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2019年04月30日 (火) | 編集 |
素晴らしき最終楽章。
京都アニメーションが、武田綾乃の人気小説を映像化した人気シリーズ最新作。
TV版「響け!ユーフォニアム」の一年後を描く続編で、山田尚子が手がけた傑作スピンオフ「リズと青い鳥」と時系列を共有する。
あの映画で、三年生になった鎧塚みぞれと傘木希美がお互いの関係について葛藤している時に、本来の主人公である二年生の黄前久美子たちは何をしていたのか?
独特の心理劇だった「リズと青い鳥」から一転、こちらは本来の熱い青春群像劇。
監督・脚本はTV版を手がけた石原立也と花田十輝のコンビに戻り、山田尚子もチーフ演出として参加している。
キャラクターデザインも、「聲の形」を思わせる淡いタッチだった「リズと青い鳥」から、TV版をブラッシュアップした見慣れたスタイルに。
TV版の第三シーズンとして作るという手もあっただろうが、あえて100分の上映時間の中に青春の濃密な時間をギュッと凝縮。
「誓いのフィナーレ」の副題通り、完結編にふさわしい見事な仕上がりとなった。
※核心部分に触れています。
全国大会への出場を果たし、強豪として名を轟かせた北宇治高校吹奏楽部。
進級し、二年生になった黄前久美子(黒沢ともよ)は、三年の加部友恵(田所あずさ)と新入部員たちの指導に当たることに。
多くの一年生が入部したが、いまいち不人気な低音パートへやってきたのは四人。
演奏技術は高いが、周囲と馴染もうとしないチューバ奏者の鈴木美玲(七瀬彩夏)。
そんな美玲と仲良くなりたくてまとわり付き、かえって引かれてしまう同じチューバの鈴木さつき(久野美咲)。
自分のことを語ろうとせず、なぜか名字を呼ばれるのを極端に嫌がるコントラバスの月永求(土屋神葉)。
そして、一見すると何の問題もなく、優れた演奏技術を持つユーフォニアムの久石奏(雨宮天)。
しかし、サンライズフェスティバル、オーディション、コンクールと季節が移り変わる中、人間関係に色々問題が発生。
演奏の練習だけでなく、一年生の心に秘めた問題にも取り組まなければならなくなった久美子は、全国大会金賞という目標を達成できるのか・・・
新年度が始まった北宇治高校吹奏楽部で、久美子が指導を担当することになった新一年生は、揃いも揃ってこじらせ気味の曲者ばかり。
友達以上、恋人未満な秀一との控えめな恋も絡ませながら、こじらせの原因を紐解いていくうちに、久美子自身の問題も含めて、それぞれの悶々とした苦悩が浮かび上がってくる。
ある者は演奏技術は高いが、人付き合いが極端に苦手で、他人との間に壁を作り、決して打ち解けようとしない。
ある者は、高名な親へのコンプレックスから、自己否定気味。
彼らの中でも特に、同じユーフォニアム担当で、久美子とは合わせ鏡の存在となる久石奏との関係が核心だ。
彼女は中学からの経験者で、技術は高く人当たりも良いものの、どこか達観した視点で皆を眺め、腹の奥には何か大きなわだかまりを隠し持っている。
吹奏楽部の活動は、基本的には体育会系の部活と同じく、全国大会を目指すコンペティション。
楽しむための部活か、勝つための部活か、すでに後者を選び、全国大会出場を果たしている久美子たちは、今度は出るだけでなく全国大会金賞、即ち高校日本一になることを目標とする。
部の中でも厳しいオーディションがあり、勝ち抜いた者だけがコンクールメンバーになるのだが、奏はそこにも学年の上下関係の忖度があるんじゃないかと言うのだ。
中学時代の奏が、二年生でコンサートメンバーに選ばれた結果、三年生で控えに回る部員がでた。
これで大会で勝ち抜けば正義。
しかし、負けると「こんなことなら三年生が出たらよかった」と陰口を言われたことで、奏は本音と建前を使い分けるようになってしまったのだ。
滝先生の元で強豪へと返り咲いた北宇治は、完全実力主義で忖度などあり得ないし、そもそもハイレベルのコンペティションの舞台で忖度などしていたら勝てない。
久美子は一年生の時に、上級生が下級生にオーディションで負け、その軋轢があとを引いたことを覚えている。
それでも、今の自分からさらなる高みを目指し、本気で音楽をやることで、その喜びも苦しみも知っているからこそ、久美子は過去の経験から可能な限り波風を立てようとしない奏をはじめとした、曲者揃いの後輩たちに正面から向き合う。
彼女の静かな熱情は、少しずつ奏たちを変えてゆき、ぶつかり合う四つの音は、いつしか北宇治の美しハーモニーを奏でるようになって行く。
そして、一年生の時とは違った葛藤を抱えた久美子自身もまた、彼らと共に成長してゆくのである。
部活生活あるあるのリアリティは、誰しもどこかで経験しているものだろう。
もちろん最終的には、吹奏楽ならではの全員の演奏によるハーモニーという、青春の熱き血潮の象徴に収束する。
コンクールの演奏シークエンスで披露されるのは、「リズと青い鳥」のフルバージョンで、みぞれと希美のソロパートも含めて圧巻の仕上がりだ。
私も以前参加したアニメーション作品で、楽器の演奏シーンをやったことがあるのだが、これが実に大変。
音楽は特に実際にやっている人が多いので、指の動きやリズムなど、忠実に再現しないとウソが簡単にバレてしまうのだ。
これだけの人数の演奏シーンは、手間を考えただけでも頭が痛くなってくるが、その努力は十分に報われていると思う。
物語の終わりの時点で、久美子はまだ一年高校生活を残しているが、彼女にとって吹奏楽部で演奏することの意味が明確に描かれた以上、三年生の話を作ったとしても、おそらくはあまり違いはないだろう。
タイトル通りに本作を持って、一応の完結と捉えたい。
面白い効果を生んでいるのが、劇中に頻繁に挿入される、登場人物たちが部活の日常を撮ったスマホの動画だ。
こういったものは、撮ってすぐ見るのではなく、思い出として保存されるもの。
ビスタ画面を縦長に切り取るスマホの画面が、目の前で展開している物語の過去性を強めているのである。
青春は長い人生の一瞬であり、どんなに輝かしくても永遠には続かない。
スピンオフの「リズと青い鳥」は、その一瞬の現在性にとことん拘り、未来の別れを恐れる話だったが、こちらは唐突に挿入されるスマホ動画の部分により、映画全体が未来のいずれかの時点で再生されているのだろうな、という逆の時間感覚が強調される。
この辺りの違いはまだ30代と若い山田尚子と、50代のベテランの石原立也の“青春”という時間に対する視点の置き方の差かもしれない。
視点がノスタルジックだからこそ、青春の熱はより強くスクリーンから照りつける。
「リズと青い鳥」がカフェで味わうビタースイートな創作ケーキだとすれば、こちらは合宿バスで食べる青春がモリモリ全部入りの幕の内弁当だ。
この二本は、裏表の二部作として、セットで味わうべき作品だろう。
あー高校時代に戻りたい。部活やりたい。恋したい。
キラキラの若さが眩し過ぎるわ!
今回は、音楽ものということで、ココファーム・ワイナリーの「第一楽章」2014年をチョイス。
自社畑のマスカットベリーA100%から作られる、辛口でミディアムボディの赤。
ベリー系の複雑な果実香、口当たりは穏やかで、しっかりとした酸味とコクが味わえる。
肉料理との相性が抜群。
ココファームでは比較的高めのワインだが、その価値は十分に感じられる。
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京都アニメーションが、武田綾乃の人気小説を映像化した人気シリーズ最新作。
TV版「響け!ユーフォニアム」の一年後を描く続編で、山田尚子が手がけた傑作スピンオフ「リズと青い鳥」と時系列を共有する。
あの映画で、三年生になった鎧塚みぞれと傘木希美がお互いの関係について葛藤している時に、本来の主人公である二年生の黄前久美子たちは何をしていたのか?
独特の心理劇だった「リズと青い鳥」から一転、こちらは本来の熱い青春群像劇。
監督・脚本はTV版を手がけた石原立也と花田十輝のコンビに戻り、山田尚子もチーフ演出として参加している。
キャラクターデザインも、「聲の形」を思わせる淡いタッチだった「リズと青い鳥」から、TV版をブラッシュアップした見慣れたスタイルに。
TV版の第三シーズンとして作るという手もあっただろうが、あえて100分の上映時間の中に青春の濃密な時間をギュッと凝縮。
「誓いのフィナーレ」の副題通り、完結編にふさわしい見事な仕上がりとなった。
※核心部分に触れています。
全国大会への出場を果たし、強豪として名を轟かせた北宇治高校吹奏楽部。
進級し、二年生になった黄前久美子(黒沢ともよ)は、三年の加部友恵(田所あずさ)と新入部員たちの指導に当たることに。
多くの一年生が入部したが、いまいち不人気な低音パートへやってきたのは四人。
演奏技術は高いが、周囲と馴染もうとしないチューバ奏者の鈴木美玲(七瀬彩夏)。
そんな美玲と仲良くなりたくてまとわり付き、かえって引かれてしまう同じチューバの鈴木さつき(久野美咲)。
自分のことを語ろうとせず、なぜか名字を呼ばれるのを極端に嫌がるコントラバスの月永求(土屋神葉)。
そして、一見すると何の問題もなく、優れた演奏技術を持つユーフォニアムの久石奏(雨宮天)。
しかし、サンライズフェスティバル、オーディション、コンクールと季節が移り変わる中、人間関係に色々問題が発生。
演奏の練習だけでなく、一年生の心に秘めた問題にも取り組まなければならなくなった久美子は、全国大会金賞という目標を達成できるのか・・・
新年度が始まった北宇治高校吹奏楽部で、久美子が指導を担当することになった新一年生は、揃いも揃ってこじらせ気味の曲者ばかり。
友達以上、恋人未満な秀一との控えめな恋も絡ませながら、こじらせの原因を紐解いていくうちに、久美子自身の問題も含めて、それぞれの悶々とした苦悩が浮かび上がってくる。
ある者は演奏技術は高いが、人付き合いが極端に苦手で、他人との間に壁を作り、決して打ち解けようとしない。
ある者は、高名な親へのコンプレックスから、自己否定気味。
彼らの中でも特に、同じユーフォニアム担当で、久美子とは合わせ鏡の存在となる久石奏との関係が核心だ。
彼女は中学からの経験者で、技術は高く人当たりも良いものの、どこか達観した視点で皆を眺め、腹の奥には何か大きなわだかまりを隠し持っている。
吹奏楽部の活動は、基本的には体育会系の部活と同じく、全国大会を目指すコンペティション。
楽しむための部活か、勝つための部活か、すでに後者を選び、全国大会出場を果たしている久美子たちは、今度は出るだけでなく全国大会金賞、即ち高校日本一になることを目標とする。
部の中でも厳しいオーディションがあり、勝ち抜いた者だけがコンクールメンバーになるのだが、奏はそこにも学年の上下関係の忖度があるんじゃないかと言うのだ。
中学時代の奏が、二年生でコンサートメンバーに選ばれた結果、三年生で控えに回る部員がでた。
これで大会で勝ち抜けば正義。
しかし、負けると「こんなことなら三年生が出たらよかった」と陰口を言われたことで、奏は本音と建前を使い分けるようになってしまったのだ。
滝先生の元で強豪へと返り咲いた北宇治は、完全実力主義で忖度などあり得ないし、そもそもハイレベルのコンペティションの舞台で忖度などしていたら勝てない。
久美子は一年生の時に、上級生が下級生にオーディションで負け、その軋轢があとを引いたことを覚えている。
それでも、今の自分からさらなる高みを目指し、本気で音楽をやることで、その喜びも苦しみも知っているからこそ、久美子は過去の経験から可能な限り波風を立てようとしない奏をはじめとした、曲者揃いの後輩たちに正面から向き合う。
彼女の静かな熱情は、少しずつ奏たちを変えてゆき、ぶつかり合う四つの音は、いつしか北宇治の美しハーモニーを奏でるようになって行く。
そして、一年生の時とは違った葛藤を抱えた久美子自身もまた、彼らと共に成長してゆくのである。
部活生活あるあるのリアリティは、誰しもどこかで経験しているものだろう。
もちろん最終的には、吹奏楽ならではの全員の演奏によるハーモニーという、青春の熱き血潮の象徴に収束する。
コンクールの演奏シークエンスで披露されるのは、「リズと青い鳥」のフルバージョンで、みぞれと希美のソロパートも含めて圧巻の仕上がりだ。
私も以前参加したアニメーション作品で、楽器の演奏シーンをやったことがあるのだが、これが実に大変。
音楽は特に実際にやっている人が多いので、指の動きやリズムなど、忠実に再現しないとウソが簡単にバレてしまうのだ。
これだけの人数の演奏シーンは、手間を考えただけでも頭が痛くなってくるが、その努力は十分に報われていると思う。
物語の終わりの時点で、久美子はまだ一年高校生活を残しているが、彼女にとって吹奏楽部で演奏することの意味が明確に描かれた以上、三年生の話を作ったとしても、おそらくはあまり違いはないだろう。
タイトル通りに本作を持って、一応の完結と捉えたい。
面白い効果を生んでいるのが、劇中に頻繁に挿入される、登場人物たちが部活の日常を撮ったスマホの動画だ。
こういったものは、撮ってすぐ見るのではなく、思い出として保存されるもの。
ビスタ画面を縦長に切り取るスマホの画面が、目の前で展開している物語の過去性を強めているのである。
青春は長い人生の一瞬であり、どんなに輝かしくても永遠には続かない。
スピンオフの「リズと青い鳥」は、その一瞬の現在性にとことん拘り、未来の別れを恐れる話だったが、こちらは唐突に挿入されるスマホ動画の部分により、映画全体が未来のいずれかの時点で再生されているのだろうな、という逆の時間感覚が強調される。
この辺りの違いはまだ30代と若い山田尚子と、50代のベテランの石原立也の“青春”という時間に対する視点の置き方の差かもしれない。
視点がノスタルジックだからこそ、青春の熱はより強くスクリーンから照りつける。
「リズと青い鳥」がカフェで味わうビタースイートな創作ケーキだとすれば、こちらは合宿バスで食べる青春がモリモリ全部入りの幕の内弁当だ。
この二本は、裏表の二部作として、セットで味わうべき作品だろう。
あー高校時代に戻りたい。部活やりたい。恋したい。
キラキラの若さが眩し過ぎるわ!
