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2020年01月13日 (月) | 編集 |
誰も見たことのない世界へ。
ストレート過ぎるタイトルを聞いた時には、「なんちゅうベタな・・・」と思ったが、さすがジェームズ・マンゴールド。
見ごたえたっぷり、いぶし銀の熱血バディドラマだ。
1960年代のル・マン24時間耐久レースで、無敵を誇ったフェラーリに挑んだ新参者、フォードの悪戦苦闘を描く。
熾烈な戦いの中で、物語の軸となるのはマット・デイモンが演じるチームオーナーのキャロル・シェルビーと、クリスチャン・ベイルが好演する開発ドライバーを務めたケン・マイルズ。
これは、エンジン回転数7000rpmオーバー、最高速度340キロという未知の世界を体験した、二人の男の栄光と挫折の物語。
史実をベースとした作品なので、顛末を知っていてももちろん楽しめるが、もし知らない人は変に情報を入れずに鑑賞した方がより感慨深いだろう。
「ラッシュ/プライドと友情」と並ぶ、モータースポーツ映画の最高傑作が誕生した。
※核心部分に触れています。
1960年代初頭、免許取得年齢を迎え始めるベビーブーマー世代にアピールするために、フォードはモータースポーツ部門の拡大を決定。
ル・マン24時間レースで連覇を続けていたフェラーリの買収を狙うも、けんもほろろに追い返される。
ヘンリー・フォード2世(トレイシー・レッツ)は、コンストラクターのキャロル・シェルビー(マット・デイモン)にGT-40と名付けられた車両の開発を託し、フェラーリへの雪辱を誓う。
中途半端な性能のマシンを仕上げるために、シェルビーは優れた開発ドライバーであるケン・マイルズ(クリスチャン・ベール)を招聘し、彼の尽力によって、GT-40はフェラーリを射程に捉える戦闘力を獲得する。
しかし、フォードのモータースポーツ責任者のレオ・ビーブ(ジョシュ・ルーカス)は、怒りっぽく空気を読まないマイルズを危険視し、ル・マンのドライバーから彼を外すことを決定。
シェルビーは、誰よりもGT-40を知り尽くしたマイルズを欠いたまま、フェラーリとの対決を強いられるのだが・・・
冒頭、漆黒の闇の中、地を這うような視点で展開されるレースシーンに、先ずは心を掴まれる。
今を去ること半世紀以上前のこと。
スポーツカーレースの最高峰、ル・マン24時間耐久レースで常勝を誇ったフェラーリを倒すため、巨大メーカーだがル・マンのノウハウの無いフォードは、一人の男に白羽の矢を立てる。
彼の名は、キャロル・シェルビー。
クルマ好きには、伝説の名車“コブラ”の生みの親として有名な人物だが、キャリアを遡れば元F1レーサーにして、1959年のル・マンでアストンマーチンを駆り優勝した実力者。
心臓病のために現役を引退した後も、自分のレーシング・コンストラクター、“シェルビー・アメリカ”を設立して戦い続けているプロフェッショナルだ。
しかし、いかにシェルビーが優秀でも、実績の無いフォードをいきなり頂点のル・マンで勝たせるというのはあまりにも無茶な話。
モーターレーシングは、究極のチームスポーツである。
ドライバーの肉体と、多くの職人によって精密に組み上げられた機械が高度に融合し、そのポテンシャルを長いレース時間中持続することが出来て、初めてまともに機能する。
しかもただ速いだけではダメで、タイヤ交換や燃料補強などのピット戦略、ドライバー同士の相性などの要素が複雑に噛み合って勝敗を左右する。
F1の様なオープンホイールのスプリントレースでもそうなのだから、24時間に5000キロもの距離を、極限のスピードで走り続けなければならない耐久レースは、まさにノウハウの塊だ。
あのトヨタでさえ、ル・マンの初優勝を飾ったのは、本格参戦開始から33年後の2018年なのだから、いかに難しいかが分かる。
フォードは対フェラーリ様に、イギリスのローラ製の車体をベースに自社製エンジンを載せてGT-40を作ったものの、見事に惨敗。
新たに車両開発とワークスチームの運営を託されたシェルビーが、天才的なドライバーだが偏屈で扱い難いケン・マイルズを呼び寄せることから物語が動き出す。
