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2020年07月28日 (火) | 編集 |
端の方にも、ドラマはある。
真夏の清涼剤のような、とても気持ちのいい作品だ。
舞台は高校野球の甲子園大会。
灼熱の太陽の下、グランドでは埼玉代表の東入間高校が格上の強豪校に挑んでいる。
だが、本作で描かれるのは高校野球の熱戦ではない。
これはグランドでプレーする球児たちとは対照的に、挫折を抱え「しょうがない」と勝負を諦めてしまった四人の高校生たちを描く作品だ。
彼らがいる所こそ、「アルプススタンドのはしの方」なのである。
兵庫県立東播磨高校演劇部の顧問・藪博晶が執筆し、2017年の全国高等学校演劇大会のグランプリに輝いた同名戯曲の映画化。
演劇畑の奥村哲也が映画用に脚色し、城定秀夫監督が鮮やかな青春映画の快作に仕上げた。
夏の甲子園大会の一回戦。
東入間高校野球部の応援をする安田さん(小野莉奈)と田宮さん(西本まりん)は演劇部。
ルールもよく知らない野球の試合にはあまり興味が持てず、アルプススタンドの隅っこで時間を潰している。
近くには元野球部の藤野くん(平井亜門)と、帰宅部で優等生の宮下さん(中村朱里)がいる。
相手チームは格上の強豪校。
熱烈に野球を愛する英語教師の厚木(目次立樹)や、ブラスバンド部の久住さん(黒木ひかり)は懸命に応援するが、東入間高校は打ち込まれ、敗戦ムードが漂い始める。
そんな時、ベンチウォーマーの矢野が代打で起用され、起死回生のヒットを放つ。
チームの勢いが復活し、「もしかしたら勝てるかも」とアルプススタンドは騒めきはじめる。
しかし、先の読めない試合の展開と共に、見守る安田さんたちの心も揺れていた・・・
アルプススタンドの端の方に陣取る、応援に駆り出された生徒たちを描く青春群像劇。
演劇部員で、高校演劇関東大会で不戦敗となってしまった、安田さんと田宮さん。
大会に出る前に野球部を辞めた、元ピッチャーの藤野くん。
模試で初めてトップから滑り落ちた、帰宅部の優等生で眼鏡っ娘の宮下さん。
アンサンブルの軸となるのはこの四人。
演劇大会のルールで上演時間60分の制約がある元の戯曲では、登場人物は彼らだけだったと言う。
映画版ではこの四人に絡む形で、野球が大好きなのに、なぜか茶道部の顧問になってしまった熱血教師の厚木と、マウンドで頑張る野球部のエース園田の彼女で、ブラスバンド部を率いる久住さんたちが加わる。
ちなみに舞台となるアルプススタンドとは、甲子園の内野席と外野席の間にある観覧席。
1929年に高校野球(当時は中等学校野球)の人気の高まりと共に増設され、当時の人気漫画家の岡本一平が空に向かってそびえ立つスタンドを見て「アルプス」に擬えたことから、そう呼ばれるようになったという。
映画になっても、構造は非常に演劇的だ。
物語の大半はアルプススタンドの一角で展開し、あとは僅かなシーンがスタンド裏の屋内で描かれるのみ。
グランドで繰り広げられている熱戦は、音は聞こえてくるものの一度たりとも映像としてはスクリーンで描写されない。
この見えない試合の展開が、登場人物の心を変化させる触媒として機能する仕組みだ。
当初、東入間高校はずっと格上の相手に苦戦を強いられている。
厚木や久住さんたちが、勝利を信じて懸命に応援を繰り広げる中、端の方の生徒たちは応援にも全く熱が入らない。
この四人、それぞれに挫折を経験したばかり。
演劇部の安田さんは、自ら執筆した脚本で地区大会、県大会を突破し、関東大会まで駒を進めたものの、田宮さんがインフルエンザにかかったことで、出場が叶わなくなってしまう。
そのために、この二人の間には微妙なわだかまりが残っているのだ。
高校演劇を描いた「幕が上がる」の記事でも紹介したが、高校の演劇大会はスケジュールが独特で、秋の地区大会から始まって、年度内に終わるのは関東大会などのブロック大会まで。
決勝の全国大会は、次年度に行われるので、三年生はたとえ関東大会を突破したとしても全国大会には出られない。
三年生の安田さんにとっては、秋の地区大会に再挑戦したとしても、決勝にいけるのは後輩たちなのである。
だから彼女はすっかり諦めてしまっていて、自分を慰めるように「しょうがない」が口癖となり、原因を作った田宮さんも彼女に気兼ねして言いたいことを言えない。
元野球部の藤野くんは、今まさにグランドでプレーしているエースの園田と自分を比較して、才能のなさを実感。
試合する前に野球部を辞めて、マウンドから降りてしまった。
一方、勉強しか取り柄がない優等生の宮下さんは、園田にほのかな恋心を抱いているが、その園田と実際に付き合っているのは、自分を模試で負かしたブラスバンド部長の久住さんだという、無情な現実に打ちひしがれている。
それぞれに、挫折を経験し「しょうがないよね(自分はこの程度の人間だよ)」と諦めてしまっている四人の心を、目の前で展開している野球部の試合が動かしてゆく。
これは問題を抱えた高校生たちが、それぞれの挫折とどう向き合うのかの物語。
グランドでは東入間高校のナインたちが、格上相手に一歩も怯まず、ジリジリと点差をつめて、遂に9回裏に一点差に追いつく。
一発逆転のかかったチャンスを作るのが、藤野くんが「ヘタクソ」と馬鹿にしていたベンチウォーマーの矢野というのがポイントだ。
藤野くんは自分に才能がないから諦めた。
しかしもっと才能のないはずの矢野は、懸命な努力の結果三年間のクライマックスに起用され、結果を出したのである。
試合の劇的な展開が触媒となり、安田さんの中の「しょうがない」という諦めも、だんだんと「悔しい。もう一度チャレンジしたい」という気持ちに変わってくる。
罪悪感を抱えていた田宮さんもとうとう彼女に心の内を語り、「諦めた理由」が目の前で砕け散った藤野くんも、誰にも気兼ねせずに園田を精一杯応援できた宮下さんも、試合の勝敗に関係なくいつの間にか前を向いている。
人は頑張ってる人の姿を見ていると、自分も背中を押されて頑張りたくなる。
この辺りは先日公開された「のぼる小寺さん」にも通じる。
頑張っている人を見つめる、目線の移動が需要な演出となるのも同様。
本作の場合は、勾配のあるアルプススタンドの構造が効いている。
そびえ立つスタンドの端、つまりスタジアムの熱狂とは一番離れたところから始まった物語は、やがてスタンドの中央で応援する厚木や久住さんを経由して、グランドでプレーするチームと一体になってゆく。
そして登場人物の変化の触媒が、スクリーンに一度も姿を見せないのは、10年代を代表する邦画青春映画となった「桐島、部活やめるってよ」的でもある。
特に姿なきキーパーソンである矢野が、物語のエピローグであることを成し遂げているのは、「桐島」の作中で、ドラフトを待ち続けている三年生のキャプテンのエピソードを思い出した。
最後まで諦めない、というのはやっぱり大切なのである。
本作は、物語の大半がアルプススタンドの一角で展開するごく小さな映画だが、その感動は大作級だ。
安田さんたちと一緒に、見えない試合に一喜一憂しているうちに、特に問題を抱えていなくても何だか感動して、チャレンジしよう、頑張ろうと思えてくる。
今青春真っ只中にいて、何かに挫折してしまった人たちはもちろん、青春の輝きが遠い昔になってしまった人たちも、きっとこの映画から元気をもらえるだろう。
今回は思いっきり夏っぽいカクテル「ブルー・ハワイ」をチョイス。
ブルー・キュラソー20ml、ドライ・ラム30ml、パイナップル・ジュース30ml、レモン・ジュース15mlをシェイクして、クラッシュド・アイスを入れたグラスに注ぐ。
最後にカットしたパイナップルを飾って、ストローを2本さして完成。
ブルー・キュラソーの鮮やかな青に、ラムの優しく甘い香り。
2種類のジュースが作り出す、フルーティーな酸味が青春の味。
ストローを2本さすのは、一応氷詰まりに対応するためと言われているが、ホントは恋人と甘い思い出を作りたいだけ?
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真夏の清涼剤のような、とても気持ちのいい作品だ。
舞台は高校野球の甲子園大会。
灼熱の太陽の下、グランドでは埼玉代表の東入間高校が格上の強豪校に挑んでいる。
だが、本作で描かれるのは高校野球の熱戦ではない。
これはグランドでプレーする球児たちとは対照的に、挫折を抱え「しょうがない」と勝負を諦めてしまった四人の高校生たちを描く作品だ。
彼らがいる所こそ、「アルプススタンドのはしの方」なのである。
兵庫県立東播磨高校演劇部の顧問・藪博晶が執筆し、2017年の全国高等学校演劇大会のグランプリに輝いた同名戯曲の映画化。
演劇畑の奥村哲也が映画用に脚色し、城定秀夫監督が鮮やかな青春映画の快作に仕上げた。
夏の甲子園大会の一回戦。
東入間高校野球部の応援をする安田さん(小野莉奈)と田宮さん(西本まりん)は演劇部。
ルールもよく知らない野球の試合にはあまり興味が持てず、アルプススタンドの隅っこで時間を潰している。
近くには元野球部の藤野くん(平井亜門)と、帰宅部で優等生の宮下さん(中村朱里)がいる。
相手チームは格上の強豪校。
熱烈に野球を愛する英語教師の厚木(目次立樹)や、ブラスバンド部の久住さん(黒木ひかり)は懸命に応援するが、東入間高校は打ち込まれ、敗戦ムードが漂い始める。
そんな時、ベンチウォーマーの矢野が代打で起用され、起死回生のヒットを放つ。
チームの勢いが復活し、「もしかしたら勝てるかも」とアルプススタンドは騒めきはじめる。
しかし、先の読めない試合の展開と共に、見守る安田さんたちの心も揺れていた・・・
アルプススタンドの端の方に陣取る、応援に駆り出された生徒たちを描く青春群像劇。
演劇部員で、高校演劇関東大会で不戦敗となってしまった、安田さんと田宮さん。
大会に出る前に野球部を辞めた、元ピッチャーの藤野くん。
模試で初めてトップから滑り落ちた、帰宅部の優等生で眼鏡っ娘の宮下さん。
アンサンブルの軸となるのはこの四人。
演劇大会のルールで上演時間60分の制約がある元の戯曲では、登場人物は彼らだけだったと言う。
映画版ではこの四人に絡む形で、野球が大好きなのに、なぜか茶道部の顧問になってしまった熱血教師の厚木と、マウンドで頑張る野球部のエース園田の彼女で、ブラスバンド部を率いる久住さんたちが加わる。
ちなみに舞台となるアルプススタンドとは、甲子園の内野席と外野席の間にある観覧席。
1929年に高校野球(当時は中等学校野球)の人気の高まりと共に増設され、当時の人気漫画家の岡本一平が空に向かってそびえ立つスタンドを見て「アルプス」に擬えたことから、そう呼ばれるようになったという。
映画になっても、構造は非常に演劇的だ。
物語の大半はアルプススタンドの一角で展開し、あとは僅かなシーンがスタンド裏の屋内で描かれるのみ。
グランドで繰り広げられている熱戦は、音は聞こえてくるものの一度たりとも映像としてはスクリーンで描写されない。
この見えない試合の展開が、登場人物の心を変化させる触媒として機能する仕組みだ。
当初、東入間高校はずっと格上の相手に苦戦を強いられている。
厚木や久住さんたちが、勝利を信じて懸命に応援を繰り広げる中、端の方の生徒たちは応援にも全く熱が入らない。
この四人、それぞれに挫折を経験したばかり。
演劇部の安田さんは、自ら執筆した脚本で地区大会、県大会を突破し、関東大会まで駒を進めたものの、田宮さんがインフルエンザにかかったことで、出場が叶わなくなってしまう。
そのために、この二人の間には微妙なわだかまりが残っているのだ。
高校演劇を描いた「幕が上がる」の記事でも紹介したが、高校の演劇大会はスケジュールが独特で、秋の地区大会から始まって、年度内に終わるのは関東大会などのブロック大会まで。
