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2021年02月27日 (土) | 編集 |
あの頃、君を追いかけた。
これはいい映画だったなあ。
主人公は、松坂桃李演じる半端者のバンドマン・劔樹人。
同名の原作者による、ほぼ自伝的な物語なのだと言う。
バイトに明け暮れた結果、練習不足でバンド活動にも挫折し、どん底の劔を救ったのが、当時人気絶頂だったハロプロのアイドル・松浦亜弥だった。
ある時、友人に勧められて彼女の「♡桃色片想い♡」のMVに出会い、一気に夢中になる。
そして、地元大阪でハロプロ推しの活動してるグループと繋がり、小さなハコでファンイベントを開催したりして、オタクな青春を謳歌するのだ。
私は世代的にもかなりズレいているし、ハロプロに特に思い入れはない。
「モーニング娘。」が出てきたのを見て、「あー、おニャン子クラブの平成版か」と思ったクチだ。
しかし、この映画の登場人物にはどっぷりと感情移入した。
たとえアイドルじゃなかったとしても、青春時代に何かを大好きになって、同じものをとことん愛する“仲間”がいた人にはたまらない話だろう。
その何かに出会った瞬間、今までのうだつの上がらない生活は過去のものとなり、世界はキラキラとした輝きに満ちていることに気づくのである。
本作の劔も、ハロプロによって人生の閉塞から一気に飛び出す。
推しの良さが分からない人たちからは「キモオタ」なんて蔑まれたりもするけど、本人は気にならない。
今泉力哉監督といえば、ラブストーリーの名手だが、本作には恋愛要素はほぼゼロ。
いい歳してアイドルに夢中になり、その後バンド活動まではじめちゃう六人のおっさんたち、その名も”恋愛研究会。”の輝かしくもおバカな青春。
男女の心の機微は出てこないが、人生のある時期だけに訪れる、特別な時間を経験する登場人物の高揚感、「好き」が詰まった黄金時代は共感力たっぷりに描かれている。
劔が松浦亜弥の握手会に当選して、会いに行く演出にびっくり。
まさか本人?それともCG?と不思議だったが、ハロプロで彼女の後輩にあたる、山崎夢羽という人だそう。
いや〜、似た雰囲気の人がいたものだ。
しかし愛する対象が人間であれば、その熱狂は決して永遠には続かない。
アイドルはいつかは卒業し、引退してゆく。
松浦亜弥がいつの間にか三児の母になっているように、青春には必ず終わりがくる。
ハロプロさえあれば幸せだった劔の生活にも、少しずつ成長という名の変化が訪れる。
東京に引っ越して再び音楽を初め、たまに大阪でやっている恋愛研究会。のイベントも、だんだんハロプロとは関係なくなっている。
やがて変わってゆくもの、変わらないもの、青春の不滅と有滅こそが、物語の核心になってくるのだ。
松坂桃李も新境地だが、オタク仲間のコズミン役の仲野太賀が、終盤全てをさらってゆく。
ある理由から人生の有滅を思い知らされた彼の推しが、物語の終盤にハロプロから二次元のアニメキャラにシフトしてるのが象徴的。
人間と違って、歳を取らない二次元キャラは不滅の存在だからだ。
青春の煌めきは短く、消える時は儚い。
でもいつになっても大好きな何かがあれば、人生は輝ける。
「今が一番楽しい!」そう言い切れちゃう、オタクたちの青春と成長に涙。
ところで、コズミンのキャラがなんか既視感があったんだけど、分かった。
こいつのイラッとくるのに憎めないウザさは、まるで実写版の我妻善逸だ(笑
もちろん推しは禰豆子ちゃんです!
今回はハロプロアイドルのイメージで、「フェアリーランド~おとぎの国~」をチョイス。
ミドリ(もしくはメロン・リキュール)20ml、ココナッツ・リキュール15ml、ブラック・サンブーカ10ml、ブルー・キュラソー5ml、オレンジ・ジュース2tspをシェイクし、クラッシュドアイスを詰めたグラスに注ぐ。
最後にお好みでフルーツを飾って完成。
甘口で飲みやすいが、アルコール度数は25°以上ある強いカクテル。
パステルグリーンの可愛い見た目にごまかされると、痛い目に合う。
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これはいい映画だったなあ。
主人公は、松坂桃李演じる半端者のバンドマン・劔樹人。
同名の原作者による、ほぼ自伝的な物語なのだと言う。
バイトに明け暮れた結果、練習不足でバンド活動にも挫折し、どん底の劔を救ったのが、当時人気絶頂だったハロプロのアイドル・松浦亜弥だった。
ある時、友人に勧められて彼女の「♡桃色片想い♡」のMVに出会い、一気に夢中になる。
そして、地元大阪でハロプロ推しの活動してるグループと繋がり、小さなハコでファンイベントを開催したりして、オタクな青春を謳歌するのだ。
私は世代的にもかなりズレいているし、ハロプロに特に思い入れはない。
「モーニング娘。」が出てきたのを見て、「あー、おニャン子クラブの平成版か」と思ったクチだ。
しかし、この映画の登場人物にはどっぷりと感情移入した。
たとえアイドルじゃなかったとしても、青春時代に何かを大好きになって、同じものをとことん愛する“仲間”がいた人にはたまらない話だろう。
その何かに出会った瞬間、今までのうだつの上がらない生活は過去のものとなり、世界はキラキラとした輝きに満ちていることに気づくのである。
本作の劔も、ハロプロによって人生の閉塞から一気に飛び出す。
推しの良さが分からない人たちからは「キモオタ」なんて蔑まれたりもするけど、本人は気にならない。
今泉力哉監督といえば、ラブストーリーの名手だが、本作には恋愛要素はほぼゼロ。
いい歳してアイドルに夢中になり、その後バンド活動まではじめちゃう六人のおっさんたち、その名も”恋愛研究会。”の輝かしくもおバカな青春。
男女の心の機微は出てこないが、人生のある時期だけに訪れる、特別な時間を経験する登場人物の高揚感、「好き」が詰まった黄金時代は共感力たっぷりに描かれている。
劔が松浦亜弥の握手会に当選して、会いに行く演出にびっくり。
まさか本人?それともCG?と不思議だったが、ハロプロで彼女の後輩にあたる、山崎夢羽という人だそう。
いや〜、似た雰囲気の人がいたものだ。
しかし愛する対象が人間であれば、その熱狂は決して永遠には続かない。
アイドルはいつかは卒業し、引退してゆく。
松浦亜弥がいつの間にか三児の母になっているように、青春には必ず終わりがくる。
ハロプロさえあれば幸せだった劔の生活にも、少しずつ成長という名の変化が訪れる。
東京に引っ越して再び音楽を初め、たまに大阪でやっている恋愛研究会。のイベントも、だんだんハロプロとは関係なくなっている。
やがて変わってゆくもの、変わらないもの、青春の不滅と有滅こそが、物語の核心になってくるのだ。
松坂桃李も新境地だが、オタク仲間のコズミン役の仲野太賀が、終盤全てをさらってゆく。
ある理由から人生の有滅を思い知らされた彼の推しが、物語の終盤にハロプロから二次元のアニメキャラにシフトしてるのが象徴的。
人間と違って、歳を取らない二次元キャラは不滅の存在だからだ。
青春の煌めきは短く、消える時は儚い。
でもいつになっても大好きな何かがあれば、人生は輝ける。
「今が一番楽しい!」そう言い切れちゃう、オタクたちの青春と成長に涙。
ところで、コズミンのキャラがなんか既視感があったんだけど、分かった。
こいつのイラッとくるのに憎めないウザさは、まるで実写版の我妻善逸だ(笑
もちろん推しは禰豆子ちゃんです!