そもそも、同じ自動車メーカーといっても、フォードとフェラーリはその成り立ちから水と油。
大衆のための安価な自動車を、流れ作業の大量生産で作り出したフォードは、その数の力でモータリゼーションの革命を起こした。
対して、レーシングドライバーだったエンツォ・フェラーリが一代で作り上げたフェラーリは、元々レースをするための資金源として市販車を売る会社。
あくまでもレースで勝つことが本業で、市販車はオマケという少数精鋭の“レース屋”集団だ。
映画では、ヘンリー・フォード2世がエンツォに「お前はヘンリー・フォードじゃない。2代目だ。」と言われる(正確にはフォード2世はヘンリーの孫で三代目)。
要するに、「お前はただ創業者の遺産で食ってるボンボンで、全てを一から作った俺とは格が違う」と、ホントのことを言われているのだが、大いにプライドを傷付けられてブチ切れる。
同時に、この言葉には「そもそもお前は、レースのことなど何も知らないじゃないか」という侮蔑の意味も含まれている。
この時代にすでに巨大な官僚的企業だったフォードは、その場その場で臨機応変な戦術変更が必要な、耐久レースのようなカテゴリで戦うには最も向かない。
だからこそ、シェルビーにチームの運営を任せたのだが、それでも彼らは巨大組織の末端という軛から逃れられないのである。
GT-40を開発し、長所も弱点も誰よりも知っていて、なおかつ速いのはマイルズ。
もしエンツォであれば、真っ先にレースドライバーとしても彼を起用するだろう。
だが、あくまでも広報戦略の一環として、レース活動を進めるフォードは、喧嘩っ早くて口の悪いマイルズを警戒し、表舞台に立たせまいとする。
マイルズを欠いたままル・マンに出場した1965年の結果は、スピードではフェラーリを凌駕する瞬間もあったものの、惜敗。
シェルビーとマイルズは、「vsフェラーリ」以前に、「フォードvsフォード」の戦いを強いられてしまうのである。
映画ではフォードのモータースポーツ部門の責任者、レオ・ビーブを悪役っぽく描いているが、フォードの販売を強化するためにレースを統括する彼の立場では、至極まっとうな仕事をしているだけ。
組織の利益は、必ずしも個人、あるいは組織内の一部門の利益と合致するとは限らない。
巨大企業の枠組みの中で、実際に現場を引っ張る人にとっては、シェルビーとマイルズの葛藤は、そのまま我が身に置き換えて感情移入できるだろう。
私は本作を観ながら、もしかしたら今回の「スター・ウォーズ」の制作過程でも、同じようなことがあったんじゃないかなと、シェルビーとマイルズをJ・Jとコリン・トレボロウに、フォード2世をディズニー会長のロバート・アイガーに、ビーブをキャスリン・ケネディに置き換えて想像してしまった(笑
組織と個人の普遍的な関係の中で、本作は徹底的に個人、特に英国に生まれ、アメリカに移り住んだ苦労人であるマイルズに寄り添う。
シェルビーが基本的に仕事関係しか描かれないのに対し、マイルズは妻と息子との関係がじっくり描かれる。
この家族がまた素敵で、世間からは変わり者として見られているマイルズと、非常に強い信頼関係で結ばれているのがよく分かるのだ。
特に妻のモリーは、レース馬鹿の子供っぽい男たちを、半ば達観した目で愛情深く見守っていて、何かに夢中になったら脇目も振らないオタク脳の男にとっては、ある意味理想の女性。
さりげない人生の日常の描写を通し、人間関係を突き詰めてゆく辺りは名手マンゴールドの面目躍如だ。
もっとも、シェルビーの私生活が描かれないのは、この時期パートナーがいなかったのに加えて、生涯に実に7回も結婚しているという、家庭人としてはちょっと問題ある人だったからかも知れない(笑
面白いのは、シェルビーが煮え切らない態度のフォード2世を開発中のGT-40に乗せて、レーシングスピードを無理やり体感させるシーン。
私は若い頃にジムカーナなんかをやっていて、本作にも序盤に登場するカリフォルニアのウィロースプリングス・レースウェイで、レーシングカーの助手席に同乗させてもらった経験を思い出した。
たぶん、ドライバーは余裕で流しているだけだったと思うのだが、その凄まじい加減速、コーナーリングGは異次元のレベル。
