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2020年06月28日 (日) | 編集 |
超音速ヒーローの誕生!
任天堂がマリオにピカチュウなら、ライバルのセガには宇宙から来た青い高速ハリネズミ、“ソニック・ザ・ヘッジホッグ”がいる。
1991年、懐かしのメガドライブ版でのデビュー以来30年。
セガを代表するゲームキャラクター、アニメーションキャラクターとして人気を博してきたソニックが、満を侍して映画に登場。
特にキャラクター人気の高いアメリカでは、コロナ禍前の2月に公開され、昨年の「名探偵ピカチュウ」を超えてゲーム原作の映画の興業記録を作った作品だ。
子供の頃からその秘められた“スーパーパワー”を敵に狙われていたソニックは、地球へと逃されてモンタナ州の田舎町、グリーンヒルで人間から隠れながらひっそり暮らしている。
しかしある時、孤独に耐えかねて”スーパーパワー”を発動してしまったところ、ジム・キャリーが怪演するマッドサイエンティストのドクター・ロボトニック(エッグマン)に見つかってしまう。
ちなみにグリーンヒルとはもともとゲームのファーストレベルのステージ名だが、南国の楽園風のデザインで映画版のソニックが生まれた星に近い。
もはや安住の地では無くなった地球を離れ、別の惑星へと脱出するために必要なワープリングを取り戻すため、ソニックはジェームズ・マースデン演じる“ドーナツ卿”こと保安官のトムとバディを組み、大都会サンフランシスコを目指すことになる。
誰もが楽しめるファミリームービーの主人公は、誰もが共感できる葛藤を抱えていなければならない。
本作の場合は「孤独」という分かりやすさ。
グリーンヒルでは、周りに多くの人間が暮らし、みな友達や愛する人がいる。
だが逃げ続けるソニックは、誰からも知られず、誰からも愛されず、たった一人で生きていかねばならない境遇。
初めて姿を明かしたトムとの出会いと冒険を通して、ソニックは孤独を脱却するのと同時に、守らねばならない仲間を得るのだ。
逃げるのをやめて、自分の力で生きてゆく自由を掴み取る筋立ては、1ミリも定石を外さないので、終始安心して観ていられる。
居場所を巡るソニックの選択が、トムの人生の決断に影響を与えるあたりも、ドラマ的な深みまでは行かないがよく考えられている。
昨年5月のティザートレイラー発表の時点では、目が小さくて人間臭い四頭身プロポーションだったソニックのデザインも、不評の嵐を受けて突貫工事で過去のゲームやアニメーション、ディズニーの「シュガー・ラッシュ」にゲスト出演した時を思わせる三頭身キャラクターに修正され、馴染みの姿に。
トレードマークの赤い靴を手に入れるエピソードも出てくる。
最初のデザインは、実写映画ならではの新しいイメージを生み出そうとする意欲の現れだったと思うが、あのまんまのソニックだったら、正直ヒットしなかっただろうなあ。
まあこれは本作に限ったことじゃないんだけど、雛形のあるキャラクターのデザインはまことに難しい。
ソニックの人気と知名度が、生まれ故郷の日本よりも遥かに高いアメリカでの映画化は、相当に難しかったことだろう。
しかし、修正されたソニックも十分魅力的なのだが、本作のMVPは間違いなく久々登場のジム・キャリーだ。
嬉々として嫌味な悪役を演じ、その漫画チックで毒のあるユーモアでCGのキャラすら喰ってしまうのだから素晴らしい。
彼の繰り出すギミック満載のメカとのゲームライクなバトルも楽しく、最後まで飽きさせない。
ところでエッグマンといえば、ハゲ頭にながーいボサボサの口髭がトレードマークだが、本作ではドクター・ロボトニックとしてカイゼル髭で登場する彼が、いかにしてその姿となるのかの変遷も見どころだ。
「ソニック・ザ・ムービー」は「名探偵ピカチュウ」と共に、すでに半世紀の歴史を持った“ゲームカルチャー”に対する愛が強く感じられる作品で、ゲーム版やアニメーション版を知らない人でも楽しめる。
ちなみにクレジット中には、二段階で次回作の内容を示唆するオマケあり。
既に収益の損益ラインはクリアし、続編の製作は決定済み。
次はソニックが大好きな、“あのキャラクター”との共演が実現しそうだ。
今回はソニックのカラーリングに合わせ、青いカクテル「スカイダイビング」をチョイス。
ホワイト・ラム30ml、ブルー・キュラソー20ml、ライムジュース10mlをシェイクして、グラスに注ぐ。
キュラソーの甘味とライムの酸味がラムを引き立て、涼しげな見た目の通りにスッキリとした味わいのカクテルだ。
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任天堂がマリオにピカチュウなら、ライバルのセガには宇宙から来た青い高速ハリネズミ、“ソニック・ザ・ヘッジホッグ”がいる。
1991年、懐かしのメガドライブ版でのデビュー以来30年。
セガを代表するゲームキャラクター、アニメーションキャラクターとして人気を博してきたソニックが、満を侍して映画に登場。
特にキャラクター人気の高いアメリカでは、コロナ禍前の2月に公開され、昨年の「名探偵ピカチュウ」を超えてゲーム原作の映画の興業記録を作った作品だ。
子供の頃からその秘められた“スーパーパワー”を敵に狙われていたソニックは、地球へと逃されてモンタナ州の田舎町、グリーンヒルで人間から隠れながらひっそり暮らしている。
しかしある時、孤独に耐えかねて”スーパーパワー”を発動してしまったところ、ジム・キャリーが怪演するマッドサイエンティストのドクター・ロボトニック(エッグマン)に見つかってしまう。
ちなみにグリーンヒルとはもともとゲームのファーストレベルのステージ名だが、南国の楽園風のデザインで映画版のソニックが生まれた星に近い。
もはや安住の地では無くなった地球を離れ、別の惑星へと脱出するために必要なワープリングを取り戻すため、ソニックはジェームズ・マースデン演じる“ドーナツ卿”こと保安官のトムとバディを組み、大都会サンフランシスコを目指すことになる。
誰もが楽しめるファミリームービーの主人公は、誰もが共感できる葛藤を抱えていなければならない。
本作の場合は「孤独」という分かりやすさ。
グリーンヒルでは、周りに多くの人間が暮らし、みな友達や愛する人がいる。
だが逃げ続けるソニックは、誰からも知られず、誰からも愛されず、たった一人で生きていかねばならない境遇。
初めて姿を明かしたトムとの出会いと冒険を通して、ソニックは孤独を脱却するのと同時に、守らねばならない仲間を得るのだ。
逃げるのをやめて、自分の力で生きてゆく自由を掴み取る筋立ては、1ミリも定石を外さないので、終始安心して観ていられる。
居場所を巡るソニックの選択が、トムの人生の決断に影響を与えるあたりも、ドラマ的な深みまでは行かないがよく考えられている。
昨年5月のティザートレイラー発表の時点では、目が小さくて人間臭い四頭身プロポーションだったソニックのデザインも、不評の嵐を受けて突貫工事で過去のゲームやアニメーション、ディズニーの「シュガー・ラッシュ」にゲスト出演した時を思わせる三頭身キャラクターに修正され、馴染みの姿に。
トレードマークの赤い靴を手に入れるエピソードも出てくる。
最初のデザインは、実写映画ならではの新しいイメージを生み出そうとする意欲の現れだったと思うが、あのまんまのソニックだったら、正直ヒットしなかっただろうなあ。
まあこれは本作に限ったことじゃないんだけど、雛形のあるキャラクターのデザインはまことに難しい。
ソニックの人気と知名度が、生まれ故郷の日本よりも遥かに高いアメリカでの映画化は、相当に難しかったことだろう。
しかし、修正されたソニックも十分魅力的なのだが、本作のMVPは間違いなく久々登場のジム・キャリーだ。
嬉々として嫌味な悪役を演じ、その漫画チックで毒のあるユーモアでCGのキャラすら喰ってしまうのだから素晴らしい。
彼の繰り出すギミック満載のメカとのゲームライクなバトルも楽しく、最後まで飽きさせない。
ところでエッグマンといえば、ハゲ頭にながーいボサボサの口髭がトレードマークだが、本作ではドクター・ロボトニックとしてカイゼル髭で登場する彼が、いかにしてその姿となるのかの変遷も見どころだ。
「ソニック・ザ・ムービー」は「名探偵ピカチュウ」と共に、すでに半世紀の歴史を持った“ゲームカルチャー”に対する愛が強く感じられる作品で、ゲーム版やアニメーション版を知らない人でも楽しめる。
ちなみにクレジット中には、二段階で次回作の内容を示唆するオマケあり。
既に収益の損益ラインはクリアし、続編の製作は決定済み。
次はソニックが大好きな、“あのキャラクター”との共演が実現しそうだ。
今回はソニックのカラーリングに合わせ、青いカクテル「スカイダイビング」をチョイス。
ホワイト・ラム30ml、ブルー・キュラソー20ml、ライムジュース10mlをシェイクして、グラスに注ぐ。
キュラソーの甘味とライムの酸味がラムを引き立て、涼しげな見た目の通りにスッキリとした味わいのカクテルだ。

