルスゾーン)は、彼女の夢から情報を引き出し、地球へと向かうが、逃亡したヴァースにより宇宙船は破壊されてしまう。
1995年のロサンゼルスへと落下したヴァースは、S.H.I.E.L.D.のエージェントのニック・フューリー(サミュエル・L・ジャクソン)に出会い、夢で見ていたこの星が自分の故郷で、本当の名前はキャロル・ダンヴァースだと知る。
そして、彼女の記憶に秘められたあるテクノロジーの隠し場所を巡り、スクラルとクリー、二つの種族の戦争に地球が巻き込まれることになる・・・
まさかのネコ映画だった。
いやポスターにはさりげなくネコが描かれてたし、予告編にも出てきたけど、あんな重要な役割だったとは。
便利なキャラだし、もしかすると今後グースちゃんの再登場あるぞ(笑
何はともあれ、一ヶ月後に迫った「アベンジャーズ/エンドゲーム」への期待を盛り上げる前哨戦として、内容的にもテーマ的にも最良の作品になっていたのではないか。
まずは冒頭、故スタン・リーに対するリスペクトがほとばしる、マーベル・スタジオのロゴ・アニメーションが胸アツ過ぎて涙。
ギリギリで入場した人は、絶対ここで前横切るなよ!
記憶を失ったヴァースの夢の中で、フラッシュバックする記憶の断片から始まり、やがて全体像が見えてきて、夢の中の女性がキーとなるのはちょっと「アリータ:バトル・エンジェル」を思わせる。
この構造が「自分は何者か?」というヴァース改めキャロル・ダンヴァースのアイデンティティの追求につながり、彼女の能力が目覚めてゆくと共に、「はたしてヒーローとは何か」というテーマへと展開してゆく。
望むと望まざるとに関わらず、大きな力を持ってしまった者は、常に何が正しくて、何をすべきなのかと葛藤し、自分の信じる最良の道を選ばなければならない。
「正しいこと=正義」とは相対的なもので、答えはいくつもある。
誰かにとっての「正義」は他の誰かにとっては「悪」になり得るし、ある状況下において「正しいこと」が常にそうだとは限らない。
「シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ」で、アベンジャーズが二つに割れた様に、ヒーローたちは自分のしていることが本当に正しいのか、常に葛藤せざるを得ないのだ。
これこそ11年に渡るMCUの歴史の中で積み重ねてきた、一番大切なテーマ。
また正しくあろうとする限りにおいて、人種も性別も関係なく、誰でもヒーローになれるということも、MCUが少しずつ、しかし着実に発信してきた価値観だ。
MCUの系統ではないが、同じマーベルの「スパイダーマン:スパイダーバース」でも、6人のスパイダーマンによって体現されていた要素が、本作では前面に出る。
MCUの最初期にあたるフェイズ1、「アイアンマン」から「アベンジャーズ」までの6作品の主人公は全て白人男性だった。
女性はブラックウィドウ、黒人はニック・フューリーと「アイアンマン2」のウォーマシンが登場するが、基本は脇の存在。
「アイアンマン3」から始まるフェイズ2では、「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー」でファルコンが、「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」では個性的なヒーローチームが誕生。
そして2016年の「シビル・ウォー」で幕を開けたフェイズ3において、MCUの多様性は一気に大爆発する。
「マイティ・ソー バトルロイヤル」では最強のヴィランとしてケイト・ブランシェットが怪演するヘラと、ソーと共闘するタフな女戦士のヴァルキリーが登場。
ここまで、徐々にマイノリティのキャタクターを馴染ませてきた成果は、MCU作品として初のアカデミー作品賞候補となった「ブラックパンサー」に結実する。
アフロアメリカン闘争史を内包するこの作品で、アフリカ出身のヒーローは、女性たちとチームを組み、「正義」の持つ多面的な意味について苦悩する。
「ブラックパンサー」とライバルDCエクステンデッド・ユニバースの「ワンダーウーマン」の爆発的大ヒットは、もはやヒーロー映画において、「白人男性が世界を救う」と言った従来のステロタイプが意味を失ったことを示しており、フェイズ3最終作となる「エンドゲーム」の直前に、本作が組み込まれたのは必然と言える。
もちろん、映画だけでなく、本来男性だったキャプテン・マーベルをリブートと共に女性化するなど、コミックサイドでも着々と変化の布石を打ってきたことも大きいと思う。
テーマ的な部分はこのように、シリーズ集大成へ向けて非常に象徴的で分かりやすく、よく出来ているのだが、物語的に本作の一番の面白さは、前日譚ならではの後のMCUへの物語のリンクと、「エンドゲーム」へのヒントだ。
キャラクターや種族関係、アイテムまで、欠けていたピースがピタリとパズルにハマってゆくカタルシスは、シリーズを欠かさずに追ってきた忠実なファンへのご褒美。
MCU初の女性監督となったアンナ・ボーデンと相方ライアン・フレックのコンビは、もともとドラマ畑の人だけに、しっかりとキャラクターを掘り下げ、物語の展開と共にキャロルの感情の変化を紡いで説得力十分。
アクション演出にはやや不慣れな感が残るが、スペクタクルな見せ場の連続にはお腹いっぱい。
その能力を100%覚醒させ、キャプテン・マーベルとなったキャロル姐さんの強さたるや、コズミックキューブ由来の力で手からビームを出し、空どころか宇宙を飛び、ほとんどスーパーマン級で、さすがのサノスも苦戦しそうだ。
デジタル技術によって若返ったフューリーやコールソンも良いのだけど、ネコのグースとタロスの中の人ベン・メンデルスゾーンが一番美味しいところをさらってゆく。
しかしフューリーが隻眼になった理由がアレとは(笑
まあネコ好きにはありがちっちゃあありがちだけど、以前の作品でもっともらしいこと言ってなかったっけ?
ところで、本作にはロマンス要素は全くないのだが、最近のディズニー・プリンセス映画の「一見イケメンの優男は、実は中身クソ野郎の法則」が、こちらにも見られるのは興味深い。
あの痛快な一撃には爆笑したわ。
今回は空から降ってきた主人公の話なので、「スカイ・ダイビング」をチョイス。
ホワイト・ラム30ml、ブルー・キュラソー20ml、ライム・ジュース10mlをシェイクし、グラスに注ぐ。
1967年のカクテルコンペティションで1位になった作品で、大阪の渡辺義之氏の作。
その名の通り澄み切った青空を思わせる美しいカクテルで、甘味と酸味が絶妙にバランスする。
目と舌で楽しめる名作カクテルだ。



2019年03月12日 (火) | 編集 |
過ぎ去った時間は、決して取り戻せない。
巨匠クリント・イーストウッドが「人生の特等席」以来6年ぶり、自身の監督作としては「グラン・トリノ」以来10年ぶりに銀幕に復帰し、齢90にして麻薬の運び屋となった男、アール・ストーンを演じる。
元々は花の栽培を手がける園芸家だったアールは、時代の移り変わりに対応できず困窮している時に、車を運転するだけの楽な仕事があると誘われて、なりゆきで運び屋に。
老人であることで当局のマークを外れ、いつまでたっても捕まらない。
仕事第一で家庭を省みなかったアールとの間に、癒されない確執を抱える元妻のメアリーと娘のアイリスを、名バイプレイヤーのダイアン・ウィーストとイーストウッドの実の娘、アリソン・イーストウッドが演じる。
謎の運び屋を追う、麻薬取締局(DEA)の捜査官にブラッドリー・クーパーとマイケル・ペーニャ、麻薬カルテルのドンにアンディ・ガルシアという錚々たる豪華キャスト。
ハリウッドの生ける伝説による、116分のいぶし銀の人間ドラマだ。
※ラストに触れています。
朝鮮戦争の帰還兵で、デイリリーの農場を営むアール・ストーン(クリント・イーストウッド)は、娘のアイリス(アリソン・イーストウッド)の結婚式をすっぽかし、花の品評会に出かけるほどの仕事人間。
アールの栽培するデイリリーは高い評価を得ていたが、妻のメアリー(ダイアン・ウィースト)は全く家庭を省みない夫に愛想をつかし離婚。
やがてネット通販の時代になると、農場は業績が落ち込み廃業を余儀なくされ、家も差し押さえられてしまう。