決勝の全国大会は、次年度に行われるので、三年生はたとえ関東大会を突破したとしても全国大会には出られない。
三年生の安田さんにとっては、秋の地区大会に再挑戦したとしても、決勝にいけるのは後輩たちなのである。
だから彼女はすっかり諦めてしまっていて、自分を慰めるように「しょうがない」が口癖となり、原因を作った田宮さんも彼女に気兼ねして言いたいことを言えない。
元野球部の藤野くんは、今まさにグランドでプレーしているエースの園田と自分を比較して、才能のなさを実感。
試合する前に野球部を辞めて、マウンドから降りてしまった。
一方、勉強しか取り柄がない優等生の宮下さんは、園田にほのかな恋心を抱いているが、その園田と実際に付き合っているのは、自分を模試で負かしたブラスバンド部長の久住さんだという、無情な現実に打ちひしがれている。
それぞれに、挫折を経験し「しょうがないよね(自分はこの程度の人間だよ)」と諦めてしまっている四人の心を、目の前で展開している野球部の試合が動かしてゆく。
これは問題を抱えた高校生たちが、それぞれの挫折とどう向き合うのかの物語。
グランドでは東入間高校のナインたちが、格上相手に一歩も怯まず、ジリジリと点差をつめて、遂に9回裏に一点差に追いつく。
一発逆転のかかったチャンスを作るのが、藤野くんが「ヘタクソ」と馬鹿にしていたベンチウォーマーの矢野というのがポイントだ。
藤野くんは自分に才能がないから諦めた。
しかしもっと才能のないはずの矢野は、懸命な努力の結果三年間のクライマックスに起用され、結果を出したのである。
試合の劇的な展開が触媒となり、安田さんの中の「しょうがない」という諦めも、だんだんと「悔しい。もう一度チャレンジしたい」という気持ちに変わってくる。
罪悪感を抱えていた田宮さんもとうとう彼女に心の内を語り、「諦めた理由」が目の前で砕け散った藤野くんも、誰にも気兼ねせずに園田を精一杯応援できた宮下さんも、試合の勝敗に関係なくいつの間にか前を向いている。
人は頑張ってる人の姿を見ていると、自分も背中を押されて頑張りたくなる。
この辺りは先日公開された「のぼる小寺さん」にも通じる。
頑張っている人を見つめる、目線の移動が需要な演出となるのも同様。
本作の場合は、勾配のあるアルプススタンドの構造が効いている。
そびえ立つスタンドの端、つまりスタジアムの熱狂とは一番離れたところから始まった物語は、やがてスタンドの中央で応援する厚木や久住さんを経由して、グランドでプレーするチームと一体になってゆく。
そして登場人物の変化の触媒が、スクリーンに一度も姿を見せないのは、10年代を代表する邦画青春映画となった「桐島、部活やめるってよ」的でもある。
特に姿なきキーパーソンである矢野が、物語のエピローグであることを成し遂げているのは、「桐島」の作中で、ドラフトを待ち続けている三年生のキャプテンのエピソードを思い出した。
最後まで諦めない、というのはやっぱり大切なのである。
本作は、物語の大半がアルプススタンドの一角で展開するごく小さな映画だが、その感動は大作級だ。
安田さんたちと一緒に、見えない試合に一喜一憂しているうちに、特に問題を抱えていなくても何だか感動して、チャレンジしよう、頑張ろうと思えてくる。
今青春真っ只中にいて、何かに挫折してしまった人たちはもちろん、青春の輝きが遠い昔になってしまった人たちも、きっとこの映画から元気をもらえるだろう。
今回は思いっきり夏っぽいカクテル「ブルー・ハワイ」をチョイス。
ブルー・キュラソー20ml、ドライ・ラム30ml、パイナップル・ジュース30ml、レモン・ジュース15mlをシェイクして、クラッシュド・アイスを入れたグラスに注ぐ。
最後にカットしたパイナップルを飾って、ストローを2本さして完成。
ブルー・キュラソーの鮮やかな青に、ラムの優しく甘い香り。
2種類のジュースが作り出す、フルーティーな酸味が青春の味。
ストローを2本さすのは、一応氷詰まりに対応するためと言われているが、ホントは恋人と甘い思い出を作りたいだけ?

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2020年07月23日 (木) | 編集 |
なぜ彼は、「一番安全な場所」から逃げたのか。
終盤、涙が止まらなくなった。
又吉直樹の同名原作は未読だが、これはまさしく「劇場」の映画だ。
小劇団を主宰する、売れない劇作家兼演出家の永田が、役者志望の学生・沙希と恋に落ちてから、およそ10年間の物語。
無情に過ぎてゆく時間に、懸命に抗う永田を演じる山崎賢人と、彼を支える沙希役の松岡茉優が素晴らしい。
行定勲監督は「リバーズ・エッジ」、オムニバス映画の「その瞬間、僕は泣きたくなった CINEMA FIGHTERS project」の一編「海風」に続いて、心揺さぶる鮮烈な傑作を放った。
本作は今年の4月に松竹配給で公開される予定だったが、コロナの影響で延期となり、結果的にユーロスペースをはじめとしたミニシアターでの劇場公開と、Amazonプライムによる配信開始が同時という異例のケースとなった。
ポストコロナの映画の新しいカタチとしても、一つの試金石となるだろう。
友人の野原(寛一郎)と共に、小劇団「おろか」を主宰する永田(山崎賢人)。
しかし永田のラジカルな作風は酷評されていて、客足も伸びない。
ついには団員たちにも見放され、劇団は半ば解散状態に。
そんなある日、永田は街で偶然自分と同じ靴を履いていた沙希(松岡茉優)を見かけ、声を掛ける。
服飾系の学校に通う彼女は、中学高校と演劇部に所属し、女優になる夢を抱いて上京していた。
やがて下北沢の沙希のアパートへ転がり込んだ永田は、新作のヒロインに彼女を起用し、舞台は初めて成功を収める。
しかしそれ以降、永田は彼女を役者として起用することはなく、ますます演劇に没頭してゆく。
沙希はそんな永田に自分の夢を重ね、懸命に支え続けるのだが、二人の間にある理想と現実の乖離は少しずつ溝を生んでいた。
二人が出会ってから10年近い歳月が過ぎた頃、沙希はある決意を口にする・・・・
この映画は、山崎賢人のダメ人間っぷりを愛でる作品だ。
まず最初の二人の出会いからして、ほとんど変質者。
イケメンであることは隠しようがないが、ボサボサ頭に無精髭で挙動不審。
振り返ったら奴がいた段階で、私だったら悲鳴あげて逃げるわ(笑
いつの間にか沙希の部屋に転がり込むのは、ある意味バンドマンと小劇団関係者のお約束。
なし崩し的に同棲することになって、最初こそ一緒に作った舞台が成功して良い感じなのだが、ここでケチな嫉妬心が顔を出す。
自分の脚本や演出よりも、沙希の演技が評価されるのが気に食わず、共同作業をやめてしまう。
結果、永田は役者志望だった沙希の夢と才能を潰してしまうのだ。
それでも彼女が何も言わずに支えてくれるものだから、この男はますます調子に乗る。
二人が同棲を始めてしばらく経った頃、永田のダメさを象徴するシーンがある。
沙希の実家から食べ物が送られて来て、彼女が何の気なしに母親が「送っても半分は知らない男に食べられると思うとイヤだ〜」と話していたと冗談めかして言うと、途端に不機嫌になり「オレ沙希ちゃんのオカン嫌いだわ」と真顔で言い放つのである。
売れない、認められない、コンプレックスの塊なのに、自意識過剰で自分大好き。
普通に考えればとんでもない彼氏なんだけど、いつまで経っても成長しない、この男に感情移入するのをどうしても止められない。
山崎賢人というと、漫画の実写映画の印象が強い。
「キングダム 」など良くできた作品も多いのだが、漫画原作はベースの絵がある分、どうしてもコスプレ感が先に立ち、俳優としては必ずしも十分な評価がされて来たとは言えなかったと思う。
だが本作では、理想と現実の間で足掻き続ける若者を説得力たっぷりに演じ、圧巻の名演だ。
間違いなくキャリアベストで、今年の演技賞には必ず絡んでくるだろう。
対して、松岡茉優演じる沙希は、芸術系ダメ人間の目線ではもはや理想のミューズである。
映画の前半の沙希は、いつもニコニコして献身的にヒモ状態の永田を支え、どんなに彼が我儘で酷いことを言っても、すぐに許してくれる。
まさに永田にとっては「一番安全な場所」であり、自分を殺してでも相手の全てを受け入れちゃうので、ある意味絶対にダメ人間と組み合わせてはいけないタイプの人だ。
あえてだろう、前半は基本的に沙希の内面はほとんど描かれない。
永田に母親を貶された時など、たまに感情をあらわにすることはあるが、それも相当に押し殺した最低限の感情の発露。
ひたすら寛容に、文句ひとつ言わずに永田の夢を後押しする慈愛の塊の様な存在だ。
だが沙希との生活を続けることは、永田にとっては水から煮られて気づかないうちに死んでしまうカエルになることを意味する。
彼女といれば、基本的に何もしないでも生きていけるのだが、それでは創作者としては終わってしまう。
ダメ人間だが、自尊心は高い永田は、ぬるま湯の誘惑の危険性は本能的に理解しているのだ。
しかし永田が仕事場を借りて部屋を出ることは、沙希にとっては自分の夢と引き換えに作った、「一番安全な場所」すら否定されたことと同じ。
物語の終盤になって、それまで永田のやりたい放題の影に隠れていた彼女の内面がようやく前面に出てくる。
共依存の関係で、長年に渡って絡み合ってしまった感情はやるせなく、とても切ない。
同じ方向を向いると思っていた二人の間にはいつの間にか大きな溝ができていて、共に人生の岐路に立っているのだ。
本作がユニークなのは、若い二人の恋愛映画でありながら、描写としては徹底的にプラトニックで、キスシーンすらないこと。
これも二人の葛藤が、精神的なものだということを強調するためだろう。
もし劇団で沙希との共同作業を続けていたら。
もし仕事部屋を別に借りなかったら。
もし永田がもう少し彼女を思いやっていれば、現在は変わっていたかもしれない。
別れと同時に大いなる反省の時を迎えて、永田はようやく二人の葛藤を演劇として昇華する。
これは言わば演劇という虚構の現実を夢見た若者の、青春の始まりと終わりを描いた行定勲版の「ラ・ラ・ランド」だ。
異なるのは、あの映画がエマ・ストーンとライアン・ゴズリング双方の立場から描かれていたのに対し、こちらは基本的に男目線。
”IFの現実”に落とし込むのは同じでも、結局のところ彼女の青春を食い潰して、ようやく夢を叶えてゴメンなさいなのだから、調子の良い話ではある。
でも、映画は別に道徳の教本みたいに、“正しいこと”を描くものではない。
ダメ人間をダメ人間として描き、ダメ人間を愛してしまったが故の彼女の失敗もそのまま描いている本作の登場人物は、どこまでも人間的で切なく愛おしい。
この社会では、誰もが何かしらの後悔を抱え、明日の成功を夢見て、今日を懸命に生きている。
原作とは違うというラストの描写も、実に映画的で素晴らしかった。
ところで、本作はスクリーンで観てから配信という順で鑑賞した。
多くの観客と共に、ミニシアターのスクリーン越しに見る小劇場は、非常に感覚的な距離感が近い。
まるで劇場の中に、もう一つの劇場がある感じ。
一方で、明るいリビングのモニターに映し出される小劇場は、客観性が強調されて少し遠く感じるが、たった一人で永田に感情移入しながらの鑑賞もなかなか味わい深い。
鑑賞形態でどの様に印象が変わるのか、コロナの時代がもたらした“実験”としても興味深い映画体験だった。
今回は、下北沢を舞台にした青春ストーリーなので、下町の安い居酒屋でよく見かける「バイスサワー」をチョイス。
株式会社コダマ飲料の製造する、ピンク色のサワーの焼酎割。
甲種焼酎90mlを氷を入れたグラスに注ぎ、バイスサワー200mlで割るだけ。
甘酸っぱくほのかな紫蘇の香りがフレッシュで、クセもなく飲み飽きない。
長らく業務用にしか売られていなかったので、店でしか飲めない味だったが、今はネット通販のおかげで家飲みでも楽しめる様になった。