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2020年06月23日 (火) | 編集 |
猫の愛、人間の愛。
Netflixオリジナルアニメーション。
とは言っても、本作は元々今年の6月5日に劇場公開が予定されていたのだが、コロナ禍の影響でネトフリ直行となってしまった作品。
おそらく劇場のブッキングの混乱はしばらく続くだろうし、世界中で似たようなケースが続出するのではないかな。
まあよく出来た作品だから、出来ればスクリーンで観たかったが、とりあえず作品が無駄に死蔵されず、ほぼ予定通りのスケジュールでファンに届けられることになったのは喜ばしい。
本作は傑作「ペンギン・ハイウェイ」を世に出した、新興アニメーションスタジオ「スタジオ・コロリド」の長編第二作。
今回は「心が叫びたがってるんだ」「空の青さを知る人よ」の岡田麿里のオリジナル脚本を、「美少女戦士セーラームーン」などのベテラン演出家の佐藤順一と「ペンギン・ハイウェイ」で絵コンテを担当した柴山智隆の共同監督で映画化。
淡い色彩の美しいアニメーションで描かれるのは、ひょんなことから猫に変身できる魔法を手に入れた、中二少女のリリカルな成長物語だ。
主人公の笹木美代は、クラスメイトから「ムゲ(無限大謎人間)」というあだ名で呼ばれ、常に一生懸命で元気いっぱいの少女。
クラスメイトの日之出賢人に想いをよせ、毎日のように全力で「好き」アピールしているが、全然相手にされていない。
そんな美代は、祭りの縁日で出会った奇妙なお面屋から、かぶると猫に変身できるお面をもらい、毎夜白猫の姿となって賢人と逢瀬を重ねているのだ。
もちろん賢人は、死んだ愛犬の生まれ変わりと信じる白猫が、文字通りに猫をかぶった美代だとは知らない。
実は美代には、変身の魔法以外にも秘密がある。
両親が離婚して、一緒に暮らす父はその後再婚。
継母はよくしてくれているのだが、美代はどうしても気を遣ってしまう。
実母は実母で今さら美代と暮らしたいと言い出し、彼女は二人の母親の間で板挟みになってしまっているのだ。
賢人への猛アタックも、親たちのややこしい事情を見ているからこその、彼女の愛し愛されたがりの感情の発露なのである。
一見天真爛漫だが家庭環境が複雑で、人知れず色々こじらせてる主人公。
このキャラクターの内面描写のリアリティこそ、岡田麿里脚本の真骨頂。
ワンアイディアから始まる物語は、序盤「心が叫びたがってるんだ」を思わせるが、本作では「愛されない人間より、いっそ愛される猫になりたい」と思った美代が元に戻れなくなり、そこから成長のステージとして、「千と千尋の神隠し」的な異世界への冒険に物語が広がってゆく。
高校生が主人公だった「ここさけ」や「空青」よりも、年少のこちらはファンタジー色が強いのが特徴だ。
招き猫通りが有名な焼物の街、常滑のロケーションがいい。
聖地巡礼なる言葉もすっかり定着したが、陶芸窯のレンガ煙突が並ぶ街並みは初めからちょっとした非日常感があり、こう言った現実からのファンタジーの裏打ちは、日本のアニメーション作品の大きな魅力になっていると思う。
あのファンタジックに魅力的な街なら、実は異世界に繋がっていると思えるし、実際に行ってみたくなるもの。
猫の姿のまま冒険の旅に出た美代は、初めて心の中の問題と初めてきちんと向き合い、愛の意味を考え、思春期という未知の海に漕ぎだすための大きな成長を果たす。
美代を演じるのは志田未来。
米林宏昌監督の「借りぐらしのアリエッティ」などで声優としても定評のある人だが、本作でも中二少女の絡みあった心を繊細に表現して素晴らしい。
主人公だけじゃなくて、登場人物全員の葛藤へのソリューションが用意されているのもいい。
誰もが物語を通して少しだけ変化し、物語の始まりより少しだけ幸せになる。
そして猫飼いとしては、美代が変身した白猫のキャラクターも可愛いのだが、別のある猫と飼い主の絆のエピソードには思わず涙腺が・・・
本作では猫と人間の時間の違い、寿命の違いが物語のキーになっていて、あの猫は自分の命が残り少ないのを承知で飼い主との終の猫生を選んだんだよなあ。
この辺りは岡田麿里が初監督した「さよならの朝に約束の花をかざろう」にも通じる、切なくて優しい絆を感じさせる。
普遍性のある青春ファンタジーだが、猫飼いは余計に自分の子が愛しくなるだろう。
今回は舞台となる常滑の地酒、澤田酒造の「白老 大吟醸」をチョイス。
山田錦を40%まで精米して作り上げられる一本は、吟醸酒らしいフルーティーで芳醇な香りが特徴。
やや辛口で、海の幸はもちろん、肉料理などとも相性がいい。
これからの季節は冷でいただきたい。
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Netflixオリジナルアニメーション。
とは言っても、本作は元々今年の6月5日に劇場公開が予定されていたのだが、コロナ禍の影響でネトフリ直行となってしまった作品。
おそらく劇場のブッキングの混乱はしばらく続くだろうし、世界中で似たようなケースが続出するのではないかな。
まあよく出来た作品だから、出来ればスクリーンで観たかったが、とりあえず作品が無駄に死蔵されず、ほぼ予定通りのスケジュールでファンに届けられることになったのは喜ばしい。
本作は傑作「ペンギン・ハイウェイ」を世に出した、新興アニメーションスタジオ「スタジオ・コロリド」の長編第二作。
今回は「心が叫びたがってるんだ」「空の青さを知る人よ」の岡田麿里のオリジナル脚本を、「美少女戦士セーラームーン」などのベテラン演出家の佐藤順一と「ペンギン・ハイウェイ」で絵コンテを担当した柴山智隆の共同監督で映画化。
淡い色彩の美しいアニメーションで描かれるのは、ひょんなことから猫に変身できる魔法を手に入れた、中二少女のリリカルな成長物語だ。
主人公の笹木美代は、クラスメイトから「ムゲ(無限大謎人間)」というあだ名で呼ばれ、常に一生懸命で元気いっぱいの少女。
クラスメイトの日之出賢人に想いをよせ、毎日のように全力で「好き」アピールしているが、全然相手にされていない。
そんな美代は、祭りの縁日で出会った奇妙なお面屋から、かぶると猫に変身できるお面をもらい、毎夜白猫の姿となって賢人と逢瀬を重ねているのだ。
もちろん賢人は、死んだ愛犬の生まれ変わりと信じる白猫が、文字通りに猫をかぶった美代だとは知らない。
実は美代には、変身の魔法以外にも秘密がある。
両親が離婚して、一緒に暮らす父はその後再婚。
継母はよくしてくれているのだが、美代はどうしても気を遣ってしまう。
実母は実母で今さら美代と暮らしたいと言い出し、彼女は二人の母親の間で板挟みになってしまっているのだ。
賢人への猛アタックも、親たちのややこしい事情を見ているからこその、彼女の愛し愛されたがりの感情の発露なのである。
一見天真爛漫だが家庭環境が複雑で、人知れず色々こじらせてる主人公。
このキャラクターの内面描写のリアリティこそ、岡田麿里脚本の真骨頂。
ワンアイディアから始まる物語は、序盤「心が叫びたがってるんだ」を思わせるが、本作では「愛されない人間より、いっそ愛される猫になりたい」と思った美代が元に戻れなくなり、そこから成長のステージとして、「千と千尋の神隠し」的な異世界への冒険に物語が広がってゆく。
高校生が主人公だった「ここさけ」や「空青」よりも、年少のこちらはファンタジー色が強いのが特徴だ。
招き猫通りが有名な焼物の街、常滑のロケーションがいい。
聖地巡礼なる言葉もすっかり定着したが、陶芸窯のレンガ煙突が並ぶ街並みは初めからちょっとした非日常感があり、こう言った現実からのファンタジーの裏打ちは、日本のアニメーション作品の大きな魅力になっていると思う。
あのファンタジックに魅力的な街なら、実は異世界に繋がっていると思えるし、実際に行ってみたくなるもの。
猫の姿のまま冒険の旅に出た美代は、初めて心の中の問題と初めてきちんと向き合い、愛の意味を考え、思春期という未知の海に漕ぎだすための大きな成長を果たす。
美代を演じるのは志田未来。
米林宏昌監督の「借りぐらしのアリエッティ」などで声優としても定評のある人だが、本作でも中二少女の絡みあった心を繊細に表現して素晴らしい。
主人公だけじゃなくて、登場人物全員の葛藤へのソリューションが用意されているのもいい。
誰もが物語を通して少しだけ変化し、物語の始まりより少しだけ幸せになる。
そして猫飼いとしては、美代が変身した白猫のキャラクターも可愛いのだが、別のある猫と飼い主の絆のエピソードには思わず涙腺が・・・
本作では猫と人間の時間の違い、寿命の違いが物語のキーになっていて、あの猫は自分の命が残り少ないのを承知で飼い主との終の猫生を選んだんだよなあ。
この辺りは岡田麿里が初監督した「さよならの朝に約束の花をかざろう」にも通じる、切なくて優しい絆を感じさせる。
普遍性のある青春ファンタジーだが、猫飼いは余計に自分の子が愛しくなるだろう。
今回は舞台となる常滑の地酒、澤田酒造の「白老 大吟醸」をチョイス。
山田錦を40%まで精米して作り上げられる一本は、吟醸酒らしいフルーティーで芳醇な香りが特徴。
