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彼らは生きていた・・・・・評価額1700円
2020年01月30日 (木) | 編集 |
彼らは、永遠に青年のまま。

ピーター・ジャクソン監督が、第一次世界大戦の映像史料をレストア、カラー化し、当時の大英帝国の兵士たちの膨大な証言音声と組み合わせて制作した、野心的なドキュメンタリー
日本公開は2年遅れとなってしまったが、第一次世界大戦の終戦から100周年をむかえた2018年に、芸術プログラム「14-18NOW」と帝国戦争博物館の共同プロジェクトとして、博物館に保存されている資料を活用し生まれた作品だ。
「彼らは歳をとらない(THEY SHALL NOT GROW OLD)」という原題は、1914年に発表されたローレンス・ビンヨンによる西部戦線で犠牲になった兵士たちへの追悼詩、「For the Fallen」に触発されたもの。
「ロード・オブ・ザ・リング」や「ホビット」三部作では、ミドル・アースを舞台に壮大な合戦を描いたジャクソンの、父方の祖父ウィリアム・ジャクソン軍曹は、J・R・R・トールキンと同様に、この戦争に従軍した兵士だった。
職業軍人だったウィリアムは青島、ガリポリ、ソンム、パッシェンデール、カンブレーなど激戦地を転戦し、最後はドイツ軍の機関銃よって重傷を負い、英国に帰還。
回復した後も、戦場で負った様々な傷から徐々に体を壊し、自分が生まれるよりも前に亡くなったウィリアムの物語を、ジャクソンは子供の頃に聞いていたという。
これはジャクソンにとって、自分のルーツを知る作品でもあり、戦争の大局には一切触れず、戦場に送り込まれた兵士たちの体験に寄り添う。

「臆病者と言われたくなかったから」「友だちが皆志願したから」と、15 、6歳の少年たちまでもが成人と偽って入隊する。
冒頭25分の新兵訓練期間は、古びたモノクロ映像。
しかし彼らが西部戦線へと投入されると、画面は突然視界いっぱいに拡大され色を持ち、遠い”歴史”だったものが生々しい”現実“へと姿を変える。
100年前の映像が、まるで昨日撮影されたかの様に、鮮やかで鮮明となる衝撃。
古い作品でありがちな、フレームレートと実際の動きのズレも綿密に調整され、非常にナチュラルなものになっている。
21世紀のデジタルレストア技術がもたらした奇跡だ。
当時を知る元兵士たちの音声証言と、映し出される映像が絶妙にマッチングされていることで臨場感はより高まり、ここから我々は彼らと共に100年前の戦場を擬似体験するのである。
映画に使用された120人に及ぶ兵士たちの証言は、名前や階級を示されず、映像もいつどこで撮られたものかは明示されない。
これは映像と音声の主を特定の誰かではなく、この時代に戦場にいた無数の無名兵士たちのものとするための工夫。

第一次世界大戦は塹壕の戦争だったから、舞台となるのもほとんど塹壕。
機関銃をはじめとする兵器の発達で、歩兵ではお互いの塹壕を突破できず、“ノーマンズランド”を挟んだ膠着状態が続く。
兵士の仕事は無限に増殖する塹壕掘り、砲撃を中心とした散発的な戦闘と束の間の休息。
しかしそんな日々も長くは続かない。
塹壕を超えられる新兵器“戦車”に支援され、兵士たちは遂に塹壕を出て、機関銃部隊が待ち受ける敵陣への無謀な突撃を余儀なくされる。
破壊された人体が無数に転がり、命の器であった誰かが、単なる壊れたモノになるそこでは、もはや人は人ではない。

印象的だったのは、若者たちの誰もが、自分たちが戦う理由も知らないまま兵士となったこと。
最初は愛国心と高揚感から志願したものの、何のための戦争か大義も分からないから、やってるうちにだんだんウンザリしてきて、自分たちと似たような境遇のドイツ軍捕虜とも仲良くなったりする。
同じドイツ兵でも、バイエルン人は善良で、プロセイン人は野蛮だという証言が出てくるのが面白い。
ドイツ帝国は皇帝がプロセイン王で、バイエルン王国はそれに次ぐ領邦の扱いだったから、厭戦気分はバイエルンの方が強かったのだろう。
基本的に帝国主義国家同士の利権戦争は、彼ら個人には何の関係もなく、兵士なったからには死力を尽くすけど、戦争そのものには意味を感じないという冷めたスタンス。
これはたぶん、第一次世界大戦だけじゃなくて、殆どあらゆる戦争で、駆り出される若者たちに共通する心理なのではないか。
しかも島国の英国は、ロンドンなど一部が空襲に晒されたものの、国土の大半は戦火に合わず、わざわざ外国まで戦いに行った兵士たちは帰還したら冷遇され、誰にも感謝されないというアイロニー。

同じ英国の戦争を描く作品でも、例えばクリストファー・ノーランの「ダンケルク」が、第二次世界大戦の奇跡のダンケルク大撤退を、20世紀の英国の輝かしい神話として捉えていたのに対し、現実に存在した兵士一人ひとりに寄り添い、より没入感を追求した本作が、ただそこで起こったことを伝えるという冷静な視点なのは印象的。
両作のスタンスの違いは、作家性や劇映画かドキュメンタリーかよりも、描いている対象への距離感の違いかもしれない。
確実なのは彼らは100年前に間違いなく生きていて、多くが生きて帰れなかったという事実のみ。
ピーター・ジャクソンからの、トールキンやウィリアムの世代へのレクイエムだ。
ところで、日本で劇場公開されたのは嬉しいが、これは本国版の通り3D映像で観たかったなあ。

今回は、敵国ドイツの代表的なビール、ホブフロイ・ミュンヘンの「ホフブロイ・ドゥンケル」をチョイス。
16世紀の開設時から醸造されているまろやかでコクのあるダークビールは、古典的バヴァリア・ビールの典型。
第一次世界大戦終結から2年後の1920年2月、ホブフロイ・ミュンヘンのビアホール、ホブフロイ・ハウスであるイベントが開かれる。
当時30歳のアドルフ・ヒトラー率いる、国家社会主義ドイツ労働者党、ナチスの結党大会である。
彼もまた第一次世界大戦の帰還兵であり、軍歴の転戦記録を見る限り、ウィリアム・ジャクソンの部隊とも戦っていた可能性がある。
歴史とはなんとも皮肉なものである。

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リチャード・ジュエル・・・・・評価額1500円
2020年01月25日 (土) | 編集 |
ある日突然、自分が“民衆の敵”となる。

