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2019年08月29日 (木) | 編集 |
時代と街を巡る冒険。
久々のミッシェル・オスロ。
劇場用長編作品としては2006年の「アズールとアスマール」以来となるが、独特の映像センスは健在で、相変わらず素晴らしい。
ベルエポックの時代、南の島からフランスへとやってきた好奇心旺盛な少女ディリリが、正義感の強い青年オレルと共に、誘拐された少女たちを探してパリの街を冒険する。
芸術家や科学者、様々なジャンルの著名人が次々と登場し、観光名所から寂れた怪しいエリアまで、魅惑的な都市の風景を巡る旅は、邦題通りにちょっとした時間旅行。
これは巨匠オスロからパリへのラブレターであり、都市の持つ記憶を詰め込んだ愛すべき映画だが、浮かび上がるのはきれいごとだけではない非常に現在的、普遍的なテーマだ。
✳︎核心部分に触れています。
パリにやってきた少女ディリリ(ブリュネル・シャルル=アンブロン)は、パリっ子のオレル(エンゾ・ラツィト)と友だちになり、初めてのバカンスを楽しむ約束をして有頂天。
おりしもパリでは「男性支配団」と名乗る謎の組織によって、少女の誘拐事件が多発していて、ディリリも怪しい男に付きまとわれる。
そこで彼女は、配達人で顔の広いオレルが紹介してくれるパリの著名人と出会いながら、消えた少女たちの行方を探すことに。
二人は歌手のエマ・カルヴェ(ナタリー・デセイ)の協力を得て、男性支配団が地下の下水道を行き来していることを突き止め、彼らの宝石店の襲撃計画を阻止する。
男性支配団に一泡吹かせたお手柄は、新聞に大きく取り上げられ、一躍時の人となったディリリは彼らのターゲットになってしまうのだが・・・
劇中には、これが正確に何時の物語なのか言及がないのだが、史実と辻褄が合わない部分が出て来るので、あえて曖昧にしているのだと思う。
諸々の出来事や登場人物から推察するに、1890年代の終わりから1900年頃だろう。
19世紀が終わり、20世紀がやって来る、まさに時代の変わり目である。
主人公のディリリは、南太平洋にあるフランス海洋帝国の植民地、ニューカレドニア出身のカナック人の少女。
広い世界が見たくて船に忍び込み、親切な伯爵夫人の助けを借りてパリにやってきた。
流暢なフランス語は、ニューカレドニアに追放されていた無政府主義運動の先駆者、ルイーズ・ミシェルから学んだという。
無限の可能性を秘めたディリリは、少女誘拐事件の手がかりを求め、オレルの紹介してくれる様々な人と出会う。
キュリー夫人やパスツールといった世界を変えた科学者に、マティスやピカソら新進気鋭の画家、印象派の巨匠ルノアールやモネ、ロダンとカミーユ・クローデルのカップル。
映画「ショコラ 君がいて、僕がいる」にも描かれたピエロのショコラに、絡みはないもののショコラを現存するフィルムに収めたリュミエール兄弟もチラリと姿を見せる。
ドガに褒められて浮かれるロートレックとムーラン・ルージュに潜入し、オペラ座では歌姫エマ・カルヴェやドビュッシーと出会う。
ディリリは、綺羅星のごとき天才たちと触れ合うごとに刺激を受け、まだ見ぬ自分の未来を思い描いてゆくのである。
とても一回見ただけでは全員は把握できないが、登場する実在の著名人は100人を超えるという。
この時代のパリって、本当に世界の文化的な中心なんだな。
歴史上のオールスター総出演の楽しさは、“狂乱の20年代”への時間旅行を描いた、ウッディ・アレンの「ミッドナイト・イン・パリ」に通じるものがある。
しかし、これは単にパリの綺麗な部分、栄光の歴史だけを描く作品ではない。
煌びやかな芸術と科学が、より寛容で自由な世界を指向する人間の知性の象徴だとすれば、不寛容を指向する者たちの武器は暴力と抑圧だ。
「男性支配団」と言う分かりやすい悪の組織の名称が示唆する通り、全編を貫くのは病的なミソジニーとの戦いである。
映画が始まる前に、本作とコラボしたユニセフのCM 「女の子に未来を創造する力を」が流れるのだが、本編を見てから思い返すとなかなか刺さる。
CMの中でディリリは言う。
「女の子たちはみな、平和のなかで、自由に生き生きと過ごさなきゃ。わたしたちには、成長し、世界を探求し、安全に学ぶ権利があるのだから。女の子の好奇心は、制限されてはならないのです。」
これはまさに本作が導き出すジンテーゼであり、アンチテーゼである男性支配団は、誰もが自由に生きる世界を認めず、女性を人間扱いせず、男性の奴隷として支配する。
少女を誘拐するのも、大人の女性よりも従順でコントロールしやすいから。
イスラム国の蛮行に代表される、現在も世界中にはびこる女性に対する抑圧を、カリカチュアした様な悪の秘密結社だ。
メンバーは男性が中心だが、彼らの思想に染まって手先となった女性もいるのが皮肉。
もっとも、ミソジニーは前面に出ている要素ではあるものの、オスロが俎上に上げているのは、性に関わるイシューだけでなく、子供たちから未来を奪いとるあらゆる差別である。
衝撃的なのは本作のオープニングだ。
ニューカレドニアの伝統的な集落が映し出されると、そこでは半裸の家族が生活をしていて、ディリリも家事を手伝っている。
しかし、彼女の目線の先にいるのは、好奇の目で家族を見つめる多くの白人たちなのである。
ディリリは、植民地帝国の博覧会などで、19世紀から20世紀前半にかけて行われていた植民地先住民の展示、いわゆる「人間動物園」の出演者なのだ。
現在の目で見たらとんでもなく差別的な催しだが、彼女自身はそのことをあまり気にかけている様には見えない。
差別があまりにも普通のことになってしまうと、人々は差別していること、差別さていることすら気づかないのだ。
男性支配団のミソジニーは露骨過ぎるので、誰が見ても差別だと思うが、実際には反差別の出発点に過ぎないのである。
彼らの陰謀を挫くプロットも一捻りある。
ディリリとオレルが軸となるのはもちろんだが、一見すると差別主義者に見えるあるキャラクターが重要な役割を果たす。
口が悪く、植民地人のディリリを「猿」と罵る様な男なのだが、あることによって自分のその様な思想が行き着く先を見て恐ろしくなってしまい、一転して正しいことをしようと考えを改める。
彼は「世の中は不公平だ」という被害妄想からくる、ちょっと差別的な考えを持っていて、その実差別の本質を深く考えたことのない、世の中のマジョリティとしての“プチ差別主義者”の象徴であって、現在で言えば“トランプに投票した人たち”だ。
彼の様な人たちの変節と善意の覚醒こそが、差別を受ける少女たちを救うための、現実的なカギとなるのは流石の慧眼。
オスロ自身が4年かけて撮影したという、パリの写真から作られたリアルな背景の中で、独特のフラットデザインのCGのキャラクターが動き出すビジュアルは、作品世界と現実との地続き感を作り出す。
対照的に、ヴェルヌの小説を思わせる地下世界を進む鉄の船に、エッフェル塔に浮かぶ人力飛行船などの完全フィクション要素はアニメーションならではのワクワク感がいっぱい。
秘密のパリを巡る少女の冒険という点では、クリスチャン・デスマールとフランク・エキンジ監督による、2015年のアヌシー国際アニメーション映画祭グランプリ作品「アヴリルと奇妙な世界」と共通する要素が多いのも面白い。
もっとも、スチームパンクなパラレルワールドを舞台とした、スペクタクルなジブリオマージュ的冒険譚だったあの映画に比べれば、こっちはより現実的かつ適度に教育的だけど。
芸術と科学が融合して作られたアニメーション映画は、抑圧によって暗闇に閉じ込められた少女たちを、光と色彩で照らし出す。
ベルエポックの時代を背景に、75歳の巨匠ミッシェル・オスロが、時代や国籍を問わず今を生きる全ての少女たちに送る、センス・オブ・ワンダーに溢れたパワフルなエールである。
今回は「カフェ・ド・パリ」をチョイス。
ドライ・ジン45ml、アニゼット1tsp、生クリーム1tsp、卵白1個を、氷を入れたシェイカーでよくシェイクして、グラスに注ぐ。
名前とは違って、実はアメリカはニューヨーク生まれ。
辛口のジンとアニスの風味が個性を主張するが、生クリームと卵白のマイルドさがうまくまとめ上げている。
フワリとした泡立ちの雪の様な白さが印象的で、上品な味わいのカクテルだ。
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久々のミッシェル・オスロ。
劇場用長編作品としては2006年の「アズールとアスマール」以来となるが、独特の映像センスは健在で、相変わらず素晴らしい。
ベルエポックの時代、南の島からフランスへとやってきた好奇心旺盛な少女ディリリが、正義感の強い青年オレルと共に、誘拐された少女たちを探してパリの街を冒険する。
芸術家や科学者、様々なジャンルの著名人が次々と登場し、観光名所から寂れた怪しいエリアまで、魅惑的な都市の風景を巡る旅は、邦題通りにちょっとした時間旅行。
これは巨匠オスロからパリへのラブレターであり、都市の持つ記憶を詰め込んだ愛すべき映画だが、浮かび上がるのはきれいごとだけではない非常に現在的、普遍的なテーマだ。
✳︎核心部分に触れています。
パリにやってきた少女ディリリ(ブリュネル・シャルル=アンブロン)は、パリっ子のオレル(エンゾ・ラツィト)と友だちになり、初めてのバカンスを楽しむ約束をして有頂天。
おりしもパリでは「男性支配団」と名乗る謎の組織によって、少女の誘拐事件が多発していて、ディリリも怪しい男に付きまとわれる。
そこで彼女は、配達人で顔の広いオレルが紹介してくれるパリの著名人と出会いながら、消えた少女たちの行方を探すことに。
二人は歌手のエマ・カルヴェ(ナタリー・デセイ)の協力を得て、男性支配団が地下の下水道を行き来していることを突き止め、彼らの宝石店の襲撃計画を阻止する。
男性支配団に一泡吹かせたお手柄は、新聞に大きく取り上げられ、一躍時の人となったディリリは彼らのターゲットになってしまうのだが・・・
劇中には、これが正確に何時の物語なのか言及がないのだが、史実と辻褄が合わない部分が出て来るので、あえて曖昧にしているのだと思う。
諸々の出来事や登場人物から推察するに、1890年代の終わりから1900年頃だろう。
19世紀が終わり、20世紀がやって来る、まさに時代の変わり目である。
主人公のディリリは、南太平洋にあるフランス海洋帝国の植民地、ニューカレドニア出身のカナック人の少女。
広い世界が見たくて船に忍び込み、親切な伯爵夫人の助けを借りてパリにやってきた。
流暢なフランス語は、ニューカレドニアに追放されていた無政府主義運動の先駆者、ルイーズ・ミシェルから学んだという。
無限の可能性を秘めたディリリは、少女誘拐事件の手がかりを求め、オレルの紹介してくれる様々な人と出会う。
キュリー夫人やパスツールといった世界を変えた科学者に、マティスやピカソら新進気鋭の画家、印象派の巨匠ルノアールやモネ、ロダンとカミーユ・クローデルのカップル。
映画「ショコラ 君がいて、僕がいる」にも描かれたピエロのショコラに、絡みはないもののショコラを現存するフィルムに収めたリュミエール兄弟もチラリと姿を見せる。
ドガに褒められて浮かれるロートレックとムーラン・ルージュに潜入し、オペラ座では歌姫エマ・カルヴェやドビュッシーと出会う。
ディリリは、綺羅星のごとき天才たちと触れ合うごとに刺激を受け、まだ見ぬ自分の未来を思い描いてゆくのである。
とても一回見ただけでは全員は把握できないが、登場する実在の著名人は100人を超えるという。
この時代のパリって、本当に世界の文化的な中心なんだな。
歴史上のオールスター総出演の楽しさは、“狂乱の20年代”への時間旅行を描いた、ウッディ・アレンの「ミッドナイト・イン・パリ」に通じるものがある。
しかし、これは単にパリの綺麗な部分、栄光の歴史だけを描く作品ではない。
煌びやかな芸術と科学が、より寛容で自由な世界を指向する人間の知性の象徴だとすれば、不寛容を指向する者たちの武器は暴力と抑圧だ。
「男性支配団」と言う分かりやすい悪の組織の名称が示唆する通り、全編を貫くのは病的なミソジニーとの戦いである。