今回はハロプロアイドルのイメージで、「フェアリーランド~おとぎの国~」をチョイス。
ミドリ(もしくはメロン・リキュール)20ml、ココナッツ・リキュール15ml、ブラック・サンブーカ10ml、ブルー・キュラソー5ml、オレンジ・ジュース2tspをシェイクし、クラッシュドアイスを詰めたグラスに注ぐ。
最後にお好みでフルーツを飾って完成。
甘口で飲みやすいが、アルコール度数は25°以上ある強いカクテル。
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2021年02月22日 (月) | 編集 |
日本には、恐ろしいムラがある。
清水崇監督による、都市伝説に無理やり怪談話をくっ付ける「村」シリーズ第二弾。
前作の「犬鳴村」は、くっ付けた要素がゴチャゴチャしちゃって何がどう怖いのか分からず、いろいろ残念な出来だったが、今回はなかなかの仕上がり。
大谷凜香が、YouTuber役で再登場しているなど共通項もあるが、ストーリー的には完全に独立してるので、前作を観ている必要はない。
今回モチーフになるのは、自殺の名所として知られる富士の樹海に、「樹海から出られなくなった人々が暮らす村がある」という都市伝説。
この村で作られた、“コトリバコ”なる呪いの箱と関わってしまった若者たちを、超自然的な恐怖が襲う。
物語の軸となるのは、山田杏奈と山口まゆが演じる姉妹で、どうやら親の代から村と因縁があるらしい。
現在に至るまで清水崇の代表作といえば、2000年に発売されたビデオ映画「呪怨」だろう。
ある家に秘められた呪いが、家に関わった人々にまるでウィルスのように広まってゆく物語は、一見すると幽霊屋敷ものという古典的なジャンル。
だが、一度でも家に足を踏み入れれば絶対に逃れられないという不条理かつ禍々しい恐怖は、誰も観たことの無い新しいタイプのホラーだった。
続編の「呪怨2」共々ビデオの販売は全く振るわなかったそうだが、後から「とんでもなく怖い」と口コミで話題が広がり、2003年に映画版「呪怨」「呪怨2」としてセルフリメイク。
さらにハリウッド版までセルフリメイクし、2006年にはハリウッド版の続編「呪怨 パンデミック」で、実写の日本人監督として初の全米ナンバー1の偉業を成し遂げるなど、清水崇といえばイコール「呪怨」である。
実際、オリジナルの「呪怨」は、1998年に公開された中田秀夫監督の「リング」と共に、世界に影響を与えたJホラーの代表作であることに異論は出ないだろう。
ただ、「呪怨」は名声をもたらした反面、呪いでもあったと思う。
ホラーを中心に様々なタイプの作品にトライしてきたが、興行成績はともかく、どの作品も「呪怨」の評価を超えられない。
ところが、本作はオリジナルの「呪怨」2部作以来、清水崇監督作品では一番面白い。
まるで水を得た魚の如く、ホラー演出が全編に渡って冴えわたり、禍々しく作品世界を覆い尽くしている。
本作で恐怖を運ぶ”コトリバコ”には、人べらしで樹海に捨てられ、出られなくなった亡者たちの“指”が詰められている。
この世とあの世の中間に存在する村に囚われた人々は、指を切り落としてコトリバコに収めることで、正式な村人となるのだ。
逆にいえば指を落とされたら、もう逃れられない。
コトリバコはいわば新たな村人のリクルート装置として、少しでも村と関わりを持った人間を狙う。
そう、本作は清水崇の原点回帰。
都市の一角にある呪いの家が、富士の樹海の呪いの村に変わった「呪怨」のスケールアップ版と言える構造を持つ。
だから、描かれる恐怖の本質は変わらない。
一度関わってしまったら、絶対に逃れられないという不条理さだ。
そもそもコトリバコがなぜあそこにあったのかとか、なぜ指を切るのかとか、設定はかなりアバウトだが、もともと不条理な話だから気にならない。
そして本作を「呪怨」とは似て非なるものにしているのが、森に潜む霊というフォークロアな存在を表現した映像的な未見性だ。
影が襲ってくる描写も面白いが、これは昔「スウィートホーム」でもあった。
しかし、森と一体化した樹木人間(?)の描写は、CGの親和性も高く新しいイメージを生み出している。
Jホラーは「呪怨」「リング」のインパクトがあまりにも強かったため、恐怖演出がワンパターン化していたが、ここへ来てNetflixのドラマ版「呪怨」なども含め、不条理の恐怖はそのままに、Jホラー2.0とも言うべき演出の方向性が見えてきたのは興味深い。
見事な復活を遂げた清水崇が、「犬鳴」「樹海」ときて次はどこの“ムラ”へいくのか、次回作を楽しみに待ちたい。
今回は富士の北麓、標高1000メートルにある富士桜高原麦酒の「ヴァイツェン」をチョイス。
オクトーバフェストなどのイベントでも、ドイツビールの銘柄と並んで出店しているが、非常にクオリテイの高いクラフトビールだ。
ヴァイツェンは50%以上が小麦麦芽となるエールで、本場ものに引け取らないフルーティーなテイストが特徴。
まだしばらくは自粛生活が続きそうではあるが、願わくば桜の季節に花見をしながら飲みたい。
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清水崇監督による、都市伝説に無理やり怪談話をくっ付ける「村」シリーズ第二弾。
前作の「犬鳴村」は、くっ付けた要素がゴチャゴチャしちゃって何がどう怖いのか分からず、いろいろ残念な出来だったが、今回はなかなかの仕上がり。
大谷凜香が、YouTuber役で再登場しているなど共通項もあるが、ストーリー的には完全に独立してるので、前作を観ている必要はない。
今回モチーフになるのは、自殺の名所として知られる富士の樹海に、「樹海から出られなくなった人々が暮らす村がある」という都市伝説。
この村で作られた、“コトリバコ”なる呪いの箱と関わってしまった若者たちを、超自然的な恐怖が襲う。
物語の軸となるのは、山田杏奈と山口まゆが演じる姉妹で、どうやら親の代から村と因縁があるらしい。
現在に至るまで清水崇の代表作といえば、2000年に発売されたビデオ映画「呪怨」だろう。
ある家に秘められた呪いが、家に関わった人々にまるでウィルスのように広まってゆく物語は、一見すると幽霊屋敷ものという古典的なジャンル。
だが、一度でも家に足を踏み入れれば絶対に逃れられないという不条理かつ禍々しい恐怖は、誰も観たことの無い新しいタイプのホラーだった。
続編の「呪怨2」共々ビデオの販売は全く振るわなかったそうだが、後から「とんでもなく怖い」と口コミで話題が広がり、2003年に映画版「呪怨」「呪怨2」としてセルフリメイク。
さらにハリウッド版までセルフリメイクし、2006年にはハリウッド版の続編「呪怨 パンデミック」で、実写の日本人監督として初の全米ナンバー1の偉業を成し遂げるなど、清水崇といえばイコール「呪怨」である。
実際、オリジナルの「呪怨」は、1998年に公開された中田秀夫監督の「リング」と共に、世界に影響を与えたJホラーの代表作であることに異論は出ないだろう。
ただ、「呪怨」は名声をもたらした反面、呪いでもあったと思う。
ホラーを中心に様々なタイプの作品にトライしてきたが、興行成績はともかく、どの作品も「呪怨」の評価を超えられない。
ところが、本作はオリジナルの「呪怨」2部作以来、清水崇監督作品では一番面白い。
まるで水を得た魚の如く、ホラー演出が全編に渡って冴えわたり、禍々しく作品世界を覆い尽くしている。
本作で恐怖を運ぶ”コトリバコ”には、人べらしで樹海に捨てられ、出られなくなった亡者たちの“指”が詰められている。
この世とあの世の中間に存在する村に囚われた人々は、指を切り落としてコトリバコに収めることで、正式な村人となるのだ。
逆にいえば指を落とされたら、もう逃れられない。
コトリバコはいわば新たな村人のリクルート装置として、少しでも村と関わりを持った人間を狙う。
そう、本作は清水崇の原点回帰。
都市の一角にある呪いの家が、富士の樹海の呪いの村に変わった「呪怨」のスケールアップ版と言える構造を持つ。
だから、描かれる恐怖の本質は変わらない。
一度関わってしまったら、絶対に逃れられないという不条理さだ。
そもそもコトリバコがなぜあそこにあったのかとか、なぜ指を切るのかとか、設定はかなりアバウトだが、もともと不条理な話だから気にならない。
そして本作を「呪怨」とは似て非なるものにしているのが、森に潜む霊というフォークロアな存在を表現した映像的な未見性だ。
影が襲ってくる描写も面白いが、これは昔「スウィートホーム」でもあった。
しかし、森と一体化した樹木人間(?)の描写は、CGの親和性も高く新しいイメージを生み出している。
Jホラーは「呪怨」「リング」のインパクトがあまりにも強かったため、恐怖演出がワンパターン化していたが、ここへ来てNetflixのドラマ版「呪怨」なども含め、不条理の恐怖はそのままに、Jホラー2.0とも言うべき演出の方向性が見えてきたのは興味深い。
見事な復活を遂げた清水崇が、「犬鳴」「樹海」ときて次はどこの“ムラ”へいくのか、次回作を楽しみに待ちたい。
今回は富士の北麓、標高1000メートルにある富士桜高原麦酒の「ヴァイツェン」をチョイス。
オクトーバフェストなどのイベントでも、ドイツビールの銘柄と並んで出店しているが、非常にクオリテイの高いクラフトビールだ。
ヴァイツェンは50%以上が小麦麦芽となるエールで、本場ものに引け取らないフルーティーなテイストが特徴。
まだしばらくは自粛生活が続きそうではあるが、願わくば桜の季節に花見をしながら飲みたい。

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2021年02月17日 (水) | 編集 |
この世界は、生きるに値するか。
2016年の「永い言い訳」以来5年ぶりの新作は、一貫してオリジナル作品を手掛けてきた西川美和監督にとって初の原作もの。
実在の人物をモデルに執筆された、佐木隆三の小説「身分帳」を映画化した作品だ。