ここ数作は、割と軽目の題材を扱ってきたクリント・イーストウッドが、久々のハードモード。
アトランタ五輪開催中の1996年7月、イベントが行われていた市内の公園で爆弾テロが発生。
人混みでの事件だったにも関わらず、爆弾が爆発前に見つかっていたことから、群衆の多くはすでに爆弾から引き離されていて、犠牲者数はこの種のテロ事件では相対的に少なかった。
事件直前、放置されたバックパックに隠された爆弾を最初に発見したのが、当時警備員をしていたタイトルロールのリチャード・ジュエルだ。
しかし、多くの人を救った英雄とされていた男は、不幸にもFBIのプロファイリングした犯人像と一致していたことから疑われ、一転して容疑者となってしまうのである。
イーストウッドは、公権力とマスコミによって、平凡な市民が一瞬にして全てを奪われる恐怖を描き出す。
24年前の事件を描く作品ながら、モチーフは現在性が高く娯楽映画として良く出来ているのだが、残念ながらイーストウッド自身が、自分が批判している人たちと同じ過ちを犯してしまっている。

1996年7月27日。
オリンピック開催中のアトランタ。
警備員のリチャード・ジュエル(ポール・ウォルター・ハウザー)は、センテニアル・オリンピック公園で開かれているイベントの警備中、ベンチの下に置かれた不審なバックパックを発見。
爆発物処理班に通報すると共に、付近の観客を遠ざけ始める。
間も無くパイプ爆弾が爆発し、二人が死亡し、百人以上が負傷する参事となるも、爆発前に爆弾が発見されていたこともあり、最悪の事態は免れた。
多くの人を救ったとして、時の人になったジュエルだが、犯人像をプロファイリングしていたFBIは、警察官に憧れていたジュエルに疑いの目を向ける。
地元新聞のアトランタ・ジャーナル・コンスティチューションのキャシー・スラッグス(オリビア・ワイルド)は、懇ろに付き合っていた捜査官から、ジュエル犯人説を聞き出し、スクープ。
マスコミは相次いでジュエルが捜査対象になっていることを報道し、彼は英雄から瞬く間に容疑者とされてしまう。
人々がジュエルに疑いの目を向ける中、味方になってくれたのは母のボビ(キャシー・ベイツ)と、旧知の仲だった弁護士のワトソン(サム・ロックウェル)だけだった・・・


劇中でジュエルが繰り返し口にするのが、「僕も法執行官だから」という言葉。
元々警察官になりたかったジュエルは、一度は副保安官となるものの、しばしば正義感が暴走し周囲との軋轢を生じさせてしまい、警備の職を転々とする。
そんな時に起こったのが、この事件だったのだ。
英雄願望を抱く白人の負け組の男が、人々から賞賛されたいがために、自作自演の爆弾事件を起こした、というFBIプロファイラーの見立てに、偶然にもジュエルはピッタリ当てはまる人物像だったのである。
彼が容疑者となっていることは、事件の3日後にアトランタ・ジャーナル・コンスティチューション紙の事件記者、キャシー・スラッグスのスクープによって明るみ出て、以降ジュエルは何の証拠もないまま、最重要容疑者と目されるようになり、FBIが公に嫌疑なしとした10月26日までの3ヶ月間、執拗にマスコミに追い回された。

FBIとマスコミという巨大な力によって、一人の男が人生を壊されゆく理不尽さはしっかりと描かれている。
おそらく誰もが情報発信者となったSNS社会の現在なら、彼の置かれた状況はもっと酷くなっていただろう。
イーストウッドが、“歯止めを失った情報による悲劇”を、事件から四半世紀が過ぎようとしている現在に描いた理由はよく分かるし、クライマックスとなる最後の取り調べで、ジュエルが語る正しいことを正しい時にする意義と勇気、そしてそれを阻害する見えない圧力の話はとても大切なことだ。

だがしかし、本作では完全に悪役扱いのFBIやマスコミ側の描き方は腑に落ちないし、決して絶賛していい作品ではないと思う。
自らの描いた見立てに、後付けでジュエルを当てはめようとするFBIに関しては、過去にも似たような間違いをいくつも犯しているので、組織としてこんなこともあるだろうと感じたが、捜査官のキャラクター造形はどう見てもかなりのステロタイプ。
もっと問題なのはマスコミの扱いで、特に“マスコミの悪”を一身に背負わされたキャシー・スラッグスに関しては、相当に恣意的に描いているのではないか。
ジュエルは、自身に対するFBIの捜査が終了した後に、根拠なく自分を犯人扱いしたとして元勤務先のピードモント大学に加えて、NBC、CNN、ニューヨーク・ポスト、アトランタ・ジャーナル・コンスティチューションなどのマスコミを名誉毀損で訴え、和解を勝ち取っているが、唯一アトランタ・ジャーナル・コンスティチューションは和解を拒否して争い、2011年になってジュエル側の敗訴で終わっている。
当時FBIがジュエルを最重要容疑者と考えていたのは事実で、それを記事にしたこと自体は名誉毀損ではないという判決は、当然といえば当然。
それにスラッグス本人は、2001年にモルヒネの過剰摂取という自殺とも事故とも取れる亡くなり方をしているのだが、スクープの情報源に関しては裁判でも一切明かしていない。
スラッグスがFBI捜査官と寝て捜査情報を不正に入手したという本作の描写は、欠席裁判状態で彼女を悪役と定義するために設定された、裏付けの無いミソジニー的な憶測の産物に過ぎず、明らかに彼女の名誉を毀損している
当人が反論できない状態で、人物を自分たちの描いた大衆好みの物語に都合よく当てはめるのは、この映画が批判している公権力とマスコミの罪と全く同じではないか。

イーストウッドは、硫黄島二部作ではわざわざ米国側と日本側の視点で別の映画を作るくらい、歴史的事実の公平性に拘っていたのに、10年代に入ってからは主人公と対立している相手を過度に単純化するきらいがある。
もちろん、実話ベースの映画だからと言って、脚色してはいけないと言っている訳ではない。
問題は史実に対し、どうアプローチするかという作り手のスタンスなのだ。
西部劇の構造を踏襲し、“アメリカの暴力の矛盾”を戯画化した「アメリカン・スナイパー」の敵スナイパー、ムスタファなどは映画を寓話的に落とし込んだことで、良い方に作用していた。
ところが「ハドソン川の奇跡」では、事故のあらゆる可能性を検証することを任務とする国家運輸安全委員会を、英雄の機長を貶めようとする悪役として描き、映画全体を軽いものにしてしまった。
本作もまた、出世欲にとりつけれた単純な悪役としてスラッグスを造形し、最後には涙を流して改心させるという恐ろしくチープな描写を入れることによって、かえってジュエルの成し遂げた正義まで、嘘っぽく矮小化させてしまっているように思う。
捜査機関には捜査機関の、記者には記者の矜恃と葛藤があるはずで、以前のイーストウッドならこの題材で白黒二元論に単純化することは無かっただろう。
内容的には充分に興味深く、ジュエルとサム・ロックウェル演じる弁護士の人情溢れる人間ドラマとしても面白かったが、このテーマを描くならば、倫理的に絶対に落としてはいけない部分が抜け落ちてしまった印象は否めないのである。

