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酒を呑んで映画を観る時間が一番幸せ・・・と思うので、酒と映画をテーマに日記を書いていきます。 映画の評価額は幾らまでなら納得して出せるかで、レイトショー価格1200円から+-が基準で、1800円が満点です。ネット配信オンリーの作品は★5つが満点。
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騙し絵の牙・・・・・評価額1700円
2021年03月29日 (月) | 編集 |
本当に勝ったのは、誰だ?

「罪の声」が記憶に新しい、塩田武士の同名小説の映画化。
不況にあえぐ出版業界を舞台にした、とある老舗雑誌のリニューアル劇。
しかしそこには、会社の主導権争いの権謀術数が絡み合う。
21世紀の日本の青春映画のマスターピースとなった、「桐島、部活やめるってよ」の吉田大八監督が、「天空の鉢」の楠野一郎と組んで脚色。
大泉洋が演じる怪しげな編集長は、いわば狂言回し的トリックスターで、物語的な主人公は松岡茉優演じる、文学と本をこよなく愛する若手編集者。
彼女を含め、佐藤浩一や佐野史郎、國村隼といった豪華な名優たちが、トリックスターの仕掛けた罠に翻弄される。
ネット社会の浸透で、激変しつつある「本」に関わる人たちによる、生き馬の目を抜く熾烈な騙し合いバトルは、全く先を読ませない。
※核心部分に触れています。

大手出版社・薫風社の創業家出身の社長が急死し、後継者争いが勃発。
出版不況の中、改革を進めたい専務の東松(佐藤浩市)は、前社長の息子・伊庭惟高(中村倫也)をアメリカへと追いやり、自らが社長に昇格する。
東松にとって目の上のたん瘤が、金食い虫の「小説薫風」と、後ろ盾になっている保守派常務の宮藤(佐野史郎)だった。
その頃、老舗雑誌「トリニティ」のリニューアルを進めていた切れ者編集長の速水輝(大泉洋)は、小説薫風の若手編集者の高野恵(松岡茉優)をスカウト。
速水は、小説薫風の人気作家・二階堂大作(國村隼)を引き抜き、高野が目をつけていた新人作家の矢代聖(宮沢氷魚)にも声をかける。
この動きは、全て小説薫風と宮藤に対する東松の揺さぶりだった。
それぞれ腹に一物を持つ、重役、編集長、編集者、作家たちの生き残りをかけた暗闘が始まる・・・


原作は未読。
聞くところによると、けっこう変わってるらしいが、非常に面白い。
トリニティ、つまりは「三位一体」という意味深な名前の雑誌のリニューアルのため、大泉洋演じる速水がいろいろ仕掛けるのだが、彼の真意が計り知れないこともあり、中盤くらいまでは物語がどこへ向かってゆくのかがなかなか見えない。
こういう作劇は、下手をすると観客の興味を失わせてしまう危険をはらむが、本作の場合はキャラクターの掛け合いの面白さと、一つの展開が次の展開を生むテンポが心地良く、飽きさせない。
全体的には、トリニティ編集部内の雑誌の方向性を巡る対立が中心となり、その外側を小説薫風とトリニティの対立、さらにその外側に薫風社の経営方針を決める会社上層部の対立が包んでいるという、俯瞰で見ると同心円状に広がる、蜘蛛の巣のような構造が見て取れる。
それぞれの対立構造の裏側から、トリックスターの速水が糸を引き、物語終盤になって「騙し絵」の全体像がようやく姿を現す。

トリニティの内部の対立は、「面白ければ何でもいい」という速水が、どんどん小説色を強めようとすることへの反発。
それも、ただ高野をスカウトして小説家を連れてくるのではなく、例えば名作小説の漫画化だとか、池田エライザ演じる隠れて同人誌を書いてる銃器マニアのモデルに声をかけたり、宮沢氷魚のイケメン新人小説家をモデルのように扱って売り込んだり、常に話題作りとリンクしている。
そんな速水の邪道な戦略は、当然ながら伝統的な小説雑誌である小説薫風と対立することになるのだが、これは初めから仕組まれていたこと。
全ては小説薫風の後ろ盾である、保守派の宮藤を追い落とすための東松の作戦なのである。
では東松が何をやろうとしているかというと、出版取次を廃止して、出版社が本を直販するシステムの構築だ。

日本の出版業界では出版社と書店の取引に、出版取次と呼ばれる問屋が介在し、出版業界の「三位一体」を形作る。
書店は出版社ではなく、取次に本を注文することで、本が卸される。
他の多くの商品と違って、本は売れなければ返品されるが、これも取次の仕事。
取次は本の出荷と返品処理を、一手に引き受けてくれる便利な存在なのだ。
また、出版される膨大な数の本全てを、書店側が把握していることはあり得ないから、委託配本制度というものがあり、書店が注文していない本も卸されてくる。
これも担当している書店でどんな本が売れているのか、どのくらいのキャパシティがあるのか、取次の持つデータとノウハウが問われる。
本作の劇中で、小さな書店を経営している高野の父が、顧客の誕生日の注文に間に合わせるために、大型書店に本を買いに行く描写があるが、これも取次を介しての注文だと、どうしても日数がかかってしまうからなのだ。
まあ色々とメリットも大きいのだが、当然ながら中間マージンを取られる訳で、東松はコスト削減のために大規模な流通センターを作って本の直販に乗り出そうとしていて、それに反対しているのが伝統主義の宮藤という構図。

しかし、ここまでなら構図は複雑でもごく普通のお仕事映画。
この作品の面白さは、自分が実際に何をしているのか、多くの登場人物は理解していないということにある。
本作の冒頭、犬を散歩させている老人が映し出される。
犬は次第にペースを早め、リードを握っている老人は無理な速度で引っ張られて、遂には亡くなってしまうのだ。
実はこの人が、薫風社の社長。
この描写が象徴する様に、誰もが自分がリードを握っているつもりでも、実際には他の誰かに走らされている
単純な地位の優劣ではなく、組織や業界の中で、誰がグランドデザインの主導権を持っているのかが重要。
薫風社を舞台とした権謀術数は、速水が全ての糸を引く。
走らされていたのは、社長となった東松も例外ではないのだ。

吉田大八は、「桐島、部活やめるってよ」で、桐島という軸を失ったことで、解体されてゆく学園という社会を、静かな熱情と共に描いた。
対してこの作品では、先代社長を失い解体されてゆく組織を、速水となかなか表に出てこないある人物が、人知れずまとめ上げ、グランドデザインのもとに再生してゆく
組織の中にあっても“フリー”であることを標榜する速水は、最初は何を考えているのかわからないが、終盤にきて本気で出版の未来を考えて、「面白いもの」を作ろうとしていることが明確になる。
しかし彼とて、すでにあるシステムの中にいて、真に自由ではないのだ。
速水とある人物は、日本の出版業界の形を変える、大きな「騙し絵」を完成させるのだが、ではその絵を描かせたのは誰か。
そこには、薫風社をも包み込む、作中の世界観を超える対立構造が存在しているのである。

