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2020年02月25日 (火) | 編集 |
楽園の花には、毒がある。
なるほど夏至とは生と死の季節。
アメリカ人の大学生たちが友だちに誘われて、スウェーデンのど田舎の村の白夜の夏至祭(ミッドソンマル)を訪れたら、それはそれはヤバイ祭りだった。
ホラー者なら、もうこの設定だけで何が起こるかは分かるだろう。
長編デビュー作となった「ヘレディタリー 継承」で映画ファンの度肝を抜いたアリ・アスター監督の第二作は、燦々と降り注ぐ白夜の陽光の下で展開する世にも恐ろしい奇祭を描く。
作家の悪意全開、ダウナー系ドラッグでも決めて、天国とも地獄ともつかない白日夢を味わう様な2時間27分だ。(ちなみに2時間51分のディレクターズカット版もあるらしい)
前作に輪をかけて奇妙な世界観は観る者を戸惑わせ、「怪作」の名に相応しい。
主人公のダニーを、「ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語」でアカデミー助演女優賞にノミネートされた注目株、フローレンス・ビューが演じる。
※以下、ラストおよび核心部分に触れています。
大学生のダニー(フローレンス・ビュー)は、心を病んだ姉が両親を巻き添えに無理心中した事件のトラウマに苦しんでいた。
恋人のクリスチャン(ジャック・レイナー)は彼女のことを重荷に感じながらも、惰性で付き合い続けている。
ある日、ダニーはクリスチャンが友人のマーク(ウィル・ポールター)、ジョシュ(ウィリアム・ジャクソン・ハーパー)と共に、留学生のペレ(ヴィルヘルム・ブロングレン)の故郷の村で90年に一度だけ開かれる夏至祭を訪れることを知る。
クリスチャンとの関係を修復したいダニーは、一緒にスウェーデンの片田舎へと向かう。
そこは雄大な自然に囲まれた絵のように美しい村で、人々がプライバシーや所有の概念を持たない原始的な共同体だった。
やがて祭が始まると、ダニーたちは初めて恐ろしい秘密を知る。
この村の夏至祭は単に豊穣を願う祝祭ではなく、生と死のサイクルを再現する奇祭だったのだ・・・
冒頭、主人公のダニーは恐ろしい予感に取り憑かれている。
双極性障害を持ち、昔から自殺願望を隠さなかった姉と突然連絡が取れなくなる。
不安を抑えられなかったダニーは恋人のクリスチャンに頼ろうとするが、彼はむしろ彼女の問題と関わることに嫌気がさしているようだ。
結果としてダニーの予感は的中し、姉は両親を道連れにして自殺し、彼女は突如として天涯孤独となってしまうのである。
絶望のどん底へと落とされても寄り添う人はなく、一人悲しみに耐えなければならないダニーが、クリスチャンらと共に招かれるのが、スウェーデンの辺境にある村“ホルガ”で開かれる90年に一度の夏至祭。
ホルガの出身だという留学生ペレによって導かれたアメリカ人の若者たちが見たのは、大自然の恵みを受けて暮らすキリスト教伝来以前の自然崇拝の伝統を受け継ぐ村。
ここで描かれるのは、心に深い傷を負ったダニーの救済と目覚のための通過儀礼の物語だ。
文化人類学者のアルノルト・ファン・ヘネップは、人生で経験する通過儀礼をそれまでの状態や属性からの「分離」、異なる存在になるための「移行」、新たな身分や属性を得る「合体」の三段階と定義したが、本作で夏至祭を通してダニーが経験するのもこの三つのプロセスである。
そしてその変化の背景となるのが、厳格な父系社会である清教徒たちが作ったアメリカと、アブラハムの子らの国とは正反対の価値観を持つ、原始共産制の母系社会の価値観の対立だ。
まんま「キリスト教徒」という意味の名前を持つ、ダニーの恋人のクリスチャンのキャラクターが象徴的に二つの文化の違いを表す。
彼は徹底した個人主義者で、他人の問題には立ち入らない。
ダニーの心が壊れそうになっていても、本気で悲しみを共有したりはしないし、友人のジョシュがヨーロッパの夏至祭を研究して論文を書いていることを知りながら、ちゃっかりテーマをパクっても悪びれない。
俺は俺、お前はお前という思想の持ち主で、面倒を嫌うので惰性でダニーとも付き合いを続けているが、本当はもう面倒くさいので別れたがっている。
だからクリスチャンといても彼女の心は休まらず、孤独なのである。
対して、ホルガには「個」という概念そのものが無い。
全ての「個」は延々と受け継がれてきた、ホルガという巨大な一つの生命のために存在する。
彼らの社会では「9」という数字が全てにおいて重要な意味を持っているが、これは命の樹ユグドラシルに九つの世界が内包されているという北欧神話から。
人間の生涯も9の倍数で構成されいていて、生まれてから18歳までは育ちの春、36歳までが巡礼の夏、54歳までが労働の秋、72歳までが賢者の冬。
6月20日前後の夏至は夏の入り口の季節だから、大学生のダニーたちはちょうど夏至の年齢ということになる。
祭りのゲストとしてダニーたちがホルガへ入るときにゲートを通って来るのだが、このゲート一見すると太陽の様だが、同時に女性器を象ったものにも見える。
村の広場には一般的な夏至祭でも見られる夏至柱が建てられているが、これは元々男性器を模したもの。
彼らの暮らす建物の壁画やタペストリーも、キリスト教ではタブーとされそうな性的な表現に満ちている。
アメリカで生まれた育ったダニーは、最初この全く異なる価値観を持つ文化に戸惑う。
特に祭が始まって直ぐに、この世界での役割を終えた年老いた男女が自ら命を絶つ自殺の儀式を目の当たりにして、彼女はずっと背を向けてきた家族の死という現実に直接的に向き合わざるを得ない。
だがこの村では死の持つ意味自体がアメリカとは異なるのだ。
死は忌むべきことでも悲しむべきこともはなく、新しい誕生をもたらす祝うべき犠牲なのである。
ホルガではゲルマンの古代文字であるルーン文字が使われているが、最初の食事のシーンで村人たちが座っているテーブルの形にも注目したい。
このテーブルは上から見ると「遺産・伝統」を意味する「ᛟ(オーザル)」の形をしていて、この祭自体が先祖代々受け継がれてきた財産であることを表している。
オーザルはしばしばキリスト教伝来以降の文明に対する、北欧の民族至上主義の象徴としても使われていて、1992年にオーザルから名をとったオダリズム運動を提唱するノルウェーの過激派ヴァルグ・ヴィーケネスが、複数のキリスト教会に放火するテロ事件を起こしている。
劇中で生贄の一人となる英国人のサイモンが、ヴァイキング時代に行われていた生きたまま肺を背中から引きずり出し、翼の様に広げる「血のワシ」という残酷な処刑法にかけられていたことからも、この村はおそらくは勢力を広げるキリスト教に対抗しながら、千年以上に渡って頑なに伝統を守り続けていたのだろう。
ダニーの通過儀礼は、自殺の儀式がトリガーとなり「移行」の段階へ進み、いよいよクライマックスで「合体」を迎える。
夏至祭の主役を務めるのが、村の娘たちから選ばれるMay Queenだ。
本作では“倒れるまで踊る競争”の結果、ダニーがホルガの新たなMay Queenになると、彼女は急速に村の社会と「合体」してゆくのである。
ちなみに映画のホルガは当然ながら架空の村だが、ホルガという地名はスウェーデンに実在し、映画の中で語られる悪魔に死ぬまで踊らされる伝説も「Hårgalåten(ホルガローテン、ホルガの歌) 」という民謡として実際に語り継がれているものだ。
May Queenのダニーが祭の儀式を執り行っている最中に、クリスチャンが村の娘のマヤと交わり、その行為を目撃してしまうと、まだ彼のことを愛していた彼女は激しく動揺し嗚咽する。
すると村の女たちが彼女の周りに集まり、同じ様に嗚咽の声を合わせて大合唱するのだ。
この共感を超えた共鳴のカタルシスにより、ダニーが家族を失った時温もりを与えてくれず、いま再び彼女を裏切ったクリスチャンの運命は決まってしまう。
いや、もちろんトリックスターのペレに夏至祭に招待された時から全ては仕組まれていて、ダニーは意識しないうちに選択肢を排除されているのだけど。
哀れなクリスチャンがクマの毛皮の中に縫い込まれ、九人の生贄の一人として燃やされたことにより、魂の復讐を遂げたダニーはそれまでの父系社会での「個」を失い、共鳴し合うホルガの細胞として新たな生を受けるのである。
本作と同じく、ヨーロッパの非キリスト教の伝統社会を描いた作品として、ロビン・ハーディ監督が1973年に発表した傑作民俗学ホラー、「ウィッカーマン」がある。
行方不明の少女を探して、イギリスのとある島にやってきた敬虔なキリスト教徒の刑事が、古代ケルトの宗教を信仰する村人によって、五月祭の生贄として巨大な藁人形のウィッカーマンの中で燃やされる。
イギリスの五月祭は、北欧の夏至祭と同義の豊穣を願う祭。
キリスト教と自然崇拝の対立構造を含め、本作とは多くの共通点があり、一定の影響を与えている可能性は高い。
もっとも、恐怖の仕掛け人が身内か他人かという違いはあるが、物語の構成要素としては「ヘレディタリー 継承」と重なる要素も多いのだ。
相変わらず嬉々として人体破壊をやってるし、画面のどこかが気持ち悪く歪みウネウネと動くビジュアルは、ゾワゾワする不快なムードに満ちているので、基本的には相当なホラー耐性がある変態さん向けの作品だと思う。
しかし、ホルガで起こっていることは、私たちの価値観から見ると狂気の蛮行だが、一旦その社会の一部となってしまえば、それはこの上なく美しい至福の時でもある。
生贄にされちゃった人たちにとってはまさに悪夢の様なバッドエンドの夏休みだけど、これはダニーにとっては祝祭か、それとも最も忌まわしい呪いか。
どちらと捉えるかで、メンタルの状態が問われそう。
今回は内容どおりの「ナイトメア」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、デュボネ30ml、チェリー・ブランデー15ml、オレンジジュース15mlを氷と共にシェイクし、グラスに注ぐ。
最後にマラスキーノチェリーを一つ飾って完成。
デュボネとチェリー・ブランデーの甘みと、オレンジの酸味がバランスよく飲みやすい。
ただし、アルコール度数はけっこう高いので、飲みすぎると名前の通り悪夢をもたらす。
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なるほど夏至とは生と死の季節。
