■ お知らせ
※基本的にネタバレありです。ご注意ください。
※当ブログはリンクフリーです。内容の無断転載はお断りいたします。
※ブログ環境の相性によっては、TB・コメントのお返事が出来ない事があります。ご了承ください
※エロ・グロ・出会い系のTB及びコメントは、削除の上直ちにブログ管理会社に通報させていただきます。 また記事と無関係な物や当方が不適切と判断したTB・コメントも削除いたします。
■TITLE INDEX
※タイトルインディックスを作りました。こちらからご利用ください。
■ ツイッターアカウント※基本的にネタバレありです。ご注意ください。
※当ブログはリンクフリーです。内容の無断転載はお断りいたします。
※ブログ環境の相性によっては、TB・コメントのお返事が出来ない事があります。ご了承ください
※エロ・グロ・出会い系のTB及びコメントは、削除の上直ちにブログ管理会社に通報させていただきます。 また記事と無関係な物や当方が不適切と判断したTB・コメントも削除いたします。
■TITLE INDEX
※タイトルインディックスを作りました。こちらからご利用ください。
※noraneko285でつぶやいてます。ブログで書いてない映画の話なども。
※noraneko285ツイッターでつぶやいた全作品をアーカイブしています。


2019年06月29日 (土) | 編集 |
青春だよ、スパイディ!第二章。
「アベンジャーズ/エンドゲーム」で、指パッチンからの生還を果たしたピーター・パーカーの次なる冒険。
宇宙と世界を救う壮大な叙事詩だった「エンドゲーム」とは異なり、“親愛なる隣人”の物語はグッと小さく、パーソナルに。
MJへの恋心を募らせ、夏休みのヨーロッパ旅行で告白を目論むピーターと、何とかして彼に弱体化したアベンジャーズの中心メンバー、ヒーローとしての自覚を持たせようとするニック・フューリーのせめぎ合い。
そこへ多次元宇宙の別の地球から来たという、ジェイク・ギレンホール演じるミステリオと、謎の怪物エレメンタルズの脅威が絡み合う。
脚本のクリス・マッケナ、エリック・ソマーズ、監督のジョン・ワッツは前作「スパイダーマン:ホーム・カミング」からの続投。
軽妙な青春アクションコメディは、ゲップが出そうな重厚さだった「エンドゲーム」から、未知なるMCUフェイズ4への橋渡し役として、素晴らしい仕上がりだ。
※核心部分に触れています。
アベンジャーズの活躍によって、5年前に消えた人々が蘇り、世界は再び動き出した。
ピーター・パーカー(トム・ホランド)も、スパイダーマンとしての活動を再開するが、世間の「トニー・スタークの後継者」という期待にはプレッシャーを感じている。
ニック・フューリー(サミュエル・L・ジャクソン)からの電話をシカトしたピーターは、MJ(ゼンデイヤ)やネッド(ジェイコブ・バタロン)と共に、学校のサイエンスツアーで2週間のヨーロッパ旅行へと出かける。
この旅行中にMJに告白することを決意したピーターだったが、ベネチアで巨大な水の怪物に襲われ、人々から「ミステリオ」と呼ばれる謎のヒーローに救われる。
その男、クエンティン・ベック(ジェイク・ギレンホール)は、多次元宇宙(マルチバース)から来た存在で、彼らの「アース833」を滅ぼしたエレメンタルズと呼ばれる怪物たちを追って、ピーターたちの住む「アース616」にやって来たと告げる。
戸惑うピーターに、フューリーはスタークの遺品として「E.D.I.T.H.」という、スタークの全ての遺産にアクセスできる人工知能端末の眼鏡を手渡し、彼の後継者として覚悟を決めろと迫る。
しかし、どうしてもMJに告白したいピーターは、ミステリオとの共闘の申し出を断り、旅行に戻るのだが・・・
端的に言って最高。
新キャラクターのミステリオの扱いがキモだが、やっぱりジェイク・ギレンホールがただのヒーローを演じる訳もなく、設定は割とコミック版に忠実。
つまり物語的には、予測できていたものが全てで、意外な要素は殆ど無い。
にもかかわらず、この未見性の高さはどうだ!
本作は「エンドゲーム」の直後で、いわば世界が“アベンジャーズ ・ロス”に陥っているのがポイントだ。
トニー・スタークとナターシャ・ロマノフは、サノスとの戦いの犠牲となり、スティーブ・ロジャースは本来の自分の居場所だった過去へ、リボウスキ化したソーは、ガーディアンズと共に宇宙へと去った。
映画の世界が抱いている喪失感は、そのまま12年間MCUを追い続けて、「エンドゲーム」を観終わったファンの感覚と同じなのだ。
中でも一番ロスしてるのが、トニーの愛弟子のピーターで、ファンからするとこれほど感情移入しやすいキャラクターもいないだろう。
正体を知らない世間からは、“次代のトニー・スターク”として期待されてるけど、16歳の高校生にはまだ荷が重すぎるし、ぶっちゃけ世界を救うよりMJにコクる方が重要なお年頃。
等身大のティーンの普遍的な葛藤は、とても分かりやすい。
青春コメディとしても小ネタの連続でクスクスが止まらず、ディテールの設定と描写で意外性を巧みに導き出す。
まさかハッピーをメイおばさんとの絡みで生かすとか、想像もしなかったよ。
そういえば「エンドゲーム」の時に、「指パッチンで消えた人々が、5年前のままの姿で突然現れるのは、それはそれで大混乱を招きそう」と書いたが、ディズニー/マーベルの中の人たちも同じことを思っていたのが分かった(笑
そして何より「フェイクニュース」の時代に、フェイクを作り出すミステリオを引っ張り出してきた時局センスに脱帽だ。
コミックのミステリオは、スパイダーマンに嫉妬して、彼を陥れて自分がヒーローになろうとするセコイ映画のVFXマンだったが、本作ではトニー・スタークに冷遇され、恨みを募らせた元スターク・インダストリーの社員設定。
トニーはあの性格だから、敵も作りやすい。
仕事にダメ出しされて恨みを抱いた社員たちがグループを作り、それぞれの特技を持ち寄って怪物騒動をでっち上げ、アベンジャーズのいない世界で、アイアンマンに替わるパチモンのヒーローになることで、トニーに復讐しようとする。
善玉も悪玉も、既に亡き人であるトニーに心を支配されているのが面白いが、VFXどころか超テクノロジーを駆使して、ウルトラリアルなフェイクを作り出すミステリオとそのチームに、ピーターはもちろん、フューリーですらもすっかり騙されてしまう。
何かを切実に求めている時、人は一番騙されやすくなるという寓話としても秀逸だ。
ミステリオの作り出す、変幻自在のフェイクの世界を生かした、アクションシークエンスも見応えたっぷり。
水の都ベニスでは、水のエレメントの怪物ハイドロンを登場させ、中世錬金術の聖地だったプラハでは、最強の火のエレメントのヘルファイアが出て来たり、しっかりと地域特性を出して、観光映画としても成立させている遊び心がいい。
特筆すべきは、ジョン・ワッツのアクション演出が、格段に上手くなっていること。
前作では、カットを短く割り過ぎて、何が起こっているのかが分かり難い部分が多々あったが、今回は緩急のつけ方も巧みで、全てがちゃんと見える。
ダイナミックなスパイダースウィングも復活し、観客がアメコミ活劇に期待するビジュアルを、しっかりと見せてくれるのだ。
確かに、「アベンジャーズ」系の重厚長大な作品と比べると、グッと砕けてライトな本作は、人によっては物足りなさを感じるかもしれない。
しかし、これはあくまでも発展途上の若者、ピーター・パーカーの青春ストーリーであり、彼はサム・ライミ版やマーク・ウェブ版のピーターと比べても、ずっと幼いのだ。
MCU作品としては珍しく、本作には他のヒーローが全く登場しないのも、これが成長を描く物語ゆえだろう。
一度はトニーの後継者に相応しいと確信したミステリオに裏切られ、もはやスーパーパワーを持つのは自分だけの状況に追い込まれたピーターは、大切な人たちを守るため、たった一人で考え、決断しなければならない。
そしてそれは、来たるMCUフェイズ4に向けて、真のヒーローとしてのスパイダーマンの覚醒の物語となる。
彼の後見人の役割となるハッピーを演じるのが、12年前のMCU第1作「アイアンマン」の監督だったジョン・ファヴローなのも感慨深い。
あるのか?まさかの「ハッピーおじさん」的展開は?(笑
例によってエンドクレジット中と終わりに二つオマケがあるが、最後の最後まで「フェイクであること」を前面に出して来たのも面白い。
エンドクレジット後の、“あのキャラクター”の再登場も期待を煽るが、それ以上に興味を惹かれたのが、クレジット中のミステリオがフェイクニュースでスパイダーマンに濡れ衣を着せるシーンだ。
ここで、デイリー・ビューグルのJ・ジョナ・ジェイムソン役で、サム・ライミ版三部作で同役を演じたJ・K・シモンズがカメオ出演しているじゃないか!
ミステリオの言うマルチバースはフェイクだった訳だが、アニメーション版の「スパイダーマン:スパイダーバース」でマルチバースが描かれている以上、実写版でも可能性はアリだろう。
12年ぶりのシモンズの再登場は、噂されるトム・ホランド、トビー・マグワイア、アンドリュー・ガーフィールドが揃い踏みする、実写版「スパイダーバース」への布石なのだろうか。
フェイズ4からの、新生MCUが待ちきれない!
今回はスパイダーマンがミステリオに一刺しされちゃう話なので、「痛撃」あるいは「皮肉屋」の意味を持つカクテル「スティンガー」をチョイス。
ブランデー45ml、ペパーミント・ホワイト15mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
ブランデーの銘柄次第で味が大きく変わるが、濃厚なブランデーとスッキリとしたペパーミント・ホワイトのコンビネーションは刺激的。
ベースをブランデーからウォッカに変えると、前作に合わせた「ホワイト・スパイダー」となり、アブサンを2dash加えることで「スティンガー・ロイヤル」へと変化する。
記事が気に入ったらクリックしてね
「アベンジャーズ/エンドゲーム」で、指パッチンからの生還を果たしたピーター・パーカーの次なる冒険。
宇宙と世界を救う壮大な叙事詩だった「エンドゲーム」とは異なり、“親愛なる隣人”の物語はグッと小さく、パーソナルに。
MJへの恋心を募らせ、夏休みのヨーロッパ旅行で告白を目論むピーターと、何とかして彼に弱体化したアベンジャーズの中心メンバー、ヒーローとしての自覚を持たせようとするニック・フューリーのせめぎ合い。
そこへ多次元宇宙の別の地球から来たという、ジェイク・ギレンホール演じるミステリオと、謎の怪物エレメンタルズの脅威が絡み合う。
脚本のクリス・マッケナ、エリック・ソマーズ、監督のジョン・ワッツは前作「スパイダーマン:ホーム・カミング」からの続投。
軽妙な青春アクションコメディは、ゲップが出そうな重厚さだった「エンドゲーム」から、未知なるMCUフェイズ4への橋渡し役として、素晴らしい仕上がりだ。
※核心部分に触れています。
アベンジャーズの活躍によって、5年前に消えた人々が蘇り、世界は再び動き出した。
ピーター・パーカー(トム・ホランド)も、スパイダーマンとしての活動を再開するが、世間の「トニー・スタークの後継者」という期待にはプレッシャーを感じている。
ニック・フューリー(サミュエル・L・ジャクソン)からの電話をシカトしたピーターは、MJ(ゼンデイヤ)やネッド(ジェイコブ・バタロン)と共に、学校のサイエンスツアーで2週間のヨーロッパ旅行へと出かける。
この旅行中にMJに告白することを決意したピーターだったが、ベネチアで巨大な水の怪物に襲われ、人々から「ミステリオ」と呼ばれる謎のヒーローに救われる。
その男、クエンティン・ベック(ジェイク・ギレンホール)は、多次元宇宙(マルチバース)から来た存在で、彼らの「アース833」を滅ぼしたエレメンタルズと呼ばれる怪物たちを追って、ピーターたちの住む「アース616」にやって来たと告げる。
戸惑うピーターに、フューリーはスタークの遺品として「E.D.I.T.H.」という、スタークの全ての遺産にアクセスできる人工知能端末の眼鏡を手渡し、彼の後継者として覚悟を決めろと迫る。
しかし、どうしてもMJに告白したいピーターは、ミステリオとの共闘の申し出を断り、旅行に戻るのだが・・・
端的に言って最高。
新キャラクターのミステリオの扱いがキモだが、やっぱりジェイク・ギレンホールがただのヒーローを演じる訳もなく、設定は割とコミック版に忠実。
つまり物語的には、予測できていたものが全てで、意外な要素は殆ど無い。
にもかかわらず、この未見性の高さはどうだ!
本作は「エンドゲーム」の直後で、いわば世界が“アベンジャーズ ・ロス”に陥っているのがポイントだ。
トニー・スタークとナターシャ・ロマノフは、サノスとの戦いの犠牲となり、スティーブ・ロジャースは本来の自分の居場所だった過去へ、リボウスキ化したソーは、ガーディアンズと共に宇宙へと去った。
映画の世界が抱いている喪失感は、そのまま12年間MCUを追い続けて、「エンドゲーム」を観終わったファンの感覚と同じなのだ。
中でも一番ロスしてるのが、トニーの愛弟子のピーターで、ファンからするとこれほど感情移入しやすいキャラクターもいないだろう。
正体を知らない世間からは、“次代のトニー・スターク”として期待されてるけど、16歳の高校生にはまだ荷が重すぎるし、ぶっちゃけ世界を救うよりMJにコクる方が重要なお年頃。
等身大のティーンの普遍的な葛藤は、とても分かりやすい。
青春コメディとしても小ネタの連続でクスクスが止まらず、ディテールの設定と描写で意外性を巧みに導き出す。
まさかハッピーをメイおばさんとの絡みで生かすとか、想像もしなかったよ。
そういえば「エンドゲーム」の時に、「指パッチンで消えた人々が、5年前のままの姿で突然現れるのは、それはそれで大混乱を招きそう」と書いたが、ディズニー/マーベルの中の人たちも同じことを思っていたのが分かった(笑
そして何より「フェイクニュース」の時代に、フェイクを作り出すミステリオを引っ張り出してきた時局センスに脱帽だ。
コミックのミステリオは、スパイダーマンに嫉妬して、彼を陥れて自分がヒーローになろうとするセコイ映画のVFXマンだったが、本作ではトニー・スタークに冷遇され、恨みを募らせた元スターク・インダストリーの社員設定。
トニーはあの性格だから、敵も作りやすい。
仕事にダメ出しされて恨みを抱いた社員たちがグループを作り、それぞれの特技を持ち寄って怪物騒動をでっち上げ、アベンジャーズのいない世界で、アイアンマンに替わるパチモンのヒーローになることで、トニーに復讐しようとする。
善玉も悪玉も、既に亡き人であるトニーに心を支配されているのが面白いが、VFXどころか超テクノロジーを駆使して、ウルトラリアルなフェイクを作り出すミステリオとそのチームに、ピーターはもちろん、フューリーですらもすっかり騙されてしまう。
何かを切実に求めている時、人は一番騙されやすくなるという寓話としても秀逸だ。
ミステリオの作り出す、変幻自在のフェイクの世界を生かした、アクションシークエンスも見応えたっぷり。
水の都ベニスでは、水のエレメントの怪物ハイドロンを登場させ、中世錬金術の聖地だったプラハでは、最強の火のエレメントのヘルファイアが出て来たり、しっかりと地域特性を出して、観光映画としても成立させている遊び心がいい。
特筆すべきは、ジョン・ワッツのアクション演出が、格段に上手くなっていること。
前作では、カットを短く割り過ぎて、何が起こっているのかが分かり難い部分が多々あったが、今回は緩急のつけ方も巧みで、全てがちゃんと見える。
ダイナミックなスパイダースウィングも復活し、観客がアメコミ活劇に期待するビジュアルを、しっかりと見せてくれるのだ。
確かに、「アベンジャーズ」系の重厚長大な作品と比べると、グッと砕けてライトな本作は、人によっては物足りなさを感じるかもしれない。
しかし、これはあくまでも発展途上の若者、ピーター・パーカーの青春ストーリーであり、彼はサム・ライミ版やマーク・ウェブ版のピーターと比べても、ずっと幼いのだ。
MCU作品としては珍しく、本作には他のヒーローが全く登場しないのも、これが成長を描く物語ゆえだろう。
一度はトニーの後継者に相応しいと確信したミステリオに裏切られ、もはやスーパーパワーを持つのは自分だけの状況に追い込まれたピーターは、大切な人たちを守るため、たった一人で考え、決断しなければならない。
そしてそれは、来たるMCUフェイズ4に向けて、真のヒーローとしてのスパイダーマンの覚醒の物語となる。
彼の後見人の役割となるハッピーを演じるのが、12年前のMCU第1作「アイアンマン」の監督だったジョン・ファヴローなのも感慨深い。
あるのか?まさかの「ハッピーおじさん」的展開は?(笑
例によってエンドクレジット中と終わりに二つオマケがあるが、最後の最後まで「フェイクであること」を前面に出して来たのも面白い。
エンドクレジット後の、“あのキャラクター”の再登場も期待を煽るが、それ以上に興味を惹かれたのが、クレジット中のミステリオがフェイクニュースでスパイダーマンに濡れ衣を着せるシーンだ。
ここで、デイリー・ビューグルのJ・ジョナ・ジェイムソン役で、サム・ライミ版三部作で同役を演じたJ・K・シモンズがカメオ出演しているじゃないか!