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終盤、涙が止まらなくなった。
又吉直樹の同名原作は未読だが、これはまさしく「劇場」の映画だ。
小劇団を主宰する、売れない劇作家兼演出家の永田が、役者志望の学生・沙希と恋に落ちてから、およそ10年間の物語。
無情に過ぎてゆく時間に、懸命に抗う永田を演じる山崎賢人と、彼を支える沙希役の松岡茉優が素晴らしい。
行定勲監督は「リバーズ・エッジ」、オムニバス映画の「その瞬間、僕は泣きたくなった CINEMA FIGHTERS project」の一編「海風」に続いて、心揺さぶる鮮烈な傑作を放った。
本作は今年の4月に松竹配給で公開される予定だったが、コロナの影響で延期となり、結果的にユーロスペースをはじめとしたミニシアターでの劇場公開と、Amazonプライムによる配信開始が同時という異例のケースとなった。
ポストコロナの映画の新しいカタチとしても、一つの試金石となるだろう。
友人の野原(寛一郎)と共に、小劇団「おろか」を主宰する永田(山崎賢人)。
しかし永田のラジカルな作風は酷評されていて、客足も伸びない。
ついには団員たちにも見放され、劇団は半ば解散状態に。
そんなある日、永田は街で偶然自分と同じ靴を履いていた沙希(松岡茉優)を見かけ、声を掛ける。
服飾系の学校に通う彼女は、中学高校と演劇部に所属し、女優になる夢を抱いて上京していた。
やがて下北沢の沙希のアパートへ転がり込んだ永田は、新作のヒロインに彼女を起用し、舞台は初めて成功を収める。
しかしそれ以降、永田は彼女を役者として起用することはなく、ますます演劇に没頭してゆく。
沙希はそんな永田に自分の夢を重ね、懸命に支え続けるのだが、二人の間にある理想と現実の乖離は少しずつ溝を生んでいた。
二人が出会ってから10年近い歳月が過ぎた頃、沙希はある決意を口にする・・・・
この映画は、山崎賢人のダメ人間っぷりを愛でる作品だ。
まず最初の二人の出会いからして、ほとんど変質者。
イケメンであることは隠しようがないが、ボサボサ頭に無精髭で挙動不審。
振り返ったら奴がいた段階で、私だったら悲鳴あげて逃げるわ(笑
いつの間にか沙希の部屋に転がり込むのは、ある意味バンドマンと小劇団関係者のお約束。
なし崩し的に同棲することになって、最初こそ一緒に作った舞台が成功して良い感じなのだが、ここでケチな嫉妬心が顔を出す。
自分の脚本や演出よりも、沙希の演技が評価されるのが気に食わず、共同作業をやめてしまう。
結果、永田は役者志望だった沙希の夢と才能を潰してしまうのだ。
それでも彼女が何も言わずに支えてくれるものだから、この男はますます調子に乗る。
二人が同棲を始めてしばらく経った頃、永田のダメさを象徴するシーンがある。
沙希の実家から食べ物が送られて来て、彼女が何の気なしに母親が「送っても半分は知らない男に食べられると思うとイヤだ〜」と話していたと冗談めかして言うと、途端に不機嫌になり「オレ沙希ちゃんのオカン嫌いだわ」と真顔で言い放つのである。
売れない、認められない、コンプレックスの塊なのに、自意識過剰で自分大好き。
普通に考えればとんでもない彼氏なんだけど、いつまで経っても成長しない、この男に感情移入するのをどうしても止められない。
山崎賢人というと、漫画の実写映画の印象が強い。
「キングダム 」など良くできた作品も多いのだが、漫画原作はベースの絵がある分、どうしてもコスプレ感が先に立ち、俳優としては必ずしも十分な評価がされて来たとは言えなかったと思う。
だが本作では、理想と現実の間で足掻き続ける若者を説得力たっぷりに演じ、圧巻の名演だ。
間違いなくキャリアベストで、今年の演技賞には必ず絡んでくるだろう。
対して、松岡茉優演じる沙希は、芸術系ダメ人間の目線ではもはや理想のミューズである。
映画の前半の沙希は、いつもニコニコして献身的にヒモ状態の永田を支え、どんなに彼が我儘で酷いことを言っても、すぐに許してくれる。
まさに永田にとっては「一番安全な場所」であり、自分を殺してでも相手の全てを受け入れちゃうので、ある意味絶対にダメ人間と組み合わせてはいけないタイプの人だ。
あえてだろう、前半は基本的に沙希の内面はほとんど描かれない。
永田に母親を貶された時など、たまに感情をあらわにすることはあるが、それも相当に押し殺した最低限の感情の発露。
ひたすら寛容に、文句ひとつ言わずに永田の夢を後押しする慈愛の塊の様な存在だ。
だが沙希との生活を続けることは、永田にとっては水から煮られて気づかないうちに死んでしまうカエルになることを意味する。
彼女といれば、基本的に何もしないでも生きていけるのだが、それでは創作者としては終わってしまう。
ダメ人間だが、自尊心は高い永田は、ぬるま湯の誘惑の危険性は本能的に理解しているのだ。
しかし永田が仕事場を借りて部屋を出ることは、沙希にとっては自分の夢と引き換えに作った、「一番安全な場所」すら否定されたことと同じ。
物語の終盤になって、それまで永田のやりたい放題の影に隠れていた彼女の内面がようやく前面に出てくる。
共依存の関係で、長年に渡って絡み合ってしまった感情はやるせなく、とても切ない。
同じ方向を向いると思っていた二人の間にはいつの間にか大きな溝ができていて、共に人生の岐路に立っているのだ。
本作がユニークなのは、若い二人の恋愛映画でありながら、描写としては徹底的にプラトニックで、キスシーンすらないこと。
これも二人の葛藤が、精神的なものだということを強調するためだろう。
もし劇団で沙希との共同作業を続けていたら。
もし仕事部屋を別に借りなかったら。
もし永田がもう少し彼女を思いやっていれば、現在は変わっていたかもしれない。
別れと同時に大いなる反省の時を迎えて、永田はようやく二人の葛藤を演劇として昇華する。
これは言わば演劇という虚構の現実を夢見た若者の、青春の始まりと終わりを描いた行定勲版の「ラ・ラ・ランド」だ。
異なるのは、あの映画がエマ・ストーンとライアン・ゴズリング双方の立場から描かれていたのに対し、こちらは基本的に男目線。
”IFの現実”に落とし込むのは同じでも、結局のところ彼女の青春を食い潰して、ようやく夢を叶えてゴメンなさいなのだから、調子の良い話ではある。
でも、映画は別に道徳の教本みたいに、“正しいこと”を描くものではない。
ダメ人間をダメ人間として描き、ダメ人間を愛してしまったが故の彼女の失敗もそのまま描いている本作の登場人物は、どこまでも人間的で切なく愛おしい。
この社会では、誰もが何かしらの後悔を抱え、明日の成功を夢見て、今日を懸命に生きている。
原作とは違うというラストの描写も、実に映画的で素晴らしかった。
ところで、本作はスクリーンで観てから配信という順で鑑賞した。
多くの観客と共に、ミニシアターのスクリーン越しに見る小劇場は、非常に感覚的な距離感が近い。
まるで劇場の中に、もう一つの劇場がある感じ。
一方で、明るいリビングのモニターに映し出される小劇場は、客観性が強調されて少し遠く感じるが、たった一人で永田に感情移入しながらの鑑賞もなかなか味わい深い。
鑑賞形態でどの様に印象が変わるのか、コロナの時代がもたらした“実験”としても興味深い映画体験だった。
今回は、下北沢を舞台にした青春ストーリーなので、下町の安い居酒屋でよく見かける「バイスサワー」をチョイス。
株式会社コダマ飲料の製造する、ピンク色のサワーの焼酎割。
甲種焼酎90mlを氷を入れたグラスに注ぎ、バイスサワー200mlで割るだけ。
甘酸っぱくほのかな紫蘇の香りがフレッシュで、クセもなく飲み飽きない。
長らく業務用にしか売られていなかったので、店でしか飲めない味だったが、今はネット通販のおかげで家飲みでも楽しめる様になった。

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2020年07月19日 (日) | 編集 |
未来が無限に増殖する。
こりゃあ面白い!まさにアイディア賞!
京都に本拠を置く人気劇団、「ヨーロッパ企画」が作った初の長編映画。
劇団の主宰にして、脚本を担当する上田誠と監督の山口淳太が作り上げたのは、SFマインドを刺激するユニークな快作だ。
※以下、核心部分に触れています。
カフェの店長をしているカトウの部屋のパソコンモニターから、突然自分が語りかけてくる。
「オレは二分後のオレ」
モニターの自分は二分後の未来の未来から語りかけていると言い、どうやら部屋のモニターと階下のカフェのモニターが二分間の時差で繋がっていることが分かる。
すぐにウワサは広がり、友人たちが押し掛けてくる。
たった二分先の未来。
普通に考えれば、何の役にも立ちそうにないこの謎現象。
しかし友人の一人が、この二分を無限に増やすある方法を思いついちゃう。
それは二分の時差がある二つのモニターを、合わせ鏡の要領で向かい合わせに配置すること。
すると互いのカメラで撮り合うことによって、画面の中には無限の未来と無限の過去が並ぶことになるのだ。
これこそがタイトルにもなっている「ドロステ効果」で、もともとは劇中にも出てくるドロステ・ココアという商品のパッケージが語源。
ココアの箱に描かれた尼僧が持っているお盆の上に、小さなココアの箱が描かれ、そこにはやはりお盆を持った尼僧が描かれている。
さらにその尼僧の手にも・・・と、このようにモニターの中にモニターを映しこむことによって、どんどん未来が繋がってゆくというワケ。
もちろんモニターのカメラで撮り合っているいるのだから、ある程度小さくなると解像度の限界で見えなくなってしまうのだが、それでも二分を相当伸ばすことが可能になる。
そうなると、未来の情報を使って金儲けに走るののはお約束。
ところが、事態は現在過去未来が絡み合い急速にヤバイ方向に動いてゆくのである。
なんだか藤子F先生のSF短編集にありそうな話だなと思ってたら、最後の主人公と客演ヒロインの浅倉あきの会話で大いに納得。
やっぱりあの系統の世界だよな、コレは。
「ペンギン・ハイウェイ」や「夜は短し歩けよ乙女」の脚本家としても知られる上田誠の独特の語り口は健在で、ケッタイな話だけどとてもよく出来ている。
テリングの最大の特徴は、特殊な物語構造を最大限に生かすために、リアルタイム進行で一見するとほぼ全編ワンカットに見える様に工夫されていること。
作品のテイストは全然違うのだが、低予算でアイディア勝負、全編ワンカット(風)映像を含めて、企画性はちょっと「カメラを止めるな!」を思わせる。
あの映画がホラーモチーフの斜め切りだとしたら、こちらは時間SFをモチーフに、「この手があったのか!」新鮮な驚きを与えてくれる。
観終わってすぐ、もう一回観て答え合わせしたくなるのも共通だ。
いずれにしてもセンス・オブ・ワンダーに溢れた素晴らしい映画で、コレは「カメ止め」級に話題になっても全然おかしくないが、内容を想像しにくいタイトルがネックか。
ちなみにエンドクレジットは必ず最後まで見ること!
今回はレイヤー構造になった世界の話だったので、レイヤーカクテルの代表格「プース・カフェ」をチョイス。
プースはフランス語の「押す」で、コーヒーを押し除けて食後に嗜む一杯という意味となる。
グレナデン・シロップ、クレーム・ド・ミント・グリーン、クレーム・ド・ミント・ホワイト、ブルー・キュラソー、シャルトリューズ・ジョーヌ、ブランデーそれぞれ10mlを順に静かに注ぎ入れる。
スプーンを使うと上手くできる。
このスタイルのカクテルは口の中で混ざり合うことで完成するが、ぶっちゃけ味よりも映えがメイン。
カラフルでとても美しい。
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こりゃあ面白い!まさにアイディア賞!
