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※noraneko285でつぶやいてます。ブログで書いてない映画の話なども。
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2020年12月30日 (水) | 編集 |
コロナが世界を変えた2020年も、もうすぐ終わり。
日本では映画館が二ヶ月間クローズした後、少しずつ興行街に客足が戻り、19年ぶりに興行記録ナンバーワンが書き換えられたりもしたが、世界ではいまだ映画館が再開できない所も多い。
ハリウッドの大手スタジオが作品を配給しないので、春以降まともな洋画大作が殆ど無いという異常事態。
しかし、一方で日本映画は秀作・傑作が目白押しで、日本映画奇跡の年だった2016年以来の大豊作となったが、劇場スルーしてNetflixなどの配信オンリー、または劇場と配信が同時というケースも目立った。
コロナは、映画の形そのものを変えてしまったのかもしれない。
それでは今年の“ベスト”ではなく“忘れられない映画たち”を、ブログでの紹介順に。
「パラサイト 半地下の家族」昨年から続いた快進撃は、ついに本家アカデミー賞までも制した。鬼才ポン・ジュノが作り上げたのは、半地下のさらに地下に埋れた超格差社会を描くブラック・コメディ。ぶっ飛んだ内容ではあるが、絵空事と言い切れないのが恐ろしい。
「フォードvsフェラーリ」60年代のル・マン24時間耐久レースで、無敵を誇ったフェラーリに挑んだ新参者、フォードの悪戦苦闘を描く。なんちゅうベタなタイトル・・・と思ったが、さすがジェームズ・マンゴールド。不可能に挑むお仕事映画は見ごたえたっぷり、いぶし銀の熱血バディドラマだ。
「ジョジョ・ラビット」ヒトラーがイマジナリーフレンドという軍国少年、ジョジョの物語。ある時、自分の家にユダヤ人の少女が匿われていることを知って、信じていた世界が揺らぎだす。そして少年は、愛する人の突然の喪失と共に、「人間の一番強い力」だと教えられた、愛の意味を知るのである。
「ラストレター」岩井俊二が、故郷の宮城県を舞台に、手紙のやり取りから始まる初恋の記憶の覚醒と、二つの世代の喪失と再生を描くリリカルなラブストーリー。出世作「Love Letter」へのセルフ アンサームービーでもあり、同じ物語を中国で撮った「チィファの手紙」も興味深い作品だった。
「37セカンズ」生まれた時に37秒間だけ呼吸が止まったことで、脳性麻痺となった23歳の女性の成長を描く青春ストーリー。アイデンティティを探す主人公の想いと共に、映画は国境を超えて、愛ゆえにバラバラになった一つの家族の歴史を描き出す。これはある種の神話的貴種流離譚だ。
「1917 命をかけた伝令」第一次世界大戦の西部戦線を舞台に、ドイツ軍の罠に誘い込まれたイギリス軍部隊を救うため、二人の兵士が伝令として走る。塹壕から森林まで、第一次世界大戦の全てのステージを駆け抜ける旅は、まるでビデオゲームの様な構造を持つ。観客を“第三の伝令”として物語に巻き込む工夫がユニークだ。
「ミッドサマー」燦々と降り注ぐ白夜の陽光の下で展開する、世にも恐ろしい奇祭を描くアリ・アスターの大怪作。ここで起こっていることは、私たちの価値観から見ると狂気の蛮行だが、見方を変えればこの上なく美しい至福の時でもある。これは祝祭か、それとも忌まわしい呪いか。
「初恋」三池崇史久々の快作。共に愛されることを知らない孤独な二人が出会ったとき、地獄行きの初恋逃避行が始まる。現在ではもう漫画となってしまったヤクザ映画というジャンルの虚構の中、孤独でイノセンスな心を持つ、若い二人の繊細な再生劇を描き出すというセンスに脱帽。
「レ・ミゼラブル」ユゴーの名作が生まれ、今では移民たちの街となったモンフェルメイユを舞台とした現代劇。ここでは正義感や倫理観は無力だ。悪役も善玉もいない。未来も希望もない。ユゴーが19世紀初頭を舞台に描いた格差と社会分断の悲劇は、形を変えて今も繰り返されている。
「娘は戦場で生まれた」1秒たりとも目が離せない。内戦が続くシリア最大の都市アレッポで、スマホを使って映像を撮り始めた一人の女子学生が見た5年間の戦場の記録。過酷な日常が続く中、彼女は妻となり、母となる。これはこの時代のアレッポに生きた人々の記憶の器だ。
「ナイチンゲール」植民者と先住民族との、果てしない戦争が続くタスマニア島を舞台とした、アイルランド人流刑囚の女性の復讐劇。オーストラリアの血塗られた歴史を背景に、どうしようもなく弱く愚かな人間たちの悲劇を通し、描かれるのはこの世界に必要な愛や寛容の物語だ。
「許された子どもたち」同級生をいじめ殺した加害者の少年を軸に、事件によって人生を狂わされてしまった、狂わせてしまった人々のドラマが描かれる。果たして、法律で「無罪」とされ贖罪の機会を失うことは、加害者にとって幸せに繋がるのだろうか?観る者の倫理観が試される。
「ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語」何度も映画化されてきた古典文学の新解釈。基本的プロットは原作に忠実に、四姉妹の物語を通して、女性の生き方や幸せの意味が描かれる。しかし主人公の次女ジョーを原作者と同一視するメタ構造により、モダンな視点を獲得している。
「ハニーランド 永遠の谷」北マケドニアの人里離れた谷に暮らす、ヨーロッパ最後の自然養蜂家の女性を描く。400時間に及ぶ膨大なフッテージは、ドキュメンタリーでありながら劇映画の様な三幕構造を可能とし、生身の女性の人生のドラマがリアリティたっぷりに浮かび上がってくる。
「はちどり」四半世紀前の高度成長期のソウルを舞台に、中学二年生の少女が自分と家族を含めた社会との関係を発見してゆく物語。今よりももっと女性が生き辛かった時代の、思春期の揺れ動く心をリリカルに描いた。ある意味、本作の主人公の大人になった姿とも言える「82年生まれ、キム・ジヨン」も素晴らしかった。
「劇場」売れない劇作家兼演出家が、役者志望の学生・沙希と恋に落ちてから、およそ10年間の物語。主人公を演じる山崎賢人のダメ人間っぷりが最高。これは言わば演劇という虚構の現実を夢見た若者の、青春の始まりと終わりを描いた行定勲版の「ラ・ラ・ランド」だ。
「アルプススタンドのはしの方」高校野球の応援に駆り出された問題を抱えた高校生たちが、それぞれの挫折とどう向き合うのかの物語。一度も映らないグランドでは、高校野球の熱闘が繰り広げられていて、その試合の展開が登場人物たちの心を変えてゆく。演劇ベースのユニークな作品だ。
「海辺の映画館 キネマの玉手箱」元祖映像の魔術師・大林宣彦の、過去作を全て内包する集大成にして遺作。映画を観に来ていた三人の若者たちは、いつの間にかスクリーンの世界に飛び込み、映画のヒロインたちが戦争の犠牲となるのを目撃する。文字通りに命を削って作り上げた最後のメッセージ。監督、お疲れ様でした。
「マロナの幻想的な物語り」一匹の犬が車に轢かれて死ぬ瞬間から、彼女の波乱万丈の犬生を回想する、リリカルなアニメーション映画。犬の視点で描かれ、ディフォルメされた抽象アニメーションは視覚的な驚きに満ちている。動物の持つ共感力に感銘を受け、その深い愛情に涙する。
「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」感情を持たない“武器”として戦争を生き抜いた少女ヴァイオレットの物語。あの痛ましい事件と、コロナ禍による二度の公開延期を乗り越え、京都アニメーションの復活の狼煙となる心ふるえる魂の傑作だ。TVシリーズから追い続けたファンに、観たかったものを見せてくれる完璧な完結編となった。
「ミッドナイトスワン」草彅剛演じるトランスジェンダー女性と、母に捨てられた中学生の少女、生き辛さを抱えた二人が出会った時、彼女らの人生にドラマチックな化学反応が起こる。バレエ「白鳥の湖」をベースにした、とことんまで俗っぽく、泥臭い人間たちにより真実の愛を巡る物語だ。
「鬼滅の刃 無限列車編」19年ぶりに映画興行記録を塗り替えた大ヒット作。作品としても面白かったが、社会現象となるほどの作品は久しぶりで、これほど”unforgettable”な作品もないだろう。ただ、コロナで作品が少なかったから出来た“全集中の興行”は、ある意味パンドラの箱とも言えるもので、今後の日本の映画興行のスタイルを変えるかも知れない。
「朝が来る」特別養子縁組制度で子供を授かった夫婦と、産んだ子を養子に出さざるを得なかった少女。河瀬直美は、深い共感を持って二人の“母”の葛藤を描いてゆく。なぜ少女は6年後に我が子の前に再び現れたのか。一つの事象を多面から丁寧に捉え、映画的な完成度が非常に高い。
「罪の声」星野源演じる主人公が、過去の犯罪の脅迫テープに、子供の頃の自分の声が使われていたことに気付いた時、止まっていた時計が動き出す。本当に最悪の罪を犯したのは誰なのか?昭和の日本を震撼させた劇場型犯罪「グリコ・森永事件」をモチーフに、真実の罪の所在を明らかにする傑作ミステリ。
「タイトル、拒絶」都内のデリヘルに勤める女と男の群像劇。全員が社会不適合者で、いつかは沈む同じ泥舟に乗っている。地べたに這いつくばって生きる、クソみたいな人生にタイトルなんて上等なものはいらない・・・とは言うものの全ての人生に、たとえタイトルは無くてもしっかり物語はあるのだ。
「Mank /マンク」脚本家ハーマン・J・マンキーウィッツ、通称“マンク”は、いかにして映画史に輝く「市民ケーン」をものにしたのか。映画は1930年代のハリウッドを舞台に、皮肉屋でウィットに富むマンクの目を通し、虚飾の街ハリウッドを描き出す。そこに見えてくるのは現在のアメリカだ。
「シカゴ7裁判」1968年のシカゴで、暴動を先導したとして逮捕された左翼活動家たちの裁判劇。今年の大統領選挙にぶつけた企画で、50年前の物語に描かれる、デモ隊と警察と人種差別、そして権力の側からの扇動といったモチーフは、まさに先日までニュースで見ていた映像そのもの。
「ミセス・ノイズィ」落ち目の小説家が、隣家の迷惑おばさんを題材に新作を発表したことから、世間を巻き込み人生を変える大騒動に。これは、あらゆるコミュニケーションツールが存在しているのに、根本の部分で不通である現代ニッポン人の物語で、日常を舞台としたもう一つの「羅生門」だ。
「燃ゆる女の肖像」すべての女性にとって“自由”が特別の権利だった時代。フランスの孤島で出会った画家とモデルが、人生で一度だけの真実の恋をする。視線のドラマであり、お互いを見つめ合う双方の眼差しの交錯によって感情が語られる。まるで格調高い少女漫画のような世界観が印象的。
「アンダードッグ 前編/後編」ボクシング映画の新たな金字塔。かつての栄光を忘れられず、今では“咬ませ犬=アンダードッグ”に身を落とした主人公を軸に描かれる、それぞれに閉塞を抱えた三人のプロボクサーの物語。これは“終わらせ方”に関する物語で、ボクシングというジャンル映画以上の普遍性がある。
「私をくいとめて」のんさん演じるお一人さま生活を満喫する主人公が、年下男性に恋をして、お二人さま目指して葛藤する。主人公と脳内の心の声の掛け合いで展開するのがユニーク。ストーリーの基本骨格は、大九明子監督の前作「甘いお酒でうがい」とも共通だが、非常に共感力が強いのが特徴だ。
「FUNAN フナン」70年代、クメール・ルージュ支配下のカンボジア。デニス・ドゥ監督の母をモデルとした一人の女性の苦難の旅路が描かれる。コンパクトな上映時間の中で、描かれている辛いことが多すぎて、本来ならば悲劇であるはずの終盤のある事件すら、“希望”と感じてしまうのが悲しい。
以上、劇場・配信取り混ぜての32本。
うち12本が女性監督の作品で過去最多だが、彼女たちによるフェミニズム的視点を持った作品に、印象深いものが多かったと思う。
今年は劇場鑑賞が減った分、Netflixとアマプラを観まくったので、トータルの本数は例年とあまり変わらなかった。
下半期はハリウッド大作が「TENET テネット」と「ワンダーウーマン 1984」くらいしか公開されなかったが、配信に流れた作品も多く「タイラー・レイク-命の奪還-」や「ハーフ・オブ・イット:面白いのはこれから」「ザ・ファイブ・ブラッズ」など秀作が多くあった。
また、日本映画や他の国の作品は豊作。
特にアニメーションは邦洋共に素晴らしく、「ドラえもん のび太の新恐竜」や「ポケットモンスター ココ」、「魔女見習いを探して」といったシリーズ作品は、ディープでワイドなアニメーション文化を持つ、日本以外では生まれない作品。
一方で「失くした体」や「ウルフウォーカー」、「ミッシング・リンク 英国紳士と秘密の相棒」、「羅小黒戦記~ぼくが選ぶ未来~」といった洋画作品は、表現の多様性の豊さを見せてくれる。
2021年は、とりあえず元日が映画の日。
新年のレビューは東京国際映画祭で鑑賞した「新感染半島 ファイナル・ステージ」から再開する予定。
果たしてコロナは終息するのか、皆さんもお気をつけてお過ごしください。
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日本では映画館が二ヶ月間クローズした後、少しずつ興行街に客足が戻り、19年ぶりに興行記録ナンバーワンが書き換えられたりもしたが、世界ではいまだ映画館が再開できない所も多い。
ハリウッドの大手スタジオが作品を配給しないので、春以降まともな洋画大作が殆ど無いという異常事態。
しかし、一方で日本映画は秀作・傑作が目白押しで、日本映画奇跡の年だった2016年以来の大豊作となったが、劇場スルーしてNetflixなどの配信オンリー、または劇場と配信が同時というケースも目立った。
コロナは、映画の形そのものを変えてしまったのかもしれない。
それでは今年の“ベスト”ではなく“忘れられない映画たち”を、ブログでの紹介順に。
「パラサイト 半地下の家族」昨年から続いた快進撃は、ついに本家アカデミー賞までも制した。鬼才ポン・ジュノが作り上げたのは、半地下のさらに地下に埋れた超格差社会を描くブラック・コメディ。ぶっ飛んだ内容ではあるが、絵空事と言い切れないのが恐ろしい。
「フォードvsフェラーリ」60年代のル・マン24時間耐久レースで、無敵を誇ったフェラーリに挑んだ新参者、フォードの悪戦苦闘を描く。なんちゅうベタなタイトル・・・と思ったが、さすがジェームズ・マンゴールド。不可能に挑むお仕事映画は見ごたえたっぷり、いぶし銀の熱血バディドラマだ。
「ジョジョ・ラビット」ヒトラーがイマジナリーフレンドという軍国少年、ジョジョの物語。ある時、自分の家にユダヤ人の少女が匿われていることを知って、信じていた世界が揺らぎだす。そして少年は、愛する人の突然の喪失と共に、「人間の一番強い力」だと教えられた、愛の意味を知るのである。
「ラストレター」岩井俊二が、故郷の宮城県を舞台に、手紙のやり取りから始まる初恋の記憶の覚醒と、二つの世代の喪失と再生を描くリリカルなラブストーリー。出世作「Love Letter」へのセルフ アンサームービーでもあり、同じ物語を中国で撮った「チィファの手紙」も興味深い作品だった。
「37セカンズ」生まれた時に37秒間だけ呼吸が止まったことで、脳性麻痺となった23歳の女性の成長を描く青春ストーリー。アイデンティティを探す主人公の想いと共に、映画は国境を超えて、愛ゆえにバラバラになった一つの家族の歴史を描き出す。これはある種の神話的貴種流離譚だ。
