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2019年12月15日 (日) | 編集 |
ありのままの自分でいるために。
1988年に実写映画化された宗田理の小説「ぼくらの七日間戦争」の、「七」が「7」に変わった31年ぶりのリメイク的な続編。
「ドリフェス!」などで知られる村野佑太が長編劇映画監督デビューを飾り、脚本は湯浅政明監督の「DEVILMAN crybaby」が記憶に新しい大河内一楼が務める。
理不尽を押し付ける大人たちに、子供たちが反抗し、7日間の“戦争”を繰り広げるという基本プロットは共通。
正直なところ、旧作は私個人的にはあまり刺さらなかった記憶がある。
原作は未読だが、映画は全体に説教くさくて、いかにも大人が考えた子供のフリーダムという、ステロタイプなイメージを打破できていなかった。
しかし本作では、この31年間の社会の変化を反映して、物語のディテールは全くの別物となり、人数的にぐっと絞り込まれた子供たちの葛藤には、実写映画よりも生身のリアリティを感じられる。
※核心部分に触れています。
北海道に住む鈴森守(北村匠海)は、いつも一人で本ばかり読んでいる戦史マニア。
彼は隣に住む幼馴染の千代野綾(芳根京子)に恋心を抱いているが、ずっと告白出来ずにいる。
ある日、守は地方議員をしている綾の父親が東京の中央政界への転出が決まり、綾も共に引っ越しを迫られていることを知る。
引越しの日は、一週間後の綾の誕生日の直前。
この街に留まりたいという綾に、守は意を決して言う。
「一緒に逃げましょう!」
綾の親友の山咲香織(潘めぐみ)、クラスの人気者の緒形壮馬(鈴木達央)、とことん明るい阿久津紗希(道井悠)に彼女の幼馴染の秀才、本庄博人(大塚剛央)がこの“バースディ・キャンプ”に参加。
6人は、街外れにある閉鎖された炭鉱へと向かうのだが、そこには一足先に侵入していた者がいて、ちょっとした家出は、大人たちを巻き込んだ“戦争”へと発展してゆく・・・
原作小説が出版された1985年に比べれば、日本の社会は少なくとも表面上は、ずいぶんと自由になった。
もちろん、いまだに硬直した部分は残っているし、変わっていないところは頑なに変わらないのもこの国の特徴だが、当時に比べれば個人を社会の不文律の枠にはめる風潮が薄れたのは確かだろう。
良くも悪くも現実世界に比べればずっと縛りの弱い、インターネット空間へと人々の活動領域が広がったのも、一人ひとりがより素の自分を出せる世界への、変革の推進力になっているのかも知れない。
だが、自由な部分が増えれば増えるほど、逆に別の縛りも生まれてくるもの。
本作で子供たちが立ち向かうのは、過去の自由のその先にある、21世紀の新たな自由の問題なのである。
旧作では中学生だった子供たちは高校生へ、立て籠もるのは廃工場から北海道の閉山した炭鉱へと変更されている。
そもそもの発端は、主人公の鈴森守が想いを寄せる幼馴染の千代野綾が、政治家の父の仕事の都合で誕生日直前に東京に引っ越すことになったこと。
故郷を離れたくない綾は、守や友人たちの力を借りて、プチ家出して“バースディ・キャンプ”へと出かけるのだ。
この時点では、反抗の動機は旧作と比べてもかなり弱く、“戦争”へと結びつくようなものではないのだが、これは作劇上の狙いだろう。
廃鉱山に隠れていた、マレットと名乗る不法在留のタイ人の子供との出会いによって、守たちは成り行きで大人たちに宣戦布告。
結果として、それまで決して他人には見せなかった、“本当の自分”と向き合わざるを得なくなる。
本作で描かれるのは、一定の自由があるからこそ見えてくる、多様性への更なる壁。
ここで登場人物の年齢を上げたことが効いてくる。
中学生ほど子供ではなく、かと言って大人と認められる年齢でもないが、社会の仕組みはそろそろ理解できるようになり、人との表面的な関係には忖度が必要なことも、素の自分を知られることの恐ろしさも知っている。
本作の子供たちは、既に半分大人社会に取り込まれかかっているのだ。
“戦争”の原因を、国籍という自分ではどうしょうもない出自で追い詰められてしまった、マレットを守るためとしたのが良い。