映画が始まる前に、本作とコラボしたユニセフのCM 「女の子に未来を創造する力を」が流れるのだが、本編を見てから思い返すとなかなか刺さる。
CMの中でディリリは言う。
「女の子たちはみな、平和のなかで、自由に生き生きと過ごさなきゃ。わたしたちには、成長し、世界を探求し、安全に学ぶ権利があるのだから。女の子の好奇心は、制限されてはならないのです。」
これはまさに本作が導き出すジンテーゼであり、アンチテーゼである男性支配団は、誰もが自由に生きる世界を認めず、女性を人間扱いせず、男性の奴隷として支配する。
少女を誘拐するのも、大人の女性よりも従順でコントロールしやすいから。
イスラム国の蛮行に代表される、現在も世界中にはびこる女性に対する抑圧を、カリカチュアした様な悪の秘密結社だ。
メンバーは男性が中心だが、彼らの思想に染まって手先となった女性もいるのが皮肉。
もっとも、ミソジニーは前面に出ている要素ではあるものの、オスロが俎上に上げているのは、性に関わるイシューだけでなく、子供たちから未来を奪いとるあらゆる差別である。
衝撃的なのは本作のオープニングだ。
ニューカレドニアの伝統的な集落が映し出されると、そこでは半裸の家族が生活をしていて、ディリリも家事を手伝っている。
しかし、彼女の目線の先にいるのは、好奇の目で家族を見つめる多くの白人たちなのである。
ディリリは、植民地帝国の博覧会などで、19世紀から20世紀前半にかけて行われていた植民地先住民の展示、いわゆる「人間動物園」の出演者なのだ。
現在の目で見たらとんでもなく差別的な催しだが、彼女自身はそのことをあまり気にかけている様には見えない。
差別があまりにも普通のことになってしまうと、人々は差別していること、差別さていることすら気づかないのだ。
男性支配団のミソジニーは露骨過ぎるので、誰が見ても差別だと思うが、実際には反差別の出発点に過ぎないのである。
彼らの陰謀を挫くプロットも一捻りある。
ディリリとオレルが軸となるのはもちろんだが、一見すると差別主義者に見えるあるキャラクターが重要な役割を果たす。
口が悪く、植民地人のディリリを「猿」と罵る様な男なのだが、あることによって自分のその様な思想が行き着く先を見て恐ろしくなってしまい、一転して正しいことをしようと考えを改める。
彼は「世の中は不公平だ」という被害妄想からくる、ちょっと差別的な考えを持っていて、その実差別の本質を深く考えたことのない、世の中のマジョリティとしての“プチ差別主義者”の象徴であって、現在で言えば“トランプに投票した人たち”だ。
彼の様な人たちの変節と善意の覚醒こそが、差別を受ける少女たちを救うための、現実的なカギとなるのは流石の慧眼。
オスロ自身が4年かけて撮影したという、パリの写真から作られたリアルな背景の中で、独特のフラットデザインのCGのキャラクターが動き出すビジュアルは、作品世界と現実との地続き感を作り出す。
対照的に、ヴェルヌの小説を思わせる地下世界を進む鉄の船に、エッフェル塔に浮かぶ人力飛行船などの完全フィクション要素はアニメーションならではのワクワク感がいっぱい。
秘密のパリを巡る少女の冒険という点では、クリスチャン・デスマールとフランク・エキンジ監督による、2015年のアヌシー国際アニメーション映画祭グランプリ作品「アヴリルと奇妙な世界」と共通する要素が多いのも面白い。
もっとも、スチームパンクなパラレルワールドを舞台とした、スペクタクルなジブリオマージュ的冒険譚だったあの映画に比べれば、こっちはより現実的かつ適度に教育的だけど。
芸術と科学が融合して作られたアニメーション映画は、抑圧によって暗闇に閉じ込められた少女たちを、光と色彩で照らし出す。
ベルエポックの時代を背景に、75歳の巨匠ミッシェル・オスロが、時代や国籍を問わず今を生きる全ての少女たちに送る、センス・オブ・ワンダーに溢れたパワフルなエールである。
今回は「カフェ・ド・パリ」をチョイス。
ドライ・ジン45ml、アニゼット1tsp、生クリーム1tsp、卵白1個を、氷を入れたシェイカーでよくシェイクして、グラスに注ぐ。
名前とは違って、実はアメリカはニューヨーク生まれ。
辛口のジンとアニスの風味が個性を主張するが、生クリームと卵白のマイルドさがうまくまとめ上げている。
フワリとした泡立ちの雪の様な白さが印象的で、上品な味わいのカクテルだ。

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2019年08月25日 (日) | 編集 |
ゾンビは家族を救う。
韓国発のゾンビ映画のバリエーションだが、これがなかなか面白い。
製薬会社の違法な実験で、被験者が仮死状態になった事件が世間を騒がしている中、ど田舎に住むいろいろ行き詰った家族が、実験施設を抜け出したゾンビ青年を捕まえ、“チョンビ”と名前をつけて飼い始める。
一応、お約束通りに人を襲おうとはするものの、どんくさ過ぎるチョンビはキャベツのケチャップかけにハマってしまい、ベジタリアンに。
さらに、普通はゾンビに噛まれた人もゾンビになっちゃうが、なぜかチョンビに噛まれると肉体的な若返り効果が出ることが分かり、一家はコレを田舎の老人相手のビジネスにして大儲け。
ひと噛みしてもらうと、髪は黒ぐろ、肌には張りが出て、あっちの方も元気になっちゃうのだ。
一家は儲けた金で本来の家業のガソリンスタンドを再開、一見すると順風満帆に見えるも、人の世では好事魔多し。
良かれと思ってはじめた“ビジネス”によって、とんでもない事態が急速に進行しつつあることを彼らは知らない。
主人公一家のキャラクターがいい。
トラブルメーカーで最初にチョンビに噛まれる祖父のマンドク、韓国映画ではお馴染みのドロップキックの達人で長男のジュンゴル、まるでチベットスナギツネの様な虚無の表情を浮かべる妊娠中の妻のナムジュに、お調子者でペテン師体質の次男ミンゴル、すぐにペットを死なせてしまう末娘のヘゴル。
そして一家の救世主となるチョンビ。
みんなどこかがぶっ壊れ、欲望剥き出しの歪な家族だが、なんとも言えない愛嬌があって憎めない。
人間がゾンビをペット化するのは、ジョージ・A・ロメロ師匠の「死霊のえじき」の人気キャラクター“バブ”の昔から珍しくないが、本作のゾンビ青年は何気に美形だったりして、末娘のヘゴルとの「ウォーム・ボディーズ」的な恋物語の要素も加わり、チョンビの存在もいつしか“ペット”から家族の末席に。
前半は突然現れたチョンビを軸とした、牧歌的でとぼけたシチュエーションコメディが続くが、そのままでは終わらない。
これはぜひ劇場で味わっていただきたいので詳細は割愛するが、中盤のある時点で映画はガラリと世界観を変え、本格的なゾンビパニック映画へと変貌するのだ。
前半と後半のコントラストの差が、本作を名作・怪作が目白押しのゾンビ映画の歴史の中でも特異な存在にしている。
韓国のゾンビ映画といえば、ヨン・サンホ監督の大傑作「新感染 ファイナル・エクスプレス」だが、本作の劇中にこの映画を観てゾンビ対策を考える描写があったり、そもそものゾンビ発生の原因が酷似していることなどオマージュ強し。
ただし、「新感染」のゾンビはザック・スナイダー系の全力疾走型ゾンビだったが、こちらはロメロ系のスローモーションなゾンビ。
両者のキャラクターの違いが、映画そのもののタッチとシンクロしているのも面白い。
田舎の高齢化、過疎化と同時に、格差拡大が進む韓国の社会問題を背景にしつつ、過去に作られたゾンビ映画の既視感のある要素を闇鍋的にぶち込み、最終的にムッチャ個性的な五人+愛しのゾンビ青年の、壊れかけた家族の再結束のドラマとして昇華。
これがデビュー作となった監督・脚本のイ・ミンジェは、定番の素材を意外性のある料理法で仕上げ、先の読めない展開で楽しませてくれる。
しかし、ゾンビ映画って本当に「やり尽くされる」ということがない。
国を問わず常に新しいアイディアが生まれてきて、死んでるくせにジャンルの新陳代謝がやたらと早い。
本作もまさかの切り口で見事なり!
ゾンビ映画には、やっぱり「ゾンビ」をチョイス。
ホワイトラム30ml、ゴールドラム30ml、ダークラム30ml、アプリコットブランデー15ml、オレンジジュース 20ml、パイナップルジュース 20ml、レモンジュース 10ml、グレナデンシロップ 10mlをシェイクして、氷を入れたゾンビグラス、別名コリンズグラスに注ぐ。
3種類のラムをチャンポンしているが、もともとは酔いを早めるために5種類ものラムを混ぜていたという。
飲んでるうちにゾンビ化する、恐ろしいカクテルだ。
記事が気に入ったらクリックしてね
韓国発のゾンビ映画のバリエーションだが、これがなかなか面白い。
製薬会社の違法な実験で、被験者が仮死状態になった事件が世間を騒がしている中、ど田舎に住むいろいろ行き詰った家族が、実験施設を抜け出したゾンビ青年を捕まえ、“チョンビ”と名前をつけて飼い始める。
一応、お約束通りに人を襲おうとはするものの、どんくさ過ぎるチョンビはキャベツのケチャップかけにハマってしまい、ベジタリアンに。
さらに、普通はゾンビに噛まれた人もゾンビになっちゃうが、なぜかチョンビに噛まれると肉体的な若返り効果が出ることが分かり、一家はコレを田舎の老人相手のビジネスにして大儲け。
ひと噛みしてもらうと、髪は黒ぐろ、肌には張りが出て、あっちの方も元気になっちゃうのだ。
一家は儲けた金で本来の家業のガソリンスタンドを再開、一見すると順風満帆に見えるも、人の世では好事魔多し。
良かれと思ってはじめた“ビジネス”によって、とんでもない事態が急速に進行しつつあることを彼らは知らない。
主人公一家のキャラクターがいい。
トラブルメーカーで最初にチョンビに噛まれる祖父のマンドク、韓国映画ではお馴染みのドロップキックの達人で長男のジュンゴル、まるでチベットスナギツネの様な虚無の表情を浮かべる妊娠中の妻のナムジュに、お調子者でペテン師体質の次男ミンゴル、すぐにペットを死なせてしまう末娘のヘゴル。
そして一家の救世主となるチョンビ。
みんなどこかがぶっ壊れ、欲望剥き出しの歪な家族だが、なんとも言えない愛嬌があって憎めない。
人間がゾンビをペット化するのは、ジョージ・A・ロメロ師匠の「死霊のえじき」の人気キャラクター“バブ”の昔から珍しくないが、本作のゾンビ青年は何気に美形だったりして、末娘のヘゴルとの「ウォーム・ボディーズ」的な恋物語の要素も加わり、チョンビの存在もいつしか“ペット”から家族の末席に。
前半は突然現れたチョンビを軸とした、牧歌的でとぼけたシチュエーションコメディが続くが、そのままでは終わらない。
これはぜひ劇場で味わっていただきたいので詳細は割愛するが、中盤のある時点で映画はガラリと世界観を変え、本格的なゾンビパニック映画へと変貌するのだ。
前半と後半のコントラストの差が、本作を名作・怪作が目白押しのゾンビ映画の歴史の中でも特異な存在にしている。
韓国のゾンビ映画といえば、ヨン・サンホ監督の大傑作「新感染 ファイナル・エクスプレス」だが、本作の劇中にこの映画を観てゾンビ対策を考える描写があったり、そもそものゾンビ発生の原因が酷似していることなどオマージュ強し。
ただし、「新感染」のゾンビはザック・スナイダー系の全力疾走型ゾンビだったが、こちらはロメロ系のスローモーションなゾンビ。
両者のキャラクターの違いが、映画そのもののタッチとシンクロしているのも面白い。
田舎の高齢化、過疎化と同時に、格差拡大が進む韓国の社会問題を背景にしつつ、過去に作られたゾンビ映画の既視感のある要素を闇鍋的にぶち込み、最終的にムッチャ個性的な五人+愛しのゾンビ青年の、壊れかけた家族の再結束のドラマとして昇華。
これがデビュー作となった監督・脚本のイ・ミンジェは、定番の素材を意外性のある料理法で仕上げ、先の読めない展開で楽しませてくれる。
しかし、ゾンビ映画って本当に「やり尽くされる」ということがない。
国を問わず常に新しいアイディアが生まれてきて、死んでるくせにジャンルの新陳代謝がやたらと早い。
本作もまさかの切り口で見事なり!
