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ショートレビュー「異端の鳥・・・・・評価額1700円」
2020年10月28日 (水) | 編集 |
異端の鳥の旅路のはては。

第二次世界大戦中の東欧のどこか。
ユダヤ人の少年がナチスの迫害を逃れ、辺境に住むおばの家に疎開している。
しかし、ある日おばは突然死し、家も火事で全焼してしまう。
少年は生きるために、当て所のない旅に出る。
自らもホロコーストを体験したイェジー・コシンスキが1965年に出版した小説を、チェコ出身のヴァーツラフ・マルホウ監督が映画化した作品。
35ミリのフィルム撮影、シネマスコープのモノクロ画面で展開する、169分に及ぶ長尺の寓話的な物語は、全編が15-25分程度の9つのエピソードで構成されている。
観ながら、登場人物が喋っているのはどこの言葉なんだろう?と思っていたが、本作ではスラブ系言語を基に作られたInterslavicという人工の言語が使われているという。
舞台を特定させず、この時代の東欧ならどこでもありえた話という普遍性を強める工夫だろう。

ほとんど台詞がなく、終盤まで名を明かされない少年は、荘厳な自然を巡る過酷な旅の途中で老若男女、敵味方の様々な人々に出会う。
たまにいい人もいるのだが、ほとんどは戦争の時代の底辺に生きる人々で、少年は彼らとの関わりの中でありとあらゆる酷い目にあう。
それは時として目を背けたくなるほど凄惨なのもので、海外映画祭では耐えられなくなって退席する者が続出したという。
いや正しくは、悲惨な目に遭うのは少年だけではない。
ドイツ軍、ソ連軍、コサックの残党が入り乱れる戦場では、命は空気よりも軽く、自分が明日生きていられるのか、運命を知るものは誰もいないのである。

原題の「Nabarvené ptáče /The Painted Bird(着色された鳥)」とは、“周囲とは異なる者”の比喩。
劇中、鳥を売ることを生業にしている男の家で、野鳥にペンキで色をつけて飛ばしてみると、仲間の鳥に受け入れられず、攻撃されて死んでしまうエピソードがあるのだが、転じてこの時代の被差別民族のユダヤ人である少年を意味する。
“異物”である少年は、誰もが利己的にならざるを得ない残酷な時代に、幼くして誰の庇護も得られない孤独な存在なのである。
正義が損なわれ悪が支配する世界では、生きるために暴力には暴力で抵抗せざるを得ない。
幾度となく自分が傷つけられたように、やがて他人を攻撃することを覚えた少年からは、無垢なる子供時代が急速に失われてゆく。

少年を演じるペトル・コトラールをはじめ、ほとんどが無名の俳優たちの中に、ハーヴェイ・カイテルやジュリアン・サンズ、ステラン・スカルスガルドといった名優たちが要所要所に配され、画面を締めている。
エンディングは、同じく少年の戦争体験を描いた「太陽の帝国」を思い出したが、少年のやさぐれっぷりはあの映画の比ではないし、それもやむを得ないよねと思うくらい悲惨な話。
それでも絶滅収容所送りになるよりは、多少はマシだったのかも知れない。
ただエグい描写が続くのは確かだが、9つのピースが揃い、一つの絵巻物が完成した時の映画的カタルシスは格別だ。
タルコフスキーの「僕の村は戦場だった」思わせる絵画的映像は美しく、ゆったりとしたテンポで描写されるモノクロの画面からは、どこかフォークロアな詩情が漂い、不思議と後味は悪くない。
少年の寓話的な旅を通し、人間の本質を明らかにした秀作である。

今回は東欧で広く飲まれている蒸留酒、シュペヒトの「スリヴォヴィッツ」をチョイス。
シュペヒトはドイツの銘柄だが、ラベルにも使われている東欧産の紫色スモモを蒸留し、オークの樽で熟成させたもの。
キンキンに冷やして小さなショットグラスで飲むのがおすすめ。
喉がカーッと熱くなる。
ブランデーの一種でアルコール度数は相当に高いのだが、現地ではビールのチェイサーがわりに飲まれたりもするそう。
どんだけ強いんだか。

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ショートレビュー「スパイの妻 劇場版・・・・・評価額1700円」
2020年10月25日 (日) | 編集 |
裏切りもまた愛なのか。

日独伊三国同盟が締結され、いよいよ大平洋戦争開戦前夜となった1940年。
神戸で貿易商社を営む福原優作と、その妻の聡子の物語だ。
戦争で自由な渡航が出来なくなる前にと、好奇心旺盛に満洲へ渡った優作は、日本本土では知られていない、関東軍の恥ずべき秘密を知ってしまう。
義憤に駆られた優作は、その事実を国際社会に公表しようと画策するのだが、不穏な動きを察知した憲兵隊から、連合国側のスパイとして疑われることになる

人気の高い黒沢清監督だが、私はずっと過大評価されている作家だと考えてきた。
彼の映画は演出一流、シナリオ三流で、特に単独シナリオの作品は、たいてい前半だけなら傑作なのに後半グダグダになって空中分解してしまう。
ところが、本作は最後まですごく面白いじゃないか。
劇映画ではなく、NHKの8Kドラマとして制作されたという成り立ちのためか、プロットが最後まできっちりと設計されていてスキがない。
なぜ民間人の優作が、聞くだけならまだしも軍の秘密を直接見ることができたのか?というあたりは疑問だが、直接描写しないことでうまく誤魔化している。
TV放送は見逃したのだが、同じような制作経緯を持つイ・チャンドン監督の「バーニング」が、ドラマ版と劇場版とで大きく構成を変えたのに対し、本作はフレームレートを24fpsに変換し、スクリーンサイズと色調を調整しているだけだという。

