2021年01月31日 (日) | 編集 |
忠実なナンバー2は、なぜ大統領を殺したのか。
独裁政権を率いる韓国のパク・チョンヒ(朴正煕)大統領を暗殺した、側近のKCIA(大韓民国中央情報部)部長・キム・ジェギュ(金載圭、映画ではキム・ギュピョン)を主人公に、暗殺前40日間に何があったのかを描く、ウルトラハードなポリティカルサスペンス。
「南山の部長たち」とは、ソウル市南山に本拠があった、KCIAの歴代部長たちのこと。
十万ともいわれる職員を抱える巨大な諜報機関であり、韓国内の情報総てを握っていたKCIA部長は、政権内で大統領に次ぐ権力を振るっていたとされる。
国家と大統領の間で揺れ動く、主人公のキム・ギュピョンをイ・ビョンホン、事件のきっかけとなる前任のKCIA部長パク・ヨンガクをクァク・ドウォン、パク・チョンヒ大統領をイ・ソンミンが演じる。
名優たちを演出するのは、「インサイダーズ 内部者たち」でもイ・ビョンホンとタッグを組んだウ・ミンホ監督。
韓国現代史のダークサイドを垣間見る、緊迫の114分だ。
1979年10月26日、KCIAの部長を務めるキム・ギュピョン(イ・ビョンホン)が、革命の同志であり、忠誠を誓っていたはずのパク・チョンヒ大統領(イ・ソンミン)を射殺する。
事件が起こる40日前、アメリカに亡命していた元KCIA部長パク・ヨンガク(クァク・ドウォン)が下院議会聴聞会で証言し、パク・チョンヒ体制の欺瞞を糾弾していた。
大統領に事態の収拾を命じられたギュピョンは、執筆中の回想録を出さないよう、旧友でもあるヨンガクを説得するためにワシントンに飛ぶ。
ヨンガクはギュピョンの要求を受け入れるが、大統領がKCIAも知らない協力者の元、秘密口座を作って国民の金を搾取しているという情報をギュピョンに渡す。
帰国後、ヨンガクからの情報を調べ始めるギュピョンだが、大統領が警護室長のクァク・サンチョン(イ・ヒジュン)の人脈を使って、ヨンガクの暗殺を狙っていることが判明。
時を同じくして、釜山と馬山で反政府デモが燃え上がり、野党勢力との交渉を主張するギュピョンは、次第に大統領から疎んじされてゆくのだが・・・・・
1961年のクーデター以来、18年に及ぶ長期独裁政権を率い、その間に日韓国交正常化、漢江の奇跡と呼ばれた高度経済成長を成し遂げたパク・チョンヒ大統領の暗殺は、当時の日本でも大ニュースになっていた。
韓国人の名前は報道でも日本読みされていた時代なので、テレビをつけると朝から晩まで「ボクセイキ大統領が・・・」と流れていたのを子ども心に覚えている。
本作は、大統領暗殺を起点に40日間を振り返り、暗殺を実行したKCIA部長、キム・ギュピョンの心情を丁寧に描いてゆく。
ただし、この事件の顛末には犯行の動機を含め解明されていない謎が多く残されていて、主人公をはじめ大統領以外の役名が変えられていることからも、史実をベースに想像力を働かせて歴史の穴を埋めていったフィクションと捉えるべき作品だろう。
しかし、盛ってることを意識させないリアリティ満点な作劇、先を読ませないドラマチックな展開は、いかにも韓国映画らしい大胆なものだ。
暗殺までの流れを見ていると、これはもう管理職の悲哀というか、トップダウン型組織がダメになってゆく典型例。
独裁政権も18年も続くと、最初の革命の理想も、一国を率いる熱意も消え去り、イエスマンで回りを固め、コツコツ私服を肥やすだけの大統領にはもはや周りが見えてない。
ヨンガクのような、自分の名誉を汚す元部下はこの世から消し去りたい存在だし、釜山と馬山でデモを行っている野党支持者たちも自分の国から一掃すべき勢力。
大統領は、「61年のクーデターの時、市民に発砲を命じた者は死刑になったが、今度は自分が命じるのだからデモ隊を戦車で轢き殺しても構わない」と言い放つ。
韓国人が言うところの、典型的な“ナロナムブル(自分がやればロマンスだが他人がやれば不倫)”のダブルスタンダードだが、政治権力というのは多かれ少なかれこのような独善的傾向を持つものかもしれない。
ともあれ、暴力で権力を握った独裁者にとって、世界は単純だ。
自分に従順な者は手駒であり、反対する者は敵で、本当の意味での“仲間”は存在しないのである。
本作でギュピョンの運命を狂わす、重要な変数がアメリカだ。
韓国は独立国とはいっても、朝鮮戦争以来アメリカに安全保障を依存してきた歴史がある。
当時は今ほど北朝鮮との国力の差も無く、米軍の国内駐留は韓国にとって絶対的に重要だった。
いわば親会社の様な存在だが、当然アメリカ政府も何を仕出かすか分からない朴政権には不安を抱いている。
一応民主主義の守護者を自認する超大国にとって、ある程度の強権支配は認めても、暴走されるのは困るのだ。
劇中、アメリカ大使が「拉致や暗殺を平気でするなんて、あんたたちはマフィアか何かなのか?」とギュピョンに迫る描写がある。
まあ実際、KCIAは73年に東京で暴力団と組んで金大中拉致事件を起こしたり、体質は半分ヤクザみたいなもので、76年にはアメリカ議会に入り込んでの買収工作、いわゆるコリアゲート事件が発覚していて、外国まで押しかけて自分たちの力の理論を押し通すKCIAは、アメリカにとってもいわば獅子身中の虫。
もはや死に体の朴政権は害悪と見限り、政権ナンバー2のギュピョンに、大統領を「なんとかしろ」と言うのである。
直属の上司である大統領、親会社に当たるアメリカ、二つの“ボス”に挟まれてたギュピョンにしてみれば、自分がどんどん悪い方へと追い込まれている状況だ。
デモ隊への対応を巡り、野党指導者のキム・ヨンサムとの交渉を主張したことで、大統領の逆鱗に触れ、徐々に政権内での居場所を失いつつあるのだから、尚更まずい。
しかも彼は、大統領が自ら責任を取ることが決してないことを、長年の経験から知っている。
大統領の口癖が「私は君の側にいる。好きにしたまえ」なんだが、これって結局「部下が勝手にやったことです」というエクスキューズ。
誰かに汚れ仕事をさせて、不要になったら今度は別の誰かに消させる。
この繰り返しを見てきたギュピョンにとっては、大統領のために仕事をしてきた結果、自分の身が危うくなっているのがリアルに分かるのだ。
あらゆる権力は、時間と共に腐敗するという事実に、例外は存在しない。
独裁者の権力に群がり、甘い汁を吸う魑魅魍魎が跋扈する当時の韓国では、愛国者は支えるべき相手が、国なのか大統領なのかと言う二者択一を迫られる。
取り得る選択肢が、徐々に失われてゆくジリジリとした焦燥感と、次何が起こるか分からない緊張感がずっと続く。
中盤のヨンガク暗殺を巡る大統領とギュピョンの、お互いを出しぬこうとする諜報戦は手に汗握り、権謀術数の世界に生きる男たちの苦悩と痛みが伝わってくる。
板挟みになったナンバー2の葛藤を、殆ど表情が変わらない静かな仮面の下に封じた、イ・ビョンホンが素晴らしい。
“失われた靴”などの印象的なディテールも、物語の象徴性を高めて効果的だ。
権力が移り変わる時には血が流れ、時に直接歴史を動かした者でなく、虎視淡々と狙っていた者が漁夫の利を得ることもある。
主人公の周りで、終始チョロチョロしているインパクトのあるハゲ頭の男は何者か。
ある意味、これはさらなる悲劇の始まりを告げる物語なのだ。
ぶっちゃけ、非常に地味な映画ではあるのだが、70年代の時代性の表現なども緻密で、「裏切りのサーカス」などにも通じる、世界の裏側に蠢く哀しき男たちを描くいぶし銀の秀作。
忠誠心と愛国心の間で揺れ動く主人公の心情は、様々な立場におきかえて考えることが出来、今の時代にも響く普遍性は十分だ。
今回はもちろん、ギュピョンと大統領の思い出の酒「マッサ 」をチョイス。
名前の通りマッコリとサイダーのカクテルなんだが、大統領によると配分が重要らしい。
ここはとりあえず、1:1で。
氷を入れたグラスにマッコリ100mlを注ぎ、サイダー100mlで満たす。
見た目はまんまカルピスなんだが、さっぱりした甘さでとても美味しい。
二人の関係もこのお酒のように調和が取れていたら、悲劇は起こらなかったのかもしれないな。
記事が気に入ったらクリックしてね
独裁政権を率いる韓国のパク・チョンヒ(朴正煕)大統領を暗殺した、側近のKCIA(大韓民国中央情報部)部長・キム・ジェギュ(金載圭、映画ではキム・ギュピョン)を主人公に、暗殺前40日間に何があったのかを描く、ウルトラハードなポリティカルサスペンス。
「南山の部長たち」とは、ソウル市南山に本拠があった、KCIAの歴代部長たちのこと。
十万ともいわれる職員を抱える巨大な諜報機関であり、韓国内の情報総てを握っていたKCIA部長は、政権内で大統領に次ぐ権力を振るっていたとされる。
国家と大統領の間で揺れ動く、主人公のキム・ギュピョンをイ・ビョンホン、事件のきっかけとなる前任のKCIA部長パク・ヨンガクをクァク・ドウォン、パク・チョンヒ大統領をイ・ソンミンが演じる。
名優たちを演出するのは、「インサイダーズ 内部者たち」でもイ・ビョンホンとタッグを組んだウ・ミンホ監督。
韓国現代史のダークサイドを垣間見る、緊迫の114分だ。
1979年10月26日、KCIAの部長を務めるキム・ギュピョン(イ・ビョンホン)が、革命の同志であり、忠誠を誓っていたはずのパク・チョンヒ大統領(イ・ソンミン)を射殺する。
事件が起こる40日前、アメリカに亡命していた元KCIA部長パク・ヨンガク(クァク・ドウォン)が下院議会聴聞会で証言し、パク・チョンヒ体制の欺瞞を糾弾していた。
大統領に事態の収拾を命じられたギュピョンは、執筆中の回想録を出さないよう、旧友でもあるヨンガクを説得するためにワシントンに飛ぶ。
ヨンガクはギュピョンの要求を受け入れるが、大統領がKCIAも知らない協力者の元、秘密口座を作って国民の金を搾取しているという情報をギュピョンに渡す。
帰国後、ヨンガクからの情報を調べ始めるギュピョンだが、大統領が警護室長のクァク・サンチョン(イ・ヒジュン)の人脈を使って、ヨンガクの暗殺を狙っていることが判明。
時を同じくして、釜山と馬山で反政府デモが燃え上がり、野党勢力との交渉を主張するギュピョンは、次第に大統領から疎んじされてゆくのだが・・・・・
1961年のクーデター以来、18年に及ぶ長期独裁政権を率い、その間に日韓国交正常化、漢江の奇跡と呼ばれた高度経済成長を成し遂げたパク・チョンヒ大統領の暗殺は、当時の日本でも大ニュースになっていた。
韓国人の名前は報道でも日本読みされていた時代なので、テレビをつけると朝から晩まで「ボクセイキ大統領が・・・」と流れていたのを子ども心に覚えている。
本作は、大統領暗殺を起点に40日間を振り返り、暗殺を実行したKCIA部長、キム・ギュピョンの心情を丁寧に描いてゆく。
ただし、この事件の顛末には犯行の動機を含め解明されていない謎が多く残されていて、主人公をはじめ大統領以外の役名が変えられていることからも、史実をベースに想像力を働かせて歴史の穴を埋めていったフィクションと捉えるべき作品だろう。
しかし、盛ってることを意識させないリアリティ満点な作劇、先を読ませないドラマチックな展開は、いかにも韓国映画らしい大胆なものだ。
暗殺までの流れを見ていると、これはもう管理職の悲哀というか、トップダウン型組織がダメになってゆく典型例。
独裁政権も18年も続くと、最初の革命の理想も、一国を率いる熱意も消え去り、イエスマンで回りを固め、コツコツ私服を肥やすだけの大統領にはもはや周りが見えてない。
ヨンガクのような、自分の名誉を汚す元部下はこの世から消し去りたい存在だし、釜山と馬山でデモを行っている野党支持者たちも自分の国から一掃すべき勢力。
大統領は、「61年のクーデターの時、市民に発砲を命じた者は死刑になったが、今度は自分が命じるのだからデモ隊を戦車で轢き殺しても構わない」と言い放つ。