京都に本拠を置く人気劇団、「ヨーロッパ企画」が作った初の長編映画。
劇団の主宰にして、脚本を担当する上田誠と監督の山口淳太が作り上げたのは、SFマインドを刺激するユニークな快作だ。
※以下、核心部分に触れています。
カフェの店長をしているカトウの部屋のパソコンモニターから、突然自分が語りかけてくる。
「オレは二分後のオレ」
モニターの自分は二分後の未来の未来から語りかけていると言い、どうやら部屋のモニターと階下のカフェのモニターが二分間の時差で繋がっていることが分かる。
すぐにウワサは広がり、友人たちが押し掛けてくる。
たった二分先の未来。
普通に考えれば、何の役にも立ちそうにないこの謎現象。
しかし友人の一人が、この二分を無限に増やすある方法を思いついちゃう。
それは二分の時差がある二つのモニターを、合わせ鏡の要領で向かい合わせに配置すること。
すると互いのカメラで撮り合うことによって、画面の中には無限の未来と無限の過去が並ぶことになるのだ。
これこそがタイトルにもなっている「ドロステ効果」で、もともとは劇中にも出てくるドロステ・ココアという商品のパッケージが語源。
ココアの箱に描かれた尼僧が持っているお盆の上に、小さなココアの箱が描かれ、そこにはやはりお盆を持った尼僧が描かれている。
さらにその尼僧の手にも・・・と、このようにモニターの中にモニターを映しこむことによって、どんどん未来が繋がってゆくというワケ。
もちろんモニターのカメラで撮り合っているいるのだから、ある程度小さくなると解像度の限界で見えなくなってしまうのだが、それでも二分を相当伸ばすことが可能になる。
そうなると、未来の情報を使って金儲けに走るののはお約束。
ところが、事態は現在過去未来が絡み合い急速にヤバイ方向に動いてゆくのである。
なんだか藤子F先生のSF短編集にありそうな話だなと思ってたら、最後の主人公と客演ヒロインの浅倉あきの会話で大いに納得。
やっぱりあの系統の世界だよな、コレは。
「ペンギン・ハイウェイ」や「夜は短し歩けよ乙女」の脚本家としても知られる上田誠の独特の語り口は健在で、ケッタイな話だけどとてもよく出来ている。
テリングの最大の特徴は、特殊な物語構造を最大限に生かすために、リアルタイム進行で一見するとほぼ全編ワンカットに見える様に工夫されていること。
作品のテイストは全然違うのだが、低予算でアイディア勝負、全編ワンカット(風)映像を含めて、企画性はちょっと「カメラを止めるな!」を思わせる。
あの映画がホラーモチーフの斜め切りだとしたら、こちらは時間SFをモチーフに、「この手があったのか!」新鮮な驚きを与えてくれる。
観終わってすぐ、もう一回観て答え合わせしたくなるのも共通だ。
いずれにしてもセンス・オブ・ワンダーに溢れた素晴らしい映画で、コレは「カメ止め」級に話題になっても全然おかしくないが、内容を想像しにくいタイトルがネックか。
ちなみにエンドクレジットは必ず最後まで見ること!
今回はレイヤー構造になった世界の話だったので、レイヤーカクテルの代表格「プース・カフェ」をチョイス。
プースはフランス語の「押す」で、コーヒーを押し除けて食後に嗜む一杯という意味となる。
グレナデン・シロップ、クレーム・ド・ミント・グリーン、クレーム・ド・ミント・ホワイト、ブルー・キュラソー、シャルトリューズ・ジョーヌ、ブランデーそれぞれ10mlを順に静かに注ぎ入れる。
スプーンを使うと上手くできる。
このスタイルのカクテルは口の中で混ざり合うことで完成するが、ぶっちゃけ味よりも映えがメイン。
カラフルでとても美しい。

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2020年07月16日 (木) | 編集 |
愛が全てを包みこむ。
フロリダの高校のレスリング部のエースで、文武両道に優れたエリートとして将来を嘱望されている兄タイラーと、その影に隠れている地味キャラの妹エミリーの、破滅と再生の物語。
全てが順風満帆だった学園のヒーローの人生は、たった一つのきっかけからはじまった負の連鎖により、みるみる崩れてゆく。
長年の競技生活で無理をし過ぎたことで、選手生命を脅かす肩の故障が発覚し、大学の奨学金が危うくなる。
追い討ちをかける様に、恋人のアレクシスが妊娠。
事態を受け入れられないタイラーは徐々に自分を見失い、ブレーキを失った車の様に坂道を転げ落ちてゆく。
そして遂にある夜、彼と周りの人々の人生全てを狂わせる、悲劇的な事件が起こってしまう。
物語そのものは、めちゃくちゃヘビーではあるものの特に新鮮味はない。
これはスタイリッシュな映像と、エモーショナルな音楽という二つのウェイブによる、ストーリーテリングの未見性を味わう映画だ。
前半はタイラーが、後半は妹のエミリーが主人公のポジションとなり、決まりすぎなくらいピッタリな31の楽曲がそれぞれの心象を描いてゆく。
”プレイリストムービー“なんてチャラいキャッチコピーからは想像もつかない、厳しい現実を描く映画だが、さすが「イット ・カムズ・アット・ナイト」でも、家族をモチーフに鋭い寓話性を見せたトレイ・エドワード・シュルツ。
物語と映像と音楽が三位一体となる、なかなかの力作だ。
135分という結構な長尺のうち、基本的に前半は「ルース・エドガー」の好演も記憶に新しいケルヴィン・ハリソン・Jrが演じるタイラーの破滅編、後半はテイラー・ラッセル演じるエミリーによる再生編として綺麗な二部構成となっている。
現在、世界中で黒人差別に反対する「Black lives matter」の嵐が吹き荒れているが、本作のタイラーとエミリーはかなり裕福で恵まれた家庭に育っている。
しかし両親、特に父親は自分たちが基本的には被差別階層であることを意識していて、だからこそタイラーを厳しく育てる。
父息子の厳格な子弟的な関係性と「強く、完璧であれ」という暗黙のプレッシャーによって、タイラーは自分の問題を抱え込み、誰にも相談できなくなってしまうのだ。
いくら輝いていても、彼はまだ十代の少年である。
短期間のうちに変わってしまった世界に対応しきれず、壊れてゆく姿が痛々しい。
そして悲劇的な事件の結果、前半でタイラーが退場すると、こんどは残された家族の再生劇。
ここでは、それまでほとんど存在感のなかった地味目な妹のエミリーが前面に出て来て、映画のトーンが大きく変わる。
期せずして“犯罪者の家族”となってしまい、学校でも目立たないように過ごし、誰にも心を開けないでいるエミリーは、ルーカス・ヘッジズが演じる心優しい好青年ルークと恋に落ちる。
彼自身も疎遠な父親との問題を抱えているのだが、エミリーの後押しによって葛藤を解消し、その経験がこんどはエミリーの人生にも新しい道筋をつけてゆく。
面白いのが画面のアスペクト比が“ビスタ→額縁のシネスコ→さらに上下が狭くなる→スタンダード→額縁のシネスコ→ビスタ”と変化すること。
グザヴィエ・ドランの作品みたいに、キャラクターの心象にピッタリ紐付けている訳ではないが、冒頭の焼けつくような太陽の下、フロリダのハイウェイを疾走するタイラーとアレクシスの描写が、終盤のエミリーとルークと対になるように、中盤の事件を折り返し点に、前半後半の展開をミラーイメージとして強化する工夫だ。
才能豊かな少年は、愛する人がいたために最悪の罪を犯す。
その傷跡を引きずる少女は、新たな愛に出会って癒されてゆく。
愛は時に心に痛く突き刺さり、時に暖かく包み込む。
どんなに厳しい時間を過ごしていても若者たちは愛を感じ、絶望の中に希望を見出して生きてゆく。
エミリーとルークはもちろん、いつの日かタイラーにも救いが訪れると信じたい。
暗闇の中で映像と音楽、二つのウェイブの間にたゆたうような心地よさ。
これは映画館で鑑賞すべき作品だ。
今回は揺れ動く光と色からイメージして「オーロラ」をチョイス。
ウォッカ30ml、クレーム・ド・カシス10ml、グレープフルーツ・ジュース5ml、レモン・ジュース5ml、グレナデンシロップ10mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
サントリー・カクテル・コンペティションのスピリッツ部門の優勝作品で、作者は大塚陽人。
ルビー色をした美しいカクテルで、ほんのり甘くさっぱりとした味わいの一杯だ。
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フロリダの高校のレスリング部のエースで、文武両道に優れたエリートとして将来を嘱望されている兄タイラーと、その影に隠れている地味キャラの妹エミリーの、破滅と再生の物語。
全てが順風満帆だった学園のヒーローの人生は、たった一つのきっかけからはじまった負の連鎖により、みるみる崩れてゆく。
長年の競技生活で無理をし過ぎたことで、選手生命を脅かす肩の故障が発覚し、大学の奨学金が危うくなる。
追い討ちをかける様に、恋人のアレクシスが妊娠。
事態を受け入れられないタイラーは徐々に自分を見失い、ブレーキを失った車の様に坂道を転げ落ちてゆく。
そして遂にある夜、彼と周りの人々の人生全てを狂わせる、悲劇的な事件が起こってしまう。
物語そのものは、めちゃくちゃヘビーではあるものの特に新鮮味はない。
これはスタイリッシュな映像と、エモーショナルな音楽という二つのウェイブによる、ストーリーテリングの未見性を味わう映画だ。
前半はタイラーが、後半は妹のエミリーが主人公のポジションとなり、決まりすぎなくらいピッタリな31の楽曲がそれぞれの心象を描いてゆく。
”プレイリストムービー“なんてチャラいキャッチコピーからは想像もつかない、厳しい現実を描く映画だが、さすが「イット ・カムズ・アット・ナイト」でも、家族をモチーフに鋭い寓話性を見せたトレイ・エドワード・シュルツ。
物語と映像と音楽が三位一体となる、なかなかの力作だ。
135分という結構な長尺のうち、基本的に前半は「ルース・エドガー」の好演も記憶に新しいケルヴィン・ハリソン・Jrが演じるタイラーの破滅編、後半はテイラー・ラッセル演じるエミリーによる再生編として綺麗な二部構成となっている。
現在、世界中で黒人差別に反対する「Black lives matter」の嵐が吹き荒れているが、本作のタイラーとエミリーはかなり裕福で恵まれた家庭に育っている。
しかし両親、特に父親は自分たちが基本的には被差別階層であることを意識していて、だからこそタイラーを厳しく育てる。
父息子の厳格な子弟的な関係性と「強く、完璧であれ」という暗黙のプレッシャーによって、タイラーは自分の問題を抱え込み、誰にも相談できなくなってしまうのだ。
いくら輝いていても、彼はまだ十代の少年である。
短期間のうちに変わってしまった世界に対応しきれず、壊れてゆく姿が痛々しい。
そして悲劇的な事件の結果、前半でタイラーが退場すると、こんどは残された家族の再生劇。
ここでは、それまでほとんど存在感のなかった地味目な妹のエミリーが前面に出て来て、映画のトーンが大きく変わる。
期せずして“犯罪者の家族”となってしまい、学校でも目立たないように過ごし、誰にも心を開けないでいるエミリーは、ルーカス・ヘッジズが演じる心優しい好青年ルークと恋に落ちる。
彼自身も疎遠な父親との問題を抱えているのだが、エミリーの後押しによって葛藤を解消し、その経験がこんどはエミリーの人生にも新しい道筋をつけてゆく。
面白いのが画面のアスペクト比が“ビスタ→額縁のシネスコ→さらに上下が狭くなる→スタンダード→額縁のシネスコ→ビスタ”と変化すること。
グザヴィエ・ドランの作品みたいに、キャラクターの心象にピッタリ紐付けている訳ではないが、冒頭の焼けつくような太陽の下、フロリダのハイウェイを疾走するタイラーとアレクシスの描写が、終盤のエミリーとルークと対になるように、中盤の事件を折り返し点に、前半後半の展開をミラーイメージとして強化する工夫だ。
