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※noraneko285でつぶやいてます。ブログで書いてない映画の話なども。
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2019年07月28日 (日) | 編集 |
戦艦大和とは、いったい何だったのか?
驚くべき傑作である。
戦争映画然とした予告編から想像出来る内容と、実際の映画は全く違う。
戦闘シーンはあるが、これは戦争映画ではない。
背景となるのは、海軍の次期艦艇を戦艦にするか空母にするかの、軍内部の派閥対立。
航空機の時代の到来を予測し、空母の建造を推す山本五十六は、空母よりも巨大な戦艦の予算見積もりが安すぎることに疑念を抱き、本当の建造予算を算出するために、菅田将暉演じる数学の天才を雇う。
本作は、現在までに作られた、戦争や大和をモチーフにしたあらゆる日本映画と異なっている。
当時の軍備を大規模な公共事業として、経済の視点から捉え、数字から読み解くと同時に、遠い未来までも視野に入れた、ある種の「日本論」となっている非常にユニークな作品だ。
三田紀房の同名漫画を原作に、例によって脚本・VFXを兼務する山崎貴監督は、キャリアベストといえる大変な力作を作り上げた。
✳︎核心部分に触れています。
不沈艦と呼ばれ、大日本帝国の栄光の象徴だった戦艦大和が、太平洋の海中に没する12年前。
昭和8年に第一航空戦隊司令となった山本五十六少将(舘ひろし)は、将来のアメリカとの艦隊決戦が航空機の戦いになることを予見していた。
だが、海軍の建造計画会議では、大艦巨砲主義に固執する軍令部の嶋田繁太郎少将(橋爪功)が、平山忠道造船中将(田中泯)の巨大戦艦計画を推進、空母を推す山本らと激しく対立し、結論は2週間後に持ち越された。
平山案の予算見積もりが、異常に安いことに気付いた山本は、ひょんなことから出会った元帝大生の数学の天才、櫂直(菅田将暉)を少佐に任官して海軍に招き入れ、平山案が本当にその予算で実現出来るのか、再計算させようとする。
ところが軍の機密の壁に阻まれて仕事は進められず、業を煮やした櫂は横須賀に停泊していた戦艦長門に乗り込み、寸歩を測って一から図面を引き始める・・・・
本作の冒頭、大和最後の戦いとなった、坊ノ岬沖海戦が“特撮屋”の矜持たっぷりに描かれる。
昭和20年4月7日、大和は沖縄へと向かう天一号作戦の途上、380機を超える米空母艦載機の波状攻撃を受けて沈没。
転覆し、火薬庫の大爆発で2つに裂けた巨体は、今も太平洋に眠っている。
印象的なのは、対空砲火で米軍機が撃墜されると、すかさず水上機が現れて脱出したパイロットを救出するのを、大和の乗組員が目撃して驚くシーン。
時間的には短いが、資料に基づきディテールに拘った戦闘描写の迫真性、爆沈に至るまでのシミュレーション性ともに、過去に作られた作品とは明確に一線を画す圧巻の仕上がりだ。
巨額の予算で建造された史上最大の戦艦は、戦争ではほとんど活躍することなく、軍幹部のための「大和ホテル」と揶揄されるも、悲劇的な最後を遂げたことで、大日本帝国の栄光と没落のシンボルとなったのは、誰もが知るところ。
だが、大和の建造に誰も知らないもう一つの秘められた目的があったとしたら?
原作漫画は残念ながら未読。
まだ連載中なので、かなりの部分は脚色なのだろうが、史実とフィクションをシームレスに織り込む作劇が見事だ。
舞台となる昭和8年は、前年に大陸で満州国が建国され、反発する欧米諸国との対立が深まり日本が国際連盟を脱退する一方で、いまだ有効な海軍軍縮条約によって、主力艦の大きさや数が制限されている時代。
米英に対して、少ない艦艇しか持てない海軍にとって、何を建造するのかは非常に重要だが、まだ海のものとも山のものとも分からず、実戦で検証されていない空母派の旗色は悪い。
この辺りの設定は、スマホ時代の到来を読めず、没落していった数多くのガラケーメーカーを思い浮かべると分かりやすいだろう。
過去の実績の無い空母派の突破口が、平山案の不自然に安い予算見積もりというワケで、映画はここから天才数学者の櫂を軸に、平山案の嘘を突き崩すプロセスを丁寧に描いてゆく。
軍人嫌いだという櫂を口説き落とす、山本の理屈はこうだ。
このままだと将来、アメリカと戦争が起こる。
理屈では勝てないと分かっていても、巨大で美しい世界一の戦艦を見せられたら、大衆はそれが日本の実力だと勘違いしてしまう。
だから、危険なシンボルとなりうる巨大戦艦を作らせてはならない。
この理屈に突き動かされ、山本に協力することを決めた櫂たちは、嶋田少将らの妨害に苦しめられながらも、その頭脳と情熱を頼りに真実に迫ってゆく。
長門で戦艦の構造を知り、一夜漬けで造船の基本を学んでしまうのは、現実的にはいくら何でも無茶過ぎだが、菅田将暉のキャラクターには強引に納得させられてしまう説得力がある。
やがて、浜辺美波演じる櫂に思いを寄せる財閥令嬢と、鶴瓶師匠がはまり役の大阪の造船会社社長の協力を得て、少しずつ巨大戦艦の本当の建造費が見えてくるのである。
そして浮かび上がる、利権のカラクリ。
ここまでの物語の展開は、止まらない公共事業、特に決定後に予算が膨れ上がった東京オリンピックを連想させる。
巨大で美しいニッポンの誇りが旗印なのも、どこかで聞いた様な話だ。
ちなみに山崎監督は、オリンピックの開会式・閉会式のクリエーティブチームの人でもあるんだが、こんなの作っちゃって大丈夫なのだろうか(笑
しかしこの映画の凄さは、単に過去を現代日本のシニカルなカリカチュアにし、権力の不正を正すカタルシスで終わらせないことにある。
私たちは、結局巨大戦艦は建造され、やがて沈んだことを知っている。
結末の分かっている話を、いかにして導いてゆくのか。
映画は、櫂が追求している「真実」と「正義」が、平山案の裏にある軍と財閥の癒着した利権構造を暴き出すところから、さらに二転三転する。
面白いのは、海軍のお偉いさんたちの描き方で、会議が紛糾して言い争いになると、お互いの愛人暴露大会みたいになってしまったり、総じて中学生がそのまま大人になったような、子供っぽい大人に造形されている。
一般に戦争反対派として描かれることの多い山本五十六も、櫂には戦争を避けるためと協力を要請しながら、自分は空母を使ってアメリカと戦うことを考えている。
空母機動部隊によるハワイ攻撃計画を嬉々として語る山本を見て、國村隼演じる上官の永野修身が「君も軍人なのだな」と意外そうに言う。
避けられれば避けたい、しかし避けられないならば、勝つしかないという軍人の共通のベースが現れる秀逸なシーンだ。
彼らにとって勝つことが正義だとすれば、海軍幹部の中で一人だけ異なる視点、異なる大義を持っているのが、田中泯が好演する平山造船中将。
会議で自らの設計ミスを櫂に看破されると、平山は計画を取り下げて、空母派が勝利する。
ところが、彼は後日密かに櫂を呼び出し、巨大戦艦を完成させるために数式を教えて欲しいという。
軍人でありながら科学者、エンジニアでもある平山は、戦争はすでに避けられないとして、その先にある未来を見ているのである。
実は彼も、将来の海戦の主役が空母になることは分かっている。
にも関わらず、なぜ巨大戦艦の建造が必要なのか。
平山は、「日本人は負け方を知らない」という。
明治以来の日清、日露、第一次世界大戦は全て勝ち戦で、戦争をして負けるという概念そのものが無い。
だからどこかの時点で「ああ、負けた」と思わせる落日の象徴が必要で、それは艦載機がなければただのデカイ箱でしかない空母には務まらない。
帝国の総力を具現化した、この上なく巨大で美しい戦艦で、名は日本そのものを意味する「大和」でなければならない。
平山と櫂が、誰も思い描けていないIFの未来を見た瞬間、思わずゾーッとして鳥肌が立った。
完成した大和を見て櫂が流す涙は、この美しい艦がそう遠く無い未来に、多くの命を乗せて沈むことで日本という国の人柱となる運命を知っているから。
この視点には、ドイツ軍の暗号を解読することで、誰も知らない未来を見てしまった科学者を描く、「イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密」に共通する無常を感じた。
自らが作り上げるものが何を引き起こすのか知った上で、それでも完成させたいというモノづくりの狂気という点では、「風立ちぬ」にも通じるかも知れない。
だが、本作の本当の恐ろしさは、作中では描かれなかったその後にある。
平山にも誤算があった。
彼の予想した通り戦争は起こり、大和は沈んだものの、それで日本人の心は折れ、世論は降伏へと向かっただろうか。
いや、そうはならなかった。
大和の母港だった呉を舞台とした「この世界の片隅に」には、工廠の空襲で負傷した義父を軍病院に見舞った主人公が「大和が沈んだらしい」とこっそりと耳打ちされる描写があるが、大和の沈没はそれ自体が軍事機密となり、世間一般に知られることは無かったのである。
結果的に日本人の心が折れたのは、更に数十万人が犠牲となった二発の原爆と、ソ連の突然の参戦によってだったのは歴史の通り。
そして戦後74年が過ぎた今、大和は沈んだことにより伝説化され、もはや物理的に破壊することのできない、美しく巨大な民族の象徴へと戻ってしまったのである。
史実をベースとしてフィクションの物語を展開させ、その先にある史実の中にテーマを結実させる。
数式では定義しきれないのが、人間の歴史。
正直どこまでが作者の計算なのかは分からないが、まことに驚くべき作品となった。
今回は、呉のお隣にある、東広島市に本拠を置く広島を代表する銘柄で、実際に大和にも積まれていたという賀茂鶴酒造の「賀茂鶴 純米吟醸 一滴入魂」をチョイス。
現在の海上自衛隊はアメリカ流に艦内禁酒だが、帝国海軍はイギリス流にある程度の飲酒は嗜みとして許されていたそうで、本作にも長門の艦長がウィスキーで櫂をもてなすシーンがある。
賀茂鶴といえばリーズナブルな上等酒を冬にぬる燗で飲むのが美味いが、こちらの純米吟醸は暑い夏に冷やして飲むのがいい。
米のふくよかな香り、やや辛口の飽きのこない酒で、CPも高く料理を選ばない。
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驚くべき傑作である。
戦争映画然とした予告編から想像出来る内容と、実際の映画は全く違う。
戦闘シーンはあるが、これは戦争映画ではない。
背景となるのは、海軍の次期艦艇を戦艦にするか空母にするかの、軍内部の派閥対立。
航空機の時代の到来を予測し、空母の建造を推す山本五十六は、空母よりも巨大な戦艦の予算見積もりが安すぎることに疑念を抱き、本当の建造予算を算出するために、菅田将暉演じる数学の天才を雇う。
本作は、現在までに作られた、戦争や大和をモチーフにしたあらゆる日本映画と異なっている。
当時の軍備を大規模な公共事業として、経済の視点から捉え、数字から読み解くと同時に、遠い未来までも視野に入れた、ある種の「日本論」となっている非常にユニークな作品だ。
三田紀房の同名漫画を原作に、例によって脚本・VFXを兼務する山崎貴監督は、キャリアベストといえる大変な力作を作り上げた。
✳︎核心部分に触れています。
不沈艦と呼ばれ、大日本帝国の栄光の象徴だった戦艦大和が、太平洋の海中に没する12年前。
昭和8年に第一航空戦隊司令となった山本五十六少将(舘ひろし)は、将来のアメリカとの艦隊決戦が航空機の戦いになることを予見していた。
だが、海軍の建造計画会議では、大艦巨砲主義に固執する軍令部の嶋田繁太郎少将(橋爪功)が、平山忠道造船中将(田中泯)の巨大戦艦計画を推進、空母を推す山本らと激しく対立し、結論は2週間後に持ち越された。
平山案の予算見積もりが、異常に安いことに気付いた山本は、ひょんなことから出会った元帝大生の数学の天才、櫂直(菅田将暉)を少佐に任官して海軍に招き入れ、平山案が本当にその予算で実現出来るのか、再計算させようとする。
ところが軍の機密の壁に阻まれて仕事は進められず、業を煮やした櫂は横須賀に停泊していた戦艦長門に乗り込み、寸歩を測って一から図面を引き始める・・・・
本作の冒頭、大和最後の戦いとなった、坊ノ岬沖海戦が“特撮屋”の矜持たっぷりに描かれる。
昭和20年4月7日、大和は沖縄へと向かう天一号作戦の途上、380機を超える米空母艦載機の波状攻撃を受けて沈没。
転覆し、火薬庫の大爆発で2つに裂けた巨体は、今も太平洋に眠っている。
印象的なのは、対空砲火で米軍機が撃墜されると、すかさず水上機が現れて脱出したパイロットを救出するのを、大和の乗組員が目撃して驚くシーン。
時間的には短いが、資料に基づきディテールに拘った戦闘描写の迫真性、爆沈に至るまでのシミュレーション性ともに、過去に作られた作品とは明確に一線を画す圧巻の仕上がりだ。
巨額の予算で建造された史上最大の戦艦は、戦争ではほとんど活躍することなく、軍幹部のための「大和ホテル」と揶揄されるも、悲劇的な最後を遂げたことで、大日本帝国の栄光と没落のシンボルとなったのは、誰もが知るところ。
だが、大和の建造に誰も知らないもう一つの秘められた目的があったとしたら?