韓国人が言うところの、典型的な“ナロナムブル(自分がやればロマンスだが他人がやれば不倫)”のダブルスタンダードだが、政治権力というのは多かれ少なかれこのような独善的傾向を持つものかもしれない。
ともあれ、暴力で権力を握った独裁者にとって、世界は単純だ。
自分に従順な者は手駒であり、反対する者は敵で、本当の意味での“仲間”は存在しないのである。
本作でギュピョンの運命を狂わす、重要な変数がアメリカだ。
韓国は独立国とはいっても、朝鮮戦争以来アメリカに安全保障を依存してきた歴史がある。
当時は今ほど北朝鮮との国力の差も無く、米軍の国内駐留は韓国にとって絶対的に重要だった。
いわば親会社の様な存在だが、当然アメリカ政府も何を仕出かすか分からない朴政権には不安を抱いている。
一応民主主義の守護者を自認する超大国にとって、ある程度の強権支配は認めても、暴走されるのは困るのだ。
劇中、アメリカ大使が「拉致や暗殺を平気でするなんて、あんたたちはマフィアか何かなのか?」とギュピョンに迫る描写がある。
まあ実際、KCIAは73年に東京で暴力団と組んで金大中拉致事件を起こしたり、体質は半分ヤクザみたいなもので、76年にはアメリカ議会に入り込んでの買収工作、いわゆるコリアゲート事件が発覚していて、外国まで押しかけて自分たちの力の理論を押し通すKCIAは、アメリカにとってもいわば獅子身中の虫。
もはや死に体の朴政権は害悪と見限り、政権ナンバー2のギュピョンに、大統領を「なんとかしろ」と言うのである。
直属の上司である大統領、親会社に当たるアメリカ、二つの“ボス”に挟まれてたギュピョンにしてみれば、自分がどんどん悪い方へと追い込まれている状況だ。
デモ隊への対応を巡り、野党指導者のキム・ヨンサムとの交渉を主張したことで、大統領の逆鱗に触れ、徐々に政権内での居場所を失いつつあるのだから、尚更まずい。
しかも彼は、大統領が自ら責任を取ることが決してないことを、長年の経験から知っている。
大統領の口癖が「私は君の側にいる。好きにしたまえ」なんだが、これって結局「部下が勝手にやったことです」というエクスキューズ。
誰かに汚れ仕事をさせて、不要になったら今度は別の誰かに消させる。
この繰り返しを見てきたギュピョンにとっては、大統領のために仕事をしてきた結果、自分の身が危うくなっているのがリアルに分かるのだ。
あらゆる権力は、時間と共に腐敗するという事実に、例外は存在しない。
独裁者の権力に群がり、甘い汁を吸う魑魅魍魎が跋扈する当時の韓国では、愛国者は支えるべき相手が、国なのか大統領なのかと言う二者択一を迫られる。
取り得る選択肢が、徐々に失われてゆくジリジリとした焦燥感と、次何が起こるか分からない緊張感がずっと続く。
中盤のヨンガク暗殺を巡る大統領とギュピョンの、お互いを出しぬこうとする諜報戦は手に汗握り、権謀術数の世界に生きる男たちの苦悩と痛みが伝わってくる。
板挟みになったナンバー2の葛藤を、殆ど表情が変わらない静かな仮面の下に封じた、イ・ビョンホンが素晴らしい。
“失われた靴”などの印象的なディテールも、物語の象徴性を高めて効果的だ。
権力が移り変わる時には血が流れ、時に直接歴史を動かした者でなく、虎視淡々と狙っていた者が漁夫の利を得ることもある。
主人公の周りで、終始チョロチョロしているインパクトのあるハゲ頭の男は何者か。
ある意味、これはさらなる悲劇の始まりを告げる物語なのだ。
ぶっちゃけ、非常に地味な映画ではあるのだが、70年代の時代性の表現なども緻密で、「裏切りのサーカス」などにも通じる、世界の裏側に蠢く哀しき男たちを描くいぶし銀の秀作。
忠誠心と愛国心の間で揺れ動く主人公の心情は、様々な立場におきかえて考えることが出来、今の時代にも響く普遍性は十分だ。
今回はもちろん、ギュピョンと大統領の思い出の酒「マッサ 」をチョイス。
名前の通りマッコリとサイダーのカクテルなんだが、大統領によると配分が重要らしい。
ここはとりあえず、1:1で。
氷を入れたグラスにマッコリ100mlを注ぎ、サイダー100mlで満たす。
見た目はまんまカルピスなんだが、さっぱりした甘さでとても美味しい。
二人の関係もこのお酒のように調和が取れていたら、悲劇は起こらなかったのかもしれないな。

記事が気に入ったらクリックしてね
スポンサーサイト
2021年01月25日 (月) | 編集 |
その信仰は本物だったのか?
少年院を仮出所したばかりの主人公ダニエルが、たまたま訪れた田舎の教会で、教区を巡回している若い司祭と勘違いされる。
コスプレ用の司祭服を着たダニエルのそぶりに、周りの人間は誰も疑念を抱かず、彼はそのまま司祭のフリをし続け、教会で働き出すのだ。
元犯罪者にして聖職者、ダニエルの奇妙な生き様を描き第92回アカデミー賞の国際長編映画賞にノミネートされた、ポーランド発の刺激的なヒューマンドラマ。
監督は「リベリオン ワルシャワ大攻防戦」のヤン・コマサ、主人公のダニエルをバルトシュ・ビィエレニアが演じる。
「犯罪歴がある者は聖職者になれない」
こんな規定があることすら知らなかったが、ダニエルはミサを開き収容者たちの相談にのるために少年院にやってくる司祭に憧れている。
仮出所のパーティーで、手にいれた司祭服を着て悦に入っているくらいならまだ良かったのだが、本来就職するために訪れた村で、エリーザ・リチェムブル演じる好みの女性マルタに、「僕は司祭だ」と見栄をはって嘘をついたのがコトの始まり。
司祭服を持っていたことから彼女に信用され、あれよあれよという間に、教会の本物の司祭をはじめ村の人々に引きあわされ、今更「嘘でした」とは言えなくなってしまう。
人間は権威に弱く、権威を象徴するコスチューム(制服)にも弱い。
村人たちがダニエル、ではなく彼の着ている司祭服に盲従する本作の展開は、ナチス将校の制服を手に入れたケチな脱走兵が、周囲の人間に本物と勘違いされ、自分でもその気になって残酷な戦争犯罪を重ねてゆく「ちいさな独裁者」を思い出させる。
しかしあの映画の主人公は心身共に悪の化身になり切っていたが、対照的な存在である本作の主人公は必ずしも本性から聖職者の境地に至っていた訳ではない。
そもそも、いつかは絶対にバレるイージーな嘘。
ダニエルはそのことを理解しつつ、少年院の更生プログラムをミサに取り入れたり、我流のやり方で住民たちの信頼を得てゆく。
だがある時、この村に刺さったトゲとも言うべき、痛ましい事故の真相を知り、仮初の司祭として街の人々に本当の癒しを与えようとしたことで、徐々に歯車が狂ってゆく。
教会の近くにある慰霊碑に飾られた六人の若者たちの写真。
一年前、彼らが乗った車に、ある男のトラックが正面衝突し、男を含めて七人がなくなった痛ましい大事故。
男には自殺願望があって、アルコールを摂取していたとされ、慰霊碑に写真を飾ることは許されず、教会は埋葬すら拒否し、未亡人は村八分状態。
しかし、実際にはクスリを決めてラリっていたのは若者たちの方だった可能性があることを、その道の人(?)であるダニエルは気付く。
癒されるべき人が拒絶され、間違いを犯した方が同情を集めている。
元から司祭になりたがっていただけあって、ダニエルは最後の務めとばかりとことん“正しいこと”をしようとするのだが、その行動が一見善良そうな村人たちの心の暗部に触れてしまう。
それはずっと偽りの秩序と善悪の危うい均衡の元に成り立っていた、村の社会を大きく揺さぶることになり、聖なる犯罪者はついに自らの虚構をはぎとり、その告白によって自らの信仰と真実に説得力を与えようとするのだ。
人間はどれだけ罪深いのか。
罪が許されるとはどう言うことなのか。
はたして、偽物の司祭は村の人たちの心に、本当の信仰を蘇らせることができたのか。
それとも、自分を含めて何も変えることが出来なかったのか。
東欧の寒々しい風景に重ね合わせるように、ダニエルの心情を活写したピョートル・ソボチンスキ・Jr.のカメラが素晴らしい。
鮮烈なラストは、重い問いかけと共に、強く印象に残る。
今回は、ポーランドといえばの「ベルヴェデール ウォッカ」をチョイス。
近年は若年層の間で、蒸留酒よりもビールが人気だそうだが、本作にはやはりキツイ蒸留酒だろう。
「007」のスペクター・マティーニの、オフィシャルレシピでも知られるベルヴェデールは、まろやかな口当たりが特徴。
冷凍庫でキンキンに冷やして、ちょっとシャーベット状にして飲むのが美味しい。
記事が気に入ったらクリックしてね
少年院を仮出所したばかりの主人公ダニエルが、たまたま訪れた田舎の教会で、教区を巡回している若い司祭と勘違いされる。
コスプレ用の司祭服を着たダニエルのそぶりに、周りの人間は誰も疑念を抱かず、彼はそのまま司祭のフリをし続け、教会で働き出すのだ。
元犯罪者にして聖職者、ダニエルの奇妙な生き様を描き第92回アカデミー賞の国際長編映画賞にノミネートされた、ポーランド発の刺激的なヒューマンドラマ。
監督は「リベリオン ワルシャワ大攻防戦」のヤン・コマサ、主人公のダニエルをバルトシュ・ビィエレニアが演じる。
「犯罪歴がある者は聖職者になれない」
こんな規定があることすら知らなかったが、ダニエルはミサを開き収容者たちの相談にのるために少年院にやってくる司祭に憧れている。
仮出所のパーティーで、手にいれた司祭服を着て悦に入っているくらいならまだ良かったのだが、本来就職するために訪れた村で、エリーザ・リチェムブル演じる好みの女性マルタに、「僕は司祭だ」と見栄をはって嘘をついたのがコトの始まり。
司祭服を持っていたことから彼女に信用され、あれよあれよという間に、教会の本物の司祭をはじめ村の人々に引きあわされ、今更「嘘でした」とは言えなくなってしまう。
人間は権威に弱く、権威を象徴するコスチューム(制服)にも弱い。
村人たちがダニエル、ではなく彼の着ている司祭服に盲従する本作の展開は、ナチス将校の制服を手に入れたケチな脱走兵が、周囲の人間に本物と勘違いされ、自分でもその気になって残酷な戦争犯罪を重ねてゆく「ちいさな独裁者」を思い出させる。
しかしあの映画の主人公は心身共に悪の化身になり切っていたが、対照的な存在である本作の主人公は必ずしも本性から聖職者の境地に至っていた訳ではない。
そもそも、いつかは絶対にバレるイージーな嘘。
ダニエルはそのことを理解しつつ、少年院の更生プログラムをミサに取り入れたり、我流のやり方で住民たちの信頼を得てゆく。
だがある時、この村に刺さったトゲとも言うべき、痛ましい事故の真相を知り、仮初の司祭として街の人々に本当の癒しを与えようとしたことで、徐々に歯車が狂ってゆく。
教会の近くにある慰霊碑に飾られた六人の若者たちの写真。
一年前、彼らが乗った車に、ある男のトラックが正面衝突し、男を含めて七人がなくなった痛ましい大事故。
男には自殺願望があって、アルコールを摂取していたとされ、慰霊碑に写真を飾ることは許されず、教会は埋葬すら拒否し、未亡人は村八分状態。
しかし、実際にはクスリを決めてラリっていたのは若者たちの方だった可能性があることを、その道の人(?)であるダニエルは気付く。
癒されるべき人が拒絶され、間違いを犯した方が同情を集めている。
元から司祭になりたがっていただけあって、ダニエルは最後の務めとばかりとことん“正しいこと”をしようとするのだが、その行動が一見善良そうな村人たちの心の暗部に触れてしまう。
それはずっと偽りの秩序と善悪の危うい均衡の元に成り立っていた、村の社会を大きく揺さぶることになり、聖なる犯罪者はついに自らの虚構をはぎとり、その告白によって自らの信仰と真実に説得力を与えようとするのだ。
人間はどれだけ罪深いのか。