「身分帳」とは聴き慣れない言葉だが、刑務所に収監した囚人の罪状から経歴、人となりまで全てを記載したノートのこと。
役所広司が演じる主人公・三上正夫は、殺人の罪で13年服役し、出所したばかりだが、それ以前の人生も大半を刑務所で過ごしてきた元極道。
これは「今度こそはカタギぞ」と誓った主人公が、令和の時代に浦島太郎状態で放り出され、生きて行ける場所を見つけるまでの物語だ。
初の原作ものと言っても、作家のカラーは一ミリもブレておらず、見事な仕上がり。
三上を取材しようとするTVディレクターを仲野太賀、馴染みとなるスーパーの店長を六角精児、役所の担当職員を北村有起哉、見元引受人となる弁護士夫婦を橋爪功と梶芽衣子が演じる。
極寒の旭川刑務所から、一人の男が刑期を終えて釈放された。
彼の名は三上正夫(役所広司)。
チンピラを刺殺し、殺人の罪で13年の刑に服していたが、児童養護施設を飛び出して以来、様々な犯罪を繰り返してきた元極道だ。
身元引き受け人の庄司弁護士(橋爪功)を訪ねた三上は、今度こそカタギとして生きることを決意し、東京のアパートに暮らしはじめるが、世間の風は反社に厳しい。
同じ頃、テレビの仕事を辞め小説家を志す津乃田(仲野太賀)のもとに、プロデューサーの吉澤(長澤まさみ)から三上を取材しないかと誘いが入る。
三上は身の上を記した「身分帳」を大量に吉澤に送りつけ、自分を取材する代わりに行方不明の母親を探して欲しいと依頼して来たのだ。
吉澤は、殺人という重罪を犯した男が心を入れ替えて社会復帰する、感動的なドキュメンタリー番組の制作を目論んでいた。
後日、三上と会った津乃田は、久しぶりのシャバで四苦八苦しながら、生きる道を探す彼の姿を取材しはじめるのだが・・・・
西川美和監督作品の主人公は、いつもどこかちょっと捻くれていて、世間一般の正道から微妙に外れている。
言ってみれば、全員“ちょい悪(ワル)”なのだ。
28歳で発表したデビュー作「蛇イチゴ」では言葉巧みなペテン師だったし、「ディア・ドクター」では偽医者、「夢売るふたり」では夫婦の結婚詐欺師。
近作の「永い言い訳」では、不倫相手との密会中に妻を亡くした最悪のダメ夫が主人公だった。
彼らは社会が規範とする正しいこと、善なることに沿って生きてる訳ではない。
むしろ本作の三上のように、正道から外れた自分たちの生き方を否定しない、懲りない人々の物語で、そのダメっぷりが実に人間くさいのである。
殺人の罪で刑務所に入っていた元極道が、出所してみたら世界がすっかり変わって、ヤクザ者の居場所は世間から無くなっていた・・・という話は、偶然だろうが、先日公開された藤井道人監督の「ヤクザと家族 The Family」と一緒。
刑期もこちらが13年であちらが14年とほぼ同じで、あちらでバリバリの極道だった北村有起哉が、こちらでは反社に厳しいことを言う公務員になっているのが可笑しい。
罪にとわれた主人公が刑務所に入っている間に、暴対条例がどんどん施行されて、更生したくても更生しにくい世の中になっている現状も、どちらの作品でも綿密に描かれている。
主人公が自分の罪に対して真摯に反省しておらず、心はカタギになろうとしていないのも同じだ。
ただ、モチーフは同じでもアプローチは真逆。
ヤクザを大きな疑似家族という括りで捉え、ジャンル映画へのレクイエムでもあったあの映画とは違い、西川美和はとことん三上という個人の不器用な生き様に拘る。
彼はもともと一匹狼で、一応昔のお仲間はいるものの、「ヤクザと家族 The Family」の綾野剛のように、特定の組織の一員だった訳ではないのだ。
シャバに戻り、新たな人生を歩み出したアウトローは、言わば日常に投げ込まれた異物だ。
三上は、今までのヤクザ的な生き方と、カタギの真面目な生き方の間で揺れ動くが、罪は犯したものの、自分の生き方が間違っていたとは思っていない。
チンピラを殺したのも正当防衛だと信じているし、十数回も滅多刺しにしたのも、生きるか死ぬかの局面では仕方がなかったと考えている。
もともと竹を割った様に真っ直ぐな性格で、困っている人がいれば助け、親切にされれば恩を返そうとする。
ただ一つの問題は、彼が一番得意で生き生きするのは、暴力を振るう時だということなのだ。
現在のカタギの社会では、暴力はイコール悪であり、問題解決の手段として暴力を使った瞬間、どんな正義も説得力を失う。
それでは明らかに理不尽なことが起こっていても、耐え忍ぶことが常に正しいことをなのか。
喧嘩屋を自認する三上には、“正当な暴力”というものが認められない社会が、どうしても窮屈で受け入れられないのである。
異物である三上の存在そのものが現状へのアンチテーゼとなり、周りの人間、特にことなかれ主義者の津乃田の価値観を揺さぶってゆく。
彼はいわば、この社会を波風立てずに生きているごく普通の一般人の代表で、三上のような生き方を否定しつつも、どこか現状にモヤモヤとした葛藤を抱えている。
津乃田と三上は凹凸のような関係となり、やがて三上の影響を受けた津乃田、即ち観客の私たちの中でジンテーゼが生まれるという物語の仕組み。
無頼漢の三上は生活保護を申請することにプライドを傷付けられ、自動車免許の再取得に四苦八苦し、昔の仲間を頼ろうにも、既に組織は暴対法により死に体となっていることを知る。
初老ヤクザの再出発はヘビーなシチュエーションの連続だが、西川作品らしいユーモアがちょうどいい箸休め。
津乃田が三上によって変化していくように、三上自身も周りの影響を受けて変わってゆく。
暴対条例が元極道を締め上げてゆく一方で、身元引き受け人の弁護士夫婦をはじめ、町内会長でもあるスーパーの店長や、三上のために免許取得に補助金を出せないか掛け合う公務員など、身近な人々の善意が、今までその筋の人脈しか知らなかった三上に、人間同士の繋がりを実感させてゆく。
とにかく喧嘩っ早く、口より先に手が出ていた三上が、自分のために尽くしてくれた人々を思い出し、グッと拳を握りしめる描写は役所広司の名演もあって本作の白眉だ。
今まま自分だけのことを考えて生きて来た男は、ついに他人を裏切りたくないという境地まで行き着くのである。
映画は、不器用な男の葛藤に観客を感情移入させつつ、彼の周りにある厳しくて残酷だが、同時に優しく暖かい世界を対比する。
コロナ禍で人と人との繋がりが一層クローズアップされる今、非常にタイムリーな作品だと思う。
とても面白く、好きな作品なのだが、最後だけはちょっと残念だった。
まあ物語の帰結する先としては、一番収まりがいいのだろうが、この世知辛い社会で少しだけ改心したアウトローがどんな風に生きていくのか、少なくとも想像の余地は残しておいて欲しかったな。
今回は、三上が服役していた旭川の地酒、髙高砂酒造の「國士無双 純米酒」をチョイス。
前身の小檜山酒造から数えると、創業120年をこえる北海道屈指の老舗酒蔵。
國士無双は同社が1975年に発売し、日本酒業界に辛口ブームを巻き起こしたとされる銘柄で、ライバルの男山と共に、旭川を代表する地酒だ。
純米酒は比較的リーズナブルで、フルーティでスッキリした辛口はいかにも北国の酒。
北海道の山海の幸と共にいただきたい。
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2016年の「永い言い訳」以来5年ぶりの新作は、一貫してオリジナル作品を手掛けてきた西川美和監督にとって初の原作もの。
実在の人物をモデルに執筆された、佐木隆三の小説「身分帳」を映画化した作品だ。
「身分帳」とは聴き慣れない言葉だが、刑務所に収監した囚人の罪状から経歴、人となりまで全てを記載したノートのこと。
役所広司が演じる主人公・三上正夫は、殺人の罪で13年服役し、出所したばかりだが、それ以前の人生も大半を刑務所で過ごしてきた元極道。
これは「今度こそはカタギぞ」と誓った主人公が、令和の時代に浦島太郎状態で放り出され、生きて行ける場所を見つけるまでの物語だ。
初の原作ものと言っても、作家のカラーは一ミリもブレておらず、見事な仕上がり。
三上を取材しようとするTVディレクターを仲野太賀、馴染みとなるスーパーの店長を六角精児、役所の担当職員を北村有起哉、見元引受人となる弁護士夫婦を橋爪功と梶芽衣子が演じる。
極寒の旭川刑務所から、一人の男が刑期を終えて釈放された。
彼の名は三上正夫(役所広司)。
チンピラを刺殺し、殺人の罪で13年の刑に服していたが、児童養護施設を飛び出して以来、様々な犯罪を繰り返してきた元極道だ。
身元引き受け人の庄司弁護士(橋爪功)を訪ねた三上は、今度こそカタギとして生きることを決意し、東京のアパートに暮らしはじめるが、世間の風は反社に厳しい。
同じ頃、テレビの仕事を辞め小説家を志す津乃田(仲野太賀)のもとに、プロデューサーの吉澤(長澤まさみ)から三上を取材しないかと誘いが入る。
三上は身の上を記した「身分帳」を大量に吉澤に送りつけ、自分を取材する代わりに行方不明の母親を探して欲しいと依頼して来たのだ。
吉澤は、殺人という重罪を犯した男が心を入れ替えて社会復帰する、感動的なドキュメンタリー番組の制作を目論んでいた。
後日、三上と会った津乃田は、久しぶりのシャバで四苦八苦しながら、生きる道を探す彼の姿を取材しはじめるのだが・・・・
西川美和監督作品の主人公は、いつもどこかちょっと捻くれていて、世間一般の正道から微妙に外れている。
言ってみれば、全員“ちょい悪(ワル)”なのだ。
28歳で発表したデビュー作「蛇イチゴ」では言葉巧みなペテン師だったし、「ディア・ドクター」では偽医者、「夢売るふたり」では夫婦の結婚詐欺師。
近作の「永い言い訳」では、不倫相手との密会中に妻を亡くした最悪のダメ夫が主人公だった。
彼らは社会が規範とする正しいこと、善なることに沿って生きてる訳ではない。
むしろ本作の三上のように、正道から外れた自分たちの生き方を否定しない、懲りない人々の物語で、そのダメっぷりが実に人間くさいのである。