アトランタといえばバーボンストリートが有名なのだけど、今回はちょっとユニークなコーンウィスキー「ジョージア・ムーン」をチョイス。
まるでジャムの瓶の様な広口のボトルは、むっちゃ注ぎにくい。
ムーンという名前は実は禁酒法時代の“密造酒”を指すスラングで、コーン80%以上を使用し蒸留し、30日以内の短期熟成を売りにした変わり種。
一見するとウィスキーとは思えない無色透明、若い酒だけにピリピリとしたアルコールの刺激が先に来るが、コーンの風味はしっかりと残る。
味わいとしては単純なので、ショットグラスでグイッとやるか、カクテルベースにして飲むのがオススメ。

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ラストレター・・・・・評価額1750円
2020年01月23日 (木) | 編集 |
初恋の記憶は、なんと残酷でロマンティック。

岩井俊二監督が、故郷の宮城県を舞台に、手紙のやり取りから始まる初恋の記憶の覚醒と、二つの世代の喪失と再生を描くリリカルなラブストーリー。
初恋の人と再会するヒロイン・祐里を、自身の初主演作となった「四月物語」から22年ぶりの岩井作品出演となる松たか子が演じる。
裕里の少女時代と、娘の颯香の二役を「天気の子」で注目された森七菜、祐里の姉の未咲とその娘の鮎美を広瀬すず。
祐里の初恋の人である小説家の鏡史郎に、福山雅治と神木隆之介という豪華キャスト。
フォトジェニックな夏の宮城の情景はどこまでも広がる夏木立が美しく、映像を観ているだけで岩井ワールドへのトリップ感満点。
四半世紀前の長編映画デビュー作、「Love Letter」へのセルフ アンサームービーともなっており、前作の「リップヴァンウィンクルの花嫁」と共に、岩井俊二全部入りの集大成だ。
※核心部分に触れています。

自ら命を絶った姉の未咲の葬儀の席で、妹の祐里(松たか子)は未咲の娘の鮎美(広瀬すず)から同窓会の案内状を見せられる。
姉の死を知らせるために、代理のつもりで行った同窓会だったが、祐里は皆から生徒会長で学園のマドンナだった未咲と勘違いをされてしまう。
その場で自身の初恋の人である鏡史郎(福山雅治)と再会した祐里は、姉の名を語り住所を知らせないまま彼に手紙を送り始める。
同じころ、未咲の実家に届いた鏡史郎からの返事を読んだ鮎美と祐里の娘の颯香(森七菜)は、母たちの過去に興味を持ち、自分たちが未咲のふりをして返事を書く。
交錯する手紙の数々は、鏡史郎と未咲と祐里の、25年前の忘れえぬ初恋の記憶を紡ぎ出してゆく。
一方、仙台の祐里を訪ねた鏡史郎は、そこで初めて未咲の死を知らされる。
そして彼は、祐里の知らない未咲との思い出を語りはじめるのだが・・・・


喪の仕事からはじまる物語は、明らかに「Love Letter」と対になり、同時に精神的な続編となる様に作られている。
冬の小樽と神戸を舞台とした「Love Letter」では、雪山の遭難で婚約者の樹を亡くした中山美穂演じる博子が、今はもう取り壊されてしまったはずの彼の生家へと手紙を送る。
ところが彼女の手紙は、ひょんなことから彼と同姓同名で、中学の同級生だったもう一人の“藤井樹”へと届いてしまう。
相手を取り違えた不思議な文通は、いつしか懐かしくも切ない初恋の記憶を呼び起こし、主人公の喪失からの再生を後押しするのである。
初恋の彼とは性別違いの樹と主人公の博子を、中山美穂が二役で演じていることなど、本作とはテリングのロジックも含めて共通点が多い。
プロットはグッと複雑にはなっているが、現在の手紙のやり取りによって、過去の記憶が呼び起こされるのも共通。
実際、本作の序盤の展開は、まるで「Love Letter」の焼き直しの様だ。
だが、物語が進むにつれて、四半世紀の時を挟んで作られた二つの作品は、ハッキリと異なる顔を見せてくる。

北海道の雪景色が印象的だった「Love Letter」に対し、本作の舞台は万緑生い茂る真夏の宮城。
この映画が「Love Letter」と一番異なるのは、季節以上に初恋から現在までの期間だろう。
主要登場人物が、まだまだ青春真っ盛りの二十代だったあの作品に対し、本作は子供世代も出てくる四十代。
高校卒業から25年の間には、当然誰の人生にも色々な事件が起こり、輝かしい人生の黄金時代からの隔たりが、物語を圧倒的に深化させている。
「Love Letter」は、30歳そこそこの若き映画作家ならではの、初恋に対する想いが詰まったピュアな作品だったが、これは逆に酸いも甘いも嚙み分け、56歳のおっさんになった岩井俊二にしか撮れないなんともメロウな映画なのである。

映画の前半部分で、狂言回し的に物語を主導するのは松たか子の祐里だが、テーマ的な主人公は福山雅治演じる鏡史郎だ。
彼が現在の裕里を訪ね、彼女も知らなかった未咲の真実が語られ始めると、鏡史郎が前面に出て物語が大きく動き出す。
高校生の頃に、学園一の美少女の未咲に恋してしまった彼は、大学生の時に一度は初恋を成就させ、彼女と恋人同士になる。
しかし結局のところ、未咲は生真面目で誠実な鏡史郎とは正反対の得体の知れない怪人物、阿藤を選び、そのことが彼女の人生を大きく変えてしまう。
豊川悦司が怪演する阿藤と、その内縁の妻として中山美穂がスクリーンに現れた時、「Love Letter」ファンはショックを受けざるを得ないだろう。
あの作品の爽やかを絵にかいたような主人公カップルに、人生に疲れ果て底辺に生きる二人を演じさせる映画作家の悪意と残酷さよ。
本作が岩井俊二の出世作となったTVドラマ、「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」の様に、「Love Letter」のパラレルワールドだとしたら、二人にも別の人生があったということか。
そういえば「打ち上げ花火」も本作も、世界観が「夏休み」という非日常の時間枠にきれいにパッケージングされているという共通点がある。

一方、ふられた形となった鏡史郎は、未咲との思い出をもとにした小説、その名も「未咲」によって作家としてデビューしたものの、その後は全く書けていない。
彼は今も輝かしい初恋の記憶に囚われ、そこから一歩も前へ進めない魂の囚人なのだ。
裕里との再会をきっかけにしてはじまった、裕里、鮎美、颯香との手紙のやり取りは、鏡史郎の中にあった記憶を手紙という形であらためて具現化する。
そして、何者かになりたくて、結局何者にもなれなかった、阿藤というもう一人の自分の鏡像との再会を通し、ようやく過去の自分と向き合うことになるのである。
心の中で美化された、初恋の妄想に生きる男の再生劇の仕上げは、今は廃墟と化した懐かしの高校での、鮎美と颯香との出来すぎなくらいに美しく映画的な邂逅だ。
少女性を強調するワンピース姿の二人は、思い出トリップ中の鏡史郎には、まるで25年前から来た幽霊のように見えたはず。
もう存在しないはずの過去が、かつての恋人の死と、その子供世代というリアルな形で現われたことで、魂の囚人はついに現実へと解放されるのである。
それにしても、同じ初恋の記憶を共有していても、すっかり地に足を付けて、新たな家族を作っている女性側と、25年もの間未練タラタラに立ち止ったままの男の体たらく。
この差を無慈悲に描けることこそ、「Love Letter」からの岩井俊二の進化の証明なのかも知れない。