ミステリオの言うマルチバースはフェイクだった訳だが、アニメーション版の「スパイダーマン:スパイダーバース」でマルチバースが描かれている以上、実写版でも可能性はアリだろう。
12年ぶりのシモンズの再登場は、噂されるトム・ホランド、トビー・マグワイア、アンドリュー・ガーフィールドが揃い踏みする、実写版「スパイダーバース」への布石なのだろうか。
フェイズ4からの、新生MCUが待ちきれない!
今回はスパイダーマンがミステリオに一刺しされちゃう話なので、「痛撃」あるいは「皮肉屋」の意味を持つカクテル「スティンガー」をチョイス。
ブランデー45ml、ペパーミント・ホワイト15mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
ブランデーの銘柄次第で味が大きく変わるが、濃厚なブランデーとスッキリとしたペパーミント・ホワイトのコンビネーションは刺激的。
ベースをブランデーからウォッカに変えると、前作に合わせた「ホワイト・スパイダー」となり、アブサンを2dash加えることで「スティンガー・ロイヤル」へと変化する。

スポンサーサイト


2019年06月27日 (木) | 編集 |
それは偽善か、愛情か。
今日のアメコミ映画全盛期の礎となった「X-MEN」シリーズ、7作目にして一応の完結編。
X-MENの活躍によって、ミュータントたちが一定のリスペクトを受けるようになった世界。
NASAのスペースシャトル救出ミッションに赴いた最強ミュータントのジーン・グレイが、予期せぬ事故に遭遇し、封印されていた記憶と共に、彼女の心のダークサイドが覚醒してしまう。
ジェームズ・マカヴォイやマイケル・ファスベンダーらおなじみの面々に加えて、鍵を握る新キャラクターにジェシカ・チャステイン。
前作の「X-MEN:アポカリプス」に引き続き、ソフィー・ターナーがタイトルロールの「ダーク・フェニックス」ことジーン・グレイを演じる。
「X-MEN:フューチャー&パスト」など、シリーズ数作品でプロデュースと脚本を務めたサイモン・キンバーグが初メガホンをとった。
1992年。
チャールズ・エグゼビア(ジェームズ・マカヴォイ)率いるX-MENの活躍によって、ミュータントは市民権を得て、子供たちのヒーローに。
しかしある時、遭難したスペースシャトル・エンデバーの救出ミッションに赴いたX-MENは、乗員全員の救出に成功するも、逃げ遅れたジーン・グレイ(ソフィー・ターナー)が謎の宇宙放射線を浴びてしまう。
彼女の能力は急速に増大し、それによって封印されていた記憶が蘇る。
遠い昔、チャールズは幼いジーンの心を操作し、恐ろしい事故の記憶を封印していたのだ。
チャールズへの不信感を募らせたジーンの中で、増大する力は制御不能となり、思わぬ悲劇が起こる。
帰る家を失い、追われる身となったジーンの元へ、彼女の力を狙う謎の女ヴーク(ジェシカ・チャステイン)が近づいてくる・・・
本国での評判があまりに酷かったので、地雷踏むつもりだったのだが、全然悪くないじゃないか。
やっぱり映画は自分で観るまで分からない。
宇宙で謎の放射線を吸収したことで、増大する力と共に、封印された記憶が蘇ってしまったジーン。
彼女はチャールズが自分の心を操って、記憶を改ざんしていたことを知ってしまう。
チャールズにしてみれば、能力の暴走によってジーンが最愛の母親を殺してしまい、娘の力に恐怖した父親に捨てられた記憶を封印したのは良かれと思ってのこと。
幼い彼女の心には、残酷すぎる事実だからだ。
しかし、親代わりだったチャールズの行為を裏切りと捉えたジーンは、だんだんと自己の制御を失い、ジェシカ・チャステイン演じるシェイプシフター系の宇宙人が、地球侵略のために彼女を操ろうと悪巧み。
宇宙人の陰謀を阻止し、壊れた信頼をいかにして取り戻すのか?という話。
今回はジーンとチャールズのダブル主人公体制で、同じイッシューを双方から描く。
シリーズの生みの親であるブライアン・シンガーは、ユダヤ人で、ゲイであることを公言している。
性的・民族的マイノリティである彼は、元々原作の「X-MEN」シリーズが内包していた反差別、反ナチズムのテーマを前面に出し、大人の鑑賞に堪えうる社会派アメコミ映画というムーブメントを作り出した。
2000年公開の第一作以来20年、シリーズのバックボーンとしてこのテーマは一貫しており、それは今回も変わらない。
ただ、サイモン・キンバーグは、マイノリティの葛藤はキープしつつも、疑似家族としての「ミュータント同士の信頼」というよりパーソナルな部分をフィーチャーする。
ジーンの増大する能力は、信頼の崩壊の要因となるものの、それ自体が問題ではない。
一応、ヴィランの宇宙人も出てくるが、彼らの物語上の位置付けも、信頼の再生のためのトリガーに過ぎないのである。
ここで描かれるのは、基本的には親離れ子離れの寓話。
チャールズは、X-MENのリーダーであるのと同時に、「恵まれし子らの学園」を主宰する教育者でもある。
ミュータントが差別と迫害の対象であることを誰よりも知る彼は、子供たちを庇護する一方で、X-MENの活躍をある種の広報活動として世間に広め、この世界にミュータントというマイノリティの安全な居場所を確保しようとしている。
だから、その大義のためなら自己犠牲を強いることもあり、もはや子供ではないX-MENメンバーには、自分たちを利用しているとして反発を招く。
チャールズの独善に個人として異議を唱えるのが、従順な男の子たちではなく、レイヴンであったり、ジーンであったり、現場で果敢にリーダーシップを取る“X-WOMEN”なのは象徴的だ。
また、本作が帰結する先は、特に「X-MEN:ファースト・ジェネレーション」から始まった新シリーズが、多分にBLチックな愛憎を抱えた、チャールズとエリックの物語であることを改めて思い起こさせる。
比較的恵まれた環境で育ったチャールズに対し、ナチスの絶滅収容所で母を殺されたエリックは、マジョリティへの憎しみと疑心暗鬼を捨てられない訳だが、だからこそ本作のクライマックスが、“収容所行きの列車”である設定が生きる。
チャールズに裏切られ、エリックにも拒絶されたジーンの信頼を取り戻し、良き人間、良き家族としての彼女が蘇る物語は、X-MENとブラザーフッドの辿ってきた歴史を内包しているのである。
そしてチャールズとエリックは、自らが成し遂げたことの結末を見届け、自分たちの役割が終わったことを悟るのだ。
本作は基本的にはX-MENチーム内での人間関係の話で、案外こぢんまりとした内容だったりする。
既視感も多々あるし、スペクタクルなビジュアル的要素は相対的に少ない。
ぶっちゃけ、シリーズの大団円としては新旧のキャストが連合した「フューチャー&パスト」が最も相応しかったかも知れない。
シリーズの顔だったウルヴァリンも、既に「LOGAN ローガン」を最後にシリーズを去っているのも寂しい。
しかし、「フューチャー&パスト」でパラレルワールド設定となり、これを第1作には繋がらないチャールズとエリックの物語として捉えれば、、一応の完結編としても納得出来る作品だったと思う。
クイックシルバーがちょっと割りを食っていたが、それぞれのキャラクターに花を持たせるバランスもいい。
“居場所”を巡る疑似家族の寓話は、実にX-MENらしいエンディングだと思う。
敵がむちゃくちゃ強かった以外、全く意外性のなかった前作「アポカリプス」よりも、キンバーグの想いが感じられるこちらの方が、ずっと好きな作品だ。
今回は、タイトル通り「フェニックス」をチョイス。
ウオッカ30ml、ピーチリキュール25ml、アマレットリキュール5ml、パイナップルジュース45ml、オレンジジュース45mlをシェイクし、氷を入れたタンブラーに注ぐ。
マラスキーノチェリーとミントの葉を飾って完成。
フルーティでスッキリ、ジトジトした梅雨を吹き飛ばしてくれるカクテルだ。
記事が気に入ったらクリックしてね
今日のアメコミ映画全盛期の礎となった「X-MEN」シリーズ、7作目にして一応の完結編。
X-MENの活躍によって、ミュータントたちが一定のリスペクトを受けるようになった世界。
NASAのスペースシャトル救出ミッションに赴いた最強ミュータントのジーン・グレイが、予期せぬ事故に遭遇し、封印されていた記憶と共に、彼女の心のダークサイドが覚醒してしまう。
ジェームズ・マカヴォイやマイケル・ファスベンダーらおなじみの面々に加えて、鍵を握る新キャラクターにジェシカ・チャステイン。
前作の「X-MEN:アポカリプス」に引き続き、ソフィー・ターナーがタイトルロールの「ダーク・フェニックス」ことジーン・グレイを演じる。
「X-MEN:フューチャー&パスト」など、シリーズ数作品でプロデュースと脚本を務めたサイモン・キンバーグが初メガホンをとった。
1992年。
チャールズ・エグゼビア(ジェームズ・マカヴォイ)率いるX-MENの活躍によって、ミュータントは市民権を得て、子供たちのヒーローに。
しかしある時、遭難したスペースシャトル・エンデバーの救出ミッションに赴いたX-MENは、乗員全員の救出に成功するも、逃げ遅れたジーン・グレイ(ソフィー・ターナー)が謎の宇宙放射線を浴びてしまう。
彼女の能力は急速に増大し、それによって封印されていた記憶が蘇る。
遠い昔、チャールズは幼いジーンの心を操作し、恐ろしい事故の記憶を封印していたのだ。
チャールズへの不信感を募らせたジーンの中で、増大する力は制御不能となり、思わぬ悲劇が起こる。
帰る家を失い、追われる身となったジーンの元へ、彼女の力を狙う謎の女ヴーク(ジェシカ・チャステイン)が近づいてくる・・・
本国での評判があまりに酷かったので、地雷踏むつもりだったのだが、全然悪くないじゃないか。
やっぱり映画は自分で観るまで分からない。
宇宙で謎の放射線を吸収したことで、増大する力と共に、封印された記憶が蘇ってしまったジーン。
彼女はチャールズが自分の心を操って、記憶を改ざんしていたことを知ってしまう。
チャールズにしてみれば、能力の暴走によってジーンが最愛の母親を殺してしまい、娘の力に恐怖した父親に捨てられた記憶を封印したのは良かれと思ってのこと。
幼い彼女の心には、残酷すぎる事実だからだ。
しかし、親代わりだったチャールズの行為を裏切りと捉えたジーンは、だんだんと自己の制御を失い、ジェシカ・チャステイン演じるシェイプシフター系の宇宙人が、地球侵略のために彼女を操ろうと悪巧み。
宇宙人の陰謀を阻止し、壊れた信頼をいかにして取り戻すのか?という話。
今回はジーンとチャールズのダブル主人公体制で、同じイッシューを双方から描く。
シリーズの生みの親であるブライアン・シンガーは、ユダヤ人で、ゲイであることを公言している。
性的・民族的マイノリティである彼は、元々原作の「X-MEN」シリーズが内包していた反差別、反ナチズムのテーマを前面に出し、大人の鑑賞に堪えうる社会派アメコミ映画というムーブメントを作り出した。
2000年公開の第一作以来20年、シリーズのバックボーンとしてこのテーマは一貫しており、それは今回も変わらない。
ただ、サイモン・キンバーグは、マイノリティの葛藤はキープしつつも、疑似家族としての「ミュータント同士の信頼」というよりパーソナルな部分をフィーチャーする。
ジーンの増大する能力は、信頼の崩壊の要因となるものの、それ自体が問題ではない。
一応、ヴィランの宇宙人も出てくるが、彼らの物語上の位置付けも、信頼の再生のためのトリガーに過ぎないのである。
ここで描かれるのは、基本的には親離れ子離れの寓話。
チャールズは、X-MENのリーダーであるのと同時に、「恵まれし子らの学園」を主宰する教育者でもある。
ミュータントが差別と迫害の対象であることを誰よりも知る彼は、子供たちを庇護する一方で、X-MENの活躍をある種の広報活動として世間に広め、この世界にミュータントというマイノリティの安全な居場所を確保しようとしている。
だから、その大義のためなら自己犠牲を強いることもあり、もはや子供ではないX-MENメンバーには、自分たちを利用しているとして反発を招く。
チャールズの独善に個人として異議を唱えるのが、従順な男の子たちではなく、レイヴンであったり、ジーンであったり、現場で果敢にリーダーシップを取る“X-WOMEN”なのは象徴的だ。
また、本作が帰結する先は、特に「X-MEN:ファースト・ジェネレーション」から始まった新シリーズが、多分にBLチックな愛憎を抱えた、チャールズとエリックの物語であることを改めて思い起こさせる。
比較的恵まれた環境で育ったチャールズに対し、ナチスの絶滅収容所で母を殺されたエリックは、マジョリティへの憎しみと疑心暗鬼を捨てられない訳だが、だからこそ本作のクライマックスが、“収容所行きの列車”である設定が生きる。
チャールズに裏切られ、エリックにも拒絶されたジーンの信頼を取り戻し、良き人間、良き家族としての彼女が蘇る物語は、X-MENとブラザーフッドの辿ってきた歴史を内包しているのである。
そしてチャールズとエリックは、自らが成し遂げたことの結末を見届け、自分たちの役割が終わったことを悟るのだ。
本作は基本的にはX-MENチーム内での人間関係の話で、案外こぢんまりとした内容だったりする。
既視感も多々あるし、スペクタクルなビジュアル的要素は相対的に少ない。