自分でも走ったことがある、良く知ったコースがまるで別物に見え、「これがプロの世界か」と驚愕したのを覚えている。
人は、自分が経験したことのないものを理解するのは難しい。
このエピソードが事実かどうかは分からないが、自分たちがどれほど厳しいフィールドで戦っているのかを、実感を持ってボスに分からせる秀逸なエピソード。
あの瞬間、フォード2世はそれまで組織の歯車としか考えていなかったシェルビーやマイルズを、とてつもないスキルを持つ個人としてリスペクトしたのだ。
しかし、それでもフォード2世を含めて、誰も組織から自由になれないアイロニー。
1966年のル・マンの結果はある種の”美談”として知っていたが、その裏にこんなドラマが隠されていたとは。
シェルビーやマイルズが危険なレースに挑戦するのは、もちろん勝ちたいという欲求もあるのだろうが、決してそれだけではない。
信頼できる仲間、愛する人たちに支えられ、7000rpmを超える誰も見たことのない領域を極めるため。
彼らはある意味で、永遠に届かないゴールを目指すボヘミアンであり、魂の冒険者なのである。
それは利益という尺度で測られる、ビジネスとしてのレースとは相容れず、その意味では巨大なフォードはよりピュアな存在であるフェラーリにはどうしても勝てなかった。
全てを捧げた者が常に報われるとは限らない、未知の領域を追求した結果としてのビターなラストは、ちょっと「マネーボール」に通じる詩情を感じさせ、今はもういない20世紀の頑固な男たちの見果てぬ夢のロマンが、余韻として心にしみる。
今回は、24時間走り続ける耐久レースに引っ掛けて、「レッド・アイ」をチョイス。
本来は、夜通し飲み明かした後の迎え酒として知られるビアカクテルで、寝不足の充血した目が名前の由来。
トマト・ジュースをタンブラーの四割ほどまで注ぎ、ビールを同分量注いで、軽くステアする。
酒というよりはトマトが強く出ていて、ビール風味のトマト・ジュースという感じ。
疲れ切った胃には炭酸ののど越しと、トマトの酸味が効いてスッキリと飲める一杯だ。
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ストレート過ぎるタイトルを聞いた時には、「なんちゅうベタな・・・」と思ったが、さすがジェームズ・マンゴールド。
見ごたえたっぷり、いぶし銀の熱血バディドラマだ。
1960年代のル・マン24時間耐久レースで、無敵を誇ったフェラーリに挑んだ新参者、フォードの悪戦苦闘を描く。
熾烈な戦いの中で、物語の軸となるのはマット・デイモンが演じるチームオーナーのキャロル・シェルビーと、クリスチャン・ベイルが好演する開発ドライバーを務めたケン・マイルズ。
これは、エンジン回転数7000rpmオーバー、最高速度340キロという未知の世界を体験した、二人の男の栄光と挫折の物語。
史実をベースとした作品なので、顛末を知っていてももちろん楽しめるが、もし知らない人は変に情報を入れずに鑑賞した方がより感慨深いだろう。
「ラッシュ/プライドと友情」と並ぶ、モータースポーツ映画の最高傑作が誕生した。
※核心部分に触れています。
1960年代初頭、免許取得年齢を迎え始めるベビーブーマー世代にアピールするために、フォードはモータースポーツ部門の拡大を決定。
ル・マン24時間レースで連覇を続けていたフェラーリの買収を狙うも、けんもほろろに追い返される。
ヘンリー・フォード2世(トレイシー・レッツ)は、コンストラクターのキャロル・シェルビー(マット・デイモン)にGT-40と名付けられた車両の開発を託し、フェラーリへの雪辱を誓う。
中途半端な性能のマシンを仕上げるために、シェルビーは優れた開発ドライバーであるケン・マイルズ(クリスチャン・ベール)を招聘し、彼の尽力によって、GT-40はフェラーリを射程に捉える戦闘力を獲得する。
しかし、フォードのモータースポーツ責任者のレオ・ビーブ(ジョシュ・ルーカス)は、怒りっぽく空気を読まないマイルズを危険視し、ル・マンのドライバーから彼を外すことを決定。
シェルビーは、誰よりもGT-40を知り尽くしたマイルズを欠いたまま、フェラーリとの対決を強いられるのだが・・・
