2020年11月28日 (土) | 編集 |
歴史は、ウソで作られる。
「ゴーン・ガール」以来6年ぶりとなるデヴィッド・フィンチャーの最新作は、父のジャック・フィンチャーが残した遺稿をもとに、「市民ケーン」の脚本家として知られるハーマン・J・マンキーウィッツ、通称“マンク”を描いた作品だ。
映画は「市民ケーン」執筆中のマンクと、いかにして彼がこの作品を着想したのか、虚実を取り混ぜ、時系列を行きつ戻りつしながら、30年代のハリウッド史を紐解いてゆく。
モノクロ撮影技法に「市民ケーン」へのオマージュをにじませ、皮肉屋でウィットに富むマンクの目を通し、虚飾の街ハリウッドを描き出す。
タイトルロールをゲイリー・オールドマンが好演。
およそ80年前に作られた、映画史上のマスターピースをモチーフに、現在のアメリカが見えてくるという、いかにもフィンチャーらしい、トリッキーな構造を持つ傑作だ。
※核心部分に触れています。
脚本家のハーマン・J・マンキーウィッツ(ゲイリー・オールドマン)は、RKOと契約した若き天才、オーソン・ウェルズ(トム・バーク)の新作のために、脚本執筆を任される。
アルコール依存症に苦しみながら、郊外の一軒家にカンヅメとなったマンクの頭には、ある人物のことが浮かんでいた。
それはマンクの友人でもあり、当時のハリウッドで絶大な権力をふるっていた新聞王ウィリアム・ハースト(チャールズ・ダンス)と、彼の愛人で女優のマリオン・デイヴィス(アマンダ・セイフライド)のこと。
ハーストはマリオンをスターにするために、わざわざ映画会社を設立してまで売り出していたが泣かず飛ばず。
二人に気に入られたマンクは、頻繁にサン・シメオンにある”ハースト・キャッスル“に招かれて親交を深めていった。
しかしマンクには、ハーストをモデルとした映画を構想するきっかけとなる記憶があった。
それは1934年のカリフォルニア州知事選挙の結果起こった、衝撃的な事件だった・・・・
オーソン・ウェルズの代表作で、しばしば世界映画史上のベストワンにも名が挙がる「市民ケーン」は、孤独な新聞王チャールズ・フォスター・ケーンが、荒れ果てた城“ザナドゥ”で「rosebud(バラのつぼみ)」という謎めいた言葉を残して死ぬところから始まる。
ケーンの生涯を描くニュース映画を制作していた記者トンプソンは、彼の愛人だったスーザン・アレクサンダーをはじめ、若い頃から晩年までのケーンを知る人々に取材してゆくのだが、結局だれも「rosebud」の意味を知らない。
実は「rosebud」とは、ケーンが幼いころ持っていたソリのこと。
正確には、大人になってから買った、新品の紛いものの名前。
望むものを総て手に入れた大富豪が、最期に思い出したのが、何も持っていない無垢なるころの記憶で、それすら紛いもので満たすしかなかった、という切ない寓話だ。
脚本の初稿完成までに与えられた時間は60日。
本作は交通事故で足を骨折し、身動きがとれないまま脚本執筆のためにカンヅメにされる1940年のマンクを“現在”とし、彼がこの映画史に燦然と輝く名作をいかにして書くことが出来たのか、30年代初めからの数年間を回想しながら描いてゆく。
その過程で、ケーンのモデルとなったウィリアム・ランドルフ・ハーストをはじめ、愛人のマリオン・デイヴィス、MGMのドン、L・B・メイヤー、夭折の天才プロデューサーのアーヴィング・タルバーグ、後に「イヴの総て」を撮るマンクの実弟ジョセフ・L・マンキーウィッツなど、30年代ハリウッドのオールスターズが次々に登場する。
映画史好きにはたまらない、ゾクゾクする顔ぶれだ。
名作誕生の背景となったのが、1934年のカリフォルニア州知事選挙だったというのが面白い。
大恐慌の影響が色濃く残り、当選したばかりの民主党のフランクリン・ルーズベルト大統領が、政府が積極的に市場介入する“社会主義的な”ニューディール政策を推し進めている時代。
アメリカの二大政党は、現在では民主党=リベラル、共和党=保守という枠組みになっているが、19世紀までは真逆。
徐々に政策と支持層が入れ替わり、30年代のルーズベルトによるニューディール政策と、60年代のリンドン・ジョンソンによる公民権法の制定によって、保革の色分けが決定的となった。
34年の州知事選挙では、社会主義者の小説家アプトン・シンクレアが民主党から出馬。
富の分配を主張する彼の政策に、ハリウッドの権力者たちは戦々恐々となり、シンクレアが当選したらスタジオをフロリダへ移すと表明し揺さぶりをかけ、ハーストらの保守系メディアは結託して徹底的な反シンクレアのキャンペーンを張る。
その中にはいわゆるフェイクニュースも含まれていて、映画会社が俳優を使って有権者の声を捏造していたのである。
ジャック・フィンチャーによる脚本は1990年代に書かれたそうだが、映画の中の選挙戦はまるで今年の大統領選を見ているようで、アメリカはずーっと同じことを繰り返しているのだなあと、変な意味で感慨深い。
映画の中では、マンクの友人であるテストショットディレクターのシェリー・メトカーフが、監督への昇格を餌にフェイクニュースを作らされ、結果的にシンクレアが共和党のメリアムに敗れたことで、良心の呵責に耐えかねて自殺してしまう。
この事件がマンクの中で、「市民ケーン」執筆の重要な動機になるのだが、実はメトカーフは架空の人物で、モデルとなった実際にフェイクニュースを作った人物は天寿を全うしている。
また、本作のマンクはシンクレアにシンパシーを抱いている社会主義者として描かれているが、現実のマンクの政治的な立場は明らかになっていない。
彼自身は組合にも入っておらず、政治的には中道保守だったようだ。
ただ、劇中で語られるナチスに迫害されたユダヤ人の支援活動などは実際にやっていたことで、社会正義には敏感だったのは事実だろう。
34年の選挙とともに、マンクがハーストに抱いている感情を変化させるのが、「オルガン弾きのサル」という寓話だ。
ハースト・キャッスルでの宴の最中、泥酔し「市民ケーン」のひな型となる「現代のドン・キホーテ」の企画を語るマンクに、自分の話だと気づいたハーストがふつふつと怒りを募らせながら語るのがこの話。
オルガン弾きのサルは、きれいな衣装を着て街の人気者だが、いつの間にか人間のペットで、金を稼ぐ道具に過ぎないということを忘れて、自分が主役だと思い込む。
要するに「お前はサルで、俺たち人間(パトロン)に食わせてもらっているのだから、調子にのるなよ」という脅しである。
だから「市民ケーン」は、自らをペットのサル扱いしたハーストに対して、マンクが対等な立場であることを証明した作品でもある。
もっとも、この映画はあくまでも、「マンクは、どうやってあの名作を書けたのだろう」という疑問から、ジャック・フィンチャーが想像の翼を広げたフィクションだ。
だから実際に映画と同じだったわけではないだろが、いくつもの出来事を通してマンクの中に芽生えた権力への虚無感は、友人だったはずのウィリアム・ハーストとマリオン・ディヴィスを露骨にモデルとした、一本の映画として結実する。
完成した「市民ケーン」を起点に、創作者の頭の中で何がどう繋がって、斬新なものが生み出されるのか、そのプロセスこそが見どころであり、刺激的だ。
現実のハーストがフィクションのケーンに落とし込まれた様に、現実世界を捻じ曲げるフェイクニュースの罪を、フィクションという別のウソで描き出すシニカルな構造も、皮肉屋マンクには相応しい。
彼がRKOと契約した時に、クレジットに載せない、つまりはウェルズのゴーストライターとして執筆するとなっていたのに、いざ書き上げてみるとあまりの出来の良さに欲が出るあたりも映画業界あるあるだが、本作は様々な問題を抱えたマンクが壁を乗り越えて、ライターとしての矜持を取り戻す物語にもなっているのである。
本作はフィンチャーらしい、捻りの効いた歴史劇だが、彼の代表作である「ソーシャル・ネットワーク」も、全てを手に入れたはずの大富豪が、実は一番欲しかったものを失っているという物語の構造と虚無感が、「市民ケーン」と奇妙に共通しているのが興味深い。
そう言えばあの映画もアカデミー賞で本命視されながら、結果的には脚色賞他三部門の受賞に止まったあたりも通じるものがある。
しかし、2時間11分に詰め込まれた情報量がとんでもなく膨大な上に、全く説明要素がないので、ある程度の映画史と米国史の知識は必須。
次々と登場しては消えてゆく登場人物に「これ誰?あれ誰?」と置いていかれないために、少なくともハーストとハリウッドの関係、34年の知事選については予習した方がベター。
「市民ケーン」を観てることも一応前提にはなってるが、これに関してはどっちが先でも良いと思う。
今回は、「ソーシャル・ネットワーク」にも合わせた「ミリオネアー」をチョイス。
ラム15ml 、スロー・ジン15ml、 アプリコット・ブランデー15ml、 ライム・ジュース15mlまたは1個 、グレナデン・シロップ1dashをシェイクしてグラスに注ぐ。
名前はアレだが、実際には適度なライムの酸味が心地良い、スッキリとした飲みやすいカクテルだ。
それにしても、世の中のミリオネアーのうち、どのくらいの人が本当の幸せを手にしているのだろうな。
記事が気に入ったらクリックしてね
「ゴーン・ガール」以来6年ぶりとなるデヴィッド・フィンチャーの最新作は、父のジャック・フィンチャーが残した遺稿をもとに、「市民ケーン」の脚本家として知られるハーマン・J・マンキーウィッツ、通称“マンク”を描いた作品だ。
映画は「市民ケーン」執筆中のマンクと、いかにして彼がこの作品を着想したのか、虚実を取り混ぜ、時系列を行きつ戻りつしながら、30年代のハリウッド史を紐解いてゆく。
モノクロ撮影技法に「市民ケーン」へのオマージュをにじませ、皮肉屋でウィットに富むマンクの目を通し、虚飾の街ハリウッドを描き出す。
タイトルロールをゲイリー・オールドマンが好演。
およそ80年前に作られた、映画史上のマスターピースをモチーフに、現在のアメリカが見えてくるという、いかにもフィンチャーらしい、トリッキーな構造を持つ傑作だ。
※核心部分に触れています。
脚本家のハーマン・J・マンキーウィッツ(ゲイリー・オールドマン)は、RKOと契約した若き天才、オーソン・ウェルズ(トム・バーク)の新作のために、脚本執筆を任される。
アルコール依存症に苦しみながら、郊外の一軒家にカンヅメとなったマンクの頭には、ある人物のことが浮かんでいた。
それはマンクの友人でもあり、当時のハリウッドで絶大な権力をふるっていた新聞王ウィリアム・ハースト(チャールズ・ダンス)と、彼の愛人で女優のマリオン・デイヴィス(アマンダ・セイフライド)のこと。
ハーストはマリオンをスターにするために、わざわざ映画会社を設立してまで売り出していたが泣かず飛ばず。
二人に気に入られたマンクは、頻繁にサン・シメオンにある”ハースト・キャッスル“に招かれて親交を深めていった。
しかしマンクには、ハーストをモデルとした映画を構想するきっかけとなる記憶があった。
それは1934年のカリフォルニア州知事選挙の結果起こった、衝撃的な事件だった・・・・
オーソン・ウェルズの代表作で、しばしば世界映画史上のベストワンにも名が挙がる「市民ケーン」は、孤独な新聞王チャールズ・フォスター・ケーンが、荒れ果てた城“ザナドゥ”で「rosebud(バラのつぼみ)」という謎めいた言葉を残して死ぬところから始まる。
ケーンの生涯を描くニュース映画を制作していた記者トンプソンは、彼の愛人だったスーザン・アレクサンダーをはじめ、若い頃から晩年までのケーンを知る人々に取材してゆくのだが、結局だれも「rosebud」の意味を知らない。
実は「rosebud」とは、ケーンが幼いころ持っていたソリのこと。
正確には、大人になってから買った、新品の紛いものの名前。
望むものを総て手に入れた大富豪が、最期に思い出したのが、何も持っていない無垢なるころの記憶で、それすら紛いもので満たすしかなかった、という切ない寓話だ。
脚本の初稿完成までに与えられた時間は60日。
本作は交通事故で足を骨折し、身動きがとれないまま脚本執筆のためにカンヅメにされる1940年のマンクを“現在”とし、彼がこの映画史に燦然と輝く名作をいかにして書くことが出来たのか、30年代初めからの数年間を回想しながら描いてゆく。
