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ショートレビュー「楽園・・・・・評価額1650円」
2019年10月28日 (月) | 編集 |
田舎残酷物語。

「楽園」ちゅうか、描かれているのはむしろ「地獄」
とあるY字路で起こった少女誘拐事件を起点に、12年後の現在で杉咲花、綾野剛、佐藤浩市の運命が動き出す。
杉咲花が熱演する湯川紡は、行方不明になった少女と直前まで一緒にいた同級生で、彼女が死んで自分が生き残ったことから罪悪感に苛まれ、12年後の新たな事件により更なる傷を負う。
綾野剛が演じるのは、日本に定住している元難民の青年・中村豪士。
内気で日本語が少し不自由な彼は、やがて紡と関わるようになるが、新たな事件が起こると、周囲から孤立していることで疑われ、大した根拠もなく事件の容疑者となってしまう。
そして、佐藤浩市演じる田中善次郎は、12年前の事件とは直接の関わりはないのだが、現在の豪士と紡と小さな接点を持ち、ほんの些細なことからドミノ倒しのように、人生を破滅へと追い込まれてゆく。

吉田修一の原作「犯罪小説集」は、それぞれ現実に起こった事件をモチーフとした短編集で、本作はその中の「青田Y字路」「万屋善次郎」をミックスして脚色。
「青田Y字路」がモチーフとしているのは、1979年から90年にかけて、四人の少女が犠牲となった「北関東連続幼女誘拐殺人事件」。
この事件は未だに未解決で、1990年の事件では誘拐殺人の容疑で無関係の男性が逮捕され、後に冤罪と証明された「足利事件」としても知られる。
もう一つの「万屋善次郎」は、2013年に起こった「山口連続放火殺人事件」がモデル。
こちらは故郷の限界集落にUターンした中年男性が、徐々に周囲から村八分となり、精神を病んで村の老人たち五人を次々と殺害した事件で、事実関係もかなり忠実な作り。

映画は二本の原作をシームレスに繋いだ上で、「罪」「罰」「人間」の三章構成としていて、最初に罪が犯され、次に非常に曖昧な罰が下される。
「罪」と「罰」の登場人物たちの行動が、常軌を逸するくらい愚かで強引なことに戸惑うが、最後まで観ると、「なるほどこれは狙いか」と分かる。
なぜなら最終章の「人間」で、そもそも罪を作り出したのは誰なのか?罪なき人は存在するのか?が問われるからだ。
だから本当は何が起こったのか?という部分は、物語の帰結する先へ導くために重要な要素ではあるものの、謎解ミステリ的なベクトルはほとんど無い。

新約聖書のヨハネによる福音書の第八章で、姦淫の罪で捕まって人々の前に引き出された女を見たイエスは、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と語る。
その結果、その場にいた誰一人として石を投げることができなかった。
ところが、本作劇中の同一のシチュエーションでは、理性と良心を体現するイエスはおらず、人々は自分の罪を省みることなく先を争って石を投げつけるのだ。
罪びとが根拠のない罰を下し、その結果として新たな罪が生まれる。
本作で描かれるのは、罪と罰の無限スパイラルに陥ってしまった悲しい人の心なのである。
絡み合う人間たちのドラマは、瀬々敬久監督の持ち味が発揮されて見応え充分。

しかし、ここに描かれる日本の田舎は、ある意味ホラーより恐ろしい
モデルになった実際の事件の報道を読んだ時も思ったが、なんで田舎の年寄りは「人が増えて欲しい」とか「若者に来て欲しい」とか言いながら、逆に人を遠ざけるようなことをするのだろう。
もちろん全部が全部そうじゃないだろうけど、こういう田舎も実際珍しくはない。
本作では、ある程度以上の年齢の登場人物はほぼ一様に救いようがなく、あえて「老害」という嫌な言葉を意識させるように作ってるが、それも一定のリアルがあるからだろう。
罪人たちの中で、唯一自らの罪に向き合い、罪を抱えて生きてゆく決意をする、杉咲花を実質的な主人公としてしているのも、作品の指向する先を示唆する。
果たして彼女は希望となり得るのか?人間は、本当に「楽園」に生きられるのだろうか?

今回は原作者の故郷、長崎から壱岐の酒「純米大吟業 横山50」をチョイス。
長崎は日本酒文化圏と焼酎文化圏の混じり合う地で、これは焼酎の蔵元として知られる重家酒造が、かつて醸造していた日本酒を四半世紀ぶりに復活させた酒。
蔵元の横山さんの名と山田錦の精米歩合がそのまま名前になっている。
フルーティーで、純米大吟醸らしい芳醇な吟醸香。
濃厚だが雑味なくスーッと喉に落ちる、やや辛口の味わいが上質だ。

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エセルとアーネスト ふたりの物語・・・・・評価額1750円
2019年10月24日 (木) | 編集 |
すこしむかし、ロンドンの片隅に。

「さむがりやのサンタ」「スノーマン」などで知られる漫画作家のレイモンド・ブリックスが、今は亡き最愛の両親のために作った「記憶の器」としてのアニメーション映画。
ブリックス自身がエグゼクティブ・プロデューサーをつとめ、監督・脚本は「スノーマン」などブリックス作品のアニメーターとして活躍し、本作の公開後の2018年に惜しまれつつ亡くなったロジャー・メインウッド。
まだ馬車と自動車が混在していた時代の晩秋のロンドンで、牛乳配達人のアーネストが、上流階級の邸宅で住み込みのメイドをしていた5歳年上のエセルを誘ってから、二人が共に死を迎える1971年まで、40年以上にわたる結婚生活が、素晴らしいクオリティのアニメーションで描かれる。