今回は、音楽ものということで、ココファーム・ワイナリーの「第一楽章」2014年をチョイス。
自社畑のマスカットベリーA100%から作られる、辛口でミディアムボディの赤。
ベリー系の複雑な果実香、口当たりは穏やかで、しっかりとした酸味とコクが味わえる。
肉料理との相性が抜群。
ココファームでは比較的高めのワインだが、その価値は十分に感じられる。

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2019年04月29日 (月) | 編集 |
スーパーヒーローは厨二病。
これは実に楽しい映画だ。
年老いた最強魔法使いから、「シャザム!」と唱えるとスーパーヒーローへ変身する能力を受け継いだ男子中学生が、調子に乗って仲間と人気YouTuberに。
しかし、彼を付け狙う狙うスーパーヴィランがいて・・・という話。
変身すると体は大人でも、中身は14歳の子供。
このギャップが生み出す笑いが、たまらなく可笑しい。
同じアメコミ映画でも「アベンジャーズ/エンドゲーム」が重厚長大の極致だとすれば、こちらはいい意味で軽薄短小のお気軽さ。
でも実は物語の方も相当に良くできていて、大人の鑑賞にもしっかりと耐える。
監督は、闇の中だけで具現化するオバケを描いたホラー映画、「ライト/オフ」で注目を浴びたデヴィッド・F・サンドバーグ。
DCエクステンデッド・ユニバース(DCEU)的には、今までいなかった、お笑い担当のスーパーヒーローの誕生だ。
※核心部分に触れています。
幼い頃に母親と生き別れになり、孤児として育った14歳のビリー・バットソン(アッシャー・エンジェル)は、新たな里親の元でグループホームに入居する。
そこでは足が不自由でヒーローオタクのフレディ(ジャック・ディラン・グレイザー)、大学進学に悩むメアリー(グレイス・フルトン)、誰にでもハグするダーラ(フェイス・ハーマン)、ゲームの達人ユージーン(イアン・チェン)、全く喋らないペドロ(ジョパン・アルマンド)といったワケありの子供達が暮らしていた。
ある日、フレディを庇っていじめっ子に殴りかかったビリーは、地下鉄に逃げ込む。
すると突然他の乗客が消え、ビリーは謎めいた地下の神殿に召喚されると、年老いた魔術師シャザム(ジャイモン・フンスー)から、自分の能力を受け継ぐスーパーヒーローになれと迫られる。
ビリーが呪文を唱えると魔術師は消え、後には大人の姿のスーパーヒーロー、シャザム(ザッカリー・リーヴァイ)となったビリーが残される。
焦ったビリーは、フレディに助けを求め、偶然「シャザム!」と唱えることで元の姿に戻れることを発見。
調子に乗った二人は、能力をイタズラに使い、それをYouTubeにアップすることを思いつく。
一躍街の人気者となるシャザムだったが、憎しみのこもった目で彼らを見つめている男がいた・・・
「シャザム!(S.H.A.Z.A.M.)」という変身呪文は、Solomon(ソロモン)の知恵、Hercules(ヘラクレス)の剛力、Atlas(アトラス)のスタミナ、Zeus(ゼウス)の万能、Achilles(アキレス)の勇気、Mercury(マーキュリー)の神速の頭文字を並べたもの。
なるほど、これらの能力を全部発揮できれば、そりゃスーパーマン並みの凄いヒーローになるだろう。
しかし、呪文を唱えて変身しても、肉体だけは大人になるのだけど、中身は幼い頃に消えたママへの思いをこじらせた厨二のまま。
ノリで強盗をやっつけて調子に乗ると、フレディと連んで放電能力を使ってATMをぶっ壊したり、能力をYouTubeにアップして目立ちまくり、やりたい放題。
ちょっと面白いのは、このキャラクターがもともと「キャプテン・マーベル」という名だったと言うこと。
原作は、フォーセット・コミックという会社から、当時大人気だったスーパーマンの二匹目のドジョウを狙い、1940年に出版されるも、その後人気の低迷で50年代には一時表舞台から消える。
その後72年に版権のみがDCに移ったのだが、その時はすでにマーベル・コミックからキャプテン・マーベルが商標登録されていたので、「シャザム」に改名されたという数奇な歴史を持つ。
ちなみにマーベル・コミックの設立は、フォーセット・コミックと同じ1939年で、マーベル版のキャプテン・マーベルの初登場は、1967年だ。
このキャラクターの特徴は、やはりスーパーヒーローと中の人が子供だと言うことだろう。
子供のヒーローというと、日本では藤子不二雄のパーマンあたりが思い浮かぶが、基本的には子供は子供のまま。
MCUのスパイディや、DCEUのフラッシュも若いが、流石に中学生ではない。
しかしシャザムの場合は、なぜか変身すると激ダサのコスチュームに身を包んだ、ザッカリー・リーヴァイが演じるおっさんのルックスになってしまうのである。
「ぶっ飛んだ格好をしているおっさんが、物凄く子供っぽいことをする」というのが本作の面白さを作り出す核心だ。
しかし、それだけならただのおバカ映画で終わってしまう。
本作の場合は、実は一人で生き別れの母親を探し続けているビリーの複雑な感情を軸に、足の不自由なフレディ、大学進学を諦めようとしているメアリーら、れぞれに大小の葛藤を抱えた子供たちの成長を、物語の推進力としているのである。
マーク・ストロング演じるヴィラン、Dr.サデウスの方は、「Mr.インクレディブル」のシンドロームを思わせる設定で、全体を“ファミリー”の話にしているあたりも共通点が見える。
彼は少年時代に、一度は魔術師シャザムにスーパーヒーロー候補として選ばれながら、神殿に幽閉されている“七つの大罪”の魔物たちに誘惑され、不合格となったことから逆恨み。
以来、大人になっても秘密の神殿の場所を探し続け、“七つの大罪”を解き放って、自らに憑依させることで、魔術師に匹敵する力を得る。
魔術師シャザムの方は、彼を止めるためにも、新しい継承者が必要だったという訳。
まあビリーも能力を得た後、結構悪いことやってるので、あんまり品行方正とは言えないが、もっと心の奥底の部分での“正さ”を重視したということだろう。
作劇的に上手いのは、ビリーを里親を転々としてる孤児、サデウスを親に見放された息子に設定し、孤独の鏡像としてること。
ビリーは母親とは逸れただけで、何らかの事情があって母親は自分を見つけられないのだと思っているのだが、物語の中盤に経済的理由によって捨てられたことが明らかになる。
一方、Dr.サデウスは子供の頃から出来の良い兄と比較され、厳格な父親からは出来損ないとして疎まれて育ってきた。
二人は年齢こそ違えど、共に親に見放され、愛を知らずに育った孤独な子なのである。
違いは、今のビリーには同じ孤独を共有し、お互いに必要としている血の繋がらない“家族”がいること。
この構造から、ビリーとサデウスの選択の違いがテーマを導き出す。
基本コメディとは言っても、そこはDCEU。
プチ「マン・オブ・スティール」的クライマックスは、結構派手だしスペクタクルだ。
サデウスに憑依している魔物はそれぞれ分離して戦えるので、実質7対1。
数的不利を覆すシャザムの秘策は、途中で簡単に読めるけど、物語の帰結する結果として納得できる展開なので、むしろ「待ってました!」と言うワクワク感がある。
根無し草の少年が、本当の家族、本当の居場所を見つけるドラマとしても見事な幕切れ。
作品カラーからも独立色が強く、始めからヒーローが実在する世界観以外に、DCEUを思わせる部分は無かったのだが、オチを見ると次回はガッツリ絡んできそう。
おとなこどもが主人公ということで、甘めの飲みやすいカクテル「マルティーニ・ロッソ トニック」をチョイス。
氷を入れたグラスに、マルティーニ・ロッソ60mlと適量のトニック・ウォーターを注ぎ、軽くステアしてオレンジのスライスを添えて完成。
イタリアを代表するベルモットの赤、マルティーニ・ロッソの果実感とハーブの香りが特徴。
甘めでアルコール度数も低く、強いお酒が苦手な人も楽しめる。
記事が気に入ったらクリックしてね
これは実に楽しい映画だ。
年老いた最強魔法使いから、「シャザム!」と唱えるとスーパーヒーローへ変身する能力を受け継いだ男子中学生が、調子に乗って仲間と人気YouTuberに。
しかし、彼を付け狙う狙うスーパーヴィランがいて・・・という話。
変身すると体は大人でも、中身は14歳の子供。
このギャップが生み出す笑いが、たまらなく可笑しい。
同じアメコミ映画でも「アベンジャーズ/エンドゲーム」が重厚長大の極致だとすれば、こちらはいい意味で軽薄短小のお気軽さ。
でも実は物語の方も相当に良くできていて、大人の鑑賞にもしっかりと耐える。
監督は、闇の中だけで具現化するオバケを描いたホラー映画、「ライト/オフ」で注目を浴びたデヴィッド・F・サンドバーグ。
DCエクステンデッド・ユニバース(DCEU)的には、今までいなかった、お笑い担当のスーパーヒーローの誕生だ。
※核心部分に触れています。
幼い頃に母親と生き別れになり、孤児として育った14歳のビリー・バットソン(アッシャー・エンジェル)は、新たな里親の元でグループホームに入居する。
そこでは足が不自由でヒーローオタクのフレディ(ジャック・ディラン・グレイザー)、大学進学に悩むメアリー(グレイス・フルトン)、誰にでもハグするダーラ(フェイス・ハーマン)、ゲームの達人ユージーン(イアン・チェン)、全く喋らないペドロ(ジョパン・アルマンド)といったワケありの子供達が暮らしていた。
ある日、フレディを庇っていじめっ子に殴りかかったビリーは、地下鉄に逃げ込む。
すると突然他の乗客が消え、ビリーは謎めいた地下の神殿に召喚されると、年老いた魔術師シャザム(ジャイモン・フンスー)から、自分の能力を受け継ぐスーパーヒーローになれと迫られる。
ビリーが呪文を唱えると魔術師は消え、後には大人の姿のスーパーヒーロー、シャザム(ザッカリー・リーヴァイ)となったビリーが残される。
焦ったビリーは、フレディに助けを求め、偶然「シャザム!」と唱えることで元の姿に戻れることを発見。
調子に乗った二人は、能力をイタズラに使い、それをYouTubeにアップすることを思いつく。
一躍街の人気者となるシャザムだったが、憎しみのこもった目で彼らを見つめている男がいた・・・
「シャザム!(S.H.A.Z.A.M.)」という変身呪文は、Solomon(ソロモン)の知恵、Hercules(ヘラクレス)の剛力、Atlas(アトラス)のスタミナ、Zeus(ゼウス)の万能、Achilles(アキレス)の勇気、Mercury(マーキュリー)の神速の頭文字を並べたもの。
なるほど、これらの能力を全部発揮できれば、そりゃスーパーマン並みの凄いヒーローになるだろう。
しかし、呪文を唱えて変身しても、肉体だけは大人になるのだけど、中身は幼い頃に消えたママへの思いをこじらせた厨二のまま。
ノリで強盗をやっつけて調子に乗ると、フレディと連んで放電能力を使ってATMをぶっ壊したり、能力をYouTubeにアップして目立ちまくり、やりたい放題。
ちょっと面白いのは、このキャラクターがもともと「キャプテン・マーベル」という名だったと言うこと。
原作は、フォーセット・コミックという会社から、当時大人気だったスーパーマンの二匹目のドジョウを狙い、1940年に出版されるも、その後人気の低迷で50年代には一時表舞台から消える。
その後72年に版権のみがDCに移ったのだが、その時はすでにマーベル・コミックからキャプテン・マーベルが商標登録されていたので、「シャザム」に改名されたという数奇な歴史を持つ。
ちなみにマーベル・コミックの設立は、フォーセット・コミックと同じ1939年で、マーベル版のキャプテン・マーベルの初登場は、1967年だ。
このキャラクターの特徴は、やはりスーパーヒーローと中の人が子供だと言うことだろう。
子供のヒーローというと、日本では藤子不二雄のパーマンあたりが思い浮かぶが、基本的には子供は子供のまま。
MCUのスパイディや、DCEUのフラッシュも若いが、流石に中学生ではない。
しかしシャザムの場合は、なぜか変身すると激ダサのコスチュームに身を包んだ、ザッカリー・リーヴァイが演じるおっさんのルックスになってしまうのである。
「ぶっ飛んだ格好をしているおっさんが、物凄く子供っぽいことをする」というのが本作の面白さを作り出す核心だ。
しかし、それだけならただのおバカ映画で終わってしまう。
本作の場合は、実は一人で生き別れの母親を探し続けているビリーの複雑な感情を軸に、足の不自由なフレディ、大学進学を諦めようとしているメアリーら、れぞれに大小の葛藤を抱えた子供たちの成長を、物語の推進力としているのである。
マーク・ストロング演じるヴィラン、Dr.サデウスの方は、「Mr.インクレディブル」のシンドロームを思わせる設定で、全体を“ファミリー”の話にしているあたりも共通点が見える。
彼は少年時代に、一度は魔術師シャザムにスーパーヒーロー候補として選ばれながら、神殿に幽閉されている“七つの大罪”の魔物たちに誘惑され、不合格となったことから逆恨み。
以来、大人になっても秘密の神殿の場所を探し続け、“七つの大罪”を解き放って、自らに憑依させることで、魔術師に匹敵する力を得る。
魔術師シャザムの方は、彼を止めるためにも、新しい継承者が必要だったという訳。
まあビリーも能力を得た後、結構悪いことやってるので、あんまり品行方正とは言えないが、もっと心の奥底の部分での“正さ”を重視したということだろう。
作劇的に上手いのは、ビリーを里親を転々としてる孤児、サデウスを親に見放された息子に設定し、孤独の鏡像としてること。
ビリーは母親とは逸れただけで、何らかの事情があって母親は自分を見つけられないのだと思っているのだが、物語の中盤に経済的理由によって捨てられたことが明らかになる。
一方、Dr.サデウスは子供の頃から出来の良い兄と比較され、厳格な父親からは出来損ないとして疎まれて育ってきた。
二人は年齢こそ違えど、共に親に見放され、愛を知らずに育った孤独な子なのである。
違いは、今のビリーには同じ孤独を共有し、お互いに必要としている血の繋がらない“家族”がいること。
この構造から、ビリーとサデウスの選択の違いがテーマを導き出す。
基本コメディとは言っても、そこはDCEU。
プチ「マン・オブ・スティール」的クライマックスは、結構派手だしスペクタクルだ。
サデウスに憑依している魔物はそれぞれ分離して戦えるので、実質7対1。
数的不利を覆すシャザムの秘策は、途中で簡単に読めるけど、物語の帰結する結果として納得できる展開なので、むしろ「待ってました!」と言うワクワク感がある。
根無し草の少年が、本当の家族、本当の居場所を見つけるドラマとしても見事な幕切れ。
作品カラーからも独立色が強く、始めからヒーローが実在する世界観以外に、DCEUを思わせる部分は無かったのだが、オチを見ると次回はガッツリ絡んできそう。
おとなこどもが主人公ということで、甘めの飲みやすいカクテル「マルティーニ・ロッソ トニック」をチョイス。
氷を入れたグラスに、マルティーニ・ロッソ60mlと適量のトニック・ウォーターを注ぎ、軽くステアしてオレンジのスライスを添えて完成。
イタリアを代表するベルモットの赤、マルティーニ・ロッソの果実感とハーブの香りが特徴。
甘めでアルコール度数も低く、強いお酒が苦手な人も楽しめる。



2019年04月28日 (日) | 編集 |
ありがとう、アベンジャーズ!
マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)の12年間、22本目の総決算。
長年映画を観てきたが、これほど「集大成」とか「大団円」という言葉がふさわしい作品には初めて出会った気がする。
ジョージ・ルーカスの個人映画から始まり、紆余曲折を経て今年、本作と同じくディズニー傘下で完結を迎えようとしている「スター・ウォーズ」サーガとも違う。
60年以上も、国をまたいで作り続けられている「ゴジラ」シリーズとも違う。
従来のシリーズ映画の概念を打ち破り、コミックの世界のクロスオーバーという考え方を全面的に取り入れ、ヒーローたちの単体映画を細胞として、全体で一つの巨大な作品となるMCUは、やはり実写映画の世界では一つの革命だった。
2008年の「アイアンマン」から始まり、2012年の「アベンジャーズ」までのフェイズ1で登場したヒーローたちは、今回で一応の見納めとなるだろう。
もちろん、MCUそのものは本作以降も続いてゆくのだけど、シリーズ22本目にして初めて、エンドクレジット後に次回作への布石となるオマケ映像が入らない本作は、「アベンジャーズ/エンドゲーム」のタイトル通りに、「完結」の二文字を強く意識させる。
MCUのテーマ的な屋台骨となった、「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー」からシリーズ最多の4作品を手がけた、アンソニーとジョーのルッソ兄弟は、総尺数2868分(TVシリーズを加えたらもっと膨大!)の大長編映画のクライマックスを、至高にして究極のエンターテイメント超大作として鮮やかに昇華した。
※ここから先は核心部分に触れています。観るまでは絶対読まないで!
六つのインフィニティストーンを手にしたサノス(ジョシュ・ブローリン)によって、全宇宙の50%の生命が消えた。
生き残ったアベンジャーズのヒーローたちは、消えたサノスの居場所を探し出すも、インフィニティストーンはすでに全て破壊されていて、希望は失われた。
やがて5年の歳月が流れ、世界は僅かずつ傷を癒しつつあり、アベンジャーズの面々もそれぞれの道を歩んでいる。
そんな時、今も失われた命を取り戻す方法を探し続けているスティーブ・ロジャース(クリス・エヴァンス)とナターシャ・ロマノフ(スカーレット・ヨハンソン)の前に、行方不明だったアントマンことスコット・ラング(ポール・ラッド)が現れる。
サノスがインフィニティストーンを使った時、量子世界に取り残されたアントマンは、ひょんなことから元の世界に戻ることができたのだが、ほんの数時間量子世界にいたはずが、現実世界では5年もの歳月が流れていた。
残されたピム粒子を使って、量子世界の異なる時間の流れを利用すれば、過去へ戻ってサノスがインフィニティストーンを手に入れるのを阻止できるのではないか。
スティーブは、家族と共に隠遁生活を送っているトニー・スターク(ロバート・ダウニー・Jr.)に助けを求めるのだが・・・・・
前作の「アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー」は、サノスの映画だった。
サノス(Thanos)はギリシャ語のアタナシオス(Athanasios)の短縮形で、「不死、不滅」を意味する。
名前の通り、彼は神の目線でこの宇宙全体を展望しており、増えすぎた生物によって幾つもの惑星が立ち行かなくなるのを見て、均衡を保つには宇宙にある命の総数を半分にしなければならないという考えを抱くようになる。
葛藤しながら、自らの信念を貫き通すという意味では、このスーパーヴィランはアベンジャーズのヒーローたちと何も変わらない。
ただ、命を救うか奪うかの差だけが、両者を決定的に隔てているのだが、前作では全体を救うためには半分を犠牲にしても構わないというサノスの前に、たった一人でも見捨てないというヒーローたちが敗れ去った。
それに対して、本作は文字通りにボコボコにされたヒーローたちが、自分たちが何をすべきなのか、何ができるのかを自問自答しながら、“アベンジ”する映画だ。