アメリカ人の大学生たちが友だちに誘われて、スウェーデンのど田舎の村の白夜の夏至祭(ミッドソンマル)を訪れたら、それはそれはヤバイ祭りだった。
ホラー者なら、もうこの設定だけで何が起こるかは分かるだろう。
長編デビュー作となった「ヘレディタリー 継承」で映画ファンの度肝を抜いたアリ・アスター監督の第二作は、燦々と降り注ぐ白夜の陽光の下で展開する世にも恐ろしい奇祭を描く。
作家の悪意全開、ダウナー系ドラッグでも決めて、天国とも地獄ともつかない白日夢を味わう様な2時間27分だ。(ちなみに2時間51分のディレクターズカット版もあるらしい)
前作に輪をかけて奇妙な世界観は観る者を戸惑わせ、「怪作」の名に相応しい。
主人公のダニーを、「ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語」でアカデミー助演女優賞にノミネートされた注目株、フローレンス・ビューが演じる。
※以下、ラストおよび核心部分に触れています。
大学生のダニー(フローレンス・ビュー)は、心を病んだ姉が両親を巻き添えに無理心中した事件のトラウマに苦しんでいた。
恋人のクリスチャン(ジャック・レイナー)は彼女のことを重荷に感じながらも、惰性で付き合い続けている。
ある日、ダニーはクリスチャンが友人のマーク(ウィル・ポールター)、ジョシュ(ウィリアム・ジャクソン・ハーパー)と共に、留学生のペレ(ヴィルヘルム・ブロングレン)の故郷の村で90年に一度だけ開かれる夏至祭を訪れることを知る。
クリスチャンとの関係を修復したいダニーは、一緒にスウェーデンの片田舎へと向かう。
そこは雄大な自然に囲まれた絵のように美しい村で、人々がプライバシーや所有の概念を持たない原始的な共同体だった。
やがて祭が始まると、ダニーたちは初めて恐ろしい秘密を知る。
この村の夏至祭は単に豊穣を願う祝祭ではなく、生と死のサイクルを再現する奇祭だったのだ・・・
冒頭、主人公のダニーは恐ろしい予感に取り憑かれている。
双極性障害を持ち、昔から自殺願望を隠さなかった姉と突然連絡が取れなくなる。
不安を抑えられなかったダニーは恋人のクリスチャンに頼ろうとするが、彼はむしろ彼女の問題と関わることに嫌気がさしているようだ。
結果としてダニーの予感は的中し、姉は両親を道連れにして自殺し、彼女は突如として天涯孤独となってしまうのである。
絶望のどん底へと落とされても寄り添う人はなく、一人悲しみに耐えなければならないダニーが、クリスチャンらと共に招かれるのが、スウェーデンの辺境にある村“ホルガ”で開かれる90年に一度の夏至祭。
ホルガの出身だという留学生ペレによって導かれたアメリカ人の若者たちが見たのは、大自然の恵みを受けて暮らすキリスト教伝来以前の自然崇拝の伝統を受け継ぐ村。
ここで描かれるのは、心に深い傷を負ったダニーの救済と目覚のための通過儀礼の物語だ。
文化人類学者のアルノルト・ファン・ヘネップは、人生で経験する通過儀礼をそれまでの状態や属性からの「分離」、異なる存在になるための「移行」、新たな身分や属性を得る「合体」の三段階と定義したが、本作で夏至祭を通してダニーが経験するのもこの三つのプロセスである。
そしてその変化の背景となるのが、厳格な父系社会である清教徒たちが作ったアメリカと、アブラハムの子らの国とは正反対の価値観を持つ、原始共産制の母系社会の価値観の対立だ。
まんま「キリスト教徒」という意味の名前を持つ、ダニーの恋人のクリスチャンのキャラクターが象徴的に二つの文化の違いを表す。
彼は徹底した個人主義者で、他人の問題には立ち入らない。
ダニーの心が壊れそうになっていても、本気で悲しみを共有したりはしないし、友人のジョシュがヨーロッパの夏至祭を研究して論文を書いていることを知りながら、ちゃっかりテーマをパクっても悪びれない。
俺は俺、お前はお前という思想の持ち主で、面倒を嫌うので惰性でダニーとも付き合いを続けているが、本当はもう面倒くさいので別れたがっている。
だからクリスチャンといても彼女の心は休まらず、孤独なのである。
対して、ホルガには「個」という概念そのものが無い。
全ての「個」は延々と受け継がれてきた、ホルガという巨大な一つの生命のために存在する。
彼らの社会では「9」という数字が全てにおいて重要な意味を持っているが、これは命の樹ユグドラシルに九つの世界が内包されているという北欧神話から。
人間の生涯も9の倍数で構成されいていて、生まれてから18歳までは育ちの春、36歳までが巡礼の夏、54歳までが労働の秋、72歳までが賢者の冬。
6月20日前後の夏至は夏の入り口の季節だから、大学生のダニーたちはちょうど夏至の年齢ということになる。
祭りのゲストとしてダニーたちがホルガへ入るときにゲートを通って来るのだが、このゲート一見すると太陽の様だが、同時に女性器を象ったものにも見える。
村の広場には一般的な夏至祭でも見られる夏至柱が建てられているが、これは元々男性器を模したもの。
彼らの暮らす建物の壁画やタペストリーも、キリスト教ではタブーとされそうな性的な表現に満ちている。
アメリカで生まれた育ったダニーは、最初この全く異なる価値観を持つ文化に戸惑う。
特に祭が始まって直ぐに、この世界での役割を終えた年老いた男女が自ら命を絶つ自殺の儀式を目の当たりにして、彼女はずっと背を向けてきた家族の死という現実に直接的に向き合わざるを得ない。
だがこの村では死の持つ意味自体がアメリカとは異なるのだ。
死は忌むべきことでも悲しむべきこともはなく、新しい誕生をもたらす祝うべき犠牲なのである。
ホルガではゲルマンの古代文字であるルーン文字が使われているが、最初の食事のシーンで村人たちが座っているテーブルの形にも注目したい。
このテーブルは上から見ると「遺産・伝統」を意味する「ᛟ(オーザル)」の形をしていて、この祭自体が先祖代々受け継がれてきた財産であることを表している。
オーザルはしばしばキリスト教伝来以降の文明に対する、北欧の民族至上主義の象徴としても使われていて、1992年にオーザルから名をとったオダリズム運動を提唱するノルウェーの過激派ヴァルグ・ヴィーケネスが、複数のキリスト教会に放火するテロ事件を起こしている。
劇中で生贄の一人となる英国人のサイモンが、ヴァイキング時代に行われていた生きたまま肺を背中から引きずり出し、翼の様に広げる「血のワシ」という残酷な処刑法にかけられていたことからも、この村はおそらくは勢力を広げるキリスト教に対抗しながら、千年以上に渡って頑なに伝統を守り続けていたのだろう。
ダニーの通過儀礼は、自殺の儀式がトリガーとなり「移行」の段階へ進み、いよいよクライマックスで「合体」を迎える。
夏至祭の主役を務めるのが、村の娘たちから選ばれるMay Queenだ。
本作では“倒れるまで踊る競争”の結果、ダニーがホルガの新たなMay Queenになると、彼女は急速に村の社会と「合体」してゆくのである。
ちなみに映画のホルガは当然ながら架空の村だが、ホルガという地名はスウェーデンに実在し、映画の中で語られる悪魔に死ぬまで踊らされる伝説も「Hårgalåten(ホルガローテン、ホルガの歌) 」という民謡として実際に語り継がれているものだ。
May Queenのダニーが祭の儀式を執り行っている最中に、クリスチャンが村の娘のマヤと交わり、その行為を目撃してしまうと、まだ彼のことを愛していた彼女は激しく動揺し嗚咽する。
すると村の女たちが彼女の周りに集まり、同じ様に嗚咽の声を合わせて大合唱するのだ。
この共感を超えた共鳴のカタルシスにより、ダニーが家族を失った時温もりを与えてくれず、いま再び彼女を裏切ったクリスチャンの運命は決まってしまう。
いや、もちろんトリックスターのペレに夏至祭に招待された時から全ては仕組まれていて、ダニーは意識しないうちに選択肢を排除されているのだけど。
哀れなクリスチャンがクマの毛皮の中に縫い込まれ、九人の生贄の一人として燃やされたことにより、魂の復讐を遂げたダニーはそれまでの父系社会での「個」を失い、共鳴し合うホルガの細胞として新たな生を受けるのである。
本作と同じく、ヨーロッパの非キリスト教の伝統社会を描いた作品として、ロビン・ハーディ監督が1973年に発表した傑作民俗学ホラー、「ウィッカーマン」がある。
行方不明の少女を探して、イギリスのとある島にやってきた敬虔なキリスト教徒の刑事が、古代ケルトの宗教を信仰する村人によって、五月祭の生贄として巨大な藁人形のウィッカーマンの中で燃やされる。
イギリスの五月祭は、北欧の夏至祭と同義の豊穣を願う祭。
キリスト教と自然崇拝の対立構造を含め、本作とは多くの共通点があり、一定の影響を与えている可能性は高い。
もっとも、恐怖の仕掛け人が身内か他人かという違いはあるが、物語の構成要素としては「ヘレディタリー 継承」と重なる要素も多いのだ。
相変わらず嬉々として人体破壊をやってるし、画面のどこかが気持ち悪く歪みウネウネと動くビジュアルは、ゾワゾワする不快なムードに満ちているので、基本的には相当なホラー耐性がある変態さん向けの作品だと思う。
しかし、ホルガで起こっていることは、私たちの価値観から見ると狂気の蛮行だが、一旦その社会の一部となってしまえば、それはこの上なく美しい至福の時でもある。
生贄にされちゃった人たちにとってはまさに悪夢の様なバッドエンドの夏休みだけど、これはダニーにとっては祝祭か、それとも最も忌まわしい呪いか。
どちらと捉えるかで、メンタルの状態が問われそう。
今回は内容どおりの「ナイトメア」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、デュボネ30ml、チェリー・ブランデー15ml、オレンジジュース15mlを氷と共にシェイクし、グラスに注ぐ。
最後にマラスキーノチェリーを一つ飾って完成。
デュボネとチェリー・ブランデーの甘みと、オレンジの酸味がバランスよく飲みやすい。
ただし、アルコール度数はけっこう高いので、飲みすぎると名前の通り悪夢をもたらす。

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2020年02月21日 (金) | 編集 |
心の雨があがる時。
愛すべき映画だ。
仲野大賀が演じる行助は大学の研究室に勤めているが、左足に先天的な麻痺があり、いつも引きずっている。