原作漫画は残念ながら未読。
まだ連載中なので、かなりの部分は脚色なのだろうが、史実とフィクションをシームレスに織り込む作劇が見事だ。
舞台となる昭和8年は、前年に大陸で満州国が建国され、反発する欧米諸国との対立が深まり日本が国際連盟を脱退する一方で、いまだ有効な海軍軍縮条約によって、主力艦の大きさや数が制限されている時代。
米英に対して、少ない艦艇しか持てない海軍にとって、何を建造するのかは非常に重要だが、まだ海のものとも山のものとも分からず、実戦で検証されていない空母派の旗色は悪い。
この辺りの設定は、スマホ時代の到来を読めず、没落していった数多くのガラケーメーカーを思い浮かべると分かりやすいだろう。
過去の実績の無い空母派の突破口が、平山案の不自然に安い予算見積もりというワケで、映画はここから天才数学者の櫂を軸に、平山案の嘘を突き崩すプロセスを丁寧に描いてゆく。
軍人嫌いだという櫂を口説き落とす、山本の理屈はこうだ。
このままだと将来、アメリカと戦争が起こる。
理屈では勝てないと分かっていても、巨大で美しい世界一の戦艦を見せられたら、大衆はそれが日本の実力だと勘違いしてしまう。
だから、危険なシンボルとなりうる巨大戦艦を作らせてはならない。
この理屈に突き動かされ、山本に協力することを決めた櫂たちは、嶋田少将らの妨害に苦しめられながらも、その頭脳と情熱を頼りに真実に迫ってゆく。
長門で戦艦の構造を知り、一夜漬けで造船の基本を学んでしまうのは、現実的にはいくら何でも無茶過ぎだが、菅田将暉のキャラクターには強引に納得させられてしまう説得力がある。
やがて、浜辺美波演じる櫂に思いを寄せる財閥令嬢と、鶴瓶師匠がはまり役の大阪の造船会社社長の協力を得て、少しずつ巨大戦艦の本当の建造費が見えてくるのである。
そして浮かび上がる、利権のカラクリ。
ここまでの物語の展開は、止まらない公共事業、特に決定後に予算が膨れ上がった東京オリンピックを連想させる。
巨大で美しいニッポンの誇りが旗印なのも、どこかで聞いた様な話だ。
ちなみに山崎監督は、オリンピックの開会式・閉会式のクリエーティブチームの人でもあるんだが、こんなの作っちゃって大丈夫なのだろうか(笑
しかしこの映画の凄さは、単に過去を現代日本のシニカルなカリカチュアにし、権力の不正を正すカタルシスで終わらせないことにある。
私たちは、結局巨大戦艦は建造され、やがて沈んだことを知っている。
結末の分かっている話を、いかにして導いてゆくのか。
映画は、櫂が追求している「真実」と「正義」が、平山案の裏にある軍と財閥の癒着した利権構造を暴き出すところから、さらに二転三転する。
面白いのは、海軍のお偉いさんたちの描き方で、会議が紛糾して言い争いになると、お互いの愛人暴露大会みたいになってしまったり、総じて中学生がそのまま大人になったような、子供っぽい大人に造形されている。
一般に戦争反対派として描かれることの多い山本五十六も、櫂には戦争を避けるためと協力を要請しながら、自分は空母を使ってアメリカと戦うことを考えている。
空母機動部隊によるハワイ攻撃計画を嬉々として語る山本を見て、國村隼演じる上官の永野修身が「君も軍人なのだな」と意外そうに言う。
避けられれば避けたい、しかし避けられないならば、勝つしかないという軍人の共通のベースが現れる秀逸なシーンだ。
彼らにとって勝つことが正義だとすれば、海軍幹部の中で一人だけ異なる視点、異なる大義を持っているのが、田中泯が好演する平山造船中将。
会議で自らの設計ミスを櫂に看破されると、平山は計画を取り下げて、空母派が勝利する。
ところが、彼は後日密かに櫂を呼び出し、巨大戦艦を完成させるために数式を教えて欲しいという。
軍人でありながら科学者、エンジニアでもある平山は、戦争はすでに避けられないとして、その先にある未来を見ているのである。
実は彼も、将来の海戦の主役が空母になることは分かっている。
にも関わらず、なぜ巨大戦艦の建造が必要なのか。
平山は、「日本人は負け方を知らない」という。
明治以来の日清、日露、第一次世界大戦は全て勝ち戦で、戦争をして負けるという概念そのものが無い。
だからどこかの時点で「ああ、負けた」と思わせる落日の象徴が必要で、それは艦載機がなければただのデカイ箱でしかない空母には務まらない。
帝国の総力を具現化した、この上なく巨大で美しい戦艦で、名は日本そのものを意味する「大和」でなければならない。
平山と櫂が、誰も思い描けていないIFの未来を見た瞬間、思わずゾーッとして鳥肌が立った。
完成した大和を見て櫂が流す涙は、この美しい艦がそう遠く無い未来に、多くの命を乗せて沈むことで日本という国の人柱となる運命を知っているから。
この視点には、ドイツ軍の暗号を解読することで、誰も知らない未来を見てしまった科学者を描く、「イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密」に共通する無常を感じた。
自らが作り上げるものが何を引き起こすのか知った上で、それでも完成させたいというモノづくりの狂気という点では、「風立ちぬ」にも通じるかも知れない。
だが、本作の本当の恐ろしさは、作中では描かれなかったその後にある。
平山にも誤算があった。
彼の予想した通り戦争は起こり、大和は沈んだものの、それで日本人の心は折れ、世論は降伏へと向かっただろうか。
いや、そうはならなかった。
大和の母港だった呉を舞台とした「この世界の片隅に」には、工廠の空襲で負傷した義父を軍病院に見舞った主人公が「大和が沈んだらしい」とこっそりと耳打ちされる描写があるが、大和の沈没はそれ自体が軍事機密となり、世間一般に知られることは無かったのである。
結果的に日本人の心が折れたのは、更に数十万人が犠牲となった二発の原爆と、ソ連の突然の参戦によってだったのは歴史の通り。
そして戦後74年が過ぎた今、大和は沈んだことにより伝説化され、もはや物理的に破壊することのできない、美しく巨大な民族の象徴へと戻ってしまったのである。
史実をベースとしてフィクションの物語を展開させ、その先にある史実の中にテーマを結実させる。
数式では定義しきれないのが、人間の歴史。
正直どこまでが作者の計算なのかは分からないが、まことに驚くべき作品となった。
今回は、呉のお隣にある、東広島市に本拠を置く広島を代表する銘柄で、実際に大和にも積まれていたという賀茂鶴酒造の「賀茂鶴 純米吟醸 一滴入魂」をチョイス。
現在の海上自衛隊はアメリカ流に艦内禁酒だが、帝国海軍はイギリス流にある程度の飲酒は嗜みとして許されていたそうで、本作にも長門の艦長がウィスキーで櫂をもてなすシーンがある。
賀茂鶴といえばリーズナブルな上等酒を冬にぬる燗で飲むのが美味いが、こちらの純米吟醸は暑い夏に冷やして飲むのがいい。
米のふくよかな香り、やや辛口の飽きのこない酒で、CPも高く料理を選ばない。

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2019年07月25日 (木) | 編集 |
蒸気世界の大冒険。
2015年のアヌシー国際アニメーション映画祭グランプリ受賞作「アヴリルと奇妙な世界」が、ようやく「カリコレ2019」にて限定公開。
19世紀後半に起こったある事件を発端に、世界中の名だたる科学者たちが謎の失踪を遂げてしまったため、第三次エネルギー革命をはじめとする科学技術の革新が起こらず、ヨーロッパではナポレオン帝国が続いているパラレルワールドの1941年。
蒸気機関を使いすぎて石炭はすでに枯渇し、木炭の原料となるカナダの森林を巡って、ヨーロッパとアメリカの戦争が激化。
帝国政府は、失踪を免れた数少ない科学者たちを連行し、戦争に協力させている。
パリに住む少女アヴリルは、ネコのダーウィンとひょんなことから集った旅の仲間たちと共に、10年前に失踪した科学者の両親を探す旅に出る。
好奇心をくすぐる冒頭のクレジットから、センス・オブ・ワンダー全開。
石油時代が来ていないので、この世界の主要動力は依然として蒸気機関。
スチームパンクな世界観が、最高にワクワクする。
クリスチャン・デスマールとフランク・エキンジ両監督は、確実に宮崎駿の大ファンのはず。
歩く家、奇妙な飛行機械など、「天空の城 ラピュタ」「ハウルの動く城」の影響を感じさせるイメージが随所に見られ、あるキャラクターが使っている歩行機械は、「未来少年コナン」のロボノイドを彷彿とさせる。
なぜか二本並んで建っているエッフェル塔は、鉄道の駅。
鉄道が全てロープウェイ形式なのも面白く、客船の様な巨大な車両を吊り下げるギミックは、スペインにある世界遺産のビスカヤ橋が元ネタか。
異世界ファンタジーは、「その世界に行ってみたい!」と思わせれば半分勝ち。
その意味でこの映画の世界は、もの凄く魅力的だ。
科学者失踪の謎と、両親が開発していた生物を不死身にする血清が、アヴリルを驚くべき世界へと導いてゆく。
実験で生まれた知性を持った喋るネコ、ダーウィンのキャラクターがいい。
幼くして孤児となり、たった一人で生きてきたアヴリルの唯一の家族であり、時には様々な知識を彼女に教える先生でもある。
アヴリルとダーウィンを中心に、幼い頃に生き別れになった祖父のポップス博士、訳ありの若者ジュリウス、ポップス逮捕に取り憑かれた刑事のガスパールなど、クセの強い登場人物たちは魅力的で、物語はアメイジングな世界観の中でテンポよく進んでゆく。
そして両親を探す冒険の結果見えてくる、数十年間に渡って準備されてきた事件の真相。
なぜ科学者たちは失踪したのか、彼らはどこへ消えたのか、黒幕は誰でなぜ生物を不死身にする血清を必要としているのか。
人類の愚かしさを思い知ったある存在が、生物の未来を救うべく仕掛けた壮大な計画。
両親をはじめとする世界の科学者たちは、その計画に賛同して今日まで協力してきたのだが、実はそれにもさらなる裏があるのだ。
アヴリルと旅の仲間たちは、それぞれの才覚を発揮して、世界を救う最後の賭けに出る。
終盤は結構駆け足な展開だが、一応伏線をきっちりと回収しつつ、スペクタクルなクライマックスを成立させているのは見事。
しかし本作の白眉は、本題が終わった後のエピローグだろう。
ヨーロッパのアニメーションらしい、ウィットに富んだシニカルなユーモアが絶妙に効いていて、実に楽しかった。
ラストカットなんて、日本やアメリカのアニメーションではまず見られないセンスだもんなあ。
今回は、もうひとつのパリが舞台なので「パリジャン」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、ドライ・ベルモット20ml、クレーム・ド・カシス10mlをステアして、グラスに注ぐ。
ドライ・ベルモットとクレーム・ド・カシスの風味をジンの清涼感をまとめ上げる。
やや甘口でルビー色が美しい、アペリティフ向きのオシャレなショートカクテル。
記事が気に入ったらクリックしてね
2015年のアヌシー国際アニメーション映画祭グランプリ受賞作「アヴリルと奇妙な世界」が、ようやく「カリコレ2019」にて限定公開。
19世紀後半に起こったある事件を発端に、世界中の名だたる科学者たちが謎の失踪を遂げてしまったため、第三次エネルギー革命をはじめとする科学技術の革新が起こらず、ヨーロッパではナポレオン帝国が続いているパラレルワールドの1941年。
蒸気機関を使いすぎて石炭はすでに枯渇し、木炭の原料となるカナダの森林を巡って、ヨーロッパとアメリカの戦争が激化。
帝国政府は、失踪を免れた数少ない科学者たちを連行し、戦争に協力させている。
パリに住む少女アヴリルは、ネコのダーウィンとひょんなことから集った旅の仲間たちと共に、10年前に失踪した科学者の両親を探す旅に出る。
好奇心をくすぐる冒頭のクレジットから、センス・オブ・ワンダー全開。
石油時代が来ていないので、この世界の主要動力は依然として蒸気機関。
スチームパンクな世界観が、最高にワクワクする。
クリスチャン・デスマールとフランク・エキンジ両監督は、確実に宮崎駿の大ファンのはず。
歩く家、奇妙な飛行機械など、「天空の城 ラピュタ」「ハウルの動く城」の影響を感じさせるイメージが随所に見られ、あるキャラクターが使っている歩行機械は、「未来少年コナン」のロボノイドを彷彿とさせる。
なぜか二本並んで建っているエッフェル塔は、鉄道の駅。
鉄道が全てロープウェイ形式なのも面白く、客船の様な巨大な車両を吊り下げるギミックは、スペインにある世界遺産のビスカヤ橋が元ネタか。
異世界ファンタジーは、「その世界に行ってみたい!」と思わせれば半分勝ち。
その意味でこの映画の世界は、もの凄く魅力的だ。
科学者失踪の謎と、両親が開発していた生物を不死身にする血清が、アヴリルを驚くべき世界へと導いてゆく。
実験で生まれた知性を持った喋るネコ、ダーウィンのキャラクターがいい。
幼くして孤児となり、たった一人で生きてきたアヴリルの唯一の家族であり、時には様々な知識を彼女に教える先生でもある。
アヴリルとダーウィンを中心に、幼い頃に生き別れになった祖父のポップス博士、訳ありの若者ジュリウス、ポップス逮捕に取り憑かれた刑事のガスパールなど、クセの強い登場人物たちは魅力的で、物語はアメイジングな世界観の中でテンポよく進んでゆく。
そして両親を探す冒険の結果見えてくる、数十年間に渡って準備されてきた事件の真相。
なぜ科学者たちは失踪したのか、彼らはどこへ消えたのか、黒幕は誰でなぜ生物を不死身にする血清を必要としているのか。
人類の愚かしさを思い知ったある存在が、生物の未来を救うべく仕掛けた壮大な計画。
両親をはじめとする世界の科学者たちは、その計画に賛同して今日まで協力してきたのだが、実はそれにもさらなる裏があるのだ。
アヴリルと旅の仲間たちは、それぞれの才覚を発揮して、世界を救う最後の賭けに出る。