では、今の社会で誰かに走らされない生き方は出来ないのか。
この問いに対する答えが、速水に翻弄され続けた高野の最後の選択だ。
世界的に消滅しつつある、街の書店の娘である彼女は、驚くべきスタートアップを立ち上げる。
指一つで世界中の本が注文できる時代にあって、彼女が作ったのは出版もする本屋。
つまりどんなに欲しい本でも、その店に行かないと手に入らない、既存の出版業界のシステムから完全にスタンドアローンの状態で存在する本屋。
確かに目新しいアイディアで、劇中でも話題になっていたし、一見希望的に見えるけど、彼女が出版した第一号の本の値段を聞いてぶっ飛んだ。
一冊、なんと35000円なり。
これは要するに、現在のような流通システムが整備される前の出版業界への先祖返りだ。
彼女の会社はなんとか生き残っていけるかもしれないが、35000円の本を手に出来るのはぶっちゃけ富裕層だけで、文学を真に愛するほとんどの読者には届かないだろう。
高野にとってこれは、ハッピーエンドなのか、それともバッドエンドなのか
もしかすると、作り手の意図とは違う解釈かも知れないが、私はこの結末に深く考え込んでしまった。
現在の資本主義社会では、大切な何かとトレードオフしなければ、自由に生きることはできないのだろうか。
むしろ、しがらみで雁字搦め中でも、最後の最後までひたすら「面白いもの」を追求する、速水の反骨精神が印象的だった。

今回は、大泉洋のイメージで「エル・ディアブロ」をチョイス。
テキーラ45ml、クレーム・ド・カシス15ml、レモン・ジュース10ml、ジンジャーエール適量を氷を入れたタンブラーに注ぎ入れ、軽く混ぜる。
最後にスライス・レモンを飾って完成。
ディアブロとは悪魔のこと。
ルビー色の魅惑的なカクテルで、本作のキャタクター同様に、刺激的ではあるが酸味が効いてスッキリした味わいが特徴。
飲みやすいが、かなり強いので、飲み慣れない人だと高野みたいに酔い潰れちゃいそう。

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ショートレビュー「まともじゃないのは君も一緒・・・・・評価額1650円」
2021年03月25日 (木) | 編集 |
普通って、なんだろう。

清原果耶演じる高校生の香住が、成田凌が怪演する笑い方が気持ち悪い予備校教師・大野先生に恋愛指南してるうちに、ミイラ取りがミイラになる。
テンポのいい台詞の掛け合いが続くラブコメ会話劇で、とても面白い。
前田弘二監督、高田亮脚本のコンビ作では、「婚前特急」を超える快作だ。

意識高い系の香住は、小泉孝太郎のおもちゃ会社社長・宮本に憧れている。
この人、社長なんだけど講演ばっかりやっていて、「人類が労働から解放された未来をどう生きるか」みたいなことを話している。
ぶっちゃけ、宮本の言ってることは、全く具体性がないポエムみたいなものなのだが、「それでも何となく正しいという気がする」のは、ブラザー進次郎のシニカルなパロディか(笑
すっかり宮本に感化された香住は、なんとかお近づきになりたいのだが、彼には常に寄り添っている婚約者の美奈子がいる。
そこで香住は、結婚とかして幸せになりたいので、「普通」を教えて欲しいと願う数学バカの大野先生を、恋愛指南を装って美奈子に接近させ、宮本との仲を壊そうとするのだ。
まあ他愛無い子供の戯れなのだが、これは映画なのでそれなりに上手くいってしまう。

それにしても、キャスティングがいい。
清原果耶と成田凌は、一見真面目だけど実はどこかズレてる役が絶妙にハマる。
いかにもスーツを着なれていない成田凌が、迷子の子犬みたいな表情で突っ立ってるだけで、笑いが込み上げて来る。
オンラインサロンによくいる詐欺師、みたいな小泉孝太郎の胡散臭さとかも、実に的役。
美奈子を演じる泉里香を含め、この映画の成功は半分くらいキャスティングの勝利だ。

香住の良からぬ作戦によって個性的な四人が急速に接近し、四角関係の恋愛シミュレーションで、世の中の「普通」の普通じゃなさが浮かび上がって来る仕組み。
全てを論理的に考え、恋愛感情すら「定量化して表現してほしい」という大野先生を、香住は「普通じゃない」というが、そもそも普通とは何かを問われると答えられない。
まあこの映画自体が「普通とは?」という問いに対して納得できる解答を出している訳ではないのだが、それは本作が追求するところではないので仕方がない。
たぶん、誰も答えられない難問だと思うし。

そして、四角関係が混み入ってくる過程で、恋愛経験も無いのに「普通」というパワーワードで、大人相手にマウント取ろうとする香住も、恋の神様からビターなお仕置きをされる。
そもそも彼女は、恋と憧れの区別もついてないくらい幼いんだな。
逆に恋愛下手のはずの大野先生の方が、いざ美奈子と実際に会ってみると、意外とスムーズにコミュニケーションとれたり、キャラクターの攻守の入れ替わりが物語のメリハリにつながっている。
同世代同士じゃないからこそ、見えてくるものもある。
恋愛シミュレーションの結果、二人はそれぞれに「普通」の難しさを知り、今の自分を少しだけ成長させる。
作り手と演者のコメディセンスが、見事に合致した快作だ。

しかし、一応先生の端くれとして身もふたもない話をすると、今どき未成年の教え子と一対一でご飯に行ったら、その時点で懲戒ものだよ。
もちろん肩掴むとか、身体接触も絶対NG。
見たところ勤め先は大手予備校みたいだったが、大野先生気をつけないとクビになっちゃうよ!

今回は「プラトニック・ラブ」をチョイス。
ピーチ・リキュール 30ml、クランベリー・ジュース30ml、パイナップル・ジュース 30mlをシェイクし、氷を入れたグラスに注ぐ。
すっきり甘酸っぱく、桜色のカクテルは恋の味。

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ミナリ・・・・・評価額1700円
2021年03月21日 (日) | 編集 |
共に、生きてゆく。

1980年代、農場経営という夢を叶えるため、アーカンソー州の田舎街に移り住んだ、韓国からの移民家族の物語。
アメリカンドリームを夢見る夫と、しっかり者の娘と心臓病の息子を抱え、堅実に生きようとする妻との間には、世界観に最初から違いがある。
徐々に顕在化する亀裂を埋めるために、妻は韓国から母を呼び寄せるのだが、このパワフルなお婆ちゃんが、むしろ夫婦に現実を突きつける。
米国版「君の名は。」の監督・脚色を務めることがアナウンスされている、韓国系アメリカ人のリー・アイザック・チョンの半自伝的作品で、サンダンス映画祭で観客賞と審査員特別賞をダブル受賞し、今年のアカデミー賞でも6部門で有力候補となっている話題作だ。
「バーニング 劇場版」のスティーブン・ユァンが父ジェイコブを、ハン・イェリが母モニカを、ユン・ヨジョンが祖母を演じる。
※核心部分に触れています。

レーガン時代の1980年代。
韓国からアメリカに渡ったジェイコブ・イ(スティーブン・ユァン)と妻のモニカ(ハン・イェリ)は、カリフォルニアで10年働き、新生活を始めるためにアーカンソー州の田舎へと引っ越す。
ジェイコブは、ヒヨコの雌雄判別で稼ぎながら、農場を開拓して韓国の野菜を栽培し、韓国系住民の多いダラスで販売しようとしているが、楽観的過ぎる夫の計画にモニカは懐疑的。
アメリカで生まれたアン(ノエル・ケイト・チョー)とデビッド(アラン・キム)の二人の子供を抱え、特に心臓に疾患を抱えるデビットを心配しているモニカは、早く都会へと帰りたいと訴え、夫婦間には喧嘩が絶えない。
そんな状況を改善しようと、モニカは韓国から母のスンジャ(ユン・ヨジョン)を呼び寄せるのだが、アメリカ育ちの子供たちは、文化の違う祖母にはなかなか懐かない。
ジェイコブは朝鮮戦争の帰還兵であるポール(ウィル・パットン)に手伝ってもらいつつ、農場を開拓してゆくのだが、肝心の野菜販売はなかなか上手くいかない。
そんな時、一家の運命を変える事件が起こるのだが・・・・