この二部作は、1本目をアベンジャーズのアンチテーゼとしてのサノスの哲学を前面に出し、2本目は敗北を咀嚼した上でジンテーゼ導き出すヒーローたちの群像劇とし、鏡のような構造になっていて、現在までのMCUが「シビル・ウォー」以来、対立する二つの正義の軸となっていた、アイアンマンとキャプテン・アメリカの物語だったことが明確となる。
「インフィニティ・ウォー」の原案となった、コミック「インフィニティ・ガントレット」では、生き残っていたネビュラが一瞬の隙を突いてサノスからガントレットを奪い、時間を巻き戻すことで、ドラマが動き出す。
しかし映画が始まって早々、コミックの設定はもう使えないことが明らかになる。
目的を達したサノスは、自らインフィニティストーンを破壊してしまっていたのだ。
一体ここからどうやって・・・・と思っていたら、なるほど「アントマン&ワスプ」のラストがうまく伏線として機能する。
ここからの展開は、ぶっちゃけ科学考証とかは相当にいい加減で、細かいところは御都合主義もいいところなのだけど、まあこの辺はMCUでは最初からそうなので、今更気にする人もいないだろう。
シリーズ初の3時間越えの複雑怪奇なプロットを成立させるために、ヒーローたちをいくつかのグループに分け、同時進行させるという前作の方法は今回も踏襲。
アントマンのアイディアをアイアンマンが現実化し、サノスより先にストーンを集めるため彼らが向かうのは、マインド、タイム、スペースの各ストーンがあった2012年のチタウリ侵攻下のニューヨーク、ソーの元カノのジェーンの体内に、リアリティストーンが吸収されていた2013年のアスガルド、さらに宇宙へと飛んで、パワーストーンのある2014年の惑星モラグと、ソウルストーンが隠されている惑星ヴォーミア。
ルッソ兄弟は指パッチンの惨禍から、5年の歳月の間のキャラクターの変化をお笑いのネタとして使いながら、サノスより先にインフィニティストーンを奪う冒険を、ある種の時間SFとして、シリーズの過去作品をアーカイブ的に利用する。
2012年に向かったアイアンマンとキャプテンは、スペースストーンの奪取に失敗し、プランBによって1970年のニュージャージに。
今は娘を持つアイアンマンは、若き日の父と出会い、親になる気持ちについて語らい、キャプテンはペギー・カーターの姿に目を潤ませる。
王として民を守れなかったことで、厭世的になってしまったソーは、“リボウスキ(笑)”と揶揄されるビール腹のおっさん化しており、在りし日のアスガルドで、もうすぐ亡くなることが分かっている愛しのママの胸で泣くという「ドラえもん」的展開。
中盤のクライマックスとも言えるのが、超常の力を持たないただの人間なれど、アベンジャーズの名バイプレイヤーとしてシリーズを支えてきた、ブラック・ウィドウとホークアイが直面する究極の選択だ。
何気に表の顔はマイホームパパなホークアイの唯一最大の望みは、指パッチンで失われた家族全員を取り戻すこと。
対照的に家族を持たない孤独なスパイであり、アベンジャーズそのものが自分の居場所であり、家族だというブラック・ウィドウは、ヒーローとしての使命を果たすことに全てを賭けている。
求める者に犠牲を求めるソウルストーンをめぐる両者の激しい葛藤は、特にブラック・ウィドウ役のスカーレット・ヨハンソンにとっては、シリーズ最高の見せ場となり、切ない運命に涙が止まらない。
そして、お互いに追い詰められたアベンジャーズとサノスの、六つのストーンとガントレットを巡る最終決戦は、スピルバーグの「レディ・プレイヤー1」を思わせる大物量戦。
未来の自分の運命を知ったサノスの軍団が、量子空間を通ってアベンジャーズ基地を奇襲。
数的劣勢に立たされ、せっかく修復した宇宙も風前のともし火となったところへ、復活したアベンジャーズのヒーローたちが、ワカンダとアスガルドの戦士たちと共に次々と現れる。
その時に、キャプテンが叫ぶ掛け声が、定番の一つ「アベンジャーズ、アッセンブル(集合)‼︎」なのが胸アツだ。
この後、キャプテンが突然ある能力を発動するのは、ぶっちゃけ唐突なんだけど、特殊能力があるかどうかとかは関係なく、色々問題のあるこの世界を愛し守ろうとする者は皆、アベンジャーズなのである。
サノスの視点は元々神のものだから、どんなに奪われようとも、取り戻すことを決して諦めない彼らの姿を見て、今度は宇宙そのものをリセットしようとする。
この時点で、もはや彼は救おうとしていた命の価値を否定し、ただの破壊者=悪に堕ちてしまうのだ。
最終的には、アイアンマンとキャプテン・アメリカに花を持たせるために失敗するが、ガントレットを葬り去るために、キャプテン・マーベルを先頭に女性ヒーローたちが隊列を組んでサノス軍の包囲を突破する下りは、多様性の宇宙としてのMCUを象徴する2019年ならではの描写。
12年22本の歴史に裏打ちされた「アベンジャーズ/エンドゲーム」には、物語映画が描ける人間の感情の全てがある。
私たちは喪失の大きさに絶望し、見えてきた僅かな希望に高揚し、色々こじらせて可笑しくなってしまったヒーローたちに笑い、希望を繋げるための犠牲に涙し、最後には大いなる共感とともに、アベンジャーズを見送る。
むちゃくちゃカッコいいエンドクレジットで、本人のサイン付きでカーテンコールに立った、アベンジャーズ初期メンバー6人を演じた、ロバート・ダウニーJr.、クリス・エバンス、マーク・ラファロ、クリス・ヘムズワース、スカーレット・ヨハンソン、ジェレミー・レナー、そして今回思わぬ大活躍を見せるペッパー役のグィネス・パルトロウも、本作で一応の卒業となるらしく、他にもシリーズを去る人たちがいるだろう。
相変わらずスクリーンの中では元気な姿を見せてくれた故スタン・リー、シリーズの司令塔ケヴィン・ファイギ、ルッソ兄弟を初めとする作り手たちにも、心からのリスペクトを込めて「ありがとう。お疲れ様でした!」と言いたい。
ただし、これはあくまでもMCU全体を一つの作品として追い続けて来た人だけに訪れる至福の時間で、一見さんには限りなく優しくない。
アーカイブとしての新たな映画の楽しみ方を提示したという点でも、画期的な作品である。
今後のMCU作品で、アイアンマンとキャプテン・アメリカに変わって軸となってゆくのが、キャプテン・マーベルなのは、歴代登場人物がほぼ全員集合している、終盤のあるカットの立ち位置を見ても明らかだろう。
しかし、このキャラクターに扱いには慎重さが求められると思う。
何しろ彼女の力はインフィニティストーン由来で、単体作の「キャプテン・マーベル」での覚醒後はあまりにも強過ぎる。
DCのスーパーマン同様に、極めて“能力の枷”を作りにくい彼女の存在は、物語を生かしもすれば殺しもする。
本作でドラマ部分にほぼ絡ませることなく、アベンジャーズの最終兵器的な扱いだったのも、使いどころが難しかったからだと思う。
サノスとの戦いを見ると、自らの力の源となったインフィニティストーンが唯一の弱点みたいだけど、あれ一つだけだとクリプトナイトより入手困難だぞ。
ところで、戦いの後ガモーラがどこへ行ったのかや、キャプテンが過去に持って行ったムジョルニアの行方など、いくつかの謎が残る。
エンドクレジット後には映像は無かったが、最後に響く金属音はたぶんムジョルニア?それとも新たなアイアンマン?次回作への何らかの布石になっているのだろうな。
キャプテン・アメリカの盾を受け継いだサム・ウィルソンが、どこまで存在感を発揮できるかも含めて、「スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム」から始まる新生MCUには大いに期待したい。
今回は、究極のエンターテイメンに相応しく、カクテル「XYZ(エックス・ワイ・ジィ)」をチョイス。
ホワイト・ラム40ml、コアントロー10ml、レモンジュース10mlをシェイクして、グラスに注ぐ。
アルファベットの最後の三文字を並べ、これ以上は無い究極のカクテルという意味が込められている。
酸味と甘みのバランスが良く、非常に飲みやすい。
名前からか、〆の一杯として飲まれることが多いカクテルだ。
どうでもいい点かもしれないけど、指パッチンで消えた人々が、5年前のままの姿で突然現れるのは、それはそれで大混乱を招きそう。
ピーターの高校とかはスムーズに再開したみたいだけど、パートナーを失って5年の間に再婚しちゃった人とかどうするんだろう(笑
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マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)の12年間、22本目の総決算。
長年映画を観てきたが、これほど「集大成」とか「大団円」という言葉がふさわしい作品には初めて出会った気がする。
ジョージ・ルーカスの個人映画から始まり、紆余曲折を経て今年、本作と同じくディズニー傘下で完結を迎えようとしている「スター・ウォーズ」サーガとも違う。
60年以上も、国をまたいで作り続けられている「ゴジラ」シリーズとも違う。
従来のシリーズ映画の概念を打ち破り、コミックの世界のクロスオーバーという考え方を全面的に取り入れ、ヒーローたちの単体映画を細胞として、全体で一つの巨大な作品となるMCUは、やはり実写映画の世界では一つの革命だった。
2008年の「アイアンマン」から始まり、2012年の「アベンジャーズ」までのフェイズ1で登場したヒーローたちは、今回で一応の見納めとなるだろう。
もちろん、MCUそのものは本作以降も続いてゆくのだけど、シリーズ22本目にして初めて、エンドクレジット後に次回作への布石となるオマケ映像が入らない本作は、「アベンジャーズ/エンドゲーム」のタイトル通りに、「完結」の二文字を強く意識させる。
MCUのテーマ的な屋台骨となった、「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー」からシリーズ最多の4作品を手がけた、アンソニーとジョーのルッソ兄弟は、総尺数2868分(TVシリーズを加えたらもっと膨大!)の大長編映画のクライマックスを、至高にして究極のエンターテイメント超大作として鮮やかに昇華した。
※ここから先は核心部分に触れています。観るまでは絶対読まないで!
六つのインフィニティストーンを手にしたサノス(ジョシュ・ブローリン)によって、全宇宙の50%の生命が消えた。
生き残ったアベンジャーズのヒーローたちは、消えたサノスの居場所を探し出すも、インフィニティストーンはすでに全て破壊されていて、希望は失われた。
やがて5年の歳月が流れ、世界は僅かずつ傷を癒しつつあり、アベンジャーズの面々もそれぞれの道を歩んでいる。
そんな時、今も失われた命を取り戻す方法を探し続けているスティーブ・ロジャース(クリス・エヴァンス)とナターシャ・ロマノフ(スカーレット・ヨハンソン)の前に、行方不明だったアントマンことスコット・ラング(ポール・ラッド)が現れる。
サノスがインフィニティストーンを使った時、量子世界に取り残されたアントマンは、ひょんなことから元の世界に戻ることができたのだが、ほんの数時間量子世界にいたはずが、現実世界では5年もの歳月が流れていた。
残されたピム粒子を使って、量子世界の異なる時間の流れを利用すれば、過去へ戻ってサノスがインフィニティストーンを手に入れるのを阻止できるのではないか。
スティーブは、家族と共に隠遁生活を送っているトニー・スターク(ロバート・ダウニー・Jr.)に助けを求めるのだが・・・・・
前作の「アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー」は、サノスの映画だった。
サノス(Thanos)はギリシャ語のアタナシオス(Athanasios)の短縮形で、「不死、不滅」を意味する。
名前の通り、彼は神の目線でこの宇宙全体を展望しており、増えすぎた生物によって幾つもの惑星が立ち行かなくなるのを見て、均衡を保つには宇宙にある命の総数を半分にしなければならないという考えを抱くようになる。
葛藤しながら、自らの信念を貫き通すという意味では、このスーパーヴィランはアベンジャーズのヒーローたちと何も変わらない。
ただ、命を救うか奪うかの差だけが、両者を決定的に隔てているのだが、前作では全体を救うためには半分を犠牲にしても構わないというサノスの前に、たった一人でも見捨てないというヒーローたちが敗れ去った。
それに対して、本作は文字通りにボコボコにされたヒーローたちが、自分たちが何をすべきなのか、何ができるのかを自問自答しながら、“アベンジ”する映画だ。
この二部作は、1本目をアベンジャーズのアンチテーゼとしてのサノスの哲学を前面に出し、2本目は敗北を咀嚼した上でジンテーゼ導き出すヒーローたちの群像劇とし、鏡のような構造になっていて、現在までのMCUが「シビル・ウォー」以来、対立する二つの正義の軸となっていた、アイアンマンとキャプテン・アメリカの物語だったことが明確となる。
「インフィニティ・ウォー」の原案となった、コミック「インフィニティ・ガントレット」では、生き残っていたネビュラが一瞬の隙を突いてサノスからガントレットを奪い、時間を巻き戻すことで、ドラマが動き出す。
しかし映画が始まって早々、コミックの設定はもう使えないことが明らかになる。
目的を達したサノスは、自らインフィニティストーンを破壊してしまっていたのだ。
一体ここからどうやって・・・・と思っていたら、なるほど「アントマン&ワスプ」のラストがうまく伏線として機能する。
ここからの展開は、ぶっちゃけ科学考証とかは相当にいい加減で、細かいところは御都合主義もいいところなのだけど、まあこの辺はMCUでは最初からそうなので、今更気にする人もいないだろう。
シリーズ初の3時間越えの複雑怪奇なプロットを成立させるために、ヒーローたちをいくつかのグループに分け、同時進行させるという前作の方法は今回も踏襲。
アントマンのアイディアをアイアンマンが現実化し、サノスより先にストーンを集めるため彼らが向かうのは、マインド、タイム、スペースの各ストーンがあった2012年のチタウリ侵攻下のニューヨーク、ソーの元カノのジェーンの体内に、リアリティストーンが吸収されていた2013年のアスガルド、さらに宇宙へと飛んで、パワーストーンのある2014年の惑星モラグと、ソウルストーンが隠されている惑星ヴォーミア。
ルッソ兄弟は指パッチンの惨禍から、5年の歳月の間のキャラクターの変化をお笑いのネタとして使いながら、サノスより先にインフィニティストーンを奪う冒険を、ある種の時間SFとして、シリーズの過去作品をアーカイブ的に利用する。
2012年に向かったアイアンマンとキャプテンは、スペースストーンの奪取に失敗し、プランBによって1970年のニュージャージに。
今は娘を持つアイアンマンは、若き日の父と出会い、親になる気持ちについて語らい、キャプテンはペギー・カーターの姿に目を潤ませる。
王として民を守れなかったことで、厭世的になってしまったソーは、“リボウスキ(笑)”と揶揄されるビール腹のおっさん化しており、在りし日のアスガルドで、もうすぐ亡くなることが分かっている愛しのママの胸で泣くという「ドラえもん」的展開。
中盤のクライマックスとも言えるのが、超常の力を持たないただの人間なれど、アベンジャーズの名バイプレイヤーとしてシリーズを支えてきた、ブラック・ウィドウとホークアイが直面する究極の選択だ。
何気に表の顔はマイホームパパなホークアイの唯一最大の望みは、指パッチンで失われた家族全員を取り戻すこと。
対照的に家族を持たない孤独なスパイであり、アベンジャーズそのものが自分の居場所であり、家族だというブラック・ウィドウは、ヒーローとしての使命を果たすことに全てを賭けている。
求める者に犠牲を求めるソウルストーンをめぐる両者の激しい葛藤は、特にブラック・ウィドウ役のスカーレット・ヨハンソンにとっては、シリーズ最高の見せ場となり、切ない運命に涙が止まらない。
そして、お互いに追い詰められたアベンジャーズとサノスの、六つのストーンとガントレットを巡る最終決戦は、スピルバーグの「レディ・プレイヤー1」を思わせる大物量戦。
未来の自分の運命を知ったサノスの軍団が、量子空間を通ってアベンジャーズ基地を奇襲。
数的劣勢に立たされ、せっかく修復した宇宙も風前のともし火となったところへ、復活したアベンジャーズのヒーローたちが、ワカンダとアスガルドの戦士たちと共に次々と現れる。
その時に、キャプテンが叫ぶ掛け声が、定番の一つ「アベンジャーズ、アッセンブル(集合)‼︎」なのが胸アツだ。
この後、キャプテンが突然ある能力を発動するのは、ぶっちゃけ唐突なんだけど、特殊能力があるかどうかとかは関係なく、色々問題のあるこの世界を愛し守ろうとする者は皆、アベンジャーズなのである。
サノスの視点は元々神のものだから、どんなに奪われようとも、取り戻すことを決して諦めない彼らの姿を見て、今度は宇宙そのものをリセットしようとする。
この時点で、もはや彼は救おうとしていた命の価値を否定し、ただの破壊者=悪に堕ちてしまうのだ。
最終的には、アイアンマンとキャプテン・アメリカに花を持たせるために失敗するが、ガントレットを葬り去るために、キャプテン・マーベルを先頭に女性ヒーローたちが隊列を組んでサノス軍の包囲を突破する下りは、多様性の宇宙としてのMCUを象徴する2019年ならではの描写。
12年22本の歴史に裏打ちされた「アベンジャーズ/エンドゲーム」には、物語映画が描ける人間の感情の全てがある。
私たちは喪失の大きさに絶望し、見えてきた僅かな希望に高揚し、色々こじらせて可笑しくなってしまったヒーローたちに笑い、希望を繋げるための犠牲に涙し、最後には大いなる共感とともに、アベンジャーズを見送る。
むちゃくちゃカッコいいエンドクレジットで、本人のサイン付きでカーテンコールに立った、アベンジャーズ初期メンバー6人を演じた、ロバート・ダウニーJr.、クリス・エバンス、マーク・ラファロ、クリス・ヘムズワース、スカーレット・ヨハンソン、ジェレミー・レナー、そして今回思わぬ大活躍を見せるペッパー役のグィネス・パルトロウも、本作で一応の卒業となるらしく、他にもシリーズを去る人たちがいるだろう。
相変わらずスクリーンの中では元気な姿を見せてくれた故スタン・リー、シリーズの司令塔ケヴィン・ファイギ、ルッソ兄弟を初めとする作り手たちにも、心からのリスペクトを込めて「ありがとう。お疲れ様でした!」と言いたい。
ただし、これはあくまでもMCU全体を一つの作品として追い続けて来た人だけに訪れる至福の時間で、一見さんには限りなく優しくない。
アーカイブとしての新たな映画の楽しみ方を提示したという点でも、画期的な作品である。
今後のMCU作品で、アイアンマンとキャプテン・アメリカに変わって軸となってゆくのが、キャプテン・マーベルなのは、歴代登場人物がほぼ全員集合している、終盤のあるカットの立ち位置を見ても明らかだろう。
しかし、このキャラクターに扱いには慎重さが求められると思う。
何しろ彼女の力はインフィニティストーン由来で、単体作の「キャプテン・マーベル」での覚醒後はあまりにも強過ぎる。
DCのスーパーマン同様に、極めて“能力の枷”を作りにくい彼女の存在は、物語を生かしもすれば殺しもする。