本作は「物を書くこと」に関する物語でもあり、登場人物は皆、記憶を文章とすることで過去と向き合う。
一個人の中にあった人が人を思いやる記憶が、手紙や小説という形ある器に入ることで、当事者だけでなく世代を超えて継承されてゆく、ある種の物語論的な作品でもあるのがユニークだ。
本作の劇中で紡がれる文章は、基本的にすべて過去を描写したものだが、唯一の例外が高校時代の鏡史郎が文面を手伝い、未咲が卒業式で読んだ卒業生代表の挨拶。
「私たちの未来には無限の可能性があり、数えきれないほどの人生の選択肢があると思います」
自殺した未咲が娘の鮎美に残した遺書が、過去ではなくまだ見ぬ未来について書いたこの文章なのは、本作が思い出へのレクイエムであり、同時に未来へのエールであることを示して象徴的。

非常に緻密に、隅々まで計算して作り込まれている作品だが、特に複雑に入り組んだ形で役をシェアしている俳優たちが素晴らしい。

演技指導が行き届いているだけでなく、松たか子と森七菜なんてよっぽどディテールのすり合わせをしたのだろう。

同窓会で鏡史郎に気づく表情とか、なるほど高校生のあの子が成長したら、こんな大人になるという説得力抜群。

ワンシーンのみの出演だが、豊川悦司の怪人っぷりと、どこまでも対照的な福山雅治のナチュラルな記憶の器としての人物像など、一人ひとりのキャラクター造形が見事だ。
そしてこのところグッと洗練されてきた広瀬すずと、森七菜の成長途中の危うい可憐さ。
師匠の篠田昇から岩井組の撮影監督を引き継いだ、神戸千木によるノスタルジックな情景のフレームの中で、二人の美少女が佇む映像はそれだけで眼福としか言いようがない。
あと裕里の夫で、鏡史郎への嫉妬に狂う庵野秀明が、実に味のあるキャラクター(笑
彼が描いてる設定の劇中漫画を、鶴田謙二が担当してたりするのもマニアック過ぎだろう。 
初恋の記憶から紡ぎ出される、愛と死と喪失と再生の物語は、単体でも充分に成立しているが、やはり「Love Letter」とセットで鑑賞するのが、ダブルで面白いしオススメだ。

今回は舞台となる仙台と白石のちょうど真ん中辺、宮城県村田町の大沼酒造店の「乾坤一 純米酒 辛口」をチョイス。
典型的な淡麗辛口。
豊かな米の旨みと柔らかな口当たり、キレの良い喉越し。
非常にバランスの良い酒で飲みやすく、食欲を刺激されて自然と箸が進む。
初恋の人と再会したら、一緒に飲んでみたくなる酒だ。

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ショートレビュー「ジョジョ・ラビット・・・・・評価額1750円」
2020年01月19日 (日) | 編集 |
軍国少年、愛の意味を知る。

リーゼントのスタンド使いの話ではない。
第二次世界大戦末期、ナチスの熱烈な信者でイマジナリーフレンドがヒトラーという、10歳のドイツ人の少年ジョジョの物語。
ママは何やら忙しくしているし、パパはイタリア戦線へ向かったまま行方不明。
せっかくヒトラーユーゲントへ入団したものの、年長の少年たちからウサギのように弱虫だとイジメられ、あげくに手榴弾を誤爆させて顔に傷の残る大怪我を負い、雑用しかさせてもらえなくなってしまう。
そんな冴えない毎日を送っていたある日、ジョジョは自分の家の屋根裏にユダヤ人の少女が匿われていることを知ってしまい、信じていた世界が揺らぎ始める。

冒頭、ザ・ビートルズの「抱きしめたい」と共に、ナチスとヒトラーへの人々の熱狂が描かれる。
ヒトラー役は「誰だ?この気持ち悪いおっさんは?」と思ったら、タイカ・ワイティティ監督が自ら演じているじゃないか。
まあこの人は元々コメディアンでもあるので、少年の心の中で微妙にカリカチュアされたような、漫画チックなヒトラーには適役。
ナチス政権は疲弊した国民の熱烈な支持を得て誕生し、ヒトラーはロックスター並みの大衆のアイドルだったから、孤独な少年ジョジョが、大人たちが熱狂する独裁者に憧れるのは、時代と社会を考えれば不思議なことではない。
全編に渡ってシニカルなユーモアが前面に出るのはワイティティらしいが、プロットは非常にロジカルに構成され、隅々まで端正に作られた映画だ。
ジョジョの幼さを示すほどけた靴紐の象徴性など、ディテールの描写の数々は極めて繊細で丁寧。

物語の序盤では、まだ平穏だった街にも、だんだんと戦火の香りが漂ってくる。
アメリカとソ連の軍隊が迫り、幼馴染の太っちょヨーキーは、なんと紙で出来たダサい制服を着せられて、いっぱしの少年兵に。
街の広場では、反ナチス運動をしていた大人たちが首を括られて処刑されている。
戦争という異常な状況下で、少年ジョジョは一気に色々な体験をして成長してゆく。
いや、否応なしに成長せざるを得なくなるのだ。
ツノの生えた悪魔だと洗脳されていて、最初は未知の存在だった歳上のユダヤ少女、エルサへの複雑な想いは、やがて初恋の衝動に。
そして、軍国少年は最愛のママの突然の喪失と共に、彼女から「人間の一番強い力」だと教えられた、愛の意味を知るのである。

幼い想像力から生み出されたイマジナリーフレンドは、ホンモノのヒトラーの死と共にその役割を失い、人を愛する気持ちと本当の勇気を知ったジョジョの前に広がっているのは、未来という名の未知の現実だ。
ヒトラーユーゲントで、ジョジョの「上官」となるサム・ロックウェルと、密かに抵抗運動に身を投じているママのロージー役のスカーレット・ヨハンソンが素晴らしい。
ロックウェル演じる、お調子者の“キャプテン・K”ことクレンツェンドルフ大尉は、劇中では明言されていないのだけど、たぶん気のいい部下のフィンケルとは誰にも知られてはいけない恋人同士で、だからこそジョジョの抱える秘密も守り通す。

アメリカ製の作品ゆえに、キャラクターのドイツ人が全員英語を喋る。
それゆえに「戦時中のドイツ人=ナチス=悪」という単純化したステロタイプタイプからは解放されていて、むしろナチスという集団ヒステリー的な虚飾のファンタジーから、少年の成長とともに地に足をつけた現実へと導かれる、ユニークな寓話となっている。
戦場の子供たちを描いた作品は数多いが、子供の柔軟な感性で恣意的に作られた嘘を乗り越え、差別や分断を解消するというアプローチは新しく、全く説教くさくないのも良い。
ウェルメイドな作品だが、ナチスものという括りがあるので時事性という点ではちょっと弱く、アカデミー賞レースでは苦戦する気がする。
しかし高い普遍性を持ち、冒頭からワクワクが湧いてくるラストカットまで、タイカ・ワイティティのセンス・オブ・ワンダーが炸裂する、青春映画の快作だ。