ぶっちゃけ、シリーズの大団円としては新旧のキャストが連合した「フューチャー&パスト」が最も相応しかったかも知れない。
シリーズの顔だったウルヴァリンも、既に「LOGAN ローガン」を最後にシリーズを去っているのも寂しい。
しかし、「フューチャー&パスト」でパラレルワールド設定となり、これを第1作には繋がらないチャールズとエリックの物語として捉えれば、、一応の完結編としても納得出来る作品だったと思う。
クイックシルバーがちょっと割りを食っていたが、それぞれのキャラクターに花を持たせるバランスもいい。
“居場所”を巡る疑似家族の寓話は、実にX-MENらしいエンディングだと思う。
敵がむちゃくちゃ強かった以外、全く意外性のなかった前作「アポカリプス」よりも、キンバーグの想いが感じられるこちらの方が、ずっと好きな作品だ。
今回は、タイトル通り「フェニックス」をチョイス。
ウオッカ30ml、ピーチリキュール25ml、アマレットリキュール5ml、パイナップルジュース45ml、オレンジジュース45mlをシェイクし、氷を入れたタンブラーに注ぐ。
マラスキーノチェリーとミントの葉を飾って完成。
フルーティでスッキリ、ジトジトした梅雨を吹き飛ばしてくれるカクテルだ。



2019年06月22日 (土) | 編集 |
父が本当に「帰りたかった」ところとは。
山崎努演じる、認知症にかかった父親と、家族との7年間に渡る「長いお別れ」の物語。
これは、高い評価を受けた中野量太監督の商業映画デビュー作、「湯を沸かすほどの熱い愛」の対となるような作品だ。
不治の病に冒され、余命僅かの肝っ玉母ちゃんが、ダメダメな家族を立ち直らせるあの映画は、いわば壊れかけの家族を、強火で一気に修復する短期決戦。
対してこちらは、弱火でトロトロと長時間かけて家族の形がメタモルフォーゼしてゆく。
原作は、認知症と診断された父を見送った体験を基にした、中島京子の同名小説で、中野量太と大野敏哉が脚色している。
ずっと夫を介護する妻の松原智恵子と、長女の竹内結子、次女の蒼井優。
三人の年齢も立場も違う女性の葛藤が、父の認知症を鏡にリアリティたっぷりに浮かび上がるという仕掛け。
長女の麻里は、研究者の夫と一人息子の崇と共に、遠くアメリカに暮らしている。
英語が不得手で、周囲とコミュニケーションを取れずに孤立しているのだが、家族でも一定の距離を置きたがる性格の夫は、そんな妻の悩みには無関心。
米国での生活に馴染めない彼女にとって、たとえ父の症状が進行していたとしても、たまに帰る実家だけが安心できる「家」なのである。
一方、次女の芙美は、料理好きが高じて起業を志すも、いつも何かが空回りして、夢にも恋愛にも失敗を繰り返す。
地理的には実家の近くに暮らしていても、彼女の心にはそう簡単には戻れない距離がある。
中野量太は、父の認知症が分かった2007年から2009年、3.11のあった20011年、2013年と、2年おきに丁寧に家族の姿を追ってゆく。
たまに親戚の子供に会ったりすると、急に大きくなっていてビックリすることがあるが、2年のブランクがあるからこそ、社会も家族も少しの変化がくっきり浮かび上がる。
3.11の後に、セシウムの雨を怖がったりするのも、「あー、そう言えばそんなこともあった」と思い出した。
2007年にはまだ軽度だった認知症も、2009年には友人の死が分からなくなり、2011年にはもはや言葉が出ず、無意識に万引きをする様になってしまう。
教師で漢字の達人だった父は、少しずつ、ゆっくりだが確実に壊れてゆき、そんな父の症状の悪化が図らずも娘たちを呼び戻す。
麻里は7年経っても英語が苦手(7年もいて?と思う人もいるだろうが、こういう人は現実に珍しくない)で、夫との関係は少しベターになるが、異国で成長する息子は、だんだんと知らない人になってゆく。
妻は気丈に夫を介護し続けるが自らも病を患い、芙美が介護を肩代わりするものの、そのハードさに母の父に対する深い愛情を改めて知る。
何度か描写されるグルリと円を描くカメラワークが、時の流れと、巡り巡って同じ所に戻ってくる家族の絆を象徴する。
竹内結子や蒼井優も好演だが、繊細な演技で徐々に変わってゆく父を表現した山崎努、愚直なくらいにストレートに家族を愛する妻を演じた松原智恵子が素晴らしい。
二人ともお茶目なところが、キャラクター造形のキモ。
父がずっと言い続ける、「帰りたい」という言葉の本当の意味するところに涙。
人には誰もが「帰りたい」時と場所があり、それはその人の辿ってきた人生によって異なるのだなあ。
もし自分が70歳で認知症になったとして、帰りたい場所はあるのだろうか。
そんなことを考えてしまって、独り者としてはちょっと悲しくなった。
努父さんは、幸せものだと思う。
圧倒的な熱量で一気に仕上がった前作の熱血家族とは対照的に、こちらは少し煮崩れしたりしているけれど、冷えても美味しい非常に味わい深い家族。
アメリカにいる崇と父とのパソコン越しの言葉によらない関係が、いい隠し味になっていた。
話は変わるが、現実の蒼井優の結婚会見が、映画の中でなかなか幸せになれない、次女の話の続きに思えてちょっとホッコリしたよ。
今回は山ちゃんに敬意を評して、山形は亀の井酒造の「くどき上手 純米吟醸」をチョイス。
淡麗で、すっきりとした辛さと上品な甘さを両方感じるバランスの良さ。
フワリとした吟醸香が心地よく、食欲が刺激される。
口説く時にはベストチョイスなお酒だ。
記事が気に入ったらクリックしてね
山崎努演じる、認知症にかかった父親と、家族との7年間に渡る「長いお別れ」の物語。
これは、高い評価を受けた中野量太監督の商業映画デビュー作、「湯を沸かすほどの熱い愛」の対となるような作品だ。
不治の病に冒され、余命僅かの肝っ玉母ちゃんが、ダメダメな家族を立ち直らせるあの映画は、いわば壊れかけの家族を、強火で一気に修復する短期決戦。
対してこちらは、弱火でトロトロと長時間かけて家族の形がメタモルフォーゼしてゆく。
原作は、認知症と診断された父を見送った体験を基にした、中島京子の同名小説で、中野量太と大野敏哉が脚色している。
ずっと夫を介護する妻の松原智恵子と、長女の竹内結子、次女の蒼井優。
三人の年齢も立場も違う女性の葛藤が、父の認知症を鏡にリアリティたっぷりに浮かび上がるという仕掛け。
長女の麻里は、研究者の夫と一人息子の崇と共に、遠くアメリカに暮らしている。
英語が不得手で、周囲とコミュニケーションを取れずに孤立しているのだが、家族でも一定の距離を置きたがる性格の夫は、そんな妻の悩みには無関心。
米国での生活に馴染めない彼女にとって、たとえ父の症状が進行していたとしても、たまに帰る実家だけが安心できる「家」なのである。
一方、次女の芙美は、料理好きが高じて起業を志すも、いつも何かが空回りして、夢にも恋愛にも失敗を繰り返す。
地理的には実家の近くに暮らしていても、彼女の心にはそう簡単には戻れない距離がある。
中野量太は、父の認知症が分かった2007年から2009年、3.11のあった20011年、2013年と、2年おきに丁寧に家族の姿を追ってゆく。
たまに親戚の子供に会ったりすると、急に大きくなっていてビックリすることがあるが、2年のブランクがあるからこそ、社会も家族も少しの変化がくっきり浮かび上がる。
3.11の後に、セシウムの雨を怖がったりするのも、「あー、そう言えばそんなこともあった」と思い出した。
2007年にはまだ軽度だった認知症も、2009年には友人の死が分からなくなり、2011年にはもはや言葉が出ず、無意識に万引きをする様になってしまう。
教師で漢字の達人だった父は、少しずつ、ゆっくりだが確実に壊れてゆき、そんな父の症状の悪化が図らずも娘たちを呼び戻す。
麻里は7年経っても英語が苦手(7年もいて?と思う人もいるだろうが、こういう人は現実に珍しくない)で、夫との関係は少しベターになるが、異国で成長する息子は、だんだんと知らない人になってゆく。
妻は気丈に夫を介護し続けるが自らも病を患い、芙美が介護を肩代わりするものの、そのハードさに母の父に対する深い愛情を改めて知る。
何度か描写されるグルリと円を描くカメラワークが、時の流れと、巡り巡って同じ所に戻ってくる家族の絆を象徴する。
竹内結子や蒼井優も好演だが、繊細な演技で徐々に変わってゆく父を表現した山崎努、愚直なくらいにストレートに家族を愛する妻を演じた松原智恵子が素晴らしい。
二人ともお茶目なところが、キャラクター造形のキモ。
父がずっと言い続ける、「帰りたい」という言葉の本当の意味するところに涙。
人には誰もが「帰りたい」時と場所があり、それはその人の辿ってきた人生によって異なるのだなあ。
もし自分が70歳で認知症になったとして、帰りたい場所はあるのだろうか。
そんなことを考えてしまって、独り者としてはちょっと悲しくなった。
努父さんは、幸せものだと思う。
圧倒的な熱量で一気に仕上がった前作の熱血家族とは対照的に、こちらは少し煮崩れしたりしているけれど、冷えても美味しい非常に味わい深い家族。
アメリカにいる崇と父とのパソコン越しの言葉によらない関係が、いい隠し味になっていた。
話は変わるが、現実の蒼井優の結婚会見が、映画の中でなかなか幸せになれない、次女の話の続きに思えてちょっとホッコリしたよ。
今回は山ちゃんに敬意を評して、山形は亀の井酒造の「くどき上手 純米吟醸」をチョイス。
淡麗で、すっきりとした辛さと上品な甘さを両方感じるバランスの良さ。
フワリとした吟醸香が心地よく、食欲が刺激される。
口説く時にはベストチョイスなお酒だ。



2019年06月17日 (月) | 編集 |
海は全ての秘密を知っている。
海洋の神秘の世界を舞台にした、五十嵐大介の傑作漫画「海獣の子供」のアニメーション映画化。
自分の気持ちを、「言葉」として相手に伝えるのが苦手な中学生の琉花は、運命に導かれるようにして、不思議な兄弟「海」と「空」と出会う。
少年少女の、リリカルな夏休みジュブナイルから始まる物語は、生と死が混じり合う海と陸の境界を超えて、深い海に隠されたこの宇宙の秘密を描き出す。
それぞれに“役割”のある3人が出会ったことにより、世界中で様々な現象が起こり始め、海はその姿を劇的に変えてゆき、物語はやがて究極の非日常空間へと突入する。
「アニマトリックス」や「鉄コン筋クリート」で知られるSTUDIO 4℃が、素晴らしいクオリティのアニメーションを制作し、監督は「ドラえもん」「宇宙兄弟」の渡辺歩。
主人公の琉花を演じる芦田愛菜は、声優としては「怪盗グルー」シリーズのアグネス役が有名だが、ここでも見事な演技を聴かせる。
※核心部分に触れています。
中学生の琉花(芦田愛菜)の夏休みは、開始早々に終わってしまった。
ハンドボール部の練習で、意地の張り合いからチームメイトに怪我をさせてしまい、コーチから「謝るつもりがないなら、もう来なくていい」と言われたのだ。
悶々とする琉花は、別居している父親の正明(稲垣吾郎)が勤めている水族館で、奇妙な少年「海」(石橋陽彩)と出会う。
まるで魚のように、水中を自由自在に泳ぎまわる海には、「空」(浦上晟周)という兄がいて、二人は幼少期ジュゴンによって海の中で育てられたという。
乾燥に極端に弱く、水がなければ生きていけないために、研究者のジム・キューザック(田中泯)によって水族館に預けられたのだ。
正明から海の世話係を言いつけられた琉花は、次第に不思議な兄弟に惹かれてゆく。
その頃、世界中の海や水族館で、異変が起き始めていた。
体に星斑を持つ魚やクジラが、光に包まれて消えてしまうのだ。
ジムは、海と空がこの現象と関わりがあると考えているが、ある日沖に泳いで行った空が忽然と姿を消してしまう。
琉花と海は消えた空の行方を追って、絵のように美しい浜辺にたどり着き、空を保護したアングラード(森崎ウィン)と出会うが、空の体には明らかな異変が起こっていた。
全ての海の生物たちが集う「誕生祭」が始まろうとしていた・・・・
驚くべき作品である。
昨年の「ペンギン・ハイウェイ」といい、ジュブナイルの皮をかぶったハードSFの秀作がコンスタントに出てきちゃうのが、日本のアニメーション映画の凄いところ。
分厚い単行本で全5巻に及ぶ、五十嵐大介の壮大な原作を、どうやって一本の映画にするんだろうと思ったが、なるほどこう来たか。
本作では映画全体を主人公の琉花のひと夏の物語とし、徹底して彼女に寄添い、それ以外の要素を極力排しているのだ。
原作では、琉花と海と空の兄弟を軸としたメインプロット以外にも、ジムと彼の助手だったアングラードの過去、琉花の両親の過去、それからメインプロットとは直接の関わりを持たない、海洋と海から来た子供たち、海の神話や伝承に関する“収集された”エピソードが散りばめられていて、それらが最終的に一つの大きなイメージを形作る。
この脚色によって、そぎ落とされた情報も多い。
例えば蒼井優が演じる琉花の母、加奈子の過去に関するエピソードは、琉花が生来持つ海の属性に説得力を与えるものだが、バッサリと切られている。
このために、エピローグの意味付けなど、弱くなってしまっている部分があるのは否めないが、結果的に物語は非常に純化された印象のまま、クライマックスの「誕生祭」へと突き進んで行く。
ジュゴンに育てられた少年、海と空は本当は何者なのかという謎は、いつしか人間はどこから来て、どこへ向かっているのかという疑問へと展開する。
そもそも海とは何か?地球とは何か?人間とは何か?