本作でドラマ部分にほぼ絡ませることなく、アベンジャーズの最終兵器的な扱いだったのも、使いどころが難しかったからだと思う。
サノスとの戦いを見ると、自らの力の源となったインフィニティストーンが唯一の弱点みたいだけど、あれ一つだけだとクリプトナイトより入手困難だぞ。
ところで、戦いの後ガモーラがどこへ行ったのかや、キャプテンが過去に持って行ったムジョルニアの行方など、いくつかの謎が残る。
エンドクレジット後には映像は無かったが、最後に響く金属音はたぶんムジョルニア?それとも新たなアイアンマン?次回作への何らかの布石になっているのだろうな。
キャプテン・アメリカの盾を受け継いだサム・ウィルソンが、どこまで存在感を発揮できるかも含めて、「スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム」から始まる新生MCUには大いに期待したい。
今回は、究極のエンターテイメンに相応しく、カクテル「XYZ(エックス・ワイ・ジィ)」をチョイス。
ホワイト・ラム40ml、コアントロー10ml、レモンジュース10mlをシェイクして、グラスに注ぐ。
アルファベットの最後の三文字を並べ、これ以上は無い究極のカクテルという意味が込められている。
酸味と甘みのバランスが良く、非常に飲みやすい。
名前からか、〆の一杯として飲まれることが多いカクテルだ。
どうでもいい点かもしれないけど、指パッチンで消えた人々が、5年前のままの姿で突然現れるのは、それはそれで大混乱を招きそう。
ピーターの高校とかはスムーズに再開したみたいだけど、パートナーを失って5年の間に再婚しちゃった人とかどうするんだろう(笑



2019年04月25日 (木) | 編集 |
いのちの器が向かう先は。
フランスの異才クレール・ドゥニ監督による、暗喩的心理SF。
舞台は太陽系を遥かに離れた深宇宙。
宇宙飛行士のモンテと、彼の生まれたばかりの娘ウィローを乗せた宇宙船「7」が、漆黒の空間を進んでいる。
母親や他のクルーの姿は、どこにも見えない。
一体彼らはどこから来たのか、何のために宇宙にいるのか。
ドゥニは、宇宙船と赤ん坊という一見結びつかない謎めいたシチュエーションからスタートし、精神宇宙の深淵へと観客を誘う。
主人公モンテをロバート・パティンソンが演じ、新境地を開いている。
物語のカギを握る船医のディブスにジュリエット・ビノシュ、女性クルーのボイジーを演じるのは怪作「サスペリア」が記憶に新しいミア・ゴス。
ハリウッド製SF映画とは一味違う、ヨーロッパらしいムーディーなスリラーだ。
※核心部分に触れています。
遥か宇宙の彼方、モンテ(ロバート・パティンソン)は赤ん坊の娘ウィローと、宇宙船「7」で暮らしている。
修道士のようなストイックで禁欲的な生活を自分に課すモンテは、ある策略によって図らずもウィローの父となったのだ。
地球からの出発時、「7」には9人のクルーがいた。
彼ら全員が、死刑や終身刑の犯罪者で、その任務はブラックホールから無限のエネルギーを取り出せるとする「ペンローズ過程」という理論を実証すること。
この極めて危険な任務と引き換えに、彼らは免罪符を手にしたのだった。
また「7」では、船医のディブス(ジュリエット・ビノシュ)によって、人間の生殖に関する実験が行われていた。
しかし、地球を離れて密室の宇宙船で3年、クルーの精神は少しずつ蝕まれていて、目的地のブラックホールへと到達したとき、ついに悲劇が起こる・・・・
なるほど、だいぶ低予算だが、これはクレール・ドゥニ版の「2001年宇宙の旅」+「インターステラー」。
キーパーソンは、相変わらず怪しげなジュリエット・ビノシュ演じるディブスだ。
任務の一環なのか趣味なのかははっきりしないが、自分の子供を殺した犯罪者でもある彼女は、宇宙で人間を誕生させ、育てるという実験をしている。
薬の力でクルーたちを支配しているディブスは、男性クルーに精子を提供させ、女性クルーに産ませようとしているのだ。
簡単そうに思えるが、宇宙空間では強い放射線の影響で、受精したとしても胎児は容易には育たない。
地球を出てからずっと繰り返している実験は、結局上手くいっていないのだが、ディブスは諦めずに、何かに取り憑かれたかのように実験を繰り返している。
男性クルーの中で、唯一彼女の実験に協力していないのが、主人公のモンテだ。
犬のために友だちを殺した過去を持つ彼は、まるで中世の修道士のように、あらゆる欲望を抑える誓を自らに課していて、他のクルーと違って薬に溺れず、精子の提供もしない“聖者”なのだ。
モンテを特別な存在と見なしたディブスは、彼を眠らせて精子を採取し、ボイジーを妊娠させる。
「2001年宇宙の旅」のディスカバリー号のデザインが、精子をモチーフにしていることは有名だが、精液と愛液と母乳が溢れ出す本作の「7」は、いわばたった一つの精子しか生き残れない子宮だ。
死地へ向かう3年の歳月の中、クルーたちは少しずつ壊れて行き、閉塞した空間に満ちる不穏な空気は、目的地のブラックホールへ接近した時に遂に爆発する。
ある事件を切っ掛けとして、クルーたちは一人また一人と、あっけなく命を落としてゆき、それはやっと目的を果たしたディブス医師も例外ではない。
最終的に残されたのが、唯一正常を保っていた遺伝的な父親であるモンテと、奇跡の子であるウィローという訳。
本作をボウマン船長とは別人格として、スターチャイルドが船内で生まれたバージョンの「2001年宇宙の旅」と考えるとしっくりくる。
しかし、あの映画の木星への冒険が、新たな生命の進化のための受精の旅であり、世界観の構造としてはシンプルだったのに対して、本作は宇宙と宇宙に生きとし生けるものすべてを、フラクタルな大小の相似形としているフシがある。
モンテとウィローだけが生き残り、もはや行くあてのない旅を続ける「7」が、先行して出発したらしいもう一隻の宇宙船「6」と遭遇するシークエンスがある。
呼びかけにも返事はなく、モンテが乗り込んでみると、船に人はおらず何頭もの犬たちだけが駆け回っている。
これは旧約聖書の創世記 1章1-8節の天地創造の描写を反映したものだ。
はじめに天と地を作った神は、6日目に獣と家畜と自分に似せた人を作り、7日目には休んだとある。
ならば、本来創造を終えて安息日である「7」の役割とは何か。
本作には大小二つのブラックホールが出てくるのだけど、これはおそらくブラックホール情報パラドクスを意識してるのだろう。
もし人間がブラックホールの中心にある事象の地平線に落ちると、頭と足先にかかる重力の差によって体はゴムのように引き伸ばされ絶命してしまうとされる。
「7」の本来の目的地だった、最初のブラックホールで起こるのがこの現象だ。
しかし、ブラックホールの質量がとんでもなく巨大だと、人間の体の大きさ程度では重力の差はわずかなため、人間はその肉体と精神を保ったまま事象の地平線に入れるという説がある。
この場合でもブラックホールの外からは、事象の地平線に落ちた人間の肉体は燃え尽きたように見え、一方実際に落ちている人間からすると、ピンピンしているという摩訶不思議な現象が起こり、これをブラックホール情報パラドクスと言う。
ウラシマ効果によって遥か未来へと旅した守護聖人のモンテと、初潮を迎えるまでに成長したスターチャイルドのウィローは、巨大ブラックホールで生きながら死んでいるのである。
だから二度目の突入は、この宇宙全体を巨大な子宮とし、人間を精子、巨大ブラックホールを卵子に見立てた未知の宇宙への再受精であり、創造の開始のイメージなのだと思う。
「7」の本当の役割は、新たな「1」へのリ・クリエイション=再創生なのである。
キューブリックの様な創造主的存在を前提にしている訳ではなく、ノーランの様なあくまで人間中心の宇宙観でもなく、この宇宙全体を自らを再創造する一つの生命装置と捉えた、極めてユニークな作品だ。
もちろん、極力説明を排した本作は、様々な解釈が可能であり、これは一つの見方に過ぎないのだけど。
内容的には全く異なるのだが、“生殖”をモチーフにした異色SFという点では、ジョナサン・グレイザー監督の「アンダー・ザ・スキン 種の捕食」にちょっと似たムードがある。
こちらもハリウッド・メジャーでは絶対に作れないであろう、暗喩的心理SFだった。
今回は、ジュリエット・ビノシュのイメージで「ゴッドマザー」をチョイス。
アマレット15ml、ウォッカ45mlを氷を入れたグラスに注ぎ、軽くステアする。
スコッチ・ウィスキーベースの、ゴッドファーザーのウォッカ版。
度数の高さは変わらないが、クセのないウォッカベースに変わったおかげで、アマレットの甘みが強調されさらに飲みやすいカクテルとなった。
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フランスの異才クレール・ドゥニ監督による、暗喩的心理SF。
舞台は太陽系を遥かに離れた深宇宙。
宇宙飛行士のモンテと、彼の生まれたばかりの娘ウィローを乗せた宇宙船「7」が、漆黒の空間を進んでいる。
母親や他のクルーの姿は、どこにも見えない。
一体彼らはどこから来たのか、何のために宇宙にいるのか。
ドゥニは、宇宙船と赤ん坊という一見結びつかない謎めいたシチュエーションからスタートし、精神宇宙の深淵へと観客を誘う。
主人公モンテをロバート・パティンソンが演じ、新境地を開いている。
物語のカギを握る船医のディブスにジュリエット・ビノシュ、女性クルーのボイジーを演じるのは怪作「サスペリア」が記憶に新しいミア・ゴス。
ハリウッド製SF映画とは一味違う、ヨーロッパらしいムーディーなスリラーだ。
※核心部分に触れています。
遥か宇宙の彼方、モンテ(ロバート・パティンソン)は赤ん坊の娘ウィローと、宇宙船「7」で暮らしている。
修道士のようなストイックで禁欲的な生活を自分に課すモンテは、ある策略によって図らずもウィローの父となったのだ。
地球からの出発時、「7」には9人のクルーがいた。
彼ら全員が、死刑や終身刑の犯罪者で、その任務はブラックホールから無限のエネルギーを取り出せるとする「ペンローズ過程」という理論を実証すること。
この極めて危険な任務と引き換えに、彼らは免罪符を手にしたのだった。
また「7」では、船医のディブス(ジュリエット・ビノシュ)によって、人間の生殖に関する実験が行われていた。
しかし、地球を離れて密室の宇宙船で3年、クルーの精神は少しずつ蝕まれていて、目的地のブラックホールへと到達したとき、ついに悲劇が起こる・・・・
なるほど、だいぶ低予算だが、これはクレール・ドゥニ版の「2001年宇宙の旅」+「インターステラー」。
キーパーソンは、相変わらず怪しげなジュリエット・ビノシュ演じるディブスだ。
任務の一環なのか趣味なのかははっきりしないが、自分の子供を殺した犯罪者でもある彼女は、宇宙で人間を誕生させ、育てるという実験をしている。
薬の力でクルーたちを支配しているディブスは、男性クルーに精子を提供させ、女性クルーに産ませようとしているのだ。
簡単そうに思えるが、宇宙空間では強い放射線の影響で、受精したとしても胎児は容易には育たない。
地球を出てからずっと繰り返している実験は、結局上手くいっていないのだが、ディブスは諦めずに、何かに取り憑かれたかのように実験を繰り返している。
男性クルーの中で、唯一彼女の実験に協力していないのが、主人公のモンテだ。
犬のために友だちを殺した過去を持つ彼は、まるで中世の修道士のように、あらゆる欲望を抑える誓を自らに課していて、他のクルーと違って薬に溺れず、精子の提供もしない“聖者”なのだ。
モンテを特別な存在と見なしたディブスは、彼を眠らせて精子を採取し、ボイジーを妊娠させる。
「2001年宇宙の旅」のディスカバリー号のデザインが、精子をモチーフにしていることは有名だが、精液と愛液と母乳が溢れ出す本作の「7」は、いわばたった一つの精子しか生き残れない子宮だ。
死地へ向かう3年の歳月の中、クルーたちは少しずつ壊れて行き、閉塞した空間に満ちる不穏な空気は、目的地のブラックホールへ接近した時に遂に爆発する。
ある事件を切っ掛けとして、クルーたちは一人また一人と、あっけなく命を落としてゆき、それはやっと目的を果たしたディブス医師も例外ではない。
最終的に残されたのが、唯一正常を保っていた遺伝的な父親であるモンテと、奇跡の子であるウィローという訳。
本作をボウマン船長とは別人格として、スターチャイルドが船内で生まれたバージョンの「2001年宇宙の旅」と考えるとしっくりくる。
しかし、あの映画の木星への冒険が、新たな生命の進化のための受精の旅であり、世界観の構造としてはシンプルだったのに対して、本作は宇宙と宇宙に生きとし生けるものすべてを、フラクタルな大小の相似形としているフシがある。
モンテとウィローだけが生き残り、もはや行くあてのない旅を続ける「7」が、先行して出発したらしいもう一隻の宇宙船「6」と遭遇するシークエンスがある。
呼びかけにも返事はなく、モンテが乗り込んでみると、船に人はおらず何頭もの犬たちだけが駆け回っている。
これは旧約聖書の創世記 1章1-8節の天地創造の描写を反映したものだ。
はじめに天と地を作った神は、6日目に獣と家畜と自分に似せた人を作り、7日目には休んだとある。
ならば、本来創造を終えて安息日である「7」の役割とは何か。
本作には大小二つのブラックホールが出てくるのだけど、これはおそらくブラックホール情報パラドクスを意識してるのだろう。
もし人間がブラックホールの中心にある事象の地平線に落ちると、頭と足先にかかる重力の差によって体はゴムのように引き伸ばされ絶命してしまうとされる。
「7」の本来の目的地だった、最初のブラックホールで起こるのがこの現象だ。
しかし、ブラックホールの質量がとんでもなく巨大だと、人間の体の大きさ程度では重力の差はわずかなため、人間はその肉体と精神を保ったまま事象の地平線に入れるという説がある。
この場合でもブラックホールの外からは、事象の地平線に落ちた人間の肉体は燃え尽きたように見え、一方実際に落ちている人間からすると、ピンピンしているという摩訶不思議な現象が起こり、これをブラックホール情報パラドクスと言う。
ウラシマ効果によって遥か未来へと旅した守護聖人のモンテと、初潮を迎えるまでに成長したスターチャイルドのウィローは、巨大ブラックホールで生きながら死んでいるのである。
だから二度目の突入は、この宇宙全体を巨大な子宮とし、人間を精子、巨大ブラックホールを卵子に見立てた未知の宇宙への再受精であり、創造の開始のイメージなのだと思う。
「7」の本当の役割は、新たな「1」へのリ・クリエイション=再創生なのである。
キューブリックの様な創造主的存在を前提にしている訳ではなく、ノーランの様なあくまで人間中心の宇宙観でもなく、この宇宙全体を自らを再創造する一つの生命装置と捉えた、極めてユニークな作品だ。
もちろん、極力説明を排した本作は、様々な解釈が可能であり、これは一つの見方に過ぎないのだけど。
内容的には全く異なるのだが、“生殖”をモチーフにした異色SFという点では、ジョナサン・グレイザー監督の「アンダー・ザ・スキン 種の捕食」にちょっと似たムードがある。
こちらもハリウッド・メジャーでは絶対に作れないであろう、暗喩的心理SFだった。
今回は、ジュリエット・ビノシュのイメージで「ゴッドマザー」をチョイス。
アマレット15ml、ウォッカ45mlを氷を入れたグラスに注ぎ、軽くステアする。
スコッチ・ウィスキーベースの、ゴッドファーザーのウォッカ版。
度数の高さは変わらないが、クセのないウォッカベースに変わったおかげで、アマレットの甘みが強調されさらに飲みやすいカクテルとなった。



2019年04月23日 (火) | 編集 |
恋の始まりは、巣立ちの時。
これは愛すべき小品。
大作、話題作が目白押しの今年のゴールデンウィーク映画戦線だが、もしあなたがほっこり幸せな気分になりたいなら、ぜひ本作をお勧めしたい。
あるいは、大切な人と初めて観に行くデートムービーとしても最適かもしれない。
舞台となるのは、カナダ西海岸のバンクーバー。
生まれてからずっと、心配性で超過保護なママのホームスクールで育ち、同世代の友達のいない孤独な少年リアムが主人公。
彼は高卒認定試験を受けるために地元の公立高校に行き、そこで義足の美少女アナスタシアに一目惚れ。
彼女をオトスために、16歳にして初めての高校通学を決意する。
しかし、何しろ学校はおろか、ママ以外の人たちと長時間過ごした経験もなく、コミュニケーション能力は皆無。
リアムにとって初めての学園生活は、ちょっとした非日常での冒険に等しいのだ。
「リアム16歳、はじめての学校」という邦題は真面目系の印象だが、中身は原題の「Adventure in public school」の方がシックリくる。
監督と共同脚本を務めるのは、これが監督2作目となるカイル・ライドアウト。
元々は俳優として活動している人で、本作にもジョンおじさんの役でチラリと出演。
彼の母親もシングルマザーで、7つもの学校を転々として育ったと言う。
近年世界的に増えつつある、ホームスクールというモチーフを扱ってはいるけど、問題は指摘しつつも別にそれを否定する訳ではない。
そもそも、それぞれに個性のある子供の教育なんて、絶対の正解など誰も知らない。
昔色々あったリアムのママも、自分の経験に基づいてベストだと思うやり方を貫いてきたのだけど、子供の心と体の成長とともに、合わなくなってきたというだけの話。
意を決して高校に通い始めたリアムは、なんとかアナスタシアにお近づきになろうと努力し、初めての友だちを得て、初めての挫折も経験しながら、大人の階段を不器用に登ってゆく。
そして、そんな息子の姿にママはハラハラ。
リアムもママも相当変でイタタな人なのだが、描写はコミカルで陽性。
パステルカラーを思わせる画面の色彩設計も含めて、映画全体に優しさが溢れているのだ。
大爆笑するわけじゃ無いのだけど、緩急のバランスに優れ、センスのいいエピソードの連続でクスクスが止まらない。
親友で最大の理解者でもあるママとべったりで人付き合いが苦手、頭はいいけど子供っぽいリアムと、子供は巣立つと頭では分かっちゃいるけど、なかなか現実を認められないママ。
一歩間違えると極度のマザコン&モンスターペアレントになっちゃいそうな、典型的なトモダチ親子がお互いに成長を遂げる、いまどきのグローイングアップストーリーだ。
主人公のリアムを演じるダニエル・ドヘリーも良いが、性教育も兼ねてライトな下ネタ連発、危ないくらいに息子を溺愛するママを演じるジュディ・グリアが素晴らしい。
ただ過保護なだけじゃなく、ユーモラスで知的なキャラクターなんだな。
個性的な学校の生徒たちや、惚れっぽい校長先生のキャラも最高(笑
これ、古くは「すてきな片思い」や「ブレックファスト・クラブ」などのジョン・ヒューズ系の青春映画群、最近では「レディ・バード」や「スウィート17モンスター」などの、ちょっとイタ恥ずかしい青春映画の好きな人には大好物だと思う。
今回は、アナスタシアにビビッときたリアムが人生の新しい一歩を踏み出す話なので、目を開かせるもの、「アイ・オープナー」をチョイス。
ラム30ml、オレンジ・キュラソー2dash、パスティス2dash、クレーム・ド・ノワヨー2dash、砂糖1tsp、卵黄1個を強めにシェイクして、グラスに注ぐ。
甘めで濃厚、香りも複雑で、どちらかと言えば、飲んでいるうちに目が閉じてきそう。
輝かしくも恥ずかしい、青春の思い出に乾杯!
