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2020年05月29日 (金) | 編集 |
その絵は、生きてる。
Netflixオリジナル作品。
事件専門パパラッチの狂気を描いた「ナイトクローラー」の監督ダン・ギルロイ、主演のジェイク・ギレンホールのコンビによる異色のホラー映画。
舞台となるのは、生馬の目を抜く熾烈な競争が繰り広げられているLAのアート界。
ジェイク・ギレンホールが演じるのは、そのレビューによって作品の価値が大きく左右される大物批評家のモーフ。
有力な画廊に務めるジョセフィーヌは、モーフと付き合い始めるが、ある日同じアパートに住んでいた亡くなった老人の部屋で、彼が描き残した膨大な作品を発見する。
暴力的で不気味だが、得も言われぬ吸引力を持つ作品群に魅せられたジョセフィーヌの周りに、新たな金の匂いを鍵つけた海千山千のアート界の人々がワラワラと集まってくる。
彼らは「全て破棄しろ」との老人の遺言を無視し、未知の天才画家の名画として大々的に売り出すのだが、実はその作品群はもれなく呪い付きのヤバイ代物だったという話。
カテゴリ的にはホラーの範疇だが、ぶっちゃけ全く怖くはない。
これは「芸術=金」として、欲望と虚栄心に踊らされる虚構の街のアート界の人々を風刺したブラックコメディ。
お互いに足を引っ張りあっている画廊は、若いアーティストをスカウトしてはスターに仕立て上げ、金蔓である少数の富裕層のために作品を作らせ、巨額の手数料を巻き上げる。
金持ちの収蔵庫に収められた作品は、結局大衆の目には触れないが、SNSなどを通して”コピー”だけが広まってゆく。
ジョン・マルコビッチが演じる、ベテランのアーティストのピアーズの仕事場が象徴的だ。
過去の作品の複製画を作る大規模な仕事場は、もはやアトリエというよりも工場。
名声があるので、放っておいてもお金は入ってくる。
その一方で、今の本人はアート界の現状にゲンナリして創作意欲を失い、新作を描けないでいる。
一応、モーフはお金では動かない批評家なのだけど、彼とてキッチリと作り上げられた業界のシステムの一部なのは変わらないし、ジョセフィーヌの元彼の個展を酷評するくらいの俗っぽさもある。
そんな芸術の本質を見失った醜い人間たちを、自分の人生を呪い続けた画家による、たっぷりとネガティブパワーの宿った作品群が地獄に突き落とす。
絵を発見したジョセフィーヌと、作者の過去を調べるモーフが軸ではあるものの、明確な主人公がいない群像劇。
あえてアンサンブル化しているので、ちょっと視点の置きどころに困ったり、一人ひとりのキャラクターが描写不足で、一部感情が繋がらなかったりする欠点もあるのだが、芸達者な役者たちによる外連味強めの狂想曲はなかなか面白かった。
それぞれの死にっぷりも皮肉たっぷり。
タイトルの「ベルベット・バズソー」というのはある登場人物の渾名なんだけど、「なんでこれがタイトル?」と思っていたら、まさかの使い方に思わず笑ってしまった。
悪趣味すぎるだろ(笑
ナタリア・ダイアー演じるとことん運の悪い眼鏡っ娘が、ちょっとポジションが中途半端ではあるものの、アート界を半分中から、半分外から眺める役割。
これは同じ絵が売り方によって5ドルにもなるし500万ドルにもなる摩訶不思議な世界を、そこに蠢く人間ごとぶった斬ったユニークな佳作。
毎度のことながら、ジェイク・ギレンホールはぶっ壊れた演技するとかわいいな。
今回はタイトル繋がりで「ブラック・ベルベット」をチョイス。
ギネスビール(黒ビール)150mlとシャンパン150mlを十分に冷やし、シャンパングラスに注ぎ、サッと混ぜる。
ビールとシャンパンの作り出すきめ細かな泡の舌触りを、滑らかなベルベットになぞらえているというわけ。
使う黒ビールとシャンパン、あるいはスパークリングワインの種類によって味わいが異なる。
黒ビールの独特な味わいが苦手な人にも飲みやすい、白と黒の美しいカクテルだ。
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Netflixオリジナル作品。
事件専門パパラッチの狂気を描いた「ナイトクローラー」の監督ダン・ギルロイ、主演のジェイク・ギレンホールのコンビによる異色のホラー映画。
舞台となるのは、生馬の目を抜く熾烈な競争が繰り広げられているLAのアート界。
ジェイク・ギレンホールが演じるのは、そのレビューによって作品の価値が大きく左右される大物批評家のモーフ。
有力な画廊に務めるジョセフィーヌは、モーフと付き合い始めるが、ある日同じアパートに住んでいた亡くなった老人の部屋で、彼が描き残した膨大な作品を発見する。
暴力的で不気味だが、得も言われぬ吸引力を持つ作品群に魅せられたジョセフィーヌの周りに、新たな金の匂いを鍵つけた海千山千のアート界の人々がワラワラと集まってくる。
彼らは「全て破棄しろ」との老人の遺言を無視し、未知の天才画家の名画として大々的に売り出すのだが、実はその作品群はもれなく呪い付きのヤバイ代物だったという話。
カテゴリ的にはホラーの範疇だが、ぶっちゃけ全く怖くはない。
これは「芸術=金」として、欲望と虚栄心に踊らされる虚構の街のアート界の人々を風刺したブラックコメディ。
お互いに足を引っ張りあっている画廊は、若いアーティストをスカウトしてはスターに仕立て上げ、金蔓である少数の富裕層のために作品を作らせ、巨額の手数料を巻き上げる。
金持ちの収蔵庫に収められた作品は、結局大衆の目には触れないが、SNSなどを通して”コピー”だけが広まってゆく。
ジョン・マルコビッチが演じる、ベテランのアーティストのピアーズの仕事場が象徴的だ。
過去の作品の複製画を作る大規模な仕事場は、もはやアトリエというよりも工場。
名声があるので、放っておいてもお金は入ってくる。
その一方で、今の本人はアート界の現状にゲンナリして創作意欲を失い、新作を描けないでいる。
一応、モーフはお金では動かない批評家なのだけど、彼とてキッチリと作り上げられた業界のシステムの一部なのは変わらないし、ジョセフィーヌの元彼の個展を酷評するくらいの俗っぽさもある。