もともと演出家としては優れていただけに、綿密に構成されたシナリオを得た本作は鬼に金棒である。
重大な国家機密を知ってしまった福原優作を演じるのは高橋一生だが、物語の主人公はタイトル通り、黒沢清とは三度目のタッグとなる蒼井優が怪演する聡子だ。
物語の始まりの時点では、聡子がドラマを持っていないため、いつもの黒沢作品とは逆に、むしろ前半がやや冗長に感じられた。
しかし、満洲を旅していた優作が帰って来てからは、妻と夫と憲兵隊が本心を隠したまま腹の底を探り合う、三つ巴のコンゲームとなり全く目が離せなくなる。
ミスリードを誘うタイトルに騙されるが、国家による組織的戦争犯罪に義憤を感じた私人が、正義感から裏切りを図るという、ヨーロッパ映画を思わせる切り口もユニーク。
日本映画で「国家vs個人」の構図を持つ歴史劇は珍しく、そこに時代の波に翻弄される夫婦の愛の騙し合いが加わる。
いつしか二人の共通の目的となる真実の暴露を、お互いを守りながら出来るのか?という展開は全く先を読ませない。

面白いのは、いつもは常に映画的であろうとする黒沢作品には珍しく、演劇的なテリングが目立つことだ。
物語の重要な舞台となる優作の商社の倉庫や、容疑者が連行される憲兵隊の詰め所などが、まるで大きなステージのようにだだっ広く、前面に開けた空間であること。
主人公の蒼井優を筆頭に、演者の台詞回しがやたらと芝居がかっていることと相まって、一瞬観劇しているような錯覚におちいる。
このような演劇的なテリングが、作り込まれた美術や衣装、独特の色調の画面と相まってレトロな時代感を強めているのである。
光と影の演出など、ところどころにらしさを見せるが、いつものクセは抑え気味。
やっぱり天才肌の演出家の作品は、抑制を効かせたほうが面白いものになる。
相変わらず死んだ目をした東出昌大演じる、密かに主人公に想いを寄せる憲兵隊分隊長のサイコっぽさもいい。

今回は二人の脱出地の一つ、「シャンハイ」の名を持つカクテルを。
ジャマイカ・ラム30ml、アニゼット7.5ml、レモン・ジュース22.5ml、グレナデン・シロップ2dashを、氷と共にシェイクしてグラスに注ぐ。
ジャマイカ・ラムとアニゼットの独特な香りとグレナデン・シロップが作る淡い赤が、エキゾチックなアジアの都市を連想させる。
大人な女性に似合う、やや甘口のカクテル。

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「鬼滅の刃」 無限列車編・・・・・評価額1650円
2020年10月20日 (火) | 編集 |
一人は皆のために、皆は勝利のために。

コロナ禍で世界中の映画館が存亡の危機に陥るなか、オープニング三日間で動員342万人、興行収入46億円と言う空前の数字を叩き出し、日本における興業街の救世主となった驚異のブロックバスター。
昨年TVシリーズが放送され、社会現象となった吾峠呼世晴原作のジャンプ漫画「鬼滅の刃」シリーズ初の劇場版だ。
外崎春雄監督をはじめ制作チームも共通。
TVシリーズの最終回からそのまま繋がる「無限列車編」は、シリーズ屈指の名キャラクターである炎柱・煉獄杏寿郎を中心とした物語だ。
先日公開されて、見事なフィナーレを飾った「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」と同じく、TVとの連結作品のため映画単体では成立していないが、タッチもノリもTVシリーズのまんま、ファンが観たかった続編を見せてくれる。

乗客たちが次々と行方不明となっているという、無限列車に乗り込んだ炭治郎(花江夏樹)たちは、鬼殺隊炎柱の煉獄杏寿郎(日野聡)と出会う。
しかし、列車は十二鬼月下弦の壱・魘夢(平川大輔)の支配下にあり、炭治郎たちも彼が巡らせた策略によって眠らされてしまう。
そこは亡った者たちが生きている、永遠の夢の世界。
現実世界を忘れかかったその時に、ようやく自分が夢を見させられていることに気付いた炭治郎は、禰󠄀豆子(鬼頭明里)の鬼血術・爆血を浴びたことをきっかけに覚醒。
善逸(下野紘)、伊之助(松岡禎丞)、杏寿郎も相次いで覚醒するが、魘夢は列車全体と一体化していて、彼らは二百人の眠ったままの乗客を守りながら、魘夢の頸を探さねばならなくなる・・・


私はTVシリーズから入って原作を読みはじめたのだが、それは23巻で完結することが分かっていたから。
この歳になると、自分が生きてる間に終わるかどうかも分からない作品に、延々と付き合う根気は持てないんだな。
原作に忠実な表現ではあるものの、TVシリーズでものすごく細かく思考や状況を台詞で説明するスタイルには最初は結構違和感があった。
映像は美しく、動きも作り込まれているために、ここまで言葉で伝える必要があるのかと思ったのだが、長いシリーズならではの強みで、いつしかそれも特色と感じるようになった。
台詞過多は劇場版でも踏襲されているが、単体作ではなくあくまで全体の一本だからこれで良いと思う。
まあ一部のシネフィルには、こんなん映画じゃないとか言われそうだけど。

「鬼滅の刃」は典型的なヒーローズジャーニーの話型がベースになっているが、大きな特徴が主人公をはじめとした登場人物の行動原理が、揃って“利他”であることだ。
冒険に出るきっかけは、いわば天命。
しかし、主人公の竈門炭治郎の動機は、鬼になってしまった妹の禰󠄀豆子を人間に戻す方法を見つけるためで、決して自分のためには動かない。
利他の行動原理は、主要登場人物から鬼殺隊の末端の名もなき剣士たちまで広く共有されて物語のテーゼとなり、敵対する鬼たちの行動原理である“利己”をアンチテーゼとして、ジンテーゼを導き出す構造。

しかし利己と利他は結構危ういモチーフだ。
人間社会はこの二つがバランスすることで成り立っていて、利己が行き過ぎると社会全体が崩壊し、利他に重きを置き過ぎると個が蔑ろにされてしまう。
強制的に利他を強いられる、究極のシチュエーションが戦争である。
では訳もわからぬうちに戦場に駆り出される若者たちと、本作の登場人物は何が違うのかというと、個々の中での目的意識の明確さだろう。
デュマの「三銃士」がルーツで、今ではラグビーの標語として有名な「One for all, All for one」という言葉がある。
これ「一人は皆のため、皆は一人のため」だと思っている人が多いだろうが、実は「一人は皆のために、皆は勝利(目的)のために」が正解。
前の訳だと、「一人」と「皆」の区分がうやむやで、何をしたいのかも分からないが、後の訳だと「一人」が集まって「皆」となり、共通の「目標」を遂げようとしているのが明瞭だ。