罪が許されるとはどう言うことなのか。
はたして、偽物の司祭は村の人たちの心に、本当の信仰を蘇らせることができたのか。
それとも、自分を含めて何も変えることが出来なかったのか。
東欧の寒々しい風景に重ね合わせるように、ダニエルの心情を活写したピョートル・ソボチンスキ・Jr.のカメラが素晴らしい。
鮮烈なラストは、重い問いかけと共に、強く印象に残る。
今回は、ポーランドといえばの「ベルヴェデール ウォッカ」をチョイス。
近年は若年層の間で、蒸留酒よりもビールが人気だそうだが、本作にはやはりキツイ蒸留酒だろう。
「007」のスペクター・マティーニの、オフィシャルレシピでも知られるベルヴェデールは、まろやかな口当たりが特徴。
冷凍庫でキンキンに冷やして、ちょっとシャーベット状にして飲むのが美味しい。

記事が気に入ったらクリックしてね
2021年01月22日 (金) | 編集 |
“swallow”=“飲み下す、耐える”
ヘイリー・ベネット演じる主人公のハンターは、ブルーカラーの家庭の出身だが、大富豪の御曹司と結婚し、一見すると望むもの全てを手に入れている。
輝かしい将来を約束された優しい夫、親切で上品な義理の両親、モダンで豪華な新居。
しかし、彼女の心はどこか満たされない。
これが長編デビュー作となる、カーロ・ミラベラ=デイヴィス監督の空間演出が秀逸で、デザインが直線的で色がなく、体感温度の低そうな豪邸の中で、居場所なき主人公を浮き立たせる。
いかにも金持ちの家にありそうな、無駄に大きなダイニングセットに向かい合わせで座る夫婦の距離が、彼女の心を象徴する。
ところが、表面的には更なる幸せを約束する妊娠が分かると、彼女は突然ビー玉を飲み込みたいという、奇妙な欲求に突き動かされる。
喉を下ってゆく冷たいガラスの感覚に、官能的な喜びを感じたハンターは、やがて石や金属などの危険な異物を口にする衝動に抗えなくなるのだ。
いわゆる異食症という心の病で、彼女の奇行はすぐに発覚するのだが、今度はことの本質を見ない家族が、上から目線でいろいろな“対策”をとることで、ハンターをますます追い込んでゆく。
彼らにとっては、彼女の病の原因などには興味がなく、異常な行動を止めさせて、健康な後継ぎを生ませることがファーストプライオリティなのだ。
異食症の原因はなんなのか、なぜ妊娠した直後に発症したのか。
家族の無理解が症状を改善させるどころか悪化させてゆく中、カウンセラーとの何気ない会話がきっかけとなり、ハンターは自らの出生の根源にある、無意識に蓋をしていた心の傷に向き合わざるをえなくなる。
壊れかけたハンターの心に唯一シンパシーを感じ、助け舟を出すのが、家族ではなく彼女を監視するために雇われた、シリアからの戦争難民の看護師なのが皮肉。
肉体の傷と違って、心の傷は経験したものだけが共鳴できるという訳か。
ハンターの中に封印されてきた、残酷な性暴力がもたらした母娘二代にわたる忌まわしい記憶。
おそらくずっと彼女を苦しめていたのだろうが、社会の階層の違う相手との結婚がコンプレックスをかき立て、さらに妊娠によって自らの出自に対する無意識の嫌悪が、異食症という形で彼女自身を傷つけるようになったのだろう。
だが異食症はハンターだけでなく、愛していると思っていた相手の正体をも暴き出してしまう。
新妻の夢見た彩ある未来が咲き誇っているのは、もはや冷たい家の中で彼女が植えた花壇のみ。
内面からの強迫的な衝動によって、異物を飲み込んでいたハンターは、遂に自らの過去と対峙し傷の原因を排除する。
そして彼女は、最後に自らの自由意志で、ある決断をするのである。
それは”飲み込む”とは真逆の行為であり、ガチガチの宗教保守派の家庭で育った彼女の母親には、やりたくても出来なかったこと。
妊娠中絶が社会的葛藤のイシューであるアメリカで、主人公の行動は物議をかもしそうだが、生む生まないの判断を、個々の女性が持つべき権利として明確化したのだと捉えれば納得だ。
幸せな家族の崩壊を描くホラーテイストの心理劇であり、心の闇の根元を探すスリリングなミステリでもあり、何者でもなかった女性が生き方を見つける優れた人間ドラマでもある。
自らエグゼクティブ・プロデューサーを兼務し、ほぼ出ずっぱりで時に繊細に、時にパワフルに、ハンターの孤独な心を表現するヘイリー・ベネットが素晴らしい。
金髪というより銀色に近いショートカットが印象的な、まるでマネキンのような人工的なルックスも、ハンターの心の殻を表現したものだろう。
全てに蹴りをつけ殻を脱ぎ捨てたハンターが後にする、女性トイレを定点で描写したエンディングが秀逸。
入れ替わり立ち替わり、年齢も肌の色も違う女性たちがやってくるそこは、まさに男たちの知らない世界の半分の縮図である。
孤独な女性が悪夢から目覚める話である本作には「ナイトメア・オブ・レッド」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、カンパリ30ml、パイナップル・ジュース30ml、オレンジ・ビターズ2dashを氷で満たしたグラスに注ぎ、ステアする。
ドライ・ジンの清涼感とパイナップルのすっきりした甘さを、カンパリとビターズの苦みが演出する。
名前は恐ろしげだが、どちらかと言うと悪夢の夜よりも、その後の爽やかな朝をイメージさせるカクテルだ。
記事が気に入ったらクリックしてね
ヘイリー・ベネット演じる主人公のハンターは、ブルーカラーの家庭の出身だが、大富豪の御曹司と結婚し、一見すると望むもの全てを手に入れている。
輝かしい将来を約束された優しい夫、親切で上品な義理の両親、モダンで豪華な新居。
しかし、彼女の心はどこか満たされない。
これが長編デビュー作となる、カーロ・ミラベラ=デイヴィス監督の空間演出が秀逸で、デザインが直線的で色がなく、体感温度の低そうな豪邸の中で、居場所なき主人公を浮き立たせる。
いかにも金持ちの家にありそうな、無駄に大きなダイニングセットに向かい合わせで座る夫婦の距離が、彼女の心を象徴する。
ところが、表面的には更なる幸せを約束する妊娠が分かると、彼女は突然ビー玉を飲み込みたいという、奇妙な欲求に突き動かされる。
喉を下ってゆく冷たいガラスの感覚に、官能的な喜びを感じたハンターは、やがて石や金属などの危険な異物を口にする衝動に抗えなくなるのだ。
いわゆる異食症という心の病で、彼女の奇行はすぐに発覚するのだが、今度はことの本質を見ない家族が、上から目線でいろいろな“対策”をとることで、ハンターをますます追い込んでゆく。
彼らにとっては、彼女の病の原因などには興味がなく、異常な行動を止めさせて、健康な後継ぎを生ませることがファーストプライオリティなのだ。
異食症の原因はなんなのか、なぜ妊娠した直後に発症したのか。
家族の無理解が症状を改善させるどころか悪化させてゆく中、カウンセラーとの何気ない会話がきっかけとなり、ハンターは自らの出生の根源にある、無意識に蓋をしていた心の傷に向き合わざるをえなくなる。
壊れかけたハンターの心に唯一シンパシーを感じ、助け舟を出すのが、家族ではなく彼女を監視するために雇われた、シリアからの戦争難民の看護師なのが皮肉。
肉体の傷と違って、心の傷は経験したものだけが共鳴できるという訳か。
ハンターの中に封印されてきた、残酷な性暴力がもたらした母娘二代にわたる忌まわしい記憶。
おそらくずっと彼女を苦しめていたのだろうが、社会の階層の違う相手との結婚がコンプレックスをかき立て、さらに妊娠によって自らの出自に対する無意識の嫌悪が、異食症という形で彼女自身を傷つけるようになったのだろう。
だが異食症はハンターだけでなく、愛していると思っていた相手の正体をも暴き出してしまう。
新妻の夢見た彩ある未来が咲き誇っているのは、もはや冷たい家の中で彼女が植えた花壇のみ。
内面からの強迫的な衝動によって、異物を飲み込んでいたハンターは、遂に自らの過去と対峙し傷の原因を排除する。
そして彼女は、最後に自らの自由意志で、ある決断をするのである。
それは”飲み込む”とは真逆の行為であり、ガチガチの宗教保守派の家庭で育った彼女の母親には、やりたくても出来なかったこと。
妊娠中絶が社会的葛藤のイシューであるアメリカで、主人公の行動は物議をかもしそうだが、生む生まないの判断を、個々の女性が持つべき権利として明確化したのだと捉えれば納得だ。
幸せな家族の崩壊を描くホラーテイストの心理劇であり、心の闇の根元を探すスリリングなミステリでもあり、何者でもなかった女性が生き方を見つける優れた人間ドラマでもある。
自らエグゼクティブ・プロデューサーを兼務し、ほぼ出ずっぱりで時に繊細に、時にパワフルに、ハンターの孤独な心を表現するヘイリー・ベネットが素晴らしい。
金髪というより銀色に近いショートカットが印象的な、まるでマネキンのような人工的なルックスも、ハンターの心の殻を表現したものだろう。
全てに蹴りをつけ殻を脱ぎ捨てたハンターが後にする、女性トイレを定点で描写したエンディングが秀逸。
入れ替わり立ち替わり、年齢も肌の色も違う女性たちがやってくるそこは、まさに男たちの知らない世界の半分の縮図である。
孤独な女性が悪夢から目覚める話である本作には「ナイトメア・オブ・レッド」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、カンパリ30ml、パイナップル・ジュース30ml、オレンジ・ビターズ2dashを氷で満たしたグラスに注ぎ、ステアする。
ドライ・ジンの清涼感とパイナップルのすっきりした甘さを、カンパリとビターズの苦みが演出する。
名前は恐ろしげだが、どちらかと言うと悪夢の夜よりも、その後の爽やかな朝をイメージさせるカクテルだ。

記事が気に入ったらクリックしてね
2021年01月19日 (火) | 編集 |
過去が、殺しにやってくる。
実にウェルメイドな、韓国製時間SFホラー映画。
2019年と1999年、二つの時代の同じ住所に住む、28歳の女性同士がなぜか時間を超えた電話で繋がる。
お互いの境遇に共通点があったことから、電話越しに仲良くなってゆくのだが、過去を変えてしまったことで二人の運命が絡み合い、やがて過去vs未来の生き残りを賭けた怒涛の大バトルがはじまる。
イギリス映画「恐怖ノ黒電話」のリメイク作だが、ロケーションやキャラクター設定は大幅に変更され、完成度は本作の方がはるかに高い。
未来を生きるソヨンをパク・シネが、過去から電話をかけるヨンスクをイ・チャンドン監督の「バーニング」が記憶に新しいチョン・ジョンソが演じる。
監督と共同脚本は、2015年に発表した短編「Bargain」で注目され、これが長編デビュー作となる新鋭イ・チュンヒュン。
関係ないけど、カメラの裏方にいるのが勿体ない、韓流スターもびっくりのイケメン監督だ。
※核心部分に触れています。
幼い頃に火事で父を亡くし、入院中の母親とも確執を抱えたソヨン(パク・シネ)は、久しぶりに無人となっていた田舎の実家に帰ってくる。
すると、奇妙な電話がかかってきて切羽詰まった女性の声が聞こえたが、すぐに切れてしまう。
ところが、また同じ女性から電話があり、「母に殺されそう。すぐに来て!」とある住所を言うのだが、ソヨンは間違い電話だと思って電話を切る。
だが女性が告げた住所は、ソヨンが今いる実家の住所。
その夜、家の壁の中に空洞があることを知ったソヨンは、そこで古い日記帳を見つける。
そこには「霊を撃退するために、母が私に火を付ける」と書かれていた。
実は、電話の主はソヨンの家族が引っ越してくる以前の、1999年にこの家に住んでいたヨンスクという女性(チョン・ジョンソ)だった。
20年の時を超えた電話で繋がった二人は、同じ28歳で共に母親との関係に問題を抱えていることもあり、すぐに打ち解ける。