終盤は結構駆け足な展開だが、一応伏線をきっちりと回収しつつ、スペクタクルなクライマックスを成立させているのは見事。
しかし本作の白眉は、本題が終わった後のエピローグだろう。
ヨーロッパのアニメーションらしい、ウィットに富んだシニカルなユーモアが絶妙に効いていて、実に楽しかった。
ラストカットなんて、日本やアメリカのアニメーションではまず見られないセンスだもんなあ。
今回は、もうひとつのパリが舞台なので「パリジャン」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、ドライ・ベルモット20ml、クレーム・ド・カシス10mlをステアして、グラスに注ぐ。
ドライ・ベルモットとクレーム・ド・カシスの風味をジンの清涼感をまとめ上げる。
やや甘口でルビー色が美しい、アペリティフ向きのオシャレなショートカクテル。



2019年07月21日 (日) | 編集 |
「アイ」は全てを凌駕する。
日本映画史上歴代二位の250億円の興行収入を記録し、全世界では400億円近くを稼ぎ出したメガヒット作「君の名は。」から3年。
新海誠の最新作「天気の子」は、大成功後の萎縮など全く見られず、むしろエネルギー全開、開き直ったかの如く、やりたい放題の大怪作だ。
天候が狂い出し、異常気象が猛威を振るう東京で、路頭に迷った地方出身の家出少年と、局地的に晴天を呼ぶことができる特殊能力を持った少女が出会い、生きることに迷い、初恋の衝動に葛藤する青春スペクタクルファンタジー。
かなり作家性の強いトリッキーな作品なので、賛否両論になりそうな気はするが、物語は前作以上に先を読ませず、緻密の極地と言えるビジュアルはそれはそれは美しい。
前作に引き続き音楽を担当するRADWIMPSの楽曲も、ボーカルの三浦透子の歌声が耳に新しく、マッチングはバッチリだ。
夏休みのエンターテイメント大作として見応えたっぷりで、映画通りの異常な長梅雨の続くこの夏、心の雨を一気に晴らすパワフルな作品である。
✳︎核心部分に触れています。
16歳の森嶋帆高(醍醐虎汰朗)は、離島の閉塞した生活から逃れ、東京へと家出してきたものの、生活はすぐに困窮。
ようやく見つけた仕事は、フリーライターの須賀圭介(小栗旬)が経営する、怪しげな編集プロダクションの雑用係。
オカルト雑誌向けの記事のネタを探していたある日、帆高はどんな雨の日でも晴れを呼べるという不思議な少女・天野陽菜(森七菜)と出会い、彼女の驚くべき能力を目の当たりにする。
両親を亡くし、アパートで小学生の弟・凪(吉柳咲良)と二人暮らししている陽菜のために、帆高は晴れの日を呼ぶビジネスを思い付く。
顧客は順調に増えてゆくが、その頃から陽菜の体に異変が起こり始める。
同じ頃、須賀のプロダクションでアシスタントをしている夏美(本田翼)は、世界中の文化に見られる天気の巫女の存在を取材していた。
長雨に晴れを、干ばつに雨を呼ぶ巫女たちには、ある共通した運命があった・・・・
全体の構造は、「君の名は。」によく似ている。
彗星の衝突という天変地異は、永遠に続く雨という異常気象となり、時空を超えて体が入れ替わる現象は、天気を操ることのできる特殊能力に。
組紐や口噛み酒といったアニミズムを背景とした伝統文化は、都会の廃ビルの屋上に鎮座する小さな社と、天気の巫女の存在となった。
これらの要素を、思春期の熱い恋心で一気にまとめあげるという点では、「君の名は。」からの延長線上にある作品だが、本作ではさらに新海誠の作家性が純化されている。
彼の作品世界では「アイ」に勝る価値のあるものは無く、そのためならどんなことでも許される。
前作では、異なる時空と死によって、永遠に別たれた運命の恋人たちを結びつけるため、「時間の巻き戻し」という禁じ手を使ったが、スクリーンからほとばしるキャラクターのエモーションによって納得させられてしまった。
そして、故郷の町を彗星から救うために疾走した少女にかわって、愛する人を取り戻すべく水没した東京を少年が疾走する本作の展開は、ある意味でさらに強引だ。
「君の名は。」で起こることには、一応それぞれに理屈付けはされていた。
瀧と三葉の体が入れ替わるようになるのは、瀧が宮水神社の御神体の中で、三年前に三葉が持ってきた口噛み酒を飲んで“結び”と出会ったから。
しかも宮水の女たちは、代々同じ能力を持っていたことが示唆される。
鶏が先か卵が先かという時間のパラドクスはあるものの、何がどうしてこうなったというロジックは抜かりなく構築されていた。
ところが、本作ではあらゆる現象が説明なしに展開する。
なぜ陽菜が天気の巫女に選ばれたのか、あの天空の世界は一体なにか、なぜ帆高は彼女の元へと行けたのか、物理法則でないなら、天気を司っているのはなんなのか、そもそも東京の天気はなぜおかしくなってしまったのか。
本作は、歴史上多くの文化に天気の巫女がいて、それはある種の人柱だという以外、一切の説明を放棄する。
力を使いすぎた陽菜が忽然と消えると、帆高の「もう一度、陽菜に会いたい」という願いだけを、唯一の燃料にして突っ走るのである。
物語のバックボーンとなっているのは「世界は最初から狂っている」の一言だけ。
いやいや、少なくともこの映画の世界においては、狂わせたのは新海監督、貴方やんか(笑
おそらく、この展開と世界観が受け入れられるかどうかで本作の評価は別れそうだが、私はここまで来たら唯一無二の作家性として積極的に肯定したい。
本作で特徴的なのは、主要登場人物が揃って社会から弾き出されたアウトローだということだ。
主人公の帆高は家出少年で、東京に来てからはホームレス寸前の生活を送り、ひょんなことから拳銃を手に入れてしまい、結果警察に追われることに。
陽菜は母を亡くし、小学生の弟と二人暮らしで、どうやら学校へも行かず、年齢を隠してアルバイトに明け暮れていて、児童相談所にマークされている。
帆高を雇うことになる圭介も、怪しげなライター稼業で細々稼ぎ、亡き妻の母と暮らしている娘ともなかなか会わせてもらえない。
圭介のアシスタント的な仕事をしている夏美は、本職は大学生で、圭介の事務所には見切りをつけているものの、就活はことごとく落ちてばかり。
皆、「世界」と対立することで、閉塞した「セカイ」に生きざるを得ない人々なのだ。
帆高がなぜそれほど故郷を出たかったのか、陽菜の周りには頼る大人はいないのか、圭介の過去に起こったことなど、登場人物の背景は世界観のロジック同様最低限しか描きこまれていないが、これはあくまでの“今”の葛藤にフォーカスし物語を走り抜けるためだと思う。
陽菜が天気を操る能力を得る社がある他、クライマックスの舞台となるなど、重要なロケーションとなる廃ビルが、実在する代々木会館なのも象徴的。
このビルは、1970年代を代表する大ヒットドラマ、「傷だらけの天使」に登場するエンジェルビルとしても知られる。
あのドラマで萩原健一と水谷豊が演じたはみ出し者の探偵、小暮修と乾亨のキャラクターは、本作の圭介と夏美、そして帆高にも投影されているし、小暮修はエンジェルビルの屋上にあるペントハウス(というか小屋)に住んでいた。
圭介が妻の実家に子供を預けているのも、小暮と共通だ。
70年代の怒れる若者たちと同様に、本作の登場人物は皆、ベターな明日を渇望しながら、一般の社会の規範にいまひとつ適応できずに、抗っている人たちなのである。
しかし、本作の東京は少しずつ狂っていき、世界は本来あるべき姿を失ってゆく。
この映画における異常気象や超自然的な現象は、主人公の「セカイ」と「世界」を相対化させる装置。
当たり前の規範がもはや崩れ、混沌が覆う時、対立する二つの概念はついに帆高の中で一つとなる。
たとえ半分壊れた世界だとしても、思春期の主人公にとって「アイ」よりも大切なものは存在しないのだ。
だから、どうしょうもないこの世界を背負うことなんて考えず、自分たちでできることをしながら、そこで生きてゆく。
物語の主人公としては恐ろしく青臭い結論だが、だからこそこの映画はどこまでもピュアで、圧倒的に美しい。
天気がモチーフだけに、濃厚な空気の存在を感じさせる映像は相変わらず素晴らしいクオリティで、細部までリアルに再現されたよく知った東京の風景が、永遠の雨によって滅びてゆく様はなかなかのスペクタクル。
代々木会館は新たな聖地になりそうだけど、残念ながら来月には解体が始まっちゃうとか。
消えゆく代々木の名物も、スクリーンの中で永遠になった。
「君の名は。」のキャラクターが、チラチラと登場するセルフオマージュも楽しい。
2021年が舞台の本作は、ちょうど瀧と三葉が再開した頃だと思うと、三葉のセリフも余計に染みる。
まあ、あの映画では雨は降ってなかったからパラレルワールドだろうけど。
もともと「君の名は。」が「言の葉の庭」のパラレルワールだったから、新海誠の世界はどんどんマルチバース化しているな。
そのうちMCUみたいに、クロスオーバーしたりしても面白いかも(笑
それにしても、彗星の衝突に続いて永遠の雨で東京沈没とか、新海誠は「アイ」を語るアニメーション版のエメリッヒだな。
今回は、雨の映画だから「M-30 レイン」をチョイス。
ウォッカ60ml、パンペルムーゼ15ml、ライム・ジュース15ml、ブルー・キュラソー1/2tspを氷と共にシェイクし、グラスに注ぐ。
奇妙な名前だが、名バーテンダーの植田和男氏が、坂本龍一の「ラスト・エンペラー」のために作曲した44曲のうち30番目「レイン」にインスパイアされて考案し、彼にプレゼントしたもの。
淡いブルーが美しく、パンペルムーゼのちょっとビターな味わいが心に染みる。
ところで観てるうちに、前作の長澤まさみと同じように、本田翼の「夏美さん」にだんだんとハマってしまった。
すっかり思春期男子の目線になってるので、大人っぽい大学生のお姉さんにはドキドキしちゃう。
東京では映画通りの長雨の中、公開初日にホントに晴れ間がのぞいたのには驚いたけど、100パーセントの晴れ男は、新海誠じゃないの。
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日本映画史上歴代二位の250億円の興行収入を記録し、全世界では400億円近くを稼ぎ出したメガヒット作「君の名は。」から3年。
新海誠の最新作「天気の子」は、大成功後の萎縮など全く見られず、むしろエネルギー全開、開き直ったかの如く、やりたい放題の大怪作だ。
天候が狂い出し、異常気象が猛威を振るう東京で、路頭に迷った地方出身の家出少年と、局地的に晴天を呼ぶことができる特殊能力を持った少女が出会い、生きることに迷い、初恋の衝動に葛藤する青春スペクタクルファンタジー。
かなり作家性の強いトリッキーな作品なので、賛否両論になりそうな気はするが、物語は前作以上に先を読ませず、緻密の極地と言えるビジュアルはそれはそれは美しい。
前作に引き続き音楽を担当するRADWIMPSの楽曲も、ボーカルの三浦透子の歌声が耳に新しく、マッチングはバッチリだ。
夏休みのエンターテイメント大作として見応えたっぷりで、映画通りの異常な長梅雨の続くこの夏、心の雨を一気に晴らすパワフルな作品である。
✳︎核心部分に触れています。
16歳の森嶋帆高(醍醐虎汰朗)は、離島の閉塞した生活から逃れ、東京へと家出してきたものの、生活はすぐに困窮。
ようやく見つけた仕事は、フリーライターの須賀圭介(小栗旬)が経営する、怪しげな編集プロダクションの雑用係。
オカルト雑誌向けの記事のネタを探していたある日、帆高はどんな雨の日でも晴れを呼べるという不思議な少女・天野陽菜(森七菜)と出会い、彼女の驚くべき能力を目の当たりにする。
両親を亡くし、アパートで小学生の弟・凪(吉柳咲良)と二人暮らししている陽菜のために、帆高は晴れの日を呼ぶビジネスを思い付く。
顧客は順調に増えてゆくが、その頃から陽菜の体に異変が起こり始める。
同じ頃、須賀のプロダクションでアシスタントをしている夏美(本田翼)は、世界中の文化に見られる天気の巫女の存在を取材していた。
長雨に晴れを、干ばつに雨を呼ぶ巫女たちには、ある共通した運命があった・・・・
全体の構造は、「君の名は。」によく似ている。
彗星の衝突という天変地異は、永遠に続く雨という異常気象となり、時空を超えて体が入れ替わる現象は、天気を操ることのできる特殊能力に。
組紐や口噛み酒といったアニミズムを背景とした伝統文化は、都会の廃ビルの屋上に鎮座する小さな社と、天気の巫女の存在となった。
これらの要素を、思春期の熱い恋心で一気にまとめあげるという点では、「君の名は。」からの延長線上にある作品だが、本作ではさらに新海誠の作家性が純化されている。
彼の作品世界では「アイ」に勝る価値のあるものは無く、そのためならどんなことでも許される。
前作では、異なる時空と死によって、永遠に別たれた運命の恋人たちを結びつけるため、「時間の巻き戻し」という禁じ手を使ったが、スクリーンからほとばしるキャラクターのエモーションによって納得させられてしまった。
そして、故郷の町を彗星から救うために疾走した少女にかわって、愛する人を取り戻すべく水没した東京を少年が疾走する本作の展開は、ある意味でさらに強引だ。
「君の名は。」で起こることには、一応それぞれに理屈付けはされていた。
瀧と三葉の体が入れ替わるようになるのは、瀧が宮水神社の御神体の中で、三年前に三葉が持ってきた口噛み酒を飲んで“結び”と出会ったから。
しかも宮水の女たちは、代々同じ能力を持っていたことが示唆される。
鶏が先か卵が先かという時間のパラドクスはあるものの、何がどうしてこうなったというロジックは抜かりなく構築されていた。
ところが、本作ではあらゆる現象が説明なしに展開する。
なぜ陽菜が天気の巫女に選ばれたのか、あの天空の世界は一体なにか、なぜ帆高は彼女の元へと行けたのか、物理法則でないなら、天気を司っているのはなんなのか、そもそも東京の天気はなぜおかしくなってしまったのか。