そんな時、孫娘のプレウェディングパーティーで、ある若者から「街から街へ車を運転するだけで稼げる仕事がある」と勧誘される。
簡単だと思って引き受けるも、実はそれはメキシコの麻薬カルテルの運び屋の仕事だった。
一度だけのつもりだったが、運び屋が巨額の金を稼げることを知ると、どうしても辞められなくなってしまう。
そんな頃、カルテルの麻薬ルートを追うDEA捜査官のコリン・ベイツ(ブラッドリー・クーパー)は、組織の中でも特に大量の麻薬を運ぶ“エル・タタ(お爺ちゃん)”と呼ばれる謎の運び屋の存在に気づく・・・
本作を端的に言えば、時代の変化について行けず麻薬の運び屋になった爺ちゃんが、紆余曲折の末にそれまでの人生で省みなかった家族の絆を取り戻す話。
予告編の内容そのまんまなんだが、さすがアウトローを演らせたら、イーストウッドはスクリーンに映える。
シワシワの爺ちゃんでも、なんとも言えない色気があるんだな。
イーストウッド演じるアールが、心血を注いで栽培するデイリリーはゴージャスで美しいが、たった1日咲き誇って萎んでしまう一日花。
まるでこの花が、彼の生き様を象徴しているかの様だ。
驚くべきは、イーストウッドが演じた運び屋には、レオ・シャープという実在のモデルがいるという事実。
シャープは、映画と同じく帰還兵(第二次世界大戦)にしてデイリリー農場を営み、ホワイトハウスに花を植えたこともある名園芸家。
しかし、次第に経営難となり廃業すると、麻薬カルテルから運び屋としてスカウトされ、その後10年以上にわたって捕まらず、麻薬組織の間では都市伝説化したというから、アメリカの爺ちゃん元気すぎだろう。
結局彼は2011年に87歳で逮捕され、3年間の懲役刑を言い渡されるも、健康不良で早期釈放となり、92歳の時に亡くなっている。
イーストウッドは、直接シャープを知る人に話は聞けなかったそうだが、彼に関する報道記事や資料を読み込んで想像力を膨らませ、脚本のニック・シェンクと共に映画を組み立てていったそうだ。
そうして造形されたアールは、ものすごく承認欲求が強い人物だ。
もちろん誰でも「人に認められたい」という気持ちはあるだろうが、この男はそれが人一倍強いのである。
劇中、元妻のメアリーがアールに「あなたは常に外に生きてきた」と恨み節をぶつける。
夫として、父親として家族サービスし、妻と娘に喜んでもらったとしても、それは家の中だけで完結する話。
彼はとにかく世間一般、あかの他人から「あなたは凄い!素晴らしい!」と称えられたい。
だから花の品評会と娘の結婚式の日程が重なれば、迷いなく品評会の方に出席する。
娘が主役の結婚式で脇役に甘んじるより、品評会で賞をとって主役として人々に賞賛されたいのだ。
運び屋になったきっかけも、孫娘のプレウェディングパーティーで、久しぶりに会ったメアリーに困窮しているのを見透かされ、なじられた反発から。
一度きりのつもりだった仕事を辞められなくなるのも、この性格が影響している。
予算不足に悩む退役軍人会に、運び屋で稼いだ金を気前よく寄付したことで、大いに感謝されたアールは、承認欲求にブーストが掛かってしまうのだ。
映画は行動がフリーダム過ぎて逆に捕まらず、次第に凄腕の運び屋として組織の中でも一目置かれる様になるアールと、カルテルの麻薬ルートを追うブラッドリー・クーパーのDEA捜査官の物語を並行して描いてゆく。
なにしろ90年も生きて、戦争でこの世の地獄も見てるから、ぶっちゃけもう怖いもんは無い。
明らかにヤバイ仕事にも全く悪びれず、稼いだ金はあの世には持って行けないとばかりに散財し、枯れるどころか若い女の子も大好きなプレイボーイ。
運転中に勝手な行動をとるなと命令されていても、あっちにフラフラ、こっちにフラフラ、危なっかしい寄り道を繰り返す。
心根は優しいのだけど、今どき黒人に対して「ニガー」という差別用語を平気で言っちゃう無自覚無頓着。
コワモテの麻薬カルテルの男たちに銃で脅されても動じず、逆に一緒にいるうちに若い彼らの方が、一見すると人生の達人ぽい出で立ちのアールの言動に影響されてしまう。
運び屋になったことで、承認欲求は満たされ、金銭的にも満ち足りた晩年を送れている。
しかし、自分自身の振る舞いが元で家族に背を向けられ、問題から逃げ続けた人生は孤独だ。
永遠に続く幸運はなく、自分でも気付かないうちに、少しずつ運命に追い詰められるアールは、自分の人生に最後に足りないものに気づき、ついに「家族」と「仕事」との間で過去の人生の清算を迫られるのである。
中盤以降、イーストウッドはアールの深まってゆく葛藤を掘り下げながら、彼とDEAのお互いに姿の見えない攻防をスリリングに描写する。
その顔に刻まれた深い皺とは裏腹に、全く衰えを見せない演出家としての手腕は相変わらず見事なものだ。
しかし、終盤の展開は、正直少々虫がよすぎる気がする。
彼はカルテルに処刑される危険を犯してまで、仕事を中断して妻の死の床に駆けつけると、ついに謝罪の言葉を口にして妻と和解する。
ここまでは良いのだが、それだけで何十年にも渡る家族のわだかまりが完全に解消するとは思えない。
ましてや、彼は妻を看取った直後に、麻薬ルートを解明したDEAによって逮捕されているのである。
残された娘や孫にとっては、散々家族を振り回しようやく改心したかと思ったら、よりにもよって麻薬の運び屋として捕まるとは、とんでもない大バカ爺ちゃんだと思うのが関の山だろう。
裁判に全員が駆けつけ、罪を認めた爺ちゃんを励ますということには、なかなかならないのではないだろうか?
もっとも、現実にはこんな甘くないよと思いつつ、キャラクターの説得力で成立させてしまうのがイーストウッドの凄さ。
本作は彼の俳優人生の集大成であり、アールのキャラクターには過去に演じてきた様々な役が重なって見えるがゆえ、最後には幸せに終わって欲しくなる。
その意味では、リアルでないにしろ、満足できるラストであった。
まあイーストウッド自身も、私生活では色々やらかしてるから、これは実の娘を立ち会わせての公開懺悔なのかもしれないが。
90歳の運び屋は、おそらくは映画史上最高齢のアウトロー。
実年齢も御歳88歳、はたしてイーストウッドを再びスクリーンで見ることは出来るんだろうか。
今回は、イーストウッドの生まれ故郷でもあり、代表作の一つ「ダーティーハリー」シリーズの舞台、サンフランシスコの地ビール「アンカースチーム」をチョイス。
ゴールドラッシュ時代の開拓民の喉を潤したスチームビールの復刻版。
ラガー酵母をエールの様に常温醗酵させる事で、適度なコクと苦味が華やかな香りと同居する、ラガーとエールを合わせた様な独特の味わいに仕上がった。
ビール片手に、バーでアールのウンチクを聞いてみたい。
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巨匠クリント・イーストウッドが「人生の特等席」以来6年ぶり、自身の監督作としては「グラン・トリノ」以来10年ぶりに銀幕に復帰し、齢90にして麻薬の運び屋となった男、アール・ストーンを演じる。
元々は花の栽培を手がける園芸家だったアールは、時代の移り変わりに対応できず困窮している時に、車を運転するだけの楽な仕事があると誘われて、なりゆきで運び屋に。
老人であることで当局のマークを外れ、いつまでたっても捕まらない。
仕事第一で家庭を省みなかったアールとの間に、癒されない確執を抱える元妻のメアリーと娘のアイリスを、名バイプレイヤーのダイアン・ウィーストとイーストウッドの実の娘、アリソン・イーストウッドが演じる。
謎の運び屋を追う、麻薬取締局(DEA)の捜査官にブラッドリー・クーパーとマイケル・ペーニャ、麻薬カルテルのドンにアンディ・ガルシアという錚々たる豪華キャスト。
ハリウッドの生ける伝説による、116分のいぶし銀の人間ドラマだ。
※ラストに触れています。
朝鮮戦争の帰還兵で、デイリリーの農場を営むアール・ストーン(クリント・イーストウッド)は、娘のアイリス(アリソン・イーストウッド)の結婚式をすっぽかし、花の品評会に出かけるほどの仕事人間。
アールの栽培するデイリリーは高い評価を得ていたが、妻のメアリー(ダイアン・ウィースト)は全く家庭を省みない夫に愛想をつかし離婚。
やがてネット通販の時代になると、農場は業績が落ち込み廃業を余儀なくされ、家も差し押さえられてしまう。