リー・アイザック・チョンは、1978年にデンバーで韓国系移民の子として生まれ、少年時代をアーカンソー州リンカーンの小さな農場で過ごしたという。
これは彼の家族をモデルに、一家の幼い息子に自分自身を投影した物語だ。
韓国からアメリカへの新移民は、移民枠が拡大された60年代から増え始め、80年代にピークに達する。
60年代末に数万人に過ぎなかった韓国系人口は、現在では日系人よりも多い180万人。
しかし、ほとんどの移民が向かうのは働き口の多い都会で、本作のようなど田舎に住もうとする移民はほとんどいない。
劇中でも言及されるように、わざわざ韓国系の少ない田舎に来るのは、訳ありの人か、変人だったのである。

イ家の夫であるジェイコブは、変人の方。
彼は増え続ける移民たちが故郷の味を懐かしみ、韓国野菜の需要が高まると考え、韓国系人口の多い大都会のダラスへの出荷が可能で、土地の値段が安いアーカンソーに目を付ける。
まあそれは良いのだが、この人基本的に独断専行型で、全部自分が判断して実行しないと気が済まないタイプ。
引っ越した後にモニカが「騙された」と言っていたから、たぶんアーカンソーの土地も自分一人で下見して、農場にする計画も妻に相談することもなく決めてしまっている。
しかも彼はプライドが高く、知識と理性を持って成功を追い求める唯物的人物で、土地の人たちが木の棒を使って水脈を探す、伝統的なダウジングを行なっていることを知ると、迷信を信じる田舎者とバカにする。
10年間もヒヨコの雌雄判別という地味な仕事をしてきたジェイコブは、父親が実力で何かを成し遂げる姿を子供たちに見せたいと思っているのである。

韓国からアメリカまでついて来たモニカは、そんな夫に対して静かに鬱憤を募らせている。
冒頭の引っ越しシーンが、先行する夫のトラックについてゆくモニカの車内からの主観ショットであることからも分かる様に、映画は観客を妻に感情移入させるところからはじまる。
彼女が心配しているのが心臓に疾患を持つデビッドのことで、夫婦共働きの状況で医療機関から遠く離れた田舎で暮らすことが不安でならない。
夫の夢と妻の現実の間で、徐々に広がってゆく亀裂をなんとかしようと、モニカは韓国から母のスンジャを呼び寄せる。
女で一つで自分を育て上げた母がそばにいてくれれば、夫婦が留守していても安心という訳だ。

ところがこのお婆ちゃん、子供に花札を教えて悪態つきまくるなど、相当に破天荒。
孫のためにクッキーを作ってくれないし、悪い言葉を使うし、男物のパンツを履いてるお婆ちゃんに、全く文化の違う孫たちは懐かない。
むしろスンジャが触媒となって、夫婦の世界観の違いがハッキリとしてゆくのだ。
ジェイコブの「家族のため」の行動が、逆に二人を追い込んでゆき、両親の関係の悪化を子供たちも敏感に感じ取っている。
作者の分身であるデビッドの、幼さ故に言語化できない様々な感情が浮かぶ瞳が印象的だ。
この土地には危険な蛇がいて、蛇を見つけたデビッドが石を投げて追い払おうとするのをスンジャが止めて「危ないものは見えていた方がいい」というのは格言。
危機というのは、見えないうちに大きくなってゆくものなのだ。

イ家の人々は名前で分かるようにクリスチャンで、本作ではキリスト教信仰が重要なスパイスとして効いている。
現地の教会にも行ってみたものの、田舎のコミュニティ特有の閉鎖性もあり、馴染むことが出来ない。
未知の土地にやって来た彼らにとって唯一助けとなるのが、朝鮮戦争の帰還兵だったポールだが、彼はおそらく戦争の経験からか人生を贖罪に捧げている。
毎週日曜日になると彼は教会にはいかずに、まるでゴルゴダの丘へ向かうキリストのように、巨大な十字架を背負って歩き続けているのだ。
信心深く、スピリチュアルなポールは、ジェイコブにとっては典型的な“迷信を信じている田舎者”で、彼に対するスタンスも、唯物的なジェイコブと唯心的なモニカの違いが際立ってくる。
また、本作で重要なモチーフとなるのが、聖書で生命の象徴とされる「水」だ。
ダウジングを拒否したジェイコブは、“科学的な知識”で地下水を掘り当てるが、やがて水は干上がってしまい、高価な水道水を畑に使う羽目に。
知識と理性を持って事業に挑んだはずのジェイコブのアメリカンドリームは、未知なる大地の気まぐれに翻弄され、結局バカにしていた迷信に頼らざるを得なくなるのが皮肉だ。
ジェイコブだけではなく、田舎暮らしを嫌がっていたセリも、水のもたらしたある奇跡に直面し、世界を揺さぶられる。

タイトルの「ミナリ」とは、日本でもおなじみの野菜のセリのことで、水があればどこでも育つことから、韓国から種を持って来たスンジャが家の近くの小川のほとりに植える。
雑草のごとき生命力が、異郷で生き抜く移民たちに重なる。
結果的にはお婆ちゃん、図らずもグッジョブで、一度壊れることで見えて来る道もある。
いろいろあって亀裂は決して修復された訳ではないけれど、それでも共に生きてゆく。
家族にとって、そこが「約束の地」となるのかどうかは、彼ら自身にかかっているのだ。

この作品、近年優れた作品を連発している「A24」と、ブラット・ピットが主宰する「PLAN B エンターテイメント」の共同制作にも関わらず、使われている言語がほぼ韓国語ということで、オスカーレースの前哨戦とされるゴールデン・グローブ賞では、外国語映画賞の扱いになってしまった。
しかし、問題を抱えた移民の家族を、アーカンソーの雄大な草原を吹き抜ける風と、聖なる水が見守っているというこの映画の持つ情緒は、まごうことなきアメリカンインディーズ映画だ。

今回は、アメリカに入植したアジア人の移民の話なので、サントリーが考案したカクテル 「グリーン・フィールズ」をチョイス。
グリーンティー・リキュール30ml、ウォッカ15ml、牛乳15mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
もともとは、1960年に発売したヘルメス・グリーンティーを普及させるために作られたカクテル で、同年にヒットしたブラザース・フォアの同名曲から名付けられた。
お茶と牛乳の相性の良さは言わずもがなだが、ウォッカもいい感じにマイルドになっている。

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シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇・・・・・評価学1800円
2021年03月17日 (水) | 編集 |
26年目の「終劇」

1995年に放送開始し、社会現象化したTV版「新世紀エヴァンゲリオン」とその劇場版、さらに2007年からリブートされた「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序・破・Q」、これら全てを内包し、全ての葛藤に決着をつける完結編。
「シン・ゴジラ」を間に挟んで「Q」から9年。
結論から言うと、全てが腑に落ちた。
これは四半世紀をかけた庵野秀明の究極の私小説であり、αでありω、極大でありながら極小。
星をつぐものの壮大な神話が、碇シンジと碇ゲンドウの超パーソナルな内面の葛藤に帰結するのは、実に日本的というか、日本以外ではなかなか出てこない作品かもしれない。
※核心部分に触れています。

