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※noraneko285でつぶやいてます。ブログで書いてない映画の話なども。
※noraneko285ツイッターでつぶやいた全作品をアーカイブしています。


2020年08月31日 (月) | 編集 |
世界は知らないことばかり。
勉強一筋で高校3年間を過ごした意識高い系の女子高生コンビが、卒業式前夜に突然のパリピデビューする。
ビーニー・フェルドスタインとケイトリン・ディーヴァーが演じる、モリーとエイミーは親友同士。
と言うか、お互い以外に親しい友人はいない。
生徒会長のモリーは名門イエール大学に進学が決まっていて、環境問題に関心が深いエイミーは進学前にアフリカで活動をする予定。
二人とも、自分はエリート街道を歩む未来の勝ち組だと思っていて、パーティー三昧に高校生活を謳歌しているクラスメイトたちを見下している。
ところが、卒業を翌日に控えたある日、周りで遊んでるだけに見えていたクラスメイトたちが、実は自分たちに負けないエリートコースに進むことを知ってしまう。
同じイエール大に進学する生徒もいるし、所謂GAFAに就職する者も。
自分たちは限られたエリートじゃなかった!
今まで遊びには目もくれず、ひたすらガリ勉してきた自分たちは、実は負け組じゃないか!とプライド崩壊。
面白いのがこの会話が交わされるのが、ジェンダーフリーのトイレだということ。
舞台となるのがリベラルなカリフォルニアということもあるのだろうが、もう映画の中に自然に出てくるほど普及しているのだな。
タイトルの「ブックスマート」とは、「本を沢山読んで博識だが実践を伴わない人」のこと。
主人公の二人はまさにこれで、勉強はできるけど、ただそれだけ。
自分の周り、半径2メートルのこと以外を全く知らず、唐突に価値観を壊された二人は、取り残されたように感じてしまう。
だがここで「いやまてよ、まだ間に合う」と考え方チェンジ。
明日まではまだ高校生だから、今夜思いっきり弾けてしまえば、勉強以外でも高校生活を楽しんだことになって汚点を残さずにすむ!
開き直った二人は、どうせならと一番盛り上がっているパーティーを目指すのだが、悲しいかな友達がいないからどこでやっているのかわからない。
生配信されているYouTubeを手掛かりに、ほかの生徒や教師たちまで巻き込んで、パーティー巡りの旅に出かけるのだ。
勉強だけしか知らない二人にとって、それはあたかも大人になるための通過儀礼、都会の夜のビジョンクエストだ。
それぞれに失恋し、お酒やドラッグを知り、ハイになってなぜか自分がバービー人形になっちゃうシュールな悪夢も経験する。
二人のうち、生真面目なエイミーを同性愛者に設定したのも上手い。
ストーリー的には、昔からある一晩の青春グラフィティものだが、この設定によって単純なラブコメの構造から脱却し、より普遍的な人間性の物語となった。
二人はいくつものパーティーを巡るプチ冒険を通して、今まで漠然と過ごしていた学校という生態系の多様さ、毎日共に過ごしていたはずのクラスメイトたちが何者で、どんな葛藤を秘めているのかを初めて目の当たりにする。
知って考えて悩んで、自分自身を変えてゆくのだ。
夜が明けた時、二人の見ている世界は前日とは違っている。
よく幼い子供は大人が知らないうちに突然成長すると言うけれど、それはハイティーンくらいまでは当てはまるのかも知れない。
コミカルだけどホロリとさせ、古典的だけど斬新。
登場人物たちにエールを送りたくなる、瑞々しい青春映画。
オリヴィア・ワイルド監督、お見事なデビュー作だ。
今回は黄金の夜明けを意味する「ゴールデン・ドーン」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、カルバトス30ml、アプリコット・ブランデー30ml、オレンジ・ジュース30ml、アンゴスチュラ・ビターズ2dashを氷と共にシェイクし、冷やしたグラスに注ぐ。
最後にグレナデン・シロップ5mlを、静かにグラスの真ん中に落とし入れる。
赤みの強いグレナデン・シロップが、黄金の海から浮かび上がる朝日になるというわけ。
柑橘系の香りが豊かで、沈んだシロップを軽く混ぜると甘味が強くなって飲みやすくなる。
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勉強一筋で高校3年間を過ごした意識高い系の女子高生コンビが、卒業式前夜に突然のパリピデビューする。
ビーニー・フェルドスタインとケイトリン・ディーヴァーが演じる、モリーとエイミーは親友同士。
と言うか、お互い以外に親しい友人はいない。
生徒会長のモリーは名門イエール大学に進学が決まっていて、環境問題に関心が深いエイミーは進学前にアフリカで活動をする予定。
二人とも、自分はエリート街道を歩む未来の勝ち組だと思っていて、パーティー三昧に高校生活を謳歌しているクラスメイトたちを見下している。
ところが、卒業を翌日に控えたある日、周りで遊んでるだけに見えていたクラスメイトたちが、実は自分たちに負けないエリートコースに進むことを知ってしまう。
同じイエール大に進学する生徒もいるし、所謂GAFAに就職する者も。
自分たちは限られたエリートじゃなかった!
今まで遊びには目もくれず、ひたすらガリ勉してきた自分たちは、実は負け組じゃないか!とプライド崩壊。
面白いのがこの会話が交わされるのが、ジェンダーフリーのトイレだということ。
舞台となるのがリベラルなカリフォルニアということもあるのだろうが、もう映画の中に自然に出てくるほど普及しているのだな。
タイトルの「ブックスマート」とは、「本を沢山読んで博識だが実践を伴わない人」のこと。
主人公の二人はまさにこれで、勉強はできるけど、ただそれだけ。
自分の周り、半径2メートルのこと以外を全く知らず、唐突に価値観を壊された二人は、取り残されたように感じてしまう。
だがここで「いやまてよ、まだ間に合う」と考え方チェンジ。
明日まではまだ高校生だから、今夜思いっきり弾けてしまえば、勉強以外でも高校生活を楽しんだことになって汚点を残さずにすむ!
開き直った二人は、どうせならと一番盛り上がっているパーティーを目指すのだが、悲しいかな友達がいないからどこでやっているのかわからない。
生配信されているYouTubeを手掛かりに、ほかの生徒や教師たちまで巻き込んで、パーティー巡りの旅に出かけるのだ。
勉強だけしか知らない二人にとって、それはあたかも大人になるための通過儀礼、都会の夜のビジョンクエストだ。
それぞれに失恋し、お酒やドラッグを知り、ハイになってなぜか自分がバービー人形になっちゃうシュールな悪夢も経験する。
二人のうち、生真面目なエイミーを同性愛者に設定したのも上手い。
ストーリー的には、昔からある一晩の青春グラフィティものだが、この設定によって単純なラブコメの構造から脱却し、より普遍的な人間性の物語となった。
二人はいくつものパーティーを巡るプチ冒険を通して、今まで漠然と過ごしていた学校という生態系の多様さ、毎日共に過ごしていたはずのクラスメイトたちが何者で、どんな葛藤を秘めているのかを初めて目の当たりにする。
知って考えて悩んで、自分自身を変えてゆくのだ。
夜が明けた時、二人の見ている世界は前日とは違っている。
よく幼い子供は大人が知らないうちに突然成長すると言うけれど、それはハイティーンくらいまでは当てはまるのかも知れない。
コミカルだけどホロリとさせ、古典的だけど斬新。
登場人物たちにエールを送りたくなる、瑞々しい青春映画。
オリヴィア・ワイルド監督、お見事なデビュー作だ。
今回は黄金の夜明けを意味する「ゴールデン・ドーン」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、カルバトス30ml、アプリコット・ブランデー30ml、オレンジ・ジュース30ml、アンゴスチュラ・ビターズ2dashを氷と共にシェイクし、冷やしたグラスに注ぐ。
最後にグレナデン・シロップ5mlを、静かにグラスの真ん中に落とし入れる。
赤みの強いグレナデン・シロップが、黄金の海から浮かび上がる朝日になるというわけ。
柑橘系の香りが豊かで、沈んだシロップを軽く混ぜると甘味が強くなって飲みやすくなる。

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2020年08月29日 (土) | 編集 |
もしも魔法が使えたら。
ピクサー・アニメーション・スタジオの22作目「2分の1の魔法」は、科学の発展によって魔法が失われたファンタジーの世界の物語。
エルフやケンタウロスなど、多種多様な幻想生物の住む大都会で、エルフの兄弟が魔法で亡くなった父親を蘇らせようとして失敗。
なぜか下半身だけの状態で復活してしまい、兄弟は上半身をつなげるために魔法に不可欠な「不死鳥の石」を探す冒険に出る。
24時間のタイムリミットの中で描かれるのは、ワクワクする冒険、家族の絆、そして「できない」を超えて新しい一歩を踏み出す勇気。
監督と共同脚本は、「モンスターズ・ユニバーシティ」のダン・スキャンロン 。
アメリカの興業街が依然として閉じたままで、新作映画の供給が滞っている今となっては貴重な、大作感のある“ザ・ハリウッド映画”だ。
エルフの少年イアン・ライトフット(トム・ホランド)は、魔法マニアの兄のバーリー(クリス・プラット)と母のローレル(ジュリア・ルイス=ドレイファス)との三人暮らし。
父のウィルデンは、イアンが生まれる前に病気で亡くなり、一度も会ったことがない。
イアンは16歳の誕生日に、ローレルから亡くなる前に父から託されたという魔法の杖を受け取る。
それにはウィルデンを1日だけ復活させることの出来る、蘇りの魔法の手順が添えられていたのだが、イアンは慣れない魔法に失敗し、ウィルデンの足だけが復活。