国籍、イジメ、自己否定の心に性的マイノリティの葛藤。
テーマのベースの部分では旧作を踏襲しながら、登場人物が抱えているそれぞれの問題、彼らを追い込んで行くSNS社会の描写は実に現代的。
リメイクではなく続編の体裁ゆえに、旧作のウリだった61式戦車は出てこないが、トロッコやエレベーターなど、鉱山ならではのギミックが新たな未見性を作り出す。
戦史マニアの守をリーダーに繰り広げられる、大人たちとの頭脳戦はなかなか楽しい。
「塔の上のラプンツェル」のランタン祭のモデルになったことでも知られる、タイのコムローイ祭でお馴染みの幻想的なランタンと、クライマックスのあるアイディアを結びつけたビジュアルは、アニメーション表現ならではの飛躍を感じさせて秀逸だ。
大人たちとの小さな、しかし全力の戦いを通して、子供たちは傷つきながらもより大きな自由を獲得し、彼らの姿は常識という閉塞の中に生きている大人たちにも影響を与えてゆく。
子供たちの葛藤と奮闘に、素直に共感のできる優れた青春ストーリーだ。
旧作のヒロインだった宮沢りえが、再び同じ役名で登場し、二つの作品を繋ぐ役割。
まあ物語上には直接的な関連は無いので、旧作は観ていないでも問題ないだろう。
守役の北村匠海はもう声優としてもプロフェッショナルの領域だが、綾を演じる芳根京子も上手い。
やっぱり声優の演技には、独特のセンスが必要なんだよなあ。
今回は、「自由のための戦争」繋がりで「キューバ・リブレ」をチョイス。
タンブラーにライム1/2を絞り、クラッシュドアイスを入れ、ラム45mlを注ぎ入れた後でコーラで満たし、ライムを一切れ飾って完成。
19世紀末のキューバ独立戦争当時、独立派支援のためにキューバに駐留していた米軍将校が、アメリカのコカ・コーラとキューバのラムをミックスしたカクテルを考案。
その名称として、独立派の愛言葉だった「ビバ・キューバ・リブレ(キューバの自由万歳)」が定着したという。
高校生にはちょっと早いが、ライムの酸味と炭酸の刺激が爽快な、青春の味。
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1988年に実写映画化された宗田理の小説「ぼくらの七日間戦争」の、「七」が「7」に変わった31年ぶりのリメイク的な続編。
「ドリフェス!」などで知られる村野佑太が長編劇映画監督デビューを飾り、脚本は湯浅政明監督の「DEVILMAN crybaby」が記憶に新しい大河内一楼が務める。
理不尽を押し付ける大人たちに、子供たちが反抗し、7日間の“戦争”を繰り広げるという基本プロットは共通。
正直なところ、旧作は私個人的にはあまり刺さらなかった記憶がある。
原作は未読だが、映画は全体に説教くさくて、いかにも大人が考えた子供のフリーダムという、ステロタイプなイメージを打破できていなかった。
しかし本作では、この31年間の社会の変化を反映して、物語のディテールは全くの別物となり、人数的にぐっと絞り込まれた子供たちの葛藤には、実写映画よりも生身のリアリティを感じられる。
※核心部分に触れています。
北海道に住む鈴森守(北村匠海)は、いつも一人で本ばかり読んでいる戦史マニア。
彼は隣に住む幼馴染の千代野綾(芳根京子)に恋心を抱いているが、ずっと告白出来ずにいる。
ある日、守は地方議員をしている綾の父親が東京の中央政界への転出が決まり、綾も共に引っ越しを迫られていることを知る。
引越しの日は、一週間後の綾の誕生日の直前。
この街に留まりたいという綾に、守は意を決して言う。
「一緒に逃げましょう!」
綾の親友の山咲香織(潘めぐみ)、クラスの人気者の緒形壮馬(鈴木達央)、とことん明るい阿久津紗希(道井悠)に彼女の幼馴染の秀才、本庄博人(大塚剛央)がこの“バースディ・キャンプ”に参加。
6人は、街外れにある閉鎖された炭鉱へと向かうのだが、そこには一足先に侵入していた者がいて、ちょっとした家出は、大人たちを巻き込んだ“戦争”へと発展してゆく・・・
原作小説が出版された1985年に比べれば、日本の社会は少なくとも表面上は、ずいぶんと自由になった。