その過程で、ケーンのモデルとなったウィリアム・ランドルフ・ハーストをはじめ、愛人のマリオン・デイヴィス、MGMのドン、L・B・メイヤー、夭折の天才プロデューサーのアーヴィング・タルバーグ、後に「イヴの総て」を撮るマンクの実弟ジョセフ・L・マンキーウィッツなど、30年代ハリウッドのオールスターズが次々に登場する。
映画史好きにはたまらない、ゾクゾクする顔ぶれだ。
名作誕生の背景となったのが、1934年のカリフォルニア州知事選挙だったというのが面白い。
大恐慌の影響が色濃く残り、当選したばかりの民主党のフランクリン・ルーズベルト大統領が、政府が積極的に市場介入する“社会主義的な”ニューディール政策を推し進めている時代。
アメリカの二大政党は、現在では民主党=リベラル、共和党=保守という枠組みになっているが、19世紀までは真逆。
徐々に政策と支持層が入れ替わり、30年代のルーズベルトによるニューディール政策と、60年代のリンドン・ジョンソンによる公民権法の制定によって、保革の色分けが決定的となった。
34年の州知事選挙では、社会主義者の小説家アプトン・シンクレアが民主党から出馬。
富の分配を主張する彼の政策に、ハリウッドの権力者たちは戦々恐々となり、シンクレアが当選したらスタジオをフロリダへ移すと表明し揺さぶりをかけ、ハーストらの保守系メディアは結託して徹底的な反シンクレアのキャンペーンを張る。
その中にはいわゆるフェイクニュースも含まれていて、映画会社が俳優を使って有権者の声を捏造していたのである。
ジャック・フィンチャーによる脚本は1990年代に書かれたそうだが、映画の中の選挙戦はまるで今年の大統領選を見ているようで、アメリカはずーっと同じことを繰り返しているのだなあと、変な意味で感慨深い。
映画の中では、マンクの友人であるテストショットディレクターのシェリー・メトカーフが、監督への昇格を餌にフェイクニュースを作らされ、結果的にシンクレアが共和党のメリアムに敗れたことで、良心の呵責に耐えかねて自殺してしまう。
この事件がマンクの中で、「市民ケーン」執筆の重要な動機になるのだが、実はメトカーフは架空の人物で、モデルとなった実際にフェイクニュースを作った人物は天寿を全うしている。
また、本作のマンクはシンクレアにシンパシーを抱いている社会主義者として描かれているが、現実のマンクの政治的な立場は明らかになっていない。
彼自身は組合にも入っておらず、政治的には中道保守だったようだ。
ただ、劇中で語られるナチスに迫害されたユダヤ人の支援活動などは実際にやっていたことで、社会正義には敏感だったのは事実だろう。
34年の選挙とともに、マンクがハーストに抱いている感情を変化させるのが、「オルガン弾きのサル」という寓話だ。
ハースト・キャッスルでの宴の最中、泥酔し「市民ケーン」のひな型となる「現代のドン・キホーテ」の企画を語るマンクに、自分の話だと気づいたハーストがふつふつと怒りを募らせながら語るのがこの話。
オルガン弾きのサルは、きれいな衣装を着て街の人気者だが、いつの間にか人間のペットで、金を稼ぐ道具に過ぎないということを忘れて、自分が主役だと思い込む。
要するに「お前はサルで、俺たち人間(パトロン)に食わせてもらっているのだから、調子にのるなよ」という脅しである。
だから「市民ケーン」は、自らをペットのサル扱いしたハーストに対して、マンクが対等な立場であることを証明した作品でもある。
もっとも、この映画はあくまでも、「マンクは、どうやってあの名作を書けたのだろう」という疑問から、ジャック・フィンチャーが想像の翼を広げたフィクションだ。
だから実際に映画と同じだったわけではないだろが、いくつもの出来事を通してマンクの中に芽生えた権力への虚無感は、友人だったはずのウィリアム・ハーストとマリオン・ディヴィスを露骨にモデルとした、一本の映画として結実する。
完成した「市民ケーン」を起点に、創作者の頭の中で何がどう繋がって、斬新なものが生み出されるのか、そのプロセスこそが見どころであり、刺激的だ。
現実のハーストがフィクションのケーンに落とし込まれた様に、現実世界を捻じ曲げるフェイクニュースの罪を、フィクションという別のウソで描き出すシニカルな構造も、皮肉屋マンクには相応しい。
彼がRKOと契約した時に、クレジットに載せない、つまりはウェルズのゴーストライターとして執筆するとなっていたのに、いざ書き上げてみるとあまりの出来の良さに欲が出るあたりも映画業界あるあるだが、本作は様々な問題を抱えたマンクが壁を乗り越えて、ライターとしての矜持を取り戻す物語にもなっているのである。
本作はフィンチャーらしい、捻りの効いた歴史劇だが、彼の代表作である「ソーシャル・ネットワーク」も、全てを手に入れたはずの大富豪が、実は一番欲しかったものを失っているという物語の構造と虚無感が、「市民ケーン」と奇妙に共通しているのが興味深い。
そう言えばあの映画もアカデミー賞で本命視されながら、結果的には脚色賞他三部門の受賞に止まったあたりも通じるものがある。
しかし、2時間11分に詰め込まれた情報量がとんでもなく膨大な上に、全く説明要素がないので、ある程度の映画史と米国史の知識は必須。
次々と登場しては消えてゆく登場人物に「これ誰?あれ誰?」と置いていかれないために、少なくともハーストとハリウッドの関係、34年の知事選については予習した方がベター。
「市民ケーン」を観てることも一応前提にはなってるが、これに関してはどっちが先でも良いと思う。
今回は、「ソーシャル・ネットワーク」にも合わせた「ミリオネアー」をチョイス。
ラム15ml 、スロー・ジン15ml、 アプリコット・ブランデー15ml、 ライム・ジュース15mlまたは1個 、グレナデン・シロップ1dashをシェイクしてグラスに注ぐ。
名前はアレだが、実際には適度なライムの酸味が心地良い、スッキリとした飲みやすいカクテルだ。
それにしても、世の中のミリオネアーのうち、どのくらいの人が本当の幸せを手にしているのだろうな。

記事が気に入ったらクリックしてね
スポンサーサイト
2020年11月24日 (火) | 編集 |
ゴミ屑だって生きてる!
「タイトル、拒絶」という大胆なタイトルが目を引くが、これは強烈だ。
冒頭、上半身下着姿の伊藤沙莉がカメラに向かって「私の人生なんて、クソみたいなものだと思うんですよね」と語りかけてくる。
こりゃ普通じゃないぞという予感に、一気にスクリーンに引き込まれる。
まだまだ傑作快作が出てくるぞ、今年の日本映画。
都内のデリヘルに勤めている、女と男の群像劇で、舞台となるのはほとんどデリヘルの店内とその周辺のみ。
全く予備知識なしで観たのだが、非常に演劇的な作りだと思ったら、なるほど元は劇団「□字ック」が上演した戯曲で、作者の山田佳奈自ら映画化を手掛けた作品。
同じく社会の底辺に生きる人間たちを描いた傑作、「ミッドナイトスワン 」の内田英治監督が、プロデューサーとして参加している。
伊藤沙莉演じる主人公のカノウは、体験入店でビビってデリヘル嬢になり損ね、なぜか店のスタッフとして働くことに。
彼女は自分のことを、嫌われ者の「カチカチ山」のタヌキだと思ってる。
カチカチ山のタヌキは、おばあさんを騙して殺し、仇を打とうとする正義のウサギに背中を燃やされ、最後は泥舟に乗せられて溺れ死んでしまう。
つい最近まで普通の人生を歩んでいたはずなのに、就職に落ち続けデリヘル嬢にもなれなかった自分に対してコンプレックスを抱え、心の中には壊れた100円ライターのように、鬱屈としたモヤモヤが熱を帯びたまま溜まっている。
どうせ自分なんて悪役のタヌキだと思っているカノウから見たら、店の顔であるデリヘル嬢たちはウサギのはず。
特に、恒松祐里が好演するマヒルは、いつもニコニコしていて人気もナンバーワンで、輝いて見えるのだが、実は知ってみたら店の女も男も全員泥舟に乗ったタヌキで、ウサギはどこにもいなかったのだ。
店の男たちは自分たちは“ゴミ”を捨てる方で、女たちはゴミ箱だと思っているが、結局どちらも居場所は同じ。
お互いの存在無しではいられない。
全員が社会不適合者で、それでもセックスワーカーとそのサポートとして、社会の中でそれぞれの役割を果たしている。
地べたに這いつくばって生きる、クソみたいなタヌキの人生はくだらない。
くだらない人生には、タイトルなんて上等なものはいらない。
カノウはそう言うが、全ての人生に、たとえタイトルは無くてもしっかり物語はあるのだ。
タヌキを馬鹿にして、ウサギを自認している奴の人生だって、一寸先は誰も予測できないのがこの世の中。
もしかすると今の東京には、タヌキしかいないのかも知れない。
内田英治監督の「獣道」以来、三年ぶりの主演となる伊藤沙莉はもちろん上手いし素晴らしい。
しかし本作の白眉はマヒル役の恒松祐里だ。
映画の後半になると、どんどん彼女のアップショットが増えてゆくのだが、撮りたくなる気持ちは分かるわ。
顔で笑って心で泣いてるマヒルは、カノウの好対照であり裏と表のような関係。
彼女とモトーラ世理奈演じる妹の運命が交錯するクライマックスは、思わず息を飲んだ。
一見全てを割り切っていそうで、でも何かのきっかけがあれば、一気に壊れてしまいそうなマヒルが、何をするつもりなのか。
屋上の階段をゆっくり登ってゆく彼女を見ながら、祈るような気持ちになってしまったよ。
閉塞したニッポンにぶちかます、痛くて、切なくて、愛おしい、パワフルな青春映画だ。
今回は夜に生きる人々の映画なので、目覚めの一杯「テキーラ・サンライズ」をチョイス。
氷を入れたグラスに、テキーラ45ml、オレンジ・ジュース90mlを注ぎ、軽くステア。
グラスの底に沈むよう、グレナデン・シロップ2tspを静かに注ぎ入れる。
燃える朝日のようなオレンジのカラーが鮮烈。
テキーラの独特な風味が、オレンジの酸味と甘味、グレナデンの甘味と混じりあう。
ミック・ジャガーの愛飲酒としても有名な、ロックな一杯だ。
記事が気に入ったらクリックしてね
「タイトル、拒絶」という大胆なタイトルが目を引くが、これは強烈だ。
冒頭、上半身下着姿の伊藤沙莉がカメラに向かって「私の人生なんて、クソみたいなものだと思うんですよね」と語りかけてくる。
こりゃ普通じゃないぞという予感に、一気にスクリーンに引き込まれる。
まだまだ傑作快作が出てくるぞ、今年の日本映画。
都内のデリヘルに勤めている、女と男の群像劇で、舞台となるのはほとんどデリヘルの店内とその周辺のみ。
全く予備知識なしで観たのだが、非常に演劇的な作りだと思ったら、なるほど元は劇団「□字ック」が上演した戯曲で、作者の山田佳奈自ら映画化を手掛けた作品。
同じく社会の底辺に生きる人間たちを描いた傑作、「ミッドナイトスワン 」の内田英治監督が、プロデューサーとして参加している。
伊藤沙莉演じる主人公のカノウは、体験入店でビビってデリヘル嬢になり損ね、なぜか店のスタッフとして働くことに。
彼女は自分のことを、嫌われ者の「カチカチ山」のタヌキだと思ってる。
カチカチ山のタヌキは、おばあさんを騙して殺し、仇を打とうとする正義のウサギに背中を燃やされ、最後は泥舟に乗せられて溺れ死んでしまう。
つい最近まで普通の人生を歩んでいたはずなのに、就職に落ち続けデリヘル嬢にもなれなかった自分に対してコンプレックスを抱え、心の中には壊れた100円ライターのように、鬱屈としたモヤモヤが熱を帯びたまま溜まっている。
どうせ自分なんて悪役のタヌキだと思っているカノウから見たら、店の顔であるデリヘル嬢たちはウサギのはず。
特に、恒松祐里が好演するマヒルは、いつもニコニコしていて人気もナンバーワンで、輝いて見えるのだが、実は知ってみたら店の女も男も全員泥舟に乗ったタヌキで、ウサギはどこにもいなかったのだ。
店の男たちは自分たちは“ゴミ”を捨てる方で、女たちはゴミ箱だと思っているが、結局どちらも居場所は同じ。
お互いの存在無しではいられない。
全員が社会不適合者で、それでもセックスワーカーとそのサポートとして、社会の中でそれぞれの役割を果たしている。
地べたに這いつくばって生きる、クソみたいなタヌキの人生はくだらない。