過去に人気を博したジャンプ漫画と比較すると、本作が独特なのは世界が最初から無情に満ちていること。
いつ鬼に襲われて死ぬか、予測不能のおそろしい世界。
原作の中で鬼の頭領である鬼舞辻無惨が、炭治郎に向かってこんなことを言う。
「身内が鬼に殺されたのは、火事や地震で死んだのと同じ。自分は幸運だったと思って元の生活を続けるがいい」と。
要するに「生殺与奪の権はお前らには無いのだから、諦めろ」といっているのだ。
一人ひとりは弱い人間である本作の登場人物は、一人から皆になることでそんな状況に徹底的に抗う。
鬼殺隊の剣士は皆家族や大切な人を鬼に殺されている設定だが、本作は犠牲者の無念をはらし、平和な世を作るという利他を動機に、個人の生き様を描いているのである。

もっとも、本作が熱狂的な支持を受けるのは、日本人が大好きな幕末の志士を思わせる、自由意志に基づく究極の利他を描いているから、だけではないだろう。
例えば登場する多くの鬼たちには、無惨の誘惑に堕ちざるを得なかった切実な動機があり、彼らを人間を捨てるまでに追い詰めた社会の理不尽もじっくりと描かれている。
剣技に劣り、鬼との戦いの最前線に立つことが恐ろしくなってしまった鬼殺隊員たちにも、ちゃんとそれぞれの居場所が用意されていて、決して見捨てられることはない。
端的に言えば「鬼滅の刃」という作品は、絶対悪であり「存在してはいけない生物」である無惨以外の全ての生命に対して優しいのである。
少年少女たちが過酷ないばらの道を歩む物語の裏側にある優しさこそが、今の時代の閉塞した日本人の琴線に触れた最大の理由だと思う。

もちろんこういったテーマ性は重要だが、アクション作品は動いてなんぼ。
TVシリーズも頑張っていたが、本作は劇場用映画として文句無し。
見どころは、それぞれのキャラクターが繰り出す呼吸の剣技だが、止まった白黒画である原作に対し、縦横無尽に動くアニメーション表現はカラフルで楽しい。
ジャンプ漫画の映画化は、ずーっと戦いっぱなしになってしまうことが多く、それはそれで面白いのだが、本作は中盤の魘夢VS炭治郎&猪之助、終盤の猗窩座VS杏寿郎のバトルシークエンス以外に、それぞれのドラマもきっちり描かれていて見応えがある。
そして適度なタメがあるからこそ、クライマックスの猗窩座VS杏寿郎は圧巻だ。
赤と青の魂の激突は、アニメーション活劇の歴史に残ると断言してもいい過ぎではないだろう。
とりあえず杏寿郎がカッコよすぎて、その生きざまに泣けて、成長途中の炭治郎が主役なの忘れそうになるのだが、これは原作もそうだから仕方ない。
制作のユーフォーテーブルの仕事は、十分に称賛に値する。
今後はたぶん来年中にTVシリーズの第二期をやって、再来年に全体のクライマックスに当たる無限城での戦いを、前後編の劇場版二部作でやってエンドと予想。
原作は完結してるから、あまり引っ張ることもできないだろうし。
本作の余韻を胸に、続きを楽しみに待ちたい。

今回は飛騨の老田酒造の「鬼ころし 怒髪衝天辛口 純米原酒」をチョイス。
鬼ころしという銘柄は、なぜか商標登録されていなかったことで全国に100以上も同名の酒があるのだが、元祖と言われているのが1716年創業の老田酒造である。
名前の由来も「鬼を殺すほどうまい」、いやいや「鬼を殺すほどまずい」など諸説あるが、老田酒造によると本来は「鬼を殺すほど辛い」だったそうだ。
安いカップ酒やパック酒に名前が使われたせいで、どちらかというと今ではまずい酒の代名詞のようになってしまってるが、こちらは元祖だけになかなか。
ただし、鬼を殺すほどの辛さなので、好みは分かれるだろう。
飛騨牛などと相性が良いが、痺れるほどの辛口が好きな人にだけお勧めだ。

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ラストブラックマン・イン・サンフランシスコ・・・・・評価額1700円
2020年10月17日 (土) | 編集 |

街の歴史、家族の歴史。

サンフランシスコの外れに住む、若い黒人男性のジミーと親友のモントの物語。
うらぶれた生活を送るジミーは、幼い頃に祖父の家で過ごした思い出を大切にしていて、いつか家を買い戻そうと考えている。
だが、その想いとは裏腹に、サンフランシスコの不動産は高騰し続け、時間が経てばたつほどハードルは上がるばかり。
ある時、家が一時的に空き家になることを知ったジミーは、思い切った手段に出る。
これは主演のジミー・フェイルズの半自伝的な物語であり、監督のジョー・タルボットは劇中では劇作家志望の親友モントにあたる。
故郷のサンフランシスコと、この街に生きた一族の歴史への、切なさに満ちたラブレターであり、ユニークな視点を持つ人間ドラマだ。
若手監督の抜擢には定評のある、ブラット・ピット率いるプランBエンターテイメントとタルボットとフェイルズが設立したロングショット・フィーチャーズが共同で制作し、昨年のサンダンス映画祭監督賞ほか、高い評価を受けた作品だ。