そんな時、孫娘のプレウェディングパーティーで、ある若者から「街から街へ車を運転するだけで稼げる仕事がある」と勧誘される。
簡単だと思って引き受けるも、実はそれはメキシコの麻薬カルテルの運び屋の仕事だった。
一度だけのつもりだったが、運び屋が巨額の金を稼げることを知ると、どうしても辞められなくなってしまう。
そんな頃、カルテルの麻薬ルートを追うDEA捜査官のコリン・ベイツ(ブラッドリー・クーパー)は、組織の中でも特に大量の麻薬を運ぶ“エル・タタ(お爺ちゃん)”と呼ばれる謎の運び屋の存在に気づく・・・
本作を端的に言えば、時代の変化について行けず麻薬の運び屋になった爺ちゃんが、紆余曲折の末にそれまでの人生で省みなかった家族の絆を取り戻す話。
予告編の内容そのまんまなんだが、さすがアウトローを演らせたら、イーストウッドはスクリーンに映える。
シワシワの爺ちゃんでも、なんとも言えない色気があるんだな。
イーストウッド演じるアールが、心血を注いで栽培するデイリリーはゴージャスで美しいが、たった1日咲き誇って萎んでしまう一日花。
まるでこの花が、彼の生き様を象徴しているかの様だ。
驚くべきは、イーストウッドが演じた運び屋には、レオ・シャープという実在のモデルがいるという事実。
シャープは、映画と同じく帰還兵(第二次世界大戦)にしてデイリリー農場を営み、ホワイトハウスに花を植えたこともある名園芸家。
しかし、次第に経営難となり廃業すると、麻薬カルテルから運び屋としてスカウトされ、その後10年以上にわたって捕まらず、麻薬組織の間では都市伝説化したというから、アメリカの爺ちゃん元気すぎだろう。
結局彼は2011年に87歳で逮捕され、3年間の懲役刑を言い渡されるも、健康不良で早期釈放となり、92歳の時に亡くなっている。
イーストウッドは、直接シャープを知る人に話は聞けなかったそうだが、彼に関する報道記事や資料を読み込んで想像力を膨らませ、脚本のニック・シェンクと共に映画を組み立てていったそうだ。
そうして造形されたアールは、ものすごく承認欲求が強い人物だ。
もちろん誰でも「人に認められたい」という気持ちはあるだろうが、この男はそれが人一倍強いのである。
劇中、元妻のメアリーがアールに「あなたは常に外に生きてきた」と恨み節をぶつける。
夫として、父親として家族サービスし、妻と娘に喜んでもらったとしても、それは家の中だけで完結する話。
彼はとにかく世間一般、あかの他人から「あなたは凄い!素晴らしい!」と称えられたい。
だから花の品評会と娘の結婚式の日程が重なれば、迷いなく品評会の方に出席する。
娘が主役の結婚式で脇役に甘んじるより、品評会で賞をとって主役として人々に賞賛されたいのだ。
運び屋になったきっかけも、孫娘のプレウェディングパーティーで、久しぶりに会ったメアリーに困窮しているのを見透かされ、なじられた反発から。
一度きりのつもりだった仕事を辞められなくなるのも、この性格が影響している。
予算不足に悩む退役軍人会に、運び屋で稼いだ金を気前よく寄付したことで、大いに感謝されたアールは、承認欲求にブーストが掛かってしまうのだ。
映画は行動がフリーダム過ぎて逆に捕まらず、次第に凄腕の運び屋として組織の中でも一目置かれる様になるアールと、カルテルの麻薬ルートを追うブラッドリー・クーパーのDEA捜査官の物語を並行して描いてゆく。
なにしろ90年も生きて、戦争でこの世の地獄も見てるから、ぶっちゃけもう怖いもんは無い。
明らかにヤバイ仕事にも全く悪びれず、稼いだ金はあの世には持って行けないとばかりに散財し、枯れるどころか若い女の子も大好きなプレイボーイ。
運転中に勝手な行動をとるなと命令されていても、あっちにフラフラ、こっちにフラフラ、危なっかしい寄り道を繰り返す。
心根は優しいのだけど、今どき黒人に対して「ニガー」という差別用語を平気で言っちゃう無自覚無頓着。
コワモテの麻薬カルテルの男たちに銃で脅されても動じず、逆に一緒にいるうちに若い彼らの方が、一見すると人生の達人ぽい出で立ちのアールの言動に影響されてしまう。
運び屋になったことで、承認欲求は満たされ、金銭的にも満ち足りた晩年を送れている。
しかし、自分自身の振る舞いが元で家族に背を向けられ、問題から逃げ続けた人生は孤独だ。
永遠に続く幸運はなく、自分でも気付かないうちに、少しずつ運命に追い詰められるアールは、自分の人生に最後に足りないものに気づき、ついに「家族」と「仕事」との間で過去の人生の清算を迫られるのである。
中盤以降、イーストウッドはアールの深まってゆく葛藤を掘り下げながら、彼とDEAのお互いに姿の見えない攻防をスリリングに描写する。
その顔に刻まれた深い皺とは裏腹に、全く衰えを見せない演出家としての手腕は相変わらず見事なものだ。
しかし、終盤の展開は、正直少々虫がよすぎる気がする。
彼はカルテルに処刑される危険を犯してまで、仕事を中断して妻の死の床に駆けつけると、ついに謝罪の言葉を口にして妻と和解する。
ここまでは良いのだが、それだけで何十年にも渡る家族のわだかまりが完全に解消するとは思えない。
ましてや、彼は妻を看取った直後に、麻薬ルートを解明したDEAによって逮捕されているのである。
残された娘や孫にとっては、散々家族を振り回しようやく改心したかと思ったら、よりにもよって麻薬の運び屋として捕まるとは、とんでもない大バカ爺ちゃんだと思うのが関の山だろう。
裁判に全員が駆けつけ、罪を認めた爺ちゃんを励ますということには、なかなかならないのではないだろうか?
もっとも、現実にはこんな甘くないよと思いつつ、キャラクターの説得力で成立させてしまうのがイーストウッドの凄さ。
本作は彼の俳優人生の集大成であり、アールのキャラクターには過去に演じてきた様々な役が重なって見えるがゆえ、最後には幸せに終わって欲しくなる。
その意味では、リアルでないにしろ、満足できるラストであった。
まあイーストウッド自身も、私生活では色々やらかしてるから、これは実の娘を立ち会わせての公開懺悔なのかもしれないが。
90歳の運び屋は、おそらくは映画史上最高齢のアウトロー。
実年齢も御歳88歳、はたしてイーストウッドを再びスクリーンで見ることは出来るんだろうか。
今回は、イーストウッドの生まれ故郷でもあり、代表作の一つ「ダーティーハリー」シリーズの舞台、サンフランシスコの地ビール「アンカースチーム」をチョイス。
ゴールドラッシュ時代の開拓民の喉を潤したスチームビールの復刻版。
ラガー酵母をエールの様に常温醗酵させる事で、適度なコクと苦味が華やかな香りと同居する、ラガーとエールを合わせた様な独特の味わいに仕上がった。
ビール片手に、バーでアールのウンチクを聞いてみたい。



2019年03月07日 (木) | 編集 |
友情のグランドツーリング。
1960年代、カーネギー・ホールに住む天才黒人ピアニストのドクター・シャーリーと、彼の運転手として雇われたイタリア系の強面用心棒、トニー・バレロンガのロードムービー。
人種差別と暴力が渦巻く“ディープ・サウス”へのツアーの旅は波乱万丈。
最初の頃お互いに偏見を抱いていた二人は、やがて固い絆で結ばれた生涯の友となってゆく。
いい意味でハリウッド映画の理想を体現する本作は、アカデミー賞で作品賞、助演男優賞、脚本賞の三冠獲得も納得の出来の良さ。
共同脚本を務めるニック・バレロンガは、名前で分かる通り後に俳優としても活躍するトニー・バレロンガの息子で、彼が父親から聞かされていた昔話がベース。
ハードな内容を魅力的キャラクターとユーモアで包み、誰にでも咀嚼しやすく届けるスタイルはフランス映画の「最強のふたり」にもよく似ている。
しかし、弟のボビーと組んで、おバカなコメディ映画で一世を風靡したピーター・ファレリーが、オスカーをかっさらう日が来るとは。
多分20年前の本人に伝えても信じないだろうな(笑
※核心部分に触れています。
1962年。
ニューヨークのナイトクラブで用心棒をしているトニー・“リップ”・バレロンガ(ヴィゴ・モーテンセン)は、職場の改装期間中、著名な黒人ピアニストのドクター・“ドン”・シャーリー(マハーシャラ・アリ)のツアー運転手の仕事に就くことになる。
ドンは幾つもの学位を持ち、ホワイトハウスでも演奏した天才。