そんな芸術の本質を見失った醜い人間たちを、自分の人生を呪い続けた画家による、たっぷりとネガティブパワーの宿った作品群が地獄に突き落とす。
絵を発見したジョセフィーヌと、作者の過去を調べるモーフが軸ではあるものの、明確な主人公がいない群像劇。
あえてアンサンブル化しているので、ちょっと視点の置きどころに困ったり、一人ひとりのキャラクターが描写不足で、一部感情が繋がらなかったりする欠点もあるのだが、芸達者な役者たちによる外連味強めの狂想曲はなかなか面白かった。
それぞれの死にっぷりも皮肉たっぷり。
タイトルの「ベルベット・バズソー」というのはある登場人物の渾名なんだけど、「なんでこれがタイトル?」と思っていたら、まさかの使い方に思わず笑ってしまった。
悪趣味すぎるだろ(笑
ナタリア・ダイアー演じるとことん運の悪い眼鏡っ娘が、ちょっとポジションが中途半端ではあるものの、アート界を半分中から、半分外から眺める役割。
これは同じ絵が売り方によって5ドルにもなるし500万ドルにもなる摩訶不思議な世界を、そこに蠢く人間ごとぶった斬ったユニークな佳作。
毎度のことながら、ジェイク・ギレンホールはぶっ壊れた演技するとかわいいな。
今回はタイトル繋がりで「ブラック・ベルベット」をチョイス。
ギネスビール(黒ビール)150mlとシャンパン150mlを十分に冷やし、シャンパングラスに注ぎ、サッと混ぜる。
ビールとシャンパンの作り出すきめ細かな泡の舌触りを、滑らかなベルベットになぞらえているというわけ。
使う黒ビールとシャンパン、あるいはスパークリングワインの種類によって味わいが異なる。
黒ビールの独特な味わいが苦手な人にも飲みやすい、白と黒の美しいカクテルだ。

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2020年05月22日 (金) | 編集 |
母なる大地に抱かれて。
Netflixオリジナル作品。
「火星人メルカーノ」で知られるアルゼンチン出身のファン・アンティン監督が、世界中を渡り歩いて資金を集め、企画研究を始めてから14年を費やし作り上げたのは、インカ帝国時代のアンデス地方を舞台とした神話的冒険譚。
セザール賞にノミネートされ、東京アニメアワードフェスティバル2019の長編コンペティションでは優秀賞に輝いた、素晴らしいクオリティのアニメーション映画だ。
タイトルの「パチャママ」とは万物の母であり、大地の豊穣を司る地母神のこと。
パチャママを祀る村の宝”ワカ”を、帝国の徴税官に奪われた10歳の少年テプルパイと少女ナイラが、ワカを取り戻すために大冒険を繰り広げる。
ラマのラミータとアルマジロのキルキンチョを旅の仲間に、帝国の首都クスコまでたどり着くも、スペインの侵略者も加わってワカを巡る争奪戦となり、故郷の村まで巻き込まれてしまう。
とにかく可愛い絵柄が印象に残る。
当初アンティンは、ストップモーション手法による制作を考えていたという。
実際に完成した作品は美しい手描きテクスチャを生かした3DCGアニメーションだが、キャラクターはまるで粘土を削り出した様なザラザラとした質感がユニーク。
幾何学的な先住民族のデザインが、画面の隅々にまで配されていて、水彩のタッチで描かれた特徴ある美術は、一目見たら忘れられない位にデザイン性が高い。
権威主義的なクスコの街は直線的に構成され、自然と共に生きる村の建物は地球を思わせる球形にデザインされているのも象徴的。
アンティンは人類学者の妻と共にインカ時代の文化を徹底的にリサーチし、そこからカリカチュアしていったそうだが、その成果は極めて未見性の高いビジュアルとして結実している。
またインカにはミイラ信仰があり、村の神聖な祠では、亡くなった長老たちのミイラがワカを守る様に安置されていたり、最後のインカ皇帝となったアタワルパが、自分が地面に足を触れれば大きな災が起こると信じて巨大な輿に乗っていたり、史実に基づく民俗学的な描写も面白い。
自らを太陽神の化身と信じ、母なる地面に触れないことは、即ちパチャママへの裏切り。
スペインの到来を知らせる”観測者”の言葉を信じず、彼の目を潰し地下迷宮に追放したアタワルパは、すでにパチャママの庇護を失っていたのである。
本作は大人の鑑賞にも十分たえるものの、基本はキッズムービーなので物語的には特に捻った部分はなく、フォークロアの成長物語の王道的な構成。
しっかり者のナイラに対して、子供っぽく描かれるテプルパイは、村のリーダーでもあるシャーマンに憧れている。
だが物語の初めに描かれる成人の儀式で、彼は「大切なもの」を捧げる利他の精神を理解できていないことが露見してしまう。
テプルパイの世界はまだまだ自分が中心で、大人になる準備ができていないのだ。
しかし未熟な少年だったテプルパイは、村のワカを取り戻す冒険の旅を通し、利己的な心がもたらす最悪の結果である“戦争”を目の当たりにすることで、大きく成長してゆく。
悪しき者は去り少年は(それなりに)大人になり、物語はハッピーエンドを迎えるが、余韻にはそこはかとなくもの悲しさが漂う。
それはたぶん、私たちがアンデスの文明に起こったその後の歴史を知っているからだろう。
パチャママは今も人々と共にいるのだろうか。
今回は、インカの末裔ペルーの蒸留酒「タカマ ピスコ アチョラード」をチョイス。
葡萄を蒸留して作るピスコは300年ほどの歴史を持ち、首都リマよりも南で生産されたものを指し、アチョラードは二種類以上の葡萄品種から作られる種類。
最大銘柄のタカマのアチョラードは5種類の葡萄をブレンドしており、すっきりした香りでクセもない。
カクテルのピスコサワーが有名だが、シンプルに炭酸割りでレモン汁を適量加えるのもオススメ。
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Netflixオリジナル作品。
「火星人メルカーノ」で知られるアルゼンチン出身のファン・アンティン監督が、世界中を渡り歩いて資金を集め、企画研究を始めてから14年を費やし作り上げたのは、インカ帝国時代のアンデス地方を舞台とした神話的冒険譚。