そんな主人公が、パチンコ屋の駐車場で小さな鯛焼き屋を営む美女こよみに恋をする。
だんだんと距離を縮め、いよいよ恋が成就しようとした時、彼女は事故に遭い、短期記憶が保てない脳の障害を負ってしまう。
事故の前のことは覚えているが、こよみが新しい記憶を保てるのは、たった一日。
眠れば前日にあったことは忘れてしまう。
この設定だけ見たら、日本でもリメイクされたドリュー・バリモア主演の「50回目のファースト・キス」のようだが、こちらはコメディではなくシリアスなラブストーリーだ。
三年前に亡くなった恋人からの手紙が、止まっていた主人公の時間を動かす「四月の永い夢」、愛する人と故郷を失った主人公が、初めて傍観者としてではなく、自らの意思で”終わり”を作り出そうとする「わたしは光をにぎっている」。
中川龍太郎監督の作品では、常に登場人の心にある記憶が重要な要素になるが、これは記憶が作り出す世界の違いと現実の揺らぎを描いた物語だ。
事故後、行助とこよみは共に暮らし始めるも、彼の思い出は毎日積み重なってゆくのに、彼女が生きているのはずっと「今日」のままで「明日」は永遠に来ない。
人間は誰でも、それぞれの主観の中で異なる世界を生きている。
だが近しい人、愛する人ほど世界が重なり合う部分が増えてゆくはずなのに、この二人の共有した世界は一晩経てば消えてしまうのである。
どんなに楽しいことや嬉しいことがあっても、彼女の心の中には何も残らない。
最初はこよみのいる暮らしに幸せを感じていた行助の中に、次第に未来に対する漠然とした不安と焦りがうまれてきて、ささやかな日常を揺さぶりはじめる。
二人の間に降り続く静かな雨は、いつ止むのか。
「未来のミライ」など、細田守監督の作品で知られる高木正勝が手掛けた繊細な雨音の様なピアノの劇盤が、行助の閉塞感を表現するスタンダードサイズの映像と共に登場人物の揺れ動く感情をフォロー。
音楽は映像全編を流しながら、即興で曲をつけてゆくという手法で制作されたそう。
粒あんの鯛焼き、リスが残したクルミ、燃やされた60年分の日記、片手のないザリガニ、そしてこよみの最後の記憶である月夜の雨など、脚本の細部に組み込まれたたくさんの記憶にまつわる伏線と暗喩が、物語を効果的に展開させる。
劇中に起こる非日常的な事件はこよりの事故のみだが、世界の違いがもたらす葛藤を描いた心理劇として非常に丁寧な作り。
たぶんメジャーどころの集まる映画賞には絡んだりはしないけど、心の中で大切にしたい小さな宝石の様な佳作だ。
こよみを演じた衛藤美彩という人を全く知らなかったのだが、元乃木坂46の人気アイドルだったとはビックリ。
こんな才能が隠れていたとは。
「あん」繋がりなのか、河瀬直美がこよみの母親役でワンシーンだけ役者として出演していて、そこにいるだけで圧が凄い。
さすがはカンヌ三冠監督の貫禄だ(笑
今回は映画の二人のイメージで「ピュア・ラブ」をチョイス。
ドライジン30ml、クレーム・ド・フランボワーズ15ml、ライムジュース15mlをシェイクして、氷の入ったグラスに注ぐ。
最後に適量のジンジャーエールでグラスを満たし、スライスしたライムを飾って完成。
味わいはその名の通りに甘酸っぱい恋の味。
フランボワーズの甘みとライムの酸味、ジンジャーの辛味がうまくバランスしている。
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愛すべき映画だ。
仲野大賀が演じる行助は大学の研究室に勤めているが、左足に先天的な麻痺があり、いつも引きずっている。
そんな主人公が、パチンコ屋の駐車場で小さな鯛焼き屋を営む美女こよみに恋をする。
だんだんと距離を縮め、いよいよ恋が成就しようとした時、彼女は事故に遭い、短期記憶が保てない脳の障害を負ってしまう。
事故の前のことは覚えているが、こよみが新しい記憶を保てるのは、たった一日。
眠れば前日にあったことは忘れてしまう。
この設定だけ見たら、日本でもリメイクされたドリュー・バリモア主演の「50回目のファースト・キス」のようだが、こちらはコメディではなくシリアスなラブストーリーだ。
三年前に亡くなった恋人からの手紙が、止まっていた主人公の時間を動かす「四月の永い夢」、愛する人と故郷を失った主人公が、初めて傍観者としてではなく、自らの意思で”終わり”を作り出そうとする「わたしは光をにぎっている」。
中川龍太郎監督の作品では、常に登場人の心にある記憶が重要な要素になるが、これは記憶が作り出す世界の違いと現実の揺らぎを描いた物語だ。
事故後、行助とこよみは共に暮らし始めるも、彼の思い出は毎日積み重なってゆくのに、彼女が生きているのはずっと「今日」のままで「明日」は永遠に来ない。
人間は誰でも、それぞれの主観の中で異なる世界を生きている。
だが近しい人、愛する人ほど世界が重なり合う部分が増えてゆくはずなのに、この二人の共有した世界は一晩経てば消えてしまうのである。
どんなに楽しいことや嬉しいことがあっても、彼女の心の中には何も残らない。
最初はこよみのいる暮らしに幸せを感じていた行助の中に、次第に未来に対する漠然とした不安と焦りがうまれてきて、ささやかな日常を揺さぶりはじめる。
二人の間に降り続く静かな雨は、いつ止むのか。
「未来のミライ」など、細田守監督の作品で知られる高木正勝が手掛けた繊細な雨音の様なピアノの劇盤が、行助の閉塞感を表現するスタンダードサイズの映像と共に登場人物の揺れ動く感情をフォロー。
音楽は映像全編を流しながら、即興で曲をつけてゆくという手法で制作されたそう。
粒あんの鯛焼き、リスが残したクルミ、燃やされた60年分の日記、片手のないザリガニ、そしてこよみの最後の記憶である月夜の雨など、脚本の細部に組み込まれたたくさんの記憶にまつわる伏線と暗喩が、物語を効果的に展開させる。
劇中に起こる非日常的な事件はこよりの事故のみだが、世界の違いがもたらす葛藤を描いた心理劇として非常に丁寧な作り。
たぶんメジャーどころの集まる映画賞には絡んだりはしないけど、心の中で大切にしたい小さな宝石の様な佳作だ。
こよみを演じた衛藤美彩という人を全く知らなかったのだが、元乃木坂46の人気アイドルだったとはビックリ。
こんな才能が隠れていたとは。
「あん」繋がりなのか、河瀬直美がこよみの母親役でワンシーンだけ役者として出演していて、そこにいるだけで圧が凄い。
さすがはカンヌ三冠監督の貫禄だ(笑
今回は映画の二人のイメージで「ピュア・ラブ」をチョイス。
ドライジン30ml、クレーム・ド・フランボワーズ15ml、ライムジュース15mlをシェイクして、氷の入ったグラスに注ぐ。
最後に適量のジンジャーエールでグラスを満たし、スライスしたライムを飾って完成。
味わいはその名の通りに甘酸っぱい恋の味。
フランボワーズの甘みとライムの酸味、ジンジャーの辛味がうまくバランスしている。

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2020年02月16日 (日) | 編集 |
生きて、救うために。
第一次世界大戦の西部戦線を舞台に、ドイツ軍の罠に誘い込まれたイギリス軍兵士1600人の命を救うため、二人の兵士が伝令として走る。
タイムリミットはたったの一日。
兵士たちがひしめき合う塹壕から、遮るものの無い危険なノーマンズランドへ。
無名の人々が生きて死んでゆく戦場で、若い兵士は何を見て何を感じ、何処へ行き着くのか。
ジョージ・マッケイ、ディーン・チャールズ=チャップマンという若手俳優が二人の伝令兵を好演。
サム・メンデス監督が初めて脚本を兼任し、「レボリューショナリー・ロード 燃え尽きるまで」「007 スカイフォール」などでタッグを組んだ名撮影監督、ロジャー・ディーキンスが全編をワンショット風の映像で仕上げ、二度目のオスカーを獲得した話題作だ。
※以下、ラストおよび核心部分に触れています。
1917年4月6日、西部戦線。
木陰でまどろんでいたイギリス軍兵士のスコフィールド(ジョージ・マッケイ)とブレイク(ディーン=チャールズ・チャップマン)に、エリンモア将軍(コリン・ファース)から伝令として最前線の部隊に向かい、攻撃中止を伝えよという命令が下る。
ここ数日の間、イギリス軍と対峙していたドイツ軍が撤退をはじめ、マッケンジー大佐(ベネディクト・カンバーバッチ)率いるデヴォンシャー連隊第二大隊の1600人が追撃していたが、航空偵察によりドイツ軍の行動はこちらを油断させて誘い込むために入念に準備された罠であることが判明。
第二大隊の行く手には、精鋭の砲兵隊の火力が集中していて、攻撃を敢行すれば全滅は必至。
電話線も切断されたため前線とは連絡がとれず、1600人の命を救うためには二人が明朝までに攻撃中止命令を届けるしかない。
しかし、クロワジルの森に布陣する第二大隊にたどり着くためには、ノーマンズランドを超え、ドイツ軍が残っているエクーストの街を突破する必要がある。
白昼の行動は危険だと考えたスコフィールドは夜を待とうと言うが、第二大隊に兄が所属しているブレイクは出発を強行する・・・・
この映画は、少年時代のサム・メンデス監督が、作家で第一次世界大戦時には兵士だった祖父のアルフレッド・H・メンデスから聞いた戦争体験をもとに、多くの兵士たちの証言を集めて構成したと言う。
ピーター・ジャクソンが、やはり英軍兵士だった祖父に捧げたドキュメンタリー映画、「彼らは生きていた」と企画の出発点は同じだということだ。
ジャクソンは英国戦争博物館に所蔵されていた膨大な記録映像を丹念にデジタル修復・カラー化し、兵士たちの音声証言と組み合わせることで、100年前の人々を鮮やかに蘇らせた。
音声証言は声の主の名前や階級を示されず、映像もいつどこで撮られたものかは明示されないが、あえて「個」を消すことによって、現在の観客は映画に写っているのが自分たちの祖父や曽祖父だったかもしれない、確かに存在していた人々であることを認識するのである。
対して本作は史実にインスパイアされているとは言え、完全なる劇映画。
メンデスは、最大の特徴であるワンショット風の映像によって、この世の地獄を駆け抜ける兵士に寄り添い、観客を100年前の戦場へと誘う。
ワンショットの長回しというのは、いつの時代も映画作家の挑戦心を揺さぶるらしく、特にフィルム尺の制約が無くなった21世紀に入ってからは全編ワンショットを売りにした作品が定期的に出てくる。