ゾンビ映画には、やっぱり「ゾンビ」をチョイス。
ホワイトラム30ml、ゴールドラム30ml、ダークラム30ml、アプリコットブランデー15ml、オレンジジュース 20ml、パイナップルジュース 20ml、レモンジュース 10ml、グレナデンシロップ 10mlをシェイクして、氷を入れたゾンビグラス、別名コリンズグラスに注ぐ。
3種類のラムをチャンポンしているが、もともとは酔いを早めるために5種類ものラムを混ぜていたという。
飲んでるうちにゾンビ化する、恐ろしいカクテルだ。



2019年08月20日 (火) | 編集 |
犬男の鬱屈。
「五日物語 ー3つの王国と3人の女ー」のマッテオ・ガローネによる、異色の心理スリラー。
イタリアの海辺にある寂れた町で、娘と犬を心から愛し、小さなペットサロン「ドッグマン」を経営するマルチェロという温厚な小男が主人公。
彼は商店街の仲間たちと食事やサッカーを楽しみ、良好な関係を築いている一方で、幼馴染の札付きのクズ、シモーネによって支配されている。
彼ら二人の関係を「大人になったのび太とジャイアンみたい」という感想をネットで何度か目にしたが、そんな生易しいもんじゃない。
マルチェロはシモーネを“友だち”だと信じているが、たぶん子供の頃から何十年も続いてる、絶対的な主従関係。
マルチェロを演じるマルチェロ・フォンテと、シモーネ役のエドアルド・ペーシェのルックスがいい。
チビでヤセ、甲高い声でいかにも弱そうなマルチェロと、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズのビフを思わせる筋肉質で巨漢のシモーネ。
一目見て、一方的な関係が感じ取れる。
もっとも、マルチェロはただ単に怯えて、シモーネの支配から逃れようとしている訳ではない。
どちらかといえば、自らシモーネに関わろうとしているフシもあるのだ。
小心者のくせにドラッグには手を出し、「お前の物は俺の物」とばかりにシモーネに奪われても、一緒に遊びに出かけ、シモーネが危機に陥ると積極的に助ける。
それはまるで、主君にとって「役に立つ存在でありたい」と願う臣下の兵士の様だ。
ジャイアンは確かにのび太をいじめるけど、のび太はジャイアンに支配されている訳ではない。
ドラえもんの助けなしでも時に反撃し、時には出し抜く賢さと独立性を持っている。
本作のマルチェロは、完全にシモーネの子分であって、ポジション的にはむしろスネ夫の金を持ってないバージョン、いやDV夫と別れられない妻の共依存の状態に近いんじゃないか。
ドラッグをぶんどられるのはまだ良い方で、とんでもない犯罪の片棒をかつがされて、罪をかぶって全てを失っても、まだ彼はシモーネを裏切れないのだ。
だがその間も、マルチェロの心の中には、危険な燃料が少しずつ溜まってゆく。
彼自身も気付いていない、小さな種火がずっと燻っているのだけど、見えない壁に遮られて、燃料には着火されないまま。
しかし、はけ口のないまま燃料が溜まり続ければ、いつかは壁は崩れ、大爆発を起こすだろう。
例によってガローネは、人間をとことん追い込むことに容赦無い。
物語のほとんどが、広場を中心とした狭い街の一角で進行する、箱庭的な閉塞した世界観。
逃げ場のない舞台で、タイトル通り主人公を従順な犬に比喩し、飼い主たるシモーネにいつ噛み付くのかの興味でグイグイ引っ張る。
内容は全然違うのだけど、追い詰められた先に迷い込む狂気は、ちょっと「ヒメアノ~ル」を思い出した。
もちろん特異な作劇ロジックを持っていたあの映画とは違って、こちらはストーリー的には奇を衒ったところはなく、ごくオーソドックスな展開。
最初から物語の行き着く先は分かっていたけど、それでも二人の男の危うい関係から目が離せない。
後味はとことん悪く、しかしかなり面白い怪作。
マルチェロにとって、これで問題は解決したのか?してないのか?
まさに、人を呪わば穴二つである。
今回は相当にビターな映画だったので、口直しにイタリアのフレッシュなレモンのリキュール「リモンチェッロ」をチョイス。
レモンの皮を蒸留酒に漬け込み、砂糖水などで甘みを加えたカンパニア州の名物で、今では様々な銘柄から発売されているが、元々は各家庭で作られていた。
飲み方はキンキンに冷やしたストレートがオススメだが、ソーダで割ってレモンサワー風にして飲んでも美味しい。
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「五日物語 ー3つの王国と3人の女ー」のマッテオ・ガローネによる、異色の心理スリラー。
イタリアの海辺にある寂れた町で、娘と犬を心から愛し、小さなペットサロン「ドッグマン」を経営するマルチェロという温厚な小男が主人公。
彼は商店街の仲間たちと食事やサッカーを楽しみ、良好な関係を築いている一方で、幼馴染の札付きのクズ、シモーネによって支配されている。
彼ら二人の関係を「大人になったのび太とジャイアンみたい」という感想をネットで何度か目にしたが、そんな生易しいもんじゃない。
マルチェロはシモーネを“友だち”だと信じているが、たぶん子供の頃から何十年も続いてる、絶対的な主従関係。
マルチェロを演じるマルチェロ・フォンテと、シモーネ役のエドアルド・ペーシェのルックスがいい。
チビでヤセ、甲高い声でいかにも弱そうなマルチェロと、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズのビフを思わせる筋肉質で巨漢のシモーネ。
一目見て、一方的な関係が感じ取れる。
もっとも、マルチェロはただ単に怯えて、シモーネの支配から逃れようとしている訳ではない。
どちらかといえば、自らシモーネに関わろうとしているフシもあるのだ。
小心者のくせにドラッグには手を出し、「お前の物は俺の物」とばかりにシモーネに奪われても、一緒に遊びに出かけ、シモーネが危機に陥ると積極的に助ける。
それはまるで、主君にとって「役に立つ存在でありたい」と願う臣下の兵士の様だ。
ジャイアンは確かにのび太をいじめるけど、のび太はジャイアンに支配されている訳ではない。
ドラえもんの助けなしでも時に反撃し、時には出し抜く賢さと独立性を持っている。
本作のマルチェロは、完全にシモーネの子分であって、ポジション的にはむしろスネ夫の金を持ってないバージョン、いやDV夫と別れられない妻の共依存の状態に近いんじゃないか。
ドラッグをぶんどられるのはまだ良い方で、とんでもない犯罪の片棒をかつがされて、罪をかぶって全てを失っても、まだ彼はシモーネを裏切れないのだ。
だがその間も、マルチェロの心の中には、危険な燃料が少しずつ溜まってゆく。
彼自身も気付いていない、小さな種火がずっと燻っているのだけど、見えない壁に遮られて、燃料には着火されないまま。
しかし、はけ口のないまま燃料が溜まり続ければ、いつかは壁は崩れ、大爆発を起こすだろう。
例によってガローネは、人間をとことん追い込むことに容赦無い。
物語のほとんどが、広場を中心とした狭い街の一角で進行する、箱庭的な閉塞した世界観。
逃げ場のない舞台で、タイトル通り主人公を従順な犬に比喩し、飼い主たるシモーネにいつ噛み付くのかの興味でグイグイ引っ張る。
内容は全然違うのだけど、追い詰められた先に迷い込む狂気は、ちょっと「ヒメアノ~ル」を思い出した。
もちろん特異な作劇ロジックを持っていたあの映画とは違って、こちらはストーリー的には奇を衒ったところはなく、ごくオーソドックスな展開。
最初から物語の行き着く先は分かっていたけど、それでも二人の男の危うい関係から目が離せない。
後味はとことん悪く、しかしかなり面白い怪作。
マルチェロにとって、これで問題は解決したのか?してないのか?