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これは愛すべき小品。
大作、話題作が目白押しの今年のゴールデンウィーク映画戦線だが、もしあなたがほっこり幸せな気分になりたいなら、ぜひ本作をお勧めしたい。
あるいは、大切な人と初めて観に行くデートムービーとしても最適かもしれない。
舞台となるのは、カナダ西海岸のバンクーバー。
生まれてからずっと、心配性で超過保護なママのホームスクールで育ち、同世代の友達のいない孤独な少年リアムが主人公。
彼は高卒認定試験を受けるために地元の公立高校に行き、そこで義足の美少女アナスタシアに一目惚れ。
彼女をオトスために、16歳にして初めての高校通学を決意する。
しかし、何しろ学校はおろか、ママ以外の人たちと長時間過ごした経験もなく、コミュニケーション能力は皆無。
リアムにとって初めての学園生活は、ちょっとした非日常での冒険に等しいのだ。
「リアム16歳、はじめての学校」という邦題は真面目系の印象だが、中身は原題の「Adventure in public school」の方がシックリくる。
監督と共同脚本を務めるのは、これが監督2作目となるカイル・ライドアウト。
元々は俳優として活動している人で、本作にもジョンおじさんの役でチラリと出演。
彼の母親もシングルマザーで、7つもの学校を転々として育ったと言う。
近年世界的に増えつつある、ホームスクールというモチーフを扱ってはいるけど、問題は指摘しつつも別にそれを否定する訳ではない。
そもそも、それぞれに個性のある子供の教育なんて、絶対の正解など誰も知らない。
昔色々あったリアムのママも、自分の経験に基づいてベストだと思うやり方を貫いてきたのだけど、子供の心と体の成長とともに、合わなくなってきたというだけの話。
意を決して高校に通い始めたリアムは、なんとかアナスタシアにお近づきになろうと努力し、初めての友だちを得て、初めての挫折も経験しながら、大人の階段を不器用に登ってゆく。
そして、そんな息子の姿にママはハラハラ。
リアムもママも相当変でイタタな人なのだが、描写はコミカルで陽性。
パステルカラーを思わせる画面の色彩設計も含めて、映画全体に優しさが溢れているのだ。
大爆笑するわけじゃ無いのだけど、緩急のバランスに優れ、センスのいいエピソードの連続でクスクスが止まらない。
親友で最大の理解者でもあるママとべったりで人付き合いが苦手、頭はいいけど子供っぽいリアムと、子供は巣立つと頭では分かっちゃいるけど、なかなか現実を認められないママ。
一歩間違えると極度のマザコン&モンスターペアレントになっちゃいそうな、典型的なトモダチ親子がお互いに成長を遂げる、いまどきのグローイングアップストーリーだ。
主人公のリアムを演じるダニエル・ドヘリーも良いが、性教育も兼ねてライトな下ネタ連発、危ないくらいに息子を溺愛するママを演じるジュディ・グリアが素晴らしい。
ただ過保護なだけじゃなく、ユーモラスで知的なキャラクターなんだな。
個性的な学校の生徒たちや、惚れっぽい校長先生のキャラも最高(笑
これ、古くは「すてきな片思い」や「ブレックファスト・クラブ」などのジョン・ヒューズ系の青春映画群、最近では「レディ・バード」や「スウィート17モンスター」などの、ちょっとイタ恥ずかしい青春映画の好きな人には大好物だと思う。
今回は、アナスタシアにビビッときたリアムが人生の新しい一歩を踏み出す話なので、目を開かせるもの、「アイ・オープナー」をチョイス。
ラム30ml、オレンジ・キュラソー2dash、パスティス2dash、クレーム・ド・ノワヨー2dash、砂糖1tsp、卵黄1個を強めにシェイクして、グラスに注ぐ。
甘めで濃厚、香りも複雑で、どちらかと言えば、飲んでいるうちに目が閉じてきそう。
輝かしくも恥ずかしい、青春の思い出に乾杯!



2019年04月18日 (木) | 編集 |
彷徨える魂の、究極の選択。
これはある意味で21世紀版の「タクシードライバー」であり、ポール・シュレイダーの現時点での集大成と言って良いと思う。
対テロ戦争で息子を亡くし、妻にも去られ、小さな教会に一人暮らす元従軍牧師が、深い絶望を抱えた青年と出会う。
ラジカルな環境活動家の彼は、妻が妊娠したことに戸惑い、自分の子にこんな未来のない世界に生まれて欲しくないと訴える。
牧師は青年を説得しようとするのだが、内心の孤独と絶望はどこかで彼に共感し、次第に現実と信仰の間で葛藤を募らせてゆくのだ。
混沌と狂気に堕ちてゆく、トラー牧師を演じるイーサン・ホークが素晴らしく、なぜアカデミー主演男優賞にノミネートされなかったのか不思議。
地味な題材だが、物語の異様な密度と迫力に目が離せない。
※ラストに触れています。
ニューヨーク州スノーブリッジの歴史ある教会、ファースト・リフォームドの牧師を務めるエルンスト・トラー(イーサン・ホーク)は、嘗て従軍牧師として活動していたが、彼の勧めで軍に入った息子ジョセフが戦死し、妻にも去られた。
失意のトラーは牧師を辞める気でいたところを、多くの信者を持つメガチャーチ、アバンダント・ライフ教会のジェファーズ牧師(セドリック・カイルズ)に誘われて、傘下のファースト・リフォームドに着任したのだった。
ある日のミサの後、トラーは信徒のメアリー(アマンダ・セイフライド)に、彼女の出産に反対している夫を説得して欲しいと頼まれる。
環境活動家である夫のマイケル(フィリップ・エッティンガー)は、環境破壊が止まらない現状に絶望し、生まれてくる子に未来は無いと言う。
トラーは対話を継続しようとするが、メアリーがマイケルの持ち物の中から自爆用ベストを見つけ、トラーが真意を問おうとするとマイケルはショットガンで自ら命を断った。
おりしもファースト・リフォームドは、設立250周年の記念式典を控えていて、トラーは自分の教会にアバンダント・ライフを通じて、代表的な環境破壊企業とされるバルクのオーナーから多額の寄付金が入ってることを知ってしまう・・・・
脚本家としてのシュレイダーの代表作の一つ、マーティン・スコセッシ監督の「タクシードライバー」が作られたのは、ベトナム戦争が終わった直後の1976年。
本作と「タクシードライバー」には、明らかな共通点が多々ある。
ロバート・デ・ニーロ演じる主人公のトラヴィスは、PTSDを抱えたベトナム帰還兵で、退廃したアメリカ社会に嫌悪感を募らせ、いつしか怒りの感情に駆られて自ら“浄化”しようとする。
彼のトリガーとなるのが、当時14歳のジョディ・フォスターが演じた少女売春婦のアイリスだ。
一方、本作のトラーは代々の元従軍牧師で、一族の伝統に従って愛国心から息子ジョセフに入隊を勧め、結果的に彼を死に追いやり、家族はバラバラに。
いつしか信仰にも疑問を感じるようになり、自分が何のために生きているのかすら分からなくなってしまい、やはり衝動的な行動へと駆り立てられる。
価値観の崩壊に加え、彼のトリガーとなるのは、メアリーから相談されていたマイケルの死だ。
40年以上の時を隔て、シュレイダーが生み出したトラヴィスとトラーは、共に大義なきアメリカの戦争の結果、深刻な心の傷を抱え、孤独に苛まれてながら、「何かをしなければならない」と言う強迫観念に突き動かされている。
違いは、とことん俗物で趣味はポルノ鑑賞だったトラヴィスとは対照的に、トラーは神に仕える聖職者であり、自らの考えをノートに綴ることで内面と向き合おうとするストイックな人物だと言うこと。
トラーが元来持っていた、二つの絶対的な価値観。
そのうちの「愛国心」の意味は、息子の死がもたらした痛みと、自らが彼の死に加担したと言う自責の念によって相殺されてしまっている。
傷ついた彼は、もう一つの「信仰心」によって、世界の“こちら側”にギリギリ止まっているのである。
しかしそんなトラーの前に、メアリーとマイケルが現れたことで信仰もまた揺らいでゆく。
マイケルは自分を説得しようとするトラーに言う。
「西暦2050年、僕たちの“娘”は33歳になる。その時、地球はどうなってると思う?」
彼の未来の娘に降りかかるであろう絶望は、トラーの息子を襲った過去の絶望と重なり、彼はマイケルの話に心の奥底で共感し始めている。
そしてマイケルの突然の自殺は、確実に痛々しい息子の戦死の記憶と共鳴し、彼が戦っていた相手であろう、テロリストの武器である自爆用ベストの発見が、トラーの内面の混乱を増幅する。
さらに清浄なる神の館である教会が、環境破壊企業から多額の寄付を受けていると言う事実も、トラーの心を追い詰めてゆく。
真摯に内面の葛藤と向き合おうする生真面目な男である故に、現実と信仰との間にある大きな矛盾を明確に突きつけられ、混沌に落ちてゆくのだ。
彼の教会「ファースト・リフォームド(最初の改革)」が、「アバンダント・ライフ(豊かな命)」の所有物なのも象徴的。
現状を正そうと言う精神性は、物質的な豊かさに比べてあまりにも無力だ。
牧師として、人間として、いかに生きるべきなのか?信仰の意味とは何なのか?
なぜ神は、残酷な仕打ちで自分を苦しめるのか?自分の果たすべき役割は何か?
内容は全く違うが、現実と信仰の間で苦悩するトラーの姿には、イ・チャンドン監督の問題作「シークレット・サンシャイン」を連想した。
トラーは「人は選択する」と言う。
クライマックスは苦悩を募らせるトラーの前にも、いくつもの選択肢とその結果が現れるのだが、さすがシュレイダー、ここからは全く先を読ませない。
マイケルの死によって、トラーが封印していた自責の念を呼び起こされ、教会が環境破壊企業と癒着していることが現世のキリスト教への不信感を育て、さらに自らの体が癌に侵されている事実が、彼をマイケルとの自己同一化に走らせる。
トラーは、マイケルの残した自爆用ベストを使い、ファースト・リフォームドの250周年の記念式典で、退廃した教会を体現するジェファーズ牧師や、教会のスポンサーである環境破壊企業バルクのオーナーを巻き添えに自殺しようとする。
ところが、そこに来るはずの無かったメアリーの姿を見たことで、自爆を思いとどまったトラーは、今度は有刺鉄線を自らの体に巻きつけ痛めつけるのだ。
この時のトラーは、明らかにキリストの受難に例えられており、この後に起こることは、いわば聖書の「if」の展開。
式典に姿を見せない牧師を探しに来たメアリーと出会った瞬間、トラーは彼女に歩み寄るときつく抱き合い、激しくキスをする。
これはシュレイダーとスコセッシのもう一つのコンビ作「最後の誘惑」を思わせ、クライマックスに先立つ精神的なトリップの描写で、トラーを虜にしているメアリーは、あの映画でキリストの妻となるマグダラのマリアだ。
つまり、大義なき世に重大な苦悩を抱え込んだトラーは、大義を掲げ死を覚悟したテロリストとなり、次いで全ての罪を背負ったキリストとなり、最後には再び人間に戻るのである。
彼の心は相変わらず孤独と絶望に満ちているが、メアリーの存在によって僅かながら喜びと希望を感じている。
それは現世の誘惑であり、現実の生だ。
この見事な幕切れに、私は深く共感してしまった。
現在の世界にキリストの様な便利な存在は現れず、人間は自ら罪に向き合って、ほんの僅かな喜びを糧に、もがき苦しみながら生きてゆくしかないのである。
今回は、キリスト教には欠かせない赤ワイン、「カ・マルカンダ ガヤ プロミス」の2016をチョイス。
イタリア・トスカーナ産のフルボディ、辛口の赤。
メルロー、シラー、サンジョヴェーゼを別々に発酵させた後にブレンド、熟成したもので、みずみずしく濃厚な果実味と、フレッシュなアロマが楽しめる。
映画のトラーはウィスキー派だったが、この映画はやはりワインで複雑な余韻を噛み締めたい。
記事が気に入ったらクリックしてね
これはある意味で21世紀版の「タクシードライバー」であり、ポール・シュレイダーの現時点での集大成と言って良いと思う。
対テロ戦争で息子を亡くし、妻にも去られ、小さな教会に一人暮らす元従軍牧師が、深い絶望を抱えた青年と出会う。
ラジカルな環境活動家の彼は、妻が妊娠したことに戸惑い、自分の子にこんな未来のない世界に生まれて欲しくないと訴える。
牧師は青年を説得しようとするのだが、内心の孤独と絶望はどこかで彼に共感し、次第に現実と信仰の間で葛藤を募らせてゆくのだ。
混沌と狂気に堕ちてゆく、トラー牧師を演じるイーサン・ホークが素晴らしく、なぜアカデミー主演男優賞にノミネートされなかったのか不思議。
地味な題材だが、物語の異様な密度と迫力に目が離せない。
※ラストに触れています。
ニューヨーク州スノーブリッジの歴史ある教会、ファースト・リフォームドの牧師を務めるエルンスト・トラー(イーサン・ホーク)は、嘗て従軍牧師として活動していたが、彼の勧めで軍に入った息子ジョセフが戦死し、妻にも去られた。
失意のトラーは牧師を辞める気でいたところを、多くの信者を持つメガチャーチ、アバンダント・ライフ教会のジェファーズ牧師(セドリック・カイルズ)に誘われて、傘下のファースト・リフォームドに着任したのだった。
ある日のミサの後、トラーは信徒のメアリー(アマンダ・セイフライド)に、彼女の出産に反対している夫を説得して欲しいと頼まれる。
環境活動家である夫のマイケル(フィリップ・エッティンガー)は、環境破壊が止まらない現状に絶望し、生まれてくる子に未来は無いと言う。
トラーは対話を継続しようとするが、メアリーがマイケルの持ち物の中から自爆用ベストを見つけ、トラーが真意を問おうとするとマイケルはショットガンで自ら命を断った。
おりしもファースト・リフォームドは、設立250周年の記念式典を控えていて、トラーは自分の教会にアバンダント・ライフを通じて、代表的な環境破壊企業とされるバルクのオーナーから多額の寄付金が入ってることを知ってしまう・・・・
脚本家としてのシュレイダーの代表作の一つ、マーティン・スコセッシ監督の「タクシードライバー」が作られたのは、ベトナム戦争が終わった直後の1976年。
本作と「タクシードライバー」には、明らかな共通点が多々ある。
ロバート・デ・ニーロ演じる主人公のトラヴィスは、PTSDを抱えたベトナム帰還兵で、退廃したアメリカ社会に嫌悪感を募らせ、いつしか怒りの感情に駆られて自ら“浄化”しようとする。
彼のトリガーとなるのが、当時14歳のジョディ・フォスターが演じた少女売春婦のアイリスだ。
一方、本作のトラーは代々の元従軍牧師で、一族の伝統に従って愛国心から息子ジョセフに入隊を勧め、結果的に彼を死に追いやり、家族はバラバラに。
いつしか信仰にも疑問を感じるようになり、自分が何のために生きているのかすら分からなくなってしまい、やはり衝動的な行動へと駆り立てられる。
価値観の崩壊に加え、彼のトリガーとなるのは、メアリーから相談されていたマイケルの死だ。
40年以上の時を隔て、シュレイダーが生み出したトラヴィスとトラーは、共に大義なきアメリカの戦争の結果、深刻な心の傷を抱え、孤独に苛まれてながら、「何かをしなければならない」と言う強迫観念に突き動かされている。
違いは、とことん俗物で趣味はポルノ鑑賞だったトラヴィスとは対照的に、トラーは神に仕える聖職者であり、自らの考えをノートに綴ることで内面と向き合おうとするストイックな人物だと言うこと。
トラーが元来持っていた、二つの絶対的な価値観。
そのうちの「愛国心」の意味は、息子の死がもたらした痛みと、自らが彼の死に加担したと言う自責の念によって相殺されてしまっている。
傷ついた彼は、もう一つの「信仰心」によって、世界の“こちら側”にギリギリ止まっているのである。
しかしそんなトラーの前に、メアリーとマイケルが現れたことで信仰もまた揺らいでゆく。
マイケルは自分を説得しようとするトラーに言う。
「西暦2050年、僕たちの“娘”は33歳になる。その時、地球はどうなってると思う?」
彼の未来の娘に降りかかるであろう絶望は、トラーの息子を襲った過去の絶望と重なり、彼はマイケルの話に心の奥底で共感し始めている。
そしてマイケルの突然の自殺は、確実に痛々しい息子の戦死の記憶と共鳴し、彼が戦っていた相手であろう、テロリストの武器である自爆用ベストの発見が、トラーの内面の混乱を増幅する。
さらに清浄なる神の館である教会が、環境破壊企業から多額の寄付を受けていると言う事実も、トラーの心を追い詰めてゆく。
真摯に内面の葛藤と向き合おうする生真面目な男である故に、現実と信仰との間にある大きな矛盾を明確に突きつけられ、混沌に落ちてゆくのだ。
彼の教会「ファースト・リフォームド(最初の改革)」が、「アバンダント・ライフ(豊かな命)」の所有物なのも象徴的。
現状を正そうと言う精神性は、物質的な豊かさに比べてあまりにも無力だ。
牧師として、人間として、いかに生きるべきなのか?信仰の意味とは何なのか?
なぜ神は、残酷な仕打ちで自分を苦しめるのか?自分の果たすべき役割は何か?
内容は全く違うが、現実と信仰の間で苦悩するトラーの姿には、イ・チャンドン監督の問題作「シークレット・サンシャイン」を連想した。
トラーは「人は選択する」と言う。
クライマックスは苦悩を募らせるトラーの前にも、いくつもの選択肢とその結果が現れるのだが、さすがシュレイダー、ここからは全く先を読ませない。
マイケルの死によって、トラーが封印していた自責の念を呼び起こされ、教会が環境破壊企業と癒着していることが現世のキリスト教への不信感を育て、さらに自らの体が癌に侵されている事実が、彼をマイケルとの自己同一化に走らせる。
トラーは、マイケルの残した自爆用ベストを使い、ファースト・リフォームドの250周年の記念式典で、退廃した教会を体現するジェファーズ牧師や、教会のスポンサーである環境破壊企業バルクのオーナーを巻き添えに自殺しようとする。
ところが、そこに来るはずの無かったメアリーの姿を見たことで、自爆を思いとどまったトラーは、今度は有刺鉄線を自らの体に巻きつけ痛めつけるのだ。
この時のトラーは、明らかにキリストの受難に例えられており、この後に起こることは、いわば聖書の「if」の展開。
式典に姿を見せない牧師を探しに来たメアリーと出会った瞬間、トラーは彼女に歩み寄るときつく抱き合い、激しくキスをする。
これはシュレイダーとスコセッシのもう一つのコンビ作「最後の誘惑」を思わせ、クライマックスに先立つ精神的なトリップの描写で、トラーを虜にしているメアリーは、あの映画でキリストの妻となるマグダラのマリアだ。
つまり、大義なき世に重大な苦悩を抱え込んだトラーは、大義を掲げ死を覚悟したテロリストとなり、次いで全ての罪を背負ったキリストとなり、最後には再び人間に戻るのである。
彼の心は相変わらず孤独と絶望に満ちているが、メアリーの存在によって僅かながら喜びと希望を感じている。
それは現世の誘惑であり、現実の生だ。
この見事な幕切れに、私は深く共感してしまった。
現在の世界にキリストの様な便利な存在は現れず、人間は自ら罪に向き合って、ほんの僅かな喜びを糧に、もがき苦しみながら生きてゆくしかないのである。
今回は、キリスト教には欠かせない赤ワイン、「カ・マルカンダ ガヤ プロミス」の2016をチョイス。
イタリア・トスカーナ産のフルボディ、辛口の赤。
メルロー、シラー、サンジョヴェーゼを別々に発酵させた後にブレンド、熟成したもので、みずみずしく濃厚な果実味と、フレッシュなアロマが楽しめる。
映画のトラーはウィスキー派だったが、この映画はやはりワインで複雑な余韻を噛み締めたい。



2019年04月14日 (日) | 編集 |
ひねくれ男が戦うワケ。
風雲急を告げる幕末の京都を舞台に、長州浪人にして剣の達人、清川多十郎が愛する女のために京都見廻組と対決する。
84歳の中島貞夫監督による20年ぶりの劇場用映画は、まさに「ザ・時代劇」だ。
リアリズム重視の今風のものではなく、現実なら多勢に無勢でも戦えて、斬っても血が出ないいわゆる昭和テイストのチャンバラ活劇。
五万回斬られた男こと、福本清三の華麗なる斬殺シーンももちろんあり、中島監督の「チャンバラを次世代に!」という創作の熱が詰め込まれてた力作だ。
無頼漢だが惚れた女には弱い多十郎を、高良健吾が好演し、新境地を開いている。
薄幸のヒロインおとよを演じる多部未華子を、はじめて色っぽいと思った。
伝統ある時代劇の京都らしい、非常に端正に作られた映画だ。
最近のTVではすっかりご無沙汰のチャンバラものだが、たまにスペシャルドラマなどでオンエアされると、今度はビジュアルの安っぽさにガッカリする。
しかしこの作品の画作り、世界観の作り込みは鉄板のクオリティ。
見廻組に追われた多十郎が、長屋の中をぶち抜きながら駆け抜ける描写はアニメーションチックでちょっと新しい。
チャンバラ活劇としての見せ場も豊富で、尺も1時間半程度と、気楽に観られるプログラム・ピクチャーをしっかり丁寧に作っているのも、今の時代には貴重。
中島監督は私の学生時代の先生でもあるのだが、いまだご健在で、こんな面白い映画を撮っちゃうのだからやっぱ凄いな。
当時はおバカな学生だったから、それほど意識はしなかったのだけど、今にして思うと演出・中島貞夫、脚本・依田義賢、撮影・宮川一夫と森田富士郎、制作・田口直也ってとんでもない豪華教授陣。
後に留学した時に、学友に「君の前の学校はどんな先生がいたの?」って聞かれて、彼らの名をあげたら驚愕してたっけ。
学生の時に、もっとちゃんと出席しとけば良かった!