葛城ミサト(三石琴乃)率いる反NERV組織「ヴィレ」は、パリの旧NERV本部からEVAのパーツなどを回収する作戦を敢行。
NERVのエヴァ軍団の執拗な妨害を受けるが、マリ(坂本真綾)の乗る8号機の活躍で、目的は達成される。
一方、シンジ(尾形恵美)と仮称綾波レイ(林原めぐみ)は、アスカ(宮村優子)に導かれて、ニアサードインパクトから生き残った人間たちが暮らす第3村へとたどり着く。
そこには、大人になった鈴原トウジ(関智一)とヒカリ(岩男潤子)夫妻や相田ケンスケ(岩永哲哉)が暮らしているが、重すぎる罪の意識に押しつぶされ、生きる気力を失ったシンジは誰とも話そうとしない。
シンジは、アスカと共にケンスケの家で世話になり、仮称レイはトウジの家で赤ん坊の世話や農業の手伝いをして過ごす。
仮称レイにとって、初めて経験する人間らしい暮らしであり、徐々に感情や言葉を覚えてゆく。
廃人状態になっていたシンジも、仮称レイのおかげで少しずつ元気を取り戻すが、本来NERVの施設内でしか生きられない仮称レイの体には限界が迫っていた。
そんな時、ヴィレのヴンダーが補給とアスカのピックアップのために、第3村にやってくることになるのだが・・・


90年代、大センセーションを巻き起こしていた「新世紀エヴァンゲリオン」を初めて観たのは、日本での放送が始まってしばらく経った頃。
当時私はアメリカに住んでいたのだが、在留邦人向けに日本のTV番組をビデオ録画してレンタルする店(当時でも法的にはアウト)があり、そこに入荷するのを心待ちにしていたのだ。
むちゃくちゃ面白かった。
庵野秀明という名は、ずっと憧れだった。
自主映画を作っていた高校生の頃、「DAICON FILM」を観て物凄いショックを受けて以来ずっと追っていて、「トップをねらえ!」も「ふしぎの海のナディア」も素晴らしかったが、「エヴァ」は格が違うと感じた。
だからこそ、観続けた結果セカイ系を象徴するような有名なラストに困惑し、それをさらにひっくり返した「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」でも頭を抱えた。
いや、面白いことは面白かったんだけど、真逆の話を連続して作って、最終的にどこへ着地したいのか理解できなかったのだ。

数年後、独立した庵野秀明が再び「エヴァ」を作ると聞いた。
「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」として「序・破」が作られ、個人的にもこの頃に少し「エヴァ」関連の仕事もした。
遅延はあったものの、「Q」も封切られ、このまま完結するものだと思っていたが、まさか9年もかかるとは思わなかったよ。
今回「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」と、またまた名を変えた完結編を迎える前に、数年ぶりに「序・破・Q」を観直した。
やっぱり、むちゃくちゃ面白かった。
「序・破」は言うに及ばず、物議をかもした「Q」も一度設定が頭に入れば、95分と尺が短いこともあり、怒涛の勢いで物語が進んでゆく。
レイを助けるためとは言え、図らずもニアサードインパクトを引き起こし、人類の大半を滅ぼしてしまったシンジ。
重過ぎる罪によって壊れてしまった彼の魂は、どこへ向かってゆくのか、どんな決着がつくのか。
半分の期待と、半分の不安が渦巻くなか、151分の完結編を鑑賞した。

エヴァといえば、全編に散りばめられた、主に聖書に由来する数々の“謎”が作品世界を特徴付ける。
アイテムやキャラクターに関連する謎がさらなる謎を呼ぶ展開は、その筋の猛者たちがすでに多くの考察を発表しているので、ここではあまり触れない。
それにこの作品における謎要素は、「シン・ゴジラ」の膨大なセリフや字幕と同じで、観客を作品世界に惹きつけるためのある種のフックであり、作品を紐解くヒントであっても本質はそこには無いと思う。

最初のTV版以来、一貫してシリーズのバックボーンとなっているのは、主人公の碇シンジと、父親の碇ゲンドウの対立である。
ではシンジとゲンドウとは何者なのか、この二人の関係性こそが作品の核心だろう。
共に作者の脳内から生み出された対照的な親子は、どちらも葛藤する本人の分身なのだと思う。
TVシリーズが放送されていた時、庵野秀明は35歳。
十分に成熟した大人としての現実の自分と、内面に封じ込められた少年の自分。
いわば、大人たるものに対する幼児性の反逆こそが、エヴァなのではないか。
だから、TV版では第弐拾伍話の心象独白大会に象徴されるように、大人と子供の関係が非常にギスギスしていて、お互いがお互いを信じていない。

ところが、「新劇場版:序・破」を観て驚いた。
基本的な物語の流れは、TV版を踏襲してはいたが、90年代とは大人と子供の関係が大きく違っていたのである。
端的に言えば、こちらではお互いを信じようと(少なくとも努力は)している
エヴァは庵野秀明の私小説であり、作品世界は制作時の彼の精神状態をそのまま反映している。
だから「序・破」を作った時、庵野秀明は幸せだったのだと思った。
彼の妻である安野モヨコが、株式会社カラーの創立10周年を記念して描いた「大きなカブ(株)」という漫画がある。
この漫画の中で主人公の“おじいさん(庵野秀明)”は、希望に満ちた表情でカラーという新しい農場にカブを植え、見事に「序」と「破」と言う大きなカブを収穫する。
ところが何か思うところがあったのか、おじいさんはしばらく放浪し、その後「Q」を収穫するのだが、その時にカブの下敷きになって大怪我を負ってしまうのだ。
実際、「Q」の制作後、庵野秀明は重いうつ状態に陥り、日常生活に支障をきたすほどだったと言う。
漫画のおじいさんは、その後“超・おじいさん(宮崎駿)”のところでリハビリをしたりしながら、徐々に元気を取り戻し、隣の畑に新しいカブを植え、「シン・ゴジラ」という形で収穫する。
「シン・ゴジラ」の成功ですっかり回復したおじいさんが、最後のカブとしてエヴァ完結編を植えるところで漫画は終わる。

TV版とその映画版の頃の庵野秀明は、自分の中にいるシンジとゲンドウの間で激しく葛藤していたのだろう。
そして、2002年に安野モヨコと結婚して精神の安定が訪れ、幸せな大人として暮らしている頃に作り出したのが「序」と「破」なのではないか。
それまでのエヴァ作品に全く関わりなく、「破」で唐突にマリが登場するのも、マリ=安野モヨコだと考えるとしっくりくる。
もっとも作品では「これは理想化した妻です」とは言えないので、納得できる設定を加えている。
本作では、マリが“イスカリオテのマリア”であることが明らかになる。
イスカリオテと言えば本来はユダだが、彼女はゲンドウや冬月と同門で、人類補完計画を裏切った存在なので整合性はとれる。
前記したようにシンジ=ゲンドウであり、彼はヴィレの槍で自らを貫き、人類の再生のために十字架とともに消えようと考えていた。
つまりはキリストなのだが、結果としてユイが身代わりとなることで、ゲンドウは消えたがシンジは残された。
ここで、彼の新たな世界での帰るべき所として機能するのがマリ(マリア)。
要するに、この映画の人類補完計画が失敗した後の世界は、マーティン・スコセッシの「最後の誘惑」で、十字架にかけられなかったキリストが、マグダラのマリアと愛し合っているという“もしも”の幻想を見るシークエンスと同じようなことをしているのだ。