少女の小さな日常はやがて、この宇宙の秘密にまで広がってゆく。
同じく五十嵐大介の漫画を原作とした「リトル・フォレスト」が、主人公のいち子の生きるための労働と収穫、食べるというプロセスを通し、循環する身近なエコシステムにフォーカスした作品だとすれば、こちらは人間を含む宇宙全体の命の循環を描く。
本作の理論的なベースとなっているのは、地球の生命の起源は宇宙にあるとするパンスペルミア仮説だ。
非常に強固な構造を持つ微生物の芽胞が隕石に乗って、あるいは宇宙空間に漂っていたものが、星の光圧などによって押されて太古の地球の海へと落下し、生命が生まれた。
実際に、南極で採取された火星由来の隕石「ALH84001」から、微生物の痕跡らしきものが発見されたこともあり、生命の起源を巡る有力な仮説の一つとなっている。
本作が面白いのは、パンスペルミア仮説をもとにしたSF的設定が、アニミズム的なスピリチュアルな世界観と結びつくことでさらに広がりを持ち、「それは宇宙全体から見たらどういう意味を持つのか?」という、この世界の理の領域まで足を踏み入れることだ。
空は「人間は宇宙に似ている」という。
人間の中の無数の断片が、寄り集まって記憶や思い出を形作る。
それはまるで星間物質が集まって、星や銀河が生み出されるのとそっくりだというのだ。
地球を一個の生命と考えるガイア理論は有名だが、さらに宇宙自体も一個の巨大な生命で、この世界が極小と極大が相似形を形作るフラクタル構造である場合、地球のような海のある惑星の役割とは何か。
そこに住む、人間を含めた生物は何のために存在しているのか。
劇中幾度も繰り返されるフレーズが、「星の、星々の、海は産み親」だ。
海は子宮であり卵巣。宇宙から来る生命の芽胞は精子。そして卵巣から定期的に発生する海の子供たちは卵子。
人間を含む生物は、この二つを結び、命の宴「誕生祭」のゲストとして神話を紡ぐもの。
受精の結果として生まれるのは、宇宙そのものであり、この世界では極小は同時に極大なのである。
極大の中に極小を、逆に極小の中に極大を見るイメージは、テレンス・マリックの「ツリー・オブ・ライフ」を思わせる。
それにしても、原作の漫画がそのまま動き出したようなビジュアルが強烈。
ボールペンのフリーハンドで描きこまれた五十嵐大介の独特の筆致を、ここまで動画で再現しているのは驚かされた。
STUDIO 4℃は、アニメーション技術的にも見事な仕事をしている。
荒々しい線で、命を吹き込まれたキャラクーたち。
髪の毛には重量を感じ、密集した睫毛の奥の大きな瞳は、海に繋がっているかのような深い漆黒をたたえる。
時に様々な海の生き物の形で描かれる、纏わりつくような豪雨や、どこまでも荘厳で美しく、ミステリアスな海といった水の描写。
終盤15分間にわたって繰り広げられる、水中版の「2001年宇宙の旅」のスターゲートとも言うべき「誕生祭」の描写は圧巻だ。
リリカルなジュブナイル・ファンタジーだと思って観に来た人は、いきなり目の前でキューブリックかマリックかという、哲学的な抽象アニメーションが始まってビックリするだろうけど、このシークエンスの表現は漫画の展開を踏襲しながらも、光と陰を駆使した映画ならではの物になっていて素晴らしい。
色がカタチを、カタチが色を生み出すイメージの洪水は、原作を超えているのではないか。
怒涛の映像に没入するために、なるべく大きなスクリーンがオススメだ。
壮大な命の宴を巡る冒険を通して、琉花も一人の人間として、一個の生命として大きく成長する。
人間は言葉に出来なければ、思っていることの半分も相手に伝えられない。
海の属性を持つ琉花は、もともと言葉を使うのが苦手で、誤解されやすい。
一方、クジラやイルカは、エコロケーションと言われる音波の受信能力を持ち、遠く離れた仲間たちと“ソング”でやり取りし、見たことや思ったことを丸ごと伝えているのかもしれない。
それは陸に上がった私たちが、いつしか忘れてしまい、しかしどこかにきっと保っている本質。
実際、琉花はクジラのソングを受け取り、特に言葉を交わさずともに海や空と深く繋がる。
言葉にした方が簡単なのは確かだが、言葉にしない方が伝わることもある。
誰もが違うように見えて、本質は同じ。
自分が何者かを知った琉花は、夏休みの終わりには別人のように堂々としている。
そして、彼女と共に「誕生祭」を目撃した私たちもまた、言葉では表現できない素晴らしい体験を共有した“旅の仲間”となったのである。
しかし、この異色の怪作が、公開2週目に入っても満席続出なのは、ある意味映画の内容よりも驚くべき現象かも知れない。
流石に小さい子は飽きちゃってたみたいだが、「風立ちぬ」の制作を決意した時の宮崎駿じゃないけど、子供のうちに「分からないもの」に触れ合っておくのは大切なことだ。
意味は理解できなくても、「何か凄いものを観た」感覚は、必ず心に忘れられない痕跡を残す。
映像化の役割は、マーケットに媚びて原作を分かりやすく咀嚼して、エンターテイメント性を高めることじゃない。
難しいものはちゃんと難しく、しかし映像表現ならではの物になっているのが正解。
その意味で本作は限りなく完璧に近く、これにちゃんとお客さんが入るのだから、日本のマーケットも捨てたもんじゃない。
まあキービジュアルのイメージから勘違いして観に来た人、声優や主題歌の歌手のファンの人も多そうだが、それはそれで一期一会の機会になるだろう。
エンドクレジット後に、長めのエピローグがあるので注意。
今回は神秘の海をイメージして「オーシャンブルーフィズ」をチョイス。
氷を入れたグラスにブルーキュラソー10ml、ウォッカ15ml、レモン・ジュース5ml、三谷サイダー又はスプライトを適量満たし、軽くステアして完成。
喉越し爽やか、サッパリとした味わいで、見た目も涼しげな夏向きのカクテルだ。
記事が気に入ったらクリックしてね
海洋の神秘の世界を舞台にした、五十嵐大介の傑作漫画「海獣の子供」のアニメーション映画化。
自分の気持ちを、「言葉」として相手に伝えるのが苦手な中学生の琉花は、運命に導かれるようにして、不思議な兄弟「海」と「空」と出会う。
少年少女の、リリカルな夏休みジュブナイルから始まる物語は、生と死が混じり合う海と陸の境界を超えて、深い海に隠されたこの宇宙の秘密を描き出す。
それぞれに“役割”のある3人が出会ったことにより、世界中で様々な現象が起こり始め、海はその姿を劇的に変えてゆき、物語はやがて究極の非日常空間へと突入する。
「アニマトリックス」や「鉄コン筋クリート」で知られるSTUDIO 4℃が、素晴らしいクオリティのアニメーションを制作し、監督は「ドラえもん」「宇宙兄弟」の渡辺歩。
主人公の琉花を演じる芦田愛菜は、声優としては「怪盗グルー」シリーズのアグネス役が有名だが、ここでも見事な演技を聴かせる。
※核心部分に触れています。
中学生の琉花(芦田愛菜)の夏休みは、開始早々に終わってしまった。
ハンドボール部の練習で、意地の張り合いからチームメイトに怪我をさせてしまい、コーチから「謝るつもりがないなら、もう来なくていい」と言われたのだ。
悶々とする琉花は、別居している父親の正明(稲垣吾郎)が勤めている水族館で、奇妙な少年「海」(石橋陽彩)と出会う。
まるで魚のように、水中を自由自在に泳ぎまわる海には、「空」(浦上晟周)という兄がいて、二人は幼少期ジュゴンによって海の中で育てられたという。
乾燥に極端に弱く、水がなければ生きていけないために、研究者のジム・キューザック(田中泯)によって水族館に預けられたのだ。
正明から海の世話係を言いつけられた琉花は、次第に不思議な兄弟に惹かれてゆく。
その頃、世界中の海や水族館で、異変が起き始めていた。
体に星斑を持つ魚やクジラが、光に包まれて消えてしまうのだ。
ジムは、海と空がこの現象と関わりがあると考えているが、ある日沖に泳いで行った空が忽然と姿を消してしまう。
琉花と海は消えた空の行方を追って、絵のように美しい浜辺にたどり着き、空を保護したアングラード(森崎ウィン)と出会うが、空の体には明らかな異変が起こっていた。
全ての海の生物たちが集う「誕生祭」が始まろうとしていた・・・・
驚くべき作品である。
昨年の「ペンギン・ハイウェイ」といい、ジュブナイルの皮をかぶったハードSFの秀作がコンスタントに出てきちゃうのが、日本のアニメーション映画の凄いところ。
分厚い単行本で全5巻に及ぶ、五十嵐大介の壮大な原作を、どうやって一本の映画にするんだろうと思ったが、なるほどこう来たか。
本作では映画全体を主人公の琉花のひと夏の物語とし、徹底して彼女に寄添い、それ以外の要素を極力排しているのだ。
原作では、琉花と海と空の兄弟を軸としたメインプロット以外にも、ジムと彼の助手だったアングラードの過去、琉花の両親の過去、それからメインプロットとは直接の関わりを持たない、海洋と海から来た子供たち、海の神話や伝承に関する“収集された”エピソードが散りばめられていて、それらが最終的に一つの大きなイメージを形作る。
この脚色によって、そぎ落とされた情報も多い。
例えば蒼井優が演じる琉花の母、加奈子の過去に関するエピソードは、琉花が生来持つ海の属性に説得力を与えるものだが、バッサリと切られている。
このために、エピローグの意味付けなど、弱くなってしまっている部分があるのは否めないが、結果的に物語は非常に純化された印象のまま、クライマックスの「誕生祭」へと突き進んで行く。
ジュゴンに育てられた少年、海と空は本当は何者なのかという謎は、いつしか人間はどこから来て、どこへ向かっているのかという疑問へと展開する。
そもそも海とは何か?地球とは何か?人間とは何か?
少女の小さな日常はやがて、この宇宙の秘密にまで広がってゆく。
同じく五十嵐大介の漫画を原作とした「リトル・フォレスト」が、主人公のいち子の生きるための労働と収穫、食べるというプロセスを通し、循環する身近なエコシステムにフォーカスした作品だとすれば、こちらは人間を含む宇宙全体の命の循環を描く。
本作の理論的なベースとなっているのは、地球の生命の起源は宇宙にあるとするパンスペルミア仮説だ。
非常に強固な構造を持つ微生物の芽胞が隕石に乗って、あるいは宇宙空間に漂っていたものが、星の光圧などによって押されて太古の地球の海へと落下し、生命が生まれた。
実際に、南極で採取された火星由来の隕石「ALH84001」から、微生物の痕跡らしきものが発見されたこともあり、生命の起源を巡る有力な仮説の一つとなっている。
本作が面白いのは、パンスペルミア仮説をもとにしたSF的設定が、アニミズム的なスピリチュアルな世界観と結びつくことでさらに広がりを持ち、「それは宇宙全体から見たらどういう意味を持つのか?」という、この世界の理の領域まで足を踏み入れることだ。
空は「人間は宇宙に似ている」という。
人間の中の無数の断片が、寄り集まって記憶や思い出を形作る。
それはまるで星間物質が集まって、星や銀河が生み出されるのとそっくりだというのだ。
地球を一個の生命と考えるガイア理論は有名だが、さらに宇宙自体も一個の巨大な生命で、この世界が極小と極大が相似形を形作るフラクタル構造である場合、地球のような海のある惑星の役割とは何か。
そこに住む、人間を含めた生物は何のために存在しているのか。
劇中幾度も繰り返されるフレーズが、「星の、星々の、海は産み親」だ。
海は子宮であり卵巣。宇宙から来る生命の芽胞は精子。そして卵巣から定期的に発生する海の子供たちは卵子。
人間を含む生物は、この二つを結び、命の宴「誕生祭」のゲストとして神話を紡ぐもの。
受精の結果として生まれるのは、宇宙そのものであり、この世界では極小は同時に極大なのである。
極大の中に極小を、逆に極小の中に極大を見るイメージは、テレンス・マリックの「ツリー・オブ・ライフ」を思わせる。
それにしても、原作の漫画がそのまま動き出したようなビジュアルが強烈。
ボールペンのフリーハンドで描きこまれた五十嵐大介の独特の筆致を、ここまで動画で再現しているのは驚かされた。
STUDIO 4℃は、アニメーション技術的にも見事な仕事をしている。
荒々しい線で、命を吹き込まれたキャラクーたち。
髪の毛には重量を感じ、密集した睫毛の奥の大きな瞳は、海に繋がっているかのような深い漆黒をたたえる。
時に様々な海の生き物の形で描かれる、纏わりつくような豪雨や、どこまでも荘厳で美しく、ミステリアスな海といった水の描写。
終盤15分間にわたって繰り広げられる、水中版の「2001年宇宙の旅」のスターゲートとも言うべき「誕生祭」の描写は圧巻だ。
リリカルなジュブナイル・ファンタジーだと思って観に来た人は、いきなり目の前でキューブリックかマリックかという、哲学的な抽象アニメーションが始まってビックリするだろうけど、このシークエンスの表現は漫画の展開を踏襲しながらも、光と陰を駆使した映画ならではの物になっていて素晴らしい。
色がカタチを、カタチが色を生み出すイメージの洪水は、原作を超えているのではないか。
怒涛の映像に没入するために、なるべく大きなスクリーンがオススメだ。
壮大な命の宴を巡る冒険を通して、琉花も一人の人間として、一個の生命として大きく成長する。
人間は言葉に出来なければ、思っていることの半分も相手に伝えられない。
海の属性を持つ琉花は、もともと言葉を使うのが苦手で、誤解されやすい。
一方、クジラやイルカは、エコロケーションと言われる音波の受信能力を持ち、遠く離れた仲間たちと“ソング”でやり取りし、見たことや思ったことを丸ごと伝えているのかもしれない。
それは陸に上がった私たちが、いつしか忘れてしまい、しかしどこかにきっと保っている本質。
実際、琉花はクジラのソングを受け取り、特に言葉を交わさずともに海や空と深く繋がる。
言葉にした方が簡単なのは確かだが、言葉にしない方が伝わることもある。
誰もが違うように見えて、本質は同じ。
自分が何者かを知った琉花は、夏休みの終わりには別人のように堂々としている。
そして、彼女と共に「誕生祭」を目撃した私たちもまた、言葉では表現できない素晴らしい体験を共有した“旅の仲間”となったのである。
しかし、この異色の怪作が、公開2週目に入っても満席続出なのは、ある意味映画の内容よりも驚くべき現象かも知れない。
流石に小さい子は飽きちゃってたみたいだが、「風立ちぬ」の制作を決意した時の宮崎駿じゃないけど、子供のうちに「分からないもの」に触れ合っておくのは大切なことだ。
意味は理解できなくても、「何か凄いものを観た」感覚は、必ず心に忘れられない痕跡を残す。
映像化の役割は、マーケットに媚びて原作を分かりやすく咀嚼して、エンターテイメント性を高めることじゃない。
難しいものはちゃんと難しく、しかし映像表現ならではの物になっているのが正解。
その意味で本作は限りなく完璧に近く、これにちゃんとお客さんが入るのだから、日本のマーケットも捨てたもんじゃない。
まあキービジュアルのイメージから勘違いして観に来た人、声優や主題歌の歌手のファンの人も多そうだが、それはそれで一期一会の機会になるだろう。
エンドクレジット後に、長めのエピローグがあるので注意。
今回は神秘の海をイメージして「オーシャンブルーフィズ」をチョイス。
氷を入れたグラスにブルーキュラソー10ml、ウォッカ15ml、レモン・ジュース5ml、三谷サイダー又はスプライトを適量満たし、軽くステアして完成。
喉越し爽やか、サッパリとした味わいで、見た目も涼しげな夏向きのカクテルだ。



2019年06月14日 (金) | 編集 |
Do you trust me?