カーネギー・ホールに豪華な部屋を持ち、王の様に暮らしている。
しかし、なぜかツアーの目的地は、黒人差別を合法化したジム・クロウ法が施行されている南部諸州だという。
もともと黒人への偏見を持っていたリップだったが、ドンの実際の演奏を見て感動。
少しずつ彼へのリスペクトを持つ様になるのだが、旅の途中にドンに対するあまりにも理不尽な扱いを経験し、彼自身も変わり始める。
そんなある夜、リップの元に警察から電話がかかってきて、彼が駆けつけると、そこには手錠を嵌められたドンの姿があった・・・
タイトルの「グリーンブック」とは、60年代当時に発行されていた、黒人市民が南部諸州を旅行するためのガイドブックのこと。
これには黒人の泊まれるホテルなどの情報が詳しく載っていて、二人はグリーンブックを頼りになれない“ディープ・サウス”を彷徨う。
20世紀を代表するジャズ歌手、ビリー・ホリディの不朽の名作群の中に「奇妙な果実」がある。
この曲は、リンチされ木から吊るされた黒人の死体の写真を見て、大きな衝撃を受けたユダヤ人のエイベル・ミーアポルによって作曲され、のちにホリディが歌唱し代表曲の一つとなった。
ミーアポルのインスパイアの元となった二人の黒人青年、トーマス・シップとエイブラハム・スミスが白人の群衆に殺されたのは、1930年のインディアナ州マリオンでのこと。
インディアナ州は南北戦争では北軍の側で、地理的にも「南部」ではない。
にも関わらず事件は起き、二人を殺した白人は誰一人として起訴されなかった。
北部ですらこれなのだから、南部の状況は言わずもがな。
公民権法が成立する以前、人種隔離を目的とするジム・クロウ法が制定されていた南部諸州では黒人たちは実質法の正義の対象外に置かれた。
50年代から公民権運動が盛り上がると、反発する白人の側の暴力も激化し、多くの活動家が白人至上主義者に殺害されたが、「血の日曜日」事件などに代表される警察による暴力も多発。
オフィシャルにもアンオフィシャルにも、様々な差別と暴力がまかり通っていた時代であり、南部は黒人が自由に安全に移動できる土地ではなかった。
アラン・パーカー監督が「ミシシッピ・バーニング」として映画化した、公民権運動の活動家三人が、警察官を含む白人至上主義者たちによって殺害された事件が起こったのは、本作の2年後のことなのだ。
イタリア系で粗野だが気のいいリップと、あまりにも天才過ぎるが故孤高の存在となってしまい、自分の殻に閉じこもるドン。
全てが対照的な二人は、最初お互いがアンチテーゼとなり対抗する関係。
リップとドンの南部ツアーは、実際には一年半の長きに渡ったそうだが、映画では二ヶ月間の出来事にまとめられている。
映画の冒頭、ナイトクラブで暴れた客を鉄拳制裁したリップは、同時に客の帽子を店がなくしたフリをして、あとから見つけたと言って恩を売る。
腕っぷしが強く、ちょいセコイが世知辛い社会を生き抜く処世術も身につけているという、彼の人となりを端的に描き出すオープニング。
そんなリップも、家に出入りする黒人の作業員が使ったコップを、そのままゴミ箱に捨てる程度には偏見を持っているのだ。
一方、ドンはといえば、音楽の殿堂カーネギー・ホールに自分専用の住居を持ち、世界各国の調度品に囲まれて生活していて、客を迎える時は“王座”から謁見を受ける。
9歳で母を亡くした後、ソ連に渡りレニングラード音楽院で学び、帰国後はシカゴ大学で心理学の学位をとり、心理学者として働いていた時期もあるという。
当時の合衆国の黒人市民の置かれていた状況を考えると、まさに天才ゆえに特別な人生を歩んだ男。
しかも、彼には映画の中盤に明かされる、絶対に周りには知られたくない秘密がある。
ここまで観て、私はドンのキャラクターに、昨年大ヒットした「ボヘミアン・ラプソディ」に描かれたフレディ・マーキュリーに似たものを感じた。
共に音楽の天才で、同性愛者。
フレディはインド系ゾロアスター教徒として、英国植民地だったアフリカ、ザンジバルで生まれたにも関わらず、自らの出自を嫌い英国人“フレディ・マーキュリー”として生きるという、自己同一性の混乱を抱えていた。
ドンもまた、ジャマイカ移民の子としてアメリカで生まれながら、同胞の文化や生活をほとんど知らずに育ち、白人の中に入れば当然黒人扱い、かといって黒人の中でも馴染めず、「自分は一体何者なのか?」という問いに常に葛藤している。
彼がわざわざ危険で儲からない南部に足を踏み入れるのも、自分のアイデンティティに向き合うためなのだ。
かように異なる境遇で生きてきたリップとドンだが、大雑把な性格のリップに引っ張られる様にしてドンも次第に心を開いてゆき、いつしか絶妙なハーモニーを奏で始める。
北部の著名人であるドンの音楽には喝采するが、ステージを降りると偏見をむき出しにする白人たちを見て、リップは差別する心の醜さを思い知る。
そしてドンもまた、自らの心のうちを全て吐露できる友を得て、内面の武装を解いて、内向きの感情を外に向けて開いてゆく。
秋からクリスマスまでの長い旅を通して、雇い主と運転手の関係はいつしか友情へと変わり、リップはドンに対する寛容と理解を、ドンはリップに信頼と勇気を得て、共により良き人間へと成長してゆくのである。
リップが黒人の置かれた状況に割と素直に同情するのは、遅れてきた移民であり、アメリカの支配層であるゲルマン系プロテスタントからは、常に下に見られるイタリア系という出自も影響しているのかもしれない。
本作がアカデミー賞の作品賞を受賞したことに対しては、批判もある様だが、私はやはり今年のラインナップの中で作品賞に相応しかったのは本作だと思う。
とんがった所はないが、嫌味もクセもなく、最大公約数に訴求する普遍性と今の時代にも響くテーマ性。
優等生っぷりが物足りないということも言えるだろうが、作品賞って学校の卒業式でいえば学年の総代挨拶みたいなもので、やはり優等生が一番相応しいのではなかろうか。
ピーター・ファレリーの作家性の変化も、ユーモアのセンスはそのままに、キャラクターの丁寧な掘り下げなど、これはパワーダウンではなく映画作家としての円熟と受け止めたい。
ヴィゴ・モーテンセンと、実質的には主人公で助演ではなく主演男優賞でもいいんじゃないかと思ったマーハシャラ・アリのコンビには、誰もがどっぷり感情移入したはず。
だからこそ、雪の中家路を急ぐ二人がパトカーに止められるシーンで、「北部に帰ってきた」ことに気づき、我々もまた二人と共に安堵した訳で。
全てが“クリスマスの奇跡”に帰結するエンディングを含めて、これぞハリウッド映画だ。
映画の中で、ドンがしばしば深酒するのも、内的な葛藤ゆえなんだろうけど、彼は一日一本の「カティサーク」を所望するので、今回はこれをチョイス。
1923年にロンドンのワイン商ベリー・ブラザーズ&ラッドが発売したブレンデッド・スコッチ・ウィスキーで、カティーサークの名は19世紀に活躍した高速帆船から取られている。
元々アメリカ市場向けに作られた商品で、比較的ライト&スムーズな味わいが特徴。
飲みやすいので、結構いけてしまうのだが、流石に一日一本は飲み過ぎ。
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1960年代、カーネギー・ホールに住む天才黒人ピアニストのドクター・シャーリーと、彼の運転手として雇われたイタリア系の強面用心棒、トニー・バレロンガのロードムービー。
人種差別と暴力が渦巻く“ディープ・サウス”へのツアーの旅は波乱万丈。
最初の頃お互いに偏見を抱いていた二人は、やがて固い絆で結ばれた生涯の友となってゆく。
いい意味でハリウッド映画の理想を体現する本作は、アカデミー賞で作品賞、助演男優賞、脚本賞の三冠獲得も納得の出来の良さ。
共同脚本を務めるニック・バレロンガは、名前で分かる通り後に俳優としても活躍するトニー・バレロンガの息子で、彼が父親から聞かされていた昔話がベース。
ハードな内容を魅力的キャラクターとユーモアで包み、誰にでも咀嚼しやすく届けるスタイルはフランス映画の「最強のふたり」にもよく似ている。
しかし、弟のボビーと組んで、おバカなコメディ映画で一世を風靡したピーター・ファレリーが、オスカーをかっさらう日が来るとは。
多分20年前の本人に伝えても信じないだろうな(笑
※核心部分に触れています。