ジミー・フェイルズ(本人)は、サンフランシスコのハンターズポイントに住む、親友のモント(ジョナサン・メジャース)の部屋に居候している。
彼は暇ができると、幼い頃を過ごした祖父の家に向かう。
1946年に、サンフランシスコの“ファーストブラックマン”となった祖父が建てた家は、今では高級住宅地となったフィルモア地区にある。
ヴィクトリア朝様式の家には、沢山の思い出があり、ジミーはいつの日か家を取り戻したいと思っている。
今の住人は家の手入れをしないので、荒れ放題になるのを見ていられず、勝手に入り込んではペンキを塗ったり修理をしているのだ。
ある日、二人が家に向かうと、引越し業者が荷物を運び出している。
住人の家族に相続問題が起こり、急遽引っ越すことになったという。
相続問題の解決には歳月がかかり、家が数年間空き家になるかもしれないことを知ったジミーは、家を不法占拠して既得権を主張することを思いつくのだが・・・・


10年以上暮らした私の第二の故郷でもあるサンフランシスコは、かつては誰もが夢を見られる街だった。
西部開拓時代には小さな漁村だったが、カリフォルニアで金鉱が発見されると一攫千金を夢見る開拓者たちが集まり、1949年の一年だけで人口が実に25倍となった。
ゴールドラッシュ時に流入した人々は“49ers”と呼ばれ、後にこの街を代表するアメフトチームの名前となったことで現在に名を残している。
合衆国発祥の地である東部から遠く離れ、自由な気風に富んだサンフランシスコ・ベイエリアは、全米でもっとも先進的で、誰をも受け入れた。
劇中で言及されるように、第二次世界大戦前には日本人移民が街を広げ、戦時中の強制収容で彼らの家が空き家となると、南から黒人たちがやってきた。
戦後には、保守的な地域で迫害された同性愛者たちがコミュニテイを作り、ゲイの街と呼ばれるようになり、70年代になるとコッポラやルーカスが移り住み、ニューシネマの西の拠点となる。
サンフランシスコで起こったムーブメントは、数年遅れて全米のムーブメントとなる、そんな街だったのだ。

ところが90年代の終わりから始まったITバブルは、街の様相をすっかり変えてしまった。
もともと半島の先端にある非常に狭い街である。
急増する不動産需要で雨後の筍のように高層コンドミニアムが建てられ、それでも足りずにかつては安くて治安が悪かった地区にも開発が及ぶ。
わずか20年で若者や低所得者たちはあらかた街から消え、街全体がIT長者たちの住む高級住宅地となり、かつてのアヴァンギャルドなサンフランシスコはもう存在しない。
ジミーの祖父の家があるフィルモア地区も、高騰する家賃に耐えかねて黒人住民が去り、今では白人の街となっている。
この物語は現実のジミー・フェイルズの祖父が死去した後、一族が税金を払えずに家を差し押さえらた話が元となっており、劇中で祖父の家の現在の価格とされるのは400万ドル。
フィルモアのヴィクトリアンハウスとしては安いくらいだが、家を手放したとされる90年代には、しても100万ドル台だったと思う。
もはや何をどうしようと、貧乏暮らしのジミーが手を出せる額ではないのだが、彼は家が無人になったのをいいことに、無理やり昔の家具を運び込んで不法占拠してしまう。

なぜ彼はそこまでして祖父の家に執着するのか。
それは過去の思い出だけが、彼が誇れることだからだ。
現在ではジミーの家族は離散してしまい、安アパートに暮らす父親とは反りが合わず、母親は離婚してどこに暮らしているのかも知れない。
唯一、祖父の家にあった家具を保管している叔母一家だけがベイエリアに住んではいるが、市内からは遠く離れた地区。
夢を見られる街サンフランシスコで、一族でただ一人何者かになれた者は、街の“ファーストブラックマン”として、誰かの家を奪うことなく、自ら家を建てた祖父だけなのである。
今がどん底だからこそ、彼は思い出の家を継承することで祖父の血と誇りを受け継ごうとしているのだ。
しかし言葉を変えれば、彼は誇りと現実のギャップに迷い、この街と家に執着することで自らの可能性を捨てている。

誰よりもジミーのことを心配し、寄り添おうとしているモントは、不動産エージェントとの直談判で、家のルーツに関する知りたくなかった秘密を知ってしまう。
もはやジミーが無理をしてまで家を欲する理由は無く、アマチュア劇作家であるモントはある驚くべき方法を使って、彼に痛すぎる真実を伝えるのである。
ひたすら祖父の思い出に執着するジミーが、現実を受け入れ”ラストブラックマン”となるその時まで、彼に寄り添うモントの友情が心を打つ。
一族の家族史と、街の長い歴史を組み合わせることで、本作は非凡な視点を持ち、故郷への哀切な願望があふれだす非常にユニークで力強い作品になっている。
終盤、バスの中で二人組の女性が「サンフランシスコはもう終わってる。他に移る」という話をしていて、それを聞いたジミーが「サンフランシスコを貶さないでくれ」と寂しそうに言うのが強く印象に残る。
面白いのが、現実をベースとしたリアリティのある作劇と、時に白昼夢を感じさせるシュールで寓話的なテリングが対照的なこと。
いつくかのシーンはまるで演劇のステージの様で、「これ演劇原作なのかな?」と思ったのだが、そう言う訳ではなさそう。
ただ全体をモントの書いた演劇の戯曲、というイメージで作っているのかもしれない。
しかしこれ、ある意味で究極のローカルムービーであり、“サンフランシスコ”を肌で知らないと、イマイチ咀嚼しにくい作品な気がする。

今回はまんま「サンフランシスコ 」をチョイス。
スウィート・ベルモット20ml、ドライ・ベルモット20ml、スロー・ジン20ml、アンゴスチュラ・ビターズ1dash、オレンジ・ビターズ1dashを氷を入れたミキシング・グラスでステアし、カクテル ・グラスに注ぐ。
ピンに刺したマラスキーノ・チェリーを飾って完成。
映画はビターだが、こちらはやや甘口で、複雑な香りが都会の夜を演出してくれる。

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ショートレビュー「浅田家!・・・・・評価額1650円」
2020年10月12日 (月) | 編集 |
写真の持つ、本当のチカラ。