やや辛口で、海の幸はもちろん、肉料理などとも相性がいい。
これからの季節は冷でいただきたい。

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2020年06月19日 (金) | 編集 |
もう一つの“地獄の黙示録”。
Netflixオリジナル作品。
ベトナム戦争の四人の黒人帰還兵が、戦死した隊長の遺骨収集と隠された金塊を探すために、数十年ぶりにベトナムを訪れる。
彼らは記憶に導かれ、様々な思い出が埋まっているジャングルの奥地を目指すのだが、金塊への欲望と考え方の違いから軋轢が生じ、予期せぬ事件を引き起こす。
ダニー・ビルソンと故ポール・デ・メオが2013年に執筆したシナリオ「The Last Tour」をベースに、スパイク・リーが人種差別への怒りを前面に出してリライト。
デルロイ・リンドー、クラーク・ピーターズ、ノーム・ルイス、イザイア・ウィットロックが今は老人となった四人の帰還兵を演じ、彼らの人生を変えた亡き隊長を「ブラックパンサー」のチャドウィック・ボーズマンが演じる。
例によって色々詰め込んでるので、えらくバランスは悪いのに、パワフルで目が離せないくらいに面白いのはさすがリーだ。
ベトナム戦争から半世紀。
同じ部隊に所属していたポール(デルロイ・リンドー)、オーティス(クラーク・ピーターズ)、エディ(ノーム・ルイス)、メルヴィン(イザイア・ウィットロックJr)の四人は、戦死したノーマン隊長(チャドウィック・ボーズマン)の遺骨と、当時ひょんなことから手に入れ、ジャングルに隠したCIAの金塊を探すため、再びベトナムの地に降り立つ。
ポールの息子、ディッド(ジョナサン・メイジャーズ)も同行することになり、五人のアメリカ人はガイドのヴィン(ジョニー・グエン)と共に、目的地へと向かう。
かつて戦場だったジャングルの奥地で、彼らはノーマンの遺骨と金塊を見つけることに成功したが、地雷除去のNGOに所属するヘディ(メラニー・ティエリー)たちに金塊を見られてしまう。
予期せぬ事態に五人は困惑するが、そこへ現地のギャングたちが襲いかかってくる。
金塊を換金するために雇った裏社会の顔役のデローシュ(ジャン・レノ)が、利益を独占しようと裏切ったのだ。
一度は撃退したものの、ここは敵の地元で状況は圧倒的に不利。
再びの地獄へと堕ちた元老兵士たちは、ヴィンやヘディの協力を得て戦うことを決意するのだが・・・・
これまた、スパイク・リーの怒りのパワーに満ちた大怪作だ。
前作の「ブラック・クランズマン」は、70年代初期を舞台に、白人至上主義団体クー・クラックス・クラン(KKK)への奇妙な潜入捜査に挑んだ黒人警官を描く、異色の人種差別サスペンスだった。
その同じ時代に、ベトナムのジャングルでは多くの黒人の兵士たちが戦っていた。
米国の人口に黒人が占める割合はわずかに11%だが、ベトナムに派遣された黒人兵の割合は32%にものぼる。
第二次世界大戦や朝鮮戦争では、白人と黒人の部隊が分けられていアメリカ陸軍は、公民権法の成立を受けてベトナム戦争では基本的に混成部隊。
この戦争で初めて人種の壁を越え、肌の色の違う同胞と”戦友”となった者も多かった。
しかしそれでも研究によると、ベトナム戦争の黒人帰還兵がPTSDを発症する確率は、白人兵士の二倍に達するという。
これは黒人兵により危険な任務が与えられ、凄惨な戦場を体験してきたことを意味するのだが、ベトナム戦争での黒人兵を描いた作品は相対的に少ない。
もちろん、いろいろな映画にキャラクターとしては出てくるし、主役級が黒人の作品もある。
しかし人種葛藤をテーマにベトナム戦争を描いた作品は実際皆無で、本作の存在は画期的だ。
ある意味アメリカ社会全体に喧嘩を売ってるような話なので、全てのスタジオに断られ、Netflix直行というのも然もありなん。
スパイク・リーの作品の例に漏れず、いろいろな要素が闇鍋的にぶち込まれているので、序盤の印象はゴチャゴチャしていて作品の骨格はなかなか見えてこない。
はじまってしばらくは、お爺ちゃんたちの緩い観光旅行が続くのだけど、中盤から彼らの中に疼く殺戮と狂気の記憶が前面に出て緊迫度が増してくる。
四人が訪れるクラブのDJブースの背後には「Apocalypse Now」の巨大な文字が輝き、すっかり近代化され高層ビルが建ち並ぶホーチミン市から、一行が船でジャングルへと入っていくシーンではワーグナーの「ワルキューレの騎行」が鳴り響く。
リーは同じくベトナム戦争をモチーフとしたフランシス・コッポラの伝説的な大作、「地獄の黙示録」を換骨奪胎し、四人の帰還兵の“闇の奥”への旅を描く。
ジャングルの深淵で彼らを待ち受けるカーツ大佐に当たるのが、本作ではチャドウィック・ボーズマン演じるノーマン隊長だ。
ただし、カーツと違ってノーマンは何十年も前に死んでいる。
彼は全ての黒人の開放を願う高潔な思想を持ち、戦争の中でも部下たちに大きな影響を与えた人物で、死してなお彼らを精神的に支配しているのである。
特に、帰還兵たちの中でもPTSDの症状がひどく、攻撃的な言動を繰り返し、実質的な主人公とも言えるポールに関しては、ノーマンとの間に決して他人には言えない秘密を抱えていることもあり、描かれる感情も非常に複雑。
旅をしながら過去のノーマンと対話し、そのトラウマの根元と向き合うポールを演じるデルロイ・リンドーが圧巻の素晴らしさ。
狂気が滲み出る怒りの独白の演技は、同時に彼が負った絶対に癒せない深い心の傷を感じさせ、まことに秀逸だ。
おそらくリンドーは、本年度の映画賞の演技部門に確実に絡んでくるだろう。
7年前にビルソンとデ・メオが「The Last Tour」を書き上げた時、本作の主人公は白人の設定だったそうだが、リーが参加して黒人設定になったことで、新たなテーマが付与され驚くべき未見性を備えた作品となった。
ノーマンに影響を受けた四人の帰還兵が抱える葛藤のベースにも、今も昔も変わらないアメリカ社会への怒りと批判が組み込まれてことで、本作には大きな思想的バックボーンが入った。
戦時中を描く回想シーン(もしくは記憶の中のシーン)では、ノーマンだけ若く他の四人は老人となった彼らがそのまま演じてるのが面白い。
本作で帰還兵たちが辿る闇の奥への冒険は、地理的なものだけでなく、過去の記憶への帰還と絡み合い、より精神的な旅となっているのだ。
しかし、コロナ禍の中で本作の配信がスタートしたのと時を同じくして、米国では白人警官に黒人男性が殺された事件をきっかけに「Black lives matter」の一大ムーブメントが始まった。
この標語自体は2013年から使われているので、本作の中にも出てくる。
図らずもタイムリーな公開になってしまったが、やっぱり時代に呼ばれる映画というのはあるのだと思う。
「アメリカのために、有色人種や飢えで苦しむ人々を撃つのは良心が許さない。彼らは俺を侮辱したり、犬をけしかけたりしてない」
冒頭、ベトナム戦争への徴兵を拒否し、長年に渡って政府と闘ったモハメド・アリのニュース映像から始まる本作は、全編からマイノリティーである黒人が白人のルールの下で生きる苦難と理不尽さが滲み出る。
「金持ち(白人)の息子は大学へ行き、貧乏人(有色人種)の息子は戦争へ行く」
この構図は今なお変わってないのかもしれない。
今回はベトナムのビール「333(バーバーバー)」をチョイス。
国内シェア7割を誇るトップブランドのピスルナーで、高温多湿の南国のビールらしく、さっぱりとしたテイスト。
ベトナムのビールの中では苦味が強目で、ほんのりとフルーティーな香りが漂い、爽やかに喉を潤してくれる。
東南アジアではビールジョッキに氷が入ってることが多いが、このビールも氷入りで飲むとより気分が高まる。
ちなみに「333」という名前は、ラッキー7的なベトナムの幸運の数字なんだとか。
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Netflixオリジナル作品。
ベトナム戦争の四人の黒人帰還兵が、戦死した隊長の遺骨収集と隠された金塊を探すために、数十年ぶりにベトナムを訪れる。
彼らは記憶に導かれ、様々な思い出が埋まっているジャングルの奥地を目指すのだが、金塊への欲望と考え方の違いから軋轢が生じ、予期せぬ事件を引き起こす。
ダニー・ビルソンと故ポール・デ・メオが2013年に執筆したシナリオ「The Last Tour」をベースに、スパイク・リーが人種差別への怒りを前面に出してリライト。
デルロイ・リンドー、クラーク・ピーターズ、ノーム・ルイス、イザイア・ウィットロックが今は老人となった四人の帰還兵を演じ、彼らの人生を変えた亡き隊長を「ブラックパンサー」のチャドウィック・ボーズマンが演じる。
例によって色々詰め込んでるので、えらくバランスは悪いのに、パワフルで目が離せないくらいに面白いのはさすがリーだ。
ベトナム戦争から半世紀。
同じ部隊に所属していたポール(デルロイ・リンドー)、オーティス(クラーク・ピーターズ)、エディ(ノーム・ルイス)、メルヴィン(イザイア・ウィットロックJr)の四人は、戦死したノーマン隊長(チャドウィック・ボーズマン)の遺骨と、当時ひょんなことから手に入れ、ジャングルに隠したCIAの金塊を探すため、再びベトナムの地に降り立つ。