1962年。
ニューヨークのナイトクラブで用心棒をしているトニー・“リップ”・バレロンガ(ヴィゴ・モーテンセン)は、職場の改装期間中、著名な黒人ピアニストのドクター・“ドン”・シャーリー(マハーシャラ・アリ)のツアー運転手の仕事に就くことになる。
ドンは幾つもの学位を持ち、ホワイトハウスでも演奏した天才。
カーネギー・ホールに豪華な部屋を持ち、王の様に暮らしている。
しかし、なぜかツアーの目的地は、黒人差別を合法化したジム・クロウ法が施行されている南部諸州だという。
もともと黒人への偏見を持っていたリップだったが、ドンの実際の演奏を見て感動。
少しずつ彼へのリスペクトを持つ様になるのだが、旅の途中にドンに対するあまりにも理不尽な扱いを経験し、彼自身も変わり始める。
そんなある夜、リップの元に警察から電話がかかってきて、彼が駆けつけると、そこには手錠を嵌められたドンの姿があった・・・
タイトルの「グリーンブック」とは、60年代当時に発行されていた、黒人市民が南部諸州を旅行するためのガイドブックのこと。
これには黒人の泊まれるホテルなどの情報が詳しく載っていて、二人はグリーンブックを頼りになれない“ディープ・サウス”を彷徨う。
20世紀を代表するジャズ歌手、ビリー・ホリディの不朽の名作群の中に「奇妙な果実」がある。
この曲は、リンチされ木から吊るされた黒人の死体の写真を見て、大きな衝撃を受けたユダヤ人のエイベル・ミーアポルによって作曲され、のちにホリディが歌唱し代表曲の一つとなった。
ミーアポルのインスパイアの元となった二人の黒人青年、トーマス・シップとエイブラハム・スミスが白人の群衆に殺されたのは、1930年のインディアナ州マリオンでのこと。
インディアナ州は南北戦争では北軍の側で、地理的にも「南部」ではない。
にも関わらず事件は起き、二人を殺した白人は誰一人として起訴されなかった。
北部ですらこれなのだから、南部の状況は言わずもがな。
公民権法が成立する以前、人種隔離を目的とするジム・クロウ法が制定されていた南部諸州では黒人たちは実質法の正義の対象外に置かれた。
50年代から公民権運動が盛り上がると、反発する白人の側の暴力も激化し、多くの活動家が白人至上主義者に殺害されたが、「血の日曜日」事件などに代表される警察による暴力も多発。
オフィシャルにもアンオフィシャルにも、様々な差別と暴力がまかり通っていた時代であり、南部は黒人が自由に安全に移動できる土地ではなかった。
アラン・パーカー監督が「ミシシッピ・バーニング」として映画化した、公民権運動の活動家三人が、警察官を含む白人至上主義者たちによって殺害された事件が起こったのは、本作の2年後のことなのだ。
イタリア系で粗野だが気のいいリップと、あまりにも天才過ぎるが故孤高の存在となってしまい、自分の殻に閉じこもるドン。
全てが対照的な二人は、最初お互いがアンチテーゼとなり対抗する関係。
リップとドンの南部ツアーは、実際には一年半の長きに渡ったそうだが、映画では二ヶ月間の出来事にまとめられている。
映画の冒頭、ナイトクラブで暴れた客を鉄拳制裁したリップは、同時に客の帽子を店がなくしたフリをして、あとから見つけたと言って恩を売る。
腕っぷしが強く、ちょいセコイが世知辛い社会を生き抜く処世術も身につけているという、彼の人となりを端的に描き出すオープニング。
そんなリップも、家に出入りする黒人の作業員が使ったコップを、そのままゴミ箱に捨てる程度には偏見を持っているのだ。
一方、ドンはといえば、音楽の殿堂カーネギー・ホールに自分専用の住居を持ち、世界各国の調度品に囲まれて生活していて、客を迎える時は“王座”から謁見を受ける。
9歳で母を亡くした後、ソ連に渡りレニングラード音楽院で学び、帰国後はシカゴ大学で心理学の学位をとり、心理学者として働いていた時期もあるという。
当時の合衆国の黒人市民の置かれていた状況を考えると、まさに天才ゆえに特別な人生を歩んだ男。
しかも、彼には映画の中盤に明かされる、絶対に周りには知られたくない秘密がある。
ここまで観て、私はドンのキャラクターに、昨年大ヒットした「ボヘミアン・ラプソディ」に描かれたフレディ・マーキュリーに似たものを感じた。
共に音楽の天才で、同性愛者。
フレディはインド系ゾロアスター教徒として、英国植民地だったアフリカ、ザンジバルで生まれたにも関わらず、自らの出自を嫌い英国人“フレディ・マーキュリー”として生きるという、自己同一性の混乱を抱えていた。
ドンもまた、ジャマイカ移民の子としてアメリカで生まれながら、同胞の文化や生活をほとんど知らずに育ち、白人の中に入れば当然黒人扱い、かといって黒人の中でも馴染めず、「自分は一体何者なのか?」という問いに常に葛藤している。
彼がわざわざ危険で儲からない南部に足を踏み入れるのも、自分のアイデンティティに向き合うためなのだ。
かように異なる境遇で生きてきたリップとドンだが、大雑把な性格のリップに引っ張られる様にしてドンも次第に心を開いてゆき、いつしか絶妙なハーモニーを奏で始める。
北部の著名人であるドンの音楽には喝采するが、ステージを降りると偏見をむき出しにする白人たちを見て、リップは差別する心の醜さを思い知る。
そしてドンもまた、自らの心のうちを全て吐露できる友を得て、内面の武装を解いて、内向きの感情を外に向けて開いてゆく。
秋からクリスマスまでの長い旅を通して、雇い主と運転手の関係はいつしか友情へと変わり、リップはドンに対する寛容と理解を、ドンはリップに信頼と勇気を得て、共により良き人間へと成長してゆくのである。
リップが黒人の置かれた状況に割と素直に同情するのは、遅れてきた移民であり、アメリカの支配層であるゲルマン系プロテスタントからは、常に下に見られるイタリア系という出自も影響しているのかもしれない。
本作がアカデミー賞の作品賞を受賞したことに対しては、批判もある様だが、私はやはり今年のラインナップの中で作品賞に相応しかったのは本作だと思う。
とんがった所はないが、嫌味もクセもなく、最大公約数に訴求する普遍性と今の時代にも響くテーマ性。
優等生っぷりが物足りないということも言えるだろうが、作品賞って学校の卒業式でいえば学年の総代挨拶みたいなもので、やはり優等生が一番相応しいのではなかろうか。
ピーター・ファレリーの作家性の変化も、ユーモアのセンスはそのままに、キャラクターの丁寧な掘り下げなど、これはパワーダウンではなく映画作家としての円熟と受け止めたい。
ヴィゴ・モーテンセンと、実質的には主人公で助演ではなく主演男優賞でもいいんじゃないかと思ったマーハシャラ・アリのコンビには、誰もがどっぷり感情移入したはず。
だからこそ、雪の中家路を急ぐ二人がパトカーに止められるシーンで、「北部に帰ってきた」ことに気づき、我々もまた二人と共に安堵した訳で。
全てが“クリスマスの奇跡”に帰結するエンディングを含めて、これぞハリウッド映画だ。
映画の中で、ドンがしばしば深酒するのも、内的な葛藤ゆえなんだろうけど、彼は一日一本の「カティサーク」を所望するので、今回はこれをチョイス。
1923年にロンドンのワイン商ベリー・ブラザーズ&ラッドが発売したブレンデッド・スコッチ・ウィスキーで、カティーサークの名は19世紀に活躍した高速帆船から取られている。
元々アメリカ市場向けに作られた商品で、比較的ライト&スムーズな味わいが特徴。
飲みやすいので、結構いけてしまうのだが、流石に一日一本は飲み過ぎ。



2019年03月05日 (火) | 編集 |
孤独な女王は、本当は何を欲しているのか。
18世紀初頭、スペイン継承戦争下のイギリス王宮を舞台に、三人の女たちの確執を描くグチャグチャドロドロの宮廷心理劇。
本年度のアカデミー主演女優賞に輝いた、オリビア・コールマンが怪演するアン女王を中心に、レイチェル・ワイズ演じるマールバラ公爵夫人サラ・ジェニングス、エマ・ストーン演じる上流階級から没落し、貪欲に再起を目指すアビゲイル・メイシャムが、女王の寵愛を巡って争奪戦を繰り広げる。
異才ヨルゴス・ランティモスによる、いい感じに狂ったブラックコメディだ。
先王ウィリアム3世の時代に始まったスペイン継承戦争は、ルイ十四世の孫である新スペイン王のフェリペ5世を支持するフランスと、フランスの影響力拡大を阻止したい周辺国の同盟との間で起こった戦争で、イギリスは同盟側につき参戦。