まさに、人を呪わば穴二つである。
今回は相当にビターな映画だったので、口直しにイタリアのフレッシュなレモンのリキュール「リモンチェッロ」をチョイス。
レモンの皮を蒸留酒に漬け込み、砂糖水などで甘みを加えたカンパニア州の名物で、今では様々な銘柄から発売されているが、元々は各家庭で作られていた。
飲み方はキンキンに冷やしたストレートがオススメだが、ソーダで割ってレモンサワー風にして飲んでも美味しい。



2019年08月16日 (金) | 編集 |
フレンチテイストの、恐怖のミルフィーユ。
舞台はアメリカの田舎町。
人里離れた叔母の家を相続し、そこへ移り住むことにしたシングルマザーのポリーンと、外見はあまり似てない双子の姉妹、ベスとヴェラ。
ヴェラは活発な今時の娘だが、内向的で作家志望のベスは、ラブクラフトを信奉するホラー小説マニア。
正反対の性格の姉妹はお互いを疎ましく思っている。
引っ越してきた日の夜、一家は押し入ってきた二人の暴漢に襲われ、ポリーンは愛する娘たちを守るため、傷つきながらも暴漢に立ち向かい、ナイフで滅多刺しにして返り討ちに。
それから16年後、ベスは望み通りに小説家として成功し、愛する夫と息子と共にシカゴに暮らしている。
ところがある日、事件で心を病んでしまい、今も母親と共にあの家で暮らすヴェラから「助けて」と電話がかかってきて、心配になったベスが帰省を決意したことで、恐怖の第二章の幕が上がる。
✳︎ネタバレはなるべく避けてますが、観てから読むことをお勧めします。
フランスのホラー者、パスカル・ロジェのベストだ。
女性二人が軸となること、彼女たちが徹底的に虐待されることなど、全体的に出世作となった「マーターズ」と共通する要素が多い。
なので、何かと議論の多いあの映画で、胸くそ悪くなってしまった人は、こちらも受け入れられない可能性が高い。
だが、本作で注目すべきなのは、残酷性よりも凝りに凝ったストーリーだ。
これは本作の核心なので詳細は自粛するが、登場人物のキャラクター設定をはじめ、巧みなミスリードで観客を誘導するプロットのロジック、細やかに配置された伏線など、細部まで緻密に作り込まれていて驚かされた。
姉妹の感情の軋轢を起点として、最終的なテーマに落とし込むまできっちり計算されている。
主人公ベスが、ラブクラフト大好きなホラーマニアであり、自らも小説を書いている創作者なのがポイント。
この作者の分身とも言うべきキャラクターを通して、ロジェはホラー者として考えるうる最悪の体験と、“恐怖からの脱出法”をシミュレートしてみせるのである。
この辺りのアプローチは、何気に最近の流行りでもあるのだが、このジャンルでやったのが新しいと言えるだろう。
もちろん、ホラー指数も非常に高いが、これも優れた物語によって増幅されている。
ありがちな作品の様に一本調子にならず、変幻自在なストーリーテリングによって、予想もしないところから恐怖が飛び出してくる。
女装の怪人とハゲ頭の巨漢という、怪物的インパクトのある男たちに襲われる序盤の展開から、中盤の世界がジワジワと少しずつ狂ってゆくオカルト的演出に、嘗てのトビー・フーパーを思わせるニューシネマ的なド迫力のバイオレンスサバイバルまで、わずか91分の尺しかないのに、まるでミルフィーユのように、ページをめくる毎に色々なホラーの味を堪能できる。
逆に言えば、全体が引き締まっていて全くダレる部分が無い。
舞台となる気持ち悪いアンティーク人形だらけの屋敷の美術など、ムードを高めるディテールも豊か。
怖くて面白い、納涼ホラー快作だ。
10代のベスを演じる役者さんが、どこかで見たことあると思ったら、「ブリムストーン」でダコタ・ファニングの少女時代を演じたエミリア・ジョーンズじゃないか。
髪を黒くしていたので最初は分からなかったが、この人はとても上手い。
ところでこれ、チラシのあらすじの最後の行が、思いっきりネタバレしてるんで注意。
あの決定的な言葉を入れちゃうとか、宣伝部何考えてるのかなあ。
今回は「輸血」を意味するカクテル「ブラッド・トランスフュージョン」をチョイス。
ホワイト・ラム30ml、ライム・ジュース30ml、グレナデン・シロップ1tspをシェイクし、グラスに注ぐ。
血のような赤というよりも、ピンクに近い優しい色。
ラムの甘い香りと、ライムのフレッシュさのコンビネーションが絶妙。
グレナデン・シロップのほのかな甘みがいいアクセントだ。
記事が気に入ったらクリックしてね
舞台はアメリカの田舎町。
人里離れた叔母の家を相続し、そこへ移り住むことにしたシングルマザーのポリーンと、外見はあまり似てない双子の姉妹、ベスとヴェラ。
ヴェラは活発な今時の娘だが、内向的で作家志望のベスは、ラブクラフトを信奉するホラー小説マニア。
正反対の性格の姉妹はお互いを疎ましく思っている。
引っ越してきた日の夜、一家は押し入ってきた二人の暴漢に襲われ、ポリーンは愛する娘たちを守るため、傷つきながらも暴漢に立ち向かい、ナイフで滅多刺しにして返り討ちに。
それから16年後、ベスは望み通りに小説家として成功し、愛する夫と息子と共にシカゴに暮らしている。
ところがある日、事件で心を病んでしまい、今も母親と共にあの家で暮らすヴェラから「助けて」と電話がかかってきて、心配になったベスが帰省を決意したことで、恐怖の第二章の幕が上がる。
✳︎ネタバレはなるべく避けてますが、観てから読むことをお勧めします。
フランスのホラー者、パスカル・ロジェのベストだ。
女性二人が軸となること、彼女たちが徹底的に虐待されることなど、全体的に出世作となった「マーターズ」と共通する要素が多い。
なので、何かと議論の多いあの映画で、胸くそ悪くなってしまった人は、こちらも受け入れられない可能性が高い。
だが、本作で注目すべきなのは、残酷性よりも凝りに凝ったストーリーだ。
これは本作の核心なので詳細は自粛するが、登場人物のキャラクター設定をはじめ、巧みなミスリードで観客を誘導するプロットのロジック、細やかに配置された伏線など、細部まで緻密に作り込まれていて驚かされた。
姉妹の感情の軋轢を起点として、最終的なテーマに落とし込むまできっちり計算されている。
主人公ベスが、ラブクラフト大好きなホラーマニアであり、自らも小説を書いている創作者なのがポイント。
この作者の分身とも言うべきキャラクターを通して、ロジェはホラー者として考えるうる最悪の体験と、“恐怖からの脱出法”をシミュレートしてみせるのである。
この辺りのアプローチは、何気に最近の流行りでもあるのだが、このジャンルでやったのが新しいと言えるだろう。
もちろん、ホラー指数も非常に高いが、これも優れた物語によって増幅されている。
ありがちな作品の様に一本調子にならず、変幻自在なストーリーテリングによって、予想もしないところから恐怖が飛び出してくる。
女装の怪人とハゲ頭の巨漢という、怪物的インパクトのある男たちに襲われる序盤の展開から、中盤の世界がジワジワと少しずつ狂ってゆくオカルト的演出に、嘗てのトビー・フーパーを思わせるニューシネマ的なド迫力のバイオレンスサバイバルまで、わずか91分の尺しかないのに、まるでミルフィーユのように、ページをめくる毎に色々なホラーの味を堪能できる。
逆に言えば、全体が引き締まっていて全くダレる部分が無い。
舞台となる気持ち悪いアンティーク人形だらけの屋敷の美術など、ムードを高めるディテールも豊か。
怖くて面白い、納涼ホラー快作だ。
10代のベスを演じる役者さんが、どこかで見たことあると思ったら、「ブリムストーン」でダコタ・ファニングの少女時代を演じたエミリア・ジョーンズじゃないか。
髪を黒くしていたので最初は分からなかったが、この人はとても上手い。
ところでこれ、チラシのあらすじの最後の行が、思いっきりネタバレしてるんで注意。
あの決定的な言葉を入れちゃうとか、宣伝部何考えてるのかなあ。
今回は「輸血」を意味するカクテル「ブラッド・トランスフュージョン」をチョイス。
ホワイト・ラム30ml、ライム・ジュース30ml、グレナデン・シロップ1tspをシェイクし、グラスに注ぐ。
血のような赤というよりも、ピンクに近い優しい色。
ラムの甘い香りと、ライムのフレッシュさのコンビネーションが絶妙。
グレナデン・シロップのほのかな甘みがいいアクセントだ。



2019年08月11日 (日) | 編集 |
ノブレス・オブリージュの目覚め。
アフリカの大地に生まれたライオンの子が、運命と戦いながら遂に王となるまでを描き、アニメーション映画史上、空前の大ヒット作となった「ライオン・キング」の四半世紀ぶりとなるリメイク。
この時代のディズニー作品としては珍しい、完全オリジナルのストーリーは今見ても全く古びていないが、一連の実写リメイクと一緒にするのは間違いだ。
ディズニーの宣伝部に言わせると、これは「超実写版」なのだそうだが、本作で「実写」の映像が使われているのは、サバンナに昇る朝日をとらえたファーストショットのみ。
あとは全編コンピュータによって作り出された、3DCGアニメーション映画である。
ジョン・ファヴロー監督は、同じく3DCGによってディズニーの名作アニメーションを蘇られせた「ジャングル・ブック」に続いて、素晴らしくフォトジェニックでスペクタクルな快作を作り上げた。
大ヒット中の「トイ・ストーリー4」や「天気の子」を含め、結構クセの強い作品が揃った今年の夏休み映画興行の中にあって、まさに万人が楽しめるファミリームービーの決定版だ。
サバンナの王国「プライド・ランド」の王ムファサ(ジェームズ・アール・ジョーンズ)に息子が生まれる。
シンバ(ドナルド・グローヴァー)と名付けられた未来の王はスクスクと育ち、イタズラ盛りの年齢に。
しかし、王位を狙う叔父のスカー(キウェテル・イジョフォー)の陰謀により、ムファサは殺されシンバは自分のせいで父が死んだと思い込み、自ら王国を後にする。
ミーアキャットのティモン(ビリー・アイクナー)とイボイノシシのプンバァ(セス・ローゲン)に拾われたシンバは、故郷を離れたジャングルで新たな仲間たちと共に成長してゆく。
そんなある日、プンヴァが雌ライオンに襲われ、シンバが間に入って助けたところ、彼女は幼馴染のナラ(ビヨンセ・ノウルズ)で、スカーの統治によって荒廃したプライド・ランドから助けを求めに来たと言う。
再び王となる運命と出会ったシンバは、自分の犯した過去の「罪」と向き合い、スカーと対決する決意を固める・・・
「ライオン・キング」というと、オリジナルの公開当時から手塚治虫の「ジャングル大帝」からのパクリ疑惑が囁かれているが、私はこの二作がそれほど似ているとは思わない。
確かにどちらの主人公もライオンで、世代を超えた魂の継承の物語であり、「ライオン・キング」には「ジャングル大帝」からのインスパイアと思しきディティールは多々あるので、ディズニーのオフィシャルな見解である、「存在を知らなかった」というのは無理があるだろう。
しかし決定的に異なっているのは、「ライオン・キング」が神話的な構造を持つ貴種流離譚であると同時に、シェイクスピア的な宮廷劇であり、基本的にはシンバの内面の葛藤の物語であるのに対し、「ジャングル大帝」は動物たちと、アフリカの開発を進める人間たちの軋轢が生み出す物語だということだ。
これはむしろ、(著作権的には現在ではアウトながら)手塚治虫自身もしばしば自作に登場させている「ターザン」に近い。
二本は、物語の話型もテーマも全く違う、似て非なる作品なのである。
人間と関わるうちに、どんどん動物の人間化が進行した「ジャングル大帝」とは異なり、本作では人間などこの世界に存在しないかのごとく、動物たちだけの物語となっており、彼らの生態もより現実に近い。
そもそもライオンはジャングルではなくサバンナの生き物だし、基本単独で行動するネコ科では珍しく、一頭の雄を中心にしたプライドと呼ばれる群れを形成する。
そのテリトリーはおおよそ250平方キロメートル(山手線の内側の面積の4倍!)におよぶと言われ、これが本作でムファサが支配する「プライド・ランド」の王国だ。
プライドの雄はボスを含めて2、3頭、雌は多くの場合10頭から15頭で、狩をするのは雌の仕事だが、獲物はまず雄が食う。