「1917 命をかけた伝令」第一次世界大戦の西部戦線を舞台に、ドイツ軍の罠に誘い込まれたイギリス軍部隊を救うため、二人の兵士が伝令として走る。塹壕から森林まで、第一次世界大戦の全てのステージを駆け抜ける旅は、まるでビデオゲームの様な構造を持つ。観客を“第三の伝令”として物語に巻き込む工夫がユニークだ。
「ミッドサマー」燦々と降り注ぐ白夜の陽光の下で展開する、世にも恐ろしい奇祭を描くアリ・アスターの大怪作。ここで起こっていることは、私たちの価値観から見ると狂気の蛮行だが、見方を変えればこの上なく美しい至福の時でもある。これは祝祭か、それとも忌まわしい呪いか。
「初恋」三池崇史久々の快作。共に愛されることを知らない孤独な二人が出会ったとき、地獄行きの初恋逃避行が始まる。現在ではもう漫画となってしまったヤクザ映画というジャンルの虚構の中、孤独でイノセンスな心を持つ、若い二人の繊細な再生劇を描き出すというセンスに脱帽。
「レ・ミゼラブル」ユゴーの名作が生まれ、今では移民たちの街となったモンフェルメイユを舞台とした現代劇。ここでは正義感や倫理観は無力だ。悪役も善玉もいない。未来も希望もない。ユゴーが19世紀初頭を舞台に描いた格差と社会分断の悲劇は、形を変えて今も繰り返されている。
「娘は戦場で生まれた」1秒たりとも目が離せない。内戦が続くシリア最大の都市アレッポで、スマホを使って映像を撮り始めた一人の女子学生が見た5年間の戦場の記録。過酷な日常が続く中、彼女は妻となり、母となる。これはこの時代のアレッポに生きた人々の記憶の器だ。
「ナイチンゲール」植民者と先住民族との、果てしない戦争が続くタスマニア島を舞台とした、アイルランド人流刑囚の女性の復讐劇。オーストラリアの血塗られた歴史を背景に、どうしようもなく弱く愚かな人間たちの悲劇を通し、描かれるのはこの世界に必要な愛や寛容の物語だ。
「許された子どもたち」同級生をいじめ殺した加害者の少年を軸に、事件によって人生を狂わされてしまった、狂わせてしまった人々のドラマが描かれる。果たして、法律で「無罪」とされ贖罪の機会を失うことは、加害者にとって幸せに繋がるのだろうか?観る者の倫理観が試される。
「ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語」何度も映画化されてきた古典文学の新解釈。基本的プロットは原作に忠実に、四姉妹の物語を通して、女性の生き方や幸せの意味が描かれる。しかし主人公の次女ジョーを原作者と同一視するメタ構造により、モダンな視点を獲得している。
「ハニーランド 永遠の谷」北マケドニアの人里離れた谷に暮らす、ヨーロッパ最後の自然養蜂家の女性を描く。400時間に及ぶ膨大なフッテージは、ドキュメンタリーでありながら劇映画の様な三幕構造を可能とし、生身の女性の人生のドラマがリアリティたっぷりに浮かび上がってくる。
「はちどり」四半世紀前の高度成長期のソウルを舞台に、中学二年生の少女が自分と家族を含めた社会との関係を発見してゆく物語。今よりももっと女性が生き辛かった時代の、思春期の揺れ動く心をリリカルに描いた。ある意味、本作の主人公の大人になった姿とも言える「82年生まれ、キム・ジヨン」も素晴らしかった。
「劇場」売れない劇作家兼演出家が、役者志望の学生・沙希と恋に落ちてから、およそ10年間の物語。主人公を演じる山崎賢人のダメ人間っぷりが最高。これは言わば演劇という虚構の現実を夢見た若者の、青春の始まりと終わりを描いた行定勲版の「ラ・ラ・ランド」だ。
「アルプススタンドのはしの方」高校野球の応援に駆り出された問題を抱えた高校生たちが、それぞれの挫折とどう向き合うのかの物語。一度も映らないグランドでは、高校野球の熱闘が繰り広げられていて、その試合の展開が登場人物たちの心を変えてゆく。演劇ベースのユニークな作品だ。
「海辺の映画館 キネマの玉手箱」元祖映像の魔術師・大林宣彦の、過去作を全て内包する集大成にして遺作。映画を観に来ていた三人の若者たちは、いつの間にかスクリーンの世界に飛び込み、映画のヒロインたちが戦争の犠牲となるのを目撃する。文字通りに命を削って作り上げた最後のメッセージ。監督、お疲れ様でした。
「マロナの幻想的な物語り」一匹の犬が車に轢かれて死ぬ瞬間から、彼女の波乱万丈の犬生を回想する、リリカルなアニメーション映画。犬の視点で描かれ、ディフォルメされた抽象アニメーションは視覚的な驚きに満ちている。動物の持つ共感力に感銘を受け、その深い愛情に涙する。
「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」感情を持たない“武器”として戦争を生き抜いた少女ヴァイオレットの物語。あの痛ましい事件と、コロナ禍による二度の公開延期を乗り越え、京都アニメーションの復活の狼煙となる心ふるえる魂の傑作だ。TVシリーズから追い続けたファンに、観たかったものを見せてくれる完璧な完結編となった。
「ミッドナイトスワン」草彅剛演じるトランスジェンダー女性と、母に捨てられた中学生の少女、生き辛さを抱えた二人が出会った時、彼女らの人生にドラマチックな化学反応が起こる。バレエ「白鳥の湖」をベースにした、とことんまで俗っぽく、泥臭い人間たちにより真実の愛を巡る物語だ。
「鬼滅の刃 無限列車編」19年ぶりに映画興行記録を塗り替えた大ヒット作。作品としても面白かったが、社会現象となるほどの作品は久しぶりで、これほど”unforgettable”な作品もないだろう。ただ、コロナで作品が少なかったから出来た“全集中の興行”は、ある意味パンドラの箱とも言えるもので、今後の日本の映画興行のスタイルを変えるかも知れない。
「朝が来る」特別養子縁組制度で子供を授かった夫婦と、産んだ子を養子に出さざるを得なかった少女。河瀬直美は、深い共感を持って二人の“母”の葛藤を描いてゆく。なぜ少女は6年後に我が子の前に再び現れたのか。一つの事象を多面から丁寧に捉え、映画的な完成度が非常に高い。
「罪の声」星野源演じる主人公が、過去の犯罪の脅迫テープに、子供の頃の自分の声が使われていたことに気付いた時、止まっていた時計が動き出す。本当に最悪の罪を犯したのは誰なのか?昭和の日本を震撼させた劇場型犯罪「グリコ・森永事件」をモチーフに、真実の罪の所在を明らかにする傑作ミステリ。
「タイトル、拒絶」都内のデリヘルに勤める女と男の群像劇。全員が社会不適合者で、いつかは沈む同じ泥舟に乗っている。地べたに這いつくばって生きる、クソみたいな人生にタイトルなんて上等なものはいらない・・・とは言うものの全ての人生に、たとえタイトルは無くてもしっかり物語はあるのだ。
「Mank /マンク」脚本家ハーマン・J・マンキーウィッツ、通称“マンク”は、いかにして映画史に輝く「市民ケーン」をものにしたのか。映画は1930年代のハリウッドを舞台に、皮肉屋でウィットに富むマンクの目を通し、虚飾の街ハリウッドを描き出す。そこに見えてくるのは現在のアメリカだ。
「シカゴ7裁判」1968年のシカゴで、暴動を先導したとして逮捕された左翼活動家たちの裁判劇。今年の大統領選挙にぶつけた企画で、50年前の物語に描かれる、デモ隊と警察と人種差別、そして権力の側からの扇動といったモチーフは、まさに先日までニュースで見ていた映像そのもの。
「ミセス・ノイズィ」落ち目の小説家が、隣家の迷惑おばさんを題材に新作を発表したことから、世間を巻き込み人生を変える大騒動に。これは、あらゆるコミュニケーションツールが存在しているのに、根本の部分で不通である現代ニッポン人の物語で、日常を舞台としたもう一つの「羅生門」だ。
「燃ゆる女の肖像」すべての女性にとって“自由”が特別の権利だった時代。フランスの孤島で出会った画家とモデルが、人生で一度だけの真実の恋をする。視線のドラマであり、お互いを見つめ合う双方の眼差しの交錯によって感情が語られる。まるで格調高い少女漫画のような世界観が印象的。
「アンダードッグ 前編/後編」ボクシング映画の新たな金字塔。かつての栄光を忘れられず、今では“咬ませ犬=アンダードッグ”に身を落とした主人公を軸に描かれる、それぞれに閉塞を抱えた三人のプロボクサーの物語。これは“終わらせ方”に関する物語で、ボクシングというジャンル映画以上の普遍性がある。
「私をくいとめて」のんさん演じるお一人さま生活を満喫する主人公が、年下男性に恋をして、お二人さま目指して葛藤する。主人公と脳内の心の声の掛け合いで展開するのがユニーク。ストーリーの基本骨格は、大九明子監督の前作「甘いお酒でうがい」とも共通だが、非常に共感力が強いのが特徴だ。
「FUNAN フナン」70年代、クメール・ルージュ支配下のカンボジア。デニス・ドゥ監督の母をモデルとした一人の女性の苦難の旅路が描かれる。コンパクトな上映時間の中で、描かれている辛いことが多すぎて、本来ならば悲劇であるはずの終盤のある事件すら、“希望”と感じてしまうのが悲しい。
以上、劇場・配信取り混ぜての32本。
うち12本が女性監督の作品で過去最多だが、彼女たちによるフェミニズム的視点を持った作品に、印象深いものが多かったと思う。
今年は劇場鑑賞が減った分、Netflixとアマプラを観まくったので、トータルの本数は例年とあまり変わらなかった。
下半期はハリウッド大作が「TENET テネット」と「ワンダーウーマン 1984」くらいしか公開されなかったが、配信に流れた作品も多く「タイラー・レイク-命の奪還-」や「ハーフ・オブ・イット:面白いのはこれから」「ザ・ファイブ・ブラッズ」など秀作が多くあった。
また、日本映画や他の国の作品は豊作。
特にアニメーションは邦洋共に素晴らしく、「ドラえもん のび太の新恐竜」や「ポケットモンスター ココ」、「魔女見習いを探して」といったシリーズ作品は、ディープでワイドなアニメーション文化を持つ、日本以外では生まれない作品。
一方で「失くした体」や「ウルフウォーカー」、「ミッシング・リンク 英国紳士と秘密の相棒」、「羅小黒戦記~ぼくが選ぶ未来~」といった洋画作品は、表現の多様性の豊さを見せてくれる。
2021年は、とりあえず元日が映画の日。
新年のレビューは東京国際映画祭で鑑賞した「新感染半島 ファイナル・ステージ」から再開する予定。
果たしてコロナは終息するのか、皆さんもお気をつけてお過ごしください。

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2020年12月26日 (土) | 編集 |
国境を越える、その日まで。
1970年代、ポル・ポト率いる狂信的な極左過激組織クメール・ルージュに全土を制圧されたカンボジアを舞台に、一人の女性が辿る苦難の旅路を描くアニメーション映画。
主人公のチョウのヴォイスキャストにベレニス・べジョ、夫のクンをルイ・ガレルが演じる。
「ロング・ウェイ・ノース 地球のてっぺん」などの、レイアウトアーティストとして知られるデニス・ドゥ監督は、フランス生まれのカンボジア系二世。
この物語はのちに亡命者となった彼の実の母親をモデルに、緻密な取材を重ねて構成されているのだが、実写ではなく「絵」で表現することで、より普遍的な物語となっている。
2018年のアヌシー国際アニメーション映画祭で、長編最高賞となるクリスタル・アワードを受賞した作品だ。
タイトルの「FUNAN フナン」とは、1世紀頃から500年に渡って繁栄した、古代カンボジアの扶南国のこと。
ベトナム戦争の終結で、アメリカを後ろ盾とするロン・ノル政権が崩壊し、クメール・ルージュがプノンペンを陥落させたのは1975年4月。
究極の反知性カルトに支配された国民の運命は、とことん悲惨だ。
不安定ではあったが、平和で豊かだった日常はある日突然断ち切られる。
都市に住む住人は、今まで農民たちを搾取してきたのだから、これからは全員が農村へと移り住み、自分で自分の糧を作り出さねばならないと言う考え方から、首都プノンペンの住民たちは一切の財産・地位を奪われ、農村部へと強制移住させられる。
それは“平等”をスローガンにした新たな搾取構造、奴隷生活の始まりである。
主人公のチョウとクンの夫婦は、プノンペンから田舎へ移動する途中、一人息子のソヴァンと離れ離れになってしまう。
幼い子供を探しに戻ることすら許されず、チョウにとってはソヴァンが生きていて、いつか再会できると信じることが、この世の地獄を生き抜く糧となる。
だが、事態は改善するどころか、どんどん悪化してゆく。
革命の名の下に、あらゆる自由は否定され、明日生きていられるかすら、新たな支配者の思惑次第。
原始共産制を理想社会とするクメール・ルージュは、知識人をまとめて殺してしまったので、当然ながら農業にしろインフラにしろ、まともな計画を建てられるリーダーがいない。
デタラメな事業から生み出されるのは、深刻な生産性の低下と人手不足。
食事すら満足に取れず、子は親から少年兵として洗脳するために、夫は妻から労働力として引き離され、家族はバラバラ。
やがて残された者の中でも、生きるために敵にこびる者と、尊厳だけは奪われまいとする者に溝が生まれてゆく。
1975年からベトナム軍の侵攻によりポル・ポト政権が崩壊するまでの4年間に、カンボジアのキリング・フィールドで起こったことは、様々な作品で描かれてきたが、これは一人の女性の話なのでグッと凝縮されていて余計に怖い。
しかし、ドゥ監督は物語を白黒二元論で語ることは極力避けている。
クメール・ルージュの兵士となったチョウのいとこや、彼女から子供を奪ったことに罪悪感を募らせている党幹部の娘のエピソードは、悪をなすのも善をなすのも、結局同じ人間であることを端的に表現している。
87分というコンパクトな上映時間にもかかわらず、描かれている辛いことが多すぎて、本来ならば悲劇であるはずの終盤のある事件すら、“希望”と感じてしまうのが悲しい。
やっとたどり着いた国境の向こうのタイに、元の祖国と同じ平和な風景が広がっているのが、この世界の理不尽さを象徴する。
ドゥ監督は片渕須直の影響を受けているそうで、確かにアプローチ的には「この世界の片隅に」に通じる部分もあるのだが、徹底的な救いの無さはむしろヨン・サンホに近い気がする。
戦争や圧政で祖国を追われた難民の存在は現在も重要な問題で、この映画は過去を鏡にして今を描いた作品だということは、決して忘れてはいけないことだろう。
今回は主人公が目指すタイの国民的ビール、ブーンロード・ブルワリーの「シンハー」をチョイス。
1933年にドイツと技術提携し生まれたジャーマンスタイルだが、南国ビールの例に漏れず、すっきり爽やか系のキレのある味わい。
ビアグラスに氷を入れて注ぐのが南国流。
脱出までの極限の緊張状態をくぐり抜けたら、喉の渇きを癒したい。
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1970年代、ポル・ポト率いる狂信的な極左過激組織クメール・ルージュに全土を制圧されたカンボジアを舞台に、一人の女性が辿る苦難の旅路を描くアニメーション映画。
主人公のチョウのヴォイスキャストにベレニス・べジョ、夫のクンをルイ・ガレルが演じる。
「ロング・ウェイ・ノース 地球のてっぺん」などの、レイアウトアーティストとして知られるデニス・ドゥ監督は、フランス生まれのカンボジア系二世。
この物語はのちに亡命者となった彼の実の母親をモデルに、緻密な取材を重ねて構成されているのだが、実写ではなく「絵」で表現することで、より普遍的な物語となっている。
2018年のアヌシー国際アニメーション映画祭で、長編最高賞となるクリスタル・アワードを受賞した作品だ。
タイトルの「FUNAN フナン」とは、1世紀頃から500年に渡って繁栄した、古代カンボジアの扶南国のこと。