しかしある時、実家の住所の過去を検索したソヨンは、間も無くヨンスクの身に降りかかる恐ろしい運命を知ってしまう。
ヨンスクからの電話にでたソヨンは言う「今日の夜、あなたは死ぬみたい」と・・・・
この映画のタイムパラドックスは、「オーロラの彼方へ」方式。
つまり過去と未来は一直線で、世界線はなし。
過去を変えれば、未来も変わってゆく。
まず20年のタイムラグの恩恵を受けるのは、2019年のソヨンだ。
彼女は1999年11月に起こった火事によって最愛の父を失い、その原因を作った母親を今も許すことができないでいる。
だが、ヨンスクがいるのは火事が起こった日よりも前。
彼女が火事の発生を止めたことによって、ソヨンは夢にまで見た家族の団欒を取り戻すのだ。
そして、今度はソヨンがヨンスクの運命を変える。
ヨンスクは、彼女に悪霊が取り憑いていると信じる祈祷師の母親によって折檻を受け、命を落とすことになっていたが、ソヨンが警告したことによって生き延びる。
だがこの時点で、ソヨンはヨンスクの正体を知らない、いやヨンスク自身もまだ自分が何者なのか知らないのである。
祈祷師だった母親は、娘が多くの人を殺す未来を予見していた。
だから彼女自身の手で、ヨンスクが罪を犯すのを止めねばならなかったのだが、それは阻止されてしまう。
ソヨンは友人を救ったつもりで、図らずも死ぬはずだったシリアルキラーを爆誕させてしまい、ここから20年の時間を挟んでソヨンvsヨンスクの対決がはじまる。
未来のソヨンは、過去に起こることを知っている。
一方、過去のヨンスクは、未来を変えることが出来る。
お互いに影響しあえるから、一本の電話を通して有利・不利の戦術を駆使するスリリングな攻防は、最後まで先を読ませない。
本作は、2011年に作られたイギリス映画「恐怖ノ黒電話」のリメイクなのだが、単純なローカライズ以上の大幅な脚色がなされている。
田舎の大きな洋館のロケーションは、オリジナルでは都会のアパート。
主人公はDV夫と離婚調停中の女性で、過去から電話をかけて来た女性とは男関係で悩んでいるのが共通項。
電話の会話がきっかけで、死の運命を逃れた過去の女性がシリアルキラーと化し、未来の主人公を脅かしていくと言う基本設定は同じだが、実はオリジナルの脚本には大きな穴がいくつもある。
例えば、最初のうちは主人公が過去からの電話に付き合う理由がないし、逆に過去の女が未来に執着する動機もないのだ。
また韓国版のような田舎ならともかく、都会でありふれた名前しか知らないのに、主人公の身元を簡単に特定するのも無理がある。
そこでリメイク版では、あらかじめソヨンの一家が家を買うためにヨンスクの家を内見に来ていて、彼女に顔も住所も知られている設定に。
ヨンスクが母親殺しを皮切りに次々と罪を重ねてゆくと、警察の捜査から逃れるために、過去のソヨンを人質にとって未来のソヨンを共犯関係に巻き込むという構造になっている。
もちろんソヨンもやられっぱなしではないのだが、過去未来が一直線だとどうしても未来の不利は否めない。
いかにしてヨンスクを出し抜いて、彼女の魔の手から脱出するのかがドラマの見どころとなる。
たくましくも可憐なパク・シネと、序盤の普通っぷりが嘘のように、どんどん狂気のドライブがかかってゆくチョン・ジョンソの演技対決もし烈。
基本的に現在の主人公と過去の女性だけしか出来事に絡まないオリジナルに対し、ここではソヨンがヨンスク以外の人物ともコンタクトするのが鍵となり、過去の出来事によって未来の様子が急激に描き換えられる展開は非常に未見性があって面白い。
この映画を観ていて思い出したのが、韓国映画の「ブラインド」を、日本でリメイクした「見えない目撃者」のこと。
事故で視力を失った元女性警察官が、事件の”目撃者”として謎のシリアルキラーに挑むと言うアイディアは面白いのだが、オリジナルにはいろいろ物足りない部分があった。
日本版は、オリジナルの構造的な面白さを最大化しつつ、欠点を丁寧に潰してディテールを強化した作品になっていて、リメイクの考え方として本作と非常に近い。
本作も「見えない目撃者」も、単純といえば単純なワンアイディアに頼った作品であることは確かだが、プロットの作り込みとテリングの未見性でここまで面白くなると言う、まさにリメイクのお手本だ。
本作の場合は、物語の結末までオリジナルとは大きく異なる。
オリジナルはオリジナルで、結構皮肉っぽくていいのだけど、最後の最後で梯子を外しちゃうこっちも、全く容赦無しなのがいかにも韓国映画らしい。
コロナ禍でNetflix直行になってしまった作品だが、この禍々しさは出来れば映画館の暗闇で味わいたかったな!
悪魔のような女に時空を超えてストーカーされる本作には、「デビルズ」をチョイス。
ポートワイン30ml、ドライ・ベルモット30ml、レモン・ジュース2dashをステアして、グラスに注ぐ。
まろやかな味わいのカクテルは、一見優しい悪魔の誘い。
ポートワインの甘さと、レモンの爽やかさがバランスし、とても美味しい。
記事が気に入ったらクリックしてね
実にウェルメイドな、韓国製時間SFホラー映画。
2019年と1999年、二つの時代の同じ住所に住む、28歳の女性同士がなぜか時間を超えた電話で繋がる。
お互いの境遇に共通点があったことから、電話越しに仲良くなってゆくのだが、過去を変えてしまったことで二人の運命が絡み合い、やがて過去vs未来の生き残りを賭けた怒涛の大バトルがはじまる。
イギリス映画「恐怖ノ黒電話」のリメイク作だが、ロケーションやキャラクター設定は大幅に変更され、完成度は本作の方がはるかに高い。
未来を生きるソヨンをパク・シネが、過去から電話をかけるヨンスクをイ・チャンドン監督の「バーニング」が記憶に新しいチョン・ジョンソが演じる。
監督と共同脚本は、2015年に発表した短編「Bargain」で注目され、これが長編デビュー作となる新鋭イ・チュンヒュン。
関係ないけど、カメラの裏方にいるのが勿体ない、韓流スターもびっくりのイケメン監督だ。
※核心部分に触れています。
幼い頃に火事で父を亡くし、入院中の母親とも確執を抱えたソヨン(パク・シネ)は、久しぶりに無人となっていた田舎の実家に帰ってくる。
すると、奇妙な電話がかかってきて切羽詰まった女性の声が聞こえたが、すぐに切れてしまう。
ところが、また同じ女性から電話があり、「母に殺されそう。すぐに来て!」とある住所を言うのだが、ソヨンは間違い電話だと思って電話を切る。
だが女性が告げた住所は、ソヨンが今いる実家の住所。
その夜、家の壁の中に空洞があることを知ったソヨンは、そこで古い日記帳を見つける。
そこには「霊を撃退するために、母が私に火を付ける」と書かれていた。
実は、電話の主はソヨンの家族が引っ越してくる以前の、1999年にこの家に住んでいたヨンスクという女性(チョン・ジョンソ)だった。
20年の時を超えた電話で繋がった二人は、同じ28歳で共に母親との関係に問題を抱えていることもあり、すぐに打ち解ける。
しかしある時、実家の住所の過去を検索したソヨンは、間も無くヨンスクの身に降りかかる恐ろしい運命を知ってしまう。
ヨンスクからの電話にでたソヨンは言う「今日の夜、あなたは死ぬみたい」と・・・・
この映画のタイムパラドックスは、「オーロラの彼方へ」方式。
つまり過去と未来は一直線で、世界線はなし。
過去を変えれば、未来も変わってゆく。
まず20年のタイムラグの恩恵を受けるのは、2019年のソヨンだ。
彼女は1999年11月に起こった火事によって最愛の父を失い、その原因を作った母親を今も許すことができないでいる。
だが、ヨンスクがいるのは火事が起こった日よりも前。
彼女が火事の発生を止めたことによって、ソヨンは夢にまで見た家族の団欒を取り戻すのだ。
そして、今度はソヨンがヨンスクの運命を変える。
ヨンスクは、彼女に悪霊が取り憑いていると信じる祈祷師の母親によって折檻を受け、命を落とすことになっていたが、ソヨンが警告したことによって生き延びる。
だがこの時点で、ソヨンはヨンスクの正体を知らない、いやヨンスク自身もまだ自分が何者なのか知らないのである。
祈祷師だった母親は、娘が多くの人を殺す未来を予見していた。
だから彼女自身の手で、ヨンスクが罪を犯すのを止めねばならなかったのだが、それは阻止されてしまう。
ソヨンは友人を救ったつもりで、図らずも死ぬはずだったシリアルキラーを爆誕させてしまい、ここから20年の時間を挟んでソヨンvsヨンスクの対決がはじまる。
未来のソヨンは、過去に起こることを知っている。
一方、過去のヨンスクは、未来を変えることが出来る。
お互いに影響しあえるから、一本の電話を通して有利・不利の戦術を駆使するスリリングな攻防は、最後まで先を読ませない。
本作は、2011年に作られたイギリス映画「恐怖ノ黒電話」のリメイクなのだが、単純なローカライズ以上の大幅な脚色がなされている。
田舎の大きな洋館のロケーションは、オリジナルでは都会のアパート。
主人公はDV夫と離婚調停中の女性で、過去から電話をかけて来た女性とは男関係で悩んでいるのが共通項。
電話の会話がきっかけで、死の運命を逃れた過去の女性がシリアルキラーと化し、未来の主人公を脅かしていくと言う基本設定は同じだが、実はオリジナルの脚本には大きな穴がいくつもある。
例えば、最初のうちは主人公が過去からの電話に付き合う理由がないし、逆に過去の女が未来に執着する動機もないのだ。
また韓国版のような田舎ならともかく、都会でありふれた名前しか知らないのに、主人公の身元を簡単に特定するのも無理がある。
そこでリメイク版では、あらかじめソヨンの一家が家を買うためにヨンスクの家を内見に来ていて、彼女に顔も住所も知られている設定に。
ヨンスクが母親殺しを皮切りに次々と罪を重ねてゆくと、警察の捜査から逃れるために、過去のソヨンを人質にとって未来のソヨンを共犯関係に巻き込むという構造になっている。
もちろんソヨンもやられっぱなしではないのだが、過去未来が一直線だとどうしても未来の不利は否めない。
いかにしてヨンスクを出し抜いて、彼女の魔の手から脱出するのかがドラマの見どころとなる。
たくましくも可憐なパク・シネと、序盤の普通っぷりが嘘のように、どんどん狂気のドライブがかかってゆくチョン・ジョンソの演技対決もし烈。
基本的に現在の主人公と過去の女性だけしか出来事に絡まないオリジナルに対し、ここではソヨンがヨンスク以外の人物ともコンタクトするのが鍵となり、過去の出来事によって未来の様子が急激に描き換えられる展開は非常に未見性があって面白い。
この映画を観ていて思い出したのが、韓国映画の「ブラインド」を、日本でリメイクした「見えない目撃者」のこと。
事故で視力を失った元女性警察官が、事件の”目撃者”として謎のシリアルキラーに挑むと言うアイディアは面白いのだが、オリジナルにはいろいろ物足りない部分があった。
日本版は、オリジナルの構造的な面白さを最大化しつつ、欠点を丁寧に潰してディテールを強化した作品になっていて、リメイクの考え方として本作と非常に近い。
本作も「見えない目撃者」も、単純といえば単純なワンアイディアに頼った作品であることは確かだが、プロットの作り込みとテリングの未見性でここまで面白くなると言う、まさにリメイクのお手本だ。
本作の場合は、物語の結末までオリジナルとは大きく異なる。
オリジナルはオリジナルで、結構皮肉っぽくていいのだけど、最後の最後で梯子を外しちゃうこっちも、全く容赦無しなのがいかにも韓国映画らしい。
コロナ禍でNetflix直行になってしまった作品だが、この禍々しさは出来れば映画館の暗闇で味わいたかったな!