ポールの息子、ディッド(ジョナサン・メイジャーズ)も同行することになり、五人のアメリカ人はガイドのヴィン(ジョニー・グエン)と共に、目的地へと向かう。
かつて戦場だったジャングルの奥地で、彼らはノーマンの遺骨と金塊を見つけることに成功したが、地雷除去のNGOに所属するヘディ(メラニー・ティエリー)たちに金塊を見られてしまう。
予期せぬ事態に五人は困惑するが、そこへ現地のギャングたちが襲いかかってくる。
金塊を換金するために雇った裏社会の顔役のデローシュ(ジャン・レノ)が、利益を独占しようと裏切ったのだ。
一度は撃退したものの、ここは敵の地元で状況は圧倒的に不利。
再びの地獄へと堕ちた元老兵士たちは、ヴィンやヘディの協力を得て戦うことを決意するのだが・・・・
これまた、スパイク・リーの怒りのパワーに満ちた大怪作だ。
前作の「ブラック・クランズマン」は、70年代初期を舞台に、白人至上主義団体クー・クラックス・クラン(KKK)への奇妙な潜入捜査に挑んだ黒人警官を描く、異色の人種差別サスペンスだった。
その同じ時代に、ベトナムのジャングルでは多くの黒人の兵士たちが戦っていた。
米国の人口に黒人が占める割合はわずかに11%だが、ベトナムに派遣された黒人兵の割合は32%にものぼる。
第二次世界大戦や朝鮮戦争では、白人と黒人の部隊が分けられていアメリカ陸軍は、公民権法の成立を受けてベトナム戦争では基本的に混成部隊。
この戦争で初めて人種の壁を越え、肌の色の違う同胞と”戦友”となった者も多かった。
しかしそれでも研究によると、ベトナム戦争の黒人帰還兵がPTSDを発症する確率は、白人兵士の二倍に達するという。
これは黒人兵により危険な任務が与えられ、凄惨な戦場を体験してきたことを意味するのだが、ベトナム戦争での黒人兵を描いた作品は相対的に少ない。
もちろん、いろいろな映画にキャラクターとしては出てくるし、主役級が黒人の作品もある。
しかし人種葛藤をテーマにベトナム戦争を描いた作品は実際皆無で、本作の存在は画期的だ。
ある意味アメリカ社会全体に喧嘩を売ってるような話なので、全てのスタジオに断られ、Netflix直行というのも然もありなん。
スパイク・リーの作品の例に漏れず、いろいろな要素が闇鍋的にぶち込まれているので、序盤の印象はゴチャゴチャしていて作品の骨格はなかなか見えてこない。
はじまってしばらくは、お爺ちゃんたちの緩い観光旅行が続くのだけど、中盤から彼らの中に疼く殺戮と狂気の記憶が前面に出て緊迫度が増してくる。
四人が訪れるクラブのDJブースの背後には「Apocalypse Now」の巨大な文字が輝き、すっかり近代化され高層ビルが建ち並ぶホーチミン市から、一行が船でジャングルへと入っていくシーンではワーグナーの「ワルキューレの騎行」が鳴り響く。
リーは同じくベトナム戦争をモチーフとしたフランシス・コッポラの伝説的な大作、「地獄の黙示録」を換骨奪胎し、四人の帰還兵の“闇の奥”への旅を描く。
ジャングルの深淵で彼らを待ち受けるカーツ大佐に当たるのが、本作ではチャドウィック・ボーズマン演じるノーマン隊長だ。
ただし、カーツと違ってノーマンは何十年も前に死んでいる。
彼は全ての黒人の開放を願う高潔な思想を持ち、戦争の中でも部下たちに大きな影響を与えた人物で、死してなお彼らを精神的に支配しているのである。
特に、帰還兵たちの中でもPTSDの症状がひどく、攻撃的な言動を繰り返し、実質的な主人公とも言えるポールに関しては、ノーマンとの間に決して他人には言えない秘密を抱えていることもあり、描かれる感情も非常に複雑。
旅をしながら過去のノーマンと対話し、そのトラウマの根元と向き合うポールを演じるデルロイ・リンドーが圧巻の素晴らしさ。
狂気が滲み出る怒りの独白の演技は、同時に彼が負った絶対に癒せない深い心の傷を感じさせ、まことに秀逸だ。
おそらくリンドーは、本年度の映画賞の演技部門に確実に絡んでくるだろう。
7年前にビルソンとデ・メオが「The Last Tour」を書き上げた時、本作の主人公は白人の設定だったそうだが、リーが参加して黒人設定になったことで、新たなテーマが付与され驚くべき未見性を備えた作品となった。
ノーマンに影響を受けた四人の帰還兵が抱える葛藤のベースにも、今も昔も変わらないアメリカ社会への怒りと批判が組み込まれてことで、本作には大きな思想的バックボーンが入った。
戦時中を描く回想シーン(もしくは記憶の中のシーン)では、ノーマンだけ若く他の四人は老人となった彼らがそのまま演じてるのが面白い。
本作で帰還兵たちが辿る闇の奥への冒険は、地理的なものだけでなく、過去の記憶への帰還と絡み合い、より精神的な旅となっているのだ。
しかし、コロナ禍の中で本作の配信がスタートしたのと時を同じくして、米国では白人警官に黒人男性が殺された事件をきっかけに「Black lives matter」の一大ムーブメントが始まった。
この標語自体は2013年から使われているので、本作の中にも出てくる。
図らずもタイムリーな公開になってしまったが、やっぱり時代に呼ばれる映画というのはあるのだと思う。
「アメリカのために、有色人種や飢えで苦しむ人々を撃つのは良心が許さない。彼らは俺を侮辱したり、犬をけしかけたりしてない」
冒頭、ベトナム戦争への徴兵を拒否し、長年に渡って政府と闘ったモハメド・アリのニュース映像から始まる本作は、全編からマイノリティーである黒人が白人のルールの下で生きる苦難と理不尽さが滲み出る。
「金持ち(白人)の息子は大学へ行き、貧乏人(有色人種)の息子は戦争へ行く」
この構図は今なお変わってないのかもしれない。
今回はベトナムのビール「333(バーバーバー)」をチョイス。
国内シェア7割を誇るトップブランドのピスルナーで、高温多湿の南国のビールらしく、さっぱりとしたテイスト。
ベトナムのビールの中では苦味が強目で、ほんのりとフルーティーな香りが漂い、爽やかに喉を潤してくれる。
東南アジアではビールジョッキに氷が入ってることが多いが、このビールも氷入りで飲むとより気分が高まる。
ちなみに「333」という名前は、ラッキー7的なベトナムの幸運の数字なんだとか。

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2020年06月14日 (日) | 編集 |
女たちの生きる道。
グレタ・ガーウィク、シアーシャ・ローナンという「レディ・バード」の監督・主演コンビが、ルイーザ・メイ・オルコットによる米国文学の不朽の名作「若草物語」を映画化。
ガーウィクは、南北戦争下のマサチューセッツに暮らす、マーチ家の四姉妹の物語を巧みに脚色し、詩情に溢れ21世紀に相応しい視点を持ったフレッシュな作品に仕上げた。
原作は四部作だが、本作で描かれるのはニューヨークで作家修行中の次女ジョーの“今”を起点とした第二部と、四姉妹の輝かしい少女時代を描く第一部がほとんど。
この二つの時代が、時系列を行き来する形で平行に描かれることで、モダンなテーマが導き出されるという構造を持つ。
キャストの素晴らしさは言うまでもなく、撮影監督のヨリック・ル・ソーが紡ぐ美しくリリカルな映像、アカデミー賞を受賞したジャクリーヌ・デュランによる四姉妹それぞれの個性が際立つ衣装デザインなど、テリング面も非常に完成度が高い。
コロナ禍によって日本公開が三ヶ月も延期されていたが、十分に待った甲斐のある傑作だ。
マーチ家の次女ジョー(シアーシャ・ローナン)は作家志望。
ニューヨークで住み込みの家庭教師をしながら、大衆小説を書いている。
しかし、売るために読者に媚びた小説になってしまっていることを、同じ下宿に住む大学教授のフレデリック(ルイ・ガレル)に見抜かれて、意気消沈。
そんな時、マサチューセッツの実家から病気がちの三女ベス(エリザ・スカンレン)の具合が悪いと言う連絡が入り、久しぶりに故郷へ戻る列車に乗り込んだジョーは、懐かしい夢をみる。
それは南北戦争下、マーチ家の女たちが出征した父の留守を守っていた7年前の記憶。
美しい長女のメグ(エマ・ワトソン)、慈愛に満ちた三女のベス、絵が得意でおしゃまな四女のエイミー(フローレンス・ピュー)、そしてボーイッシュで勝気なジョー。
隣家に住むローリー(ティモシー・シャラメ)を加えた5人で、青春を謳歌していた時代の夢。
やがて故郷へと帰り着いたジョーは、すっかり痩せ細ってしまったベスと共に、海辺の街に療養に出ることを決める。
同じ頃、おば(メリル・ストリーブ)の世話係としてヨーロッパへと渡っていたエイミーは、ローリーと思わぬ再会を果たすのだが・・・・
「若草物語」は非常に愛された小説で、過去に映画やテレビドラマ、果ては日本のテレビアニメーションまで何度も映像化されている。
中でも評価が高い1933年のジョージ・キューカー版ではキャサリン・ヘプバーンが、49年のマーヴィン・ルロイ版ではジューン・アリソンが、94年のジリアン・アームストロング版ではウィノナ・ライダーと、常に旬の若手女優がジョーを演じてきた。