そして、本作でシンジを救うのが第3村というコミュニティであることが、過去のエヴァと本作を差別化する最大のポイントである。
「大きなカブ(株)」で大怪我を負って引きこもりとなるおじいさんは、「Q」のラストで生きる気力を失い廃人となるシンジそのものだ。
この第3村は、東日本大震災後の仮設住宅の村を思わせる。
「Q」が、それまでの二作とうって変わって鬱な内容になったのには、おそらく制作中に発生した3.11の影響がある。
あの悲劇は、戦後の日本人にとってまさにセカンドインパクトであり、多くのクリエイターが3.11の経験と向かいあおうとした。
震災発生の時点でどの程度制作が進んでいたかは分からないが、ニアサードインパクトいうカタストロフィを扱っていた「Q」は、3.11とシンクロしてしまった。
知らない間に世界は滅び、自分は何も出来なかったという、シンジの意識は作者の無力感と無関係ではないだろう。
彼の中で3.11の経験がいかに重要だったかは、3.11の再シミュレーションとでもいうべき「シン・ゴジラ」を観るとよくわかるのだが、「Q」の徹底的な絶望が「シン・ゴジラ」では絶望の先にある希望へと変わっている。

映画作りは一人ではできない。
「シン・ゴジラ」のような超大作では、膨大な人とのコミュニケーションが必要だっただろう。
それはそのまま癒しとなり、本作で40分もの尺を使って描かれる、第3村のシークエンスに投影されているのだと思う。
交わされる「おやすみ、おはよう、ありがとう、さようなら。」
他人との間に壁を作っていたシンジが、人との暮らしを知らない仮称レイが、平和な日常生活と人々とのコミュニケーションを通じて癒されてゆく展開は、良い意味で驚きだった。
そして彼らは当たり前の生活の中で労働をし、大人の責任と信頼の意味を知るのである。
孤独な子供たちが、他人との触れ合いを通じて成長する。
そしてそこには、トージやケンスケらかつて子供だった大人がいる。
肉体は10代のままでも14年間に心は大人になっているアスカも、口は悪いが迷える子供たちの良き導き手となっている。
ここには、葛藤はあっても大人と子供の対立は存在しない。

そして、全てが収束する物語の終盤には、ある意味で子供たち以上に頑なだった大人たちも、次々と壁を取り払ってゆく。
まずはシンジをエヴァに乗せたことで、彼以上の重い罪を背負ったミサトが、次いでそもそもの元凶たるゲンドウが、成長したシンジに心を開いてゆくのである。
同時に、作者の心の中にある対立装置としてのエヴァの全貌も明らかとなってゆく。
マイナス宇宙での最後の対決で、シンジの初号機とゲンドウの13号機は、映画のセットの中で戦いを繰り広げる。
エヴァは、現実の葛藤を虚構で戦わせるための装置であり舞台。
愛用のSDATプレイヤーが触媒となり、自分のセカイを作って引きこもり、もっとも子供っぽい願望を抱いていたのは実はゲンドウであること、自分の心の弱さを認められない幼児性を、シンジによって指摘される。
終盤、カヲルがいみじくも「君はイマジナリーではなく、すでにリアリティの中で立ち直っていた」と語るが、エヴァという虚構に乗ることで傷ついたシンジの回復をもたらしたのは、現実を反映した第3村のリアリティ。
「時間も世界も戻さない、エヴァに乗らなくてもいい世界に書き換えるだけ」と、シンジは言う。
英語タイトル「EVANGELION:3.0+1.0 THRICE UPON A TIME」が示すように、四半世紀の間に三度に渡って行われてきた「庵野秀明補完計画」は、過去作全てを内包する形でここに完結したのである。
星をつぐものの壮大な宇宙神話は、心の中のシンジとゲンドウの一体化というミニマムな現象に落とし込まれ、創造の連環はやはり葛藤を抱えた別の誰かによって受け継がれるだろう。
時の輪は閉じ、大人と子供、虚構と現実は溶け合い、新たなハーモニーとなって未来へと進む。

ちなみに作者の過去の発言の影響からか、本作のラストを虚構の否定であると読み解く向きも有るようだが、逆だと思う。
還暦を迎えた庵野秀明が辿り着いたのは、大人も子供も基本的には一つであるように、虚構には現実が必要だし、現実を生きるには時として虚構が必要だという、スティーブン・スピルバーグが「レディ・プレイヤー1」で導き出したのと同じ境地ではなかろうか。
だからこそ、ラストショットで決してフォトジェニックではない現実の中に、虚構のままの二人を解き放った訳で。
TV版の完結編としても、新劇場版の完結編としても、100%納得の世界線である。

今回は、コア化した海と巨大綾波レイをイメージして「レッド・アイ」をチョイス。
冷やしたトマト・ジュース100mlをグラスに注ぎ、ビール100mlを静かに加えて軽くステアする。
ビールの種類によって味わいが大きく変わるが、個人的には軽めのピルスナーがおすすめ。
レッド・アイという名前は、二日酔いの朝の充血した目から取られている。
ちょいビターだがさっぱりとした味わいで、ビールが苦手な人でも飲みやすい。

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ショートレビュー「ラーヤと龍の王国・・・・・評価額1700円」
2021年03月13日 (土) | 編集 |
“信頼”があれば、世界は変わる。

ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオの、59作目の劇場用長編作品。
ディズニーマークをスクリーンで見るのも久しぶりだが、短編付きはいつ以来だろう。
人を石に変えてしまう魔物ドルーンが跋扈する、東南アジアっぽい異世界を舞台に、かつてドルーンを封じ込めた伝説の龍、シスーを探すラーヤの冒険が描かれる。
傑作「ベイマックス」のドン・ホールと、「ブラインド・スポッティング」のカルロス・ロペス・エストラーダという、アニメーション+実写の二人が共同監督。
主人公のラーヤを「スター・ウォーズ/最後のジェダイ」のケリー・マリー・トラン、相方となるシスーをみんな大好きオークワフィナが演じる。

世界観の設定はちょっとややこしいが、冒頭でサクッと解説してくれる。
500年の昔、世界はクマンドラと呼ばれる人と龍が共生する平和な楽園だった。
ところがドルーンが現れ人々を襲い始めると、龍たちはその身を犠牲として聖なる力を秘めた龍の石を作る。
石を託された最後の龍であるシスーは、ドルーンを封じ自らも姿を消す。
龍がいなくなったクマンドラは、五つの国に分割されお互いいがみ合うようになる。
タイトルロールのラーヤは、五つの国のうち龍の石を守護する、ハート国のプリンセスだったのだが、友達だと信じていたファング国のナマーリに裏切られ、龍の石は5つに割れて5カ国に分散。
同時にドルーンが復活したことで、世界の大半は石化して滅びてしまい、人々はドルーンが近付けない川や海など、水のある場所のみで辛うじて生き残って生活している。

ハリウッドのアニメーションではお馴染みのドラゴンだが、本作の場合は怪物的な西洋の「竜」ではなく、東洋の水の神「龍」なのがポイント。
龍の石が割れてしまったことで、封じ込められていたドルーンの群れが復活し、ハート国はほとんど石化。
代々龍の石の守護者だった父王も石化してしまい、責任を感じたラーヤは国を元に戻すために、伝説の龍シスーと砕けた龍の石を探し求めるているのだ。
巨大なアルマジロというか、ダンゴムシみたいなペットが、ラーヤの乗り物にもなるのが面白い(名前がトゥクトゥクってw)。

これは“信頼”に関する物語で、純粋だったラーヤはナマーリに裏切られた結果、人間を信じられなくなっている。
いやラーヤだけではない。
ドルーンから身を守るために龍の石の破片を奪い合った人間たちは、お互いを不信の目でしか見られなくなってしまっているのだ。
そんな不通となった人間たちを、ようやく探し当てたたシスーが変えてゆく。
このシスー、あんまり伝説の龍っぽくなく、オークワフィナの饒舌なるマシンガントークの影響もあって印象はかなりチャラい。
シスーは人間に化けることの可能で、その時のキャラはオークワフィナ本人そっくり。
しかし彼女の行動原理は、終始一貫して「相手を信じる」ことに基づいているのである。
結果、そのことによって危機に陥ったりもするのだが、徐々に共に行動する旅の仲間も増え、ラーヤも信頼こそが不通を乗り越え、世界を一つにする唯一の手段だと少しずつ理解してゆく。