今回はウサギつながりで、「ジャック・ラビット」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、ドライ・ベルモット30ml、トリプル・セック10ml、アプリコット・ブランデー10mlを、氷と共にシェイカーに入れてよくシェイクし、グラスに注ぐ。
ジャック・ラビットとはアメリカ西部に生息する野ウサギのことで、多産のウサギは復活祭の時に卵を運んでくるイースター・バニーというキャラクターでもあることから、復活祭に供されるカクテルとして知られる。
似た名前だが、アップル・ジャックやメープルシロップを使う「アップル・ジャック・ラビット」とは見た目も味わいもだいぶ異なる。

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フォードvsフェラーリ・・・・・評価額1750円
2020年01月13日 (月) | 編集 |
誰も見たことのない世界へ。

ストレート過ぎるタイトルを聞いた時には、「なんちゅうベタな・・・」と思ったが、さすがジェームズ・マンゴールド。
見ごたえたっぷり、いぶし銀の熱血バディドラマだ。
1960年代のル・マン24時間耐久レースで、無敵を誇ったフェラーリに挑んだ新参者、フォードの悪戦苦闘を描く。
熾烈な戦いの中で、物語の軸となるのはマット・デイモンが演じるチームオーナーのキャロル・シェルビーと、クリスチャン・ベイルが好演する開発ドライバーを務めたケン・マイルズ。
これは、エンジン回転数7000rpmオーバー、最高速度340キロという未知の世界を体験した、二人の男の栄光と挫折の物語。
史実をベースとした作品なので、顛末を知っていてももちろん楽しめるが、もし知らない人は変に情報を入れずに鑑賞した方がより感慨深いだろう。
「ラッシュ/プライドと友情」と並ぶ、モータースポーツ映画の最高傑作が誕生した。
※核心部分に触れています。

1960年代初頭、免許取得年齢を迎え始めるベビーブーマー世代にアピールするために、フォードはモータースポーツ部門の拡大を決定。
ル・マン24時間レースで連覇を続けていたフェラーリの買収を狙うも、けんもほろろに追い返される。
ヘンリー・フォード2世(トレイシー・レッツ)は、コンストラクターのキャロル・シェルビー(マット・デイモン)にGT-40と名付けられた車両の開発を託し、フェラーリへの雪辱を誓う。
中途半端な性能のマシンを仕上げるために、シェルビーは優れた開発ドライバーであるケン・マイルズ(クリスチャン・ベール)を招聘し、彼の尽力によって、GT-40はフェラーリを射程に捉える戦闘力を獲得する。
しかし、フォードのモータースポーツ責任者のレオ・ビーブ(ジョシュ・ルーカス)は、怒りっぽく空気を読まないマイルズを危険視し、ル・マンのドライバーから彼を外すことを決定。
シェルビーは、誰よりもGT-40を知り尽くしたマイルズを欠いたまま、フェラーリとの対決を強いられるのだが・・・


冒頭、漆黒の闇の中、地を這うような視点で展開されるレースシーンに、先ずは心を掴まれる。
今を去ること半世紀以上前のこと。
スポーツカーレースの最高峰、ル・マン24時間耐久レースで常勝を誇ったフェラーリを倒すため、巨大メーカーだがル・マンのノウハウの無いフォードは、一人の男に白羽の矢を立てる。
彼の名は、キャロル・シェルビー
クルマ好きには、伝説の名車“コブラ”の生みの親として有名な人物だが、キャリアを遡れば元F1レーサーにして、1959年のル・マンでアストンマーチンを駆り優勝した実力者。
心臓病のために現役を引退した後も、自分のレーシング・コンストラクター、“シェルビー・アメリカ”を設立して戦い続けているプロフェッショナルだ。
しかし、いかにシェルビーが優秀でも、実績の無いフォードをいきなり頂点のル・マンで勝たせるというのはあまりにも無茶な話。

モーターレーシングは、究極のチームスポーツである。
ドライバーの肉体と、多くの職人によって精密に組み上げられた機械が高度に融合し、そのポテンシャルを長いレース時間中持続することが出来て、初めてまともに機能する。
しかもただ速いだけではダメで、タイヤ交換や燃料補強などのピット戦略、ドライバー同士の相性などの要素が複雑に噛み合って勝敗を左右する。
F1の様なオープンホイールのスプリントレースでもそうなのだから、24時間に5000キロもの距離を、極限のスピードで走り続けなければならない耐久レースは、まさにノウハウの塊だ。
あのトヨタでさえ、ル・マンの初優勝を飾ったのは、本格参戦開始から33年後の2018年なのだから、いかに難しいかが分かる。

フォードは対フェラーリ様に、イギリスのローラ製の車体をベースに自社製エンジンを載せてGT-40を作ったものの、見事に惨敗。
新たに車両開発とワークスチームの運営を託されたシェルビーが、天才的なドライバーだが偏屈で扱い難いケン・マイルズを呼び寄せることから物語が動き出す。
そもそも、同じ自動車メーカーといっても、フォードとフェラーリはその成り立ちから水と油。
大衆のための安価な自動車を、流れ作業の大量生産で作り出したフォードは、その数の力でモータリゼーションの革命を起こした。
対して、レーシングドライバーだったエンツォ・フェラーリが一代で作り上げたフェラーリは、元々レースをするための資金源として市販車を売る会社。
あくまでもレースで勝つことが本業で、市販車はオマケという少数精鋭の“レース屋”集団だ。
映画では、ヘンリー・フォード2世がエンツォに「お前はヘンリー・フォードじゃない。2代目だ。」と言われる(正確にはフォード2世はヘンリーの孫で三代目)。
要するに、「お前はただ創業者の遺産で食ってるボンボンで、全てを一から作った俺とは格が違う」と、ホントのことを言われているのだが、大いにプライドを傷付けられてブチ切れる。

同時に、この言葉には「そもそもお前は、レースのことなど何も知らないじゃないか」という侮蔑の意味も含まれている。
この時代にすでに巨大な官僚的企業だったフォードは、その場その場で臨機応変な戦術変更が必要な、耐久レースのようなカテゴリで戦うには最も向かない。
だからこそ、シェルビーにチームの運営を任せたのだが、それでも彼らは巨大組織の末端という軛から逃れられないのである。
GT-40を開発し、長所も弱点も誰よりも知っていて、なおかつ速いのはマイルズ。
もしエンツォであれば、真っ先にレースドライバーとしても彼を起用するだろう。
だが、あくまでも広報戦略の一環として、レース活動を進めるフォードは、喧嘩っ早くて口の悪いマイルズを警戒し、表舞台に立たせまいとする。
マイルズを欠いたままル・マンに出場した1965年の結果は、スピードではフェラーリを凌駕する瞬間もあったものの、惜敗。
シェルビーとマイルズは、「vsフェラーリ」以前に、「フォードvsフォード」の戦いを強いられてしまうのである。