若い雄が群れから離れると、単独行動する場合もあり、生態系でのライバルはハイエナと、本作のライオンの生態描写はかなり現実に近いものになっているのが分かる。
この辺りのディテールは、オリジナルから受け継がれた部分もあれば、本作で強化された部分もあるが、ディズニーの手描きアニメーションのリメイク作品群の中では、一番オリジナルに忠実なのではないか。
懐かしのディズニーロゴから、名曲「Circle Of Life」で幕をあける冒頭シークエンスは、カメラワークや編集まで踏襲されており、オリジナルを強く意識した描写は全編に見られる。
とは言え、表現手法が違うのだから、作品としての印象はかなり異なる。
手描きアニメーションならではのキャラクターの豊かな表情や、ディフォルメされたギャグなどのオリジナルの要素は、動物たちが非常に写実的になったことで失われた。
だが、これまでのディズニー/ピクサーのCGアニメーション作品とは、明確に一線を画するフォトリアリスティックな映像が作り出す美しい世界と、圧倒的なキャラクターの実在感が、失った要素を補って余りある。
本当に動物が喋って演技している様な感覚は、「超実写版」と言いたくなるのも分からないではないし、サバンナからジャングルまで、その場の匂いや湿度まで感じられそうな、ネイチャー・ドキュメンタリー顔負けのリアリティは特筆に値する。
他のリメイク作と異なるのは、主人公の心情がほとんど掘り下げられていないことだが、これは元々ノブレス・オブリージュとハクナマタタ(なんとでもなる)の精神をめぐる、自己の内面での葛藤の話で、オリジナルの時点で十分に描かれていたから問題はない。
全体を通しても、丸ごと足し引きされた部分は殆ど無いが、それでもいくつかの重要な改変が加えられている。
特に印象的なエピソードは二つ。
一つ目は、シンバが去った後、スカーの統治下での雌ライオンたちの暮らしを描く部分。
ムファサの妃だったサラビは、スカーから再婚を迫られていて、雌たちはスカーのセクハラ・パワハラと配下のハイエナたちによって抑圧されている。
オリジナルでは、ナラが遠く離れたジャングルまで単独で来た動機が曖昧だったが、本作ではスカーの横暴に耐えかねて仲間に黙って故郷を脱出し、助けになる存在を求めて当て所なく旅をしていたことが明らかになる。
自らの未来のために行動するキャラクターは、いかにも21世紀的なディズニーヒロイン像。
もう一点は、ヒヒの呪術師ラフィキが、死んだと思われていたシンバが生きていることを知るエピソード。
オリジナルでは、シンバのいるジャングルからサバンナまで漂って来たタンポポの綿毛の様な花の種を、偶然ラフィキが捕まえて、占いによってシンバが生きていることを確信するのだが、ぐっとリアルになった世界観ではちょっと無理のある描写。
本作では、抜け落ちたシンバのたてがみの一部が鳥の巣の材料になり、そこから落ちて木に引っかかってキリンに食べられフンとなり、今度はフンコロガシに転がされ、フンが壊れるとアリに木の葉と間違えられて運ばれて、遂にラフィキの目に留まる。
真の王の生存を伝える命のリレーは、シンバとラフィキの間にある特別な絆を感じさせつつ、大型哺乳類から極小の昆虫まで、アフリカの豊かな生態系、まさに「Circle Of Life」を可視化した秀逸な改変だった。
全体的に、オリジナルよりも擬人化要素が減らされているので、今回のラフィキは魔法使いみたいな杖は持ってないんだと思っていたら、意外なところで出してくるのも、オリジナルのファンとしては最高にアガる。
88分から119分と30分以上伸びた尺は、その多くがアクション描写の拡充に費やされていて、特にクライマックスのシンバvsスカーの巨大な雄ライオン同士の決闘は、まるで怪獣映画を観ている様など迫力。
燃え盛る炎を背景とした、奥行感のある絵画的な美しさは圧巻だ。
おそらくファヴローには、「ジャングル・ブック」の成功体験によって、本作をどう作るべきか道筋が見えたのだろう。
実写を超えるほどにフォトリアリスティックなビジュアルは、物語にフィクションを超えた説得力をもたらす。
写実的なCGアニメーションというアプローチは、過去にもいくつか例があるが必ずしも成功したとは言えず、この種のCG技術は実写のVFXでこそ生きるという“常識”があった。
しかし人間の俳優が登場せず、実質CGキャラクターだけで成立させた本作は、CGアニメーションの歴史に確実に新しい可能性を切り開いたと言えるだろう。
単に名作映画の成功したリメイクというだけでなく、映像技術の歴史の点でもエポックな作品である。
本作ではそれほど色は濃くなかったが、オリジナルのシンバのたてがみは燃えるような赤。
なので今回は「レッド・ライオン」をチョイス。
ドライ・ジン20ml、オレンジ・キュラソー20ml、オレンジ・ジュース10ml、レモン・ジュース10mlをシェイクし、グラスに注ぐ。
色は赤というか黄色だが、柑橘系の香りがふわりと広がり、オレンジの甘さとジンの清涼感が絶妙にバランスする洗練された味わい。
1933年にロンドンで開催されたカクテル・コンペティションの受賞作。
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アフリカの大地に生まれたライオンの子が、運命と戦いながら遂に王となるまでを描き、アニメーション映画史上、空前の大ヒット作となった「ライオン・キング」の四半世紀ぶりとなるリメイク。
この時代のディズニー作品としては珍しい、完全オリジナルのストーリーは今見ても全く古びていないが、一連の実写リメイクと一緒にするのは間違いだ。
ディズニーの宣伝部に言わせると、これは「超実写版」なのだそうだが、本作で「実写」の映像が使われているのは、サバンナに昇る朝日をとらえたファーストショットのみ。
あとは全編コンピュータによって作り出された、3DCGアニメーション映画である。
ジョン・ファヴロー監督は、同じく3DCGによってディズニーの名作アニメーションを蘇られせた「ジャングル・ブック」に続いて、素晴らしくフォトジェニックでスペクタクルな快作を作り上げた。
大ヒット中の「トイ・ストーリー4」や「天気の子」を含め、結構クセの強い作品が揃った今年の夏休み映画興行の中にあって、まさに万人が楽しめるファミリームービーの決定版だ。
サバンナの王国「プライド・ランド」の王ムファサ(ジェームズ・アール・ジョーンズ)に息子が生まれる。
シンバ(ドナルド・グローヴァー)と名付けられた未来の王はスクスクと育ち、イタズラ盛りの年齢に。
しかし、王位を狙う叔父のスカー(キウェテル・イジョフォー)の陰謀により、ムファサは殺されシンバは自分のせいで父が死んだと思い込み、自ら王国を後にする。
ミーアキャットのティモン(ビリー・アイクナー)とイボイノシシのプンバァ(セス・ローゲン)に拾われたシンバは、故郷を離れたジャングルで新たな仲間たちと共に成長してゆく。
そんなある日、プンヴァが雌ライオンに襲われ、シンバが間に入って助けたところ、彼女は幼馴染のナラ(ビヨンセ・ノウルズ)で、スカーの統治によって荒廃したプライド・ランドから助けを求めに来たと言う。
再び王となる運命と出会ったシンバは、自分の犯した過去の「罪」と向き合い、スカーと対決する決意を固める・・・
「ライオン・キング」というと、オリジナルの公開当時から手塚治虫の「ジャングル大帝」からのパクリ疑惑が囁かれているが、私はこの二作がそれほど似ているとは思わない。
確かにどちらの主人公もライオンで、世代を超えた魂の継承の物語であり、「ライオン・キング」には「ジャングル大帝」からのインスパイアと思しきディティールは多々あるので、ディズニーのオフィシャルな見解である、「存在を知らなかった」というのは無理があるだろう。
しかし決定的に異なっているのは、「ライオン・キング」が神話的な構造を持つ貴種流離譚であると同時に、シェイクスピア的な宮廷劇であり、基本的にはシンバの内面の葛藤の物語であるのに対し、「ジャングル大帝」は動物たちと、アフリカの開発を進める人間たちの軋轢が生み出す物語だということだ。
これはむしろ、(著作権的には現在ではアウトながら)手塚治虫自身もしばしば自作に登場させている「ターザン」に近い。
二本は、物語の話型もテーマも全く違う、似て非なる作品なのである。
人間と関わるうちに、どんどん動物の人間化が進行した「ジャングル大帝」とは異なり、本作では人間などこの世界に存在しないかのごとく、動物たちだけの物語となっており、彼らの生態もより現実に近い。
そもそもライオンはジャングルではなくサバンナの生き物だし、基本単独で行動するネコ科では珍しく、一頭の雄を中心にしたプライドと呼ばれる群れを形成する。
そのテリトリーはおおよそ250平方キロメートル(山手線の内側の面積の4倍!)におよぶと言われ、これが本作でムファサが支配する「プライド・ランド」の王国だ。
プライドの雄はボスを含めて2、3頭、雌は多くの場合10頭から15頭で、狩をするのは雌の仕事だが、獲物はまず雄が食う。
若い雄が群れから離れると、単独行動する場合もあり、生態系でのライバルはハイエナと、本作のライオンの生態描写はかなり現実に近いものになっているのが分かる。
この辺りのディテールは、オリジナルから受け継がれた部分もあれば、本作で強化された部分もあるが、ディズニーの手描きアニメーションのリメイク作品群の中では、一番オリジナルに忠実なのではないか。
懐かしのディズニーロゴから、名曲「Circle Of Life」で幕をあける冒頭シークエンスは、カメラワークや編集まで踏襲されており、オリジナルを強く意識した描写は全編に見られる。
とは言え、表現手法が違うのだから、作品としての印象はかなり異なる。
手描きアニメーションならではのキャラクターの豊かな表情や、ディフォルメされたギャグなどのオリジナルの要素は、動物たちが非常に写実的になったことで失われた。
だが、これまでのディズニー/ピクサーのCGアニメーション作品とは、明確に一線を画するフォトリアリスティックな映像が作り出す美しい世界と、圧倒的なキャラクターの実在感が、失った要素を補って余りある。
本当に動物が喋って演技している様な感覚は、「超実写版」と言いたくなるのも分からないではないし、サバンナからジャングルまで、その場の匂いや湿度まで感じられそうな、ネイチャー・ドキュメンタリー顔負けのリアリティは特筆に値する。
他のリメイク作と異なるのは、主人公の心情がほとんど掘り下げられていないことだが、これは元々ノブレス・オブリージュとハクナマタタ(なんとでもなる)の精神をめぐる、自己の内面での葛藤の話で、オリジナルの時点で十分に描かれていたから問題はない。
全体を通しても、丸ごと足し引きされた部分は殆ど無いが、それでもいくつかの重要な改変が加えられている。
特に印象的なエピソードは二つ。
一つ目は、シンバが去った後、スカーの統治下での雌ライオンたちの暮らしを描く部分。
ムファサの妃だったサラビは、スカーから再婚を迫られていて、雌たちはスカーのセクハラ・パワハラと配下のハイエナたちによって抑圧されている。
オリジナルでは、ナラが遠く離れたジャングルまで単独で来た動機が曖昧だったが、本作ではスカーの横暴に耐えかねて仲間に黙って故郷を脱出し、助けになる存在を求めて当て所なく旅をしていたことが明らかになる。
自らの未来のために行動するキャラクターは、いかにも21世紀的なディズニーヒロイン像。
もう一点は、ヒヒの呪術師ラフィキが、死んだと思われていたシンバが生きていることを知るエピソード。
オリジナルでは、シンバのいるジャングルからサバンナまで漂って来たタンポポの綿毛の様な花の種を、偶然ラフィキが捕まえて、占いによってシンバが生きていることを確信するのだが、ぐっとリアルになった世界観ではちょっと無理のある描写。
本作では、抜け落ちたシンバのたてがみの一部が鳥の巣の材料になり、そこから落ちて木に引っかかってキリンに食べられフンとなり、今度はフンコロガシに転がされ、フンが壊れるとアリに木の葉と間違えられて運ばれて、遂にラフィキの目に留まる。
真の王の生存を伝える命のリレーは、シンバとラフィキの間にある特別な絆を感じさせつつ、大型哺乳類から極小の昆虫まで、アフリカの豊かな生態系、まさに「Circle Of Life」を可視化した秀逸な改変だった。