セザール賞にノミネートされ、東京アニメアワードフェスティバル2019の長編コンペティションでは優秀賞に輝いた、素晴らしいクオリティのアニメーション映画だ。
タイトルの「パチャママ」とは万物の母であり、大地の豊穣を司る地母神のこと。
パチャママを祀る村の宝”ワカ”を、帝国の徴税官に奪われた10歳の少年テプルパイと少女ナイラが、ワカを取り戻すために大冒険を繰り広げる。
ラマのラミータとアルマジロのキルキンチョを旅の仲間に、帝国の首都クスコまでたどり着くも、スペインの侵略者も加わってワカを巡る争奪戦となり、故郷の村まで巻き込まれてしまう。
とにかく可愛い絵柄が印象に残る。
当初アンティンは、ストップモーション手法による制作を考えていたという。
実際に完成した作品は美しい手描きテクスチャを生かした3DCGアニメーションだが、キャラクターはまるで粘土を削り出した様なザラザラとした質感がユニーク。
幾何学的な先住民族のデザインが、画面の隅々にまで配されていて、水彩のタッチで描かれた特徴ある美術は、一目見たら忘れられない位にデザイン性が高い。
権威主義的なクスコの街は直線的に構成され、自然と共に生きる村の建物は地球を思わせる球形にデザインされているのも象徴的。
アンティンは人類学者の妻と共にインカ時代の文化を徹底的にリサーチし、そこからカリカチュアしていったそうだが、その成果は極めて未見性の高いビジュアルとして結実している。
またインカにはミイラ信仰があり、村の神聖な祠では、亡くなった長老たちのミイラがワカを守る様に安置されていたり、最後のインカ皇帝となったアタワルパが、自分が地面に足を触れれば大きな災が起こると信じて巨大な輿に乗っていたり、史実に基づく民俗学的な描写も面白い。
自らを太陽神の化身と信じ、母なる地面に触れないことは、即ちパチャママへの裏切り。
スペインの到来を知らせる”観測者”の言葉を信じず、彼の目を潰し地下迷宮に追放したアタワルパは、すでにパチャママの庇護を失っていたのである。
本作は大人の鑑賞にも十分たえるものの、基本はキッズムービーなので物語的には特に捻った部分はなく、フォークロアの成長物語の王道的な構成。
しっかり者のナイラに対して、子供っぽく描かれるテプルパイは、村のリーダーでもあるシャーマンに憧れている。
だが物語の初めに描かれる成人の儀式で、彼は「大切なもの」を捧げる利他の精神を理解できていないことが露見してしまう。
テプルパイの世界はまだまだ自分が中心で、大人になる準備ができていないのだ。
しかし未熟な少年だったテプルパイは、村のワカを取り戻す冒険の旅を通し、利己的な心がもたらす最悪の結果である“戦争”を目の当たりにすることで、大きく成長してゆく。
悪しき者は去り少年は(それなりに)大人になり、物語はハッピーエンドを迎えるが、余韻にはそこはかとなくもの悲しさが漂う。
それはたぶん、私たちがアンデスの文明に起こったその後の歴史を知っているからだろう。
パチャママは今も人々と共にいるのだろうか。
今回は、インカの末裔ペルーの蒸留酒「タカマ ピスコ アチョラード」をチョイス。
葡萄を蒸留して作るピスコは300年ほどの歴史を持ち、首都リマよりも南で生産されたものを指し、アチョラードは二種類以上の葡萄品種から作られる種類。
最大銘柄のタカマのアチョラードは5種類の葡萄をブレンドしており、すっきりした香りでクセもない。
カクテルのピスコサワーが有名だが、シンプルに炭酸割りでレモン汁を適量加えるのもオススメ。

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2020年05月15日 (金) | 編集 |
正しい道はどっち?
Netflixオリジナル作品。
局面ごとに視聴者が主人公の行動を選択することで物語が変化してゆく、ネット配信ならではのインタラクティブ性を持つユニークな作品。
一昨年の12月には公開されていたのだが、遅ればせながらこのタイミングで鑑賞。
2011年から放送されているSFドラマ、「ブラック・ミラー」の映画版として作られた作品ではあるものの、元々1話完結なので他のシリーズを観ている必要はない。
シリーズの生みの親であるチャーリー・ブルッカーが脚本を担当し、「ハード・キャンディ」のデヴィッド・スレイドが監督を務める。
1984年、幾つもの選択によって異なる結末にたどり着く革新的なゲーム、「バンダースナッチ」を開発している若きプログラマーのステファンが主人公。
このゲームは、やはり読者の選択によって物語が変わる同名の小説を基にしているのだが、原作者は小説を執筆中に妄想を募らせ、妻を殺したという曰く付きの作品という設定。
ゲームの売り込みには成功したものの開発は難航し、精神的に追い込まれたステファンは、自分もゲームのキャラクターの様に何者かにコントロールされているのではないかと疑いはじめる。
最初からメタ構造なのを最大限利用して、メタのメタのメタと世界を重ねることで選択肢を増やしてゆく寸法だ。
例えば、朝食の時に二つのシリアルのどちらを選ぶか、二枚のレコードのどちらを購入するか、ゲームの開発を会社でやるか自宅でやるかなど、岐路に差し掛かると画面の下に選択スイッチが出てきて、視聴者が主人公の行動を選択する。
すると選択に応じて、物語がパラレルワールドの如く枝分かれしてゆくのである。
ある選択をすると主人公はあっという間に死んでしまって、30分もかからずに終わってしまう。
別の選択をすると、物語はさらに二転三転して続いてゆく。
この作品に感じる“面白さ”は普通の映画とは異なる。
映画を観ているとき、私たちは物語の展開を予測し、その予測が当たれば喜びを感じ、予想外の展開となれば驚きを感じる。
しかしこの作品では、展開は私たちの手に半分だけ委ねられているのである。
本作はいわば映画とゲームのハイブリッド。
映画の予測する面白さだけではなく、ゲームの選択する面白とその先にある驚きを感じる面白さの融合。
陰謀論的なエンディングから楽屋オチまで、様々な結末が用意されているが、作者が意図した“本当の物語”も存在する。