映画ではフォードのモータースポーツ部門の責任者、レオ・ビーブを悪役っぽく描いているが、フォードの販売を強化するためにレースを統括する彼の立場では、至極まっとうな仕事をしているだけ。
組織の利益は、必ずしも個人、あるいは組織内の一部門の利益と合致するとは限らない。
巨大企業の枠組みの中で、実際に現場を引っ張る人にとっては、シェルビーとマイルズの葛藤は、そのまま我が身に置き換えて感情移入できるだろう。
私は本作を観ながら、もしかしたら今回の「スター・ウォーズ」の制作過程でも、同じようなことがあったんじゃないかなと、シェルビーとマイルズをJ・Jとコリン・トレボロウに、フォード2世をディズニー会長のロバート・アイガーに、ビーブをキャスリン・ケネディに置き換えて想像してしまった(笑

組織と個人の普遍的な関係の中で、本作は徹底的に個人、特に英国に生まれ、アメリカに移り住んだ苦労人であるマイルズに寄り添う。
シェルビーが基本的に仕事関係しか描かれないのに対し、マイルズは妻と息子との関係がじっくり描かれる。
この家族がまた素敵で、世間からは変わり者として見られているマイルズと、非常に強い信頼関係で結ばれているのがよく分かるのだ。
特に妻のモリーは、レース馬鹿の子供っぽい男たちを、半ば達観した目で愛情深く見守っていて、何かに夢中になったら脇目も振らないオタク脳の男にとっては、ある意味理想の女性
さりげない人生の日常の描写を通し、人間関係を突き詰めてゆく辺りは名手マンゴールドの面目躍如だ。
もっとも、シェルビーの私生活が描かれないのは、この時期パートナーがいなかったのに加えて、生涯に実に7回も結婚しているという、家庭人としてはちょっと問題ある人だったからかも知れない(笑

面白いのは、シェルビーが煮え切らない態度のフォード2世を開発中のGT-40に乗せて、レーシングスピードを無理やり体感させるシーン。
私は若い頃にジムカーナなんかをやっていて、本作にも序盤に登場するカリフォルニアのウィロースプリングス・レースウェイで、レーシングカーの助手席に同乗させてもらった経験を思い出した。
たぶん、ドライバーは余裕で流しているだけだったと思うのだが、その凄まじい加減速、コーナーリングGは異次元のレベル。
自分でも走ったことがある、良く知ったコースがまるで別物に見え、「これがプロの世界か」と驚愕したのを覚えている。
人は、自分が経験したことのないものを理解するのは難しい。
このエピソードが事実かどうかは分からないが、自分たちがどれほど厳しいフィールドで戦っているのかを、実感を持ってボスに分からせる秀逸なエピソード。
あの瞬間、フォード2世はそれまで組織の歯車としか考えていなかったシェルビーやマイルズを、とてつもないスキルを持つ個人としてリスペクトしたのだ。

しかし、それでもフォード2世を含めて、誰も組織から自由になれないアイロニー。
1966年のル・マンの結果はある種の”美談”として知っていたが、その裏にこんなドラマが隠されていたとは。
シェルビーやマイルズが危険なレースに挑戦するのは、もちろん勝ちたいという欲求もあるのだろうが、決してそれだけではない。
信頼できる仲間、愛する人たちに支えられ、7000rpmを超える誰も見たことのない領域を極めるため。
彼らはある意味で、永遠に届かないゴールを目指すボヘミアンであり、魂の冒険者なのである。
それは利益という尺度で測られる、ビジネスとしてのレースとは相容れず、その意味では巨大なフォードはよりピュアな存在であるフェラーリにはどうしても勝てなかった。
全てを捧げた者が常に報われるとは限らない、未知の領域を追求した結果としてのビターなラストは、ちょっと「マネーボール」に通じる詩情を感じさせ、今はもういない20世紀の頑固な男たちの見果てぬ夢のロマンが、余韻として心にしみる。

今回は、24時間走り続ける耐久レースに引っ掛けて、「レッド・アイ」をチョイス。
本来は、夜通し飲み明かした後の迎え酒として知られるビアカクテルで、寝不足の充血した目が名前の由来。
トマト・ジュースをタンブラーの四割ほどまで注ぎ、ビールを同分量注いで、軽くステアする。
酒というよりはトマトが強く出ていて、ビール風味のトマト・ジュースという感じ。
疲れ切った胃には炭酸ののど越しと、トマトの酸味が効いてスッキリと飲める一杯だ。

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パラサイト 半地下の家族・・・・・評価額1750円
2020年01月09日 (木) | 編集 |
淀んだ地下には秘密がある。

「グエムル 漢江の怪物」「母なる証明」などで知られる、鬼才ポン・ジュノ監督の最新作は、盟友のソン・ガンホと四度目のタッグを組み、地下に埋もれた現代韓国の闇を描く、シニカルなブラックコメディ。
半地下の家に住み、内職でなんとか食いつないでいる失業者の家族が、ひょんなことから大金持ちの邸宅に入り込み、寄生するように暮らしはじめる。
しかし、この映画が描き出す現代社会のダークサイドは、こちらの想像の斜め上を軽々と超え、遥かにディープ。
二つの家族の出会いは、予期せぬ化学反応を呼び、彼らの運命は負のスパイラルに巻き込まれてゆくのである。
韓国映画としてはじめて、カンヌ国際映画祭の最高賞パルム・ドールに輝いたほか、ゴールデングローブ賞外国語映画賞など、世界各国の映画賞を席巻している超話題作だ。
※核心部分に触れています。

家族全員失業中で、家賃の安い半地下の家で、その日暮らしの生活を送るキム一家。
ある日、長男のギウ(チェ・ウシク)は、友人に紹介されてIT企業のオーナーのパク氏(イ・ソンギョン)の邸宅へ、娘のダヘ(チョン・ジソ)の家庭教師の面接を受けに行くことになる。
すると、パクの妻のヨンギョ(チョ・ヨジョン)に気に入られ、自分だけでなく息子のダソン(チョン・ヒョンジュン)の美術教師として妹のギジョン(パク・ソダム)を送り込むことに成功。
やがてパク家の家政婦ムングァン(イ・ジョンウン)を追い出すと、代わりの家政婦として母のチュンスク(チャン・へジン)が、パクの運転手として父のギテク(ソン・ガンホ)が採用され、キム一家は素性を隠したまま、完全にパク家に寄生するようになる。
生活苦から解放され、羽を伸ばすキム一家だったが、パク一家が揃ってキャンプに出かけたある夜、突然ムングァンが戻ってくる。
実はこの邸宅には、彼女以外に誰も知らない秘密があった・・・・