ベトナム戦争の終結で、アメリカを後ろ盾とするロン・ノル政権が崩壊し、クメール・ルージュがプノンペンを陥落させたのは1975年4月。
究極の反知性カルトに支配された国民の運命は、とことん悲惨だ。
不安定ではあったが、平和で豊かだった日常はある日突然断ち切られる。
都市に住む住人は、今まで農民たちを搾取してきたのだから、これからは全員が農村へと移り住み、自分で自分の糧を作り出さねばならないと言う考え方から、首都プノンペンの住民たちは一切の財産・地位を奪われ、農村部へと強制移住させられる。
それは“平等”をスローガンにした新たな搾取構造、奴隷生活の始まりである。
主人公のチョウとクンの夫婦は、プノンペンから田舎へ移動する途中、一人息子のソヴァンと離れ離れになってしまう。
幼い子供を探しに戻ることすら許されず、チョウにとってはソヴァンが生きていて、いつか再会できると信じることが、この世の地獄を生き抜く糧となる。
だが、事態は改善するどころか、どんどん悪化してゆく。
革命の名の下に、あらゆる自由は否定され、明日生きていられるかすら、新たな支配者の思惑次第。
原始共産制を理想社会とするクメール・ルージュは、知識人をまとめて殺してしまったので、当然ながら農業にしろインフラにしろ、まともな計画を建てられるリーダーがいない。
デタラメな事業から生み出されるのは、深刻な生産性の低下と人手不足。
食事すら満足に取れず、子は親から少年兵として洗脳するために、夫は妻から労働力として引き離され、家族はバラバラ。
やがて残された者の中でも、生きるために敵にこびる者と、尊厳だけは奪われまいとする者に溝が生まれてゆく。
1975年からベトナム軍の侵攻によりポル・ポト政権が崩壊するまでの4年間に、カンボジアのキリング・フィールドで起こったことは、様々な作品で描かれてきたが、これは一人の女性の話なのでグッと凝縮されていて余計に怖い。
しかし、ドゥ監督は物語を白黒二元論で語ることは極力避けている。
クメール・ルージュの兵士となったチョウのいとこや、彼女から子供を奪ったことに罪悪感を募らせている党幹部の娘のエピソードは、悪をなすのも善をなすのも、結局同じ人間であることを端的に表現している。
87分というコンパクトな上映時間にもかかわらず、描かれている辛いことが多すぎて、本来ならば悲劇であるはずの終盤のある事件すら、“希望”と感じてしまうのが悲しい。
やっとたどり着いた国境の向こうのタイに、元の祖国と同じ平和な風景が広がっているのが、この世界の理不尽さを象徴する。
ドゥ監督は片渕須直の影響を受けているそうで、確かにアプローチ的には「この世界の片隅に」に通じる部分もあるのだが、徹底的な救いの無さはむしろヨン・サンホに近い気がする。
戦争や圧政で祖国を追われた難民の存在は現在も重要な問題で、この映画は過去を鏡にして今を描いた作品だということは、決して忘れてはいけないことだろう。
今回は主人公が目指すタイの国民的ビール、ブーンロード・ブルワリーの「シンハー」をチョイス。
1933年にドイツと技術提携し生まれたジャーマンスタイルだが、南国ビールの例に漏れず、すっきり爽やか系のキレのある味わい。
ビアグラスに氷を入れて注ぐのが南国流。
脱出までの極限の緊張状態をくぐり抜けたら、喉の渇きを癒したい。

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2020年12月24日 (木) | 編集 |
目指せ、お二人さま。
「勝手にふるえてろ」の原作・綿谷りさ、監督・大九明子の名タッグ再び。
主人公は、長年のお一人さま生活を満喫するアラサーOLのみつ子。
彼女の心の中には、イマジナリーフレンドというか、自分の心の声である脳内フレンドの「A」がいて、何か迷いごとがあると逐一相談する。
「A」は常にみつ子に寄り添い、完全に味方してくれる優しい相方なのだ。
しかしある時、取引先の年下社員の多田くんと出会ってしまったことで、彼女は人生の分岐点に立たされる。
このままお一人さまを続けるのか、多田くんとラブラブなお二人さまを目指すのか。
多田くんに恋をしたみつ子は、ときめく心に戸惑いながらも、今の自分を変えることに葛藤を深めてゆく。
のんさんがみつ子役にハマりまくりで、彼女はようやく実写映画で代表作を得たのでないか。
多田くんに林遣都、気のおけない同僚ノゾミさんを臼田あさ美、旧友の皐月を橋本愛が演じる。
コロナ禍での開催となった今年の東京国際映画祭では、観客賞を受賞した共感力抜群の話題作だ。
31歳の会社員、黒田みつ子(のん)は、脳内の相談役「A」(中村倫也)と共に、長らくお一人さま生活。
ところが、一年前から彼女の部屋には取引先の社員の多田くん(林遣都)が、しばしばご飯をもらいに訪ねてくる。
偶然街で出会った時に、ご飯を作ってあげる約束をしたのだが、「寄ってく?」の一言が言えずに、なぜかずーっと玄関での受け渡し。
今の関係を壊すことが怖くて、今一歩踏み出せないみつ子に、「A」は「大丈夫ですよ。多田さんはあなたのこときっと好きです。本人に直接訊いてみたらどうですか」と言うのだが、いまいち踏ん切りがつかない。
その後距離を縮めることには成功したが、それでも不安は拭えない。
みつ子は気分転換にと、イタリアに嫁いだ親友の皐月(橋本愛)を訪ねる旅に出るのだが・・・・
食べ物の描写が多くて、やたら腹の減る映画だった。
のんさん演じる主人公のみつ子に感情移入しまくりで、むっちゃ愛おしい。
そうだよなー、お一人さまライフが長くなり過ぎると、人生の次のステージが目に前に広がってても、もう現状を変えるのが怖くなっちゃうのだよ。
みつ子とは性別も年齢も全く違うのに、不思議と彼女のことが「私」だと感じる。
これは「勝手にふるえてろ」や「甘いお酒でうがい」でもそうだったので、この共感力は綿谷りさ、あるいは大九明子の作家性なのかもしれない。
映画は、中村倫也演じる心の声「A」とみつ子の掛け合いで進んでゆくのだが、この辺りの作りは、スカーレット・ヨハンソン演じる声だけのAIとの恋を描いた、「her/世界でひとつの彼女」を思わせる。
「A」はもう一人のみつ子であるのと同時に、彼女のことを客観的に見て助言をくれる相談役でもあり、寂しい時には寄り添ってくれる友達でもある。
子供の頃にイマジナリー・フレンドがいた人は沢山いるだろうが、大人になってこう言う存在を持つ人は珍しい。
どちらかと言うと、「勝手にふるえてろ」の主人公の様に“理想の自分”で妄想する人の方が多いと思うのだが、この辺りもみつ子の持つ微妙な幼児性の発露なのかも。
ぶっちゃけ、側から見てるとずーっと独り言いってるかなり危ない人だ(笑
お一人さま歴が長い女性が、仕事関係の後輩の男の子に恋してしまうのは、大九監督の前作「甘いお酒でうがい」と共通の展開。
歳の差に遠慮しつつ、ついついときめいてしまう艶っぽさも同じだ。
ただ本作のみつ子は、あの映画で松雪泰子が演じた主人公の中年女性、川嶋佳子よりもずっと若い。
常に穏やかで自然体の佳子は、恋の予感を感じつつも一夜のアバンチュールを楽しんだり、自分の心に正直に、あるがままを受け入れるスタンスだったが、一回り以上若いのんさんは自分の現状に激しく葛藤を繰り返している。
佳子の境地には、まだまだ達してないんだが、その青さがまたドラマチックだ。
声だけの「A」との会話が中心であることからも分かるように、基本会話劇であって声の映画。
ゆえに全編にわたって音がいく重にもミックスされ、凝った音響演出が施されている。
初めて「A」と会話を交わす時、声の主が男性なこともあり、一瞬誰かみつ子の隣にいるのかと錯覚させ、やがて「ああ、これは心の声」なんだと納得させる工夫。
時には、音がヴィジュアルに影響を与えることも。
飛行機が大の苦手なみつ子が、イタリア行きの機中で、気持ちを落ち着かせようと大瀧詠一を聴いてて、歌詞がドラえもんのコエカタマリンみたいに飛び出してくる演出は、未見性があって面白かった。
音が視覚をも巻き込み、それによって主人公の心象が細かく語られてゆくのが、本作のストーリーテリングの大きな特徴だ。
心象表現では中盤のある部分、寒色の世界でみつ子が一人の働く女性として、思いっきり溜め込んでいた毒を吐き出すのは凄かった。
ある意味、あれも共感力なんだが舞台シーンは原作にもあるのだろうか?
大九明子監督は元芸人さんだから、もしかしてあのエピソードは実話で、作家本人の経験的思いの丈を吐露したのかと思わされるくらい、あの後の心情の吐露は迫真に迫っていた。
そしてイタリアに渡ったみつ子が、ずっと会ってなかった親友の皐月と再会を果たすシークエンスは、橋本愛とのんさんのツーショット、もうそれだけで眼福である。
撮影がコロナ禍にかかってしまったため、ロケ隊が実際にローマへは行けず、現地のカメラマンとリモートで撮影したそうだが、最終的な映像は全く自然で苦労は報われていたのではないか。
このシークエンスのみつ子と皐月は、学生時代までは似たような人生を歩んでいたはずなのに、今はあらゆる部分で正反対。
かたや東京に暮らし恋に恋するお一人さまで、かたや国際結婚して世界の反対側に住み、もうすぐお母さんになる妊婦さん。
どちらもそれなりに幸せだが、小さな“後悔”も心にある、いわばお互いの中に自分の”もしもの人生”を見る関係だ。
この旅行のシークエンスでは「A」が登場しないのも、リアルな鏡像としての皐月がいるからだろう。
「あまちゃん」からの7年間を隠し味に、キャラクターを掘り下げると言う意味で、含みのある良いエピソードになっていた。
皐月との再会を大きな糧として、臼田あさみが好演する先輩のノゾミさんの恋愛成就も、みつ子の背中を力強く押す。
足掻いて、叫んで、葛藤して、みつ子はようやく足踏み状態の人生を一歩前へ進めるのである。
人と関わることには、一定の努力と痛みが必要で、それは実は気楽なお一人さまライフよりも苦しかったりする。
でもだからこそ見られる、新しい景色がきっとあるに違いない。
「A」と共に巡るセルフ脳内冒険の旅は終わりを告げ、今度はお二人さまでの旅が待っている。
不器用だけど一生懸命なみつ子には、明日を生きる元気をもらった。
心の宝石箱にしまっておきたくなる、珠玉の傑作だ。
今回はもちろん、甘酸っぱい恋の味「リモンチェッロ」をチョイス。
元々は家庭で作られていたレモン皮ベースのリキュールだが、スッキリしていて食欲の増進効果もあるという。
私はキンキンに冷やしてスパークリングウォーターで割るのが好き。
映画に出てきたブーツの形のボトルは、各社から出ていてお土産として人気があるようだが、わざわざイタリアから送るなら、もっとでっかいボトルの方がいいのでは。
でもオシャレだから許す。
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「勝手にふるえてろ」の原作・綿谷りさ、監督・大九明子の名タッグ再び。
主人公は、長年のお一人さま生活を満喫するアラサーOLのみつ子。
彼女の心の中には、イマジナリーフレンドというか、自分の心の声である脳内フレンドの「A」がいて、何か迷いごとがあると逐一相談する。
「A」は常にみつ子に寄り添い、完全に味方してくれる優しい相方なのだ。
しかしある時、取引先の年下社員の多田くんと出会ってしまったことで、彼女は人生の分岐点に立たされる。
このままお一人さまを続けるのか、多田くんとラブラブなお二人さまを目指すのか。
多田くんに恋をしたみつ子は、ときめく心に戸惑いながらも、今の自分を変えることに葛藤を深めてゆく。
のんさんがみつ子役にハマりまくりで、彼女はようやく実写映画で代表作を得たのでないか。
多田くんに林遣都、気のおけない同僚ノゾミさんを臼田あさ美、旧友の皐月を橋本愛が演じる。
コロナ禍での開催となった今年の東京国際映画祭では、観客賞を受賞した共感力抜群の話題作だ。
31歳の会社員、黒田みつ子(のん)は、脳内の相談役「A」(中村倫也)と共に、長らくお一人さま生活。
ところが、一年前から彼女の部屋には取引先の社員の多田くん(林遣都)が、しばしばご飯をもらいに訪ねてくる。
偶然街で出会った時に、ご飯を作ってあげる約束をしたのだが、「寄ってく?」の一言が言えずに、なぜかずーっと玄関での受け渡し。
今の関係を壊すことが怖くて、今一歩踏み出せないみつ子に、「A」は「大丈夫ですよ。多田さんはあなたのこときっと好きです。本人に直接訊いてみたらどうですか」と言うのだが、いまいち踏ん切りがつかない。
その後距離を縮めることには成功したが、それでも不安は拭えない。
みつ子は気分転換にと、イタリアに嫁いだ親友の皐月(橋本愛)を訪ねる旅に出るのだが・・・・
食べ物の描写が多くて、やたら腹の減る映画だった。
のんさん演じる主人公のみつ子に感情移入しまくりで、むっちゃ愛おしい。
そうだよなー、お一人さまライフが長くなり過ぎると、人生の次のステージが目に前に広がってても、もう現状を変えるのが怖くなっちゃうのだよ。
みつ子とは性別も年齢も全く違うのに、不思議と彼女のことが「私」だと感じる。
これは「勝手にふるえてろ」や「甘いお酒でうがい」でもそうだったので、この共感力は綿谷りさ、あるいは大九明子の作家性なのかもしれない。
映画は、中村倫也演じる心の声「A」とみつ子の掛け合いで進んでゆくのだが、この辺りの作りは、スカーレット・ヨハンソン演じる声だけのAIとの恋を描いた、「her/世界でひとつの彼女」を思わせる。
「A」はもう一人のみつ子であるのと同時に、彼女のことを客観的に見て助言をくれる相談役でもあり、寂しい時には寄り添ってくれる友達でもある。
子供の頃にイマジナリー・フレンドがいた人は沢山いるだろうが、大人になってこう言う存在を持つ人は珍しい。
どちらかと言うと、「勝手にふるえてろ」の主人公の様に“理想の自分”で妄想する人の方が多いと思うのだが、この辺りもみつ子の持つ微妙な幼児性の発露なのかも。
ぶっちゃけ、側から見てるとずーっと独り言いってるかなり危ない人だ(笑
お一人さま歴が長い女性が、仕事関係の後輩の男の子に恋してしまうのは、大九監督の前作「甘いお酒でうがい」と共通の展開。
歳の差に遠慮しつつ、ついついときめいてしまう艶っぽさも同じだ。
ただ本作のみつ子は、あの映画で松雪泰子が演じた主人公の中年女性、川嶋佳子よりもずっと若い。
常に穏やかで自然体の佳子は、恋の予感を感じつつも一夜のアバンチュールを楽しんだり、自分の心に正直に、あるがままを受け入れるスタンスだったが、一回り以上若いのんさんは自分の現状に激しく葛藤を繰り返している。
佳子の境地には、まだまだ達してないんだが、その青さがまたドラマチックだ。
声だけの「A」との会話が中心であることからも分かるように、基本会話劇であって声の映画。
ゆえに全編にわたって音がいく重にもミックスされ、凝った音響演出が施されている。
初めて「A」と会話を交わす時、声の主が男性なこともあり、一瞬誰かみつ子の隣にいるのかと錯覚させ、やがて「ああ、これは心の声」なんだと納得させる工夫。
時には、音がヴィジュアルに影響を与えることも。
飛行機が大の苦手なみつ子が、イタリア行きの機中で、気持ちを落ち着かせようと大瀧詠一を聴いてて、歌詞がドラえもんのコエカタマリンみたいに飛び出してくる演出は、未見性があって面白かった。
音が視覚をも巻き込み、それによって主人公の心象が細かく語られてゆくのが、本作のストーリーテリングの大きな特徴だ。
心象表現では中盤のある部分、寒色の世界でみつ子が一人の働く女性として、思いっきり溜め込んでいた毒を吐き出すのは凄かった。
ある意味、あれも共感力なんだが舞台シーンは原作にもあるのだろうか?