ステファンは幼少期のある“選択”によって、母を事故で亡くし、父とはそれ以来確執を抱え、心理カウンセラーに通っている。
この過去の葛藤要因の解消が、本作を“クリア”する最終目標となっていて、たどり着いてみると物語としても結構感動的なのである。
視聴者は幾つもの選択をするのだけど、いったん物語が終わっても何度も戻ることが促され、最終的に本来のエンディングに導かれる様になっている。
もちろん一つ目の終わりに満足して、そこで終わりにしても問題ないのだが、「選ばなかったチョイスでは、どんな話になるんだろう?」という興味で止まらなくなり、全部の選択を試してみるまで終わらない(笑
この中毒性によって、実は視聴者自身も作者によってコントロールされている様に思えてきて(実際そうなのだが)、余計にインタラクティブ感が強まる。
ちなみに本作は、通常のテレビでは視聴は出来ない。
スイッチ操作が可能な、タブレットやパソコンでの視聴が必須だ。
この技術は、アイディア次第で色々なことが出来そう。
共同体験を前提とする劇場用映画には無い、新しいメディアの可能性を強く感じさせる作品だ。
今回は、メタ構造で物語が変化する作品なので、味が変化するカクテル「エンジェル・ウィング」をチョイス。
クレーム・ド・カカオ・ブラウン20ml、プルネル・ブランデー20ml、生クリーム適量(他の材料と同じ厚み)を、静かに注いでゆく。
比重の違う材料を混じり合わない様に重ねることで、下からブラウン、イエロー、ホワイトが三色の層となる。
一番上の生クリームの触感は、名前の通りに天使の羽に優しく触れられている様だが、少しするとブランデーの濃厚な味わいが顔を出す不思議なカクテルだ。
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Netflixオリジナル作品。
局面ごとに視聴者が主人公の行動を選択することで物語が変化してゆく、ネット配信ならではのインタラクティブ性を持つユニークな作品。
一昨年の12月には公開されていたのだが、遅ればせながらこのタイミングで鑑賞。
2011年から放送されているSFドラマ、「ブラック・ミラー」の映画版として作られた作品ではあるものの、元々1話完結なので他のシリーズを観ている必要はない。
シリーズの生みの親であるチャーリー・ブルッカーが脚本を担当し、「ハード・キャンディ」のデヴィッド・スレイドが監督を務める。
1984年、幾つもの選択によって異なる結末にたどり着く革新的なゲーム、「バンダースナッチ」を開発している若きプログラマーのステファンが主人公。
このゲームは、やはり読者の選択によって物語が変わる同名の小説を基にしているのだが、原作者は小説を執筆中に妄想を募らせ、妻を殺したという曰く付きの作品という設定。
ゲームの売り込みには成功したものの開発は難航し、精神的に追い込まれたステファンは、自分もゲームのキャラクターの様に何者かにコントロールされているのではないかと疑いはじめる。
最初からメタ構造なのを最大限利用して、メタのメタのメタと世界を重ねることで選択肢を増やしてゆく寸法だ。
例えば、朝食の時に二つのシリアルのどちらを選ぶか、二枚のレコードのどちらを購入するか、ゲームの開発を会社でやるか自宅でやるかなど、岐路に差し掛かると画面の下に選択スイッチが出てきて、視聴者が主人公の行動を選択する。
すると選択に応じて、物語がパラレルワールドの如く枝分かれしてゆくのである。
ある選択をすると主人公はあっという間に死んでしまって、30分もかからずに終わってしまう。
別の選択をすると、物語はさらに二転三転して続いてゆく。
この作品に感じる“面白さ”は普通の映画とは異なる。
映画を観ているとき、私たちは物語の展開を予測し、その予測が当たれば喜びを感じ、予想外の展開となれば驚きを感じる。
しかしこの作品では、展開は私たちの手に半分だけ委ねられているのである。
本作はいわば映画とゲームのハイブリッド。
映画の予測する面白さだけではなく、ゲームの選択する面白とその先にある驚きを感じる面白さの融合。
陰謀論的なエンディングから楽屋オチまで、様々な結末が用意されているが、作者が意図した“本当の物語”も存在する。
ステファンは幼少期のある“選択”によって、母を事故で亡くし、父とはそれ以来確執を抱え、心理カウンセラーに通っている。
この過去の葛藤要因の解消が、本作を“クリア”する最終目標となっていて、たどり着いてみると物語としても結構感動的なのである。
視聴者は幾つもの選択をするのだけど、いったん物語が終わっても何度も戻ることが促され、最終的に本来のエンディングに導かれる様になっている。
もちろん一つ目の終わりに満足して、そこで終わりにしても問題ないのだが、「選ばなかったチョイスでは、どんな話になるんだろう?」という興味で止まらなくなり、全部の選択を試してみるまで終わらない(笑
この中毒性によって、実は視聴者自身も作者によってコントロールされている様に思えてきて(実際そうなのだが)、余計にインタラクティブ感が強まる。
ちなみに本作は、通常のテレビでは視聴は出来ない。
スイッチ操作が可能な、タブレットやパソコンでの視聴が必須だ。
この技術は、アイディア次第で色々なことが出来そう。
共同体験を前提とする劇場用映画には無い、新しいメディアの可能性を強く感じさせる作品だ。
今回は、メタ構造で物語が変化する作品なので、味が変化するカクテル「エンジェル・ウィング」をチョイス。
クレーム・ド・カカオ・ブラウン20ml、プルネル・ブランデー20ml、生クリーム適量(他の材料と同じ厚み)を、静かに注いでゆく。
比重の違う材料を混じり合わない様に重ねることで、下からブラウン、イエロー、ホワイトが三色の層となる。
一番上の生クリームの触感は、名前の通りに天使の羽に優しく触れられている様だが、少しするとブランデーの濃厚な味わいが顔を出す不思議なカクテルだ。

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2020年05月09日 (土) | 編集 |
クライマックスはこれからだ!