才能豊かな少年は、愛する人がいたために最悪の罪を犯す。
その傷跡を引きずる少女は、新たな愛に出会って癒されてゆく。
愛は時に心に痛く突き刺さり、時に暖かく包み込む。
どんなに厳しい時間を過ごしていても若者たちは愛を感じ、絶望の中に希望を見出して生きてゆく。
エミリーとルークはもちろん、いつの日かタイラーにも救いが訪れると信じたい。
暗闇の中で映像と音楽、二つのウェイブの間にたゆたうような心地よさ。
これは映画館で鑑賞すべき作品だ。
今回は揺れ動く光と色からイメージして「オーロラ」をチョイス。
ウォッカ30ml、クレーム・ド・カシス10ml、グレープフルーツ・ジュース5ml、レモン・ジュース5ml、グレナデンシロップ10mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
サントリー・カクテル・コンペティションのスピリッツ部門の優勝作品で、作者は大塚陽人。
ルビー色をした美しいカクテルで、ほんのり甘くさっぱりとした味わいの一杯だ。

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2020年07月13日 (月) | 編集 |
見えない誰かが追ってくる。
富豪のマッドサイエンティストでソシオパスの夫から妻が逃げ出したら、ハイテク透明人間になった夫に復讐される。
さすがリー・ワネル、ジャンル映画のツボを抑えつつ、未見性に満ちた見事な仕上がりだ。
原案はH・G・ウェルズの小説「透明人間」だが、1933年に公開された同名怪奇映画へのオマージュを捧げつつ、物語はモダンなオリジナル。
本作はもともとユニバーサル映画が目論んでいた往年の怪奇映画を連続リブートさせる”ダーク・ユニバース”の一作としてジョニー・デップ主演で企画されていたものの、第一弾となる「ザ・マミー 呪われた砂漠の王女」の無残な失敗によって立ち消えとなり、ワネルによって改めてリブートされた。
結果として他の映画とのリンクは無くなり、規模も縮小された低予算作品だが、逆に自由な発想が生かされた快作となった。
主人公のセシリアを演じる、エリザベス・モスが素晴らしい。
富豪で天才的科学者の夫エイドリアン(オリヴァー・ジャクソン=コーエン)から束縛的な支配を受けているセシリア(エリザベス・モス)は、ある夜妹のエミリー(ハリエット・ダイアー)の助けでセキュリティが張り巡らされた屋敷から脱出する。
彼女は友人の警察官ジェームズ(オルディス・ホッジ)の元に身を寄せるが、エイドリアンが探しに来るのではという恐怖を常に感じていた。
ところがある日、エイドリアンの兄で弁護士のトム(マイケル・ドーマン)から、彼が手首を切って自殺したと言う知らせが入る。
エイドリアンは自らの行いを悔い、500万ドルという巨額の遺産をセシリアに残していた。
しかしエイドリアンの本性を知るセシリアは、「彼は自殺を偽装し、今もどこかで私を見張っている」と言う疑念から逃れられない。
そんな時、彼女の周りで奇妙な出来事が続き、セシリアはエイドリアンが自らの技術を使って透明人間となり、彼女に復讐しようとしているという確信を持つ・・・・
H・G・ウェルズの「透明人間」は過去何度も映像化されて来た。
もっとも有名なのが1933年に作られたジェームズ・ホエール版と、2000年のポール・バーホーベン版「インビジブル」だろう。
日本でも戦後公職追放されていた円谷英二の復帰作として知られる「透明人間現る」や、ピンク映画の「透明人間 エロ博士」なんて珍品もあった。
ウェルズの小説を基にしているかどうかに関わらず、多くの作品の透明人間に共通するのは、基本的には天才科学者で、化学によって人間を透明にする方法を開発するも、元に戻れなくなり次第に狂気の怪物となる設定だ。
ところが、本作はこの基本法則を覆す。
エイドリアンが天才科学者なのは過去の作品と共通だが、彼が開発するのは化学的な手段ではなく、いわゆる光学迷彩。
本作の透明人間は、最新テクノロジーを駆使した、ステルス・スーツの産物なのだ。
このアイディアにより、透明化してご飯食べたらどうなる?とか、いつも全裸で寒くない?とか、移動する時はどうするの?とか、過去の透明人間モノではごまかされていたディテールが一気に解消。
不可逆的に肉体が透明化する訳ではなく、スーツを着ているだけなのだから、元に戻れなくなって絶望し、狂気に堕ちるわけでもない。
完全に正気なまま、妻を支配し追い詰めるためだけに透明人間となる、その邪悪さが強調される。
ちなみに透明化してない時のステルス・スーツはそこら中にカメラの穴が開いる気持ち悪いデザインで、ブツブツ恐怖症トライポフォビアの人は違う意味で失神しそう。
物語的には、クズ夫からの虐げられた妻の肉体と精神の解放を描いているのだけど、実際にセシリアが経験したことを一切描かず、彼女が受けた虐待をしっかりと観客に伝えているのが凄い。
彼女がどれほどエイドリアンを恐れているか、心の傷の原因がリアルにイメージできるのは、エリザベス・モスの狂気を感じさせるほどの熱演が大きい。
もちろん、姿の見えない暴力的なストーカーに、真綿で締め殺される様に24時間粘着される恐怖も含めて。
脚本家監督らしくディテールは非常に凝っていて、例えば登場人物のネーミングも一捻りある。
主人公の役名の「セシリア」はラテン語で「盲目」を意味し、同時に彼女は親しい人からあだ名で「シー」と呼ばれる。
「シー」は見るを意味する「see」と同じ発音で、彼女が「見えない」物を「見る」人物なのを表しているのである。
一方の「エイドリアン」はローマ皇帝ハドリアヌスに由来する名前で、「暗い」と言う意味もあり、飼い犬には全能の神「ゼウス」の名をつけていることからも、神をも支配しようとするダークサイドな男であることを示唆している。
ストーリーテリングにも工夫がいっぱいだ。
誰もが透明人間になれるステルス・スーツのアイディアを生かし、シーンによって透明化しているのがエイドリアンなのか、彼の支配を受けている兄のトムなのか分からない様にしているのも面白い。
何しろ中身は見えないのだから、あのシーンはエイドリアン?このシーンはトム?もしかすると、二人が同時にいたシーンもある?などと、観終わった後から考えることで色々パズルのピースがハマってくる様な、読解のカタルシスも味わえる。
シネスコ画面のフレーミングの巧みさも光る。
画面の余白を効果的に使い、いかにもそこに何かがいる様な不安感を盛り上げる。
さらにカメラワークを俳優の動きから微妙にずらずことで、それが誰の視点なのかと言う疑心暗鬼を作り出している。
透明人間というそのままでは古色蒼然としたキャラクターを使いながら、リー・ワネルは物語の視点を変えることで2020年ならではのモダンなスリラーを作り出した。
虐げられたセシリアは見えないストーカーと化したエイドリアンによって、精神的にも肉体的にも追い込まれてゆくが、やられっぱなしでは終わらない。
支配欲の塊の様な夫と対決するクライマックスでは、それまでの出来事全体を伏線とし、彼女の隠されたタフネスぶりを見せつけ、観客に溜飲を下げさせる。
透明人間といえば女性絡みなのはお約束だが、透明人間本人ではなく攻撃される女性側を主人公とし、抑圧からの解放をテーマとしたのは見事。
人間ドラマとして成立させつつ、テリングの工夫によって最後までドキドキするスリルを切らさない。
やり尽くされたジャンル映画も、新しい視点と問題点の修正でいくらでも面白くなるという良いお手本だ。
まあペンキかけられたのに、足跡は残らないの?とか姿は見えなくても、音はするんじゃない?とか突っ込める部分はあるが、それを言っちゃうのは野暮というものだろう。
今回は透明人間だけに、原作が書かれた少し前に、ウェルズの母国イギリスで誕生した透明なカクテル「ギムレット」をチョイス。
ドライ・ジン45ml、フレッシュ・ライム・ジュース15mlをシェイクし、グラスに注ぐ。
発案者は、海軍の軍医だったギムレット卿。
イギリス海軍では酒は嗜みとして許されていたのだが、彼は将校たちが支給されていたジンを飲み過ぎるのを憂慮し、ライム・ジュースで割ることを推奨したとされる。
チャンドラーの小説「長いお別れ」に登場したことで、世界的に有名になったカクテルだ。
記事が気に入ったらクリックしてね
富豪のマッドサイエンティストでソシオパスの夫から妻が逃げ出したら、ハイテク透明人間になった夫に復讐される。
さすがリー・ワネル、ジャンル映画のツボを抑えつつ、未見性に満ちた見事な仕上がりだ。
原案はH・G・ウェルズの小説「透明人間」だが、1933年に公開された同名怪奇映画へのオマージュを捧げつつ、物語はモダンなオリジナル。
本作はもともとユニバーサル映画が目論んでいた往年の怪奇映画を連続リブートさせる”ダーク・ユニバース”の一作としてジョニー・デップ主演で企画されていたものの、第一弾となる「ザ・マミー 呪われた砂漠の王女」の無残な失敗によって立ち消えとなり、ワネルによって改めてリブートされた。
結果として他の映画とのリンクは無くなり、規模も縮小された低予算作品だが、逆に自由な発想が生かされた快作となった。
主人公のセシリアを演じる、エリザベス・モスが素晴らしい。
富豪で天才的科学者の夫エイドリアン(オリヴァー・ジャクソン=コーエン)から束縛的な支配を受けているセシリア(エリザベス・モス)は、ある夜妹のエミリー(ハリエット・ダイアー)の助けでセキュリティが張り巡らされた屋敷から脱出する。
彼女は友人の警察官ジェームズ(オルディス・ホッジ)の元に身を寄せるが、エイドリアンが探しに来るのではという恐怖を常に感じていた。
ところがある日、エイドリアンの兄で弁護士のトム(マイケル・ドーマン)から、彼が手首を切って自殺したと言う知らせが入る。
エイドリアンは自らの行いを悔い、500万ドルという巨額の遺産をセシリアに残していた。
しかしエイドリアンの本性を知るセシリアは、「彼は自殺を偽装し、今もどこかで私を見張っている」と言う疑念から逃れられない。
そんな時、彼女の周りで奇妙な出来事が続き、セシリアはエイドリアンが自らの技術を使って透明人間となり、彼女に復讐しようとしているという確信を持つ・・・・
H・G・ウェルズの「透明人間」は過去何度も映像化されて来た。
もっとも有名なのが1933年に作られたジェームズ・ホエール版と、2000年のポール・バーホーベン版「インビジブル」だろう。
日本でも戦後公職追放されていた円谷英二の復帰作として知られる「透明人間現る」や、ピンク映画の「透明人間 エロ博士」なんて珍品もあった。
ウェルズの小説を基にしているかどうかに関わらず、多くの作品の透明人間に共通するのは、基本的には天才科学者で、化学によって人間を透明にする方法を開発するも、元に戻れなくなり次第に狂気の怪物となる設定だ。
ところが、本作はこの基本法則を覆す。
エイドリアンが天才科学者なのは過去の作品と共通だが、彼が開発するのは化学的な手段ではなく、いわゆる光学迷彩。
本作の透明人間は、最新テクノロジーを駆使した、ステルス・スーツの産物なのだ。
このアイディアにより、透明化してご飯食べたらどうなる?とか、いつも全裸で寒くない?とか、移動する時はどうするの?とか、過去の透明人間モノではごまかされていたディテールが一気に解消。
不可逆的に肉体が透明化する訳ではなく、スーツを着ているだけなのだから、元に戻れなくなって絶望し、狂気に堕ちるわけでもない。
完全に正気なまま、妻を支配し追い詰めるためだけに透明人間となる、その邪悪さが強調される。
ちなみに透明化してない時のステルス・スーツはそこら中にカメラの穴が開いる気持ち悪いデザインで、ブツブツ恐怖症トライポフォビアの人は違う意味で失神しそう。