魔法の効力は一日だけなので、翌日の日没までにもう一度魔法をかけなおして上半身を復活させないと、永遠に父とは会えなくなってしまう。
蘇りの魔法に必要な「不死鳥の石」を探すため、イアンはバーリーと石が隠されている伝説のダンジョンへと向かうのだが・・・・
「もしファンタジーの世界から、魔法だけが失われたら?」というのは、ありそうで無かった面白い発想だ。
ディズニー黄金期のアニメーション映画の金字塔、「ファンタジア」の「魔法使いの弟子」のエピソードでも描かれたように、魔法は便利だけど訓練が不可欠。
誰もが自由に使えるものではない。
社会が大きく複雑になればなるほど、より便利により自由に使える「魔法に代わるもの」が求められるのは必然だ。
この映画の世界では、「科学」が生活を変えていった結果、限りなく現実世界と同じような社会が出来上がっているのが面白い。
ファンタジー世界でお馴染みの、様々な生き物たちはそのままだが、機械の力を借りて楽をすることを知り、本来持っていた能力も使う機会がなくなってしまった。
ケンタウロスは走ることをやめ、ピクシーの羽は無用となり、恐ろしいマンティコアは爪を隠し、魔法石が隠されたダンジョンは忘れられ、魔法使いという職業は消え去った。
魔法が失われた世界で、魔法を使ってしまったことにより、想定外の騒動が起こるのが本作。
しかし、色々詰め込まれていて序盤は結構とっ散らかった話だなと思った。
まあ現実を模したファンタジー世界というのは、例えば「モンスターズ」シリーズや「カーズ」シリーズもそうだったしピクサーのお家芸なのだが、そこにRPG的な冒険譚に加え、兄弟愛に親子愛、さらには社会全体の価値観の問題までもが盛り込まれ、いわば「ピクサー映画全部入り」的な内容になっているのだ。
もっとも、詰め込むだけ詰め込んでも、空中分解しちゃわないのが、流石のクオリティコントロール。
兄弟それぞれの葛藤だけでなく、脇の脇役に至るまで、あらゆる登場キャラクターにソリューションをもたらす物語の畳み方のうまさは惚れ惚れする。
主人公のイアンは内気な少年で、心を開いて人と接することが苦手。
何ごとにも臆病で、新しい一歩を踏み出すこともなかなか出来ない。
そんな自分のダメさ加減は分かっていて、生まれる前に亡くなった父ウィルデンと一度でいいから会って話をしてみたいと思っている。
具体的な相談があるとかではなく、とにかくひと目あってみたい。
父に会えれば、自分の中で何かが変わるのではないかと漠然と考えているのだ。
だから目も口も無い、足だけの幽霊パパではダメなのである。
一方、兄のバリーは幼い頃に父と過ごした思い出を持っている。
魔法が失われた世界で魔法マニアのバリーは、いわばこの世界ではオタクではみ出し者。
大学にも行かずにふらふらとしている、一家の問題児と見なされているが、実はバリーの価値観に大きな影響を与えているのが、「魔法」をまだ見ぬ息子へのプレゼントとして残したウィルデンなのである。
亡き父を一度だけ蘇らせる魔法を完成させるため、臆病なイアンはバリーに焚きつけられて冒険の旅に出る。
今までの自分だったら、絶対に無理だと思い込んでいた様々な経験を通して、イアンは才能あふれる一端の駆け出し魔法使いへと成長してゆく。
そしてある時ふと考えるのだ。
ウェルデンのいない環境で、父の代わりに自分をずっと守ってくれて、成長させてくれたのは誰なのか。
本当に父と会うべきなのは、最初から記憶を持たない自分よりも、共に暮らした記憶を宝物として大切にしている者なのではないか。
いちばん大切なもの、絶対に欲しいものは実ははじめから身近にあったという、メーテルリンクの「青い鳥」的冒険譚だが、成長を遂げた主人公の、自らへの問いから導き出された結末の美しさは、相変わらず見事だ。
これは兄弟愛、家族愛の物語であるのと同時に、生き方の豊かさに関する寓話でもあり、イアンとバリーの活躍で魔法が復活したことによって、科学の便利さは享受しつつも、人生を楽しむためにも古いもの、非効率的なものも大切にしてゆこうよ、という結論はちょっと「カーズ」にも通じるものがある。
主人公兄弟を演じるトム・ホランドとクリス・プラットの掛け合いも楽しく、夢いっぱい冒険いっぱいの、いかにもアメリカ映画らしい優れたファミリー・ファンタジー。
特に対照的な性格の兄弟姉妹のいる人には、感情的な「あるある!」も満載で共感率高し。
しかし、残念ながら今回も短編は無し。
ディズニー・ピクサー作品は、未来の才能を見つけられる素晴らしい短編が楽しみだったのになあ。
今回は、ファンタジーの世界の話なので、ボルドーのシャトー・サンクリットが作る 「ラヴ&カベルネ」の2017年をチョイス。
ハートの風船とユニコーンのラベルが印象的。
ミディアムボディのちょい辛口で、ギュッと凝縮された果実味が豊富。
最近は暑すぎて、赤ワインは敬遠がちだけど、このくらい軽さなら、ちょっと冷やして赤身のお肉に合わせたい。
普段飲み出来るCPもありがたく、ワインの飲み方としては邪道だけどスパークリングウォーターで割ってもスッキリして美味しい。
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ピクサー・アニメーション・スタジオの22作目「2分の1の魔法」は、科学の発展によって魔法が失われたファンタジーの世界の物語。
エルフやケンタウロスなど、多種多様な幻想生物の住む大都会で、エルフの兄弟が魔法で亡くなった父親を蘇らせようとして失敗。
なぜか下半身だけの状態で復活してしまい、兄弟は上半身をつなげるために魔法に不可欠な「不死鳥の石」を探す冒険に出る。
24時間のタイムリミットの中で描かれるのは、ワクワクする冒険、家族の絆、そして「できない」を超えて新しい一歩を踏み出す勇気。
監督と共同脚本は、「モンスターズ・ユニバーシティ」のダン・スキャンロン 。
アメリカの興業街が依然として閉じたままで、新作映画の供給が滞っている今となっては貴重な、大作感のある“ザ・ハリウッド映画”だ。
エルフの少年イアン・ライトフット(トム・ホランド)は、魔法マニアの兄のバーリー(クリス・プラット)と母のローレル(ジュリア・ルイス=ドレイファス)との三人暮らし。
父のウィルデンは、イアンが生まれる前に病気で亡くなり、一度も会ったことがない。
イアンは16歳の誕生日に、ローレルから亡くなる前に父から託されたという魔法の杖を受け取る。
それにはウィルデンを1日だけ復活させることの出来る、蘇りの魔法の手順が添えられていたのだが、イアンは慣れない魔法に失敗し、ウィルデンの足だけが復活。
魔法の効力は一日だけなので、翌日の日没までにもう一度魔法をかけなおして上半身を復活させないと、永遠に父とは会えなくなってしまう。
蘇りの魔法に必要な「不死鳥の石」を探すため、イアンはバーリーと石が隠されている伝説のダンジョンへと向かうのだが・・・・
「もしファンタジーの世界から、魔法だけが失われたら?」というのは、ありそうで無かった面白い発想だ。
ディズニー黄金期のアニメーション映画の金字塔、「ファンタジア」の「魔法使いの弟子」のエピソードでも描かれたように、魔法は便利だけど訓練が不可欠。
誰もが自由に使えるものではない。
社会が大きく複雑になればなるほど、より便利により自由に使える「魔法に代わるもの」が求められるのは必然だ。
この映画の世界では、「科学」が生活を変えていった結果、限りなく現実世界と同じような社会が出来上がっているのが面白い。
ファンタジー世界でお馴染みの、様々な生き物たちはそのままだが、機械の力を借りて楽をすることを知り、本来持っていた能力も使う機会がなくなってしまった。
ケンタウロスは走ることをやめ、ピクシーの羽は無用となり、恐ろしいマンティコアは爪を隠し、魔法石が隠されたダンジョンは忘れられ、魔法使いという職業は消え去った。
魔法が失われた世界で、魔法を使ってしまったことにより、想定外の騒動が起こるのが本作。
しかし、色々詰め込まれていて序盤は結構とっ散らかった話だなと思った。
まあ現実を模したファンタジー世界というのは、例えば「モンスターズ」シリーズや「カーズ」シリーズもそうだったしピクサーのお家芸なのだが、そこにRPG的な冒険譚に加え、兄弟愛に親子愛、さらには社会全体の価値観の問題までもが盛り込まれ、いわば「ピクサー映画全部入り」的な内容になっているのだ。
もっとも、詰め込むだけ詰め込んでも、空中分解しちゃわないのが、流石のクオリティコントロール。
兄弟それぞれの葛藤だけでなく、脇の脇役に至るまで、あらゆる登場キャラクターにソリューションをもたらす物語の畳み方のうまさは惚れ惚れする。
主人公のイアンは内気な少年で、心を開いて人と接することが苦手。
何ごとにも臆病で、新しい一歩を踏み出すこともなかなか出来ない。
そんな自分のダメさ加減は分かっていて、生まれる前に亡くなった父ウィルデンと一度でいいから会って話をしてみたいと思っている。
具体的な相談があるとかではなく、とにかくひと目あってみたい。
父に会えれば、自分の中で何かが変わるのではないかと漠然と考えているのだ。
だから目も口も無い、足だけの幽霊パパではダメなのである。
一方、兄のバリーは幼い頃に父と過ごした思い出を持っている。
魔法が失われた世界で魔法マニアのバリーは、いわばこの世界ではオタクではみ出し者。
大学にも行かずにふらふらとしている、一家の問題児と見なされているが、実はバリーの価値観に大きな影響を与えているのが、「魔法」をまだ見ぬ息子へのプレゼントとして残したウィルデンなのである。
亡き父を一度だけ蘇らせる魔法を完成させるため、臆病なイアンはバリーに焚きつけられて冒険の旅に出る。
今までの自分だったら、絶対に無理だと思い込んでいた様々な経験を通して、イアンは才能あふれる一端の駆け出し魔法使いへと成長してゆく。
そしてある時ふと考えるのだ。
ウェルデンのいない環境で、父の代わりに自分をずっと守ってくれて、成長させてくれたのは誰なのか。