くだらない人生には、タイトルなんて上等なものはいらない。
カノウはそう言うが、全ての人生に、たとえタイトルは無くてもしっかり物語はあるのだ。
タヌキを馬鹿にして、ウサギを自認している奴の人生だって、一寸先は誰も予測できないのがこの世の中。
もしかすると今の東京には、タヌキしかいないのかも知れない。
内田英治監督の「獣道」以来、三年ぶりの主演となる伊藤沙莉はもちろん上手いし素晴らしい。
しかし本作の白眉はマヒル役の恒松祐里だ。
映画の後半になると、どんどん彼女のアップショットが増えてゆくのだが、撮りたくなる気持ちは分かるわ。
顔で笑って心で泣いてるマヒルは、カノウの好対照であり裏と表のような関係。
彼女とモトーラ世理奈演じる妹の運命が交錯するクライマックスは、思わず息を飲んだ。
一見全てを割り切っていそうで、でも何かのきっかけがあれば、一気に壊れてしまいそうなマヒルが、何をするつもりなのか。
屋上の階段をゆっくり登ってゆく彼女を見ながら、祈るような気持ちになってしまったよ。
閉塞したニッポンにぶちかます、痛くて、切なくて、愛おしい、パワフルな青春映画だ。
今回は夜に生きる人々の映画なので、目覚めの一杯「テキーラ・サンライズ」をチョイス。
氷を入れたグラスに、テキーラ45ml、オレンジ・ジュース90mlを注ぎ、軽くステア。
グラスの底に沈むよう、グレナデン・シロップ2tspを静かに注ぎ入れる。
燃える朝日のようなオレンジのカラーが鮮烈。
テキーラの独特な風味が、オレンジの酸味と甘味、グレナデンの甘味と混じりあう。
ミック・ジャガーの愛飲酒としても有名な、ロックな一杯だ。

記事が気に入ったらクリックしてね
2020年11月19日 (木) | 編集 |
愛の狂気の果てに。
漫画の神様手塚治虫が、さまざまな試行錯誤を繰り返していた1970年代に発表した異色のピカレスク漫画「ばるぼら」を、息子の手塚眞監督が映画化した作品。
異常性欲に悩まされている天才小説家の美倉洋介が、アル中でホームレスの謎めいたミューズ、バルボラと出会ったことで、狂気のダークサイドに堕ちてゆく。
いわば時を超えた親子コラボ作品だが、作品の時代設定は現在となり、プロットは原作に忠実にありつつも取捨選択され、美倉とバルボラ、二人の関係と行動に絞ったものとなっている。
漫画の映像化でまず関門となるキャスティングは、総じてハイスコアと言っていいだろう。
稲垣吾郎の美倉洋介はあまり異常性欲者には見えないが、漫画の美倉よりも若く、手塚オールスターズの中では間久部緑郎に近い、カリスマ性のある貴公子イメージ。
二階堂ふみはトリッキーな魔性の女、バルボラを完全に自分のものにしており、これ以上ないほどのハマり役だ。
ビジュアルが強烈過ぎて漫画を超えてるのが、渡辺えりのムネーモシュネーだが、これよくやってくれたな(笑
白黒で音の無い漫画の世界から、実写へ。
冒頭から原作のテイストを残しながらも、スクリーンという新たなコマ割りの中で、魅惑的な映像として再構成したクリストファー・ドイルのカメラが素晴らしい。
橋本一子のジャジーな音楽も圧が強く、光と影を強調した映像と一体化し、退廃的なムードを形作ってゆく。
キャストの好演を含めて、テリングの部分の完成度はかなり高く、漫画既読者でも納得の仕上がりだ。
手塚監督は、2004年から放送され、劇場用映画も作られた「ブラック・ジャック」のアニメーション版も手掛けている。
数ある父親の作品の中では、社会の裏側に生きる人間たちを描いた、耽美的でダークなタッチの作品が好みなのだろう。
以前に映画化した坂口安吾原作の「白痴」も、芸術家と奇妙なミューズという本作に通じる物語だったし、独特の世界観との相性はバッチリで、手塚漫画の実写化は失敗するという呪われたジンクスからは解放されている。
しかし、非常に端正な作品だが、ここまでキッチリ作り込むのならば、映画ならではのさらなる飛躍があってもよかったのではないかなあ。
天才芸術家が創造のエネルギーをくれるミューズに夢中になり、徐々に狂気の世界にはまり込んで別れられなくなるという本作の骨格は、手塚監督が心配するほど咀嚼し難い話ではない。
もともと“バルボラ”とは、いかようにも解釈可能なキャラクターであり現象だから、個人的にはグァダニーノ版「サスペリア」位に、ぐっちゃぐちゃにしちゃっても良かったのではと思う。
もちろんホラー描写的な意味ではなく、精神的な部分でのことだが。
本作には、そのくらいの飛躍には、十分に耐えうる世界観のバックボーンがあると感じる。
もっとも、そうするとただでさえマニアックな作品が、ますますお客さんを選ぶことになってしまうだろうけど。
まあ思うところはあれど、これは手塚眞流の手塚漫画の解釈として、なかなかに面白い試みだった。
今回は、主人公が白日夢のような幻想的な体験をするの話なので、「デイドリーム・マティーニ」をチョイス。
シトラスウォッカ90ml、オレンジジュース30ml、トリプルセック15ml、シロップ1dashを氷を入れたミキシンググラスでステアし、冷やしたグラスに注ぐ。
重層的な柑橘類のフレッシュな香りが、甘味と酸味のバランスを引き立て、ゆったりと白昼夢に誘われる。
記事が気に入ったらクリックしてね
漫画の神様手塚治虫が、さまざまな試行錯誤を繰り返していた1970年代に発表した異色のピカレスク漫画「ばるぼら」を、息子の手塚眞監督が映画化した作品。
異常性欲に悩まされている天才小説家の美倉洋介が、アル中でホームレスの謎めいたミューズ、バルボラと出会ったことで、狂気のダークサイドに堕ちてゆく。
いわば時を超えた親子コラボ作品だが、作品の時代設定は現在となり、プロットは原作に忠実にありつつも取捨選択され、美倉とバルボラ、二人の関係と行動に絞ったものとなっている。
漫画の映像化でまず関門となるキャスティングは、総じてハイスコアと言っていいだろう。
稲垣吾郎の美倉洋介はあまり異常性欲者には見えないが、漫画の美倉よりも若く、手塚オールスターズの中では間久部緑郎に近い、カリスマ性のある貴公子イメージ。
二階堂ふみはトリッキーな魔性の女、バルボラを完全に自分のものにしており、これ以上ないほどのハマり役だ。
ビジュアルが強烈過ぎて漫画を超えてるのが、渡辺えりのムネーモシュネーだが、これよくやってくれたな(笑
白黒で音の無い漫画の世界から、実写へ。
冒頭から原作のテイストを残しながらも、スクリーンという新たなコマ割りの中で、魅惑的な映像として再構成したクリストファー・ドイルのカメラが素晴らしい。
橋本一子のジャジーな音楽も圧が強く、光と影を強調した映像と一体化し、退廃的なムードを形作ってゆく。
キャストの好演を含めて、テリングの部分の完成度はかなり高く、漫画既読者でも納得の仕上がりだ。
手塚監督は、2004年から放送され、劇場用映画も作られた「ブラック・ジャック」のアニメーション版も手掛けている。
数ある父親の作品の中では、社会の裏側に生きる人間たちを描いた、耽美的でダークなタッチの作品が好みなのだろう。
以前に映画化した坂口安吾原作の「白痴」も、芸術家と奇妙なミューズという本作に通じる物語だったし、独特の世界観との相性はバッチリで、手塚漫画の実写化は失敗するという呪われたジンクスからは解放されている。
しかし、非常に端正な作品だが、ここまでキッチリ作り込むのならば、映画ならではのさらなる飛躍があってもよかったのではないかなあ。
天才芸術家が創造のエネルギーをくれるミューズに夢中になり、徐々に狂気の世界にはまり込んで別れられなくなるという本作の骨格は、手塚監督が心配するほど咀嚼し難い話ではない。
もともと“バルボラ”とは、いかようにも解釈可能なキャラクターであり現象だから、個人的にはグァダニーノ版「サスペリア」位に、ぐっちゃぐちゃにしちゃっても良かったのではと思う。
もちろんホラー描写的な意味ではなく、精神的な部分でのことだが。
本作には、そのくらいの飛躍には、十分に耐えうる世界観のバックボーンがあると感じる。
もっとも、そうするとただでさえマニアックな作品が、ますますお客さんを選ぶことになってしまうだろうけど。
まあ思うところはあれど、これは手塚眞流の手塚漫画の解釈として、なかなかに面白い試みだった。
今回は、主人公が白日夢のような幻想的な体験をするの話なので、「デイドリーム・マティーニ」をチョイス。
シトラスウォッカ90ml、オレンジジュース30ml、トリプルセック15ml、シロップ1dashを氷を入れたミキシンググラスでステアし、冷やしたグラスに注ぐ。
重層的な柑橘類のフレッシュな香りが、甘味と酸味のバランスを引き立て、ゆったりと白昼夢に誘われる。

記事が気に入ったらクリックしてね
2020年11月14日 (土) | 編集 |
ボクの居場所はどこにある?
世界最高峰のストップモーション・アニメーションのスタジオ、ライカの第5作。
英国のビクトリア朝時代を舞台に、ヒュー・ジャックマン演じる見栄っ張りの冒険家、サー・ライオネル・フロスト卿が、北米の森で言葉を話すビッグフットのミスター・リンクと出会い、彼の同族が暮らすという伝説の秘密郷、シャングリラを探す旅に出る。
第1作の「コララインとボタンの魔女」以来、子どもを主人公にして来たライカの作品として初めて、大人気ない大人が主人公となる。
残念ながら米国での興行は惨敗してしまったが、映画の出来自体は素晴らしく、ストップモーション技法の作品で初のゴールデン・グローブ賞アニメーション賞に輝いた。
「パラノーマン ブライス・ホローの謎」で脚本と共同監督、「KUBO/クボ 二本の弦の秘密」では脚本を担当した、名手クリス・バトラーが監督と脚本を務める。
※核心部分に触れています。
主人公のライオネルと、途中でなぜか“スーザン”に改名するミスター・リンク。
キャラクターの人形が、演じるヒュー・ジャックマンとザック・ガリフィアナキスそっくりなのが可笑しいが、この異種コンビの共通点は“孤独”だ。
リンクはだんだんと同族が減って、今は北米の森に一人ぼっち。
一方のライオネルは、傲慢で利己的な性格が理由でやっぱり一人。
二人の男の子の問題を顕在化する触媒の役割が、ゾーイ・サルダナ演じる主人公の元カノ、アデリーナで、彼女を加えて仲良く歪み合う冒険トリオが完成。
ライオネルとリンクは、共に自分に相応しい居場所を求めているのだが、認識がズレているあたりも共通だ。
どうしても同族と暮らしたいリンクは、ヒマラヤにあるとされる雪男の秘密郷、シャングリラに行きたくて、冒険家のライオネルに自分を連れて行ってもらうことを依頼。
それはライオネルにとっても、進化論を否定する保守的な冒険家クラブに、自分を認めさせるチャンスでもある。
だが、現実の世界を見れば一目瞭然なように、同じ人種が暮らしているからと言って、そこが自分の居場所になるとは限らないし、ライオネルが欲しているのは、権威に対する対する子どもっぽい承認欲求に過ぎない。
映画は三人の冒険の旅を通して、友情と信頼と目指すべき居場所に関する物語を、説得力とユーモアたっぷりに描いてゆく。
三人の前に立ちはだかるのが、新しい時代について行けない思考停止気味の冒険家協会のボスだったり、差別主義者のシャングリラの女王だったりするのだが、どちらも言ってみればライオネルとリンクの鏡像だ。
彼らが、真に打破すべきは、実は先入観に囚われた自分の心なのである。
本作は、いわばストップモーション版の「インディアナ・ジョーンズ」で、世界を股にかけるアクション活劇。
オープニングからワクワクするシークエンスが満載で、物語のあっちこっちで、いわゆる“クリフハンガー”の描写がある。
ぶっちゃけストップモーションが一番苦手な部分だと思うが、本作は制約をものともせず、驚くべき完成度のアクションを見せてくれる。
特に大波に翻弄される客船の中での追いかけっこは、非常に楽しく映像的未見性があった。
結構デジタルも使ってるんだろうけど、もはや映像的には多くのシーンがどうやってるのか分からないレベル。
毎回思うが、3Dプリンターの発明でストップモーションの技術がどんどん進化すると、CGと見分けがつかなくなってくるのは大いなる皮肉だ。
もちろんフリッカーが目立たなくなったといっても、動きの味わいは残ってるんだけど。
出来れば全シーンのメイキングが観たい!