1992年に大ヒットした、ディズニーの名作アニメーション映画のリメイク。
「リトル・マーメイド」から「モアナと伝説の海」まで、数々の傑作を手がけたレジェンド、ジョン・マスカーとロン・クレメンツによるオリジナルの「アラジン」は、ランプの魔人ジニーのエキセントリックなキャラクターに引っ張られ、ディズニー第二黄金期の傑作群の中でも、ひと際コメディ色が強い。
その面白さは、多分にアニメーションならではのオーバーアクションな表現にあるのだが、27年ぶりの実写リメイクはどう生まれ変わったのか。
アニメーション版を元に、「ビッグ・フィッシュ」などのティム・バートン作品で知られるジョン・オーガストが脚本を執筆し、ガイ・リッチーが監督を務める。
砂漠の王国の王女ジャスミン(ナオミ・スコット)は、父のサルタンから結婚を急かされているが、お眼鏡に敵う男はなかなか現れない。
なぜなら、次から次へと求婚にやってくるボンクラ王子たちは、決して彼女の「本質」を見てくれないから。
そんなある日、彼女はお忍びで出かけた街の市場で、コソ泥で生計を立てている気のいい青年アラジン(メナ・マスード)と出会う。
王女と泥棒、対照的だが純粋な二人はお互い引かれ合うのだが、アラジンは王国の国務大臣である魔法使いジャファー(マーワン・ケンザリ)に捕まってしまう。
ジャファーはアラジンに、財宝が隠された魔法の洞窟から古びたランプを持ち帰れば、大金持ちにしてやると持ちかける。
アラジンはランプを見つけるのだが、相棒の猿のアブーが「ランプ以外のものには手を触れてはいけない」というルールを忘れ、宝石を手にとってしまったことから洞窟が崩壊し、閉じ込められてしまう。
困ったアラジンが何の気なしにランプをこすると、超常の力を持つ魔人ジニー(ウィル・スミス)が現れ・・・
伸びやかなアニメーションの動きの魅力は、ゴージャスな衣装を纏いカラフルなセットで躍動する俳優たちの活劇として受け継がれ、ガイ・リッチー色は薄めなものの、大幅にボリュームアップしたコミカルなアクション描写にらしさは見せる。
情報量が増えた分、上映時間はオリジナルより30分以上長くなった128分だが、冗長さを全く感じさせないのは、さすがのディズニーコントロールのクオリティだ。
ホワイトウォッシュ批判も意識した、メナ・マスードのアラジンとナオミ・スコットのジャスミンは、フレッシュでとても良い。
だが本作のMVPは、パフォーマンスキャプチャを駆使し、陽気な魔人・ジニーをノリノリで演じたウィル・スミスだろう!
彼以外のジニー役は、もう想像できないくらいのハマりっぷりだ。
全体のプロットはアニメーション版に極めて忠実に、しかしディテールをモダンにブラッシュアップする方法論は、興行的にも批評的にも大成功した「シンデレラ」や「美女と野獣」を踏襲したもの。
ひょんなことから、ランプの精のジニーと出会ったコソ泥のアラジンが、国の乗っ取りを狙う悪漢ジャファーと対決し、お姫様のジャスミンと結ばれる。
時系列の多少の前後はあるものの、劇中で起こること自体はオリジナルとほとんど変わらない。
ただ、それぞれのキャラクターの心情描写は大幅に増えた。
ジニーが叶えてくれる三つの願いのうち、まずは一つ目の願いで偽王子になったアラジンは、ジャスミンと再会を果たし、父王にも気に入られる。
ところが、ことがトントン拍子に進み過ぎて、自分のウソをいつジャスミンに告白しようかと悩みを深める。
この展開自体はオリジナルと同じだが、本作ではジニーとアラジンの友情がより強調されていて、「三つ目の願いでジニーを自由にする」という約束と絡めて、欲望からダークサイドに落ちそうになるアラジンの葛藤を強化。
対するジャスミンは、オリジナルではアラジンと出会うまで、宮殿の外にも出たことのない超お嬢様設定だったが、本作では侍女のダリアと計って宮殿を抜け出し、貧困が蔓延する国の実情を見聞きしている。
中身空っぽのどこかの「王子さま」と結婚して王妃の地位に収まるよりも、自らが王となり国を統べたい、より良き国にしたいという、強いリーダーシップを持った意識高い系のプリンセス像は、いかにも現代風でオリジナルとは一線を画す。
しかし、実写化にあたって一番強化されているのは、ジニーのキャラクターだろう。
オリジナルのジニーの願いは単に「自由になりたい」だが、実は本作では願いの内容が異なっている。
さらにジャスミンの侍女のダリアとの、ちょっとしたロマンスまで用意されている周到さ。
本作のキャストの中でダントツにギャラが高い・・・からではないだろうが、登場シーンは大幅に増加して、アラジンとの感情的な絡みも深まった。
オリジナルでは砂漠の行商人の語りから始まる物語が、こちらでは海を行く商船を駆るなぜか青くないウィル・スミスから始まるのも、最後まで見ると納得の仕掛け。
今は亡きロビン・ウィリアムズの当たり役でもあった、アニメーション版のエキセントリックなキャラクターを大いにリスペクトしつつ、デジタル技術との合わせ技でスミスならではのやり過ぎギリギリ、新しいジニーを作り上げている。
ミュージカルシークエンスは、実写+CGの特質を生かした豪華絢爛なビジュアルが素晴らしく、質量ともに見応えたっぷり。
空飛ぶ絨毯に乗って一夜で世界を巡る、ファンタスティックな「ホール・ニュー・ワールド」をはじめ、おなじみのアラン・メンケンの名曲群にプラス、新たに「ラ・ラ・ランド」のベンジ・パセックとジャスティン・ポールが参加し、新曲も書き下ろされている。
特にジャファーの野望と対決すべく、ジャスミンが自らの決意を「スピーチレス〜心の声」として歌い上げるシーンは、21世紀のミュージカル活劇となった本作の白眉だ。
オリジナルが作られてから27年の間に、世界は大きく変わった。
今や魔法の絨毯がなくても、グーグルアースで世界の隅々まで覗くことが出来るし、地球の反対側にいる人とでもリアルタイムで繋がることだって不可能じゃない。
技術という魔法によって、人間ができることはどんどん増えている。
でも「何者かになりたい」「自分らしくありたい」「自由に生きたい」という、本作の登場人物の抱えている葛藤や切望、大切な人への愛や友情といった感情はずっと不変のもので、魔法では決して解決できないこと。
誰よりも魔法の虚飾性と限界を知るからこそ、本作のジニーの最後の願いはああなったのだろうな。
移ろいやすい世界の中で、古の説話をモチーフにした本作の魅力は、むしろ輝きを増している。
今観ても十分に楽しいアニメーション版と、二本合わせて楽しみたい。
「アラジン」の原作は、「千夜一夜物語」の「アラジンと魔法のランプ」。
実はこの物語は、原典には存在せず、後世のどこかの時点で付け加えられたものだという。
今回は「千夜一夜物語」が成立した9世紀ごろには、アッバース朝の領域にあった、アルメニアのエレバンブランデー社が、白ワインを原料として作るブランデー「アララット アフタマール」をチョイス。
ラムに近い独特の香りが特徴で、ブランデーとワインの中間の独特な味わい。
夜毎語られる物語と共に飲むと、ナイトキャップにちょうどいい。
酒豪ウィンストン・チャーチルの愛飲酒としても知られている、歴史ある酒だ。
記事が気に入ったらクリックしてね
1992年に大ヒットした、ディズニーの名作アニメーション映画のリメイク。
「リトル・マーメイド」から「モアナと伝説の海」まで、数々の傑作を手がけたレジェンド、ジョン・マスカーとロン・クレメンツによるオリジナルの「アラジン」は、ランプの魔人ジニーのエキセントリックなキャラクターに引っ張られ、ディズニー第二黄金期の傑作群の中でも、ひと際コメディ色が強い。
その面白さは、多分にアニメーションならではのオーバーアクションな表現にあるのだが、27年ぶりの実写リメイクはどう生まれ変わったのか。
アニメーション版を元に、「ビッグ・フィッシュ」などのティム・バートン作品で知られるジョン・オーガストが脚本を執筆し、ガイ・リッチーが監督を務める。
砂漠の王国の王女ジャスミン(ナオミ・スコット)は、父のサルタンから結婚を急かされているが、お眼鏡に敵う男はなかなか現れない。
なぜなら、次から次へと求婚にやってくるボンクラ王子たちは、決して彼女の「本質」を見てくれないから。
そんなある日、彼女はお忍びで出かけた街の市場で、コソ泥で生計を立てている気のいい青年アラジン(メナ・マスード)と出会う。
王女と泥棒、対照的だが純粋な二人はお互い引かれ合うのだが、アラジンは王国の国務大臣である魔法使いジャファー(マーワン・ケンザリ)に捕まってしまう。
ジャファーはアラジンに、財宝が隠された魔法の洞窟から古びたランプを持ち帰れば、大金持ちにしてやると持ちかける。
アラジンはランプを見つけるのだが、相棒の猿のアブーが「ランプ以外のものには手を触れてはいけない」というルールを忘れ、宝石を手にとってしまったことから洞窟が崩壊し、閉じ込められてしまう。
困ったアラジンが何の気なしにランプをこすると、超常の力を持つ魔人ジニー(ウィル・スミス)が現れ・・・
伸びやかなアニメーションの動きの魅力は、ゴージャスな衣装を纏いカラフルなセットで躍動する俳優たちの活劇として受け継がれ、ガイ・リッチー色は薄めなものの、大幅にボリュームアップしたコミカルなアクション描写にらしさは見せる。
情報量が増えた分、上映時間はオリジナルより30分以上長くなった128分だが、冗長さを全く感じさせないのは、さすがのディズニーコントロールのクオリティだ。
ホワイトウォッシュ批判も意識した、メナ・マスードのアラジンとナオミ・スコットのジャスミンは、フレッシュでとても良い。
だが本作のMVPは、パフォーマンスキャプチャを駆使し、陽気な魔人・ジニーをノリノリで演じたウィル・スミスだろう!
彼以外のジニー役は、もう想像できないくらいのハマりっぷりだ。
全体のプロットはアニメーション版に極めて忠実に、しかしディテールをモダンにブラッシュアップする方法論は、興行的にも批評的にも大成功した「シンデレラ」や「美女と野獣」を踏襲したもの。
ひょんなことから、ランプの精のジニーと出会ったコソ泥のアラジンが、国の乗っ取りを狙う悪漢ジャファーと対決し、お姫様のジャスミンと結ばれる。
時系列の多少の前後はあるものの、劇中で起こること自体はオリジナルとほとんど変わらない。
ただ、それぞれのキャラクターの心情描写は大幅に増えた。
ジニーが叶えてくれる三つの願いのうち、まずは一つ目の願いで偽王子になったアラジンは、ジャスミンと再会を果たし、父王にも気に入られる。
ところが、ことがトントン拍子に進み過ぎて、自分のウソをいつジャスミンに告白しようかと悩みを深める。
この展開自体はオリジナルと同じだが、本作ではジニーとアラジンの友情がより強調されていて、「三つ目の願いでジニーを自由にする」という約束と絡めて、欲望からダークサイドに落ちそうになるアラジンの葛藤を強化。
対するジャスミンは、オリジナルではアラジンと出会うまで、宮殿の外にも出たことのない超お嬢様設定だったが、本作では侍女のダリアと計って宮殿を抜け出し、貧困が蔓延する国の実情を見聞きしている。
中身空っぽのどこかの「王子さま」と結婚して王妃の地位に収まるよりも、自らが王となり国を統べたい、より良き国にしたいという、強いリーダーシップを持った意識高い系のプリンセス像は、いかにも現代風でオリジナルとは一線を画す。
しかし、実写化にあたって一番強化されているのは、ジニーのキャラクターだろう。
オリジナルのジニーの願いは単に「自由になりたい」だが、実は本作では願いの内容が異なっている。
さらにジャスミンの侍女のダリアとの、ちょっとしたロマンスまで用意されている周到さ。
本作のキャストの中でダントツにギャラが高い・・・からではないだろうが、登場シーンは大幅に増加して、アラジンとの感情的な絡みも深まった。
オリジナルでは砂漠の行商人の語りから始まる物語が、こちらでは海を行く商船を駆るなぜか青くないウィル・スミスから始まるのも、最後まで見ると納得の仕掛け。
今は亡きロビン・ウィリアムズの当たり役でもあった、アニメーション版のエキセントリックなキャラクターを大いにリスペクトしつつ、デジタル技術との合わせ技でスミスならではのやり過ぎギリギリ、新しいジニーを作り上げている。
ミュージカルシークエンスは、実写+CGの特質を生かした豪華絢爛なビジュアルが素晴らしく、質量ともに見応えたっぷり。
空飛ぶ絨毯に乗って一夜で世界を巡る、ファンタスティックな「ホール・ニュー・ワールド」をはじめ、おなじみのアラン・メンケンの名曲群にプラス、新たに「ラ・ラ・ランド」のベンジ・パセックとジャスティン・ポールが参加し、新曲も書き下ろされている。
特にジャファーの野望と対決すべく、ジャスミンが自らの決意を「スピーチレス〜心の声」として歌い上げるシーンは、21世紀のミュージカル活劇となった本作の白眉だ。
オリジナルが作られてから27年の間に、世界は大きく変わった。
今や魔法の絨毯がなくても、グーグルアースで世界の隅々まで覗くことが出来るし、地球の反対側にいる人とでもリアルタイムで繋がることだって不可能じゃない。
技術という魔法によって、人間ができることはどんどん増えている。
でも「何者かになりたい」「自分らしくありたい」「自由に生きたい」という、本作の登場人物の抱えている葛藤や切望、大切な人への愛や友情といった感情はずっと不変のもので、魔法では決して解決できないこと。
誰よりも魔法の虚飾性と限界を知るからこそ、本作のジニーの最後の願いはああなったのだろうな。
移ろいやすい世界の中で、古の説話をモチーフにした本作の魅力は、むしろ輝きを増している。
今観ても十分に楽しいアニメーション版と、二本合わせて楽しみたい。
「アラジン」の原作は、「千夜一夜物語」の「アラジンと魔法のランプ」。
実はこの物語は、原典には存在せず、後世のどこかの時点で付け加えられたものだという。
今回は「千夜一夜物語」が成立した9世紀ごろには、アッバース朝の領域にあった、アルメニアのエレバンブランデー社が、白ワインを原料として作るブランデー「アララット アフタマール」をチョイス。
ラムに近い独特の香りが特徴で、ブランデーとワインの中間の独特な味わい。
夜毎語られる物語と共に飲むと、ナイトキャップにちょうどいい。
酒豪ウィンストン・チャーチルの愛飲酒としても知られている、歴史ある酒だ。



2019年06月10日 (月) | 編集 |
大好きだから、一緒が辛い。
解散を決めた人気女性ギターデュオ「ハルレオ」のハルとレオ、二人のローディー兼マネージャーでステージでは他の楽器を使ってサポートもするシマ。
3人の最後のツアーの日々を描く、青春音楽ロードムービーだ。
作詞作曲を手がけるハル役に門脇麦、奔放なレオ役に小松菜奈、二人に振り回されながらも、なとかハンドルしようとするシマには成田凌。
この映画の成功の半分は、このクッキリとキャラ立ちするキャスティングの勝利と言って良い。
全国7つの都市を巡るライブシーン以外は、ほとんどこの3人の仲良くいがみ合う掛け合いと、ランダムに挟まれる、今に至るハルレオの過去のエピソード。