本当に父と会うべきなのは、最初から記憶を持たない自分よりも、共に暮らした記憶を宝物として大切にしている者なのではないか。
いちばん大切なもの、絶対に欲しいものは実ははじめから身近にあったという、メーテルリンクの「青い鳥」的冒険譚だが、成長を遂げた主人公の、自らへの問いから導き出された結末の美しさは、相変わらず見事だ。
これは兄弟愛、家族愛の物語であるのと同時に、生き方の豊かさに関する寓話でもあり、イアンとバリーの活躍で魔法が復活したことによって、科学の便利さは享受しつつも、人生を楽しむためにも古いもの、非効率的なものも大切にしてゆこうよ、という結論はちょっと「カーズ」にも通じるものがある。
主人公兄弟を演じるトム・ホランドとクリス・プラットの掛け合いも楽しく、夢いっぱい冒険いっぱいの、いかにもアメリカ映画らしい優れたファミリー・ファンタジー。
特に対照的な性格の兄弟姉妹のいる人には、感情的な「あるある!」も満載で共感率高し。
しかし、残念ながら今回も短編は無し。
ディズニー・ピクサー作品は、未来の才能を見つけられる素晴らしい短編が楽しみだったのになあ。
今回は、ファンタジーの世界の話なので、ボルドーのシャトー・サンクリットが作る 「ラヴ&カベルネ」の2017年をチョイス。
ハートの風船とユニコーンのラベルが印象的。
ミディアムボディのちょい辛口で、ギュッと凝縮された果実味が豊富。
最近は暑すぎて、赤ワインは敬遠がちだけど、このくらい軽さなら、ちょっと冷やして赤身のお肉に合わせたい。
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2020年08月20日 (木) | 編集 |
恋とは、思い通りにならぬもの。
これはキツい。
又吉直樹の作品の主人公は、なぜこんなにも痛々しいのか。
渡辺大知演じる加藤は、売り出し中の若手ドラマ脚本家。
彼は仲のいい女友達の美帆に恋しているのだが、今の関係を壊すのが怖くて、ずーっと告白できないでいる。
天然系アーティスト気質の彼女は彼女で、あんまり男心が分かるタイプではなく、加藤の気持ちには全く気づいてくれない。
傍目から見たらデートとしか思えないような行動をしていても、加藤の恋心はどこまでも燻り続けるしかないのだ。
劇作家の玉田真也が、「別冊カドカワ総力特集『又吉直樹』」に収録された「僕の好きな女の子」を映画化した作品。
又吉先生の男性主人公といえば、クリエイター系のダメ人間である。
先日公開された「劇場」で山崎賢人が演じた永田は、傲慢で人を傷つけることを厭わない、売れない劇作家。
献身的な恋人のヒモ状態で暮らすこと10年。
結局彼女の青春を食い潰し、その経験を芸の肥やしとして自分は演劇人として開花する。
本作の加藤は、「物語を作る人」という共通項はあれど、小劇団とテレビドラマというジャンルの違いが象徴するように、性格的には真逆。
彼女の家に転がり込むどころか、告白することすらできないまま、いい歳して悶々とした気持ちを抱え込んでいる、違ったタイプのダメ人間だ。
加藤は「自分と美帆は恋愛を超えた特別な関係なんだ!」と思い込むことで誤魔化してるのだが、所詮は勇気を出せない言い訳に過ぎない。
ところが美帆との沸きらない関係をモデルにドラマを作ったことで、友人たちにイタい恋愛観を看破され、思いっきりダメ出しされてしまう。
温厚でのび太系の加藤は、見るからに「いい人」で、劇中でも何度も何度も「いい人」と言われる。
だが、この言葉はイコール「便利な人、都合の良い人」に他ならない。
加藤は、誰かから「いい人」と呼ばれる度に、自分の弱さを見透かされるように、心をえぐられてゆくのである。
ぶっちゃけ、これほどナイーブな人間に恋愛ドラマが書けるのか?序盤はなんとかなっても果たしてドラマを完結に導けるのだろうか?とか余計な心配をしてしまった。
しかし、このもどかしい関係はどこかで観たことあるなあと思っていたのだが、エンドクレジットに「脚本協力」として今泉力哉の名前があるじゃないか。
なるほど、これを「愛がなんだ」の男女違い版と考えると妙に納得。
まあ「劇場」の見事な脚色を見てしまうと、エピローグの加藤のその後にはもう一工夫あっても良かったと思うが、またしてもダメダメな主人公に思いっきり感情移入してしまった。
散々ダメ呼ばわりしてきたが、「火花」や「劇場」の主人公も含めて、又吉作品の男性キャラクターには、普遍的なリアリティがある。
「劇場」の永田も本作の加藤も、自分の中にもある男の弱い心を赤裸々に明かされているようで、ダメだとは思ってもどうしても否定は出来ないんだな。
加藤が美帆と新しい彼氏をボートに乗せたのは、もちろん「井の頭公園でボートに乗ったカップルは別れる」という都市伝説を知っていたからだろう。
自分を不幸のどん底に落としておいて(自分のせいだけど)幸せを謳歌する彼女に、ささやかな「呪い」をかけるくらいしか出来ない、加藤の痛々しいいい人っぷりに泣けてくる。
今回は、悲しき片思いだったので「トゥルー・ラブ」をチョイス。
ドライ・ベルモット15ml、ポートワインの赤15ml、スコッチ・ウィスキー15mlを氷と一緒にミキシンググラスでステアして、グラスに注ぐ。
ルビー色の美しいカクテルで、口当たりはマイルドだが相当に強い。
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これはキツい。
又吉直樹の作品の主人公は、なぜこんなにも痛々しいのか。
渡辺大知演じる加藤は、売り出し中の若手ドラマ脚本家。
彼は仲のいい女友達の美帆に恋しているのだが、今の関係を壊すのが怖くて、ずーっと告白できないでいる。
天然系アーティスト気質の彼女は彼女で、あんまり男心が分かるタイプではなく、加藤の気持ちには全く気づいてくれない。
傍目から見たらデートとしか思えないような行動をしていても、加藤の恋心はどこまでも燻り続けるしかないのだ。
劇作家の玉田真也が、「別冊カドカワ総力特集『又吉直樹』」に収録された「僕の好きな女の子」を映画化した作品。
又吉先生の男性主人公といえば、クリエイター系のダメ人間である。
先日公開された「劇場」で山崎賢人が演じた永田は、傲慢で人を傷つけることを厭わない、売れない劇作家。
献身的な恋人のヒモ状態で暮らすこと10年。
結局彼女の青春を食い潰し、その経験を芸の肥やしとして自分は演劇人として開花する。
本作の加藤は、「物語を作る人」という共通項はあれど、小劇団とテレビドラマというジャンルの違いが象徴するように、性格的には真逆。
彼女の家に転がり込むどころか、告白することすらできないまま、いい歳して悶々とした気持ちを抱え込んでいる、違ったタイプのダメ人間だ。
加藤は「自分と美帆は恋愛を超えた特別な関係なんだ!」と思い込むことで誤魔化してるのだが、所詮は勇気を出せない言い訳に過ぎない。
ところが美帆との沸きらない関係をモデルにドラマを作ったことで、友人たちにイタい恋愛観を看破され、思いっきりダメ出しされてしまう。
温厚でのび太系の加藤は、見るからに「いい人」で、劇中でも何度も何度も「いい人」と言われる。
だが、この言葉はイコール「便利な人、都合の良い人」に他ならない。
加藤は、誰かから「いい人」と呼ばれる度に、自分の弱さを見透かされるように、心をえぐられてゆくのである。
ぶっちゃけ、これほどナイーブな人間に恋愛ドラマが書けるのか?序盤はなんとかなっても果たしてドラマを完結に導けるのだろうか?とか余計な心配をしてしまった。
しかし、このもどかしい関係はどこかで観たことあるなあと思っていたのだが、エンドクレジットに「脚本協力」として今泉力哉の名前があるじゃないか。
なるほど、これを「愛がなんだ」の男女違い版と考えると妙に納得。
まあ「劇場」の見事な脚色を見てしまうと、エピローグの加藤のその後にはもう一工夫あっても良かったと思うが、またしてもダメダメな主人公に思いっきり感情移入してしまった。
散々ダメ呼ばわりしてきたが、「火花」や「劇場」の主人公も含めて、又吉作品の男性キャラクターには、普遍的なリアリティがある。
「劇場」の永田も本作の加藤も、自分の中にもある男の弱い心を赤裸々に明かされているようで、ダメだとは思ってもどうしても否定は出来ないんだな。
加藤が美帆と新しい彼氏をボートに乗せたのは、もちろん「井の頭公園でボートに乗ったカップルは別れる」という都市伝説を知っていたからだろう。
自分を不幸のどん底に落としておいて(自分のせいだけど)幸せを謳歌する彼女に、ささやかな「呪い」をかけるくらいしか出来ない、加藤の痛々しいいい人っぷりに泣けてくる。
今回は、悲しき片思いだったので「トゥルー・ラブ」をチョイス。
ドライ・ベルモット15ml、ポートワインの赤15ml、スコッチ・ウィスキー15mlを氷と一緒にミキシンググラスでステアして、グラスに注ぐ。
ルビー色の美しいカクテルで、口当たりはマイルドだが相当に強い。

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2020年08月13日 (木) | 編集 |
傷付けられても、愛したかった。
俳優のシャイア・ラブーフが、初めて脚本を執筆した自伝的セルフセラピー映画。
ハリウッドの人気スターの主人公が、アルコール依存症のリハビリ施設で治療を受ける現在と、安モーテルで父親と暮らしていた子役時代が並行して描かれてゆく。
タイトルの「ハニーボーイ」とは、子供の頃のラブーフのあだ名だったそう。
現在に生きる三人の若者たちの「愛」についての物語を、現実と再現ドラマを織り交ぜて描いた異色のドキュメンタリー映画、「ラブ・トゥルー」のアルマ・ハレル監督が、友人でもあるラブーフの物語を繊細に紡ぎ出す。
主人公の子供時代をノア・ジュープ、10年後の青年期をルーカス・ヘッジズが演じる。
トラブルメーカー の父親役には、シャイア・ラブーフ自らがが扮した。
人間はいつの時点で大人になるのか?いつの時点で親離れできるのか?