この辺りは、ドン・ホールの前作「ベイマックス」とも通じるテーマ性。
絶体絶命のクライマックスで、それまでの展開から言っても一番信用ならないある人物に、全ての信頼を預ける展開は秀逸。
これこそが、500年前に龍たちが世界を救うためにとった行動の、裏返しになるのである。
人間はお互いの関係が全てで、一人では生きていけないことを、全然説教臭くなく物語のカタルシスと映像のスペクタクルと共に描き切るのはさすが。
まあ細かい設定がちょい都合良すぎたり、猿軍団と赤ちゃん詐欺師のノイが便利すぎる(もしかして赤んぼ少女なのかw?)気はするが。
「モアナと伝説の海」「アナと雪の女王2」もアドベンチャー要素が強かったが、本作も同様。
かつてはディズニーの代名詞だった恋愛要素は見事なまでにゼロだが、とても良く出来たプリンセスの冒険譚だ。
そろそろ、「王政なんて古い!革命だ!」て叫ぶプリンセスが出てきても、おかしくなさそうだな。

併映の短編「あの頃をもう一度」は、老いた自分を受け入れられないじいちゃんが、不思議な雨によって若返り、ばあちゃんと二人で若い頃の様に踊りまくる。
だけど永遠の雨はなく、終わりは必ずやってくる。
避けられない老いに、どう向き合うのかをテーマとした佳作。

今回は、平和を求める冒険だったので、「グリーンピース」をチョイス。
“緑の豆”ではなくて“緑の平和”の方。
メロン・リキュール(ミドリ)30ml、ブルー・キュラソー20ml、パイナップル・ジュース15ml、レモン・ジュース1tsp、生クリーム15mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
フルーティーな素材を生クリームがまとめあげ、スィートな味わいの中で酸味がよいアクセント。
翡翠を思わせる、美しいカクテルだ。

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あのこは貴族・・・・・評価額1700円
2021年03月09日 (火) | 編集 |
一つの街、二つの階層。

門脇麦が演じる東京生まれの良家の令嬢・華子と、水原希子演じる富山から上京した庶民の娘・美紀。
同じ東京にいても、住む階層の違う二人の女性の数年間の物語。
「アズミ・ハルコは行方不明」の山内マリコの同名小説を、長編デビュー作の「グッド・ストライプス」で注目された岨手由貴子が映画化した作品。
日本映画ではあまり扱われることのない、“社会の階層”という切り口が面白い。
主人公となるのは華子で、彼女はひょんなことから美紀と知り合い、それまで知らなかった世界を垣間見て、少しずつ変化してゆく。
普段意識することのない、階層の違いを起点に、箱入り娘の気付きと成長を描いた秀作だ。

裕福な家庭に生まれ、結婚こそが女の幸せだと思っている28歳の榛原華子(門脇麦)は、恋人との仲が破談となり、焦ってお見合いを繰り返すもなかなか良縁には恵まれず。
やっと巡り合ったのが、大手弁護士事務所に勤める青木幸一郎(高良健吾)だった。
短い交際期間で結婚にこぎつけたものの、青木家は代々代議士を輩出するほどの名家で、華子にとっても初めての経験の連続。
一方、時岡美紀(水原希子)は富山の実家を出て進学のために上京するも、経済的な理由で中退を余儀なくされ、キャバクラで働くことでなんとか東京に踏みとどまる。
ある時、店に客として幸一郎が現れ、彼が大学の同級生だったことに気付いた美紀は声をかけ、一夜の関係を結ぶ。
幸一郎と美紀の仲は華子の知るところなり、二人の人生は交錯してゆく。
やがて幸一郎が一族の地盤を継いで、選挙に出馬することになるのだが・・・・


よく日本は「階級のない社会」と言われる。
確かにインドのカースト制度みたいな宗教的なものや、イギリスの様な誰が見ても分かるような社会階級はないかも知れない。
しかし「上級国民」なんて言葉が生まれる様に、見えにくいが経済力や家柄による階層の違いは明らかにあって、異なる階層の人間が触れ合うことはあまりない。
劇中、大学受験で慶應義塾に入学した美紀と友人が、内部進学組の学生にアフタヌーンティーに誘われ、ティーセットが4200円もすることにビックリ仰天。
こっそり「このこたちは貴族」と耳打ちする。
この街には「ちょっとお茶」に5000円近くかけられる“貴族”が存在していて、庶民とは異なる日常を生きている。
地方出身のごく普通の女の子が東京の洗礼を受け、おそらく人生で初めて階層の違いを意識する瞬間だ。

一方の華子は、渋谷の高級住宅地、松濤に住む裕福な開業医の娘で、庶民から見れば十分浮世離れした金持ちの階層。
映画は、華子が正月の家族の会食のため、タクシーでホテルに向かうとこからかはじまる。
この会食の描写が秀逸。
実は華子は結婚を約束していた恋人にフラれたばかりなのだが、それを知った家族は、彼女を気遣うのではなく、早速次のお見合いを勧めてくるのだ。
皆お金持ちだし、幸せそうでもあるんだが、この人たちは失恋で傷付いた華子の気持ちを癒すより、より良い条件の相手をあてがう方が優先なんだなと、ちょっとした違和感を感じさせる。
一方の華子も、勧められるままに見合いを繰り返すも、失敗の連続。
この辺りの描写はコミカルで、華子の焦る気持ちが伝わってくるので楽しいが、本人はすごく真剣。

やがて見えない天井によって隔てられた、二つの世界を繋ぐ者が現れる。
お見合いを重ねた華子が、ついに高良健吾演じる幸一郎を引き当てる。
慶應出身のエリート弁護士で、ゆくゆくは一族の地盤を継いで、政治家に転身することが決まっている、真の上級国民。
おそらく戦前ならば本当に貴族(華族)だったかもしれない、上流慣れした華子にとっても、未知の階層の人物だ。
そして幸一郎が、美紀の大学時代の同窓生で、ちょっとした関係があったことから、華子と美紀の奇妙な邂逅が始まるのである。
とは言っても、二人が仲良くなったり、敵対したりするわけではない。
物語を通して、直接会う描写もほんのわずか。
金に困らない内部進学組と違って、美紀は実家の経済的な理由で大学を中退すると、キャバクラに努めながら人脈を作り、自分の才覚で東京で社会人として生きていける地位を築き上げてきた。
それまで欲するもの全てが自動的に与えられる、自分の階層しか知らなかった美紀は、窮屈な結婚生活の閉塞の中で垣間見た、パワフルな庶民の生に動揺する。
その出会いは、華子にとっては初めて自分自身の生き方を考える、大きな機会となるのである。

華子には石橋静河が演じる逸子、美紀には山下リオ演じる里英という、同じ階層に属する気のおけない同級生がいる。
離れていても心に寄り添い、時に二人を導いてくれる彼女らとの関係性も、強い共感力があって素敵だ。
基本的に女性の生き方に関する作品で、どんな階層にあっても女性の方がより大きな生き辛さを抱えているあたりはよく描かれている。
一方で、登場人物の中で一番階層が上の幸一郎の、上級国民ゆえの閉塞や抱えているものの重みもきっちりと表現されていて、物語としてバランスがいい。
女も男も階層が上に行くほど、長年にわたる因習などに捉われ、個人よりも家の存在が前に出て人生の選択の機会が減り、金持ちだからと言って必ずしも幸せとは限らない。
家が優先の貴族的な階層にも、生きるのに必死な庶民の階層にも一長一短があり、誰もが生まれた階層から絶対に出られないという訳でもない。
生き方は結局、自分を知った上での行動の問題だということに気付いた華子は、それまでの彼女には考えられない選択をするのである。