殺人の罪で刑務所に入っていた元極道が、出所してみたら世界がすっかり変わって、ヤクザ者の居場所は世間から無くなっていた・・・という話は、偶然だろうが、先日公開された藤井道人監督の「ヤクザと家族 The Family」と一緒。
刑期もこちらが13年であちらが14年とほぼ同じで、あちらでバリバリの極道だった北村有起哉が、こちらでは反社に厳しいことを言う公務員になっているのが可笑しい。
罪にとわれた主人公が刑務所に入っている間に、暴対条例がどんどん施行されて、更生したくても更生しにくい世の中になっている現状も、どちらの作品でも綿密に描かれている。
主人公が自分の罪に対して真摯に反省しておらず、心はカタギになろうとしていないのも同じだ。
ただ、モチーフは同じでもアプローチは真逆。
ヤクザを大きな疑似家族という括りで捉え、ジャンル映画へのレクイエムでもあったあの映画とは違い、西川美和はとことん三上という個人の不器用な生き様に拘る。
彼はもともと一匹狼で、一応昔のお仲間はいるものの、「ヤクザと家族 The Family」の綾野剛のように、特定の組織の一員だった訳ではないのだ。
シャバに戻り、新たな人生を歩み出したアウトローは、言わば日常に投げ込まれた異物だ。
三上は、今までのヤクザ的な生き方と、カタギの真面目な生き方の間で揺れ動くが、罪は犯したものの、自分の生き方が間違っていたとは思っていない。
チンピラを殺したのも正当防衛だと信じているし、十数回も滅多刺しにしたのも、生きるか死ぬかの局面では仕方がなかったと考えている。
もともと竹を割った様に真っ直ぐな性格で、困っている人がいれば助け、親切にされれば恩を返そうとする。
ただ一つの問題は、彼が一番得意で生き生きするのは、暴力を振るう時だということなのだ。
現在のカタギの社会では、暴力はイコール悪であり、問題解決の手段として暴力を使った瞬間、どんな正義も説得力を失う。
それでは明らかに理不尽なことが起こっていても、耐え忍ぶことが常に正しいことをなのか。
喧嘩屋を自認する三上には、“正当な暴力”というものが認められない社会が、どうしても窮屈で受け入れられないのである。
異物である三上の存在そのものが現状へのアンチテーゼとなり、周りの人間、特にことなかれ主義者の津乃田の価値観を揺さぶってゆく。
彼はいわば、この社会を波風立てずに生きているごく普通の一般人の代表で、三上のような生き方を否定しつつも、どこか現状にモヤモヤとした葛藤を抱えている。
津乃田と三上は凹凸のような関係となり、やがて三上の影響を受けた津乃田、即ち観客の私たちの中でジンテーゼが生まれるという物語の仕組み。
無頼漢の三上は生活保護を申請することにプライドを傷付けられ、自動車免許の再取得に四苦八苦し、昔の仲間を頼ろうにも、既に組織は暴対法により死に体となっていることを知る。
初老ヤクザの再出発はヘビーなシチュエーションの連続だが、西川作品らしいユーモアがちょうどいい箸休め。
津乃田が三上によって変化していくように、三上自身も周りの影響を受けて変わってゆく。
暴対条例が元極道を締め上げてゆく一方で、身元引き受け人の弁護士夫婦をはじめ、町内会長でもあるスーパーの店長や、三上のために免許取得に補助金を出せないか掛け合う公務員など、身近な人々の善意が、今までその筋の人脈しか知らなかった三上に、人間同士の繋がりを実感させてゆく。
とにかく喧嘩っ早く、口より先に手が出ていた三上が、自分のために尽くしてくれた人々を思い出し、グッと拳を握りしめる描写は役所広司の名演もあって本作の白眉だ。
今まま自分だけのことを考えて生きて来た男は、ついに他人を裏切りたくないという境地まで行き着くのである。
映画は、不器用な男の葛藤に観客を感情移入させつつ、彼の周りにある厳しくて残酷だが、同時に優しく暖かい世界を対比する。
コロナ禍で人と人との繋がりが一層クローズアップされる今、非常にタイムリーな作品だと思う。
とても面白く、好きな作品なのだが、最後だけはちょっと残念だった。
まあ物語の帰結する先としては、一番収まりがいいのだろうが、この世知辛い社会で少しだけ改心したアウトローがどんな風に生きていくのか、少なくとも想像の余地は残しておいて欲しかったな。
今回は、三上が服役していた旭川の地酒、髙高砂酒造の「國士無双 純米酒」をチョイス。
前身の小檜山酒造から数えると、創業120年をこえる北海道屈指の老舗酒蔵。
國士無双は同社が1975年に発売し、日本酒業界に辛口ブームを巻き起こしたとされる銘柄で、ライバルの男山と共に、旭川を代表する地酒だ。
純米酒は比較的リーズナブルで、フルーティでスッキリした辛口はいかにも北国の酒。
北海道の山海の幸と共にいただきたい。

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2021年02月12日 (金) | 編集 |
変らない、変えられない。
2019年の東京国際映画祭で、最高賞の東京グランプリに輝いたヒューマンドラマ。
北欧デンマーク、風光明媚なユトランドの農場に、27歳のクリスが、脚の悪い叔父さんと暮らしている。
子供の頃に両親を亡くした彼女を、叔父さんが一人で育ててくれたのだ。
酪農という仕事柄、クリスの一日に起こることはほとんど決まっている。
朝起きて叔父さんの介助をし、一緒に牛の世話をして料理を作り、ボードゲームに興じるのがルーティン。
たまに買い物に出ても、叔父さんの好物のヌテラをはじめ、買うものはだいたい同じ。
化粧っけもなく、オシャレもせず、今どきの若者なのにスマホすら持っていない。
視界一面にさえぎる物のない田舎の風景の中、映画は淡々と全く変わりばえしないクリスの毎日を描いてゆく。
ただし、彼女の心の中も常に平たんかと言えば、そう言うわけでもない。
秀才だったクリスは獣医大学への進学が決まっていたのだが、ちょうどその頃に叔父さんが体を壊し、介護が必要になったことであきらめていた。
獣医師になる夢には未練があるので、往診にやってくる獣医師の仕事を手伝ったり、借りた専門書を読んだりしていて、家畜の所見を獣医師に褒められるとちょっとうれしい。
また彼女自身は特に信心深くなさそうだが、たまたま墓参りにいった教会で、近所に住んでいるイケメン同業者の青年マイクと出会い、彼にデートに誘われて心が動く。
叔父さんも、いつかはやって来る姪っ子の旅立ちを意識して、突然リハビリに励みだす。
メガホンをとるのは、ユトランド出身でこれが長編二作目となるフラレ・ピーダゼン。
主人公のクリスを演じるイェデ・スナゴーは、女優となる前は獣医だった経歴を持ち、叔父さん役のペーダ・ハンセン・テューセンは彼女の実の叔父で、撮影が行われた農場で実際に暮らしている酪農家だという。
半分ドキュメンタリーのような作りが、圧倒的なリアリティとなって映像とドラマに説得力を与えている。
原題の「uncle」に、所有格の「わたしの」を付けた邦題が秀逸。
クリスは、とにかく大好きな叔父さんが心配で仕方ないので、一時も離れられない。
彼女の生きがいは叔父さんで、まさに「わたしの」なんだな。
叔父さんも、彼女の人生を縛ってはいけないと思いつつ、日常をあえて変えて一人になる勇気はない。
マイクとのデートにもついてきちゃうし、自分では彼女の幸せを願っているつもりでも、無意識に一緒にいたいと思っているのだ。
一見して共依存関係にある二人は、人生に波乱が起きるのを望まない。
ここが本作の一番ユニークなところで、物語映画の醍醐味は問題を抱えた主人公が、自分を変化させてゆくことで問題解決のソリューションにたどり着くことにあるが、本作のクリスは真逆。
何かが起こる予感がしても、それが自分を実際に変化させる前に摘み取ってしまうのだ。
映画の終盤までは、彼女の人生は徐々に動き始めている。
ずっと二人きりだった生活の中に、マイクの存在が現れ、かかりつけの獣医師はクリスの才能を認めて、コペンハーゲンで行う大学の講義に彼女を招待している。
ところが、ある事態が起きたことで、彼女は罪悪感から変化の予兆すべてを拒絶してしまう。
では変化のない彼女の人生は不幸なのか?といえば、そうも言い切れないのが面白いところ。
少子高齢化が進む今、本作のクリスのような状況にある人は、世界中にたくさんいるだろう。
無数のクリスの中には、人生を変えてゆきたいと願う人と同じくらい、このまま平和な人生が続くことこそが幸せと考えている人もいるかもしれない。
幸せの形は人によって異なり、セオリー通りのストーリーテリングに収まらない、人生という物語の多面的な切り取り方が実に新鮮だ。
デンマーク は高福祉社会ゆえに税金がすごく高いのだが、ビールは比較的安くて買いやすいのだとか。
最近はクラフトビールも入ってくるようになったが、今回は素朴に同国を代表するブランド、「カールスバーグ」をチョイス。
おなじみのやわらかな口当たりの、辛口のピルスナーラガー。
ホップの適度な苦味もあり、風味豊か。
非常に飲みやすいので、いくらでもいけてしまう異国の味。
まあ日本で売られているのは、基本サントリーのライセンス生産品なんだけど。
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2019年の東京国際映画祭で、最高賞の東京グランプリに輝いたヒューマンドラマ。
北欧デンマーク、風光明媚なユトランドの農場に、27歳のクリスが、脚の悪い叔父さんと暮らしている。
子供の頃に両親を亡くした彼女を、叔父さんが一人で育ててくれたのだ。
酪農という仕事柄、クリスの一日に起こることはほとんど決まっている。
朝起きて叔父さんの介助をし、一緒に牛の世話をして料理を作り、ボードゲームに興じるのがルーティン。
たまに買い物に出ても、叔父さんの好物のヌテラをはじめ、買うものはだいたい同じ。
化粧っけもなく、オシャレもせず、今どきの若者なのにスマホすら持っていない。
視界一面にさえぎる物のない田舎の風景の中、映画は淡々と全く変わりばえしないクリスの毎日を描いてゆく。