冒頭、漆黒の闇の中、地を這うような視点で展開されるレースシーンに、先ずは心を掴まれる。
今を去ること半世紀以上前のこと。
スポーツカーレースの最高峰、ル・マン24時間耐久レースで常勝を誇ったフェラーリを倒すため、巨大メーカーだがル・マンのノウハウの無いフォードは、一人の男に白羽の矢を立てる。
彼の名は、キャロル・シェルビー。
クルマ好きには、伝説の名車“コブラ”の生みの親として有名な人物だが、キャリアを遡れば元F1レーサーにして、1959年のル・マンでアストンマーチンを駆り優勝した実力者。
心臓病のために現役を引退した後も、自分のレーシング・コンストラクター、“シェルビー・アメリカ”を設立して戦い続けているプロフェッショナルだ。
しかし、いかにシェルビーが優秀でも、実績の無いフォードをいきなり頂点のル・マンで勝たせるというのはあまりにも無茶な話。
モーターレーシングは、究極のチームスポーツである。
ドライバーの肉体と、多くの職人によって精密に組み上げられた機械が高度に融合し、そのポテンシャルを長いレース時間中持続することが出来て、初めてまともに機能する。
しかもただ速いだけではダメで、タイヤ交換や燃料補強などのピット戦略、ドライバー同士の相性などの要素が複雑に噛み合って勝敗を左右する。
F1の様なオープンホイールのスプリントレースでもそうなのだから、24時間に5000キロもの距離を、極限のスピードで走り続けなければならない耐久レースは、まさにノウハウの塊だ。
あのトヨタでさえ、ル・マンの初優勝を飾ったのは、本格参戦開始から33年後の2018年なのだから、いかに難しいかが分かる。
フォードは対フェラーリ様に、イギリスのローラ製の車体をベースに自社製エンジンを載せてGT-40を作ったものの、見事に惨敗。
新たに車両開発とワークスチームの運営を託されたシェルビーが、天才的なドライバーだが偏屈で扱い難いケン・マイルズを呼び寄せることから物語が動き出す。
そもそも、同じ自動車メーカーといっても、フォードとフェラーリはその成り立ちから水と油。
大衆のための安価な自動車を、流れ作業の大量生産で作り出したフォードは、その数の力でモータリゼーションの革命を起こした。
対して、レーシングドライバーだったエンツォ・フェラーリが一代で作り上げたフェラーリは、元々レースをするための資金源として市販車を売る会社。
あくまでもレースで勝つことが本業で、市販車はオマケという少数精鋭の“レース屋”集団だ。
映画では、ヘンリー・フォード2世がエンツォに「お前はヘンリー・フォードじゃない。2代目だ。」と言われる(正確にはフォード2世はヘンリーの孫で三代目)。
要するに、「お前はただ創業者の遺産で食ってるボンボンで、全てを一から作った俺とは格が違う」と、ホントのことを言われているのだが、大いにプライドを傷付けられてブチ切れる。
同時に、この言葉には「そもそもお前は、レースのことなど何も知らないじゃないか」という侮蔑の意味も含まれている。
この時代にすでに巨大な官僚的企業だったフォードは、その場その場で臨機応変な戦術変更が必要な、耐久レースのようなカテゴリで戦うには最も向かない。
だからこそ、シェルビーにチームの運営を任せたのだが、それでも彼らは巨大組織の末端という軛から逃れられないのである。
GT-40を開発し、長所も弱点も誰よりも知っていて、なおかつ速いのはマイルズ。
もしエンツォであれば、真っ先にレースドライバーとしても彼を起用するだろう。
だが、あくまでも広報戦略の一環として、レース活動を進めるフォードは、喧嘩っ早くて口の悪いマイルズを警戒し、表舞台に立たせまいとする。
マイルズを欠いたままル・マンに出場した1965年の結果は、スピードではフェラーリを凌駕する瞬間もあったものの、惜敗。
シェルビーとマイルズは、「vsフェラーリ」以前に、「フォードvsフォード」の戦いを強いられてしまうのである。
映画ではフォードのモータースポーツ部門の責任者、レオ・ビーブを悪役っぽく描いているが、フォードの販売を強化するためにレースを統括する彼の立場では、至極まっとうな仕事をしているだけ。
組織の利益は、必ずしも個人、あるいは組織内の一部門の利益と合致するとは限らない。