悪魔のような女に時空を超えてストーカーされる本作には、「デビルズ」をチョイス。
ポートワイン30ml、ドライ・ベルモット30ml、レモン・ジュース2dashをステアして、グラスに注ぐ。
まろやかな味わいのカクテルは、一見優しい悪魔の誘い。
ポートワインの甘さと、レモンの爽やかさがバランスし、とても美味しい。

記事が気に入ったらクリックしてね
2021年01月14日 (木) | 編集 |
チャンシルさん、幸せを探す。
これとても好き♡
アラフォーの映画プロデューサー、チャンシルさんが、長年支えてきた監督の死によって失業者に。
振り返ってみれば、結婚も出産もせず、青春時代から全てを映画に捧げてきた人生。
突然世間に放り出されたチャンシルさんは、改めて自分にとって本当の幸せとは何かを考えはじめる。
やがて、映画という絶対の「福(幸せ)」を失ったチャンシルさんにも、恋の季節がやってくる。
本作で長編監督デビューを飾ったキム・チョヒ監督は、自らもホン・サンスのプロデューサーとして活動してきた経歴を持ち、たぶんに実体験を反映したであろう物語は、ウィットに富んでいて実に面白い。
今までバイトしながら舞台と短編映画を中心に活動してきたという、遅咲きの新星カン・マルグムが、タイトルロールのチャンシルさんを好演する。
第24回釜山国際映画祭では、インディペンデント・フィルム・アワードほか三冠、第45回ソウル・インディペンデント映画祭でも観客賞に輝くなど、高い評価を受けた作品だ。
イ・チャンシル(カン・マルグム)は、インディーズ映画のプロデューサー。
ところが、ずっと組んでいたチ監督(ソ・ソンウォン)が宴会の席で突然死。
プロジェクトは霧散し、彼女も仕事を失ってしまう。
今まで仕事一筋だった40歳独身、金なし、家なし、男なし。
とりあえず不便な丘にある上の安い部屋に引っ越し、馴染みの女優ソフィー(ユン・スンア)の家政婦として働くことにしたチャンシルは、改めて人生を見つめ直す。
ソフィーのフランス語家庭教師で、短編映画を撮っているというキム・ヨン(ユ・ペラム)に心を騒つかせ、なぜか下着姿で現れる自称レスリー・チャンの幽霊(キム・ヨンミン)と交流し、文盲の大家のおばあちゃん(ユン・ヨジュン)に字を教えたり、それなりに充実した日々を送りながら、自分が本当に欲しいもの、なりたいものを考える。
やがて、彼女の心の中に見えてくるのは・・・・・
キム・チョヒは、2007年の「アバンチュールはパリで」で初めてプロデューサーとしてホン・サンス監督作品に参加。
以来、長年に渡ってプロデューサーとして彼の作品を支えてきた。
写真を見るとなんとなく主人公のチャンシルさんに似ているし、実際この作品を作り始めたのは40歳の時だったというから、半自伝的な要素も入っているのだろう。
キム監督は数本の短編映画を撮った経験もあり、監督への転身は計画していたのかも知れないが、映画ではいきなり冒頭でホン・サンスっぽいチ監督を殺し、主人公を葛藤モードに強制的に入らせる。
韓国のインディーズシーンの内情には詳しくないが、描写から想像するに、チ監督の映画はドラマチックなことは起こらない日常系で、あまりヒットはしていない。
日本で言えば、例えばケイズシネマズ あたりで上映される、地味な良品邦画のイメージ。
プロデューサーのチャンシルさんは、事実上チ監督の専属状態で、パトロンのパク代表の出資でなんとか映画を作り続けていたのだろう。
なので、チ監督の死でパトロンが映画作りに興味を失うと、彼とのコンビ作以外の実績も人脈もないチャンシルさんは、どこへも行き場が無くなってしまうのだ。
実際には業界内の交流もあるはずだから、全てが断ち切られるケースは稀だと思うが、基本この映画はチャンシルさんを中心に半径10メートル以内の、カリカチュアされた世界で展開する非常に小さな物語だ。
主人公が監督でも俳優でもなく、プロデューサーなのがポイント。
映画作りの中核にいるのに、いろいろな肩書きの中で一番役割を説明しにくいのがプロデューサーだろう。
彼女自身も、自分の仕事をうまく言い表せないのがいかにもだ。
プロデューサー率いる制作部は、企画を売り込み、資金を集め、スタッフ・キャストを雇い、スケジュールと予算を管理し、一本の映画が完成し、観客に届くまでプロセス全てに関わる。
私も制作部の仕事をしていたから分かるのだが、あまりにもやることが多岐に渡っているので、「こういう仕事」と簡単に言い表せない。
よく言えば「一本の映画の経営」なんだが、側からだと雑用にしか見えなかったりする。
だから映画作りの実情を知らず、監督一人がいれば映画は出来ると考えていたパトロンには捨てられてしまうのだ。
それでも全編に渡ってスクリーンから滲み出るのは、チャンシルさんのディープな映画愛。
映画の仕事を辞めても、彼女はやっぱり映画から離れられないのである。
雑用なんでも来い!の経歴を生かし、あんまり家事できる系ではない、仲の良い女優ソフィーの家で家政婦をしながら、齢40にして自分の人生を見つめ直そうとする。
物語のターニングポイントになるのが、「愛の不時着」の耳野郎役で知られるキム・ヨンミン演じる、自称レスリー・チャンの幽霊の登場だ。
「欲望の翼」の主人公を思わせる下着姿の彼が本当は何者で、なぜチャンシルさんの前に現れたのかという説明は無いが、私は彼女を救うために降臨した映画の神様と勝手に解釈した。
ここから、チャンシルさんの幸せ探しの冒険が加速する。
まずはレスリーに励まされ、歳下の家庭教師キム・ヨンにぶつかってみるものの玉砕。
まあ彼が現れるきっかけとなる最初のデートで、小津安二郎こそが至高と言い張るチャンシルさんに対し、ヨンには小津はあんまり面白くないからノーランが好きと言わせて、合いそうに無いことは示唆してたけど。
実際映画オタク同士が恋愛関係になると、結構好みは重要だったりするぞ(笑
結局、チャンシルさんの人生のバックボーンは映画作りなのだ。
失業、失恋と人生経験を積み増し、彼女がはじめるのが脚本の執筆なのだから、やはり作者自身の人生が見え隠れする。
映画ではチャンシルさんが実際に映画作りに戻るまでは描かれないが、彼女の人生の向かう先は示唆される。
以前の仲間たちが彼女の家に募った夜、空には大きな月が出ている。
そして、皆で暗い山道を麓へと降りながら、チャンシルさんは自分は後ろに下がり、皆の足元を懐中電灯で照らす役を買って出るのだ。
五里霧中の映画作りの中で、スタッフ・キャスト全員を見守り、行き先を示してくれる。
地味な存在だが、いてくれないと誰もゴールに辿り着けない闇夜の満月、それこそがプロデューサー。
チャンシルさんには福が多い。
彼女自身は仕事だけが福だと思って生きてきて、全てを失ってしまったと嘆いていたが、彼女の周りにはたくさんの人がいる。
大変な時に雇い主になって生活を支えてくれるソフィーも、懇意になって世話を焼いてくれる大家のおばあちゃんも、死してなお映画の守護神としてチャンシルさんを見守るレスリー・チャン(?)も、そして彼女を慕っている若いスタッフたちも、みなチャンシルさんの大切な福。
これは、一人の女性が自分の周りのたくさんの福に気付くまでの物語。
ほぼ映画の内容そのものである、エンディングテーマ曲が妙に耳に残る。
ちょっと遅めの自分探しの青春映画としても、ある種のお仕事ムービーとしても秀逸な作品だ。
今回はチャンシルさんと飲みたい、日本でもお馴染みの韓国焼酎「眞露 チャミスル」をチョイス。
色々な飲み方ができるクセのない焼酎だが、私のお気に入りの飲み方は「眞露カッパー」だ。
キンキンに冷やしたチャミスルをソーダで割り、スティック状に細く縦切りにしたキュウリ一本を浸す。
公式レシピだとミネラルウォーターで割るのだけど、ここは断然ソーダ割りを推しておく。
キュウリをつまみにポリポリしながら飲むのだけど、心なしかキュウリが甘く感じられて美味しい。
昔キュウリに蜂蜜かけるとメロン味になると言われたけど、近いものがある?
記事が気に入ったらクリックしてね
これとても好き♡
アラフォーの映画プロデューサー、チャンシルさんが、長年支えてきた監督の死によって失業者に。
振り返ってみれば、結婚も出産もせず、青春時代から全てを映画に捧げてきた人生。
突然世間に放り出されたチャンシルさんは、改めて自分にとって本当の幸せとは何かを考えはじめる。
やがて、映画という絶対の「福(幸せ)」を失ったチャンシルさんにも、恋の季節がやってくる。
本作で長編監督デビューを飾ったキム・チョヒ監督は、自らもホン・サンスのプロデューサーとして活動してきた経歴を持ち、たぶんに実体験を反映したであろう物語は、ウィットに富んでいて実に面白い。
今までバイトしながら舞台と短編映画を中心に活動してきたという、遅咲きの新星カン・マルグムが、タイトルロールのチャンシルさんを好演する。
第24回釜山国際映画祭では、インディペンデント・フィルム・アワードほか三冠、第45回ソウル・インディペンデント映画祭でも観客賞に輝くなど、高い評価を受けた作品だ。
イ・チャンシル(カン・マルグム)は、インディーズ映画のプロデューサー。
ところが、ずっと組んでいたチ監督(ソ・ソンウォン)が宴会の席で突然死。
プロジェクトは霧散し、彼女も仕事を失ってしまう。
今まで仕事一筋だった40歳独身、金なし、家なし、男なし。
とりあえず不便な丘にある上の安い部屋に引っ越し、馴染みの女優ソフィー(ユン・スンア)の家政婦として働くことにしたチャンシルは、改めて人生を見つめ直す。
ソフィーのフランス語家庭教師で、短編映画を撮っているというキム・ヨン(ユ・ペラム)に心を騒つかせ、なぜか下着姿で現れる自称レスリー・チャンの幽霊(キム・ヨンミン)と交流し、文盲の大家のおばあちゃん(ユン・ヨジュン)に字を教えたり、それなりに充実した日々を送りながら、自分が本当に欲しいもの、なりたいものを考える。
やがて、彼女の心の中に見えてくるのは・・・・・
キム・チョヒは、2007年の「アバンチュールはパリで」で初めてプロデューサーとしてホン・サンス監督作品に参加。
以来、長年に渡ってプロデューサーとして彼の作品を支えてきた。
写真を見るとなんとなく主人公のチャンシルさんに似ているし、実際この作品を作り始めたのは40歳の時だったというから、半自伝的な要素も入っているのだろう。
キム監督は数本の短編映画を撮った経験もあり、監督への転身は計画していたのかも知れないが、映画ではいきなり冒頭でホン・サンスっぽいチ監督を殺し、主人公を葛藤モードに強制的に入らせる。
韓国のインディーズシーンの内情には詳しくないが、描写から想像するに、チ監督の映画はドラマチックなことは起こらない日常系で、あまりヒットはしていない。
日本で言えば、例えばケイズシネマズ あたりで上映される、地味な良品邦画のイメージ。
プロデューサーのチャンシルさんは、事実上チ監督の専属状態で、パトロンのパク代表の出資でなんとか映画を作り続けていたのだろう。
なので、チ監督の死でパトロンが映画作りに興味を失うと、彼とのコンビ作以外の実績も人脈もないチャンシルさんは、どこへも行き場が無くなってしまうのだ。
実際には業界内の交流もあるはずだから、全てが断ち切られるケースは稀だと思うが、基本この映画はチャンシルさんを中心に半径10メートル以内の、カリカチュアされた世界で展開する非常に小さな物語だ。
主人公が監督でも俳優でもなく、プロデューサーなのがポイント。
映画作りの中核にいるのに、いろいろな肩書きの中で一番役割を説明しにくいのがプロデューサーだろう。
彼女自身も、自分の仕事をうまく言い表せないのがいかにもだ。
プロデューサー率いる制作部は、企画を売り込み、資金を集め、スタッフ・キャストを雇い、スケジュールと予算を管理し、一本の映画が完成し、観客に届くまでプロセス全てに関わる。
私も制作部の仕事をしていたから分かるのだが、あまりにもやることが多岐に渡っているので、「こういう仕事」と簡単に言い表せない。
よく言えば「一本の映画の経営」なんだが、側からだと雑用にしか見えなかったりする。
だから映画作りの実情を知らず、監督一人がいれば映画は出来ると考えていたパトロンには捨てられてしまうのだ。
それでも全編に渡ってスクリーンから滲み出るのは、チャンシルさんのディープな映画愛。
映画の仕事を辞めても、彼女はやっぱり映画から離れられないのである。
雑用なんでも来い!の経歴を生かし、あんまり家事できる系ではない、仲の良い女優ソフィーの家で家政婦をしながら、齢40にして自分の人生を見つめ直そうとする。
物語のターニングポイントになるのが、「愛の不時着」の耳野郎役で知られるキム・ヨンミン演じる、自称レスリー・チャンの幽霊の登場だ。
「欲望の翼」の主人公を思わせる下着姿の彼が本当は何者で、なぜチャンシルさんの前に現れたのかという説明は無いが、私は彼女を救うために降臨した映画の神様と勝手に解釈した。
ここから、チャンシルさんの幸せ探しの冒険が加速する。
まずはレスリーに励まされ、歳下の家庭教師キム・ヨンにぶつかってみるものの玉砕。
まあ彼が現れるきっかけとなる最初のデートで、小津安二郎こそが至高と言い張るチャンシルさんに対し、ヨンには小津はあんまり面白くないからノーランが好きと言わせて、合いそうに無いことは示唆してたけど。
実際映画オタク同士が恋愛関係になると、結構好みは重要だったりするぞ(笑
結局、チャンシルさんの人生のバックボーンは映画作りなのだ。
失業、失恋と人生経験を積み増し、彼女がはじめるのが脚本の執筆なのだから、やはり作者自身の人生が見え隠れする。
映画ではチャンシルさんが実際に映画作りに戻るまでは描かれないが、彼女の人生の向かう先は示唆される。
以前の仲間たちが彼女の家に募った夜、空には大きな月が出ている。
そして、皆で暗い山道を麓へと降りながら、チャンシルさんは自分は後ろに下がり、皆の足元を懐中電灯で照らす役を買って出るのだ。
五里霧中の映画作りの中で、スタッフ・キャスト全員を見守り、行き先を示してくれる。
地味な存在だが、いてくれないと誰もゴールに辿り着けない闇夜の満月、それこそがプロデューサー。
チャンシルさんには福が多い。
彼女自身は仕事だけが福だと思って生きてきて、全てを失ってしまったと嘆いていたが、彼女の周りにはたくさんの人がいる。
大変な時に雇い主になって生活を支えてくれるソフィーも、懇意になって世話を焼いてくれる大家のおばあちゃんも、死してなお映画の守護神としてチャンシルさんを見守るレスリー・チャン(?)も、そして彼女を慕っている若いスタッフたちも、みなチャンシルさんの大切な福。
これは、一人の女性が自分の周りのたくさんの福に気付くまでの物語。
ほぼ映画の内容そのものである、エンディングテーマ曲が妙に耳に残る。
ちょっと遅めの自分探しの青春映画としても、ある種のお仕事ムービーとしても秀逸な作品だ。
今回はチャンシルさんと飲みたい、日本でもお馴染みの韓国焼酎「眞露 チャミスル」をチョイス。
色々な飲み方ができるクセのない焼酎だが、私のお気に入りの飲み方は「眞露カッパー」だ。
キンキンに冷やしたチャミスルをソーダで割り、スティック状に細く縦切りにしたキュウリ一本を浸す。
公式レシピだとミネラルウォーターで割るのだけど、ここは断然ソーダ割りを推しておく。
キュウリをつまみにポリポリしながら飲むのだけど、心なしかキュウリが甘く感じられて美味しい。
昔キュウリに蜂蜜かけるとメロン味になると言われたけど、近いものがある?