Netflixオリジナル作品。
「素顔の私を見つめて...」のアリス・ウー、実に16年ぶりの第二作。
主人公は、田舎町に住む中国系移民の高校生エリー。
秀才だがまだ恋を知らない彼女が、おバカな男子同級生のポールにラブレターの代筆を頼まれ、学園一の美女アスターと文通することに。
文学や映画に関するウィットに富んだやり取りをしているうちに、エリーは初めて自分の理解者に出会ったと思い、アスターに惹かれはじめる。
小さな街の小さなコミュニティでくすぶる若者たちの、ちょっと痛くて切ない恋の苦悩をユーモラスに描いた青春ラブコメの佳作。
女性版「のび太」っぽい、眼鏡っ娘のエリーを演じるリーア・ルイスが素晴らしい。
彼女の父親役を中華圏アクション映画のレジェンド、コリン・チョウが味わい深く演じている。
内向的な高校生のエリー・チュウ(リーア・ルイス)は、スクアヘミッシュという田舎町で、鉄道のステーションマスターをしている父親のエドウィン(コリン・チョウ)と二人暮らし。
もうすぐ卒業を迎える彼女は進路に迷っているが、男やもめのエドウィンが心配で、近くの大学に進学しようと考えている。
頭脳明晰で、学生のレポートの代筆をして小銭を稼いでいるエリーは、ある時同級生のポール(ダニエル・ディーマー)にラブレターの代筆を頼まれる。
お相手は、エリーがオルガンの伴奏をしている教会の牧師の娘で、学園一の美女アスター(アレクシス・レミール)。
ポールはエリーのおかげでアスターとのデートにこぎ着けるが、緊張して話もまともに出来ない体たらく。
エリーの機転のおかげでその場を取り繕うも、以来ポールは何かにつけてエリーに頼る様になり、二人の間には奇妙な共闘関係が育まれる。
その一方で、エリーは自分がアスターにほのかな恋心を抱いていることに気づくのだが・・・
2004年に公開されたアリス・ウーのデビュー作「素顔の私を見つめて...」では、レズビアンであることを隠し、ニューヨークで医師として働く中国系女性のウィルが、バレエダンサーの女性ヴィヴィアンと恋に落ちる。
同じ頃、ウィルの母親のホイランが、妊娠して実家を追い出され、娘のアパートに転がり込んでくる。
保守的なコミュティで育ち、自分が同性愛者だと言えない娘と、子供の父親のことを話そうとしない母。
伝統と現実の間で揺れ動き、ぶつかり合う二人はやがてお互いを理解し、共に歩む道を見つけてゆくという物語だった。
この作品で注目されたウーだが、その後次回作の企画が失敗し、音沙汰がなくなってはや16年。
ようやく実現した本作を観ると、時代の移り変わりを強く感じる。
物語の舞台となるのは、スクアヘミッシュという田舎町で、住人の殆どが神を信じ教会に通うような保守的な社会だ。
しかしそんな町でも、いまや同性愛者であることは、「店の伝統のレシピを変えること」よりも大したことがないのである。
そもそも恋を知らないエリーは、自分のアスターへの気持ちに戸惑うものの、それが同性愛だということに関しては殆ど葛藤しない。
この16年の間に、米国では同性婚が合法化されたのをはじめ、性的マイノリティへの理解は格段に進んだ。
ニューヨークのど真ん中でも、親バレを恐れてレズビアンであることをひた隠しにしていた「素顔の私を見つめて...」とは隔世の感がある。
ではそんな時代のティーンたちは何に葛藤するのかと言えば、彼らは優しすぎていま一歩を踏み出せないのだ。
物語の中心となるエリーをはじめ、隣の家に住むポールも、街の名士である父を持つアスターもまた、この小さな社会の中で閉塞している。
成績優秀なエリーは名門グリネル大学へ進学するチャンスがありながら、妻を失い独り身になったエドウィンを気遣いスクアヘミッシュから離れる決断が出来ない。
もともとエドウィンは中国ではエンジニアとして働き、博士号も持っているエリート。
だが移民したアメリカでは、英語力の無さゆえに思うように働けず、ほぼ誰とも会話しない今の職に就いた。
最初は再就職先を見つけるまでの通過点と考えていた田舎町で、どこへも行けなくなってしまったのである。
幼い頃からアメリカに暮らし、他人のレポートの代筆まで器用にこなすエリーにとって、自分が本当に志望する進路に向かうことが、まるで夢を叶えられなかった父を見捨てるかのように感じてしまうのだ。
一方、大家族のポールの家は祖母のレシピを守って飲食店を経営している。
ポールは内心自分の得意なタコ・ソーセージの店をやりたいと思っているが、自分が街を出ると家族の心を傷つけることになるのではと恐れて、やはり決断が出来ない。
また厳格な宗教家の家に育ったアスターは、優れた芸術の才能を持ちながら、裕福な家の息子のトリッグと親の望む結婚をしようとしている。
彼らは皆、傷ついたり傷つけたりするのが怖くて周りに気を使いすぎて、自分の人生を自分の足で歩むことを躊躇してしまっている。
「カサブランカ」から始まって、全編に渡り多くの文学や映画からの引用が印象的な作品だが、サブタイトルは原題の直訳であるのと同時に、TVで映画を観ていて「ここからがベストパートだ」というエドウィンの口癖から。
優れた物語には、必ず感情が大いに盛り上がるクライマックスがある。
エリーたちの世代は自分の人生よりも親や家族の気持ちを優先し、閉塞した田舎で若くして色々諦めてしまっていて、自らクライマックスの無い平凡な人生を選ぼうとしているのである。
しかし、間にあんまり頭の良くないポールを挟んだエリーとアスターの奇妙な三角関係の恋は、総じて恋愛偏差値の低い三人の若者を大いに悩ませ、結果として人間的に成長させる。
三角関係の軸として、頭良すぎてなかなか動けないエリーとアスターを結びつける役割はポールが担う。
アスターとのデートで、ポールが緊張のあまりまともに受け答え出来なくなったのを見たエリーが、SNSを使ってポールのフリをしてメッセージを送り、助け舟を出すシーンは相当に可笑しいし、妙な自信をつけたポールが、エリー相手に勘違いをやらかして、三人の関係をぶち壊しにするのはかなり痛い。
すったもんだの若者たちの恋と青春の葛藤が、自分自身の心と向き合わせ、恋だけでなくそれぞれの人生の大きな決断を力強く後押しする。