本作は、歴史上多くの文化に天気の巫女がいて、それはある種の人柱だという以外、一切の説明を放棄する。
力を使いすぎた陽菜が忽然と消えると、帆高の「もう一度、陽菜に会いたい」という願いだけを、唯一の燃料にして突っ走るのである。
物語のバックボーンとなっているのは「世界は最初から狂っている」の一言だけ。
いやいや、少なくともこの映画の世界においては、狂わせたのは新海監督、貴方やんか(笑
おそらく、この展開と世界観が受け入れられるかどうかで本作の評価は別れそうだが、私はここまで来たら唯一無二の作家性として積極的に肯定したい。
本作で特徴的なのは、主要登場人物が揃って社会から弾き出されたアウトローだということだ。
主人公の帆高は家出少年で、東京に来てからはホームレス寸前の生活を送り、ひょんなことから拳銃を手に入れてしまい、結果警察に追われることに。
陽菜は母を亡くし、小学生の弟と二人暮らしで、どうやら学校へも行かず、年齢を隠してアルバイトに明け暮れていて、児童相談所にマークされている。
帆高を雇うことになる圭介も、怪しげなライター稼業で細々稼ぎ、亡き妻の母と暮らしている娘ともなかなか会わせてもらえない。
圭介のアシスタント的な仕事をしている夏美は、本職は大学生で、圭介の事務所には見切りをつけているものの、就活はことごとく落ちてばかり。
皆、「世界」と対立することで、閉塞した「セカイ」に生きざるを得ない人々なのだ。
帆高がなぜそれほど故郷を出たかったのか、陽菜の周りには頼る大人はいないのか、圭介の過去に起こったことなど、登場人物の背景は世界観のロジック同様最低限しか描きこまれていないが、これはあくまでの“今”の葛藤にフォーカスし物語を走り抜けるためだと思う。
陽菜が天気を操る能力を得る社がある他、クライマックスの舞台となるなど、重要なロケーションとなる廃ビルが、実在する代々木会館なのも象徴的。
このビルは、1970年代を代表する大ヒットドラマ、「傷だらけの天使」に登場するエンジェルビルとしても知られる。
あのドラマで萩原健一と水谷豊が演じたはみ出し者の探偵、小暮修と乾亨のキャラクターは、本作の圭介と夏美、そして帆高にも投影されているし、小暮修はエンジェルビルの屋上にあるペントハウス(というか小屋)に住んでいた。
圭介が妻の実家に子供を預けているのも、小暮と共通だ。
70年代の怒れる若者たちと同様に、本作の登場人物は皆、ベターな明日を渇望しながら、一般の社会の規範にいまひとつ適応できずに、抗っている人たちなのである。
しかし、本作の東京は少しずつ狂っていき、世界は本来あるべき姿を失ってゆく。
この映画における異常気象や超自然的な現象は、主人公の「セカイ」と「世界」を相対化させる装置。
当たり前の規範がもはや崩れ、混沌が覆う時、対立する二つの概念はついに帆高の中で一つとなる。
たとえ半分壊れた世界だとしても、思春期の主人公にとって「アイ」よりも大切なものは存在しないのだ。
だから、どうしょうもないこの世界を背負うことなんて考えず、自分たちでできることをしながら、そこで生きてゆく。
物語の主人公としては恐ろしく青臭い結論だが、だからこそこの映画はどこまでもピュアで、圧倒的に美しい。
天気がモチーフだけに、濃厚な空気の存在を感じさせる映像は相変わらず素晴らしいクオリティで、細部までリアルに再現されたよく知った東京の風景が、永遠の雨によって滅びてゆく様はなかなかのスペクタクル。
代々木会館は新たな聖地になりそうだけど、残念ながら来月には解体が始まっちゃうとか。
消えゆく代々木の名物も、スクリーンの中で永遠になった。
「君の名は。」のキャラクターが、チラチラと登場するセルフオマージュも楽しい。
2021年が舞台の本作は、ちょうど瀧と三葉が再開した頃だと思うと、三葉のセリフも余計に染みる。
まあ、あの映画では雨は降ってなかったからパラレルワールドだろうけど。
もともと「君の名は。」が「言の葉の庭」のパラレルワールだったから、新海誠の世界はどんどんマルチバース化しているな。
そのうちMCUみたいに、クロスオーバーしたりしても面白いかも(笑
それにしても、彗星の衝突に続いて永遠の雨で東京沈没とか、新海誠は「アイ」を語るアニメーション版のエメリッヒだな。
今回は、雨の映画だから「M-30 レイン」をチョイス。
ウォッカ60ml、パンペルムーゼ15ml、ライム・ジュース15ml、ブルー・キュラソー1/2tspを氷と共にシェイクし、グラスに注ぐ。
奇妙な名前だが、名バーテンダーの植田和男氏が、坂本龍一の「ラスト・エンペラー」のために作曲した44曲のうち30番目「レイン」にインスパイアされて考案し、彼にプレゼントしたもの。
淡いブルーが美しく、パンペルムーゼのちょっとビターな味わいが心に染みる。
ところで観てるうちに、前作の長澤まさみと同じように、本田翼の「夏美さん」にだんだんとハマってしまった。
すっかり思春期男子の目線になってるので、大人っぽい大学生のお姉さんにはドキドキしちゃう。
東京では映画通りの長雨の中、公開初日にホントに晴れ間がのぞいたのには驚いたけど、100パーセントの晴れ男は、新海誠じゃないの。



2019年07月17日 (水) | 編集 |
死のループから脱出せよ。
9月18日の誕生日の夜に、何者かに殺された女子大生が、人生最後の日を無限ループする「ハッピー・デス・デイ」と、そもそもなぜループが作られたのかを描くネタばらし編「ハッピー・デス・デイ 2U」が、日本ではほぼ同時公開中。
原題からして思いっきりダジャレなタイトルにB級感が漂うが、2本ともセンス・オブ・ワンダーに溢れたなかなかの快作。
本国では1作目が2017年、「2U」が19年と、二年のブランクがあったのだが、この2本は続けてみたほうが絶対に楽しい。
外国映画の公開が世界一遅い日本だが、こんなメリット(?)もあったのだな。
「ラ・ラ・ランド」のジェシカ・ローテが、年齢的にちょっと無理のあるビッチな女子大生ツリーを怪演し、「パラノーマル・アクティビティ」シリーズのクリストファー・B・ランドンが監督を務める。
※核心部分に触れています。
大学生のツリー(ジェシカ・ローテ)は、ある朝カーター(イズラエル・ブルサード)の部屋で目を覚ます。
前夜のパーティーで飲みすぎて、初対面の彼の部屋で寝込んでしまったのだ。
この日、9月18日はツリーの誕生日だったが、彼女の体調はすぐれない。
寮に帰るとルームメイトのロリ(ルビー・モディーン)がカップケーキを作ってくれていたが、ツリーはそれをゴミ箱に捨てると、不倫相手のバトラー教授と会い、父親とランチを共にする約束をすっぽかす。
その夜、パーティー会場に向かっていたツリーは、途中で大学のマスコットであるベビーフェイスの仮面をかぶった人物と遭遇、殺されてしまう。
その瞬間、ツリーは再びカーターの部屋で目を覚ます。
今までの出来事は夢かと思ったが、何かがおかしい。
起こることが全て、一度体験していることなのだ。
全く同じ日を繰り返している?
ツリーがそのことを確信した時には、すでにベビーフェイスの殺人鬼が迫っていた・・・
「ハッピー・デス・デイ」では、色々こじらせちゃってる主人公のツリーが、不気味なベビーフェイスのマスクをかぶった犯人からなんとか逃げ切り、死のループを終わらせようと奮闘する。
劇中、彼女に協力することになるカーターが、ハロルド・ライミス監督の「恋はデジャ・ブ」に言及していたが、命がけのサバイバルという点では、ホラー版「オール・ユー・ニード・イズ・キル」と言ったほうがしっくりくるかもしれない。
あの映画のヘタレ軍人のトム・クルーズと同様に、本作のツリーも相当問題あるキャラクター。
犯人の目星をつけようにも、本人の性格がビッチ過ぎて、各方面から恨みを買いまくっているので容疑者多過ぎとか(笑
少しずつループに慣れて来て、生き残り作戦が機能し始めるあたりも良く似ている。
ツリーは最愛の母を亡くして以来、悲しみのあまり自暴自棄になっていたのだが、運命と戦っているうちに、だんだんとビッチキャラを脱して人間的に成長してゆく。
面白いのは、この世界では永遠にループ出来る訳ではなく、ゲームの「ライフ」のように少しずつ彼女の生命力が削られてゆく設定で、これがある種のタイムリミットとして機能する。
最初は「殺されてスッキリ」キャラの嫌なヤツだったツリーが、生きることへの切望と共に応援しがいのあるいいヤツに変化してゆくのだ。
意外性のある真犯人に至るプロセスも、やや駆け足ではあるけど、けっこう細かな伏線も貼られていて楽しめる。
そして、ベビーフェイスとのサバイバルを生き抜き、仮面の下の正体を突き止めたツリーは、一応死のループを閉じることには成功するが、1作目ではそもそもなぜ彼女がループにハマってしまったのか、その原因はほったらかしのまま終わってしまう。
世界観の秘密が明らかになるのが、「ハッピー・デス・デイ 2U」だ。
1作目では冒頭のユニバーサルロゴが、何度も巻き戻っていたが、今回は3つにスプリット。
勘のいい人なら、この時点で世界観がわかるだろう。
ループが作られたのは、1作目で彼女を助け、恋仲になったカーターのギークなルームメイト、ライアンのせい。
彼が大学の研究室で量子反応炉の実験をしたことが、たまたま近くにいたツリーの時間を狂わせてしまったのだが、物語はここからさらに複雑に展開。
今度はライアンが何者かに殺されるループに落ち、それを正すために再び量子反応炉を作動させた結果、ツリーがまたしても9月18日の誕生日、しかも元いた世界とは異なるマルチバースに飛ばされてしまうのだ。
この世界でもベビーフェイスの殺人鬼は出没しているものの、ツリーとは直接の関りはなく、なによりもあれほど会いたかった母親が生きているのである。
だから「2U」の彼女の目的は、「真犯人を探して生き残ること」ではない。
以前の経験を生かし、ベビーフェイスの犠牲者を救いつつ、カーターやライアンの協力を得て不安定な量子反応炉を完成させ、こんどこそループを閉じる。
元の世界との細かな差異が、彼女の目的達成の障害となるという、前作全体が伏線として作用する実に上手い構造。
ホラー色は限りなく薄まり、カテゴリ的には完全にSFの領域に入り、ライアンと仲間たちのギークな新キャラも加わったチーム戦のおもむきだ。
「恋はデジャ・ブ」に代わって、カーターが引き合いに出すのが「バック・トゥ・ザ・フューチャーPART2」というのもいい。
前回の命がけのサバイバルを経験することで、すでにビッチを抜け出しているツリーは、今回はループを閉じる時にどちらの世界を選ぶのかという、重大な選択を迫られる。
元の世界では、ベビーフェイスとの戦いを通じて、“戦友”となったツリーとカーターは恋仲になっているが、こちらの世界の彼は、ツリーの天敵でもある同級生と付き合っている。
しかし元の世界では、母親は死んでしまっているのだ。
母親が生きているこちらの世界か、カーターが恋人の元の世界か、心の傷を抱えて本当の自分の人生を生きるのか、もう一人の自分の人生を奪うのか、物語は究極の選択を通じて、ツリーにさらなる成長を促すのである。
SF設定は少々強引ではあるものの、1作目同様のライフ減少とタイムリミットでハラハラさせて、ちょっとウルっとさせるあたり、人間ドラマとしてもなかなか良く出来ている。
「2U」に関しては完全な続きモノで、前作からの人間関係が複雑に絡み合っているので、1作目の鑑賞は必須。
観てないと訳が分からないだろう。
2本同時に上映されている間に、一気にハシゴするのがベストだと思う。
今回は誕生日に飲みたい、カリフォルニア産のスパークリングワイン「ブラン・ド・ブルー」をチョイス。
名前の通り、涼しげな青が美しいが、シャルドネのスパークリングにブルーベリーで色付けしたもの。
シルキーな泡と共に、豊かな果実香が立ち上がってくる。
ほのかなブルーベリーのフレーバーが、いいアクセントになっている。
パーティーを華やかに彩る、辛口でライトな味わいのスパークリングだ。
記事が気に入ったらクリックしてね
9月18日の誕生日の夜に、何者かに殺された女子大生が、人生最後の日を無限ループする「ハッピー・デス・デイ」と、そもそもなぜループが作られたのかを描くネタばらし編「ハッピー・デス・デイ 2U」が、日本ではほぼ同時公開中。
原題からして思いっきりダジャレなタイトルにB級感が漂うが、2本ともセンス・オブ・ワンダーに溢れたなかなかの快作。
本国では1作目が2017年、「2U」が19年と、二年のブランクがあったのだが、この2本は続けてみたほうが絶対に楽しい。
外国映画の公開が世界一遅い日本だが、こんなメリット(?)もあったのだな。
「ラ・ラ・ランド」のジェシカ・ローテが、年齢的にちょっと無理のあるビッチな女子大生ツリーを怪演し、「パラノーマル・アクティビティ」シリーズのクリストファー・B・ランドンが監督を務める。
※核心部分に触れています。
大学生のツリー(ジェシカ・ローテ)は、ある朝カーター(イズラエル・ブルサード)の部屋で目を覚ます。
前夜のパーティーで飲みすぎて、初対面の彼の部屋で寝込んでしまったのだ。
この日、9月18日はツリーの誕生日だったが、彼女の体調はすぐれない。
寮に帰るとルームメイトのロリ(ルビー・モディーン)がカップケーキを作ってくれていたが、ツリーはそれをゴミ箱に捨てると、不倫相手のバトラー教授と会い、父親とランチを共にする約束をすっぽかす。
その夜、パーティー会場に向かっていたツリーは、途中で大学のマスコットであるベビーフェイスの仮面をかぶった人物と遭遇、殺されてしまう。
その瞬間、ツリーは再びカーターの部屋で目を覚ます。
今までの出来事は夢かと思ったが、何かがおかしい。
起こることが全て、一度体験していることなのだ。
全く同じ日を繰り返している?