今回は、世界を駆け巡る話なので「アラウンド・ザ・ワールド」をチョイス。
ドライ・ジン50ml、グリーン・ペパーミント・リキュール15ml、パイナップル・ジュース15mlをシェイクし、グラスに注ぐ。
最後にグリーンチェリーを飾って完成。
エメラルド色の美しいカクテルだが、飲んでみると見えないイエロー、パイナップルの風味を強く感じ、意外性がある。
甘口で飲みやすいデザートカクテルだ。
記事が気に入ったらクリックしてね
世界最高峰のストップモーション・アニメーションのスタジオ、ライカの第5作。
英国のビクトリア朝時代を舞台に、ヒュー・ジャックマン演じる見栄っ張りの冒険家、サー・ライオネル・フロスト卿が、北米の森で言葉を話すビッグフットのミスター・リンクと出会い、彼の同族が暮らすという伝説の秘密郷、シャングリラを探す旅に出る。
第1作の「コララインとボタンの魔女」以来、子どもを主人公にして来たライカの作品として初めて、大人気ない大人が主人公となる。
残念ながら米国での興行は惨敗してしまったが、映画の出来自体は素晴らしく、ストップモーション技法の作品で初のゴールデン・グローブ賞アニメーション賞に輝いた。
「パラノーマン ブライス・ホローの謎」で脚本と共同監督、「KUBO/クボ 二本の弦の秘密」では脚本を担当した、名手クリス・バトラーが監督と脚本を務める。
※核心部分に触れています。
主人公のライオネルと、途中でなぜか“スーザン”に改名するミスター・リンク。
キャラクターの人形が、演じるヒュー・ジャックマンとザック・ガリフィアナキスそっくりなのが可笑しいが、この異種コンビの共通点は“孤独”だ。
リンクはだんだんと同族が減って、今は北米の森に一人ぼっち。
一方のライオネルは、傲慢で利己的な性格が理由でやっぱり一人。
二人の男の子の問題を顕在化する触媒の役割が、ゾーイ・サルダナ演じる主人公の元カノ、アデリーナで、彼女を加えて仲良く歪み合う冒険トリオが完成。
ライオネルとリンクは、共に自分に相応しい居場所を求めているのだが、認識がズレているあたりも共通だ。
どうしても同族と暮らしたいリンクは、ヒマラヤにあるとされる雪男の秘密郷、シャングリラに行きたくて、冒険家のライオネルに自分を連れて行ってもらうことを依頼。
それはライオネルにとっても、進化論を否定する保守的な冒険家クラブに、自分を認めさせるチャンスでもある。
だが、現実の世界を見れば一目瞭然なように、同じ人種が暮らしているからと言って、そこが自分の居場所になるとは限らないし、ライオネルが欲しているのは、権威に対する対する子どもっぽい承認欲求に過ぎない。
映画は三人の冒険の旅を通して、友情と信頼と目指すべき居場所に関する物語を、説得力とユーモアたっぷりに描いてゆく。
三人の前に立ちはだかるのが、新しい時代について行けない思考停止気味の冒険家協会のボスだったり、差別主義者のシャングリラの女王だったりするのだが、どちらも言ってみればライオネルとリンクの鏡像だ。
彼らが、真に打破すべきは、実は先入観に囚われた自分の心なのである。
本作は、いわばストップモーション版の「インディアナ・ジョーンズ」で、世界を股にかけるアクション活劇。
オープニングからワクワクするシークエンスが満載で、物語のあっちこっちで、いわゆる“クリフハンガー”の描写がある。
ぶっちゃけストップモーションが一番苦手な部分だと思うが、本作は制約をものともせず、驚くべき完成度のアクションを見せてくれる。
特に大波に翻弄される客船の中での追いかけっこは、非常に楽しく映像的未見性があった。
結構デジタルも使ってるんだろうけど、もはや映像的には多くのシーンがどうやってるのか分からないレベル。
毎回思うが、3Dプリンターの発明でストップモーションの技術がどんどん進化すると、CGと見分けがつかなくなってくるのは大いなる皮肉だ。
もちろんフリッカーが目立たなくなったといっても、動きの味わいは残ってるんだけど。
出来れば全シーンのメイキングが観たい!
今回は、世界を駆け巡る話なので「アラウンド・ザ・ワールド」をチョイス。
ドライ・ジン50ml、グリーン・ペパーミント・リキュール15ml、パイナップル・ジュース15mlをシェイクし、グラスに注ぐ。
最後にグリーンチェリーを飾って完成。
エメラルド色の美しいカクテルだが、飲んでみると見えないイエロー、パイナップルの風味を強く感じ、意外性がある。
甘口で飲みやすいデザートカクテルだ。

記事が気に入ったらクリックしてね
2020年11月08日 (日) | 編集 |
本当の罪人は誰なのか。
1984年から85年にかけて日本中を震撼させた劇場型犯罪、グリコ・森永事件をモチーフとした重量級の人間ドラマ。
現実の事件は全ての公訴時効が成立し、未解決のまま完全犯罪となったが、犯人グループの要求を伝える電話に子どもの声のテープが使われていたという事実から、フィクションの翼を広げ、驚くべき深度を持った作品に仕上げている。
ひょんなことから、テープに自分の声が使われていたことに気付いた平凡な男を星野源、社会部の記者をドロップアウトしたのに、過去の事件を追うことになる新聞記者を小栗旬が演じる。
運命に導かれるように二人が出会ったことにより、事件に翻弄された人々の本当のドラマが幕を開けるのである。
監督は、私的平成で一番泣ける映画「いま、会いにゆきます」の土井裕泰が務め、脚本は今や押しも押されもせぬヒットメーカーとなった野木亜紀子。
この二人のコンビで面白くない訳がないのだが、今年の邦画豊漁を象徴するような傑作だ。
※核心部分に触れています。
平成が終わろうとしている頃、京都で父親から受け継いだテーラーを営む曽根俊也(星野源)は、押入れの奥に仕舞われていた荷物の中から一本のカセットテープを見つける。
聞いてみると、それは何かの文章を読んでいる幼い頃の自分の声だった。
気になって内容を検索すると、それは昭和最大の未解決事件とされる、30数年前に起こったギンガ・満堂事件で犯人グループが使った脅迫テープだと分かる。
自分の声が犯罪に使われていた。真面目一徹だと思っていた父が、犯人だったのか?
ショックを受けた俊也は、密かに当時の家族の交友関係を調べ始める。
同じ頃、大日新聞大阪本社で文化部に所属する記者の阿久津英二(小栗旬)は、突然イギリス行きを命じられる。
彼は英語力を買われて、ギンガ・満堂事件の企画記事を作るチームのメンバーとなったのだ。
この事件は、前年にオランダで起こったビール会社社長の誘拐事件と酷似しており、当時誘拐事件を執拗に調べていた中国人を探すのが任務だった。
しかし、該当する人物は見つからず、帰国した英二は仕手筋などをあたるも、取材は難航する。
そんな時、犯人グループが会合を開いたという料理屋を訪れた英二は、直前に同じ話を聞きにきた男がいたことを知るのだが・・・・
映画の両輪であるストーリーとテリング、このどちらもが非常に丁寧に作り込まれている。
膨大な情報量を持つ脚本は細部まで綿密に計算されているし、決め込まれた映像にもスケール感があり、星野源と小栗旬をはじめ、宇野祥平や梶芽衣子らのキャスティングは完璧と言っていい。
どこから眺めても、痒いところまで手が届くように作られているのである。
「ギンガ・満堂事件」と名前は変えてあるものの、劇中で35年前に起こったとされる事件全体の流れは、現実のグリコ・森永事件とほぼ同じだ。
私は当時10代だったのだが、本作を観ているとどんどん記憶が呼び起こされて、「あーそうそう、そうだった」と映画のディテールが現実と一致してくるのだ。
グリコ社長の誘拐から始まって、青酸ソーダ入りの菓子がばら撒かれ、スーパーからグリコ・森永が消えた。
そして謎のキツネ目の男の目撃、本作の重要なモチーフとなった子どもの声の脅迫テープに、大捜査の末の空振りの数々。
このしっかりと作り込まれた再現ドラマ的な過去描写が、本作のリアリティを深めているのは間違い無いだろう。
しかし、本作はグリコ・森永事件の真実を探す物語でない。
事件に子どもの声のテープが使われていたことは、当時から知られていた。
おそらくは犯人グループの関係者の子弟なのだろうが「その子たちは、今どこで何をしているのだろう?」と、意外なところが着眼点。
幼い年齢ならば自分が事件に関与したことを知らないかもしれないし、仮に知っていたとしたら、事件の記憶は子どもたちの人生にどんな影響を及ぼしたのか。
本作はこの疑問を起点に、あくまでもフィクションとして物語を展開してゆく。
犯人探しはメインではない。
何しろ主人公である曽根俊也が声の主なのだから、少なくとも犯人のうちの一人は、彼の親族か親しい友人以外ではあり得ない。
映画の前半は、自分の声が使われたことを知った俊也が、少しずつ両親の交友関係から事件の関係者を探り当ててゆくプロセスと、新聞記者の阿久津英二がロンドンから始めて別ルートから事件の真相を探るプロセスが並走する。
そして中盤で二人が出会うと、それまでの点と点が徐々につながり、事件の全貌が見えてくるのだ。
本作は昭和から平成の30数年間を追いかけ、一つの犯罪がなぜ起こり、どんな影響を与えてゆくのか、本当の罪とは何かを描き出してゆく。
フィーチャーされるのは、犯人グループが事件を起こした動機と、脅迫に使われたテープの声の主が辿った人生だ。
本作では、テープに声が使われたのは三人。
一人は当時5歳だった俊也で、声紋鑑定の結果あとの二人はもう少し歳上の少年と、10代の少女だったと分かってる。
幼かった俊也は、テープを見つけるまでは声をとられたこと自体を忘れていたが、事実を知って激しくショックを受けた。
ならば、俊也よりも歳上だったはずの二人にとっては、自分の声が犯罪に使われたことの影響はずっと大きかったはず。
ここからは完全なフィクションのはずなのだが、緻密なディテール描写のおかげで、まるでこれがグリコ・森永事件の真相なのではと錯覚するほどのリアリティ。
80年代に起こった事件そのものだけでなく、さらに時代を遡り60年代の学園闘争まで広がってゆく作劇には驚いた。
映画の終盤で、事件に決定的に関与した人物が二人とも、当時の心境を「奮い立つ」という表現で語るシーンがある。
二人は学生の頃、社会の理不尽に対して戦い、敗れた。
そして大人になった時に巡って来た、社会や権力に対する復讐のチャンス。
それこそが、十数年後に新たな事件を引き起こした動機だというのである。
しかし、大企業を苦しめ、警察権力を翻弄した二人は溜飲を下げたかもしれないが、知らぬ間に犯罪に利用され、加担してしまった声の主たちを深く傷つけ、人生をめちゃくちゃにしてしまったことには気付かない。
全てのピースがはまった時に浮かび上がってくるのは、巻き込まれた子どもたちの悲しき慟哭であり、大人たちが犯した未必の故意こそ、彼らに一生続く呪いを背負わせた真の罪。
さらに、罪を犯した世代の因縁はその上の世代から続いていたことも明らかになり、ある意味昭和史の暗部として捉えられている。
この視点は新左翼運動の欺瞞を糾弾し、今に続く日本社会の内向化、幼児化の原点として描いた「マイ・バック・ページ」を思い出したのだが、本作が下すあの世代に対する評価も非常に辛辣だ。
本作はまた、報道する側される側が、ある種の友情で結ばれる物語でもある。
報道される側の複雑な葛藤を秘めた星野源が素晴らしく、考え抜かれた台詞の数々がグサグサ刺さってくる。
一方、報道する側である小栗旬演じる英二は、優しすぎるために一度は新聞記者の本流をドロップアウトするが、物語を通して過去の隠された真実を見つけ出し、明らかにすることの意義に目覚め、記者としての矜持を取り戻す。
これは当時事件を報道したテレビ局製作の作品ゆえ、自らの報道姿勢に対する総括の意味もあるのだろう。
史実との距離感が絶妙で、実に映画的に“物語”の素晴らしさを堪能出来る作品だった。
今回は舞台となる京都の地酒、増田徳兵衛商店の「月の桂 純米酒」をチョイス。
純米酒らしい適度な香りと旨味、酸味のバランスがよく、澄んだ仕上がり。
喉越し爽やかで冷酒でも燗でもうまい。
クセの無いすっきりとした味わいはシチュエーションを選ばない。
記事が気に入ったらクリックしてね
1984年から85年にかけて日本中を震撼させた劇場型犯罪、グリコ・森永事件をモチーフとした重量級の人間ドラマ。
現実の事件は全ての公訴時効が成立し、未解決のまま完全犯罪となったが、犯人グループの要求を伝える電話に子どもの声のテープが使われていたという事実から、フィクションの翼を広げ、驚くべき深度を持った作品に仕上げている。
ひょんなことから、テープに自分の声が使われていたことに気付いた平凡な男を星野源、社会部の記者をドロップアウトしたのに、過去の事件を追うことになる新聞記者を小栗旬が演じる。
運命に導かれるように二人が出会ったことにより、事件に翻弄された人々の本当のドラマが幕を開けるのである。
監督は、私的平成で一番泣ける映画「いま、会いにゆきます」の土井裕泰が務め、脚本は今や押しも押されもせぬヒットメーカーとなった野木亜紀子。
この二人のコンビで面白くない訳がないのだが、今年の邦画豊漁を象徴するような傑作だ。
※核心部分に触れています。
平成が終わろうとしている頃、京都で父親から受け継いだテーラーを営む曽根俊也(星野源)は、押入れの奥に仕舞われていた荷物の中から一本のカセットテープを見つける。
聞いてみると、それは何かの文章を読んでいる幼い頃の自分の声だった。
気になって内容を検索すると、それは昭和最大の未解決事件とされる、30数年前に起こったギンガ・満堂事件で犯人グループが使った脅迫テープだと分かる。
自分の声が犯罪に使われていた。真面目一徹だと思っていた父が、犯人だったのか?