本作のシアーシャ・ローナンは、歴代ジョーの中でも後述する物語の視点の違いもあって、一味違ったキャラクターになっている。
基本的なプロットは、原作に忠実。
四者四様のマーチ姉妹の物語を通して、女性の生き方や幸せの意味が描かれてゆくのだが、22歳となったジョーの葛藤を物語の起点としたことがポイント。
彼女は一応作家となったものの、売れるものを欲しがる編集者の言いなりで、クリエイターとして描きたいものを書けていない。
その背景となっているのが、19世紀の女性の置かれた社会環境だ。
映画の中でも繰り返し言われるのが、「女の幸せは結婚にしかない」と言う言葉。
女性は経済的に自立できない。
結婚して子供が生まれても、その子供は夫のもの。
まともに稼げる女性の職業は、女優か売春婦くらいしかない。
そんな風潮に反発するジョーは、ローリーの熱烈な求婚を断ってでも、作家として成功することで家族を含む世間に自分を認めさせようとしている。
そのためには売れるものを書かなければならないのだけど、虚無感は強まるばかり。
一方、幸せな結婚をしたはずの長女のメグは経済的に困窮し、画家を目指しているエイミーも才能に限界を感じ家族の安定のためにも金持ちとの結婚を考えている。
そして、自分よりも他人のことを思いやっていた優しいベスは、重い病で死の淵にある。
今よりもはるかに、女性が自由に生きることが難しかった時代。
四姉妹それぞれが、思い通りにならない人生の現実に翻弄される第二部を物語のベースとし、ジョーを語り部に記憶としての第一部を描く構造とすることで、オルコットが本当に描きたかった物語が見えてくると言うわけ。
本作では基本的に過去の描写は全てジョーの見た夢であり、物語の終盤で彼女が執筆する「若草物語」というフィクションに封じ込まれている。
面白いのは“現在=現実”は冬の季節で寒色基調、戦時下でも家族皆が幸せだった“少女時代=フィクション”は暖かみのある暖色基調で描かれていること。
原作小説がオルコットの自伝的な作品であることはよく知られているが、ガーウィクは物語上のジョーを原作者オルコットと同一視する工夫を取り入れている。
小説のジョーは自分の理解者となったフレデリックと結婚するのだが、本作ではここで物語が二つに分かれる。
一つは「若草物語」を脱稿し編集者と契約交渉をするジョー、もう一つは同じくジョーを主人公とした小説のエンディング。
もちろん前者は寒色で、後者は暖色で描かれている。
ジョーが最初の小説を売り込みに行った時、編集者に言われるのが「女性キャラを出すなら最後は結婚させること。さもなくば殺せ」という当時の娯楽小説のお約束。
オルコット自身は生涯独身を貫いた急進的なフェミニストであり、自由な生き方を模索するジョーが結婚して幸せになるというラストを本当は描きたくなかったはず。
そこで本作はジョーの人生を現実とフィクションに分け、メタ構造とすることで小説のラストはあくまでも出来過ぎたフィクションという扱いにしているのである。
同時に、大人になった四姉妹の迎える経済的な苦境や、著作権を安値で買い取ろうとする編集者とジョーのウィットに富んだ会話を通して、フェミニズムの目指す人生の選択の多様性は、結局女性が自立し経済力を持たねば得られないことを説く。
本作では3人の登場人物が“第四の壁”を越えてスクリーンのこちら側に語りかけてくる描写もあるが、物語を重層的なメタ構造にすることで、作者が本当に意図したであろう原作のその先を描き出したのは見事だ。
それにしてもマーチ家の女優陣凄過ぎ。
キャプテン・シアーシャに率いられるのは、メリル・ストリーブ、ローラ・ダーン、エマ・ワトソン、エリザ・スカンレン、フローレンス・ピューと、ベテランから若手までまさに演技派女優のアベンジャーズ状態。
ティモシー・シャラメをはじめ男性陣も頑張っているけど、この迫力にはタジタジだ。
彼女たちの中では一番知名度の低いベス役のエリザ・スカンレンが地味に素晴らしく、その薄幸の人生が本作の作り出す情感の多くを占めている。
ジョーが「若草物語」を生み出すきっかけとなるのも、彼女との死別なのである。
映画の最後で、ジョーの想いのこもった「若草物語」はとうとう本になるのだが、一冊の本が丁寧に仕上げられてゆく描写と、その作業を見守るジョーの優しい眼差しが、創作物へのリスペクトに満ちていてとても素敵だった。
ちなみに「若草物語」の初版には、映画に出てきた赤色装丁の他にも緑や茶など複数色があるらしいのだが、赤が選ばれているのは、本作の衣装デザインでジョーのキーカラーが赤に設定されているからだろう。
ところで、一大ムーブメントとなった「Black lives matter」の影響で本作と同じ時代を舞台とした「風と共に去りぬ」への風当たりが強くなっているという。
まあスパイク・リーの「ブラック・クランズマン」でも槍玉に上がっていたし、降って湧いた話ではないのだけど、南北戦争前の南部を美化して差別的だとして、配信サービスから消えつつあるとか。
同じ女性の自立を描いていても、今なお愛されリメイクされる「若草物語」とは対照的な扱いだが、これに限ったことではないけど、現在の基準に当てはめて単純に否定して蓋をするより、作品が作られた時代背景や問題点を知らせつつ、アクセシビリティは確保される方が文化として健全だと思うんだけどな。
めちゃめちゃ面白い映画であることは確かだし。
今回はジョーが夢を追うニューヨークの地ビール「ブルックリンラガー」をチョイス。
伝統のウィンナースタイルで作られるこのビールは、禁酒法以前のニューヨークに多く存在した、ドイツ系醸造所の味を復活させるため、1998年に創業した銘柄。
おそらくジョーの時代のニューヨークでも飲まれていたであろう、フルーティで適度な苦みと深いコク、ホップ感を持つ欧州風の一本だ。
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グレタ・ガーウィク、シアーシャ・ローナンという「レディ・バード」の監督・主演コンビが、ルイーザ・メイ・オルコットによる米国文学の不朽の名作「若草物語」を映画化。
ガーウィクは、南北戦争下のマサチューセッツに暮らす、マーチ家の四姉妹の物語を巧みに脚色し、詩情に溢れ21世紀に相応しい視点を持ったフレッシュな作品に仕上げた。
原作は四部作だが、本作で描かれるのはニューヨークで作家修行中の次女ジョーの“今”を起点とした第二部と、四姉妹の輝かしい少女時代を描く第一部がほとんど。
この二つの時代が、時系列を行き来する形で平行に描かれることで、モダンなテーマが導き出されるという構造を持つ。
キャストの素晴らしさは言うまでもなく、撮影監督のヨリック・ル・ソーが紡ぐ美しくリリカルな映像、アカデミー賞を受賞したジャクリーヌ・デュランによる四姉妹それぞれの個性が際立つ衣装デザインなど、テリング面も非常に完成度が高い。
コロナ禍によって日本公開が三ヶ月も延期されていたが、十分に待った甲斐のある傑作だ。
マーチ家の次女ジョー(シアーシャ・ローナン)は作家志望。
ニューヨークで住み込みの家庭教師をしながら、大衆小説を書いている。
しかし、売るために読者に媚びた小説になってしまっていることを、同じ下宿に住む大学教授のフレデリック(ルイ・ガレル)に見抜かれて、意気消沈。
そんな時、マサチューセッツの実家から病気がちの三女ベス(エリザ・スカンレン)の具合が悪いと言う連絡が入り、久しぶりに故郷へ戻る列車に乗り込んだジョーは、懐かしい夢をみる。
それは南北戦争下、マーチ家の女たちが出征した父の留守を守っていた7年前の記憶。
美しい長女のメグ(エマ・ワトソン)、慈愛に満ちた三女のベス、絵が得意でおしゃまな四女のエイミー(フローレンス・ピュー)、そしてボーイッシュで勝気なジョー。
隣家に住むローリー(ティモシー・シャラメ)を加えた5人で、青春を謳歌していた時代の夢。
やがて故郷へと帰り着いたジョーは、すっかり痩せ細ってしまったベスと共に、海辺の街に療養に出ることを決める。
同じ頃、おば(メリル・ストリーブ)の世話係としてヨーロッパへと渡っていたエイミーは、ローリーと思わぬ再会を果たすのだが・・・・
「若草物語」は非常に愛された小説で、過去に映画やテレビドラマ、果ては日本のテレビアニメーションまで何度も映像化されている。
中でも評価が高い1933年のジョージ・キューカー版ではキャサリン・ヘプバーンが、49年のマーヴィン・ルロイ版ではジューン・アリソンが、94年のジリアン・アームストロング版ではウィノナ・ライダーと、常に旬の若手女優がジョーを演じてきた。
本作のシアーシャ・ローナンは、歴代ジョーの中でも後述する物語の視点の違いもあって、一味違ったキャラクターになっている。
基本的なプロットは、原作に忠実。
四者四様のマーチ姉妹の物語を通して、女性の生き方や幸せの意味が描かれてゆくのだが、22歳となったジョーの葛藤を物語の起点としたことがポイント。
彼女は一応作家となったものの、売れるものを欲しがる編集者の言いなりで、クリエイターとして描きたいものを書けていない。