大九明子監督は元芸人さんだから、もしかしてあのエピソードは実話で、作家本人の経験的思いの丈を吐露したのかと思わされるくらい、あの後の心情の吐露は迫真に迫っていた。
そしてイタリアに渡ったみつ子が、ずっと会ってなかった親友の皐月と再会を果たすシークエンスは、橋本愛とのんさんのツーショット、もうそれだけで眼福である。
撮影がコロナ禍にかかってしまったため、ロケ隊が実際にローマへは行けず、現地のカメラマンとリモートで撮影したそうだが、最終的な映像は全く自然で苦労は報われていたのではないか。
このシークエンスのみつ子と皐月は、学生時代までは似たような人生を歩んでいたはずなのに、今はあらゆる部分で正反対。
かたや東京に暮らし恋に恋するお一人さまで、かたや国際結婚して世界の反対側に住み、もうすぐお母さんになる妊婦さん。
どちらもそれなりに幸せだが、小さな“後悔”も心にある、いわばお互いの中に自分の”もしもの人生”を見る関係だ。
この旅行のシークエンスでは「A」が登場しないのも、リアルな鏡像としての皐月がいるからだろう。
「あまちゃん」からの7年間を隠し味に、キャラクターを掘り下げると言う意味で、含みのある良いエピソードになっていた。
皐月との再会を大きな糧として、臼田あさみが好演する先輩のノゾミさんの恋愛成就も、みつ子の背中を力強く押す。
足掻いて、叫んで、葛藤して、みつ子はようやく足踏み状態の人生を一歩前へ進めるのである。
人と関わることには、一定の努力と痛みが必要で、それは実は気楽なお一人さまライフよりも苦しかったりする。
でもだからこそ見られる、新しい景色がきっとあるに違いない。
「A」と共に巡るセルフ脳内冒険の旅は終わりを告げ、今度はお二人さまでの旅が待っている。
不器用だけど一生懸命なみつ子には、明日を生きる元気をもらった。
心の宝石箱にしまっておきたくなる、珠玉の傑作だ。
今回はもちろん、甘酸っぱい恋の味「リモンチェッロ」をチョイス。
元々は家庭で作られていたレモン皮ベースのリキュールだが、スッキリしていて食欲の増進効果もあるという。
私はキンキンに冷やしてスパークリングウォーターで割るのが好き。
映画に出てきたブーツの形のボトルは、各社から出ていてお土産として人気があるようだが、わざわざイタリアから送るなら、もっとでっかいボトルの方がいいのでは。
でもオシャレだから許す。

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2020年12月20日 (日) | 編集 |
フェイクが世界を覆い尽くす。
「バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生」で初登場したDCエクステンデッド・ユニバースのスーパーヒーロー、ワンダーウーマン ことダイアナ・プリンスの活躍を描くシリーズ第二弾。
初単体作品の前作は第一次世界大戦が舞台だったが、今回はグッと時代が進んで70年後の1984年。
古代から伝わる、願い事を叶えてくれる謎の石の存在が引き金になって、人間の果てしない欲望が世界が大混乱に陥れる。
ガル・ガドット当たり役となったダイアナを演じ、死んだはずの恋人、スティーブ・トレバー役のクリス・ペインもなぜか再登場。
前作で、「モンスター」以来14年ぶりの復活を果たしたパティ・ジェンキンスが、引き続き監督と共同脚本を務める。
※核心部分に触れています。
スミソニアン博物館で働く考古学者、ダイアナ・プリンス(ガル・ガドット)は、人知れずワンダーウーマンとして人々を助けている。
ある日、石油ベンチャーを率いるマックスウェル・“マックス”・ロード(ペドロ・パスカル)が、博物館のスポンサーとして名乗りをあげる。
彼の案内役を任されたのは、新人研究員のバーバラ・ミネルヴァ(クリスティン・ウィグ)だったが、二人は意気投合。
ちょうどバーバラがFBIから鑑定を依頼されていた盗品の石に興味を示したマックスは、石を借り受ける。
実はこの石は邪悪な古代の神が残したもので、石を手にした者の願いを一つだけ叶え、代わりに何かを奪い取る。
もともと石を探していたマックスは、石を握り締め「お前になりたい」と願う。
石の魔力を自分のものにしたマックスは、どす黒い野望を心に秘めていた・・・・
ヴィランがトランプ過ぎて笑った。
予告編の時点で「若い頃のトランプに似てるなー」と思っていたのだが、なるほどこれ本来は6月5日の公開予定だったから、大統領選挙にぶつける気満々の作品だったのだな。
ペドロ・パスカルが演じる、本作のトランプもどき、マックス・ロードは、いわば「アラジン」のジーニーの悪者バージョンだ。
人々の願いを一つだけ叶え、かわりに一番大切なものを奪い取る。
元々は太古の邪悪な神が残した石だったのだが、欲望に取り憑かれたマックスが、石の力を無限に使うあるアイディアを思いつく。
それは、自らが“石になりたい”と願うこと。
彼自身が石の力を持てば、誰かの願いを叶えることで、欲しいものがいくらでも手に入る。
例えば石油王が自分の国を欲しいと言えば、その願いを叶える代償に石油を、大統領がたくさんの核兵器が欲しいと願えば、かわりに大統領権限を奪う。
当然、相反する願いも沢山ある訳で、マックスが人の願いを叶え力を得れば得るほど欲望がぶつかり合って世界はカオスに堕ちてゆく。
今回は、この事態を収集するのがワンダーウーマン=ダイアナの使命。
ところが、石がマックスと同化する前、ダイアナも石の正体を知らずに、本当に取り戻したかったあることを願い、代償としてスーパーパワーを失ってしまう。
前作で死んだはずの恋人、スティーブ・トレバーが再登場した謎もこれで解けた。
だが、そうして手に入れた望みは、所詮ジーニーの魔法が作り出す虚像であり、かりそめのフェイクに過ぎない。
要するに、四年前プアホワイトの願いを叶えるといって当選したトランプに「アンタはインチキを餌にする詐欺師だ」と言ってるワケ。
ちなみに1984年当時、トランプは38歳で、彼の代名詞とも言えるニューヨークのトランプタワーが落成したばかりだった。
しかし、本作のマックスが貧しい移民の子だったと設定されているのは、もともと金持ちの息子で、移民を敵視するトランプとは対照的。
地毛が金髪でないことも示唆されているので、コンプレックスからくる虚栄心を満たしていた結果、トランプルックになったということなのだろう。
本作ではマックスの他にも、スミソニアン博物館で働くダイアナの同僚、バーバラ・ミネルヴァが石の力によってワンダーウーマンと同等の力を持つヴィラン、“チーター”となる。
クリスティン・ウィグが好演するこの人物は、優しく親切だが自分に自身が持てない地味キャラ。
彼女は輝いて見える同僚ダイアナに魅せられ、思わず「彼女になりたい」と願ったことで、図らずも超人となるも、本来の善良さを失ってしまうのだ。
二人のヴィランが悪に堕ちる動機が、どちらもコンプレックスからだったというのは象徴的。
フェイクが世界を滅ぼす前に、全てを元に戻すには、皆が「願いをキャンセルする」しかない。
前作同様にスティーブとのラブストーリーが隠し味になってるのだが、この設定が効いてくる。
この美しい世界を守るため、ダイアナが下す悲しすぎる決断が切ない。
そりゃ同じ喪失を二度も繰り返したら、恋も出来なくなるわな。
もちろん、ガル・ガドットはめっちゃカッコいいし、サスケみたいなアマゾン族の競技会を描く冒頭から、本来のヒーロー活劇としての見せ場は満載。
そもそもの混乱の原因が“古代の魔法”なので、ファンタジー色が強く、第一次世界大戦という現実の戦争を舞台としていた前作に対して、リアリティラインもかなり低い。
だがもともとダイアナ自身がギリシャ神話にルーツを持つ女神様なので、このくらいの大らかさがちょうどいいと思う。
スーパーヒーローは一人では世界を救うことは出来ず、最後は人類の善性に賭けるという流れも、「ダークナイト」に通じるDCの王道なのかも。
アンチトランプの政治映画でもあり、頭空っぽにして楽しめるファンタジーアクションでもある、二面性が本作の特徴だ。
スティーブのアドバイスでダイアナは飛行能力まで獲得してしまい、ますますスーパーマン化が進んだのは、スーパーマンやキャプテンマーベル同様に、物語に枷が作りにくい懸念材料だが、安定の面白さは、問題児の多いDCEUの優等生。
10年代、80年代ときて、次あたりはいよいよ現代かな。
今回は、主人公と同じ名を持つカクテル「ダイアナ」をチョイス。
クレーム・ド・ミント・ホワイト45mlをたっぷり氷を入れたグラスに流し入れ、ブランデー15mlをそっとフロートさせる。
清涼感のあるミント・ホワイトに、コクのあるブランデーを加えることで、スッキリまろやかな味わいの飲みやすいカクテルになっている。
2種類の材料だけのシンプルな作りなので、比率は様々なレシピが存在するが私的にはこのぐらいブランデーが濃いのが好み。
ところで、この一ヶ月くらいで「Mank /マンク」「シカゴ7裁判」そして本作と、今年の大統領選挙にぶつける企画ものを3本も観た。
結果的にコロナで全部間に合わなかったのだが、ここまで露骨にハリウッドに嫌われる現職大統領って初めてかも。
不人気だったブッシュJr.でもまだ扱いはマシだった。
本作に至ってはアメコミヒーローもののヴィランだからな。
もちろんトランプって名前じゃないけど、誰が見てもトランプにしか見えない。
サノス並みの嫌われキャラって、ある意味凄い(笑
あ、エンドクレジットの途中にオールドファンには嬉しいオマケがあるので、すぐ席を立たないように。
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「バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生」で初登場したDCエクステンデッド・ユニバースのスーパーヒーロー、ワンダーウーマン ことダイアナ・プリンスの活躍を描くシリーズ第二弾。
初単体作品の前作は第一次世界大戦が舞台だったが、今回はグッと時代が進んで70年後の1984年。
古代から伝わる、願い事を叶えてくれる謎の石の存在が引き金になって、人間の果てしない欲望が世界が大混乱に陥れる。
ガル・ガドット当たり役となったダイアナを演じ、死んだはずの恋人、スティーブ・トレバー役のクリス・ペインもなぜか再登場。
前作で、「モンスター」以来14年ぶりの復活を果たしたパティ・ジェンキンスが、引き続き監督と共同脚本を務める。
※核心部分に触れています。
スミソニアン博物館で働く考古学者、ダイアナ・プリンス(ガル・ガドット)は、人知れずワンダーウーマンとして人々を助けている。
ある日、石油ベンチャーを率いるマックスウェル・“マックス”・ロード(ペドロ・パスカル)が、博物館のスポンサーとして名乗りをあげる。
彼の案内役を任されたのは、新人研究員のバーバラ・ミネルヴァ(クリスティン・ウィグ)だったが、二人は意気投合。
ちょうどバーバラがFBIから鑑定を依頼されていた盗品の石に興味を示したマックスは、石を借り受ける。
実はこの石は邪悪な古代の神が残したもので、石を手にした者の願いを一つだけ叶え、代わりに何かを奪い取る。
もともと石を探していたマックスは、石を握り締め「お前になりたい」と願う。
石の魔力を自分のものにしたマックスは、どす黒い野望を心に秘めていた・・・・
ヴィランがトランプ過ぎて笑った。
予告編の時点で「若い頃のトランプに似てるなー」と思っていたのだが、なるほどこれ本来は6月5日の公開予定だったから、大統領選挙にぶつける気満々の作品だったのだな。
ペドロ・パスカルが演じる、本作のトランプもどき、マックス・ロードは、いわば「アラジン」のジーニーの悪者バージョンだ。
人々の願いを一つだけ叶え、かわりに一番大切なものを奪い取る。
元々は太古の邪悪な神が残した石だったのだが、欲望に取り憑かれたマックスが、石の力を無限に使うあるアイディアを思いつく。
それは、自らが“石になりたい”と願うこと。
彼自身が石の力を持てば、誰かの願いを叶えることで、欲しいものがいくらでも手に入る。
例えば石油王が自分の国を欲しいと言えば、その願いを叶える代償に石油を、大統領がたくさんの核兵器が欲しいと願えば、かわりに大統領権限を奪う。
当然、相反する願いも沢山ある訳で、マックスが人の願いを叶え力を得れば得るほど欲望がぶつかり合って世界はカオスに堕ちてゆく。
今回は、この事態を収集するのがワンダーウーマン=ダイアナの使命。
ところが、石がマックスと同化する前、ダイアナも石の正体を知らずに、本当に取り戻したかったあることを願い、代償としてスーパーパワーを失ってしまう。
前作で死んだはずの恋人、スティーブ・トレバーが再登場した謎もこれで解けた。
だが、そうして手に入れた望みは、所詮ジーニーの魔法が作り出す虚像であり、かりそめのフェイクに過ぎない。
要するに、四年前プアホワイトの願いを叶えるといって当選したトランプに「アンタはインチキを餌にする詐欺師だ」と言ってるワケ。
ちなみに1984年当時、トランプは38歳で、彼の代名詞とも言えるニューヨークのトランプタワーが落成したばかりだった。
しかし、本作のマックスが貧しい移民の子だったと設定されているのは、もともと金持ちの息子で、移民を敵視するトランプとは対照的。
地毛が金髪でないことも示唆されているので、コンプレックスからくる虚栄心を満たしていた結果、トランプルックになったということなのだろう。
本作ではマックスの他にも、スミソニアン博物館で働くダイアナの同僚、バーバラ・ミネルヴァが石の力によってワンダーウーマンと同等の力を持つヴィラン、“チーター”となる。
クリスティン・ウィグが好演するこの人物は、優しく親切だが自分に自身が持てない地味キャラ。
彼女は輝いて見える同僚ダイアナに魅せられ、思わず「彼女になりたい」と願ったことで、図らずも超人となるも、本来の善良さを失ってしまうのだ。
二人のヴィランが悪に堕ちる動機が、どちらもコンプレックスからだったというのは象徴的。
フェイクが世界を滅ぼす前に、全てを元に戻すには、皆が「願いをキャンセルする」しかない。
前作同様にスティーブとのラブストーリーが隠し味になってるのだが、この設定が効いてくる。
この美しい世界を守るため、ダイアナが下す悲しすぎる決断が切ない。
そりゃ同じ喪失を二度も繰り返したら、恋も出来なくなるわな。
もちろん、ガル・ガドットはめっちゃカッコいいし、サスケみたいなアマゾン族の競技会を描く冒頭から、本来のヒーロー活劇としての見せ場は満載。
そもそもの混乱の原因が“古代の魔法”なので、ファンタジー色が強く、第一次世界大戦という現実の戦争を舞台としていた前作に対して、リアリティラインもかなり低い。
だがもともとダイアナ自身がギリシャ神話にルーツを持つ女神様なので、このくらいの大らかさがちょうどいいと思う。
スーパーヒーローは一人では世界を救うことは出来ず、最後は人類の善性に賭けるという流れも、「ダークナイト」に通じるDCの王道なのかも。
アンチトランプの政治映画でもあり、頭空っぽにして楽しめるファンタジーアクションでもある、二面性が本作の特徴だ。
スティーブのアドバイスでダイアナは飛行能力まで獲得してしまい、ますますスーパーマン化が進んだのは、スーパーマンやキャプテンマーベル同様に、物語に枷が作りにくい懸念材料だが、安定の面白さは、問題児の多いDCEUの優等生。
10年代、80年代ときて、次あたりはいよいよ現代かな。
今回は、主人公と同じ名を持つカクテル「ダイアナ」をチョイス。
クレーム・ド・ミント・ホワイト45mlをたっぷり氷を入れたグラスに流し入れ、ブランデー15mlをそっとフロートさせる。
清涼感のあるミント・ホワイトに、コクのあるブランデーを加えることで、スッキリまろやかな味わいの飲みやすいカクテルになっている。
2種類の材料だけのシンプルな作りなので、比率は様々なレシピが存在するが私的にはこのぐらいブランデーが濃いのが好み。
ところで、この一ヶ月くらいで「Mank /マンク」「シカゴ7裁判」そして本作と、今年の大統領選挙にぶつける企画ものを3本も観た。
結果的にコロナで全部間に合わなかったのだが、ここまで露骨にハリウッドに嫌われる現職大統領って初めてかも。
不人気だったブッシュJr.でもまだ扱いはマシだった。
本作に至ってはアメコミヒーローもののヴィランだからな。
もちろんトランプって名前じゃないけど、誰が見てもトランプにしか見えない。
サノス並みの嫌われキャラって、ある意味凄い(笑
あ、エンドクレジットの途中にオールドファンには嬉しいオマケがあるので、すぐ席を立たないように。

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2020年12月19日 (土) | 編集 |
負け犬、最後の意地。
「百円の恋」の監督・武正晴、脚本・足立紳コンビによる、ボクシング映画の新たな金字塔。
一発のパンチで日本チャンピオンを逃し、輝けなくなったベテランボクサーと、過去の罪を引きずる若きライジングスター、TVの番組企画でプロライセンスを取得した笑えないお笑い芸人、三人のプロボクサーの物語。
物語の軸となる元日本ランク1位の末永晃に森山未來、彼に憧れる新人ボクサーの大村龍太に北村匠海、お笑い芸人の宮木瞬を勝地涼が演じる。
前後編合わせて4時間36分に及ぶ大長編だが、完全な続きものなので間違っても後篇だけ先観ちゃうとかしないように。
前編・後編を二作続けて観ないと意味がない。
ABEMAプレミアムでの配信が前提となっていて、そちらは再構成され全8話となるそうだ。
プロボクサーの末永晃(森山未來)は、かつては日本ランク1位にまでなった元スター選手。
だがチャンピオンを賭けた試合で劇的なKO負けを喫して以来、不遇の生活を送っている。
妻の佳子(水川あさみ)と息子の太郎(市川陽夏)とは別居し、ずるずると続けているボクシングでは、噛ませ犬状態。
普段は幼馴染の木田五郎(二ノ宮隆太郎)が経営するデリヘルで、運転手として働いて食いつないでいる。
近所のジムに通うプロ志望の大村龍太(北村匠海)には慕われているが、練習にも身が入らない日々。