ポン・ジュノと出演者から、先行上映の観客に”ネタバレ禁止のお願い“が流れる。
なるほど、たしかにこれはあまり情報も入れない方が面白いので、観てない方はこれ以上は読み進まないことをお勧めする。
失業中の貧民層の家族が、ひょんなことから富豪の邸宅にするりと入り込む。
そして富める者の余裕に漬け込んで、彼らの生活に寄生してゆくのだが、ここから先の展開は完全に予想外だった。

韓国の格差社会、金持ち家族と使用人を描いた作品と言うと、本作にも大きな影響を与えていそうなキム・ギヨン監督の古典、「下女」がまず思い浮かぶ。
近年、イム・サンス監督、チョン・ドヨン主演で「ハウスメイド」としてリメイクされたので、こちらはご覧になった方も多いだろう。
1960年に公開された「下女」では、金持ちの音楽家トンシクの家庭に入り込んだ住み込みの家政婦のミョンスクが、ハニートラップで主人を籠絡、幸せだった家族を破滅させてゆく。
この作品で、非常に効果的に使われているのが、トンシクの家の階段だ。
当時の韓国は、一人当たりのGDPが160ドル程度のアジア最貧国の一つ。
庶民の多くが長屋のような粗末な家に住んでいる中、二階を持つ家はそれだけでステータスシンボルであり、様々なエピソードが階段を起点にして展開する。
そして、悲喜交々の階段のドラマは、本作にも確実に受け継がれているのである。

冒頭で、半地下の家に持ち込まれる山水景石が象徴的。
一つの石を自然の山のミニチュアとして見る粋な文化だが、本作も韓国社会のミニチュアだ。
キム家の家族が住んでいる、ゴチャゴチャした下町にある半地下の家は、いわば山の裾野。
「下女」が公開された後、韓国は朴正煕政権下で“漢江の奇跡”と呼ばれる高度成長期を迎えるのだが、この時期に作られた建物には、北朝鮮との再度の戦争を見越して、シェルターや貯蔵庫として使える半地下を作ることが推奨されたという。
しかし長らく戦争は起こらず、無用となった半地下を賃貸物件として貸し出すケースが増えたそうなのだが、そもそも最初から生活空間としては考えられていない。
ほとんど日もささず、ジメジメとした湿気は取れないし、水圧の関係でトイレだけ高い位置にあるなど、居住性が劣悪なために家賃が安く、結果として貧困層の住居となった。
対照的に、下町から長い階段を登った、高台の高級住宅地にあるパク家の邸宅は、いわば山水景石の頂上だ。

邸宅の中の地下室、地上、二階を結ぶ階段。
そして、高級住宅地と下町を結ぶ、長い長い階段。
いくつもの上下移動を要求する階段が、ドラマチックな動線となって物語を展開させるのだが、本作で秀逸なのが水を使った演出だ。
格差社会を肯定する為政者や富裕層によって、しばしば引き合いに出されるのが、富裕層が富めば富むほど、貧しいものにも富のおこぼれがしたたり落ちる、というトリクルダウンの理論。
この考え方を説明するのに、よくシャンパンタワーが用いられるが、本作では激しい雨水がその欺瞞を暴き出す。
高台の高級住宅地に降った雨は、金持ちたちには被害をもたらすこと無く、そのまま下町へと流れ落ち、都市のゴミを巻き込んだ濁流となって貧しい人々を襲う。
下町の最下層にあるキム家の半地下の家などは、完全に水没してしまうのだ。
トリクルダウンでは富はしたたってこない。
怒涛の勢いで流れて来るのは、更なる貧困なのである。

ここまでは、いわば可視化された格差で、予想できるものだが、本作の凄さはこの先にある。
実は、邸宅の地下深くに隠された核シェルターに、誰も知らない最下層のさらに最下層として、文字通りの“インビジブル・マン”が存在しているのだ。
この辺り、昨年話題になったジョーダン・ピール監督の社会派ホラー、「アス」と奇妙に符合するのが面白い。
もちろん描き方は全く異なるが、格差社会をモチーフにしたシニカルな暗喩劇なのも共通。
あの映画では、打ち捨てられた全米の地下施設に暮らすコピー人間たちが、地上の富裕層に対して反乱を起こし、自分たちの存在をデモンストレーションする。
対して本作では、インビジブル・マンの予期せぬ出現によって、二つの家族の間に蓄積されてきた淀みが一気に噴出し、破滅をもたらすのである。
半地下などまだ生ぬるい、本当の絶望は誰にも見えない地の底にあるという訳だ。
予測不能のアクションの連続から、一度住んだら決して拭い去れない“半地下の臭い”というカメラに写らないものが、決定的な意味を持つクライマックスの描写は実に映画的で、巧みな構成と円熟した演出力に思わず唸った。

しかし、これでカンヌ国際映画祭は、2016年の「わたしは、ダニエル・ブレイク」、18年の「万引き家族」、そして本作と、過去4年間で3本、格差社会を扱った映画をパルム・ドールに選んだ訳だ。
もちろんカンヌだけでは無く、例えば昨年世界的な大ヒット作となった「ジョーカー」や、レバノンのスラムを舞台とした「存在のない子供たち」、ケン・ローチが再び格差社会の痛みを描いた「家族を想うとき」、本作と同じく現代韓国の闇に挑んだ「バーニング 劇場版」など、世界中で同一モチーフの映画が続々と作られているのは、もはやこれが汎地球的なイシューで、世界のどこでも同じ問題を抱えているということだ。
本作のパク家の人々がアメリカかぶれなのも、資本主義の格差社会の象徴としてのイメージなのだろう。
この深刻かつ身近なイシューを、驚くべき未見性を秘めた極上のエンターテイメントに仕上げてしまうのが、流石のポン・ジュノ。
もしかしたら、この勢いでアカデミー外国語映画賞まで持っていくのかも知れない。
ぶっ飛んだ映画ではあるが、決して絵空事と言い切れないのが恐ろしい。

今回は格差が作り出す地獄の話なので、「ヘルファイア」をチョイス。
氷を入れたビアジョッキに、ライム1/4を絞り入れる。
スパイスド・ラム30ml、ジンジャー・ビア30ml、タバスコ2dashを注ぎ、軽くステア。
最後にピルスナービールを静かに注ぎいれ、再度軽くステアして完成。
材料からも想像がつく通り、スパイシーで喉を温める効果があり、好みは別れるだろうがそれほどクセが強いわけでも無い。
このぐらいの地獄なら、なんとか耐えられるんだけどなあ。

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男はつらいよ おかえり 寅さん・・・・・評価額1600円
2020年01月05日 (日) | 編集 |
さよなら 寅さん。

昭和の日本映画を代表する国民的人情喜劇、「男はつらいよ」のシリーズ誕生50周年を記念する、まさかの最新作。
主演の渥美清はとうの昔に無くなっているので、吉岡秀隆演じる甥の満男の視点で、現在の出来事に絡めて過去の作品が回想される手法。
50年という歳月と、49本の過去作の存在があって、はじめて可能になった極めて特異な映画である。
吉岡秀隆と後藤久美子の懐かしいカップルの、焼け木杭が微妙にくすぶる物語を軸に、倍賞千恵子や前田吟らお馴染みの面々が再結集。
寅さんが記憶の彼方に去ってから四半世紀、はたして令和の時代に昭和のアイコンが語りかけてくる物語とは何か。
※核心部分に触れています。