記事が気に入ったらクリックしてね
2021年01月11日 (月) | 編集 |
愛するとは。
異才テレンス・マリックが、「ボヤージュ・オブ・タイム」と「名もなき生涯」の間の、2017年に発表した作品。
四人の男女の四角関係を通して、変化する愛のカタチが描かれる。
高い評価を得た1978年の「天国の日々」以来、20年間も映画を撮らず、幻の監督とまで呼ばれたマリックは、98年に「シン・レッド・ライン」で復帰すると、2005年の「ニュー・ワールド」、11年の「ツリー・オブ・ライフ」を経て、10年代に入ると毎年のように作品を発表するようになる。
だがその作風は、「ニュー・ワールド」を境に、どんどんとストーリー性が希薄となっていった。
元々詩的ではあったものの、彼の映画は物語としての文脈を失い、抽象的な映像詩と化して行ったのである。
その究極が、生命の歴史を描く“ドキュメンタリー映画”の「ボヤージュ・オブ・タイム」だ。
よく「マリックの映画は寝ちゃう」という人がいるけど、彼の映画の場合寝ちゃっても良いんじゃないかと思う。
物語の展開を追う必要がほぼ無いし、映像と音楽は全力で心地よい空気を作り出すことに注力してるんだから、むしろ寝落ちを誘ってるフシさえある。
面白いかどうかすら、正直よく分からないが、観ていて夢見心地なってくることは確か。
ここ数作は描いていること理解しようとするよりも、ムードに浸ることがマリック作品の鑑賞スタイルになっていたのだ。
ところが、第二次世界大戦中に、ナチス・ドイツに対し良心的兵役拒否をつらぬき、処刑された実在の人物、フランツ・イェーガーシュテッターを描いた「名もなき生涯」では、一転してきっちりしたストーリー構成を取り戻していた。
流石にこの内容をやるのであれば、観る者によって無数の解釈がされてしまうような曖昧さがあってはマズいわけだが、それでも作品を作る毎に既存の物語を解体していった人物の映画だと思うと驚きがあった。
しかし、この突然の変化は本作を見て納得。
「ボヤージュ・オブ・タイム」と「名もなき生涯」の間に作られたこの映画は、なるほどスタイルも両作の中間なのだ。
全編に渡って、詩的なモノローグを中心に進行してゆくのは変わらない。
だが、必要最小限ではあるが、キャラクター設定やそれぞれの問題は分かりやすく提示される。
基本的にはルーニー・マーラー、マイケル・ファスベンダー、ライアン・ゴズリング、ナタリー・ポートマンが演じる四人の男女のラブストーリー。
群像劇の軸となるのは、何者かになりたいと願うルーニー・マーラー演じるフェイだ。
彼女はオースチンの音楽業界の大物であるファスベンダーと付き合っているが、売れないミュージシャンのゴズリングからも想いを寄せられる。
一方で享楽的な恋愛観を持つファスベンダーは、ダイナーのウェイトレスをしているナタリー・ポートマンを誘惑し、あれよあれよという間に結婚してしまう。
要するに、四人がお互いに「愛する」を色々試した結果、破滅する愛もあれば成就する真実の愛もあるよ、という話だ。
ベースにある倫理観そのものは、非常にキリスト教的なのは相変わらずだし、ぶっちゃけ言葉にしてしまうと身もふたもない映画なのだが、この人間の意識の海にたゆたうような独特の感覚がこの作家の最大の魅力。
物語映画でありながら、登場人物たちの生活をのぞき見ているようなテリングのタッチ、またイギー・ポップやパティ・スミスらミュージシャンがが本人役で出てくるなど、ドキュメンタリー的な要素もあるのが本作の最大の特徴と言えるだろう。
過渡期の作品と考えると非常に分かりやすいが、全編に渡って鳴りっぱなしの音楽に、象徴的に描写される水のモチーフなど、独特のマリック節は健在。
彼はコンテキスト要素を削ぎ落としていって、一度は抽象表現に行き着き、ここにきて再び物語映画に回帰するという、いわば創作の円環を形作ったわけだが、ここからまたどこへ向かうのだろうか。
例によってお客は選ぶだろうが、色々な意味で目の離せない作家ではある。
白昼夢のような本作には、「ドリーム」をチョイス。
ブランデー40ml、オレンジ・キュラソー20ml、ぺルノ1dashを、氷と共にシェイクしてグラスに注ぐ。
ブランデーのコクのある甘味とオレンジの風味を、ぺルノの強い個性が繋ぎ合わせる。
まったりとした甘口のカクテルだが、夢に誘う力は非常に強い。
記事が気に入ったらクリックしてね
異才テレンス・マリックが、「ボヤージュ・オブ・タイム」と「名もなき生涯」の間の、2017年に発表した作品。
四人の男女の四角関係を通して、変化する愛のカタチが描かれる。
高い評価を得た1978年の「天国の日々」以来、20年間も映画を撮らず、幻の監督とまで呼ばれたマリックは、98年に「シン・レッド・ライン」で復帰すると、2005年の「ニュー・ワールド」、11年の「ツリー・オブ・ライフ」を経て、10年代に入ると毎年のように作品を発表するようになる。
だがその作風は、「ニュー・ワールド」を境に、どんどんとストーリー性が希薄となっていった。
元々詩的ではあったものの、彼の映画は物語としての文脈を失い、抽象的な映像詩と化して行ったのである。
その究極が、生命の歴史を描く“ドキュメンタリー映画”の「ボヤージュ・オブ・タイム」だ。
よく「マリックの映画は寝ちゃう」という人がいるけど、彼の映画の場合寝ちゃっても良いんじゃないかと思う。
物語の展開を追う必要がほぼ無いし、映像と音楽は全力で心地よい空気を作り出すことに注力してるんだから、むしろ寝落ちを誘ってるフシさえある。
面白いかどうかすら、正直よく分からないが、観ていて夢見心地なってくることは確か。
ここ数作は描いていること理解しようとするよりも、ムードに浸ることがマリック作品の鑑賞スタイルになっていたのだ。
ところが、第二次世界大戦中に、ナチス・ドイツに対し良心的兵役拒否をつらぬき、処刑された実在の人物、フランツ・イェーガーシュテッターを描いた「名もなき生涯」では、一転してきっちりしたストーリー構成を取り戻していた。
流石にこの内容をやるのであれば、観る者によって無数の解釈がされてしまうような曖昧さがあってはマズいわけだが、それでも作品を作る毎に既存の物語を解体していった人物の映画だと思うと驚きがあった。
しかし、この突然の変化は本作を見て納得。
「ボヤージュ・オブ・タイム」と「名もなき生涯」の間に作られたこの映画は、なるほどスタイルも両作の中間なのだ。
全編に渡って、詩的なモノローグを中心に進行してゆくのは変わらない。
だが、必要最小限ではあるが、キャラクター設定やそれぞれの問題は分かりやすく提示される。
基本的にはルーニー・マーラー、マイケル・ファスベンダー、ライアン・ゴズリング、ナタリー・ポートマンが演じる四人の男女のラブストーリー。
群像劇の軸となるのは、何者かになりたいと願うルーニー・マーラー演じるフェイだ。
彼女はオースチンの音楽業界の大物であるファスベンダーと付き合っているが、売れないミュージシャンのゴズリングからも想いを寄せられる。
一方で享楽的な恋愛観を持つファスベンダーは、ダイナーのウェイトレスをしているナタリー・ポートマンを誘惑し、あれよあれよという間に結婚してしまう。
要するに、四人がお互いに「愛する」を色々試した結果、破滅する愛もあれば成就する真実の愛もあるよ、という話だ。
ベースにある倫理観そのものは、非常にキリスト教的なのは相変わらずだし、ぶっちゃけ言葉にしてしまうと身もふたもない映画なのだが、この人間の意識の海にたゆたうような独特の感覚がこの作家の最大の魅力。
物語映画でありながら、登場人物たちの生活をのぞき見ているようなテリングのタッチ、またイギー・ポップやパティ・スミスらミュージシャンがが本人役で出てくるなど、ドキュメンタリー的な要素もあるのが本作の最大の特徴と言えるだろう。
過渡期の作品と考えると非常に分かりやすいが、全編に渡って鳴りっぱなしの音楽に、象徴的に描写される水のモチーフなど、独特のマリック節は健在。
彼はコンテキスト要素を削ぎ落としていって、一度は抽象表現に行き着き、ここにきて再び物語映画に回帰するという、いわば創作の円環を形作ったわけだが、ここからまたどこへ向かうのだろうか。
例によってお客は選ぶだろうが、色々な意味で目の離せない作家ではある。
白昼夢のような本作には、「ドリーム」をチョイス。
ブランデー40ml、オレンジ・キュラソー20ml、ぺルノ1dashを、氷と共にシェイクしてグラスに注ぐ。
ブランデーのコクのある甘味とオレンジの風味を、ぺルノの強い個性が繋ぎ合わせる。
まったりとした甘口のカクテルだが、夢に誘う力は非常に強い。

記事が気に入ったらクリックしてね
2021年01月07日 (木) | 編集 |
主婦の知恵で、火星を目指す!
いやー面白い!