ツリーがそのことを確信した時には、すでにベビーフェイスの殺人鬼が迫っていた・・・
「ハッピー・デス・デイ」では、色々こじらせちゃってる主人公のツリーが、不気味なベビーフェイスのマスクをかぶった犯人からなんとか逃げ切り、死のループを終わらせようと奮闘する。
劇中、彼女に協力することになるカーターが、ハロルド・ライミス監督の「恋はデジャ・ブ」に言及していたが、命がけのサバイバルという点では、ホラー版「オール・ユー・ニード・イズ・キル」と言ったほうがしっくりくるかもしれない。
あの映画のヘタレ軍人のトム・クルーズと同様に、本作のツリーも相当問題あるキャラクター。
犯人の目星をつけようにも、本人の性格がビッチ過ぎて、各方面から恨みを買いまくっているので容疑者多過ぎとか(笑
少しずつループに慣れて来て、生き残り作戦が機能し始めるあたりも良く似ている。
ツリーは最愛の母を亡くして以来、悲しみのあまり自暴自棄になっていたのだが、運命と戦っているうちに、だんだんとビッチキャラを脱して人間的に成長してゆく。
面白いのは、この世界では永遠にループ出来る訳ではなく、ゲームの「ライフ」のように少しずつ彼女の生命力が削られてゆく設定で、これがある種のタイムリミットとして機能する。
最初は「殺されてスッキリ」キャラの嫌なヤツだったツリーが、生きることへの切望と共に応援しがいのあるいいヤツに変化してゆくのだ。
意外性のある真犯人に至るプロセスも、やや駆け足ではあるけど、けっこう細かな伏線も貼られていて楽しめる。
そして、ベビーフェイスとのサバイバルを生き抜き、仮面の下の正体を突き止めたツリーは、一応死のループを閉じることには成功するが、1作目ではそもそもなぜ彼女がループにハマってしまったのか、その原因はほったらかしのまま終わってしまう。
世界観の秘密が明らかになるのが、「ハッピー・デス・デイ 2U」だ。
1作目では冒頭のユニバーサルロゴが、何度も巻き戻っていたが、今回は3つにスプリット。
勘のいい人なら、この時点で世界観がわかるだろう。
ループが作られたのは、1作目で彼女を助け、恋仲になったカーターのギークなルームメイト、ライアンのせい。
彼が大学の研究室で量子反応炉の実験をしたことが、たまたま近くにいたツリーの時間を狂わせてしまったのだが、物語はここからさらに複雑に展開。
今度はライアンが何者かに殺されるループに落ち、それを正すために再び量子反応炉を作動させた結果、ツリーがまたしても9月18日の誕生日、しかも元いた世界とは異なるマルチバースに飛ばされてしまうのだ。
この世界でもベビーフェイスの殺人鬼は出没しているものの、ツリーとは直接の関りはなく、なによりもあれほど会いたかった母親が生きているのである。
だから「2U」の彼女の目的は、「真犯人を探して生き残ること」ではない。
以前の経験を生かし、ベビーフェイスの犠牲者を救いつつ、カーターやライアンの協力を得て不安定な量子反応炉を完成させ、こんどこそループを閉じる。
元の世界との細かな差異が、彼女の目的達成の障害となるという、前作全体が伏線として作用する実に上手い構造。
ホラー色は限りなく薄まり、カテゴリ的には完全にSFの領域に入り、ライアンと仲間たちのギークな新キャラも加わったチーム戦のおもむきだ。
「恋はデジャ・ブ」に代わって、カーターが引き合いに出すのが「バック・トゥ・ザ・フューチャーPART2」というのもいい。
前回の命がけのサバイバルを経験することで、すでにビッチを抜け出しているツリーは、今回はループを閉じる時にどちらの世界を選ぶのかという、重大な選択を迫られる。
元の世界では、ベビーフェイスとの戦いを通じて、“戦友”となったツリーとカーターは恋仲になっているが、こちらの世界の彼は、ツリーの天敵でもある同級生と付き合っている。
しかし元の世界では、母親は死んでしまっているのだ。
母親が生きているこちらの世界か、カーターが恋人の元の世界か、心の傷を抱えて本当の自分の人生を生きるのか、もう一人の自分の人生を奪うのか、物語は究極の選択を通じて、ツリーにさらなる成長を促すのである。
SF設定は少々強引ではあるものの、1作目同様のライフ減少とタイムリミットでハラハラさせて、ちょっとウルっとさせるあたり、人間ドラマとしてもなかなか良く出来ている。
「2U」に関しては完全な続きモノで、前作からの人間関係が複雑に絡み合っているので、1作目の鑑賞は必須。
観てないと訳が分からないだろう。
2本同時に上映されている間に、一気にハシゴするのがベストだと思う。
今回は誕生日に飲みたい、カリフォルニア産のスパークリングワイン「ブラン・ド・ブルー」をチョイス。
名前の通り、涼しげな青が美しいが、シャルドネのスパークリングにブルーベリーで色付けしたもの。
シルキーな泡と共に、豊かな果実香が立ち上がってくる。
ほのかなブルーベリーのフレーバーが、いいアクセントになっている。
パーティーを華やかに彩る、辛口でライトな味わいのスパークリングだ。



2019年07月14日 (日) | 編集 |
私は誰だ?なぜ生まれてきたのか?
記念すべきポケモン映画第一作「ミュウツーの逆襲」の21年ぶりのリメイク。
表現手法は手描きから3DCGに変わったが、監督、脚本はオリジナルと同じ湯山邦彦と首藤剛志だから、内容は非常に忠実。
というか、台詞からカメラワークに至るまでほとんど同じだ。
「名探偵ピカチュウ」のモフモフバージョンも良かったけど、こちらのCG化されたポケモン世界は、ゲームで見慣れたビジュアルに近く、全く違和感無し。
オトナ世代には懐かしく、ファーストジェネレーションのポケモンを知らない、今の子供世代には新鮮だろう。
幻のポケモン、ミューの遺伝子から作られた最強の人工ポケモン、ミュウツーのアイデンティティの葛藤は今見ても普遍的。
この部分は変える必要はないし、基本オリジナルの作者による新世代の観客に向けたセルフカバーなので、本作の作りで良いと思う。
とは言え、全くのカーボンコピーという訳ではない。
オリジナルの「ミュウツーの逆襲」には、75分の最初の「劇場公開版」と、日本ではTV放送された85分の「完全版」が存在する。
日本映画初の全米No.1の快挙を成し遂げた「Pokémon: The First Movie - Mewtwo Strikes Back」は完全版で、こちらではミュウツーの生みの親であるマッドサイエンティストのフジ博士が、なぜミューのコピーを作ろうとしたのか、その動機部分が語られている。
彼は事故で死んだ愛娘のアイから、意識のコピー「アイツー」を作り、ポケモンの遺伝子研究を通して、いつの日か肉体をも蘇られせようとしているのだ。
生まれたばかりのミュウツーは、テレパシーによってアイツーの意識体と出会い、彼女の“死”を目の当たりにすることで、コピーの悲しみを知る。
ところが、本作ではアイツーとのエピソードがばっさりカットされている。
完全版というからには、こちらがオフィシャルなオリジナルと思っていたので、これはちょっと驚いた。
確かにフジ博士の動機そのものは、完全版でも中途半端に放りっぱなしだったので、カットするのは理解できる。
しかしアイツーとの出会いと別れが、ミュウツーに自分がコピーであることを実感させ、「私は誰だ?なぜ生まれてきたのか?」とアイデンティティの葛藤を深めさせたのは確かだ。
アイツーの存在が無くなったことで、ミュウツーの動機は逆に弱くなってしまった。
「EVOLUTION」を名乗るのだから、なんとか博士の過去と絡めず、アイツーを生かす新しいアイディアがあっても良かったのではないだろうか。
冒頭部分以降、プロットは殆どオリジナルと変わらないが、アクションを中心に重要ポイントをじっくり描くことで、全体としてブラッシュアップを果たしている。
アイツーとのエピソードが無くなったのに、トータルの上映時間では98分と伸びているのも、見せ場の描写が大幅に増えているからだ。
物理的制約から解き放たれたCG化の恩恵もあり、リザードンの空中戦なんて迫力倍増。
オリジナルとコピーのポケモンたちがど付き合う、クライマックスの悲壮さも、CGキャラクターならではの実在感によって増幅している。
ここだけでも、意味のあるリメイクになっていたんじゃないだろうか。
しかし、オリジナルでも思ったが、本作で一番の名シーンは、ニャースが自分のコピーと出会うところだろう。
他のポケモンたちが戦っているのに、ニャースとニャースのコピーだけは、お互いの爪が痛そうだと、戦おうとはしない。
そして嵐に隠れて見えない月を想って、「今夜の月は丸いだろうニャー」と風流に語り合うのだ。
一度生まれてしまえば、それはもうコピーもオリジナルもない。
ひとつの生物として、ただ生きている。
強さイコール本物だと思い込もうとする、ミュウツーの葛藤の先にあるものが、真逆のキャラクターであるニャースによって示されるのが、本作の面白いところだ。
今回は最強のポケモンの話なので、世界最強の96度というアルコール度数を持つスピリタス・ウォッカを使ったカクテル、「ゴー・トゥー・ヘヴン」をチョイス。
スピリタスとラッテ・リ・ソッチラという超高アルコー度の酒を30mlずつミックスした、名前通りに昇天しちゃう一杯だ。
作り方は二種類の酒をソフトにシェイクして、カクテルグラスに注ぐだけ。
ちなみにこの酒はガンガンに燃えるので、タバコなどの火気には十分注意すること。
記事が気に入ったらクリックしてね
記念すべきポケモン映画第一作「ミュウツーの逆襲」の21年ぶりのリメイク。
表現手法は手描きから3DCGに変わったが、監督、脚本はオリジナルと同じ湯山邦彦と首藤剛志だから、内容は非常に忠実。
というか、台詞からカメラワークに至るまでほとんど同じだ。
「名探偵ピカチュウ」のモフモフバージョンも良かったけど、こちらのCG化されたポケモン世界は、ゲームで見慣れたビジュアルに近く、全く違和感無し。
オトナ世代には懐かしく、ファーストジェネレーションのポケモンを知らない、今の子供世代には新鮮だろう。
幻のポケモン、ミューの遺伝子から作られた最強の人工ポケモン、ミュウツーのアイデンティティの葛藤は今見ても普遍的。
この部分は変える必要はないし、基本オリジナルの作者による新世代の観客に向けたセルフカバーなので、本作の作りで良いと思う。
とは言え、全くのカーボンコピーという訳ではない。
オリジナルの「ミュウツーの逆襲」には、75分の最初の「劇場公開版」と、日本ではTV放送された85分の「完全版」が存在する。
日本映画初の全米No.1の快挙を成し遂げた「Pokémon: The First Movie - Mewtwo Strikes Back」は完全版で、こちらではミュウツーの生みの親であるマッドサイエンティストのフジ博士が、なぜミューのコピーを作ろうとしたのか、その動機部分が語られている。
彼は事故で死んだ愛娘のアイから、意識のコピー「アイツー」を作り、ポケモンの遺伝子研究を通して、いつの日か肉体をも蘇られせようとしているのだ。
生まれたばかりのミュウツーは、テレパシーによってアイツーの意識体と出会い、彼女の“死”を目の当たりにすることで、コピーの悲しみを知る。
ところが、本作ではアイツーとのエピソードがばっさりカットされている。
完全版というからには、こちらがオフィシャルなオリジナルと思っていたので、これはちょっと驚いた。
確かにフジ博士の動機そのものは、完全版でも中途半端に放りっぱなしだったので、カットするのは理解できる。
しかしアイツーとの出会いと別れが、ミュウツーに自分がコピーであることを実感させ、「私は誰だ?なぜ生まれてきたのか?」とアイデンティティの葛藤を深めさせたのは確かだ。
アイツーの存在が無くなったことで、ミュウツーの動機は逆に弱くなってしまった。
「EVOLUTION」を名乗るのだから、なんとか博士の過去と絡めず、アイツーを生かす新しいアイディアがあっても良かったのではないだろうか。
冒頭部分以降、プロットは殆どオリジナルと変わらないが、アクションを中心に重要ポイントをじっくり描くことで、全体としてブラッシュアップを果たしている。
アイツーとのエピソードが無くなったのに、トータルの上映時間では98分と伸びているのも、見せ場の描写が大幅に増えているからだ。
物理的制約から解き放たれたCG化の恩恵もあり、リザードンの空中戦なんて迫力倍増。
オリジナルとコピーのポケモンたちがど付き合う、クライマックスの悲壮さも、CGキャラクターならではの実在感によって増幅している。
ここだけでも、意味のあるリメイクになっていたんじゃないだろうか。
しかし、オリジナルでも思ったが、本作で一番の名シーンは、ニャースが自分のコピーと出会うところだろう。
他のポケモンたちが戦っているのに、ニャースとニャースのコピーだけは、お互いの爪が痛そうだと、戦おうとはしない。
そして嵐に隠れて見えない月を想って、「今夜の月は丸いだろうニャー」と風流に語り合うのだ。
一度生まれてしまえば、それはもうコピーもオリジナルもない。
ひとつの生物として、ただ生きている。
強さイコール本物だと思い込もうとする、ミュウツーの葛藤の先にあるものが、真逆のキャラクターであるニャースによって示されるのが、本作の面白いところだ。
今回は最強のポケモンの話なので、世界最強の96度というアルコール度数を持つスピリタス・ウォッカを使ったカクテル、「ゴー・トゥー・ヘヴン」をチョイス。
スピリタスとラッテ・リ・ソッチラという超高アルコー度の酒を30mlずつミックスした、名前通りに昇天しちゃう一杯だ。
作り方は二種類の酒をソフトにシェイクして、カクテルグラスに注ぐだけ。
ちなみにこの酒はガンガンに燃えるので、タバコなどの火気には十分注意すること。



2019年07月13日 (土) | 編集 |
内なる声を聞け。
意思を持ったおもちゃたちの世界を描く「トイ・ストーリー」シリーズ、2010年に公開された「トイ・ストーリー3」から9年ぶりとなる新作だ。
第1作からの持ち主だったアンディ少年が成長し、ウッディやバズ・ライトイヤーら必要とされなくなったおもちゃたちは、前作でボニーという新しい持ち主と出会い、再び安住の地を得た。
ピクサー・アニメーション・スタジオには、「オリジナルを上回る“語るべき物語”がある場合以外は続編を作らない」というポリシーがあるという。
愛する持ち主の子供時代の終わりという、おもちゃ生の根源的な葛藤に対するパーフェクトなアンサーと思えたあの作品の先に、何があるのか。
シリーズどころか、ピクサーそのものの生みの親でもあるジョン・ラセターの解雇後の紆余曲折を経て、短編「ジョージとAJ」で監督・脚本、「インサイド・ヘッド」では脚本を務めた、ピクサー生え抜きのジョシュ・クーリーが、圧巻のクオリティで見事な長編監督デビューを飾った。
※核心部分に触れています。
大学生となったアンディから、ボニー・アンダーソン(マデリーン・マックグロウ)の手に渡ったおもちゃたちは、相変わらず楽しい日々を過ごしていた。
しかしウッディ(トム・ハンクス)は最近ボニーに選ばれず、クローゼットの中に取り残されることが多くなっていることに寂しさを感じていた。
そんな時、幼稚園のお試し入園に行くことになったボニーは、工作の時間に先割れスプーンとアイスの棒を使って、フォーキー(トニー・ヘイル)というオリジナルのおもちゃを作る。
不恰好なフォーキーはボニーの一番のお気に入りになるのだが、当のフォーキーは自分をゴミだと思っていて、すぐにゴミ箱に入ろうとする。
ある日、アンダーソン一家がキャンプ旅行に行くことになり、ウッディが目を離した隙にフォーキーがキャンピングカーの窓から身投げしてしまう。
慌てたウッディは、ボニーが目を覚ます前にフォーキーを連れ戻そうと彼の後を追う。
なんとかフォーキーを説得することには成功したが、キャンプ場への途中にあったアンティークショップで、ウッディは遠い昔に別れた、ランプ人形のボー・ピープ(アニー・ポッツ)の電気スタンドを見つける・・・
これはビックリした。
ピクサーの企画力なめてた。
「トイ・ストーリー3」を観た時に、おもちゃモチーフで、これ以上「語るべき物語」のバリエーションは出てこないだろうと思ったが、まさかこんな結末にたどり着くとは。
なるほど、本作が描き出した通り、世界は既成概念と思い込みで出来ているのだなあ。
ボニーが幼稚園で作ったフォーキーは、先割れスプーンの体にカラーモールの手、アイスの棒の足を持つ。
全て使い捨ての素材からできている彼は、自分を無価値なゴミだと思っている。
ちょっと目を離すとゴミ箱に入ってしまうフォーキーに、ウッディは「君はゴミじゃない。おもちゃなんだ」と諭すのだが、そもそもおもちゃも捨てられたり失くされたりしたらゴミ。
おもちゃとゴミを分けるのは、持ち主の子供に愛されているかどうかという、境遇の違いでしかないのである。
消えたフォーキーを探す旅に出て、クローゼットの中で過ごす時間が増えていたウッディの心の中で、それまで感じたことのないアイデンティティの迷いが生まれる。
そして、彼をさらに動揺させるのが、「トイ・ストーリー2」以来20年ぶりの登場となる元カノだったボー・ピープの存在だ。
遠い昔にアンディの妹、モリーから知人男性に譲り渡された彼女は、そこからさらに流浪の日々を重ね、今は人間の子供に所有されるのではなく、「迷子のおもちゃ」の仲間と共に自立して自由に生きているのである。
時には不幸なおもちゃを救い出し、時には子供たちのパーティーに紛れ込んで一緒に遊ぶ。
おもちゃは、特定の子供の持ち物でないと幸せになれないのか?