物語的には、クズ夫からの虐げられた妻の肉体と精神の解放を描いているのだけど、実際にセシリアが経験したことを一切描かず、彼女が受けた虐待をしっかりと観客に伝えているのが凄い。
彼女がどれほどエイドリアンを恐れているか、心の傷の原因がリアルにイメージできるのは、エリザベス・モスの狂気を感じさせるほどの熱演が大きい。
もちろん、姿の見えない暴力的なストーカーに、真綿で締め殺される様に24時間粘着される恐怖も含めて。
脚本家監督らしくディテールは非常に凝っていて、例えば登場人物のネーミングも一捻りある。
主人公の役名の「セシリア」はラテン語で「盲目」を意味し、同時に彼女は親しい人からあだ名で「シー」と呼ばれる。
「シー」は見るを意味する「see」と同じ発音で、彼女が「見えない」物を「見る」人物なのを表しているのである。
一方の「エイドリアン」はローマ皇帝ハドリアヌスに由来する名前で、「暗い」と言う意味もあり、飼い犬には全能の神「ゼウス」の名をつけていることからも、神をも支配しようとするダークサイドな男であることを示唆している。
ストーリーテリングにも工夫がいっぱいだ。
誰もが透明人間になれるステルス・スーツのアイディアを生かし、シーンによって透明化しているのがエイドリアンなのか、彼の支配を受けている兄のトムなのか分からない様にしているのも面白い。
何しろ中身は見えないのだから、あのシーンはエイドリアン?このシーンはトム?もしかすると、二人が同時にいたシーンもある?などと、観終わった後から考えることで色々パズルのピースがハマってくる様な、読解のカタルシスも味わえる。
シネスコ画面のフレーミングの巧みさも光る。
画面の余白を効果的に使い、いかにもそこに何かがいる様な不安感を盛り上げる。
さらにカメラワークを俳優の動きから微妙にずらずことで、それが誰の視点なのかと言う疑心暗鬼を作り出している。
透明人間というそのままでは古色蒼然としたキャラクターを使いながら、リー・ワネルは物語の視点を変えることで2020年ならではのモダンなスリラーを作り出した。
虐げられたセシリアは見えないストーカーと化したエイドリアンによって、精神的にも肉体的にも追い込まれてゆくが、やられっぱなしでは終わらない。
支配欲の塊の様な夫と対決するクライマックスでは、それまでの出来事全体を伏線とし、彼女の隠されたタフネスぶりを見せつけ、観客に溜飲を下げさせる。
透明人間といえば女性絡みなのはお約束だが、透明人間本人ではなく攻撃される女性側を主人公とし、抑圧からの解放をテーマとしたのは見事。
人間ドラマとして成立させつつ、テリングの工夫によって最後までドキドキするスリルを切らさない。
やり尽くされたジャンル映画も、新しい視点と問題点の修正でいくらでも面白くなるという良いお手本だ。
まあペンキかけられたのに、足跡は残らないの?とか姿は見えなくても、音はするんじゃない?とか突っ込める部分はあるが、それを言っちゃうのは野暮というものだろう。
今回は透明人間だけに、原作が書かれた少し前に、ウェルズの母国イギリスで誕生した透明なカクテル「ギムレット」をチョイス。
ドライ・ジン45ml、フレッシュ・ライム・ジュース15mlをシェイクし、グラスに注ぐ。
発案者は、海軍の軍医だったギムレット卿。
イギリス海軍では酒は嗜みとして許されていたのだが、彼は将校たちが支給されていたジンを飲み過ぎるのを憂慮し、ライム・ジュースで割ることを推奨したとされる。
チャンドラーの小説「長いお別れ」に登場したことで、世界的に有名になったカクテルだ。

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2020年07月09日 (木) | 編集 |
「のぼる」は気持ちいい。
不思議な浮遊感を持つ映画だ。
みんな彼女が気になって、ついつい上を見上げてしまう。
たくさんの視線の先にいるのは、ボルダリング少女の小寺さん。
進路希望に「クライマー」と書き、ガチでプロクライマーを目指しているほどのボルダリング好き。
毎日ダブダブのTシャツを着て、高校の体育館にそびえるクライミングウォールに挑んでいる。
小寺さん自身は、物語の最初から最後までほとんど変わらない。
しかし実質的な主人公である同級生男子の近藤をはじめ、彼女のまわりにいる人たちは、のぼり続ける彼女から目が離せなくなる。
吉田玲子の端正なシナリオを得て、傑作「ロボコン」の古厩智之監督が思春期の登場人物たちを味わい深く描写する。
卓球部に所属する近藤は、卓球台のすぐそばに建つクライミングウォールを登る小寺さんに見惚れてしまう。
中学の時いじめられていて彼女以外に友達がいなかった四条は、今ではクライミング部の仲間として小寺さんを支える。
写真が好きなありかは、どうしても小寺さんに惹かれて、撮らずにはいられない。
ちょっと遊んでいて、クラスでも浮いている梨乃も、なぜか小寺さんとは気が合い、彼女を応援する様になる。
これは「見ること」に関する映画で、視線の誘導の丁寧な演出が特徴的。
小寺さんのピュアな情熱を見ているうちに、まわりの人たちもいつしか自分を振り返り、ドーンと背中を押されている。
この映画の小寺さんの役割は、本人のあずかり知らないところで、周囲に影響を与えているという点で、一度も姿を見せず存在感だけで学園をザワつかせた「桐島、部活やめるってよ」の桐島に近い。
しかし学園のヒエラルキーという複雑な社会性がベースにあり、不在の桐島がある種のマクガフィンとして皆を右往左往させたあの映画と比べると、本作の世界はパーソナルで平和だ。
頑張っている人だけが持つ吸引力によって小寺さんはまわりの人の目を惹きつけ、誰の中にも眠っている青春の熱情に火をつけるだけ。
それとて本人が意識してやっている訳ではないのだ。
だからこの映画は、小寺さんを作劇上の便利なアイテムであるマクガフィンの様には描かない。
最後の最後には、彼女自身にも等身大のティーンの少女として、小さな心情の変化を起こす。
この辺りが、画面に一切登場せずシンボルのままだった桐島とは違うところだ。
しかし、上映前の舞台挨拶動画(?)で監督も言ってたが、コロナ禍の今観ると以前の私たちはなんと美しい世界に暮らしていたことか。
いつか元の世界が戻ってきて、人々が再び思いっきり活動する時のためにも、せめて今できることを頑張ろうと思わせてくれる、元気が出る映画。
まるで若手実力派俳優の見本市の様だった「桐島」ほど多くはないが、こちらも若い俳優たちが素晴らしい。
役柄通りの吸引力を持つ工藤遥と、吸引されちゃう伊藤健太郎の爽やかなカップルにほっこり。
小寺さんを軸として、色々なタイプの登場人物が配されていて、ほとんどの観客が誰かには感情移入できるように工夫されている。
しかし、こんな良い映画に客が入ってないのが悲しいぞ。
みんな映画館で、のぼる小寺さんを見つめよう。
今回は青い空に向かってのぼる小寺さんのイメージで、「ビッグ・ブルー・スカイ」をチョイス。
ライト・ラム30ml、ココナッツ・ラム20ml、パイナップル・ラム20ml、ブルー・キュラソー20ml、パイナップル・ジュース120ml、クラッシュド・アイス1カップをパワーブレンダーで混ぜ混ぜ。
大きめのグラスに注ぎ、最後にマラスキーノ・チェリーを飾る。
パステル調の美しい水色のカクテルで、甘酸っぱい青春の味わいを演出している。
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不思議な浮遊感を持つ映画だ。
みんな彼女が気になって、ついつい上を見上げてしまう。
たくさんの視線の先にいるのは、ボルダリング少女の小寺さん。
進路希望に「クライマー」と書き、ガチでプロクライマーを目指しているほどのボルダリング好き。
毎日ダブダブのTシャツを着て、高校の体育館にそびえるクライミングウォールに挑んでいる。
小寺さん自身は、物語の最初から最後までほとんど変わらない。
しかし実質的な主人公である同級生男子の近藤をはじめ、彼女のまわりにいる人たちは、のぼり続ける彼女から目が離せなくなる。
吉田玲子の端正なシナリオを得て、傑作「ロボコン」の古厩智之監督が思春期の登場人物たちを味わい深く描写する。
卓球部に所属する近藤は、卓球台のすぐそばに建つクライミングウォールを登る小寺さんに見惚れてしまう。
中学の時いじめられていて彼女以外に友達がいなかった四条は、今ではクライミング部の仲間として小寺さんを支える。
写真が好きなありかは、どうしても小寺さんに惹かれて、撮らずにはいられない。
ちょっと遊んでいて、クラスでも浮いている梨乃も、なぜか小寺さんとは気が合い、彼女を応援する様になる。
これは「見ること」に関する映画で、視線の誘導の丁寧な演出が特徴的。
小寺さんのピュアな情熱を見ているうちに、まわりの人たちもいつしか自分を振り返り、ドーンと背中を押されている。
この映画の小寺さんの役割は、本人のあずかり知らないところで、周囲に影響を与えているという点で、一度も姿を見せず存在感だけで学園をザワつかせた「桐島、部活やめるってよ」の桐島に近い。
しかし学園のヒエラルキーという複雑な社会性がベースにあり、不在の桐島がある種のマクガフィンとして皆を右往左往させたあの映画と比べると、本作の世界はパーソナルで平和だ。
頑張っている人だけが持つ吸引力によって小寺さんはまわりの人の目を惹きつけ、誰の中にも眠っている青春の熱情に火をつけるだけ。
それとて本人が意識してやっている訳ではないのだ。
だからこの映画は、小寺さんを作劇上の便利なアイテムであるマクガフィンの様には描かない。
最後の最後には、彼女自身にも等身大のティーンの少女として、小さな心情の変化を起こす。
この辺りが、画面に一切登場せずシンボルのままだった桐島とは違うところだ。
しかし、上映前の舞台挨拶動画(?)で監督も言ってたが、コロナ禍の今観ると以前の私たちはなんと美しい世界に暮らしていたことか。
いつか元の世界が戻ってきて、人々が再び思いっきり活動する時のためにも、せめて今できることを頑張ろうと思わせてくれる、元気が出る映画。
まるで若手実力派俳優の見本市の様だった「桐島」ほど多くはないが、こちらも若い俳優たちが素晴らしい。
役柄通りの吸引力を持つ工藤遥と、吸引されちゃう伊藤健太郎の爽やかなカップルにほっこり。
小寺さんを軸として、色々なタイプの登場人物が配されていて、ほとんどの観客が誰かには感情移入できるように工夫されている。
しかし、こんな良い映画に客が入ってないのが悲しいぞ。
みんな映画館で、のぼる小寺さんを見つめよう。
今回は青い空に向かってのぼる小寺さんのイメージで、「ビッグ・ブルー・スカイ」をチョイス。
ライト・ラム30ml、ココナッツ・ラム20ml、パイナップル・ラム20ml、ブルー・キュラソー20ml、パイナップル・ジュース120ml、クラッシュド・アイス1カップをパワーブレンダーで混ぜ混ぜ。
大きめのグラスに注ぎ、最後にマラスキーノ・チェリーを飾る。
パステル調の美しい水色のカクテルで、甘酸っぱい青春の味わいを演出している。

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2020年07月06日 (月) | 編集 |
はちどりのささやき。
四半世紀前の高度成長期のソウルを舞台に、中学二年生の少女の思春期の揺れ動く心を描く、リリカルな青春ストーリー。
両親はあまり自分に関心がなく、暴力的な兄には虐められている。
学校には馴染めず、趣味の漫画を書いたり、ボーイフレンドとデートしたり、他校の親友と遊びに行ったりの平凡な日々。
そんなある日、通っていた漢文塾で、自分の声に耳を傾けてくれる新任の先生と出会ったことをきっかけに、彼女は少しずつ大人へと近づいてゆく。