音楽経験の無かったレオを、職場で知り合ったハルが誘い、やがてインディーズの人気デュオに。
忙しくなってきたので、ローディーを募集したら、なんでも出来ちゃうシマが現れてマネージャーに。
成田凌がいつダークサイドに豹変するのかとドキドキしたけど、基本今回はいい人。
彼自身も元ミュージシャンで、バンドがダメになって解散してしまった過去があり、ハルレオの二人には自分と同じ轍は踏んで欲しくないと思っている。
この3人、いろんな意味でお互いに好き過ぎて、相手のことを考え過ぎて、気を遣い過ぎて、逆にだんだんと苦しくなっちゃってるんだな。
嫌い合っているのではない。
大好きだからこそ、一緒にいるのが辛い。
全国を回る車の旅路が、今まで辿ってきた3人の旅路を呼び起こし、それぞれが自分の内面と向き合い、本当の気持ちに気付いてゆく物語。
キャラクター造形が非常に繊細に作り込まれていて、奇妙な三角関係に説得力あり。
この手の男女3人組の話は、色恋沙汰が葛藤の発端になっているパターンが多いが、本作の場合ちょっと捻ってある。
シマはハルのことが好き。
だけどハルはレズビアンであることが示唆される。
レオはあちこちフラフラしているのだが、基本シマのことが好き。
バンド内恋愛禁止を不文律にしていることもあって、このすれ違う恋心がなんとも言えないモヤモヤを作り出し、3人の葛藤をより深めている。
ラブストーリーではないのだけど、ここには明らかに、人を愛することで生まれる苦しさが描かれているのだ。
表題曲「さよならくちびる」を秦基博、「誰にだって訳がある」「たちまち嵐」をあいみょんが手がけ、さすがのクオリティ。
ライブシーンは十分に聞かせ、音楽映画としても見応えあり。
シマじゃないけど、最後の函館の解散ライブは「とても感動的」だったよ(笑
基本的にはハルレオ+シマが出ずっぱりなのだが、函館で待っているファンの女の子カップルとか、メインプロット以外のディテールの描写も丁寧。
「さよならくちびる」の歌詞を聴くと、彼女たちがなぜあれほど感動していたのかが分かる。
物語性と音楽性とがピタリと合い、塩田明彦作品では「月光の囁き」以来、一番好きな作品になった。
今回はハルレオの3人のような三つの材料で作る「テキーラ・サンライズ」をチョイス。
氷を入れたグラスに、テキーラ45ml、オレンジ・ジュース90mlを注ぎ、軽くステア。
グラスの底に沈むよう、グレナデン・シロップ2tspを静かに注ぎ入れる。
名前の通り、燃えるようなオレンジのカラーが鮮烈で、テキーラの独特な風味が、オレンジの酸味と甘味、グレナデンの甘味と混じり合い、絶妙なハーモニーを奏でる。
ミック・ジャガーの愛飲酒としても有名で、イーグルスの同盟楽曲もあるという、音楽にはゆかりの深い一杯だ。
そう言えばロバート・タウン監督、メル・ギブソン監督の同名映画もあったな。
記事が気に入ったらクリックしてね
解散を決めた人気女性ギターデュオ「ハルレオ」のハルとレオ、二人のローディー兼マネージャーでステージでは他の楽器を使ってサポートもするシマ。
3人の最後のツアーの日々を描く、青春音楽ロードムービーだ。
作詞作曲を手がけるハル役に門脇麦、奔放なレオ役に小松菜奈、二人に振り回されながらも、なとかハンドルしようとするシマには成田凌。
この映画の成功の半分は、このクッキリとキャラ立ちするキャスティングの勝利と言って良い。
全国7つの都市を巡るライブシーン以外は、ほとんどこの3人の仲良くいがみ合う掛け合いと、ランダムに挟まれる、今に至るハルレオの過去のエピソード。
音楽経験の無かったレオを、職場で知り合ったハルが誘い、やがてインディーズの人気デュオに。
忙しくなってきたので、ローディーを募集したら、なんでも出来ちゃうシマが現れてマネージャーに。
成田凌がいつダークサイドに豹変するのかとドキドキしたけど、基本今回はいい人。
彼自身も元ミュージシャンで、バンドがダメになって解散してしまった過去があり、ハルレオの二人には自分と同じ轍は踏んで欲しくないと思っている。
この3人、いろんな意味でお互いに好き過ぎて、相手のことを考え過ぎて、気を遣い過ぎて、逆にだんだんと苦しくなっちゃってるんだな。
嫌い合っているのではない。
大好きだからこそ、一緒にいるのが辛い。
全国を回る車の旅路が、今まで辿ってきた3人の旅路を呼び起こし、それぞれが自分の内面と向き合い、本当の気持ちに気付いてゆく物語。
キャラクター造形が非常に繊細に作り込まれていて、奇妙な三角関係に説得力あり。
この手の男女3人組の話は、色恋沙汰が葛藤の発端になっているパターンが多いが、本作の場合ちょっと捻ってある。
シマはハルのことが好き。
だけどハルはレズビアンであることが示唆される。
レオはあちこちフラフラしているのだが、基本シマのことが好き。
バンド内恋愛禁止を不文律にしていることもあって、このすれ違う恋心がなんとも言えないモヤモヤを作り出し、3人の葛藤をより深めている。
ラブストーリーではないのだけど、ここには明らかに、人を愛することで生まれる苦しさが描かれているのだ。
表題曲「さよならくちびる」を秦基博、「誰にだって訳がある」「たちまち嵐」をあいみょんが手がけ、さすがのクオリティ。
ライブシーンは十分に聞かせ、音楽映画としても見応えあり。
シマじゃないけど、最後の函館の解散ライブは「とても感動的」だったよ(笑
基本的にはハルレオ+シマが出ずっぱりなのだが、函館で待っているファンの女の子カップルとか、メインプロット以外のディテールの描写も丁寧。
「さよならくちびる」の歌詞を聴くと、彼女たちがなぜあれほど感動していたのかが分かる。
物語性と音楽性とがピタリと合い、塩田明彦作品では「月光の囁き」以来、一番好きな作品になった。
今回はハルレオの3人のような三つの材料で作る「テキーラ・サンライズ」をチョイス。
氷を入れたグラスに、テキーラ45ml、オレンジ・ジュース90mlを注ぎ、軽くステア。
グラスの底に沈むよう、グレナデン・シロップ2tspを静かに注ぎ入れる。
名前の通り、燃えるようなオレンジのカラーが鮮烈で、テキーラの独特な風味が、オレンジの酸味と甘味、グレナデンの甘味と混じり合い、絶妙なハーモニーを奏でる。
ミック・ジャガーの愛飲酒としても有名で、イーグルスの同盟楽曲もあるという、音楽にはゆかりの深い一杯だ。
そう言えばロバート・タウン監督、メル・ギブソン監督の同名映画もあったな。



2019年06月06日 (木) | 編集 |
うた声が、国境を越えてゆく。
沖縄出身の人気バンド、モンパチことMONGOL800の代表作、「小さな恋のうた」をモチーフにした、青春音楽映画。
才能溢れる沖縄の高校生バンドの物語。
オリジナル楽曲を作り、プロからも声がかかるほどの実力を持つ彼らに、ある日突然悲劇が襲う。
一度は消滅したバンドが、残された音楽に背中を押され、再び歩き始める物語は青春映画の王道中の王道。
しかし、これはただキラキラした青春の輝きを描くだけの映画ではない。
本作の白眉は、同じ島の中に日本とアメリカ、二つの国がある沖縄の特殊な環境を生かし切った、鋭い社会性にある。
バンドメンバーに、佐野勇斗、森永悠希、山田杏奈、眞栄田郷敦、鈴木仁。
米軍基地のフェンスの向こうにいる“友だち”をトミコ クレアが演じる。
第81回アカデミー短編アニメーション映画賞に輝いた「つみきのいえ」の平田研也が脚本、橋本光二郎が監督を務め、キャリアベストの仕上がりとなった。
※映画の前半にちょっとした仕掛けがあるので、観る前は読まないことをお勧めします。
沖縄の小さな町の高校では、あるバンドが人気を集めていた。
ボーカルの真栄城亮多(佐野勇斗)とギターの譜久村慎司(眞栄田郷敦)、ドラムの池原航太郎(森永悠希)、ベースの新里大輝(鈴木仁)。
カバーではなく、オリジナル楽曲で学生たちを熱狂させる彼らの実力は、東京の音楽レーベルの耳にもとまり、プロデビューが決まる。
ところが、喜びもつかの間。
バンドの作曲を手がけていた慎司が轢き逃げ事故に遭い、突然他界してしまう。
加害車両が米軍基地所属のYナンバーだったという証言が出るも、捜査も遅々として進まず、バンドは解散状態に。
そんなある日、慎司の妹の舞(山田杏奈)が兄のパソコンから未完成楽曲を見つけ、亮多たちにバンドの再結成を持ちかける。
大輝が既に他のバンドに加入してしまったことから、ギタリストとして舞が加わったスリーピースバンドとして再始動。
彼らには、慎司の最後の曲をどうしても届けたい人がいた。
それは、米軍基地のフェンスの向こうにいる、ひとりの少女・・・
もう30年以上前になるだろうか、沖縄を初めて訪れた時、強いインパクトを受けた風景がある。
道路をバイクで走っていると、突然右側の視界が開けた。
そこは沖縄の米軍基地で、基地に勤務する軍人の家族が住む住宅地だったのだ。
道の左側はマッチ箱のような建物が密集する日本なのだが、右側は広々とした芝生の庭を持つ大きな家が余裕をもって建てられていて、まるでハリウッド映画に出てくるアメリカのサバーブ。
小さな島の中に、フェンス一枚を隔てて、全く異なる国の風景が同居していた。
那覇の国際通りの映画館も、当時の日本本土で見られた様な絵看板ではなく、アメリカの映画館でおなじみの文字をはめ込むタイプで、戦後30年近くアメリカの施政下にあり、日本復帰後もアメリカ軍施設が集中する状況を実感した。
本作が描くのは、本土とは違う現実の中を生きる沖縄の若者たちの物語であり、青春音楽映画としては相当な異色作である。
しかし、モチーフとなった歌を作ったモンパチは沖縄のバンドだが、主要な役を演じる若い俳優たちに沖縄出身者はいない。
沖縄を舞台とした映画ではおなじみの、琉球語にルーツを持つ独特の方言もほとんど話されない。
それどころか、遠浅の澄んだ海も、どこまでも青い空も、歴史を伝えるグスクなどの史跡、沖縄料理などのローカル要素が全くフィーチャーされないのはなぜか。
それは本土の観客にとって、こういった沖縄ならではの風景が「浮足立った非日常」を感じさせてしまうからだろう。
南国のシーパラダイス、それは確かに沖縄の一面で、観客が求めるものではあるのだが、本作の作り手たちは、あくまでも映画的な現実感に拘った。
だからこそ、一見すると日本中のどこにでもありそうな高校生たちの青春は、誰もがリアリティを感じられるもので、唯一の違いがあまりにも大きな基地の存在なのだ。
沖縄の基地問題を語るとき、陥りがちな賛成反対の単純な善悪二元論は避けられている。
成功目前だった若者たちの音楽活動は、慎司が轢き逃げ事件で亡くなったことで霧散する。
目撃された車が基地所属を意味するYナンバーだったことから、沖縄県警の捜査はなかなか進まず、事件に憤った人々の反基地プロテストも始まる。
一方で、亡くなった慎司は基地に住むアメリカ人の少女リサと、恋と言うにはピュア過ぎる、フェンス越しの交流を深めていっていたことも明らかになる。
慎司を殺したかもしれない者がいるのも基地、慎司の大切な人がいるもの基地。
大人たちのおかれている状況も、基本的には同じ。
慎司の父親は基地で仕事をしていて、息子を殺した犯人がいるかもしれない職場で働き続けることに葛藤している。
亮多の母親は米兵向けのバーを経営しているが、何か事件が起こるたびに基地の軍人たちに外出禁止令が出て、店は閑古鳥がないてしまう。
基地によって傷つけられる人も、基地によって生活している人もいる。
この映画が秀逸なのは、視線をフェンスの向こうの基地に暮らす、米国の人々にも向けていることだ。
沖縄の基地問題を扱った作品は多いが、単純なアイコンとなりがちな軍人ではなく、その家族にフォーカスした作品は初めて観たかもしれない。
当たり前だが、米軍基地の敷地内に住んでいるのは軍人だけではなく、ごく普通の人々も暮らしていることは、忘れられがち。
リサの父親はオスプレイのパイロットであり、彼女は沖縄の人々の米軍への反発も知っているし、何よりも彼女自身も慎司を失った被害者だ。
同世代の沖縄の若者と仲良くなりたくても、基地にプロテストする沖縄の人々とのもめごとを避けるために、フェンスのこちら側に来ることもできないでいる。
立場は違えど、否応なしに基地とともに生き、分断と共生を内面に抱えた人々がここには描かれているのだ。
轢き逃げ犯が実際に基地の人間だったのか、結局はっきりしないのも、白黒で割り切れない現実を反映する。
そして、一度は消滅したバンドが、再生するためのエネルギーとなるのも、フェンスで隔てられたリサに、慎司が伝えられなかった想いを改めて届けたいという願い。
それはそのまま、歴史的に複雑な葛藤が折り重なる、沖縄の未来に対する希望とオーバーラップする。
表題曲の「小さな恋のうた」はじめ、「DON'T WORRY BE HAPPY」「あなたに」「SAYONARA DOLL」などモンパチの名曲の歌詞が物語に気持ちいいくらいピタリとはまり、若者たちが歌い上げるピュアな友情と仄かな恋の想いは、軽々と国境のフェンスを越えてゆく。
基地の問題は色々あるけれど、物理的な分断は心できっと超えられる。
理想主義ではあるが、これぞ青春の煌めき。
本土で本作を観る若者にこそ、何かを感じてほしいというのが、本作の真の願いだろう。
「ちはやふる」チームの佐野勇斗と森永悠希、兄の遺志を受け継ぐ山田杏奈ら、若手キャストの大健闘が光る。
音楽映画としても聴き応え、カタルシスも十分で、必見の快作だ。
今回は、「サザン・スパークル」をチョイス。
サザンカンフォート30ml、パイナップル・ジュース45ml、レモン・ジュース10mlをシェイクし、氷を入れたグラスに注ぐ。
最後にジンジャー・エールを適量満たして完成。
サザンカンフォートのピーチ、パイナップル、レモンの三種のフルーツがハーモニーを作り出し、ジンジャーがすっきりとまとめ上げる。
まるで本作の高校生バンドのような瑞々しさだ。
記事が気に入ったらクリックしてね
沖縄出身の人気バンド、モンパチことMONGOL800の代表作、「小さな恋のうた」をモチーフにした、青春音楽映画。
才能溢れる沖縄の高校生バンドの物語。
オリジナル楽曲を作り、プロからも声がかかるほどの実力を持つ彼らに、ある日突然悲劇が襲う。
一度は消滅したバンドが、残された音楽に背中を押され、再び歩き始める物語は青春映画の王道中の王道。
しかし、これはただキラキラした青春の輝きを描くだけの映画ではない。
本作の白眉は、同じ島の中に日本とアメリカ、二つの国がある沖縄の特殊な環境を生かし切った、鋭い社会性にある。
バンドメンバーに、佐野勇斗、森永悠希、山田杏奈、眞栄田郷敦、鈴木仁。
米軍基地のフェンスの向こうにいる“友だち”をトミコ クレアが演じる。
第81回アカデミー短編アニメーション映画賞に輝いた「つみきのいえ」の平田研也が脚本、橋本光二郎が監督を務め、キャリアベストの仕上がりとなった。
※映画の前半にちょっとした仕掛けがあるので、観る前は読まないことをお勧めします。
沖縄の小さな町の高校では、あるバンドが人気を集めていた。
ボーカルの真栄城亮多(佐野勇斗)とギターの譜久村慎司(眞栄田郷敦)、ドラムの池原航太郎(森永悠希)、ベースの新里大輝(鈴木仁)。