その背景となっているのが、19世紀の女性の置かれた社会環境だ。
映画の中でも繰り返し言われるのが、「女の幸せは結婚にしかない」と言う言葉。
女性は経済的に自立できない。
結婚して子供が生まれても、その子供は夫のもの。
まともに稼げる女性の職業は、女優か売春婦くらいしかない。
そんな風潮に反発するジョーは、ローリーの熱烈な求婚を断ってでも、作家として成功することで家族を含む世間に自分を認めさせようとしている。
そのためには売れるものを書かなければならないのだけど、虚無感は強まるばかり。
一方、幸せな結婚をしたはずの長女のメグは経済的に困窮し、画家を目指しているエイミーも才能に限界を感じ家族の安定のためにも金持ちとの結婚を考えている。
そして、自分よりも他人のことを思いやっていた優しいベスは、重い病で死の淵にある。
今よりもはるかに、女性が自由に生きることが難しかった時代。
四姉妹それぞれが、思い通りにならない人生の現実に翻弄される第二部を物語のベースとし、ジョーを語り部に記憶としての第一部を描く構造とすることで、オルコットが本当に描きたかった物語が見えてくると言うわけ。
本作では基本的に過去の描写は全てジョーの見た夢であり、物語の終盤で彼女が執筆する「若草物語」というフィクションに封じ込まれている。
面白いのは“現在=現実”は冬の季節で寒色基調、戦時下でも家族皆が幸せだった“少女時代=フィクション”は暖かみのある暖色基調で描かれていること。
原作小説がオルコットの自伝的な作品であることはよく知られているが、ガーウィクは物語上のジョーを原作者オルコットと同一視する工夫を取り入れている。
小説のジョーは自分の理解者となったフレデリックと結婚するのだが、本作ではここで物語が二つに分かれる。
一つは「若草物語」を脱稿し編集者と契約交渉をするジョー、もう一つは同じくジョーを主人公とした小説のエンディング。
もちろん前者は寒色で、後者は暖色で描かれている。
ジョーが最初の小説を売り込みに行った時、編集者に言われるのが「女性キャラを出すなら最後は結婚させること。さもなくば殺せ」という当時の娯楽小説のお約束。
オルコット自身は生涯独身を貫いた急進的なフェミニストであり、自由な生き方を模索するジョーが結婚して幸せになるというラストを本当は描きたくなかったはず。
そこで本作はジョーの人生を現実とフィクションに分け、メタ構造とすることで小説のラストはあくまでも出来過ぎたフィクションという扱いにしているのである。
同時に、大人になった四姉妹の迎える経済的な苦境や、著作権を安値で買い取ろうとする編集者とジョーのウィットに富んだ会話を通して、フェミニズムの目指す人生の選択の多様性は、結局女性が自立し経済力を持たねば得られないことを説く。
本作では3人の登場人物が“第四の壁”を越えてスクリーンのこちら側に語りかけてくる描写もあるが、物語を重層的なメタ構造にすることで、作者が本当に意図したであろう原作のその先を描き出したのは見事だ。
それにしてもマーチ家の女優陣凄過ぎ。
キャプテン・シアーシャに率いられるのは、メリル・ストリーブ、ローラ・ダーン、エマ・ワトソン、エリザ・スカンレン、フローレンス・ピューと、ベテランから若手までまさに演技派女優のアベンジャーズ状態。
ティモシー・シャラメをはじめ男性陣も頑張っているけど、この迫力にはタジタジだ。
彼女たちの中では一番知名度の低いベス役のエリザ・スカンレンが地味に素晴らしく、その薄幸の人生が本作の作り出す情感の多くを占めている。
ジョーが「若草物語」を生み出すきっかけとなるのも、彼女との死別なのである。
映画の最後で、ジョーの想いのこもった「若草物語」はとうとう本になるのだが、一冊の本が丁寧に仕上げられてゆく描写と、その作業を見守るジョーの優しい眼差しが、創作物へのリスペクトに満ちていてとても素敵だった。
ちなみに「若草物語」の初版には、映画に出てきた赤色装丁の他にも緑や茶など複数色があるらしいのだが、赤が選ばれているのは、本作の衣装デザインでジョーのキーカラーが赤に設定されているからだろう。
ところで、一大ムーブメントとなった「Black lives matter」の影響で本作と同じ時代を舞台とした「風と共に去りぬ」への風当たりが強くなっているという。
まあスパイク・リーの「ブラック・クランズマン」でも槍玉に上がっていたし、降って湧いた話ではないのだけど、南北戦争前の南部を美化して差別的だとして、配信サービスから消えつつあるとか。
同じ女性の自立を描いていても、今なお愛されリメイクされる「若草物語」とは対照的な扱いだが、これに限ったことではないけど、現在の基準に当てはめて単純に否定して蓋をするより、作品が作られた時代背景や問題点を知らせつつ、アクセシビリティは確保される方が文化として健全だと思うんだけどな。
めちゃめちゃ面白い映画であることは確かだし。
今回はジョーが夢を追うニューヨークの地ビール「ブルックリンラガー」をチョイス。
伝統のウィンナースタイルで作られるこのビールは、禁酒法以前のニューヨークに多く存在した、ドイツ系醸造所の味を復活させるため、1998年に創業した銘柄。
おそらくジョーの時代のニューヨークでも飲まれていたであろう、フルーティで適度な苦みと深いコク、ホップ感を持つ欧州風の一本だ。

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2020年06月09日 (火) | 編集 |
自由か、それとも死か。
新しい20ドル札の肖像になる予定の、19世紀の元逃亡奴隷で奴隷解放活動家のハリエット・タブマンの物語。
のちの南北戦争では北軍の諜報員として活躍し、米国史上初めて軍を指揮した女性となった彼女の激動の半生を描く。
発端は1849年のメリーランド州ドーチェスター。
奴隷の両親からアラミンタ・ロス、通称ミンティとして出生したハリエットは、ブローダス家の農園で働いている。
ところが、当主の突然の死によって一族が困窮し、自らが売りに出されることを知ってしまう。
ミンティの夫は自由黒人だが、白人社会での立場は当然弱く、もし遠くに売られてしまえば、おそらくはもう二度と会えない。
家族へ危険が及ぶことを考えて、ミンティは単身脱出を図るのだが、およそ200キロの道のりを逃げ切り、自由州のペンシルバニア州フィラデルフィアに到達する。
と、ここまでの展開もかなりスリリングだが、当時は沢山いたであろう、いち逃亡奴隷のエピソードに過ぎない。
ミンティが傑物として歴史に名を残すのはここからだ。
母と同じ“ハリエット”と改名した彼女は、奴隷解放組織の”地下鉄道”に参加すると、組織の”車掌”となって危険を顧みずに奴隷州に潜入し、自らの家族を含めた多くの奴隷たちの逃亡に手を貸すことになるのだ。
当然、奴隷のオーナーたちも警戒しているのだが、ハリエットは絶対不可能と思える逃亡をいくつも成功させ、いつしか奴隷たちを約束の地に導く“モーゼ”と呼ばれるようになる。
面白いのは、実際にハリエットはモーゼと同じく神の見えざる手に守られていたという逸話だ。
彼女は少女だった頃に、奴隷監督に金属の重りを投げられて頭蓋骨骨折の重傷を負い、生涯目眩や痛み、突発的な過眠症と言った後遺症に苦しめられていたのだが、時に神の啓示としか思えないビジョンを見ていたという。
本作では彼女が危機に陥りそうになると、直後の出来事が断片的に見える、予知夢として表現されている。
そんなハリエットに対して、「神に黒人の声は届かない」と言い放ち、愛憎入り混じった態度で執拗に粘着するのがブローダス家の息子ギデオン。
彼は黒人の奴隷ハンターを雇ってまで、“自分のもの”であるハリエットを取り戻そうとするのだ。
とことんゲスな白人農園主と黒人の裏切り者が出て来るのは、タランティーノの「ジャンゴ 繋がれざる者」風味。
物語の話型の外枠は西部劇なのだが、中身はモーゼとジャンヌ・ダルクを掛け合わせた様な宗教的世界観というミスマッチが、本作の味わいをユニークなものにしている。
とは言え、史実を描いた作品としては、神様頼りの部分が大きく描かれてるのは好みが分かれるところ。
ハリエットは奴隷解放に大きな役割を果たした不屈の人であり、危険な状況に陥っても生涯ただの一度も捕まってないのは間違いない。
頭の怪我の後遺症で不思議なビジョンを見ていたのも、それを本人が神の啓示と受け取っていたのも事実だろう。
しかし、これを全て文字通りの意味で描いてしまうと、宗教映画というジャンルにはめ込まれ、ハリエット自身の活動も含め、人間の自由への闘争が神様の手のひらの上で矮小化されてしまう印象は否めない。
もっとも、信心深い人にとっては、それこそが至福なのかもしれないけど。
今回は、バーボンリキュールの「ジム・ビーム レッドスタッグ」をチョイス。
ケンタッキーバーボンの代表的な銘柄、ジム・ビームの4年以上熟成させた原酒ににペンシルバニア名物のブラックチェリーを漬け込んだ酒。
ちなみにケンタッキーは奴隷州だったが、南北戦争では北部の合衆国に留まった。
ブラックチェリーのナチュラルな甘みとバーボン本来のコクのある味わいが融合し、とても美味しい。