ただし、彼女の心の中も常に平たんかと言えば、そう言うわけでもない。
秀才だったクリスは獣医大学への進学が決まっていたのだが、ちょうどその頃に叔父さんが体を壊し、介護が必要になったことであきらめていた。
獣医師になる夢には未練があるので、往診にやってくる獣医師の仕事を手伝ったり、借りた専門書を読んだりしていて、家畜の所見を獣医師に褒められるとちょっとうれしい。
また彼女自身は特に信心深くなさそうだが、たまたま墓参りにいった教会で、近所に住んでいるイケメン同業者の青年マイクと出会い、彼にデートに誘われて心が動く。
叔父さんも、いつかはやって来る姪っ子の旅立ちを意識して、突然リハビリに励みだす。
メガホンをとるのは、ユトランド出身でこれが長編二作目となるフラレ・ピーダゼン。
主人公のクリスを演じるイェデ・スナゴーは、女優となる前は獣医だった経歴を持ち、叔父さん役のペーダ・ハンセン・テューセンは彼女の実の叔父で、撮影が行われた農場で実際に暮らしている酪農家だという。
半分ドキュメンタリーのような作りが、圧倒的なリアリティとなって映像とドラマに説得力を与えている。
原題の「uncle」に、所有格の「わたしの」を付けた邦題が秀逸。
クリスは、とにかく大好きな叔父さんが心配で仕方ないので、一時も離れられない。
彼女の生きがいは叔父さんで、まさに「わたしの」なんだな。
叔父さんも、彼女の人生を縛ってはいけないと思いつつ、日常をあえて変えて一人になる勇気はない。
マイクとのデートにもついてきちゃうし、自分では彼女の幸せを願っているつもりでも、無意識に一緒にいたいと思っているのだ。
一見して共依存関係にある二人は、人生に波乱が起きるのを望まない。
ここが本作の一番ユニークなところで、物語映画の醍醐味は問題を抱えた主人公が、自分を変化させてゆくことで問題解決のソリューションにたどり着くことにあるが、本作のクリスは真逆。
何かが起こる予感がしても、それが自分を実際に変化させる前に摘み取ってしまうのだ。
映画の終盤までは、彼女の人生は徐々に動き始めている。
ずっと二人きりだった生活の中に、マイクの存在が現れ、かかりつけの獣医師はクリスの才能を認めて、コペンハーゲンで行う大学の講義に彼女を招待している。
ところが、ある事態が起きたことで、彼女は罪悪感から変化の予兆すべてを拒絶してしまう。
では変化のない彼女の人生は不幸なのか?といえば、そうも言い切れないのが面白いところ。
少子高齢化が進む今、本作のクリスのような状況にある人は、世界中にたくさんいるだろう。
無数のクリスの中には、人生を変えてゆきたいと願う人と同じくらい、このまま平和な人生が続くことこそが幸せと考えている人もいるかもしれない。
幸せの形は人によって異なり、セオリー通りのストーリーテリングに収まらない、人生という物語の多面的な切り取り方が実に新鮮だ。
デンマーク は高福祉社会ゆえに税金がすごく高いのだが、ビールは比較的安くて買いやすいのだとか。
最近はクラフトビールも入ってくるようになったが、今回は素朴に同国を代表するブランド、「カールスバーグ」をチョイス。
おなじみのやわらかな口当たりの、辛口のピルスナーラガー。
ホップの適度な苦味もあり、風味豊か。
非常に飲みやすいので、いくらでもいけてしまう異国の味。
まあ日本で売られているのは、基本サントリーのライセンス生産品なんだけど。

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2021年02月09日 (火) | 編集 |
帰るべき“家族”とは。
見応えたっぷりの136分。
1999年から始まって、2005年、2019年の三つの時代を背景に、綾野剛演じるヤクザ者・山本賢治の刹那的人生が描かれる。
家族を失い自暴自棄になっていた賢治が、ヤクザの道に足を踏み入れるきっかけとなる1999年のエピソードを描く、およそ25分に及ぶアヴァンタイトルののち、往年の東映ヤクザ映画を思わせるOPクレジットにゾクゾク。
賢治がオヤジと慕うことになる柴咲組組長を、映画でのヤクザ役は「地獄の天使 紅い爆音」以来43年ぶりだという舘ひろしが、組の兄貴分を北村有起哉、賢治と恋仲になる真面目なホステスを尾野真千子が演じる。
暴対法の影響で徐々に衰退してゆくヤクザというモチーフから、21世紀の日本社会の閉塞を象徴的に描き出した脚本は、34歳の俊英・藤井道人監督のオリジナル。
劇場映画らしいスケール感と、ストーリー、テリング共に非常に高い完成度を持つ、キャリア・ベストの仕上がりと言える傑作だ。
1999年。
覚醒剤の過剰摂取で父親を亡くし、身寄りがなくなった19歳の山本賢治にとって、家族を壊したヤクザは憎しみの対照だった。
彼は悪友の細野(市原隼人)と大原(二ノ宮隆太郎)と共に、父親にクスリを売っていた売人を襲ってクスリを奪い、海に捨てる。
その夜、行きつけの焼肉屋で飲んでいた賢治は、偶然居合わせた柴咲組の組長・柴咲博(舘ひろし)をチンピラの襲撃から救う。
焼肉屋を営む愛子の亡き夫は、柴咲組の元組員だった。
奪ったクスリが柴咲組と敵対する侠葉会の物だったことから、賢治たちは侠葉会若頭・加藤(豊原功補)と若頭補佐の川山(駿河太郎)により拉致されるが、賢治の持っていた柴咲の名刺が彼らの命を救う。
どこにも行き場がなくなっていた賢治は、柴崎によって新たな“家族”へと迎え入れられ、親子の契りを結ぶことになる。
思ってもみなかったヤクザの道を歩み出した賢治は、やがて組織の中で頭角を表してゆくのだが・・・・
藤井道人という作家の名を覚えたのは、「デイアンドナイト」の時だ。
阿部進之介演じる主人公の父親は、大手自動車メーカーの企業城下町で、リコール隠しを告発したことで村八分にされ、自殺に追い込まれている。
主人公は、昼間は児童養護施設を経営し、夜はその運営資金を捻出するために、ありとあらゆる犯罪に手を染める安藤政信と出会い、彼の”仕事”をしながらも父の正義を追求しようとする。
この作品において、主人公は善と悪その両方に立ちながらも、正義について葛藤するのだ。
「・」も「スペース」もない、一続きの「デイアンドナイト」が善と悪の不可分を象徴し、昼でもなく夜でもない、灰色の時間で足掻き続ける人間たちの物語は、異様な迫力があった。
その後「新聞記者」の大ヒットで、一躍一般に名前を知られるようになったのだが、正直言ってあの作品は世評ほどには乗れなかった。
日本映画で本格的なポリティカルサスペンスが珍しいのは確かだが、作中で“スクープ”とされる事件が現実に完全に負けてしまっている上に、実名で出てくる望月衣塑子や前川喜平のネットメディアも、使い方が真面目すぎて、プロパガンダ色が強くなり、かえって広がりを欠いていたと思う。
意欲は十分だが、必ずしも上手くいっていない印象だった。
善と悪の狭間に生きるアウトローに、隠された真実を追う新聞記者。
そして、本作のモチーフとなるヤクザの世界と、世間に見えていることの裏側を描いてゆくことが、この作家の追求したいフィールドなのだろうが、過去の作品と比べると脚本の完成度が段違いだ。
1999年にヤクザの道へと進んだ後、映画の前半は柴咲組の若手のホープとなった賢治が、地方都市でブイブイ言わせていた2005年。
すでに暴対法施行から10年以上が経っているが、いまだヤクザ組織の勢力は健在だ。
個人的な記憶では、この頃には既に相当に締め付けが強まっていたと思うのだが、地域差があったのかも知れない。
賢治が柴咲の杯を受けた理由が、彼らがクスリを扱っていないこと。
シノギは伝統的な夜の繁華街からのみかじめ料や用心棒代などがメインで、彼らは極道だが外道でないのである。
父親がクスリ漬けになって死んだ賢治にとっては、これは決定的なことだ。
対照的に、街の半分をシマとする侠葉会は、金のためにクスリを売りまくる新興勢力として描かれていて、柴咲組とは以前抗争をくり広けたものの、上部組織の仲介によって手打ちとなっている。
だが街の再開発計画によって、侠葉会のシマが消滅してしまうことから物語が動き出し、お約束の抗争再開の結果、賢治は何よりも大切な”家族”を守るためにシャバからおさらばすることになるのだ。
そして長い歳月が過ぎた2019年。
戻ってきた賢治は、完全に浦島太郎状態。
この14年間に暴対法に基づく、いわゆる暴対条例が次々と作られ、ヤクザ組織は真綿で首を絞められるようにシノギを失い、確実に衰退していっている。
組関連の店はことごとく摘発され閉店を余儀なくされ、人で溢れていた組事務所からは若者が消え老人クラブ化し、車も巨大なセンチュリーからエコなプリウスに。
歓楽街は暴対条例の影響を受けない、半グレたちが仕切っている。
ヤクザと社会の切り離しを狙った暴対条例が、真っ先に標的にしたのはみかじめ料など一般人と関わる伝統的なシノギだったため柴咲組は衰退し、逆に完全に非合法である侠葉会のクスリなどは、まだ稼げるシノギとして残っている皮肉。
組織として死に体の柴咲組が、かつては幹部として高級マンションに暮らしていた賢治に用意するのが、安アパートなのが窮状を物語る。
14年もの間、シャバから隔離されていた賢治の居場所は、もはやどこにも残っていないのだ。
ヤクザという生き方しか知らないベテランたちが組に残っている一方、賢治の子分だった細野は堅気となり家族を作っている。
細野を頼った賢治も組を辞めて堅気として生きる道を歩み出し、逮捕される前に恋仲だった尾野真千子演じる由香と再会しよりを戻す。
ところが過去の疑似家族の亡霊は、決して現在を自由にはしてくれないのである。
一度暴力団構成員の烙印を押されてしまうと、更生したくても出来ない暴対条例の矛盾を可視化しつつ、ヤクザという擬似家族に集った結果、本物の家族をバラバラにしてしまうのはシニカルかつ哀しい。
本作を特徴付けるのが、親の代からの因縁が重要な要素になっていること。