ショックを受けた俊也は、密かに当時の家族の交友関係を調べ始める。
同じ頃、大日新聞大阪本社で文化部に所属する記者の阿久津英二(小栗旬)は、突然イギリス行きを命じられる。
彼は英語力を買われて、ギンガ・満堂事件の企画記事を作るチームのメンバーとなったのだ。
この事件は、前年にオランダで起こったビール会社社長の誘拐事件と酷似しており、当時誘拐事件を執拗に調べていた中国人を探すのが任務だった。
しかし、該当する人物は見つからず、帰国した英二は仕手筋などをあたるも、取材は難航する。
そんな時、犯人グループが会合を開いたという料理屋を訪れた英二は、直前に同じ話を聞きにきた男がいたことを知るのだが・・・・
映画の両輪であるストーリーとテリング、このどちらもが非常に丁寧に作り込まれている。
膨大な情報量を持つ脚本は細部まで綿密に計算されているし、決め込まれた映像にもスケール感があり、星野源と小栗旬をはじめ、宇野祥平や梶芽衣子らのキャスティングは完璧と言っていい。
どこから眺めても、痒いところまで手が届くように作られているのである。
「ギンガ・満堂事件」と名前は変えてあるものの、劇中で35年前に起こったとされる事件全体の流れは、現実のグリコ・森永事件とほぼ同じだ。
私は当時10代だったのだが、本作を観ているとどんどん記憶が呼び起こされて、「あーそうそう、そうだった」と映画のディテールが現実と一致してくるのだ。
グリコ社長の誘拐から始まって、青酸ソーダ入りの菓子がばら撒かれ、スーパーからグリコ・森永が消えた。
そして謎のキツネ目の男の目撃、本作の重要なモチーフとなった子どもの声の脅迫テープに、大捜査の末の空振りの数々。
このしっかりと作り込まれた再現ドラマ的な過去描写が、本作のリアリティを深めているのは間違い無いだろう。
しかし、本作はグリコ・森永事件の真実を探す物語でない。
事件に子どもの声のテープが使われていたことは、当時から知られていた。
おそらくは犯人グループの関係者の子弟なのだろうが「その子たちは、今どこで何をしているのだろう?」と、意外なところが着眼点。
幼い年齢ならば自分が事件に関与したことを知らないかもしれないし、仮に知っていたとしたら、事件の記憶は子どもたちの人生にどんな影響を及ぼしたのか。
本作はこの疑問を起点に、あくまでもフィクションとして物語を展開してゆく。
犯人探しはメインではない。
何しろ主人公である曽根俊也が声の主なのだから、少なくとも犯人のうちの一人は、彼の親族か親しい友人以外ではあり得ない。
映画の前半は、自分の声が使われたことを知った俊也が、少しずつ両親の交友関係から事件の関係者を探り当ててゆくプロセスと、新聞記者の阿久津英二がロンドンから始めて別ルートから事件の真相を探るプロセスが並走する。
そして中盤で二人が出会うと、それまでの点と点が徐々につながり、事件の全貌が見えてくるのだ。
本作は昭和から平成の30数年間を追いかけ、一つの犯罪がなぜ起こり、どんな影響を与えてゆくのか、本当の罪とは何かを描き出してゆく。
フィーチャーされるのは、犯人グループが事件を起こした動機と、脅迫に使われたテープの声の主が辿った人生だ。
本作では、テープに声が使われたのは三人。
一人は当時5歳だった俊也で、声紋鑑定の結果あとの二人はもう少し歳上の少年と、10代の少女だったと分かってる。
幼かった俊也は、テープを見つけるまでは声をとられたこと自体を忘れていたが、事実を知って激しくショックを受けた。
ならば、俊也よりも歳上だったはずの二人にとっては、自分の声が犯罪に使われたことの影響はずっと大きかったはず。
ここからは完全なフィクションのはずなのだが、緻密なディテール描写のおかげで、まるでこれがグリコ・森永事件の真相なのではと錯覚するほどのリアリティ。
80年代に起こった事件そのものだけでなく、さらに時代を遡り60年代の学園闘争まで広がってゆく作劇には驚いた。
映画の終盤で、事件に決定的に関与した人物が二人とも、当時の心境を「奮い立つ」という表現で語るシーンがある。
二人は学生の頃、社会の理不尽に対して戦い、敗れた。
そして大人になった時に巡って来た、社会や権力に対する復讐のチャンス。
それこそが、十数年後に新たな事件を引き起こした動機だというのである。
しかし、大企業を苦しめ、警察権力を翻弄した二人は溜飲を下げたかもしれないが、知らぬ間に犯罪に利用され、加担してしまった声の主たちを深く傷つけ、人生をめちゃくちゃにしてしまったことには気付かない。
全てのピースがはまった時に浮かび上がってくるのは、巻き込まれた子どもたちの悲しき慟哭であり、大人たちが犯した未必の故意こそ、彼らに一生続く呪いを背負わせた真の罪。
さらに、罪を犯した世代の因縁はその上の世代から続いていたことも明らかになり、ある意味昭和史の暗部として捉えられている。
この視点は新左翼運動の欺瞞を糾弾し、今に続く日本社会の内向化、幼児化の原点として描いた「マイ・バック・ページ」を思い出したのだが、本作が下すあの世代に対する評価も非常に辛辣だ。
本作はまた、報道する側される側が、ある種の友情で結ばれる物語でもある。
報道される側の複雑な葛藤を秘めた星野源が素晴らしく、考え抜かれた台詞の数々がグサグサ刺さってくる。
一方、報道する側である小栗旬演じる英二は、優しすぎるために一度は新聞記者の本流をドロップアウトするが、物語を通して過去の隠された真実を見つけ出し、明らかにすることの意義に目覚め、記者としての矜持を取り戻す。
これは当時事件を報道したテレビ局製作の作品ゆえ、自らの報道姿勢に対する総括の意味もあるのだろう。
史実との距離感が絶妙で、実に映画的に“物語”の素晴らしさを堪能出来る作品だった。
今回は舞台となる京都の地酒、増田徳兵衛商店の「月の桂 純米酒」をチョイス。
純米酒らしい適度な香りと旨味、酸味のバランスがよく、澄んだ仕上がり。
喉越し爽やかで冷酒でも燗でもうまい。
クセの無いすっきりとした味わいはシチュエーションを選ばない。

記事が気に入ったらクリックしてね
2020年11月07日 (土) | 編集 |
第33回東京国際映画祭の鑑賞作品つぶやきまとめ。
いくつかの作品は今後本記事を書く予定。
以下は鑑賞順。
新感染半島 ファイナル・ステージ・・・・・評価額1650円
なるほど、ひと言であらわすと「今度は戦争だ!」だな。
せっかく生き残ったのに、利益を求め死地に帰る辺りもアレに似てる。
一作目の「ソウルステーション」と二作目の「新感染」も世界観だけ同じでアプローチは違ったが、4年後を描く本作も全くの別物だ。
家族ものであることは変わらないが、ギュッと凝縮されていた前作に比べると人間ドラマは弱い。
かわりにポストアポカリプトものの色彩が強まり、世界が広がると共にゾンビ以外にも厄介な敵が続々。
アクション活劇としてのバリエーションとスケールは、大幅にパワーアップしている。
泣けるゾンビ映画ではなくなったが、マッドな世界でのヒャッハーな楽しさは増大したし、これはこれで十分面白い。
最後まで人間の醜さをこれでもかと強調する、ヨン・サンホ本来の作家性はむしろこっちだ。
ただファミリー映画の間口としては、今回はギリギリ許容範囲かな。
しかし列車縛りはなくなったんだから「新」は外せばよかったのに。
作品にそぐわないダジャレだけじゃなく、非常に語呂の悪い邦題になっちゃってるじゃないか。
「ファイナル・ステージ」も意味不明だし、前作以上のワースト邦題オブ・ザ・イヤーだな。
トゥルーノース・・・・・評価額1750円
北朝鮮の政治犯強制収容所の実態を、3DCGアニメーションで描く大労作。
主人公は北朝鮮へ戻った在日朝鮮人の家族に設定されているが、多くの脱北者からの聞き取り内容をもとに構成された、見応えたっぷりのドキュメンタリーアニメーションだ。
世界の不可視の場所、もしくはもう破壊されてしまった場所で起こったことを、カリカチュアされたアニメーションで描く試みは過去にも例があるが、時として生身の人間よりも雄弁なことがある。
これもアニメーションだからこそ、よりリアルに普遍的に受け取られるのではないか。
極限状態の中で変わってゆくもの、変わらないもの。
多くの登場人物がいる中で、体制側のキャラクターの描き方が面白い。
Q&Aで、看守たちは着任した時は皆ごく普通の人間だが、だんだんと悪辣になるものと、罪悪感に葛藤するものに分かれるという話が印象的だった。
今この瞬間も、収容所で苦しんでいる人たちがいる。
いつか北朝鮮が世界に開かれる時、かつてのナチスの様に、収容所を無かったことに出来ない様にするための、抑止力としての映画。
サラッと語っていたが、この発想は凄い。
来年の本公開時には、多くの人に観て欲しい秀作だ。
ポゼッサー・・・・・評価額1550円
息子クローネンバーグの第二作。
特殊な機械を使って他人の脳を乗っ取り、遠隔操作して標的を始末すると“宿主”を自殺させる殺し屋の話。
ある任務中、絶対に覚醒しないはずの宿主の人格が抵抗し、思わぬ事態を招く。
前作もそうだったけど、この人パパ大好きなんだな。
二世監督って親とテイストを大きく変えてくる人が殆どだけど、この人はモチーフの選び方を含めてまんま。
しかもパパよりも商売っ気がなくて、アート方向に純化させた様なスタイルなんだもの。
今回のも精神と肉体の関係を巡る話で、いわば息子版「スキャナーズ」なんだな。
模倣に近かった一作目の「アンチヴァイラル」よりもあらゆる点で洗練されているが、どんだけ血を流してもお下品にならないのは彼の個性。
しかしこの路線も面白いけど、7、80年代のパパみたいな俗っぽさがもうちょっと入ると、大化けする可能性もあるんじゃないかなあ。
悪は存在せず・・・・・評価額1700円
力作!
イランの死刑制度にまつわる物語を、表題作を含む四つのエピソードで構成したオムニバス。
本作がユニークなのは、死刑の話なのに死刑囚を描かないこと。
これは知らなかったのだが、イランの刑務所は軍が運営していて、看守は徴兵された若い兵士なんだな。
だから死刑の執行も、彼らにとっては任務であり義務。
戦争でもないのに人を殺すことを強制された時、兵士たちはどうするのか?が問われる。
特筆すべきは作劇で、四つのエピソードは先を読ませず、最初のうちはどう死刑が関わってくのかも不明なままミステリアスに展開する。
それぞれのエピソードは独立しているが、あるエピソードの選択の結果が、他のエピソードに反映されていたり、物語の深みと一体感を作り出す工夫も凝らされている。
サクッと観られるが、印象が軽くなりがちなオムニバス映画で、ここまで重厚に「映画を観た!」という感覚を抱かせるのだから素晴らしい。
しかし大胆なタイトルを含めて、物議を醸しそうな映画だなと思ったら、案の定監督はイラン当局と揉めているらしい。
まあ完全に表現が封じられた社会よりは、まだマシなんだろうけど。
デリート・ヒストリー・・・・・評価額1600円
コメディ作品では珍しくベルリン銀熊賞に輝いた作品だが、なるほどかなり面白い。
フランスの郊外の低所得者むけ住宅地に住む、3人の男女の物語。
バーで出会った男にセックスビデオを撮られ、脅迫された女。
ネットショッピングのやりすぎで、借金漬けになった男。
フランス版ウーバーの運転手で、どんなにサービスしても星一つしか貰えない女。
彼らに共通するのは、ネット社会に翻弄されているところと、金に困っていること。
そして情弱で欲望に弱いダメ人間。
しかし三人は、必ずしも現状に甘んじている訳ではないのだ。
彼らは数年前からフランス全土で吹き荒れているイエロージャケットのデモに参加していて、そのことを誇りに思っている。
意識高い系なのに人生思い通りにならない理不尽さが、彼らを消したい過去に対する、むっちゃアナログな戦いに駆り立てる。
ネットに人生を左右されていても、人生に本当に大切なものは”GAFA “のクラウドには存在しない。
そのことに、ようやくの気付きを得るまでの物語。
ダメダメ三人に、いつの間にか自分を重ねてる愛すべき作品。
スカイライン-逆襲-・・・・・評価額1450円
10年続く楽しいB級SFシリーズ第三弾。
今回は前作から15年後の”ハーベスター”の星が舞台で、圧倒的な敵の力を見せつけた前二作とはだいぶ趣きが異なる。
キャラも少ないし、怪物のバリエーションもあんまり出てこないので、お金は一番かかって無いんじゃないかな。
しかしまあ新しい世界観に慣れてきて、前作のキャラ設定とか思い出してくると、「エイリアン2」から「ピッチブラック」まで、既視感全開でもこれはこれで面白い。
終盤、キャラ全員がそれぞれの因縁の敵と戦うあたりは、結構手に汗握った。
ぶっちゃけかなり雑な映画だけど、SFなのにエンドクレジットのジャッキー映画みたいなNG集とか、役者自身もオファーを受けて驚いたという「あいつ前作で死んだけど、生きてても別にいいよね?」とかのトンデモ展開まで、全編B級マインドMAXなので全て許せちゃう。
とりあえず、本公開ではシネコンのちっちゃなスクリーンが割り当てられそうな作品なので、六本木の9番で観られる機会は貴重だった。
息子の面影・・・・・評価額1600円
メキシコからアメリカへ行くと言い残し、消息を絶った息子を探す母と、アメリカから送還され、母の家へ向かう青年。
対照的な二人の旅が、いつしか交錯する。
はたして息子に何があったのか?生きているのか?