優しく知的でユーモラス、ちょっと痛いエリーたちの青春に、エドウィンの愛と挫折の記憶がいい感じで絡む。
あれだけ馬鹿にしていた「列車で去る恋人を走って追いかける」ベタなシチュエーションも、実際にはこれがなければ映画は締まらない。
「レディ・バード」をもうちょっとマイルドにした様なテイストは、誰の記憶にもある古傷をくすぐる。
三人の人生、面白いのはこれからだ。
フィクションだと分かっていてもエールを贈りたくなる、まことに愛すべき小品である。
今回は晴れの日を迎えたエリーの未来を祝って、中国の酒宴に欠かせない白酒の中でも、一級品として知られる「貴州茅台酒(キシュウマオタイ酒)」をチョイスしたいところだが、近年急激に相場が上がってしまったので、セカンドブランドの「茅台迎賓酒(マオタイゲイヒン酒)」をチョイス。
小酒杯という小さなグラスで一気にグイッと飲むのが一般的だが、無ければお猪口でもいいだろう。
茅台酒ほどの濃厚なコクは感じられないがコスパは優秀で、芳潤な香りとスッキリとした味わいを程よく楽しめる。
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Netflixオリジナル作品。
「素顔の私を見つめて...」のアリス・ウー、実に16年ぶりの第二作。
主人公は、田舎町に住む中国系移民の高校生エリー。
秀才だがまだ恋を知らない彼女が、おバカな男子同級生のポールにラブレターの代筆を頼まれ、学園一の美女アスターと文通することに。
文学や映画に関するウィットに富んだやり取りをしているうちに、エリーは初めて自分の理解者に出会ったと思い、アスターに惹かれはじめる。
小さな街の小さなコミュニティでくすぶる若者たちの、ちょっと痛くて切ない恋の苦悩をユーモラスに描いた青春ラブコメの佳作。
女性版「のび太」っぽい、眼鏡っ娘のエリーを演じるリーア・ルイスが素晴らしい。
彼女の父親役を中華圏アクション映画のレジェンド、コリン・チョウが味わい深く演じている。
内向的な高校生のエリー・チュウ(リーア・ルイス)は、スクアヘミッシュという田舎町で、鉄道のステーションマスターをしている父親のエドウィン(コリン・チョウ)と二人暮らし。
もうすぐ卒業を迎える彼女は進路に迷っているが、男やもめのエドウィンが心配で、近くの大学に進学しようと考えている。
頭脳明晰で、学生のレポートの代筆をして小銭を稼いでいるエリーは、ある時同級生のポール(ダニエル・ディーマー)にラブレターの代筆を頼まれる。
お相手は、エリーがオルガンの伴奏をしている教会の牧師の娘で、学園一の美女アスター(アレクシス・レミール)。
ポールはエリーのおかげでアスターとのデートにこぎ着けるが、緊張して話もまともに出来ない体たらく。
エリーの機転のおかげでその場を取り繕うも、以来ポールは何かにつけてエリーに頼る様になり、二人の間には奇妙な共闘関係が育まれる。
その一方で、エリーは自分がアスターにほのかな恋心を抱いていることに気づくのだが・・・
2004年に公開されたアリス・ウーのデビュー作「素顔の私を見つめて...」では、レズビアンであることを隠し、ニューヨークで医師として働く中国系女性のウィルが、バレエダンサーの女性ヴィヴィアンと恋に落ちる。
同じ頃、ウィルの母親のホイランが、妊娠して実家を追い出され、娘のアパートに転がり込んでくる。
保守的なコミュティで育ち、自分が同性愛者だと言えない娘と、子供の父親のことを話そうとしない母。
伝統と現実の間で揺れ動き、ぶつかり合う二人はやがてお互いを理解し、共に歩む道を見つけてゆくという物語だった。
この作品で注目されたウーだが、その後次回作の企画が失敗し、音沙汰がなくなってはや16年。
ようやく実現した本作を観ると、時代の移り変わりを強く感じる。
物語の舞台となるのは、スクアヘミッシュという田舎町で、住人の殆どが神を信じ教会に通うような保守的な社会だ。
しかしそんな町でも、いまや同性愛者であることは、「店の伝統のレシピを変えること」よりも大したことがないのである。
そもそも恋を知らないエリーは、自分のアスターへの気持ちに戸惑うものの、それが同性愛だということに関しては殆ど葛藤しない。
この16年の間に、米国では同性婚が合法化されたのをはじめ、性的マイノリティへの理解は格段に進んだ。
ニューヨークのど真ん中でも、親バレを恐れてレズビアンであることをひた隠しにしていた「素顔の私を見つめて...」とは隔世の感がある。
ではそんな時代のティーンたちは何に葛藤するのかと言えば、彼らは優しすぎていま一歩を踏み出せないのだ。
物語の中心となるエリーをはじめ、隣の家に住むポールも、街の名士である父を持つアスターもまた、この小さな社会の中で閉塞している。
成績優秀なエリーは名門グリネル大学へ進学するチャンスがありながら、妻を失い独り身になったエドウィンを気遣いスクアヘミッシュから離れる決断が出来ない。
もともとエドウィンは中国ではエンジニアとして働き、博士号も持っているエリート。
だが移民したアメリカでは、英語力の無さゆえに思うように働けず、ほぼ誰とも会話しない今の職に就いた。
最初は再就職先を見つけるまでの通過点と考えていた田舎町で、どこへも行けなくなってしまったのである。
幼い頃からアメリカに暮らし、他人のレポートの代筆まで器用にこなすエリーにとって、自分が本当に志望する進路に向かうことが、まるで夢を叶えられなかった父を見捨てるかのように感じてしまうのだ。
一方、大家族のポールの家は祖母のレシピを守って飲食店を経営している。
ポールは内心自分の得意なタコ・ソーセージの店をやりたいと思っているが、自分が街を出ると家族の心を傷つけることになるのではと恐れて、やはり決断が出来ない。
また厳格な宗教家の家に育ったアスターは、優れた芸術の才能を持ちながら、裕福な家の息子のトリッグと親の望む結婚をしようとしている。
彼らは皆、傷ついたり傷つけたりするのが怖くて周りに気を使いすぎて、自分の人生を自分の足で歩むことを躊躇してしまっている。