ぶっちゃけイギリス庶民には直接関係の無い、海の向こうの陣取り合戦なのだが、この時の指揮官がサラの夫のマールバラ公で、夫を助けたいサラは戦争推進派。
一方で、長引く戦争に当時すでに厭戦気分が広がり、イギリス政界では主戦派のホイッグ党と、和平派のトーリー党が、共に女王の権威を求めて対立している構図。
ヨーロッパの覇権を巡る戦争が、イギリス政界の争いとなり、それが最終的に王宮内の女の戦いに落とし込まれるマトリョーシカ人形の様な三重構造だ。
人間たちの醜いダークサイドが剥き出しになるドラマは、ランティモス節が全開。
前作の「聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア」は、ギリシャ悲劇を下敷きにしたサイコホラーだったが、今回のアプローチはシニカルなコメディ。
キャラクター造形はほぼ全員がエキセントリックで、女たちの配偶者は存在感無し。
数年間の出来事をコンパクトにまとめているとは言え、話の前半部分の頃にはまだ存命中だった女王の夫ジョージは、画面にすら出てこない。
サラとアビゲイルにまとわり付く政界の男たちは、極端に戯画化されている。
歪んだ広角レンズで映し出される宮殿内には、女王専用の隠し通路が迷路の様に張り巡らされ、まるで秘密を隠す洞くつの様。
衣装デザインは、この種の宮廷ものでは極めて珍しく、白黒を基調にしており、暗喩性と象徴性を高めている。
白の衣装を纏ったサラと黒の衣装のアビゲイルが鴨撃ちをしている時、アビゲイルが至近距離で発砲し、返り血がサラの白い衣装に降りかかる描写は、その後の二人の敵対関係を示唆する。
肥満体で体を病み、心も不安定な女王は、年上の幼馴染で親友でもあるサラに頼りっきり。
ホイッグ党との関係も深く、政界にも太いパイプを持つサラは、いわば摂政の様な存在で女王をコントロールしている。
だが彼女の女王に対するスタンスは、幼馴染として、また秘密の愛人としてのごく親しい部分と、政治家としてのビジネスライクな部分が並立している。
躁鬱の激しい女王が求め、サラが軽視する「癒し」の需要に、若く野心家のアビゲイルがスルリと入り込み、愛人の座も奪い取る。
アビゲイルは同時にトーリー党を率いるロバート・ハーレーとも関係を深め、両者の対立は政界を巻き込み激化してゆくのだ。
権謀術数渦巻く物語のノリ的には、まさしく時代劇の大奥物の西洋版の趣。
病や流産で17人の子供を失った女王は、17羽のウサギを飼い溺愛しているのだけど、この象徴的な使い方も巧み。
サラに勝利したアビゲイルが、女王の死角でそれまで可愛がっているフリをしていたウサギを、ジワリと踏みつけるのは本当にコワイ。
欲望剥き出し、本当にバチバチの火花が見えそうな、3人の名女優の三つ巴の演技合戦だけでお腹一杯だ。
しかし小市民としては、金と権力はあっても、あんなストレス溜まりそうな生活は嫌だな。
今回は、女王は女王でもカクテルの女王「マンハッタン」をチョイス。
カナディアン・ウィスキー45ml、スウィート・ベルモット15ml、アンゴスチュラ・ビターズ1dashをミキシンググラスでステアし、カクテルグラスに注いだ後ピンに刺したマラスキーノチェリーを沈めて完成。
このカクテルは英国にも縁があって、後の英国首相ウィンストン・チャーチルの母、ジェロニー・ジェロームが1876年の大統領選挙の時に、マンハッタン・クラブで開かれた民主党候補の応援パーティの時に、即興で作ったカクテルが後にマンハッタンと呼ばれる様になったという説がある。
ルビー色の美しい佇まいは、正にカクテルの女王、大人のお酒である。
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18世紀初頭、スペイン継承戦争下のイギリス王宮を舞台に、三人の女たちの確執を描くグチャグチャドロドロの宮廷心理劇。
本年度のアカデミー主演女優賞に輝いた、オリビア・コールマンが怪演するアン女王を中心に、レイチェル・ワイズ演じるマールバラ公爵夫人サラ・ジェニングス、エマ・ストーン演じる上流階級から没落し、貪欲に再起を目指すアビゲイル・メイシャムが、女王の寵愛を巡って争奪戦を繰り広げる。
異才ヨルゴス・ランティモスによる、いい感じに狂ったブラックコメディだ。
先王ウィリアム3世の時代に始まったスペイン継承戦争は、ルイ十四世の孫である新スペイン王のフェリペ5世を支持するフランスと、フランスの影響力拡大を阻止したい周辺国の同盟との間で起こった戦争で、イギリスは同盟側につき参戦。
ぶっちゃけイギリス庶民には直接関係の無い、海の向こうの陣取り合戦なのだが、この時の指揮官がサラの夫のマールバラ公で、夫を助けたいサラは戦争推進派。
一方で、長引く戦争に当時すでに厭戦気分が広がり、イギリス政界では主戦派のホイッグ党と、和平派のトーリー党が、共に女王の権威を求めて対立している構図。
ヨーロッパの覇権を巡る戦争が、イギリス政界の争いとなり、それが最終的に王宮内の女の戦いに落とし込まれるマトリョーシカ人形の様な三重構造だ。
人間たちの醜いダークサイドが剥き出しになるドラマは、ランティモス節が全開。
前作の「聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア」は、ギリシャ悲劇を下敷きにしたサイコホラーだったが、今回のアプローチはシニカルなコメディ。
キャラクター造形はほぼ全員がエキセントリックで、女たちの配偶者は存在感無し。
数年間の出来事をコンパクトにまとめているとは言え、話の前半部分の頃にはまだ存命中だった女王の夫ジョージは、画面にすら出てこない。
サラとアビゲイルにまとわり付く政界の男たちは、極端に戯画化されている。
歪んだ広角レンズで映し出される宮殿内には、女王専用の隠し通路が迷路の様に張り巡らされ、まるで秘密を隠す洞くつの様。
衣装デザインは、この種の宮廷ものでは極めて珍しく、白黒を基調にしており、暗喩性と象徴性を高めている。
白の衣装を纏ったサラと黒の衣装のアビゲイルが鴨撃ちをしている時、アビゲイルが至近距離で発砲し、返り血がサラの白い衣装に降りかかる描写は、その後の二人の敵対関係を示唆する。
肥満体で体を病み、心も不安定な女王は、年上の幼馴染で親友でもあるサラに頼りっきり。
ホイッグ党との関係も深く、政界にも太いパイプを持つサラは、いわば摂政の様な存在で女王をコントロールしている。
だが彼女の女王に対するスタンスは、幼馴染として、また秘密の愛人としてのごく親しい部分と、政治家としてのビジネスライクな部分が並立している。
躁鬱の激しい女王が求め、サラが軽視する「癒し」の需要に、若く野心家のアビゲイルがスルリと入り込み、愛人の座も奪い取る。
アビゲイルは同時にトーリー党を率いるロバート・ハーレーとも関係を深め、両者の対立は政界を巻き込み激化してゆくのだ。
権謀術数渦巻く物語のノリ的には、まさしく時代劇の大奥物の西洋版の趣。
病や流産で17人の子供を失った女王は、17羽のウサギを飼い溺愛しているのだけど、この象徴的な使い方も巧み。
サラに勝利したアビゲイルが、女王の死角でそれまで可愛がっているフリをしていたウサギを、ジワリと踏みつけるのは本当にコワイ。
欲望剥き出し、本当にバチバチの火花が見えそうな、3人の名女優の三つ巴の演技合戦だけでお腹一杯だ。
しかし小市民としては、金と権力はあっても、あんなストレス溜まりそうな生活は嫌だな。
今回は、女王は女王でもカクテルの女王「マンハッタン」をチョイス。
カナディアン・ウィスキー45ml、スウィート・ベルモット15ml、アンゴスチュラ・ビターズ1dashをミキシンググラスでステアし、カクテルグラスに注いだ後ピンに刺したマラスキーノチェリーを沈めて完成。
このカクテルは英国にも縁があって、後の英国首相ウィンストン・チャーチルの母、ジェロニー・ジェロームが1876年の大統領選挙の時に、マンハッタン・クラブで開かれた民主党候補の応援パーティの時に、即興で作ったカクテルが後にマンハッタンと呼ばれる様になったという説がある。
ルビー色の美しい佇まいは、正にカクテルの女王、大人のお酒である。



2019年03月02日 (土) | 編集 |
自分を信じて飛べ!