これ、最近公開されたある日本映画にテーマが似ている。
しかし、背景となる社会の違いは凄まじい。
とにかくメキシコ恐ろし過ぎるだろ。
完全に修羅の国じゃん。
自然描写は美しく、基本的には非常に静かに進んでゆく分、そこで起こっていることの凄惨さが際立って見える。
人間が人間として生きられない世界。
物語が帰結する先も、およそ考えうる最も残酷なもの。
もちろん地域差はあるんだろうけど、これじゃいくらトランプが壁を建てても脱出しようとするよ。
動物界並みの弱肉強食社会はイヤだ。
ドーンとヘビーに考えさせる映画だが、全く出口が見えないのも絶望を強く感じさせる。
メコン2030・・・・・評価額950円
10年後のメコン川をモチーフに、流域出身の5人の監督が描くオムニバス。
しかしどれも出来の悪い学生映画みたいなノリ。
一応川は出てくるものの、メコンであることも2030年の時代設定も意味を見出せない。
環境問題をとって付けた様な最初の3本は稚拙過ぎる。
4本目は全く意味不明の典型的マスターベーション。
最後の作品はやりたいことは分かるが、効果的に描けているとは思えず。
正直、どの作品も国際映画祭への出品作品のクオリティに達しておらす、今回のTIFFではダントツのガッカリ作だった
記事が気に入ったらクリックしてね
いくつかの作品は今後本記事を書く予定。
以下は鑑賞順。
新感染半島 ファイナル・ステージ・・・・・評価額1650円
なるほど、ひと言であらわすと「今度は戦争だ!」だな。
せっかく生き残ったのに、利益を求め死地に帰る辺りもアレに似てる。
一作目の「ソウルステーション」と二作目の「新感染」も世界観だけ同じでアプローチは違ったが、4年後を描く本作も全くの別物だ。
家族ものであることは変わらないが、ギュッと凝縮されていた前作に比べると人間ドラマは弱い。
かわりにポストアポカリプトものの色彩が強まり、世界が広がると共にゾンビ以外にも厄介な敵が続々。
アクション活劇としてのバリエーションとスケールは、大幅にパワーアップしている。
泣けるゾンビ映画ではなくなったが、マッドな世界でのヒャッハーな楽しさは増大したし、これはこれで十分面白い。
最後まで人間の醜さをこれでもかと強調する、ヨン・サンホ本来の作家性はむしろこっちだ。
ただファミリー映画の間口としては、今回はギリギリ許容範囲かな。
しかし列車縛りはなくなったんだから「新」は外せばよかったのに。
作品にそぐわないダジャレだけじゃなく、非常に語呂の悪い邦題になっちゃってるじゃないか。
「ファイナル・ステージ」も意味不明だし、前作以上のワースト邦題オブ・ザ・イヤーだな。
トゥルーノース・・・・・評価額1750円
北朝鮮の政治犯強制収容所の実態を、3DCGアニメーションで描く大労作。
主人公は北朝鮮へ戻った在日朝鮮人の家族に設定されているが、多くの脱北者からの聞き取り内容をもとに構成された、見応えたっぷりのドキュメンタリーアニメーションだ。
世界の不可視の場所、もしくはもう破壊されてしまった場所で起こったことを、カリカチュアされたアニメーションで描く試みは過去にも例があるが、時として生身の人間よりも雄弁なことがある。
これもアニメーションだからこそ、よりリアルに普遍的に受け取られるのではないか。
極限状態の中で変わってゆくもの、変わらないもの。
多くの登場人物がいる中で、体制側のキャラクターの描き方が面白い。
Q&Aで、看守たちは着任した時は皆ごく普通の人間だが、だんだんと悪辣になるものと、罪悪感に葛藤するものに分かれるという話が印象的だった。
今この瞬間も、収容所で苦しんでいる人たちがいる。
いつか北朝鮮が世界に開かれる時、かつてのナチスの様に、収容所を無かったことに出来ない様にするための、抑止力としての映画。
サラッと語っていたが、この発想は凄い。
来年の本公開時には、多くの人に観て欲しい秀作だ。
ポゼッサー・・・・・評価額1550円
息子クローネンバーグの第二作。
特殊な機械を使って他人の脳を乗っ取り、遠隔操作して標的を始末すると“宿主”を自殺させる殺し屋の話。
ある任務中、絶対に覚醒しないはずの宿主の人格が抵抗し、思わぬ事態を招く。
前作もそうだったけど、この人パパ大好きなんだな。
二世監督って親とテイストを大きく変えてくる人が殆どだけど、この人はモチーフの選び方を含めてまんま。
しかもパパよりも商売っ気がなくて、アート方向に純化させた様なスタイルなんだもの。
今回のも精神と肉体の関係を巡る話で、いわば息子版「スキャナーズ」なんだな。
模倣に近かった一作目の「アンチヴァイラル」よりもあらゆる点で洗練されているが、どんだけ血を流してもお下品にならないのは彼の個性。
しかしこの路線も面白いけど、7、80年代のパパみたいな俗っぽさがもうちょっと入ると、大化けする可能性もあるんじゃないかなあ。
悪は存在せず・・・・・評価額1700円
力作!
イランの死刑制度にまつわる物語を、表題作を含む四つのエピソードで構成したオムニバス。
本作がユニークなのは、死刑の話なのに死刑囚を描かないこと。
これは知らなかったのだが、イランの刑務所は軍が運営していて、看守は徴兵された若い兵士なんだな。
だから死刑の執行も、彼らにとっては任務であり義務。
戦争でもないのに人を殺すことを強制された時、兵士たちはどうするのか?が問われる。
特筆すべきは作劇で、四つのエピソードは先を読ませず、最初のうちはどう死刑が関わってくのかも不明なままミステリアスに展開する。
それぞれのエピソードは独立しているが、あるエピソードの選択の結果が、他のエピソードに反映されていたり、物語の深みと一体感を作り出す工夫も凝らされている。
サクッと観られるが、印象が軽くなりがちなオムニバス映画で、ここまで重厚に「映画を観た!」という感覚を抱かせるのだから素晴らしい。
しかし大胆なタイトルを含めて、物議を醸しそうな映画だなと思ったら、案の定監督はイラン当局と揉めているらしい。
まあ完全に表現が封じられた社会よりは、まだマシなんだろうけど。
デリート・ヒストリー・・・・・評価額1600円
コメディ作品では珍しくベルリン銀熊賞に輝いた作品だが、なるほどかなり面白い。
フランスの郊外の低所得者むけ住宅地に住む、3人の男女の物語。
バーで出会った男にセックスビデオを撮られ、脅迫された女。
ネットショッピングのやりすぎで、借金漬けになった男。
フランス版ウーバーの運転手で、どんなにサービスしても星一つしか貰えない女。
彼らに共通するのは、ネット社会に翻弄されているところと、金に困っていること。
そして情弱で欲望に弱いダメ人間。
しかし三人は、必ずしも現状に甘んじている訳ではないのだ。
彼らは数年前からフランス全土で吹き荒れているイエロージャケットのデモに参加していて、そのことを誇りに思っている。
意識高い系なのに人生思い通りにならない理不尽さが、彼らを消したい過去に対する、むっちゃアナログな戦いに駆り立てる。
ネットに人生を左右されていても、人生に本当に大切なものは”GAFA “のクラウドには存在しない。
そのことに、ようやくの気付きを得るまでの物語。
ダメダメ三人に、いつの間にか自分を重ねてる愛すべき作品。
スカイライン-逆襲-・・・・・評価額1450円
10年続く楽しいB級SFシリーズ第三弾。
今回は前作から15年後の”ハーベスター”の星が舞台で、圧倒的な敵の力を見せつけた前二作とはだいぶ趣きが異なる。
キャラも少ないし、怪物のバリエーションもあんまり出てこないので、お金は一番かかって無いんじゃないかな。
しかしまあ新しい世界観に慣れてきて、前作のキャラ設定とか思い出してくると、「エイリアン2」から「ピッチブラック」まで、既視感全開でもこれはこれで面白い。
終盤、キャラ全員がそれぞれの因縁の敵と戦うあたりは、結構手に汗握った。
ぶっちゃけかなり雑な映画だけど、SFなのにエンドクレジットのジャッキー映画みたいなNG集とか、役者自身もオファーを受けて驚いたという「あいつ前作で死んだけど、生きてても別にいいよね?」とかのトンデモ展開まで、全編B級マインドMAXなので全て許せちゃう。
とりあえず、本公開ではシネコンのちっちゃなスクリーンが割り当てられそうな作品なので、六本木の9番で観られる機会は貴重だった。
息子の面影・・・・・評価額1600円
メキシコからアメリカへ行くと言い残し、消息を絶った息子を探す母と、アメリカから送還され、母の家へ向かう青年。
対照的な二人の旅が、いつしか交錯する。
はたして息子に何があったのか?生きているのか?
これ、最近公開されたある日本映画にテーマが似ている。
しかし、背景となる社会の違いは凄まじい。
とにかくメキシコ恐ろし過ぎるだろ。
完全に修羅の国じゃん。
自然描写は美しく、基本的には非常に静かに進んでゆく分、そこで起こっていることの凄惨さが際立って見える。
人間が人間として生きられない世界。
物語が帰結する先も、およそ考えうる最も残酷なもの。
もちろん地域差はあるんだろうけど、これじゃいくらトランプが壁を建てても脱出しようとするよ。
動物界並みの弱肉強食社会はイヤだ。
ドーンとヘビーに考えさせる映画だが、全く出口が見えないのも絶望を強く感じさせる。
メコン2030・・・・・評価額950円
10年後のメコン川をモチーフに、流域出身の5人の監督が描くオムニバス。
しかしどれも出来の悪い学生映画みたいなノリ。
一応川は出てくるものの、メコンであることも2030年の時代設定も意味を見出せない。
環境問題をとって付けた様な最初の3本は稚拙過ぎる。
4本目は全く意味不明の典型的マスターベーション。
最後の作品はやりたいことは分かるが、効果的に描けているとは思えず。
正直、どの作品も国際映画祭への出品作品のクオリティに達しておらす、今回のTIFFではダントツのガッカリ作だった

記事が気に入ったらクリックしてね
2020年11月04日 (水) | 編集 |
オオカミ少女はこわくない。
アイルランドのアニメーションスタジオ、カートゥーンサルーンによる、ケルト民話をもとにしたアニメーション映画三部作の素晴らしい完結編。
今回モチーフとなるのは、一つの魂が人間と狼の二つの体に宿る「ウルフウォーカー」だ。
17世期のアイルランドを舞台に、開拓の邪魔になる狼を退治するために、イングランドからやってきたハンターの娘が、ひょんなことから森の狼たちを統べるウルフウォーカーの娘と友だちとなったことで、大騒動が巻き起こる。
「ブレンダンとケルズの秘密」「ソング・オブ・ザ・シー 海のうた」に続いてメガホンをとるのはトム・ムーア監督。
共同監督を、カートゥーンサルーンの作品のほか「パラノーマン ブライス・ホローの謎」に、ヴィジュアル開発、コンセプト・デザイナーとして参加した、ロス・スチュアートが務める。
美しい色彩で描かれる、詩情あふれるフォークロア・アニメーションだ。
1650年、アイルランドのキルケニー。
少女ロビン(オナー・ニーフシー)は、頻発する狼の襲撃に対応するため、イングランドからよばれて来たハンターのビル・グッドフェロー(ショーン・ビーン)の娘。
クロスボウが得意な快活な性格だが、住民はイングランド人を歓迎しておらず、ロビンは城壁の外へ出ることを禁じられている。
ある日、密かに父を追って森に入ったロビンは、誤って飼っているハヤブサのマーリンを射てしまう。
すると傷付いたマーリンを、森の奥からやってきた不思議な少女が拐ってゆく。
少女を追って行った先は、狼の群れが潜む森の深淵。
メーヴ(エヴァ・ウィッテカー)と名乗った少女は、傷を治す癒しの能力を持ち、夜になると狼の姿となって群を統べるウルフウォーカーだった。
メーヴの母親のモルは狼の姿になったまま行方不明となり、人間の肉体は眠り続けている。
ロビンは、彼女のためにモルを探そうとするのだが・・・・
77年生まれのトム・ムーア監督はジブリ作品で育った世代で、その影響を受けているというが、本作は三部作のなかでも一番オマージュが分かりやすい。
古の日本同様アニミズム信仰の強いアイルランドに、宗主国イングランドからやって来た護国卿は、開拓を進めるために森を焼き狼を駆逐しようとしている。
そのために、彼の手足となって働いているのがハンターのビル。
これは「人間vs自然」の構図だけでなく、巨大な狼に乗った少女というビジュアルからも完全にアイルランド版の「もののけ姫」 だ。
イングランド人をヤマトに、アイルランド人をエミシに見立てると、ウルフウォーカーの母モルが山犬の神モロで娘のメーヴがサン、ハンターの娘ロビンがアシタカ、護国卿がエボシ御前の役回り。
ただ自然を荘厳な美しさで描き、崇拝に近い感情を感じさせる「もののけ姫」と比べると、妖精の国アイルランドのムーアの世界は、もう少し自然との距離が近く「となりのトトロ」的な感覚だ。
本作のモチーフとなるウルフウォーカーは、スラブ民話が起源とされる狼男とはちょっと違う。
昼は人間、夜は狼の姿となり、ウルフウォーカーに噛まれた人間も新たな眷属になるのは同じだが、一つの体が変身するのではなく、人間の体が眠ると魂が抜けだして狼の体として具現化するのだ。