なかなかに味わい深い佳作である。
2005年。
ハリウッドで活躍する俳優のオーティス・ロート(ルーカス・ヘッジス/ノア・ジュープ)は、酒を飲んで自動車事故を起こし、アルコール依存症のリハビリ施設に入所する。
過去の心の傷によるPTSD(心的外傷後ストレス障害)を患っていると診断されたオーティスは、トラウマの正体を探るために、子供の頃の思い出をノートにしたためる。
10年前、人気子役だったオーティスは、スタジオ近くの安モーテルで、父のジェームズ(シャイア・ラブーフ)と暮らしていた。
エキセントリックな性格のジェームズは、前科があるために仕事につけず、オーティスのマネージメントで生計を立てる毎日。
全てをジェームズにコントロールされるオーティスと、オーティスに依存しなければ生活できないジェームズ。
だが二人の関係は、オーティスの成長と共に、すこしずつ変化してゆく・・・
冒頭の2005年のハリウッドで、「トランスフォーマー」チックな映画を撮影している22歳のオーティスは、ワイヤーアクション用のハーネスに拘束されている。
それは自分では取り外せないほどキチキチに取り付けられているのだが、10年前の子役時代に場面が変わると、やはりオーティスはハーネスに拘束されているのだ。
オーティスは楽屋にいるジェームズにハーネスを取って欲しいと頼むのだが、女性との話に夢中のジェームズはなかなか相手にしてくれない。
この現在と過去の二つの描写が、本作の向かう先を象徴する。
ワイヤーアクション用のハーネスは、普通はスクリーンに映らない。
本作は子供の頃も大人になってからも、見えない何かに拘束された男が、その正体に気づいて取り外すまでの物語なのである。
入所したアルコール依存症のリハビリ施設でPTSDと診断され、暴露療法として子供時代の父との関係をノートに書き記し、続いてそれを元にシナリオを執筆、最後にトラウマの元となった父を自らが演じる。
非常にユニークな企画性を持つ、ある意味究極の私小説的作品だが、元々自己客観視を目的としていたからか、強烈な実体験感を持ちながら視点は非常に冷静。
さらにアルマ・ハレルの演出も、ドキュメンタリストらしく対象から絶妙な距離感を保ち、第三者的に物語を描いているので、過度に痛々しくないのもいい。
自伝的作品と言っても、登場人物の年齢や時系列は実際とは異なっている。
本作では、2005年に交通事故を起こした22歳のオーティスがリハビリ施設に入り、そこで10年前の父との思い出と向き合うことになるが、実際にラブーフが酒気帯び運転で事故を起こしたのは2008年。
アルコール依存症のリハビリ施設に入りPTSDと診断されたのは、「ザ・ピーナッツバター・ファルコン」の撮影中に、警察とトラブルを起こした2017年のことだ。
一連の治療の結果として生まれた作品で、ラブーフ自身が父を演じるのも、いわば演劇療法みたいなもので、彼にとっては治療の総仕上げなのかもしれない。
というか、実際のラブーフってまだに34歳の若さだったのか!とちょっとびっくりした。
ラブーフが演じるジェームズは、いわゆる毒親さんだ。
長年アルコール依存症に苦しみ、妻とは離婚し、前科者のためにまともな職にもつけない。
元ロデオのピエロだった経歴を生かし、一人息子のオーティスをハリウッドの子役スターに育て、彼のギャラで生計を立てているステージパパ。
しかしオーティスは人気子役なのに、住んでいるのは安モーテル。
スラム化したモーテルを舞台としたショーン・ベイカー監督の傑作、「フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法」でも描かれたように、事前に収めるセキュリティ・ディポジットが必要のない場末のモーテルは、米国では家を買えない、借りられない貧困層の住居でもある。
オーティスの稼ぎがあるから日銭には困らないが、かたぎの仕事についていないジェームズは、おそらくきちんとした住宅を借りられないのだ。
ジェームズも、自分の状況がどん底なのは分かっている。
なんとかアルコールは克服したものの、性格は超エキセントリックでまともに人とコミュニケーションが取れず、常に躁状態。
フリーウエイの脇の植え込みに勝手にマリワナの種を撒いて、育つのを眺めるのが楽しみという、子供がそのまま大人になったような不安定なキャラクターだ。
プライドだけは高いから、オーティスが問題のある家庭の子供を支援する非営利組織、ビッグ・ブラザーズ・ビッグ・シスターズから派遣されているトムを信頼しているのが気に入らず、訪ねてきたトムを嫉妬に狂ってプールに投げ落としちゃう。
一方のオーティスは、自分よりも子供っぽい父を養うために、普通よりも早く大人になってゆく。
本当ならば、まだまだ大人に甘えたい12歳。
父親からは色々なことを教わって少しずつ成長してゆく年齢なのに、オーティスにはそれは叶わないのである。
ジェームが別れた妻と、オーティスを通して電話越しに喧嘩するくだりなんて、映画の描写としては可笑しくてたまらないけど、普通あれ子供にやらせるか。
この映画を観るまでは、シャイア・ラブーフというと、演技は上手いけど色々お騒がせな人だと思っていたが、そりゃこんな育ち方してたら心も荒れるわ。
ラブーフは若い頃からどこか影があって、それが俳優としての魅力に繋がっていたのだが、その原因がこんなところにあったとは。
やるせないのが、ジェームズも決して悪人ではなく、彼なりにオーティスを愛していること。
大人になって振り返れば、息子に依存して生きる父の苦悩も理解できる。
アルマ・ハレルは、マジックアワーの情景を多用し、二人の絡み合う葛藤を詩的に表現する。
これは言わば、息子から父への長年の愛憎が入り混じった私信のような作品。
本作を作るにあたって、ラブーフも長年音信不通だった父親と久しぶりに会って話したというが、本音の言葉を吐き出すまでに、映画のオーティスで10年、現実には20年という長い時間がかかったわけだ。
治療を受けるきっかけになった「ザ・ピーナッツバター・ファルコン」でも、ダメ人間の役だったけど、無意識に父の思い出に寄せて行ってたのかも。
子は親を選べないが、親はある程度までは子を思い通りにできるんだよなあ。
この映画を作ったことで、ラブーフの心にも平安が戻ってくればいいけど。
今回はタイトルに因んで、蜂蜜を使ったカクテル「ビーズ・ニーズ」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、レモン・ジュース20ml、蜂蜜適量をシェイクする。
蜂蜜は強くシェイクしないとなかなか混ざらないので注意。
ビーズ・ニーズは禁酒法時代に密造された粗悪品のジンを、なんとか美味しく飲むために生まれたと言われている。
実際、この三つの素材の相性はとても良好で、蜂蜜の甘みとレモンの酸味はちょっと青春の味っぽく、さっぱりといただける。
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俳優のシャイア・ラブーフが、初めて脚本を執筆した自伝的セルフセラピー映画。
ハリウッドの人気スターの主人公が、アルコール依存症のリハビリ施設で治療を受ける現在と、安モーテルで父親と暮らしていた子役時代が並行して描かれてゆく。
タイトルの「ハニーボーイ」とは、子供の頃のラブーフのあだ名だったそう。
現在に生きる三人の若者たちの「愛」についての物語を、現実と再現ドラマを織り交ぜて描いた異色のドキュメンタリー映画、「ラブ・トゥルー」のアルマ・ハレル監督が、友人でもあるラブーフの物語を繊細に紡ぎ出す。
主人公の子供時代をノア・ジュープ、10年後の青年期をルーカス・ヘッジズが演じる。
トラブルメーカー の父親役には、シャイア・ラブーフ自らがが扮した。
人間はいつの時点で大人になるのか?いつの時点で親離れできるのか?