カクテルベースにしても面白い酒だが、ロックがオススメだ。
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新しい20ドル札の肖像になる予定の、19世紀の元逃亡奴隷で奴隷解放活動家のハリエット・タブマンの物語。
のちの南北戦争では北軍の諜報員として活躍し、米国史上初めて軍を指揮した女性となった彼女の激動の半生を描く。
発端は1849年のメリーランド州ドーチェスター。
奴隷の両親からアラミンタ・ロス、通称ミンティとして出生したハリエットは、ブローダス家の農園で働いている。
ところが、当主の突然の死によって一族が困窮し、自らが売りに出されることを知ってしまう。
ミンティの夫は自由黒人だが、白人社会での立場は当然弱く、もし遠くに売られてしまえば、おそらくはもう二度と会えない。
家族へ危険が及ぶことを考えて、ミンティは単身脱出を図るのだが、およそ200キロの道のりを逃げ切り、自由州のペンシルバニア州フィラデルフィアに到達する。
と、ここまでの展開もかなりスリリングだが、当時は沢山いたであろう、いち逃亡奴隷のエピソードに過ぎない。
ミンティが傑物として歴史に名を残すのはここからだ。
母と同じ“ハリエット”と改名した彼女は、奴隷解放組織の”地下鉄道”に参加すると、組織の”車掌”となって危険を顧みずに奴隷州に潜入し、自らの家族を含めた多くの奴隷たちの逃亡に手を貸すことになるのだ。
当然、奴隷のオーナーたちも警戒しているのだが、ハリエットは絶対不可能と思える逃亡をいくつも成功させ、いつしか奴隷たちを約束の地に導く“モーゼ”と呼ばれるようになる。
面白いのは、実際にハリエットはモーゼと同じく神の見えざる手に守られていたという逸話だ。
彼女は少女だった頃に、奴隷監督に金属の重りを投げられて頭蓋骨骨折の重傷を負い、生涯目眩や痛み、突発的な過眠症と言った後遺症に苦しめられていたのだが、時に神の啓示としか思えないビジョンを見ていたという。
本作では彼女が危機に陥りそうになると、直後の出来事が断片的に見える、予知夢として表現されている。
そんなハリエットに対して、「神に黒人の声は届かない」と言い放ち、愛憎入り混じった態度で執拗に粘着するのがブローダス家の息子ギデオン。
彼は黒人の奴隷ハンターを雇ってまで、“自分のもの”であるハリエットを取り戻そうとするのだ。
とことんゲスな白人農園主と黒人の裏切り者が出て来るのは、タランティーノの「ジャンゴ 繋がれざる者」風味。
物語の話型の外枠は西部劇なのだが、中身はモーゼとジャンヌ・ダルクを掛け合わせた様な宗教的世界観というミスマッチが、本作の味わいをユニークなものにしている。
とは言え、史実を描いた作品としては、神様頼りの部分が大きく描かれてるのは好みが分かれるところ。
ハリエットは奴隷解放に大きな役割を果たした不屈の人であり、危険な状況に陥っても生涯ただの一度も捕まってないのは間違いない。
頭の怪我の後遺症で不思議なビジョンを見ていたのも、それを本人が神の啓示と受け取っていたのも事実だろう。
しかし、これを全て文字通りの意味で描いてしまうと、宗教映画というジャンルにはめ込まれ、ハリエット自身の活動も含め、人間の自由への闘争が神様の手のひらの上で矮小化されてしまう印象は否めない。
もっとも、信心深い人にとっては、それこそが至福なのかもしれないけど。
今回は、バーボンリキュールの「ジム・ビーム レッドスタッグ」をチョイス。
ケンタッキーバーボンの代表的な銘柄、ジム・ビームの4年以上熟成させた原酒ににペンシルバニア名物のブラックチェリーを漬け込んだ酒。
ちなみにケンタッキーは奴隷州だったが、南北戦争では北部の合衆国に留まった。
ブラックチェリーのナチュラルな甘みとバーボン本来のコクのある味わいが融合し、とても美味しい。
カクテルベースにしても面白い酒だが、ロックがオススメだ。

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2020年06月04日 (木) | 編集 |
煉獄を彷徨う。
コロナ自粛明けに凄い映画と出会った。
1993年に山形県の中学校でじめの果てに起こった、いわゆる「山形マット死事件」と、2015年に川崎の河川敷で13歳の少年が殺害された「川崎市中1殺害事件」にインスパイされた作品。
「先生を流産させる会」「ミスミソウ」など、主に少年少女のダークサイドを描いてきた内藤瑛亮のキャリアベストだ。
同級生をいじめ殺してしまった加害者の少年を軸に、事件によって人生を狂わされてしまった、狂わせてしまった人々のドラマを描く。
本作のために集まった小学生から高校生までの16人の子どもたちとは、専門家のサポートを受けながら、撮影前にワークショップを実施することで問題意識を高めていったという。
自主制作体制で一年をかけてじっくりと撮影された作品は、一つの事件をきっかけにベクトルの異なる幾つもの視点が交錯するダイナミックな作劇が特徴。
果たして、法律で「無罪」とされることは、加害者にとって幸せに繋がるのだろうか?
観る者の倫理観が試される、緊迫の131分だ。
とある地方都市。
不良グループのリーダーで13歳の市川絆星(きら)(上村侑)は、同級生の倉持樹(阿部匠晟)をグループのパシリとしていじめていた。
いじめはエスカレートし、樹の行動に激昂した絆星は、彼を手製のボウガンで射殺してしまう。
すぐに事件は明らかになり、警察に犯行を自供する絆星だったが、息子の無実を信じる母親の真理(黒岩よし)と弁護士の説得によって否認に転じる。
ボウガンは処分され、物的証拠がない中、少年審判は無罪に相当する「不処分」を決定する。
自由になったと思ったのもつかの間、決定に対し世間から激しいバッシングが巻き起こり、瞬く間に絆星の実名がネットに晒され、「不処分」に納得出来ない樹の両親は、改めて絆星たちの罪を問うために民事訴訟を起こす。
絆星を待っていたのは、訴状から逃れるため名前を替え両親と共に引越しを繰り返す日々。
偽名で通っていた中学校では、女子グループからいじめられていた櫻井桃子(名倉雪乃)と仲良くなるも、あることで本名が明るみ出て、絆星は追い詰められてゆくのだが・・・
「許された子どもたち」というタイトルが秀逸。
事件を起こした後、警察の取り調べを受けた絆星は、グループの他のメンバーが完落ちしていることを知らされると、あっさり自供する。
ところが、母の真理と弁護士の女性の説得によって供述を覆す。
この時、真理は息子の無実を信じ続けることが愛だと考え、弁護士もまた少年たちの口裏合わせを手引きしてでも不処分を勝ち取ることが自分の責務であり、正義だと思っている。
結果的に二人の思惑は現実となり、絆星は自由の身となるのだが、許される日など永遠に来ないことを彼はまだ知らないのだ。
少年審判の甘い結論は、世間の怒りにガソリンを投下。
マスコミは押しかけ、ネット上の“正義の味方”たちによる私刑が始まる。
ここで重要なのは、真理も弁護士も本心では絆星の無実を信じていないということだ。
真理は絆星から嫌疑をそらせるために、帰宅時間を欺く。
弁護士も子どもたちを言葉巧みに誘導し、偽証を指示するのである。
二人は、絆星を守っているつもりで、罪を認め償うことで許される機会があったのを、奪ってしまったことに気づかない。
法的には彼らは「許された子どもたち」だが、真実に免罪符は無く、加害者も被害者も日常を失い、煉獄を彷徨い続けるしかないのだ。
内藤監督は元教員だったそうだが、純粋さも邪悪さも含めて子どもたちをよく知っている。
学校のクラスで虐めについてディスカッションするシーンは、おそらくワークショップの延長線上で、本音のフリートークに近いのではないか。
子どもたちの秘めたる内面と葛藤を、リアリティたっぷりに描いているのは過去の作品と共通。
しかし本作では、相対的にドラマの中で大人たちが占める比重が大きい。
例えば「ミスミソウ」などは、とんでもない事件が起こっているのに、大人たちの存在感がとことん希薄だったのに対して、本作は正反対なのである。
当事者である加害者の子どもたちはもとより、その家族、被害者遺族、学校関係者や隣近所のコミュニティ、裁判所にマスコミ、果てはネット社会まで、事件に関わる全てを描くことで、本質を浮かび上がらせる。
きっかけは同じでも、それぞれの思考と行動のベクトルは違う。
加害者は罪と責任から逃れようとし、被害者遺族は真実を求め、学校や近隣コミュニティは面倒を嫌い、裁判所はあくまでも原則論を貫き、マスコミやネット社会は己が正義を振りかざす。
さらに加害者の間でも事件へのスタンスは異なるし、自分勝手なネット社会の正義は被害者遺族にとって何のより所にももならない。
制御不能の正義の矛先は、時として被害者遺族に向かうことすらあるのだ。
逃げ続け、逃げた先でも追い詰められた絆星は、一度は樹の両親に謝りに行こうとするのだが、いざ対面するとどう謝って良いのかわからず、樹の母親に「あなたは何を謝りたいの?」と言われてしまう。
そもそも、彼はなぜ樹を殺してしまったのか?なぜこんな目に合わなければならないのか?