狼になっている間は人間の体は眠ったままで、どちらかの体が傷つくと、もう一つの体も傷つく。
もとに戻るには、二つの体がすぐ近くになければならない。
悪魔的存在として描写されることが多い狼男に対して、ウルフウォーカーはどちらかと言えば森のヌシ的な存在として描かれている。
ただし、これはケルトの伝統を受け継ぐアイルランド的な見方。
支配者であるイングランド人にとっては、狼は淘汰すべき自然の象徴である。
本作がユニークなのは、この時代のアイルランドならではの対立軸が複数あること。
自然と人間だけでなく、キリスト教とケルト文化にルーツを持つアニミズム的土着信仰、支配者のイングランドと植民地のアイルランドなど、重層的な対立構造が絡み合う仕組み。
ユーラシア大陸の西の果てにあるアイルランドは、歴史を通して海峡を隔てた東の大国イングランドの影響下にあった。
イングランドでは1642年からピューリタン革命が勃発し、絶対王政が打破される。
これによってイングランドの支配が弱まると、アイルランド ・カトリック同盟が一時的に島の支配を確立するも、映画の前年の1649年にクロムウェル率いるイングランド軍によって全土が占領され、アイルランドの植民地化が完了する。
映画の舞台となるキルケニーが、イングランドから派遣されている護国卿と軍隊によって抑圧的に支配され、街の人々がイングランド人を嫌っているのはこのような背景があるからなのだ。
だが、信ずるものが違っても、それぞれの行動にも大義がある。
ウルフウォーカーが森を大切にするように、護国卿は狼を殺し森を文明の光で照らすことが、神から与えられた役割だと信じいている。
エボシ御前に彼女なりの正義があったように、本作の悪役にも彼なりの理由があるのだ。
古の時代の自然と人間の関わりを描く映像は、まるで絵巻物のように優美。
カートゥーンサルーンのキャラは丸いイメージがあるが、今回はケルト文化を象徴するウルフウォーカーのモルとメーヴを丸基調とし、イングランド人のビルとロビンは角を強調したデザインに。
全体にアイルランド人は丸っぽく、イングランド人は角ばらせることで、両者のコントラストを際立たせている。
そして直線的なキルケニーの街に対し、神秘的な森にはあちこちに丸や螺旋、渦巻のデザインが施されている。
「ブレンダンとケルズの秘密」や「ソング・オブ・ザ・シー 海のうた」でも曲線は強調されていたが、これはケルト文化以前のピクト文化の時代から伝わる文様をもとにしているという。
遠近法のパースを無視して、平面に複数の視点から見た映像を描きこむことによって立体を表現する、キュビズム的な背景手法もユニーク。
以前の作品と比べても、本作は映像のデザイン性が極めて高く、動かして楽しく、止めても美しいのが特徴だ。
カートゥーンサルーンのケルト三部作は、基本的に子どもたちに向けた作品。
昭和の子どもたちが夢中になった、「まんが日本昔ばなし」みたいなものである。
護国卿との最後の戦いは、ウルフウォーカーが二つの体を持ち、狼になっている間は人間の体は眠ったままという弱点を使い、スリリングに展開する。
もっとも争いは描かれるが、描写としては抑えられたもので、残酷さは一切感じさせないのは、あえて生々しくリアリティ重視で描く宮崎駿と違うところだ。
そのためにストレートに受け取ると、最後なんかは甘々に感じられるかもしれない。
だがおそらく、観客の大人たち、そして子どもたちも「あの四人はその後どうなったのだろう?」と疑問に感じるのは最初から狙っていると思う。
現在のアイルランドに狼はいないことは、アイルランドの観客は当然知っているからだ。
映画は入り口であり、歴史への興味を「彼らがいつ、どのように絶滅したのか知りたい」まで動かすことで物語は完成するのである。
民族の歴史を描く優れた教育映画であり、素晴らしい娯楽映画だ。
今回は、アイリッシュウィスキーの「カネマラ 12年」をチョイス。
この銘柄の特徴は、まろやかかつスモーキーさが控えめで、ウィスキーが苦手な人にも比較的飲みやすいこと。
ピート香が効いていて、全体にスパイシーな中に旨味が浮かび上がってきて、なかなかに味わい深い。
クセが強くないので、ウィスキーベースのカクテルにしても良いと思う。
記事が気に入ったらクリックしてね
アイルランドのアニメーションスタジオ、カートゥーンサルーンによる、ケルト民話をもとにしたアニメーション映画三部作の素晴らしい完結編。
今回モチーフとなるのは、一つの魂が人間と狼の二つの体に宿る「ウルフウォーカー」だ。
17世期のアイルランドを舞台に、開拓の邪魔になる狼を退治するために、イングランドからやってきたハンターの娘が、ひょんなことから森の狼たちを統べるウルフウォーカーの娘と友だちとなったことで、大騒動が巻き起こる。
「ブレンダンとケルズの秘密」「ソング・オブ・ザ・シー 海のうた」に続いてメガホンをとるのはトム・ムーア監督。
共同監督を、カートゥーンサルーンの作品のほか「パラノーマン ブライス・ホローの謎」に、ヴィジュアル開発、コンセプト・デザイナーとして参加した、ロス・スチュアートが務める。
美しい色彩で描かれる、詩情あふれるフォークロア・アニメーションだ。
1650年、アイルランドのキルケニー。
少女ロビン(オナー・ニーフシー)は、頻発する狼の襲撃に対応するため、イングランドからよばれて来たハンターのビル・グッドフェロー(ショーン・ビーン)の娘。
クロスボウが得意な快活な性格だが、住民はイングランド人を歓迎しておらず、ロビンは城壁の外へ出ることを禁じられている。
ある日、密かに父を追って森に入ったロビンは、誤って飼っているハヤブサのマーリンを射てしまう。
すると傷付いたマーリンを、森の奥からやってきた不思議な少女が拐ってゆく。
少女を追って行った先は、狼の群れが潜む森の深淵。
メーヴ(エヴァ・ウィッテカー)と名乗った少女は、傷を治す癒しの能力を持ち、夜になると狼の姿となって群を統べるウルフウォーカーだった。
メーヴの母親のモルは狼の姿になったまま行方不明となり、人間の肉体は眠り続けている。
ロビンは、彼女のためにモルを探そうとするのだが・・・・
77年生まれのトム・ムーア監督はジブリ作品で育った世代で、その影響を受けているというが、本作は三部作のなかでも一番オマージュが分かりやすい。
古の日本同様アニミズム信仰の強いアイルランドに、宗主国イングランドからやって来た護国卿は、開拓を進めるために森を焼き狼を駆逐しようとしている。
そのために、彼の手足となって働いているのがハンターのビル。
これは「人間vs自然」の構図だけでなく、巨大な狼に乗った少女というビジュアルからも完全にアイルランド版の
イングランド人をヤマトに、アイルランド人をエミシに見立てると、ウルフウォーカーの母モルが山犬の神モロで娘のメーヴがサン、ハンターの娘ロビンがアシタカ、護国卿がエボシ御前の役回り。
ただ自然を荘厳な美しさで描き、崇拝に近い感情を感じさせる「もののけ姫」と比べると、妖精の国アイルランドのムーアの世界は、もう少し自然との距離が近く「となりのトトロ」的な感覚だ。
本作のモチーフとなるウルフウォーカーは、スラブ民話が起源とされる狼男とはちょっと違う。
昼は人間、夜は狼の姿となり、ウルフウォーカーに噛まれた人間も新たな眷属になるのは同じだが、一つの体が変身するのではなく、人間の体が眠ると魂が抜けだして狼の体として具現化するのだ。
狼になっている間は人間の体は眠ったままで、どちらかの体が傷つくと、もう一つの体も傷つく。
もとに戻るには、二つの体がすぐ近くになければならない。
悪魔的存在として描写されることが多い狼男に対して、ウルフウォーカーはどちらかと言えば森のヌシ的な存在として描かれている。
ただし、これはケルトの伝統を受け継ぐアイルランド的な見方。
支配者であるイングランド人にとっては、狼は淘汰すべき自然の象徴である。
本作がユニークなのは、この時代のアイルランドならではの対立軸が複数あること。
自然と人間だけでなく、キリスト教とケルト文化にルーツを持つアニミズム的土着信仰、支配者のイングランドと植民地のアイルランドなど、重層的な対立構造が絡み合う仕組み。
ユーラシア大陸の西の果てにあるアイルランドは、歴史を通して海峡を隔てた東の大国イングランドの影響下にあった。
イングランドでは1642年からピューリタン革命が勃発し、絶対王政が打破される。
これによってイングランドの支配が弱まると、アイルランド ・カトリック同盟が一時的に島の支配を確立するも、映画の前年の1649年にクロムウェル率いるイングランド軍によって全土が占領され、アイルランドの植民地化が完了する。
映画の舞台となるキルケニーが、イングランドから派遣されている護国卿と軍隊によって抑圧的に支配され、街の人々がイングランド人を嫌っているのはこのような背景があるからなのだ。
だが、信ずるものが違っても、それぞれの行動にも大義がある。
ウルフウォーカーが森を大切にするように、護国卿は狼を殺し森を文明の光で照らすことが、神から与えられた役割だと信じいている。
エボシ御前に彼女なりの正義があったように、本作の悪役にも彼なりの理由があるのだ。
古の時代の自然と人間の関わりを描く映像は、まるで絵巻物のように優美。
カートゥーンサルーンのキャラは丸いイメージがあるが、今回はケルト文化を象徴するウルフウォーカーのモルとメーヴを丸基調とし、イングランド人のビルとロビンは角を強調したデザインに。
全体にアイルランド人は丸っぽく、イングランド人は角ばらせることで、両者のコントラストを際立たせている。
そして直線的なキルケニーの街に対し、神秘的な森にはあちこちに丸や螺旋、渦巻のデザインが施されている。
「ブレンダンとケルズの秘密」や「ソング・オブ・ザ・シー 海のうた」でも曲線は強調されていたが、これはケルト文化以前のピクト文化の時代から伝わる文様をもとにしているという。
遠近法のパースを無視して、平面に複数の視点から見た映像を描きこむことによって立体を表現する、キュビズム的な背景手法もユニーク。
以前の作品と比べても、本作は映像のデザイン性が極めて高く、動かして楽しく、止めても美しいのが特徴だ。
カートゥーンサルーンのケルト三部作は、基本的に子どもたちに向けた作品。
昭和の子どもたちが夢中になった、「まんが日本昔ばなし」みたいなものである。
護国卿との最後の戦いは、ウルフウォーカーが二つの体を持ち、狼になっている間は人間の体は眠ったままという弱点を使い、スリリングに展開する。
もっとも争いは描かれるが、描写としては抑えられたもので、残酷さは一切感じさせないのは、あえて生々しくリアリティ重視で描く宮崎駿と違うところだ。
そのためにストレートに受け取ると、最後なんかは甘々に感じられるかもしれない。
だがおそらく、観客の大人たち、そして子どもたちも「あの四人はその後どうなったのだろう?」と疑問に感じるのは最初から狙っていると思う。
現在のアイルランドに狼はいないことは、アイルランドの観客は当然知っているからだ。
映画は入り口であり、歴史への興味を「彼らがいつ、どのように絶滅したのか知りたい」まで動かすことで物語は完成するのである。
民族の歴史を描く優れた教育映画であり、素晴らしい娯楽映画だ。
今回は、アイリッシュウィスキーの「カネマラ 12年」をチョイス。
この銘柄の特徴は、まろやかかつスモーキーさが控えめで、ウィスキーが苦手な人にも比較的飲みやすいこと。
ピート香が効いていて、全体にスパイシーな中に旨味が浮かび上がってきて、なかなかに味わい深い。
クセが強くないので、ウィスキーベースのカクテルにしても良いと思う。

記事が気に入ったらクリックしてね
2020年11月01日 (日) | 編集 |
母なるものへの共感。
特別養子縁組制度で息子を授かり、懸命に育てている40代の夫婦のもとに、6年後に突然息子の産みの母を名乗る女性が訪ねて来てお金を要求される。
だが夫婦には、息子が生まれた時に一度だけ会った母性に溢れた少女の記憶と、目の前の変わり果てた姿の女性が同一人物だとはどうしても思えない。
辻村深月の同名小説を、ハンセン病をモチーフにした「あん」の河瀬直美監督が映像化した作品。
現れた女性は本当に少女なのか、もしそうなら一体何が彼女を変えてしまったのか。
映画は深い共感によって母なる存在に寄り添い、子どもの誕生から6年の間に何があったのか、じっくりと二人の母の物語を描き上げてゆく。
不妊に悩む栗原夫婦を永作博美と井浦新が演じ、14歳で妊娠する少女ひかりを「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」で強い印象を残した蒔田彩珠が好演する。
一つの事象を多面から丁寧に捉え、映画的な完成度が非常に高く、河瀬直美のベストだと思う。
※ラストに触れています。
東京のタワーマンションに住む栗原佐都子(永作博美)と清和(井浦新)の夫婦は、長い不妊治療の結果、一度は子どもを持つことを諦める。
そんな時、特別養子縁組の制度を知り、望まない妊娠をした母親のケアをするベイビーバトンというNGOを通じて男の赤ちゃんを授かり「朝斗」と名付ける。