1928年。
ロンドンでメイドとして働くエセル(ブレンダ・ブレッシン)は、屋敷の窓から外を見ている時、若い牛乳配達人と目が合う。
以来、なんとなく彼の存在を意識するようになり、名前も知らない配達人の姿を窓越しに探すようになる。
ところがある日、彼は突然屋敷を訪れるとエセルをデートに誘い、アーネスト(ジム・ブロードベンド)と名乗った。
意気投合した二人は恋人同士となり、やがて結婚。
数年後には息子のレイモンド(ルーク・トレッダウェイ)も生まれ、三人家族として幸せな生活を送っていた。
しかし、時代の空気はすこしずつきな臭さを増し、ついにナチス・ドイツとの戦争が始まる。
瞬く間にヨーロッパ大陸は制圧され、ロンドンにもドイツ軍の空襲が迫る中、夫婦はレイモンドを田舎に疎開させることを決意する・・・・


映画の冒頭、現在のレイモンド本人が現れ、こう言う。
「There was nothing extraordinary about my mum and dad, nothing dramatic. No divorce or anything, but they were my parents and I wanted to remember them by doing a picture book.(私の両親に関しては特別なことは何もなく、ドラマチックでもありません。離婚も何もありませんでしたが、彼らは私の両親であり、絵本にすることで彼らを覚えていたかったのです。」
なるほど、ここに描かれているのはとことん平凡で普通で、それなりに幸せな人生。
だけど、特別なことが何もないからこそ、彼らの暮らしの物語は誰が観ても感情移入できる普遍性があり、とても愛おしいのである。

ロンドンの街角で出会ったエセルとアーネスト、初めてのデートは映画。
イギリスでは1928年の11月に封切られた、ジョン・フォード監督、ヴィクター・マクラグレン主演の「血涙の志士」に連れ立って出かける。
1930年に結婚した二人は、ウィンブルドンに小さな家を買って新婚生活を始めるのだが、当時としては晩婚の二人はなかなか子宝には恵まれず、エセルが38歳の時に大変な難産の末にようやくレイモンドが生まれ、夫婦にとっては唯一の子供となった。

まだ第一次大戦の傷が残る時代に始まり、つかの間の平和の後の再びの戦争、そして数十年の間に価値観が激変する戦後へ。
階級社会イギリスにあって、アーネストは気のいいお調子者で労働党支持者、エセルは以前メイドとして金持ちの生活を見ていたからか、チャーチル好きの上流指向で、ちょっと見栄っ張り。
二人はどう見ても労働者階級なのだが、彼女は「うちは労働者階級じゃありませんから!」が口癖だったりする(笑
一見すると対照的な男女が、夫婦という形になると、不思議と心地よい幸せのハーモニーを奏で始めるのだ。
時代は移り変わっても、二人の間には常に穏やかな優しい時間が流れ、大きな変化を作り出すのは、戦争という巨大な暴力と、堅い仕事をしてほしいという母の反対を押し切って、芸術の道に進む親の心子知らずなレイモンドくらい。
レイモンドの妻ジーンが統合失調症を患っていて、若くして亡くなったという話は初めて知ったが、「病気のことがあるので子供は作れない」という息子の話を聞いて、涙を見せるエセルの母心が切ない。

戦時中のシーケンスはかなりの時間を費やして描かれ、ドイツ軍の空襲に政府の指示通りに対処しようとする描写は、レイモンド・ブリックス原作、ジミー・T・ムラカミ監督の名作アニメーション映画「風が吹くとき」の老夫婦を思わせる。
そして、爆弾の雨が降る中でも何とか「日常」を手放すまいと奮闘する二人の姿には、「この世界の片隅に」のすずさん家族が重なる。
生活描写がやたらと細やかでユーモラスなだけでなく、どちらの映画でも一家の「子供」が疎開することになり、本作ではレイモンド少年が無事に田舎に逃げ延びるが、「この世界の片隅に」では間に合わず、幼い命を落とすることになるのも、二つの家族が同じ世界のわずかに違った鏡像である印象を強めている。
もちろん、本作は戦前戦中に加えて戦後の話もボリュームが大きいし、映画の描こうとするものは異なるのだが、この二本はセットで鑑賞すると間違いなくより感慨深い。

新婚の時に購入してから、空襲で大きな被害を受けてもずっと住み続けたウィンブルドンの家には、時代ごとにガスコンロ、電話、テレビ、自動車などの新しいアイテムが現れ、世間では人類が月へ降り立ったり、エセルの知らない「同性愛」が合法化されたりする。
本質的には40年以上ほとんど変わらない個人史と、ダイナミックに変化し続ける社会史の、流れる時の速度の違いが面白い。
冒頭とエンディングにレイモンド本人が実写で登場する他は、彼独特の優しい絵柄のアニメーションで描かれるが、レイモンドが看取ったエセルとアーネストの「死」の描写のみ異質にリアルなタッチなのが印象的。
40年以上に及ぶ物語の中で、レイモンドが両親と暮らした時間は1/3くらいなので、夫婦の描写の大半はおそらく作者の記憶+聞かされた話+イマジネーションなのだろうが、両親の死だけは全くオブラートに包まない彼の主観的記憶ということだろう。
最後は夢の世界に生きたエセルが逝き、彼女を追うようにしてアーネストが亡くなった後、住む人のいなくなった実家の整理をするレイモンドの前に、彼が子供の頃に植えた洋梨の木が、大きな枝を広げているのが人生の時間を感じさせて心に染み入る。
どこまでも普通だけど、どこまでも美しい映画で、自身の母への想いを込めたというポール・マッカートニーの主題歌「In the Blink of an Eye」も味わい深い。