「家族」をモチーフに、写真を撮り続けている写真家の浅田政志の物語を、「湯を沸かすほどの熱い愛」「長いお別れ」など、やはり一貫して「家族」のカタチを描いてきた中野量太監督が映画化した作品。
映画の前半は三重県津市に育った政志が、紆余曲折の末に家族写真集「浅田家!」を出版し、やがて写真家として世間に認められるまで。
原作となっている「浅田家!」は、確か2009年に賞をとった頃だったと思うが、書店で見たことがある。
人生は劇場。
ある意味誰もが人生で役を演じていて、成りたかった自分と現実の自分を持っている。
家族と一緒にコスプレして、色んな人生を擬似体験するというアイディアが面白く、「こりゃ楽しそうなことやってるな」と思った。
政志は写真に撮ることで虚実の境界を取り去るのだが、それは実はこの映画がやっていることそのものだと言うメタ構造がユニークだ。
しかしテンポよく、コミカルなタッチで展開する映画は、中盤でガラッと世界を変える。

後半部分の原作となっているのは、2015年に出版された政志と編集者の藤本智士の共著「アルバムのチカラ」だ。
これは東日本大震災後に被災地に向かった政志が、津波に流されて泥だらけになった写真を洗浄し、持ち主に返す活動をしているボランティアと出会い、彼らの活動を支援して行った記録。
映画では一か所が舞台になっているが、写真の回収と返還のボランティア活動は各地の避難所で同時多発的に始まっていて、政志は彼らを取材することで写真洗浄のノウハウを広げていく。
彼はこの活動を通して、家族写真の持つ本当の価値に気づくのだ。
たった一枚の写真が、記憶を蘇らせられる。
写真は、同じ時間を共有してきた家族のための記憶の器であり、それが何十年前のものだったとしても、もうこの世界にはいない人たちを心の中に生かし続けるのである。
ボランティアが救い出した写真の数々が、全てを失い絶望に打ちひしがれた残された人たちの心を癒し、ささやかな希望となってゆく。
写真が思い出を、思い出が現在を、現在が未来を動かすエネルギーとなる。
それが「アルバムのチカラ」であり、家族写真の持つ本当のチカラなのだ。

二宮和也が繊細に表現する、主人公のキャラクターがいい。
写真学校へ行ったものの、突然タトゥーだらけになって帰ってきたかと思えば、卒業後は就職もせずにグータラしてパチスロ三昧。
やる気スイッチが入らないと、典型的なダメ人間
だけど、彼は破天荒だけど誠実。
ダメ人間な様でも、やるときゃやる。
ファインダーの向こうにチラリと見える瞳が、台詞よりも雄弁に感情を語る。
黒木華が演じる、幼なじみで腐れ縁状態の恋人との掛け合いも、かわいくて可笑しい。
冒頭のシーンに仕掛けられた遊び心も楽しいが、題材がグッとシリアスになる後半では、中野量太の持ち味であるユーモアが影を潜めてしまうのはちょっと残念。
まあ、あの悲劇的なシチュエーションではさすがに難しく、無い物ねだりなのは分かってるけど。
驚かされたのは洗浄ボランティアの小野くんを演じた菅田将暉で、スターのオーラを完全に消し去り、ラスト近くでアップになるまで誰が演じているのか全く分からなかった。
この人は主役から二番手三番手まで、変幻自在だな。
まさにカメレオンアクター。

今回は岩手を代表する地酒銘柄、陸前高田市の酔仙酒造の「純米大吟醸 鳳翔」をチョイス。
酔仙は東日本大震災の津波被害で、工場を丸ごと流されるという壊滅的な被害を受けたが、全国の飲兵衛のエールを受けて翌年復活。
今もおいしいお酒を送り出し続けている。
こちらも、豊かな吟醸香と柔らかな口当たりが楽しめる芳潤な酒だ。

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82年生まれ、キム・ジヨン・・・・・評価額1650円
2020年10月10日 (土) | 編集 |
韓国で、女性として生きることとは。

16か国言に翻訳され、各国で広く共感を集めたチョ・ナムジュのベストセラー小説、「82年生まれ、キム・ジヨン」の映画化。
1982年に生まれ、夫と一人娘とともにソウルに暮らす33歳のキム・ジヨンに、ある時から奇妙な言動が現れる。
それはまるで彼女の母親や親友といった、近しい女性たちが憑依したかの様で、ジヨンにはそうなっている間の記憶がない。
平凡な主婦だった彼女は、一体なぜ心の病を発症してしまったのか?
映画は彼女の人生を紐解き、韓国社会で女性として生きることの難しさ、目に見えない透明な差別を描き出してゆく。
主人公のキム・ジヨンを、チョン・ユミが好演。
夫のチョン・デヒョンを、彼女と三度目の共演となるコン・ユが演じる。
俳優として長いキャリアを持ち、監督としていくつかの短編で高い評価を受けたキム・ドヨン監督が、見事な長編デビューを飾った。
※ラストに触れています。

キム・ジヨン(チョン・ユミ)は、夫のチョン・デヒョン(コン・ユ)と娘のアヨンと共に、ソウルのマンションに住んでいる。
彼女はもともと広告代理店で働いていたが、娘の出産を機に退職し、今では専業主婦だ。
秋夕の連休に、三人で夫の実家に里帰りした時、事件が起こる。
突然ジヨンが母親のオ・ミスク(キム・ミギョン)そっくりの口調で、夫の家族を非難し始めたのだ。
驚いたデヒョンは、その場を取り繕ってソウルに帰るが、妻はその出来事を全く覚えていない。
デヒョンは、彼女に何が起こったのかを隠したまま、精神科を受信することを勧めるも、高額な料金を知ったジヨンは受診してくれない。
その後も、ジヨンは亡くなった先輩そっくりに話したり、異常な症状が出ては消えるを繰り返す様になる。
そんな時、代理店時代の上司が独立して新会社を立ち上げることを知ったジヨンは、再就職を決意するのだが・・・


期待通りの素晴らしい仕上がりだ。
タイトルロールを演じるチョン・ユミと、夫役のコン・ユは安定感抜群。
二人は、ゾンビ映画の歴史を書き換えた「新感染 ファイナル・エクスプレス」以来の共演だが、これで「トガニ 幼き瞳の告発」と合わせて、共演作全てが秀作となった。