また全編とは言わずとも、例えば冒頭8分のPOVワンショットが度肝を抜いた「悪女/AKUJO」や20分に渡って悪夢の宇宙事故を体験させる「ゼロ・グラビティ」など、要所で挑戦的な長回しを駆使した作品も増えた。
ヒッチコックが「ロープ」を作った時代との違いは、カメラワークの自由度が劇的に増したことと、デジタル技術の進化によって実際には編集していても、ほぼシームレスに見せることが可能となったこと。
本作もカメラは俳優の周りを縦横無尽に動き回り、一瞬の暗転や硝煙、画面を横切る様々なオブジェクトなどで上手く映像を継いでいるのだが、よっぽどの技術オタクでなければ編集点を意識することはあるまい。
メンデスは前作の「007 スペクター」の冒頭で、約4分に渡るワンショット映像にトライしていたので、この時の経験と手応えが本作に応用されているのは間違いないだろう。
とは言え、いかに凄い技術であっても、手法に意味がなければ単なる自己満足。
記憶に新しいところでは、アレハンドロ・G・イニャリトゥが「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」で全編ワンショットをやっていたが、あの映画ではマイケル・キートン演じる主人公の心の中で、虚構と現実が渾然一体となっていることを表現するための工夫だった。
本作の場合は、編集を意識させないことによって、観客をスコフィールドとブレイクと行動を共にする“第三の伝令”として映画に巻き込むためのもの。
しかしPOV的主観表現は意図的に避けられていて適度な客観性を保持し、生々しいドキュメンタリータッチとは異なる。
あくまでも臨場感を高めるための手法であって、何がなんでもワンショットというほどには拘ってはいないのである。
実際中盤には時間経過を作るための長めの暗転があるし、水に落ちたついでにロケーションをワープさせてるところもある。
本作が特徴的なのは、むしろ劇映画としての凝ったストーリーとテリングのコンビネーション。
塹壕から始まる冒険は、ノーマンズランドを超え、一見してのどかな農場から敵の姿の見えない市街戦、そして死を覚悟した兵士たちが200年前のアメリカで生まれた民謡「I AM A POOR WAYFARING STRANGER」に耳を傾けるクロワジルの森へ。
人生は苦難の中を彷徨うようなものだが最後には父と母が神と共に天国で待っている、というこの場の兵士たちの想いそのもののような歌詞が印象的だ。
第一次世界大戦の全てのステージを駆け抜ける旅は、まるでビデオゲームの様な構造を持つ。
英軍の物よりずっと立派なドイツ軍の迷宮のような塹壕、誰と誰が戦っているのか分からないカオスの市街戦といった、クリアしなければいけないステージは極めて劇的に作り込まれている。
炎上する街から激流の水への転換、死と再生をイメージさせるチェリーの花吹雪、冒頭の茶色の塹壕からクライマックスの白日夢の様な白い塹壕といった伏線と回収を繰り返すテリングの象徴性は、キューブリックからマリック、タルコフスキーまで、観る者の映画的記憶を刺激する。
この映画でユニークなのは、途中で主人公が入れ替わること。
最初に物語を主導するのは、兄を救いたいという強い動機があったブレイクだ。
対して100万人以上が死傷した最悪の戦場、ソンムの戦いを経験しているスコフィールドは消極的だが、それぞれのステージで次々に試練が降りかかることで変化してゆく。
まずは塹壕の迷宮で自分を救ってくれたブレイクが、その優しさと善意ゆえに戦死すると、主人公のポジションにスライドイン。
別の部隊のトラックに拾われある程度の距離を稼ぐが、再び孤立すると廃墟となったエクーストで、誰の子か分からない赤ん坊を育てる若い女性に救われる。
ブレイクの死で彼の責任を背負ったスコフィールドは、赤ん坊と女性という命の象徴と出会うことで更なる後押しを受け、クライマックスの白の塹壕では目の前の全ての命を救うため、自らの危険も顧みず砲弾の雨の中全力疾走するのである。
映画のラストは、オープニングのミラーイメージとなる様に作られている。
冒頭でスコフィールドが木にもたれてまどろんでいると、傍に寝転んでいたブレイクが司令部から呼び出しを受け、スコフィールドに手を伸ばし、彼を相棒に選ぶ。
しかしラストでは、任務を果たしたスコフィールドが同じ様に木陰に座りこんでも、そこにはもうブレイクはいない。
生者と死者の道は別たれ、スコフィールドはこの世界の無常を感じながら、生きていることをしみじみと実感する。
そしてこれは100年後の未来を生きるサム・メンデスから、祖父を含むこの世代の人々に対するレクイエムであるのと同時に、「生きて、命を繋いでくれてありがとう」というメッセージ。
実は「彼らは生きていた」にも同じ感慨を抱いたのだが、両作品の一番の共通点は描かれている対象への距離感だろう。
自らのルーツとなった肉親の物語という成り立ちが、それぞれの映画を静かに情熱的なものにしている様に思う。
祖父たちが命をかけた戦争そのものに対して、政治的な意味を与えていないのも共通だ。
戦争はどこまでも追求しても最後は虚無なのである。
ところで、第一次世界大戦がモチーフで伝令を描いた作品といえば、ピーター・ウィアー監督が1981年に発表した「誓い」がある。
実は本作の予告編をはじめて観た時は、てっきりこの映画のリメイクなのかと思った。
1915年のガリポリの戦いに投入されたオーストラリア・ニュージーランド連合軍、アンザック軍団に配属された二人の兵士の物語で、親友の所属する部隊の無謀な突撃を中止させるために疾走する伝令兵を、若き日のメル・ギブソンが演じた。
この映画の中で、主人公の二人が入隊志願のためにパースに向かう途中、砂漠の中で戦争が起こっていることを知らない初老の男と出会うシーンがある。
「なぜ戦争になった?」と聞く男に、二人は「ちゃんとは知らないけど、ドイツ人のせいだ」と答える。
しかもアンザック軍団の向かう先がドイツではなく(ドイツの同盟国)トルコだと聞かされると、男は「ますます俺たちと何の関係があるのか分からない」と言うのである。
若者たちは自分がなぜ戦うのか理由も知らず、為政者の作り出す愛国の熱狂のうちに戦場に駆り出され、命を落とす。
本作や「彼らは生きていた」と同じテーマを39年前に描いていた傑作で、観たことのない方はこの機会に鑑賞することを是非ともオススメしたい。
今回は英軍兵士の物語なので、300年以上の歴史を持つスコッチの定番「ザ・マッカラン 18年」をチョイス。
厳選されたシェリー樽で最低18年熟成されたスコッチは、マホガニーを思わせる色合いも美しい。
この18年あたりからグッと深みを増す、複雑なアフターテイストを楽しめる。
しかしジャパニーズ・ウィスキーほどじゃないけど、マッカランもだいぶ高騰してしまったな。
庶民は本当にチビチビとしか飲めなくなった。
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第一次世界大戦の西部戦線を舞台に、ドイツ軍の罠に誘い込まれたイギリス軍兵士1600人の命を救うため、二人の兵士が伝令として走る。
タイムリミットはたったの一日。
兵士たちがひしめき合う塹壕から、遮るものの無い危険なノーマンズランドへ。
無名の人々が生きて死んでゆく戦場で、若い兵士は何を見て何を感じ、何処へ行き着くのか。
ジョージ・マッケイ、ディーン・チャールズ=チャップマンという若手俳優が二人の伝令兵を好演。
サム・メンデス監督が初めて脚本を兼任し、「レボリューショナリー・ロード 燃え尽きるまで」「007 スカイフォール」などでタッグを組んだ名撮影監督、ロジャー・ディーキンスが全編をワンショット風の映像で仕上げ、二度目のオスカーを獲得した話題作だ。
※以下、ラストおよび核心部分に触れています。
1917年4月6日、西部戦線。
木陰でまどろんでいたイギリス軍兵士のスコフィールド(ジョージ・マッケイ)とブレイク(ディーン=チャールズ・チャップマン)に、エリンモア将軍(コリン・ファース)から伝令として最前線の部隊に向かい、攻撃中止を伝えよという命令が下る。
ここ数日の間、イギリス軍と対峙していたドイツ軍が撤退をはじめ、マッケンジー大佐(ベネディクト・カンバーバッチ)率いるデヴォンシャー連隊第二大隊の1600人が追撃していたが、航空偵察によりドイツ軍の行動はこちらを油断させて誘い込むために入念に準備された罠であることが判明。
第二大隊の行く手には、精鋭の砲兵隊の火力が集中していて、攻撃を敢行すれば全滅は必至。
電話線も切断されたため前線とは連絡がとれず、1600人の命を救うためには二人が明朝までに攻撃中止命令を届けるしかない。
しかし、クロワジルの森に布陣する第二大隊にたどり着くためには、ノーマンズランドを超え、ドイツ軍が残っているエクーストの街を突破する必要がある。
白昼の行動は危険だと考えたスコフィールドは夜を待とうと言うが、第二大隊に兄が所属しているブレイクは出発を強行する・・・・
この映画は、少年時代のサム・メンデス監督が、作家で第一次世界大戦時には兵士だった祖父のアルフレッド・H・メンデスから聞いた戦争体験をもとに、多くの兵士たちの証言を集めて構成したと言う。
ピーター・ジャクソンが、やはり英軍兵士だった祖父に捧げたドキュメンタリー映画、「彼らは生きていた」と企画の出発点は同じだということだ。
ジャクソンは英国戦争博物館に所蔵されていた膨大な記録映像を丹念にデジタル修復・カラー化し、兵士たちの音声証言と組み合わせることで、100年前の人々を鮮やかに蘇らせた。
音声証言は声の主の名前や階級を示されず、映像もいつどこで撮られたものかは明示されないが、あえて「個」を消すことによって、現在の観客は映画に写っているのが自分たちの祖父や曽祖父だったかもしれない、確かに存在していた人々であることを認識するのである。
対して本作は史実にインスパイアされているとは言え、完全なる劇映画。
メンデスは、最大の特徴であるワンショット風の映像によって、この世の地獄を駆け抜ける兵士に寄り添い、観客を100年前の戦場へと誘う。
ワンショットの長回しというのは、いつの時代も映画作家の挑戦心を揺さぶるらしく、特にフィルム尺の制約が無くなった21世紀に入ってからは全編ワンショットを売りにした作品が定期的に出てくる。