大村のプロテストと同じ日、お笑い芸人の宮木瞬(勝地涼)が番組企画でテストを受けて合格。
テレビ放送される、4ラウンドのエキシビションマッチの話が持ち込まれる。
自暴自棄になっていた末永は、“引退試合”として金のためにオファーを受けるのだが、それは末永を更なるどん底へと突き落とす悪魔の誘いだった・・・・
ボクシングが題材で配信前提の前後編というと、寺山修司の小説を岸善幸が映画化した「あゝ、荒野」が記憶に新しい。
しかし題材が同じでも、両作のアプローチは全く異なる。
オリンピック後の近未来を舞台とし、きわめて社会性の強かったあの映画に対して、こちらはあくまでもパーソナルな闘う理由に拘った作り。
これは”終わらせ方”に関する物語で、主人公の末永はタイトル戦を落とした後も、ずるずるとボクシングを続け、いつに間にかロートルの“アンダードッグ=噛ませ犬”に身を落としている。
明日をも知れぬ生活を送り、妻にはとっくに見捨てられていて別居状態。
息子の太郎だけは、ダメダメな父親の昔のビデオを見て、「すごい」と言ってくれるので、彼の期待には少しでも応えたいと思っている。
でも、いいところを見せようと足掻けばあがくだけ空回り。
末永には、もはや自分が何のためにボクシングを続けているのかも、どう終わらせていいのかも分からないのだ。
そんなドン詰まりの主人公の葛藤に、前後編で異なる理由で彼と戦うことになる二人の若者が、解決のためのヒントをくれる。
前編のクライマックスとなるのは、お笑い芸人の宮木瞬とのエキシビションマッチだ。
もともと売れない芸人の、苦し紛れの一発芸。
いくら過去の人とは言え、実戦で元日本ランク1位とまともに闘えるとは、誰も思っていない。
末永は番組のために宮木に見せ場を作るという八百長行為を受け入れるのだが、チャラけた企画の裏で宮木は人知れず死に物狂いの努力を重ねているのだ。
いざエキシビションマッチが始まると、末永は何度もダウンしてもその都度起き上がり、鬼の形相でかかってくる宮木をKOすることが出来ない。
見せ場を作ってやるどころか、危うく自分がKOされそうになってしまうのだ。
芸人としての才能のなさを痛感していた宮木は、この試合を最後に芸人引退を決めていて、”最後まで立っている”ことにすべてをかけている。
好きなものをやめることの難しさ、自分をどう納得させるのかはボクシングに限った話じゃないが、その覚悟を決めた宮木を末永はなめていたのである。
映画の前編は閉塞する末永、駆け上がる大村、覚悟を決めた宮木、三人のボクサーの生きざまを縦糸として進み、後篇になると今度は末永の周りにいる人たちのエピソードが横糸として描かれてゆく。
この映画に出てくる人物は、全員が何かを終わらせることを迫られている。
ボクシングの咬ませ犬だけでは当然食えないので、末永は普段幼馴染の木田五郎が経営しているデリヘルで運転手をしているのだが、近所に出来た競合店に女の子を引き抜かれ、経営的にはもはや風前の灯。
彼はいつ、どうやって店を閉めるかをずっと迷っている。
瀧内公美が演じるデリヘル嬢の明美は、男運に恵まれずDV男に暴力を振るわれているが、自分もイライラをつのらせて幼い娘に手を出してしまっている。
彼女は、いつかわが子を殺してしまうのではないかと恐れ、いかにして今の生活を終わらせるかを悩んでいる。
また明美の客である田淵は、過去のある事件によって車椅子となり、引きこもり生活。
彼は自分をこんな体にした者を呪い、復讐を終わらせなければならないと思っている。
彼らに共通するのは、全員が負け犬のようなクソみたいな人生を送っているのに、心のどこかで終わらせるのを恐れていること。
ボクシングだろうが、デリヘルだろうが、それが日常になってしまったら、日常を失うのは不安で恐ろしい。
それが僅かでも好きなことであれば、諦めるのはなおさら辛いのだ。
そして、物語の横糸がだんだんと縦糸と絡み合って繋がってゆき、プロデビュー後にライジングスターとなっていた大村にも、思わぬ形で終わりがくる。
因果応報の形でボクサーとしては致命的な負傷をし、あと1試合しかできなくなった大村は、自分の引退試合の相手に、ボクシングを始めるきっかけとなった末永を指名する。
前編のVS宮木戦が素晴らしい出来だったので、はたしてあれを超えられるのか?と疑問だったのだが、ボクシングというよりも喧嘩に近かった泥臭い宮木戦とは対照的な、退路を断ったプロ同士の素晴らしく熱血な死闘が展開する。
いやもちろん演技なんだけど、演出の助けがあればここまで肉体に説得力を持たせられる役者ってスゲーなと素直に思わされる。
数あるスポーツ映画の中でも、ボクシング映画には名作が多いが、本作のファイトシーンは特に熱く、手に汗握ってしまった。
このクライマックスは、それぞれの理由でどん底まで転落した人々が、復活へむけて歩み出す象徴として描かれていて、ダメダメだけど足掻き続ける人間たちに対するディープな愛情と、ドンと背中を押すようなパワフルなエールがスクリーンから迸る。
そしてやっぱり、本当に好きなものから完全に足を洗うのは難しい。
後編のエンドクレジット中のあるシーンは、そのことを端的に表現しているのだが、山を乗り越える前と後では、再チャレンジの意味も違ってくる。
諦めの悪い負け犬たちのドラマを堪能するためにも、本作は前編の熱気が冷めないうちに後編を鑑賞して欲しい。
今回は、小山本家酒造の「丸眞正宗 純米吟醸」をチョイス。
東京23区内に唯一残った酒蔵、北区赤羽の小山酒造が醸造していた江戸っ子の銘柄だったのだが、2018年に惜しまれつつ廃業。
その後、親戚筋にあたる埼玉の小山本家酒造が引き継いだ
庶民の酒だけあって、コスパも高く辛口でさっぱりとした飽きのこない味わい。
適度な吟醸香と米の旨みも感じられ、とても飲みやすい。
赤羽のおでん屋、丸健水産にはこのワンカップを、おでん汁で割った有名なメニューもある。
冷えた体を温めるにはピッタリの一杯だ。
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「百円の恋」の監督・武正晴、脚本・足立紳コンビによる、ボクシング映画の新たな金字塔。
一発のパンチで日本チャンピオンを逃し、輝けなくなったベテランボクサーと、過去の罪を引きずる若きライジングスター、TVの番組企画でプロライセンスを取得した笑えないお笑い芸人、三人のプロボクサーの物語。
物語の軸となる元日本ランク1位の末永晃に森山未來、彼に憧れる新人ボクサーの大村龍太に北村匠海、お笑い芸人の宮木瞬を勝地涼が演じる。
前後編合わせて4時間36分に及ぶ大長編だが、完全な続きものなので間違っても後篇だけ先観ちゃうとかしないように。
前編・後編を二作続けて観ないと意味がない。
ABEMAプレミアムでの配信が前提となっていて、そちらは再構成され全8話となるそうだ。
プロボクサーの末永晃(森山未來)は、かつては日本ランク1位にまでなった元スター選手。
だがチャンピオンを賭けた試合で劇的なKO負けを喫して以来、不遇の生活を送っている。
妻の佳子(水川あさみ)と息子の太郎(市川陽夏)とは別居し、ずるずると続けているボクシングでは、噛ませ犬状態。
普段は幼馴染の木田五郎(二ノ宮隆太郎)が経営するデリヘルで、運転手として働いて食いつないでいる。
近所のジムに通うプロ志望の大村龍太(北村匠海)には慕われているが、練習にも身が入らない日々。
大村のプロテストと同じ日、お笑い芸人の宮木瞬(勝地涼)が番組企画でテストを受けて合格。
テレビ放送される、4ラウンドのエキシビションマッチの話が持ち込まれる。
自暴自棄になっていた末永は、“引退試合”として金のためにオファーを受けるのだが、それは末永を更なるどん底へと突き落とす悪魔の誘いだった・・・・
ボクシングが題材で配信前提の前後編というと、寺山修司の小説を岸善幸が映画化した「あゝ、荒野」が記憶に新しい。
しかし題材が同じでも、両作のアプローチは全く異なる。
オリンピック後の近未来を舞台とし、きわめて社会性の強かったあの映画に対して、こちらはあくまでもパーソナルな闘う理由に拘った作り。
これは”終わらせ方”に関する物語で、主人公の末永はタイトル戦を落とした後も、ずるずるとボクシングを続け、いつに間にかロートルの“アンダードッグ=噛ませ犬”に身を落としている。
明日をも知れぬ生活を送り、妻にはとっくに見捨てられていて別居状態。
息子の太郎だけは、ダメダメな父親の昔のビデオを見て、「すごい」と言ってくれるので、彼の期待には少しでも応えたいと思っている。
でも、いいところを見せようと足掻けばあがくだけ空回り。
末永には、もはや自分が何のためにボクシングを続けているのかも、どう終わらせていいのかも分からないのだ。
そんなドン詰まりの主人公の葛藤に、前後編で異なる理由で彼と戦うことになる二人の若者が、解決のためのヒントをくれる。
前編のクライマックスとなるのは、お笑い芸人の宮木瞬とのエキシビションマッチだ。
もともと売れない芸人の、苦し紛れの一発芸。
いくら過去の人とは言え、実戦で元日本ランク1位とまともに闘えるとは、誰も思っていない。
末永は番組のために宮木に見せ場を作るという八百長行為を受け入れるのだが、チャラけた企画の裏で宮木は人知れず死に物狂いの努力を重ねているのだ。
いざエキシビションマッチが始まると、末永は何度もダウンしてもその都度起き上がり、鬼の形相でかかってくる宮木をKOすることが出来ない。
見せ場を作ってやるどころか、危うく自分がKOされそうになってしまうのだ。
芸人としての才能のなさを痛感していた宮木は、この試合を最後に芸人引退を決めていて、”最後まで立っている”ことにすべてをかけている。
好きなものをやめることの難しさ、自分をどう納得させるのかはボクシングに限った話じゃないが、その覚悟を決めた宮木を末永はなめていたのである。
映画の前編は閉塞する末永、駆け上がる大村、覚悟を決めた宮木、三人のボクサーの生きざまを縦糸として進み、後篇になると今度は末永の周りにいる人たちのエピソードが横糸として描かれてゆく。
この映画に出てくる人物は、全員が何かを終わらせることを迫られている。
ボクシングの咬ませ犬だけでは当然食えないので、末永は普段幼馴染の木田五郎が経営しているデリヘルで運転手をしているのだが、近所に出来た競合店に女の子を引き抜かれ、経営的にはもはや風前の灯。
彼はいつ、どうやって店を閉めるかをずっと迷っている。
瀧内公美が演じるデリヘル嬢の明美は、男運に恵まれずDV男に暴力を振るわれているが、自分もイライラをつのらせて幼い娘に手を出してしまっている。
彼女は、いつかわが子を殺してしまうのではないかと恐れ、いかにして今の生活を終わらせるかを悩んでいる。
また明美の客である田淵は、過去のある事件によって車椅子となり、引きこもり生活。
彼は自分をこんな体にした者を呪い、復讐を終わらせなければならないと思っている。
彼らに共通するのは、全員が負け犬のようなクソみたいな人生を送っているのに、心のどこかで終わらせるのを恐れていること。
ボクシングだろうが、デリヘルだろうが、それが日常になってしまったら、日常を失うのは不安で恐ろしい。
それが僅かでも好きなことであれば、諦めるのはなおさら辛いのだ。
そして、物語の横糸がだんだんと縦糸と絡み合って繋がってゆき、プロデビュー後にライジングスターとなっていた大村にも、思わぬ形で終わりがくる。
因果応報の形でボクサーとしては致命的な負傷をし、あと1試合しかできなくなった大村は、自分の引退試合の相手に、ボクシングを始めるきっかけとなった末永を指名する。
前編のVS宮木戦が素晴らしい出来だったので、はたしてあれを超えられるのか?と疑問だったのだが、ボクシングというよりも喧嘩に近かった泥臭い宮木戦とは対照的な、退路を断ったプロ同士の素晴らしく熱血な死闘が展開する。
いやもちろん演技なんだけど、演出の助けがあればここまで肉体に説得力を持たせられる役者ってスゲーなと素直に思わされる。
数あるスポーツ映画の中でも、ボクシング映画には名作が多いが、本作のファイトシーンは特に熱く、手に汗握ってしまった。
このクライマックスは、それぞれの理由でどん底まで転落した人々が、復活へむけて歩み出す象徴として描かれていて、ダメダメだけど足掻き続ける人間たちに対するディープな愛情と、ドンと背中を押すようなパワフルなエールがスクリーンから迸る。
そしてやっぱり、本当に好きなものから完全に足を洗うのは難しい。
後編のエンドクレジット中のあるシーンは、そのことを端的に表現しているのだが、山を乗り越える前と後では、再チャレンジの意味も違ってくる。
諦めの悪い負け犬たちのドラマを堪能するためにも、本作は前編の熱気が冷めないうちに後編を鑑賞して欲しい。
今回は、小山本家酒造の「丸眞正宗 純米吟醸」をチョイス。
東京23区内に唯一残った酒蔵、北区赤羽の小山酒造が醸造していた江戸っ子の銘柄だったのだが、2018年に惜しまれつつ廃業。
その後、親戚筋にあたる埼玉の小山本家酒造が引き継いだ
庶民の酒だけあって、コスパも高く辛口でさっぱりとした飽きのこない味わい。
適度な吟醸香と米の旨みも感じられ、とても飲みやすい。
赤羽のおでん屋、丸健水産にはこのワンカップを、おでん汁で割った有名なメニューもある。
冷えた体を温めるにはピッタリの一杯だ。

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2020年12月14日 (月) | 編集 |
振り返って、わたしを見て。
まだ写真技術が無く、未婚女性の旅行が良しとされなかった時代、名家同士の遠隔お見合い成立の決め手は肖像画だった。
会ったこともない結婚相手を決めるのだから、肖像画はひと目見てその人となりを理解できるよう、モデルとなる人間の本質を捉えていなければならない。
とある島の館に住む美しい娘、エロイーズの肖像画を描くため、本土から画家のマリアンヌがやってくる。
ところがエロイーズは結婚を拒んでいて、誰にも肖像画を描かせない。
奇妙な出合い方をした画家とモデルは、やがて一生で一度だけの恋におちる。
監督は、「ぼくの名前はズッキーニ」の脚本で、セザール賞に輝いたセリーヌ・シアマ。
彼女の監督デビュー作、「水の中のつぼみ」にも出演したアデル・エネルがエロイーズを、ノエミ・メルランがマリアンヌを演じる。
昨年のカンヌ国際映画祭で、脚本賞とLGBTモチーフの作品に贈られるクィア・パルムの二冠を獲得した話題作だ。
18世紀末のフランス。
女性たちに絵画を教えているマリアンヌ(ノエミ・メルラン)のアトリアには、火の付いたドレスを着た女性を描いた、不思議な肖像画がある。
生徒に作品のタイトルを聞かれたマリアンヌは、「燃ゆる女の肖像」と答える。
数年前のこと、マリアンヌはブルターニュ半島の外れにある孤島を訪れた。
島の館に住むエロイーズ(アデル・エネル)の肖像を描くためだ。
自殺した姉のかわりにエロイーズを結婚させるため、母親がそれまで暮らしていた修道院から呼び戻したのだが、彼女は結婚を望んでいないため、肖像画のモデルになることを拒否していた。
マリアンヌは母親に雇われた散歩の相手を装い、散歩中に彼女の特徴を捉えては密かに作業する。
やがて肖像画は完成するが、そこで初めてマリアンヌが画家だということを知ったエロイーズは、絵は自分の本質を捉えておらず、全く似ていないと指摘し、描き直すならマリアンヌの前でポーズをとると申し出る。
母親が本土から戻るまで、二人の人生を変える運命の5日間がはじまる・・・・・
映画は三幕構造の第一幕に1時間近くを費やし、対照的な境遇にあるエロイーズとマリアンヌの島での日常を描いてゆく。
名家の令嬢であるエロイーズの人生には、自由が全くない。
はっきりとした理由は定かではないが、結婚を目前とした姉が「ゆるして」と言い残して自殺し、母親はエロイーズも姉と同じ道を選ぶのではと警戒し、マリアンヌとの散歩以外は外出も禁じられている。
結婚相手すら、遠くイタリアのミラノにいるらしいことしか知らされていない。
一方、父親の仕事を継いで、自らも画家として手に職を持つマリアンヌは、呼ばれればどこへでも仕事に行くし、誰からも結婚を強要されることはない。
同世代の若い女性という以外、二人には全く共通点がないのだ。
もっともこの時代にあって、自由か否かというのはあくまでも相対的なもの。
誰であっても、女性が生きづらい時代であることは変わらない。
物語の終盤で、マリアンヌが自作を父の名前で発表していることが明らかになるが、繊細な時代感覚の表現が見て取れる。
物語が一気に動き出すのが、一枚目の肖像画が完成した時。
散歩中に記憶した断片をパズルのように繋ぎ合わせたその絵は、美しくはあるが表層的にしかエロイーズを捉えられていない。
そのことを本人から指摘された時、マリアンヌは画家としてのプライドを傷つけられ、衝動的に肖像画の顔を拭い去ってしまう。
そしてエロイーズ自身が、それまで拒んでいたモデルになると告げた瞬間、二人の間にある全てが変わりはじめる。
描き直しのタイムリミットまでの5日間、本土に向かった母親は不在となり、館に残されたのはエロイーズ、マリアンヌ、メイドのソフィーの三人の若い女性だけ。
全ての女性にとって、自由が特別な権利だった時代に、彼女たちは抑圧された精神を解放し、エロイーズとマリアンヌは人生で最初で最後の真剣な恋に落ちてゆく。
全体のモチーフになっているのが、ギリシャ神話のオルフェウス伝説だ。
ある夜、三人はオルフェウスとエウリュディケの物語を読む。
毒蛇に噛まれて死んだ妻エウリュディケを取り戻すため、冥府の神ハデスを訪れたオルフェウスは、「冥府から出るまでの間、決して後ろを振り返ってはならない」という条件付きで、二人で地上に戻ることを許される。
しかし、地上まであとわずかとなった時、オルフェウスはなぜか妻を振り返ってしまい、エウリュディケは再び冥府に連れ戻される。
なぜオルフェウスは、失うと知っていながらエウリュディケを見てしまったのか。
「愛ゆえの衝動」と考えたエロイーズに対し、マリアンヌは「彼は振り返って思い出を見た」と言う。