ところで、新居に引っ越した時にどこからともなく現れ、二人の人生に最後まで寄り添う、黒猫のスージーさんはいったい何歳なんだろう?
ここだけ、“すこし・ふしぎ”な物語。

今回は、レイモンド・ブリックスの代表作から「スノーマン」をチョイス。
同じ名前のカクテルは世界中に色々なレシピがあるのだが、これは日本酒を使った変わり種。
グラスに冷やした日本酒40ml、無糖のプレーンヨーグルト60mlの順に注ぎ、軽くステアして、最後にお好みでレモンを振りかけて完成。
乳酸菌同士のマリーアージュは意外と相性が良く、ちょっとマッコリを思わせるテイスト。
使う日本酒は好みにもよるが、辛口よりもちょい辛程度の純米吟醸の相性が良いと思う。

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空の青さを知る人よ・・・・・評価額1700円
2019年10月18日 (金) | 編集 |
青春の、忘れもの。

共に1976年生まれの長井龍雪、岡田麿里、田中将賀によるクリエイターズユニット、“超平和バスターズ”原作による秩父を舞台としたアニメーション作品第三弾。
幼い頃に両親を亡くし、13歳年上の姉と暮らすミュージシャン志望の女子高校生の前に、なぜか姉の元カレが13年前の姿で現れる。
いったい彼は何者なのか?幽霊?生き霊?それとも?
いかにもアニメーション的なぶっ飛んだ設定のもと、描かれるのは極めて繊細に紡がれる人間ドラマだ。
監督、脚本、キャラクターデザイン兼総作画監督は、もちろん超平和バスターズの三人がそれぞれ担当する。
音楽映画でもあり、あいみょんが担当する劇中歌と主題歌も素晴らしいのだが、昭和世代としては物語のキーとなる曲にゴダイゴの「ガンダーラ」が使われるのもたまらない。 
前二作からさらなる進化を見せる、痛くて切なくて優しい珠玉の青春ストーリーだ。
※核心部分に触れています。

ミュージシャン志望の17歳の高校生、相生あおい(若山詩音)は13年前に両親を亡くして以来、姉のあかね(吉岡里帆)と二人暮らし。
恋人の金室慎之介、通称しんの(吉沢亮)と共に上京する夢を諦めて、ずっと自分を育ててくれたあかねに対し、あおいは負い目を感じていて、高校を卒業したらこの街を出て、あかねの人生を自由にする、そう決めている。
そんな時、地元の音楽祭に人気演歌歌手の新渡戸団吉(松平健)が出演することになり、そのバックバンドのギタリストとして慎之介が13年ぶりに街に戻って来た。
ひょんなことから音楽祭で慎之介と共演することになったあおいは、すっかりやさぐれた大人になってしまった慎之介にショックを受ける。
同じ頃、あおいの前になぜか記憶の中にいる13年前の姿ままのもう一人のしんのが現れる。
大人の慎之介と、高校生の頃のしんの。
あおいは何とか現在の慎之介を更生させて、あかねの初恋を成就させようとするのだが、いつの間にか自分がしんのに恋をしていた・・・


フジテレビのノイタミナ枠で放送された「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。(あの花)」、劇場用作品として作られた「心が叫びたがってるんだ。(ここさけ)」、そしてタイトルから「。」が取れた本作の特徴は、30代のあかねと慎之介のエピソードが大きな比重を占めていることだろう。
主人公は高校生のあおいだが、彼女の抱えている問題はあかねと慎之介の関係と深く結びついているので、物語は三者それぞれの葛藤がほぼ三つ巴。
ティーンの群像劇だった前二作でも、当然ながら重要な役割を果たす大人のキャラクターはいたが、本作ほどではなかった。

「あの花」では幼くして亡くなった少女めんまの幽霊、「ここさけ」ではおしゃべりな主人公の声を封じる玉子の妖精と、超自然的な現象が起こっていたが、本作で日常に投げ込まれる怪異は、突然13年前の姿で現れるもう一人のしんのだ。
彼が出現するのは、ずっと音楽の練習に使われている古いお堂で、かつてはしんの自身もここでバンド演奏し、今はあおいがベースの練習に通っている。
しんの本人も自分が何なのか、なぜ13年後に現れたのか分からず、なぜかお堂からは出ることができない。
あかねと慎之介の再会に、あおいと非日常の存在であるしんのとの接触が触媒となって、人間関係の化学反応が起こる仕組みだ。

二人とも白目の中にホクロがある、“目玉スターズ”のあおいとしんのは元来似た者同士。
あおいが、山に囲まれた秩父の街を閉塞の象徴と捉えているのは「ここさけ」と同様で、しんのはギター、あおいはベースと楽器は違えど、同じようにミュージシャンとして東京で天下を取る夢を持っている。
だからこそ、あおいにとっては半分夢を叶えたものの、すっかりやさぐれて戻って来た慎之介がショックだし、逆に慎之介にとってはかつての自分のように、真っ直ぐに音楽に向かい合っていて、実力も備わったあおいの存在が気にさわる。
今の慎之介に失望すればするほど、あおいはその反作用で今の自分と同い年で、明るく朗らかだった13年前のしんのに惹かれてゆく。
「そこに行けば どんな夢も かなうというよ」と歌う「ガンダーラ」が慎之介とあおいに共通する思い出の曲であることが象徴するように、年齢の差こそあれ二人は目的地を探し続けているボヘミアンなのだ。