なかなかに味わい深い佳作である。
2005年。
ハリウッドで活躍する俳優のオーティス・ロート(ルーカス・ヘッジス/ノア・ジュープ)は、酒を飲んで自動車事故を起こし、アルコール依存症のリハビリ施設に入所する。
過去の心の傷によるPTSD(心的外傷後ストレス障害)を患っていると診断されたオーティスは、トラウマの正体を探るために、子供の頃の思い出をノートにしたためる。
10年前、人気子役だったオーティスは、スタジオ近くの安モーテルで、父のジェームズ(シャイア・ラブーフ)と暮らしていた。
エキセントリックな性格のジェームズは、前科があるために仕事につけず、オーティスのマネージメントで生計を立てる毎日。
全てをジェームズにコントロールされるオーティスと、オーティスに依存しなければ生活できないジェームズ。
だが二人の関係は、オーティスの成長と共に、すこしずつ変化してゆく・・・
冒頭の2005年のハリウッドで、「トランスフォーマー」チックな映画を撮影している22歳のオーティスは、ワイヤーアクション用のハーネスに拘束されている。
それは自分では取り外せないほどキチキチに取り付けられているのだが、10年前の子役時代に場面が変わると、やはりオーティスはハーネスに拘束されているのだ。
オーティスは楽屋にいるジェームズにハーネスを取って欲しいと頼むのだが、女性との話に夢中のジェームズはなかなか相手にしてくれない。
この現在と過去の二つの描写が、本作の向かう先を象徴する。
ワイヤーアクション用のハーネスは、普通はスクリーンに映らない。
本作は子供の頃も大人になってからも、見えない何かに拘束された男が、その正体に気づいて取り外すまでの物語なのである。
入所したアルコール依存症のリハビリ施設でPTSDと診断され、暴露療法として子供時代の父との関係をノートに書き記し、続いてそれを元にシナリオを執筆、最後にトラウマの元となった父を自らが演じる。
非常にユニークな企画性を持つ、ある意味究極の私小説的作品だが、元々自己客観視を目的としていたからか、強烈な実体験感を持ちながら視点は非常に冷静。
さらにアルマ・ハレルの演出も、ドキュメンタリストらしく対象から絶妙な距離感を保ち、第三者的に物語を描いているので、過度に痛々しくないのもいい。
自伝的作品と言っても、登場人物の年齢や時系列は実際とは異なっている。
本作では、2005年に交通事故を起こした22歳のオーティスがリハビリ施設に入り、そこで10年前の父との思い出と向き合うことになるが、実際にラブーフが酒気帯び運転で事故を起こしたのは2008年。
アルコール依存症のリハビリ施設に入りPTSDと診断されたのは、「ザ・ピーナッツバター・ファルコン」の撮影中に、警察とトラブルを起こした2017年のことだ。
一連の治療の結果として生まれた作品で、ラブーフ自身が父を演じるのも、いわば演劇療法みたいなもので、彼にとっては治療の総仕上げなのかもしれない。
というか、実際のラブーフってまだに34歳の若さだったのか!とちょっとびっくりした。
ラブーフが演じるジェームズは、いわゆる毒親さんだ。
長年アルコール依存症に苦しみ、妻とは離婚し、前科者のためにまともな職にもつけない。
元ロデオのピエロだった経歴を生かし、一人息子のオーティスをハリウッドの子役スターに育て、彼のギャラで生計を立てているステージパパ。
しかしオーティスは人気子役なのに、住んでいるのは安モーテル。
スラム化したモーテルを舞台としたショーン・ベイカー監督の傑作、「フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法」でも描かれたように、事前に収めるセキュリティ・ディポジットが必要のない場末のモーテルは、米国では家を買えない、借りられない貧困層の住居でもある。
オーティスの稼ぎがあるから日銭には困らないが、かたぎの仕事についていないジェームズは、おそらくきちんとした住宅を借りられないのだ。
ジェームズも、自分の状況がどん底なのは分かっている。
なんとかアルコールは克服したものの、性格は超エキセントリックでまともに人とコミュニケーションが取れず、常に躁状態。
フリーウエイの脇の植え込みに勝手にマリワナの種を撒いて、育つのを眺めるのが楽しみという、子供がそのまま大人になったような不安定なキャラクターだ。
プライドだけは高いから、オーティスが問題のある家庭の子供を支援する非営利組織、ビッグ・ブラザーズ・ビッグ・シスターズから派遣されているトムを信頼しているのが気に入らず、訪ねてきたトムを嫉妬に狂ってプールに投げ落としちゃう。
一方のオーティスは、自分よりも子供っぽい父を養うために、普通よりも早く大人になってゆく。
本当ならば、まだまだ大人に甘えたい12歳。
父親からは色々なことを教わって少しずつ成長してゆく年齢なのに、オーティスにはそれは叶わないのである。
ジェームが別れた妻と、オーティスを通して電話越しに喧嘩するくだりなんて、映画の描写としては可笑しくてたまらないけど、普通あれ子供にやらせるか。
この映画を観るまでは、シャイア・ラブーフというと、演技は上手いけど色々お騒がせな人だと思っていたが、そりゃこんな育ち方してたら心も荒れるわ。
ラブーフは若い頃からどこか影があって、それが俳優としての魅力に繋がっていたのだが、その原因がこんなところにあったとは。
やるせないのが、ジェームズも決して悪人ではなく、彼なりにオーティスを愛していること。
大人になって振り返れば、息子に依存して生きる父の苦悩も理解できる。
アルマ・ハレルは、マジックアワーの情景を多用し、二人の絡み合う葛藤を詩的に表現する。
これは言わば、息子から父への長年の愛憎が入り混じった私信のような作品。
本作を作るにあたって、ラブーフも長年音信不通だった父親と久しぶりに会って話したというが、本音の言葉を吐き出すまでに、映画のオーティスで10年、現実には20年という長い時間がかかったわけだ。
治療を受けるきっかけになった「ザ・ピーナッツバター・ファルコン」でも、ダメ人間の役だったけど、無意識に父の思い出に寄せて行ってたのかも。
子は親を選べないが、親はある程度までは子を思い通りにできるんだよなあ。
この映画を作ったことで、ラブーフの心にも平安が戻ってくればいいけど。
今回はタイトルに因んで、蜂蜜を使ったカクテル「ビーズ・ニーズ」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、レモン・ジュース20ml、蜂蜜適量をシェイクする。
蜂蜜は強くシェイクしないとなかなか混ざらないので注意。
ビーズ・ニーズは禁酒法時代に密造された粗悪品のジンを、なんとか美味しく飲むために生まれたと言われている。
実際、この三つの素材の相性はとても良好で、蜂蜜の甘みとレモンの酸味はちょっと青春の味っぽく、さっぱりといただける。

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2020年08月08日 (土) | 編集 |
三たび、恐竜時代の冒険へ。
映画版「ドラえもん」の40作目は、1980年の春に公開された記念すべき第一作「のび太の恐竜」の発展的なリメイク。
この作品は2006年にも「のび太の恐竜2006」としてリメイクされているので、今回の映画化は14年ぶり3度目となり、監督は一昨年の「のび太の宝島」で長編監督デビューを飾った今井一暁が務める。
「のび太の宝島」に続いて、今井監督と再タッグを組んだ川村元気による脚本が非常に良く出来ていて、オリジナルにディープなリスペクトを捧げつつ、グッと深みを増した進化形バージョンになっている。
全40本の中でも、少なくともトップ5には入るであろう傑作だ。
のび太が見つけた卵の化石から恐竜の赤ちゃんが生まれ、愛情を持って育てるも本来現代にいてはいけない生物。
恐竜のためを考えて白亜紀の世界に戻しに行く、という基本プロットは変わらない。
しかし、この40年間の恐竜研究の様々な成果を取り込み、ディテールは大きくブラッシュアップされている。
恐竜の種類はフタバスズキリュウのピー助から、滑空飛行ができる新種の羽毛恐竜の双子キューとミューに変更。
双子のうち、快活なミューに対して、キューは体が小さく尻尾が短いという、「ファインディング・ニモ」的なハンディキャップがあることで、滑空が出来ないという設定が効いている。
キューの成長が、運動が苦手なのび太自身の成長とシンクロしてゆく仕組みだ。
面白いのが、キューとミュー以外の恐竜たちが、非常にリアルな3DCGで描写されていることで、これには最初違和感があったのだが、途中からその意図が明確になりなるほど納得。
オリジナルでは恐竜を捕まえて金持ちに売る、恐竜ハンターの存在が後半の脅威となるが、本作ではその存在は匂わされるものの、直接は出てこない。
かわりに終盤のサスペンスを盛り上げるのが、恐竜時代の終焉を告げる大隕石の衝突というカタストロフィと、近年発見が相次いだ肉食の超巨大翼竜だ。
隕石の辺りは、たぶんに川村元気のプロデュース作「君の名は。」の影響がありそうだが、本作はオリジナルの「のび太の恐竜」のパラレルワールド(?)と思わせる胸アツなオマージュもあり、SF(すこし・不思議)マインド溢れるクライマックスを作り上げている。
キューの持つハンディキャップが、絶滅ではなく進化につながるアイディアも、まさに21世紀的な多様性の表現となっており、老舗シリーズもしっかりアップデートしているのだなと感心。
監督の今井一暁は76年、川村元気は79年と共に70年代に生まれで、TVや漫画で「ドラえもん」に慣れ親しんで育った世代だろう。
観ていてビンビンに伝わってくるのが、作品と作者への愛だ。
作り手の世代が一巡したことで、オリジナルへのリスペクト溢れるストーリーと、テリングの技巧が高度にバランスした快作となった。