二人の異なる答えが、この映画の核心だ。
この映画では、オルフェウスがマリアンヌであり、エロイーズはエウリュディケだ。
本作は視線のドラマであり、お互いを見つめ合う画家とモデル双方の眼差しの交錯によって感情が語られ、物語が進んでゆく。
画家は永遠に残る記憶としての肖像画を描くためにモデルを見るが、モデルは今そこにいて自分を描いている画家を見ている。
二枚目の肖像画を描いている途中、マリアンヌは何度も白いドレスを着たエロイーズの幻影を目撃する。
そして母親が帰還し、肖像画を完成させたマリアンヌが島を離れる時、エロイーズを振り返ると、そこには幻影と全く同じ純白のウェディングドレス姿のエロイーズが立っていたのである。
絵が完成したら終わる恋だと分かっていても、エロイーズは今この一瞬を懸命に愛したのに対し、マリアンヌは初めから思い出としての彼女を見ていたのだ。
物語の終盤で、二人が別れた後、マリアンヌには二度再会の機会があったことが明かされる。
初めは美術展で、数年後のエロイーズとその子供を描いた肖像画を見つける。
絵の中のエロイーズは、28ページ目を少し開いた本を持っているのだが、これは別れの前日にマリアンヌが自画像を描き込んだページ。
ここで描かれるのは、文字通りに思い出との邂逅である。
二度目はコンサート会場で、マリアンヌは自分の向かい側の席に座るエロイーズに気づく。
思い出の曲が鳴り響く中、マリアンヌはエロイーズから目を離せないが、彼女は涙を流しながらも決してマリアンヌと目を合わせようとはしない。
5日間の恋はエロイーズの中ではまだ生きていて、振り向いてしまえば、本当に思い出になってしまうからだ。
どこまでもメロウで繊細で、まるで格調高い少女漫画のような世界観。
これ萩尾望都か山岸涼子で、コミカライズしてくれないだろうか。
バンデシネよりも、むしろピッタリだと思うのだが。
本作の舞台となるブルターニュ地方は、寒冷な気候でワイン用葡萄の耕作に適さないため、かわってビールやシールドの醸造が盛ん。
今回は、レ・セリエ・アソシエ社のシールド「ヴァル・ド・ランス ビオロジック」をチョイス。
ブルターニュ産の有機リンゴを使った、ほどよく中辛口のシールド。
アルコール度数は4%と比較的低く、一番搾りのフレッシュで甘酸っぱい味わいは、食前酒にピッタリだ。
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まだ写真技術が無く、未婚女性の旅行が良しとされなかった時代、名家同士の遠隔お見合い成立の決め手は肖像画だった。
会ったこともない結婚相手を決めるのだから、肖像画はひと目見てその人となりを理解できるよう、モデルとなる人間の本質を捉えていなければならない。
とある島の館に住む美しい娘、エロイーズの肖像画を描くため、本土から画家のマリアンヌがやってくる。
ところがエロイーズは結婚を拒んでいて、誰にも肖像画を描かせない。
奇妙な出合い方をした画家とモデルは、やがて一生で一度だけの恋におちる。
監督は、「ぼくの名前はズッキーニ」の脚本で、セザール賞に輝いたセリーヌ・シアマ。
彼女の監督デビュー作、「水の中のつぼみ」にも出演したアデル・エネルがエロイーズを、ノエミ・メルランがマリアンヌを演じる。
昨年のカンヌ国際映画祭で、脚本賞とLGBTモチーフの作品に贈られるクィア・パルムの二冠を獲得した話題作だ。
18世紀末のフランス。
女性たちに絵画を教えているマリアンヌ(ノエミ・メルラン)のアトリアには、火の付いたドレスを着た女性を描いた、不思議な肖像画がある。
生徒に作品のタイトルを聞かれたマリアンヌは、「燃ゆる女の肖像」と答える。
数年前のこと、マリアンヌはブルターニュ半島の外れにある孤島を訪れた。
島の館に住むエロイーズ(アデル・エネル)の肖像を描くためだ。
自殺した姉のかわりにエロイーズを結婚させるため、母親がそれまで暮らしていた修道院から呼び戻したのだが、彼女は結婚を望んでいないため、肖像画のモデルになることを拒否していた。
マリアンヌは母親に雇われた散歩の相手を装い、散歩中に彼女の特徴を捉えては密かに作業する。
やがて肖像画は完成するが、そこで初めてマリアンヌが画家だということを知ったエロイーズは、絵は自分の本質を捉えておらず、全く似ていないと指摘し、描き直すならマリアンヌの前でポーズをとると申し出る。
母親が本土から戻るまで、二人の人生を変える運命の5日間がはじまる・・・・・
映画は三幕構造の第一幕に1時間近くを費やし、対照的な境遇にあるエロイーズとマリアンヌの島での日常を描いてゆく。
名家の令嬢であるエロイーズの人生には、自由が全くない。
はっきりとした理由は定かではないが、結婚を目前とした姉が「ゆるして」と言い残して自殺し、母親はエロイーズも姉と同じ道を選ぶのではと警戒し、マリアンヌとの散歩以外は外出も禁じられている。
結婚相手すら、遠くイタリアのミラノにいるらしいことしか知らされていない。
一方、父親の仕事を継いで、自らも画家として手に職を持つマリアンヌは、呼ばれればどこへでも仕事に行くし、誰からも結婚を強要されることはない。
同世代の若い女性という以外、二人には全く共通点がないのだ。
もっともこの時代にあって、自由か否かというのはあくまでも相対的なもの。
誰であっても、女性が生きづらい時代であることは変わらない。
物語の終盤で、マリアンヌが自作を父の名前で発表していることが明らかになるが、繊細な時代感覚の表現が見て取れる。
物語が一気に動き出すのが、一枚目の肖像画が完成した時。
散歩中に記憶した断片をパズルのように繋ぎ合わせたその絵は、美しくはあるが表層的にしかエロイーズを捉えられていない。
そのことを本人から指摘された時、マリアンヌは画家としてのプライドを傷つけられ、衝動的に肖像画の顔を拭い去ってしまう。
そしてエロイーズ自身が、それまで拒んでいたモデルになると告げた瞬間、二人の間にある全てが変わりはじめる。
描き直しのタイムリミットまでの5日間、本土に向かった母親は不在となり、館に残されたのはエロイーズ、マリアンヌ、メイドのソフィーの三人の若い女性だけ。
全ての女性にとって、自由が特別な権利だった時代に、彼女たちは抑圧された精神を解放し、エロイーズとマリアンヌは人生で最初で最後の真剣な恋に落ちてゆく。
全体のモチーフになっているのが、ギリシャ神話のオルフェウス伝説だ。
ある夜、三人はオルフェウスとエウリュディケの物語を読む。
毒蛇に噛まれて死んだ妻エウリュディケを取り戻すため、冥府の神ハデスを訪れたオルフェウスは、「冥府から出るまでの間、決して後ろを振り返ってはならない」という条件付きで、二人で地上に戻ることを許される。
しかし、地上まであとわずかとなった時、オルフェウスはなぜか妻を振り返ってしまい、エウリュディケは再び冥府に連れ戻される。
なぜオルフェウスは、失うと知っていながらエウリュディケを見てしまったのか。
「愛ゆえの衝動」と考えたエロイーズに対し、マリアンヌは「彼は振り返って思い出を見た」と言う。
二人の異なる答えが、この映画の核心だ。
この映画では、オルフェウスがマリアンヌであり、エロイーズはエウリュディケだ。
本作は視線のドラマであり、お互いを見つめ合う画家とモデル双方の眼差しの交錯によって感情が語られ、物語が進んでゆく。
画家は永遠に残る記憶としての肖像画を描くためにモデルを見るが、モデルは今そこにいて自分を描いている画家を見ている。
二枚目の肖像画を描いている途中、マリアンヌは何度も白いドレスを着たエロイーズの幻影を目撃する。
そして母親が帰還し、肖像画を完成させたマリアンヌが島を離れる時、エロイーズを振り返ると、そこには幻影と全く同じ純白のウェディングドレス姿のエロイーズが立っていたのである。
絵が完成したら終わる恋だと分かっていても、エロイーズは今この一瞬を懸命に愛したのに対し、マリアンヌは初めから思い出としての彼女を見ていたのだ。
物語の終盤で、二人が別れた後、マリアンヌには二度再会の機会があったことが明かされる。
初めは美術展で、数年後のエロイーズとその子供を描いた肖像画を見つける。
絵の中のエロイーズは、28ページ目を少し開いた本を持っているのだが、これは別れの前日にマリアンヌが自画像を描き込んだページ。
ここで描かれるのは、文字通りに思い出との邂逅である。
二度目はコンサート会場で、マリアンヌは自分の向かい側の席に座るエロイーズに気づく。
思い出の曲が鳴り響く中、マリアンヌはエロイーズから目を離せないが、彼女は涙を流しながらも決してマリアンヌと目を合わせようとはしない。
5日間の恋はエロイーズの中ではまだ生きていて、振り向いてしまえば、本当に思い出になってしまうからだ。
どこまでもメロウで繊細で、まるで格調高い少女漫画のような世界観。
これ萩尾望都か山岸涼子で、コミカライズしてくれないだろうか。
バンデシネよりも、むしろピッタリだと思うのだが。
本作の舞台となるブルターニュ地方は、寒冷な気候でワイン用葡萄の耕作に適さないため、かわってビールやシールドの醸造が盛ん。
今回は、レ・セリエ・アソシエ社のシールド「ヴァル・ド・ランス ビオロジック」をチョイス。
ブルターニュ産の有機リンゴを使った、ほどよく中辛口のシールド。
アルコール度数は4%と比較的低く、一番搾りのフレッシュで甘酸っぱい味わいは、食前酒にピッタリだ。

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2020年12月11日 (金) | 編集 |
人を呪わば穴二つ。
篠原ゆき子が演じる、落ち目の小説家・吉岡真紀とその家族が越してきたマンションの隣室には、朝早くから何ごとかを唱えながら、盛大に布団を叩くおばさんが。
やがて真紀の娘の育児を巡る諍いから、彼女とおばさんは犬猿の仲となる。
そんな時、執筆に悩む真紀は、おばさんを題材にした連載小説「ミセス・ノイズィ」を若者向け雑誌に掲載し、センセーショナルなキャラクターが話題となり、バズってしまうのだ。
同時に、真紀とおばさんの喧嘩の様子が写った映像がネットに拡散し、いつの間にか「ミセス・ノイズィ」は“実話”として世間に広まってゆく。
本作がモチーフにしているのは、2005年に奈良県で起こったいわゆる“騒音おばさん事件”だ。
隣家トラブルの末に大音量で音楽を流し、「引っ越し!引っ越し!」と叫びながら、すさまじい勢いで布団を叩き続けるおばさんの姿は、当時大々的に報道されたので覚えている人も多いだろう。
結果的に彼女は隣家住人に対する傷害罪で逮捕され、有罪となったが、私たちは“騒音おばさん”という分かりやすいアイコン以外、彼女の実像を全く知らない。
同じように、本作の主人公の真紀は、隣家のおばさんの真実を知らないし、知ろうとしない。
実際映画の前半は、ひたすら隣人の言動に疲弊させられる真紀目線で話が進む。
引っ越してきて、いきなりトラブルになった彼女からしたら、おばさんは非常識で傲慢なとんでもない隣人で、同居している夫もキョドキョドしていて見るからに怪しい。
彼女に感情移入している観客も、おばさんを社会不適格者と思って観ている。
留守がちの夫が妻のトラブルに本気で向き合わず、曖昧な態度なのも余計に彼女の心をかき乱す。
しかし、映画はある時点から思わぬ方向へと舵を切る。
今度はおばさんの視点で同じ物語を描いてゆくことで、事象の多面性が明らかになってくるのだ。
大高洋子が好演するおばさんには、若田美和子という名前があり、彼女のすべての行動には理由がある。
本作はフィクションだが、この辺りは現実の事件の裁判で明らかになった、被告人の過去がヒントになっているのかも。
なぜ美和子は早朝に布団を叩くのか、なぜ真紀の娘を自宅に連れて行ったのか、改めて美和子の側から見たら、「なるほど」と思える理由がある。
もちろん彼女にも非はあるのだが、逆の視点から見ると真紀とどちらが悪いのか、一概には言えなくなってくる。
これは、あらゆるコミュニケーションツールが存在しているのに、根本の部分で不通である現代ニッポン人の物語で、日常を舞台としたもう一つの「羅生門」だ。
そして人気作家だった真紀が、スランプに陥った要因が、物語の状況と重なってくる。
嘗て高く評価されていた彼女の作品だが、今は「キャラクターや状況の面白さに頼り、全てが表層的」と評されている。
図らずもヒット作となった「ミセス・ノイズィ」で、彼女は作家としてブレイクスルーするどころか、自らの欠点を思いっきり掘り下げてしまっているのだ。
やがてある事件が起こり、小説の裏側にあった真実が明らかになった時、世間の手のひら返しが始まる。
それが間違っていても正しかったとしても、誰もが情報を発信でき、加害者にも被害者にもなりえる時代。
自分では悪気がなく炎上させていた方が、ちょっとしたきっかげで逆に炎上してしまうなど、決して他人事ではないだろう。
本作のプロットは非常によく考えられていて、監督と共同脚本を手がける天野千尋は、不幸にも対立してしまった二人の女性に寄り添い、主人公の作家というキャラクター設定を生かし、痛みはあるが希望もある彼女ならではの解決策を導き出す。
不通に陥った現代人に、ふと我が身を振り返らせる、厳しくも優しい寓話である。
今回は、パワフルなおばさんが出てくる映画ということで「ドラゴン・レディ」をチョイス。
ホワイト・ラム45ml、オレンジ・ジュース60ml、グレナデン・シロップ10ml、キュラソー適量をステアしてグラスに注ぎ、スライスしたオレンジを添える。
ドラゴン・レディとは、元々魅力的なアジア人女性を指す言葉だが、味わいは激しそうな名前とは逆に甘口で飲みやすい。
喧嘩した友だちとも、これを一緒に飲めば仲直り出来そう。
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篠原ゆき子が演じる、落ち目の小説家・吉岡真紀とその家族が越してきたマンションの隣室には、朝早くから何ごとかを唱えながら、盛大に布団を叩くおばさんが。
やがて真紀の娘の育児を巡る諍いから、彼女とおばさんは犬猿の仲となる。
そんな時、執筆に悩む真紀は、おばさんを題材にした連載小説「ミセス・ノイズィ」を若者向け雑誌に掲載し、センセーショナルなキャラクターが話題となり、バズってしまうのだ。
同時に、真紀とおばさんの喧嘩の様子が写った映像がネットに拡散し、いつの間にか「ミセス・ノイズィ」は“実話”として世間に広まってゆく。
本作がモチーフにしているのは、2005年に奈良県で起こったいわゆる“騒音おばさん事件”だ。
隣家トラブルの末に大音量で音楽を流し、「引っ越し!引っ越し!」と叫びながら、すさまじい勢いで布団を叩き続けるおばさんの姿は、当時大々的に報道されたので覚えている人も多いだろう。
結果的に彼女は隣家住人に対する傷害罪で逮捕され、有罪となったが、私たちは“騒音おばさん”という分かりやすいアイコン以外、彼女の実像を全く知らない。
同じように、本作の主人公の真紀は、隣家のおばさんの真実を知らないし、知ろうとしない。
実際映画の前半は、ひたすら隣人の言動に疲弊させられる真紀目線で話が進む。
引っ越してきて、いきなりトラブルになった彼女からしたら、おばさんは非常識で傲慢なとんでもない隣人で、同居している夫もキョドキョドしていて見るからに怪しい。
彼女に感情移入している観客も、おばさんを社会不適格者と思って観ている。
留守がちの夫が妻のトラブルに本気で向き合わず、曖昧な態度なのも余計に彼女の心をかき乱す。
しかし、映画はある時点から思わぬ方向へと舵を切る。
今度はおばさんの視点で同じ物語を描いてゆくことで、事象の多面性が明らかになってくるのだ。
大高洋子が好演するおばさんには、若田美和子という名前があり、彼女のすべての行動には理由がある。
本作はフィクションだが、この辺りは現実の事件の裁判で明らかになった、被告人の過去がヒントになっているのかも。
なぜ美和子は早朝に布団を叩くのか、なぜ真紀の娘を自宅に連れて行ったのか、改めて美和子の側から見たら、「なるほど」と思える理由がある。
もちろん彼女にも非はあるのだが、逆の視点から見ると真紀とどちらが悪いのか、一概には言えなくなってくる。
これは、あらゆるコミュニケーションツールが存在しているのに、根本の部分で不通である現代ニッポン人の物語で、日常を舞台としたもう一つの「羅生門」だ。
そして人気作家だった真紀が、スランプに陥った要因が、物語の状況と重なってくる。
嘗て高く評価されていた彼女の作品だが、今は「キャラクターや状況の面白さに頼り、全てが表層的」と評されている。
図らずもヒット作となった「ミセス・ノイズィ」で、彼女は作家としてブレイクスルーするどころか、自らの欠点を思いっきり掘り下げてしまっているのだ。
やがてある事件が起こり、小説の裏側にあった真実が明らかになった時、世間の手のひら返しが始まる。
それが間違っていても正しかったとしても、誰もが情報を発信でき、加害者にも被害者にもなりえる時代。
自分では悪気がなく炎上させていた方が、ちょっとしたきっかげで逆に炎上してしまうなど、決して他人事ではないだろう。
本作のプロットは非常によく考えられていて、監督と共同脚本を手がける天野千尋は、不幸にも対立してしまった二人の女性に寄り添い、主人公の作家というキャラクター設定を生かし、痛みはあるが希望もある彼女ならではの解決策を導き出す。
不通に陥った現代人に、ふと我が身を振り返らせる、厳しくも優しい寓話である。
今回は、パワフルなおばさんが出てくる映画ということで「ドラゴン・レディ」をチョイス。
ホワイト・ラム45ml、オレンジ・ジュース60ml、グレナデン・シロップ10ml、キュラソー適量をステアしてグラスに注ぎ、スライスしたオレンジを添える。
ドラゴン・レディとは、元々魅力的なアジア人女性を指す言葉だが、味わいは激しそうな名前とは逆に甘口で飲みやすい。
喧嘩した友だちとも、これを一緒に飲めば仲直り出来そう。

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2020年12月07日 (月) | 編集 |
法と秩序を壊してるのは、一体誰なのか?