過去と現在に“外”を志向した二人とは逆に、“内”である秩父の大地に地にどっしりと足をつけているのがあかね。
若くして大人にならねばならなかった彼女は、あおいやしんの、現在の慎之介よりもずっと大人で、母親に近い感情で皆を見守っている。
あおいは姉の青春を奪ったという、慎之介は迎えに来る約束を果たせなかったという負い目をあかねに対して感じていて、そのことが二人の人生の足かせとなっているのだが、当のあかねは全然そんなことを思っていない。
なぜなら彼女は「空の青さを知る人」だから。
この映画のタイトルは、有名な「井の中の蛙」の諺に、後世に付け加えられた文言から来ている。
いくつかバリエーションはあるようだが、「井の中の蛙大海を知らず」に「されど空の青さを知る」と続く。
井戸の中のような秩父の町から、海は見えない。
だけど空しか見えないからこそ、外の世界では気にも留めない、ここにしかない大切なことに気づける。
あかねはそういう人生を送って来た人であり、13年前からやって来たしんのの存在に触発された小さな冒険の先に、あおいと慎之介はあかねの本当の想いを知るのだ。
それは同時に、過ぎ去ったはずの青春そのものであるしんのが、なぜ今現れたのかという疑問に対する明確なアンサーでもある。

「あの花」「ここさけ」がそれぞれTVドラマ、映画で実写化されたことでも分かるように、本作も基本的には写実的でリアルな世界観。
田中将賀による魅力的なキャラクターが、すっかりお馴染みになった美しい秩父の情景の中で生き生きと躍動する。
特にあかねとあおいの眉太姉妹は、対照的な性格が造形から滲み出て秀逸。
「君の名は。」以来、新海誠作品でもすっかり有名になったが、やはりデザインの持つ作品世界での比重という点では超平和バスターズ作品の方が印象深い。
いかにも意思が強そうなあおい役を好演する若山詩音、二作続けて男を投げ飛ばすあかね役の吉岡里帆、31歳と18歳をきっちり演じ分けた吉沢亮ら、ボイスキャストも素晴らしい。
吉岡里帆は、この一ヶ月の間にすっかりお気に入りの役者になってしまった。
また本作は音楽映画でもあり、凝りに凝った音響演出も面白い。
冒頭の、あおいがイヤホンをして、サイレントな世界に重低音でベースを響かせながら「ガンダーラ」を弾くシーンで、いきなり作品世界に引き込まれる。
楽器はもちろんだが、実写作品以上に自然音も丁寧に付けられていることで、この世界の現実感がグッと高まるのである。
物語の決着は本編でキッチリつけ、あいみょんの素敵な主題歌を聴かせながら、エピローグ的に余韻に浸れるエンドクレジットまで、見事な仕上がりとなった。
三作目にして、超平和バスターズは魅惑的な独特のカラーを持つ“秩父ユニバース”を確立した感があり、相性抜群のこのチームの次回作を早速期待したくなる。
ところで、これも実写化されそうな気がするのだけど、キャストは誰が良いだろう。

今回は秩父の武甲酒造から、「武甲正宗 特別純米 無濾過原酒」をチョイス。
この蔵は、「ここさけ」とコラボしてその名も「秩父ここさけ」なるコラボ酒も出していたのだけど、今回は特にコラボは無いようだ。
無濾過原酒らしく、吟醸香がふわりと広がり、口に含むと非常に濃厚な米の旨みが強烈に広がる。
慎之介は酒弱かったけど、あかねさんと飲み明かしたい酒だ。

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ショートレビュー「イエスタデイ・・・・・評価額1600円」
2019年10月14日 (月) | 編集 |
ビートルズ世代からのラブレター。

ダニー・ボイルとリチャード・カーティス、センスの塊同士の幸福なマリアージュ。
主人公は、ヒメーシュ・パテル演じるジャック・マリック。
元教師で売れないミュージシャンの彼は、幼馴染のエリーをマネージャーに音楽活動をしているが、鳴かず飛ばずの日々。
もはやこれまでと、音楽の道を諦めようとしている。
そんなある日、世界中で謎の大停電が起こり、暗闇の中でバスにはねられたジャックが目覚めたら、そこは誰もビートルズを知らないパラレルワールド
彼は名曲の数々を、自分の作品として発表しはじめるのだ。
もちろん、ビートルズの楽曲を全て完璧に覚えているわけではないので、必死に記憶を辿り、曖昧な部分は所縁の地に“聖地巡礼”してヒントを探す。
当然ヒットしてジャックは時の人になるのだが、彼の心には他人の功績を利用している罪悪感が積み重なり、成功と共に人生で本当に大切なものを失ってゆく。
※核心部分に触れています。