全体的に、オリジナルよりも擬人化要素が減らされているので、今回のラフィキは魔法使いみたいな杖は持ってないんだと思っていたら、意外なところで出してくるのも、オリジナルのファンとしては最高にアガる。
88分から119分と30分以上伸びた尺は、その多くがアクション描写の拡充に費やされていて、特にクライマックスのシンバvsスカーの巨大な雄ライオン同士の決闘は、まるで怪獣映画を観ている様など迫力。
燃え盛る炎を背景とした、奥行感のある絵画的な美しさは圧巻だ。
おそらくファヴローには、「ジャングル・ブック」の成功体験によって、本作をどう作るべきか道筋が見えたのだろう。
実写を超えるほどにフォトリアリスティックなビジュアルは、物語にフィクションを超えた説得力をもたらす。
写実的なCGアニメーションというアプローチは、過去にもいくつか例があるが必ずしも成功したとは言えず、この種のCG技術は実写のVFXでこそ生きるという“常識”があった。
しかし人間の俳優が登場せず、実質CGキャラクターだけで成立させた本作は、CGアニメーションの歴史に確実に新しい可能性を切り開いたと言えるだろう。
単に名作映画の成功したリメイクというだけでなく、映像技術の歴史の点でもエポックな作品である。
本作ではそれほど色は濃くなかったが、オリジナルのシンバのたてがみは燃えるような赤。
なので今回は「レッド・ライオン」をチョイス。
ドライ・ジン20ml、オレンジ・キュラソー20ml、オレンジ・ジュース10ml、レモン・ジュース10mlをシェイクし、グラスに注ぐ。
色は赤というか黄色だが、柑橘系の香りがふわりと広がり、オレンジの甘さとジンの清涼感が絶妙にバランスする洗練された味わい。
1933年にロンドンで開催されたカクテル・コンペティションの受賞作。



2019年08月09日 (金) | 編集 |
隣は何をする人ぞ。
フレンチ・カナダ出身のフランソワ・シマール、アヌーク・ウィッセル、ヨアン=カール・ウィッセルによる、男女3人の映像ユニット「RKSS (Roadkill Superstar)」の長編第二作。
長編デビュー作の「ターボキッド」の様な、過激な趣味性を適度に抑えつつ、これはなかなか良い仕上がりだ。
1984年の夏、オレゴン州の郊外の町イプスウィッチで暮らす15歳の少年デイビーは、向かいの家に住む警察官マッキーが、近隣で13人の少年を殺害し、世間を騒がせている連続殺人鬼“ケープメイ・スレイヤー”ではないかと疑いを抱く。
彼は近所の仲の良い友達たちに、この考えを打ち明けるが、デイビーが陰謀論や都市伝説大好き少年だったことから、最初は信じてもらえない。
しかし、最後に行方不明になった犠牲者の姿を、デイビーがマッキーの家で目撃したことから、彼らは密かにマッキーを監視し、証拠を探し始めるのだ。
アメリカの7、80年代は、サバーブ(郊外)の時代と呼ばれる。
過密化する大都市から中流層が郊外へ脱出し、それまで田舎だった近郊の町に大規模な新興住宅街が急速に広がってゆく。
広い敷地に大きな家、都市への通勤も比較的便利で、いわば全米各地に豊かなアメリカの縮図が形作られた時代。
本作の背景となる84年頃に、サバーブに暮らすティーンたちを描いて全盛期を迎えたのが、スティーブン・スピルバーグ一派の一連の作品。
そしてそれらに影響を受けて、サバーブを舞台としたファンタジーやホラージャンルのジュブナイル映画が無数に生み出される。
好奇心旺盛でイケメンナイーブ系の主人公に、デブキャラ、不良キャラ、秀才キャラの少年四人組プラス、主人公が恋心を抱く、ちょっと年上のヒロインの組み合わせも80年代あるある。
隣人への疑念という話のとっかかりは「フライトナイト」を思わせ、「E.T.」で大ブームになったBMX、大統領選のレーガン&ブッシュ、ちょうど大ヒット中だった「グレムリン」、MTVのTシャツといったアイコンもあの時代の香りを感じさせる。
多感な思春期を80代に送ったクリエイターが、ハリウッドのメインストリームになったこともあって、最近はこの時代にオマージュを捧げた作品が目立つ。
例えばトラヴィス・ナイトの「バンブルビー」は、由緒正しいスピルバーグスタイルのSFファンタジーだし、「スパイダーマン:ホームカミング」は、同時代の青春映画の名手ジョン・ヒューズへのオマージュが熱かった。
しかし、同じく80年代の映画体験をベースとしながらも、RKSSの志向する先は、これらの陽性のノスタルジーに満ちた作品群とは明確に一線を画す。
チャリ版の「マッドマックス」と言われた前作の「ターボキッド」もそうだが、過去にRKSSが発表した短編作品も、どちらかというとこの時代の傍流である過激なB、C級のアクションやスラッシャーホラーの影響が色濃い。
パッケージはスピルバーグ的世界へのオマージュと見せかけて、むしろやってることはアンチテーゼなのだ。
一見すると平穏に見えるサバーブの生活の中で、色々なものが少しづつ壊れて行っている。
円満に見えたヒロインの両親は突然離婚し、彼女は引越しが決まっており、不良キャラの少年の家では毎日の様に喧嘩が絶えず、家庭は空中分解寸前。
全てが平均化されるサバーブでは、それぞれの家の問題は見えにくいが、崩壊は確実に進んでいる。
アメリカの離婚率がピークを迎えたのも、実はサバーブの時代真っ只中の1980年なのである。
そして、好奇心と正義感から事件に関わったことで、少年たちの世界も永遠に変わってしまう。
それまでがスピルバーグ的ジュブナイルのセオリー通りに展開してきたから、終盤のあるシーンの衝撃など、下手なスラッシャーホラーよりキツイ。
80年代を、若々しかったアメリカという国が、得体の知れないものにメタモルフォーゼしていった時代として描く感覚は、コーエン兄弟の「ノーカントリー」などの方に近い。
これは作者たちがアメリカ人ではなく、隣国のカナダ人だという視点の客観性の違いも大きいと思う。
「殺人鬼だって誰かの隣人だ」
少年たちは、恐怖が決して特別なものでないことを知ってしまう。
ここにあるのは、ノスタルジーとは対極にあるトラウマの過去であり、無邪気な少年時代の喪失を悪意たっぷりに描いた、ダークな寓話である。
今回はまさに悪夢的な夏休みの話なので「ナイトメア」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、デュボネ30ml、チェリー・ブランデー15ml、オレンジジュース15mlを氷と共にシェイクし、グラスに注ぎ、マラスキーノチェリーを一つ飾って完成。
デュボネとチェリー・ブランデーの甘みと、オレンジの酸味のバランスがいい。
飲みやすいが、アルコール度数は高いので、飲みすぎると名前の通り悪夢に落ちる。
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フレンチ・カナダ出身のフランソワ・シマール、アヌーク・ウィッセル、ヨアン=カール・ウィッセルによる、男女3人の映像ユニット「RKSS (Roadkill Superstar)」の長編第二作。
長編デビュー作の「ターボキッド」の様な、過激な趣味性を適度に抑えつつ、これはなかなか良い仕上がりだ。
1984年の夏、オレゴン州の郊外の町イプスウィッチで暮らす15歳の少年デイビーは、向かいの家に住む警察官マッキーが、近隣で13人の少年を殺害し、世間を騒がせている連続殺人鬼“ケープメイ・スレイヤー”ではないかと疑いを抱く。
彼は近所の仲の良い友達たちに、この考えを打ち明けるが、デイビーが陰謀論や都市伝説大好き少年だったことから、最初は信じてもらえない。
しかし、最後に行方不明になった犠牲者の姿を、デイビーがマッキーの家で目撃したことから、彼らは密かにマッキーを監視し、証拠を探し始めるのだ。
アメリカの7、80年代は、サバーブ(郊外)の時代と呼ばれる。
過密化する大都市から中流層が郊外へ脱出し、それまで田舎だった近郊の町に大規模な新興住宅街が急速に広がってゆく。
広い敷地に大きな家、都市への通勤も比較的便利で、いわば全米各地に豊かなアメリカの縮図が形作られた時代。
本作の背景となる84年頃に、サバーブに暮らすティーンたちを描いて全盛期を迎えたのが、スティーブン・スピルバーグ一派の一連の作品。
そしてそれらに影響を受けて、サバーブを舞台としたファンタジーやホラージャンルのジュブナイル映画が無数に生み出される。
好奇心旺盛でイケメンナイーブ系の主人公に、デブキャラ、不良キャラ、秀才キャラの少年四人組プラス、主人公が恋心を抱く、ちょっと年上のヒロインの組み合わせも80年代あるある。
隣人への疑念という話のとっかかりは「フライトナイト」を思わせ、「E.T.」で大ブームになったBMX、大統領選のレーガン&ブッシュ、ちょうど大ヒット中だった「グレムリン」、MTVのTシャツといったアイコンもあの時代の香りを感じさせる。
多感な思春期を80代に送ったクリエイターが、ハリウッドのメインストリームになったこともあって、最近はこの時代にオマージュを捧げた作品が目立つ。
例えばトラヴィス・ナイトの「バンブルビー」は、由緒正しいスピルバーグスタイルのSFファンタジーだし、「スパイダーマン:ホームカミング」は、同時代の青春映画の名手ジョン・ヒューズへのオマージュが熱かった。
しかし、同じく80年代の映画体験をベースとしながらも、RKSSの志向する先は、これらの陽性のノスタルジーに満ちた作品群とは明確に一線を画す。
チャリ版の「マッドマックス」と言われた前作の「ターボキッド」もそうだが、過去にRKSSが発表した短編作品も、どちらかというとこの時代の傍流である過激なB、C級のアクションやスラッシャーホラーの影響が色濃い。
パッケージはスピルバーグ的世界へのオマージュと見せかけて、むしろやってることはアンチテーゼなのだ。
一見すると平穏に見えるサバーブの生活の中で、色々なものが少しづつ壊れて行っている。
円満に見えたヒロインの両親は突然離婚し、彼女は引越しが決まっており、不良キャラの少年の家では毎日の様に喧嘩が絶えず、家庭は空中分解寸前。
全てが平均化されるサバーブでは、それぞれの家の問題は見えにくいが、崩壊は確実に進んでいる。
アメリカの離婚率がピークを迎えたのも、実はサバーブの時代真っ只中の1980年なのである。
そして、好奇心と正義感から事件に関わったことで、少年たちの世界も永遠に変わってしまう。
それまでがスピルバーグ的ジュブナイルのセオリー通りに展開してきたから、終盤のあるシーンの衝撃など、下手なスラッシャーホラーよりキツイ。
80年代を、若々しかったアメリカという国が、得体の知れないものにメタモルフォーゼしていった時代として描く感覚は、コーエン兄弟の「ノーカントリー」などの方に近い。
これは作者たちがアメリカ人ではなく、隣国のカナダ人だという視点の客観性の違いも大きいと思う。
「殺人鬼だって誰かの隣人だ」
少年たちは、恐怖が決して特別なものでないことを知ってしまう。
ここにあるのは、ノスタルジーとは対極にあるトラウマの過去であり、無邪気な少年時代の喪失を悪意たっぷりに描いた、ダークな寓話である。
今回はまさに悪夢的な夏休みの話なので「ナイトメア」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、デュボネ30ml、チェリー・ブランデー15ml、オレンジジュース15mlを氷と共にシェイクし、グラスに注ぎ、マラスキーノチェリーを一つ飾って完成。
デュボネとチェリー・ブランデーの甘みと、オレンジの酸味のバランスがいい。
飲みやすいが、アルコール度数は高いので、飲みすぎると名前の通り悪夢に落ちる。



2019年08月05日 (月) | 編集 |
本当の主人公は誰?
30年以上の歴史を持つ和製RPGの金字塔、「ドラゴンクエスト」初の映画化。
スーパーファミコン時代の「ドラゴンクエストⅤ 天空の花嫁」を原作として、三世代にわたる冒険の物語を、「STAND BY ME ドラえもん」を大ヒットさせたチームが描く・・・のだけど、こりゃビックリだ。
山崎貴って、こんなクセの強い作家だったっけ?