慣れない子育てに悩みつつ、夫婦はだんだんと大きくなる息子の姿に喜びを感じるようになる。
6年後が経った頃、突然朝斗の産みの母の「片倉ひかり」を名乗る女性から、「子どもを返して欲しいんです。だめならお金をください」という電話がかかってくる。
朝斗を引き取った時に一度だけ会ったひかり(蒔田彩珠)は、14歳で産んだばかりの子を涙ながらに佐都子に託した心優しい少女だった。
ところが、夫婦の家を訪ねてきた金髪の女性には、6年前の面影がまったく無かった。
戸惑う二人は彼女に問いかける「あなたは誰ですか?」と・・・・
観る前は、赤ん坊の取り違えを描いた是枝裕和監督の「そして父になる」みたいな、親権をめぐる話かと思っていたが、全く違った。
いやもちろん、「本当の家族とは?親子とは?」という部分は描かれているのだが、父親としての葛藤を描いたあの作品とはアプローチがまったく違うのである。
「そして父になる」の劇中で、子どもの血筋にこだわる福山雅治が「これから成長するにしたがって、子どもはどんどん相手の家族に似てくる。それでも今まで通り愛せますか?」と、相手家庭の妻の真木よう子に問うシーンがある。
すると彼女は「愛せますよ、もちろん。似てるとか似てないとか、そんなことに拘ってるのは、子どもとつながってるって実感のない男だけよ」と即答するのである。
これは実感の無い父親とは違って、産みの母と育ての母、本能的に子どもを愛する二人の母親目線で描かれる物語なのだ。
長年努力はしたものの、夫の清和が無精子症で子どもを欲しても持てない、栗原夫婦の苦悩はじっくり描かれている。
しかし本作の主人公は、蒔田彩珠演じる産みの母のひかりだ。
奈良の田舎に暮らすごく普通の少女だったひかりは、中学生の時にボーイフレンドになった巧と性行為をして、予期せぬ妊娠をしてしまう。
この時彼女にはまだ初潮も来ておらず、まさか妊娠するとは夢にも思わなかったのだろう。
妊娠が発覚したときにはすでに中絶できる期間を過ぎていて、世間体を気にするひかりの家族はベイビーバトンに助けを求める。
彼女の妊娠は隠され、病気療養を理由に広島の離島にあるベイビーバトンの寮に移り、そこで密かに出産することになるのだ。
ベイビーバトンにはそれぞれの理由で子どもを育てられない妊婦がいて、彼女らの境遇がインタビュー風に表現されるのは面白い。
多くの観客にとって、遠い存在である子どもを手放す妊婦一人ひとりにリアリティを与え、様々な形の母の愛を具現化する演出だが、浅田美代子演じる施設を運営する浅見静恵を含め、彼女たちに共通するのがベイビーバトンという小さなコミュニティを離れたら孤独だということだ。
ひかりの場合も、家族やボーイフレンド、一番寄り添って欲しかった人たちは、肝心な時そばにいてくれない。
彼女がベイビーバトンの寮に行く時もひとりだったし、出産するまで誰も訪ねてこない。
それどころか、彼女が妊娠し子を産み、幸せを願って泣く泣く手放したという事実そのものが消し去られてしまう。
まだ中学生の母は、心の中にポッカリと空いた我が子の喪失に、ひとりぼっちで向き合わねばならないのだ。
そして、子を手放しても全てが元どおりにはならない。
ボーイフレンドとは別れ、受験も失敗し、彼女を腫れ物のように扱う家族とも急速に心が離れてゆく。
特別養子縁組で子どもを授かった夫婦の話は、たまにメディアにも取り上げられる。
しかし子どもを手放した母親たちのその後は、殆ど目にすることがない。
本作が描くのは、報道などによって私たちが知り得ることの、そのさらに奥にある一つの真実なのである。
特別養子縁組は、養子となる子どもと生みの親との法的な関係を解消し、新たな親と実子と同じ関係を結ぶ。
望まない妊娠の結果、養育能力のない親のもとで暮らして、虐待やネグレクトの悲劇を出さないようにするために作られた制度だ。
法的な親子関係は切れているのだから、本来ならお金を要求することなど出来ない。
若くして家を出て、一人で暮らさなければならなかったひかりは、そんなことすらも知らないのである。
ところがこの時点で、ひかりが6年間どんな人生を送ってきたのかを知るよしもない佐都子は、現れた女性と過去に一度だけ会った時のひかりの印象のギャップを埋めることが出来ない。
派手なスタジャンに金髪の、見るからにやさぐれた姿に、ただ息子を不良から守りたいという意識が先走り、彼女を追い返してしまうのだ。
二人の母を救い、結びつけるのが、ひかりが出産した時に佐都子に託した手紙。
彼女が書こうとして消した「無かったことにしないで」という言葉が心を打つ。
ひかりは確かに愛する人の子を宿し、十ヶ月の間お腹で育て、痛みに耐えてこの世に産んだ母だったのだ。
その事実を無かったことにしてはいけないのは、今は朝斗の母となった佐都子には痛いほど分かる。
時に実に主観的にドラマチックに、時にドキュメンタリーを思わせる引いたタッチで展開する切実な物語の行き着く先は、母なるもの持つ共感力が導き出す美しく優しい世界だ。
C&Kの主題歌「アサトヒカリ」が、作中ではしつこく感じるくらいに繰り返し使われているのだが、エンドクレジットの最後の最後のある仕掛けに落涙。
いつのもの奈良こだわりを含めて、さすが河瀬直美。
これは男性作家には絶対に撮れない、母なるものの映画だ。
今回は河瀬監督の前作のタイトルにして、本作の主人公の名前から新潟県佐渡の北雪酒造の「純米大吟醸 光」をチョイス。
この蔵はもろみを絞るのではなく、遠心分離する技術を使ったユニークな酒造りをしているところで、「光」はその最高峰にあたる高級酒。
独特の六角形の赤いボトルが美しい。
芳潤で心地よい甘味と旨味が広がり、喉越しすっきり。
非常に軽やかで、なおかつ華のある味わい。
さすがに普段使いはできないけど、たまにはこんな酒も飲みたい。
記事が気に入ったらクリックしてね
特別養子縁組制度で息子を授かり、懸命に育てている40代の夫婦のもとに、6年後に突然息子の産みの母を名乗る女性が訪ねて来てお金を要求される。
だが夫婦には、息子が生まれた時に一度だけ会った母性に溢れた少女の記憶と、目の前の変わり果てた姿の女性が同一人物だとはどうしても思えない。
辻村深月の同名小説を、ハンセン病をモチーフにした「あん」の河瀬直美監督が映像化した作品。
現れた女性は本当に少女なのか、もしそうなら一体何が彼女を変えてしまったのか。
映画は深い共感によって母なる存在に寄り添い、子どもの誕生から6年の間に何があったのか、じっくりと二人の母の物語を描き上げてゆく。
不妊に悩む栗原夫婦を永作博美と井浦新が演じ、14歳で妊娠する少女ひかりを「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」で強い印象を残した蒔田彩珠が好演する。
一つの事象を多面から丁寧に捉え、映画的な完成度が非常に高く、河瀬直美のベストだと思う。
※ラストに触れています。
東京のタワーマンションに住む栗原佐都子(永作博美)と清和(井浦新)の夫婦は、長い不妊治療の結果、一度は子どもを持つことを諦める。
そんな時、特別養子縁組の制度を知り、望まない妊娠をした母親のケアをするベイビーバトンというNGOを通じて男の赤ちゃんを授かり「朝斗」と名付ける。
慣れない子育てに悩みつつ、夫婦はだんだんと大きくなる息子の姿に喜びを感じるようになる。
6年後が経った頃、突然朝斗の産みの母の「片倉ひかり」を名乗る女性から、「子どもを返して欲しいんです。だめならお金をください」という電話がかかってくる。
朝斗を引き取った時に一度だけ会ったひかり(蒔田彩珠)は、14歳で産んだばかりの子を涙ながらに佐都子に託した心優しい少女だった。
ところが、夫婦の家を訪ねてきた金髪の女性には、6年前の面影がまったく無かった。
戸惑う二人は彼女に問いかける「あなたは誰ですか?」と・・・・
観る前は、赤ん坊の取り違えを描いた是枝裕和監督の「そして父になる」みたいな、親権をめぐる話かと思っていたが、全く違った。
いやもちろん、「本当の家族とは?親子とは?」という部分は描かれているのだが、父親としての葛藤を描いたあの作品とはアプローチがまったく違うのである。
「そして父になる」の劇中で、子どもの血筋にこだわる福山雅治が「これから成長するにしたがって、子どもはどんどん相手の家族に似てくる。それでも今まで通り愛せますか?」と、相手家庭の妻の真木よう子に問うシーンがある。
すると彼女は「愛せますよ、もちろん。似てるとか似てないとか、そんなことに拘ってるのは、子どもとつながってるって実感のない男だけよ」と即答するのである。
これは実感の無い父親とは違って、産みの母と育ての母、本能的に子どもを愛する二人の母親目線で描かれる物語なのだ。
長年努力はしたものの、夫の清和が無精子症で子どもを欲しても持てない、栗原夫婦の苦悩はじっくり描かれている。
しかし本作の主人公は、蒔田彩珠演じる産みの母のひかりだ。
奈良の田舎に暮らすごく普通の少女だったひかりは、中学生の時にボーイフレンドになった巧と性行為をして、予期せぬ妊娠をしてしまう。
この時彼女にはまだ初潮も来ておらず、まさか妊娠するとは夢にも思わなかったのだろう。
妊娠が発覚したときにはすでに中絶できる期間を過ぎていて、世間体を気にするひかりの家族はベイビーバトンに助けを求める。
彼女の妊娠は隠され、病気療養を理由に広島の離島にあるベイビーバトンの寮に移り、そこで密かに出産することになるのだ。
ベイビーバトンにはそれぞれの理由で子どもを育てられない妊婦がいて、彼女らの境遇がインタビュー風に表現されるのは面白い。
多くの観客にとって、遠い存在である子どもを手放す妊婦一人ひとりにリアリティを与え、様々な形の母の愛を具現化する演出だが、浅田美代子演じる施設を運営する浅見静恵を含め、彼女たちに共通するのがベイビーバトンという小さなコミュニティを離れたら孤独だということだ。
ひかりの場合も、家族やボーイフレンド、一番寄り添って欲しかった人たちは、肝心な時そばにいてくれない。
彼女がベイビーバトンの寮に行く時もひとりだったし、出産するまで誰も訪ねてこない。
それどころか、彼女が妊娠し子を産み、幸せを願って泣く泣く手放したという事実そのものが消し去られてしまう。
まだ中学生の母は、心の中にポッカリと空いた我が子の喪失に、ひとりぼっちで向き合わねばならないのだ。
そして、子を手放しても全てが元どおりにはならない。
ボーイフレンドとは別れ、受験も失敗し、彼女を腫れ物のように扱う家族とも急速に心が離れてゆく。
特別養子縁組で子どもを授かった夫婦の話は、たまにメディアにも取り上げられる。
しかし子どもを手放した母親たちのその後は、殆ど目にすることがない。
本作が描くのは、報道などによって私たちが知り得ることの、そのさらに奥にある一つの真実なのである。
特別養子縁組は、養子となる子どもと生みの親との法的な関係を解消し、新たな親と実子と同じ関係を結ぶ。
望まない妊娠の結果、養育能力のない親のもとで暮らして、虐待やネグレクトの悲劇を出さないようにするために作られた制度だ。
法的な親子関係は切れているのだから、本来ならお金を要求することなど出来ない。
若くして家を出て、一人で暮らさなければならなかったひかりは、そんなことすらも知らないのである。
ところがこの時点で、ひかりが6年間どんな人生を送ってきたのかを知るよしもない佐都子は、現れた女性と過去に一度だけ会った時のひかりの印象のギャップを埋めることが出来ない。
派手なスタジャンに金髪の、見るからにやさぐれた姿に、ただ息子を不良から守りたいという意識が先走り、彼女を追い返してしまうのだ。
二人の母を救い、結びつけるのが、ひかりが出産した時に佐都子に託した手紙。
彼女が書こうとして消した「無かったことにしないで」という言葉が心を打つ。
ひかりは確かに愛する人の子を宿し、十ヶ月の間お腹で育て、痛みに耐えてこの世に産んだ母だったのだ。
その事実を無かったことにしてはいけないのは、今は朝斗の母となった佐都子には痛いほど分かる。
時に実に主観的にドラマチックに、時にドキュメンタリーを思わせる引いたタッチで展開する切実な物語の行き着く先は、母なるもの持つ共感力が導き出す美しく優しい世界だ。
C&Kの主題歌「アサトヒカリ」が、作中ではしつこく感じるくらいに繰り返し使われているのだが、エンドクレジットの最後の最後のある仕掛けに落涙。
いつのもの奈良こだわりを含めて、さすが河瀬直美。
これは男性作家には絶対に撮れない、母なるものの映画だ。
今回は河瀬監督の前作のタイトルにして、本作の主人公の名前から新潟県佐渡の北雪酒造の「純米大吟醸 光」をチョイス。
この蔵はもろみを絞るのではなく、遠心分離する技術を使ったユニークな酒造りをしているところで、「光」はその最高峰にあたる高級酒。
独特の六角形の赤いボトルが美しい。
芳潤で心地よい甘味と旨味が広がり、喉越しすっきり。
非常に軽やかで、なおかつ華のある味わい。
さすがに普段使いはできないけど、たまにはこんな酒も飲みたい。

記事が気に入ったらクリックしてね
| ホーム |