韓国で130万部を超える大ベストセラーとなった原作小説の表紙は、髪の長い女性の肖像が描かれていて、その顔の部分だけがくり抜かれ、向こうには荒涼とした荒野の風景が広がっている。
この世代でもっとも平凡な名前を持つ、顔のないキム・ジヨンは全ての女性の象徴であり、荒野は女性たちが生きている世知辛い社会というわけだ。
小説は、心を病んだジヨンが夫と共に精神科を受診し、主治医が彼女が生まれてから辿って来た人生を聞き取り、記録したカルテという設定で展開する。
2016年のソウルを起点とし、1982年の出生から現在までが時系列に沿って描かれているのだが、女性の生きづらさを表現するための、小説ならではの様々なロジックが駆使されている。
例えば、小説の男性は夫のデヒョン以外は名前が与えられていない。
女性のキャラクターは全て名前が付けられているのに、男性は「父」「弟」と言った具合で名前がないのだ。
これは韓国社会で既婚女性が「○○のママ」「○○の奥さん」などと呼ばれ、個としての名前を失ってゆくことの反転だという。

しかし、こういった文学的手法は映画では使えないし、第三者視点のカルテ設定も無理がある。
映画は基本キム・ジヨンの一人称的な視点に夫の視点が混じり合う形で描かれ、現在の夫婦の関係を軸として、彼女の回想として過去を振り返るという構成となっている。
もっとも、精神科受診が終盤に移動している以外は、中盤まで話そのものは非常に忠実。
過去の描写が減った分、原作で大きな比重を占めていた、ジヨンの祖母から三代に渡る女性の社会的ポジションの変化といった時代性の要素は希薄になっているものの、現在の主人公の感じてる生きづらさ、見えない差別にフォーカスしたのは正解だと思う。
過去パートが物足りないという人には、日本では初夏に公開された「はちどり」が、ちょうど本作の主人公と同世代となる少女の90年代を描いていて、テーマ的にも共通する部分があるのでお勧めしたい。

韓国の女性というと思い出すのが、私が80年代の終わりに米国に留学していた時に、遊び仲間だったAさんのことだ。
ある時、彼女が泣いていて、聞くと仲の悪い同郷の留学生に「Aさんは処女じゃない」と噂を流されて、それが韓国人留学生たちの間に広まってしまったのだという。
「韓国では処女じゃないとまともな結婚はできない。こんな噂が韓国に伝わったら人生が終わっちゃう」と泣く彼女を慰めつつ、なんと大時代的なと驚いた。
まあ当時の韓国人留学生は財閥の御曹司がいたり、ちょっと特殊な村社会的なグループで必ずしも一般的ではなかったかもしれないが。
80年代生まれのジヨンとは、ちょうどひと回り上の世代だが、本作を観ると価値観に隔世の感があり、改めて韓国女性の置かれているポジション、いや韓国社会そのものが、いかに短期間のうちに急激に変化したのかを実感する。

だが、変わる部分もあれば、なかなか変わらない部分もある。
家族の中で男子を優先しがちなこと、出産後に会社に残りづらい硬直した仕組み、家事や育児がワンオペになりがちなこと、専業主婦を下に見る風潮。
社会に不文律として組み込まれた理不尽が積み重なり、平穏な日常は気づかないうちに静かな生き地獄となる。
「ガラスの天井」という言葉はよく聞くが、ジヨンは階段を上がる以前に道を歩くたびに現れるガラスの壁にぶつかり、いつの間にか出口の無い密室に閉じ込められてしまったのだ。
たぶん彼女が感じているガラスの壁、透明な差別というのは、ベースの部分でよく似た文化を持つ日本の事情ともほぼ完全に一致するのではないか。
作中で印象的に使われている、「ママ虫」という言葉がある。
専業主婦は、夫の収入に寄生して楽して生きている害虫だという、非常に侮蔑的な言葉なのだが、映画の冒頭でサラリーマンからこの言葉を浴びせられたジヨンは、ショックを受けて逃げる様に立ち去ってしまう。
ところが、映画の終盤で精神科に通い始めた彼女は、再び「ママ虫」という言葉を使った男に対して、毅然として反論するのだ。

実は映画の後半は、原作小説と結構異なる。
ジヨンの再就職への挑戦が一つの山場となるが、これは映画のオリジナル。
物語の最後も、小説では彼女の主治医である男性医師が、「私は韓国で女性として、特に子どもを持つ女性として生きるとはどんなことなのか知っている」と言いつつも、出産のために退職する同僚の替りに「未婚の女性を探さなくては」という非常に皮肉な言葉を吐き出して終わる。
対して映画でジヨンの主治医になるのは女性で、物語の終盤にやっと受診した彼女に、「心の病気は(自覚症状がないので)病院に来るまでが大変で、来た時点で治療は半分成功」と告げる。
また夫のデヒョンの、男性として、夫としての葛藤描写、病気を知ったジヨンの実家の家族の描写も増えていて、全体にジヨンが周りの家族に包み込まれる様な構図となっている。
女性の生きづらさだけではなく、では周りはどうあるべきかをも描こうとしているのが映画の大きな特徴だ。

そして物語そのものも、主治医のカルテではなく、もともと作家志望だったジヨン本人が自分の半生を振り返って執筆した小説、というメタ構造に落とし込まれる。
この辺りは、放送作家として活躍していたチョ・ナムジュが、出産と育児のために退職せざるを得なくなった自分自身をモデルとして、原作小説を執筆した事実を取り込んだのだろう。
また小説には社名が出てこないジヨンの元上司が立ち上げる会社「春風」は、監督のキム・ドヨンが本作の製作のために作った映画会社と同名であり、作り手も自分をジヨンと同一視しているのが感じられる。
終始客観的な視点で、女性が韓国で生きる苦悩を描写した小説に対し、映画は顔の無い全女性の象徴ではなく、キム・ジヨンという個性に溢れ、それでいて誰もが感情移入出来る一人の女性の生き様をドラマチックに描く。
ビターな後味を残す小説と、明確なハッピーエンドを迎える映画、好みは分かれるだろうが、物語の閉じ方はこれはこれでアリ。
女性目線で共感できるのはもちろん、男性目線だといろいろ気づきを与えてくれる映画なので、デートムービーとしても最適だと思う。