まあタイムパトロールに歴史改変はダメ云々言わせるのなら、のび太が卵をかえした時点や、ジュラ紀にアレを落とした時点で、思いっ切り改変してる気がするが、それを言い出すとそもそもドラえもんがのび太を助けに来ること自体が否定されちゃうので、あんまり突っ込むのも野暮だろう。
ちなみにタイムパトロールのジル博士が、生物の歴史への影響度を調べるのに使ってるのが、「T・Pぼん」のチェックカードだったりするのも芸が細かい。
「ドラえもん のび太の新恐竜」は、藤子・F・不二雄先生がこよなく愛した恐竜というモチーフを使い、ワクワク、ドキドキ、ワハハにホロリが全て入った実に楽しい娯楽映画だった。
しかしこれコロナ禍が収まらない中どのぐらい親子の観客が来てくれるのか、ファミリー層の試金石とも言える作品なので、是が非でもヒットして欲しいな。
オリジナルでのび太の恐竜だったフタバスズキリュウの化石は、1968年に福島県で発見された。
遠い昔に地球を支配していた恐竜はロマンを感じさせので、福島の花泉酒造が作るその名も「ロ万(ろまん)純米吟醸」をチョイス。
使用米から酵母、水に至るまで徹底的に地元産に拘って作られた“ザ・地酒”。
喉ごし柔らか、旨みと甘みは上品ですっきりとした味わい。
白亜紀の海を泳ぐフタバスズキリュウを想像しながら、ほろ酔いしたい。
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映画版「ドラえもん」の40作目は、1980年の春に公開された記念すべき第一作「のび太の恐竜」の発展的なリメイク。
この作品は2006年にも「のび太の恐竜2006」としてリメイクされているので、今回の映画化は14年ぶり3度目となり、監督は一昨年の「のび太の宝島」で長編監督デビューを飾った今井一暁が務める。
「のび太の宝島」に続いて、今井監督と再タッグを組んだ川村元気による脚本が非常に良く出来ていて、オリジナルにディープなリスペクトを捧げつつ、グッと深みを増した進化形バージョンになっている。
全40本の中でも、少なくともトップ5には入るであろう傑作だ。
のび太が見つけた卵の化石から恐竜の赤ちゃんが生まれ、愛情を持って育てるも本来現代にいてはいけない生物。
恐竜のためを考えて白亜紀の世界に戻しに行く、という基本プロットは変わらない。
しかし、この40年間の恐竜研究の様々な成果を取り込み、ディテールは大きくブラッシュアップされている。
恐竜の種類はフタバスズキリュウのピー助から、滑空飛行ができる新種の羽毛恐竜の双子キューとミューに変更。
双子のうち、快活なミューに対して、キューは体が小さく尻尾が短いという、「ファインディング・ニモ」的なハンディキャップがあることで、滑空が出来ないという設定が効いている。
キューの成長が、運動が苦手なのび太自身の成長とシンクロしてゆく仕組みだ。
面白いのが、キューとミュー以外の恐竜たちが、非常にリアルな3DCGで描写されていることで、これには最初違和感があったのだが、途中からその意図が明確になりなるほど納得。
オリジナルでは恐竜を捕まえて金持ちに売る、恐竜ハンターの存在が後半の脅威となるが、本作ではその存在は匂わされるものの、直接は出てこない。
かわりに終盤のサスペンスを盛り上げるのが、恐竜時代の終焉を告げる大隕石の衝突というカタストロフィと、近年発見が相次いだ肉食の超巨大翼竜だ。
隕石の辺りは、たぶんに川村元気のプロデュース作「君の名は。」の影響がありそうだが、本作はオリジナルの「のび太の恐竜」のパラレルワールド(?)と思わせる胸アツなオマージュもあり、SF(すこし・不思議)マインド溢れるクライマックスを作り上げている。
キューの持つハンディキャップが、絶滅ではなく進化につながるアイディアも、まさに21世紀的な多様性の表現となっており、老舗シリーズもしっかりアップデートしているのだなと感心。
監督の今井一暁は76年、川村元気は79年と共に70年代に生まれで、TVや漫画で「ドラえもん」に慣れ親しんで育った世代だろう。
観ていてビンビンに伝わってくるのが、作品と作者への愛だ。
作り手の世代が一巡したことで、オリジナルへのリスペクト溢れるストーリーと、テリングの技巧が高度にバランスした快作となった。
まあタイムパトロールに歴史改変はダメ云々言わせるのなら、のび太が卵をかえした時点や、ジュラ紀にアレを落とした時点で、思いっ切り改変してる気がするが、それを言い出すとそもそもドラえもんがのび太を助けに来ること自体が否定されちゃうので、あんまり突っ込むのも野暮だろう。
ちなみにタイムパトロールのジル博士が、生物の歴史への影響度を調べるのに使ってるのが、「T・Pぼん」のチェックカードだったりするのも芸が細かい。
「ドラえもん のび太の新恐竜」は、藤子・F・不二雄先生がこよなく愛した恐竜というモチーフを使い、ワクワク、ドキドキ、ワハハにホロリが全て入った実に楽しい娯楽映画だった。
しかしこれコロナ禍が収まらない中どのぐらい親子の観客が来てくれるのか、ファミリー層の試金石とも言える作品なので、是が非でもヒットして欲しいな。
オリジナルでのび太の恐竜だったフタバスズキリュウの化石は、1968年に福島県で発見された。
遠い昔に地球を支配していた恐竜はロマンを感じさせので、福島の花泉酒造が作るその名も「ロ万(ろまん)純米吟醸」をチョイス。
使用米から酵母、水に至るまで徹底的に地元産に拘って作られた“ザ・地酒”。
喉ごし柔らか、旨みと甘みは上品ですっきりとした味わい。
白亜紀の海を泳ぐフタバスズキリュウを想像しながら、ほろ酔いしたい。

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2020年08月06日 (木) | 編集 |
はじまりの朝は、美しい。
なるほど、最後まで観てタイトルの合点がいった。
大阪のとある高校に通う、平凡な高校生たちの青春群像劇。
小説家としても活躍するふくだももこ監督が、自身の作品「えん」と「ブルーハーツを聴いた夜、君とキスしてさようなら」を再構成してセルフ映画化した。
脚色を担当したのは、山下敦弘とのコンビ作で知られる向井康介。
松本穂香演じる「えん(縁)」を軸に、それぞれに葛藤を抱えた若者たちの日常が描かれる。
えんの惚れっぽい幼馴染の琴子に、学園屈指のモテ男でえんと仲のいい岡田。
父親が心を病み、 苦悩を一人で抱え込んでいる業平。
母親が家出したのは父親のせいだと思っている純と、東京から引っ越して来て地元に馴染めずにいる伊尾。
何人かの物語は密接に絡み合い、何人かは無関係に進んでゆく。
共通するのは、竹を割ったように分かりやすい性格の琴子をのぞいて、皆人に言えない葛藤を内心に抱えていること。
まだ十代の彼らの世界は狭い。
学校と家、閉鎖が決まっている地元のショッピングモール、登下校に使う道がほとんど全てだ。
「小さな街=世界」であることの閉塞が物語を生み、大雨の夜の無人のショッピングモールという舞台で、ブルーハーツの歌と共にダイナミックに収束するという構造。
シネマスコープのアスペクト比を生かした、渡邊雅紀による鮮烈なショットの数々が、映画的な豊かさを感じさせ素晴らしい。
これは言わば令和版の「台風クラブ」で、もう一つの「リバーズ・エッジ」だ。
大雨が全てを洗い流し、清々しい朝に皆が新しい世界にスタートを切る。
だが、中にはそこに辿りつけない者もいる。
映画の冒頭でショッキングな事件が起こる。
果たして、取り返しのつかない事件を起こしたのは誰なのか?という興味が全体を引っ張り、若者たちが問題に向き合う鍵となる。
面白いのは、暖かな家庭に育ち、登場人物の中で一番普通に見える松本穂香のキャラクターだ。
一見すると、特に問題を抱えていない彼女の役割は、「リバーズ・エッジ」の空っぽの二階堂ふみに近いのだが、高い演技力が要求される難役。
実は彼女の本名は「ゆかり」というのだが、小学校の頃に琴子から、「あんた、ゆかり言うより、えんっぽいわ」と言われ、琴子からだけ「えん」と呼ばれている。
その名の通り、不思議な吸引力を持つえんの周りには、訳ありの登場人物たちが集まってくるのだが、最後には彼女自身が心に秘めてきた感情も明らかとなる。
それはクライマックスのショッピングモールに、琴子だけがいない理由でもあるのだけど、ちょっと不思議なタイトルを含めて、物語がストンと落ちた。
印象的だったのが、80年代の「台風クラブ」やバブル崩壊後の90年代を舞台とした「リバーズ・エッジ」と比べると、やはり登場人物が総じて柔らかで丸いことだ。
ふくだももこの作家性もあるのだろうが、登場人物のキャラクターの違いは平成生まれのふくだももこと、相米慎二、行定勲との世代差でもあると思う。
十代の若者たちが抱く葛藤そのものは、昭和も平成も変わらないし、だからこそ青春の普遍としてのブルーハーツなんだろう。
しかし、私も日頃から十代の若者と接する仕事をしているが、平成生まれはその状況に置かれた時の反応や考え方が少し違うと感じる。
最低限満ち足りてはいるものの、社会全体が閉塞する時代に育った現在のティーンたちは、自分に対しても他人に対しても、ありのままを受け入れる傾向が強いように思う。
もちろん個人によっても違いはあるが、本作はそんな世代の特質が端的に現れた作品になっているのではなかろうか。
今回は、朝の光が強烈だったので目覚めの一杯「モーニング・カクテル」をチョイス。
ブランデー30ml、ドライ・ベルモット30ml、ペルノ2dash、ホワイト・キュラソー2dash、マラスキーノ2dash、オレンジ・ビターズ2dashをミキシンググラスでステアし、グラスに注ぐ。
マラスキーノ・チェリーを沈め、レモン・ピールをサッと絞って完成。
名前の通り、ぼんやりした頭も一発で目覚める一杯だ。
強いし、またすぐ眠くなるけど。
ちなみに同名のノンアルカクテルもある。