巨大企業の枠組みの中で、実際に現場を引っ張る人にとっては、シェルビーとマイルズの葛藤は、そのまま我が身に置き換えて感情移入できるだろう。
私は本作を観ながら、もしかしたら今回の「スター・ウォーズ」の制作過程でも、同じようなことがあったんじゃないかなと、シェルビーとマイルズをJ・Jとコリン・トレボロウに、フォード2世をディズニー会長のロバート・アイガーに、ビーブをキャスリン・ケネディに置き換えて想像してしまった(笑
組織と個人の普遍的な関係の中で、本作は徹底的に個人、特に英国に生まれ、アメリカに移り住んだ苦労人であるマイルズに寄り添う。
シェルビーが基本的に仕事関係しか描かれないのに対し、マイルズは妻と息子との関係がじっくり描かれる。
この家族がまた素敵で、世間からは変わり者として見られているマイルズと、非常に強い信頼関係で結ばれているのがよく分かるのだ。
特に妻のモリーは、レース馬鹿の子供っぽい男たちを、半ば達観した目で愛情深く見守っていて、何かに夢中になったら脇目も振らないオタク脳の男にとっては、ある意味理想の女性。
さりげない人生の日常の描写を通し、人間関係を突き詰めてゆく辺りは名手マンゴールドの面目躍如だ。
もっとも、シェルビーの私生活が描かれないのは、この時期パートナーがいなかったのに加えて、生涯に実に7回も結婚しているという、家庭人としてはちょっと問題ある人だったからかも知れない(笑
面白いのは、シェルビーが煮え切らない態度のフォード2世を開発中のGT-40に乗せて、レーシングスピードを無理やり体感させるシーン。
私は若い頃にジムカーナなんかをやっていて、本作にも序盤に登場するカリフォルニアのウィロースプリングス・レースウェイで、レーシングカーの助手席に同乗させてもらった経験を思い出した。
たぶん、ドライバーは余裕で流しているだけだったと思うのだが、その凄まじい加減速、コーナーリングGは異次元のレベル。
自分でも走ったことがある、良く知ったコースがまるで別物に見え、「これがプロの世界か」と驚愕したのを覚えている。
人は、自分が経験したことのないものを理解するのは難しい。
このエピソードが事実かどうかは分からないが、自分たちがどれほど厳しいフィールドで戦っているのかを、実感を持ってボスに分からせる秀逸なエピソード。
あの瞬間、フォード2世はそれまで組織の歯車としか考えていなかったシェルビーやマイルズを、とてつもないスキルを持つ個人としてリスペクトしたのだ。
しかし、それでもフォード2世を含めて、誰も組織から自由になれないアイロニー。
1966年のル・マンの結果はある種の”美談”として知っていたが、その裏にこんなドラマが隠されていたとは。
シェルビーやマイルズが危険なレースに挑戦するのは、もちろん勝ちたいという欲求もあるのだろうが、決してそれだけではない。
信頼できる仲間、愛する人たちに支えられ、7000rpmを超える誰も見たことのない領域を極めるため。
彼らはある意味で、永遠に届かないゴールを目指すボヘミアンであり、魂の冒険者なのである。
それは利益という尺度で測られる、ビジネスとしてのレースとは相容れず、その意味では巨大なフォードはよりピュアな存在であるフェラーリにはどうしても勝てなかった。
全てを捧げた者が常に報われるとは限らない、未知の領域を追求した結果としてのビターなラストは、ちょっと「マネーボール」に通じる詩情を感じさせ、今はもういない20世紀の頑固な男たちの見果てぬ夢のロマンが、余韻として心にしみる。
今回は、24時間走り続ける耐久レースに引っ掛けて、「レッド・アイ」をチョイス。
本来は、夜通し飲み明かした後の迎え酒として知られるビアカクテルで、寝不足の充血した目が名前の由来。
トマト・ジュースをタンブラーの四割ほどまで注ぎ、ビールを同分量注いで、軽くステアする。
酒というよりはトマトが強く出ていて、ビール風味のトマト・ジュースという感じ。
疲れ切った胃には炭酸ののど越しと、トマトの酸味が効いてスッキリと飲める一杯だ。

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