「スタイダーマン」シリーズの最高傑作が爆誕。
しかもそれは、ピーター・パーカーを主人公とした実写シリーズからではなく、彼の死後図らずも二代目となった未熟な新米スパイディ、マイルスを主人公にしたスピンオフ的なアニメーション作品なのである。
アニメーションでしか表現し得ない、誰も見たことない驚きの世界がスクリーン結実し、煮えたぎる創作の熱がほとばしる。
物語の展開は、スピーディーでエモーショナル。
目くるめく映像は膨大な情報量を持ち、一瞬たりとも脇見を許さない。
「LEGO ムービー」のフィル・ロードとクリス・ミラーがプロデュースし、ロードとロドニー・ロスマンが脚本を担当。
共同監督を務めるのはロスマン、ピーター・ラムジー、ボブ・ペルシケッティ。
長年にわたるディズニー・ピクサーの牙城を崩し、本年度アカデミー長編アニメーション映画賞を受賞した話題作だ。
ニューヨークに暮らすマイルス・モラレス(シャメイク・ムーア)は、叔父のアーロン(マハーシャラ・アリ)と地下のトンネルで趣味のグラフィティアートを描いている時、突然変異したクモに噛まれ、スパイダーマンの能力を得る。
自分の変化に戸惑うマイルスだったが、ある夜キングピン(リーヴ・シュレイバー)たちが加速器を使って、多次元宇宙への扉を開く実験をしているところに出くわしてしまう。
そこへピーター・パーカーが現れ、なんとか実験を途中で阻止するが、大怪我を負ったピーターは、加速器を破壊するためのメモリースティックをマイルスに渡して絶命する。
キングピンが加速器を直し、実験を再開すれば今度こそ次元の衝突が起こって街は滅びる。
スパイダーマンの死のニュースに、ニューヨーク中が悲しみにくれる中、マイルスは二代目となるための訓練を始めるが、なかなか上手くいかずにメモリースティックを壊してしまう。
落ち込むマイルスの前に、ピーター・パーカーそっくりだが、どこかが違う男が現れる。
彼の名はピーター・B・パーカー(ジェイク・ジョンソン)。
キングピンの実験の影響を受けて、他の宇宙から飛ばされてきた、もう一人のスパイダーマンだった・・・
過去のシリーズと違って、今回は「スパイダーバース」というくらいなのでチーム戦。
ピーター・パーカー亡き後、一人でキングピンの実験を阻止する羽目になったマイルスの元へ、平行宇宙から個性豊かな五人のスパイダーマンが現れる。
この世界のピーター・パーカーに似ているが、くたびれたメタボ中年となったピーター・B・パーカーに、スパイダー・グウェンことグウェン・ステイシー。
さらには過去世界からはスパイダーマン・ノワール、未来のニューヨークからはスパイダー・ロボットのSP//drを操る日系少女のペニー・パーカー、そしてなぜかコミカルなブタの姿をしたスパイダー・ハムことピーター・ポーカー。
マイルスを含めた六人ものスパイディと戦うのだから、敵もボスキャラのキングピンを筆頭に、お馴染みヴィランズが大集合。
プロウラーにグリーン・ゴブリン、ドクター・オクトパスにスコーピオンにトゥームストーンが、それぞれの能力を生かしてスパイディ・チームとバトルを繰り広げるのだから、ある意味「アベンジャーズ」より豪華だぞコレは。
圧倒的な未見性を生み出しているのは、まるでコミックがそのまま動き出した様な、奇抜なビジュアルだ。
コミック的表現にトライした作品は、過去にもあった。
しかしその自由さ、クオリティとバリエーション、そして何と言っても映像センスにおいて本作は次元が違う。
コマ割りやドット、漫符や音喩といった、あらゆるコミック的手法が、リミテッド調のキャラクターアニメーションとカッティング、様々なビジュアル・エフェクトという映像ならではの要素と融合し、まるで自分が目の前ので展開するカラフルなコミック世界に入り込んだような感覚。
フィル・ロードは、「LEGO ムービー」でも新しい表現手法を見事にドラマに落とし込み、生かしきっていたが、今回もその特質は存分に発揮されている。
これを隅々まで味わい尽くすためには、可能な限り大きなスクリーンでの3D上映で前の方の席、できればIMAX3Dがオススメだ。
スパイダーマンたちが元いた世界によって、絵柄が異なっているのも面白い。
中心になるマイルス、ピーター・B、グウェンの三人は基本的に同じ世界観、同じタッチで描かれているのだが、過去から来たスパイダーマン・ノワールは白黒で、本人も色を認識できない(笑
日系少女のペニー・パーカーと相方のロボットは、日本のアニメ絵。
原作コミックではこの様なデザインではないので、これは完全に萌えキャラを意識したものだろう。
一人だけ二頭身で動物の姿をしているスパイダー・ハムは、日本人にはスパイダー・スーツを着たヒョウタンツギに見えて仕方がないのだが、嘗てのアメリカン・カートゥーンの世界をイメージしたキャラクターだ。
古典からアニメの萌え少女まで、全く違ったタッチのキャラクターが混じり合うカオスな世界。
しかもその混沌っぷりがムッチャカッコいいのだから、これこそ作り手のセンス・オブ・ワンダーの賜物だ。
ここには、文字通り漫画・コミック文化の宇宙がある。
もちろん、映像の力だけで魅せる映画ではない。
平行宇宙の設定を活かした、コミカルでダイナミックなアクションは楽しいが、物語のコアの部分には今までのシリーズと同様の「大いなる力には、大いなる責任が伴う」のテーマが継承され、マイルスの成長と共に描かれている。
超常の力を得た後も、マイルス自身はむしろその力を呪いのように感じ、スパイダーマンにはなりたくないと思っているのだが、状況がそれを許さない。
もしもキングピンが再実験をすれば、彼の愛する人たちが皆消えてしまうのだ。
親子の確執を抱えたマイルスの父親は警察官、母親はナースと共に人を助ける仕事をしているのも、彼の行動原理の源を感じさせる。
また父親はアフリカ系、母親はプエルトリコ出身という人種設定も、オリジナルのピーター・パーカーのシリーズとは対照的で、世界観の広がりに繋がっている。
物語の終盤に、マイルスがある大切な人物を喪失する試練も、「大いなる責任」を背負う覚悟の必要を強く認識させる。
いつも靴紐のほどけたマイルスのスニーカーが「エア・ジョーダン」だったり、細かな遊び心もいい。
全てをゼロから作り上げるアニメーションの世界では、画面に映る全てのことに意味があるのだ。
キングピンが異次元の扉を開けようとする訳も切ないのだが、彼の動機付けはちょっと「ベイマックス」のキャラハン博士を思い出した。
喪失にどう向き合うかは、本作の重要なサブテーマとなっている。
「スパイダーマン:スパイダーバース」は、これまたセンス良く“説明”をしてくれるので、実写シリーズを観たことがなくても十分に楽しめる。
今年のアカデミー賞の長編アニメーション映画賞の候補作はどれも素晴らしかったが、やはりアートとテクノロジーが融合した新しさは本作がダントツだった。
本作の大ヒットを受けて、早くも続編のプリプロダクションが始動した様だが、ちょっと頼りない二代目マイルスがどう成長してゆくのか、今から凄く楽しみだ。
そのうち、トム・ホランド主演の実写シリーズや、「ヴェノム」とも絡んできても面白いかも。
平行宇宙設定なら、ある意味なんでもアリな訳だし。
ちなみにメイおばさんのキャラクターが元のシリーズとはだいぶ違って、バットマンのアルフレッドみたいになっていて、ピーター・パーカーの秘密基地がブルース・ウェインかトニー・スタークかの様な凄いことになっているのだが、あの財力は一体どこから来たのか(笑
今回はスパイダー・グウェンのイメージで「ホワイト・スパイダー」をチョイス。
冷やしたウォッカ40ml、ホワイト・ペパーミント20mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
ペパーミントの香りが爽やかで、氷を思わせる見た目もクールで美しい。
気分をスッキリさせてくれる、美味しいカクテルだ。
記事が気に入ったらクリックしてね
「スタイダーマン」シリーズの最高傑作が爆誕。