本作で強く印象に残るのが、さまざまな葛藤のある人生を包み込む、東京という大都会の持つ包容力。
この映画に描かれる東京の情景は極めて有機的で、ある意味でもう一つの主役と言ってもいい。
この街で動く時、華子が車での移動が多い反面、美紀の足はママチャリ。
彼女が街を疾走する描写が強く印象に残り、特に里英との”2ケツ”シーンの躍動感は本作の白眉だ。
華子だけじゃなく、美紀をはじめ主要登場人物それぞれに、ちゃんとソリューションが用意されているのもいい。
観終わって「とりあえず庶民に生まれてよかった」と思えるのも、まだ日本が本当の意味での階級社会じゃないからなんだろうな。

今回は「レイディ・ビー・グッド」をチョイス。
ブランデー30ml、スイート・ベルモット15ml、クレーム・ド・ミント・ホワイト15mlをシェイクし、グラスに注ぐ。
ブランデーのコク、三種類の異なる甘み、素材の個性がバランスし、さっぱりとした味わい。
大人の女性に似合うカクテルだ。

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ショートレビュー「ナタ転生・・・・・評価額1650円」
2021年03月06日 (土) | 編集 |
自己中ヒーローの覚醒。

これは面白い!
中国の神怪小説の古典、「封神演義」の神々が現代に転生し、因縁の抗争を繰り広げるCGアニメーション映画。
本作の主人公は、少年神ナタ(哪吒)が転生した若者・雲祥。
ナタといえば「封神演義」「西遊記」などで活躍し、アニメーションキャラクターとしても懐かしの「ナーザの大暴れ」、最近では「羅小黒戦記〜ぼくが選ぶ未来」にも顔を出していた道教のスーパースター。
ただこの人、もの凄く強いけど、傲慢で自分のことしか考えないワガママなヒーローなのだ。
今回転生したナタの敵となるのは、東海龍王とその息子の三太子の生まれ変わり。
しかし両者の抗争は、元を辿ればナタが強大な魔力を持つ宝貝を付けたまま水浴びした結果、東海を揺るがし龍王の住む龍宮をぶっ壊してしまったことから始まる。
これを糺すために赴いた三太子と部下の夜叉を惨殺するという、あまりの暴虐っぷりにブチ切れた龍王の訴えにより両親の前で自害させられた。
いや、そりゃ恨み買うでしょ。
元はと言えば自分が悪いんじゃんという話だから、今回は未熟なナタ改め雲祥の成長物語

特筆すべきはスチームパンクな世界観で、舞台となるのはまるで30〜50年代の西洋と東洋が入り混じった様なカオスの都市・東海市。
ストリートレースをしている不良少年雲祥の、アールデコ調のバイクがむっちゃカッコいい。
これおそらく“1930 Art Deco Henderson”という、有名なワンオフのカスタムバイクにインスパイアされたデザインだろう。
クラブ歌手で雲祥の幼馴染のヒロイン、カーシャはロシア系?
ロシア革命後の数十年間は中国北東部に多くの亡命者がいたと言うから、大体その時代をイメージしているのかも知れない。
ここを支配している財閥のボス・徳会長が実は東海龍王が転生した姿で、性格の悪い息子の三太子改めて三公主が雲祥と出会ったことから、再び運命が動き出す。

基本的な物語の流れは、原作と同じ。
まだナタの力が完全に覚醒してない雲祥に、まずは夜叉、次いで中ボスの三公主、ラスボスの徳会長が立ちはだかる。
雲祥は廃工場に秘密基地を作っている、猿の仮面を被った謎の男を師匠に、戦闘スキルを上げてゆくのだが、彼には過去のナタとは違う弱点がある。
神ではなく人間として生きる雲祥には守るべき人たちが沢山いて、龍王親子の攻撃の中、皆を守りながら戦わざるを得ないのだ。
自分のせいで人々が苦しむという痛みと葛藤が、雲祥と同時に彼の内なるナタを成長させてゆく。
これは力任せに好き勝手暴れ、他人に迷惑をかけていたガキっぽい神様が、その力が何のためにあるのかを理解し、真に他人に寄り添えるまでの物語なのだ。

展開はめっちゃ早いが、語りは親切で分かりやすい。
戦いになると、それぞれのキャラクターの背後に、“原神”という形で本来の姿が光で現れるのはゲームっぽいが、おかげでエフェクトアニメーションがバリバリのバトルシークエンスは相当派手。
MCUから「レディ・プレイヤー1」まで、いい意味でハリウッド映画の影響が強いのも、観やすさに繋がっている。
とりあえず本作はビギニング的作りで、シリーズ化するつもり満々。
次回は原作でお馴染みの“あの人”が出てくるみたいだが、チャラい雰囲気はやっぱヴィラン?
「封神演義」をはじめとする中国古典は、作品間のクロスオーバーもあり、いわば「◯◯ユニヴァース」の元祖。
人気キャラクターを、現在風にアレンジして復活させるアイディアは、大きな可能性を感じさせる。

本作や「羅小黒戦記」など、現代中国のエンターテイメントを日本に紹介する、チームJoyの活動は、着実に実を結びつつあるのではないか。
趙霽監督の前作、「白蛇 縁起」の正式公開決定も喜ばしい。
日本でも東映動画版「白蛇伝」や、東宝の「白夫人の妖恋」で知られる「白蛇伝説」を大胆にアレンジした中米合作映画で、本作以上に素晴らしい仕上がりだ。
日本語版も作られると言うから、楽しみに待ちたい。

今回は東海龍王が水を支配しようとする話だったので、「ドラゴン・ウォーター」をチョイス。
紹興酒60mlと適量の烏龍茶を、氷を入れたタンブラーに注ぎ、軽くステアする。
二つの中国材料を使う、ザ・チャイニーズ・カクテル。
クセがある紹興酒は、苦手な人も多いだろうが、烏龍茶で割ることで、だいぶ飲みやすくなる。
まあ、独特の薬っぽさはやっぱ残るんだけど。

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ある人質 生還までの398日・・・・・評価額1700円
2021年03月02日 (火) | 編集 |
その地獄は、人間が作った。

心底恐ろしい映画だ。
内戦下のシリアでイスラム国(IS)系武装組織に拉致され、13ヶ月に渡り人質となったデンマーク人カメラマン、ダニエル・リューの奇跡の生還を描いた実話。
果てしない拷問、吊り上がる身代金、次々と殺されてゆく人質たち。
野蛮と絶望が支配する世界の中で、辛うじて生をつなぐダニエルと、彼の帰還のために必死の尽力を続ける家族たちの物語だ。
主人公のダニエルをエスベン・スメド、物語の後半で同じ施設に拘禁される、アメリカ人ジャーナリスのジェームズ・フォーリーをトビー・ケベルが演じる。
ダニエルの体験に基づき、プク・ダムスゴーが執筆したノンフィクション「ISの人質」を、アカデミー賞にノミネートされた「アフター・ウェディング」で知られる、アナス・トーマス・イェンセンが脚色。
監督は、オリジナル版「ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女」のニール・アルデン・オプレヴ。
人質交渉のプロ、アートゥア役で出演しているアナス・W・ベアテルセンが共同監督を務める。
主人公が生きて帰ったことは分かっていても、神経をとことんすり減らす、緊迫の138分だ。
※核心部分に触れています。