また全編とは言わずとも、例えば冒頭8分のPOVワンショットが度肝を抜いた「悪女/AKUJO」や20分に渡って悪夢の宇宙事故を体験させる「ゼロ・グラビティ」など、要所で挑戦的な長回しを駆使した作品も増えた。
ヒッチコックが「ロープ」を作った時代との違いは、カメラワークの自由度が劇的に増したことと、デジタル技術の進化によって実際には編集していても、ほぼシームレスに見せることが可能となったこと。
本作もカメラは俳優の周りを縦横無尽に動き回り、一瞬の暗転や硝煙、画面を横切る様々なオブジェクトなどで上手く映像を継いでいるのだが、よっぽどの技術オタクでなければ編集点を意識することはあるまい。
メンデスは前作の「007 スペクター」の冒頭で、約4分に渡るワンショット映像にトライしていたので、この時の経験と手応えが本作に応用されているのは間違いないだろう。
とは言え、いかに凄い技術であっても、手法に意味がなければ単なる自己満足。
記憶に新しいところでは、アレハンドロ・G・イニャリトゥが「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」で全編ワンショットをやっていたが、あの映画ではマイケル・キートン演じる主人公の心の中で、虚構と現実が渾然一体となっていることを表現するための工夫だった。
本作の場合は、編集を意識させないことによって、観客をスコフィールドとブレイクと行動を共にする“第三の伝令”として映画に巻き込むためのもの。
しかしPOV的主観表現は意図的に避けられていて適度な客観性を保持し、生々しいドキュメンタリータッチとは異なる。
あくまでも臨場感を高めるための手法であって、何がなんでもワンショットというほどには拘ってはいないのである。
実際中盤には時間経過を作るための長めの暗転があるし、水に落ちたついでにロケーションをワープさせてるところもある。
本作が特徴的なのは、むしろ劇映画としての凝ったストーリーとテリングのコンビネーション。
塹壕から始まる冒険は、ノーマンズランドを超え、一見してのどかな農場から敵の姿の見えない市街戦、そして死を覚悟した兵士たちが200年前のアメリカで生まれた民謡「I AM A POOR WAYFARING STRANGER」に耳を傾けるクロワジルの森へ。
人生は苦難の中を彷徨うようなものだが最後には父と母が神と共に天国で待っている、というこの場の兵士たちの想いそのもののような歌詞が印象的だ。
第一次世界大戦の全てのステージを駆け抜ける旅は、まるでビデオゲームの様な構造を持つ。
英軍の物よりずっと立派なドイツ軍の迷宮のような塹壕、誰と誰が戦っているのか分からないカオスの市街戦といった、クリアしなければいけないステージは極めて劇的に作り込まれている。
炎上する街から激流の水への転換、死と再生をイメージさせるチェリーの花吹雪、冒頭の茶色の塹壕からクライマックスの白日夢の様な白い塹壕といった伏線と回収を繰り返すテリングの象徴性は、キューブリックからマリック、タルコフスキーまで、観る者の映画的記憶を刺激する。
この映画でユニークなのは、途中で主人公が入れ替わること。
最初に物語を主導するのは、兄を救いたいという強い動機があったブレイクだ。
対して100万人以上が死傷した最悪の戦場、ソンムの戦いを経験しているスコフィールドは消極的だが、それぞれのステージで次々に試練が降りかかることで変化してゆく。
まずは塹壕の迷宮で自分を救ってくれたブレイクが、その優しさと善意ゆえに戦死すると、主人公のポジションにスライドイン。
別の部隊のトラックに拾われある程度の距離を稼ぐが、再び孤立すると廃墟となったエクーストで、誰の子か分からない赤ん坊を育てる若い女性に救われる。
ブレイクの死で彼の責任を背負ったスコフィールドは、赤ん坊と女性という命の象徴と出会うことで更なる後押しを受け、クライマックスの白の塹壕では目の前の全ての命を救うため、自らの危険も顧みず砲弾の雨の中全力疾走するのである。
映画のラストは、オープニングのミラーイメージとなる様に作られている。
冒頭でスコフィールドが木にもたれてまどろんでいると、傍に寝転んでいたブレイクが司令部から呼び出しを受け、スコフィールドに手を伸ばし、彼を相棒に選ぶ。
しかしラストでは、任務を果たしたスコフィールドが同じ様に木陰に座りこんでも、そこにはもうブレイクはいない。
生者と死者の道は別たれ、スコフィールドはこの世界の無常を感じながら、生きていることをしみじみと実感する。
そしてこれは100年後の未来を生きるサム・メンデスから、祖父を含むこの世代の人々に対するレクイエムであるのと同時に、「生きて、命を繋いでくれてありがとう」というメッセージ。
実は「彼らは生きていた」にも同じ感慨を抱いたのだが、両作品の一番の共通点は描かれている対象への距離感だろう。
自らのルーツとなった肉親の物語という成り立ちが、それぞれの映画を静かに情熱的なものにしている様に思う。
祖父たちが命をかけた戦争そのものに対して、政治的な意味を与えていないのも共通だ。
戦争はどこまでも追求しても最後は虚無なのである。
ところで、第一次世界大戦がモチーフで伝令を描いた作品といえば、ピーター・ウィアー監督が1981年に発表した「誓い」がある。
実は本作の予告編をはじめて観た時は、てっきりこの映画のリメイクなのかと思った。
1915年のガリポリの戦いに投入されたオーストラリア・ニュージーランド連合軍、アンザック軍団に配属された二人の兵士の物語で、親友の所属する部隊の無謀な突撃を中止させるために疾走する伝令兵を、若き日のメル・ギブソンが演じた。
この映画の中で、主人公の二人が入隊志願のためにパースに向かう途中、砂漠の中で戦争が起こっていることを知らない初老の男と出会うシーンがある。
「なぜ戦争になった?」と聞く男に、二人は「ちゃんとは知らないけど、ドイツ人のせいだ」と答える。
しかもアンザック軍団の向かう先がドイツではなく(ドイツの同盟国)トルコだと聞かされると、男は「ますます俺たちと何の関係があるのか分からない」と言うのである。
若者たちは自分がなぜ戦うのか理由も知らず、為政者の作り出す愛国の熱狂のうちに戦場に駆り出され、命を落とす。
本作や「彼らは生きていた」と同じテーマを39年前に描いていた傑作で、観たことのない方はこの機会に鑑賞することを是非ともオススメしたい。
今回は英軍兵士の物語なので、300年以上の歴史を持つスコッチの定番「ザ・マッカラン 18年」をチョイス。
厳選されたシェリー樽で最低18年熟成されたスコッチは、マホガニーを思わせる色合いも美しい。
この18年あたりからグッと深みを増す、複雑なアフターテイストを楽しめる。
しかしジャパニーズ・ウィスキーほどじゃないけど、マッカランもだいぶ高騰してしまったな。
庶民は本当にチビチビとしか飲めなくなった。

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2020年02月12日 (水) | 編集 |
37秒の運命の分岐点。
心震える秀作が誕生した。
「37セカンズ」は生まれた時に37秒間だけ呼吸が止まったことで、脳性麻痺となった23歳の女性の成長を描き、第69回ベルリン国際映画祭で、パノラマ部門観客賞とCICAEアートシネマ賞をダブル受賞した注目作だ。
主人公のユマは超過保護な母親と二人暮らし。
非常に才能豊かで、友人の漫画家のゴーストライターをしてるが、存在を消された日陰者扱いに納得しておらず、自分の名前で漫画を出したいとアダルト漫画にトライする。
しかしセックスの経験が無いので思うように描けず、編集者からダメ出しを食らってしまう。
このことがきっかけとなり、それまで母親に依存して生きてきた彼女の成長スイッチが入り、急激に大人になろうとするのである。
監督・脚本はこれが長編デビュー作となるHIKARI。
主人公のユマをオーディションで選ばれた佳山明、彼女の母親を神野三鈴が演じる。
生まれた時に、37秒間無呼吸だったため体に障害を抱えたユマ(佳山明)は、母親の恭子(神野三鈴)と暮らしながら、漫画家で人気YouTuberでもある友人のゴーストライターの仕事をしている。
しかし、名前を消され表舞台に出ることもできない人生に息苦しさを感じたユマは、偶然手にしたアダルト雑誌への挑戦を思いつく。
持ち前の才能で漫画を仕上げ編集部へ持ち込むも、肝心の官能描写のリアリティのなさを指摘され、「セックスを経験したらまた持ち込んで」と言われてしまう。
ユマはそれまで生きてきた小さな世界に限界を感じるが、直ぐに彼氏ができるわけもなく、出会い系や風俗にも手を出すがうまくいかず。
そんな時、ひょんなことから障害者専門のセックスワーカーをしている舞(渡辺真起子)と介護士の俊哉(大東駿介)と出会ったことで、ユマの前に新しい世界が広がりはじめる・・・
性への興味と欲求は、あくまでも成長の取っ掛かり。
それまでのユマの世界は、母親と二人だけの家、あとは名ばかりの友情と経済的な利害で繋がった漫画家との関係だけ。
ごく小さな範囲で生きてきた彼女は、いまだに広い世界をほとんど知らないのだ。
メンターとなる舞との出会いが起点となり、家と仕事以外に交友関係が広がると共に、仲間と一緒に遊んだり飲み明かしたり、新しい楽しみも増えてゆく。
それは本来誰もが通る青春の通過儀礼なのだが、生活の全てをユマに捧げ、無垢なる娘を保護することが自分の人生の拠り所となってしまってる母親とっては、娘を危険に晒す悪しき誘惑。
たとえ障害を抱えていなかったとしても、問題を抱えた母娘の成長物語は数多い。
大人になりたい!自立したい!という普遍的な欲求に突き動かされたユマと、彼女を自分の保護下に置きたい母親が葛藤を深め、人生で初めて激しくぶつかり合うのと同時に、物語は大きく動き出す。
ユマの家には父親がいない。
彼女は子供の頃に父親が送ってくれた絵手紙を大切にしていて、その達者な絵から漫画の才能は父親譲りだということが分かる。
家を飛び出したユマが会ったことのない父親を探す旅をはじめると、映画は一気にスケールアップ。
ここからの展開はある種の貴種流離譚神話のようだ。
ギリシャ/ローマ神話では、しばしば神が人間と交わり、残された子が成長して試練の旅に出るが、ユマもまた運命の見えざる手に導かれ自らのルーツへと近付いてゆく。
なぜ父親はユマの元を去ったのか?なぜ母親は過剰に彼女を束縛しようとするのか?