しかし、職人演出家としての中島監督は素晴らしいんだけど、脚本はツッコミどころも多いというのも昔から。
本作にも明らかに残念なところがある。
多十郎はひねくれキャラで、武士仲間との交流も断って、着物の柄の絵師として世捨て人のように暮らしているのだが、なぜ彼があんな性格になってしまった理由がはっきりしない。
一応親の代からの多額の借金があったことは描かれているのだが、それだけではちょっと弱いし、弟と義母の負債にはならないの?という疑問も。
もう一つは、おとよとの馴れ初めを描いて欲しかった。
薄幸の彼女がひねくれ多十郎に恋する瞬間が無いので、二人の間にある感情の強さに、もう一つ説得力を感じられない。
時代劇では珍しいキスシーンは良かったけど、この二点が描写されるだけで、だいぶ感情移入しやすくなるはず。
あと、無い物ねだりなのは分かっているが、敵味方入り乱れての乱戦も見たかったな。
中島監督にはもう少し頑張ってもらって、今度は集団時代劇スタイルのチャンバラを作って欲しい。
88歳のイーストウッドが現役なんだから、まだ何本か撮れますよね、先生!
先生の作品に生徒が点数付けるのはおこがましいので、今回はレビューのみ。
京都が舞台の本作には、洛中唯一の老舗酒蔵、佐々木酒造の「聚楽第 純米吟醸」をチョイス。
聚楽第とは信長の後に天下人となった豊臣秀吉が京都に築いた豪華絢爛な城郭邸宅で、桃山文化を代表する建築物。
吟醸香は軽やかで、やや辛口でフルーティな味わいを、スッキリした喉ごしで楽しめる芳醇な酒だ。
記事が気に入ったらクリックしてね
風雲急を告げる幕末の京都を舞台に、長州浪人にして剣の達人、清川多十郎が愛する女のために京都見廻組と対決する。
84歳の中島貞夫監督による20年ぶりの劇場用映画は、まさに「ザ・時代劇」だ。
リアリズム重視の今風のものではなく、現実なら多勢に無勢でも戦えて、斬っても血が出ないいわゆる昭和テイストのチャンバラ活劇。
五万回斬られた男こと、福本清三の華麗なる斬殺シーンももちろんあり、中島監督の「チャンバラを次世代に!」という創作の熱が詰め込まれてた力作だ。
無頼漢だが惚れた女には弱い多十郎を、高良健吾が好演し、新境地を開いている。
薄幸のヒロインおとよを演じる多部未華子を、はじめて色っぽいと思った。
伝統ある時代劇の京都らしい、非常に端正に作られた映画だ。
最近のTVではすっかりご無沙汰のチャンバラものだが、たまにスペシャルドラマなどでオンエアされると、今度はビジュアルの安っぽさにガッカリする。
しかしこの作品の画作り、世界観の作り込みは鉄板のクオリティ。
見廻組に追われた多十郎が、長屋の中をぶち抜きながら駆け抜ける描写はアニメーションチックでちょっと新しい。
チャンバラ活劇としての見せ場も豊富で、尺も1時間半程度と、気楽に観られるプログラム・ピクチャーをしっかり丁寧に作っているのも、今の時代には貴重。
中島監督は私の学生時代の先生でもあるのだが、いまだご健在で、こんな面白い映画を撮っちゃうのだからやっぱ凄いな。
当時はおバカな学生だったから、それほど意識はしなかったのだけど、今にして思うと演出・中島貞夫、脚本・依田義賢、撮影・宮川一夫と森田富士郎、制作・田口直也ってとんでもない豪華教授陣。
後に留学した時に、学友に「君の前の学校はどんな先生がいたの?」って聞かれて、彼らの名をあげたら驚愕してたっけ。
学生の時に、もっとちゃんと出席しとけば良かった!
しかし、職人演出家としての中島監督は素晴らしいんだけど、脚本はツッコミどころも多いというのも昔から。
本作にも明らかに残念なところがある。
多十郎はひねくれキャラで、武士仲間との交流も断って、着物の柄の絵師として世捨て人のように暮らしているのだが、なぜ彼があんな性格になってしまった理由がはっきりしない。
一応親の代からの多額の借金があったことは描かれているのだが、それだけではちょっと弱いし、弟と義母の負債にはならないの?という疑問も。
もう一つは、おとよとの馴れ初めを描いて欲しかった。
薄幸の彼女がひねくれ多十郎に恋する瞬間が無いので、二人の間にある感情の強さに、もう一つ説得力を感じられない。
時代劇では珍しいキスシーンは良かったけど、この二点が描写されるだけで、だいぶ感情移入しやすくなるはず。
あと、無い物ねだりなのは分かっているが、敵味方入り乱れての乱戦も見たかったな。
中島監督にはもう少し頑張ってもらって、今度は集団時代劇スタイルのチャンバラを作って欲しい。
88歳のイーストウッドが現役なんだから、まだ何本か撮れますよね、先生!
先生の作品に生徒が点数付けるのはおこがましいので、今回はレビューのみ。
京都が舞台の本作には、洛中唯一の老舗酒蔵、佐々木酒造の「聚楽第 純米吟醸」をチョイス。
聚楽第とは信長の後に天下人となった豊臣秀吉が京都に築いた豪華絢爛な城郭邸宅で、桃山文化を代表する建築物。
吟醸香は軽やかで、やや辛口でフルーティな味わいを、スッキリした喉ごしで楽しめる芳醇な酒だ。



2019年04月12日 (金) | 編集 |
全ての人に平等を。
アメリカ合衆国最高裁判所の名物判事、ルース・ベイダー・ギンズバーグを描く人間ドラマ。
先日公開された「レゴ ムービー2」には、レゴ人形となったルースがちらりと登場する。
字幕だとただの「最高裁判事」になっちゃてたけど、法曹界の大物がファミリームービーに実名で出てくるのは、日本ではちょっと考えられないだろう。
これだけで、米国社会での彼女の知名度と重みが分かるというもの。
昨年には、アカデミー賞にもノミネートされた「RBG 最強の85歳」というドキュメンタリー映画もヒットし、日本でもまもなく公開となる。
9人が定員の合衆国最高裁の判事は、大統領によって任命され、議会の承認を経て着任するのだが、任期は無く、本人が亡くなるか引退するまで職にとどまり続ける。
アメリカは三権分立が厳格に機能していて、法律や政策も裁判で覆されることが多々あるゆえに、大統領は自分の任期中に一人でも多く、自分と考えの近い判事を任命しようとするのだ。
以前は中間派の判事もいたのだが、現在の9人の判事はブッシュ親子とトランプによって任命された保守派が5人で、クリントン、オバマに任命されたリベラル派が4人。
ルースはクリントン時代の93年に任命され、現在最高裁判事で最高齢の86歳。
もしも彼女が退任すると、トランプは後任の判事に当然保守派の人物を選ぶので、最高裁のバランスは完全に保守に傾いてしまう。
彼女は文字通りリベラル派最後の砦なのである。
もっとも、この映画は現在のルースではなく、まだ裁判所に立ったこともなかった若き日を描く物語だ。
彼女の不変の信念とパワフルな行動力は、いかにして形作られたのか。
ハーバード大学とコロンビア大学のロースクールで、極めて優秀な成績を収めたルースだが、女性差別の法律が無数にあり、働く女性への偏見も激しかった1960年代、弁護士事務所への就職はかなわない。
やむなくラトガース大学のロースクールで教鞭をとっていた彼女が、法廷弁護士の道を歩みだした最初の裁判、1970年の「チャールズ・モリッツ対内国歳入長官」がモチーフとなっている。
それは、独身男性が親の介護のために介護士を雇い、その費用の控除が認められなかったと政府を訴えた裁判。
法律で、控除を受けられるのは女性だけと定められているからだ。
国の勝訴は確実として、誰も弁護をやりたがらない地味なケースだが、ルースはここに性差別の壁の突破口を見出す。
単純に女性差別撤廃を打ち出せば、男性社会である法曹界に跳ね返される。
しかし「家族の介護は女性の仕事」ということを前提としている法律が、逆に男性差別になっていることを訴えれば勝機がある。
男女のどちらかを優遇するのではなく、平等を勝ち取ることが結果として差別をなくすことに繋がるという訳だ。
久しぶりに劇場用映画を手がけるミミ・レダー監督は、ダークな背広を纏った男たちの群れの中に、一人鮮やかなブルーの服のルースが登場する冒頭から、非常に丁寧に彼女と家族の物語を紡いでゆく。
映画の前半は、男性優位の閉塞した時代に、弁護士、妻、母、そして一人の女性として懸命に生きるルースの人生をじっくりと描き、後半が国を相手にしたちょっと頼りないビギナー弁護士の裁判劇。
フェリシティ・ジョーンズが、温和な中に意志の強さを感じさせるルースを好演。
彼女の経験のなさを突いてくる、被告の国側の攻撃にしどろもどろになりながらも、ついに自分の言葉で語り出す彼女を、観客もいつしか傍聴人の一人として応援。
実話だから結果は分かっていても、スリリングだ。
ルース本人も凄い人なのだが、彼女の家族もまた只者ではない。
特にアーミー・ハマー演じる夫のマーティンは、自分も敏腕弁護士で、料理が苦手なルースに代わって家事をこなし、仕事では妻の背中を押し、子供の面倒もバッチリってどんなスーパーマン。
完璧過ぎて、結婚したくなったわ(笑
ちなみに、本作の脚本家のダニエル・スティープルマンは、ルースの甥。
「グリーンブック」を書いたのは、主人公の息子だったし、やはり近くで見ている家族だから描ける人物像というのはあるのだと思う。
しかし今、ルース・ベイダー・ギンズバーグに改めて注目が集まるのも、時計を過去に巻き戻す男、トランプの時代だからなのだろう。
頑張れ、負けるな、最強の86歳!
今回は「アイアン・レディ」をチョイス。
ウィスキー36ml、ドライ・ベルモット12ml、ポート・ワイン12ml、オレンジ・ビターズ1dashをステアして、グラスに注ぐ。
美しいローズカラーと仄かに香るオレンジ。
オシャレだが、アルコール度が高くてかなり強い。
本来は「鉄の女」と呼ばれた英首相マーガレット・サッチャーに由来するそうだが、この称号は思想は逆でも鉄のように強い信念を持つルースにも相応しい。
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アメリカ合衆国最高裁判所の名物判事、ルース・ベイダー・ギンズバーグを描く人間ドラマ。
先日公開された「レゴ ムービー2」には、レゴ人形となったルースがちらりと登場する。
字幕だとただの「最高裁判事」になっちゃてたけど、法曹界の大物がファミリームービーに実名で出てくるのは、日本ではちょっと考えられないだろう。
これだけで、米国社会での彼女の知名度と重みが分かるというもの。
昨年には、アカデミー賞にもノミネートされた「RBG 最強の85歳」というドキュメンタリー映画もヒットし、日本でもまもなく公開となる。
9人が定員の合衆国最高裁の判事は、大統領によって任命され、議会の承認を経て着任するのだが、任期は無く、本人が亡くなるか引退するまで職にとどまり続ける。
アメリカは三権分立が厳格に機能していて、法律や政策も裁判で覆されることが多々あるゆえに、大統領は自分の任期中に一人でも多く、自分と考えの近い判事を任命しようとするのだ。
以前は中間派の判事もいたのだが、現在の9人の判事はブッシュ親子とトランプによって任命された保守派が5人で、クリントン、オバマに任命されたリベラル派が4人。
ルースはクリントン時代の93年に任命され、現在最高裁判事で最高齢の86歳。
もしも彼女が退任すると、トランプは後任の判事に当然保守派の人物を選ぶので、最高裁のバランスは完全に保守に傾いてしまう。
彼女は文字通りリベラル派最後の砦なのである。
もっとも、この映画は現在のルースではなく、まだ裁判所に立ったこともなかった若き日を描く物語だ。
彼女の不変の信念とパワフルな行動力は、いかにして形作られたのか。
ハーバード大学とコロンビア大学のロースクールで、極めて優秀な成績を収めたルースだが、女性差別の法律が無数にあり、働く女性への偏見も激しかった1960年代、弁護士事務所への就職はかなわない。
やむなくラトガース大学のロースクールで教鞭をとっていた彼女が、法廷弁護士の道を歩みだした最初の裁判、1970年の「チャールズ・モリッツ対内国歳入長官」がモチーフとなっている。
それは、独身男性が親の介護のために介護士を雇い、その費用の控除が認められなかったと政府を訴えた裁判。
法律で、控除を受けられるのは女性だけと定められているからだ。
国の勝訴は確実として、誰も弁護をやりたがらない地味なケースだが、ルースはここに性差別の壁の突破口を見出す。
単純に女性差別撤廃を打ち出せば、男性社会である法曹界に跳ね返される。
しかし「家族の介護は女性の仕事」ということを前提としている法律が、逆に男性差別になっていることを訴えれば勝機がある。
男女のどちらかを優遇するのではなく、平等を勝ち取ることが結果として差別をなくすことに繋がるという訳だ。
久しぶりに劇場用映画を手がけるミミ・レダー監督は、ダークな背広を纏った男たちの群れの中に、一人鮮やかなブルーの服のルースが登場する冒頭から、非常に丁寧に彼女と家族の物語を紡いでゆく。
映画の前半は、男性優位の閉塞した時代に、弁護士、妻、母、そして一人の女性として懸命に生きるルースの人生をじっくりと描き、後半が国を相手にしたちょっと頼りないビギナー弁護士の裁判劇。
フェリシティ・ジョーンズが、温和な中に意志の強さを感じさせるルースを好演。
彼女の経験のなさを突いてくる、被告の国側の攻撃にしどろもどろになりながらも、ついに自分の言葉で語り出す彼女を、観客もいつしか傍聴人の一人として応援。
実話だから結果は分かっていても、スリリングだ。
ルース本人も凄い人なのだが、彼女の家族もまた只者ではない。
特にアーミー・ハマー演じる夫のマーティンは、自分も敏腕弁護士で、料理が苦手なルースに代わって家事をこなし、仕事では妻の背中を押し、子供の面倒もバッチリってどんなスーパーマン。
完璧過ぎて、結婚したくなったわ(笑
ちなみに、本作の脚本家のダニエル・スティープルマンは、ルースの甥。
「グリーンブック」を書いたのは、主人公の息子だったし、やはり近くで見ている家族だから描ける人物像というのはあるのだと思う。
しかし今、ルース・ベイダー・ギンズバーグに改めて注目が集まるのも、時計を過去に巻き戻す男、トランプの時代だからなのだろう。
頑張れ、負けるな、最強の86歳!