今まで考えたこともない、新しい生き方をしているボーと再会して、ウッディの心は大きく揺れる。
劇中繰り返される、「内なる声を聞け」という台詞が全てだ。
前作までのシリーズは、基本的におもちゃと持ち主の子供の関係で物語が語られていた。
おもちゃたちは誰が持ち主の一番のお気に入りなのかと競い、いつか飽きられて捨てられてしまう未来を恐れ、持ち主を幸せにすることを唯一の目標にする。
まあ第1作に登場した、破壊大好きっ子のシドみたいな天敵も存在するが、基本的に子供に愛されることが、イコールおもちゃたちにとっての正しい生き方とされてきた。
ところが、本作で問われているのは、おもちゃ自身の生き方の問題なのだ。
登場するキャラクターたちが体現する、いくつものおもちゃ生の悲喜こもごも。
アンティークショップで、長い間放置されている少女人形のギャビー・ギャビーは、不良品として生まれ、一度も誰からも愛されたことのない、空虚なおもちゃ生を過ごしている。
彼女は自分が不良品でなくなれば、子供に愛してもらえていると信じていて、そのために同じ発声機能を持つウッディから正常なパーツを奪い取ろうとするのだ。
でも、それは結局は子供の気分に左右される受け身のおもちゃ生。
ギャビー・ギャビーも、最後には自らの意思で重大な決断をすることで、幸せを掴む。
おもちゃの幸せは、必ずしも人間に左右されない。
これはウッディにとって目から鱗であるのと同時に、作品としても世界観の大転換だ。
第1作以来、「トイ・ストーリー」は、「もしもおもちゃに意思があったら」という「IF」の世界だった。
おもちゃはあくまでもおもちゃであって、だから「おもちゃはこうあるべき」というベースの部分は普遍。
だが、本作の世界ではもはや「IF」のくくりは取れ、「おもちゃという一つの生き物」として存在している。
ウッディは序盤ではシリーズの過去の世界観に縛られているが、「もはや世界にそんなくくりは無くなっているんだよ、それは単なる既成概念と思い込みじゃないの?」という問いに葛藤してゆくのが、ここで描かれる物語なのだ。
本作がウッディとボーの、結構本格的なラブストーリーになっているのも、おもちゃという存在の意味付けが変わっているから出来ること。
「トイ・ストーリー4」がやっているのは、ある意味過去のシリーズで描いた価値観の、創造的破壊である。
もちろん、ここに至るシリーズの長い歴史があって初めて可能になったことだが、本作の賛否が意外と割れている理由も、この世界観の変化を受け入れられるかどうかだと思う。
「これじゃもう、おもちゃの話じゃないじゃん」という見方が出てくるのは、当然理解出来る。
しかし、ウッディは1950年代に作られたアンティークのおもちゃなのだ。
人間の子供に、最大限の愛情とロイヤリティを注ぎ続けて60年を超える、還暦を過ぎたおじいちゃんなのである。
おもちゃだから歳が分からないけど、相方のバズ・ライトイヤーはずっと若い。
もうウッディの肩の荷を下ろして、「仕事」から解放してあげてもいい頃だ。
24年間にわたって、彼と付き合ってきたピクサーのクリエイターたちも、そう思ったのではないか。
「誰かのおもちゃ」としての役割を終え「迷子のおもちゃ」という道を選んだウッディが、今度はボーと共に、新しいおもちゃたちが子供たちの元へと届くようにサポートをしているのも感慨深い。
本作は、いわば人間社会の生き方の多様性を、おもちゃの世界で比喩した作品で、その意味で非常に現在的で、過去のシリーズとはまた違った視点を持つ、「語るべき物語」となっている。
私はいい意味で予想を完全に裏切られたし、20年以上続いているシリーズなのに、マネリズムの付け入る隙もない作り手のスタンスに、もう脱帽するしかないと思った。
今回バズは脇役に徹しているが、ウッディの旅立ちの背中を押す、彼の友情にも涙。
ピクサー作品としては珍しく短編のオマケが付かないが、これ一作だけで充分以上にお腹いっぱいだった。
アンティークショップに隠れているおもちゃたちの中に、ピクサーの第1作であり、「トイ・ストーリー」の原型となった短編映画「ティン・トイ」の主人公がいたり、クライマックスで大活躍するカナダのスタントトイのデューク・カブーン役を、カナダ人のキアヌ・リーブスがノリノリで演じていたり、細かいところまで遊び心が満載だ。
エンドクレジット後のカンパニーロゴまでお見逃しなく。
はたして、「トイ・ストーリー5」はあるのだろうか。
ウッディとボーの未来を祝して、今回はモエ・エ・シャンドンの「ロゼ・アンペリアル」をチョイス。
ピノノワール、ピノムニエ、シャルドネが作り出す、透明感のあるピンクは華やかな気分を誘う。
喉ごしは柔らかくシルクの様で、フルーティで野いちごやりんごの様な豊かな果実香は、夏野菜や肉料理との相性が抜群。
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意思を持ったおもちゃたちの世界を描く「トイ・ストーリー」シリーズ、2010年に公開された「トイ・ストーリー3」から9年ぶりとなる新作だ。
第1作からの持ち主だったアンディ少年が成長し、ウッディやバズ・ライトイヤーら必要とされなくなったおもちゃたちは、前作でボニーという新しい持ち主と出会い、再び安住の地を得た。
ピクサー・アニメーション・スタジオには、「オリジナルを上回る“語るべき物語”がある場合以外は続編を作らない」というポリシーがあるという。
愛する持ち主の子供時代の終わりという、おもちゃ生の根源的な葛藤に対するパーフェクトなアンサーと思えたあの作品の先に、何があるのか。
シリーズどころか、ピクサーそのものの生みの親でもあるジョン・ラセターの解雇後の紆余曲折を経て、短編「ジョージとAJ」で監督・脚本、「インサイド・ヘッド」では脚本を務めた、ピクサー生え抜きのジョシュ・クーリーが、圧巻のクオリティで見事な長編監督デビューを飾った。
※核心部分に触れています。
大学生となったアンディから、ボニー・アンダーソン(マデリーン・マックグロウ)の手に渡ったおもちゃたちは、相変わらず楽しい日々を過ごしていた。
しかしウッディ(トム・ハンクス)は最近ボニーに選ばれず、クローゼットの中に取り残されることが多くなっていることに寂しさを感じていた。
そんな時、幼稚園のお試し入園に行くことになったボニーは、工作の時間に先割れスプーンとアイスの棒を使って、フォーキー(トニー・ヘイル)というオリジナルのおもちゃを作る。
不恰好なフォーキーはボニーの一番のお気に入りになるのだが、当のフォーキーは自分をゴミだと思っていて、すぐにゴミ箱に入ろうとする。
ある日、アンダーソン一家がキャンプ旅行に行くことになり、ウッディが目を離した隙にフォーキーがキャンピングカーの窓から身投げしてしまう。
慌てたウッディは、ボニーが目を覚ます前にフォーキーを連れ戻そうと彼の後を追う。
なんとかフォーキーを説得することには成功したが、キャンプ場への途中にあったアンティークショップで、ウッディは遠い昔に別れた、ランプ人形のボー・ピープ(アニー・ポッツ)の電気スタンドを見つける・・・
これはビックリした。
ピクサーの企画力なめてた。
「トイ・ストーリー3」を観た時に、おもちゃモチーフで、これ以上「語るべき物語」のバリエーションは出てこないだろうと思ったが、まさかこんな結末にたどり着くとは。
なるほど、本作が描き出した通り、世界は既成概念と思い込みで出来ているのだなあ。
ボニーが幼稚園で作ったフォーキーは、先割れスプーンの体にカラーモールの手、アイスの棒の足を持つ。
全て使い捨ての素材からできている彼は、自分を無価値なゴミだと思っている。
ちょっと目を離すとゴミ箱に入ってしまうフォーキーに、ウッディは「君はゴミじゃない。おもちゃなんだ」と諭すのだが、そもそもおもちゃも捨てられたり失くされたりしたらゴミ。
おもちゃとゴミを分けるのは、持ち主の子供に愛されているかどうかという、境遇の違いでしかないのである。
消えたフォーキーを探す旅に出て、クローゼットの中で過ごす時間が増えていたウッディの心の中で、それまで感じたことのないアイデンティティの迷いが生まれる。
そして、彼をさらに動揺させるのが、「トイ・ストーリー2」以来20年ぶりの登場となる元カノだったボー・ピープの存在だ。
遠い昔にアンディの妹、モリーから知人男性に譲り渡された彼女は、そこからさらに流浪の日々を重ね、今は人間の子供に所有されるのではなく、「迷子のおもちゃ」の仲間と共に自立して自由に生きているのである。
時には不幸なおもちゃを救い出し、時には子供たちのパーティーに紛れ込んで一緒に遊ぶ。
おもちゃは、特定の子供の持ち物でないと幸せになれないのか?