ドラマの葛藤そのものは非常に単純で、物語の帰結点も充分に予測可能。
要は「売れたい!」と思っていたのだが、いざ売れてみると、自分が本当に欲しかったものは、そこには無かったというありきたりなもの。
ただ本作の場合は、そこに至るまでの展開が秀逸だ。
当初ジャックは、パラレルワールドでビートルズを知っているのは自分だけだと思っているのだが、実は他にも元の世界からやって来た、ビートルズの記憶を持つ人たちがいる。
ところが、彼らはジャックを非難したり、告発したりするわけではない。
元の世界とそっくりだけど、大切な何かが欠けているパラレルワールドで、ビートルズの作品を次々と発表するジャックに、彼らは「ビートルズをこの世界に届けてくれてありがとう」と感謝の言葉を伝えるのである。
劇中で、ケイト・マッキノン演じるアメリカの敏腕マネージャーが、パラレルワールドでジャックを見出し、スター街道へと導くエド・シーランのことを「彼は洗礼者ヨハネ。ジャックこそがメシアだ」という台詞があるが、音楽の神の言葉を伝えるという点では、ジャックはまさに神に遣わされた伝道者で救世主なのである。
そして終盤でカメオ出演のロバート・カーライルが、ある人物として登場するシーンなんて、あんなのファンは絶対に泣くやろ!
共に1956年生まれのボイルとカーティスは、物心つく頃がまさにビートルズ全盛期のビートルズ世代。
これはビートルズに対する本物の愛がなければ、絶対に作れない話だ。

モスクワでのライブの時に「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」を披露したり、精神的に追い込まれている時に歌うのが「ヘルプ!」だったり、楽曲の歌詞が物語のシチュエーションに絶妙にフィットして、思わず笑っちゃう。
偉大なビートルズが無ければ、彼らの影響を受けまくったアレもコレも無いよね?的なパラレルワールドの遊びも楽しい。
最近はやりの20世紀ミュージシャンへのトリビュート作品としても、かなりの変化球で面白い。
全編にわたってビートルズLOVEが溢れた、まさに究極のファン・メイド・ムービーと言える本作だが、逆に言えば観客も全員ビートルズが好きという前提で作られた作品で、彼らの楽曲にどれほど思い入れがあるか否かで、刺さり具合は変わって来そうだ。
また、あらゆる芸術は生み出された時代や社会を強く反映しているものなので、ビートルズが存在しない世界で、21世紀の現在に彼らの楽曲が発表されたとしても、映画のように熱狂的に受け入れられるとは限らないんじゃないかなあとちょっと思った。
普遍性を持った素晴らしい楽曲群なのは間違いないが、案外そこそこのヒットで収まりそうな気がするのだが、こればっかりは分からないけど。
しかし劇中で歌ってるのはパテルだけど、これだけビートルズの楽曲使ったら、権利関係だけでもの凄いお金がかかっただろうな。

劇中のジャックはいつもビールを飲んでいるので、今回は「カールスバーグ」をチョイス。
マイルドな口当たりと、クリアな喉越しでとても飲みやすく、まさに万人に好まれるビールの王道。
なんでイギリスの映画にデンマークのビール?と思われるだろうが、カールスバーグはビートルズの故郷、リヴァプールを本拠地とするプレミアリーグのリヴァプールFCを、四半世紀以上スポンサードしている銘柄。
リヴァプールの試合の歓声を聞かせながらホップを育てた、「The Red Hops Experiment」というリヴァプールのサポーター専用のビールまであるというから驚きだ。

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ショートレビュー「宮本から君へ・・・・・評価額1700円」
2019年10月10日 (木) | 編集 |
絶対、君と結婚したから!

非常に暑苦しい映画だ(笑
令和の世にあって、池松壮亮演じる全身から昭和臭を漂わせる熱血青年宮本が、大好きな彼女を守るため、幸せになるために闘う。
新井英樹の漫画は「ザ・ワールド・イズ・マイン」と映画化された「愛しのアイリーン」くらいしか読んだことがなく、本作の原作も未読だが、連載されていたのはバブル崩壊直前の1990年から崩壊後の1994年だとか。
なるほど、このジェットコースターのような起伏の激しいドラマ展開も、原作者の作家性と共に先の見えない時代の空気を反映したものと考えると納得だ。
原作の前半部分は昨年放送されたTVドラマで描かれているので、松山ケンイチの先輩とのエピソードなど、映画だけ見ると意味づけがよく分からない部分もある。
しかし基本的には宮本と蒼井優演じる靖子との関係が物語のぶっとい軸となり、瑣末の部分はほとんど影響しないので、原作もTVも知らなくても問題ないだろう。

仕事にも恋にも熱い男、宮本は「この女は俺が守る!」と大見得を切って付き合い始めた靖子を、泥酔して眠り込んでいた間に、得意先の部長の息子でマッチョなラガーマンの拓馬にレイプされてしまう。
当初はその事実すら知らなかった宮本は、靖子に見限られて別れを告げられるも、男としてケジメをつけ、再び靖子に受け入れてもらうために、自分の三倍くらいの容積のある拓馬に復讐を誓うのだ。
どこからどう見ても勝てそうにない。
しかし、どうしても闘わなければならない
真利子哲也の前作「ディストラクション・ベイビーズ」で描かれたような一方的な暴力ではなく、「HiGH&LOW」シリーズのような格好良さ優先の殺陣でも無く、泥臭くホンキの「男の喧嘩」を久しぶりに映画で見た気がする。
階段の踊り場を使った迫力の格闘シーンは、これまたどことなく昭和っぽくて、ちょっと懐かしの「ビーバップ・ハイスクール」を思い出したぞ。