2014年9月24日、インドの火星探査機マンガルヤーンが11ヶ月に及ぶ長い旅を終え、火星の周回軌道に投入された。
火星に到達したのは米国、ロシア、欧州宇宙機関に次いで世界で四番目、アジアでは初。
ところが、この快挙は実は失敗から始まった大逆転劇であったというお話だ。
主人公はインド宇宙研究機関(ISRO)に勤める、プロジェクトディレクターのタラ・シンデと彼女の上司であるラケーシュ・ダワンの科学者コンビ。
「パッドマン 5億人の女性を救った男」のアクシャイ・クマールがラケーシュを、「女神は二度微笑む」のヴィディヤ・バランがタラを演じる。
監督と共同脚本を務めるのは、「パッドマン」の助監督だったジャガン・シャクティだ。
インドは科学技術大国で、70年代末には国産ロケットを開発し、現在でも自前の衛星打ち上げ能力を持つ数少ない国の一つ。
ことの始まりは2010年。
大型ロケットGSLVの発射直後、第一段のブースターが制御不能となり、自爆処理される。
責任者だったタラとラケーシュは、この失敗の責任を取らされ、火星探査ミッションへの移動を命じられるのだ。
一瞬「え?良いじゃない?」と思ったのだが、なるほど当時のISROでは2009年に月を探査したチャンドラヤーン1号の後継機の計画が最優先されていて、火星探査の方は「10年後くらいに出来たらいいね?」程度の具体性しかない。
要するに、注目度ゼロの閑職なんだな。
だが天才は、転んでもただでは起きない。
信頼性が高く安価な小型ロケットPSLVを使用し、燃料を節約しつつ探査機を火星軌道まで飛ばす方法をタラが考案すると、彼女とラケーシュは火星の大接近に合わせた新たな火星探査計画をぶち上げる。
しかし、突拍子もない計画の実現性に上層部は懐疑的。
ベテラン職員は月探査計画に取られ、集められたのは経験の浅い女性科学者たちに、引退間近のロートルの爺さんで、予算はハリウッド映画一本分にも満たない4500万ドル。
しかも火星と地球が大接近する打ち上げタイムリミットまでは、たったの3年しかないのだが、ある理由で計画は一時凍結され、実質的に使える時間は1年しかなくなってしまう。
金なし、人なし、時間なし。
普通に考えれば絶対不可能なミッションを、女性を中心とした天才集団が解決してゆくのがカッコいい。
冒頭、二人の子を持つ母でもあるタラが、できる母さんモードで、テキパキと朝の家事をこなしてゆく。
そして場面が変わると、今度はISROのバリバリのプロジェクトディレクターとして、ロケット打ち上げを仕切っているのである。
誰でも感情移入できる苦労を抱えた主婦の日常と、科学者として人類の問題に挑む非日常のコントラスが本作の大きな魅力だ。
極限まで軽く、小さく、そして安く。
当初は腰掛けのつもりだったスタッフたちも、それぞれの才覚を発揮して、一つずつ壁をブレイクスルーしてゆくのだが、事実かどうかは別として、難問解決に料理とか片付けとかリサイクルとか、日常体験がヒントになるのが面白い。
一方で、タラが夫から仕事を辞めてほしいと迫られていたり、スタッフの一人が性暴力が多発する公共交通機関が怖くて、車の免許を取ろうとしていたり、激務の中で妊娠出産する問題が描かれたり、インドの女性たちが置かれた社会状況が隠し味として機能する。
本作は、いわばインド版の「ライトスタッフ」であり「ドリーム」だ。
まあスタート時のチームは、いくらなんでもあの人数じゃなかっただろうし、色々エンタメとして盛ってあるのだろうが、池井戸潤の小説などにも通じる、痛快なお仕事ムービー。
ところで、ミュージカルはやっぱ外せないのね(笑
今回は宇宙つながりで「スターマン・サワー」をチョイス。
元々アメリカのカクテルサイト、“Kindred Cocktails”に投稿された「スターマン」を改良したレシピ。
ジン30ml、アプリコット・ブランデー15ml、アマーロ・ノニーノ(グラッパ )15ml、レモン・ジュース22.5ml、オレンジ・ビターズ2ダッシュを氷と共にシェイクする。
ストレーナーを使って冷やしたグラスに注ぎ、オレンジピールを飾って完成。
アマーロの複雑な風味が効いている。
見た目も美しいが、オリジナルよりも甘酸っぱさが強調されていて、とても美味しい。
記事が気に入ったらクリックしてね
いやー面白い!
2014年9月24日、インドの火星探査機マンガルヤーンが11ヶ月に及ぶ長い旅を終え、火星の周回軌道に投入された。
火星に到達したのは米国、ロシア、欧州宇宙機関に次いで世界で四番目、アジアでは初。
ところが、この快挙は実は失敗から始まった大逆転劇であったというお話だ。
主人公はインド宇宙研究機関(ISRO)に勤める、プロジェクトディレクターのタラ・シンデと彼女の上司であるラケーシュ・ダワンの科学者コンビ。
「パッドマン 5億人の女性を救った男」のアクシャイ・クマールがラケーシュを、「女神は二度微笑む」のヴィディヤ・バランがタラを演じる。
監督と共同脚本を務めるのは、「パッドマン」の助監督だったジャガン・シャクティだ。
インドは科学技術大国で、70年代末には国産ロケットを開発し、現在でも自前の衛星打ち上げ能力を持つ数少ない国の一つ。
ことの始まりは2010年。
大型ロケットGSLVの発射直後、第一段のブースターが制御不能となり、自爆処理される。
責任者だったタラとラケーシュは、この失敗の責任を取らされ、火星探査ミッションへの移動を命じられるのだ。
一瞬「え?良いじゃない?」と思ったのだが、なるほど当時のISROでは2009年に月を探査したチャンドラヤーン1号の後継機の計画が最優先されていて、火星探査の方は「10年後くらいに出来たらいいね?」程度の具体性しかない。
要するに、注目度ゼロの閑職なんだな。
だが天才は、転んでもただでは起きない。
信頼性が高く安価な小型ロケットPSLVを使用し、燃料を節約しつつ探査機を火星軌道まで飛ばす方法をタラが考案すると、彼女とラケーシュは火星の大接近に合わせた新たな火星探査計画をぶち上げる。
しかし、突拍子もない計画の実現性に上層部は懐疑的。
ベテラン職員は月探査計画に取られ、集められたのは経験の浅い女性科学者たちに、引退間近のロートルの爺さんで、予算はハリウッド映画一本分にも満たない4500万ドル。
しかも火星と地球が大接近する打ち上げタイムリミットまでは、たったの3年しかないのだが、ある理由で計画は一時凍結され、実質的に使える時間は1年しかなくなってしまう。
金なし、人なし、時間なし。
普通に考えれば絶対不可能なミッションを、女性を中心とした天才集団が解決してゆくのがカッコいい。
冒頭、二人の子を持つ母でもあるタラが、できる母さんモードで、テキパキと朝の家事をこなしてゆく。
そして場面が変わると、今度はISROのバリバリのプロジェクトディレクターとして、ロケット打ち上げを仕切っているのである。
誰でも感情移入できる苦労を抱えた主婦の日常と、科学者として人類の問題に挑む非日常のコントラスが本作の大きな魅力だ。
極限まで軽く、小さく、そして安く。
当初は腰掛けのつもりだったスタッフたちも、それぞれの才覚を発揮して、一つずつ壁をブレイクスルーしてゆくのだが、事実かどうかは別として、難問解決に料理とか片付けとかリサイクルとか、日常体験がヒントになるのが面白い。
一方で、タラが夫から仕事を辞めてほしいと迫られていたり、スタッフの一人が性暴力が多発する公共交通機関が怖くて、車の免許を取ろうとしていたり、激務の中で妊娠出産する問題が描かれたり、インドの女性たちが置かれた社会状況が隠し味として機能する。
本作は、いわばインド版の「ライトスタッフ」であり「ドリーム」だ。
まあスタート時のチームは、いくらなんでもあの人数じゃなかっただろうし、色々エンタメとして盛ってあるのだろうが、池井戸潤の小説などにも通じる、痛快なお仕事ムービー。
ところで、ミュージカルはやっぱ外せないのね(笑
今回は宇宙つながりで「スターマン・サワー」をチョイス。
元々アメリカのカクテルサイト、“Kindred Cocktails”に投稿された「スターマン」を改良したレシピ。
ジン30ml、アプリコット・ブランデー15ml、アマーロ・ノニーノ(グラッパ )15ml、レモン・ジュース22.5ml、オレンジ・ビターズ2ダッシュを氷と共にシェイクする。
ストレーナーを使って冷やしたグラスに注ぎ、オレンジピールを飾って完成。
アマーロの複雑な風味が効いている。
見た目も美しいが、オリジナルよりも甘酸っぱさが強調されていて、とても美味しい。

記事が気に入ったらクリックしてね
2021年01月03日 (日) | 編集 |
今度は戦争だ!
ゾンビ映画の歴史を書き換えた、ヨン・サンホ監督の大ヒット作「新感染 ファイナル・エクスプレス」から4年後。
終末の世界となったかつての祖国から、残された大量のドル札を持ち出すため、死地へと足を踏み入れる元軍人たちの冒険を描く待望の続編。
これで「ソウル・ステーション/パンデミック」から始まった、それぞれにタッチの違うユニークな三部作が完結したことになる。
このシリーズは毎回登場人物が入れ替わるが、新たな主役となるのは、カン・ドンウォン演じる贖罪と後悔の記憶を抱える元軍人ジョンソク。
廃墟となった祖国で、彼と行動を共にすることになる生き残り女性のミンジョンを、イ・ジョンヒョンが演じる。
本国では、コロナが一時下火になっていた夏休みシーズンに公開され、大ヒット。
興行街が息を吹きかえす、日本でいうところの「鬼滅の刃」の役割を果たした。
※核心部分に触れています。
国家をたった1日で壊滅させた、ゾンビウィルスのパンデミックから4年。
生き残った韓国人たちは難民として周辺国に散り散りとなり、差別と貧困の中で生きていた。
元軍人のジョンソク(カン・ドンウォン)は、4年前に姉の家族と共に海路で脱出に成功するも、船で起こった感染によって姉と甥を失い、香港で荒んだ生活を送っている。
ある日、ジョンソクは地元のボスから韓国に残された2千万ドルを回収する仕事を依頼される。
半分の取り分を約束されたジョンソクは、義兄のチョルミン(キム・ドユン)ら生き残りの韓国人たちとチームを組み、仁川へと上陸。
一行はゾンビが夜目が効かないことを利用し、目的のトラックを見つけたものの、大きな音を立ててしまったために膨大な数のゾンビに囲まれてしまう。
チョルミンはトラックの荷台に隠れたものの、ジョンソクはゾンビの群れの中で孤立。
すると、突然二人の少女が乗ったSUVが現れ、彼を救出する。
ジョンソクを助けたジュニ(イ・レ)とユジン(イ・イレウォン)は、母親のミンジョン(イ・ジョンヒョン)と“師団長”と呼ばれる心を病んだ元軍人のキム(クォン・へヒョ)と、隠れるように暮らしていた。
しかし荒廃し、死の世界となった祖国で、生き残っていたのは彼らだけではなかった・・・・
異才ヨン・サンホが生み出した三部作は、映画史的にも希有な作品だ。
何しろ作家と世界観は共通だが、それぞれに登場人物もジャンルも表現手法すら全く異なるのだ。
一作目の「ソウル・ステーション パンデミック」は、ゾンビウィルスのパンデミックの始まりをアニメーションで描く。
主人公は風俗嬢とホームレスという社会の低層の人たちで、彼らの間で始まったパンデミックを、政府は反政府暴動と勘違いし、鎮圧しようとするのである。
前門の警察、後門のゾンビに囲まれた人々には、どこにも逃げ場がない。
ここでは、ゾンビ現象は社会のセーフティネットから忘れられた人々と同一視されている。
興行上の理由から公開順は逆になったが、第二作の「新感染 ファイナル・エクスプレス」は、一転して実写映画となり、韓国社会の縮図として高速列車KTXに乗り合わせた人々が描かれる。
主人公となるのは一作目と対照的に、冷酷なエリートファンドマネージャーと、その優しく聡明な娘。
未曾有のパニックの中、非共感キャラクターの主人公は、やがて利他の行為を出来るようになり、遂に娘への究極の愛を実現する。
この作品におけるゾンビは、いわば理性なき人間の欲望の象徴として描かれている。
そして第三弾となる本作は、廃墟と化した大都市・仁川を舞台としたバトルアクションだ。
ゾンビはもはや危険な小道具の一つと化し、最大の敵は人間性を失った人間に設定されているのが最大の特徴。
実写映画ではあるが、舞台やアクションの多くは3DCGで描かれていて、いわば実写とアニメーションのハイブリッド。
アニメーションからキャリアをスタートし、実写を経験したヨン・サンホにとっては、存分に手腕を発揮できる状況が整ったと言えるだろう。