今まで考えたこともない、新しい生き方をしているボーと再会して、ウッディの心は大きく揺れる。
劇中繰り返される、「内なる声を聞け」という台詞が全てだ。
前作までのシリーズは、基本的におもちゃと持ち主の子供の関係で物語が語られていた。
おもちゃたちは誰が持ち主の一番のお気に入りなのかと競い、いつか飽きられて捨てられてしまう未来を恐れ、持ち主を幸せにすることを唯一の目標にする。
まあ第1作に登場した、破壊大好きっ子のシドみたいな天敵も存在するが、基本的に子供に愛されることが、イコールおもちゃたちにとっての正しい生き方とされてきた。
ところが、本作で問われているのは、おもちゃ自身の生き方の問題なのだ。
登場するキャラクターたちが体現する、いくつものおもちゃ生の悲喜こもごも。
アンティークショップで、長い間放置されている少女人形のギャビー・ギャビーは、不良品として生まれ、一度も誰からも愛されたことのない、空虚なおもちゃ生を過ごしている。
彼女は自分が不良品でなくなれば、子供に愛してもらえていると信じていて、そのために同じ発声機能を持つウッディから正常なパーツを奪い取ろうとするのだ。
でも、それは結局は子供の気分に左右される受け身のおもちゃ生。
ギャビー・ギャビーも、最後には自らの意思で重大な決断をすることで、幸せを掴む。
おもちゃの幸せは、必ずしも人間に左右されない。
これはウッディにとって目から鱗であるのと同時に、作品としても世界観の大転換だ。
第1作以来、「トイ・ストーリー」は、「もしもおもちゃに意思があったら」という「IF」の世界だった。
おもちゃはあくまでもおもちゃであって、だから「おもちゃはこうあるべき」というベースの部分は普遍。
だが、本作の世界ではもはや「IF」のくくりは取れ、「おもちゃという一つの生き物」として存在している。
ウッディは序盤ではシリーズの過去の世界観に縛られているが、「もはや世界にそんなくくりは無くなっているんだよ、それは単なる既成概念と思い込みじゃないの?」という問いに葛藤してゆくのが、ここで描かれる物語なのだ。
本作がウッディとボーの、結構本格的なラブストーリーになっているのも、おもちゃという存在の意味付けが変わっているから出来ること。
「トイ・ストーリー4」がやっているのは、ある意味過去のシリーズで描いた価値観の、創造的破壊である。
もちろん、ここに至るシリーズの長い歴史があって初めて可能になったことだが、本作の賛否が意外と割れている理由も、この世界観の変化を受け入れられるかどうかだと思う。
「これじゃもう、おもちゃの話じゃないじゃん」という見方が出てくるのは、当然理解出来る。
しかし、ウッディは1950年代に作られたアンティークのおもちゃなのだ。
人間の子供に、最大限の愛情とロイヤリティを注ぎ続けて60年を超える、還暦を過ぎたおじいちゃんなのである。
おもちゃだから歳が分からないけど、相方のバズ・ライトイヤーはずっと若い。
もうウッディの肩の荷を下ろして、「仕事」から解放してあげてもいい頃だ。
24年間にわたって、彼と付き合ってきたピクサーのクリエイターたちも、そう思ったのではないか。
「誰かのおもちゃ」としての役割を終え「迷子のおもちゃ」という道を選んだウッディが、今度はボーと共に、新しいおもちゃたちが子供たちの元へと届くようにサポートをしているのも感慨深い。
本作は、いわば人間社会の生き方の多様性を、おもちゃの世界で比喩した作品で、その意味で非常に現在的で、過去のシリーズとはまた違った視点を持つ、「語るべき物語」となっている。
私はいい意味で予想を完全に裏切られたし、20年以上続いているシリーズなのに、マネリズムの付け入る隙もない作り手のスタンスに、もう脱帽するしかないと思った。
今回バズは脇役に徹しているが、ウッディの旅立ちの背中を押す、彼の友情にも涙。
ピクサー作品としては珍しく短編のオマケが付かないが、これ一作だけで充分以上にお腹いっぱいだった。
アンティークショップに隠れているおもちゃたちの中に、ピクサーの第1作であり、「トイ・ストーリー」の原型となった短編映画「ティン・トイ」の主人公がいたり、クライマックスで大活躍するカナダのスタントトイのデューク・カブーン役を、カナダ人のキアヌ・リーブスがノリノリで演じていたり、細かいところまで遊び心が満載だ。
エンドクレジット後のカンパニーロゴまでお見逃しなく。
はたして、「トイ・ストーリー5」はあるのだろうか。
ウッディとボーの未来を祝して、今回はモエ・エ・シャンドンの「ロゼ・アンペリアル」をチョイス。
ピノノワール、ピノムニエ、シャルドネが作り出す、透明感のあるピンクは華やかな気分を誘う。
喉ごしは柔らかくシルクの様で、フルーティで野いちごやりんごの様な豊かな果実香は、夏野菜や肉料理との相性が抜群。



2019年07月09日 (火) | 編集 |
マズルカの音色が、心に染み渡る。
50年代のポーランドを舞台にした「イーダ」で、孤児として育てられ、自らの出自を探す少女の旅を描き、第87回アカデミー外国語映画賞に輝いたパヴェウ・パヴリコフスキの最新作。
なるほど「ROMA/ローマ」が無かったら、これが今年のオスカーをとっていたかも知れないな。
第二次世界大戦後の40年代末、ポーランドの伝統的な民族舞踊、マズルカの舞踊団のオーディションで出会った、指導者でもあるピアニストのヴィクトルと、新人歌手のズーラの波乱万丈の愛の物語。
二人は直ぐに恋に落ちるも、タイトルにもなっている「冷戦の時代」という歴史の大波に翻弄されることになるのである。
運命の恋人たちを、トマシュ・スコットとヨアンナ・クーリグが好演。
名手ウカシュ・ジャルの手による、美しいモノクロのスタンダード画面で展開する、非常に純度の高いメロウなラブストーリーだ。
1949年、復興期のポーランド。
伝統民族舞踊のマズルカの舞踊団を組織するため、ピアニストのヴィクトル(トマシュ・スコット)は、パートナーのイレーナ(アガタ・クレシャ)とともに農村地帯を周り、団員のオーディションを開催する。
養成所に合格した若者たちの中に、美しい歌声を持つズーラ(ヨアンナ・クーリク)がいた。
やがてヴィクトルとズーラは愛し合う様になり、二人は舞踊団と共に各地を巡るが、次第に公演の内容が政治的なプロパガンダへと変貌してゆき、ヴィクトルも政府に監視される様になる。
祖国に嫌気がさしたヴィクトルは、自由を求めて単身パリに亡命。
舞踊団に残ったズーラとは、公演先で逢瀬を重ねるヴィクトルだったが、ある時彼女がシチリア人と結婚して出国し、パリでの音楽活動を始めることになる。
再び恋人関係になる二人だったが、突然ズーラがポーランドへ帰ってしまう。
彼女を忘れられないヴィクトルは、思い悩んでポーランド領事館に相談し、ある提案をされるのだが・・・
戦後、東ヨーロッパを勢力下に置いたソ連の衛星国として、共産主義体制に組み込まれたポーランドでは、「革命遂行のため」を旗印に社会のすべてが変わり始める。
500年以上の歴史を持つと言われるマズルカは、ポーランドではマズレクと呼ばれ、元々マゾフシェ地方の農民たちに伝わる、歌と楽器と踊りの掛け合いで展開する、リズミカルな舞踊だ。
それが徐々に広まり、19世紀にフレデリック・ショパンがマズルカの旋律を駆使して作曲活動をしたことで、芸術として全ヨーロッパに知られるようになった。
そして、農民たちの素朴な喜怒哀楽を表現していたマズルカは、スターリニズが恐怖によって支配する冷戦の時代に、党と指導者を称える政治的な舞踊へと歪められ、公演の場も政府の宣伝活動と化してゆく。
そんな現状に耐えられなくなったヴィクトルは、ベルリン公演の際に西側への亡命を決意し、ズーラも誘うのだが、待ち合わせの場所になぜか彼女が来ることはなく、別れ別れになってしまう。
ここからの展開は予想していたものとだいぶ違った。
本作はタイトル通りに冷戦時代を背景にしているのだが、てっきり強権的な体制によって、無理矢理引き離されるカップルの話だと思っていた。
ところがこの二人、愛し合いながらも、基本自分の意思でくっついたり別れたりを繰り返す。
確かに多少は権力の介入もあるが、お互いに別の相手と付き合ったり、結婚してたりしても、会えば必ず燃え上がり、相手のためなら自己犠牲も厭わない。
ポーランド、ベルリン、パリ、ユーゴスラビア、そしてまたパリ、ポーランド。
二人が煮え切らない関係を続けること、実に15年。
ここまでくると、限りなく腐れ縁に近いのだが、不思議な引力によって引き合う二人は、お互いが定められた運命の男・運命の女なのだろうな。
ヴィクトルとズーラのうち、基本の視点はヴィクトルに置かれている。
我々は彼とともに、いつ終わるとも分からない愛の真実を探す流浪の旅に出て、掴んだと思ったらその手をすり抜けてしまうズーラの心を追い続ける。
「父親殺し」という強烈な過去を持つ訳ありの彼女は、おそらくはヴィクトルにとっても初めて出会ったタイプの女性だったのだろう。
自由を求めてベルリンからパリへと流れついたヴィクトルが、結局マズルカではなくジャズで生計を立てているのが面白い。
各国の音楽シーンというのは流行り廃りがあるものだが、ジャズはロックに押されてアメリカで人気が低迷すると日本やフランスが買支え、逆にフランスのシャンソンは日本での人気に支えられた時代があるという。
50年代後半のフランスでは、米国での差別を逃れた多くの黒人ミュージシャンが活動しており、ロジェ・ヴァディムやルイ・マルと言った映画作家たちが、ジャズを自作に取り入れたことはシネ・ジャズというムーブメントとなった。
マルの「死刑台のエレベーター」が、マイルズ・ディヴィスの音楽によって鮮烈な輝きを得たことは、誰も異論はないだろう。
本作でもヴィクトルが映画音楽の仕事で、パリの音楽業界にそれなりの地位を築く描写がある。
しかし、それでもやはり彼の居場所はそこには無いのである。
体がどこにあっても、心は常にズーラを追い求める。
ロックの時代の幕開けを告げた大ヒット曲、「ロック・アラウンド・ザ・クロック」にのって、ズーラが激しくステップを踏み、それをくたびれた表情のヴィクトルが見つめるシーンは、冷戦という時代の大波と同時にズーラという予測不能の天気に翻弄される、歳上の中年男の心情を切実に伝えてくる。
映画は1949年を起点に、数年おきの「今」を描く構造ゆえ、時間が飛ぶごとに二人の関係性も変わっていて、その間に何があったのか、観客も想像力を働かせることを要求される。
ポーランド語からフランス語へ、変遷しながらも劇中で繰り返し使われている「2つの心」の印象的なフレーズ、「2つの心と4つの瞳 昼も夜もずっと泣いている オーヨーヨイ」が、実質的なテーマ曲として二人の時代を繋ぐ。
はたして愛は、歴史や社会に翻弄される運命を超えて、本当に永遠たりえるのか。
冷戦という時代と組み合わせ、音楽というバックボーンを通すことで、どこにでもありそうな男女の物語が、一気に現代ポーランドのクロニクルとしての性格を帯びてくるのが見事だ。
「イーダ」と同様、ウカシュ・ジャルによる、叙情的なモノクロ映像が素晴らしい。
スタンダードの画面は、時代の閉塞を表現する意味もあるのだろうが、キャラクターを画面の端に寄せ、余白の雄弁さを生かす構図はまるでフェルメールの絵画のようだ。
観終わっても、じわりと余韻が後を引き、「オーヨーヨイ」が脳内で無限リフレインしている。
ポーランドの伝統の酒といえば、やはりウォッカ。
今回は「ベルヴェデール ウォッカ」をチョイス。
非常にまろやかな口当たりの、プレミアムウォッカ。
ジェームズ・ボンドの愛飲酒、スペクター・マティーニのオフィシャルとしても知られる。
今の季節なら冷凍庫でキンキンに冷やし、シャーベット状にしてそのまま飲むと美味しい。
記事が気に入ったらクリックしてね
50年代のポーランドを舞台にした「イーダ」で、孤児として育てられ、自らの出自を探す少女の旅を描き、第87回アカデミー外国語映画賞に輝いたパヴェウ・パヴリコフスキの最新作。
なるほど「ROMA/ローマ」が無かったら、これが今年のオスカーをとっていたかも知れないな。
第二次世界大戦後の40年代末、ポーランドの伝統的な民族舞踊、マズルカの舞踊団のオーディションで出会った、指導者でもあるピアニストのヴィクトルと、新人歌手のズーラの波乱万丈の愛の物語。
二人は直ぐに恋に落ちるも、タイトルにもなっている「冷戦の時代」という歴史の大波に翻弄されることになるのである。
運命の恋人たちを、トマシュ・スコットとヨアンナ・クーリグが好演。
名手ウカシュ・ジャルの手による、美しいモノクロのスタンダード画面で展開する、非常に純度の高いメロウなラブストーリーだ。
1949年、復興期のポーランド。
伝統民族舞踊のマズルカの舞踊団を組織するため、ピアニストのヴィクトル(トマシュ・スコット)は、パートナーのイレーナ(アガタ・クレシャ)とともに農村地帯を周り、団員のオーディションを開催する。
養成所に合格した若者たちの中に、美しい歌声を持つズーラ(ヨアンナ・クーリク)がいた。
やがてヴィクトルとズーラは愛し合う様になり、二人は舞踊団と共に各地を巡るが、次第に公演の内容が政治的なプロパガンダへと変貌してゆき、ヴィクトルも政府に監視される様になる。
祖国に嫌気がさしたヴィクトルは、自由を求めて単身パリに亡命。
舞踊団に残ったズーラとは、公演先で逢瀬を重ねるヴィクトルだったが、ある時彼女がシチリア人と結婚して出国し、パリでの音楽活動を始めることになる。
再び恋人関係になる二人だったが、突然ズーラがポーランドへ帰ってしまう。
彼女を忘れられないヴィクトルは、思い悩んでポーランド領事館に相談し、ある提案をされるのだが・・・
戦後、東ヨーロッパを勢力下に置いたソ連の衛星国として、共産主義体制に組み込まれたポーランドでは、「革命遂行のため」を旗印に社会のすべてが変わり始める。
500年以上の歴史を持つと言われるマズルカは、ポーランドではマズレクと呼ばれ、元々マゾフシェ地方の農民たちに伝わる、歌と楽器と踊りの掛け合いで展開する、リズミカルな舞踊だ。
それが徐々に広まり、19世紀にフレデリック・ショパンがマズルカの旋律を駆使して作曲活動をしたことで、芸術として全ヨーロッパに知られるようになった。
そして、農民たちの素朴な喜怒哀楽を表現していたマズルカは、スターリニズが恐怖によって支配する冷戦の時代に、党と指導者を称える政治的な舞踊へと歪められ、公演の場も政府の宣伝活動と化してゆく。
そんな現状に耐えられなくなったヴィクトルは、ベルリン公演の際に西側への亡命を決意し、ズーラも誘うのだが、待ち合わせの場所になぜか彼女が来ることはなく、別れ別れになってしまう。
ここからの展開は予想していたものとだいぶ違った。
本作はタイトル通りに冷戦時代を背景にしているのだが、てっきり強権的な体制によって、無理矢理引き離されるカップルの話だと思っていた。
ところがこの二人、愛し合いながらも、基本自分の意思でくっついたり別れたりを繰り返す。
確かに多少は権力の介入もあるが、お互いに別の相手と付き合ったり、結婚してたりしても、会えば必ず燃え上がり、相手のためなら自己犠牲も厭わない。
ポーランド、ベルリン、パリ、ユーゴスラビア、そしてまたパリ、ポーランド。
二人が煮え切らない関係を続けること、実に15年。
ここまでくると、限りなく腐れ縁に近いのだが、不思議な引力によって引き合う二人は、お互いが定められた運命の男・運命の女なのだろうな。
ヴィクトルとズーラのうち、基本の視点はヴィクトルに置かれている。
我々は彼とともに、いつ終わるとも分からない愛の真実を探す流浪の旅に出て、掴んだと思ったらその手をすり抜けてしまうズーラの心を追い続ける。
「父親殺し」という強烈な過去を持つ訳ありの彼女は、おそらくはヴィクトルにとっても初めて出会ったタイプの女性だったのだろう。
自由を求めてベルリンからパリへと流れついたヴィクトルが、結局マズルカではなくジャズで生計を立てているのが面白い。
各国の音楽シーンというのは流行り廃りがあるものだが、ジャズはロックに押されてアメリカで人気が低迷すると日本やフランスが買支え、逆にフランスのシャンソンは日本での人気に支えられた時代があるという。
50年代後半のフランスでは、米国での差別を逃れた多くの黒人ミュージシャンが活動しており、ロジェ・ヴァディムやルイ・マルと言った映画作家たちが、ジャズを自作に取り入れたことはシネ・ジャズというムーブメントとなった。
マルの「死刑台のエレベーター」が、マイルズ・ディヴィスの音楽によって鮮烈な輝きを得たことは、誰も異論はないだろう。
本作でもヴィクトルが映画音楽の仕事で、パリの音楽業界にそれなりの地位を築く描写がある。
しかし、それでもやはり彼の居場所はそこには無いのである。
体がどこにあっても、心は常にズーラを追い求める。
ロックの時代の幕開けを告げた大ヒット曲、「ロック・アラウンド・ザ・クロック」にのって、ズーラが激しくステップを踏み、それをくたびれた表情のヴィクトルが見つめるシーンは、冷戦という時代の大波と同時にズーラという予測不能の天気に翻弄される、歳上の中年男の心情を切実に伝えてくる。
映画は1949年を起点に、数年おきの「今」を描く構造ゆえ、時間が飛ぶごとに二人の関係性も変わっていて、その間に何があったのか、観客も想像力を働かせることを要求される。
ポーランド語からフランス語へ、変遷しながらも劇中で繰り返し使われている「2つの心」の印象的なフレーズ、「2つの心と4つの瞳 昼も夜もずっと泣いている オーヨーヨイ」が、実質的なテーマ曲として二人の時代を繋ぐ。
はたして愛は、歴史や社会に翻弄される運命を超えて、本当に永遠たりえるのか。
冷戦という時代と組み合わせ、音楽というバックボーンを通すことで、どこにでもありそうな男女の物語が、一気に現代ポーランドのクロニクルとしての性格を帯びてくるのが見事だ。
「イーダ」と同様、ウカシュ・ジャルによる、叙情的なモノクロ映像が素晴らしい。
スタンダードの画面は、時代の閉塞を表現する意味もあるのだろうが、キャラクターを画面の端に寄せ、余白の雄弁さを生かす構図はまるでフェルメールの絵画のようだ。
観終わっても、じわりと余韻が後を引き、「オーヨーヨイ」が脳内で無限リフレインしている。
ポーランドの伝統の酒といえば、やはりウォッカ。
今回は「ベルヴェデール ウォッカ」をチョイス。
非常にまろやかな口当たりの、プレミアムウォッカ。
ジェームズ・ボンドの愛飲酒、スペクター・マティーニのオフィシャルとしても知られる。
今の季節なら冷凍庫でキンキンに冷やし、シャーベット状にしてそのまま飲むと美味しい。



2019年07月03日 (水) | 編集 |
お父さん、いざ共に冒険へ!