今回は「アイアン・レディ」をチョイス。
ウィスキー36ml、ドライ・ベルモット12ml、ポート・ワイン12ml、オレンジ・ビターズ1dashをステアして、グラスに注ぐ。
美しいローズカラーと仄かに香るオレンジ。
オシャレだが、アルコール度が高くてかなり強い。
本来は「鉄の女」と呼ばれた英首相マーガレット・サッチャーに由来するそうだが、この称号は思想は逆でも鉄のように強い信念を持つルースにも相応しい。



2019年04月10日 (水) | 編集 |
腹芸で全世界を騙した男。
第43代アメリカ大統領、ジョージ・W・ブッシュ政権の副大統領として知られるディック・チェイニーの半生を描いた人間ドラマ・・・、もとい批判的ブラックコメディ。
タイトルの「VICE」には「副大統領(vice president)」の他に「悪徳」とか「堕落行為」などの意味がある。
ワイオミングの田舎育ちで、飲んだくれてその日暮らしをしていた若者が、いかにしてワシントンの要職を歴任し、ついには「影の大統領」と呼ばれるほどの権力者となり得たのか。
なぜ彼はイラク戦争を起こし、数千のアメリカの若者、数十万の民間人を死に追いやったのか。
「マネー・ショート 華麗なる大逆転」のアダム・マッケイ監督は、今回も怒涛の情報の津波で我々観客を圧倒し、アメリカの暗部を軽妙かつ赤裸々に描いてゆく。
ワシントン最強の腹黒オヤジを、クリスチャン・ベールが怪演。
チェイニーの妻リンをエイミー・アダムズ、息子ブッシュをサム・ロックウェル、国防長官ドナルド・ラムズフェルドをスティーブ・カレルが演じる。
まだ存命中の政財界の大物を、ここまで辛辣にこき下ろしちゃうのが、アメリカという国の深くて面白いところだなあ。
1963年、ワイオミング。
イエール大学を中退した22歳のディック・チェイニー(クリスチャン・ベール)は、将来の展望もなく酒に溺れた日々を送っている。
二度目の酔っ払い運転で捕まった日、恋人のリン(エイミー・アダムズ)は、人生を立て直すか、自分と別れるかの二択を迫る。
数年後、チェイニーはリンと共に首都ワシントンに。
彼女の言葉に奮起したチェイニーは、大学に入り直して卒業し、ワシントンの議会のインターンとして採用されたのだった。
ニクソン政権の機会均等局長、ドナルド・ラムズフェルド(スティーブ・カレル)の部下となったチェイニーは、彼からワシントンを生き抜くためのノウハウを学んで急速に頭角を現してゆく。
次席法律顧問を務めたニクソンがウォーターゲート事件で失脚すると、後を継いだフォード政権で史上最年少の大統領首席補佐官と出世の階段を駆け上る。
やがて、長い年月が流れた2001年9月11日、ブッシュ政権の副大統領となっていたチェイニーの元に、同時多発テロの一報が入る。
人々がパニックに陥る中、チェイニーだけがこれを千載一遇の“チャンス”と捉えていた・・・
むちゃくちゃ面白いぞ、これは。
映画のスタンスは、基本的に前作の「マネー・ショート」と同じ。
あの映画では、ウォール街に生きるマネーのプロフェッショナルたちの群像劇を通して、リーマンショックはなぜ起こったのか、拡大し続けけたバブルが弾けるまでの仕組みを、詳細かつ分かりやすく描いてみせた。
ドラマというよりは、ジャーナリズムとしての映画であり、登場人物は観客を感情移入させつつ、情報を届けるための駒に過ぎない。
本作でも、ディック・チェイニーの人物像をディープに描くのではなく、酒に溺れたクズ野郎が、いかにして影の大統領に上り詰めたのか、そのプロセスとメカニズム、米国と世界に与えた副作用を描く。
チェイニーの人生を、決定的に変えた人物が3人いる。
一人目は、典型的なダメ人間だった彼を奮起させた妻のリン。
彼女がいなければ、チェイニーはワイオミングの田舎にくすぶり、どこにでもいるレッドネックのプアホワイトで終わったかもしれない。
二人目が若き日の政治の師であり、後に盟友となるドナルド・ラムズフェルドで、三人目が副大統領として仕える息子ブッシュ。
彼らは皆、チェイニーの人生のそれぞれのステージで、彼の熱意と欲望の触媒となり、“怪物”の成長を後押しする。
彼の長いキャリアの間、ワシントンを支配した権力を振り返ると、共和党のニクソン、フォード政権から民主党のカーター政権を経て、共和党黄金期の80年代にはレーガン、父ブッシュ政権が計三期12年続き、チェイニーは父ブッシュ政権の国防長官を勤めている。
そして民主党のクリントン政権二期の後、満を持して出馬したゴア副大統領を破り、息子ブッシュが政権を奪取すると、石油企業ハリバートンのCEOになっていたチェイニーが政界に戻り副大統領に。
こうして改めて見ると、アメリカの歴史は基本的にずーっとシーソーゲームで、時に一気に時代が進み、時には後戻りしの繰り返し。
全体としては、着実に改革されているのだけど、初のアフリカ系大統領となったオバマ政権の後で、今は最悪の揺り戻し期というところだろうか。
映画は系列をシャッフルし、第四の壁をも超えて、半世紀分の出来事をスピーディに描いてゆく。
ほとんと全編、モンタージュのテクニックの見本市状態なのだが、私的に特に印象的だったのが二箇所。
息子ブッシュに副大統領就任の条件を語る時、実質的な大統領権限を奪い取る内容に、おバカなブッシュが食いついてくるのを、ルアーフィッシングと対比して描いた描写は秀逸。
チェイニーのズル賢さと、彼の“獲物”となる息子ブッシュの中身空っぽさに思わず苦笑。
彼はお飾りの大統領で、実質政権を仕切っていたのはネオコンの頭目のチェイニーやラムズフェルドなのが、その後のワシントンでの人事の描写でよく分かる。
もう一箇所は、イラク戦争開戦を告げる国民へのメッセージを息子ブッシュがテレビで読み上げる時、机の下で貧乏ゆすりしているのを描写した直後、爆撃下のイラクで市民が恐怖で震えているカットを組み合わせたところ。
会議室の決定と、その結果現場でどんなことが起こるのかのという現実を、見事に2カットで表してみせた。
思いっきり腹黒い奴に描かれた主人公を、ブラックな笑いに包むスタイルは、劇映画ではあるけど、印象としてはマイケル・ムーアのドキュメンタリーに近く、ぶっちゃければ反ネオコン、間接的には反トランプ政権の政治的プロパガンダだ。
ドラマ性を逸脱する作りゆえか、オスカーではメイクアップ賞以外主要部門は逃したが、133分の長尺を全く飽きさせないのはさすが。
デ・ニーロアプローチでチェイニーを演じるクリスチャン・ベールをはじめ、役者たちがあまりにも本物にソックリだから、何度も吹き出しそうになった。
単純な悪者ではなく、チェイニーを腹黒いが憎めないオヤジに描いたのも、二元論的ステロタイプにはめ込まない工夫。
キャラクター造形の多面性で効いてるのが、同性愛者であることを公表している次女のメアリーとのエピソードだ。
共和党保守派にとっては同性愛は忌むべきもので、娘が同性愛者だということは格好の攻撃目標となる。
しかしチェイニーは、自らの不利益を承知で、娘を受け入れ彼女を守るのだ。
もちろん、このスタンスが何があっても家族が大事という、“アメリカ的価値観”に合致していることは言うまでもないが、家族には向けられる愛情が、副大統領として仕える“国民”には向けられないアイロニーを感じさせる。
複雑な米国政治入門にもピッタリな映画だが、軽妙なタッチに大いに笑って楽しんで、どこかでチェイニーという男に惹かれてゆき、その結果変貌する世界の姿を突きつけられ背筋がゾーッ。
彼がやってるのは、典型的な利益誘導政治で、ハリバートンなどの石油業界との癒着なんかは非常に分かりやすいのだけど、悪質なのはそれを可能とするために悪影響など考えずに、合衆国が何世代にも渡ってブラッシュアップしてきた政治システムの根本を、あっさりと覆してしまうところだ。
特に9.11後のパニック状態を利用して、定義の曖昧な“行政権一元化理論”を推進し、大統領に国の行政権限を集中させ、実際には自分がそれを行使してしまうあたり、あれよあれよという展開が下手なホラー映画よりも恐ろしい。
9.11以降を描く映画の後半は、同時に公開されてる「記者たち 衝撃と畏怖の真実」と同じ内容の裏表の関係で、全く同じ場面も何度も出てくる。
両作品を観るとより興味深いが、政治は恐ろしく、民主主義は難しいものだということを実感。
石油利権のために、はじめに戦争ありきで理屈づけしていく過程で、ビン・ラディンとイラクで活動していたザルカウィを無理やり結びつけたおかげで、無名のテロリストだったザルカウィが一躍その筋のスターとなり、10年代のイスラミック・ステート(IS)による惨禍を招くなど、出口戦略無視が起こした典型的なバタフライ効果。
スケールはだいぶ小さいものの、利益誘導政治という意味では日本も似たようなもので、いつしかチェイニーとラムズフェルドと息子ブッシュが、同時代の日本のYKK(山崎拓・加藤紘一・小泉純一郎)、はたまた現在の安倍総理・麻生副総理のコンビに被って見えてくる。
イラクに大量破壊兵器が無かったことは、今では誰もが知っているが、ラムズフェルドが辞任に追い込まれたくらいで、ブッシュ政権中枢の誰も罪に問われてはいないのがうそ寒い現実。
この映画のストーリーテラーを巡る、終盤のあるエピソードはまさに「憎まれっ子世に憚る」だなあ。
アメリカならではの秀作ポリティカル・ブラック・コメディであり、事なかれ主義の日本では、少なくとも現在のメジャー系ではまず出てこないタイプの映画だろう。
ちなみにこれ、マーベル映画よろしくエンドクレジット中にも映像があるから、急いで席を立たないように。
辛口の映画の後は甘口の酒。
チェイニー夫妻が育ったワイオミングの名を持つカクテル、「ワイオミング・スイング」をチョイス。
ドライ・ベルモット20ml、スイート・ベルモット20ml、オレンジ・ジュース20ml、砂糖1/2tspをシェイクして、氷を入れたタンブラーに注ぐ。
最後にソーダで満たして、軽くステアして完成。
ドライとスイートのいいとこ取りを、オレンジ・ジュースとソーダがまとめ上げている。
チェイニー食えないオヤジだが、こちらはすっきりとした味わいで、とても飲みやすい。
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第43代アメリカ大統領、ジョージ・W・ブッシュ政権の副大統領として知られるディック・チェイニーの半生を描いた人間ドラマ・・・、もとい批判的ブラックコメディ。
タイトルの「VICE」には「副大統領(vice president)」の他に「悪徳」とか「堕落行為」などの意味がある。
ワイオミングの田舎育ちで、飲んだくれてその日暮らしをしていた若者が、いかにしてワシントンの要職を歴任し、ついには「影の大統領」と呼ばれるほどの権力者となり得たのか。
なぜ彼はイラク戦争を起こし、数千のアメリカの若者、数十万の民間人を死に追いやったのか。
「マネー・ショート 華麗なる大逆転」のアダム・マッケイ監督は、今回も怒涛の情報の津波で我々観客を圧倒し、アメリカの暗部を軽妙かつ赤裸々に描いてゆく。
ワシントン最強の腹黒オヤジを、クリスチャン・ベールが怪演。
チェイニーの妻リンをエイミー・アダムズ、息子ブッシュをサム・ロックウェル、国防長官ドナルド・ラムズフェルドをスティーブ・カレルが演じる。
まだ存命中の政財界の大物を、ここまで辛辣にこき下ろしちゃうのが、アメリカという国の深くて面白いところだなあ。
1963年、ワイオミング。
イエール大学を中退した22歳のディック・チェイニー(クリスチャン・ベール)は、将来の展望もなく酒に溺れた日々を送っている。
二度目の酔っ払い運転で捕まった日、恋人のリン(エイミー・アダムズ)は、人生を立て直すか、自分と別れるかの二択を迫る。
数年後、チェイニーはリンと共に首都ワシントンに。
彼女の言葉に奮起したチェイニーは、大学に入り直して卒業し、ワシントンの議会のインターンとして採用されたのだった。
ニクソン政権の機会均等局長、ドナルド・ラムズフェルド(スティーブ・カレル)の部下となったチェイニーは、彼からワシントンを生き抜くためのノウハウを学んで急速に頭角を現してゆく。
次席法律顧問を務めたニクソンがウォーターゲート事件で失脚すると、後を継いだフォード政権で史上最年少の大統領首席補佐官と出世の階段を駆け上る。
やがて、長い年月が流れた2001年9月11日、ブッシュ政権の副大統領となっていたチェイニーの元に、同時多発テロの一報が入る。
人々がパニックに陥る中、チェイニーだけがこれを千載一遇の“チャンス”と捉えていた・・・
むちゃくちゃ面白いぞ、これは。
映画のスタンスは、基本的に前作の「マネー・ショート」と同じ。
あの映画では、ウォール街に生きるマネーのプロフェッショナルたちの群像劇を通して、リーマンショックはなぜ起こったのか、拡大し続けけたバブルが弾けるまでの仕組みを、詳細かつ分かりやすく描いてみせた。
ドラマというよりは、ジャーナリズムとしての映画であり、登場人物は観客を感情移入させつつ、情報を届けるための駒に過ぎない。
本作でも、ディック・チェイニーの人物像をディープに描くのではなく、酒に溺れたクズ野郎が、いかにして影の大統領に上り詰めたのか、そのプロセスとメカニズム、米国と世界に与えた副作用を描く。
チェイニーの人生を、決定的に変えた人物が3人いる。
一人目は、典型的なダメ人間だった彼を奮起させた妻のリン。
彼女がいなければ、チェイニーはワイオミングの田舎にくすぶり、どこにでもいるレッドネックのプアホワイトで終わったかもしれない。
二人目が若き日の政治の師であり、後に盟友となるドナルド・ラムズフェルドで、三人目が副大統領として仕える息子ブッシュ。
彼らは皆、チェイニーの人生のそれぞれのステージで、彼の熱意と欲望の触媒となり、“怪物”の成長を後押しする。
彼の長いキャリアの間、ワシントンを支配した権力を振り返ると、共和党のニクソン、フォード政権から民主党のカーター政権を経て、共和党黄金期の80年代にはレーガン、父ブッシュ政権が計三期12年続き、チェイニーは父ブッシュ政権の国防長官を勤めている。
そして民主党のクリントン政権二期の後、満を持して出馬したゴア副大統領を破り、息子ブッシュが政権を奪取すると、石油企業ハリバートンのCEOになっていたチェイニーが政界に戻り副大統領に。
こうして改めて見ると、アメリカの歴史は基本的にずーっとシーソーゲームで、時に一気に時代が進み、時には後戻りしの繰り返し。
全体としては、着実に改革されているのだけど、初のアフリカ系大統領となったオバマ政権の後で、今は最悪の揺り戻し期というところだろうか。
映画は系列をシャッフルし、第四の壁をも超えて、半世紀分の出来事をスピーディに描いてゆく。
ほとんと全編、モンタージュのテクニックの見本市状態なのだが、私的に特に印象的だったのが二箇所。
息子ブッシュに副大統領就任の条件を語る時、実質的な大統領権限を奪い取る内容に、おバカなブッシュが食いついてくるのを、ルアーフィッシングと対比して描いた描写は秀逸。
チェイニーのズル賢さと、彼の“獲物”となる息子ブッシュの中身空っぽさに思わず苦笑。
彼はお飾りの大統領で、実質政権を仕切っていたのはネオコンの頭目のチェイニーやラムズフェルドなのが、その後のワシントンでの人事の描写でよく分かる。
もう一箇所は、イラク戦争開戦を告げる国民へのメッセージを息子ブッシュがテレビで読み上げる時、机の下で貧乏ゆすりしているのを描写した直後、爆撃下のイラクで市民が恐怖で震えているカットを組み合わせたところ。
会議室の決定と、その結果現場でどんなことが起こるのかのという現実を、見事に2カットで表してみせた。
思いっきり腹黒い奴に描かれた主人公を、ブラックな笑いに包むスタイルは、劇映画ではあるけど、印象としてはマイケル・ムーアのドキュメンタリーに近く、ぶっちゃければ反ネオコン、間接的には反トランプ政権の政治的プロパガンダだ。
ドラマ性を逸脱する作りゆえか、オスカーではメイクアップ賞以外主要部門は逃したが、133分の長尺を全く飽きさせないのはさすが。
デ・ニーロアプローチでチェイニーを演じるクリスチャン・ベールをはじめ、役者たちがあまりにも本物にソックリだから、何度も吹き出しそうになった。
単純な悪者ではなく、チェイニーを腹黒いが憎めないオヤジに描いたのも、二元論的ステロタイプにはめ込まない工夫。
キャラクター造形の多面性で効いてるのが、同性愛者であることを公表している次女のメアリーとのエピソードだ。
共和党保守派にとっては同性愛は忌むべきもので、娘が同性愛者だということは格好の攻撃目標となる。
しかしチェイニーは、自らの不利益を承知で、娘を受け入れ彼女を守るのだ。
もちろん、このスタンスが何があっても家族が大事という、“アメリカ的価値観”に合致していることは言うまでもないが、家族には向けられる愛情が、副大統領として仕える“国民”には向けられないアイロニーを感じさせる。
複雑な米国政治入門にもピッタリな映画だが、軽妙なタッチに大いに笑って楽しんで、どこかでチェイニーという男に惹かれてゆき、その結果変貌する世界の姿を突きつけられ背筋がゾーッ。
彼がやってるのは、典型的な利益誘導政治で、ハリバートンなどの石油業界との癒着なんかは非常に分かりやすいのだけど、悪質なのはそれを可能とするために悪影響など考えずに、合衆国が何世代にも渡ってブラッシュアップしてきた政治システムの根本を、あっさりと覆してしまうところだ。
特に9.11後のパニック状態を利用して、定義の曖昧な“行政権一元化理論”を推進し、大統領に国の行政権限を集中させ、実際には自分がそれを行使してしまうあたり、あれよあれよという展開が下手なホラー映画よりも恐ろしい。
9.11以降を描く映画の後半は、同時に公開されてる「記者たち 衝撃と畏怖の真実」と同じ内容の裏表の関係で、全く同じ場面も何度も出てくる。
両作品を観るとより興味深いが、政治は恐ろしく、民主主義は難しいものだということを実感。
石油利権のために、はじめに戦争ありきで理屈づけしていく過程で、ビン・ラディンとイラクで活動していたザルカウィを無理やり結びつけたおかげで、無名のテロリストだったザルカウィが一躍その筋のスターとなり、10年代のイスラミック・ステート(IS)による惨禍を招くなど、出口戦略無視が起こした典型的なバタフライ効果。
スケールはだいぶ小さいものの、利益誘導政治という意味では日本も似たようなもので、いつしかチェイニーとラムズフェルドと息子ブッシュが、同時代の日本のYKK(山崎拓・加藤紘一・小泉純一郎)、はたまた現在の安倍総理・麻生副総理のコンビに被って見えてくる。
イラクに大量破壊兵器が無かったことは、今では誰もが知っているが、ラムズフェルドが辞任に追い込まれたくらいで、ブッシュ政権中枢の誰も罪に問われてはいないのがうそ寒い現実。
この映画のストーリーテラーを巡る、終盤のあるエピソードはまさに「憎まれっ子世に憚る」だなあ。
アメリカならではの秀作ポリティカル・ブラック・コメディであり、事なかれ主義の日本では、少なくとも現在のメジャー系ではまず出てこないタイプの映画だろう。
ちなみにこれ、マーベル映画よろしくエンドクレジット中にも映像があるから、急いで席を立たないように。
辛口の映画の後は甘口の酒。
チェイニー夫妻が育ったワイオミングの名を持つカクテル、「ワイオミング・スイング」をチョイス。
ドライ・ベルモット20ml、スイート・ベルモット20ml、オレンジ・ジュース20ml、砂糖1/2tspをシェイクして、氷を入れたタンブラーに注ぐ。
最後にソーダで満たして、軽くステアして完成。
ドライとスイートのいいとこ取りを、オレンジ・ジュースとソーダがまとめ上げている。
チェイニー食えないオヤジだが、こちらはすっきりとした味わいで、とても飲みやすい。



2019年04月06日 (土) | 編集 |
今度は宇宙戦争だ!