しかもそれは、ピーター・パーカーを主人公とした実写シリーズからではなく、彼の死後図らずも二代目となった未熟な新米スパイディ、マイルスを主人公にしたスピンオフ的なアニメーション作品なのである。
アニメーションでしか表現し得ない、誰も見たことない驚きの世界がスクリーン結実し、煮えたぎる創作の熱がほとばしる。
物語の展開は、スピーディーでエモーショナル。
目くるめく映像は膨大な情報量を持ち、一瞬たりとも脇見を許さない。
「LEGO ムービー」のフィル・ロードとクリス・ミラーがプロデュースし、ロードとロドニー・ロスマンが脚本を担当。
共同監督を務めるのはロスマン、ピーター・ラムジー、ボブ・ペルシケッティ。
長年にわたるディズニー・ピクサーの牙城を崩し、本年度アカデミー長編アニメーション映画賞を受賞した話題作だ。
ニューヨークに暮らすマイルス・モラレス(シャメイク・ムーア)は、叔父のアーロン(マハーシャラ・アリ)と地下のトンネルで趣味のグラフィティアートを描いている時、突然変異したクモに噛まれ、スパイダーマンの能力を得る。
自分の変化に戸惑うマイルスだったが、ある夜キングピン(リーヴ・シュレイバー)たちが加速器を使って、多次元宇宙への扉を開く実験をしているところに出くわしてしまう。
そこへピーター・パーカーが現れ、なんとか実験を途中で阻止するが、大怪我を負ったピーターは、加速器を破壊するためのメモリースティックをマイルスに渡して絶命する。
キングピンが加速器を直し、実験を再開すれば今度こそ次元の衝突が起こって街は滅びる。
スパイダーマンの死のニュースに、ニューヨーク中が悲しみにくれる中、マイルスは二代目となるための訓練を始めるが、なかなか上手くいかずにメモリースティックを壊してしまう。
落ち込むマイルスの前に、ピーター・パーカーそっくりだが、どこかが違う男が現れる。
彼の名はピーター・B・パーカー(ジェイク・ジョンソン)。
キングピンの実験の影響を受けて、他の宇宙から飛ばされてきた、もう一人のスパイダーマンだった・・・
過去のシリーズと違って、今回は「スパイダーバース」というくらいなのでチーム戦。
ピーター・パーカー亡き後、一人でキングピンの実験を阻止する羽目になったマイルスの元へ、平行宇宙から個性豊かな五人のスパイダーマンが現れる。
この世界のピーター・パーカーに似ているが、くたびれたメタボ中年となったピーター・B・パーカーに、スパイダー・グウェンことグウェン・ステイシー。
さらには過去世界からはスパイダーマン・ノワール、未来のニューヨークからはスパイダー・ロボットのSP//drを操る日系少女のペニー・パーカー、そしてなぜかコミカルなブタの姿をしたスパイダー・ハムことピーター・ポーカー。
マイルスを含めた六人ものスパイディと戦うのだから、敵もボスキャラのキングピンを筆頭に、お馴染みヴィランズが大集合。
プロウラーにグリーン・ゴブリン、ドクター・オクトパスにスコーピオンにトゥームストーンが、それぞれの能力を生かしてスパイディ・チームとバトルを繰り広げるのだから、ある意味「アベンジャーズ」より豪華だぞコレは。
圧倒的な未見性を生み出しているのは、まるでコミックがそのまま動き出した様な、奇抜なビジュアルだ。
コミック的表現にトライした作品は、過去にもあった。
しかしその自由さ、クオリティとバリエーション、そして何と言っても映像センスにおいて本作は次元が違う。
コマ割りやドット、漫符や音喩といった、あらゆるコミック的手法が、リミテッド調のキャラクターアニメーションとカッティング、様々なビジュアル・エフェクトという映像ならではの要素と融合し、まるで自分が目の前ので展開するカラフルなコミック世界に入り込んだような感覚。
フィル・ロードは、「LEGO ムービー」でも新しい表現手法を見事にドラマに落とし込み、生かしきっていたが、今回もその特質は存分に発揮されている。
これを隅々まで味わい尽くすためには、可能な限り大きなスクリーンでの3D上映で前の方の席、できればIMAX3Dがオススメだ。
スパイダーマンたちが元いた世界によって、絵柄が異なっているのも面白い。
中心になるマイルス、ピーター・B、グウェンの三人は基本的に同じ世界観、同じタッチで描かれているのだが、過去から来たスパイダーマン・ノワールは白黒で、本人も色を認識できない(笑
日系少女のペニー・パーカーと相方のロボットは、日本のアニメ絵。
原作コミックではこの様なデザインではないので、これは完全に萌えキャラを意識したものだろう。
一人だけ二頭身で動物の姿をしているスパイダー・ハムは、日本人にはスパイダー・スーツを着たヒョウタンツギに見えて仕方がないのだが、嘗てのアメリカン・カートゥーンの世界をイメージしたキャラクターだ。
古典からアニメの萌え少女まで、全く違ったタッチのキャラクターが混じり合うカオスな世界。
しかもその混沌っぷりがムッチャカッコいいのだから、これこそ作り手のセンス・オブ・ワンダーの賜物だ。
ここには、文字通り漫画・コミック文化の宇宙がある。
もちろん、映像の力だけで魅せる映画ではない。
平行宇宙の設定を活かした、コミカルでダイナミックなアクションは楽しいが、物語のコアの部分には今までのシリーズと同様の「大いなる力には、大いなる責任が伴う」のテーマが継承され、マイルスの成長と共に描かれている。
超常の力を得た後も、マイルス自身はむしろその力を呪いのように感じ、スパイダーマンにはなりたくないと思っているのだが、状況がそれを許さない。
もしもキングピンが再実験をすれば、彼の愛する人たちが皆消えてしまうのだ。
親子の確執を抱えたマイルスの父親は警察官、母親はナースと共に人を助ける仕事をしているのも、彼の行動原理の源を感じさせる。
また父親はアフリカ系、母親はプエルトリコ出身という人種設定も、オリジナルのピーター・パーカーのシリーズとは対照的で、世界観の広がりに繋がっている。
物語の終盤に、マイルスがある大切な人物を喪失する試練も、「大いなる責任」を背負う覚悟の必要を強く認識させる。
いつも靴紐のほどけたマイルスのスニーカーが「エア・ジョーダン」だったり、細かな遊び心もいい。
全てをゼロから作り上げるアニメーションの世界では、画面に映る全てのことに意味があるのだ。
キングピンが異次元の扉を開けようとする訳も切ないのだが、彼の動機付けはちょっと「ベイマックス」のキャラハン博士を思い出した。
喪失にどう向き合うかは、本作の重要なサブテーマとなっている。
「スパイダーマン:スパイダーバース」は、これまたセンス良く“説明”をしてくれるので、実写シリーズを観たことがなくても十分に楽しめる。
今年のアカデミー賞の長編アニメーション映画賞の候補作はどれも素晴らしかったが、やはりアートとテクノロジーが融合した新しさは本作がダントツだった。
本作の大ヒットを受けて、早くも続編のプリプロダクションが始動した様だが、ちょっと頼りない二代目マイルスがどう成長してゆくのか、今から凄く楽しみだ。
そのうち、トム・ホランド主演の実写シリーズや、「ヴェノム」とも絡んできても面白いかも。
平行宇宙設定なら、ある意味なんでもアリな訳だし。
ちなみにメイおばさんのキャラクターが元のシリーズとはだいぶ違って、バットマンのアルフレッドみたいになっていて、ピーター・パーカーの秘密基地がブルース・ウェインかトニー・スタークかの様な凄いことになっているのだが、あの財力は一体どこから来たのか(笑
今回はスパイダー・グウェンのイメージで「ホワイト・スパイダー」をチョイス。
冷やしたウォッカ40ml、ホワイト・ペパーミント20mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
ペパーミントの香りが爽やかで、氷を思わせる見た目もクールで美しい。
気分をスッキリさせてくれる、美味しいカクテルだ。

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