アイデンティティを探すユマの想いと共に、映画は国境をも超えて愛ゆえにバラバラになった一つの家族の歴史を描き出すのである。
ユマを演じる佳山明が素晴らしい。
実際に生まれた時に呼吸がとまったことが原因で、脳性麻痺を抱えている社会福祉士の方なのだとか。
もともと本作の主人公は交通事故で脊髄損傷を負った女性の設定だったのが、彼女がオーディションに現れたことで設定から変更されたという。
はにかみながらの小声の発声が実にキュートで、役が自分に近いキャラクターに引き寄せられたとはいえ、演技経験無しとは信じられないレベル。
母親の深すぎる愛と苦悩を表現する神野美鈴も、キャリアベストの名演と言える。
作品のストーリー、そしてテリングの完成度も非常に高い。
監督・脚本のHIKARIはロサンゼルス在住で、十代からアメリカで芸術教育を受けていたそうで、撮影や編集も向こうの人が加わってる。
それゆえか、画が日本のインディーズ映画にありがちな沈んだ色彩ではなく、シネマスコープのサイズに明るくクリアに決め込まれている。
プロットもロジカルに構成されていて、アメリカンインディーズ的な作品カラーを強く感じさせるのである。
テリングの手法で面白いのが、シフトレンズを使い東京の街をミニチュアの様に鳥瞰したショット。
劇中でユマが「宇宙から見たら、私たち人間の人生なんて、ほんの一瞬の出来事なんですよね。たまに思うんですよね。私の人生って、宇宙人の夏休みの課題みたいなものなのかなあって」と語る印象的なシーンがある。
この台詞は前記したユマのルーツを辿る旅の寓話性とも重なり、ミニチュア風の映像は社会からの疎外感を抱えているからこそ、この世界を宇宙人の視点から見つめる、ユマの心象と重なり合う。
自分が何者で、なぜ生まれ、なぜ障害を抱え生きなければならないのか。
神話の英雄のように冒険の結果全ての真実に行き着き、自分が愛に包まれていることを知った彼女は、もう他者に依存していたか弱い存在ではなく、地にしっかりと車輪をつけて生きる、自立した大人の女性へと成長している。
同時に知らず知らずのうちに自分自身を追い込んでいた母親も、娘の成長によってずっと抱え込んでいた罪悪感から解放される。
青春映画の枠を超え、高い普遍性を持つ人間ドラマの秀作だ。
今回は、大人の階段を上ったユマに相応しいエレガントなカクテル、「シャンパンフランボワーズ」をチョイス。
シャンパングラスにシャンパンまたはスパークリングワイン80ml、クレーム・ド・フランボワーズ20mlを注ぎ、軽くステア。
ほのかにピンクに染まった色合いも美しく、さっぱりした味わいはアペリティフとしても食中酒としても使い勝手がよい。
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心震える秀作が誕生した。
「37セカンズ」は生まれた時に37秒間だけ呼吸が止まったことで、脳性麻痺となった23歳の女性の成長を描き、第69回ベルリン国際映画祭で、パノラマ部門観客賞とCICAEアートシネマ賞をダブル受賞した注目作だ。
主人公のユマは超過保護な母親と二人暮らし。
非常に才能豊かで、友人の漫画家のゴーストライターをしてるが、存在を消された日陰者扱いに納得しておらず、自分の名前で漫画を出したいとアダルト漫画にトライする。
しかしセックスの経験が無いので思うように描けず、編集者からダメ出しを食らってしまう。
このことがきっかけとなり、それまで母親に依存して生きてきた彼女の成長スイッチが入り、急激に大人になろうとするのである。
監督・脚本はこれが長編デビュー作となるHIKARI。
主人公のユマをオーディションで選ばれた佳山明、彼女の母親を神野三鈴が演じる。
生まれた時に、37秒間無呼吸だったため体に障害を抱えたユマ(佳山明)は、母親の恭子(神野三鈴)と暮らしながら、漫画家で人気YouTuberでもある友人のゴーストライターの仕事をしている。
しかし、名前を消され表舞台に出ることもできない人生に息苦しさを感じたユマは、偶然手にしたアダルト雑誌への挑戦を思いつく。
持ち前の才能で漫画を仕上げ編集部へ持ち込むも、肝心の官能描写のリアリティのなさを指摘され、「セックスを経験したらまた持ち込んで」と言われてしまう。
ユマはそれまで生きてきた小さな世界に限界を感じるが、直ぐに彼氏ができるわけもなく、出会い系や風俗にも手を出すがうまくいかず。
そんな時、ひょんなことから障害者専門のセックスワーカーをしている舞(渡辺真起子)と介護士の俊哉(大東駿介)と出会ったことで、ユマの前に新しい世界が広がりはじめる・・・
性への興味と欲求は、あくまでも成長の取っ掛かり。
それまでのユマの世界は、母親と二人だけの家、あとは名ばかりの友情と経済的な利害で繋がった漫画家との関係だけ。
ごく小さな範囲で生きてきた彼女は、いまだに広い世界をほとんど知らないのだ。
メンターとなる舞との出会いが起点となり、家と仕事以外に交友関係が広がると共に、仲間と一緒に遊んだり飲み明かしたり、新しい楽しみも増えてゆく。
それは本来誰もが通る青春の通過儀礼なのだが、生活の全てをユマに捧げ、無垢なる娘を保護することが自分の人生の拠り所となってしまってる母親とっては、娘を危険に晒す悪しき誘惑。
たとえ障害を抱えていなかったとしても、問題を抱えた母娘の成長物語は数多い。
大人になりたい!自立したい!という普遍的な欲求に突き動かされたユマと、彼女を自分の保護下に置きたい母親が葛藤を深め、人生で初めて激しくぶつかり合うのと同時に、物語は大きく動き出す。
ユマの家には父親がいない。
彼女は子供の頃に父親が送ってくれた絵手紙を大切にしていて、その達者な絵から漫画の才能は父親譲りだということが分かる。
家を飛び出したユマが会ったことのない父親を探す旅をはじめると、映画は一気にスケールアップ。
ここからの展開はある種の貴種流離譚神話のようだ。
ギリシャ/ローマ神話では、しばしば神が人間と交わり、残された子が成長して試練の旅に出るが、ユマもまた運命の見えざる手に導かれ自らのルーツへと近付いてゆく。
なぜ父親はユマの元を去ったのか?なぜ母親は過剰に彼女を束縛しようとするのか?
アイデンティティを探すユマの想いと共に、映画は国境をも超えて愛ゆえにバラバラになった一つの家族の歴史を描き出すのである。
ユマを演じる佳山明が素晴らしい。
実際に生まれた時に呼吸がとまったことが原因で、脳性麻痺を抱えている社会福祉士の方なのだとか。
もともと本作の主人公は交通事故で脊髄損傷を負った女性の設定だったのが、彼女がオーディションに現れたことで設定から変更されたという。
はにかみながらの小声の発声が実にキュートで、役が自分に近いキャラクターに引き寄せられたとはいえ、演技経験無しとは信じられないレベル。
母親の深すぎる愛と苦悩を表現する神野美鈴も、キャリアベストの名演と言える。
作品のストーリー、そしてテリングの完成度も非常に高い。
監督・脚本のHIKARIはロサンゼルス在住で、十代からアメリカで芸術教育を受けていたそうで、撮影や編集も向こうの人が加わってる。
それゆえか、画が日本のインディーズ映画にありがちな沈んだ色彩ではなく、シネマスコープのサイズに明るくクリアに決め込まれている。
プロットもロジカルに構成されていて、アメリカンインディーズ的な作品カラーを強く感じさせるのである。
テリングの手法で面白いのが、シフトレンズを使い東京の街をミニチュアの様に鳥瞰したショット。
劇中でユマが「宇宙から見たら、私たち人間の人生なんて、ほんの一瞬の出来事なんですよね。たまに思うんですよね。私の人生って、宇宙人の夏休みの課題みたいなものなのかなあって」と語る印象的なシーンがある。
この台詞は前記したユマのルーツを辿る旅の寓話性とも重なり、ミニチュア風の映像は社会からの疎外感を抱えているからこそ、この世界を宇宙人の視点から見つめる、ユマの心象と重なり合う。
自分が何者で、なぜ生まれ、なぜ障害を抱え生きなければならないのか。
神話の英雄のように冒険の結果全ての真実に行き着き、自分が愛に包まれていることを知った彼女は、もう他者に依存していたか弱い存在ではなく、地にしっかりと車輪をつけて生きる、自立した大人の女性へと成長している。
同時に知らず知らずのうちに自分自身を追い込んでいた母親も、娘の成長によってずっと抱え込んでいた罪悪感から解放される。
青春映画の枠を超え、高い普遍性を持つ人間ドラマの秀作だ。
今回は、大人の階段を上ったユマに相応しいエレガントなカクテル、「シャンパンフランボワーズ」をチョイス。
シャンパングラスにシャンパンまたはスパークリングワイン80ml、クレーム・ド・フランボワーズ20mlを注ぎ、軽くステア。
ほのかにピンクに染まった色合いも美しく、さっぱりした味わいはアペリティフとしても食中酒としても使い勝手がよい。

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2020年02月09日 (日) | 編集 |
いくつもの、恋と愛のカタチ。
今宵はこのところ絶好調の、今泉力哉監督作品のダブルレビュー。
どちらもシンプルな英単語がタイトルになっているが、その装いは全く異なる。
まず自身のオリジナル脚本の「mellow」は、端的に言えば「おっさんずラブ」で腐女子のアイドルとなった田中圭が、全世代の女性たちにモテまくる話だ。
彼が演じるのは、お洒落なお花屋さん“mellow”を経営する夏目誠一。
名前の通り誠実な人柄で、顧客の信頼も厚く、商店から個人宅までお花を届けて堅実な商売をしている。
誠一自身は狂言回し的な役柄で、彼の背景を含め、人となりはほとんど描かれておらず、特に葛藤も抱えていない。
映画は、誠一に対する秘めたる想いを抱えた、三人の女性とのエピソードを紡いでゆく。
定期的にmellowの花を届けてもらっている、年上の富裕層の人妻、青木麻里子。
同じ商店街にある美容院の娘で、思春期真っ只中の中学三年生、浅井宏美。
そして誠一とは長年に渡る付き合いがあるらしい、親から受け継いだラーメン店を切り盛りする古川木帆。
ともさかりえ、志田 彩良、岡崎紗絵が好演する、ミドルエイジからティーンまで、世代の違う彼女らは、なぜかイマイチつかみ所の無い誠一に惚れてしまっているのである。
三人と誠一とのエピソードが、恋愛映画のジャンル違いになっているのが面白い。
麻里子が夫の目の前で、誠一に想いを告白するシーンは、完全にナンセンスコメディ。
最初は妻の恋愛に理解があるフリをして、自分は身を引くようなことを言っている夫が、だんだんと激昂してくる辺りは、その場にいる全員の意識とテンションのズレが不条理な可笑しさを作り出していて爆笑モノ。
一方、中学校では女子からモテているボーイッシュな宏美の初恋は、決して報われないのはもちろんなのだけど、それゆえに愛おしい。
誠一は生真面目なだけに、子供に手を出すような真似はせず、宏美もそれを分かっていて、ストレートに気持ちをぶつける切なくて爽やかな青春ストーリーになっている。
麻里子と宏美の恋が初めから望みの薄い、終わりの見えているもので、共に物語の中で告白し決着がつくのに対し、世代の近い木帆との関係はベクトルが異なる。
この二人、付き合いの長すぎる友人同士で、お互いにリスペクトしているし好きなんだけど、友情が恋に育つチャンスを逃してしまった様子。
少女漫画などによくある、友達以上恋人未満の煮え切らない関係のパターンで、くっ付きそうでくっ付かないがゆえに、観ている方は応援しつつもちょっとイライラ。
全体の軸となるエピソードなのだが、結末を安易に型にはめずに、適度にお膳立てして観客の想像力を刺激するのがセンス良し。
三者三様の恋の情景も面白いのだけど、彼女らの想いをソフトに受け止めて、しっかりと返してあげる誠一のキャラクター造形がいい。
「ラストレター」の福山雅治もそうだけど、こういう受けの度量の大きい役者は需要が多いのだろう。