「カサブランカ」から始まって、全編に渡り多くの文学や映画からの引用が印象的な作品だが、サブタイトルは原題の直訳であるのと同時に、TVで映画を観ていて「ここからがベストパートだ」というエドウィンの口癖から。
優れた物語には、必ず感情が大いに盛り上がるクライマックスがある。
エリーたちの世代は自分の人生よりも親や家族の気持ちを優先し、閉塞した田舎で若くして色々諦めてしまっていて、自らクライマックスの無い平凡な人生を選ぼうとしているのである。
しかし、間にあんまり頭の良くないポールを挟んだエリーとアスターの奇妙な三角関係の恋は、総じて恋愛偏差値の低い三人の若者を大いに悩ませ、結果として人間的に成長させる。
三角関係の軸として、頭良すぎてなかなか動けないエリーとアスターを結びつける役割はポールが担う。
アスターとのデートで、ポールが緊張のあまりまともに受け答え出来なくなったのを見たエリーが、SNSを使ってポールのフリをしてメッセージを送り、助け舟を出すシーンは相当に可笑しいし、妙な自信をつけたポールが、エリー相手に勘違いをやらかして、三人の関係をぶち壊しにするのはかなり痛い。
すったもんだの若者たちの恋と青春の葛藤が、自分自身の心と向き合わせ、恋だけでなくそれぞれの人生の大きな決断を力強く後押しする。
優しく知的でユーモラス、ちょっと痛いエリーたちの青春に、エドウィンの愛と挫折の記憶がいい感じで絡む。
あれだけ馬鹿にしていた「列車で去る恋人を走って追いかける」ベタなシチュエーションも、実際にはこれがなければ映画は締まらない。
「レディ・バード」をもうちょっとマイルドにした様なテイストは、誰の記憶にもある古傷をくすぐる。
三人の人生、面白いのはこれからだ。
フィクションだと分かっていてもエールを贈りたくなる、まことに愛すべき小品である。
今回は晴れの日を迎えたエリーの未来を祝って、中国の酒宴に欠かせない白酒の中でも、一級品として知られる「貴州茅台酒(キシュウマオタイ酒)」をチョイスしたいところだが、近年急激に相場が上がってしまったので、セカンドブランドの「茅台迎賓酒(マオタイゲイヒン酒)」をチョイス。
小酒杯という小さなグラスで一気にグイッと飲むのが一般的だが、無ければお猪口でもいいだろう。
茅台酒ほどの濃厚なコクは感じられないがコスパは優秀で、芳潤な香りとスッキリとした味わいを程よく楽しめる。

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2020年05月04日 (月) | 編集 |
光は、射しているのか?
裕福な白人のエドガー夫妻が、アフリカの紛争地エリトリアから養子を迎え入れる。
言語も文化も違うアメリカへとやってきた少年は、新しい両親から“光”を意味する”ルース”と名付けられ、懸命な努力の末に誰からも愛される優等生へと育つ。
文武両道に優れ、自らの運命を切り開いた学園のヒーロー。
だががある時、両親は歴史教師のハリエットから思わぬことを告げられる。
歴史上の人物を“代弁”するレポートの課題で、ルースが選んだのは第二次世界大戦後に植民地主義からの脱却を唱えた革命家フランツ・ファノン。
ハリエットは、支配者からの解放のためなら武力の行使も有効な手段だと説くレポートを読み、ルースを危険な過激思想の持ち主ではないかと疑ったのだ。
車の運転より先に銃の扱いを覚えたという、ルースの凄惨な過去を消し去ろうとしてきた両親は、徐々に自慢の息子に対する愛と猜疑心との間で揺れ始める。
これはアメリカという一見豪華な”箱”に閉塞し、まばゆい“光”を求めて足掻く人々の物語だ。
子宝に恵まれなかったエドガー夫妻は、紛争地から言葉も通じない、平和の意味も知らない養子を迎えるという政治的・道義的に正しい決断を下し、多くのことを犠牲にして自分たちの人生の光として理想の息子を作り上げた。
一方、心を病んだ姉を抱えるハリエットは、歴史教師としてマイノリティの悲劇をよく知るからこそ、優等生ルースに光を感じる。
彼女はアメリカ社会で生きてゆくためには、役割を果たすことが必要だと考えていて、生徒にも特定の役割を当てはめようとする。
彼女の価値観では、落伍者の役割の者がいるからこそ、ルースがヒーローとして光り輝くことが出来るのである。
優秀な生徒を育てることが自身の存在意義であるハリエットにとって、未来を照らす光であるはずのルースが、いかれた過激派では困るのだ。
しかしルースにしてみたら、確かにエドガー夫妻は自分を地獄から救い出してくれたものの、元から持っていたアフリカ人としてのアイデンティティを奪われた。
彼らの考える理想のアメリカ人、人生の光になることに大きなプレッシャーを感じている。
そこに追い打ちを掛けるように、ハリエットが自分を更なる型にはめようとしたことによって、彼は自分を取り囲む閉塞に対する小さな反乱を決意する。
本作の予告編が「少年は残酷な弓を射る」的なラジカルな展開を煽ってるのだが、ぶっちゃけその期待はいい意味で裏切られる。
本作にはルースも含めて、本当の意味で特別な人物はいない。
しかしだからこそ、とても丁寧にリアルに作り込まれた登場人物の、隠された内面を読み解く様なミステリアスな面白さがある。
たとえ同じ家に暮らしている家族だとしても、本当の人の心は誰にも分からないのである。
エドガー夫妻を演じる、ナオミ・ワッツとティム・ロスの鉄板の安定感。
次第に葛藤を深め、対決することになるタイトルロールのケルヴィン・ハリソン・Jrと、ハリエット役のオクタヴィア・スペンサーが素晴らしい。
原作者のJ・C・リーと共に共同脚本も務めるジュリアス・オナー監督は、観応えのある心理劇を作り上げた。
前作の「クローバーフィールド・パラドックス」は雇われ仕事だったのか、箸にも棒にもかからない凡作だったが、こちらは持ち味が生かされている。
それぞれの思惑がぶつかり合う、クライマックスに向かうシーンに挿入される、チアリーダーたちの叫ぶ「Yes We Can!」のスローガンが印象的。
完全無欠なルースは第二のオバマなのか、それとも内面に過激思想を隠した怪物なのか?