監督・脚本は韓国の大学の映画学科を卒業後、米国に渡りコロンビア大学院で学んだキム・ボラ。
少女の半径10メートルを描く極めてパーソナルな視点と、時代と社会を俯瞰する視点が巧みに融合され、デビュー作とは思えない完成度の高さだ。
韓国映画賞の最高峰、青龍映画賞では、あの「パラサイト 半地下の家族」を抑えて脚本賞に輝いたほか、世界各国の映画賞でも高く評価されている。
1994年、ソウル。
中学二年生となったウニ(パク・ジフ)は、両親と兄姉と共に鳥の巣箱のような大団地に暮らしている。
学校の授業にはあまり身が入らないが、放課後は最近できたボーイフレンドとデートしたり、通っている漢文塾の友達と遊びに行ったり、それなりに楽しい日々。
商店街で餅屋を営む両親は、朝早くから仕事に追われ、子供たちに向き合う時間をあまり持てない。
ウニは、両親は自分には関心がないと思っている。
ある日、漢文塾に新任のヨンジ先生(キム・セビョク)がやってくる。
物腰柔らかで知的な大人の女性。
ウニは自分の言葉に耳を傾け、アドバイスをくれるヨンジ先生に惹かれてゆく。
ところが、ある朝学校へ行くと、漢江にかかる聖水大橋が崩落したと言うニュースが駆け巡っていた。
事故が起こったのは、姉の乗るバスが橋に差し掛かる時間帯だった・・・・
タイトルの「はちどり」は不思議な生き物だ。
小指ほどの大きさで、ブーンとささやく様な羽音を響かせながら、高速で羽ばたいてホバリングし、細いクチバシを伸ばして花の蜜を吸う。
米国に住んでいた頃、庭の木に花が咲くとよく集まって来ていたが、名前の通り一見すると鳥なのか蜂なのかわからない、あいのこの様な生物。
主人公のウニもまた、大人でもなく子供でもない。
右も左も分からない新入生の一年生でもなく、受験に気をもむ三年生でもない、曖昧な中間の存在だ。
これは思春期の少女が、自分と家族を含めた社会との関係を発見してゆく物語。
彼女の見ている世界は、まだ狭くて浅い。
基本的にウニの一人称で語られる物語なので、彼女が知らないことは描かれない。
物語を通して、彼女が「知ってゆくこと」で、世界がどんどん変わってゆくのである。
ストーリーテリングは韓国映画というよりも、むしろ監督が学んだアメリカのインディーズ映画を思わせる。
冒頭、母親からお使いを頼まれたウニが帰ってくると、母親が玄関を開けてくれないと言う描写が本作の進む先を示唆する。
実はこれ、ウニの勘違い。
彼女の住む団地は全ての階の作りが同じで、ボーッとしたウニが階を間違えて他人の留守宅に入ろうとしていたのだ。
しかし、彼女自身は扉を叩きながら「母親が意地悪している」と思っていただろう。
この様に「◯◯だ」と思っていたことに、別の真実が見えてくることで、少女の世界は広がり、深化して行く。
餅屋を切り盛りする両親は、いつも疲れていてあまり子供たちのことをかまってくれない。
父親は、兄には生徒会長になって名門ソウル大へ行けと言うが、ウニには何も言わない。
両親に関心を持たれていないと感じている彼女を、複雑な世界へと導くメンターとなるのが、漢文塾のヨンジ先生だ。
兄が志望するソウル大に学び、穏やかな雰囲気を纏った大人の女性。
彼女はウニを気にかけて、ちょっとした悩みの聞き手となってくれる。
「相識満天下 知心能幾人(顔を知ってる人は世間に沢山いる、でも心の中を知っているのは何人?)」
古の禅の言葉を引用しながら、ヨンジ先生はこう問いかける。
この言葉通り、ウニは日常の様々な出来事を通して、移ろいゆく人の心に翻弄され、社会の理を学んでゆく。
端正な顔立ちのウニに憧れている後輩の女の子は、ウニのことが好きだと告白するが、しばらくするとよそよそしく、彼女を避ける様になる。
「私のことが好きだと言ったでしょ?」とウニが聞くと、後輩は「それは先学期のことです」と言い返す。
ところがウニはウニで、120日間付き合ったボーイフレンドと別れると、よりを戻そうとする彼に「あなたのことが好きだったことは一度もない」と言い放つのである。
人の心は変わり、永遠のものなど何処にもない。
ウニの耳の下にしこりが見つかり、手術して取り除くことになった時、自分に関心がないと思っていた父親が、心配して涙を流して悲しむ姿を見る。
自分を裏切ったと思っていた友達が、その時に感じていた本当の気持ちを知る。
知っていると思っていたことを、実は知らなかった。
そして、ウニの心に、世界を変えるほどの大きな衝撃を与えるのが1994年10月21日に起こった聖水大橋崩落事故だ。
漢江にかかる巨大な橋は、手抜き工事によってあっけなく崩れ落ち、巻き込まれた路線バスの乗客ら32人が亡くなる大惨事となった。
この事故によって、初めて大切な人を失ったウニは、この世界の脆さと儚さを知るのである。
基本的には本作は一人称視点で描かれ、ウニの心に寄り添っているが、それゆえに劇中で起こることは必ずしも幼い主人公の心中で咀嚼しきれない。
しかしそのもどかしさが、普遍的な青春の成長痛となって、説得力たっぷりに語りかけてくるのである。
大きな喪失を経て、力強く成長したウニはどんな女性になるのだろう。
たぶんに自伝的な要素はあるのだろうが、キム・ボラ監督はウニは自分そのものではないと語ってる。
ならば、物語としての続きが見たい。
例えばグレタ・ガーウィクには、「フランシス・ハ」と「レディ・バード」と言う、シリーズではないが共に自分の分身の様なキャラクターを描く作品が複数ある。
高校生となって青春を謳歌するウニ、社会人として葛藤するウニ、リアリティたっぷりだからこそ、彼女の未来へ想像力が膨らんでゆく。
それにしても、たった四半世紀前だと言うのに、この時代感。
たぶんこの間に韓国社会の中で「女性であること」の意味が大きく変わったのだろう。
本作を観て、どうしても思い出してしまったのが、これも映画化される大ベストセラー小説「82年生まれ、キム・ジヨン」のこと。
心を病んだ33歳のキム・ジヨンが夫と共に病院を訪れ、2015年のソウルを起点に精神科医が彼女の人生を紐解いて行く。
そして彼女が心のバランスを崩した要因として、長年にわたる女性の置かれた理不尽な社会状況が浮かび上がってくる。
81年生まれのキム・ボラ監督もほぼ同世代。
実際本作の描写には、「82年生まれ、キム・ジヨン」を思わせる部分が多々ある。
兄に殴られたと言うウニに、ヨンジ先生は言う。
「殴られたら、殴られたままにしないで」と。
この四半世紀の間、韓国の少女たちは確かにそのままにはしなかったのだろうな。
今回はタイトルから「ハミングバード」をチョイス。
ホワイト・ラム30ml、ココナッツ・クリーム30ml、コーヒー・リキュール 15ml、バナナ1/3〜1/2、イチゴ3〜4個、クラッシュド・アイス2/3カップをパワーブレンダーでミックス。
ハリケーングラスに注ぎ入れ、最後にスライス・レモンをグラスのフチに飾って完成。
クリーミーでフルーティー。
シェイク感覚で楽しめるトロピカルなカクテルだ。
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四半世紀前の高度成長期のソウルを舞台に、中学二年生の少女の思春期の揺れ動く心を描く、リリカルな青春ストーリー。
両親はあまり自分に関心がなく、暴力的な兄には虐められている。
学校には馴染めず、趣味の漫画を書いたり、ボーイフレンドとデートしたり、他校の親友と遊びに行ったりの平凡な日々。
そんなある日、通っていた漢文塾で、自分の声に耳を傾けてくれる新任の先生と出会ったことをきっかけに、彼女は少しずつ大人へと近づいてゆく。
監督・脚本は韓国の大学の映画学科を卒業後、米国に渡りコロンビア大学院で学んだキム・ボラ。
少女の半径10メートルを描く極めてパーソナルな視点と、時代と社会を俯瞰する視点が巧みに融合され、デビュー作とは思えない完成度の高さだ。
韓国映画賞の最高峰、青龍映画賞では、あの「パラサイト 半地下の家族」を抑えて脚本賞に輝いたほか、世界各国の映画賞でも高く評価されている。
1994年、ソウル。
中学二年生となったウニ(パク・ジフ)は、両親と兄姉と共に鳥の巣箱のような大団地に暮らしている。
学校の授業にはあまり身が入らないが、放課後は最近できたボーイフレンドとデートしたり、通っている漢文塾の友達と遊びに行ったり、それなりに楽しい日々。
商店街で餅屋を営む両親は、朝早くから仕事に追われ、子供たちに向き合う時間をあまり持てない。
ウニは、両親は自分には関心がないと思っている。
ある日、漢文塾に新任のヨンジ先生(キム・セビョク)がやってくる。
物腰柔らかで知的な大人の女性。
ウニは自分の言葉に耳を傾け、アドバイスをくれるヨンジ先生に惹かれてゆく。
ところが、ある朝学校へ行くと、漢江にかかる聖水大橋が崩落したと言うニュースが駆け巡っていた。
事故が起こったのは、姉の乗るバスが橋に差し掛かる時間帯だった・・・・
タイトルの「はちどり」は不思議な生き物だ。
小指ほどの大きさで、ブーンとささやく様な羽音を響かせながら、高速で羽ばたいてホバリングし、細いクチバシを伸ばして花の蜜を吸う。
米国に住んでいた頃、庭の木に花が咲くとよく集まって来ていたが、名前の通り一見すると鳥なのか蜂なのかわからない、あいのこの様な生物。
主人公のウニもまた、大人でもなく子供でもない。
右も左も分からない新入生の一年生でもなく、受験に気をもむ三年生でもない、曖昧な中間の存在だ。
これは思春期の少女が、自分と家族を含めた社会との関係を発見してゆく物語。
彼女の見ている世界は、まだ狭くて浅い。
基本的にウニの一人称で語られる物語なので、彼女が知らないことは描かれない。
物語を通して、彼女が「知ってゆくこと」で、世界がどんどん変わってゆくのである。
ストーリーテリングは韓国映画というよりも、むしろ監督が学んだアメリカのインディーズ映画を思わせる。
冒頭、母親からお使いを頼まれたウニが帰ってくると、母親が玄関を開けてくれないと言う描写が本作の進む先を示唆する。
実はこれ、ウニの勘違い。
彼女の住む団地は全ての階の作りが同じで、ボーッとしたウニが階を間違えて他人の留守宅に入ろうとしていたのだ。
しかし、彼女自身は扉を叩きながら「母親が意地悪している」と思っていただろう。
この様に「◯◯だ」と思っていたことに、別の真実が見えてくることで、少女の世界は広がり、深化して行く。
餅屋を切り盛りする両親は、いつも疲れていてあまり子供たちのことをかまってくれない。
父親は、兄には生徒会長になって名門ソウル大へ行けと言うが、ウニには何も言わない。
両親に関心を持たれていないと感じている彼女を、複雑な世界へと導くメンターとなるのが、漢文塾のヨンジ先生だ。
兄が志望するソウル大に学び、穏やかな雰囲気を纏った大人の女性。
彼女はウニを気にかけて、ちょっとした悩みの聞き手となってくれる。
「相識満天下 知心能幾人(顔を知ってる人は世間に沢山いる、でも心の中を知っているのは何人?)」
古の禅の言葉を引用しながら、ヨンジ先生はこう問いかける。
この言葉通り、ウニは日常の様々な出来事を通して、移ろいゆく人の心に翻弄され、社会の理を学んでゆく。
端正な顔立ちのウニに憧れている後輩の女の子は、ウニのことが好きだと告白するが、しばらくするとよそよそしく、彼女を避ける様になる。
「私のことが好きだと言ったでしょ?」とウニが聞くと、後輩は「それは先学期のことです」と言い返す。
ところがウニはウニで、120日間付き合ったボーイフレンドと別れると、よりを戻そうとする彼に「あなたのことが好きだったことは一度もない」と言い放つのである。
人の心は変わり、永遠のものなど何処にもない。
ウニの耳の下にしこりが見つかり、手術して取り除くことになった時、自分に関心がないと思っていた父親が、心配して涙を流して悲しむ姿を見る。