そんな凄い二枚目という訳じゃないけど、 人によってカタチの違う恋心にも、柔軟にフィットしてくれそうで、モテる設定にも説得力がある。
おっさんじゃなくても、惚れてしまいそうだ。
二本目の「his」は、一度は別れたものの、焼け木杭に火がついたゲイのカップルの物語。
こちらは放送作家としても知られるアサダアツシの脚本で、昨年放送された同名のテレビドラマの続編にあたる作品。
しかし物語としては独立しているので、単体で観ても全く問題ない。
宮沢氷魚演じる井川迅と、藤原季節演じる日比野渚は、十代の頃に江ノ島で出会い付き合い始めるが、やがて別れが訪れる。
それから13年後、今は岐阜県の白河町に一人で暮らす迅のもとへ、突然幼い娘を連れた渚が訪ねてくる。
一度は女性と結婚して子供も生まれ、“主夫”として暮らしてきたものの、迅のことが忘れられずに、妻にゲイであることをカミングアウト。
離婚を覚悟し、娘と共に転がり込んで来たのだ。
物語の前半は、別れた時のわだかまりを抱え、最初はぎこちなかった三人が少しずつ家族になってゆくプロセス。
後半は、新しい家族のカタチを問う、元妻との親権裁判のゆくえ。
いつも思うのだけど、これだけ離婚が増えてるんだから、日本もそろそろ共同親権制度を導入すればいいのに。
裁判劇の部分は、ちょっと「チョコレートドーナツ」を思わせるのだが、現在の日本では育てるのがゲイのカップルかどうかよりも、育てられる環境にあるかどうかの方が問題にされるというのは興味深かった。
日本社会での性的マイノリティの認識というのは、確かに欧米社会とはまたちょっと違った尺度があるのかもしれない。
それはともかく、この映画もキャラクター造形が非常に丁寧で、語り口にクセがなくて端正。
最初の別れの痛みを今も引きずる迅と渚は、性的マイノリティとしての生きずらさも抱えて、自分の居場所、帰るべき場所を探し続けている。
そして二人だけではなく、愛した夫に裏切られ、子供まで取られそうになっている渚の妻の玲奈や、迅に報われない恋をする松本穂香演じる白河町役場の職員、それぞれの男性に絡む女性サイドの苦悩にもフォーカスしていることが、この映画をとても味わい深く、完成度の高い作品としている。
葛藤を抱えているのは迅と渚だけではなく、玲奈の成長までもきっちりと描き切るのである。
宮沢氷魚と藤原季節も素晴らしいが、特に玲奈を演じた松本若菜は、精神的に追い詰められた妻であり母親である女性の内面を巧みに表現し、強く印象に残る。
「mellow」が田中圭を器に、まだ始まってすらない恋する心を戯画化した物語だとしたら、「his」はその先にあるディープで残酷な愛の物語だ。
法廷と日常、かつて家族だった者たちと、新しく家族になろうとしている者たちのドラマは、充分に見応えがある。
正直、日本の田舎があそこまで性的マイノリティに対して寛容かどうかは疑問だが、映画的希望と思えばこれはこれでありだろう。
そして本作も、登場人物がそれぞれの立場で葛藤をぶつけ合い、結末を適度にお膳立てしつつも、最後まで行かずに観客の心で完成させる楽しみを残してくれる。
今泉力哉は、恋愛映画に必要なセンス・オブ・ワンダーの様なものを持っているのではないか。
去年の「愛がなんだ」から「アイネクライネナハトムジーク」「mellow」「his」と四作連続で異なる恋と愛を描き、その全てで水準を大きく超えてくるのだから見事だ。
そもそも人が人を想う気持ちなんて、定まったカタチのない漠然としたものだから、100人の人がいたら、100通りの物語がある。
何とも文章化しにくいのだが、変幻自在のスタイルに見えつつ、どの作品にも共通する明確な作家性を感じさせるのはユニーク。
男も女も、役者たちがとても魅力的に撮られているのも印象的だ。
今年の5月公開予定の「街の上で」を含めて、すでに決定済みの待機作が6本あるというのだから、この勢いは当分続きそう。
今回はダブルレビューなので、「蓬莱」銘柄で有名な岐阜県の渡辺酒造店の「W (だぶりゅー) 山田錦45 純米無濾過生原酒」をチョイス。
2014年からラインナップに加わった、濃厚、芳醇でパワフルなボディを持つ一本。
食欲が増進されるので、肉類との相性もよく、食中酒として楽しみたい。
渡辺酒造店は「日本で一番笑顔溢れる蔵」を自称していて、「W」は「渡辺酒造店」「笑い」「世界(world)に羽ばたく」の意味だとか。
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今宵はこのところ絶好調の、今泉力哉監督作品のダブルレビュー。
どちらもシンプルな英単語がタイトルになっているが、その装いは全く異なる。
まず自身のオリジナル脚本の「mellow」は、端的に言えば「おっさんずラブ」で腐女子のアイドルとなった田中圭が、全世代の女性たちにモテまくる話だ。
彼が演じるのは、お洒落なお花屋さん“mellow”を経営する夏目誠一。
名前の通り誠実な人柄で、顧客の信頼も厚く、商店から個人宅までお花を届けて堅実な商売をしている。
誠一自身は狂言回し的な役柄で、彼の背景を含め、人となりはほとんど描かれておらず、特に葛藤も抱えていない。
映画は、誠一に対する秘めたる想いを抱えた、三人の女性とのエピソードを紡いでゆく。
定期的にmellowの花を届けてもらっている、年上の富裕層の人妻、青木麻里子。
同じ商店街にある美容院の娘で、思春期真っ只中の中学三年生、浅井宏美。
そして誠一とは長年に渡る付き合いがあるらしい、親から受け継いだラーメン店を切り盛りする古川木帆。
ともさかりえ、志田 彩良、岡崎紗絵が好演する、ミドルエイジからティーンまで、世代の違う彼女らは、なぜかイマイチつかみ所の無い誠一に惚れてしまっているのである。
三人と誠一とのエピソードが、恋愛映画のジャンル違いになっているのが面白い。
麻里子が夫の目の前で、誠一に想いを告白するシーンは、完全にナンセンスコメディ。
最初は妻の恋愛に理解があるフリをして、自分は身を引くようなことを言っている夫が、だんだんと激昂してくる辺りは、その場にいる全員の意識とテンションのズレが不条理な可笑しさを作り出していて爆笑モノ。
一方、中学校では女子からモテているボーイッシュな宏美の初恋は、決して報われないのはもちろんなのだけど、それゆえに愛おしい。
誠一は生真面目なだけに、子供に手を出すような真似はせず、宏美もそれを分かっていて、ストレートに気持ちをぶつける切なくて爽やかな青春ストーリーになっている。
麻里子と宏美の恋が初めから望みの薄い、終わりの見えているもので、共に物語の中で告白し決着がつくのに対し、世代の近い木帆との関係はベクトルが異なる。
この二人、付き合いの長すぎる友人同士で、お互いにリスペクトしているし好きなんだけど、友情が恋に育つチャンスを逃してしまった様子。
少女漫画などによくある、友達以上恋人未満の煮え切らない関係のパターンで、くっ付きそうでくっ付かないがゆえに、観ている方は応援しつつもちょっとイライラ。
全体の軸となるエピソードなのだが、結末を安易に型にはめずに、適度にお膳立てして観客の想像力を刺激するのがセンス良し。
三者三様の恋の情景も面白いのだけど、彼女らの想いをソフトに受け止めて、しっかりと返してあげる誠一のキャラクター造形がいい。
「ラストレター」の福山雅治もそうだけど、こういう受けの度量の大きい役者は需要が多いのだろう。
そんな凄い二枚目という訳じゃないけど、 人によってカタチの違う恋心にも、柔軟にフィットしてくれそうで、モテる設定にも説得力がある。
おっさんじゃなくても、惚れてしまいそうだ。
二本目の「his」は、一度は別れたものの、焼け木杭に火がついたゲイのカップルの物語。
こちらは放送作家としても知られるアサダアツシの脚本で、昨年放送された同名のテレビドラマの続編にあたる作品。
しかし物語としては独立しているので、単体で観ても全く問題ない。
宮沢氷魚演じる井川迅と、藤原季節演じる日比野渚は、十代の頃に江ノ島で出会い付き合い始めるが、やがて別れが訪れる。
それから13年後、今は岐阜県の白河町に一人で暮らす迅のもとへ、突然幼い娘を連れた渚が訪ねてくる。
一度は女性と結婚して子供も生まれ、“主夫”として暮らしてきたものの、迅のことが忘れられずに、妻にゲイであることをカミングアウト。
離婚を覚悟し、娘と共に転がり込んで来たのだ。
物語の前半は、別れた時のわだかまりを抱え、最初はぎこちなかった三人が少しずつ家族になってゆくプロセス。
後半は、新しい家族のカタチを問う、元妻との親権裁判のゆくえ。
いつも思うのだけど、これだけ離婚が増えてるんだから、日本もそろそろ共同親権制度を導入すればいいのに。
裁判劇の部分は、ちょっと「チョコレートドーナツ」を思わせるのだが、現在の日本では育てるのがゲイのカップルかどうかよりも、育てられる環境にあるかどうかの方が問題にされるというのは興味深かった。
日本社会での性的マイノリティの認識というのは、確かに欧米社会とはまたちょっと違った尺度があるのかもしれない。
それはともかく、この映画もキャラクター造形が非常に丁寧で、語り口にクセがなくて端正。
最初の別れの痛みを今も引きずる迅と渚は、性的マイノリティとしての生きずらさも抱えて、自分の居場所、帰るべき場所を探し続けている。
そして二人だけではなく、愛した夫に裏切られ、子供まで取られそうになっている渚の妻の玲奈や、迅に報われない恋をする松本穂香演じる白河町役場の職員、それぞれの男性に絡む女性サイドの苦悩にもフォーカスしていることが、この映画をとても味わい深く、完成度の高い作品としている。
葛藤を抱えているのは迅と渚だけではなく、玲奈の成長までもきっちりと描き切るのである。
宮沢氷魚と藤原季節も素晴らしいが、特に玲奈を演じた松本若菜は、精神的に追い詰められた妻であり母親である女性の内面を巧みに表現し、強く印象に残る。
「mellow」が田中圭を器に、まだ始まってすらない恋する心を戯画化した物語だとしたら、「his」はその先にあるディープで残酷な愛の物語だ。
法廷と日常、かつて家族だった者たちと、新しく家族になろうとしている者たちのドラマは、充分に見応えがある。
正直、日本の田舎があそこまで性的マイノリティに対して寛容かどうかは疑問だが、映画的希望と思えばこれはこれでありだろう。
そして本作も、登場人物がそれぞれの立場で葛藤をぶつけ合い、結末を適度にお膳立てしつつも、最後まで行かずに観客の心で完成させる楽しみを残してくれる。
今泉力哉は、恋愛映画に必要なセンス・オブ・ワンダーの様なものを持っているのではないか。
去年の「愛がなんだ」から「アイネクライネナハトムジーク」「mellow」「his」と四作連続で異なる恋と愛を描き、その全てで水準を大きく超えてくるのだから見事だ。
そもそも人が人を想う気持ちなんて、定まったカタチのない漠然としたものだから、100人の人がいたら、100通りの物語がある。
何とも文章化しにくいのだが、変幻自在のスタイルに見えつつ、どの作品にも共通する明確な作家性を感じさせるのはユニーク。
男も女も、役者たちがとても魅力的に撮られているのも印象的だ。
今年の5月公開予定の「街の上で」を含めて、すでに決定済みの待機作が6本あるというのだから、この勢いは当分続きそう。
今回はダブルレビューなので、「蓬莱」銘柄で有名な岐阜県の渡辺酒造店の「W (だぶりゅー) 山田錦45 純米無濾過生原酒」をチョイス。
2014年からラインナップに加わった、濃厚、芳醇でパワフルなボディを持つ一本。
食欲が増進されるので、肉類との相性もよく、食中酒として楽しみたい。
渡辺酒造店は「日本で一番笑顔溢れる蔵」を自称していて、「W」は「渡辺酒造店」「笑い」「世界(world)に羽ばたく」の意味だとか。

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2020年02月03日 (月) | 編集 |
ドーナツの穴から見えるものは?