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なるほど、最後まで観てタイトルの合点がいった。
大阪のとある高校に通う、平凡な高校生たちの青春群像劇。
小説家としても活躍するふくだももこ監督が、自身の作品「えん」と「ブルーハーツを聴いた夜、君とキスしてさようなら」を再構成してセルフ映画化した。
脚色を担当したのは、山下敦弘とのコンビ作で知られる向井康介。
松本穂香演じる「えん(縁)」を軸に、それぞれに葛藤を抱えた若者たちの日常が描かれる。
えんの惚れっぽい幼馴染の琴子に、学園屈指のモテ男でえんと仲のいい岡田。
父親が心を病み、 苦悩を一人で抱え込んでいる業平。
母親が家出したのは父親のせいだと思っている純と、東京から引っ越して来て地元に馴染めずにいる伊尾。
何人かの物語は密接に絡み合い、何人かは無関係に進んでゆく。
共通するのは、竹を割ったように分かりやすい性格の琴子をのぞいて、皆人に言えない葛藤を内心に抱えていること。
まだ十代の彼らの世界は狭い。
学校と家、閉鎖が決まっている地元のショッピングモール、登下校に使う道がほとんど全てだ。
「小さな街=世界」であることの閉塞が物語を生み、大雨の夜の無人のショッピングモールという舞台で、ブルーハーツの歌と共にダイナミックに収束するという構造。
シネマスコープのアスペクト比を生かした、渡邊雅紀による鮮烈なショットの数々が、映画的な豊かさを感じさせ素晴らしい。
これは言わば令和版の「台風クラブ」で、もう一つの「リバーズ・エッジ」だ。
大雨が全てを洗い流し、清々しい朝に皆が新しい世界にスタートを切る。
だが、中にはそこに辿りつけない者もいる。
映画の冒頭でショッキングな事件が起こる。
果たして、取り返しのつかない事件を起こしたのは誰なのか?という興味が全体を引っ張り、若者たちが問題に向き合う鍵となる。
面白いのは、暖かな家庭に育ち、登場人物の中で一番普通に見える松本穂香のキャラクターだ。
一見すると、特に問題を抱えていない彼女の役割は、「リバーズ・エッジ」の空っぽの二階堂ふみに近いのだが、高い演技力が要求される難役。
実は彼女の本名は「ゆかり」というのだが、小学校の頃に琴子から、「あんた、ゆかり言うより、えんっぽいわ」と言われ、琴子からだけ「えん」と呼ばれている。
その名の通り、不思議な吸引力を持つえんの周りには、訳ありの登場人物たちが集まってくるのだが、最後には彼女自身が心に秘めてきた感情も明らかとなる。
それはクライマックスのショッピングモールに、琴子だけがいない理由でもあるのだけど、ちょっと不思議なタイトルを含めて、物語がストンと落ちた。
印象的だったのが、80年代の「台風クラブ」やバブル崩壊後の90年代を舞台とした「リバーズ・エッジ」と比べると、やはり登場人物が総じて柔らかで丸いことだ。
ふくだももこの作家性もあるのだろうが、登場人物のキャラクターの違いは平成生まれのふくだももこと、相米慎二、行定勲との世代差でもあると思う。
十代の若者たちが抱く葛藤そのものは、昭和も平成も変わらないし、だからこそ青春の普遍としてのブルーハーツなんだろう。
しかし、私も日頃から十代の若者と接する仕事をしているが、平成生まれはその状況に置かれた時の反応や考え方が少し違うと感じる。
最低限満ち足りてはいるものの、社会全体が閉塞する時代に育った現在のティーンたちは、自分に対しても他人に対しても、ありのままを受け入れる傾向が強いように思う。
もちろん個人によっても違いはあるが、本作はそんな世代の特質が端的に現れた作品になっているのではなかろうか。
今回は、朝の光が強烈だったので目覚めの一杯「モーニング・カクテル」をチョイス。
ブランデー30ml、ドライ・ベルモット30ml、ペルノ2dash、ホワイト・キュラソー2dash、マラスキーノ2dash、オレンジ・ビターズ2dashをミキシンググラスでステアし、グラスに注ぐ。
マラスキーノ・チェリーを沈め、レモン・ピールをサッと絞って完成。
名前の通り、ぼんやりした頭も一発で目覚める一杯だ。
強いし、またすぐ眠くなるけど。
ちなみに同名のノンアルカクテルもある。

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2020年08月03日 (月) | 編集 |
いつかまた、キネマの天地で。
今年の4月10日に、肺癌のため82年の生涯を閉じた大林宣彦監督の遺作。
鬼才最後の作品は、いろいろな意味で渾身の仕上がりである。
尾道にある古い映画館が閉館の日を迎え、「日本の戦争映画」をテーマに、最後のオールナイト興業が開かれる。
映画を観に来ていた三人の若者たちは、いつの間にかスクリーンの世界に飛び込み、幕末の戊辰戦争から太平洋戦争まで、映画のヒロインたちが戦争の犠牲となるのを目撃する。
上映時間179分に及ぶ大長編も、怒涛の映像コラージュで一気呵成。
晩年の「この空の花-長岡花火物語」からはじまる「戦争三部作」を含め、作者の映画的記憶を内包しつつ、次の世代に伝えたいことを全て言い尽くした。
果たして、これほど完全な「遺言」を残した映画作家が過去にいただろうか。
広島県尾道市。
人々に愛されてきた海辺の小さな映画館「瀬戸内キネマ」が閉館の日を迎えた。
最後のプログラムである「日本の戦争映画」特集を観ていた馬場毬夫(厚木拓郎)、鳥鳳介(細山田隆人)、団茂(細田善彦)は、劇場を襲った稲妻の光と共に映画の世界へとトリップ。
戊辰戦争の白虎隊、婦女隊の悲劇から、日中戦争を経て、太平洋戦争の沖縄戦へ。
毬夫たちは、同じようにスクリーンの内側に取り込まれた希子(吉田玲)と映画のヒロインたちを助けようとするのだが、何度やっても彼女たちは悲劇から逃れられない。
そして彼らは広島の原爆に散った移動劇団「桜隊」と出会い、なんとか彼らを歴史の現実から救い出そうとするのだが・・・・
元々非常に自由な作風だったとは言え、10年代に入ると大林宣彦のイマジネーションは、映画のあらゆるお約束から解き放たれて加速してゆく。
東日本大震災の翌年に公開された「この空の花-長岡花火物語」は、鎮魂の花火として有名な長岡花火大会をモチーフに、都市の持つ遠大な記憶を描いた。
松雪泰子演じる長崎原爆の被爆二世の記者の役割は、時空を超えて届く死者たちの声を聞くこと。
戊辰戦争の荒廃後、「目先の金よりも未来を担う人材育成を」と説いた小林虎三郎の米百俵の故事から、太平洋戦争へ。
多くの犠牲者を出した長岡空襲から、平和への想いは遥か海を超えてパールハーバーへと広がってゆく。
この映画から始まる戦争の記憶の旅は、AKB48のPVとして作られた「So Long ! THE MOVIE」を第1.5章として間にはさみ、第二章として北海道の芦別を舞台とした「野のなななのか」へと引き継がれる。
ここでは、午後2時46分で止まった時計が、昭和20年の8月と2011年の3月を結び、忘れられた樺太の戦いの記憶が語られる。
そして「戦争三部作」の最終章となったのは、昭和16年の唐津を舞台とした青春群像劇「花筐/HANAGATAMI」だ。
土地の持つ記憶をフィーチャーした前二作とは異なり、この映画は戦争の時代を生きた若者たちの記憶を宿した個人史であり、彼らの抱いている「青春が戦争の消耗品だなんて、まっぴらだ!」という葛藤が現代の我々への問いかけとなっていた。
これら全ての作品は、大林宣彦という稀代の映画作家が創造した脳内ワンダーランド。
既存の映画文法は意味を持たず、スクリーンの中では生者も死者も、過去も未来も、現実も虚構もシームレスにコラージュされごちゃ混ぜになっている。
「花筐/HANAGATAMI」が一番わかりやすいが、一本の映画の中にも商業映画デビュー作の「HOUSE / ハウス」やそれ以前の自主制作映画の記憶も封じ込められ、ある種のタイムカプセルともなっているのである。
本作では、高橋幸宏演じる語り部の「爺・ファンタ」として、また大林宣彦本人の姿までスクリーンに登場し、過去の全ての作品を内包する作家のシネマティック・ワンダーランドの集大成。
私たちは芸術作品と接する時、ある程度自分の記憶なり経験値と照らし合わせて鑑賞している。
だから「映画ってこんなもの」という常識が一切通用しない本作は、普通の映画しか知らない人が観たら、たぶんものすごく入り難い。
ストーリーにもテリングにも、法則性がほぼ無いので、何が起こっているのかも分からないかも知れない。
しかしそれでも、次第に溢れんばかりのエモーションの嵐に巻き込まれ、心が激しく揺さぶられるだろう。
瀬戸内キネマのスクリーンの内で、時空を巡りながら展開する“日本の戦争”。
主人公の毬夫たちは、「この空の花-長岡花火物語」で猪俣南が演じた一輪車の少女と同じく、死者の声を届ける役割である少女・希子に導かれ、常盤貴子、成海璃子、山崎紘菜が演じる映画のヒロインたちと時に恋に落ち、時に夫婦となり、いくつもの戦争を経験する。
戊辰戦争では、新政府軍と戦った武家の女性たちによる婦女隊の悲劇。
薙刀の名手だった中野竹子は、敵弾を受けて倒れ、妹に介錯され自害する。
日中戦争では日本軍に捕まった中国人の少女を守って逃走するが、結局彼女は殺されてしまう。
沖縄戦では徴兵されて軍隊に駆り出され、残された妻は日本軍の士官の慰み者にされる。
ちなみに三人の若者の役名、馬場鞠夫はマリオ・バーバ、鳥鳳介はフランソワ・トリュフォー、団茂はドン・シーゲルから取られているらしい。
反対に女性陣は全員が尾道三部作のヒロインの役名で、この辺りも大林宣彦の映画的な記憶としての本作の世界観がよく現れている。
映画の中で戦争の暴力がもたらす真実を知った若者たちは、最後に巡り合った桜隊をなんとか救おうとする。
新藤兼人監督のドキュメンタリードラマ映画「さくら隊散る」でも描かれた移動劇団桜隊は、昭和20年8月6日に、滞在先の広島で原爆に遭遇。