いやー、これは素晴らしい。
野口照夫監督以下、同一チームが手がけたTVドラマ版は未見、原作のブログ「一撃確殺SS日記」はまだ読んでいる途中だが、一本の劇映画として非常に良く出来ている。
吉田鋼太郎が好演する、仕事一筋で重役昇進を目前としていた父が、ある日突然会社を辞め、単身赴任先から抜け殻のようになって戻ってくる。
一体何があったのか、黙して語らない父に、家族は戸惑うばかり。
「この人が死んだ時、(自分も)泣いたりするのだろうか?」
自分が子供の頃から、何を考えているのか分からず、大人になった今も、ますます分からなくなった父の姿を見て、坂口健太郎演じる息子のアキオは、あるアイディアを思い付く。
趣味のオンラインゲーム、「ファイナルファンタジーXIV(FFXIV)」の世界に父を導き、息子であることを隠してフレンドとなり、何があったのか聞き出そうと言うのだ。
「FF」の世界では、プレイヤーを“光の戦士”と呼ぶことから、名付けて「光のお父さん計画」(笑
この種のオンオフ二重構造を持つ作品はもはや珍しくないが、韓国の「操作された都市」やスピルバーグの「レディ・プレイヤー1」など、海外作品だとサスペンやSF系が多い。
物理的にも精神的にも、本来一番近くにいるはずの家族同士の人間ドラマを、あえてこの設定でやろうという、逆説的なアイディアが秀逸だ。
元々実話のブログだから、ゲームを家族のコミュケーションツールにすることを考え付いた作者のマイディーさんが凄いのだが、ブログ記事の「光のお父さん計画」によると、彼の父は元々かなりのゲーマーだったそうで、ゲームの知識など80年代で止まっている吉田鋼太郎とはだいぶ違う印象。
TVドラマ版も手掛けた吹原幸太の脚色の、いい意味で日本の家族のステロタイプな設定と描写が絶妙な塩梅だ。
アバターで身元も知らない同士だからこそ、リアルな世界よりもホンネの人間関係が結べるというのは、思春期からは距離があって当たり前な父と息子ならではのものかも知れない。
面白いのは気まずさから不通が普通になってる父息子に対し、家族の女性陣には元から壁がなく、アキオの妹のミキが二人の間のメッセンジャーみたいになっていること。
これは微笑ましくもあるのだが、結構日本の家族あるあるじゃなかろうか。
アキオが「光のお父さん計画」を思いつくのは、遠い昔にほんの僅かだけ、一緒にファミコン時代の「FF」をプレイしていた時期があり、それが彼にとって数少ない父との思い出だから。
そして「一緒にゲームをクリアする」という、その時の約束が果たされなかったことが、アキオと父との間に溝ができた最初のきっかけ。
だから嘗ての父と同じサラリーマンとなった今、アキオが父と「FFXIV」に挑むのは、やり直しの再出発の意味もある。
ぶっちゃけ、話はどストレートで、オチまですぐに予想はついちゃうが、二人の細かなエピソードが、丁寧に親子の新しい関係を紡いでゆき、ゲーム内で親しくなればなるほど、本当のことをいつ明かすのか、アキオの葛藤がドラマに一本筋を通す。
アキオのサラリーマン生活を描くサブプロットも、いいアクセントとして機能していて、ドラマの緩急に大いに貢献。
どうやら広告代理店らしい、職場で繰り返される「シズル感」のフレーズには、ちょうど私も最近やった仕事で散々聞いた後だったから思わず苦笑。
作中かなりの比重を占める、ゲーム内の描写も良く出来ていて、エオルゼアの大地をプチ冒険。
「FF」なんて長いことやってないけど、これ観ると久々にプレイしたくなった。
しかし、この作品が成立するのは、ゲームが一般家庭に入ってきてから間もなく50年になろうとする歴史あってのこと。
本作のモチーフとなっている「FFXIV」の関係者はもちろんのこと、すべてのゲームクリエイターはこの作品を観たら、自分たちの成し遂げた結果に感慨無量なのではないだろうか。
スピルバーグは「レディ・プレイヤー1」で、虚構と現実は対立するのではなく、現実を生きるために虚構が必要だという肯定的なジンテーゼを導き出したが、本作の現実とゲームも同じ結論にたどり着く。
ちなみに坂口健太郎よりもだいぶ年上で、むしろ吉田鋼太郎に近い私が、父とゲームやった記憶が残っているのは、ファミコン以前のアタリの時代だったりする。
振り返ると、ゲームの世界はプラットフォームもタイトルも栄枯盛衰が激しかったな。
そんな中で30年以上人々を楽しませ続けているのだから、「ファイナルファンタジー」ってタイトルはやっぱり凄いわ。
今回は光のお父さんと飲みたいサラリーマンの酒、キリリと冷えた「ハイボール」をチョイス。
タンブラーに氷をたっぷり入れ、ウィスキー30ml、ソーダ90mlを注ぎ、マドラーで縦に一回混ぜる。
炭酸ガスが抜けてしまうので、何度もかき混ぜないこと。
梅雨時のムシムシする夜に飲むと、炭酸の喉越しが本当にスッキリとして気持ちいい。
アメリカ生まれだが、日本の気候にピッタリで大人気になったのも分かる。
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いやー、これは素晴らしい。
野口照夫監督以下、同一チームが手がけたTVドラマ版は未見、原作のブログ「一撃確殺SS日記」はまだ読んでいる途中だが、一本の劇映画として非常に良く出来ている。
吉田鋼太郎が好演する、仕事一筋で重役昇進を目前としていた父が、ある日突然会社を辞め、単身赴任先から抜け殻のようになって戻ってくる。
一体何があったのか、黙して語らない父に、家族は戸惑うばかり。
「この人が死んだ時、(自分も)泣いたりするのだろうか?」
自分が子供の頃から、何を考えているのか分からず、大人になった今も、ますます分からなくなった父の姿を見て、坂口健太郎演じる息子のアキオは、あるアイディアを思い付く。
趣味のオンラインゲーム、「ファイナルファンタジーXIV(FFXIV)」の世界に父を導き、息子であることを隠してフレンドとなり、何があったのか聞き出そうと言うのだ。
「FF」の世界では、プレイヤーを“光の戦士”と呼ぶことから、名付けて「光のお父さん計画」(笑
この種のオンオフ二重構造を持つ作品はもはや珍しくないが、韓国の「操作された都市」やスピルバーグの「レディ・プレイヤー1」など、海外作品だとサスペンやSF系が多い。
物理的にも精神的にも、本来一番近くにいるはずの家族同士の人間ドラマを、あえてこの設定でやろうという、逆説的なアイディアが秀逸だ。
元々実話のブログだから、ゲームを家族のコミュケーションツールにすることを考え付いた作者のマイディーさんが凄いのだが、ブログ記事の「光のお父さん計画」によると、彼の父は元々かなりのゲーマーだったそうで、ゲームの知識など80年代で止まっている吉田鋼太郎とはだいぶ違う印象。
TVドラマ版も手掛けた吹原幸太の脚色の、いい意味で日本の家族のステロタイプな設定と描写が絶妙な塩梅だ。
アバターで身元も知らない同士だからこそ、リアルな世界よりもホンネの人間関係が結べるというのは、思春期からは距離があって当たり前な父と息子ならではのものかも知れない。
面白いのは気まずさから不通が普通になってる父息子に対し、家族の女性陣には元から壁がなく、アキオの妹のミキが二人の間のメッセンジャーみたいになっていること。
これは微笑ましくもあるのだが、結構日本の家族あるあるじゃなかろうか。
アキオが「光のお父さん計画」を思いつくのは、遠い昔にほんの僅かだけ、一緒にファミコン時代の「FF」をプレイしていた時期があり、それが彼にとって数少ない父との思い出だから。
そして「一緒にゲームをクリアする」という、その時の約束が果たされなかったことが、アキオと父との間に溝ができた最初のきっかけ。
だから嘗ての父と同じサラリーマンとなった今、アキオが父と「FFXIV」に挑むのは、やり直しの再出発の意味もある。
ぶっちゃけ、話はどストレートで、オチまですぐに予想はついちゃうが、二人の細かなエピソードが、丁寧に親子の新しい関係を紡いでゆき、ゲーム内で親しくなればなるほど、本当のことをいつ明かすのか、アキオの葛藤がドラマに一本筋を通す。
アキオのサラリーマン生活を描くサブプロットも、いいアクセントとして機能していて、ドラマの緩急に大いに貢献。
どうやら広告代理店らしい、職場で繰り返される「シズル感」のフレーズには、ちょうど私も最近やった仕事で散々聞いた後だったから思わず苦笑。
作中かなりの比重を占める、ゲーム内の描写も良く出来ていて、エオルゼアの大地をプチ冒険。
「FF」なんて長いことやってないけど、これ観ると久々にプレイしたくなった。
しかし、この作品が成立するのは、ゲームが一般家庭に入ってきてから間もなく50年になろうとする歴史あってのこと。
本作のモチーフとなっている「FFXIV」の関係者はもちろんのこと、すべてのゲームクリエイターはこの作品を観たら、自分たちの成し遂げた結果に感慨無量なのではないだろうか。
スピルバーグは「レディ・プレイヤー1」で、虚構と現実は対立するのではなく、現実を生きるために虚構が必要だという肯定的なジンテーゼを導き出したが、本作の現実とゲームも同じ結論にたどり着く。
ちなみに坂口健太郎よりもだいぶ年上で、むしろ吉田鋼太郎に近い私が、父とゲームやった記憶が残っているのは、ファミコン以前のアタリの時代だったりする。
振り返ると、ゲームの世界はプラットフォームもタイトルも栄枯盛衰が激しかったな。
そんな中で30年以上人々を楽しませ続けているのだから、「ファイナルファンタジー」ってタイトルはやっぱり凄いわ。
今回は光のお父さんと飲みたいサラリーマンの酒、キリリと冷えた「ハイボール」をチョイス。
タンブラーに氷をたっぷり入れ、ウィスキー30ml、ソーダ90mlを注ぎ、マドラーで縦に一回混ぜる。
炭酸ガスが抜けてしまうので、何度もかき混ぜないこと。
梅雨時のムシムシする夜に飲むと、炭酸の喉越しが本当にスッキリとして気持ちいい。
アメリカ生まれだが、日本の気候にピッタリで大人気になったのも分かる。

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