ここにあるのは全て生々しい本音の世界
人間誰しもピュアな部分もあるし、打算的でダークな面もある。
本作はそれを綺麗なオブラートに包んだりせず、登場人物たちがダイレクトにぶつけ合う。
まるでスクリーンというリングの中で、登場人物が男も女も2時間ずっと打ち合う、ボクシングの試合みたいな映画だ。
歯抜けの宮本を熱演する池松壮亮も見事なハマり役だが、本作のMVPはやはり蒼井優だろう。
これは彼女のための映画と言ってもいい。
全編絶叫芝居なんだけど、あの凄みを出せる人は同世代では他には思いつかない。
結婚しちゃったから、これだけガッツリした濡れ場は最初で最後かもしれないな。
バイオレンスもエロスも、R15が納得の濃密さだ。
真利子哲也と「あゝ、荒野」の港岳彦の脚色は、宮本の決意の物語としてバランスよくまとまっているが、宮本に輪をかけて暑苦しいオヤジたちの描き方とか、今の世には拒絶反応示す人もいそう。
そういう意味では、万人向けではないかも知れないが、私はこの登場人物の生命力が煮えたぎる世界がとても好きだ。
ぶっちゃけ宮本と友達になりたいかといわれると、微妙な気もするが(笑
しかしあれだけのことやって、クビにならない会社も凄いな。

今回は、火山のように熱い男の話なので、浅間山と白根山という二つの火山に挟まれた、浅間酒造の「秘幻 純米吟醸」をチョイス。
端麗で喉越し爽やかな飲みやすい酒だ。
米の旨味充分、まろやかで非常にバランスが良く、ほのかな余韻が後を引く。
知らず知らずの間に、飲み進めてしまうので、宮本のように泥酔しないよう注意。
 
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ジョーカー・・・・・評価額1800円
2019年10月06日 (日) | 編集 |
ジョーカーはなぜ生まれた。

これはヤバイ映画だ。
端的に言えば「タクシードライバー」と「キング・オブ・コメディ」をDCの世界観にぶち込み、ピエロの顔をしたガイ・フォークスでまとめ上げた作品。
公開を控えて、米国の治安当局が厳戒態勢を敷いているそうだが、本当に怒れる人たちが観たら、暴動のきっかけになり得る。
そのぐらい主人公のドラマに、現実と地続きのリアリティがあるんだな。
物語的にはバットマンならぬ「ジョーカー・ビギンズ」で「気弱なコメディアン志望の青年が、いかにして恐怖のジョーカーになったか」なんだが、多分全く知らない人が見たらアメコミ映画と気付かないだろう。
もちろん、ウェイン家との絡みはちゃんとあるので、間口は広く、分かる人にはよりディープにという、エンタメとして誠に正しい作り。
監督・脚本は「ハングオーバー!」シリーズで知られるトッド・フィリップスで、「ザ・ファイター」のスコット・シルヴァーが共同脚本を務める。
タイトルロールを演じるホアキン・フェニックスが圧巻の名演を見せ、全く新しいジョーカー像を作り上げている。
※核心部分に触れています。

アーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)は、ゴッサムシティの貧民街に母のペニー(フランセス・コンロイ)と二人暮らし。
コメディアンになりたいと願い、TVで人気のマレー・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)の番組にゲストとして出演するのが夢だ。
しかし脳と神経の障害で、突然笑い出してしまうという症状を持つアーサーは、なかなか人前に立つ決心がつかず、街角でピエロの仕事をしてなんとか食い繋いでいる。
ある日、同僚から一丁の拳銃をもらったアーサーは、小児病棟での仕事でうっかりその銃を落としてしまい、仕事をクビになってしまう。
失意のアーサーは、たまたま乗り合わせた列車で女性に絡んでいたウェイン産業のサラリーマンたちに暴行を受け、とっさに彼らを射殺する。
逃走したアーサーはえも言われぬ高揚感を感じるのだが、折しもゴッサムシティでは貧困層の不満が高まっていて、金持ち企業のエリートを殺した正体不明のピエロは、一躍貧困層のヒーローに祭り上げられる。
そんな時、アーサーは母ペニーの手紙を読んで、自分とウェイン産業社長のトーマス・ウェインとの意外な関係があることを知ってしまうのだが・・・・


バットマン最大の敵ジョーカーは、過去にも名優たちが演じてきたキャラクター。
中でもティム・バートン版「バットマン」のジャック・ニコルソンと、クリストファー・ノーランの「ダークナイト」で故ヒース・レジャーが演じたジョーカーは、共に映画史に残るスーパーヴィランだが、キャラクター設定は全く異なる。
バートン版では、その正体はマフィアの有力メンバーだったジャック・ネイピア。
若い頃にブルース・ウェインの両親を殺した男で、バットマンと戦った時に化学薬品のタンクに転落し、肌は漂白されて真っ白に、筋肉は引きつって常に笑った顔になってしまう。
ジャックは変わり果てた自分の姿を見て気が狂い、ジョーカーを名乗る様になる。
一方のノーラン版のジョーカーには、一切の設定が無い。
本名も背景も明かされず、ただ突然現れてゴッサムシティを恐怖に陥れる、ピエロのメイクをした謎の男。
劇中でも、正体に繋がる情報がデータベースに無いとされるこのキャラクターは、いわば地獄から遣わされた悪の化身であり、その行動に動機すら存在しない絶対悪なのである。