脱サラし、小説家となった満男(吉岡秀隆)は、妻の七回忌のためにひとり娘のユリ(桜田ひより)と共に、柴又の実家を訪れる。
そこでは母のさくら(倍賞千恵子)と父の博(前田吟)が今も「くるまや」を守っていた。
法事の後、柴又の人たちと語らう中で、満男はふと楽しく喧しかった伯父の寅さん(渥美清)のことを思い出す。
日本中を旅していた寅さんとは長い間会えておらず、満男の心にはポッカリ穴が空いていた。
そんな時、書店で行われたサイン会で、満男は忘れ得ぬ初恋の人、泉(後藤久美子)と再会する。
ヨーロッパに渡り、今は国連機関で働く彼女を、満男は「会わせたい人がいる」と、小さな喫茶店に連れてゆく。
そこにいたのは、かつて寅さんと夫婦同然の生活を送っていたリリー(浅丘ルリ子)だった・・・


なんとも不思議な手触りの作品である。
半世紀分の過去作が地層の様に積み重なり、その上に構築されたアーカイブとしての映画。
あえて言えば、木下恵介トリビュートだった原恵一監督の「はじまりのみち」に成り立ちは近いが、作り手も演じ手も過去作と同じなので、よりインサイダー的な作りだ。
実はこのアプローチは、「男はつらいよ」シリーズでは二回目。
1995年に第48作の「寅次郎紅の花」が公開された翌年、渥美清が死去したため、誰もがシリーズは打ち止めだと思ったのだが、97年に49作目として「寅次郎ハイビスカスの花 特別篇」が公開された。
これは全国を飛び回るサラリーマンとなった満男の回想という形で、表題作を始めとしていくつかの作品をアーカイブした作品で、本作はいわば満男による「男はつらいよ」アーカイブ・シリーズの第二弾と言える。

本作で妻と死別し、シングルファーザーとしてひとり娘を育てている満男が、脱サラして小説家になってるのは、たぶんに「男はつらいよ」の影響を受けていそうな吉岡秀隆のもう一つの当たり役、「ALWAYS 三丁目の夕日」シリーズの茶川さんを連想させる。
また、ジャン・アレジと事実婚した演じ手の後藤久美子と同じく、満男の元カノの泉もフランス人と結婚して海外で暮らしていたり、俳優の人生キャリアもアーカイブに取り込みつつ、映画は再び満男視点で姿なき寅さんの影を追う。
このシリーズは時事ネタを大胆に取り込むことも特徴だったが、泉が国連高等弁務官事務所で難民支援の仕事をしているのも生っぽい。
共に人生経験を積み、親となった満男と泉を巡る現在のドラマに絡めるように、シチュエーションごとに引用される過去作のチョイスの絶妙なこと。
寅さんのキュートさに笑いながらも、渥美清とはとてつもない才能だったのだなと、今更ながら実感。
もちろん、彼の魅力を最大限に引き出した山田洋次も凄いのだが。

映画の世界では、寅さんはフラリと何処かへ行ったっきり。
妹のさくらは相変わらず彼が帰ってきた時のために、くるまやの二階を開けている。
だから誰も寅さんが死んだとは言わないけど、具体的に彼が何処で何をしているのかは言及されないし、何十年も帰って来ないのに、探そうともしていない。
ただ満男だけが、「こんな時、おじさんだったらどうしただろう?」と寅さんの幻影を追うのである。
どんなに求めても、寅さんはもう戻ってこない。
「おかえり 寅さん」というタイトルだが、これは50年目にして、寅さんにハッキリと「さよなら」を言うため、終わらせるために企画された作品ではないか。

映画版の前身となる、フジテレビのドラマ版「男はつらいよ」では、寅さんはハブに噛まれて死んでしまう。
山田洋次は、高度成長期の一億総サラリーマン化の時代にあって、自由奔放な寅さんのような生き方は、社会が許さないだろうと考えたという。
しかし、この残酷なラストには視聴者の抗議が殺到し、大衆は寅さにリアルさではなく憧れに近いファンタジーを求めていたことに気づいた山田洋次自らの手によって、映画でリブートされたのである。
結果として、映画版「男はつらいよ」は大人気となり、同一俳優で四半世紀にわたって続いた世界最長の映画シリーズとして、ギネスブックにも載った。
だがそれは、稀代の才能だった渥美清という俳優を、寅さんという美化された昭和のアイコンに閉じ込めるという結果となってしまった。
80年代以降、「男はつらいよ」シリーズ以外の渥美清の出演作は、ナレーションを除けばいくつかの山田洋次監督の作品の脇役が全てだ。
渥美清の葬儀で、山田洋次は「あと一作、あと一作」と思いながらも、最後まで寅さんから解放してあげられなかったことを、後悔していると語っている。

映画の終盤、再会した泉と共に過去へのうたかたの旅に出ていた満男が帰宅すると、娘のユリが「おかえり」と声をかける。
寅さんを知らないユリの世代にとっては、満男の心の中にある過去は、存在を実感できない虚構の世界
そして旅を終えた満男は、思い出の中の寅さんを主人公とした小説を書きはじめるのだ。
「寅次郎ハイビスカスの花 特別篇」を含む過去作で、明確な結末が示されなかったので、シリーズをずっと鑑賞していた多くの日本人の心の中で、寅さんの物語はなんとなく続いていた。
しかし本作で、小説の登場人物として寅さんを登場させることで、山田洋次はついに遠大な物語の幕を引く。
冒頭の桑田佳祐の寅さんコスプレをはじめ、この映画の全ては寅さんを主人公としたシリーズを、物語の中の物語、虚構の中の虚構へと封じ込めるためにある。
いわば本作は、過去22年の空白も含めた、渥美清=車寅次郎の物語の完結編にしてレクイエム。
創造主の山田洋次にとっては、物語を閉じることによって、渥美清を寅さんから解放することが、ストーリーテラーとしてのケジメだったのかも知れない。

客入りは半分くらいだったが、年配のお客さんたちから終映後に拍手が出てたのが印象的。
「スター・ウォーズ」でも初日だけなのに(笑
ちなみに、シリーズを一本も観てない友人によると、「知らないでも結構面白かった」そうだ。

今回は、東京23区内に唯一残る酒蔵、北区赤羽の地酒である小山酒造の「丸眞正宗 純米吟醸」をチョイス。
庶民の酒だけあって、辛口でさっぱりとした飽きのこない味わい。
適度な吟醸香と米の旨みも感じられ、とても飲みやすい。
赤羽のおでん屋、丸健水産はこの銘柄のワンカップを、おでん汁で割ったメニューでも有名。
おせちにも飽きてきたこの時期、確かにおでんなどのあったかいメニューと合わせるとぴったりだろう。

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