公開中の「アルキメデスの大戦」に続いて、想像の斜め上をゆく衝撃のネタバレ厳禁作品だ。
誰もが知る超メジャーなゲームの映画化、しかも生みの親である堀井雄二も監修に付いている状態で、ここまで挑戦的な作りで来るとは。
おそらく今年一番、賛否が分かれる作品だろうが、とりあえずネタバレ食らう前に観ちゃった方がいい作品なのは間違いない。
✳︎観る前には読まないで!
少年リュカ(佐藤健)は父のパパス(山田孝之)と共に、宿敵ゲマ(吉田鋼太郎)に連れ去られた母マーサ(賀来千香子)を探す旅を続けている。
ゲマは魔王ミルドラースを復活させるために、魔界の扉を開ける呪文を知る天空人のマーサが必要だったのだ。
ところがゲマの策略にかかり、パパスは殺され、リュカとラインハットのヘンリー王子(坂口健太郎)は誘拐され、奴隷として働かされる。
10年後、なんとか脱出に成功した二人だったが、リュカは父の遺志を継ぎ「天空の剣」と剣を扱える「天空の勇者」を探す旅に出る。
天空の剣を持つという大富豪のルドマンの元を訪ねたリュカは、ひょんなことから街を襲う怪物ブオーン(古田新太)と戦う羽目になり、幼馴染のビアンカ(有村架純)の加勢もあり見事に勝利。
ブオーンを倒したものは、ルドマンの娘のフローラ(波瑠)と結婚できることになっていたのだが、占いババの薬を飲んだリュカは、自分が本当に恋しているのがビアンカであることを知ってしまう・・・
冒頭、ゲーム版ドラクエ風ビジュアルで、リュカの子供時代と主要キャラクターの相関がざっくりと説明される。
実質的な物語は、リュカとパパスがラインハットを訪ね、ゲマの罠によってパパスが殺されるあたりからスタートし、以降ゲームの展開をそのまま映画に当てはめた様な、超駆け足なペースで展開する。
面白いことは面白いが、キャラクターの心情変化のプロセスがすっ飛ばされていて、普通の映画としてはかなりアンバランスな作り。
しかし、それもこれも全ては計算済みだったのだ。
その瞬間はクライマックスの最中、突然やってくる。
この世界のルールを全て無視し、姿を現したミルドラースによって、世界は単なるゲームで、主人公のリュカも誰かがプレイしているアバターに過ぎないことが明かされる。
近未来、「ドラゴンクエスト」は、プレイヤー自身の記憶を一時キャンセルし、本物の冒険として感じられる体験型VRゲームへと進化。
ミルドラースの正体は、ゲームを破壊するウィルスという訳だが、まさかこの超メジャータイトルで、トリッキーなメタ構造をやってくるとは思わなかった。
いや、本当によく許されたものだよ。
たぶん、意識しているのは同じような構造を持つ「LEGO ムービー」だと思う。
物理的に存在するおもちゃと、データとしてしか存在しないゲームという違いはあるが、現実と虚構のインタラクティブ性を前提としているところなどはよく似ている。
本作の現実世界のシーンがもし実写で描かれていれば、より類似性が強まっただろう。
ただ、これは非常に危うい。
「LEGO ムービー」の現実と虚構は、創造主と創造物の関係で、神様である人間の影響を受けながらも、レゴ世界は独立して存在している前提だった。
人間の気まぐれに翻弄されながらも、レゴはレゴとしての現実を生きる。
一方、本作ではゲームの世界はあくまでもゲームであり、虚構は虚構のままで、創造主は作品の外にいるのだ。
この突き放したスタンスは、思い入れの強いゲームプレイヤーからは、創造主目線でドラクエを利用していると受け止められる可能性が高いと思う。
逆に、私のようにゲーム版にそれほどの思い入れが無い観客は、それほど違和感を感じず受け入れられるだろう。
ゲームのストーリーをそのまま忠実に映画化したら、それなりに面白い映画にはなるだろうことは、クライマックスに至るまでの本作が証明している。
しかしながら、それではオリジナルのゲームには絶対に勝てない。
山崎貴をはじめとする本作の作り手たちは、そもそもゲームとは何か?という部分から出発し、彼らなりの虚構の意味を描いている。
万人がそれなりに楽しめる、ゲームのダイジェスト版を作ろうとする気はさらさら無く、あくまでも題材として扱いながら、未見性の強い面白い映画を目指しているのである。
今年は、和製RPGのもう一方の雄である「ファイナルファンタジー」も、「劇場版 ファイナルファンタジーXIV 光のお父さん」として映画のモチーフとなったが、あちらが現実世界からゲームを描いたのに対し、こちらは逆にゲームから現実にアプローチしてるのが面白い。
64年生まれの山崎貴にとって、この映画のミルドラースの言動は70年代のアーケードゲームブームの時代に噴出したゲーム害悪論がベースになっているのではないだろうか。
国民が総ゲームプレイヤーと化した今では信じられないけど、ゲームが不良を作り出すという偏見が公然と語られていた時代があった。
終盤、ミルドラースは敗北を認めないリュカに対して「大人になれ」と言い放つ。
これは奇しくも、「天気の子」で小栗旬演じるフリーライターが、最後までヒロインを救うことを諦めない主人公に言う台詞と同じで文脈も同じ。
あの映画では狂ってしまった「世界」で生き続けるためには、「セカイ」が必要だというのが結論だった。
対して本作では、ゲームをくだらないものとして、「大人になれ」というミルドラースに対して、現実と虚構は対立するものではなく、現実を生きるためには時として虚構が必要だという「レディ・プレイヤー1」と同じテーマが導き出される。
虚構の冒険は途中で現実に負けてはならず、物語の中で貫徹されることで、現実を変える力を持つのだ。
本作はたぶん、誰に感情移入するかによって、賛否がハッキリ分かれる。
物語のリュカに対してか、それともリュカをプレイしている、現実のプレイヤーに対して感情移入するのか。
サブタイトルの「ユア・ストーリー」は、明確に後者を指している。
世界観の謎が明かされた時、どちらの主人公に自分を感じるかで本作は真逆の顔を見せるだろう。
プレイヤーにとって、ゲームはもう一つの現実であり、何よりも大切なもの。
だからこの映画の結論は、虚構を楽しむ人たち全般に対する深い愛情を感じさせるものなのだけど、「ドラゴンクエスト」というタイトルを心から愛するコアプレイヤーからは、名作を意図的に「One of them」として利用したと思われてしまうのかも知れない。
「年間ワーストだ!」という人も多いだろうが、私は本作の挑戦的なスタンスを積極的に肯定したいと思う。
「ドラゴンクエスト」には、様々な妖精やモンスターが登場するが、なぜかファンタジーの定番キャラクターのゴブリンはいない。
なので、今回はドラクエ世界にもゴブリンをということで「ホブゴブリン」をチョイス。
作っているウィッチウッド・ブリュワリーは、オックスフォード州ウィットニーの森の中にあり、社名の通りホブゴブリンの他にゴライアスなど銘柄が全てファンタジー繋がり。
フルボディのダークエールは、チョコレートモルトの甘い香りと適度な苦味が特徴で、この映画とは違って強いクセがなく飲みやすい。
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30年以上の歴史を持つ和製RPGの金字塔、「ドラゴンクエスト」初の映画化。
スーパーファミコン時代の「ドラゴンクエストⅤ 天空の花嫁」を原作として、三世代にわたる冒険の物語を、「STAND BY ME ドラえもん」を大ヒットさせたチームが描く・・・のだけど、こりゃビックリだ。
山崎貴って、こんなクセの強い作家だったっけ?
公開中の「アルキメデスの大戦」に続いて、想像の斜め上をゆく衝撃のネタバレ厳禁作品だ。
誰もが知る超メジャーなゲームの映画化、しかも生みの親である堀井雄二も監修に付いている状態で、ここまで挑戦的な作りで来るとは。
おそらく今年一番、賛否が分かれる作品だろうが、とりあえずネタバレ食らう前に観ちゃった方がいい作品なのは間違いない。
✳︎観る前には読まないで!
少年リュカ(佐藤健)は父のパパス(山田孝之)と共に、宿敵ゲマ(吉田鋼太郎)に連れ去られた母マーサ(賀来千香子)を探す旅を続けている。
ゲマは魔王ミルドラースを復活させるために、魔界の扉を開ける呪文を知る天空人のマーサが必要だったのだ。
ところがゲマの策略にかかり、パパスは殺され、リュカとラインハットのヘンリー王子(坂口健太郎)は誘拐され、奴隷として働かされる。
10年後、なんとか脱出に成功した二人だったが、リュカは父の遺志を継ぎ「天空の剣」と剣を扱える「天空の勇者」を探す旅に出る。
天空の剣を持つという大富豪のルドマンの元を訪ねたリュカは、ひょんなことから街を襲う怪物ブオーン(古田新太)と戦う羽目になり、幼馴染のビアンカ(有村架純)の加勢もあり見事に勝利。
ブオーンを倒したものは、ルドマンの娘のフローラ(波瑠)と結婚できることになっていたのだが、占いババの薬を飲んだリュカは、自分が本当に恋しているのがビアンカであることを知ってしまう・・・
冒頭、ゲーム版ドラクエ風ビジュアルで、リュカの子供時代と主要キャラクターの相関がざっくりと説明される。
実質的な物語は、リュカとパパスがラインハットを訪ね、ゲマの罠によってパパスが殺されるあたりからスタートし、以降ゲームの展開をそのまま映画に当てはめた様な、超駆け足なペースで展開する。
面白いことは面白いが、キャラクターの心情変化のプロセスがすっ飛ばされていて、普通の映画としてはかなりアンバランスな作り。
しかし、それもこれも全ては計算済みだったのだ。
その瞬間はクライマックスの最中、突然やってくる。
この世界のルールを全て無視し、姿を現したミルドラースによって、世界は単なるゲームで、主人公のリュカも誰かがプレイしているアバターに過ぎないことが明かされる。
近未来、「ドラゴンクエスト」は、プレイヤー自身の記憶を一時キャンセルし、本物の冒険として感じられる体験型VRゲームへと進化。
ミルドラースの正体は、ゲームを破壊するウィルスという訳だが、まさかこの超メジャータイトルで、トリッキーなメタ構造をやってくるとは思わなかった。
いや、本当によく許されたものだよ。
たぶん、意識しているのは同じような構造を持つ「LEGO ムービー」だと思う。
物理的に存在するおもちゃと、データとしてしか存在しないゲームという違いはあるが、現実と虚構のインタラクティブ性を前提としているところなどはよく似ている。
本作の現実世界のシーンがもし実写で描かれていれば、より類似性が強まっただろう。
ただ、これは非常に危うい。
「LEGO ムービー」の現実と虚構は、創造主と創造物の関係で、神様である人間の影響を受けながらも、レゴ世界は独立して存在している前提だった。
人間の気まぐれに翻弄されながらも、レゴはレゴとしての現実を生きる。
一方、本作ではゲームの世界はあくまでもゲームであり、虚構は虚構のままで、創造主は作品の外にいるのだ。
この突き放したスタンスは、思い入れの強いゲームプレイヤーからは、創造主目線でドラクエを利用していると受け止められる可能性が高いと思う。
逆に、私のようにゲーム版にそれほどの思い入れが無い観客は、それほど違和感を感じず受け入れられるだろう。
ゲームのストーリーをそのまま忠実に映画化したら、それなりに面白い映画にはなるだろうことは、クライマックスに至るまでの本作が証明している。
しかしながら、それではオリジナルのゲームには絶対に勝てない。
山崎貴をはじめとする本作の作り手たちは、そもそもゲームとは何か?という部分から出発し、彼らなりの虚構の意味を描いている。
万人がそれなりに楽しめる、ゲームのダイジェスト版を作ろうとする気はさらさら無く、あくまでも題材として扱いながら、未見性の強い面白い映画を目指しているのである。
今年は、和製RPGのもう一方の雄である「ファイナルファンタジー」も、「劇場版 ファイナルファンタジーXIV 光のお父さん」として映画のモチーフとなったが、あちらが現実世界からゲームを描いたのに対し、こちらは逆にゲームから現実にアプローチしてるのが面白い。
64年生まれの山崎貴にとって、この映画のミルドラースの言動は70年代のアーケードゲームブームの時代に噴出したゲーム害悪論がベースになっているのではないだろうか。
国民が総ゲームプレイヤーと化した今では信じられないけど、ゲームが不良を作り出すという偏見が公然と語られていた時代があった。
終盤、ミルドラースは敗北を認めないリュカに対して「大人になれ」と言い放つ。
これは奇しくも、「天気の子」で小栗旬演じるフリーライターが、最後までヒロインを救うことを諦めない主人公に言う台詞と同じで文脈も同じ。
あの映画では狂ってしまった「世界」で生き続けるためには、「セカイ」が必要だというのが結論だった。
対して本作では、ゲームをくだらないものとして、「大人になれ」というミルドラースに対して、現実と虚構は対立するものではなく、現実を生きるためには時として虚構が必要だという「レディ・プレイヤー1」と同じテーマが導き出される。
虚構の冒険は途中で現実に負けてはならず、物語の中で貫徹されることで、現実を変える力を持つのだ。
本作はたぶん、誰に感情移入するかによって、賛否がハッキリ分かれる。
物語のリュカに対してか、それともリュカをプレイしている、現実のプレイヤーに対して感情移入するのか。
サブタイトルの「ユア・ストーリー」は、明確に後者を指している。
世界観の謎が明かされた時、どちらの主人公に自分を感じるかで本作は真逆の顔を見せるだろう。
プレイヤーにとって、ゲームはもう一つの現実であり、何よりも大切なもの。
だからこの映画の結論は、虚構を楽しむ人たち全般に対する深い愛情を感じさせるものなのだけど、「ドラゴンクエスト」というタイトルを心から愛するコアプレイヤーからは、名作を意図的に「One of them」として利用したと思われてしまうのかも知れない。
「年間ワーストだ!」という人も多いだろうが、私は本作の挑戦的なスタンスを積極的に肯定したいと思う。
「ドラゴンクエスト」には、様々な妖精やモンスターが登場するが、なぜかファンタジーの定番キャラクターのゴブリンはいない。
なので、今回はドラクエ世界にもゴブリンをということで「ホブゴブリン」をチョイス。
作っているウィッチウッド・ブリュワリーは、オックスフォード州ウィットニーの森の中にあり、社名の通りホブゴブリンの他にゴライアスなど銘柄が全てファンタジー繋がり。
フルボディのダークエールは、チョコレートモルトの甘い香りと適度な苦味が特徴で、この映画とは違って強いクセがなく飲みやすい。



2019年08月01日 (木) | 編集 |
誕生は祝福なのか、呪いなのか?