猜疑心を掻き立てる不穏な劇伴な使い方など、なかなかにセンスを感じさせる作品だ。
今回はアメリカの独立記念日の名を冠したカクテル「フォース・オブ・ジュライ」をチョイス。
グレナデンシロップ20ml、ブルーキュラソー20ml、ウォッカ20mlを順番に丁寧にグラスに注ぐ。
比重の違いによって、赤、青、白(透明)の星条旗カラーの美しいカクテルとなる。
三つの色はそれぞれ勇気・忍耐・純潔を意味するが、当然味が分離しているので飲む直前には混ぜちゃうように。
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裕福な白人のエドガー夫妻が、アフリカの紛争地エリトリアから養子を迎え入れる。
言語も文化も違うアメリカへとやってきた少年は、新しい両親から“光”を意味する”ルース”と名付けられ、懸命な努力の末に誰からも愛される優等生へと育つ。
文武両道に優れ、自らの運命を切り開いた学園のヒーロー。
だががある時、両親は歴史教師のハリエットから思わぬことを告げられる。
歴史上の人物を“代弁”するレポートの課題で、ルースが選んだのは第二次世界大戦後に植民地主義からの脱却を唱えた革命家フランツ・ファノン。
ハリエットは、支配者からの解放のためなら武力の行使も有効な手段だと説くレポートを読み、ルースを危険な過激思想の持ち主ではないかと疑ったのだ。
車の運転より先に銃の扱いを覚えたという、ルースの凄惨な過去を消し去ろうとしてきた両親は、徐々に自慢の息子に対する愛と猜疑心との間で揺れ始める。
これはアメリカという一見豪華な”箱”に閉塞し、まばゆい“光”を求めて足掻く人々の物語だ。
子宝に恵まれなかったエドガー夫妻は、紛争地から言葉も通じない、平和の意味も知らない養子を迎えるという政治的・道義的に正しい決断を下し、多くのことを犠牲にして自分たちの人生の光として理想の息子を作り上げた。
一方、心を病んだ姉を抱えるハリエットは、歴史教師としてマイノリティの悲劇をよく知るからこそ、優等生ルースに光を感じる。
彼女はアメリカ社会で生きてゆくためには、役割を果たすことが必要だと考えていて、生徒にも特定の役割を当てはめようとする。
彼女の価値観では、落伍者の役割の者がいるからこそ、ルースがヒーローとして光り輝くことが出来るのである。
優秀な生徒を育てることが自身の存在意義であるハリエットにとって、未来を照らす光であるはずのルースが、いかれた過激派では困るのだ。
しかしルースにしてみたら、確かにエドガー夫妻は自分を地獄から救い出してくれたものの、元から持っていたアフリカ人としてのアイデンティティを奪われた。
彼らの考える理想のアメリカ人、人生の光になることに大きなプレッシャーを感じている。
そこに追い打ちを掛けるように、ハリエットが自分を更なる型にはめようとしたことによって、彼は自分を取り囲む閉塞に対する小さな反乱を決意する。
本作の予告編が「少年は残酷な弓を射る」的なラジカルな展開を煽ってるのだが、ぶっちゃけその期待はいい意味で裏切られる。
本作にはルースも含めて、本当の意味で特別な人物はいない。
しかしだからこそ、とても丁寧にリアルに作り込まれた登場人物の、隠された内面を読み解く様なミステリアスな面白さがある。
たとえ同じ家に暮らしている家族だとしても、本当の人の心は誰にも分からないのである。
エドガー夫妻を演じる、ナオミ・ワッツとティム・ロスの鉄板の安定感。
次第に葛藤を深め、対決することになるタイトルロールのケルヴィン・ハリソン・Jrと、ハリエット役のオクタヴィア・スペンサーが素晴らしい。
原作者のJ・C・リーと共に共同脚本も務めるジュリアス・オナー監督は、観応えのある心理劇を作り上げた。
前作の「クローバーフィールド・パラドックス」は雇われ仕事だったのか、箸にも棒にもかからない凡作だったが、こちらは持ち味が生かされている。
それぞれの思惑がぶつかり合う、クライマックスに向かうシーンに挿入される、チアリーダーたちの叫ぶ「Yes We Can!」のスローガンが印象的。
完全無欠なルースは第二のオバマなのか、それとも内面に過激思想を隠した怪物なのか?
猜疑心を掻き立てる不穏な劇伴な使い方など、なかなかにセンスを感じさせる作品だ。
今回はアメリカの独立記念日の名を冠したカクテル「フォース・オブ・ジュライ」をチョイス。
グレナデンシロップ20ml、ブルーキュラソー20ml、ウォッカ20mlを順番に丁寧にグラスに注ぐ。
比重の違いによって、赤、青、白(透明)の星条旗カラーの美しいカクテルとなる。
三つの色はそれぞれ勇気・忍耐・純潔を意味するが、当然味が分離しているので飲む直前には混ぜちゃうように。

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