もちろん、いまだに硬直した部分は残っているし、変わっていないところは頑なに変わらないのもこの国の特徴だが、当時に比べれば個人を社会の不文律の枠にはめる風潮が薄れたのは確かだろう。
良くも悪くも現実世界に比べればずっと縛りの弱い、インターネット空間へと人々の活動領域が広がったのも、一人ひとりがより素の自分を出せる世界への、変革の推進力になっているのかも知れない。
だが、自由な部分が増えれば増えるほど、逆に別の縛りも生まれてくるもの。
本作で子供たちが立ち向かうのは、過去の自由のその先にある、21世紀の新たな自由の問題なのである。
旧作では中学生だった子供たちは高校生へ、立て籠もるのは廃工場から北海道の閉山した炭鉱へと変更されている。
そもそもの発端は、主人公の鈴森守が想いを寄せる幼馴染の千代野綾が、政治家の父の仕事の都合で誕生日直前に東京に引っ越すことになったこと。
故郷を離れたくない綾は、守や友人たちの力を借りて、プチ家出して“バースディ・キャンプ”へと出かけるのだ。
この時点では、反抗の動機は旧作と比べてもかなり弱く、“戦争”へと結びつくようなものではないのだが、これは作劇上の狙いだろう。
廃鉱山に隠れていた、マレットと名乗る不法在留のタイ人の子供との出会いによって、守たちは成り行きで大人たちに宣戦布告。
結果として、それまで決して他人には見せなかった、“本当の自分”と向き合わざるを得なくなる。
本作で描かれるのは、一定の自由があるからこそ見えてくる、多様性への更なる壁。
ここで登場人物の年齢を上げたことが効いてくる。
中学生ほど子供ではなく、かと言って大人と認められる年齢でもないが、社会の仕組みはそろそろ理解できるようになり、人との表面的な関係には忖度が必要なことも、素の自分を知られることの恐ろしさも知っている。
本作の子供たちは、既に半分大人社会に取り込まれかかっているのだ。
“戦争”の原因を、国籍という自分ではどうしょうもない出自で追い詰められてしまった、マレットを守るためとしたのが良い。
国籍、イジメ、自己否定の心に性的マイノリティの葛藤。
テーマのベースの部分では旧作を踏襲しながら、登場人物が抱えているそれぞれの問題、彼らを追い込んで行くSNS社会の描写は実に現代的。
リメイクではなく続編の体裁ゆえに、旧作のウリだった61式戦車は出てこないが、トロッコやエレベーターなど、鉱山ならではのギミックが新たな未見性を作り出す。
戦史マニアの守をリーダーに繰り広げられる、大人たちとの頭脳戦はなかなか楽しい。
「塔の上のラプンツェル」のランタン祭のモデルになったことでも知られる、タイのコムローイ祭でお馴染みの幻想的なランタンと、クライマックスのあるアイディアを結びつけたビジュアルは、アニメーション表現ならではの飛躍を感じさせて秀逸だ。
大人たちとの小さな、しかし全力の戦いを通して、子供たちは傷つきながらもより大きな自由を獲得し、彼らの姿は常識という閉塞の中に生きている大人たちにも影響を与えてゆく。
子供たちの葛藤と奮闘に、素直に共感のできる優れた青春ストーリーだ。
旧作のヒロインだった宮沢りえが、再び同じ役名で登場し、二つの作品を繋ぐ役割。
まあ物語上には直接的な関連は無いので、旧作は観ていないでも問題ないだろう。
守役の北村匠海はもう声優としてもプロフェッショナルの領域だが、綾を演じる芳根京子も上手い。
やっぱり声優の演技には、独特のセンスが必要なんだよなあ。
今回は、「自由のための戦争」繋がりで「キューバ・リブレ」をチョイス。
タンブラーにライム1/2を絞り、クラッシュドアイスを入れ、ラム45mlを注ぎ入れた後でコーラで満たし、ライムを一切れ飾って完成。
19世紀末のキューバ独立戦争当時、独立派支援のためにキューバに駐留していた米軍将校が、アメリカのコカ・コーラとキューバのラムをミックスしたカクテルを考案。
その名称として、独立派の愛言葉だった「ビバ・キューバ・リブレ(キューバの自由万歳)」が定着したという。
高校生にはちょっと早いが、ライムの酸味と炭酸の刺激が爽快な、青春の味。

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