「モリーズ・ゲーム」で監督デビューしたアーロン・ソーキンの第二作「シカゴ7裁判」は、ベトナム戦争下の1968年、民主党大会が開かれていたシカゴで起こった暴動事件で、大衆を扇動したとして逮捕された七人の左翼活動家の裁判を描く。
そもそも見せしめのための、結果ありきの強引な裁判なのだが、その中にも様々なドラマがあり、見応えは十分。
本作は、明らかに今年の大統領選挙にぶつけた企画で、デモ隊と警察と人種差別、そして権力の側からの扇動といったモチーフは、まさに先日までニュースで見ていた映像そのもの。
エディ・レッドメイン、サシャ・バロン・コーエンらが被告人の左翼活動家を演じ、ジョセフ・ゴードン=レヴィットが検察官、名物弁護士をマーク・ライランスが演じる。
50年以上前の出来事が、今を描く鏡となるのもすごい話だが、良くも悪くもいつの時代もアメリカの民主主義はダイナミックだ。
1969年、共和党のニクソン政権が成立した年の秋、全米が注目する裁判がシカゴで始まる。
訴追されたのはトム・ヘイデン(エディ・レッドメイン)、レニー・デイビス(アレックス・シャープ)、アビー・ホフマン(サシャ・バロン・コーエン)、ジェリー・ルービン(ジェレミー・ストロング)、デヴィッド・デリンジャー(ジョン・キャロル・リンチ)、リー・ワイナー(ノア・ロビンス)、ジョン・フロイネス(ダニエル・フラハティ)、そしてボビー・シール(ヤーヤー・アブドゥル=マーティン2世)の8人。
彼らは前年の1968年8月、大統領候補を決める民主党大会が行われていたシカゴで、無許可のデモと集会を行い、暴動を起こした嫌疑がかけられていた。
もし有罪ならば最大10年の懲役刑となる。
弁護士のウイリアム・クンスラー(マーク・ライランス)とレナード・ワインハウス(ベン・シェンクマン)は、被告たちへの偏見を剥き出しにする判事の前で、決して一枚岩とは言い切れない被告たちを束ね無罪を勝ち取らなければならない・・・
1968年の民主党の大統領候補の予備選は、当初から波乱含みだった。
当初はリンドン・ジョンソン大統領が2期目を狙うと思われていたが、ベトナム戦争を拡大させた責任を問われ、ベトナムからの撤退を主張するユージン・マッカーシー、ロバート・ケネディに追い詰められ、不出馬を表明する。
ところが、一番人気のロバート・ケネディが暗殺されると、一転して副大統領のヒューバート・ハンフリーが最有力候補に躍り出る。
ハンフリーはベトナム戦争を泥沼化させたジョンソン政権の幹部であり、基本政策の継承を主張していたことから、ベトナム反戦派の反発をかっていた。
そのため、ハンフリーが大統領候補指名を受ける民主党大会が開かれるシカゴには、多くの反対勢力がプロテストのために集まっていたのだ。
しかし、訴追された8人に共通しているのは“ベトナム戦争に反対していてる”という一点のみ。
ヘイデンとデイビスは民主社会学生同盟( SDS)、ホフマンとルービンは青年国際党(イッピー)、デリンジャーはベトナム戦争終結運動(MOBE)、ワイナーとフロイネスは暴動で使われた悪臭爆弾を作ったとされ、ボビー・シールは黒人民族主義を掲げるブラックパンサー党の創設者だ。
彼らは、属する組織も活動の方針も目的も違う。
シールに至っては、シカゴに滞在したのは数時間だけで、暴動の時はその場にすらいなかった。
要するに、この裁判は前政権の司法長官だったラムゼイ・クラークがギリギリまで退任を渋ったことに対する、新司法長官のジョン・ミッチェルによる“仕返し”であり、ニクソン政権が自分たちの目障りになりそうな社会活動家たちを、牽制するために起こした茶番狂言なのだ。
本来ならば、デモや集会は憲法で保証された合衆国国民の権利であって、何の違法性も無い。
そこで起訴を正当化するために司法省が持ち出してきたのが、1967年にラジカルな公民権活動家でプラックパンサー党とも同盟関係にあったH.ラップ・ブラウンが、共謀し他州で暴力を煽ったとして起訴された条項、所謂ラップ・ブラウン法だ。
もちろん、実際に共謀したのか、暴動を扇動したのかなど関係ない。
フランク・ランジェロが怪演する判事のジュリアス・ホフマンは、最初から被告たちに対して偏見剥き出しで、有罪にする気満々。
8人の中でも一際扱いが酷いのが唯一の黒人であるボビー・シールで、彼の弁護士が病気で出廷できないのに、全く無視したまま裁判を進めてしまう。
そもそも、他の被告たちとは面識もないシールが起訴されたのも奇妙なのだが、法治主義の根幹である弁護士をつける権利すら蔑ろにされるとか、もうむちゃくちゃである。
ゴードン=レヴィットが演じる主任検察官のリチャード・シュルツは、最初裁判そのものに反対するなど、まだまともな法務官僚として描かれてる。
自分の扱いに反発するシールに、ホフマン判事が猿轡を噛ませて拘束することを命じるというあり得ない暴挙を見たシュルツは、もはや公判を維持できないと判断し、シールの裁判を分離させる。
これによって、映画の中盤からは被告人は7人となり、世間から「シカゴ7裁判」と呼ばれるようになるのだ。
マジメ系、ヒッピー系、大人系(?)、ラジカル系、それぞれに濃いキャラクターの7人が、時に協力しあい、時に反発し、これまたキャラの濃い名物弁護士のクンスラーと共に理不尽な戦いに挑む。
現在進行形の裁判と、過去の暴動事件の顛末が交互に描かれる、そこで本当は何が起こっていたのかが明かされてゆく構造。
前作の「モリーズ・ゲーム」でもそうだったが、もともと映画脚本家としてのデビュー作「ア・フュー・グッドメン」からして裁判劇。
ソーキンは動きの少ないドラマでの、テリングのテンポの作りが非常に上手い。
ファーストカットは、ベトナムへの増派を宣言するジョンソン大統領のニュース映像。
そこから大量徴兵が始まり、ベトナム撤退派のキング牧師とロバート・ケネディの暗殺、シカゴへと向かう本作の主要登場人物の紹介、そして暴動の描写は一旦すっ飛ばし、半年後に司法省で8人の訴追が決まる会議まで、わずか10分強。
ハリウッド脚本術には、冒頭10ページ(10分)でどんな情報を開示すべきなのかを定義した“ファースト10”という用語があるが、軽快な編集でリズムを作りながらの冒頭部分は、まさにファースト10のお手本だ。
映画の前半は、裁判でのシールへの理不尽な仕打ちと、デモ隊に対する警察の暴力を描き、観客の感情移入を誘って物語を進め、中盤以降シールが退場すると、主要キャラクターの内面を徐々に明かしつつ、目立ちたがり屋のホフマンとルービンのスタンダップコメディのステージみたいな集会を、モノローグ的に上手く使って、地味な裁判劇を極上エンタメに仕上げている。
また、民主党大会の間は、多くの警察官が”スパイ”としてプロテスト勢力に送り込まれていて、裁判の時には検察側証人となるのだが、その中でもルービンをナンパするFBIの女性捜査官に、彼らへのシンパシーを抱かせるなど、どちらの側も二面性を描くことを忘れないバランス感覚が際立つ。
本作と同じように、今年の大統領選挙にぶつけた作品に、デヴィッド・フィンチャーの「Mank/マンク」があるが、あの映画は政治性よりもフィンチャーの美学が前面に出ていた。
また歴史劇なのに説明要素がないので、奥行きはとんでもなく深いが、一見さんには入りづらい間口の狭い作品だった。
対して、こちらは最低限の米国史の知識があれば、あとは決して説明的にならずに、起こったことを過不足なく描写してくれるし、明らかに被告側に立った視点で描かれるので、言いたいことが非常に分かりやすい。
裁判の最後で、バラバラだった7人の被告人たちが、シカゴに来た本来の動機である“ベトナム戦争への反対”で結束し、ある行動を行うのも感動的だ。
それにしても、今年はコロナ禍で米国メジャー作品の劇場公開がほとんど無かった反面、Netflixをはじめとした配信サービスでは本作や「Mank /マンク」など傑作が続出した。
もしかすると今年の賞レースの候補作は、Netflix作品ばっかりになるのではないか。
コロナの時代は、映画のあり方の歴史的転換点になるのかも知れないな。
今回は、ルービンを釣るのに使われた「トム・コリンズ」をチョイス。
オールド・トム・ジン60ml、レモン・ジュース20ml、砂糖2tspをシェイクし、氷を入れたグラスに注ぐ。
最後にソーダで満たして、レモンとマラスキーノ・チェリーを飾って完成。
ルービンは勘違いしていたが、実際に発明したのはトム・コリンズではなくジョン・コリンズというバーテンで、当初は自分の名前を付けていたのだが、途中でベースをオールド・トム・ジンに変えたことからトム・コリンズと呼ばれるようになった。
ジンとレモンだけのシンプルな味わいだが、飽きのこない定番のカクテルの一つだ。
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「モリーズ・ゲーム」で監督デビューしたアーロン・ソーキンの第二作「シカゴ7裁判」は、ベトナム戦争下の1968年、民主党大会が開かれていたシカゴで起こった暴動事件で、大衆を扇動したとして逮捕された七人の左翼活動家の裁判を描く。
そもそも見せしめのための、結果ありきの強引な裁判なのだが、その中にも様々なドラマがあり、見応えは十分。
本作は、明らかに今年の大統領選挙にぶつけた企画で、デモ隊と警察と人種差別、そして権力の側からの扇動といったモチーフは、まさに先日までニュースで見ていた映像そのもの。
エディ・レッドメイン、サシャ・バロン・コーエンらが被告人の左翼活動家を演じ、ジョセフ・ゴードン=レヴィットが検察官、名物弁護士をマーク・ライランスが演じる。
50年以上前の出来事が、今を描く鏡となるのもすごい話だが、良くも悪くもいつの時代もアメリカの民主主義はダイナミックだ。
1969年、共和党のニクソン政権が成立した年の秋、全米が注目する裁判がシカゴで始まる。
訴追されたのはトム・ヘイデン(エディ・レッドメイン)、レニー・デイビス(アレックス・シャープ)、アビー・ホフマン(サシャ・バロン・コーエン)、ジェリー・ルービン(ジェレミー・ストロング)、デヴィッド・デリンジャー(ジョン・キャロル・リンチ)、リー・ワイナー(ノア・ロビンス)、ジョン・フロイネス(ダニエル・フラハティ)、そしてボビー・シール(ヤーヤー・アブドゥル=マーティン2世)の8人。
彼らは前年の1968年8月、大統領候補を決める民主党大会が行われていたシカゴで、無許可のデモと集会を行い、暴動を起こした嫌疑がかけられていた。
もし有罪ならば最大10年の懲役刑となる。
弁護士のウイリアム・クンスラー(マーク・ライランス)とレナード・ワインハウス(ベン・シェンクマン)は、被告たちへの偏見を剥き出しにする判事の前で、決して一枚岩とは言い切れない被告たちを束ね無罪を勝ち取らなければならない・・・
1968年の民主党の大統領候補の予備選は、当初から波乱含みだった。
当初はリンドン・ジョンソン大統領が2期目を狙うと思われていたが、ベトナム戦争を拡大させた責任を問われ、ベトナムからの撤退を主張するユージン・マッカーシー、ロバート・ケネディに追い詰められ、不出馬を表明する。
ところが、一番人気のロバート・ケネディが暗殺されると、一転して副大統領のヒューバート・ハンフリーが最有力候補に躍り出る。
ハンフリーはベトナム戦争を泥沼化させたジョンソン政権の幹部であり、基本政策の継承を主張していたことから、ベトナム反戦派の反発をかっていた。
そのため、ハンフリーが大統領候補指名を受ける民主党大会が開かれるシカゴには、多くの反対勢力がプロテストのために集まっていたのだ。
しかし、訴追された8人に共通しているのは“ベトナム戦争に反対していてる”という一点のみ。
ヘイデンとデイビスは民主社会学生同盟( SDS)、ホフマンとルービンは青年国際党(イッピー)、デリンジャーはベトナム戦争終結運動(MOBE)、ワイナーとフロイネスは暴動で使われた悪臭爆弾を作ったとされ、ボビー・シールは黒人民族主義を掲げるブラックパンサー党の創設者だ。
彼らは、属する組織も活動の方針も目的も違う。
シールに至っては、シカゴに滞在したのは数時間だけで、暴動の時はその場にすらいなかった。
要するに、この裁判は前政権の司法長官だったラムゼイ・クラークがギリギリまで退任を渋ったことに対する、新司法長官のジョン・ミッチェルによる“仕返し”であり、ニクソン政権が自分たちの目障りになりそうな社会活動家たちを、牽制するために起こした茶番狂言なのだ。
本来ならば、デモや集会は憲法で保証された合衆国国民の権利であって、何の違法性も無い。
そこで起訴を正当化するために司法省が持ち出してきたのが、1967年にラジカルな公民権活動家でプラックパンサー党とも同盟関係にあったH.ラップ・ブラウンが、共謀し他州で暴力を煽ったとして起訴された条項、所謂ラップ・ブラウン法だ。
もちろん、実際に共謀したのか、暴動を扇動したのかなど関係ない。
フランク・ランジェロが怪演する判事のジュリアス・ホフマンは、最初から被告たちに対して偏見剥き出しで、有罪にする気満々。
8人の中でも一際扱いが酷いのが唯一の黒人であるボビー・シールで、彼の弁護士が病気で出廷できないのに、全く無視したまま裁判を進めてしまう。
そもそも、他の被告たちとは面識もないシールが起訴されたのも奇妙なのだが、法治主義の根幹である弁護士をつける権利すら蔑ろにされるとか、もうむちゃくちゃである。
ゴードン=レヴィットが演じる主任検察官のリチャード・シュルツは、最初裁判そのものに反対するなど、まだまともな法務官僚として描かれてる。
自分の扱いに反発するシールに、ホフマン判事が猿轡を噛ませて拘束することを命じるというあり得ない暴挙を見たシュルツは、もはや公判を維持できないと判断し、シールの裁判を分離させる。
これによって、映画の中盤からは被告人は7人となり、世間から「シカゴ7裁判」と呼ばれるようになるのだ。
マジメ系、ヒッピー系、大人系(?)、ラジカル系、それぞれに濃いキャラクターの7人が、時に協力しあい、時に反発し、これまたキャラの濃い名物弁護士のクンスラーと共に理不尽な戦いに挑む。
現在進行形の裁判と、過去の暴動事件の顛末が交互に描かれる、そこで本当は何が起こっていたのかが明かされてゆく構造。
前作の「モリーズ・ゲーム」でもそうだったが、もともと映画脚本家としてのデビュー作「ア・フュー・グッドメン」からして裁判劇。
ソーキンは動きの少ないドラマでの、テリングのテンポの作りが非常に上手い。
ファーストカットは、ベトナムへの増派を宣言するジョンソン大統領のニュース映像。
そこから大量徴兵が始まり、ベトナム撤退派のキング牧師とロバート・ケネディの暗殺、シカゴへと向かう本作の主要登場人物の紹介、そして暴動の描写は一旦すっ飛ばし、半年後に司法省で8人の訴追が決まる会議まで、わずか10分強。
ハリウッド脚本術には、冒頭10ページ(10分)でどんな情報を開示すべきなのかを定義した“ファースト10”という用語があるが、軽快な編集でリズムを作りながらの冒頭部分は、まさにファースト10のお手本だ。
映画の前半は、裁判でのシールへの理不尽な仕打ちと、デモ隊に対する警察の暴力を描き、観客の感情移入を誘って物語を進め、中盤以降シールが退場すると、主要キャラクターの内面を徐々に明かしつつ、目立ちたがり屋のホフマンとルービンのスタンダップコメディのステージみたいな集会を、モノローグ的に上手く使って、地味な裁判劇を極上エンタメに仕上げている。
また、民主党大会の間は、多くの警察官が”スパイ”としてプロテスト勢力に送り込まれていて、裁判の時には検察側証人となるのだが、その中でもルービンをナンパするFBIの女性捜査官に、彼らへのシンパシーを抱かせるなど、どちらの側も二面性を描くことを忘れないバランス感覚が際立つ。
本作と同じように、今年の大統領選挙にぶつけた作品に、デヴィッド・フィンチャーの「Mank/マンク」があるが、あの映画は政治性よりもフィンチャーの美学が前面に出ていた。
また歴史劇なのに説明要素がないので、奥行きはとんでもなく深いが、一見さんには入りづらい間口の狭い作品だった。
対して、こちらは最低限の米国史の知識があれば、あとは決して説明的にならずに、起こったことを過不足なく描写してくれるし、明らかに被告側に立った視点で描かれるので、言いたいことが非常に分かりやすい。
裁判の最後で、バラバラだった7人の被告人たちが、シカゴに来た本来の動機である“ベトナム戦争への反対”で結束し、ある行動を行うのも感動的だ。
それにしても、今年はコロナ禍で米国メジャー作品の劇場公開がほとんど無かった反面、Netflixをはじめとした配信サービスでは本作や「Mank /マンク」など傑作が続出した。
もしかすると今年の賞レースの候補作は、Netflix作品ばっかりになるのではないか。
コロナの時代は、映画のあり方の歴史的転換点になるのかも知れないな。
今回は、ルービンを釣るのに使われた「トム・コリンズ」をチョイス。
オールド・トム・ジン60ml、レモン・ジュース20ml、砂糖2tspをシェイクし、氷を入れたグラスに注ぐ。
最後にソーダで満たして、レモンとマラスキーノ・チェリーを飾って完成。
ルービンは勘違いしていたが、実際に発明したのはトム・コリンズではなくジョン・コリンズというバーテンで、当初は自分の名前を付けていたのだが、途中でベースをオールド・トム・ジンに変えたことからトム・コリンズと呼ばれるようになった。