これはすごく面白い!
「スター・ウォーズ/最後のジェダイ」のライアン・ジョンソン監督が、アガサ・クリスティーにオマージュをささげた、オリジナル脚本のミステリ映画。
ニューヨークの豪邸で、世界的な人気ミステリ作家のハーラン・スロンビーの85歳のバースデーパーティーが開かれる。
ところがその翌朝、スロンビーは喉にナイフを突き立てられて死亡。
状況から警察は自殺だと考えるが、匿名の人物からの捜査依頼を受けた、ダニエル・グレイグ演じる名探偵のブノワ・ブランが事件の謎に迫る。
※ネタばれ配慮していますが、観てから読むのをオススメします!
これミステリとしては相当トリッキーな作りで、序盤に全体像を見せてしまう。
スロンビーの専属看護師だったアナ・デ・アルマス演じるマルタが、パーティー後に薬の種類を間違えてスロンビーに注射。
死を免れないと知ったスロンビーは、自分を親身にケアしてくれたマルタを守るため、自ら喉を突いて自殺する。
実質的な主人公のマルタは、嘘をつくと嘔吐してしまうという特異体質。
移民の子で、正規の在留資格を持たない母親を抱えた彼女が、健気な感情移入キャラクターに造形されているので、観客は名探偵の灰色の頭脳が事件を解き明かすのではなく、解き明かさないことを期待するというユニークな構造。
ただし、これはあくまでも最初から見えている部分のみ。
名探偵の言葉を借りると、「(全体のカタチは見えるが)ドーナツの様に中心だけが欠けている」状況なのである。
そこに何があったかが分からないと、事件の本当の真相は見えてこない。
自殺で方がつきそうだったのに、わざわざ探偵を雇って事件の再検証をさせようとした依頼人は誰か?そもそもなぜそんなことをさせようとするのか?
ジャミー・リー・カーティス、ドン・ジョンソン、マイケル・シャノン、トニ・コレット、クリス・エヴァンスら、地味にすごいオールスターキャストが演じるスロンビー家の親族は、色々な意味で大作家の業績に寄生して生きているので、誰もが彼の遺産を狙っている。
疑わしい人物はたくさんいて、スロンビーの死で職を失うであろうマルタは、パーティーの夜に屋敷にいた人々の中では一番疑われない人物。
感情移入キャラクターのマルタを名探偵の助手的なポジションに置くことで、彼女が作品世界の案内人の役割も果たすようにしているのは上手い。
一見すると「よき常識人」の仮面をかぶっているスロンビー家の親族たちは、最初のうちはマルタを気遣うそぶりを見せているものの、状況が変化してゆくと、仮面の下のゆがんだ素顔が露見してくる。
マルタを守ろうとしたスロンビーが死に、もう一人の移民のキャラクターもひどい目に遭わされるのもポイントだ。
物語の中で、“ナチスかぶれ”と揶揄されるスロンビーの孫が、ある意味一番正直者なのかも知れない。
ミステリのパッケージに巧妙に包んであるものの、この映画もまたトランプ時代の不寛容と人種間の分断を重要なテーマとしているのである。
そういえば、オマージュをささげられたクリスティの作品も、しばしば英国人の人種偏見をさりげなく批判していた。
二転三転する物語は全く先を読ませず、文字通りの主客転倒の瞬間が訪れる最後まで、ストーリーテリングのカタルシスを堪能。
ライアン・ジョンソン、実にいい仕事してるわ。
さっさと「スター・ウォーズ」から手を引いたのは正解だったのかも。
ここまでの彼の作品を観る限り、「何かに囚われていた者が(良くも悪くも)自由になる」というのが彼の創作意識の根源にあるように思う。
まあ現在の日本のマーケットの状況では、おそらくそう長くは上映されないだろうし、ネタバレ食らうまえに急いで観に行くのが正解だ。
今回は、真っ赤な血のようなカクテル、「ブラッディ・メアリー」をチョイス。
メアリーとは、プロテスタントを弾圧し、数百人の宗教指導者を処刑した事で知られる16世紀の英国の女王、メアリー一世のこと。
氷を入れたタンブラーにウオッカ40mlと冷やしたトマトジュース160mlを注ぐ。
好みでタバスコや塩を添えたり、トマトソース感覚でセロリなどの野菜スティックをディップしてもいい。
恐ろし気な名前とは違って、さっぱりして飲みやすい。
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これはすごく面白い!
「スター・ウォーズ/最後のジェダイ」のライアン・ジョンソン監督が、アガサ・クリスティーにオマージュをささげた、オリジナル脚本のミステリ映画。
ニューヨークの豪邸で、世界的な人気ミステリ作家のハーラン・スロンビーの85歳のバースデーパーティーが開かれる。
ところがその翌朝、スロンビーは喉にナイフを突き立てられて死亡。
状況から警察は自殺だと考えるが、匿名の人物からの捜査依頼を受けた、ダニエル・グレイグ演じる名探偵のブノワ・ブランが事件の謎に迫る。
※ネタばれ配慮していますが、観てから読むのをオススメします!
これミステリとしては相当トリッキーな作りで、序盤に全体像を見せてしまう。
スロンビーの専属看護師だったアナ・デ・アルマス演じるマルタが、パーティー後に薬の種類を間違えてスロンビーに注射。
死を免れないと知ったスロンビーは、自分を親身にケアしてくれたマルタを守るため、自ら喉を突いて自殺する。
実質的な主人公のマルタは、嘘をつくと嘔吐してしまうという特異体質。
移民の子で、正規の在留資格を持たない母親を抱えた彼女が、健気な感情移入キャラクターに造形されているので、観客は名探偵の灰色の頭脳が事件を解き明かすのではなく、解き明かさないことを期待するというユニークな構造。
ただし、これはあくまでも最初から見えている部分のみ。
名探偵の言葉を借りると、「(全体のカタチは見えるが)ドーナツの様に中心だけが欠けている」状況なのである。
そこに何があったかが分からないと、事件の本当の真相は見えてこない。
自殺で方がつきそうだったのに、わざわざ探偵を雇って事件の再検証をさせようとした依頼人は誰か?そもそもなぜそんなことをさせようとするのか?
ジャミー・リー・カーティス、ドン・ジョンソン、マイケル・シャノン、トニ・コレット、クリス・エヴァンスら、地味にすごいオールスターキャストが演じるスロンビー家の親族は、色々な意味で大作家の業績に寄生して生きているので、誰もが彼の遺産を狙っている。
疑わしい人物はたくさんいて、スロンビーの死で職を失うであろうマルタは、パーティーの夜に屋敷にいた人々の中では一番疑われない人物。
感情移入キャラクターのマルタを名探偵の助手的なポジションに置くことで、彼女が作品世界の案内人の役割も果たすようにしているのは上手い。
一見すると「よき常識人」の仮面をかぶっているスロンビー家の親族たちは、最初のうちはマルタを気遣うそぶりを見せているものの、状況が変化してゆくと、仮面の下のゆがんだ素顔が露見してくる。
マルタを守ろうとしたスロンビーが死に、もう一人の移民のキャラクターもひどい目に遭わされるのもポイントだ。
物語の中で、“ナチスかぶれ”と揶揄されるスロンビーの孫が、ある意味一番正直者なのかも知れない。
ミステリのパッケージに巧妙に包んであるものの、この映画もまたトランプ時代の不寛容と人種間の分断を重要なテーマとしているのである。
そういえば、オマージュをささげられたクリスティの作品も、しばしば英国人の人種偏見をさりげなく批判していた。
二転三転する物語は全く先を読ませず、文字通りの主客転倒の瞬間が訪れる最後まで、ストーリーテリングのカタルシスを堪能。
ライアン・ジョンソン、実にいい仕事してるわ。
さっさと「スター・ウォーズ」から手を引いたのは正解だったのかも。
ここまでの彼の作品を観る限り、「何かに囚われていた者が(良くも悪くも)自由になる」というのが彼の創作意識の根源にあるように思う。
まあ現在の日本のマーケットの状況では、おそらくそう長くは上映されないだろうし、ネタバレ食らうまえに急いで観に行くのが正解だ。
今回は、真っ赤な血のようなカクテル、「ブラッディ・メアリー」をチョイス。
メアリーとは、プロテスタントを弾圧し、数百人の宗教指導者を処刑した事で知られる16世紀の英国の女王、メアリー一世のこと。
氷を入れたタンブラーにウオッカ40mlと冷やしたトマトジュース160mlを注ぐ。
好みでタバスコや塩を添えたり、トマトソース感覚でセロリなどの野菜スティックをディップしてもいい。
恐ろし気な名前とは違って、さっぱりして飲みやすい。

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