今回は、コーヒーが重要なアイテムとなっているので、コーヒーリキュールを使った暖かカクテル「ホット・カルーアミルク」をチョイス。
カルーア30mlを入れたマグカップに、暖めたミルク適量を注ぎ入れる。
お好みで、ホイップクリームやシナモンパウダーなどを加えて完成。
コーヒー牛乳っぽいテイストの甘いカクテルで、飲むと体がホカホカしてくるのでこれからの季節にぴったりだ。

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ショートレビュー「甘いお酒でうがい・・・・・評価額1650円」
2020年10月04日 (日) | 編集 |
美味しいお酒と恋の予感。

これは穏やかで、とても好きな映画だな。
アラフォーというよりアラフィフの、松雪泰子演じる独身女性・川嶋佳子の日常を、日記形式で淡々と紡いでゆく。
川嶋佳子は、元々はお笑いコンビの「シソンヌ」のじろうが演じてきた、コントのキャラクターなのだとか。
じろうが自身の小説を元に脚本も担当し、「勝手にふるえてろ」で鮮烈な印象を残した大九明子が監督を務める。
主要な登場人物は、佳子と黒木華が怪演する同僚の若林ちゃん、それに清水尋也の岡本くんの三人だけで、佳子の一人称で語られる物語はサブプロットを持たない完全な一本道。
彼女の半径10メートル以内で展開する、限りなくミニマルな世界だ。

序盤は佳子目線で描かれる、ごく普通の毎日の情景
仕事して、家飲みして、給料日には若林ちゃんと飲みにいく。
時にはブラリとショートトリップに出かけることも。
メインの三人は、ともに同じ出版社に勤めているのだが、具体的にどういう仕事をしているのかなど、ディテールは全く描かれない。
基本的に、本作の描写の全ては実像というよりも佳子の心象
だからお酒を飲みながら肝臓が体を飛び出したりしちゃうし、職場の風景もどこか機械的でシュール。
出世欲などの野心を持たない彼女の人生とって、”仕事”というのは生きてゆくための手段にすぎず、必要ではあるがさほど重要な意味を持たないのだろう。

映画の中盤辺りまでは、静かで落ち着いた雰囲気の佳子よりも、コロコロ表情が変わる若林ちゃんの方がグイグイくる。
「半沢かよ!」とツッコミたくなるほど、オーバーアクション気味に多彩な表情を見せる黒木華が本作のおもしろパートを担当し、コミカルに物語が進行する。
とは言っても、すごくドラマチックなことは起こらない。
平凡な日常に訪れるささやかな幸せを楽しみ、気張らず、無理せず、今の自分をナチュラルに受け入れて生きてゆく。

しかし若林ちゃんの後輩で、佳子よりも二回りは若い、岡本くんが登場する辺りから、恋の予感に佳子の世界が一気に艶めいてくるんだな。
性別は違うが同じアラフィフの一人者として主人公にどっぷり感情移入し、大九明子の術中にはまる。
やはり幾つになっても、恋の衝動には抗えない。
歳の差に遠慮しつつ、ついついときめいてしまう松雪泰子がめっちゃ可愛い。
酒飲みで、なぜかグラッパでうがいするという不思議なルーティンを持つ彼女に、惚れてしまいそうだ。
観終わった直後よりも、後からジワジワ余韻がくる、そんな映画だ。

関係ないけど、ごくごく普通の日常的なシチュエーションに終始する本作。
自転車で疾走する佳子に「もしここで車が突っ込んできたら」とか、三人が海へドライブするところで「実は全員死んでいて・・・」とか、ついつい考えてしまうホラー脳をなんとかしたい。

今回はシボーナ社の「グラッパ ディ バルベーラ」をチョイス。
グラッパはイタリア原産のブランデーの一種だが、ワインを使わずぶどうの搾かすから蒸留されるのが特徴。
普通は熟成させないのだが、こちらは樽熟成させているので、美しい琥珀色をしていてフルーティーな香りも楽しめる。
まあそんな甘くはないと思うし、さすがにこれでうがいするのはもったいない。
佳子もうがいと言いつつ飲んじゃってたし(笑

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ミッドナイトスワン・・・・・評価額1750円
2020年10月01日 (木) | 編集 |
白鳥になれるのは、夜中だけ。

故郷を遠く離れ、東京のショークラブで働くトランスジェンダーの凪沙と、酒浸りのシングルマザーに捨てられた中学生の少女、一果。
生き辛さを抱えた二人が出会った時、彼女らの人生にドラマチックな化学反応が起こる。
真っ暗なトンネルに見えた小さな光は、一果が唯一打ち込んできたバレエ。
しかし彼女の才能を、真に開花させるには相当なお金がいる。
草彅剛が凄みを見せ、一果役の新人・服部樹咲がベテラン相手に互角の存在感。
監督・脚本は、過去にも社会の底辺で生きる人々の物語を紡いできた内田英治。
コロナ禍の中でも快作・傑作が続出する今年の邦画の中でも、批判を受けそうな部分を含めて、最大級のインパクトを放つ傑作だ。
※核心部分に触れています。

新宿のショークラブ「スイートピー」で働くトランスジェンダーの凪沙(草彅剛)は、故郷の広島に暮らす家族には秘密のまま、性転換手術の準備を進めている。
そんなある日、母親から電話が入る。
凪沙のいとこにあたる早織(水川あさみ)が、酒に溺れて育児放棄状態となり、中学生の娘の一果(服部樹咲)をしばらく東京で預かって欲しいというのだ。
しぶしぶ受け入れたものの、てっきり従伯叔父だと思って訪ねてきた一果は、女性の姿の凪沙に戸惑う。
東京での生活が始まってしばらくした頃、バレエ教室の前を通りかかった一果は、教室の片平先生(真飛聖)に呼び止められ、体験レッスンに参加することになる。
しかし、一果には本格的に教室に通うお金はなく、同じバレエ教室に通うりん(上野鈴華)に誘われて怪しげなバイトをし、警察に補導される。
警察に呼び出されて、初めて一果がバレエを習いたがっていることを知った凪沙は、落ち込む一果に「うちらみたいなもんは、ずっと一人で生きていかなきゃいけんけえ、強うならないかんで」と優しく声をかけるのだが・・・・