では、本作におけるジョーカーとは何者か。
ジョーカーになる前の、アーサー・フレックの境遇はとことん悲惨だ。
コメディアンになりたいという夢を持ってはいるが、現実にはしがないピエロ暮らしで、唯一の楽しみは憧れの人、マレー・フランクリンのショーを観ること。
脳と神経に負った障害で、突然笑い出してしまう症状があり、他人には気味悪るがられる。
高齢の母親は、かつて勤めていたというトーマス・ウェインの館へ、何度も支援を求める手紙を書いているが、なしのつぶて。
しかも彼の置かれた状況は、物語の進行とともに、加速度的に更に悪化してゆく。
やがて、自らの存在に対する承認欲求と、幾つもの裏切りが積み重なった結果として、誰からも相手にされない善良な青年“アーサー”は消え、世間そのものを憎悪する新たな人格“ジョーカー”が生まれるのである。
トッド・フィリップスは、貧民街にあるアーサーのアパートに繋がる、長いながい階段を象徴的に使っている。
まるで壁のようにそびえ立つ階段を疲れ果てて登るアーサーは、遂にジョーカーとなると、軽快なダンスと共に降りてくるのだ。
そして、怒りと憎悪を内面に秘めたピエロの笑顔は、底辺に暮らす人々の抵抗の象徴として、ゴッサムシティに急速に拡散してゆく。

「ダークナイト」では、ジョーカーが二隻の船に爆弾を仕掛け、起爆装置をお互いの船の乗客に委ね、先に相手の船を爆破した方だけを助けると言う。
自らはお膳立てをするだけで、市民同士で殺し合いをさせようとするジョーカーは、人間を人間たらしめている倫理を破壊しようとするのだが、彼の行動は逆に市民の高潔な意識を目覚めさせてしまい、ジョーカーは敗北する。
クリストファー・ノーランは、人間の行動がある瞬間に神話化される物語を好む。
ここでは、市民たちが自らの勇気ある決断により、誰もがヒーローになれることを示したのである。

対して本作では、超格差社会となったゴッサムシティで、人々が支配層のエリートを殺したアーサーを英雄視しており、ピエロの仮面をつけてデモをしている。
これは明らかに、ガイ・フォークスの仮面を意識した描写。
ガイ・フォークスは、1605年に英国国教会のカソリック弾圧に対し、イギリス国会議事堂を国王もろとも爆破するクーデターを試みたテロリスト一味の男。
計画は失敗し、フォークスは処刑されるのだが、彼は次第に権力に対する抵抗の象徴とみなされるようになり、映画「Vフォー・ヴェンデッタ」で一躍有名になったフォークスを模した仮面は、現在では世界中の抵抗運動で使われている。
本作のジョーカーは、ピエロの顔をしたガイ・フォークスであり、仮面は誰もがジョーカーとなり得ることを示している。
ちなみに、劇中では明言してはいないのだが、物語が始まるのは10月15日の木曜日で、アーサーがジョーカーとしてTVに出演するのは、おそらく11月5日の木曜日。
この日がフォークが逮捕された「ガイ・フォーク・デイ」なのは、狙っていると思う。

市民がヒーローになるのか、ジョーカーになるのかは、あらかじめ決まっていることではなく、あくまでも社会の状況次第。
しかもジョーカーは、単純に「悪」という訳ではない。
ピエロの仮面を被ってプロテストしている人々にとっては、彼こそがヒーローなのだ。
この映画では、ゴッサムシティの富裕層を代表するトーマス・ウェインが、貧困層の人々を「ピエロの仮面を被らなければ、何もできない落伍者」とこき下ろす。
これはもちろん、のちに彼の息子がコウモリの仮面を被ったビジランテとなることに対する辛辣なギャグなのだが、街が少数の富裕層とその他の人々に分断されており、富裕層にそれを是正する気がさらさら無いことを示している。
だからこそ映画さながらの超格差社会となった現実でも、現実に絶望した観客たちが、アーサーに深く感情移入し、ジョーカーとなる可能性がある。
米国の治安当局が本作に神経を尖らせるせるのには、「ダークナイト ライジング」の時に、実際にジョーカーに感化された若者によって劇場で銃撃事件が起こったというもっともな事情があるのだが、その辺は作り手も心得ていて、あえて演出的に抑制しているフシがある。
暴徒に救出されたジョーカーがダンスするシーンなど、もっとガンガンに盛り上げることも出来たはずなのだが、カタルシスまでいくギリギリでエモーションを寸止めしてる。
人外になりたてのカリスマ未満がこの映画のジョーカーだというのもあるけど、やり過ぎると本当に映画自体が扇動者になってしまうことを分かっているからだろう。

また構造的にも、キャラクターのリアリティを追求する一方、劇中で起こっていることの虚実を曖昧にすることで、ダウナー系のドラッグをキメているかのような、夢うつつの独特の手触りを作り出している。
映画を注意深く観察すると分かるが、本作は物語全体がアーカムの診療室でジョーカーが思い出してる事実と妄想が入り混じった記憶
一見事実に見える描写や時系列的にもおかしな部分があり、どこまでが本当なのかは分からない様になっている。
解釈に困るのがウェイン夫妻射殺の部分で、それまでずーっとホアキンの出ずっぱりの主観展開なのだが、唯一あそこだけは本人の記憶ではあり得ない客観描写。
もっとも、あの時点で“ジョーカー”は怒れる大衆の集合意識化しているので、いろいろな情報から後から想像したと考えることも出来るのだけど。
また、この映画のデ・ニーロは、強い影響を感じさせる「タクシードライバー」と「キング・オブ・コメディ」で彼が演じたキャラクターへのメタ的なオマージュなのだろうけど、虚実が入り混じる白昼夢のような構造を考えると、もう一本「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」も連想した。