カバーではなく、オリジナル楽曲で学生たちを熱狂させる彼らの実力は、東京の音楽レーベルの耳にもとまり、プロデビューが決まる。
ところが、喜びもつかの間。
バンドの作曲を手がけていた慎司が轢き逃げ事故に遭い、突然他界してしまう。
加害車両が米軍基地所属のYナンバーだったという証言が出るも、捜査も遅々として進まず、バンドは解散状態に。
そんなある日、慎司の妹の舞(山田杏奈)が兄のパソコンから未完成楽曲を見つけ、亮多たちにバンドの再結成を持ちかける。
大輝が既に他のバンドに加入してしまったことから、ギタリストとして舞が加わったスリーピースバンドとして再始動。
彼らには、慎司の最後の曲をどうしても届けたい人がいた。
それは、米軍基地のフェンスの向こうにいる、ひとりの少女・・・
もう30年以上前になるだろうか、沖縄を初めて訪れた時、強いインパクトを受けた風景がある。
道路をバイクで走っていると、突然右側の視界が開けた。
そこは沖縄の米軍基地で、基地に勤務する軍人の家族が住む住宅地だったのだ。
道の左側はマッチ箱のような建物が密集する日本なのだが、右側は広々とした芝生の庭を持つ大きな家が余裕をもって建てられていて、まるでハリウッド映画に出てくるアメリカのサバーブ。
小さな島の中に、フェンス一枚を隔てて、全く異なる国の風景が同居していた。
那覇の国際通りの映画館も、当時の日本本土で見られた様な絵看板ではなく、アメリカの映画館でおなじみの文字をはめ込むタイプで、戦後30年近くアメリカの施政下にあり、日本復帰後もアメリカ軍施設が集中する状況を実感した。
本作が描くのは、本土とは違う現実の中を生きる沖縄の若者たちの物語であり、青春音楽映画としては相当な異色作である。
しかし、モチーフとなった歌を作ったモンパチは沖縄のバンドだが、主要な役を演じる若い俳優たちに沖縄出身者はいない。
沖縄を舞台とした映画ではおなじみの、琉球語にルーツを持つ独特の方言もほとんど話されない。
それどころか、遠浅の澄んだ海も、どこまでも青い空も、歴史を伝えるグスクなどの史跡、沖縄料理などのローカル要素が全くフィーチャーされないのはなぜか。
それは本土の観客にとって、こういった沖縄ならではの風景が「浮足立った非日常」を感じさせてしまうからだろう。
南国のシーパラダイス、それは確かに沖縄の一面で、観客が求めるものではあるのだが、本作の作り手たちは、あくまでも映画的な現実感に拘った。
だからこそ、一見すると日本中のどこにでもありそうな高校生たちの青春は、誰もがリアリティを感じられるもので、唯一の違いがあまりにも大きな基地の存在なのだ。
沖縄の基地問題を語るとき、陥りがちな賛成反対の単純な善悪二元論は避けられている。
成功目前だった若者たちの音楽活動は、慎司が轢き逃げ事件で亡くなったことで霧散する。
目撃された車が基地所属を意味するYナンバーだったことから、沖縄県警の捜査はなかなか進まず、事件に憤った人々の反基地プロテストも始まる。
一方で、亡くなった慎司は基地に住むアメリカ人の少女リサと、恋と言うにはピュア過ぎる、フェンス越しの交流を深めていっていたことも明らかになる。
慎司を殺したかもしれない者がいるのも基地、慎司の大切な人がいるもの基地。
大人たちのおかれている状況も、基本的には同じ。
慎司の父親は基地で仕事をしていて、息子を殺した犯人がいるかもしれない職場で働き続けることに葛藤している。
亮多の母親は米兵向けのバーを経営しているが、何か事件が起こるたびに基地の軍人たちに外出禁止令が出て、店は閑古鳥がないてしまう。
基地によって傷つけられる人も、基地によって生活している人もいる。
この映画が秀逸なのは、視線をフェンスの向こうの基地に暮らす、米国の人々にも向けていることだ。
沖縄の基地問題を扱った作品は多いが、単純なアイコンとなりがちな軍人ではなく、その家族にフォーカスした作品は初めて観たかもしれない。
当たり前だが、米軍基地の敷地内に住んでいるのは軍人だけではなく、ごく普通の人々も暮らしていることは、忘れられがち。
リサの父親はオスプレイのパイロットであり、彼女は沖縄の人々の米軍への反発も知っているし、何よりも彼女自身も慎司を失った被害者だ。
同世代の沖縄の若者と仲良くなりたくても、基地にプロテストする沖縄の人々とのもめごとを避けるために、フェンスのこちら側に来ることもできないでいる。
立場は違えど、否応なしに基地とともに生き、分断と共生を内面に抱えた人々がここには描かれているのだ。
轢き逃げ犯が実際に基地の人間だったのか、結局はっきりしないのも、白黒で割り切れない現実を反映する。
そして、一度は消滅したバンドが、再生するためのエネルギーとなるのも、フェンスで隔てられたリサに、慎司が伝えられなかった想いを改めて届けたいという願い。
それはそのまま、歴史的に複雑な葛藤が折り重なる、沖縄の未来に対する希望とオーバーラップする。
表題曲の「小さな恋のうた」はじめ、「DON'T WORRY BE HAPPY」「あなたに」「SAYONARA DOLL」などモンパチの名曲の歌詞が物語に気持ちいいくらいピタリとはまり、若者たちが歌い上げるピュアな友情と仄かな恋の想いは、軽々と国境のフェンスを越えてゆく。
基地の問題は色々あるけれど、物理的な分断は心できっと超えられる。
理想主義ではあるが、これぞ青春の煌めき。
本土で本作を観る若者にこそ、何かを感じてほしいというのが、本作の真の願いだろう。
「ちはやふる」チームの佐野勇斗と森永悠希、兄の遺志を受け継ぐ山田杏奈ら、若手キャストの大健闘が光る。
音楽映画としても聴き応え、カタルシスも十分で、必見の快作だ。
今回は、「サザン・スパークル」をチョイス。
サザンカンフォート30ml、パイナップル・ジュース45ml、レモン・ジュース10mlをシェイクし、氷を入れたグラスに注ぐ。
最後にジンジャー・エールを適量満たして完成。
サザンカンフォートのピーチ、パイナップル、レモンの三種のフルーツがハーモニーを作り出し、ジンジャーがすっきりとまとめ上げる。
まるで本作の高校生バンドのような瑞々しさだ。



2019年06月01日 (土) | 編集 |
怪獣王の覚醒。
レジェンダリー・ピクチャーズの手がける怪獣クロスオーバー企画、モンスターバースの第三弾。
2014年版「GODZILLA ゴジラ」と「キングコング:髑髏島の巨神」と世界観を共有する「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」は、ゴジラ映画としては日米通算35作目。
実写作品としては、2016年の「シン・ゴジラ」以来3年ぶりとなる。
本作で描かれるのは、小出しにされてきた謎の組織モナークの全貌と、世界各地で目覚めた太古の怪獣たちとゴジラとの死闘。
監督と共同脚本は、アニメーター出身で、「スーパーマン・リターンズ」などの脚本家として知られるマイケル・ドハティが務める。
渡辺謙をはじめ、前作と共通する出演者もいるが、物語は独立性が強く、本作のみ鑑賞しても問題あるまい。
とは言え、オマージュ満載のディテールを見れば、ゴジラ映画のファンほどディープに楽しめる作品なのは間違いないだろう。
※核心部分に触れています。
サンフランシスコを壊滅させた、ゴジラとムトーとの戦いから5年。
巻き添えで息子を失ったモナークの科学者、エマ・ラッセル(ベラ・ファーミガ)は怪獣の生体音を再現する“オルカ”と呼ばれる装置を使い、怪獣とコミュニケーションをとる研究を進めていた。
彼女は孵化したばかりのモスラの幼虫のコントロールに成功するが、直後に環境テロリストのアラン・ジョナ(チャールズ・ダンス)によって娘のマディソン(ミリー・ボビー・ブラウン)と共に拉致され、オルカも奪われてしまう。
芹沢博士(渡辺謙)は、エマの別れた夫、マーク(カイル・チャンドラー)に協力を要請。
彼らは、二人が連行されたと思われるモナークの南極基地へと向かう。
しかしわずかに遅く、エマによって南極の氷に閉じ込められていた三つの頭を持つ最強の怪獣、ギドラが復活。
絶体絶命の窮地に陥るマークたちだが、そこへ突然ゴジラが現れ、ギドラと死闘を繰り広げる。
やがて空へと飛び去ったギドラを追って、ゴジラも姿を消す。
エマがアランに協力していることに驚くマークたちだったが、彼女は人類が汚した自然の調和のために怪獣の復活が必要だと信じていて、オルカの開発もそのためだった。
そしてメキシコの火口からラドンが現れ、世界各地で怪獣たちが覚醒してゆく・・・
自他共に認める怪獣オタク、マイケル・ドハティのゴジラ愛が炸裂。
東宝特撮映画のみならず、平成「ガメラ」シリーズや「ウルトラQ」、宮崎駿的な要素まで取り込んで、怪獣映画全部入り。
132分、ラーメン二郎のマシマシを食べ続けた様な、ゲップが出そうな満腹感だ。
ギャレス・エドワーズの「GODZILLA ゴジラ」は素晴らしい作品だったが、不満点もいくつかあった。
その最大のものが、「怪獣たちの出し惜しみ」だ。
ゴジラもムトーも、なかなか全体像を見せてくれず、出てきたと思ったら、いいところで場面転換してしまう。
まあそんな焦らしも演出的な狙いではあるのだが、ゴジラ映画からウルトラマンに至る、昭和の怪獣プロレスの系譜で育った世代としては、やっぱりもっとバトルシーンが見たかった。
おそらくドハティも同じことを思ったのだろう。
今回は四大怪獣の見せ場がてんこ盛りだ。
前作のエドワーズは、おそらくハリウッド史上初めて、怪獣を単なる生物ではなく自然の化身としてのアニミズム的な“荒ぶる神”として描いた。
その流れは今回、生粋のオタク監督のもとで更に加速し、本作に登場する怪獣たちによるスペクタクルシーンの数々は、まるで黙示録を描く宗教画の様な荘厳で禍々しい美しさと、人類のちっぽけさを感じさせる神秘性に満ちている。
特に怪獣同士が戦っている“足元”からの人間目線のショットは凄まじい迫力で、まったく生きた心地がせず、思わずひれ伏して祈りたくなるほど。
怪獣の巨大感を強調するために、縮尺を無視しているショットも多々ある。
例えばモナークの空中母機アルゴは、搭載機のオスプレイから推察するに、本作では翼長871フィートに設定されたラドンと同じくらいの大きさはあるはずだが、ラドンに迫られるショットでは突然数分の一に小さくなってしまう。
主役はあくまでも怪獣。
怪獣のキャラを立てていこう、という意図は明快。
主役のゴジラはいわゆるギャレゴジのファット、もといマッチョなデザインをベースに、54年版の堂々たる背びれを合体させてブラッシュアップ。
火山から現れるラドンは、まるで溶岩の様な硬質な皮膚をもち、炎の属性を強調。
操演の時代には不可能だった、アクロバティックな空中戦を存分に見せてくれる。
壮麗な美しさを持つモスラは、胴体部分がカマキリを思わせる細身で戦闘的なデザインとなり、他の怪獣と互角に戦えるビジュアル的説得力を獲得。
そして、地球の生態系に属さない宇宙怪獣のギドラは、基本形状は日本版のままだが、翼が西洋のドラゴンを思わせる形となり、より生物的なリアリティと凶暴性が増した。
ラドンを屈服させ、十字架の背後で咆哮をあげる姿は、まさしく偽りの王の称号に相応しい。
三つの頭それぞれに個性があり、向かって右側の頭がいちいちいらんことして、リーダーと思しき真ん中に怒られたり、時には互いに助け合ったりするのも面白い。
番長感漂わせるゴジラは怪獣の王、ギドラはヒール感あふれる外来種、モスラは癒しの使者など、分かりやすい怪獣の性格づけは非常に日本的。
強い者に巻かれるラドンは、スネ夫というかロキだった(笑
戦いの後、ゴジラに睨まれて「やべえ、俺しくじった」的なリアクションを見せるのが可笑しい。
人類が破綻させた地球の生態系を回復させ、世界に調和をもたらす神的な存在として怪獣が現れるという世界観は、いわゆる「アニゴジ三部作」に近い。
もっとも、世界のバランスが崩れたとき、怪獣が現れたり奇妙な事件が起こるというコンセプトは、「ウルトラQ」が元祖。
アニゴジとモンスターバースがどこまですり合わせをしているのかは不明だが、ドハティのオタクっぷりを見ると、モンスターバースの作り手が「ウルトラQ」から影響を受けた可能性は大いにあり得るだろう。
しかし、人類は地球にとって病原菌だから、いっそ怪獣に暴れてもらって半分くらい殺しちゃった方が、幸せな未来が作れるというエマの思想は、つい一月前にも誰かが同じことを言っていた様な(笑
物語のベースとなっているのは、ギドラが初登場した「三大怪獣 地球最大の決戦」だろうが、「GODZILLA ゴジラ」の続編という視点でも、明らかな継続性が見られる。
どちらの作品でも、怪獣たちのスケールとは対照的に、人間ドラマは家族の葛藤が中心の非常に小さな物語になっていた。
本作の場合はゴジラに息子を殺されたことで、怪獣を憎む様になる夫と、息子の犠牲の意味を追求した妻、それぞれにとっての怪獣の存在する意味と、未来への選択の違いがドラマの骨子。
また前作の主人公は軍人で、映画も軍事ミッションを中心としてプロットが構成されていたが、本作の登場人物は大半が怪獣オタクのモナークの科学者だ。
一応、モナークの軍事部門がゴジラを援護するなどの描写はあるものの、基本的には怪獣たちの戦いの足元で必死に駆けずり回っている以上のことはしない、というか出来ない。
地球の運命を決める神々の戦いは、まさに自然のディザスターであって、手出しできる様なものではなく、人類にできるのは観察し、見届けることくらいなのである。
だからあえてその一線を越え、怪獣たちに影響を与え様とする者は、神の領域を侵した報いを受けなければならないのだ。
かように、東宝型の怪獣像を更に純化した様な本作は、日本が培ってきた怪獣文化へのリスペクトが物凄く熱くて、あちこちにオマージュが。
少し違った形ながら、初代ゴジラを葬った“オキシジェン・デストロイヤー”も再登場。
怪獣を科学で操るというエマの考えは、「怪獣大戦争」や「ゴジラ FINAL WARS」のX星人を思わせ、彼女がギドラを“モンスター・ゼロ”と呼んでいるのも、X星人がギドラをそう呼んでいたからだろう。
チャン・ツィイー演じる中国人科学者、チェン博士とリン博士が祖母の代からの双子設定なのは、もちろん小美人へのオマージュで、劇中で彼女が見ている母親たちの写真には「1961年のインファント島で撮影」(初代「モスラ」の公開年)と記されている。
モスラの幼虫が、怒りや恐怖を感じると赤色の攻撃色に光り、落ち着きを取り戻すと青色に光ったり、怪獣たちが蹂躙した跡地に急速に生命が芽吹く設定は、「風の谷のナウシカ」や「もののけ姫」と言った宮崎駿のアニメーション映画を思わせる。
神話に語られた地球の守護神としての怪獣たちに、アトランティ文明的な遺跡の存在は、平成「ガメラ」シリーズから。
怪獣の戦いに巻き込まれ、家族を亡くした遺族の怒りは「ガメラ3 邪神〈イリス〉覚醒」に描かれていて、この作品の手塚とおると山咲千里のキャラクターは、本作のエマとアランの原型か。
日本版の音楽を、思いっきり前面に出して使ってくるのも驚いた。