これは凄い映画だ。
冒頭、ショークラブの楽屋で、濃い化粧をして白鳥の衣装を身に着ける主人公が映し出される。
この役は、様々な作品で無頼漢を演じてきた俳優・草彅剛の、集大成といっていい。
彼女が今までどんな困難な人生を歩んできたのか、表情が見えなくても、その背中が雄弁に語ってくる。
一方、一果を捉えたファーストショットは、広島のスナックで酔い潰れて寝込んでいる母親を迎えに行く後ろ姿。
このショットは、顔が映るまでは新宿を歩く凪沙の後ろ姿かと錯覚するように撮られているが、二人が同じように孤独を抱えた似た者同士であることを示唆する工夫。
映画は東京で出会った二人を軸に、閉塞した様々な人たちを描いてゆく。
男に騙され、とことんまで貢いでしまう凪沙の同僚、一果のライバルで怪我でバレエの道を断たれるりん、そして一果を捨てたシングルマザーの早織。
全員が這いつくばって、喘ぎながら歩んでいる。

全体のモチーフとなっているのが、一果が踊るバレエ「白鳥の湖」だ。
クラッシックの巨匠チャイコフスキーによって作曲され、誰もが知る名作中の名作。
ダーレン・アロノフスキーの「ブラック・スワン」のモチーフになったのも、記憶に新しい。
主人公は、悪魔ロットバルトの呪いによって白鳥の姿に変えられ、夜の間だけ人間に戻れるオデット。
呪いを解く唯一の方法は、誰も愛したことのない男性に、初めての愛を捧げてもらうこと。
オデットは湖で出会ったジークフリート王子に、舞踏会に誘われるのだが、ロットバルトはオデットに似せた少女オディールを送り込み、王子は彼女をオデットと勘違いし求婚してしまう。
悲しみのオデットを間違いに気づいた王子が追い、ロットバルトに戦いを挑み勝利するも、呪いは消えない。
失意の二人は湖に身を投げ、来世での幸せを誓うという悲劇的な物語だ。

この映画では、バレエとは逆に夜だけ白鳥の衣装を着て踊る凪沙が、呪いによって男性の体に閉じ込められたオデット。
彼女を希望へと誘う、ジークフリートの役割が一果。
二人の周りにいる閉塞した人々は、オデット同様に二つの自分に引き裂かれた、呪われた娘たちだ。
最初はお互いに戸惑いがあったものの、徐々にひかれ合ってゆく凪沙と一果。
それは一生誰からも愛されず、一人で生きていくと思っていた凪沙に、初めて擬似的な親として愛してくれる人ができたことを意味する。
そしてバレエの舞踏会にあたるのが、一果の初めてのコンクールだ。
凪沙はすっかり母親の気持ちで見にきているのだが、あろうことかその役割は一果を捨てたはずの早織によって取って代わられてしまう。
まるでジークフリート王子の心が、悪魔の命を受けたオディールによって盗まれた様に。
実の母親との一果の愛の争奪戦に敗れた凪沙は、追い立てられるように呪われた肉体を脱ぎ捨てることを急ぐのである。

ドラマの緩急が絶妙で、その描写は時としてやり過ぎ感が出るギリギリ。
相当ショッキングなシーンもある。
コンクールのステージに立つ一果と、夢破れたりんが踊る姿をシンクロする様にクロスカッティングで見せ、踊りのクライマックスでりんがビルの屋上からジャンプして、そのまま身を投げてしまう描写では、劇場で悲鳴が上がっていた。
一果が広島に帰った後、タイに渡った凪沙が生々しい性転換手術を受けるのは、一果=ジークフリートを巡る悪魔ロットバルトとの戦い。
しかし今まで女性の心を縛り付けてきた呪いを解いたと思っても、今度は予期せぬ別の呪いが肉体を痛めつける。

モチーフとなったバレエのプロットの流れを踏襲しているだけとも言えるが、悲劇的でセンセーショナルな描写は、賛否両論を生むだろう。
特に本作は性同一性障害や育児放棄、シングルマザーの貧困など、社会的にセンシティブな問題を扱っているから尚更だ。
本作のマイノリティの描き方に、嫌悪感を抱く人がいたとしても驚かない。
しかし、私は高尚さに背を向け、とことんまで俗っぽく、泥臭く人間を描いた本作を肯定したい。
草彅剛という人気者を擁し、ドラマチックな物語性に拘った結果、題材の重苦しさはそのまま残るものの、本作は非常に面白く間口の広いエンターテイメントとして成立している。
こういった題材を娯楽として消費することに、抵抗を感じる人もいるだろう。
だが劇中でも描かれている通り、いまだトランスジェンダーをはじめとする性的マイノリティが市民権を持ったとは言えない日本社会で、万人を楽しませつつ、題材に興味を持ってもらうための作品として、これ以上のアプローチがあるだろうか。
真夜中の公園で、凪沙が一果に踊りの教えをこうシーンは、とても美しく優しさに満ちていた。
これは現在の日本を舞台とした「白鳥の湖」で、ある意味「ライムライト」なのである。

映画のキーとなるバレエも全く手抜き無しで、説得力たっぷりに見せるのがいい。
演じる服部樹咲の踊りが、素人目にもとても演技で出来るレベルには見えなかったのだが、プロフィールを見るとガチで本物だった。
いや、むしろ演技の方が素人なのだが、この存在感は末恐ろしい。

今回は「ホワイト・スワン」をチョイス。
アマレットリキュール20ml、牛乳40mlをシェイクし、グラスに注ぐ。
白というよりもピンクに近いが、甘さを抑えてアーモンドの香りを加えたイチゴミルクという風合いのデザートカクテル。
簡単に作れるし、ヘビーな映画の後に飲んでほっこりしたい。

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