体操選手としてデンマーク代表に選ばれながら、怪我でキャリアを断たれたダニエル・リュー(エスベン・スメド)は、子供の頃からの夢だった写真家へと転身。
アシスタントとして渡ったソマリアで、戦争の中の日常を生きる人々の姿に魅了される。
彼が次の撮影地として選んだのが、当時アサド政権と反政府勢力との内戦が激化していたシリアだった。
自由シリア軍の許可を得て、問題のない取材のはずだったが現地の情勢が急変し、ダニエルは台頭しつつあったIS系武装組織によって拉致され、アレッポの施設に監禁されスパイと疑われて凄惨な拷問を受ける。
その頃、帰国予定の便にダニエルが乗っていないことを知った家族は、元軍人で戦地での誘拐交渉のプロ、アートゥア(アナス・W・ベアテルセン)にコンタクトをとる。
武装勢力との交渉の結果、要求された身代金は70万ドル。
それは、家族が用意できる金額を遥かに超えていた・・・・・


映画では最後に描かれているが、原作のノンフィクションは、生還したダニエルが、ジェームズ・フォーリーの葬儀のため、アメリカに向かうところから始まる。
私は本を読むまでダニエルのことは知らなかったが、フォーリーのことは覚えていた。
だから彼の名前が出てきた瞬間に、悪名高き英国出身のISの処刑人、ジハーディ・ジョンに喉を切り裂かれて殺される動画を思い出してしまった。
しかし、このフォーリーの存在こそが、ダニエルがこの世の地獄を生き抜くための、大きな力となるのである。

2011年にチェニジアで起きた“ジャスミン革命”から波及したアラブの春は、いくつかの国での体制変革につながった一方、別のいくつかの国では泥沼の内戦へと展開していった。
アサド大統領とバース党独裁政権が支配するシリアでは、いくつもの反政府勢力が政権に反旗を翻し、現在までに50万人近い犠牲者を出す内戦が勃発。
群雄割拠の状況の中で、2013年ごろから急速に勢力を拡大していったのが、いわゆるイスラム国(IS)である。
カリフ制国家建国を宣言し、中央アジアからアフリカまで、かつてのイスラム帝国の復活を目指した彼らの正体が、信じがたい残虐性を秘めた野蛮な集団だったのは、今では知らない者はいないだろう。
本作の主人公・ダニエルが、囚われの身になったのは、ちょうどISの拡大期の2013年5月。
彼がシリアに入ったのが、それまで国境の街を支配していた自由シリア軍が追い出され、ISと入れ替わった時期だったのは不運だった。

映画は、アレッポの牢獄で絶望の中を生きるダニエルと、故郷で彼の生還を信じ、身代金集めに奔走する家族、家族に雇われて解放交渉を担当するアートゥアの3トラック構成
アートゥアの交渉で、最初に要求された身代金は70万ドル。
デンマークはテロ組織と交渉しないという政策をとっているので、外務省は助言するだけ。
家族は自力で巨額の身代金を用意しなければならない。
なんとか25万ドルをかき集めるのだが、この金額で交渉しようとしたことが、事態を更に悪化させてしまう。
要求額よりもずっと低い金額を提示されたIS側は「侮辱された」として、金額を一気に200万ドルにまで引き上げてくるのだ。
もはや自力で何とかすることは出来ない額だが、身代金になることが分かっていて、募金を集めるのも違法。

法の目をかい潜り、他の名目でお金を集めようにも、あまり公にすることは出来ない。
なぜなら、ISは有名人を殺すことで名を挙げようとするので、ダニエルの名が世間に知られると、処刑リストに上がりやすくなるのだ。
ここで、日本でも大きな議論となった自己責任論が、世界共通のジレンマであり、イシューとして浮かび上がる
ダニエルようなジャーナリストたちがいなければ、世界は戦地の悲惨な状況を知ることが出来ないので、世論も動かない。
しかし人質となった彼らを助けるため身代金を払えば、それはテロ組織を利することになるのではないか。
いわゆるトロッコ問題にも通じる話だが、結局絶対の正解は無く答えは一人ひとりが出すしかない。
ダニエルにとって幸運だったのは、彼には最後まで諦めない愛情深い家族がいたことだ。
いつまで経っても自立しない弟に、厳しい言葉を投げかけていた姉が、いざとなったら一番必死に行動するあたり、劇映画としてグッとくる。

一方で、アレッポの牢獄で何の情報もなく、自暴自棄になっていたダニエルの心の救いとなったのが、8ヶ月に渡って同房となったジェームズ・フォーリーの存在だ。
トビー・ケベルが好演するフォーリーは、2012年に拉致され、この映画の時点ですでに一年近くも拘禁されていた。
ダニエル以上に絶望していてもおかしくない状況にも関わらず、フォーリーは冷静沈着でISの兵士たち相手にも諂った態度をとらず、わずかな食べ物も彼がリーダーシップを取ることで均等に分け与えられたという。
交渉人のアートゥアだけでなく、アメリカ政府もフォーリーの行方を追っていたが、対テロ組織の交渉はデンマーク以上に禁忌とされ、当時は家族が身代金を集めることすらも厳格に禁止されていた。
しかもアメリカ人の人質は、見せしめに殺せば全世界が報道する。
だからフォーリーも、アメリカが本格的にシリアに介入する前に、軍によって救出される以外、自分が助かる道はないことを知っていたはず。
「テロリストとは交渉しない」のはどの国も同じだが、実際の対応は国によって異なり、早々に身代金が支払われて出ていく人もいる。
同じ人質でも、ここで命運が分かれてゆくのである。

本作で「うーん」と思わざるを得なかったのが、人質の中で家族がいない人は解放されないという話。
なにしろ、身代金を払ってくれる相手がいない。
戦場に赴くジャーナリストは、危険な職業ゆえにあえて家族を作らない人も多いというが、そんなお一人さまがテロリストの手に落ちた場合、こちら側の交渉相手となり得るのは組織だろう。
だが、大手の通信社ほど、使用者責任があるので本当に危険な地域には自社の記者を送らない。
結果的に、本当になんのバックアップもないフリーランス中でも、家族のいない者が誰も助ける者がいないという一番最悪な状況に追い込まれる。
本作にも、家族がいないので(身代金交渉のための)生存確認すらされないというジャーナリストが出てくるが、こんなとこまでお一人さまに厳しい世の中を見せつけられると、自己責任論以前の問題として、独り者としてはちょっとショックだ。

2021年になっても、シリア内戦は続いている。
さすがにISはあまりの残虐性に、全ての内戦当事者から敵とされ、急速にその規模は縮小していったが、人質のほとんどは殺されたか行方不明。
フォーリーを殺したジハーディ・ジョンが、一年後の2015年には日本人会社経営者の湯川遥菜とジャーナリストの後藤健二を殺害したのはいまだ記憶に新しい。
そのジハーディ・ジョンも、今度は米軍の空爆で死んだ。
復讐の連鎖は変わらず続いていて、トロッコ問題は今も世界中で人々を悩ませている。
人間は、どこまで残虐になれるのだろう。
 
あまりにも緊張して喉が渇く映画だったので、観終わってビールが無性に飲みたくなった。
今回はデンマークビールの代表的銘柄「カールスバーグ」をチョイス。
風味豊かな辛口のピルスナー・ラガー。
日本人好みの味で、国内ではサントリーがライセンス生産しているので、手ごろな価格で飲めるのも嬉しい。
いつでも美味しいものを自由に食べたり飲んだりできる、平和に感謝を感じる作品であった。

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