彼らの宿舎があった場所は、爆心地からわずか700メートル。
「ピカ」を見て即死した者五名、「ドン」まで聞いたものの、原爆症で苦しみながら亡くなったもの四名。
日本映画史に燦然と輝く傑作、阪妻版「無法松の一生」でヒロインを演じた名女優・園井恵子も、「ドン」で命を落とした一人だ。
虚構の向こうにあるのは、現実の生と死の記憶。
歴史的な事実を描いた映画は、その悲劇からは逃れられない。
まあ中には史実を描きかえてヒットラーを殺しちゃう、タランティーノの「イングロリアス・バスターズ」みたいな映画もあるが、所詮は虚構によって別の虚構を作り出しているに過ぎない。
本作の虚構=映画に対するスタンスは違う。
終始貫かれるのは徹底的な映画への愛、というか信頼。
大林宣彦は映画という虚構は現実ではないが、未来の現実を動かせると信じている。
毬夫たちのように、映画によって激しく感情を動かされた人たちが、戦争の無い未来、ヒロインたちが死なない未来を作ると信じているのだ。
それは映画人の楽天的な夢かも知れない。
だが本作は集大成の集大成、誰よりも虚構の力を知る元祖映像の魔術師が、文字通りに命を削って作り上げた今を生きる人々への最後のメッセージ。
パワフルな映画体験に圧倒され、その想いの強さに最後には涙が止まらなくなった。
大林監督、本当にありがとうございました。お疲れ様でした。
今回は20年ぶりに大林映画の舞台となった尾道のお隣、三島市の醉心山根本店の「醉心 純米吟醸」をチョイス。
戊辰戦争前の幕末1860年に創業し、日本画の横山大観の愛飲酒としても有名な銘柄。
こちらはやや辛口で純米吟醸らしく芳潤。
強いクセはなく落ち着いた味わい。
出来れば瀬戸内の地のものと合わせたいが、特に魚介類とのマッチングが抜群だ。
しかしコロナの影響で一旦公開延期になり、本来の公開初日の4月10日に大林宣彦が死去したのも運命的だが、キナ臭さを増す戦後75年目の夏に公開されるのもまた意義深い。
どこまでも映画の神に愛された人だったんだなあ。
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今年の4月10日に、肺癌のため82年の生涯を閉じた大林宣彦監督の遺作。
鬼才最後の作品は、いろいろな意味で渾身の仕上がりである。
尾道にある古い映画館が閉館の日を迎え、「日本の戦争映画」をテーマに、最後のオールナイト興業が開かれる。
映画を観に来ていた三人の若者たちは、いつの間にかスクリーンの世界に飛び込み、幕末の戊辰戦争から太平洋戦争まで、映画のヒロインたちが戦争の犠牲となるのを目撃する。
上映時間179分に及ぶ大長編も、怒涛の映像コラージュで一気呵成。
晩年の「この空の花-長岡花火物語」からはじまる「戦争三部作」を含め、作者の映画的記憶を内包しつつ、次の世代に伝えたいことを全て言い尽くした。
果たして、これほど完全な「遺言」を残した映画作家が過去にいただろうか。
広島県尾道市。
人々に愛されてきた海辺の小さな映画館「瀬戸内キネマ」が閉館の日を迎えた。
最後のプログラムである「日本の戦争映画」特集を観ていた馬場毬夫(厚木拓郎)、鳥鳳介(細山田隆人)、団茂(細田善彦)は、劇場を襲った稲妻の光と共に映画の世界へとトリップ。
戊辰戦争の白虎隊、婦女隊の悲劇から、日中戦争を経て、太平洋戦争の沖縄戦へ。
毬夫たちは、同じようにスクリーンの内側に取り込まれた希子(吉田玲)と映画のヒロインたちを助けようとするのだが、何度やっても彼女たちは悲劇から逃れられない。
そして彼らは広島の原爆に散った移動劇団「桜隊」と出会い、なんとか彼らを歴史の現実から救い出そうとするのだが・・・・
元々非常に自由な作風だったとは言え、10年代に入ると大林宣彦のイマジネーションは、映画のあらゆるお約束から解き放たれて加速してゆく。
東日本大震災の翌年に公開された「この空の花-長岡花火物語」は、鎮魂の花火として有名な長岡花火大会をモチーフに、都市の持つ遠大な記憶を描いた。
松雪泰子演じる長崎原爆の被爆二世の記者の役割は、時空を超えて届く死者たちの声を聞くこと。
戊辰戦争の荒廃後、「目先の金よりも未来を担う人材育成を」と説いた小林虎三郎の米百俵の故事から、太平洋戦争へ。
多くの犠牲者を出した長岡空襲から、平和への想いは遥か海を超えてパールハーバーへと広がってゆく。
この映画から始まる戦争の記憶の旅は、AKB48のPVとして作られた「So Long ! THE MOVIE」を第1.5章として間にはさみ、第二章として北海道の芦別を舞台とした「野のなななのか」へと引き継がれる。
ここでは、午後2時46分で止まった時計が、昭和20年の8月と2011年の3月を結び、忘れられた樺太の戦いの記憶が語られる。
そして「戦争三部作」の最終章となったのは、昭和16年の唐津を舞台とした青春群像劇「花筐/HANAGATAMI」だ。
土地の持つ記憶をフィーチャーした前二作とは異なり、この映画は戦争の時代を生きた若者たちの記憶を宿した個人史であり、彼らの抱いている「青春が戦争の消耗品だなんて、まっぴらだ!」という葛藤が現代の我々への問いかけとなっていた。
これら全ての作品は、大林宣彦という稀代の映画作家が創造した脳内ワンダーランド。
既存の映画文法は意味を持たず、スクリーンの中では生者も死者も、過去も未来も、現実も虚構もシームレスにコラージュされごちゃ混ぜになっている。
「花筐/HANAGATAMI」が一番わかりやすいが、一本の映画の中にも商業映画デビュー作の「HOUSE / ハウス」やそれ以前の自主制作映画の記憶も封じ込められ、ある種のタイムカプセルともなっているのである。
本作では、高橋幸宏演じる語り部の「爺・ファンタ」として、また大林宣彦本人の姿までスクリーンに登場し、過去の全ての作品を内包する作家のシネマティック・ワンダーランドの集大成。
私たちは芸術作品と接する時、ある程度自分の記憶なり経験値と照らし合わせて鑑賞している。
だから「映画ってこんなもの」という常識が一切通用しない本作は、普通の映画しか知らない人が観たら、たぶんものすごく入り難い。
ストーリーにもテリングにも、法則性がほぼ無いので、何が起こっているのかも分からないかも知れない。
しかしそれでも、次第に溢れんばかりのエモーションの嵐に巻き込まれ、心が激しく揺さぶられるだろう。
瀬戸内キネマのスクリーンの内で、時空を巡りながら展開する“日本の戦争”。
主人公の毬夫たちは、「この空の花-長岡花火物語」で猪俣南が演じた一輪車の少女と同じく、死者の声を届ける役割である少女・希子に導かれ、常盤貴子、成海璃子、山崎紘菜が演じる映画のヒロインたちと時に恋に落ち、時に夫婦となり、いくつもの戦争を経験する。
戊辰戦争では、新政府軍と戦った武家の女性たちによる婦女隊の悲劇。
薙刀の名手だった中野竹子は、敵弾を受けて倒れ、妹に介錯され自害する。
日中戦争では日本軍に捕まった中国人の少女を守って逃走するが、結局彼女は殺されてしまう。
沖縄戦では徴兵されて軍隊に駆り出され、残された妻は日本軍の士官の慰み者にされる。
ちなみに三人の若者の役名、馬場鞠夫はマリオ・バーバ、鳥鳳介はフランソワ・トリュフォー、団茂はドン・シーゲルから取られているらしい。
反対に女性陣は全員が尾道三部作のヒロインの役名で、この辺りも大林宣彦の映画的な記憶としての本作の世界観がよく現れている。
映画の中で戦争の暴力がもたらす真実を知った若者たちは、最後に巡り合った桜隊をなんとか救おうとする。
新藤兼人監督のドキュメンタリードラマ映画「さくら隊散る」でも描かれた移動劇団桜隊は、昭和20年8月6日に、滞在先の広島で原爆に遭遇。
彼らの宿舎があった場所は、爆心地からわずか700メートル。
「ピカ」を見て即死した者五名、「ドン」まで聞いたものの、原爆症で苦しみながら亡くなったもの四名。
日本映画史に燦然と輝く傑作、阪妻版「無法松の一生」でヒロインを演じた名女優・園井恵子も、「ドン」で命を落とした一人だ。
虚構の向こうにあるのは、現実の生と死の記憶。
歴史的な事実を描いた映画は、その悲劇からは逃れられない。
まあ中には史実を描きかえてヒットラーを殺しちゃう、タランティーノの「イングロリアス・バスターズ」みたいな映画もあるが、所詮は虚構によって別の虚構を作り出しているに過ぎない。
本作の虚構=映画に対するスタンスは違う。
終始貫かれるのは徹底的な映画への愛、というか信頼。
大林宣彦は映画という虚構は現実ではないが、未来の現実を動かせると信じている。
毬夫たちのように、映画によって激しく感情を動かされた人たちが、戦争の無い未来、ヒロインたちが死なない未来を作ると信じているのだ。
それは映画人の楽天的な夢かも知れない。
だが本作は集大成の集大成、誰よりも虚構の力を知る元祖映像の魔術師が、文字通りに命を削って作り上げた今を生きる人々への最後のメッセージ。
パワフルな映画体験に圧倒され、その想いの強さに最後には涙が止まらなくなった。
大林監督、本当にありがとうございました。お疲れ様でした。
今回は20年ぶりに大林映画の舞台となった尾道のお隣、三島市の醉心山根本店の「醉心 純米吟醸」をチョイス。
戊辰戦争前の幕末1860年に創業し、日本画の横山大観の愛飲酒としても有名な銘柄。
こちらはやや辛口で純米吟醸らしく芳潤。
強いクセはなく落ち着いた味わい。
出来れば瀬戸内の地のものと合わせたいが、特に魚介類とのマッチングが抜群だ。
しかしコロナの影響で一旦公開延期になり、本来の公開初日の4月10日に大林宣彦が死去したのも運命的だが、キナ臭さを増す戦後75年目の夏に公開されるのもまた意義深い。
どこまでも映画の神に愛された人だったんだなあ。

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