自分を裏切ったと思っていた友達が、その時に感じていた本当の気持ちを知る。
知っていると思っていたことを、実は知らなかった。
そして、ウニの心に、世界を変えるほどの大きな衝撃を与えるのが1994年10月21日に起こった聖水大橋崩落事故だ。
漢江にかかる巨大な橋は、手抜き工事によってあっけなく崩れ落ち、巻き込まれた路線バスの乗客ら32人が亡くなる大惨事となった。
この事故によって、初めて大切な人を失ったウニは、この世界の脆さと儚さを知るのである。
基本的には本作は一人称視点で描かれ、ウニの心に寄り添っているが、それゆえに劇中で起こることは必ずしも幼い主人公の心中で咀嚼しきれない。
しかしそのもどかしさが、普遍的な青春の成長痛となって、説得力たっぷりに語りかけてくるのである。
大きな喪失を経て、力強く成長したウニはどんな女性になるのだろう。
たぶんに自伝的な要素はあるのだろうが、キム・ボラ監督はウニは自分そのものではないと語ってる。
ならば、物語としての続きが見たい。
例えばグレタ・ガーウィクには、「フランシス・ハ」と「レディ・バード」と言う、シリーズではないが共に自分の分身の様なキャラクターを描く作品が複数ある。
高校生となって青春を謳歌するウニ、社会人として葛藤するウニ、リアリティたっぷりだからこそ、彼女の未来へ想像力が膨らんでゆく。
それにしても、たった四半世紀前だと言うのに、この時代感。
たぶんこの間に韓国社会の中で「女性であること」の意味が大きく変わったのだろう。
本作を観て、どうしても思い出してしまったのが、これも映画化される大ベストセラー小説「82年生まれ、キム・ジヨン」のこと。
心を病んだ33歳のキム・ジヨンが夫と共に病院を訪れ、2015年のソウルを起点に精神科医が彼女の人生を紐解いて行く。
そして彼女が心のバランスを崩した要因として、長年にわたる女性の置かれた理不尽な社会状況が浮かび上がってくる。
81年生まれのキム・ボラ監督もほぼ同世代。
実際本作の描写には、「82年生まれ、キム・ジヨン」を思わせる部分が多々ある。
兄に殴られたと言うウニに、ヨンジ先生は言う。
「殴られたら、殴られたままにしないで」と。
この四半世紀の間、韓国の少女たちは確かにそのままにはしなかったのだろうな。
今回はタイトルから「ハミングバード」をチョイス。
ホワイト・ラム30ml、ココナッツ・クリーム30ml、コーヒー・リキュール 15ml、バナナ1/3〜1/2、イチゴ3〜4個、クラッシュド・アイス2/3カップをパワーブレンダーでミックス。
ハリケーングラスに注ぎ入れ、最後にスライス・レモンをグラスのフチに飾って完成。
クリーミーでフルーティー。
シェイク感覚で楽しめるトロピカルなカクテルだ。

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2020年07月02日 (木) | 編集 |
人と蜂、自然の作り出すハーモニー。
これは凄い映画だ。
長い歴史を持つ米国アカデミー賞で、史上初めて長編ドキュメンタリー賞と国際映画賞(旧・外国語映画賞)にダブルノミネートされた作品。
リューボ・ステファノとタマラ・コテフスカ両監督が生み出した、「ハニーランド 永遠の谷」の舞台となるのは、バルカン半島にある旧ユーゴスラビアの国、北マケドニアのほぼ中央部。
人里離れた山奥の谷の電気も水道もない古びた家に、自然養蜂家の中年女性ハティツェ・ムラトヴァが年老いて寝たきりとなった盲目の母親とひっそりと暮らしている。
小さな村に暮らすのは二人だけ。
自宅の庭や自然の岩棚などにある蜜蜂の巣から蜂蜜をとり、首都のスコピエに売りに行くことで生計を立てている。
彼女のポリシーは、蜂から半分だけ蜜をもらって半分は残す。
これが自然の恩恵をずっと維持するための、無理のないラインなのだ。
ところがある時、ずっと空き家だった隣の家に、トレーラーを引っ張ってトルコ人の大家族が引っ越してくる。
孤独だった生活が、動物や子供たちの喧騒で突然賑やかになり、ハティツェも嬉しそう。
酪農を営む彼らは蜂蜜が良いお金になるのを知ると、見よう見まねで養蜂に挑戦をはじめる。
初めのうちは、ベテランのハティツェの助言に従って堅実にやっていたのだが、卸売業者に急かされて無謀な取引契約を結んだあたりから徐々に様子が変わってくる。
目先の金のために巣から蜂蜜を全部とってしまったら、当然蜂は飢える。
すると蜂は蜜を求めて、近くの別の巣を襲うようになり、蜂同士の殺し合いで数が減ってゆく。
さらに、牧草を増やすために谷に生えている自然の植生を燃やせば、蜂が集める蜜の元が無くなってしまう。
やがて無理な養蜂と生態系への無知は、彼らの蜂だけでなくハティツェが大切に守ってきた谷の自然に重大な影響を与えはじめる。
色んなネイチャードキュメンタリーを観てきたが、美しく調和した風景を壊すのは、いつだって人間の欲望なのだ。
本作の最大の特徴は、ドキュメンタリー映画でありながら劇映画の様な綺麗な三幕構成のストーリーがあり、非常にドラマチックなこと。
アカデミー賞では「パラサイト 半地下の家族」旋風に敗れはしたものの、長編ドキュメンタリー部門だけでなく、国際映画賞にもノミネートされたのはこの辺りが評価されたのだろう。
安易なナレーションには頼らず、時にカメラは荘厳な自然の景観を映し出し、時にハティツェの人生が刻まれた味わい深い表情を描写する。
おそらく照明などはほとんど使われておらず、光源も蝋燭などそこにあるものだけだろう。
本作のフィルムメーカーたちは、実に3年の歳月を費やし、撮影されたフッテージは400時間に及ぶと言う。
この膨大な映像のバリエーションがあってこそ、まるで劇映画のような山あり谷ありのストーリーを、紡ぎ出すことが出来たのだと思う。
時には山羊のように危険な崖を登り、少しずつ蜂蜜を採取するハティツェの生活は、一見すると都市に住む私たちとは、まるでかけ離れているようだ。
しかしスコピエに出た時に髪染めを買って、村には誰もいないのにお洒落していたり、亡き父親の考えで結婚できなかった過去を振り返ったりするシーンに、生身の女性の人生のドラマがリアリティたっぷりに浮かび上がってくる。
彼女の直面している状況は孤独で厳しいが、永遠に明けない冬はない。
一部は破壊されてしまった谷の自然も、やがて自己修復力によって、元どおりになるだろう。
国の歴史よりもずっと古くから、この土地で繰り返されてきたであろう、人間を含めた生と死のサイクルがこの映画からは見えてくる。
人間と蜂と、谷の自然を見つめることで見えてくる、命のストーリー。
驚くべき傑作である。
今回は、高知県の菊水酒造の作る蜂蜜酒のミード、「シークレット・オブ・クレオパトラ」をチョイス。
人類が飲んだ最初の酒は、木の洞などにたまった蜂蜜と雨水などが混じり合い、自然発酵して出来たものと考えられている。
ミードはあらゆるアルコール文化の源流なのだ。
銘柄はミードが古代エジプトの女王、クレオパトラの愛飲酒だっという話から。
蜂蜜が花の種類によって味が異なる様に、ミードもまた蜂蜜によって大きく味わいが違ってくるが、こちらはレンゲ蜂蜜を使用。
蜂蜜を使っているといっても甘さは控えめで、CPも高いのでデザートワイン感覚で普段使い出来る。
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これは凄い映画だ。
長い歴史を持つ米国アカデミー賞で、史上初めて長編ドキュメンタリー賞と国際映画賞(旧・外国語映画賞)にダブルノミネートされた作品。
リューボ・ステファノとタマラ・コテフスカ両監督が生み出した、「ハニーランド 永遠の谷」の舞台となるのは、バルカン半島にある旧ユーゴスラビアの国、北マケドニアのほぼ中央部。
人里離れた山奥の谷の電気も水道もない古びた家に、自然養蜂家の中年女性ハティツェ・ムラトヴァが年老いて寝たきりとなった盲目の母親とひっそりと暮らしている。
小さな村に暮らすのは二人だけ。
自宅の庭や自然の岩棚などにある蜜蜂の巣から蜂蜜をとり、首都のスコピエに売りに行くことで生計を立てている。
彼女のポリシーは、蜂から半分だけ蜜をもらって半分は残す。
これが自然の恩恵をずっと維持するための、無理のないラインなのだ。
ところがある時、ずっと空き家だった隣の家に、トレーラーを引っ張ってトルコ人の大家族が引っ越してくる。
孤独だった生活が、動物や子供たちの喧騒で突然賑やかになり、ハティツェも嬉しそう。
酪農を営む彼らは蜂蜜が良いお金になるのを知ると、見よう見まねで養蜂に挑戦をはじめる。
初めのうちは、ベテランのハティツェの助言に従って堅実にやっていたのだが、卸売業者に急かされて無謀な取引契約を結んだあたりから徐々に様子が変わってくる。
目先の金のために巣から蜂蜜を全部とってしまったら、当然蜂は飢える。
すると蜂は蜜を求めて、近くの別の巣を襲うようになり、蜂同士の殺し合いで数が減ってゆく。
さらに、牧草を増やすために谷に生えている自然の植生を燃やせば、蜂が集める蜜の元が無くなってしまう。
やがて無理な養蜂と生態系への無知は、彼らの蜂だけでなくハティツェが大切に守ってきた谷の自然に重大な影響を与えはじめる。
色んなネイチャードキュメンタリーを観てきたが、美しく調和した風景を壊すのは、いつだって人間の欲望なのだ。
本作の最大の特徴は、ドキュメンタリー映画でありながら劇映画の様な綺麗な三幕構成のストーリーがあり、非常にドラマチックなこと。
アカデミー賞では「パラサイト 半地下の家族」旋風に敗れはしたものの、長編ドキュメンタリー部門だけでなく、国際映画賞にもノミネートされたのはこの辺りが評価されたのだろう。
安易なナレーションには頼らず、時にカメラは荘厳な自然の景観を映し出し、時にハティツェの人生が刻まれた味わい深い表情を描写する。
おそらく照明などはほとんど使われておらず、光源も蝋燭などそこにあるものだけだろう。
本作のフィルムメーカーたちは、実に3年の歳月を費やし、撮影されたフッテージは400時間に及ぶと言う。
この膨大な映像のバリエーションがあってこそ、まるで劇映画のような山あり谷ありのストーリーを、紡ぎ出すことが出来たのだと思う。
時には山羊のように危険な崖を登り、少しずつ蜂蜜を採取するハティツェの生活は、一見すると都市に住む私たちとは、まるでかけ離れているようだ。
しかしスコピエに出た時に髪染めを買って、村には誰もいないのにお洒落していたり、亡き父親の考えで結婚できなかった過去を振り返ったりするシーンに、生身の女性の人生のドラマがリアリティたっぷりに浮かび上がってくる。
彼女の直面している状況は孤独で厳しいが、永遠に明けない冬はない。
一部は破壊されてしまった谷の自然も、やがて自己修復力によって、元どおりになるだろう。
国の歴史よりもずっと古くから、この土地で繰り返されてきたであろう、人間を含めた生と死のサイクルがこの映画からは見えてくる。
人間と蜂と、谷の自然を見つめることで見えてくる、命のストーリー。
驚くべき傑作である。
今回は、高知県の菊水酒造の作る蜂蜜酒のミード、「シークレット・オブ・クレオパトラ」をチョイス。
人類が飲んだ最初の酒は、木の洞などにたまった蜂蜜と雨水などが混じり合い、自然発酵して出来たものと考えられている。
ミードはあらゆるアルコール文化の源流なのだ。
銘柄はミードが古代エジプトの女王、クレオパトラの愛飲酒だっという話から。
蜂蜜が花の種類によって味が異なる様に、ミードもまた蜂蜜によって大きく味わいが違ってくるが、こちらはレンゲ蜂蜜を使用。
蜂蜜を使っているといっても甘さは控えめで、CPも高いのでデザートワイン感覚で普段使い出来る。

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