2014年に、世界中で大ヒットした「LEGO ムービー」の続編。
完全な続きものなので、前作の鑑賞は必須だ。
フィル・ロードとクリストファー・ミラーはプロデュースと脚本に残り、監督はドリームワークスで「シュレック フォーエバー」「トロールズ」を撮ったマイク・ミッチェルにバトンタッチしたが、楽しさはしっかり受け継がれている。
主人公の“とことん普通の人”のエメットは、前作でレゴワールドの境界を超え“上にいるお方(人間)”の世界を垣間見る。
それは大人になって“永遠に完成しない”というレゴ本来の遊び方を忘れた、ウィル・ファレル演じる元レゴ少年のパパが、ブロックシティを接着剤で固めてしまおうとする姿。
そんな硬直したパパに抵抗する、現役レゴ少年の息子の訴えによって、ブロックシティは救われる。
しかし、平和を取り戻したはずのブロックシティに、謎のデュプロ星人が襲来。
幾度もの戦いを経て、ブロックシティはやがてマッドマックスみたいな荒廃した世界になってしまうのだ。
人間の世界の出来事が、レゴワールドを揺るがすドラマとなるメタ構造は今回も同じ。
ならば、ブロックシティを破滅させたデュプロ星人の正体とは何か?
そう、エメットたちレゴワールの住人たちの、今回の脅威は“兄妹喧嘩”だ。
一人っ子に弟か妹が出来ると、そこでは必ずオモチャの取り合いというプチ戦争が勃発する。
レゴを取り合う人間の兄妹のバトルにレゴワールドが巻き込まれ、そこに主人公のエメットの新たな葛藤が描かれるという訳。
前作のエメットは、何から何までマニュアル通りに生活する硬直したキャラクターだった。
ところがひょんなことから世界を救う“選ばれし者”と勘違いされたことから、冒険の旅に出て、人生には破壊と創造というイレギュラーが必要だと言うことを学ぶ。
重要なのは、彼が普通の人のままレゴワールドを救うと言うことで、ここに誰もが物語の主役になれるレゴの哲学があった。
今回も、どんなに世界が荒廃しても、エメットは普通を貫く。
本作におけるエメットの葛藤は、むしろ彼を普通じゃない人に変えようとするワイルドガールによってもたらされる。
そして、デュプロ星人にさらわれた彼女を救うため、再びの冒険に出た彼が出会うのが、ワイルドなバージョンのエメットとも言える、レックス・デンジャーベストと言う宇宙のアウトロー。
この内面こじらせ気味のキャラクターに影響されて、エメットがダークサイドに誘われ、そこに誰もが一緒に楽しめると言う、もう一つのレゴの本質の否定が絡む仕組み。
前作でレゴワールドを危機に陥れたのは、硬直した大人の心だったが、本作では分かち合うことの拒絶という訳だ。
なるほど、レゴの遊び方や面白さは無限だから、レゴを楽しめなくなる理由もまた無限。
兄弟姉妹のいる人なら、誰だってオモチャを独占して喧嘩になり、後悔した記憶があるだろうし、今回は親子でなく兄妹の関係をモチーフとすることで、うまい具合に前作とは違ったテーマを導き出してきた。
一見人形アニメーションに見えるCGは、さすがに初見の時の新鮮味は無いが、レゴワールドならではのレーベルを超えたキャラのごった煮感は、やはりワクワクする。
今回は、兄妹の世界を異なる宇宙に見立てた“宇宙戦争”ゆえ、エメットの冒険自体が、中の人クリス・プラットが今まで演じてきたキャラクターのパロディになってるのが特徴。
宇宙船のクルーは、なぜか知性を持ったヴェロキラプトルだし、ある秘密の過去を抱えたレックス・デンジャーベストとの対決は、「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス」で似たようなことをやっていた。
アニメーション史に残る大傑作、「スパイダーマン:スパイダーバース」でも際立っていたが、フィル・ロードとクリストファー・ミラーの脚本は、新しい映像テクノロジーと自らの映画的記憶に基づく悪ノリが、相乗効果となって物語を盛り立て、相変わらず見事だ。
前作に勝るとも劣らない、全ファミリー向けの娯楽快作である。
今回はLEGOの故郷、デンマークのちょっと変わり種のお酒「ガンメルダンスク」をチョイス。
ガンメルダンスクとは「昔のデンマーク」を意味する。
やっぱりビールが有名な国なんだけど、これは29種類のハーブやスパイスが配合された健康酒。
アルコール度は38度と強く、非常にビターなのが特徴。
ハーブ系の独特の香りは、好みが分かれるかもしれない。
ナイトキャップとして、ショットグラスで少量をストレートか水割りで、チビチビ飲むのがオススメ。
体が温まって寝つきが良くなる。
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2014年に、世界中で大ヒットした「LEGO ムービー」の続編。
完全な続きものなので、前作の鑑賞は必須だ。
フィル・ロードとクリストファー・ミラーはプロデュースと脚本に残り、監督はドリームワークスで「シュレック フォーエバー」「トロールズ」を撮ったマイク・ミッチェルにバトンタッチしたが、楽しさはしっかり受け継がれている。
主人公の“とことん普通の人”のエメットは、前作でレゴワールドの境界を超え“上にいるお方(人間)”の世界を垣間見る。
それは大人になって“永遠に完成しない”というレゴ本来の遊び方を忘れた、ウィル・ファレル演じる元レゴ少年のパパが、ブロックシティを接着剤で固めてしまおうとする姿。
そんな硬直したパパに抵抗する、現役レゴ少年の息子の訴えによって、ブロックシティは救われる。
しかし、平和を取り戻したはずのブロックシティに、謎のデュプロ星人が襲来。
幾度もの戦いを経て、ブロックシティはやがてマッドマックスみたいな荒廃した世界になってしまうのだ。
人間の世界の出来事が、レゴワールドを揺るがすドラマとなるメタ構造は今回も同じ。
ならば、ブロックシティを破滅させたデュプロ星人の正体とは何か?
そう、エメットたちレゴワールの住人たちの、今回の脅威は“兄妹喧嘩”だ。
一人っ子に弟か妹が出来ると、そこでは必ずオモチャの取り合いというプチ戦争が勃発する。
レゴを取り合う人間の兄妹のバトルにレゴワールドが巻き込まれ、そこに主人公のエメットの新たな葛藤が描かれるという訳。
前作のエメットは、何から何までマニュアル通りに生活する硬直したキャラクターだった。
ところがひょんなことから世界を救う“選ばれし者”と勘違いされたことから、冒険の旅に出て、人生には破壊と創造というイレギュラーが必要だと言うことを学ぶ。
重要なのは、彼が普通の人のままレゴワールドを救うと言うことで、ここに誰もが物語の主役になれるレゴの哲学があった。
今回も、どんなに世界が荒廃しても、エメットは普通を貫く。
本作におけるエメットの葛藤は、むしろ彼を普通じゃない人に変えようとするワイルドガールによってもたらされる。
そして、デュプロ星人にさらわれた彼女を救うため、再びの冒険に出た彼が出会うのが、ワイルドなバージョンのエメットとも言える、レックス・デンジャーベストと言う宇宙のアウトロー。
この内面こじらせ気味のキャラクターに影響されて、エメットがダークサイドに誘われ、そこに誰もが一緒に楽しめると言う、もう一つのレゴの本質の否定が絡む仕組み。
前作でレゴワールドを危機に陥れたのは、硬直した大人の心だったが、本作では分かち合うことの拒絶という訳だ。
なるほど、レゴの遊び方や面白さは無限だから、レゴを楽しめなくなる理由もまた無限。
兄弟姉妹のいる人なら、誰だってオモチャを独占して喧嘩になり、後悔した記憶があるだろうし、今回は親子でなく兄妹の関係をモチーフとすることで、うまい具合に前作とは違ったテーマを導き出してきた。
一見人形アニメーションに見えるCGは、さすがに初見の時の新鮮味は無いが、レゴワールドならではのレーベルを超えたキャラのごった煮感は、やはりワクワクする。
今回は、兄妹の世界を異なる宇宙に見立てた“宇宙戦争”ゆえ、エメットの冒険自体が、中の人クリス・プラットが今まで演じてきたキャラクターのパロディになってるのが特徴。
宇宙船のクルーは、なぜか知性を持ったヴェロキラプトルだし、ある秘密の過去を抱えたレックス・デンジャーベストとの対決は、「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス」で似たようなことをやっていた。
アニメーション史に残る大傑作、「スパイダーマン:スパイダーバース」でも際立っていたが、フィル・ロードとクリストファー・ミラーの脚本は、新しい映像テクノロジーと自らの映画的記憶に基づく悪ノリが、相乗効果となって物語を盛り立て、相変わらず見事だ。
前作に勝るとも劣らない、全ファミリー向けの娯楽快作である。
今回はLEGOの故郷、デンマークのちょっと変わり種のお酒「ガンメルダンスク」をチョイス。
ガンメルダンスクとは「昔のデンマーク」を意味する。
やっぱりビールが有名な国なんだけど、これは29種類のハーブやスパイスが配合された健康酒。
アルコール度は38度と強く、非常にビターなのが特徴。
ハーブ系の独特の香りは、好みが分かれるかもしれない。
ナイトキャップとして、ショットグラスで少量をストレートか水割りで、チビチビ飲むのがオススメ。
体が温まって寝つきが良くなる。



2019年04月03日 (水) | 編集 |
ママの元へ、飛ぶ!
私にとって、ダンボは幼い頃一番最初に知り、一番好きだったディズニーキャラクターだ。
当時はビデオテープなんて便利なものは無かった時代なので、本作の元となったオリジナルのアニメーション映画を観たのはずっと後。
家にあった絵本と、アメリカに留学していた親戚から、お土産にもらった大きなぬいぐるみが全てだった。
ずっと“友だち”だったぬいぐるみは、ボロボロになっていつの間にか消えていたのだが、おそらく汚いので親が捨てたのだと思う。
彼がいなくなったことに気づいた時は、悲しかったな。
思い出のダンボが、ティム・バートンによってリメイクされる。
バートンは元ディズニーのアニメーターだし、すでに「不思議の国のアリス」を「アリス・イン・ワンダーランド」として興行的成功に導いた実績もあり、何よりもダンボは彼が愛して止まない“奇形”の子象だ。
リメイクを担当する監督として、誰もが適任者として思い当たる人物だろうが、果たしてその仕上がりは。
第二次世界大戦中の、1941年に作られたアニメーション版は、上映時間64分。
コウノトリに届けられた異様に巨大な耳を持つ子象は、他の象たちから「ダンボ(間抜け)」とあだ名されバカにされる。
唯一ママのジャンボだけは我が子を愛するが、ダンボを守って暴れたために隔離されてしまう。
しかし、大きな耳が持つ可能性に気づいたネズミのティモシーに導かれ、空を飛べる様になったダンボは、一躍サーカスのスターとなり、ママとの再会を果たす。
112分と大幅に尺の長いバートン版だと、ここまでの話は前半のみで終了。
後半は全く新しいエピソードとなり、実写リメイクでありながら、同時に続編でもあるという変則的な作品になっている。
アニメーション版との一番の違いは、動物たちが擬人化されてないことと、人間側にもきちんとした物語があること。
舞台に設定されているのは、全世界で数千万人の命を奪ったスペイン風邪が猛威を振るい、第一次世界大戦が集結した直後の1919年。
かつてサーカスの花形スターだったが、戦争で片腕を失った復員兵のホルトと、母をスペイン風邪で亡くした彼の二人の子供たちが、不思議な耳を持つ子象と運命的に出会う。
ダンボが愛するママと引き離される物語に、最愛のママを病気で亡くした子供たちの喪失が重なり、戦争で片手を失ったパパの境遇が、共に“普通でない姿”を持つ者としてリンクする仕組み。
最初に映し出された時には、生っぽくてちょっと不気味なダンボが、話が進むにつれてどんどん可愛く見えてくるのは、さすが奇形偏愛のバートン演出。
冒頭の懐かしいマップアニメーションから、ダンボを飛ばす魔法の羽、役割は変わっているもののコウノトリやティモシーも出てくるし、あの悪夢的なピンクの象まで再現されているじゃないか!
まあ今見ると、「ドラッグでも決めて幻覚の中でコンテ書いたんじゃなの?」ってサイケっぷりは、だいぶ抑え気味だけど。
バートン的には、かつて自分をクビにした古巣ディズニーへの意趣返しも入ってるのか、後半はウォルトのパチモンみたいな、怪しさ満点のマイケル・キートンの娯楽王相手にやりたい放題だ。
金になるダンボ欲しさに、サーカス団丸ごと買収して直ぐに団員解雇って、つい先日20世紀FOX相手に同じことしてたような(苦笑
もっとも、この新しい後半部分によって、本作は完全に人間の物語となっており、そこは評価が分かれると思う。
本来ホルト親子はダンボの感情の代弁者の役割なのだが、後半になると主客転倒してダンボが脇役になってしまった。
一応、アニメーション版の要素をほとんど全部詰め込んでリスペクトした上で、やりたいことをやってはいるのだが、前半が比較的忠実なだけに、バートンの作家性が全開となる後半は、「これがダンボだって?」と違和感を感じる向きもあるだろう。
個人的には、肝心のダンボのキャラクターがブレてないので、これはこれで良しとしたい。
これまでの正統派のディズニー実写リメイク作品群とはだいぶ趣は異なるが、ダンボもバートンも好きな私としては、「ダンボ」ミーツ「ビートルジュース」の闇鍋的怪作として楽しめた。
今回はピンクの象のラベルで知られるベルギーを代表するビールの一つ、「デリリュウム トレメンス」をチョイス。
アルコール度は8.5%と高く、飲みごたえのあるパワフルなフルボディ。
フルーティな香り高く、ほのかな甘みと苦味と酸味のバランス良し。
ボトルのデザインはかわいいが、デリリュウム トレメンスとはオランダ語で「アルコール中毒の震え」を意味し、飲みすぎるとボトルに描かれている動物たちの幻覚を見るという。
て言うか、アニメーション版の悪夢のシーンの元ネタは、もしかしてこのビールなのか?
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私にとって、ダンボは幼い頃一番最初に知り、一番好きだったディズニーキャラクターだ。
当時はビデオテープなんて便利なものは無かった時代なので、本作の元となったオリジナルのアニメーション映画を観たのはずっと後。
家にあった絵本と、アメリカに留学していた親戚から、お土産にもらった大きなぬいぐるみが全てだった。
ずっと“友だち”だったぬいぐるみは、ボロボロになっていつの間にか消えていたのだが、おそらく汚いので親が捨てたのだと思う。
彼がいなくなったことに気づいた時は、悲しかったな。
思い出のダンボが、ティム・バートンによってリメイクされる。
バートンは元ディズニーのアニメーターだし、すでに「不思議の国のアリス」を「アリス・イン・ワンダーランド」として興行的成功に導いた実績もあり、何よりもダンボは彼が愛して止まない“奇形”の子象だ。
リメイクを担当する監督として、誰もが適任者として思い当たる人物だろうが、果たしてその仕上がりは。
第二次世界大戦中の、1941年に作られたアニメーション版は、上映時間64分。
コウノトリに届けられた異様に巨大な耳を持つ子象は、他の象たちから「ダンボ(間抜け)」とあだ名されバカにされる。
唯一ママのジャンボだけは我が子を愛するが、ダンボを守って暴れたために隔離されてしまう。
しかし、大きな耳が持つ可能性に気づいたネズミのティモシーに導かれ、空を飛べる様になったダンボは、一躍サーカスのスターとなり、ママとの再会を果たす。
112分と大幅に尺の長いバートン版だと、ここまでの話は前半のみで終了。
後半は全く新しいエピソードとなり、実写リメイクでありながら、同時に続編でもあるという変則的な作品になっている。
アニメーション版との一番の違いは、動物たちが擬人化されてないことと、人間側にもきちんとした物語があること。
舞台に設定されているのは、全世界で数千万人の命を奪ったスペイン風邪が猛威を振るい、第一次世界大戦が集結した直後の1919年。
かつてサーカスの花形スターだったが、戦争で片腕を失った復員兵のホルトと、母をスペイン風邪で亡くした彼の二人の子供たちが、不思議な耳を持つ子象と運命的に出会う。
ダンボが愛するママと引き離される物語に、最愛のママを病気で亡くした子供たちの喪失が重なり、戦争で片手を失ったパパの境遇が、共に“普通でない姿”を持つ者としてリンクする仕組み。
最初に映し出された時には、生っぽくてちょっと不気味なダンボが、話が進むにつれてどんどん可愛く見えてくるのは、さすが奇形偏愛のバートン演出。
冒頭の懐かしいマップアニメーションから、ダンボを飛ばす魔法の羽、役割は変わっているもののコウノトリやティモシーも出てくるし、あの悪夢的なピンクの象まで再現されているじゃないか!
まあ今見ると、「ドラッグでも決めて幻覚の中でコンテ書いたんじゃなの?」ってサイケっぷりは、だいぶ抑え気味だけど。
バートン的には、かつて自分をクビにした古巣ディズニーへの意趣返しも入ってるのか、後半はウォルトのパチモンみたいな、怪しさ満点のマイケル・キートンの娯楽王相手にやりたい放題だ。
金になるダンボ欲しさに、サーカス団丸ごと買収して直ぐに団員解雇って、つい先日20世紀FOX相手に同じことしてたような(苦笑
もっとも、この新しい後半部分によって、本作は完全に人間の物語となっており、そこは評価が分かれると思う。
本来ホルト親子はダンボの感情の代弁者の役割なのだが、後半になると主客転倒してダンボが脇役になってしまった。
一応、アニメーション版の要素をほとんど全部詰め込んでリスペクトした上で、やりたいことをやってはいるのだが、前半が比較的忠実なだけに、バートンの作家性が全開となる後半は、「これがダンボだって?」と違和感を感じる向きもあるだろう。
個人的には、肝心のダンボのキャラクターがブレてないので、これはこれで良しとしたい。
これまでの正統派のディズニー実写リメイク作品群とはだいぶ趣は異なるが、ダンボもバートンも好きな私としては、「ダンボ」ミーツ「ビートルジュース」の闇鍋的怪作として楽しめた。
今回はピンクの象のラベルで知られるベルギーを代表するビールの一つ、「デリリュウム トレメンス」をチョイス。
アルコール度は8.5%と高く、飲みごたえのあるパワフルなフルボディ。
フルーティな香り高く、ほのかな甘みと苦味と酸味のバランス良し。
ボトルのデザインはかわいいが、デリリュウム トレメンスとはオランダ語で「アルコール中毒の震え」を意味し、飲みすぎるとボトルに描かれている動物たちの幻覚を見るという。
て言うか、アニメーション版の悪夢のシーンの元ネタは、もしかしてこのビールなのか?

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