賢治の父親が侠葉会のクスリによって死んだように、焼肉屋の愛子の夫は侠葉会との抗争で命を落とし、その息子の翼は賢治たちに可愛がられて育ち、今は半グレのリーダーとなって、かつての柴咲組のシマを支配している。
磯村勇斗が演じる翼の陽性なキャラクターと、親世代の日陰者ヤクザとのコントラストが、誰も抗えない時代の移り変わりを端的に表現。
世代を超えた血脈の物語になっているのは、まるで欧米の民族系ギャングの物語を観ているようで、過去のヤクザ映画には無かった視点を獲得している。
疑似家族にしか居場所がなかった賢治が、最後に”息子”である翼の未来を救い、弱さゆえに自らが壊した“本当の家族”の報いを受けるのは象徴的だ。
「ヤクザと家族 The Family」というタイトルが示すとおり、これはヤクザという疑似家族をモチーフに、その終わりを描いた物語であり、同時にジャンルとしてのヤクザ映画に手向けるレクイエム。
2005年までは額縁のシネスコで、最終章にあたる19年はスタンダードで切り取った映像が特徴的だが、同じことをやっていた作品にトレイ・エドワード・シュルツ監督の「WAVES/ウェイブス」がある。
あの作品も一つの家族の崩壊を描いていたが、どちらもワイドスクリーンが額縁であることがポイントだ。
「WAVES/ウェイブス」ではビスタ→額縁のシネスコ→さらに上下が狭くなる→スタンダード→額縁のシネスコ→ビスタとアスペクト比が変化する。
本作ではビスタは使われていないが、一見羽振りが良さそうな2005年も額縁にすることで、まるで遺影のように閉塞して見えるのは狙いだろう。
そして疑似家族と本物の家族の葛藤が描かれる後半部分は、閉塞していそうだが、実は突き抜けている。
キメキメの撮影・照明、スタイリッシュな衣装、時代の移り変わりを巧みに表現した美術、凝った編集、そしてmillennium paradeによるテーマ曲「FAMILIA」が情感たっぷりに死にゆく“家族”の余韻を引きのばす。
ヤクザの血を受けついだ翼と、あるキャラクターが出会い、親世代とは違った形の“Family”誕生を予感させるラストまで、抜群にセンスがいい。
まさに新世代の日本のノワールだ。
今回は焼肉食べながら飲みたい日本酒。
埼玉県羽生市の南陽醸造の「藍の郷 純米酒」をチョイス。
この蔵の「花陽浴」は、今では争奪戦となってなかなか手に入らなくなってしまったが、こちらはまだ比較的買いやすい。
酒米は彩のかがやき100パーセントを60パーセント精米し、フルーティーな香り、米の甘み、あっさりしたのどごし、適度なコクと、日本酒の全てを楽しめる。
さすがに花陽浴ほどの凄みはないが、バランスの良さは一級品だ。
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見応えたっぷりの136分。
1999年から始まって、2005年、2019年の三つの時代を背景に、綾野剛演じるヤクザ者・山本賢治の刹那的人生が描かれる。
家族を失い自暴自棄になっていた賢治が、ヤクザの道に足を踏み入れるきっかけとなる1999年のエピソードを描く、およそ25分に及ぶアヴァンタイトルののち、往年の東映ヤクザ映画を思わせるOPクレジットにゾクゾク。
賢治がオヤジと慕うことになる柴咲組組長を、映画でのヤクザ役は「地獄の天使 紅い爆音」以来43年ぶりだという舘ひろしが、組の兄貴分を北村有起哉、賢治と恋仲になる真面目なホステスを尾野真千子が演じる。
暴対法の影響で徐々に衰退してゆくヤクザというモチーフから、21世紀の日本社会の閉塞を象徴的に描き出した脚本は、34歳の俊英・藤井道人監督のオリジナル。
劇場映画らしいスケール感と、ストーリー、テリング共に非常に高い完成度を持つ、キャリア・ベストの仕上がりと言える傑作だ。
1999年。
覚醒剤の過剰摂取で父親を亡くし、身寄りがなくなった19歳の山本賢治にとって、家族を壊したヤクザは憎しみの対照だった。
彼は悪友の細野(市原隼人)と大原(二ノ宮隆太郎)と共に、父親にクスリを売っていた売人を襲ってクスリを奪い、海に捨てる。
その夜、行きつけの焼肉屋で飲んでいた賢治は、偶然居合わせた柴咲組の組長・柴咲博(舘ひろし)をチンピラの襲撃から救う。
焼肉屋を営む愛子の亡き夫は、柴咲組の元組員だった。
奪ったクスリが柴咲組と敵対する侠葉会の物だったことから、賢治たちは侠葉会若頭・加藤(豊原功補)と若頭補佐の川山(駿河太郎)により拉致されるが、賢治の持っていた柴咲の名刺が彼らの命を救う。
どこにも行き場がなくなっていた賢治は、柴崎によって新たな“家族”へと迎え入れられ、親子の契りを結ぶことになる。
思ってもみなかったヤクザの道を歩み出した賢治は、やがて組織の中で頭角を表してゆくのだが・・・・
藤井道人という作家の名を覚えたのは、「デイアンドナイト」の時だ。
阿部進之介演じる主人公の父親は、大手自動車メーカーの企業城下町で、リコール隠しを告発したことで村八分にされ、自殺に追い込まれている。
主人公は、昼間は児童養護施設を経営し、夜はその運営資金を捻出するために、ありとあらゆる犯罪に手を染める安藤政信と出会い、彼の”仕事”をしながらも父の正義を追求しようとする。
この作品において、主人公は善と悪その両方に立ちながらも、正義について葛藤するのだ。
「・」も「スペース」もない、一続きの「デイアンドナイト」が善と悪の不可分を象徴し、昼でもなく夜でもない、灰色の時間で足掻き続ける人間たちの物語は、異様な迫力があった。
その後「新聞記者」の大ヒットで、一躍一般に名前を知られるようになったのだが、正直言ってあの作品は世評ほどには乗れなかった。
日本映画で本格的なポリティカルサスペンスが珍しいのは確かだが、作中で“スクープ”とされる事件が現実に完全に負けてしまっている上に、実名で出てくる望月衣塑子や前川喜平のネットメディアも、使い方が真面目すぎて、プロパガンダ色が強くなり、かえって広がりを欠いていたと思う。
意欲は十分だが、必ずしも上手くいっていない印象だった。
善と悪の狭間に生きるアウトローに、隠された真実を追う新聞記者。
そして、本作のモチーフとなるヤクザの世界と、世間に見えていることの裏側を描いてゆくことが、この作家の追求したいフィールドなのだろうが、過去の作品と比べると脚本の完成度が段違いだ。
1999年にヤクザの道へと進んだ後、映画の前半は柴咲組の若手のホープとなった賢治が、地方都市でブイブイ言わせていた2005年。
すでに暴対法施行から10年以上が経っているが、いまだヤクザ組織の勢力は健在だ。
個人的な記憶では、この頃には既に相当に締め付けが強まっていたと思うのだが、地域差があったのかも知れない。
賢治が柴咲の杯を受けた理由が、彼らがクスリを扱っていないこと。
シノギは伝統的な夜の繁華街からのみかじめ料や用心棒代などがメインで、彼らは極道だが外道でないのである。
父親がクスリ漬けになって死んだ賢治にとっては、これは決定的なことだ。
対照的に、街の半分をシマとする侠葉会は、金のためにクスリを売りまくる新興勢力として描かれていて、柴咲組とは以前抗争をくり広けたものの、上部組織の仲介によって手打ちとなっている。
だが街の再開発計画によって、侠葉会のシマが消滅してしまうことから物語が動き出し、お約束の抗争再開の結果、賢治は何よりも大切な”家族”を守るためにシャバからおさらばすることになるのだ。
そして長い歳月が過ぎた2019年。
戻ってきた賢治は、完全に浦島太郎状態。
この14年間に暴対法に基づく、いわゆる暴対条例が次々と作られ、ヤクザ組織は真綿で首を絞められるようにシノギを失い、確実に衰退していっている。
組関連の店はことごとく摘発され閉店を余儀なくされ、人で溢れていた組事務所からは若者が消え老人クラブ化し、車も巨大なセンチュリーからエコなプリウスに。
歓楽街は暴対条例の影響を受けない、半グレたちが仕切っている。
ヤクザと社会の切り離しを狙った暴対条例が、真っ先に標的にしたのはみかじめ料など一般人と関わる伝統的なシノギだったため柴咲組は衰退し、逆に完全に非合法である侠葉会のクスリなどは、まだ稼げるシノギとして残っている皮肉。
組織として死に体の柴咲組が、かつては幹部として高級マンションに暮らしていた賢治に用意するのが、安アパートなのが窮状を物語る。
14年もの間、シャバから隔離されていた賢治の居場所は、もはやどこにも残っていないのだ。
ヤクザという生き方しか知らないベテランたちが組に残っている一方、賢治の子分だった細野は堅気となり家族を作っている。
細野を頼った賢治も組を辞めて堅気として生きる道を歩み出し、逮捕される前に恋仲だった尾野真千子演じる由香と再会しよりを戻す。
ところが過去の疑似家族の亡霊は、決して現在を自由にはしてくれないのである。
一度暴力団構成員の烙印を押されてしまうと、更生したくても出来ない暴対条例の矛盾を可視化しつつ、ヤクザという擬似家族に集った結果、本物の家族をバラバラにしてしまうのはシニカルかつ哀しい。
本作を特徴付けるのが、親の代からの因縁が重要な要素になっていること。
賢治の父親が侠葉会のクスリによって死んだように、焼肉屋の愛子の夫は侠葉会との抗争で命を落とし、その息子の翼は賢治たちに可愛がられて育ち、今は半グレのリーダーとなって、かつての柴咲組のシマを支配している。
磯村勇斗が演じる翼の陽性なキャラクターと、親世代の日陰者ヤクザとのコントラストが、誰も抗えない時代の移り変わりを端的に表現。
世代を超えた血脈の物語になっているのは、まるで欧米の民族系ギャングの物語を観ているようで、過去のヤクザ映画には無かった視点を獲得している。
疑似家族にしか居場所がなかった賢治が、最後に”息子”である翼の未来を救い、弱さゆえに自らが壊した“本当の家族”の報いを受けるのは象徴的だ。
「ヤクザと家族 The Family」というタイトルが示すとおり、これはヤクザという疑似家族をモチーフに、その終わりを描いた物語であり、同時にジャンルとしてのヤクザ映画に手向けるレクイエム。