レバノンの貧民街に生まれ育ち、人を刺したとして少年刑務所に収監されている12歳の少年ゼインが、両親を訴える。
その罪状は「勝手に僕を産んだこと」。
彼には出生証明もなく、身分証明書もなく、両親は誕生日すら覚えていない。
書類上は「存在しない子供」であり、12歳という年齢も、逮捕された時の身体検査で医師が推察した数字にすぎないのだ。
当然学校も行ったことがなく、近所の店で雑用係としてこきつかわれ、希望のないクソみたいな毎日を過ごしている。
そんなゼインの心を支えていたのは、同じ境遇の兄妹たちの存在で、一歳違いの妹のサハルとはとりわけ仲がいい。
だが、ある時彼女が滞納していた家賃の代わりに、大家のロリコンオヤジと無理やり結婚させられたことで、ゼインはついにキレる。
両親と決別して家出し、一人で生きて行こうとするのだが、身元の分からない少年にそう簡単には仕事は見つからない。
ゼインを救ったのは、エチオピアからの不法移民で、シングルマザーのラヒル。
彼女は生まれて間もない息子、ヨナスのベビーシッターとして、ゼインを居候させることにする。
ヨナスも当然出生届など出されておらず、ゼインは図らずももう一人の「存在しない子供」と出会い、ある事件をきっかけに二人きりで取り残されてしまうのだ。
シリア難民には支援があるのに、レバノン人でも行政が把握してないゼインには、支援が届かないアイロニー。
これはいわば是枝裕和監督の「万引き家族」に描かれた、社会のセーフティネットから抜け落ちた「インビジブル・ピープル」のさらに極端なバージョン。
それでも、最初からどん底の境遇で生きてきたゼインは、様々なアイディアを駆使して、生き抜こうとするのだが、ヨナスを抱えていてはそれも限界がある。
そして、結婚した後のサハルに起こった事件を知った時、ゼインは世の中の全ての大人たち、全ての不条理に対する怒りを爆発させるのである。
驚くべきは、登場人物を演じる俳優たちのバックグラウンドで、同じ名前の主人公を演じるゼイン・アル=ラフィーアをはじめ、主要登場人物のほとんどが難民であったり、不法移民であったり、あるいは二級市民であったり、劇中で演じている役柄と極めて近い人生を送っていること。
ナディーン・ラバキー監督は、難民や移民の現実のリサーチに三年をかけ、演技未経験なだけでなく、まともな教育を受けられず、読み書きすら出来ない俳優たちと対話しながら、半年かけて丹念に撮影し、本編未使用のフッテージは実に500時間に及ぶという。
その努力と情熱は、恐ろしく自然なテリングのスタイルとして結実していると思う。
この映画は単なるフィクションではなく、現実の縮図であり、半ドキュメンタリーなのである。
子供の誕生は「神の祝福」だとする両親に対して、ゼインは「呪いだ」と切って捨て、裁判では「育てられないなら産むな」と両親を責める。
しかし、おそらくは両親も、もしかするとそのまた両親も、そもそも身分証明書をどう作ったらいいのかも知らず、絶望したままの人生を送ってきたのだろう。
本作の子供たちの背景には、多分に中東特有の事情があるにしろ、こういう人は日本にもいないとは、決して言い切れない。
「万引き家族」の是枝監督が2004年に発表した「誰も知らない」のモデルとなった、「巣鴨子ども置き去り事件」で、母親に置き去りにされた子供たちは、皆出生届を出されておらず、戸籍のない「存在しない子供」だった。
様々な事情で出生届が出ていない人は、日本国内にも1万人程度いると推察されているというが、やはり親だけの責任ではないだろう。
世知辛い現実を描きながらも、映画ではゼインとヨナスに、僅かな希望の光がさすのがせめてもの救い。
少なくともこの映画に出演した子供たちが、なんとか幸せになってほしいと心から思う。
幼い子供たちは本来天使であってほしいので、今回は「エンジェル・フェイス」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、カルバドス15ml、アプリコット・ブランデー15mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
ノルマンディー地方のリンゴのブランデー、カルヴァドスと、アプリコット・ブランデーを、ドライ・ジンの清涼さがスッキリとまとめ上げる。
優しい味わいの飲みやすいカクテルだが、芯はしっかりしている。
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レバノンの貧民街に生まれ育ち、人を刺したとして少年刑務所に収監されている12歳の少年ゼインが、両親を訴える。
その罪状は「勝手に僕を産んだこと」。
彼には出生証明もなく、身分証明書もなく、両親は誕生日すら覚えていない。
書類上は「存在しない子供」であり、12歳という年齢も、逮捕された時の身体検査で医師が推察した数字にすぎないのだ。
当然学校も行ったことがなく、近所の店で雑用係としてこきつかわれ、希望のないクソみたいな毎日を過ごしている。
そんなゼインの心を支えていたのは、同じ境遇の兄妹たちの存在で、一歳違いの妹のサハルとはとりわけ仲がいい。
だが、ある時彼女が滞納していた家賃の代わりに、大家のロリコンオヤジと無理やり結婚させられたことで、ゼインはついにキレる。
両親と決別して家出し、一人で生きて行こうとするのだが、身元の分からない少年にそう簡単には仕事は見つからない。
ゼインを救ったのは、エチオピアからの不法移民で、シングルマザーのラヒル。
彼女は生まれて間もない息子、ヨナスのベビーシッターとして、ゼインを居候させることにする。
ヨナスも当然出生届など出されておらず、ゼインは図らずももう一人の「存在しない子供」と出会い、ある事件をきっかけに二人きりで取り残されてしまうのだ。
シリア難民には支援があるのに、レバノン人でも行政が把握してないゼインには、支援が届かないアイロニー。
これはいわば是枝裕和監督の「万引き家族」に描かれた、社会のセーフティネットから抜け落ちた「インビジブル・ピープル」のさらに極端なバージョン。
それでも、最初からどん底の境遇で生きてきたゼインは、様々なアイディアを駆使して、生き抜こうとするのだが、ヨナスを抱えていてはそれも限界がある。
そして、結婚した後のサハルに起こった事件を知った時、ゼインは世の中の全ての大人たち、全ての不条理に対する怒りを爆発させるのである。
驚くべきは、登場人物を演じる俳優たちのバックグラウンドで、同じ名前の主人公を演じるゼイン・アル=ラフィーアをはじめ、主要登場人物のほとんどが難民であったり、不法移民であったり、あるいは二級市民であったり、劇中で演じている役柄と極めて近い人生を送っていること。
ナディーン・ラバキー監督は、難民や移民の現実のリサーチに三年をかけ、演技未経験なだけでなく、まともな教育を受けられず、読み書きすら出来ない俳優たちと対話しながら、半年かけて丹念に撮影し、本編未使用のフッテージは実に500時間に及ぶという。
その努力と情熱は、恐ろしく自然なテリングのスタイルとして結実していると思う。
この映画は単なるフィクションではなく、現実の縮図であり、半ドキュメンタリーなのである。
子供の誕生は「神の祝福」だとする両親に対して、ゼインは「呪いだ」と切って捨て、裁判では「育てられないなら産むな」と両親を責める。
しかし、おそらくは両親も、もしかするとそのまた両親も、そもそも身分証明書をどう作ったらいいのかも知らず、絶望したままの人生を送ってきたのだろう。
本作の子供たちの背景には、多分に中東特有の事情があるにしろ、こういう人は日本にもいないとは、決して言い切れない。
「万引き家族」の是枝監督が2004年に発表した「誰も知らない」のモデルとなった、「巣鴨子ども置き去り事件」で、母親に置き去りにされた子供たちは、皆出生届を出されておらず、戸籍のない「存在しない子供」だった。
様々な事情で出生届が出ていない人は、日本国内にも1万人程度いると推察されているというが、やはり親だけの責任ではないだろう。
世知辛い現実を描きながらも、映画ではゼインとヨナスに、僅かな希望の光がさすのがせめてもの救い。
少なくともこの映画に出演した子供たちが、なんとか幸せになってほしいと心から思う。
幼い子供たちは本来天使であってほしいので、今回は「エンジェル・フェイス」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、カルバドス15ml、アプリコット・ブランデー15mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
ノルマンディー地方のリンゴのブランデー、カルヴァドスと、アプリコット・ブランデーを、ドライ・ジンの清涼さがスッキリとまとめ上げる。
優しい味わいの飲みやすいカクテルだが、芯はしっかりしている。

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