正直「ハングオーバー!」の監督の映画とは信じられないダークさだが、どうしょうもないダメ男の悲哀という点ではブレてないと言える。
傑作と呼ばれる映画には、いつの時代に観ても同じように素晴らしい普遍性の強い作品と、それが作られた時代や社会と密接にリンクすることで、大きな力を持つ時事性の強い作品がある。
神話的構造を持つノーランの「ダークナイト」三部作が前者だとしたら、本作は間違いなく後者だろう。
10年、20年後の未来にこの映画を観直した時には、ある程度説得力を失っていることが望ましいのだけど、トーマス・ウェインみたいな人たちが幅を利かしている現実を見ると、ジョーカーの苦悩がよりリアルに感じられそうだ。
全編に渡って容赦なくエグってくるので、間違っても落ち込んでる時に観ちゃだめ。
主人公の葛藤に自分のマイナスの部分が自然に重なり、ダメージが後を引く。
たぶんアーサーは、ジョーカーになって初めて、自己承認欲求を満たして幸せになったんだと思うが、アーサーのままでも幸せをつかめるのが、本来あるべき社会の姿。
これも人生、とは言え生きにくい世の中だな!

重い映画の後には、スッキリした「ミントビア」をチョイス。
氷を入れたグラスにビール105mlを注ぎ、ペパーミントグリーン15mlを加えて軽くステアする。
ジョーカーのイメージカラーでもあるグリーンが美しく、ビールの苦味とペパーミントの清涼感が心地よく喉を潤す。
異様に暑い今年の秋には、ぴったりのカクテルだ。

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ショートレビュー「アイネクライネナハトムジーク・・・・・評価額1650円」
2019年10月03日 (木) | 編集 |
祝・多部未華子、貫地谷しほり御結婚!

おめでたい話題がなかったとしても、胸踊るステキな映画だ。
70億の人間が暮らすこの惑星で、今日も無数の出会いが生まれている。
「出会ったのが、他の誰でもなく、この人でよかった」という、人生の幸せはいつ決まるのか。
早々に答えを出す人もいれば、長い間一緒にいるうちに、幸せが何なのかよく分からなくなってしまった人も、そもそもまだ人生を決める出会いがどんなものか知らない若者たちも。

起点となるのは、日本人が挑戦するボクシング・ヘビー級世界戦が開催される夜。
この夜、杜の都・仙台で、偶然あるストリート・ミュージシャンの歌を共に聞いた佐藤と紗季。
佐藤の親友で、学生結婚した織田一真と由美の夫婦に、ちょっと生意気な愛娘の美緒。
偉業に挑むプロボクサー、ウィンストン小野に告白される美容師の美奈子は、由美の友人。
佐藤の上司の藤間は妻に逃げられ、娘の亜美子とウィンストンの試合を見に行く約束をする。
タイトル通り「アイネクライネナハトムジーク(小さな夜の音楽)」からはじまり、幾つもの人生が交錯する恋愛群像劇だ。

映画は10年の歳月を挟んだ、ウィンストンの二度の世界戦を軸に展開する。
10年前の現在、10年後の現在、関係が変わる人、変わらない人、成長する人、挑戦し続ける人、何かを悟る人もいる。
伊坂幸太郎の同名原作は、6つの短編が相互に絡み合う連作形式。
鈴木謙一の脚本は、取捨選択しつつこれを巧みに再構築し、二つの現在を描く前後編として非常に端正にまとめ上げている。
最初の世界戦の夜に出会い、やがて付き合いはじめた佐藤と紗季は、10年後の今も恋人同士ではあるものの、長過ぎた春の出口に迷い、これからの人生をどうするのか悩みを深めている。
一真と由美の夫婦は相変わらず仲睦まじいが、10年前は幼児だった娘の美緒は、すっかり成長して思春期真っ只中。
藤間の娘の亜美子とは友人で、同級生の和人は二度目の世界戦でウィンストンが勝ったら奈緒に告白しようと決意している。

数多い登場人物の相関関係が非常に複雑かつ近く、これがもし東京が舞台だったらリアリティを感じられなかっただろう。
もうちょっと地方の色を出しても良かった気もするが、仙台という人口100万人の小さ過ぎず、大き過ぎない地方都市が、「まあ、あるかもね」というギリギリのリミット。
彼・彼女らは皆、直接的かは間接的かの差はあれど、どこかでローカルヒーローであるウィンストンの、10年越しの不屈の挑戦に自分の人生を投影し、背中を押されているのである。

内容は全く違うのだが、「アド・アストラ」の劇中、孤独な宇宙で他人との共感に目覚めたブラッド・ピットが口にする、「私たちはお互いの関係が全てだ」という台詞がリフレイン。
いくつもの出会いによって、それぞれの人生が絡み合って葛藤を生み、やがてそれは調和となって、心地いい「アイネクライネナハトムジーク」を奏で始める。
基本、いい人しか出てこない出来過ぎな話ではあるものの、紗季との関係に悩む佐藤の少々のもどかしさもドラマを盛り上げ、全ての登場人物の出会いを喜び、応援したくなる最高に気持ちのいい物語
らしさ、という点では「愛がなんだ」の方が本来の領域に近いんだろうけど、絶好調な今泉力哉監督の器用さが光る。
今なら、どんなぶっ飛んだラブストーリーでも一級品に仕上げてきそう。

今回は宮城が舞台ということで、石巻の平孝酒造の「日高見 純米山田錦」をチョイス。
日高見といえば、キリリとした辛口だが、こちらはやや辛口でフルーティー。
酸味とコクのバランスがよく、映画のように調和したハーモニーが感じられる。
石巻といえば海の幸だが、魚介類との相性が抜群にいい。

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