2005年までは額縁のシネスコで、最終章にあたる19年はスタンダードで切り取った映像が特徴的だが、同じことをやっていた作品にトレイ・エドワード・シュルツ監督の「WAVES/ウェイブス」がある。
あの作品も一つの家族の崩壊を描いていたが、どちらもワイドスクリーンが額縁であることがポイントだ。
「WAVES/ウェイブス」ではビスタ→額縁のシネスコ→さらに上下が狭くなる→スタンダード→額縁のシネスコ→ビスタとアスペクト比が変化する。
本作ではビスタは使われていないが、一見羽振りが良さそうな2005年も額縁にすることで、まるで遺影のように閉塞して見えるのは狙いだろう。
そして疑似家族と本物の家族の葛藤が描かれる後半部分は、閉塞していそうだが、実は突き抜けている。
キメキメの撮影・照明、スタイリッシュな衣装、時代の移り変わりを巧みに表現した美術、凝った編集、そしてmillennium paradeによるテーマ曲「FAMILIA」が情感たっぷりに死にゆく“家族”の余韻を引きのばす。
ヤクザの血を受けついだ翼と、あるキャラクターが出会い、親世代とは違った形の“Family”誕生を予感させるラストまで、抜群にセンスがいい。
まさに新世代の日本のノワールだ。
今回は焼肉食べながら飲みたい日本酒。
埼玉県羽生市の南陽醸造の「藍の郷 純米酒」をチョイス。
この蔵の「花陽浴」は、今では争奪戦となってなかなか手に入らなくなってしまったが、こちらはまだ比較的買いやすい。
酒米は彩のかがやき100パーセントを60パーセント精米し、フルーティーな香り、米の甘み、あっさりしたのどごし、適度なコクと、日本酒の全てを楽しめる。
さすがに花陽浴ほどの凄みはないが、バランスの良さは一級品だ。

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2021年02月04日 (木) | 編集 |
オタクの恋の理想と現実。
ひょんなことから知り合った、共に21歳の同い年カップルの、5年間の恋の始まりと終わりを描くリリカルなラブストーリー。
二人ともサブカルが大好きで、好きな作品が悉く一致していたこともあって、瞬く間に恋におちる。
最初はタイトル通りに祝福された関係だったのが、きれいな花束がいつかは枯れてしまうように、時間の経過と共にお互いの感情が変化してくるのはお約束。
大学生だった二人も、社会人になったことで人生観の違いがクッキリと出てきて、心も体もいつしかすれ違いの毎日に。
TVドラマのフィールドで数々の秀作をものにしてきた坂元裕二のオリジナル脚本を、「罪の声」が記憶に新しい土井裕康監督が映画化。
脚本段階で当て書きされていたという菅田将暉と有村架純が、出ずっぱりで主人公カップルを好演する。
はたして、二人の人生にとって「花束みたいな恋をした」時間とはなんだったのか。
2015年。
京王線の明大前駅で、大学生の山音麦(菅田将暉)と八谷絹(有村架純)は、終電を逃したことから偶然に知り合う。
二人とも同い年の大学生で、サブカル大好きなオタク体質。
好きな映画も小説も漫画も完全に一致という奇跡のシンクロっぷりに、お互いにビビッときた二人は、やがて付き合い始める。
大学卒業後、イラストレーター志望の麦と就活に失敗した絹は、フリーターをしながら多摩川沿いの部屋を借りて同棲生活をスタート。
二人で散歩して、近所に美味しい焼きそばパンの店を見つけ、拾った仔猫に名前をつける。
居心地のいい安全地帯を手に入れた二人は、世間で何がおこっても二人の生活の現状維持を目標に毎日をおくる。
しかしある時、イラストの仕事に見切りをつけた麦が就職を決めたことで、二人の関係が少しずつ変ってゆく・・・・・
「麦」と「絹」、漢字一文字のキャラクター名は、有村架純が主演した坂元裕二の名作ドラマ「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」を思い出させる。
2015年から5年間の二人の恋の顛末は、リアル過ぎて容赦なく観る者の古傷をえぐってくる。
終電を逃したその日の夜に、いきなり”サブカルの神=押井守”と遭遇したことで、お互いに相当な数奇者なのを確認し意気投合。
映画の前半はオタクの妄想が炸裂したかのような、完璧な恋愛関係だ。
全ての趣味嗜好が一緒なのだから、そりゃ居心地満点だろう。
天竺鼠のライブを逃したと悔しがり、早稲田松竹のラインナップに感心し、国立科学博物館のミイラ展にワクワクし、今村夏子の「ピクニック」に心を震わせ、「ゼルダの伝説」に興じ、「宝石の国」をシェアして読み、「ゴールデンカムイ」の新刊を待ちわびる。
矢継ぎ早に出てくる膨大なサブカル固有名詞の数々が、強烈な同時代性となって五感を包み込む。
もともと数奇者同士は通じやすいもので、自分が好きな作品を相手も好きだと、つい嬉しくなってしまう。
舞台から映画、小説や漫画まで本作で名前が上がる作品群、その中に一つでも自分の好きなタイトルがあれば、たとえ境遇や年齢が違っていても、観客は同じ時代を生きたリアルな人物として主人公カップルに感情移入。
いつの間にか、オタクの理想を体現する二人に友人に近い感情を抱く。
しかし、この世界にはずっと変わらないものはない。
大学を卒業して同棲を始め、しばらくはフリーターとして生活しているものの、最初にあまりに安いイラストのギャラに耐えかねた麦が、次いで簿記の資格をとった絹が就職を決めると、同じだったはずの人生観に少しずつ違いが出てくる。
絹は無理をせず、マイペースで社会人生活を楽しみ、好きなものを愛する時間を大切にしようとするが、キャリアの後れを取り戻そうと焦る麦は、あらゆるものを犠牲にして仕事に邁進。
大好きだった小説や漫画はビジネス本や自己啓発本に変わり、映画を観ても疲れて上の空。
思うに、若いオタクの行き着く先は、ざっくりこの映画の二人のどちらかなんじゃないだろうか。
仕事の責任に目覚め、大好きなものを我慢して早く大人になろうとするか、収入は大したことなくても、好きなこと、やりたいことにプライオリティを置くか。
もちろん、どちらも間違っているわけではない。
麦が働くのは、早く一人前の社会人となって絹との生活を安定させたいためだし、一方の絹はそんなに無理をして変わって欲しくないと思っている。
「お互いのために」という選択が、逆に心の距離を広げてゆくのが切ない。
単なる説明ではない、音楽的に流れてゆくオシャレなモノローグでテンポよく進んでいくのだけど、良かれと思ってドツボにハマってゆく、相当にエグい話だ。
ところで、二人が付き合うきっかけの一つが“同じ靴を履いていた”なのだが、これが同じくサブカル系の若い男女のラブストーリーの「劇場」と被るのが面白い。
この二作には、いろいろ重なる部分と対照的な部分がある。
舞台となるのは、こちらは調布であちらは下北沢と、どちらもサブカル系に人気の街。
ところが二人の絶対的な安全地帯となる新居は、かたや切り詰めた暮らし伝わってくる昭和な古アパート、かたや二人の好きなものでいっぱいのオシャレな部屋。
一番の違いは「劇場」の山崎賢人が、たとえ売れてなくても完全に作り手の立場なのに対し、本作の主人公たちはクリエイターへの憧れはあっても、基本ファン目線だということだろう。
一応、麦はイラストレーターを目指しているが、基本的に二人の世界は広く浅くで何か一つにどっぷりではない。
麦と絹は“神”の登場に嬉しさを隠せないが、山崎賢人は訳もわからず”神“に喧嘩売りそうだ(笑
まあだからこそ、本作の二人はあそこまで泥沼に浸かり、お互いを傷つけ合うまではいかず、思い出を思い出のままきれいに別れられたのかもしれない。
山崎賢人が10年の恋の思い出を昇華するには、演劇化というプロセスを踏んで沼から脱出しなければならなかったのとは対照的だ。
本作で特筆すべきことに、“シーン”の持つ緻密さがある。
ここで言うシーンとは、単純に脚本上の“場”のことではなく、それぞれの場がどのような意図を持ってデザインされ、どんなものがそこにあり、誰がどの位置でどのような演技をするために配され、結果的にどのような空気を醸し出しているか、ミザンセーヌ全てを含む。
例えば二人が同棲している、多摩川沿いの部屋だ。
おそらくは二部屋ぶち抜きも可能な、1LDKの間取りだと思うのだが、二人の趣味の象徴とも言うべき大きな本棚がリビングと寝室を分けている。
同棲を始めた頃は、二人とも同じ部屋にいることが多かったのだが、やがて麦が就職すると生活時間の違いから、同じ家にいながら別の空間で過ごす描写が増えてゆく。
オタク部屋という愛の巣の持つ意味も、二人の中で徐々に変わり、同質性を意味していた本棚が今度は不通の象徴となってくるのである。
また坂元作品ではお馴染みのファミレスも、非常に効果的に使われている。
こちらは恋愛の始まりと終わりを象徴する装置として機能し、終盤主人公たちがまるでタイムマシンで過去を覗いたように、ある若いカップルを”目撃“するエピソードは実に切ない情感に満ちている。
二人を結びつける役割を果たすトイレットペーパーや、映画全体の括弧となるグーグル・ストリートビューなど、アイテムの一つ一つに伏線として意味を持たせてあり、それらが折り重なって、ライトだけど濃密な独特の世界観を作り出しているのである。
人生の中で、社会的な部分と個人的な部分をすり合わせてゆくのは難しい。
麦と絹が出会ったときは、個人的な部分だけでよかったのが、社会とのかかわりが増えれば増えるほどに個人の部分が削られてゆくのは、本作の観客の多くにもおぼえがあるだろう。
それだけ普遍性がある話だけに、平成最後の5年間を描いた本作には、解釈の仕方も人それぞれな間口の広さと深さがある。
物語の冒頭とラストで、再会した二人はいい感じに肩の力が抜けて、個人と社会のバランスが取れているように見える。
主人公カップルと年齢が近い人が観たら、恋愛の始まりと終わりを美しく情感たっぷりに描いた作品と思えるかもしれないし、私のような中年が観たら、これはむしろ焼け木杭に火が付くきっかけの話、にも思えてくるのである。