ジンとレモンだけのシンプルな味わいだが、飽きのこない定番のカクテルの一つだ。

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2020年12月03日 (木) | 編集 |
未来を、奪わせない。
中国の漫画家・アニメーション作家のMTJJが2009年から漫画を連載し、2011年からウェブアニメーションとして公開している「羅小黒戦記(罗小黑战记)」の前日譚にして初の劇場版。
ウェッブ版の第一話で、黒猫の仔猫の妖精・小黒(シャオヘイ)が、人間の女の子・羅小白(ロシャオバイ)に拾われて羅小黒となる4年前を描く物語だ。
このところ質量共に怒涛の勢いの中国アニメーションだけど、これも抜群に面白い。
本国では2019年の夏に公開され3.2憶元(50億円)を稼ぎ出し、直後の9月には日本でも字幕版が10日間限定で公開され、連日ソールドアウトのヒットを記録している。
ただし、この時は在日中国人向けの興行という側面が強かったため、残念ながら字幕のクオリティが低く、原語版の意図を完全に表現しきれてはいなかった。
しかし、その後の上映館の拡大と共に、口コミでの評判が高まった結果、日本人声優による日本語吹き替え版が「羅小黒戦記〜ぼくが選ぶ未来〜」として制作され、ようやくこの映画の魅力を存分に味わえるようになった。
6歳の小黒/シャオヘイ(花澤香菜)は、人間の子どもや化け猫に変化できる黒猫の妖精。
故郷の森は人間の開発で破壊されてしまい、すみかを探す旅に出る。
ある時、人間に襲われた小黒は風息/フーシー(櫻井孝宏)と名乗る人間を憎む大人の妖精に助けられる。
風息に連れられ深い森に覆われた島を訪れた小黒は、風息の仲間である洛竹/ロジュ(松岡禎丞)や虚淮/シューファイ(斉藤壮馬)と出会う。
だが、新しいすみかを手に入れたと安心したのもつかの間、人間ながら最強の妖術を使う“執行人”無限/ムゲン(宮野真守)の急襲を受け、風息たちは逃げるが小黒は捕まってしまう。
筏で陸地を目指す途中、小黒が風息一派ではないと知った無限は、小黒に自分と同じ金属の霊属性を見出し、鍛えはじめる。
まもなく金属使いの才能を開花させた小黒は、幾度となく無限から逃げようとするが、その都度捕まってしまう。
やがて陸にたどり着いた二人は、ほかの執行人のグループと出会うが、そこで風息がほかの妖精を襲ってその能力を奪っていることを知る。
実は風息の本当の狙いは、小黒の持つある特別な能力だった・・・
人間の街を転々としていた小黒が、人間との共存派と抗戦派の妖精(と妖精並みに強い人間)の争いに巻き込まれるという、まるで「X-MEN」のような世界観。
妖精はそれぞれ特殊能力を持ち強いが数が少なく、自然を破壊する人間を憎んでいる者がいる反面、人間の文化を好みその能力を生かして普段は人間に化けて生活している者も多い設定。
「ハリー・ポッター」の魔法界のように、妖精には独自の行政府があるようで、人間との共存体制を脅かす、ラジカルな風息の一派は“執行人”と呼ばれる治安機関によって追われている。
「封神演義」でもおなじみ、道教のスター神さま哪吒(ナタ)も執行人の一人として登場する。
余談だが、昨年中国では哪吒を主人公にした新作CGアニメーション「哪吒之魔童降世」が公開され、中国歴代二位となる興行収入780億円というとんでもない大ヒットを記録している。
こちらも日本での正式公開が待たれる作品だ。
邦題のサブタイトルが示すように、本作はまだ成長途上の子どもである小黒が、未来のために選択をする物語である。
映画の序盤では、一見すると人間に襲われていた小黒が風息に助けられ、束の間の安息の地を得たように見える。
だが、風息の本当の狙いは小黒が持っている特別な力。
妖精はそれぞれ“霊域”という心が具現化した独自の霊的空間を持っているのだが、霊域が司るのが霊属性の能力。
小黒の霊属性は金属ともう一つ、空間があり、現実世界に自らの霊域空間である“領界”を作り出すことができるのだ。
領界の中では、それを作り出した者が無敵なので、この力があれば人間に奪われた土地を取り戻し、守ることができる。
風息は仲間の持つ人間を操る能力でわざと小黒を襲わせ、自作自演で助けるふりをして小黒に自分は味方だと思わせていたのだ。
しかし、この文字通りの子どもだましは、無限の登場で水の泡と化してしまい、風息は小黒に協力させるのではなく、彼の能力を奪い取る道を選ぶ。
自らも故郷の森をつぶされ、人間への復讐を主張する風息に感情移入していた小黒は、風息のアンチテーゼである無限に出会ったことで、はじめて善悪の価値観を揺さぶられる。
無限は人間だが、様々な妖術を使い、ものすごく強い。
そして強いだけでなく、考えを押し付けることなく、世界の今を小黒に見せてくれるのだ。
最初は風息の思想に感化されていた小黒が、真逆のキャラクターである無限と過ごすうちに、やがて師弟的な強い絆で結ばれるのが物語の縦糸となり、抗戦か共存かという風息と無限の戦いが横糸となる構造。
最初に信じた相手だからこそ、風息が自分を助けた本当の意図を認めることは、幼い心に大きすぎる痛みを伴うが、小黒はちゃんと自分で考え、正しい選択をする。
怒りと憎しみを前面に、白黒二元論で押し通すのではなく、お互い色々我慢しながらも平和にやりましょうよ?というテーマも「X-MEN」的だが、娯楽映画として非常にわかりやすい。
物語的にも非常によく出来ているのだが、本作が日本人の心をとらえたのは、“アニメ”との親和性の強さも大きな要因だろう。
1960年代以降、日本のセルアニメーションは、フルアニメーションとは異なるリミテッド方式で、止め絵を重視する独特の“アニメ”スタイルに進化した。
かつては少々侮蔑的な意味を含んだ“ジャパニメーション”と呼ばれ、今では世界中で日本語のまま“アニメ”と呼ばれるスタイルである。
結果、日本人の多くは“アニメ”は知っていても“アニメーション”は知らない。
なじみがあるのは、せいぜいディズニー/ピクサーをはじめとするハリウッド作品くらいで、世界の多種多様なアニメーション作品は、まとめてマニアックなアート作品に分類され、興行ランキングのトップテンに入ることすら非常に珍しい。
ところが日本型の“アニメ”が世界に広まると、そのスタイルをベンチマークした作品が徐々に外国から出てくる。
本作はその典型例で、いわば日本型“アニメ”の種子が海外で花開いた作品といえるだろう。
鳥山明を思わせるキャラクターデザインから、「鬼滅の刃」などにもみられるシリアスな作画から突然のディフォルメ表現への変化、漫画的なギャグの見せ方に、ジブリ作品を思わせる自然描写に至るまで、あらゆる面で日本アニメの影響は非常に強い。
そして何よりもキャラクターが可愛い。
主人公の小黒が猫形態の時なんて、あざといくらいに可愛いが、人間化しても可愛い。
もはや「kawaii」は世界の共通語なんだな。
日本の観客にとっては、非常にとっつきやすいスタイルの作品なのだが、独自性も強い。
縦横無尽な無重力アクション演出は、武侠映画の伝統を感じさせ、非常に上品。
日本のキャラクターと違って技を出すときにいちいち絶叫しないし、エフェクトアニメーションも控え目で、きっちりとキャラクターの動きで見せてくれる。
また激しいアクションの割には暴力的と感じさせる描写は皆無で、作り手のセンスとどのような観客に見せたいのかという確固たるビジョンを感じさせる。
この辺りは、日本のアニメーション関係者も学ぶべき点が多くあると思う。
本作の共同配給をしているチームジョイ株式会社は、在日中国人たちが立ち上げた会社だそうで、本作の他には実写の「THE CROSSING ~香港と大陸をまたぐ少女~」なども配給している。
米国におけるインド映画がそうだったように、日本でも在日の外国人向けの上映がもっと広まって、そこから新しいマーケットが出来ることも増えていくのだろう。
願わくば、去年本作と同時に限定公開した、素晴らしいCGアニメーション映画「白蛇:縁起」の正式公開も望みたいところ。
ちなみにエンドクレジットの本編に出てこないキャラクターは、ウェブ版の登場人物。
ウェブ版は映画とは違ってグッと緩い雰囲気だが、こっちも面白い。
一部がYouTubeの「羅小黑戰記」チャンネルで、字幕付きで観られるのでお勧め。
今回は、黒猫の妖精の話なので「ブラック・キャット」をチョイス。
ウォッカ30ml、チェリー・ブランデー30ml、クランベリー・ジュース90ml、コカコーラ90mlを氷を入れたタンブラーに注ぐ。
マラスキーノ・チェリーを飾って完成。
名前の通りダークなカラーで、一見するとコーラにしか見えない。
度数はそれなりに高いが、口当たりは柔らかくて甘い一杯だ。
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中国の漫画家・アニメーション作家のMTJJが2009年から漫画を連載し、2011年からウェブアニメーションとして公開している「羅小黒戦記(罗小黑战记)」の前日譚にして初の劇場版。
ウェッブ版の第一話で、黒猫の仔猫の妖精・小黒(シャオヘイ)が、人間の女の子・羅小白(ロシャオバイ)に拾われて羅小黒となる4年前を描く物語だ。
このところ質量共に怒涛の勢いの中国アニメーションだけど、これも抜群に面白い。
本国では2019年の夏に公開され3.2憶元(50億円)を稼ぎ出し、直後の9月には日本でも字幕版が10日間限定で公開され、連日ソールドアウトのヒットを記録している。
ただし、この時は在日中国人向けの興行という側面が強かったため、残念ながら字幕のクオリティが低く、原語版の意図を完全に表現しきれてはいなかった。
しかし、その後の上映館の拡大と共に、口コミでの評判が高まった結果、日本人声優による日本語吹き替え版が「羅小黒戦記〜ぼくが選ぶ未来〜」として制作され、ようやくこの映画の魅力を存分に味わえるようになった。
6歳の小黒/シャオヘイ(花澤香菜)は、人間の子どもや化け猫に変化できる黒猫の妖精。
故郷の森は人間の開発で破壊されてしまい、すみかを探す旅に出る。
ある時、人間に襲われた小黒は風息/フーシー(櫻井孝宏)と名乗る人間を憎む大人の妖精に助けられる。
風息に連れられ深い森に覆われた島を訪れた小黒は、風息の仲間である洛竹/ロジュ(松岡禎丞)や虚淮/シューファイ(斉藤壮馬)と出会う。
だが、新しいすみかを手に入れたと安心したのもつかの間、人間ながら最強の妖術を使う“執行人”無限/ムゲン(宮野真守)の急襲を受け、風息たちは逃げるが小黒は捕まってしまう。
筏で陸地を目指す途中、小黒が風息一派ではないと知った無限は、小黒に自分と同じ金属の霊属性を見出し、鍛えはじめる。
まもなく金属使いの才能を開花させた小黒は、幾度となく無限から逃げようとするが、その都度捕まってしまう。
やがて陸にたどり着いた二人は、ほかの執行人のグループと出会うが、そこで風息がほかの妖精を襲ってその能力を奪っていることを知る。
実は風息の本当の狙いは、小黒の持つある特別な能力だった・・・
人間の街を転々としていた小黒が、人間との共存派と抗戦派の妖精(と妖精並みに強い人間)の争いに巻き込まれるという、まるで「X-MEN」のような世界観。
妖精はそれぞれ特殊能力を持ち強いが数が少なく、自然を破壊する人間を憎んでいる者がいる反面、人間の文化を好みその能力を生かして普段は人間に化けて生活している者も多い設定。
「ハリー・ポッター」の魔法界のように、妖精には独自の行政府があるようで、人間との共存体制を脅かす、ラジカルな風息の一派は“執行人”と呼ばれる治安機関によって追われている。
「封神演義」でもおなじみ、道教のスター神さま哪吒(ナタ)も執行人の一人として登場する。
余談だが、昨年中国では哪吒を主人公にした新作CGアニメーション「哪吒之魔童降世」が公開され、中国歴代二位となる興行収入780億円というとんでもない大ヒットを記録している。
こちらも日本での正式公開が待たれる作品だ。
邦題のサブタイトルが示すように、本作はまだ成長途上の子どもである小黒が、未来のために選択をする物語である。
映画の序盤では、一見すると人間に襲われていた小黒が風息に助けられ、束の間の安息の地を得たように見える。
だが、風息の本当の狙いは小黒が持っている特別な力。
妖精はそれぞれ“霊域”という心が具現化した独自の霊的空間を持っているのだが、霊域が司るのが霊属性の能力。
小黒の霊属性は金属ともう一つ、空間があり、現実世界に自らの霊域空間である“領界”を作り出すことができるのだ。
領界の中では、それを作り出した者が無敵なので、この力があれば人間に奪われた土地を取り戻し、守ることができる。
風息は仲間の持つ人間を操る能力でわざと小黒を襲わせ、自作自演で助けるふりをして小黒に自分は味方だと思わせていたのだ。
しかし、この文字通りの子どもだましは、無限の登場で水の泡と化してしまい、風息は小黒に協力させるのではなく、彼の能力を奪い取る道を選ぶ。
自らも故郷の森をつぶされ、人間への復讐を主張する風息に感情移入していた小黒は、風息のアンチテーゼである無限に出会ったことで、はじめて善悪の価値観を揺さぶられる。
無限は人間だが、様々な妖術を使い、ものすごく強い。
そして強いだけでなく、考えを押し付けることなく、世界の今を小黒に見せてくれるのだ。
最初は風息の思想に感化されていた小黒が、真逆のキャラクターである無限と過ごすうちに、やがて師弟的な強い絆で結ばれるのが物語の縦糸となり、抗戦か共存かという風息と無限の戦いが横糸となる構造。
最初に信じた相手だからこそ、風息が自分を助けた本当の意図を認めることは、幼い心に大きすぎる痛みを伴うが、小黒はちゃんと自分で考え、正しい選択をする。
怒りと憎しみを前面に、白黒二元論で押し通すのではなく、お互い色々我慢しながらも平和にやりましょうよ?というテーマも「X-MEN」的だが、娯楽映画として非常にわかりやすい。
物語的にも非常によく出来ているのだが、本作が日本人の心をとらえたのは、“アニメ”との親和性の強さも大きな要因だろう。
1960年代以降、日本のセルアニメーションは、フルアニメーションとは異なるリミテッド方式で、止め絵を重視する独特の“アニメ”スタイルに進化した。
かつては少々侮蔑的な意味を含んだ“ジャパニメーション”と呼ばれ、今では世界中で日本語のまま“アニメ”と呼ばれるスタイルである。
結果、日本人の多くは“アニメ”は知っていても“アニメーション”は知らない。
なじみがあるのは、せいぜいディズニー/ピクサーをはじめとするハリウッド作品くらいで、世界の多種多様なアニメーション作品は、まとめてマニアックなアート作品に分類され、興行ランキングのトップテンに入ることすら非常に珍しい。
ところが日本型の“アニメ”が世界に広まると、そのスタイルをベンチマークした作品が徐々に外国から出てくる。
本作はその典型例で、いわば日本型“アニメ”の種子が海外で花開いた作品といえるだろう。
鳥山明を思わせるキャラクターデザインから、「鬼滅の刃」などにもみられるシリアスな作画から突然のディフォルメ表現への変化、漫画的なギャグの見せ方に、ジブリ作品を思わせる自然描写に至るまで、あらゆる面で日本アニメの影響は非常に強い。
そして何よりもキャラクターが可愛い。
主人公の小黒が猫形態の時なんて、あざといくらいに可愛いが、人間化しても可愛い。
もはや「kawaii」は世界の共通語なんだな。
日本の観客にとっては、非常にとっつきやすいスタイルの作品なのだが、独自性も強い。
縦横無尽な無重力アクション演出は、武侠映画の伝統を感じさせ、非常に上品。
日本のキャラクターと違って技を出すときにいちいち絶叫しないし、エフェクトアニメーションも控え目で、きっちりとキャラクターの動きで見せてくれる。
また激しいアクションの割には暴力的と感じさせる描写は皆無で、作り手のセンスとどのような観客に見せたいのかという確固たるビジョンを感じさせる。
この辺りは、日本のアニメーション関係者も学ぶべき点が多くあると思う。
本作の共同配給をしているチームジョイ株式会社は、在日中国人たちが立ち上げた会社だそうで、本作の他には実写の「THE CROSSING ~香港と大陸をまたぐ少女~」なども配給している。
米国におけるインド映画がそうだったように、日本でも在日の外国人向けの上映がもっと広まって、そこから新しいマーケットが出来ることも増えていくのだろう。
願わくば、去年本作と同時に限定公開した、素晴らしいCGアニメーション映画「白蛇:縁起」の正式公開も望みたいところ。
ちなみにエンドクレジットの本編に出てこないキャラクターは、ウェブ版の登場人物。
ウェブ版は映画とは違ってグッと緩い雰囲気だが、こっちも面白い。
一部がYouTubeの「羅小黑戰記」チャンネルで、字幕付きで観られるのでお勧め。
今回は、黒猫の妖精の話なので「ブラック・キャット」をチョイス。
ウォッカ30ml、チェリー・ブランデー30ml、クランベリー・ジュース90ml、コカコーラ90mlを氷を入れたタンブラーに注ぐ。
マラスキーノ・チェリーを飾って完成。
名前の通りダークなカラーで、一見するとコーラにしか見えない。
度数はそれなりに高いが、口当たりは柔らかくて甘い一杯だ。

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