ギドラとの決戦で伊福部昭の「ゴジラのテーマ」、モスラの羽化シーンで古関裕而の「モスラの歌」がかかると、自然にテンションが上がる。
そして何と言っても、今回人間で一番美味しいところを持ってゆくのは、渡辺謙演じる芹沢博士である。
水爆実験の熱線によって焼かれ、ケロイドの皮膚を持つ突然変異した恐竜の生き残りという設定の初代ゴジラは、倫理を忘れた人類の科学によって生まれた、恐怖の象徴だった。
そのゴジラを殺すために、オキシジェン・デストロイヤーを使用した初代芹沢博士は、自らもゴジラと共に海に消えた。
対して本作のゴジラは、疲弊したこの星を救うために復活した荒ぶる神であり、人類にとっては脅威であるのと同時に一縷の希望だ。
本作で二代目芹沢博士は、ゴジラを生かし、人類を救ってもらうために、人類の罪の象徴である核を使う。
殺すためと生かすためと目的は違っても、共に暴走する科学が作り出した悪魔の兵器を使った二人の芹沢博士は、人類の原罪を背負ってその命を差し出さなければならなかったのである。
一方、地球環境の調和を取り戻すために、神である怪獣たちを操ろうとしたエマも、科学者としての自らの傲慢さに気付いておらず、最終的にはその対価を払わされる。
思想の異なる二人の科学者の最期は、初代ゴジラから連なるコントロール不能の科学への懸念と、自然への畏怖の念というシリーズのテーマを体現するものだ。
今年は、木城ゆきとの「銃夢」をジェームズ・キャメロンとロバート・ロドリゲスが映画化した「アリータ:バトル・エンジェル」やポケモン世界の初の実写映画化「名探偵ピカチュウ」など、日本にルーツを持つハリウッド映画の秀作が目立つ。
一昔前のエメリッヒ版「ゴジラ」や「スーパーマリオ 魔界帝国の女神」などと比べると、決定的に異なるのが、作り手からオリジナルへの熱いリスペクトと作品愛だ。
本作も、全く異なる文化を持つハリウッドの映画人が、ここまで深くゴジラ映画の真髄を理解し、愛情を持って扱ってくれていることに素直に感動。
エンドクレジットで、ゴジラ、ラドン、ギドラが“HImself”、モスラが“Herself”になってたのにはオタクのこだわりと愛を感じた。
ドハティにとって、怪獣は実在しているのだなあ。
「ゴジラ対ヘドラ」の監督であり、2014年版「GODZILLA ゴジラ」の生みの親の一人でもある坂野義光と、ゴジラの中の人こと中島春雄への献辞にもグッときた。
中島春雄は、これで初めて「主役」としてゴジラ映画で顔が映った訳だ。
ちなみにエンドクレジット後のおまけ映像は、来年公開が決まっている「Godzilla vs Kong」のさらにその次に対する布石か。
平成シリーズのアレを期待しちゃうけど、果たして。
今回は怪獣王の話なので、カクテルの王と呼ばれる「マティーニ」をチョイス。
ドライ・ジン45ml、ドライ・ベルモット15mlをステアしてグラスに注ぎ、オリーブを一つ沈める。
ジンの比率が増えると、ドライ・マティーニとなる。
辛口流行りの今はこちらの方がむしろ主流。
非常にシンプルなカクテルだが味わいは奥深く、決して飲み飽きないのは王者の風格。
記事が気に入ったらクリックしてね
レジェンダリー・ピクチャーズの手がける怪獣クロスオーバー企画、モンスターバースの第三弾。
2014年版「GODZILLA ゴジラ」と「キングコング:髑髏島の巨神」と世界観を共有する「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」は、ゴジラ映画としては日米通算35作目。
実写作品としては、2016年の「シン・ゴジラ」以来3年ぶりとなる。
本作で描かれるのは、小出しにされてきた謎の組織モナークの全貌と、世界各地で目覚めた太古の怪獣たちとゴジラとの死闘。
監督と共同脚本は、アニメーター出身で、「スーパーマン・リターンズ」などの脚本家として知られるマイケル・ドハティが務める。
渡辺謙をはじめ、前作と共通する出演者もいるが、物語は独立性が強く、本作のみ鑑賞しても問題あるまい。
とは言え、オマージュ満載のディテールを見れば、ゴジラ映画のファンほどディープに楽しめる作品なのは間違いないだろう。
※核心部分に触れています。
サンフランシスコを壊滅させた、ゴジラとムトーとの戦いから5年。
巻き添えで息子を失ったモナークの科学者、エマ・ラッセル(ベラ・ファーミガ)は怪獣の生体音を再現する“オルカ”と呼ばれる装置を使い、怪獣とコミュニケーションをとる研究を進めていた。
彼女は孵化したばかりのモスラの幼虫のコントロールに成功するが、直後に環境テロリストのアラン・ジョナ(チャールズ・ダンス)によって娘のマディソン(ミリー・ボビー・ブラウン)と共に拉致され、オルカも奪われてしまう。
芹沢博士(渡辺謙)は、エマの別れた夫、マーク(カイル・チャンドラー)に協力を要請。
彼らは、二人が連行されたと思われるモナークの南極基地へと向かう。
しかしわずかに遅く、エマによって南極の氷に閉じ込められていた三つの頭を持つ最強の怪獣、ギドラが復活。
絶体絶命の窮地に陥るマークたちだが、そこへ突然ゴジラが現れ、ギドラと死闘を繰り広げる。
やがて空へと飛び去ったギドラを追って、ゴジラも姿を消す。
エマがアランに協力していることに驚くマークたちだったが、彼女は人類が汚した自然の調和のために怪獣の復活が必要だと信じていて、オルカの開発もそのためだった。
そしてメキシコの火口からラドンが現れ、世界各地で怪獣たちが覚醒してゆく・・・
自他共に認める怪獣オタク、マイケル・ドハティのゴジラ愛が炸裂。
東宝特撮映画のみならず、平成「ガメラ」シリーズや「ウルトラQ」、宮崎駿的な要素まで取り込んで、怪獣映画全部入り。
132分、ラーメン二郎のマシマシを食べ続けた様な、ゲップが出そうな満腹感だ。
ギャレス・エドワーズの「GODZILLA ゴジラ」は素晴らしい作品だったが、不満点もいくつかあった。
その最大のものが、「怪獣たちの出し惜しみ」だ。
ゴジラもムトーも、なかなか全体像を見せてくれず、出てきたと思ったら、いいところで場面転換してしまう。
まあそんな焦らしも演出的な狙いではあるのだが、ゴジラ映画からウルトラマンに至る、昭和の怪獣プロレスの系譜で育った世代としては、やっぱりもっとバトルシーンが見たかった。
おそらくドハティも同じことを思ったのだろう。
今回は四大怪獣の見せ場がてんこ盛りだ。
前作のエドワーズは、おそらくハリウッド史上初めて、怪獣を単なる生物ではなく自然の化身としてのアニミズム的な“荒ぶる神”として描いた。
その流れは今回、生粋のオタク監督のもとで更に加速し、本作に登場する怪獣たちによるスペクタクルシーンの数々は、まるで黙示録を描く宗教画の様な荘厳で禍々しい美しさと、人類のちっぽけさを感じさせる神秘性に満ちている。
特に怪獣同士が戦っている“足元”からの人間目線のショットは凄まじい迫力で、まったく生きた心地がせず、思わずひれ伏して祈りたくなるほど。
怪獣の巨大感を強調するために、縮尺を無視しているショットも多々ある。
例えばモナークの空中母機アルゴは、搭載機のオスプレイから推察するに、本作では翼長871フィートに設定されたラドンと同じくらいの大きさはあるはずだが、ラドンに迫られるショットでは突然数分の一に小さくなってしまう。
主役はあくまでも怪獣。
怪獣のキャラを立てていこう、という意図は明快。
主役のゴジラはいわゆるギャレゴジのファット、もといマッチョなデザインをベースに、54年版の堂々たる背びれを合体させてブラッシュアップ。
火山から現れるラドンは、まるで溶岩の様な硬質な皮膚をもち、炎の属性を強調。
操演の時代には不可能だった、アクロバティックな空中戦を存分に見せてくれる。
壮麗な美しさを持つモスラは、胴体部分がカマキリを思わせる細身で戦闘的なデザインとなり、他の怪獣と互角に戦えるビジュアル的説得力を獲得。
そして、地球の生態系に属さない宇宙怪獣のギドラは、基本形状は日本版のままだが、翼が西洋のドラゴンを思わせる形となり、より生物的なリアリティと凶暴性が増した。
ラドンを屈服させ、十字架の背後で咆哮をあげる姿は、まさしく偽りの王の称号に相応しい。
三つの頭それぞれに個性があり、向かって右側の頭がいちいちいらんことして、リーダーと思しき真ん中に怒られたり、時には互いに助け合ったりするのも面白い。
番長感漂わせるゴジラは怪獣の王、ギドラはヒール感あふれる外来種、モスラは癒しの使者など、分かりやすい怪獣の性格づけは非常に日本的。
強い者に巻かれるラドンは、スネ夫というかロキだった(笑
戦いの後、ゴジラに睨まれて「やべえ、俺しくじった」的なリアクションを見せるのが可笑しい。
人類が破綻させた地球の生態系を回復させ、世界に調和をもたらす神的な存在として怪獣が現れるという世界観は、いわゆる「アニゴジ三部作」に近い。
もっとも、世界のバランスが崩れたとき、怪獣が現れたり奇妙な事件が起こるというコンセプトは、「ウルトラQ」が元祖。
アニゴジとモンスターバースがどこまですり合わせをしているのかは不明だが、ドハティのオタクっぷりを見ると、モンスターバースの作り手が「ウルトラQ」から影響を受けた可能性は大いにあり得るだろう。
しかし、人類は地球にとって病原菌だから、いっそ怪獣に暴れてもらって半分くらい殺しちゃった方が、幸せな未来が作れるというエマの思想は、つい一月前にも誰かが同じことを言っていた様な(笑
物語のベースとなっているのは、ギドラが初登場した「三大怪獣 地球最大の決戦」だろうが、「GODZILLA ゴジラ」の続編という視点でも、明らかな継続性が見られる。
どちらの作品でも、怪獣たちのスケールとは対照的に、人間ドラマは家族の葛藤が中心の非常に小さな物語になっていた。
本作の場合はゴジラに息子を殺されたことで、怪獣を憎む様になる夫と、息子の犠牲の意味を追求した妻、それぞれにとっての怪獣の存在する意味と、未来への選択の違いがドラマの骨子。
また前作の主人公は軍人で、映画も軍事ミッションを中心としてプロットが構成されていたが、本作の登場人物は大半が怪獣オタクのモナークの科学者だ。
一応、モナークの軍事部門がゴジラを援護するなどの描写はあるものの、基本的には怪獣たちの戦いの足元で必死に駆けずり回っている以上のことはしない、というか出来ない。
地球の運命を決める神々の戦いは、まさに自然のディザスターであって、手出しできる様なものではなく、人類にできるのは観察し、見届けることくらいなのである。
だからあえてその一線を越え、怪獣たちに影響を与え様とする者は、神の領域を侵した報いを受けなければならないのだ。
かように、東宝型の怪獣像を更に純化した様な本作は、日本が培ってきた怪獣文化へのリスペクトが物凄く熱くて、あちこちにオマージュが。
少し違った形ながら、初代ゴジラを葬った“オキシジェン・デストロイヤー”も再登場。
怪獣を科学で操るというエマの考えは、「怪獣大戦争」や「ゴジラ FINAL WARS」のX星人を思わせ、彼女がギドラを“モンスター・ゼロ”と呼んでいるのも、X星人がギドラをそう呼んでいたからだろう。
チャン・ツィイー演じる中国人科学者、チェン博士とリン博士が祖母の代からの双子設定なのは、もちろん小美人へのオマージュで、劇中で彼女が見ている母親たちの写真には「1961年のインファント島で撮影」(初代「モスラ」の公開年)と記されている。
モスラの幼虫が、怒りや恐怖を感じると赤色の攻撃色に光り、落ち着きを取り戻すと青色に光ったり、怪獣たちが蹂躙した跡地に急速に生命が芽吹く設定は、「風の谷のナウシカ」や「もののけ姫」と言った宮崎駿のアニメーション映画を思わせる。
神話に語られた地球の守護神としての怪獣たちに、アトランティ文明的な遺跡の存在は、平成「ガメラ」シリーズから。
怪獣の戦いに巻き込まれ、家族を亡くした遺族の怒りは「ガメラ3 邪神〈イリス〉覚醒」に描かれていて、この作品の手塚とおると山咲千里のキャラクターは、本作のエマとアランの原型か。
日本版の音楽を、思いっきり前面に出して使ってくるのも驚いた。
ギドラとの決戦で伊福部昭の「ゴジラのテーマ」、モスラの羽化シーンで古関裕而の「モスラの歌」がかかると、自然にテンションが上がる。
そして何と言っても、今回人間で一番美味しいところを持ってゆくのは、渡辺謙演じる芹沢博士である。
水爆実験の熱線によって焼かれ、ケロイドの皮膚を持つ突然変異した恐竜の生き残りという設定の初代ゴジラは、倫理を忘れた人類の科学によって生まれた、恐怖の象徴だった。
そのゴジラを殺すために、オキシジェン・デストロイヤーを使用した初代芹沢博士は、自らもゴジラと共に海に消えた。
対して本作のゴジラは、疲弊したこの星を救うために復活した荒ぶる神であり、人類にとっては脅威であるのと同時に一縷の希望だ。
本作で二代目芹沢博士は、ゴジラを生かし、人類を救ってもらうために、人類の罪の象徴である核を使う。
殺すためと生かすためと目的は違っても、共に暴走する科学が作り出した悪魔の兵器を使った二人の芹沢博士は、人類の原罪を背負ってその命を差し出さなければならなかったのである。
一方、地球環境の調和を取り戻すために、神である怪獣たちを操ろうとしたエマも、科学者としての自らの傲慢さに気付いておらず、最終的にはその対価を払わされる。
思想の異なる二人の科学者の最期は、初代ゴジラから連なるコントロール不能の科学への懸念と、自然への畏怖の念というシリーズのテーマを体現するものだ。
今年は、木城ゆきとの「銃夢」をジェームズ・キャメロンとロバート・ロドリゲスが映画化した「アリータ:バトル・エンジェル」やポケモン世界の初の実写映画化「名探偵ピカチュウ」など、日本にルーツを持つハリウッド映画の秀作が目立つ。
一昔前のエメリッヒ版「ゴジラ」や「スーパーマリオ 魔界帝国の女神」などと比べると、決定的に異なるのが、作り手からオリジナルへの熱いリスペクトと作品愛だ。
本作も、全く異なる文化を持つハリウッドの映画人が、ここまで深くゴジラ映画の真髄を理解し、愛情を持って扱ってくれていることに素直に感動。
エンドクレジットで、ゴジラ、ラドン、ギドラが“HImself”、モスラが“Herself”になってたのにはオタクのこだわりと愛を感じた。
ドハティにとって、怪獣は実在しているのだなあ。
「ゴジラ対ヘドラ」の監督であり、2014年版「GODZILLA ゴジラ」の生みの親の一人でもある坂野義光と、ゴジラの中の人こと中島春雄への献辞にもグッときた。
中島春雄は、これで初めて「主役」としてゴジラ映画で顔が映った訳だ。
ちなみにエンドクレジット後のおまけ映像は、来年公開が決まっている「Godzilla vs Kong」のさらにその次に対する布石か。
平成シリーズのアレを期待しちゃうけど、果たして。
今回は怪獣王の話なので、カクテルの王と呼ばれる「マティーニ」をチョイス。
ドライ・ジン45ml、ドライ・ベルモット15mlをステアしてグラスに注ぎ、オリーブを一つ沈める。
ジンの比率が増えると、ドライ・マティーニとなる。
辛口流行りの今はこちらの方がむしろ主流。
非常にシンプルなカクテルだが味わいは奥深く、決して飲み飽きないのは王者の風格。

| ホーム |