本作の内容を端的に表現すれば、物語の入り口は「エイリアン2」で、出口は「マッドマックス」である。
主人公のジョンソクは、パンデミックを生き延びた元軍人。
彼は「エイリアン2」のリプリーと同じように、せっかく生き延びたのに経済的な理由で死地へと逆戻りする。
前作のレビューで、目的地が釜山であることに込められた意味は書いたが、本作が一度は祖国を去ることを余儀なくされた軍人の、“仁川上陸”から始まるのも同じ文脈だろう。
しかし現金を積んだトラックの回収という任務は、ゾンビの襲撃によってあっさり失敗。
すると今度は、ポストアポカリプト物の代表作である、「マッドマックス」的世界へと急展開するのである。
パンデミック後のゾンビが跋扈する韓国でも、生き残っている人間は僅かながら存在する。
ジョンソクを救出するミンジョンの一家以外にも、601部隊と呼ばれる軍の部隊が要塞を作って籠城していてるのだ。
どっかで見たようなトゲトゲの車を駆り、”野良犬”と呼ばれる外部の生存者を使った残酷なデスゲームに興じる、ヒャッハーな無法者集団と化した彼らこそが、ジョンソクらにとってゾンビ以上の脅威となる。
社会から法と秩序が消え、欲望の赴くまま行動するようになれば、それはもはやゾンビも人間も一緒という訳だ。
ぶっちゃけ、人間ドラマとしては前作よりも明らかに弱い。
ジョンソクは、韓国を脱出する時に助けを求めるミンジョンを一度見捨てている。
さらに船の中では姉と甥を助けられず、ずっと後悔と贖罪の念を抱えていて、だからこそ今度こそは誰も見殺しにしないという強い意思が彼の行動原理となっている。
だが、やはり親子の究極の愛をドラマチックに描いた前作に比べてしまうと、守るべき対象が姉の夫だったり、赤の他人だったり、主人公にとって存在がやや遠いのだ。
代わりに、アクション活劇としては列車という密室から解放され、前作を遥かに凌駕する凄いことをやっている。
ゾンビ相手の戦いだけでなく、601部隊に囚われたチョルミンの救出劇、都市全体を舞台としたクライマックスの怒涛のカーチェイスと見せ場はてんこ盛りだ。
特に廃墟の仁川で、ゾンビを轢き殺しながらどつき合うカーチェイスを見ると、ヨン・サンホはやっぱりアニメーション畑の人だなと感じる。
シチュエーション的には「マッドマックス」なのだが、本作の舞台は広大な砂漠ではなく路地や立体交差が複雑に入り組んだ大都市だ。
ここを縦横無尽に駆け巡るカーチェイスは、CGであることを全く隠そうとせず、物理的にありえない動きを嬉々として作ってる。
だからこのシークエンスだけ抜き出すと、やってることはむしろアニメーション映画の「REDLINE」とかに近い。
ちなみに荒廃した複雑怪奇な都市の世界観は、大友克洋の漫画「AKIRA」も参考にしたそう。
言われてみると、確かに退廃的なイメージはよく似ている。
最後の最後にエモーショナルな見せ場は残るものの、本作は前作のような“泣けるゾンビ映画”ではなくなった。
とはいえ、ポストアポカリプトの世界を描く、マッドでヒャッハーな楽しさは増大したし、これはこれで十分に面白い。
601部隊を率いるソ大尉やファン軍曹のクズっぷりとか、最後まで人間の醜さをこれでもかと強調する、ヨン・サンホ本来の作家性はこっちの方がより強く出ている。
まあその分、ファミリー映画としての間口はやや狭まった気はするが。
それにしても、列車縛りはなくなったんだから、邦題から「新」は外せばよかったのに。
作品にそぐわないダジャレだけじゃなく、非常に語呂の悪い邦題になっちゃってるじゃないか。
「ファイナル・ステージ」も意味不明だし、前作以上のワースト邦題オブ・ザ・イヤーだな。
今回は前作と同じく「ゾンビ」をチョイス。
ホワイトラム30ml、ゴールドラム30ml、ダークラム30ml、アプリコットブランデー15ml、オレンジジュース 20ml、パイナップルジュース 20ml、レモンジュース 10ml、グレナデンシロップ 10mlをシェイクして、氷を入れたゾンビグラスに注ぐ。
あえて酔いを早めるため、複数のラムを使っているのだが、考案された時のオリジナルレシピではさらに多く、5種類ものラムを混ぜていたという。
意外にもフルーティーでフレッシュな味わいだが、飲んでいるうちにだんだん酩酊し、ゾンビと化してしまう危険なカクテルだ。
記事が気に入ったらクリックしてね
ゾンビ映画の歴史を書き換えた、ヨン・サンホ監督の大ヒット作「新感染 ファイナル・エクスプレス」から4年後。
終末の世界となったかつての祖国から、残された大量のドル札を持ち出すため、死地へと足を踏み入れる元軍人たちの冒険を描く待望の続編。
これで「ソウル・ステーション/パンデミック」から始まった、それぞれにタッチの違うユニークな三部作が完結したことになる。
このシリーズは毎回登場人物が入れ替わるが、新たな主役となるのは、カン・ドンウォン演じる贖罪と後悔の記憶を抱える元軍人ジョンソク。
廃墟となった祖国で、彼と行動を共にすることになる生き残り女性のミンジョンを、イ・ジョンヒョンが演じる。
本国では、コロナが一時下火になっていた夏休みシーズンに公開され、大ヒット。
興行街が息を吹きかえす、日本でいうところの「鬼滅の刃」の役割を果たした。
※核心部分に触れています。
国家をたった1日で壊滅させた、ゾンビウィルスのパンデミックから4年。
生き残った韓国人たちは難民として周辺国に散り散りとなり、差別と貧困の中で生きていた。
元軍人のジョンソク(カン・ドンウォン)は、4年前に姉の家族と共に海路で脱出に成功するも、船で起こった感染によって姉と甥を失い、香港で荒んだ生活を送っている。
ある日、ジョンソクは地元のボスから韓国に残された2千万ドルを回収する仕事を依頼される。
半分の取り分を約束されたジョンソクは、義兄のチョルミン(キム・ドユン)ら生き残りの韓国人たちとチームを組み、仁川へと上陸。
一行はゾンビが夜目が効かないことを利用し、目的のトラックを見つけたものの、大きな音を立ててしまったために膨大な数のゾンビに囲まれてしまう。
チョルミンはトラックの荷台に隠れたものの、ジョンソクはゾンビの群れの中で孤立。
すると、突然二人の少女が乗ったSUVが現れ、彼を救出する。
ジョンソクを助けたジュニ(イ・レ)とユジン(イ・イレウォン)は、母親のミンジョン(イ・ジョンヒョン)と“師団長”と呼ばれる心を病んだ元軍人のキム(クォン・へヒョ)と、隠れるように暮らしていた。
しかし荒廃し、死の世界となった祖国で、生き残っていたのは彼らだけではなかった・・・・
異才ヨン・サンホが生み出した三部作は、映画史的にも希有な作品だ。
何しろ作家と世界観は共通だが、それぞれに登場人物もジャンルも表現手法すら全く異なるのだ。
一作目の「ソウル・ステーション パンデミック」は、ゾンビウィルスのパンデミックの始まりをアニメーションで描く。
主人公は風俗嬢とホームレスという社会の低層の人たちで、彼らの間で始まったパンデミックを、政府は反政府暴動と勘違いし、鎮圧しようとするのである。
前門の警察、後門のゾンビに囲まれた人々には、どこにも逃げ場がない。
ここでは、ゾンビ現象は社会のセーフティネットから忘れられた人々と同一視されている。
興行上の理由から公開順は逆になったが、第二作の「新感染 ファイナル・エクスプレス」は、一転して実写映画となり、韓国社会の縮図として高速列車KTXに乗り合わせた人々が描かれる。
主人公となるのは一作目と対照的に、冷酷なエリートファンドマネージャーと、その優しく聡明な娘。
未曾有のパニックの中、非共感キャラクターの主人公は、やがて利他の行為を出来るようになり、遂に娘への究極の愛を実現する。
この作品におけるゾンビは、いわば理性なき人間の欲望の象徴として描かれている。
そして第三弾となる本作は、廃墟と化した大都市・仁川を舞台としたバトルアクションだ。
ゾンビはもはや危険な小道具の一つと化し、最大の敵は人間性を失った人間に設定されているのが最大の特徴。
実写映画ではあるが、舞台やアクションの多くは3DCGで描かれていて、いわば実写とアニメーションのハイブリッド。
アニメーションからキャリアをスタートし、実写を経験したヨン・サンホにとっては、存分に手腕を発揮できる状況が整ったと言えるだろう。
本作の内容を端的に表現すれば、物語の入り口は「エイリアン2」で、出口は「マッドマックス」である。
主人公のジョンソクは、パンデミックを生き延びた元軍人。
彼は「エイリアン2」のリプリーと同じように、せっかく生き延びたのに経済的な理由で死地へと逆戻りする。
前作のレビューで、目的地が釜山であることに込められた意味は書いたが、本作が一度は祖国を去ることを余儀なくされた軍人の、“仁川上陸”から始まるのも同じ文脈だろう。
しかし現金を積んだトラックの回収という任務は、ゾンビの襲撃によってあっさり失敗。
すると今度は、ポストアポカリプト物の代表作である、「マッドマックス」的世界へと急展開するのである。
パンデミック後のゾンビが跋扈する韓国でも、生き残っている人間は僅かながら存在する。
ジョンソクを救出するミンジョンの一家以外にも、601部隊と呼ばれる軍の部隊が要塞を作って籠城していてるのだ。
どっかで見たようなトゲトゲの車を駆り、”野良犬”と呼ばれる外部の生存者を使った残酷なデスゲームに興じる、ヒャッハーな無法者集団と化した彼らこそが、ジョンソクらにとってゾンビ以上の脅威となる。
社会から法と秩序が消え、欲望の赴くまま行動するようになれば、それはもはやゾンビも人間も一緒という訳だ。
ぶっちゃけ、人間ドラマとしては前作よりも明らかに弱い。
ジョンソクは、韓国を脱出する時に助けを求めるミンジョンを一度見捨てている。
さらに船の中では姉と甥を助けられず、ずっと後悔と贖罪の念を抱えていて、だからこそ今度こそは誰も見殺しにしないという強い意思が彼の行動原理となっている。
だが、やはり親子の究極の愛をドラマチックに描いた前作に比べてしまうと、守るべき対象が姉の夫だったり、赤の他人だったり、主人公にとって存在がやや遠いのだ。
代わりに、アクション活劇としては列車という密室から解放され、前作を遥かに凌駕する凄いことをやっている。
ゾンビ相手の戦いだけでなく、601部隊に囚われたチョルミンの救出劇、都市全体を舞台としたクライマックスの怒涛のカーチェイスと見せ場はてんこ盛りだ。
特に廃墟の仁川で、ゾンビを轢き殺しながらどつき合うカーチェイスを見ると、ヨン・サンホはやっぱりアニメーション畑の人だなと感じる。
シチュエーション的には「マッドマックス」なのだが、本作の舞台は広大な砂漠ではなく路地や立体交差が複雑に入り組んだ大都市だ。
ここを縦横無尽に駆け巡るカーチェイスは、CGであることを全く隠そうとせず、物理的にありえない動きを嬉々として作ってる。
だからこのシークエンスだけ抜き出すと、やってることはむしろアニメーション映画の「REDLINE」とかに近い。
ちなみに荒廃した複雑怪奇な都市の世界観は、大友克洋の漫画「AKIRA」も参考にしたそう。
言われてみると、確かに退廃的なイメージはよく似ている。
最後の最後にエモーショナルな見せ場は残るものの、本作は前作のような“泣けるゾンビ映画”ではなくなった。
とはいえ、ポストアポカリプトの世界を描く、マッドでヒャッハーな楽しさは増大したし、これはこれで十分に面白い。
601部隊を率いるソ大尉やファン軍曹のクズっぷりとか、最後まで人間の醜さをこれでもかと強調する、ヨン・サンホ本来の作家性はこっちの方がより強く出ている。
まあその分、ファミリー映画としての間口はやや狭まった気はするが。
それにしても、列車縛りはなくなったんだから、邦題から「新」は外せばよかったのに。
作品にそぐわないダジャレだけじゃなく、非常に語呂の悪い邦題になっちゃってるじゃないか。
「ファイナル・ステージ」も意味不明だし、前作以上のワースト邦題オブ・ザ・イヤーだな。
今回は前作と同じく「ゾンビ」をチョイス。
ホワイトラム30ml、ゴールドラム30ml、ダークラム30ml、アプリコットブランデー15ml、オレンジジュース 20ml、パイナップルジュース 20ml、レモンジュース 10ml、グレナデンシロップ 10mlをシェイクして、氷を入れたゾンビグラスに注ぐ。
あえて酔いを早めるため、複数のラムを使っているのだが、考案された時のオリジナルレシピではさらに多く、5種類ものラムを混ぜていたという。
意外にもフルーティーでフレッシュな味わいだが、飲んでいるうちにだんだん酩酊し、ゾンビと化してしまう危険なカクテルだ。

記事が気に入ったらクリックしてね
| ホーム |