やはり菅田将暉が主演し、昨年公開された「糸」では、平成の30年間に腐れ縁のように邂逅を繰り返す男女が、最後の最後に結ばれる。
あの映画のカップルを考えたら、たった5年間の恋愛なんて、もしかするとプロローグに過ぎないのかもしれない。
花束はドライフラワーになっても美しいのだから。
今回は花束みたいな話だから「開花」を意味する「オレンジ・ブロッサム」をチョイス。
ビフィーター ・ジン45mlとオレンジ・ジュース適量を、氷を入れたタンブラーに注いで、軽くかき混ぜ、最後にスライスしたオレンジを飾る、
名前の通りオレンジ色の華やかなカクテルで、ジンの風味が爽やかだ。
材料がたった二つなので、手軽に楽しめるのも良い。
甘すぎず、辛すぎず、恋の始まりを予感させる一杯だ。
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ひょんなことから知り合った、共に21歳の同い年カップルの、5年間の恋の始まりと終わりを描くリリカルなラブストーリー。
二人ともサブカルが大好きで、好きな作品が悉く一致していたこともあって、瞬く間に恋におちる。
最初はタイトル通りに祝福された関係だったのが、きれいな花束がいつかは枯れてしまうように、時間の経過と共にお互いの感情が変化してくるのはお約束。
大学生だった二人も、社会人になったことで人生観の違いがクッキリと出てきて、心も体もいつしかすれ違いの毎日に。
TVドラマのフィールドで数々の秀作をものにしてきた坂元裕二のオリジナル脚本を、「罪の声」が記憶に新しい土井裕康監督が映画化。
脚本段階で当て書きされていたという菅田将暉と有村架純が、出ずっぱりで主人公カップルを好演する。
はたして、二人の人生にとって「花束みたいな恋をした」時間とはなんだったのか。
2015年。
京王線の明大前駅で、大学生の山音麦(菅田将暉)と八谷絹(有村架純)は、終電を逃したことから偶然に知り合う。
二人とも同い年の大学生で、サブカル大好きなオタク体質。
好きな映画も小説も漫画も完全に一致という奇跡のシンクロっぷりに、お互いにビビッときた二人は、やがて付き合い始める。
大学卒業後、イラストレーター志望の麦と就活に失敗した絹は、フリーターをしながら多摩川沿いの部屋を借りて同棲生活をスタート。
二人で散歩して、近所に美味しい焼きそばパンの店を見つけ、拾った仔猫に名前をつける。
居心地のいい安全地帯を手に入れた二人は、世間で何がおこっても二人の生活の現状維持を目標に毎日をおくる。
しかしある時、イラストの仕事に見切りをつけた麦が就職を決めたことで、二人の関係が少しずつ変ってゆく・・・・・
「麦」と「絹」、漢字一文字のキャラクター名は、有村架純が主演した坂元裕二の名作ドラマ「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」を思い出させる。
2015年から5年間の二人の恋の顛末は、リアル過ぎて容赦なく観る者の古傷をえぐってくる。
終電を逃したその日の夜に、いきなり”サブカルの神=押井守”と遭遇したことで、お互いに相当な数奇者なのを確認し意気投合。
映画の前半はオタクの妄想が炸裂したかのような、完璧な恋愛関係だ。
全ての趣味嗜好が一緒なのだから、そりゃ居心地満点だろう。
天竺鼠のライブを逃したと悔しがり、早稲田松竹のラインナップに感心し、国立科学博物館のミイラ展にワクワクし、今村夏子の「ピクニック」に心を震わせ、「ゼルダの伝説」に興じ、「宝石の国」をシェアして読み、「ゴールデンカムイ」の新刊を待ちわびる。
矢継ぎ早に出てくる膨大なサブカル固有名詞の数々が、強烈な同時代性となって五感を包み込む。
もともと数奇者同士は通じやすいもので、自分が好きな作品を相手も好きだと、つい嬉しくなってしまう。
舞台から映画、小説や漫画まで本作で名前が上がる作品群、その中に一つでも自分の好きなタイトルがあれば、たとえ境遇や年齢が違っていても、観客は同じ時代を生きたリアルな人物として主人公カップルに感情移入。
いつの間にか、オタクの理想を体現する二人に友人に近い感情を抱く。
しかし、この世界にはずっと変わらないものはない。
大学を卒業して同棲を始め、しばらくはフリーターとして生活しているものの、最初にあまりに安いイラストのギャラに耐えかねた麦が、次いで簿記の資格をとった絹が就職を決めると、同じだったはずの人生観に少しずつ違いが出てくる。
絹は無理をせず、マイペースで社会人生活を楽しみ、好きなものを愛する時間を大切にしようとするが、キャリアの後れを取り戻そうと焦る麦は、あらゆるものを犠牲にして仕事に邁進。
大好きだった小説や漫画はビジネス本や自己啓発本に変わり、映画を観ても疲れて上の空。
思うに、若いオタクの行き着く先は、ざっくりこの映画の二人のどちらかなんじゃないだろうか。
仕事の責任に目覚め、大好きなものを我慢して早く大人になろうとするか、収入は大したことなくても、好きなこと、やりたいことにプライオリティを置くか。
もちろん、どちらも間違っているわけではない。
麦が働くのは、早く一人前の社会人となって絹との生活を安定させたいためだし、一方の絹はそんなに無理をして変わって欲しくないと思っている。
「お互いのために」という選択が、逆に心の距離を広げてゆくのが切ない。
単なる説明ではない、音楽的に流れてゆくオシャレなモノローグでテンポよく進んでいくのだけど、良かれと思ってドツボにハマってゆく、相当にエグい話だ。
ところで、二人が付き合うきっかけの一つが“同じ靴を履いていた”なのだが、これが同じくサブカル系の若い男女のラブストーリーの「劇場」と被るのが面白い。
この二作には、いろいろ重なる部分と対照的な部分がある。
舞台となるのは、こちらは調布であちらは下北沢と、どちらもサブカル系に人気の街。
ところが二人の絶対的な安全地帯となる新居は、かたや切り詰めた暮らし伝わってくる昭和な古アパート、かたや二人の好きなものでいっぱいのオシャレな部屋。
一番の違いは「劇場」の山崎賢人が、たとえ売れてなくても完全に作り手の立場なのに対し、本作の主人公たちはクリエイターへの憧れはあっても、基本ファン目線だということだろう。
一応、麦はイラストレーターを目指しているが、基本的に二人の世界は広く浅くで何か一つにどっぷりではない。
麦と絹は“神”の登場に嬉しさを隠せないが、山崎賢人は訳もわからず”神“に喧嘩売りそうだ(笑
まあだからこそ、本作の二人はあそこまで泥沼に浸かり、お互いを傷つけ合うまではいかず、思い出を思い出のままきれいに別れられたのかもしれない。
山崎賢人が10年の恋の思い出を昇華するには、演劇化というプロセスを踏んで沼から脱出しなければならなかったのとは対照的だ。
本作で特筆すべきことに、“シーン”の持つ緻密さがある。
ここで言うシーンとは、単純に脚本上の“場”のことではなく、それぞれの場がどのような意図を持ってデザインされ、どんなものがそこにあり、誰がどの位置でどのような演技をするために配され、結果的にどのような空気を醸し出しているか、ミザンセーヌ全てを含む。
例えば二人が同棲している、多摩川沿いの部屋だ。
おそらくは二部屋ぶち抜きも可能な、1LDKの間取りだと思うのだが、二人の趣味の象徴とも言うべき大きな本棚がリビングと寝室を分けている。
同棲を始めた頃は、二人とも同じ部屋にいることが多かったのだが、やがて麦が就職すると生活時間の違いから、同じ家にいながら別の空間で過ごす描写が増えてゆく。
オタク部屋という愛の巣の持つ意味も、二人の中で徐々に変わり、同質性を意味していた本棚が今度は不通の象徴となってくるのである。
また坂元作品ではお馴染みのファミレスも、非常に効果的に使われている。
こちらは恋愛の始まりと終わりを象徴する装置として機能し、終盤主人公たちがまるでタイムマシンで過去を覗いたように、ある若いカップルを”目撃“するエピソードは実に切ない情感に満ちている。
二人を結びつける役割を果たすトイレットペーパーや、映画全体の括弧となるグーグル・ストリートビューなど、アイテムの一つ一つに伏線として意味を持たせてあり、それらが折り重なって、ライトだけど濃密な独特の世界観を作り出しているのである。
人生の中で、社会的な部分と個人的な部分をすり合わせてゆくのは難しい。
麦と絹が出会ったときは、個人的な部分だけでよかったのが、社会とのかかわりが増えれば増えるほどに個人の部分が削られてゆくのは、本作の観客の多くにもおぼえがあるだろう。
それだけ普遍性がある話だけに、平成最後の5年間を描いた本作には、解釈の仕方も人それぞれな間口の広さと深さがある。
物語の冒頭とラストで、再会した二人はいい感じに肩の力が抜けて、個人と社会のバランスが取れているように見える。
主人公カップルと年齢が近い人が観たら、恋愛の始まりと終わりを美しく情感たっぷりに描いた作品と思えるかもしれないし、私のような中年が観たら、これはむしろ焼け木杭に火が付くきっかけの話、にも思えてくるのである。
やはり菅田将暉が主演し、昨年公開された「糸」では、平成の30年間に腐れ縁のように邂逅を繰り返す男女が、最後の最後に結ばれる。
あの映画のカップルを考えたら、たった5年間の恋愛なんて、もしかするとプロローグに過ぎないのかもしれない。
花束はドライフラワーになっても美しいのだから。
今回は花束みたいな話だから「開花」を意味する「オレンジ・ブロッサム」をチョイス。
ビフィーター ・ジン45mlとオレンジ・ジュース適量を、氷を入れたタンブラーに注いで、軽くかき混ぜ、最後にスライスしたオレンジを飾る、
名前の通りオレンジ色の華やかなカクテルで、ジンの風味が爽やかだ。
材料がたった二つなので、手軽に楽しめるのも良い。
甘すぎず、辛すぎず、恋の始まりを予感させる一杯だ。

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