根本の部分を自分でも分かってないのだから、心から謝れるわけがない。
謝ろうと思ったのも、現状を打破したかっただけで、彼は本当の意味で自分の罪と向き合ってはいないのである。
事件の関係者の小さな世界から始まって、現実社会のリフレクションとして、外連味たっぷりのテリングのスタイルも効いている。
終盤、絆星が出口の無い迷宮に迷い込んでしまったことに気づいた瞬間から、演出にドライブがかかって絆星と真理がシンクロし一体化するシークエンスが凄い。
夕暮れの河川敷で、ボウガンを振り回しながら暴れ回る絆星の姿は、まるで「悪魔のいけにえ」のラストでチェンソーを手に雄叫びを上げるレザーフェイスだ。
ただし、絆星はレザーフェイスのような怪物ではなく、幼くて弱い人間ゆえにどこにもぶつけられない感情を爆発させる。
かつての柳楽優弥を思わせる、強い目力を持つ絆星役の上村侑、頑なに息子を信じる母を演じる黒岩よしの親子が鮮烈。
天国に上ることも地獄に落ちることも許されず、延々と煉獄を巡る旅の中で、もはや歪な一心同体となった彼らのドラマに全く目が離せない。
もし本作がメジャーで作られたなら、物語にもう少し救いを持たせるか、倫理的に分かりやすい落とし所を探っただろう。
しかしこの映画は全ての予定調和を拒否して、想像力のその先まで突っ走る。
驚くべき思い切りの良さは、やっぱり自主制作体制ゆえか。
極めてパワフルな、“小さな大作”である。
今回は「有罪確定」を意味する「ギルティ・ヴァーディクト」をチョイス。
半分まで氷を入れたハイボールグラスに、バカルディ151ラムを30ml、オレンジジュースを210ml注ぎ、ステアする。
手指消毒にも使えちゃうアルコール度数75.5°のためか、今は全世界的に品薄になってしまっているが、悪魔的な味わいをたっぷりのオレンジジュースがさっぱりした柑橘香と共にいい感じに中和。
ちょうどストロング系と同じ9°くらいなので、かなり飲みやすい。
これなら「推定無罪」?
残念ながら今は市場で手に入らないが、ストック持ってる人は是非お試しを。
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コロナ自粛明けに凄い映画と出会った。
1993年に山形県の中学校でじめの果てに起こった、いわゆる「山形マット死事件」と、2015年に川崎の河川敷で13歳の少年が殺害された「川崎市中1殺害事件」にインスパイされた作品。
「先生を流産させる会」「ミスミソウ」など、主に少年少女のダークサイドを描いてきた内藤瑛亮のキャリアベストだ。
同級生をいじめ殺してしまった加害者の少年を軸に、事件によって人生を狂わされてしまった、狂わせてしまった人々のドラマを描く。
本作のために集まった小学生から高校生までの16人の子どもたちとは、専門家のサポートを受けながら、撮影前にワークショップを実施することで問題意識を高めていったという。
自主制作体制で一年をかけてじっくりと撮影された作品は、一つの事件をきっかけにベクトルの異なる幾つもの視点が交錯するダイナミックな作劇が特徴。
果たして、法律で「無罪」とされることは、加害者にとって幸せに繋がるのだろうか?
観る者の倫理観が試される、緊迫の131分だ。
とある地方都市。
不良グループのリーダーで13歳の市川絆星(きら)(上村侑)は、同級生の倉持樹(阿部匠晟)をグループのパシリとしていじめていた。
いじめはエスカレートし、樹の行動に激昂した絆星は、彼を手製のボウガンで射殺してしまう。
すぐに事件は明らかになり、警察に犯行を自供する絆星だったが、息子の無実を信じる母親の真理(黒岩よし)と弁護士の説得によって否認に転じる。
ボウガンは処分され、物的証拠がない中、少年審判は無罪に相当する「不処分」を決定する。
自由になったと思ったのもつかの間、決定に対し世間から激しいバッシングが巻き起こり、瞬く間に絆星の実名がネットに晒され、「不処分」に納得出来ない樹の両親は、改めて絆星たちの罪を問うために民事訴訟を起こす。
絆星を待っていたのは、訴状から逃れるため名前を替え両親と共に引越しを繰り返す日々。
偽名で通っていた中学校では、女子グループからいじめられていた櫻井桃子(名倉雪乃)と仲良くなるも、あることで本名が明るみ出て、絆星は追い詰められてゆくのだが・・・
「許された子どもたち」というタイトルが秀逸。
事件を起こした後、警察の取り調べを受けた絆星は、グループの他のメンバーが完落ちしていることを知らされると、あっさり自供する。
ところが、母の真理と弁護士の女性の説得によって供述を覆す。
この時、真理は息子の無実を信じ続けることが愛だと考え、弁護士もまた少年たちの口裏合わせを手引きしてでも不処分を勝ち取ることが自分の責務であり、正義だと思っている。
結果的に二人の思惑は現実となり、絆星は自由の身となるのだが、許される日など永遠に来ないことを彼はまだ知らないのだ。
少年審判の甘い結論は、世間の怒りにガソリンを投下。
マスコミは押しかけ、ネット上の“正義の味方”たちによる私刑が始まる。
ここで重要なのは、真理も弁護士も本心では絆星の無実を信じていないということだ。
真理は絆星から嫌疑をそらせるために、帰宅時間を欺く。
弁護士も子どもたちを言葉巧みに誘導し、偽証を指示するのである。
二人は、絆星を守っているつもりで、罪を認め償うことで許される機会があったのを、奪ってしまったことに気づかない。
法的には彼らは「許された子どもたち」だが、真実に免罪符は無く、加害者も被害者も日常を失い、煉獄を彷徨い続けるしかないのだ。
内藤監督は元教員だったそうだが、純粋さも邪悪さも含めて子どもたちをよく知っている。
学校のクラスで虐めについてディスカッションするシーンは、おそらくワークショップの延長線上で、本音のフリートークに近いのではないか。
子どもたちの秘めたる内面と葛藤を、リアリティたっぷりに描いているのは過去の作品と共通。
しかし本作では、相対的にドラマの中で大人たちが占める比重が大きい。
例えば「ミスミソウ」などは、とんでもない事件が起こっているのに、大人たちの存在感がとことん希薄だったのに対して、本作は正反対なのである。
当事者である加害者の子どもたちはもとより、その家族、被害者遺族、学校関係者や隣近所のコミュニティ、裁判所にマスコミ、果てはネット社会まで、事件に関わる全てを描くことで、本質を浮かび上がらせる。
きっかけは同じでも、それぞれの思考と行動のベクトルは違う。
加害者は罪と責任から逃れようとし、被害者遺族は真実を求め、学校や近隣コミュニティは面倒を嫌い、裁判所はあくまでも原則論を貫き、マスコミやネット社会は己が正義を振りかざす。
さらに加害者の間でも事件へのスタンスは異なるし、自分勝手なネット社会の正義は被害者遺族にとって何のより所にももならない。
制御不能の正義の矛先は、時として被害者遺族に向かうことすらあるのだ。
逃げ続け、逃げた先でも追い詰められた絆星は、一度は樹の両親に謝りに行こうとするのだが、いざ対面するとどう謝って良いのかわからず、樹の母親に「あなたは何を謝りたいの?」と言われてしまう。
そもそも、彼はなぜ樹を殺してしまったのか?なぜこんな目に合わなければならないのか?
根本の部分を自分でも分かってないのだから、心から謝れるわけがない。
謝ろうと思ったのも、現状を打破したかっただけで、彼は本当の意味で自分の罪と向き合ってはいないのである。
事件の関係者の小さな世界から始まって、現実社会のリフレクションとして、外連味たっぷりのテリングのスタイルも効いている。
終盤、絆星が出口の無い迷宮に迷い込んでしまったことに気づいた瞬間から、演出にドライブがかかって絆星と真理がシンクロし一体化するシークエンスが凄い。
夕暮れの河川敷で、ボウガンを振り回しながら暴れ回る絆星の姿は、まるで「悪魔のいけにえ」のラストでチェンソーを手に雄叫びを上げるレザーフェイスだ。
ただし、絆星はレザーフェイスのような怪物ではなく、幼くて弱い人間ゆえにどこにもぶつけられない感情を爆発させる。
かつての柳楽優弥を思わせる、強い目力を持つ絆星役の上村侑、頑なに息子を信じる母を演じる黒岩よしの親子が鮮烈。
天国に上ることも地獄に落ちることも許されず、延々と煉獄を巡る旅の中で、もはや歪な一心同体となった彼らのドラマに全く目が離せない。
もし本作がメジャーで作られたなら、物語にもう少し救いを持たせるか、倫理的に分かりやすい落とし所を探っただろう。
しかしこの映画は全ての予定調和を拒否して、想像力のその先まで突っ走る。
驚くべき思い切りの良さは、やっぱり自主制作体制ゆえか。
極めてパワフルな、“小さな大作”である。
今回は「有罪確定」を意味する「ギルティ・ヴァーディクト」をチョイス。
半分まで氷を入れたハイボールグラスに、バカルディ151ラムを30ml、オレンジジュースを210ml注ぎ、ステアする。
手指消毒にも使えちゃうアルコール度数75.5°のためか、今は全世界的に品薄になってしまっているが、悪魔的な味わいをたっぷりのオレンジジュースがさっぱりした柑橘香と共にいい感じに中和。
ちょうどストロング系と同じ9°くらいなので、かなり飲みやすい。
これなら「推定無罪」?
残念ながら今は市場で手に入らないが、ストック持ってる人は是非お試しを。

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